2017年07月08日


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英国のコントラルト、キャスリーン・フェリアーの正規音源は、セッション、ライヴを問わずデッカからのボックス・セット14枚及びEMIからの3枚で出尽くした感があったが、小規模な歌曲に関してはまだメディア化されていない録音が多数存在するようで、このCDでは実に19曲の初出音源が収録されている。

いずれもフェリアーが母国BBC放送とブリティッシュ・ライブラリーに遺したもので、41歳の若さで早世した彼女の貴重な忘れ形見といったところだろう。

フェリアーが演奏活動に専念するためにロンドンに赴いたのが1942年だから、彼女のプロとしてのキャリアは僅か10年余りで、この間にレパートリーこそ多くはないが、信じられないくらい質の高い仕事を成し遂げていて、その一端を垣間見ることのできるアルバムとして高く評価したい。

ライナー・ノーツの最後に書かれたテクニカル・ノートには、このディスクに使われた音源がBBC放送からのエアチェック及びダイレクト・カットされたアセテート盤であることが説明されている。

前者の場合1954年のVHF/FMブロードキャスティングの導入までは不安定な受信しかできなかったし、後者は再生時のスクラッチ・ノイズが避けられない。

このCDのマスター制作にはこうした欠点を最新のテクノロジーでリストレーションしリマスタリングを担当したエンジニア、テッド・ケンダル氏の苦心が窺える。

フェリアーはステレオ録音が一般化する直前の1953年に亡くなっているので、遺された音源は残念ながら総てがモノラルで、曲によって音質もいくらかばらつきがあるが、リマスタリングの効果は上々で、伴奏ピアノとのバランスも比較的良好に保たれ、ノイズに煩わされない輪郭のはっきりした彼女の声質が再現されている。

フェリアーの声には華やかさはなく、むしろ暗めの低い声質だったためにオペラのような劇場作品で活躍するような役柄自体ごく限られたものだったが、彼女には天性の並外れた表現力があって、飾り気のない素朴な声に託された歌曲には、お国物だけでなくドイツ・リートのジャンルでも傑出した歌唱を聴くことができる。

それには彼女の持ち前の才能に加えて早くからブリテンやバルビローリ、ワルターなどの巨匠の薫陶を受け、急速にその芸術を洗練させて解釈に一層の深みを加えることができたことも幸いしているだろう。

外側にアピールしない低い声がしばしばその表現を内面に向かわせるのはある意味では当然のことかもしれないが、フェリアーの歌唱には直感的でありながら類稀な奥深さが感じられる。

ここでの伴奏者も同郷のジェラルド・ムーア、指揮者ブルーノ・ワルター及びフレデリック・ストーンのベテランがサポートしている。

ちなみに伴奏者はトラック8−11がブルーノ・ワルター、26がジェラルド・ムーアでそれ以外の総てがフレデリック・ストーンになり、最後に収録されたムーアとのヒューバート・パリーの『Love is a Bable』 だけが1948年8月26日のエジンバラ・ライヴで拍手が入っている。

この作品では英国的スピリットが2人によって鮮やかに示されたCDの最後を飾るのに相応しい選曲だ。

尚ライナー・ノーツ後半にはこのCDに収録された歌曲の全歌詞が掲載されていて、ドイツ・リートに関しては英語の対訳が付けられた丁寧な編集に好感が持てる。

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classicalmusic at 00:26コメント(0)フェリアー 

2017年07月06日


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1940年にプラハ・ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団がナチス占領下のプラハで、ヨゼフ・カイルベルトを首席指揮者に据えて活動を始めた時、このオーケストラから派生したチェコ・ドイツ弦楽四重奏団も誕生した。

この四重奏団のメンバーである、ルドルフ・ヨーゼフ・ケッケルト、ヴィリー・ビュヒナー、オスカー・リードル、ヨーゼフ・メルツの4人は、プラハ・ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団の、それぞれ首席奏者だった。

この四重奏団は1941年に第1ヴァイオリンを弾いていたケッケルトの名前を取ってケッケルト四重奏団と改名し、活動を仕切り直したという。

その後、1965年に第2ヴァイオリンのビュヒナーが亡くなって息子のルドルフ・ヨアヒム・ケッケルトが加わり、1975年にヴィオラがリードルからフランツ・シュッセル、その翌年にはチェロのメルツからヘルマール・シュテッヒラーに代わり、1982年に解散するに至った。

そのケッケルト四重奏団が特に輝いていたのが、初代のケッケルト、ビュヒナー、リードル、メルツの4人の時代と言われ、そのオリジナル・メンバーによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集は、LP時代にドイツ本流の四重奏団による極め付きとして愛聴されていたものだ。

モノラル音源なので、その音質は昨今のデジタル音源のクリアさを求められないが、この往年のドイツ・グラモフォン仕様の装丁と、ケッケルト四重奏団の名前で飛びつく人たちは、そのような音質面での不満は織り込み済みだろう。

ケッケルト四重奏団は、必ずしも第1ヴァイオリンが主導するような四重奏団ではないのだが、ケッケルトの妙技が殊に印象に残る。

ベートーヴェンの初期の四重奏曲は、勿体ぶったところのないあっさりとした演奏スタイルなのだが、ケッケルトを中心にメリハリをつけているので、推進力がついている。

メルツのチェロもきびきびしていて、ルーティンに陥らない鮮度を常に保っている。

この四重奏団の演奏におけるメリハリが軍隊調にならず、程よい粘り気を持っているのは、ケッケルトの歌い口のバランス加減にある。

中期の「ラズモフスキー・セット」、「ハープ」、「セリオーソ」も、四者四様の駆け引きがごく自然な会話のように展開する。

作品の相貌に合わせてダイナミックに強弱をつけているにも拘らず、それぞれのパートが如何なる局面でも一切お互いの邪魔になっていない。

無論、こうした駆け引きは四重奏の基本なのだが、このケッケルト四重奏団を基本に考えると、現代の四重奏は、いかにも上手に駆け引きしているのを自慢しているような風があって、この四重奏のような日常会話のごとく演奏する境地に達していないと感じられる。

後期のベートーヴェンの四重奏曲は、かなり入り組んだアンサンブルで、大方の四重奏団は気を引き締めて仕事に取り掛かるのだが、ケッケルト四重奏団は、そうした気負いを捨て、無心の境地で複雑なアンサンブルを楽しんでいる。

結成して15年のアンサンブルが、こうした高みのあるアンサンブルを実現しているのは、驚異的ではなかろうか。

音質を除けば、プロフェッショナル、アマチュアを問わず四重奏団員の誰しもが羨むアンサンブルである。

ドイツ・グラモフォンは、しかるべき企画力をもって、この音源をもっと販促して世界中の好楽家たちの目に触れるようにするべき。

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classicalmusic at 00:43コメント(0)ベートーヴェン 

2017年07月04日


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このセットは当初コリア・バージョンでリリースされたが、一般的にコリア版はセット物の価格がかなり高めになる傾向にあるので、限定盤ながらバジェット価格にプライス・ダウンされたことは評価したい。

同じくギュンター・ヴァント生誕100周年記念として出されたセッション録音が中心になる28枚及びヘンスラーからのミュンヘン・フィルハーモニーとのライヴ8枚と並んで、彼の至芸を鑑賞するための基本的なコレクションになり得るだろう。

これらのセットの共通点は収録曲目で、いずれも彼が最も手の内に入れていたゲルマン系の作曲家の交響曲集になるが、ここでは彼の手兵北ドイツ放送交響楽団に加えて後年盛んに客演を始めたベルリン・フィル及びシカゴ交響楽団との協演が注目される。

総てがライヴ音源だが1回採りではなく、隣接する日付のコンサートからヴァント自身がテイクを選択して、より完璧と思えるリカップリングを試みたようだ。

その意味では一晩に収録されたライヴ録音とは異なるが、彼の場合本番で即興性を発揮するタイプではなく、むしろ全く揺らぐことのないテンポ設定の中に音楽的造形を洗練していく指揮者なのでこうした方法も理解できる。

尚放送用ライヴに関してはプロフィールから20枚のセットもリリースされている。

ヴァントの指揮法を理解するポイントは彼のスコアへの分析の周到さにあると言えるだろう。

彼はオペラ上演のための下稽古として歌手達に音楽を記憶させるピアニスト、コレペティトーレとしてキャリアを始めている。

おそらくその時代からそれぞれの作曲家が作品を効果的に構成するためにどのような手段を用いたかを誰よりも敏感に感じ取り、またそれを精緻に解析していたに違いない。

それゆえヴァントの指揮には音楽がどう展開するか予想がつかないような即興性やスリルを求めてもそれほど意味はないが、全く無駄のないシェイプアップされた堅牢な構成美と非凡なオーケストラのダイナミズムから醸し出される独特の緊張感に価値があるのではないだろうか。

それは彼のレパートリーが後年ゲルマン系の作曲家の作品に収斂していったことからも証明されている。

逆に言えばそうした下準備があまり意味をなさないラテン系の作品は彼の守備範囲から外されていくことになる。

ブルックナーの交響曲でも故意に荘厳なサウンドの効果を狙ったりスケール感を必要以上に誇張するような手法は一切避け、スコア自体に語らせる潔さがあるが、そこに古臭さや陳腐さは全く感じられず、むしろ意外な新鮮さを発見できるのも事実だ。

ヴォルフガング・ザイフェルトによるヴァントへのインタビューが35分程度入っている。

音質は極めて良好だが残念ながらライナー・ノーツは省略されている。

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classicalmusic at 00:22コメント(0)ヴァント 

2017年07月02日


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ドイツの放送局で発掘されつつある旧ソヴィエト音源によるムラヴィンスキー演奏集は第3集目を迎え、それぞれが6枚組なので今回で都合18枚をリリースしたことになる。

このシリーズは初出音源を含む保存状態の良いマスターから独自のリマスタリングで制作する比較的安価なセットだし、勿論それぞれが貴重な演奏には違いない。

しかしこの6枚は一番新しい1961年のバッハの管弦楽組曲ロ短調がかろうじて擬似ステレオで、将来的に初出音源が追加されたとしても、熱烈なムラヴィンスキー・ファン専用の資料あるいは好事家のコレクションという印象が無きにしも非ずで、決して入門者用のシリーズとは言えない。

日進月歩のオーディオ技術の恩恵を享受している私達の耳には1940年代の音源を熱心に鑑賞するのがかなり忍耐の要る作業であることは否めないだろう。

しかしながら演奏は今回もセッション、ライヴ共に掘り出し物揃いで、CD4のワーグナー(1958年)とチャイコフスキーの交響曲第4番(1957年)などの入手困難な音源が新規のリマスタリングでかなり良い状態に改善されている。

中でも後半3枚に収録されたスクリャービン、ブルックナーがモノラルながら鮮明な音質で甦っているのは嬉しい。

尚ショスタコーヴィチがムラヴィンスキーに献呈した交響曲第8番も1947年の古い録音だが、同時代の他の曲目に比べて例外的にクリアーな音質が得られ、LP盤で聞かれた音割れも巧妙に避けられている。

この曲の初演は1943年にムラヴィンスキー自身の指揮とソヴィエト国立交響楽団で行われたが録音は残されていないようで、その後ジダーノフ批判の対象になったために、彼の再演は1960年を待たなければならなかった。

言ってみれば初演時の解釈と当時の政治的な緊張感をイメージさせる貴重な証言でもある筈で、記録的にも貴重である。

最終的にショスタコーヴィチの交響曲の約半数、7曲を初演したムラヴィンスキーは、作曲家晩年の回想では理解していないと非難されたが、作品の普及に大きく貢献したことは事実である。

一方バッハの管弦楽組曲第2番は期待したほどの演奏ではなかった。

弦楽合奏に通奏低音としてチェンバロを加えているが、曲全体の解釈がややロマンティックでフルート・ソロもそれほど巧くない。

オーケストラはライナー・ノーツによればウェーバーの『魔弾の射手』序曲のみUSSR SOの表示があるので、この曲はソヴィエト国立交響楽団らしいが、その他はレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団とのモノラル録音で、バッハは擬似ステレオ化されている。

このバッハとウェーバーの『魔弾の射手』の2曲は演奏終了後に拍手喝采が入っているライヴでそれ以外の総てがセッション録音ということになる。

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classicalmusic at 00:23コメント(0)ムラヴィンスキー 

2017年06月30日


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朝比奈隆にとって、ブルックナーの交響曲は最も得意とするレパートリーで、交響曲全集を3度にわたって録音した世界で唯一の指揮者である。

本BOXに収められた演奏は、1990年代前半に完成させた朝比奈による3度目の全集で、テンポの遅い、がっしりした構成という解釈の基本は不変であるが、方向としてはより純度の高い、無駄のないすっきりとした演奏となっている。

3度目の全集に含まれる演奏は、いずれ劣らぬ素晴らしい名演揃いであるが、その中でも、第3番、第8番、第9番は至高の超名演と言えよう。

朝比奈のアプローチは荘重なインテンポで、曲想を真摯にそして愚直に進めていくというものだ。

スコアに記された音符を1つも蔑ろにすることなく力強く鳴らして、その指揮表現は、良き時代のドイツの音楽を反映したものと言うべく、内声部を重視して響きに厚みと重量感をもたせ、壮大なスケール感を生み出し、いささかも隙間風が吹かない重厚な音楽を構築していく。

その裏づけとなるのが、ひたむきな情熱で、いわば無手勝流の指揮ぶりだが、かえって安定した立派さを生み出すのである。

このようにスコアに記された音符をすべて重厚に鳴らす演奏であれば、カラヤンやチェリビダッケも同様に行っているが、彼らの演奏は、ブルックナーよりも指揮者を感じさせるということであろう。

俺はブルックナーをこう解釈するという自我が演奏に色濃く出ており、聴き手によって好き嫌いが明確にあらわれるということになるのだ。

これに対して、朝比奈の演奏は、もちろん朝比奈なりの解釈はあるのだが、そうした自我を極力抑え、各曲にひたすら奉仕しているように感じることが可能だ。

聴き手は、指揮者よりもブルックナーの音楽の素晴らしさだけを感じることになり、このことが朝比奈のブルックナーの演奏をして、神々しいまでの至高の超名演たらしめているのだと考えられる。

オーケストラの実力はともかくとして、ブルックナーの魂の真髄を表現する演奏という意味に於いて、これほど作為が無い、崇高な演奏は筆者の試聴歴では未だかつて無いものである。

ムーティをして「晩年のカラヤンのブルックナーは神の声がする」と言わしめたが、この朝比奈の至高の超名演もスタイルは違えども、まさしく「神の声」を聴くようである。

しかも、スケールは雄渾の極みであり、かかるスケールの大きさにおいては、同時代に活躍した世界的なブルックナー指揮者であるヴァントによる大半の名演をも凌駕すると言っても過言ではあるまい。

日本の音楽ファンは、自国の指揮者やオーケストラをとかく軽視しがちだが、ここでの朝比奈の指揮ぶりは、その重厚壮麗な迫力と恰幅の良さにおいて際立っており、本場のドイツを見まわしてみても、これだけのブルックナーを振れる指揮者は現今見当たらない。

本全集で惜しいのは大阪フィルがいささか非力という点であるが、全員打って一丸となった熱演であることは疑う余地がなく、演奏全体の評価に瑕疵を与えるほどのものではないと言える。

長年、朝比奈のブルックナーを聴き続け、そのスタイルに慣れてしまったせいもあるかもしれないが、少なくともブルックナーとベートーヴェンに関する限り、音楽そのものを最も堪能させてくれるのが朝比奈であり、他の演奏は指揮者の個性や味つけがチラチラ見え隠れするのだ。

朝比奈の偉大さは、その芸術の完成の道にあってすら演奏ごとに新しい発見をしようとする意欲を持ち続け、それを演奏に反映し続けたことである。

完成期の芸術らしくすべては自然のなかで様々な要素が円満に溶け合い、しかも日々新たなものであろうとする彼の晩年の演奏とそのあり方は、ひとりの演奏家の晩年の理想の姿であったのかもしれない。

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classicalmusic at 00:33コメント(0)トラックバック(0)ブルックナー朝比奈 隆 

2017年06月28日


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独自のリマスタリングで一昨年スタートしたプロフィール・レーベルからのムラヴィンスキー・シリーズの第2集になり、第1集と合わせると都合12枚のCDがリリースされたことになる。

今回は戦後間もない頃の古い音源も多いが、破綻のないまずまずの音響が再現されている。

但し一番新しい1960年から62年にかけてのライヴになるベルリオーズの『幻想交響曲』、ストラヴィンスキーの『火の鳥』そしてR.シュトラウスの『アルプス交響曲』の3曲を含めてここに収録された総ての音源がモノラル録音であることを断わっておく必要がある。

オーケストラは全曲レニングラード・フィルで、この6枚には初出音源は含まれないが25年に亘る一時代を築いた彼らのコラボの歴史を垣間見ることができるシリーズになっている。

曲目はやはりロシア、ゲルマン系の作品が中核をなしているが、CD2ではベルリオーズとビゼーが加わって巨匠のフランス物への解釈も聴きどころのひとつだ。

CD1の『くるみ割り人形』の音質の良さは意外だった。

バレエ音楽からの13曲の抜粋ながらムラヴィンスキーの精緻な表現が活かされた1940年代のセッションとしては貴重な音源だろう。

CD3の『火の鳥』はムラヴィンスキーの絶対的な統率力が示された演奏で、音質も比較的良好だが、最前列の聴衆の1人の咳払いが酷く、緊張感が削がれてしまう嫌いがある。

CD2の『幻想交響曲』、CD5の『アルプス交響曲』は共に異色の演奏で、特に後者はリヒャルト・シュトラウスのイメージしたアルプスの描写とはかなり異なった、殆んど氷河期のアルプスといった峻厳で冷徹なサウンドが聴こえてくるのが興味深い。

ここに描かれているアルプスは1度足を踏み入れたが最後、人間など2度と生きて帰れないほどの厳しい環境を想像させる。

例えば、開始してすぐの「日の出」などはすべての物を一瞬にして焼き尽くすほどの恐ろしい炎を思わせるし、その後の「氷河の上」などは引き裂かれるような響きである。

この演奏が優れたステレオ録音だったら、この曲の他の演奏は存在価値を失っていただろう、そう思わせるほどで、しかも、ライヴということを考慮すれば、まさに空前にして絶後であろう。

このセットでは最も古く唯一の戦前の録音になるのがCD6の『リエンツィ』序曲で、やはりヒス・ノイズと経年による音質の劣化は明らかだ。

第1集と共通のオーソドックスなジュエルケースに6枚のCDが収納されていて、コレクション仕様とは言えないが、新しいリマスタリング盤をリーズナブルな価格で提供しているのがこのシリーズの魅力なので引き続き続編にも期待したい。

ライナー・ノーツは11ページほどで演奏曲目一覧とローター・ブラントによるムラヴィンスキーのキャリアが独、英語で掲載されている。

彼らの代表的録音は複数のレーベルからSACD化されているが、幅広いレパートリーを気取らずに鑑賞できるセットとして、特にムラヴィンスキー・コレクターの方にお薦めしたい。

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2017年06月26日


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このセットでギュンター・ヴァントがミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団に客演した最初のライヴ録音は1993年のシューベルトの『ザ・グレイト』で、この時期は奇しくも彼と同年齢のチェリビダッケが同オーケストラの首席指揮者として彼の最晩年を迎えていた。

ヴァントは北ドイツ放送交響楽団を離れた後、フリーの客演指揮者として遅ればせながらインターナショナルな活躍を始めるのだが、大器晩成というにはあまりにも彼への評価が遅過ぎた感がある。

チェリビダッケが得意としたブルックナーをミュンヘン・フィルの持ち味を活かしながらも、全く異なったアプローチで纏め上げる手腕はヴァント円熟期の至芸という他はない。

リズムを音楽の生命と考えていたヴァントは、リズムの進行を妨げるような音楽の抑揚を避け、更に弦楽とブラス・セクションのバランスが崩れないように絶妙な采配をしている。

それゆえ金管楽器の咆哮によってもたらされる一種のカタルシスこそ望めないが、殆んど究極的な調和に根ざした堅牢な交響曲の再現が聴きどころだろう。

ヴァントは晩年に自身のレパートリーをかなり絞り込んでいる。

この8枚に収録された全曲目がゲルマン系であることも象徴的だが、これらの作品は最近リイシューされたRCAからのライヴ音源33枚でも共通していて、彼の生涯を賭けた課題であったことが理解できる。

勿論ブルックナーだけでなくベートーヴェンやシューベルトを聴いていると、その晴朗さとリズム感を一瞬たりとも失うことのない快活なイン・テンポで貫く解釈の基本が示されていて、その巧妙さに彼の鍛え抜かれたテクニックが冴え渡っている。

ヴァントはマーラーを前述の作曲家達とは同列に扱わなかった。

マーラーの音楽はヴァント自身が言う、自己の世界を超越したところで成り立つ普遍的な音楽とは異なった卑近なもの、あるいは極めて私的な性格が強いものとして捉えていたからだろう。

つまりヴァントのアプローチでは扱い難い代物としてレパートリーから淘汰されていったことが考えられる。

総てがミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団とのライヴ音源で、演奏終了後に客席からの拍手喝采が入っているが、音質は極めて良好で演奏中の聴衆の雑音は混入していない。

クラムシェル・ボックスに収納されたそれぞれのジャケットは洒落っ気のない無地の紙封筒状で、1枚1枚開封する必要がある。

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classicalmusic at 00:55コメント(0)トラックバック(0)ヴァント 

2017年06月24日


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先ず収録曲の音質についてだが、音源はいずれも第2次世界大戦中のものであることを考慮すれば時代相応と言うことができる。

録音方法も使用されたマテリアルも最良とは言い難いが、幸いマスター・テープは破綻のない保存状態で残されていたようだ。

SACD化によって音場に奥行きが出て比較的余裕のある音響が再現され弦の高音にも潤いが出ているが、分離状態に関してはそれほど改善はみられない。

クライマックスの全オーケストラが鳴り響く総奏部分では音割れこそないが団子状態になってしまいそれぞれの楽器固有の音が再生し切れていないが、これはこの時代のモノラル録音の宿命だろう。

併録されている交響曲第7番の第2楽章は更に2年遡る1942年の録音だが、皮肉にもこちらの方が良好な音質が保たれている。

ただし収録は第2楽章アダージョのみで、1949年から51年にかけて彼がベルリン・フィルを振った3回の同曲の全曲録音とは別物で、単独で遺された放送用ライヴ音源のようだ。

幸いどちらも聴衆からのノイズは一切混入していない。

フルトヴェングラーの指揮したブルックナーの交響曲第9番では唯一の音源が1944年10月7日のベルリンに於ける当ラジオ・ライヴである。

このブルックナー未完の大作は終楽章を欠いた形で遺されていて、原典主義を重んじたフルトヴェングラーは、作曲家の書いた楽章以外には何も付け足さずに第3楽章迄で演奏を終了している。

それでもこの曲の演奏時間はトータル57分59秒で、完成していれば彼の交響曲の中でも最大の規模を持った作品になっていた筈だ。

それだけにこの曲の解釈は演奏家は勿論、音楽学者や批評家によって様々で、フルトヴェングラーの遺したこの録音は自己主張が強く、極めて劇的で豪快、振幅の大きい音楽である。

特に曲中でしばしば起こる恣意的で性急とも思えるテンポの変化が現代人の私達の耳にはあざとく聞こえて、この作品ではもっと素朴で端正な表現が望ましいと批判の矢面に立たされることが多いようだ。

それが時代遅れの手法であるか否かはこの際問わないことにして、ブルックナーがオーケストレーションの中に描き出したセオリーとエモーションが高い次元で止揚される壮大な音楽的構想は感じ取ることができると思う。

それはスコアから作曲家の楽理だけでなく宗教観や哲学を読み取る術を知っていた大指揮者ならではの解釈に違いなく、それを敢えて否定する気にはなれない。

従って、必ずしも万人向きの演奏ではないかも知れないが、途轍もない大きなエネルギーを秘めたフルトヴェングラーならではのブルックナーである。

大戦が敗色濃厚になっていたこの時期のドイツでベルリン・フィルを率いてブルックナー最後の大曲を録音すること自体異例な催しとしか考えられないが、ナチによる国民への士気高揚のためのプロパガンダのひとつだったのかも知れない。

ブルックナーの死への恐怖がドイツの滅亡の予感と共鳴しあい、この上ない凄絶な音楽を生み出していて、クレッシェンドとともにテンポが大きく揺れ動き、大きな音楽のうねりを作り出す。

しかも、それは外面的な効果とは全く無縁で、ブルックナーの音楽から決して逸脱おらず、この作曲家にはこうした一面もあったのだと改めて教えてくれる。

フルトヴェングラーにしてみれば自身の確固たる音楽的信念からの選曲だったに違いないが、ナチへの協力者というレッテルを貼られて戦後の一時期楽壇から追放されたのはこうした活動に起因しているのだろう。

しかし敗戦2週間後にベルリン・フィルは逸早く戦後最初のコンサートを開くことになる。

今度はソヴィエトのプロパガンダだったのだが、こうした大きな政治的変遷に振り回されながらも彼らはドイツの文化遺産を絶やすことなく継続していくことになるのは象徴的だ。

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