2018年12月31日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

はじめまして。

このブログでは、クラシック音楽の真髄にどんどん斬り込んでいきます。

「ぶった斬り」というタイトルにしては、内容は名前負けしている感はありますが、自分が悪いと思うものを人には薦められないし、書きたいことを楽しく書く、ということをモットーにしています。

どちらかというと、クラシック音楽を聴き込んだ人向けの内容ですが、これからクラシック音楽を聴いてみようかな、と思っている方にも親しんで頂けるように考えながら書いています。

クラシック音楽に欠かせないのが、演奏家です。演奏家の優劣によって作品の価値が決まるといっても過言ではありません。

私はそこに焦点をおいています。

そして作曲家のことや曲の内容説明はそれぞれのディスクの解説にあるので、私は演奏の批評をこのブログで書くことに重きをおいています。

どうぞ、よろしくお願いします。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:59コメント(126)トラックバック(0) 

2016年12月03日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ベル・エポック(1880-1914年頃を指しての良き時代)のフランスの作曲家の作品は、楽理的に追究したところで実際のサウンドに魅力が出せなければつまらない。

それには作曲家の感性が充分に反映されるような垢抜けたセンスや即興性、あるいはオーケストラから引き出される色彩感などを外部に向かって発散させるユニークな個性と手法が求められる。

1曲目のショーソンの交響曲変ロ長調も例外ではなく、瞬間瞬間に鳴り響くオーケストラの音響とその映像的な展開が感知されなければ面白くない。

ミュンシュはその辺りを誰よりも良く心得ていた指揮者で、ともすればあざとくなりがちな音楽を、あくまでも芸術的な領域で嬉々として表現している。

彼はまた聴衆を自己の世界へ引き込んで感化してしまうカリスマ性にも長けていた。

言い換えれば聴き手の要求も熟知していて、ここぞという時にそれを惜しみなく出し切る老練な手腕がこのアルバムにも示されている。

1962年にボストン交響楽団を振ったものでボストン・シンフォニー・ホールで録音されている。

レギュラー・フォーマット仕様だがリマスタリングの効果は歴然としていてドビュッシーと並んで音質は極めて良好。

2曲目もショーソンの作品で、メゾ・ソプラノと管弦楽のための『愛と海の詩』だが、この演奏は1951年3月9日のBBCコンサート・ライヴからプライベート録音されたものらしく、音質は海賊盤の域を出ないし、第1曲に短い欠落もあるがコントラルトのキャスリーン・フェリアーの絶唱が聴ける貴重な音源。

これはデッカ、EMIのどちらのコンプリート・レコーディング集にも組み込まれていない。

モーリス・ブショルの詩に付けられたショーソン面目躍如の甘美な逸品だがフェリアーの歌唱は決して感傷に浸るものではなく、高踏的な美しさとこの詩の持っているドラマティックな側面を直感的に捉え、それらを浮き彫りにしているのが如何にも彼女らしい。

尚この曲のみジョン・バルビローリ指揮、ハレ管弦楽団の演奏になり、ライナー・ノーツにはフランス語の原詩が掲載されている。

アンリ・ビュッセル編ドビュッシーの交響組曲『春』はショーソンの交響曲と同様1962年のミュンシュ指揮、ボストン交響楽団のセッション録音になる。

ルネサンスの名匠ボッティチェッリの絵画『春』から霊感を得たと言われる作品で、一見掴みどころのないような楽想の連なりをミュンシュはメリハリを効かせた光彩に溢れる魅力的な管弦楽曲に仕上げている。

第2楽章後半のマーチ風のコーダでは弦楽から導き出される明るく艶やかな音色とボストン交響楽団の大胆でパワフルなブラス・セクションをミックスしたクライマックスが圧巻だ

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:06コメント(0)トラックバック(0)ミュンシュバルビローリ 

2016年12月01日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



古楽界の重鎮であり、トラヴェルソ奏法のパイオニアでもあるバルトールド・クイケンがこれまでにリリースしてきたテレマンの作品を4枚のCDにまとめたアルバムである。

但しこのセットにはソニー音源になるクイケン3兄弟にグスタフ・レオンハルトが加わったパリ・カルテットは組み込まれていない。

彼の演奏はどの曲においても基本的にシンプルで、スリリングな部分こそないが流麗かつ柔軟な演奏にはトラヴェルソの機能を熟知した上でのテクニックの再構築を果たした揺るぎない安定感が感じられる。

尚アンサンブル・パルナッススは彼の兄弟でバロック・ヴァイオリンのシギスヴァルト、ガンバのヴィーラントにチェンバロのロベルト・コーエンが加わったピリオド・アンサンブルの草分けで、ネーデルランド派の手堅い演奏を聴かせている。

CD3及び4の『教則的ソナタ』全12曲ではテレマンによってトラヴェルソのパートは記譜と実際に演奏すべき趣味の良いサンプルが2段に分かれて示されているが、ここでもクイケンの装飾音に関する模範的な解釈を聴くことができる。

一言で言えば中庸をわきまえたイタリア式装飾だが、その再現に当たってはかなり高度なテクニックが隠されていることが理解できる。

またブレスの取り方も巧妙で、押し付けがましさや癖のない演奏は洗練された音楽家、そして勤勉な研究者としてのプロフィールだけでなく後進の指導者としても理想的な存在である筈だ。

ベルギーの古楽器製作者で自身トラヴェルソ奏者のアンドレアス・グラットによって創設されたアクサン・レーベルは、1970年代からピリオド楽器による本格的な古楽演奏をリリースしてきた。

古楽の故郷ネーデルランド出身の奏者を中心に、さまざまなソロ楽器やアンサンブルを高い音楽性で再現した当時としては画期的な企画だった。

当初の録音とその音質はそれほど理想的なものではなかったが、2000年以降機材を一新したことから見違えるほど鮮明な音質になり、ジャケットも気の利いたデザインのデジパックに替わった。

ここに収録されたクイケンの演奏は比較的初期のもので音質的には時代相応といったところだ。

例えば彼の秘蔵オリジナル楽器ロッテンブルクで演奏した『無伴奏トラヴェルソのための12のファンタジー』は初めてのピリオド楽器による全曲録音というだけでなく、トラヴェルソの音楽的な可能性を見事に蘇生させた演奏と言えるだろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:54コメント(0)トラックバック(0)クイケン 

2016年11月29日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



メシアン(Olivier Messiaen 1908-1992)はフランスの作曲家で、最近まで現代音楽の代名詞のような作曲家であった。

現代では、もう少しロマン派よりの立ち位置を与えられることもあるが、ブーレーズ(Pierre Boulez 1925-)、シュトゥックハウゼン(Karlheinz Stockhausen 1928-2007)とともに第2次大戦後の現代音楽の潮流を作った象徴的音楽家。

本盤は、メシアンの代表作の1つであり、20世紀の記念碑と言うべきトゥーランガリラ交響曲(フランス語: La Turangal'la-Symphonie)を収録している。

リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953 -)指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団によるメシアンが亡くなった年の録音で、ピアノにティボーデ(Jean-Yves Thibaudet 1961-)、オンド・マルトノ奏者を原田節が担当している。

インドの異教的世界観にインスポレーションを得た作曲家は、主として鳥のさえずりのモティーフを奏でるピアノと艶っぽい響きが特徴のオンド・マルトノを独奏楽器として扱い、打楽器と金管を増強した3管編成のオーケストラで、「忘我の喜悦をもたらす愛」を歌い上げる極彩色の音絵巻を作り上げた。

メシアン自身の解説によれば、トゥーランガリラは仏典などに用いられるサンスクリット語(梵語)で、愛の歌を意味すると同時に、歓び・時・リズム・生と死への賛歌でもあるという。

複雑極まるポリ・リズムと想像を絶する多くの音を駆使して書き上げられた全10楽章から成るこの大作は、1980年代半ばから録音される機会が増え、サロネン(85年)、チョン(90年)、ヤノフスキ(92年)、シャイー(同)の各盤が続いていて、若手の優れた指揮者がこの大作に挑んできた。

この曲もついにオーケストラのレパートリーに加えられるときを迎えて、初演の独奏者であるロリオ姉妹以外の演奏家による録音も増え、作品の普遍性を裏付けている。

楽器の中では特にピアノとオンド・マルトノ(Ondes Martenot)が重要な役割を担っていて、ガムラン的な奏法を求められるピアノは、同時にメシアンの諸作品で暗示的に登場する「小鳥のさえずり」を表現している。

また電気楽器の一種であるオンド・マルトノが独特の音色により、全曲に不可思議な効果を与えている。

さて、このディスクを聴いて第一に思うのが、シャイーのこの音楽への素晴らしい「適性」である。

このメシアンも、例えばこの録音以前で評判の高かった小澤の録音と比べると、ややテンポは速めをとることが多いのだが、そうであって、初めて何か音楽を俯瞰できるような感触を得るように思えて、その印象を、一言で「適性」と表現してみた。

シャイーはコンセルトヘボウ管弦楽団のバランスのいい響きによって、ドラマティックな、振幅の大きい音楽づくりをみせている。

ベリオの《シンフォニア》などで現代作品にも快演を聴かせたシャイーだが、ここでも持ち前の研ぎ澄まされた音への執着をあらわにしながら、同時に恰幅のよい音楽を作っている。

オーケストラの個々の楽器が際立ち、雄弁に歌っているのが特徴で、ことに木管の表情の豊かさは古今の演奏のなかでピカ一である。

前半、第1〜5楽章の高揚、第6楽章「愛の眠りの園」で静まるものの、第7〜10楽章で再び盛り上がってゆく。

その間ずっと緊張を持続させたシャイーの力量、そしてこの曲をいわゆる狷饅造文渋絏山抬瓩ら解放した彼の力量は、並外れて大きく、この曲に必要な神秘感も不足していない。

ティボーデと原田の好演もポイントで、演奏至難なピアノであるが、オーケストラの打楽器陣と調和して、適切なスケーリングを維持しており、技巧的にも問題がない。

原田はこの交響曲に欠かせないスペシャリストであり、オンド・マルトノは適度な下品にならない不気味さ、そこにやや悲しい感情が宿されているのが美しい印象につながる。

ソリストが若返って、音の変化がより鋭角になった感があり、特にオンド・マルトノの膨らみのある音色が、かなり明瞭に感じられる。

シャイーの演奏からは情熱の要素は多く感じられないだろうし、韜晦や晦渋とは無縁で、熱狂的な陶酔からはやや距離があるかもしれないが、そのバランス感覚こそ、この人の最大の美点に他ならない。

この作品で、これだけオーケストラの客観的な美しさを確立できる人というのは、そうはいないはずだ。

デッカの素晴らしい録音技術と相俟って、いまなお同曲の代表的録音として推すのをためらわないアルバムだ。

特筆すべきは、ピアノと打楽器系の抜けの良い音質で、ガムラン的効果を狙った複雑な打楽器のテクスチャーが、見事に立体的に浮かび上がってくる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:06コメント(0)トラックバック(0)メシアンシャイー 

2016年11月28日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



『世の終わりのための四重奏曲』はメシアン唯一の室内楽曲で、第2次大戦中の捕虜となった彼は収容所内でこの曲を書きあげた。

ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノという変わった編成は、たまたまそれらの楽器の演奏者達が同じ収容所内にいたからであり、初演は1941年に収容所内で行われ、ピアノパートを受け持ったのはメシアン自身である。

作品の内容については様々な解釈がなされているが、黙示録に題材を得た8楽章からなる大曲は、全篇平和への強い希求に貫かれ、信仰によって浄化された無類に美しい音の粒が聴く者の胸を打つ。

すべての音は限定された時空の枠を越え、無限の広がりの中で永遠の生へと昇華するが、戦争という極限状態が生み出した異常なまでの精神の緊張がキリストの死と復活のドラマにこれほどの普遍性を与えることに成功したのだろう。

本盤は、1970年代前半に、このメシアンの20世紀室内楽の最高傑作を演奏するために、ピーター・ゼルキンを中心とする当時のアメリカの新進気鋭の名手4人によって結成された「タッシ」が1975年に録音した不朽の名盤。

タッシの実質的なデビュー盤で、武満徹の『カトレーン』初演のために来日した折、柏市とニューヨークで録音されたもの。

この曲の録音はおそらく現代作品の中では最も多く、40前後はあるはずで、その中でタッシの盤はごく初期の方の録音に属するのだが、演奏の上ではいまだに第一級の地位にあるのは驚くべきことだ。

4人の演奏家はそれぞれ独立しても演奏しており、特にピアノのピーター・ゼルキン、クラリネットのリチャード・ストルツマンは有名であろう。

当時30代だったアメリカの気鋭の奏者による演奏は、いずれも清新かつ鋭敏な表現に貫かれており、まことに印象鮮烈で、しかも爽やかである。

最近は音楽も音楽家も言ってることのわりに非常に保守的なので、とりあえず違うものを求める雰囲気に満ちているこれは魅力的。

いくらか神経質に思われるほど俊敏なピーター・ゼルキンのピアノ、精細な感性が光るカヴァフィアンのヴァイオリン、ほのぼのとした響きをもつシェリーのチェロ、そして弱音から強音まで柔らかい響きを奏でるストルツマンのクラリネットと、名うての名手が揃ったアンサンブルは絶妙である。

この作品は楽章によって独奏や二重奏になる部分も多く、第3楽章でのストルツマンの独奏や第8楽章でゼルキンに伴われたカヴァフィアンの息の長い独奏は忘れ難い。

『カトレーン供戮魯織奪靴琉兢によって書かれ、それは武満徹が狎こΔ離織吋潺牒瓩箸覆辰浸期を映した作品で、全曲のカギとなる四行詩(カトレーン)の部分がほのかに芳香が漂うような響きを持ち、心の奥まで浄化されているような気分になれる。

作曲者が「日本の絵巻のように音楽が流れていく」と語るこの曲には、その後の作品に聴けるような猊靄流のロマン瓩あふれており、現代における類稀なメロディ・メーカーとしての実力を発揮しつつあったのではないかと思えるのだ。

タッシというグループが存在したからこそ、武満は自己の中に眠っていたメシアンへの憧憬(オマージュ)を確認し、彼らのために作曲するという行為で「信仰告白」したのではないか、と思える。

これらの録音は、1970年代半ばという時代そのものの記録であることから、ジャケットや、メンバーたちのポートレートを眺めるまでもなく、その音楽には、当時のアメリカの文化状況の刻印は明らか。

現在は活動を停止してしまっているこのユニークなアンサンブルの超絶的な名演として忘れることのできない貴重な記録と言うべきだろう。

演奏の完成度と合わせ、メシアンと武満の作品の受容史という観点からも重要な1枚である。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:26コメント(0)トラックバック(0)メシアン 

2016年11月27日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



本盤は30代の小澤征爾がRCAへ録音した最も初期の、実質的には小澤のデビュー・レコードであるが、その清新な演奏は今も魅力を失っておらず、80歳を超えた現時点においても、これまでの数多い小澤のディスコグラフィの中でも、トップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

とにかく、この当時の小澤の途轍もない力強い生命力と、作品の本質にぐいぐいと切り込んで行く鋭いアプローチは、凄いの一言であり、若き日の小澤のダイナミックで官能的でしかも精緻な音楽的特質がよくあらわれている。

メシアンのトゥーランガリラ交響曲にしても、武満のノヴェンバーステップス等にしても、いずれも難曲であるとともに、本盤の録音当時は、他にも録音が非常に少ないということもあり、演奏をすること自体に大変な困難を伴ったことが大いに予想されるところだ。

そのような厳しい状況の中で、30代の若き小澤が、これほどの自信と確信に満ち溢れた堂々たる名演を繰り広げたというのは、小澤の類稀なる才能とともに、現代の大指揮者小澤を予見させるのに十分な豊かな将来性を感じさせられる。

メシアンにしても、武満にしても、若き小澤を高く評価したのも十分に理解できるところであり、奇を衒うことのない非常にオーソドックスで、しかも優れたこれらの名録音は、いずれもLP発売以来一度もカタログから消えたことがない名盤である。

小澤はトゥーランガリラ交響曲の日本初演を行ったことからもわかるとおり、曲の隅々まで精通して作曲家メシアンの厚い信頼を得ての録音であり、メシアンの官能的な色彩をこれだけ、あられもなく表現した例は他になく、メシアンと小澤の信頼関係が晩年まで続いた事も大いに頷けるところだ。

トロント交響楽団のアンサンブルも優れたもので、実力を出し切っており、第5楽章の〈星の血の歓喜〉の困難なパッセージや、第6楽章の〈愛と眠りの園〉における天国的な旋律の歌い方なども大変秀逸である。

イヴォンヌ・ロリオのピアノが大変瑞々しく、またジャンヌ・ロリオのオンド・マルトゥノの音も存在感が溢れるよう録音されている。

ノヴェンバー・ステップスは、武満徹の名を世界に知らしめ、不動のものとした日本のクラシック音楽界にとって歴史的な録音で、小澤32歳の、初演後まもなくの熱気を感じさせる。

伝統音楽にはなかった琵琶と尺八の出会い、和楽器とオーケストラの出会いを演出した戦後の名作で、たっぷりと余韻を楽しみながら演奏されている。

琵琶と尺八をオーケストラと対峙させるというアイディア(これは委嘱してきたニューヨーク・フィルからの注文だったらしいが)もさることながら、ヨーロッパの追従に偏っていた日本の音楽界にわが国の古典音楽を突き付けたショックは今聴いても強烈で、フレーズ1つ1つに力がこもり、音の運動性と存在感が作品に命を与えている。

鶴田錦史(琵琶)・横山勝也(尺八)の両ソリストの名技に全面依存した作品でもあり、その最初の出会いを記録した本演奏はまさに歴史的名盤と呼ぶにふさわしい。

近年の演奏に比べれば粗削りだが、音に生気が漲っているせいか、不思議と、新しいものに出会った演奏家たちの驚きや喜びが伝わってくる。

武満本来の静謐の美学とは少しズレもあるが、特に彼の作風に含まれる西欧的な性質を強調したことによって、海外での受容が促進されたのかもしれない。

図形楽譜による琵琶と尺八だけの長大なカデンツァの部分は、楽譜にいくつかの断片が与えられているだけなので、本来は自由な順に演奏できるのだが、この時期にはまだ、鶴田も横山も試行錯誤で、後のように順番を固定してはいなかった。

トゥーランガリラ交響曲やノヴェンバー・ステップス等には、本盤の後、様々な指揮者の手により相当数の録音が行われたが、未だに本盤を凌駕する名演が登場していないというのは、本盤の演奏の水準の高さに鑑みれば、当然のような気がする。

そしてこの若き日の小澤を永遠に記録する名録音は、新たなリマスタリングとBlu-spec-CD化によって、驚異の高音質に生まれ変わった。

本当は、SACDで発売して欲しいところであるが、それでもこれだけの高音質でこの歴史的な「音の世界遺産」とも言うべき若き小澤の素晴らしい超名演を味わうことができるのだから、文句は言えまい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:50コメント(0)トラックバック(0)小澤 征爾メシアン 

2016年11月25日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



《椿姫》ぐらい憂愁、甘美なメロディの数々に彩られたオペラも例がなく、筋もわかりやすいので、ポピュラーになるのは当然だ。

様々なとらえ方のCDがあるが、何と言ってもヒロインの歌手が問題になるので、自分のお気に入りのソプラノがいれば、その人のディスクを選ぶのが一番良く、もちろん録音は新しいに越したことはない。

筆者はクライバー盤を選ぶが、彼のオペラ全曲録音の中でも最も出来が良く、このオペラを近代劇としてとらえ、鋭い個性的な表現を行っていて、クライバーの代表盤と言っても差し支えないだろう。

《椿姫》はこの指揮者の数少ないレパートリーの1つであり、速めのテンポできりりと流しつつ、メリハリが立ち、曲想の抉りが深く、音楽とドラマが直結しており、全3幕、起承転結が実に鮮やかで、生気に富み、魅力的で、息もつかせぬ名演と言えるところであり、本当の舞台人の芸を存分に楽しませる。

クライバーの音楽特性のよく表れた演奏で、彼は、ヴェルディの音楽に現代的な感覚を盛り込み、彼独自の音楽の世界をつくりあげていて、イタリア・オペラにしては、造形が厳しすぎる気もするが、大変精度の高い演奏だ。

クライバーという指揮者の才能が何より際立つ録音で、イタリアの歌手主導の演奏に慣れた人には当初違和感を与えるかもしれないが、それも束の間、その旋律を豊かに歌わせた躍動感に溢れる音楽はオペラ・ハウスの上演を超越した感動をもたらす。

クライバーのヴェルディ演奏としては必ずしも100点満点の出来映えではないかもしれず、《椿姫》の演奏としては異端であるかもしれないが、何と素晴らしい異端だろう。

華麗な大オペラに背を向け、暗い影に息づく異端の《椿姫》で、クライバーの魔術的な音楽づくりの魅惑に思わず呪縛されてしまう。

薄幸の主人公を慈しむように、繊細な響きで始まる音楽は、第1幕の引き締まったものへと急転するが、オーケストラが先行する場面でも、歌が先行する場面でも、常に独特の弾みや絶妙の間合いが音楽を支配している。

スタイリッシュで、なおかつ非常にドラマティック、クライバーの指揮は常に生き生きと躍動し、表情豊かに歌い、ささやきのエロティシズムと切ない悲劇性が際立つ。

これが彼の生命線であって、表現の振幅が広いばかりではなく、それによって抒情性に溺れることを速いテンポと猛烈な推進力によって回避しているし、同時に最高に劇的な表現を実現しているのである。

クライバーならではのまことに生彩溢れる演奏であると同時に彼は、第1幕の前奏曲から、このオペラの悲劇性を精妙極まりない表現によって明らかにし、常に生き生きとした流れと劇的で鮮やかな変化をそなえた演奏によって、音楽の最深部にまで的確な光を当てつくしている。

クライバーが本拠にしていたバイエルン国立歌劇場管弦楽団からこのように精緻で陰翳に富んだ響きと表現を引き出した手腕も、まさに至芸と言うべきだろう。

ここにあるのは、単に流麗で感傷的なメロドラマではなく、切実な感情によって動かされ、生きてゆく人間たちのドラマであり、ヴェルディの真の意図が感じ取れる。

歌手陣は必ずしも最強力とは言えず、コトルバスのヴィオレッタはやや独特の癖があるが、その幾分暗い声と非常に細やかな感情表現によって悲劇のヒロインを繊細に演じていて、役柄にふさわしい見事な存在感を示し、クライバーの敏捷だが小振りな音楽によく合っている。

雄弁この上ないオーケストラに支えられた第1幕の長大な歌で、聴く者をうならせたりしないかわりに、線の細いセンチメンタルな歌唱で、肺を患った若く悲しい娼婦ヴィオレッタが同情され涙を誘い胸を打つ。

本来ならミミなどにぴったりのコトルバスを起用して(実演でも歌ってはいるが)、繊細な声の持ち主に重めの役を歌わせるのは1970年代から80年代にかけてのグラモフォンが、特に好んだキャスティングだった。

またドミンゴのアルフレードが素晴らしく、凛々しい声で一本気な青年を好演、ミルンズのジェルモンはややドスが利き過ぎだが、父親の貫禄充分な歌唱を聴かせ、他の歌手もクライバーの指揮に応えてそれぞれベストの歌唱を聴かせてくれる。

これは、クライバーが正規に完成させた商業録音の数少ないオペラ全曲盤の1つで、そのレパートリーでは《ボエーム》も《オテロ》も結局は完成されなかったから、これが唯一のイタリア・オペラのセッション録音による全曲盤ということになり、その意味でも貴重である。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:14コメント(0)トラックバック(0)ヴェルディクライバー 

2016年11月23日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

クラウディオ・アラウはピアノという楽器が持っている機能や特性を知り尽くしていた。

曖昧なタッチや衝撃的な打鍵は注意深く避け楽器を完全に響かせる術を熟知していて、ひたすら明確な響きによるダイナミズムで音楽性を表現する奏法は彼の哲学だったと言っても良いだろう。

2曲ともにかなり難解なテクニックが要求され、アラウ自身もまた稀代のヴィルトゥオーゾとしてリストの作品の演奏でも名を馳せたが、むしろ超絶技巧に聴き手の注意が逸らされることを回避できた数少ないピアニストだったのではないだろうか。

逆に言えばそれだけの確固とした解釈の裏付けと表現力に支えられた、まさに巨匠と呼ぶに相応しい演奏家だった。

ブラームスはアラウのロマン派レパートリーの中でも中核となる作曲家の1人であったが、ブラームス特有の書法と重厚な響きを、アラウは雄大なスケールと微細を極めた表現で美しく歌い上げている。

アラウのピアノにはあざとさやスリリングな要素がない代わりに、常に正面切った雄弁な語り口と正々堂々たる構成力で聴かせる本来の意味でのロマンティシズムが横溢し、ブラームスらしい味わいをじっくりと追究した演奏になっている。

どっしりとしたリズム、ゆったりとしたテンポにアラウの主張がはっきり示されており、ブラームスの重厚な味わいが雄渾に再現されている。

ルバートを多用し、スコアに書かれたすべての音を生かそうとするかのようで、腰の強いタッチや心からの歌も大変美しく、内にこもってしまう作曲者の性格が他の誰よりも表出されており、おそらくブラームスが一番喜ぶ演奏ではないか。

衝撃的な音質を一切避けた潤いに満ちたおおらかで悠然と奏でる音楽のスケールは大きく、良い意味での古き良き時代を髣髴とさせるロマンティックな演奏だが、それは時代を超えた魅力に溢れている。

ただし外面的な演奏効果より内面の秩序を重んじているため、演奏全体の印象は地味で、音色自体の魅力に欠けるため、アラウの求めるコクがいまひとつ表に出て来ず、地味すぎる音楽になってしまった。

それに時として、テンポの動きやハーモニーの生かし方に硬さが伴うのが残念ではあるが、独特の充足感を誇っている。

ハイティンクの指揮もコンセルトヘボウ管弦楽団の渋い音色と厚みを生かしつつ、ブラームスを内面から表現しており、アラウにぴったりの共演ぶりだ。

2曲ともオーケストラ・パートが非常に充実したシンフォニックな書法で作曲されているために、ここでは、ハイティンク&コンセルトヘボウ管弦楽団の強力なサポートが、アラウのソロを引き立てながらも鮮烈なオーケストレーションを主張していて、ロマン派を代表するピアノ協奏曲としての華麗さと風格を備えている。

コンセルトヘボウ管弦楽団はヨーロッパでは最高水準を誇るオーケストラだけに、彼らの品の良い知性的な機動力が充分に発揮されている。

確かに張り詰めた緊張感ではクーベリック&バイエルン放送交響楽団との第1番が優っているが、ハイティンクはブラームスのリリシズムを活かし、一方で弦楽部とブラス・セクションのバランスを巧みに采配してオーケストラに独自の精彩を与え、輝かしくスペクタクルな効果を引き出している。

第2番冒頭のホルンの導入にも聴かれるように鷹揚なテンポ設定の中にも弛緩のない精神的な高揚を伴った演奏が、音楽に身を委ねることへの幸福感をもたらしてくれる。

いずれにしても、本演奏は、アラウ、ハイティンクともに、後年の演奏のようにその芸術性が完熟しているとは言い難いが、後年の円熟の至芸を彷彿とさせるような演奏は十分に行っている。

この両者が、例えば1980年代の前半に両曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 22:28コメント(0)トラックバック(0)アラウハイティンク 
メルマガ登録・解除
 

Profile
Categories
Recent Comments
記事検索
  • ライブドアブログ