2017年03月16日


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最近のニコライ・ルガンスキーはそれまでの正確無比なヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのプロフィールから脱皮して、古典的な作品もじっくり聴かせるような音楽的成長を遂げている。

それが前回のシューベルト・アルバムに着実に示されていたが、このセットの前半4枚に収録されたピアノ協奏曲全4曲とオーケストラ付ピアノ作品及びピアノ・ソロでは彼のロシア的抒情と若い頃の典型的なテクニックが発揮された華麗なピアニズムを堪能できる。

ラフマニノフは言ってみれば時代に取り残されたロマン派の残照のような存在で、彼の拭い切れない憂愁を爛熟したロマンティシズムが引き摺るように覆っている。

その作品の演奏には洗練された超絶技巧が欠かせないが、勿論メカニックな技巧だけではその深い情緒を表現することはできない。

ルガンスキーの高踏的なカンタービレとバランスのとれた精緻な表現力は伝統的なロシア派のピアニズムを継承するピアニストだけに秀逸だ。

オーケストラ付の作品はサカリ・オラモ指揮、バーミンガム交響楽団との協演になる。

後半の4枚でルガンスキーが参加しているのはCD5のチェロ・ソナタト短調及び『ヴォカリーズ』のウォルフィッシュによるチェロ編曲版のそれぞれピアノ・パートで、伴奏者としての腕も披露している。

それ以外の3曲の交響曲、合唱交響曲『鐘』、オーケストラ版『ヴォカリーズ』、交響詩『死の島』、歌劇『 アレコ』の間奏曲及びシンフォニック・ダンスはアンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団、同合唱団の演奏になる。

プレヴィン自身やはりロシア系であることからラフマニノフには特別の敬意と情熱があったと思われる。

ラフマニノフのオーケストラル・ワークにはソナタ形式、変奏、フーガ、エスニカルなリズムやメロディーなど多様なエレメントが同居しているが、プレヴィンは幻想的な物語性の表出に優れた手腕を発揮している。

交響曲第2番では習慣的なカット部分を復活させてオリジナル版全曲演奏を定着させたのもプレヴィンの功績だ。

彼はロンドン交響楽団の音楽監督を務めただけでなく1992年からは桂冠指揮者に列せられていて、自在に従うオーケストラとの相性の良さも聴きどころだ。

ただし後半3枚の音質では、この時期のEMIの録音のバランスの悪さが弱点になっている。

19ページのライナー・ノーツには演奏曲目の他にユグ・ムソーによる『失われた楽園への追想』と題されたラフマニノフの作品とその傾向に関する短いが書き下ろしのエッセイが掲載されているが、録音データは各ジャケット裏面にのみ掲載されている。

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classicalmusic at 02:13コメント(0)トラックバック(0)ラフマニノフプレヴィン 

2017年03月14日


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ミラノ・スカラ座はイタリア・オペラの殿堂として200年以上に亘って多くの名作の初演を果たしてきた。

このディスクに収録された序曲、前奏曲及び間奏曲を含むオペラは、レオンカヴァッロの2作品を除いた総てがスカラ座で日の目を見た作品になる。

その殆んどが親しみ易いメロディーとシンプルで明快な和声から成り立っていて、曲によっては馬鹿馬鹿しいほどあっけらかんとしている。

後はカンタービレを縦横に歌わせながら劇的な対比をつけて如何に舞台の雰囲気を高めるかにかかっている典型的なイタリアン・スタイルを踏襲しているので曲自体に深い意味合いを求めることはできないが、歌手達を引き立てるための気の利いたアクセントと言ったところだろう。

しかしイタリアのオペラ作曲家達は劇場という虚構の空間の中でこそ最大限の効果を発揮させる劇場感覚に長けていたことは確かだ。

またこうした短い管弦楽曲を効果的に演奏するには、気前の良い表現とオーケストラをその気にさせるカリスマ的煽動が不可欠になることは言うまでもない。

このアルバムはゲヴァントハウスから故郷に戻ったシャイーの、これから取り組むであろうイタリア・オペラへの軽妙洒脱な指揮法を披露したサンプラー的な1枚だ。

歴代のスカラ座音楽監督を見てみると、トスカニーニ、セラフィン、デ・サーバタ、ジュリーニ、アバド、ムーティ、バレンボイムという錚々たる指揮者がオペラやバレエなどの上演を支えてきたが、今年2017年からはシャイーが就任して奇しくも再びイタリア人の手に委ねられることになった。

現在のスカラ座フィルハーモニー管弦楽団は、それまで劇場附属のオーケストラだった彼らがアバドの提言によって1982年に独立し、オフシーズンに自主的な運営でコンサート活動を行うようになったものである。

とはいえ、それ以前から彼らはワーグナーの楽劇のイタリア初演などでお国物以外の作品にも精通していて、イタリアのオペラ劇場の中でも最もインターナショナルな感覚を持ったオーケストラだったために、古典から現代に至るドイツ、フランス系作品の幅広いレパートリーも受け継いでいる。

ドイツのオーケストラに比べればいくらか線が細く、分厚いサウンドよりも明るく屈託のない表現を得意としていて、このアルバムでも彼らの水を得た魚のような開放的で力強い表現を聴くことができる。

17ページほどのライナー・ノーツには収録曲目と録音データの他に英、仏、独、伊語による簡易な楽曲解説が掲載されている。

音質は極めて鮮明。

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2017年03月12日


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マレイ・ペライアは円熟期に入ってからバッハの作品を集中的に録音し始めたが、このセットに収められた8枚は1997年から2009年にかけてソニーに録音したバッハ・アルバムを纏めたもの。

それらは今月末にリリース予定のアワーズ・コレクション15枚組にも加わる予定なのでバッハ以外の作品も鑑賞したい向きには後者の選択肢があるが、フランス組曲全6曲に関してはグラモフォン音源なので残念ながら組み込まれてはいない。

協奏曲集でのオーケストラは総てピリオド・アンサンブルの草分け、アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズでペライア自身の弾き振りになる。

また三重協奏曲やブランデンブルク協奏曲第5番ではベーム式モダン・フルートとの協演になるが、勿論その場合のソロ・ピアノ、フルート及びバロック・オーケストラとの音量的な問題も巧みにクリアーされていて不自然さは感じられない。

ペライアのバッハはすっきりとした解釈の中に特有の優美さを湛えていて、近年リリースされたさまざまな演奏家のピアノを使ったバッハ録音集では最もエレガントな演奏ではないだろうか。

バッハの鍵盤楽器作品をオリジナル楽器で演奏するのは、今やごく普通のことだが、ピアノならではの魅力を十分に生かしたペライアの演奏を聴くと、この時代にあえて現代のピアノを使ってバッハを弾くことの意味を改めて納得させられる。

ここでのペライアは、独自の自由で歌心に満ちた繊細な演奏をしているが、そこに奇を衒ったところやケレン味はまったく感じられず、まさに自然体のバッハであり、創意工夫に富んだ装飾法も見事で、強いインパクトを与える。

洗練された精緻なテクニックに託されたきめ細かな表現が秀逸で、全く惑いのない安定感も特筆される。

それは彼が長年に亘って温めたバッハの音楽への構想の実現に他ならず、50歳を過ぎて一皮むけたペライアが、新しいバッハ表現の可能性をリスナーに示した名演と言えるだろう。

最近ポーランドの若手ブレハッチのバッハ・アルバムが出たが、聴き比べるとやはり曲想の掴み方や表現の巧みさではペライアに水をあけられていることは否めない。

例えば『イタリア協奏曲』ではレジェロのタッチを巧妙に使いながら声部を明瞭に感知させ、第2楽章での感性豊かな歌心の表出や終楽章の歓喜が高い品位の中に表されているし、『ゴールドベルク変奏曲』では整然とした秩序の中に真似のできない個性的なアイデアが満たされている。

また『イギリス組曲』や『パルティータ』ではバッハによって鍵盤音楽に集約された総合的な音楽性と作曲上のテクニックをペライアが丁寧に聴かせて鑑賞者を飽きさせることがない。

音楽の原点に〈歌〉を置くこの人の哲学が年とともに透明度を増し、同時に深みを加えつつあるのを確認できたことは嬉しい。

今や死語となりつつある「気品」という言葉の真意は、ペライアの演奏するバッハに接すれば、一聴理解されるのではないだろうか。

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2017年03月10日


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巨匠リヒテル圧巻の名演として余りにも良く知られたシューベルトのピアノ・ソナタ第21番変ロ長調は、作曲家の最後を飾る作品のひとつであり、奇しくも彼の人生の終焉を垣間見るような寂寥感がひしひしと伝わってくる。

わずか31歳で生涯を閉じたシューベルトが、このように臓腑を抉るような深淵の境地を自己の音楽に映し出すことができたのはまさに天才のなす業だが、それを直感的に悟って表現し得たリヒテルの感性と技巧も恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。

第1、2楽章をリヒテルは実にゆったりと弾き進み、足取りは滞りがちで鉛のように重く、異常に遅いテンポだが、ほの暗く、不安な気分を強調していて、この曲のもつ微妙なニュアンスを心憎いまでに描き出している。

余韻嫋々で抒情美の極みといっても過言ではなく、その中でシューベルトが背景にくっきりと浮かびあがり、聴く者を魅了する。

第3、4楽章は快いテンポが演奏を支配し、軽快なシューベルトの世界が出現、力のあるピアニストが余裕をもって音楽する楽しみが強く感じられる演奏だ。

また第19番ハ短調ソナタの終楽章ロンドは駆け抜けるようなイタリアの舞曲タランテッラを使っていて、何とも快いリズムに乗って、緊迫した世界が醸し出され、現世の儚さの中に限りない永続性を願っているようにも聞こえる。

また第1楽章では、明と暗のコントラストを巧みに生かしつつ、実にしっかりした構成的なシューベルトを聴かせる。

これらの急速楽章は、弾き手が凡庸だと退屈に感じられるのに、優れた構成家であるリヒテルの手にかかると時間を感じさせない。

シューベルトの演奏としては、きわめてスケールの大きな表現で、剛と柔とを巧みに対比させながら、強い説得力をもっていて聴かせる。

どちらも1972年のザルツブルクにおけるセッションで、第19番は17世紀に建設されたクレスハイム城、一方第21番は19世紀に再建されたアニフ城での録音になる。

リヒテルが都会のコンサート・ホールを避けて、あえて郊外にある閑静な歴史的古城を選んでいるのは、その音響効果だけではなく演奏への霊感を高めるための手段なのかもしれない。

セッションとしての録音活動にはそれほど熱意をみせなかったリヒテルの遺した録音は、系統的に作曲家の作品群を追ったものではないが、ライヴ音源からとなると本人が承認したか否かに関わらず、彼の死後収拾がつかないほどの量のCDがリリースされている。

しかも販売元のレーベルは多様を極めていて、それぞれの音質に関しても玉石混交なのが実情だ。

その中でも録音状態の良好なものは1970年代以降のもので、マニアックなリヒテル・ファンでなければこのアルト・レーベルからの一連のCDがリヒテル円熟期の至芸を極めて良好な音質で堪能するための良い目安になるだろう。

このシリーズはセッションとライヴの両方の音源から採られているが、英オリンピア倒産以降ライセンス・リイシューとしてレジス・レーベルから再発され、廃盤になったものをアメリカのミュージカル・コンセプツ社が英国マンチェスターからアルト・レーベルとして配給しているという複雑な経緯がある。

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2017年03月08日


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ピアノ・ソナタ第13番イ長調でシューベルトはおよそソナタ形式を展開させるには不適当と思われる長い歌謡調のメロディーを主題に持って来ている。

それはベートーヴェンの小さなモチーフが曲全体を構成して堅牢な楽曲を作る方法とは明らかに異なった作法を試みたと言わざるを得ない。

シューベルトのそれは美しいメロディーが走馬燈のように移ろい再び戻ってくる。

各楽章間のつながりも一見密接さを欠いた、取り留めのない楽想の連なりにさえ感じられる。

しかしリヒテルはそのあたりを誰よりも良く心得ていて、こうした長大な作品に冗長さを全く感じさせない、恐ろしいほどの冷静沈着さと集中力を持って曲全体を完全に手中に収めてしまう。

リヒテルはもうこれ以上遅くはできないというぎりぎりのところまでテンポを落とし、しかも音色美に過剰に依存することもせず、感情表出の深い境地に静かに分け入ってゆく。

特有のカンタービレからは喜遊性を退けて、その喜びは沈潜してしまう。

こうした込み入った表現を可能にしているのは、円熟期のリヒテルの内省的な深い思考をシューベルトの音楽の中に反映させ得るテクニックの賜物に違いない。

ここではひたすらシューベルトの音楽に沈潜した大家の、年輪を経た円熟した肉声が語りかけてくる。

もともと、人知れずシューベルトをこつこつレパートリーにしてきたリヒテルだけに、その精神世界の深みが素晴らしい。

このディスクのソナタでは、決して派手ではないが、淡々とシューベルトならではのデリカシーの奥底まで案内してくれる。

特に、ピアノ・ソナタ第14番イ短調はリヒテルの唯一の録音で、彼の数々の演奏の中でも傑出している。

音の表層をなぞるだけでは決して表現し得ない世界であり、こういう演奏を聴くと、リヒテルがなぜ巨人であったかが分かろうというものだ。

即興曲第2番と第4番は、ところどころにあらわれるシューベルトならではの孤独感と哀感を、繊細に表現していて聴かせる。

ともすると平凡になってしまうこれらの小品も、リヒテルの手にかかると精神的に深い音楽となってしまうから不思議だ。

このCDに収められた4曲はいずれも1979年に行われた東京でのライヴから採られていて、会場の緊張した雰囲気がよく伝わってくる演奏で、録音状態と音質の良さでは群を抜いている。

だが版権の関係か、あるいは日本のメーカーが興味を示さなかったためか、アメリカのミュージカル・コンセプツ社が英国マンチェスターから配給しているマイナー・レーベル、アルトが細々とリリースしているのが惜しまれる。

音源は英オリンピアのライセンスだったが、同社倒産の後は英レジスが引き取り、更に廃盤となったものをアルト・レーベルから再発しているという複雑な事情がある。

しかし皮肉にもリヒテル円熟期の至芸を堪能するのにこれら一連のCDが非常に高い価値を持っていること自体、意外に知られていないのが実情だ。

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2017年03月06日


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シューベルトのピアノ・ソナタは実際にコンサートで取り上げられる機会がそれほど多くない。

中でもこの東京公演で演奏された第9番ロ長調D.575及び第11番へ短調D.625は特別なチクルスでもない限りその魅力に触れることは皆無に近い。

これらの曲は牧歌的な素朴な響きと親密な雰囲気を持っているが、いわゆる弾き映えのしない曲なのでリヒテルがこの録音を遺してくれたことは幸いという他はない。

同時代のウェーバーも歌謡調の旋律を多用したピアノ・ソナタを書いているが、彼は誰よりも劇場に生きた作曲家らしくピアニスティックな華麗な技巧を前面に出してオペラ風の起承転結を明快にしているのが対照的だ。

その点シューベルトはソナタ形式により忠実で、思索的な音楽語法に秀でている。

リヒテルのシューベルトを聴いていると時間が経つのを忘れてしまうほど、率直にその純粋な魅力に引き込まれるし、また彼がこうした野心的でない曲をレパートリーにしていたことにも興味が惹かれる。

それは彼が如何にシューベルトの音楽観に共感を得ていたかの証明でもあるだろう。

なかば忘れられようとしているシューベルトが20歳頃に書いた慎ましい2曲から、リヒテルは豊かな情趣を引き出し、音楽の楽しみを心得た人の心には何の拘りもなく素直に入り込んでくる演奏だ。

リヒテルはモンサンジョンのドキュメンタリー『謎』の中のインタビューで「シューベルトは誰も弾かないが、私自身が楽しめるものなら聴衆にもきっと楽しんでもらえる筈だ」と語っている。

例によって緩急自在に弾きわけながら、音楽の流れは自然で、しっとりとした情感に満ち、心の底深く訴えてくる。

尚第11番は第3楽章が完全に欠けた未完の作品で、バドゥラ=スコダなどによって補筆された版もあるが、リヒテルはこのソナタが作曲された1818年に単独で書き遺されていた『アダージョ変ニ長調』D.505を当てていて、作品としての問題点を感じさせる以前にある真実の表現をもった音楽となっている。

またこのCDには他に『楽興の時』D.780より第1,3,6番がカップリングされているが、リヒテルの演奏の凄さを示している。

シューベルトの小品に対し、楽しさに溢れたロマンティックなものを求めがちだが、そういう常識を覆す演奏で、リヒテルの手にかかるとシューベルトの孤独の魂、哀しみの深さがしみじみと滲み出てくる。

小品であっても、彼の眼差しは作品の底まで射抜いているかのようだ。

いずれも1979年に東京文化会館、NHKホール及び厚生年金会館ホールで催されたコンサートのライヴ録音で音質はきわめて良好。

東京でのコンサートからの一連の音源は優秀なものだが日本からはリリースされておらず、現在では外盤を調達するしかないが、このアルト・レーベルからはリヒテルのシューベルトのソナタ集だけでもライヴ、セッションを含めて既に3枚出されている。

ライセンスは総て英オリンピアが持っていたもので、同社倒産以降はレジス・レーベルが引き取り、その廃盤に当たってアメリカのミュージカル・コンセプツ社がマンチェスターからアルト・レーベルとしてリイシューしている。

このシリーズのライナー・ノーツは見開きの3ページで英語のみ。

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2017年03月04日


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巨匠リヒテルがオイロディスクに遺した1970年から83年にかけてのセッション録音をまとめたもの。

ファースト・リリース時のカップリングとオリジナル・ジャケット・デザインを採用してリマスタリングされた14枚のCDセットになる。

このために収録曲数のわりにはCDの枚数が多く、また初出音源こそないが、彼の演奏の中でも伝説的でさえあるクレスハイム宮殿でベーゼンドルファーを弾いたバッハの『平均律』全曲やシューベルト後期ソナタ2曲など、ユニヴァーサルからの51枚組には入っていないものばかりで、彼の最も充実した演奏の記録として本家からのリリースは歓迎したい。

尚個別購入の選択肢としては英オリンピア、レジスの版権を引き継いだ米ミュージカル・コンセプツ社がマンチェスターからアルト・レーベルとしてそれぞれライセンス・リイシュー盤のリリースを続けていて、ここに収録された殆んどのレパートリーをカバーしている。

また、リヒテルのセッションの中でも最高傑作との名高い『平均律』に関しては日本盤SACDも入手可能だ。

リヒテルは生涯に亘って枚挙に暇がないくらい様々なレーベルに録音を遺している。

メジャーなところではドイツ・グラモフォン、フィリップス、デッカ、RCA、コロンビア、EMI、エラート、テルデック、オイロディスクなどだ。

ロシアでは先般集大成されたボックス・セットでも明らかなようにメロディアにも膨大な音源があるし、ライヴに至っては録音嫌いだった彼が望むと望まざるとに拘らず、演奏会場には常に録音機材が持ち込まれ、収拾がつかないほどの量の音源がCD化されてきた。

このセットにはドイツ系作曲家のレパートリーを中心にショパン、ラフマニノフ、チャイコフスキーの作品が収録されていて、いずれも彼の音楽性が最高度に発揮された演奏を良好な音質で鑑賞できる。

宮殿内部で録音されたものは潤沢な残響が含まれているが、彼が都心のコンサート・ホールを避けて、敢えて郊外の閑静な歴史的宮殿を選んでいるのは、その音響効果だけでなく演奏への霊感を高めるための手段だったのかも知れない。

CD6ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第27番とCD12ショパンのスケルツォ第1番にヒスノイズが入っているのが残念だが、おそらくマスター・テープに由来するもので敢えて除去しなかったと思われる。

追記 ノイズの入ったCDについて、こちらからコンプレインを出すまでもなく購入先のドイツjpcからノイズのない4枚のCD(6,8,10,12)が無料で送られてきた。

もしノイズ入りのCDが含まれていた場合は交換可能のようだ。

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2017年03月02日


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ルソーが言語の起源と本質を論じた著作。

言語の本質とは情念の表現にあり、もとは言語と音楽の起源は同一であったという。

言語の起源と変遷、諸言語の地理的差異、音楽の起源、旋律、和声の原理と歴史が分析され、南方と北方の言語の抑揚の相違、言語の現状が言語の変遷といかに関係しているかなどが論じられる。

学生時代単行本で初めてこの作品を読んだ時にはギリシャ、ローマの古典に疎かった筆者は引用の多さと原注を調べることに辟易しながらも、ルソーらしい確信に満ちた論法に興味を惹かれ、彼の思考回路と好奇心を刺激する破天荒の人となりに大きな魅力を感じた思い出がある。

増田氏の訳出によるこの文庫本は平明な口語体で、原注と訳者による訳注がそれぞれの短い章ごとに並列されていて、一般読者のためのより良い理解への便宜が図られている。

ただしルソーの他の論文と同様、当然当時の第一級の教養人を読者に想定して書かれたものであるために、その文学的醍醐味を味わうにはある程度の古典の素養が欠かせないことも事実だ。

ここでも彼が有名な『ブフォン論争』で展開した、殆んど独善的だが豪快な論陣が張られている。

また彼は自分に敵対する人々を常に意識していて、そうした陣営への痛烈な揶揄や時として罵倒も辞さない。

気候が温暖で潤沢な食物に恵まれた地方の人々の最初の言葉は最初の歌であり、一方厳しい気候の北方の民族のそれは相手を威嚇するために鋭い発音になったという論法は、現代の言語学の到達点からすれば観念論の謗りを免れない。

専門分野の資料を欠いていた彼の時代の研究は確たる物的証拠に基いたものではなく、頭脳を駆使して構築されたファンタジーの域を出ない産物だからだ。

しかしながらルソーの思考方法に現代でもその価値を認めるとすれば、むしろそれは彼が古典文学、歴史や地理、文化風俗から哲学、物理、音響学に至るまでの当時の百科全書的な広範囲に亘る知識を総動員して考察しているところである。

すなわちその時代に知り得た総ての知見を総合する術こそ、余りにも細分化され異なった専門分野のミクロ的分析に成り下がってしまった現代の科学に本来の研究方法のあり方を実践してみせている。

そうしたことからもルソーはまさに近代啓蒙思想の元祖的な存在と言えるのではないだろうか。

後半第12章からは話が音楽に移り、彼の論敵である作曲家ラモーへの鋭い攻撃が展開される。

ラモーは既に彼の著書『和声論』で旋律に対する和声の優位を説いているが、ルソーはこれに真っ向から対立し、言葉に源泉を持つ旋律の方に絶対的価値を主張している。

そこで喩えに用いられているのが絵画でのデッサンと色彩で、当然彼はデッサンを音楽の旋律に喩え、色彩を和音に置き換えて論証している。

そして和音が理論化されてしまったために、その進行が逆に旋律を制限し、本来の音声言語の持っている精神的力強さが失われてしまったと説く。

彼の論法では色彩の理論だけでは絵画は成り立たないのだが、それは印象派以後の絵画の傾向を見るなら一概に頷けるものではない。

しかしながら自然界に存在する倍音列とは異なった音律で和声を創り上げた和声法とそれに縛られた旋律は、確かに本来の力強さを失ってしまったのかも知れない。

最後には言語起源論からフランス絶対王政反対に導くルソーならではの強引で飛躍的な帰結も痛快だ。

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