2007年10月

2007年10月31日


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例えば、ベートーヴェンについて彼の著書『音と言葉』(新潮社版)の中で次のように述べている。

「あの嵐のただ中、あの怖るべき感動のただ中においてすら、― なんという鋼鉄のような冷静と透徹、なんという仮借のない自己抑制への意志、あらゆる素材をその最後のどんづまりまで押し詰めて形成せずにおかぬ意志が支配していることか!なんという比類のないすぐれた自己鍛治であることか!― このような無条件な情熱の中へ突入する欲望を持ち合わせていながら、― しかも彼のようにかくも深く「法則」を体験した芸術家は、かつてあった例がありません。」

フルトヴェングラーにとって、ベートーヴェンがかけがえのない存在であったことをまず思い起こさなくてはならない。今触れた19世紀教養市民文化の聖なるシンボルとなったのは何よりもゲーテであり、シラーであり、そしてベートーヴェンであった。

というのも、彼らの芸術の中に孕まれている形式と内容(精神)の調和、市民的公共性と内面的なものの融合、そしてそうした調和、融合の核をなす自己陶治=教養の要素といったものがそのまま教養市民文化の基底をなしているからである。


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ここで一応便宜的に彼の音楽表現を「内的側面」と「外的側面」に分けて考えてみたいと思う。

「内的論理」というのは、フルトヴェングラーの音楽の内在的な論理とそれを支える彼自身のそうした論理の意味付けの仕方を意味し、「外的側面」は、フルトヴェングラーの体現する音楽の論理が当時の時代状況の中で帯びなければならなかった社会的、歴史的文脈を意味する。

「内的側面」からみたとき、フルトヴェングラーの音楽の論理は19世紀の教養市民文化の最も良質な伝統につながるものとみることができる。

すなわち、19世紀の教養市民文化の興隆に一方では支えられつつ、他方ではそうした近代市民社会の「啓蒙」的性格への対抗的原理としての「内面性」や「文化」、精神の「真性さ」への志向をその中に含む、近代ドイツ特有の精神文化のスタイルとしての教養市民文化こそが、フルトヴェングラーの音楽の前提であった。


(注)「真正さ」…フルトヴェングラーは、批判的な自由な思想態度が確立し、普及した文化のなかにあって、「芸術作品とは閉ざされた世界、他に依存しない世界であり、開かれた世界、つまり評価する知性の世界は、すぐれた芸術作品の価値を正しく把握しえない。」と考えていた。


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2007年10月30日


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改めて、フルトヴェングラーが20世紀ドイツの指揮芸術の頂点に立つ存在であることは、誰しも否定できないであろう。

彼が指揮するベートーヴェンの音楽が言葉の真の意味での「崇高さ」の表現であることは疑いの余地がない。

しかしフルトヴェングラーのこうした「崇高さ」も、歴史的にみると近代ドイツの芸術=美がいかなる性格を帯びなければならなかったのか、という問題に対する最も典型的な例証としての意味が含まれている。


(注)「崇高さ」…ここでは、フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンが、驚異・畏敬・偉大・壮大などの感動を呼び起こす、という意味で使用している。

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私の印象では、一般的に有機的な統一を有する作品は、精神性と結びつけて考えられ、全体形式が素材の有機的発展に基づかない作品は、音を響きそのものとして捉える。

フルトヴェングラーの言葉で言うなら、物質的な姿勢において、把握されるという傾向がある。しかし、全体形式がどうであるかということと、作品の表現内容がどうであるかということとは切り離して考えるべきである。

有機的統一を保ちながらも精神性を求めないサウンド重視の音楽も有り得るだろうし、部分と全体が緊密な連関性を持たない形式をとりながら、精神性を追求している作品も存在しうるからである。

フルトヴェングラーが亡くなった、すぐ後には彼の現代音楽へのアプローチは確かに時代遅れになった。

しかし、もし彼が今生き返ったとしたら、不毛以外の何物でもないと当時思われた(精神的だが)非有機的な統合に基づく作品において、彼はどんな演奏を聴かせてくれるのであろうか。

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2007年10月29日


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しかし、フルトヴェングラーの限界として、12音音楽があったことは想像に難くない。なぜなら、その後の音楽発展は、彼の音楽思想を完全に拒絶する方向に進んでいったからである。

彼の信じる作品にイデーを求める音楽観は、数理的操作に基づく作曲法や「開かれた作品」には通用しない。フルトヴェングラーは無論そのことを感じ取っていた。

「それまでの音楽の発展は、有機体としての全体が不可欠であるという、自明と見做される前提のもとに進行していた。」

あらゆる個性の素材的効果、すなわち物質的なものそれ自体への礼讃が、有機的秩序をもたらす個性の破壊した。無調性は音のため、無調性それ自身のために展開されてたのであり、「人間は忘却されたのである。」「シェーンベルクへの歩みは歴史との最初の、真の決裂である。」

そこにおいては、音楽そのものの意味もまた変化した。有機的に生長した音楽的な「全体」が必要であるという感情は破壊された。小部分を規定するのはすでに全体ではない。

フルトヴェングラーは、進歩の思想、「是が非でも新しいものをつくらなければならぬという妄想」がこの変化をもたらしたという。

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そういうフルトヴェングラーの指揮の特徴は、テンポにせよ、リズムにせよ、ダイナミックにせよ、旋律の歌わせ方にせよ、どれをとってみても、それだけで独立した単位としてではなく、みなほかのものと有機的につながり、総合的にはたらくものとして捉えられながら、自由に流れてゆく点にあった。

それが特に目覚ましい成果を残したのは、性格の違った楽節と楽節の間をつなぐ時のやり方である。一つの楽想が終わり、次のそれが始まる間の経過の扱いのなかでのテンポの緩急やダイナミックの増減の仕方などには、驚くべき自由さがあり、しかも全体を見事につなげるという点で、驚くべき独創性がみられた。

それが彼のベートーヴェンを、がっちりした構成の枠をもちながら、硬直した無機的な感じを与えるものが皆無な演奏にし、彼のブラームスを、至るところでルバートが顔を出し、しきりと歌とリズムの間で交代がありながら、全体として安定した構成に支えられた音楽にする原因となった。

ベートーヴェンの「第9」、シューマンの「第4」、ブラームスの「第4」といった交響曲で、彼が不滅の名演を残したのは、対象となった音楽の構造と彼の音楽的特性とが、他のやり方では達成されない素晴らしい調和に達したからだ。

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2007年10月28日


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フルトヴェングラーは演奏行為を川の流れに例えて次のように語っている。

「川の水は次々に変化する田園風景の中を流れてゆく。方向も速さも常に変わる。狭い峡谷をよろめくように流れるかと思うと、今度は川幅を広げて悠々と進む。すなわち、川の流れは生命あるもので、中心となる勢いは最後まで続かなければならず、決して勝手に変えたり、中断したり、強引に押し戻してはならない。」

まるでフルトヴェングラー自身の演奏が目に見えるような言葉である。

メンゲルベルクやトスカニーニの表現が時に不自然に響くのは、この川の流れを人工的に誇張したり、それに逆らって一定にしようという試み、自然に起伏から遠くなっているからだろう。


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フルトヴェングラーのレパートリーは狭い。

ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、ウェーバー、シューマン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー、リヒャルト・シュトラウスなどが主なところで、ドイツ=オーストリア音楽偏重である。

それ以外ではフランクの交響曲とチャイコフスキーの第4番、「悲愴」ぐらいである。

またドイツ=オーストリア音楽でもバッハとモーツァルトの演奏頻度はあまり高くなかった。

またヒンデミットを擁護したことも知られている。

残念ながらドビュッシーやラヴェルといったフランスものにはフルトヴェングラーの演奏様式とそぐわなかったようだ。

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2007年10月27日


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*以下お薦め文献
フルトヴェングラー著、芦津丈夫訳『フルトヴェングラー音楽ノート』白水社
ヴェスリンク著『フルトヴェングラー 足跡―不滅の巨匠』音楽之友社
テーリヒェン著、高辻知義訳『フルトヴェングラーかカラヤンか』音楽之友社
ヘッカー著、芳賀檀訳『音と言葉』新潮社
中川 右介著『カラヤンとフルトヴェングラー』 (幻冬舎新書 な 1-1) (新書)
西村 弘治著『落日の交響楽―フルトヴェングラーからカラヤンへ』


*注釈
・ハンス・クナッパーツブッシュ(1988〜1965)…ワーグナーとブルックナーを得意としたドイツの名指揮者。巨大な造型、壮大な響き、大波がうねるようなダイナミックス、全てが破天荒な巨人だった。

・新古典主義…近代及び現代ヨーロッパに起こった古典主義的芸術風潮。音楽における代表的な作品としては、ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」、ヒンデミットの室内音楽が挙げられる。

・アルトゥーロ・トスカニーニ(1867〜1967)…イタリアの名指揮者。主観的解釈を排し、作曲者の意図を厳格に再現することを目指した。

・プラグマティズム…パースによって唱えられ、20世紀アメリカを中心として、ジェームズ、デューイ、ミードらによって継承・発展させられた哲学。現代ではネオ・プラグマティズムへと発展。クワイン、パトナム、ローティらがこれに属する。

・イゴール・ストラヴィンスキー(1882〜1971)…彼はいわゆる主観的演奏の存在を正当づける19世紀的音楽理念と誤った唯美主義を否定した。特に演奏家の「解釈」の恣意性を嫌った。

・表現主義…絵画にはじまったこの運動も音楽に影響を及ぼした。シェーンベルクやベルクの作品、ウェーベルンの中期作品などが代表例。

・新即物主義…表現主義への反動として、美術・文学などの領域で、細密描写、即物的な対象把握による実在感の回復を目指した。音楽にも同様。

・ウィレム・メンゲルベルク(1871〜1951)…オランダの名指揮者。ドイツ後期ロマン派作品を得意とした。

・フェリックス・ワインガルトナー(1863〜1942)…オーストリアの名指揮者。ドイツ古典派、特にベートーヴェンの作品の演奏で高名。

・グレン・グールド(1932〜1982)…カナダの名ピアニスト。極めて個性的な解釈と演奏技法をもち、バッハ、現代音楽に定評がある。
 

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前述のようにケントナーはフルトヴェングラーの表現が主観的であると述べたが、音楽に限らずあらゆる芸術は結局は主観の産物であり、演奏家であるならばそれをどれだけ鍛え上げ透徹させて客観性をもたせるかに芸術家は命を懸けるのである。

それが芸術家の一生の闘いなのだ。

初めから表面的な客観性のみを目指す者は、この闘いから逃げているのである。

前述のトスカニーニやメンゲルベルクのスタイルが一つの時代の代弁者としていささか古めかしく聴こえるように、現代の指揮者だちの外面的な技術のみに寄りかかった音楽も、やがては過去のものとなり終わるであろう。

そのような時、フルトヴェングラーの音楽だけは、時代を超えて我々に「真実の心」を訴え続けてゆくに違いない。


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2007年10月26日


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幸いなことにフルトヴェングラー熱は日本だけの現象ではないようだ。

他界した指揮者に対して急速に興味を失うヨーロッパでさえフルトヴェングラーだけは別格で、実況録音、放送録音などが相次いで発掘され、映画フィルムも他の指揮者より多く残されている。

音楽ファンはいよいよ目覚めつつあるのだ。機械的で交通整理のような指揮者たちに飽き始めたのである。

特にモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスなどのドイツ=オーストリア音楽の主流に対して、もっと豊穣な、もっと深い、もっとこくのある、身も心も熱くなるような演奏を期待しているのだ。

だからこそ死後半世紀も経ったフルトヴェングラーの音楽を必死で追い求めるのである。

実際に舞台姿を見たこともない、モノーラル録音でしか知らない彼の音楽を熱望するのである。

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ピアニスト、ルイス・ケントナーは重要なことを証言している。

「古典的客観性の名のもとに数々の悪事が成されている今日この頃だが、フルトヴェングラーの解釈は極度に主観的であり、指揮法は完全に個性的であった。彼は何百万という音楽愛好家に比類のない魂の歓びを与えてくれたが、機械的な狂騒に明け暮れている我々の世代は、精神まで機械的になってしまっており、そういう技術屋に何を期待できようか。」

確かに今や芸術家たちは技術屋になり下がってしまった。コンクールでテクニックの水準は日増しに上がり、創造力を持っていても、その高度な技巧を身につけてないと世に出られない。フルトヴェングラーなど、さしずめ第一次予選で失格であろう。


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2007年10月25日


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現在の演奏家はもはやそれを解しない。

トスカニーニの革新は、今ではもはや常識なのであって、フルトヴェングラーの「心的出来事の追認」というロマン的解釈もまた予備知識として彼らの頭の中にインプットされている。実際にはそれらのいずれもが「止揚」されたのである。

その上に今の世のクールなスマートさを付け加え、表面の美麗な感覚面を追い求めがちである。それには20世紀後半の卓越した技術が裏付けとなる。

また生演奏を主体とする演奏様式もフルトヴェングラーの時代の特徴の一つである。フルトヴェングラーの効果は、ライヴ演奏の場合により効果的であり、繰り返しの聴取に耐えないものではないが、自宅で冷静に聴くには若干しつこすぎる面もある。

グレン・グールドが演奏旅行から帰った時に、「その演奏はあらゆる種類のダイナミックでいっぱいだった。」というようにライヴの大ステージではどうしても表現が大味になってしまう。表情たっぷりのデュナーミクとかルバートその他はステージ向きの習慣である。

ありとあらゆる恣意的な工夫が廃れた原因に、録音の普及がないとはいえない。


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しかし口で言うのは易しいが、楽聖ベートーヴェンの桁外れな情熱や苦悩を我がものとするのは極めて難しい。

否、ほとんどの指揮者には不可能ではあるまいか。不可能だからこそ、彼等は技術的なものに逃避するのではないだろうか。

フルトヴェングラーにはこの能力があるのだ。ベートーヴェンと同じ苦しみを苦しみ、同じ歓びを歓ぶ桁外れの情熱があった。

演奏とは正直なもので、演奏家が平凡だと、作品自体も演奏家と同じ水準にまで落ちてしまう。

だからこそ指揮者がベートーヴェンの魂と同じ高さ、同じ激しさ、同じ歓喜と興奮と崇高さの中に自ら生きなければ、決して真の生命は再創造されるはずもないのである。

フルトヴェングラーはベートーヴェンと同じ水準で彼の作品を追体験し、彼の作品がたった今生まれたかのように再創造する。「再現ではなくて再創造なのだ」と彼自身語っているように、スコアを仲介として新しい音楽を創り出すのである。

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2007年10月24日


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後述するが、フルトヴェングラーが最も得意としたのはベートーヴェンであった。

彼はワーグナーでもブラームスでも、曲自体を深く研究して、心の中にその作品のイメージを明確に浮かび上がらせて、それを演奏によって実体化させる。

フルトヴェングラーは透徹した解釈をもって楽曲の構造を明解に展示するが、そうした外形の美を超えた深い芸術的ファンタジーと表現の多様さによって、聴く者を名曲の奥深くへ誘い込み、限りなく豊かな音楽的愉悦に浸らせる。

特にベートーヴェンにおける彼のやり方は無類のものがあった。彼は身をもってスコアの中に入り込み、ベートーヴェンの心と一体になろうとする。汗水たらさないベートーヴェンなど、そんなものはベートーヴェンでも何でもない、と言わんばかりに、彼はこの作曲家と共に苦しみ、叫び、闘い、歓喜し、深い内省に沈む。

それを彼は「追体験」と呼ぶ。


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過ぎ去ってみれば、表現主義と新即物主義の違いは、スタイルの差であって、個人的な感情の表出であれ、写実的な記述であれ、主眼とされているものは「人間」に変わりないのである。

ロマン主義者メンゲルベルクの録音に聴くことができるような、テンポを自由に伸び縮みさせることが横行していた当時の人々には、トスカニーニは頓狂に聴こえただろうが、残念ながら今の私にはその驚きをあまり共有することはできない。

時代はもっとドライな方向へ行ってしまったので、「全体への意志」の権化フルトヴェングラーと正確さを訓示する「怒れる針鼠」トスカニーニも、その熱情を希求する姿勢において同じにみえるのである。

フルトヴェングラーが「偉大さとは魂のうちにある」と発言するのは当然として、新即物主義の傾向を支持していた指揮者のワインガルトナーでさえ「情熱なしには天才的な業績はありえない」と著書に述べているのである。

熱情的なスタイルは当時の演奏習慣であったに違いなく、この習慣は作曲家が完璧に仕上げ、楽譜を指揮者の意志によって随意に再解釈しなければ気がすまないほど強いものであった。


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2007年10月23日


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フルトヴェングラーは一般に主観的な指揮者の代表にされている。その対極にあるのがトスカニーニということになっているが、今現在の耳で聴くなら、この二人の違いはそれほど大きくはない。

指揮に対するトスカニーニの姿勢はスコアを見ながら聴けばわかるが、彼の信奉者たちが考えるよりはアメリカ流にプラグマティックなところがあった。

今世紀の初めに、ロマン的な演奏家たちの解釈の誇張と曲解にうんざりしたストラヴィンスキーなどが「ただ楽譜通りに弾いてくれればよいので、何も付け加える必要はない。」といった、演奏家にとってはできそうでできない非プラグマティックな見当違いも含んだ作曲家の側からの発言と、トスカニーニの客観主義とを同一視できないのである。

トスカニーニの客観主義は、彼が育ったイタリアの演奏芸術のいささか見かけ倒しな伝統への自然な反応として培われたもので、彼の例が作曲家の意図の尊重という近代的精神を助長したまではよかったのだが、今度はそれが彼のライバルだったフルトヴェングラーなどとことさらに対比させて、一方は主観的で我の強い解釈であり、それに対してトスカニーニの方は、客観的で樂曲に忠実な解釈という神話を作り上げてしまった。


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指揮者というのは、ただ棒を振っているように見えるが、実は指揮台に立っているだけで、オーケストラの音色を変化させてしまうほどの力があるというのが事実のようである。

これはなにもベルリン・フィルだけではない。日本のオーケストラでも、あるいはアマチュアの団体でも同じことらしい。ほんとうに不思議な事実である。

私がこれまでに聴いた指揮者の中で、フルトヴェングラーは他の誰よりも深く、温かい響きをオーケストラから引き出していた。「切れば血のでるような」といいたいその響きは、彼の表現力や指揮法からも生まれ、二重、三重の効果となって聴衆に迫ったのである。

テーリヒェンは、「私は、彼ほどその演奏解釈が何の妥協もなく主観的である指揮者に二度と出会っていない。作曲家の意図した表現を可能な限り真正に解釈することが彼のやり方ではあっても、そこで自分の個人的な見解を主張するのに彼は何のはばかりもなかった。」と書いている。

これは現代の即物主義や客観主義とは相容れないやり方である。




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2007年10月22日


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ベルリン・フィルのティンパニ奏者であった、ヴェルナー・テーリヒェンの著書『フルトヴェングラーかカラヤンか』には、著者がフルトヴェングラーの指揮にじかに接した生々しい内容が著されている。

テーリヒェンは、1948年にベルリン・フィルのティンパニ奏者となり、以後35年の長きにわたってフルトヴェングラー、カラヤンの二大指揮者の下で、演奏活動を続けた人である。

彼はフルトヴェングラーの偉大さを存分に描き出している半面、彼の人間的な弱さにも大幅に筆を割いており、真実性に富んだ伝記ないし指揮論になっているところが、より興味深い。

彼がベルリン・フィルに入団した当時、フルトヴェングラーの総休止におびただしい音楽を知覚し、体中が汗ばみ、息がつけなくなった体験など、まことにさもありなんと思わせる。

またある時、客演指揮者のリハーサル中、ティンパニの出番のない楽章なので、テーリヒェンはスコアを広げて音楽に熱中していた。やがて、突如としてオーケストラの音色が一変、まるで本番のような充実感と温かさが現出したので、驚いて目を上げると、ホールの端の扉のところにフルトヴェングラーが立っていた。

彼がそこに立っているだけで、ベルリン・フィルの音色が変わったのである。

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フルトヴェングラーにとっては、音楽は人間の精神の最も高貴で微妙な発動の場所であり、楽譜は、人間の知性と感性の全ての動きを正確に反映し刻印するにしては、あまりにも間接的なものでしかないという事実を忘れることができなかった。

「楽譜に忠実なだけの演奏は、文献学が認識よりも重要であることに対する最初の承認である。もはや事象が問題とされず、楽譜に逃避しているのだ。」

「真の芸術とは技巧に走ることを必要としない能力である。」

と彼自身述べているように、楽譜というものは、どれほど細かく書いてもやはり不自然であり、その本質を読み取る能力に欠けている者は技巧を磨いて、それによって勝負するしかない、という確固たる信念があったのだ。

だから彼は自分が一方では時代を代表する存在だという自覚を持っていると同時に、その時代に生まれてきた新しい考え方に対立し、それが時代を支配するようにならないよう、その前に立ちふさがる役割を与えられていることも、はっきり自覚していた。

だが、こういったことは彼の場合、はじめに考え方、つまりイデオロギーがあり、それに基づいて実践があったのではない。本当の芸術家の常で、まず自分が育った伝統と、自分の資質とに正直な感性の動きがあり、それが長い経験の間に思想にまで昇華したのだった。


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2007年10月21日


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繰り返しになるが、フルトヴェングラーの活躍していた時代は一口に言って、ベートーヴェンが太陽のような中心的位置を占め、それを取り巻くようにシューベルト、シューマン、ワーグナー、ブラームスといった天才たちがその周りを惑星のように回転しながら、輝かしい音楽の太陽系を形成するといった価値の体系に支配されていた時代であった。

彼はその価値の体系の正当性を証明する巨大な大黒柱のような存在であった。そんな時代にあって、他の同世代の指揮者たちの多くは、爛熟したロマン主義の影響で、取り上げる作品を自分自身の個性を華々しく発揮するための戦場かなにかのように、自己の主観的な解釈を持ち込んでいた。

その反動として、自己の主張を控え目にして、作品を客観的に捉え、本来あるがままの姿で再現することに専念すべきだ、という思想が次第に勢力を拡げつつあった。それは当時のいわゆる「新古典主義」である。

彼らのなかで、音楽は音の遊びであり、音を数学的秩序で組み合わせたものこそ音楽であるという美学が誕生し、それに応じ、演奏とは楽譜にかかれた通りを正確に音に実現するのが基本的任務であり、それ以上でもそれ以下でもあるべきではない。という考えが力を強めつつあった時代でもあった。


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フルトヴェングラーは彼の音楽ノートによく、「音楽は生きている」という内容の文を記している。生前よくベルリン・フィルの団員に向かって、「あなたがたはこの曲を何百回と演奏してきている。しかしそのことを必ず誰にも気づかせてはならない。」と言っていた。

何百回も演奏した曲でも、一回一回の演奏がそれぞれ異なるわけで、いつも新鮮な気持ちで音楽をつくりあげなければならないということである。

確かにその音楽がいつもたった今生まれ、今まさに初演されるように演奏されなければ、聴衆を感動させることはできないといってよい。聴衆のほうでも、ベートーヴェンのシンフォニーなどもう何百回となく耳にしているのである。指揮者がクールになって、即物的に、また客観的に演奏しても、音楽は訴えかけてこない。

以上、フルトヴェングラーの実演に接することができなかった私が、残された録音から汲み取れる巨匠の音楽の特質を述べた。これだけでも他の全ての演奏家とは随分趣を異にしていることがわかるはずである。

次回からは、フルトヴェングラーがいかにして総譜を究め、独自の方法論に基づいて解釈し、音楽を再創造していったのかということを、彼の著作、さらに当時の楽員団の生の言葉を通じて、さらに突っ込んで考察してみたい。

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2007年10月20日


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もちろん指揮者の頭の中には全体の造型がしっかりと見据えられているから、いかなる即興的なゆらめきにも音楽が崩れることは有り得ない。

つまり即興とは決して勝手気ままなものではなく、いくら天啓とはいえ、その人にしか表れないものであるから、音楽が自分の思ってもない方向へ勝手に突き進んでゆくこともないわけである。

そしてレコーディングのように、理性が絶えず目覚め、演奏も中断されがちな場合には、即興はきわめて現れにくい。

要するにフルトヴェングラーがどれほど即興的な才能を持っていたとしても、結局フルトヴェングラーはフルトヴェングラーであり、むしろ同じようなテンポで同じような表情で演奏しても、まるで新しい音楽を聴いているような気持ちにさせられるところが、彼の偉大さであり、それこそ彼の即興的な才能の現れなのである。

例えば彼がレコードのために録音した正規のスタジオ録音を基本線にすると、ほぼ同時期に録音されたライヴ演奏は、それに実演的な要素を付加しただけで、まず目新しいことはしていないといってよい。

にもかかわらず、初めてフルトヴェングラーを聴いたときの新鮮な感動が甦り、細部の一つ一つの表情が新発見のように瑞々しく、それぞれの音楽の素晴らしさを堪能できるのである。

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即興とは閃きである。それは本番の時に現れやすいが、すでに完成に近い練習の時にも現れることがあるという。

リハーサルで、種々にテンポをとり、ある部分のルバートを大きくしたり小さくしたり、あるいは間を長くとったり短くとったりするのは、一つの試みであって即興ではない。

即興の才能のある演奏家にとって、それは演奏中に突如閃く、というよりも、ごく自然に、かつ神秘的に変化する。

クレッシェンド、デクレシェンド、スフォルツァンドなど、いろいろな表情をつけるように指示された部分を、瞬間の天啓によって、弱音のまま無表情で流したり、イン・テンポの音楽の途中で急に遅いテンポをとってみたり、今まで考えてもみなかった間が突然出現したり、まことにさまざまである。

これはスコアを見ながらフルトヴェングラーのライヴ録音の同曲異演盤を聴き比べれば、その即興の一回性が手に取るようにわかる。

即興が現れた瞬間の指揮者と楽員との間に通じる心の通い合い、信頼の深さは当事者でなければ絶対にわからないと思うが、そのハッとするような霊感は客席にも伝わって、聴く者を感動させるのである。

また、こうして生まれた表情がその曲に定着してしまうことも、フルトヴェングラーの同曲異演盤を年代順に追ってみるとしばしば見受けられるのである。

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2007年10月19日


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では即興性とは果たして何だろうか?

私はこの「即興性」というものは、名演奏家の大きな条件であると考えているが、芸風からしてフルトヴェングラーの場合はいっそう強く感じられたのである。

彼と同時代に活躍した、クナッパーツブッシュはリハーサル嫌いで、舞台での演奏はほとんど即興で行われたといわれる。

なるほど彼の指揮した小品はそのように思われるが、ワーグナーやブルックナーになると表現が極めて綿密で、とてもぶっつけ本番とは思えない。

フルトヴェングラーは反対に練習の好きな人であった。往年のベルリン・フィルの楽員も誇っているように、彼は練習も本番と同じように全力を尽くして行うので、すぐに疲れてしまい、結果として練習時間が短かったそうだ。

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この巨匠にとって、レコードとは何だったのだろうか?そのことについてまず考えてみる必要がある。

彼は「ラジオを通しての音楽会から聴衆が受け取る、あの栄養のない、干からびて生気の抜けた煎じ出しが音楽会の完全な代わりを果たしうるなどと心底しんじているような人は、もはや生の音楽会が何であるかを知らない人だけである。」と言っている。

つまり、フルトヴェングラーは、端から少なくともスタジオで録音するレコードを信じていなかったのだろう。

しかし一方ではまた、「演劇を保護する為には、映画を滅ぼしてはならない。同じように、コンサートの音楽を保護する為にも、レコード音楽を滅ぼしてはならない。」とも言っている。

結局、巨匠にとってレコードとは、あくまでも第二義的な存在で、コンサートに人々の耳を向けさせる為の単なるプロモーションに過ぎなかったのかもしれない。

フルトヴェングラーがレコードを嫌った最大の理由は、即興性の強い指揮者だったからである。彼は実際のステージでのみ火のように燃えることができた。少しの誤りをも繰り返し再生するレコードを意識した演奏では、この巨匠はライヴの数分の一程にも即興性を発揮できなかったのであろう。

これは彼の相次いで発売されている実況録音盤を聴けば、どんなロバのような耳しか持たぬ人にも解かることである。

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2007年10月18日


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過去300年をこえるヨーロッパ音楽、つまりクラシック音楽は、その中枢のヨーロッパ大陸ですら黄昏を迎えつつあるかに見えるのが現状である。

そこで物故した大指揮者の遺した名演奏を聴いて、その芸風に感動し、そのドイツ的精神性(フルトヴェングラー)や、完璧な統制による音楽の充実感と歌謡性(トスカニーニ)を感じ取ることは、音楽体験のかなり重要な部分である。

しかし、彼らと同時代に生きた人間でさえ驚く「極東」でのフルトヴェングラー受容はほとんど神がかりに近い。

貧弱というもおろかな放送録音をもとにしたCDでその巨匠性を云々したり、数種どころか十数種を越えるベートーヴェンの「第5」交響曲を比較検討し、返す力で「現代の指揮者はまだ子供」などとやるのは、趣味の世界の話とはいえ、あまり良い「趣味」とはいえない。

他の指揮者であることが証明されている録音(「新世界より」等)が発売されるというのも破廉恥行為であった。

神話や作り話が多いことは、巨匠性の証明でもあるが、再考の余地はまだ残されている。


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classicalmusic at 19:28コメント(0)トラックバック(0)フルトヴェングラートスカニーニ 

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ワーグナーはクナに限る、と前章で断言したものの、当然フルトヴェングラーとカラヤンのワーグナーも捨て難い。

歌崎和彦氏は初めて聴いたワーグナーがフルトヴェングラーで、すっかりしびれてしまって、その後数年間はワーグナー中毒になり、しかもフルトヴェングラーでなければならない状態に陥ってしまったらしい。

私も非常にその気持ちは分かる。何せ彼の「リング」を二組も揃えてしまったのだから。特に「ラインの黄金」のラストは圧巻である(思い浮かべると思わず頷いてしまう方も多いのでは?まさに中毒症状です)。いずれも、世界中の多くの人々にとって容易に聴くことのできなかったこの巨匠のワーグナー演奏を、集約的な姿で示している。

カラヤンもワーグナーを演奏する時には特に気力充実した強い持続力と前進力をそなえた演奏が素晴らしく、ワーグナーの音楽の壮麗さと精妙さをともに過不足なく満足させてくれる名演を残した。

カラヤンのワーグナーのベスト録音は珍しくシュターツカペレ・ドレスデンを振った「マイスタージンガー」と晩年の「パルジファル」であろう。

前者からはドイツ特有の、馥郁たるロマンの高雅な香りが匂い立ってくるようだ。

後者は永年ワーグナーを指揮し、晩年には演出も手がけてきたカラヤンの一つの総決算である。カラヤンとベルリン・フィルの生み出す音響の驚嘆すべき美しさ!最初から最後まで、ほとんど1小節ごとに、その音は超絶的な美しさで聴き手の耳を震撼させる。私はクルト・モルの全盛期のグラインドルを思わせるグルネマンツに傾倒している。

蛇足になるが、ワーグナーを使った結婚式の選曲ならお任せ下さい。

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2007年10月17日


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ワーグナーには毒がある。酒や煙草と同じで、一度味を覚えたらやめられない。しまいには中毒になってしまうのだ。

でも酒や煙草と違って、体には毒にならないから、どっぷりこの世界に浸ってみようという気持ちを変えないで今日に至っている。現に私がそうだし(今カラヤンの「タンホイザー」を聴いている)、ある友人はここ一か月程ワーグナーしか聴いてないというし、また別の友人はクナッパーツブッシュの「パルジファル」を全部集めようとしている。

私はどうしたことか、上映に四日もかかる「リング」も全曲盤をフルトヴェングラーで二種、あとクナ、クラウス、バレンボイム、全曲盤の抜粋でベーム、カラヤン、ショルティ、レヴァインと持っている。「リング」の全曲なんて生涯に何度聴くであろうか?それなのにまだ集めようという気を断つことができないのである。

ワーグナーにはいつの間にか聴き手を底知れない恍惚と法悦の中に引き込む魔術的な手腕があるのだ。初心者はまずクナッパーツブッシュの「序曲、前奏曲集」を耳にタコができるまで聴き込んでみてほしい。

その段階を終えたら、いよいよ全曲盤にチャレンジ。まずは「リング」をお薦めする。といってもあんなに長いものをいきなり最初から聴く必要はない。「ワルキューレ」それも第1幕だけを何度も耳にするのが賢明であろう。

ここでも指揮者によってスケールと深みが断然違ってくることを強調せねばならない。CDはクナッパーツブッシュ/ウィーン・フィルのデッカ盤。表現の雄大なスケール、悠揚迫らぬその足取りには本当に感嘆させられる。キャストもショルティ盤より上だ。人類の宝といいたい。

究極的には「パルジファル」をやはりクナッパーツブッシュ/バイロイト祝祭(62年、フィリップス)。極めて鮮明な音のなかに「パルジファル」の絶妙な世界が繰り広げられ、いつの間にか形容を絶した陶酔と感動と法悦に導かれていく。この名盤はクナッパーツブッシュの深い沈潜と共感に満ちた芸術の至高の結晶だったばかりでなく、この作品のもつ、神秘と官能、祈りと浄化のドラマの、ひとつの理想的な表現にまで達したものだったといっていいだろう。

ワーグナー演奏についてはクナに限る。

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classicalmusic at 11:00コメント(0)トラックバック(0)ワーグナークナッパーツブッシュ 

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私はかつてしばらくイタリアのローマにホームステイしていた。もし気に入れば永く住もうかとも考えていたのだが、やはり日本の快適さ、便利さに郷愁を感じ帰郷した。

何より不便だったのが、イタリアにはコンビニがないことだ。ちょっとした買い物もできない。電化製品が古い。電車に乗ってもアナウンスがない。最初はどうなることかと心配した。ローマの海辺に温泉があったのだが、全然日本の温泉が素晴らしい。おまけに煙草が高かった。日本円で約500円程度。景観や歴史的建造物も写真で見るほどじゃない。写真は美化されているのだ。特にローマは日本でいえば京都にあたる古都だった。でも京都の方がよほど洗練されているのではあるまいか。

それ以上の問題はイタリア語である。それなりに勉強していったつもりなのだが、早口で全く聞き取れない。やむなく英語とまじえて何とかコミュニケートするのだった。食事はまずまず。でも日本食の方がバラエティーに富んでいる。もっと北のドイツへ行けば、食事はポテトと卵とソーセージしかないのだから…。

イタリア人に限らず外国人は「遠慮」という言葉は彼らの辞書にはないが、それでもイタリア人は明るくて開放的でフランクかつフレンドリーなのが救いだった。

何か悪口ばかりになってしまったが、悪い国ではない。ただ私としては旅行するにとどめておいて、住むには日本人には合わないかなと思っただけである。もしイタリアに旅行されるのであれば、フィレンツェにされたい。

それでもメンデルスゾーンやブラームスやチャイコフスキーはイタリアに訪れて霊感を受け、印象的な名曲を残している。メンデルスゾーンは交響曲第4番「イタリア」、ブラームスはピアノ協奏曲第2番、チャイコフスキーは「イタリア奇想曲」。いずれも基本的なライブラリー。中でもネクラなブラとチャイコからは他の彼らの曲からは聴けぬ憧憬や時に底抜けの明るさが聴けるのが楽しい。

もし彼らに限らず西洋の作曲家が日本に訪問する機会があったならば、おそらく日本にまつわる名曲の一つや二つできてたのではあるまいか!?

推薦ディスクはメンデルスゾーンはトスカニーニ/NBC、ブラームスはバックハウス/ベーム/ウィーン・フィル、チャイコフスキーはセル/クリーヴランド。

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2007年10月16日


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ヘルベルト・ケーゲルは1990年の自殺を機に発見された指揮者である。

作家の自殺はよくあるが、意外と音楽家の自殺者は少ない。

よって注目せざるをえなかった。

特に日本では、許光俊氏が熱心に紹介していたこともあり、次第に興味を関心を持って良さそうなのを次々と購入していった。

筆者は許氏が絶賛するほどのめりこめないでいるのだが、確かに数枚のCDは瞠目させられるユニークな演奏だった。

この指揮者は躁と鬱のコントラストの激しい音楽作りをするのに、アンサンブルは完璧なのである。

こういう芸風はちょっと珍しい。

第一の推薦盤はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。

しかし正直な話、もの凄い曲であり、演奏であるには違いないのだが、こんな酷薄極まりない演奏を人に薦めていいものかどうかというためらいが消せない。

知らないですめば知らない方がその人にとっては幸せかもしれないからだ。

しかし、指揮者は自分の真剣を押し通すのが芸術である。

ここまでやらなければいけないというところまで突き進むのが芸術である。

そういった意味であえて紹介させてもらった。

ちなみに、筆者がF研の友人の結婚式の祝辞を述べる時に、その新郎がある音楽をかけるから、と言って本番まで内緒にされた。

そして本番当日祝辞を述べ始めて流れてきたのが、ケーゲルの「G線上のアリア」だった。

この曲はそれこそ「カラヤン・アダージョ」に入っているように安らぎに満ちた曲のはずだ。

ところが、ケーゲルの演奏は普通では考えられないような憂愁と寂寥の味わいが一貫していた。

酒が入ってたからあまり気にしなかったのだが、家で聴くと悲痛と凄惨を尽くした演奏なのである。

何故友人がよりによってケーゲルの演奏を選んだのか未だ謎である。

かつて筆者はその理由を問い詰めたのだが、笑ってごまかされた。

何か深い意味でもあったのか? 次回会う時はしつこく訊ねてみようと考えている。

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classicalmusic at 02:42コメント(0)トラックバック(0)ケーゲル 

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現代人は「癒し」を求めている。何せ日本人は働きすぎである。私の友人で一流企業戦士となってる者たちは尚更である。早朝から深夜まで働きづめらしい。ある友人は土曜も出勤してるし、別の友人は休日は資格試験の勉強に勤しんでいる。心が休まる暇がない。自分の時間が持てない。まして結婚してるとなると尚更。

少し前になるが、「カラヤン・アダージョ」というCDが大ヒットした。私はカラヤンのCDはかなり持ってるので、まず試しに市販されているもののとおりに、自分の持ってるCDからMDに作成した。聴いてみたらこれが効果てきめん。いわゆる「ヒーリングミュージック」といわれるものなんかより、よっぽど癒されるのだ。

それから自らの思うがままに「カラヤン・アダージョ」を癸気泙悩鄒して、特に寝る前に愛聴している。

そういえばカラヤンの響きは、強音においては、誰もがびっくりするような大迫力でホールを揺るがしたそうだが(私は残念ながらカラヤンのライヴに接することができなかった)、弱音においては極度に繊細で美しかった。

天下のベルリン・フィルの音楽監督である以上、常に時代の要請への対応が求められるが、カラヤンはアダージョから癒しを引き出していたのだった。

「カラヤン・アダージョ」の製作者の慧眼にも敬意を表したいが、カラヤンが聴衆のニーズを察して、死後に「カラヤン・アダージョ」を誕生させしめるがごとく、生前から時代の最先端を走り、常に未来を見据えた演奏活動を行っていたのかと思うと畏敬の念にかられる。

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2007年10月15日


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フルトヴェングラーの「エロイカ」は約十種にのぼる。その中のベスト盤はどれか?それは時間のある学生時代にサークルの仲間と討論した。

一般的にはウラニアのエロイカ(44年)とスタジオ録音(52年)が高く評価されている。確かにウィーン・フィルを指揮した両盤とも素晴らしい名演には違いはないのであるが、私はフルトヴェングラーの演奏の真髄を充分に表現できるのは、やはりベルリン・フィルだと感じている。

それは彼の強靭な表現を作り出すための求心的な響きと集中性が理想的に表出し得るのはこの楽団しかないからである。特にこのベートーヴェンの演奏についてはそれを強く感じさせる。

早大フルトヴェングラー研究会で散々議論した結果、ベスト盤は52年12月8日のベルリン・フィル盤と結論が出た。覇気と深みがあって素晴らしくライヴとは思えぬほど完成度が高い。それもいくつかのレーベルから出てるのであるが、ターラのFURT1054が最も音質が良い。

しかしF研(サークルの略称)の友人からターラのFURT1089(ルツェルン祝祭盤、53年)も凄いとのメールが届いた。私はこれは以前違うレーベルので持っていたのであるが、あまりの音質の悪さにディスクユニオンに叩き売ってしまった。

友人評「細部を聴くという感じではないですが全体の雰囲気をとらえているのでフルヴェンの音の凄さの片鱗を味わう事が出来ます。この方が52年12月8日のより感銘を受けると思います。」ターラによって音質が改善されているならば、ぜひ入手しなければならないと思っている。

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classicalmusic at 22:28コメント(0)トラックバック(0)フルトヴェングラーベートーヴェン 

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「エロイカ」こそベートーヴェンのシンフォニーの最高傑作の一つであり、あまりにも通俗化してしまった「運命」「第9」よりも私は「エロイカ」の方を好む。

音楽史上、これほどの芸術的、音楽的飛躍を遂げた作品は見当たらない。演奏時間もぐっと延びた。曲想もこれまでのハイドン、モーツァルトと受け継がれてきた古典的形式感から脱却し、内面的な掘り下げが一段と深く増した。

それゆえひときわ思い入れの深い作品なのである。

特に第1楽章の展開部は革命的である。耳の病気が絶望的になり、ハイリゲンシュタットの遺書を乗り越えた者は大きく成長したのであろうか。

絶望のどん底に沈んだベートーヴェンが、不屈の闘志でそこから這い上がり、第二の人生を踏み出す出発点となった、記念碑的作品である。

この交響曲の生い立ちについてはあまりにも有名なので省くが、要するにこの曲は、ナポレオンその人の業績を描いたものではなく、「一人の英雄の思い出のために」と書き記したのである。

ブルーノ・ワルターの「ナポレオンは死んだが、ベートーヴェンは生きている」という言葉はじーんとくる。

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classicalmusic at 05:45コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェン 

2007年10月14日


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人によってはカラヤンの細部まで彫琢され、磨かれ洗練された演奏が苦手だと感じる方がいらっしゃるかもしれない。しかしそれは彼のスタジオ録音を主に聴いてるからだと推測できる。

ここでどなたに対しても、カラヤンの凄さを端的にあらわした名盤(膨大な彼の録音のなかでもベストをあらわすもの)で、絶対どんな批評家にも文句を言わせないか押し黙るようなDVDを紹介したい。

曲目は「エロイカ」で82年のベルリン・フィル創立100周年記念演奏会である。これはカラヤンのライヴがいかに凄絶だったか、「エロイカ」という名曲を、あくまでカラヤンのスタイルでフルトヴェングラーに遜色なく、外にも内にも照射しており、この上なく聴きごたえがある。

演奏の詳細については、「ベルリン・フィル物語」に簡潔明瞭そして克明に紹介されているので、ぜひ読んで熟聴して頂きたい。さて、これを聴いてもカラヤンを評価しない評論家がいるとしたら、その人の感受性を疑う。

宇野功芳氏は残念ながら、次のような批評である。氏は朝比奈盤を高く評価し「カラヤン/ベルリン・フィルなど、オーケストラは数段上だが、いくら技術的に優れていても、本当に魂のこもった迫力において大阪フィルより落ちる。それはカラヤンの指揮が外面的だからであろう。」ちょっと目を疑いますね。

まぁ人それぞれ感受性が異なるのは認めるが、カラヤンのDVDの画面から熱気が押し寄せてきて、外面には内面的輝きが放射し、内面的には内省とともに深く沈潜する。ベルリン・フィルという世界一のオケが気合が入りすぎるくらい一気呵成に演奏している。朝比奈指揮の大阪フィルとは器が違いすぎる。

むろん感受性は人それぞれであるが、批評家は最低限の情報を視聴者に伝えなければならない。私はこれから上記のような王道の名演から、隠れた名盤まで、自らの良心に従って紹介していく決意である。

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classicalmusic at 20:43コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンカラヤン 

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カラヤンはヴィヴァルディ、バッハからシェーンベルク、オルフに至る幅広いレパートリーの全てに渡って、極めて高水準の名演を成し遂げ録音した。

マタチッチがカラヤンに仕事の世話をしてもらった時に「カラヤンには恩義を感じているが、彼の音楽は喫茶店に流れているムード音楽と変わらない。」と述べたそうである。

しかしこの見方もカラヤンのごく一面を表してるにすぎない。何しろ前記のように、カラヤンが戦後クラシック音楽のキャンペーンに乗り出さなければ、他の指揮者の仕事は減る一方だったのである。

こういう言い伝えがある。帝王カラヤンの面目躍如たる逸話である。

「私が最高の指揮者だ(ベーム)」「いや私こそ最高の指揮者だ(バーンスタイン)」「私はそんなことを言った覚えはない(カラヤン)」確かにベームはドイツ・オーストリア系の古典の権威だし、バーンスタインは作曲も啓蒙もした。

しかしカラヤンのクラシック音楽に対する視野と広大なレパートリーの全てに渡って文句のつけようがない、普遍的な魅力に溢れた演奏から、クラシック音楽の裾野が広がっていったのである。カラヤンの業績がなければ、おそらくクラシック音楽は極東にまで普及していなかったに違いない。


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classicalmusic at 17:56コメント(0)トラックバック(0)カラヤン 

2007年10月13日


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私のCD等の録音所有数は群を抜いていると自負しているが、それでもカラヤンの多くの録音の数々は光り輝いている。カラヤンの空前絶後の人気に嫉妬してか、また彼を批判することで自らのクラシック音楽に対する造詣の深さを誇示したいのか、余りにも不当な批評が多すぎて憤慨に堪えない。

石井宏氏はカラヤンが逝去した時「これは芸術家の死ではない。セールスマンの死である。」と自著に記しているが、これこそベルリン・フィルに長く在籍したティンパニスト、テーリヒェンの語った文脈をごっそりカットして、部分的に抜き取った受け売りであろう。

私の見解は前にも述べたが、彼は決して大向こうをうならせる芸人であるのではなく、作品の真価を正しく伝えうる才能を持ち、万人の心に抵抗なく受け入れられる「カラヤン美学」を築き上げた真の芸術家なのである。

第二次世界大戦が終わって、旧西ドイツ・オーストリアでは、音楽的にもジャズやアメリカのポピュラー音楽が蔓延し、ドイツでのクラシック音楽の在り方に危機感を持ったカラヤンは、あらゆるメディアを使って、クラシック音楽のセールスマン役を買って出ることになる。

自らのカリスマ性とポスターヴァリューを利用して、クラシック音楽のキャンペーン役を自ら買って出たのかもしれない。それは一流の音楽家の演奏で、内容の優れたものを売り出すことである。カラヤンにとって自分を売り込むことは、即クラシック音楽そのものを売り出すことに他ならない。つまりクラシック音楽の本物の優れた演奏を提供することで、聴衆に偽物を聴き破る耳を養成しようとしたのだろう。

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前記したように、フルトヴェングラーが生きた時代は、ベートーヴェンに代表されるような、頂点に向かって進む音の有機的生命が音楽構造の根本にあり、そうした時代が終焉を迎えつつあった。

フルトヴェングラーはその生命体を時代の証言として音化したのであるが、それでいて彼の表現は時代を超えていた。なぜなら人間の魂の起伏を音にして託したものであったからである。

しかも彼の創り出す音楽の背後には無限の深さを感じさせた。

歴代の名演奏家といえども、彼らの演奏スタイルは時代とともに古くなる運命にある。

フルトヴェングラーは何といっても、身をもってスコアの中に入り込み、作曲者の心と一体となり、同じ水準で「追体験」し、新しい音楽に再創造した。そういった方法で勝負したのは彼を除いて誰一人いなかったのである。

興味を持たれた方にはまず彼のワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」をお薦めしたい。彼が生前スタジオ録音した正規録音のなかではこの「トリスタン〜」が最も素晴らしい。官能と陶酔がいつの間にか崇高な法悦と浄化にまで昇華していく。彼のワーグナー演奏の秘法が、ここにあますところなく示されているのである。それにこのCDでは、録音状態の悪いものが多い彼の録音にしては珍しく、細部のニュアンスや全体のディナーミクの躍動を格段に鮮明に聴くことが出来る。

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2007年10月12日


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私が何を言いたいのかというと、音楽には人生観を変えさせる程の「魅力」があることである。

それを求めるファンは何時いかなる時代にも存在しているものであろう。そうでなければ、何百年も前に作曲された音楽が今も聴き継がれているはずはないのだから。

そうした者たちにとって、特に管弦楽に限っていえば(その他のジャンルについては後述)、フルトヴェングラーの芸術は何より貴重な遺産だ。例え録音が古かろうが関係ない。

私も偏見を持たぬよう、できるだけ演奏会に出かけている。しかし心底感動するということは最近は滅多にないのである。

もう自分自身何度も聴き返した録音で、その真髄を汲み尽くしたつもりでいながら、なおかつそこに計り知れない秘められた部分を残す演奏芸術・・・・・、それは、神々が持つような不可知的で神秘的な謎の部分とか、超絶的な力にも例えられる。それがために私は、いつも不思議な力で彼の音楽に引きつけられてしまう。


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そもそも民主主義の発展が求められる現在及び近未来において、絶対権を持った指揮者そのものの存在が時流に反することは明らかである。

カラヤンの後にベルリン・フィルの音楽監督に就任したクラウディオ・アバドみたいな露骨な失敗例は非常に残念だが、現在第一線で活躍している指揮者たちは、いかにも小粒というか、テクノクラート(技術官僚)のような印象を与える。

ことに前世紀後半頃になって、世界中の競合オーケストラは、テクノクラート集団による集中管理のもとにある様相を呈している。つまり、世界中の有力指揮者たちは自らの本拠地となるオーケストラやオペラハウスの音楽監督を在任しながらも、それぞれどこか別のオーケストラやオペラハウスに度々客演して稼いでいる、といった仕組みなのである。

そういう状況に異を唱えるがごとく、アメリカの指揮者ジェームズ・レヴァインのように、指揮者が旅行人間と化しているこういった仕組みこそが、音楽自体をつまらなくしていると主張し、最近の彼はメトロポリタン歌劇場に腰を落ち着けて活動している指揮者もいる。

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2007年10月11日


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しかし現在、彼らのようなクラシック音楽界のスター的存在は皆無に近い(人によってはサイモン・ラトルとかニコラウス・アーノンクールがいるではないか!と主張する人もいるかもしれないが)。

やはりこれだけ社会構造が多様化し、複雑化し、高度化するにしたがって、指揮界の巨匠を阻む力は増大するものなのだろうか。

私が今最も注目している現役の指揮者はピエール・ブーレーズである。彼は鋭敏な耳で、スコアを明晰に音にする技術は卓越している。得意のフランス物やストラヴィンスキー、バルトークにも傾聴させられる。ただカリスマ的なスター性に不足を感じさせるのである。

それはブーレーズだけでなく、そういった性質を感じさせるタイプの指揮者が多くなったのは、戦後になって指揮者たちに求められる絶対的な専門技量が、音楽的な部分よりも、人間性や度量や政治性といった音楽以外の部分により問われるようになってきているためと考えられる。


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フルトヴェングラーの後にベルリン・フィルを引き継いだ、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908〜1989)は、純粋に彼の音楽性云々、音楽的側面だけでは語ることのできない次元でマス・メディアを揺り動かす、強力な政治的存在だった。

彼の芸術性を云々する以前に、彼とベルリン・フィルの存在それ自体が西欧文化の優位性の象徴だったのである。

特に、彼の活躍した時代は、大衆のニーズが途方もなく拡散してく情勢にあったので、彼の使命は大衆をクラシック音楽に注目させ、ビジネスとして確立することであった。

そして「カラヤン美学」称される、近代的で普遍的な魅力をもつオーケストラ美学を確立し、幅広いレパートリーの全てにわたって第一級の名演を聴かせ、世界の音楽ファン層を拡大し、前世紀の音楽界に多大な貢献をした。

カラヤンの演奏を「体の良い通俗化」という輩もいるが、そうではない。

また彼は決して単に大向こうをうならせる効果を知っている芸人であるのではなく、作品の価値を正しく表現し、精神的な内容を聴衆に伝え得る大芸術家なのである。

カラヤンの芸術性については多くを論ぜられたが、ここではその点に立ち入ることは控えたい。

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classicalmusic at 18:38コメント(0)トラックバック(0)カラヤン 

2007年10月10日


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突然マーラーの話題に触れたのは、時代の好尚がフルトヴェングラーの生存時(1886〜1954)とは別の方向に向かっていったからである。

彼の生きていた時代は、吉田秀和氏の表現を借りれば、ベートーヴェンが太陽のような中心的位置を占め、その周りをシューベルト、シューマン、ワーグナー、ブルックナー、ブラームスといった天才たちが、惑星のごとく回転しながら輝かしい音楽の体系が形成がされるといった認識が正統とされていた。

しかし、前世紀後半から、俗に「マーラー・ブーム」といわれたように、かつてのベートーヴェンの「第5」シンフォニーが、コンサート会場においてもレコードにおいても、高い人気を誇っていた時代は過ぎ去った。

「苦悩から歓喜へ」もうそういう風に素直に感動しきれなくなったのが現代人なのかもしれない。筋書き通りのドラマは現実感を覚えない人が増えているのだろうか。

とはいえまだ新たな時代の好尚が造られているとは言いがたい。


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classicalmusic at 16:59コメント(0)トラックバック(1) 

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前世紀の中頃あたりから、グスタフ・マーラーの弟子である、ブルーノ・ワルターやオットー・クレンペラーといった指揮者がまずマーラーの音楽を度々演奏会に取り上げ、1960年に至ってから、レナード・バーンスタインというマーラーの使徒というべき指揮者が聴衆を啓蒙していった。

マーラー当の本人が彼の晩年の作品は演奏不可能ではないかと危惧していたというが、現代の演奏技術の進歩によって、水準以上のオケなら苦もなく演奏することができる。楽員の中には「マーラーが古今東西全ての交響曲の中で最高だ」とのたまう輩もいる。

しかしそのマーラーに於いても、心底感動できる演奏は少ない。最近で出色は小澤征爾指揮サイトウ・キネンの「復活」、ケント・ナガノの「千人の交響曲」くらいであろうか。期待していたマーツァル指揮のチェコ・フィルには、美麗ではあるが深みが感じられなかった。

私はマーラーの音楽は複数意識同時進行音楽だと感じているのであるが、そういう音楽をありのままに表現するには、指揮者には経験を持つマエストロで、マーラー演奏の伝統があるオーケストラを要求する。

マーラーの苦手な指揮者は技術的進歩によってただ正確にスコアを音にすることはできても、作曲者の突然の気分の変転、ある時躁状態になったら、次の瞬間鬱になる、その突然の変転についていけてないのかもしれない。

マーラーのオーケストレーションは卓越してるので、ただ鳴らせば、それなりの充実感は得られるものの、より深く聴きこみたいのはファンの偽らざる心情だ。

入門としてはワルターの「巨人」(コロンビア交響楽団のがベスト)。極め付きはワルターの「大地の歌」(デッカの52年盤)。全集ならバーンスタインの新盤。勿論他にも名演奏は事欠かないが、後日触れることにする。

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classicalmusic at 08:53コメント(0)トラックバック(0)マーラー 

2007年10月09日


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たとえ私のようなクラシック音楽狂の人間であっても、世間一般の人々が岩波の青本を読む気を起こさないように、何もワーグナーの楽劇の大作とか新ウィーン楽派の難解な音楽を聴いておかなければならぬ、といった考えは毛頭ない。

確かに現代は働くのが精一杯(特に日本人は)な我々の周囲から何かと「意味」と呼ばれているものが急速に抜け落ちてしまっている時代といえる。

とはいえ芸術のなかに日常生活から想像もつかない不可思議な「意味」を見い出そう、または追い求めようと努める者にとってみれば、現実の日常生活においては、重厚な発想に裏付けられた「意味」から重さがなくなり、軽薄なものしか見当たらないと断定したくなる気持ちにならざるをえない。

新世紀を生きていく上で、常に変わらざるものを問い続ける姿勢を保ち続ければ、周囲から違和感の目を持たれかねないが、個々の現象的なものからより真なるもの、究極的なものに思惟が向かうならば、自らを取り巻く世界の出来事を「意味」付けすることによって価値を問わねばならないという思いに至るのである。

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classicalmusic at 23:28コメント(0)トラックバック(0)筆者のこと 

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それにしてもクラシック音楽を聴く人が少ない。がぜん少数派である。

私は早大時代有志とさんざんあれこれ思案してポスターを作って、学内に張りまくったのだが、集まらないこと夥しいのだった。

もっとも「フルトヴェングラー研究会」というサークルの名前そのものがまずかったのかもしれない。ちょっとイデオロギーがかってると誤解する人もいるのかもしれないし、実際私の知っている教授はフルトヴェングラーをナチだと決め付けてかかってくるのもいた。

フルトヴェングラーとナチスとの関係については、いずれ詳細に述べようと思うが、フルトヴェングラーが戦後裁判にかけられた時にユダヤ系のユーディー・メニューインが強力に援助の手を差し伸べたことや、彼が戦後シカゴ交響楽団に招聘された時に、多くのアメリカで活動している音楽家たちが反対運動するなか、同じくユダヤ系のブルーノ・ワルターが賛成したことからも、フルトヴェングラーの良心は明らかであるとだけここでは述べておく。

話は戻るが、クラシック音楽は古典である。それゆえ何か特別の縁がない限り、一生触れないことがあっても不思議ではない。私としてはこんなにもったいないことはないと思うのだが…。嘆いてばかりいても仕方がない。私がブログを立ち上げる意味もまさにそこにある。

クラシック音楽に少しでも興味のある方が、上記のCDを縁にクラシックを聴いてみたいと思っていただければ幸いである。

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classicalmusic at 06:48コメント(0)トラックバック(0)筆者のことフルトヴェングラー 

2007年10月08日


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演奏家はどんな音楽でも、自らの感覚と精神を通したうえで全体を把握し、細部を創り上げてゆかねばならない。クラシック音楽は様式と精神の芸術だからである。

しかし、様式という合理的なものは、あくまで音楽の筋骨であり、精神が生み出すドラマという形而上のものが秘められているからこそ、音による造形の積み重ねが、緊張と明晰さを保ちながら感動的な芸術となるのである。

演奏家のテクニックと表現力は、そういった意味で、自らの個性を音楽に生かすためにあるのだと言わねばならない。

そしていかなる音楽もまず自分の内面で見つめ、自分の納得した表現によって、演奏する態度は、演奏家としての自覚と良心に基づくものに違いあるまい。

音楽評論家を「馬鹿」呼ばわりするフジコ・ヘミングさんもちょっとその辺のところを理解してもらわないと…、大味と評されても仕方がないでしょう。

私は様式の枠いっぱいに演奏者の豊かな個性が充満する演奏を、今は亡き名演奏家たちの遺産からではなく、いま時代を共有しているアーティストから享受したいのである。


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classicalmusic at 19:58コメント(0)トラックバック(0) 

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今日では作曲を音楽に於ける最も重要な営為であるとみなし、スコアに忠実であることを演奏の基本要件とする傾向が強い。しかし演奏自体も一つの芸術行為である以上、そこに演奏者の個性も現れなければ真の演奏芸術とはなりえない。これら二つは一見相容れぬようにみえるが、決してそうではない。

普通、演奏に際して唯一の手ががりとなるのはスコアであるが、それはあくまでも手がかりにすぎず、真の音楽はその奥にこそ存在しているといえる。つまり、客観的と思われるような解釈でも、スコアの奥に隠されている作曲者の真の意図を探り当てる(または抉り出す)主観的な作業が必要なのである。

主観的なフルトヴェングラーの好敵手で、客観的と評されていたアルトゥーロ・トスカニーニには「愛」「情熱」「正義」「歌」などを信条に作曲者の忠実なる僕と化していながらも、フルヴェンとトスカニーニの両者の質の差異は今日の我々の耳からすると実は大きくなく、今現在から振り返って聴いてみると、実は演奏スタイルの違いだけが歴然としているのだと私には聴こえてくる。客観主義の権化とみなされたトスカニーニも実はそれだけではないことが、スコアを見ながら「運命」を聴くとよくわかる(一目瞭然!)。

それに対し、客観的といわれるトスカニーニの外見だけ真似ている現代の演奏家は、作曲家が音によって繰り広げる内的世界を探る作業の質に問題があるように思える。おそらく作品への忠実を意識しているためであろうが、えてして無味乾燥な演奏が増えてしまった。

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classicalmusic at 10:33コメント(0)トラックバック(0)フルトヴェングラートスカニーニ 

2007年10月07日


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しかし、これらを満足しうる演奏は少ない。

20世紀最高のワーグナー指揮者であるとともにブルックナー指揮者として一世を風靡したハンス・クナッパーツブッシュにしても、ライヴ録音には粘り強いロマン的な表情があり、ブルックナー様式とややかけ離れた感を与える。

従って、クナとカール・シューリヒトの正規録音が最高である。

その他日本には馴染みが深くて定評のあるロヴロ・フォン・マタチッチには優れたライヴ録音がある。

録音の多い朝比奈隆とオイゲン・ヨッフムは前者にはオケの弱さ、後者にはムラッ気があるが、廉価で交響曲全集の一つを揃えられたい向きにはうってつけ。目安としては朝比奈は最近のもの程良く、ヨッフムは新旧両盤どちらとも言いがたい。

交響曲全集よりもまず、ブルックナーの音楽の特質であるスケールの大きさ、オルガン的な響きの美しさ、宗教的な深さを感じられたい向きには、朝比奈指揮大阪フィルの名高き聖フローリアンでの実況録音(7番)をお薦めする。

これはブルックナーの入門であり、深奥でもある。これこそ日本人の誇りである。

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classicalmusic at 22:13コメント(0)トラックバック(0)ブルックナー筆者のこと 

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ここでまず強調しておきたいのは、作曲家を解釈する演奏家の問題についてであり、これについては後々私のブログのテーマになるのだが、特にブルックナーの演奏についてで、特にブルックナーはナイーヴなのだ。演奏家によって生きも死にもする。それがただ単に凄い指揮者と優秀なオケだと名演奏になりえるとは必ずしも限らない点がユニークなのである。

私は、一時期まで宇野功芳氏の批評に全面的に賛同であった。しかし最近になって宇野氏が批判するフルトヴェングラーやカラヤンのブルックナー演奏にも素直に感動できるようになった。前者の精神性の高さと深さ、後者の良く彫琢された美しい表現も、ブルックナーは許容しうるだけの懐の深さはある作曲家ではないだろうか。

とはいえ、大自然の寂寥と人間の孤独を表現したブルックナーは、ドライな感情の人間には演奏できるか甚だ疑問であるし、即物的な演奏態度によっては必ずしもその本質を具現しない。徹底的に心象の世界の音楽だからである。そこで、私は以下のような基本的な考え方を変えていない。

1 厳しい客観性をもち、効果を狙いすぎず、あるがままを再現する。

2 透明な音感と、響きの透明度が必要。

3 「詩情」がほしい。

ブルックナーの名演へ

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classicalmusic at 21:06コメント(2)ブルックナー筆者のこと 
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