2007年11月03日


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ナチス時代のフルトヴェングラーに関しては、ヒンデミットやベルリン・フィルのユダヤ人メンバー(例えば当時のコンサート・マスターであるシモン・ゴールドベルクら)の擁護という面のみが取り上げられ、フルトヴェングラーをナチス時代の「受難的英雄」に仕立てあげる傾向が強い。

確かに最近までの研究では、フルトヴェングラーがナチス時代に迫害された人々を援助して救い、反ユダヤ主義と戦い続けたことを明らかにする。

しかし、ヒンデミット事件以降彼がナチスに屈して、むしろ積極的にナチスの意向にそって(少なくとも客観的に判断すれば)活動した時期の足跡を問題とすべきであろう。

この時期のフルトヴェングラーの姿はある意味では悲喜劇であるといってよい。当人は大まじめにドイツのよき伝統、すなわち教養市民文化を守る闘いを行ってるつもりで、その実最もナチス・ドイツの文化政策に迎合する活動を遂行してしまっているのである。

そして少なくともフルトヴェングラーに、そうした自分の客観的役割に関する認識が、彼の遺した著作からはほとんどうかがえないことが悲喜劇たることの性格を一層強めているのである。

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19世紀以来の教養市民文化は、「精神」や「内面性」や「生」といった決まり文句を連ねながら一個の自足した文化空間を作り上げた。

それは近代文明やそれに帰属する民主主義、科学技術、、社会構成体の実証的・実践運営のための統治技術といったものを全て俗悪なもの、程度の低いものとして退ける。

そして自らの世界の「崇高さ」を誇るのである。しかしそこにはひそかにドイツにおける近代啓蒙主義の機能不全がもたらした歴史的歪みが、一種のルサンチマンを併って作用している。

それが反啓蒙の意志であり、世界観政治のドグマであり、反政治的革命の夢想に他ならなかった。

そこにナチス・ドイツのデマコギーがゲルマン・ナショナリズムの神話的熱狂というスタイルをとって介入するとき、そうした反啓蒙主義のポテンシャルな教養市民文化の見かけの「良識性」を打ち破って噴出するのである。

人格陶治も美的教育(感情教育)も、こうした暴力的噴出には全く無力であった。否、無力であるどころか、どこかでそうした暴力の共犯者と化していった。(このことは議論する余地があるゆえ、あえて人名は挙げないことにする。)

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2007年11月02日


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10年ほど前の「文芸春秋」で、ある作家が取り上げていたが、戦後ナチス・ドイツの犯罪をめぐって、トーマス・マンとフルトヴェングラーのやりとりがあったことは有名な事実である。

そしてそれは、19世紀以来ドイツ教養市民文化の在り方がナチス・ドイツの犯罪に対してどのような責任を負っているかという認識をめぐる、極めて重要なやりとりであった。

フルトヴェングラーはマンとの親交を回復すべく書簡を送り、その中でナチス・ドイツがドイツの精神伝統においては一種の突然変異にすぎず、ナチス・ドイツによっては決してよきドイツの精神伝統は傷つかないという意味のことを書いている。

それに対してマンは、すでに彼がアメリカで行った『ドイツとドイツ人』という講演にも展開されている認識、すなわち「詩人と哲学の国」ドイツの精神こそがナチス・ドイツを生み出す元凶であったという厳しい認識を示し、かつフルトヴェングラーにもナチス・ドイツに対する連帯責任があるということを指摘して、フルトヴェングラーの親交回復の申し入れをはねつけたのであった。

マンの議論はマルティン・ルターに起源をもつ「ドイツ的内面性」こそがナチス・ドイツの破天荒な暴力性の最も深い源泉であったというところから始まる。

内面的なるものが常に全一的な全体性の一挙的実現を目指すという積極的な意味と、内面的なるものがもたらす非政治性が現実政治をチェックするという機能を失い、一種のイノセンスに陥ってしまうという消極的な両面において、「ドイツ的内面性」はナチス・ドイツ的な暴力性の源泉となったというのである。

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フルトヴェングラーの教養形成期は、ちょうど第二のロマン主義運動ともいうべき表現主義運動の時代であったが、彼にはそれから影響を受けた形跡はみられない。

むしろ、その後に来る、ゆりもどしとしての新古典主義運動としてのノイエ・ザッハリヒカイトの方がフルトヴェングラーに大きく影を落としている。

そしてそうした流派の影響をあれこれ詮索する以上に、私たちはフルトヴェングラーの音楽の論理の中にある感性的、情念的なもの、もっと正確にいうならば、「生の盲目的意志の力動」とも呼ぶべきもの(しばしばドイツ語で「デモーニッシュ」と呼ばれるもの)の噴出と、それを統御し、形象化し、昇華する理性的なものの働きの間の絶妙なバランスに着目すべきである。

生きた形式の有機的全体性がフレージングやテンポのふくらみを確固として支えていることから生じる彼の演奏の安定感こそ、私たちがフルトヴェングラーの表現において、最も評価するべきものだろう。

フルトヴェングラーの音楽の論理は、そしてそれを支えている精神の内面性は、それ自体としては極めて純粋な、そして質の高いものであったといってよい。

ただここで一点付け加えておかねばならないのは、そうした音楽の論理の水準の高さが、全体として19世紀以来の教養市民文化の文脈の中に潜む、反啓蒙的対抗性の位置づけられたとき、別の意味を帯びてしまうことである。


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2007年11月01日


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フルトヴェングラーというとロマン主義者の旗頭のように思われがちだが、ロマン主義というのは内容が形式を上回り、やがて形式破壊につながってゆく傾向をもつ。

フルトヴェングラーのバッハやモーツァルトを聴くとそう思われるのも無理はないが、彼はいつも全体の造型、形式を強固に把握する芸術家であった。すなわち古典音楽を守る者であった。

ブルーノ・ワルターなども同様で、彼等がどれほどテンポを動かし、人間的な音のドラマを付け加えようと、それは一つのデフォルメに過ぎない。

むしろ、初めから古典的な形式感覚を欠いていたクナッパーツブッシュこそロマン主義者の肩書きに相応しいのであるが、それはフルトヴェングラーとクナッパーツブッシュのワーグナーとブルックナーを比較すれば理解されるところで、フルトヴェングラーの表現は常に古典形式に立脚していた。

(注)ブルーノ・ワルター(1876〜1962)ドイツ生まれ。アメリカの名指揮者。モーツァルト、マーラー作品を得意とした。著書『主題と変奏』など。



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成長する環境においても、フルトヴェングラーは正しく教養文化の申し子であったといってよい。

著名な考古学者アドルフ・フルトヴェングラーの息子として生まれたウィルヘルムは、当時の上流市民の例に倣って学校ではなく、家庭教師によって教育を受けた。そして音楽ももちろんだが、文学、美術、スポーツ等の幅広い分野にわたって人文主義的教養に基づく陶治をうけたことが、彼の精神のバックボーンを形作ることになる。

こうした教養市民文化との関わりの中で形成されることになるフルトヴェングラーの音楽の論理の特質は、作品を「有機的なるものの生成」として捉えるところに最も良く現れる。

そこに窺がわれるのは、「内面的なもの」の相関において捉えられる作品内部の形成意志の自律性の重視であり、作品に体現される統一的(有機的)な全体性、すなわち精神としての全体性に他ならない。

この精神空間としての作品の全体性は、一方において表現者の内面性に直接つながるとともに、他方では、形式の明澄性を通じて外に向かう表現としての普遍性を獲得する。

晩年のフルトヴェングラーが言った、「形式は明確でなければならない。しかし炎が、炎の核があって、この形式を隈なく照らさねばならない。」の両義性とは、正しくこうした作品の全体性の最も充足した現在のありさまを指し示している。


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2007年10月31日


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例えば、ベートーヴェンについて彼の著書『音と言葉』(新潮社版)の中で次のように述べている。

「あの嵐のただ中、あの怖るべき感動のただ中においてすら、― なんという鋼鉄のような冷静と透徹、なんという仮借のない自己抑制への意志、あらゆる素材をその最後のどんづまりまで押し詰めて形成せずにおかぬ意志が支配していることか!なんという比類のないすぐれた自己鍛治であることか!― このような無条件な情熱の中へ突入する欲望を持ち合わせていながら、― しかも彼のようにかくも深く「法則」を体験した芸術家は、かつてあった例がありません。」

フルトヴェングラーにとって、ベートーヴェンがかけがえのない存在であったことをまず思い起こさなくてはならない。今触れた19世紀教養市民文化の聖なるシンボルとなったのは何よりもゲーテであり、シラーであり、そしてベートーヴェンであった。

というのも、彼らの芸術の中に孕まれている形式と内容(精神)の調和、市民的公共性と内面的なものの融合、そしてそうした調和、融合の核をなす自己陶治=教養の要素といったものがそのまま教養市民文化の基底をなしているからである。


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