2007年10月12日


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そもそも民主主義の発展が求められる現在及び近未来において、絶対権を持った指揮者そのものの存在が時流に反することは明らかである。

カラヤンの後にベルリン・フィルの音楽監督に就任したクラウディオ・アバドみたいな露骨な失敗例は非常に残念だが、現在第一線で活躍している指揮者たちは、いかにも小粒というか、テクノクラート(技術官僚)のような印象を与える。

ことに前世紀後半頃になって、世界中の競合オーケストラは、テクノクラート集団による集中管理のもとにある様相を呈している。つまり、世界中の有力指揮者たちは自らの本拠地となるオーケストラやオペラハウスの音楽監督を在任しながらも、それぞれどこか別のオーケストラやオペラハウスに度々客演して稼いでいる、といった仕組みなのである。

そういう状況に異を唱えるがごとく、アメリカの指揮者ジェームズ・レヴァインのように、指揮者が旅行人間と化しているこういった仕組みこそが、音楽自体をつまらなくしていると主張し、最近の彼はメトロポリタン歌劇場に腰を落ち着けて活動している指揮者もいる。

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2007年10月11日


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しかし現在、彼らのようなクラシック音楽界のスター的存在は皆無に近い(人によってはサイモン・ラトルとかニコラウス・アーノンクールがいるではないか!と主張する人もいるかもしれないが)。

やはりこれだけ社会構造が多様化し、複雑化し、高度化するにしたがって、指揮界の巨匠を阻む力は増大するものなのだろうか。

私が今最も注目している現役の指揮者はピエール・ブーレーズである。彼は鋭敏な耳で、スコアを明晰に音にする技術は卓越している。得意のフランス物やストラヴィンスキー、バルトークにも傾聴させられる。ただカリスマ的なスター性に不足を感じさせるのである。

それはブーレーズだけでなく、そういった性質を感じさせるタイプの指揮者が多くなったのは、戦後になって指揮者たちに求められる絶対的な専門技量が、音楽的な部分よりも、人間性や度量や政治性といった音楽以外の部分により問われるようになってきているためと考えられる。


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classicalmusic at 20:10コメント(0)トラックバック(0)ブーレーズ 

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フルトヴェングラーの後にベルリン・フィルを引き継いだ、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908〜1989)は、純粋に彼の音楽性云々、音楽的側面だけでは語ることのできない次元でマス・メディアを揺り動かす、強力な政治的存在だった。

彼の芸術性を云々する以前に、彼とベルリン・フィルの存在それ自体が西欧文化の優位性の象徴だったのである。

特に、彼の活躍した時代は、大衆のニーズが途方もなく拡散してく情勢にあったので、彼の使命は大衆をクラシック音楽に注目させ、ビジネスとして確立することであった。

そして「カラヤン美学」称される、近代的で普遍的な魅力をもつオーケストラ美学を確立し、幅広いレパートリーの全てにわたって第一級の名演を聴かせ、世界の音楽ファン層を拡大し、前世紀の音楽界に多大な貢献をした。

カラヤンの演奏を「体の良い通俗化」という輩もいるが、そうではない。

また彼は決して単に大向こうをうならせる効果を知っている芸人であるのではなく、作品の価値を正しく表現し、精神的な内容を聴衆に伝え得る大芸術家なのである。

カラヤンの芸術性については多くを論ぜられたが、ここではその点に立ち入ることは控えたい。

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2007年10月10日


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突然マーラーの話題に触れたのは、時代の好尚がフルトヴェングラーの生存時(1886〜1954)とは別の方向に向かっていったからである。

彼の生きていた時代は、吉田秀和氏の表現を借りれば、ベートーヴェンが太陽のような中心的位置を占め、その周りをシューベルト、シューマン、ワーグナー、ブルックナー、ブラームスといった天才たちが、惑星のごとく回転しながら輝かしい音楽の体系が形成がされるといった認識が正統とされていた。

しかし、前世紀後半から、俗に「マーラー・ブーム」といわれたように、かつてのベートーヴェンの「第5」シンフォニーが、コンサート会場においてもレコードにおいても、高い人気を誇っていた時代は過ぎ去った。

「苦悩から歓喜へ」もうそういう風に素直に感動しきれなくなったのが現代人なのかもしれない。筋書き通りのドラマは現実感を覚えない人が増えているのだろうか。

とはいえまだ新たな時代の好尚が造られているとは言いがたい。


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前世紀の中頃あたりから、グスタフ・マーラーの弟子である、ブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーといった指揮者がまずマーラーの音楽を度々演奏会に取り上げ、1960年に至ってから、レナード・バーンスタインというマーラーの使徒というべき指揮者が聴衆を啓蒙していった。

マーラー当の本人が彼の晩年の作品は演奏不可能ではないかと危惧していたというが、現代の演奏技術の進歩によって、水準以上のオケなら苦もなく演奏することができる。楽員の中には「マーラーが古今東西全ての交響曲の中で最高だ」とのたまう輩もいる。

しかしそのマーラーに於いても、心底感動できる演奏は少ない。最近で出色は小澤征爾指揮サイトウ・キネンの「復活」、ケント・ナガノの「千人の交響曲」くらいであろうか。期待していたマーツァル指揮のチェコ・フィルには、美麗ではあるが深みが感じられなかった。

私はマーラーの音楽は複数意識同時進行音楽だと感じているのであるが、そういう音楽をありのままに表現するには、指揮者には経験を持つマエストロで、マーラー演奏の伝統があるオーケストラを要求する。

マーラーの苦手な指揮者は技術的進歩によってただ正確にスコアを音にすることはできても、作曲者の突然の気分の変転、ある時躁状態になったら、次の瞬間鬱になる、その突然の変転についていけてないのかもしれない。

マーラーのオーケストレーションは卓越してるので、ただ鳴らせば、それなりの充実感は得られるものの、より深く聴きこみたいのはファンの偽らざる心情だ。

入門としてはワルターの「巨人」(コロンビア交響楽団のがベスト)。極め付きはワルターの「大地の歌」(デッカの52年盤)。全集ならバーンスタインの新盤。勿論他にも名演奏は事欠かないが、後日触れることにする。

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classicalmusic at 08:53コメント(0)トラックバック(0)マーラー 

2007年10月09日


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たとえ私のようなクラシック音楽狂の人間であっても、世間一般の人々が岩波の青本を読む気を起こさないように、何もワーグナーの楽劇の大作とか新ウィーン楽派の難解な音楽を聴いておかなければならぬ、といった考えは毛頭ない。

確かに現代は働くのが精一杯(特に日本人は)な我々の周囲から何かと「意味」と呼ばれているものが急速に抜け落ちてしまっている時代といえる。

とはいえ芸術のなかに日常生活から想像もつかない不可思議な「意味」を見い出そう、または追い求めようと努める者にとってみれば、現実の日常生活においては、重厚な発想に裏付けられた「意味」から重さがなくなり、軽薄なものしか見当たらないと断定したくなる気持ちにならざるをえない。

新世紀を生きていく上で、常に変わらざるものを問い続ける姿勢を保ち続ければ、周囲から違和感の目を持たれかねないが、個々の現象的なものからより真なるもの、究極的なものに思惟が向かうならば、自らを取り巻く世界の出来事を「意味」付けすることによって価値を問わねばならないという思いに至るのである。

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classicalmusic at 23:28コメント(0)トラックバック(0)筆者のこと 

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それにしてもクラシック音楽を聴く人が少ない。がぜん少数派である。

私は早大時代有志とさんざんあれこれ思案してポスターを作って、学内に張りまくったのだが、集まらないこと夥しいのだった。

もっとも「フルトヴェングラー研究会」というサークルの名前そのものがまずかったのかもしれない。ちょっとイデオロギーがかってると誤解する人もいるのかもしれないし、実際私の知っている教授はフルトヴェングラーをナチだと決め付けてかかってくるのもいた。

フルトヴェングラーとナチスとの関係については、いずれ詳細に述べようと思うが、フルトヴェングラーが戦後裁判にかけられた時にユダヤ系のユーディー・メニューインが強力に援助の手を差し伸べたことや、彼が戦後シカゴ交響楽団に招聘された時に、多くのアメリカで活動している音楽家たちが反対運動するなか、同じくユダヤ系のブルーノ・ワルターが賛成したことからも、フルトヴェングラーの良心は明らかであるとだけここでは述べておく。

話は戻るが、クラシック音楽は古典である。それゆえ何か特別の縁がない限り、一生触れないことがあっても不思議ではない。私としてはこんなにもったいないことはないと思うのだが…。嘆いてばかりいても仕方がない。私がブログを立ち上げる意味もまさにそこにある。

クラシック音楽に少しでも興味のある方が、上記のCDを縁にクラシックを聴いてみたいと思っていただければ幸いである。

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classicalmusic at 06:48コメント(0)トラックバック(0)筆者のことフルトヴェングラー 

2007年10月08日


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演奏家はどんな音楽でも、自らの感覚と精神を通したうえで全体を把握し、細部を創り上げてゆかねばならない。クラシック音楽は様式と精神の芸術だからである。

しかし、様式という合理的なものは、あくまで音楽の筋骨であり、精神が生み出すドラマという形而上のものが秘められているからこそ、音による造形の積み重ねが、緊張と明晰さを保ちながら感動的な芸術となるのである。

演奏家のテクニックと表現力は、そういった意味で、自らの個性を音楽に生かすためにあるのだと言わねばならない。

そしていかなる音楽もまず自分の内面で見つめ、自分の納得した表現によって、演奏する態度は、演奏家としての自覚と良心に基づくものに違いあるまい。

音楽評論家を「馬鹿」呼ばわりするフジコ・ヘミングさんもちょっとその辺のところを理解してもらわないと…、大味と評されても仕方がないでしょう。

私は様式の枠いっぱいに演奏者の豊かな個性が充満する演奏を、今は亡き名演奏家たちの遺産からではなく、いま時代を共有しているアーティストから享受したいのである。


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