2022年05月20日


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1969年6月26日と28日の両日、バックハウスは南オーストリアのケルンテン音楽祭に招かれ、リサイタルを開いた。

ニ日目の演奏途中、急に具合が悪くなり、最後の曲目であるベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番のフィナーレを弾けなくなってしまった。

しばらく楽屋で休んだ彼は、ベートーヴェンの代わりにシューマンの「夕べに」と「なぜに」、シューベルトの即興曲変イ長調D.935-2を弾き終え、そのまま病院に運ばれた。

その7日後の7月5日、心不全のため、ケルンテンのフィアラで85歳の生涯を閉じたのである。

「余暇には何をなさいますか」「ピアノを弾きます」。

バックハウスとはまさにこの言葉どおりの「生涯」「ピアノ弾き」であった。

そんなバックハウスの死の7日前に行なった『最後のリサイタル』は、幸い録音されている。

ここに聴く巨匠の音楽は、何と強靭で確固としたものであることだろう。

モーツァルトの《K.331》冒頭に置かれたカデンツの分散和音からして気高い音楽である。

最晩年の枯れた芸の極致とでもいえるような内容の深さをもった演奏で、モーツァルトとしては、やや重厚にすぎるが、聴きこむほどに味が出てくる名演だ。

前半のメインのベートーヴェン《ワルトシュタイン》が稀有の名演だと思う。

第2楽章の深い瞑想性、そして、クナッパーツブッシュのワーグナーを想わせるフィナーレの深遠な呼吸と表現の巨大さ。

まさに渾身の演奏であり、ここに命の灯を燃やし尽くした巨匠は後半の《第18番》を最後まで弾くことができなかったのである。

シューベルトの3曲の率直な味わい深い表現など、まさしく晩年のバックハウスのものである。

前述のようにベートーヴェンのソナタ第18番は精彩がなく、演奏は中断される。

シューマンの小曲2曲の枯れた、だがみずみずしい抒情の美しさなど、辞世の歌というにふさわしい絶品である。

その深い瞑想と寂寥感において他に比肩しうるピアニストは一人もいない。

単なる記録という意味を越えた、音楽とは何かを考えさせられる演奏である。

日本語解説書だけでも充実を極めているので、是非読んでいただきたい。

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classicalmusic at 11:50コメント(0)バックハウス 

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ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の15曲の弦楽四重奏曲は、数の面からだけでなく、音楽の質や内容の点でも、彼の15曲の交響曲に並ぶ位置を占めている。

初心者のために敢えて言っておくが、日本の絶滅した音楽評論家の誤解と迷信による解説は一切参考にしないでほしい。

いずれにしても難解なことに疑いの余地はないので、手引きとして参考にしていただければ幸甚である。

筆者が参考にした解説は旧東ドイツの女流音楽学者ジーグリド・ネーフ博士(Siegrid Neef)の筆によるものである。

ボロディン弦楽四重奏団の演奏そのものは、1980年代前半のものがほとんどで、それ以前のものも含まれているが、いずれにしても、まだ旧ソ連が立派に存在していた時代のものである。

しかし解説は、年代は明記されていないが、その内容からボロディン弦楽四重奏団の全集の後に執筆されたものであることが、その内容から明白である。

ネーフは1985年に東ベルリンで出版された「ロシア・ソヴィエト・オペラ・ハンドブック」という大部で、便利な本の著者として広く知られていた。

彼女はベルリン国立歌劇場の文芸部員を長年勤めて、19世紀ロシアだけでなく、ソ連の作曲家オペラを数多く手がけてきた。

一方、本格的な音楽学者でもあり、東ドイツきってのソ連音楽通の一人といって良いだろう。

それだけに、ソ連時代の矛盾を自ら実感してきた経験を持ち、ショスタコーヴィチの作品に対しても、同時代を生きた芸術家の一人として、共感を抱くところが多いのであろう。

この解説において、彼女の語り口は生々しく、まさに本音を語っていると言えるだろう。

長年にわたって、ソ連の優等生作曲家と考えられていたショスタコーヴィチが、実は反体制な創作傾向を持っていたことが明らかになったのは、偽書とされるヴォルコフのいわゆる「自伝」が1979年に西欧に出版されてから、ショスタコーヴィチの作品に隠されている真の意味を考えることが、一気に一般化した。

しかし、想像に基づく推論は別として、具体的には、その本質がなかなか分からないままであった。

とくに後期の作品では、自作からの引用が多く、引用の意味が興味を引くが、どこからの引用であるかはもちろん、その背景を解明することは、容易ではなかった。

なぜならば、ショスタコーヴィチの作品は広く知られているものも少なくないが、一方で、ソ連時代には、ほとんど知られていない作品も、決して少なくなかったからである。

そのようななかで、ネーフはこの弦楽四重奏曲全集の解説のなかで、かなり具体的に、ショスタコーヴィチの音楽の反体制的な本質に迫っている。

ネーフが社会主義体制の下で学問や芸術の活動を続けながら、体制が本来的に抱えてた矛盾に、日常的に直面していた体験があるからであろう。

ショスタコーヴィチはかつて「音楽は思索と観念を通して、つまり、普遍化の過程を通して、その力を獲得する。そして、弦楽四重奏曲においては、思索は深淵で、観念は純粋でなければならない」と述べた。

弦楽四重奏曲にたいするショスタコーヴィチの興味は、1924年から1974年まで、半世紀を越えて続いていたが、初心者の実験から円熟した老齢者の熟達へといった、発展という感じは少しもない。

すでに最初の出発点から、基本的な観念、つまり、はかなさと死に対する悲しみや、野蛮な力の行使と暗黒な時間の経過に対する抗議は、ふさわしい巧みさをもって表現され、語られている。

現実社会で政治の暴力さを増すにつれて、作曲家の内面的力と見通す目の明快さが増大した。

このような発達の印しの一つが、彼のアダージョ楽章に見出される。

それらはことごとく、内面性と真実性に満ち満ちている。

ここには苦悩の音楽があり、その苦悩と折り合う能力が見出される。

作曲家のもっとも美しい憧れの総和として、これらの楽章は20世紀の、そして、20世紀のための音楽となっている。

ショスタコーヴィチは弦楽四重奏曲において、ドストエフスキーが「人生の呪うべき問題」「死のこと」と定義したものを、さらにまた、「何百万の人々に、個々の人生の魂のなかで何かが行われているかを示し、そして、全人類の魂が何によって満たされているかを、個々の人々に明かす」という彼の欲求によって支えられている過程を、抽出して見せたのである。

ボロディン四重奏団は日本にいくどか来ていて、その緻密な演奏を賞賛するファンは少なくないであろう。

驚異的なアンサンブルの妙もさることながら、明白な主張に裏打ちされた、彼らの明快な演奏は、心憎いばかりである。

何も考えずに聴いても、ダイナミックな音響の対比と、歯切れの良いアーティキュレーションは、そのものとして十分面白い。

しかし、それにネーフの解説を重ね合わせて聞くと、彼らの演奏が主張している、ショスタコーヴィチの音楽の背後に隠された意味を聞き取ることができて、面白さは一段と深まるだろう。

まして、不自由なロシアの生活を垣間みたことのある人であれば、いや、そうでなくても、偽善的な現代社会の本質に飽き飽きしている人であれば、そこに表現されている人の心の深い悲しみを、共感を持って実感することができるであろう。

このボロディン弦楽四重奏団の弦楽四重奏曲全集は、20世紀が生んだ鬼子、社会主義社会という矛盾に満ちた現象を、そこに生きた人間の心の機微を通して、憎々しいまでに明白に、多面的に描き上げている。

これは21世紀の現在を生きるわれわれに、20世紀を振り返る絶好のチャンスを与えてくれる、まさに哲学的な内容をもった全集であるといっても過言ではないだろう。

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classicalmusic at 08:11コメント(0)ショスタコーヴィチ芸術に寄す 

2022年05月19日


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1985年に69歳の誕生日を目前にして没したギレリスは、晩年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音に取り組んでいたが、残念なことに未完のままに終わった。

ギレリス後期のレコーディング活動は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がメインとなった。

残念なことに、彼の突然の死によって、全集の完成はあと5曲を残して未完になってしまったものの、録音された27曲の演奏内容はどれも充実したものばかり。

かつての「鋼鉄の腕をもつピアニスト」も、すっかり角がとれて、福徳円満な巨匠に円熟している。

ゆったりとした歌が魅力で、これらの名曲を手中にした自信のようなものがあり、未完ではあっても、今日のベートーヴェン演奏の最高の指針といえよう。

彼の残した演奏はいずれも特筆すべきもので、その強靭なタッチと正確無比なピアニズムはベートーヴェンに最も相応しい。

そうしたギレリスにぴったりの最後のソナタ第32番が録音されなかったのは断腸の思いだが、録音された作品に聴くギレリスの精神の集中力には驚くべきものがある。

つまりギレリスの演奏は、ベートーヴェンこそ彼が真に対決すべき作曲家であったことを如実に物語っているのだ。

その豊かな表現の底には常に鋼の精神があり、ベートーヴェン作品の大きさと奥行きの深さをよく知らしめる演奏である。

ギレリスのベートーヴェンのディスクはいずれも高い評価を得ているが、全体のスケールが大きいだけでなく、細部のすみずみまで磨き抜かれた演奏で、1音1音があざやかに浮かび上がってくる。

力強い一方で、内に秘められたデリケートな抒情性が何とも心憎い。

各部のバランスも良く、非常に安定している。

それぞれの曲の冒頭から聴き手をひきつけ、最後まで緊張感がとぎれないのはさすがである。

ギレリスの強靭なタッチとダイナミック・レンジの広さも魅力的で、彼はつねにコントロールを失うことなく、オーソドックスに、ひとつひとつの音を積み重ねて、音の大建築を作り上げていく。

甘さはないが、格調高い演奏で、シーリアス過ぎてついていけない人が続出しそうだ。

聴きものはやはり後期のピアノ・ソナタ。

《ハンマー・クラヴィーア》は驚くほど高い透明度を持った演奏。

あたかも作品の構造そのものが自らの意志で音楽として鳴り響くという趣だが、これは知と情が作品の特質に従ったバランスを見せるということで、完璧に音楽的な演奏といえる。

余分な感情の動きや情緒のひだがまとわりつくということもない。

そしてギレリスのいわば構造的演奏は第4楽章のフーガでその真価を十全に発揮している。

演奏者本人が「エヴェレストに登るよう」と語った、ひとつの規範となる現代的解釈の名演。

第30番と第31番は1985年10月に急逝したギレリスが残した文字通り最後の録音。

いずれも流麗な演奏で、年齢からは考えられないほどみずみずしい響きだ。

特に第31番は出色の出来で、フィナーレのフーガの前に置かれているアダージョ・マ・ノン・トロッポは、もの悲しい淋しさをしずしずと歌いあげ、弛緩した趣が全くなくてさすが。

ここにはギレリスが到達した最後の境地が示されている。

しかもこの2曲からは、強い精神集中の向こうに、より開かれた世界をうかがい知ることができる。

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classicalmusic at 21:15コメント(4)ベートーヴェンギレリス 

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かつてのルネサンス時代におけるレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどを思い出すまでもなく、世の中には、常人の想像をはるかに超えた多彩な能力の持ち主というものがいる。

もちろん現代のように各分野の専門化が先鋭化し、それぞれの領域を極めるために多大な時間とエネルギーを要求される時代にあっては、ルネサンス時代のように一人の人間が、音楽も美術も工学も医学もといった具合に、多分野にわたって抜きんでた能力を発揮することは難しくなった。

例えば音楽という領域だけに限ってみると、そこで多彩な能力を発揮する人をたまに見かけることがある。

もちろん音楽を勉強するうえで、ピアノや作曲理論というものは、どのような人でもクリアしなければならない関門のようなものなので、誰もが当たり前であると思われるかもしれない。

しかし一応できるのと、一流として人の前に立つことができるのとでは全く意味が異なる。

多彩で様々にこなしはするけれど、Aは一流、しかしBは二流という人が多いのが実際の所なのだ。

ところがふたまた以上をかけている人で、たまにどちらが本業かわからないほど多岐にわたって高度な能力を発揮する人がいる。

ダニエル・バレンボイムこそ、まさにその筆頭にあげられるべき音楽家ということになろう。

指揮者としての彼はベルリン州立歌劇場総監督就任後は、そのレパートリーを確実に増やしており、ドイツ=オーストリア系のレパートリーにおいては今や筆頭にあげるべき存在になっている。

こういう活躍を展開すれば、もともとはピアニストであったとしても、その活動はごく制限されるか、撤退するのが普通である。

ところが彼は、指揮者としての仕事が膨大なものになったからといって、若いときから注目されていたピアニストとしての活躍も決してないがしろにしていない稀有な存在なのである。

そういえば、そんな存在は過去にも現在にも少なからずいたと言われるかもしれない。

確かにセルもショルティもバーンスタインもピアノは一流だったし、ごく最近でもレヴァイン(故人)がいたし、チョンは健在。

しかし彼らはベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音できるほど、ピアニストとしての自立した立場を持っていたわけではない。

たまに聴衆の前でピアノ協奏曲を演奏したり、室内楽ピアニストとして腕を披露することはあったが、あくまでそれは指揮活動の傍らにおかれた存在でしかなかった。

唯一アシュケナージがピアノ、指揮の両面においてバレンボイムに近い活躍を展開していたが、逆に彼の場合は指揮の領域ではまだまだバレンボイムの域に達しないまま引退してしまった。

古楽の分野に限ってみれば、レオンハルト、ジギスヴァルト・クイケン、コープマン、鈴木雅明と挙げられるが学問的に正しいからと言って感動に繋がらないことを白日の下に晒されてしまう。

百聞は一見に如かず、コンサートに身銭を切って行ったが、美しいだけで、二度と聴く気がしない。

コープマンの態度に至っては、舞台上でコソコソしていて、いつ現れたかと思うと舞台から去っていくので卑屈にすら映る(資質すら疑い「ギャラ泥棒」とブーイングを浴びせたくなった)。

反対にバレンボイムは正々堂々たる姿勢で誠実に音楽に取り組んでいたし、シュターツカペレ・ベルリンから失われたドイツの音を甦らせていた。

今や驚くほかはないレパートリーの広さを誇っているが、いずれにしても非常に高い水準にあり、どれを聴いてもまず期待を裏切られることはない。

まさにとてつもない資質をもった演奏家ということができるだろう。

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classicalmusic at 19:23コメント(0)バレンボイム 

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本稿執筆のため、小澤のCDを山のように積んで試聴を始めたが、相手がボストン響であろうとベルリン・フィルだろうと、挑む作品がベートーヴェンだろうとマーラーであろうと、どれも最初の数分を聴いて耐えられなくなった。

これらの演奏を最後まで聴かされるなら筆者には拷問に近い。

ここに水戸室内管を振ったビゼーとラヴェルのCDがある。

驚くほどピッチが正確で、各声部が極細の糸のように細く、それらが整然と整理されている。

音楽的なイントネーションも模範的だし、何より音が美しい。

しかし、だから何なのだ?それがどうした?というのが正直な感想である。

華々しく燃えているかに見える炎も、表面の薄い皮膜が燃えているだけで、中身は熱くも冷たくもない。

それはサイトウ・キネンも同じで、《英雄》《田園》は最悪のベートーヴェンだ。

作曲家の顔はおろか気配すら見えない。

まるでミネラル分を徹底的に除去した無味無臭の水。

透明な以外に何の存在価値もないコクや旨味に無縁の水だ。

《英雄》のCDが出たとき、『レコード芸術』の月評で、「人気は高いが味のうすいアサヒ・スーパードライのよう」と亡き評論家が書かれて物議をかもしたが、ベートーヴェンの音楽とはあのように汗一つかかず、無感動に演奏するものだろうか。

少数の例外のひとつはドヴォルザーク、バルトークの弦楽合奏を合わせた一枚。

響きが派手で情報量ゼロだが、ゴージャスなサウンドに文句はない。

音楽的に完全武装し、文句のつけようのない小澤と、演奏の欠点を挙げたらキリのない(それを隠そうともしない)無手勝流の朝比奈と、結局朝比奈に惹かれてしまうのだから、音楽とは面白い芸術である。

団塊の世代以上の人にとっては小澤は日本のホープだったのだろう。

しかし、熱いだけでは人も世界も動かなくなってしまった。

その原因は、おそらく小澤が音楽のリズムを一様に普遍的なものと見ているからなのではないか。

音楽には作曲者固有の生理的ともいえるリズムがあるはずで、それを捉えることが音楽の緊張感に結び付くのだと思う。

結局、方法論は方法論でしかないのだろうか。

先人に対して失礼なことを言って申し訳なく思うが、どんなに引き際が悪くとも小澤の役割は終わることはない。

熱く世界や音楽を語ったりするよりも微視的な差異にこだわる私たちを、誠実な情熱でやりこめてくれる日本の頑固オヤジであり続けてほしい。  

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classicalmusic at 14:45コメント(0)小澤 征爾 

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著者阿部氏によれば、ドイツを中心とするヨーロッパでの人と人との、そして人と物との新しい関わり方は、集落が都市として発展し始める中世時代に端を発している。

農村地帯とは切り離されて城塞によって取り囲まれた都市は、それまでの人同士の関係を必然的に変化させていく。

最初に例を挙げているのが都市の最小単位になる住居で、その集合体である街は社会的共同体を形成するので当然安全で円滑な社会を維持するために新しい法律が必要になり、結果的に都市住民は既得権益維持のために余所者を排除しようとする差別も表面化してくる。

また貯蓄や分配が容易く、商業活動に圧倒的に有利な貨幣の価値がそれまでの物に代わって貨幣経済が成立するが、また一方で貧富の差を拡大させたことも理解できる。

阿部氏はユダヤ人への差別が決定的になったのは、ヨーロッパの人々が古いタイプの人と物との関係をまだ手放せないでいる時、彼らが逸早く貨幣価値を認識し蓄財に成功したことへの反発としている。

カトリック教会は喜捨や寄進を奨励し、死後の世界を保証するという元手のかからない莫大な富の貯蓄が可能になり、大聖堂の建築が始まる。

それは以前の奉仕に対する贈答という主従関係を根本的に変えることになるが、大規模な教会建築にはヨーロッパ中の高い建築技術を持った専門職人が必要になり、国境を超えた文化や芸術の伝播が始まるのも貨幣経済の優位があって可能になったようだ。

それだけに中世には職人の専門技術の向上と、その洗練が着実に進んでいた。

こうしたヨーロッパの大都市での人々の生活に、著者が現代社会の萌芽を見ているのは興味深いし、文化も技術も停滞して社会的な発展が途絶えた暗黒の中世では決してなかったことが理解できる。

むしろ現代の我々の人間関係の仕組みを良く知り、またそれを活かすためには、意外にも中世時代の価値観の変化を見極める必要があるだろう。

随所にイラストを掲載してイメージを助けてくれるので、中世の世界をバーチャルに体験できるが、そこには私達が抱いている中世に対する印象からは随分違ったものが見えてくる。

むしろ難解なのはこの時代に生きていた人々のスピリットをつぶさに理解することだろう。

それにはより深い読書が求められるし、勿論これ一冊では充分とは言えない。

幸い阿部氏の中世シリーズの作品集は次々と文庫本化され、具体的なテーマによって詳述されているので、中世に興味のある方はてはじめに本書を読まれることをお薦めしたい。

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classicalmusic at 12:56コメント(0)書物 

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最近のデジタル録音の鮮明かつ華麗な《第7》を聴きなれた耳には、この異様なまでにデッドでゴツゴツの演奏はショックかも知れない。

それはまるで、総天然色の新作映画を見慣れてしまった目に、戦時中の白黒のニュース映画が異様な印象を与えるのに似ている。

しかし、そのどんな色彩もかなわない強烈なリアリティは見るものを圧倒する。

このムラヴィンスキー&レニングラード・フィル盤は、そんな時代を封じ込めた歴史的1枚だ。

確かにショスタコーヴィチの交響曲は、デジタル時代になって鮮明かつ華麗な西側オーケストラの演奏が出てきてから、単なるロシア音楽の枠を越えて世界的な広がりを見せ始めた。

しかし、その国際的な普及の度合いと反比例するように「イデオロギー的」あるいは「政治的」な信念のような側面は薄められ、どうも純粋に音楽的にのみ捉え初めているような気がする。

でも、ショスタコーヴィチの音楽はまぎれもなく、「トンでもないこと」を信じていた時代の「トンでもない交響曲」なのである。

現代のようになれ合いの美音でまとめた優等生的な音楽にはない、八方破れでバランスを失したオーケストラが、デッドなホールでその信念と推進力だけを頼りに自分たちの時代の交響曲を力いっぱいゴリゴリ鳴らす。

そうやって自分たちの時代の音楽を作っていった時代があったのだ。

そんな凄絶な、まさに鳴り響く歴史としての音楽の記録がここにはある。

ムラヴィンスキーらしい、大仰な身振りとは無縁の直截的なアプローチだが、圧倒的な重量感が素晴らしい。

両端楽章の内から湧き上がる力感も凄いが、ことに第3楽章の深い慟哭が沁みる。

旧ソヴィエトの録音がアメリカのヴァンガードから発売された経緯はよく分からないが、旧ソヴィエトの音源が世に出るのは大歓迎だ。

できればスヴェトラーノフやロジェストヴェンスキー、ハイキンやイワーノフといった指揮者の名盤を復活させてほしい。

ウクライナに侵攻して今は世界中から厳しい視線を浴びるロシアだが、この交響曲に虚心に耳を傾け、かつては自らが被侵略国の苦難を味わったことを改めて思い出してもらいたいものだ。

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classicalmusic at 08:19コメント(0)ショスタコーヴィチムラヴィンスキー 

2022年05月18日


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和解と寛容の精神が謳われる中で、とにかく私自身を懐疑論に沈ませる迷著になってしまった。

恨み節のようだが、私が物心がついた時、両者ともそれぞれの分野で甚大な影響力を持つ世界的巨匠には違いなかった。

私が初めて小澤の音楽を聴いたのは、小学生の頃で、我が家に音の出るものと言えばテレビしかなかったので、その番組は消滅して久しいが、貴重な時間ではあった。

記憶に残っているのは《第9》で、高熱を出してステージにも上がれないくらいの体調だったことを後で知ることになるが、第1楽章と第2楽章は手塚幸紀さんが代役に立ち、小澤は後半の2つの楽章を指揮していた。

何と!食道癌という病に冒された現在も同じようなことを繰り返していて、一切指揮者として信頼をなくしていることをご本人は知る由がないのであろうか。

私の興味の対象が音楽よりも文学(村上主義者)や哲学(大学の専攻)のほうに移っていくにつれ、自然と小澤の音楽に接する機会も減っていった。

とにかく小澤はオペラとセッション録音が苦手で、意地の悪い者からすると実演の半分も伝わってこない。

生演奏に接して、小澤の音楽からは音楽に対する熱意は伝わってきても、それ以上のものは伝わってこなかった。

伝家の宝刀、サイトウ・メソッドを片手に日本の音楽家が西洋音楽の分野に充分に通用することを証明してみせただけでも、大変な業績だとは思う。

春樹さんはサイトウ・メソッドは、西洋音楽に内在するリズムを形にするための普遍的な技術を獲得するための方法論だったのだと解釈している。

なので、小澤のフランスものやストラヴィンスキーなどのロシアものは西洋人にも高い評価を得ているのだと認めている。

(閑話休題)

ところで、私には小澤の世界的な活躍と戦後日本の経済復興と失速の状況が重なって見えてしまう。

しかしその母胎である経済構造が、世界規模で考えた経済の発展を支えるには構造的な矛盾であることを村上氏の著作で露呈してしまっている今日、もはやジャパン・ドメスティックではどうにも乗り切っていけないのだ。

かつて世界を股にかけて飛び回っていたビジネスマン第一世代と小澤の姿が重なってしまう自分が悲しい。

つまり小澤が音楽に情熱を傾けるほどに、優秀なメイド・イン・ジャパンの方法論の弱さが露呈してしまうようなのだ。

「カラヤン先生」「レニー」と呼び、カラヤンにはカラヤンのやり方があり、バーンスタインがよい音楽家で、加えてよい人間でもあったらしいことを春樹さんは引き出している(ように思える)。

私が彼らをかわいそうに思うのは、音楽家を育てたかったため、下らない弟子を大勢作ってしまったことだ。

しかもそいつらが臆面もなく自分はカラヤン、バーンスタインの弟子だと得意気に吹聴し、師の栄光を汚して平然としていることだ。

本著で、小澤が師の知的な面を何も学ばなかったことが露呈しているようで、情けなくて仕方がない。

既に師が広めたレパートリーで、しかもベルリン・フィルの指揮台に登場する直前、師のショスタコ5のライヴ録音(オルフェオ)をなぞり、馬鹿みたいに大げさな身振りで陶酔している佐渡裕にはもう呆れ果てて言葉もない。

ゆえに既に指揮者が虚業と化し、演奏家の時代が終焉してしまった現在、カラヤン、バーンスタインを考えるときは、そうした愚かな弟子たちを極力無視し、あいつらは両巨匠の音楽を何も受け継いでいないことを肝に銘じなければならない。

そうでないと、彼らの多面性を見失ってしまい、単なるイケイケ指揮者だと誤解してしまうのだ。

その小澤の社会的存在について、本著においてすばらしい文章が載っているので、そちらをご覧いただきたい。

最後になるが、春樹さんは「スコアなんて簡単に読めるようになるよ」という小澤の勧誘を拒絶している。

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classicalmusic at 22:02コメント(0)小澤 征爾書物 
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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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