2009年07月
2009年07月31日
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ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズのオリジナル楽器による演奏を知ってしまうと、もはやベートーヴェンの交響曲といえど、このスタイルを無視して通る訳にはいかない。
やはり真摯に耳を傾けると、オリジナル楽器による演奏の方が、何となく説得力を感じるから不思議なものだ。
本来このように爽快で、楽しく味わえるのがベートーヴェンの交響曲で、余りに立派で威圧的な演奏は、どこかウソっぽく感じられてしまう。
ノリントンは無理を承知でベートーヴェン自身のメトロノーム記号に、忠誠を誓った真摯な態度が好感を呼ぶ。
爽快ではあるが威圧的でなく、しかも切れ込みの鋭い若々しい表現力が感動的だ。
新しい時代の基本的ライブラリーに、最も相応しい名演といえよう。
特になぜ管楽器にコントラファゴットを加え、トロンボーン3を入れたかが、これを聴くと初めて納得出来るだろう。
なかでも「第9」はオーセンティックな名演に数えられる。
ロンドン・シュッツ合唱団も、ヴィブラートを排した教会調の発声で、実に清潔な合唱を聴かせる。
いくぶん楽器編成も小さく、祝典的な雰囲気は乏しくなるが、そのために古典的な格調が高く、また自発的なアンサンブルする喜びにも溢れ、曲のプロポーションが鮮明になっている。
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2009年07月30日
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アルゲリッチ盤と対照的なのがペライアのピアノ、メータ指揮イスラエル・フィルで、ショパンの詩的な一面を大切にした、抒情的な美しい表現が堪能できる。
ピアノの音色の澄んだ美しさと癖のない表現が、ショパンの純音楽的な側面を見事に表出させているところに大きな特色がある。
アルゲリッチのような猛々しさはないが、全体に落ち着いた表情がペライアの本領だろう。
そして繊細な表現が美しく、過度な反応は決して示さないが、あるべきところにあるべき音符が、ちゃんと聴かれるのは何よりも素晴らしい。
メータともよく気が合っており、オーケストラともとてもうまくいっている。
第1番でのペライアのタッチは美しい響きをもち、特に弱音での旋律を歌わせるときの余韻が実に清楚だ。
解釈は極めてオーソドックスで、少しの気負いもなく、こまやかな感情の動きを率直に表現している。
第2番ではレガートの美しさを十分に生かし、滑らかなフレージングが細かな表情の変化を伴って豊かなニュアンスを生み出している。
メータの指揮も自信に満ちて若々しく、シンフォニックで充実感満点、ペライアのソロを立派に引き立てている。
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2009年07月29日
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ハイドンの美しい旋律と弦楽器のもつ魅力を存分に味わうことのできる演奏である。
イタリアSQの演奏は、明るく闊達な表現がハイドンにはふさわしく、特に旋律の歌わせ方は実にうまい。
第1ヴァイオリンが技術的に優れていることと、南国のグループらしく明晰な解釈がハイドンの魅力を存分に味わわせる。
第1ヴァイオリンと旋律が優先する、ハイドンの弦楽四重奏曲の場合は、変に重厚なアンサンブルだと、せっかくの美しい旋律と第1ヴァイオリンの名人芸がテクチュア(旋律と和声の綾)に埋没してしまう。
その点イタリアSQは、そうした要素に最もぴったりとしたグループといえるだろう。
豊麗かつ甘美に歌い上げられたハイドンで、いかにもイタリア人好みの演奏になっている。
特に「五度」と「皇帝」の第2楽章はその最たるもので、音楽とは歌うことであると言わんばかりに、一心不乱に演奏している4人の姿が彷彿とさせられるほどだ。
明快で現代性を帯び、しかもイタリアの団体らしく歌の精神に満ちている。
そうしたことは「ひばり」の第1楽章によく表れている。ここではやや遅めのテンポをとり、旋律をのびのびと歌わせた美麗な表現には魅了される。
第1ヴァイオリンによるひばりの鳴き声を思わせる旋律を、これほどきれいに演奏できる四重奏団というのも少ない。
しかし、それと同時にがっちりとした構成感もある。「五度」の第1楽章も良い出来映えだ。
どの曲もお手のものといった感じで、流麗な仕上がりのものになっている。
ハイドン演奏としての好き嫌いは別として、演奏というものの典型がここに示されているのは、何人も認めざるを得ないだろう。
組み合わせもよいので、ハイドンの弦楽四重奏曲の入門にも格好のディスクだ。
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2009年07月28日
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作曲家であるとともにマーラーの解釈に水際立ったところを見せるギーレンの面目躍如たる1組。
ヨーロッパで高い評価を受けながら、わが国では知名度の低いギーレンのマーラーで、この指揮者のすぐれた資質を表した演奏である。
スコアに込められたメッセージを最大限に引き出した、情報量の多い音楽だ。
マーラーを現代的な方向へと解放するギーレンは、余計な思い入れをいっさい捨象し、非常に引き締まった表現を求め、作品自体に語らせながら成功した例のひとつだろう。
南西ドイツ放送局のオケを自在にあやつり、ギリギリの表現を引き出したシャープな演奏である。
オケの技術が第一級とはいえないのが残念だが、やさしさから強い緊迫感まで表現の幅が広く、マーラーの沈鬱から焦燥、はかない希望などを秘めた作品の諸相をよく表している。
どの曲も楽想やオーケストレーションの特色を明快に把握しているのも賞賛すべきものだ。
ギーレンはテンシュテットのように、音のひとつひとつの表現力が強いわけではない。
ギーレンの場合はシャープで、冷酷なまでに素っ気ない。
ただ、その素っ気ない音が同時に鳴らされたとき、その組み合わせ方がドラマティックで、ロマンティックで、エロティックなのだ。
1990年代以降に録音されたディスク、そして演奏会を聴く限り、ギーレンは現代最高のマーラー指揮者であることは間違いないだろう。
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2009年07月27日
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ノイマンはここで、彼らしい新古典主義的な姿勢を堅持している。
彼はマーラーの精緻な管弦楽法をあらゆる角度から研究しつくし、細部もなおざりにしない。
ノイマンの「巨人」にはマーラーの初期作品にあるボヘミアの香りが漂う。
その直截な表情は新古典主義的であり、確かに全体が端正で、内部には冷徹とさえいえる正確さがある。
すべてがよく整理され、そのなかにマーラー特有のアイロニーと抒情感が色濃く織り込まれているが、まったく押しつけがましくないので、聴き手は自由な姿勢で作品を受容することができるだろう。
好感のもてる演奏だ。
「復活」は表情が極めて直截的で明快、リズムも軽く、新古典主義的な端正さに覆われたノイマンらしい演奏だ。
全体を透視したように表出した第3楽章だけでなく、どの楽章も引き締まり、内的な緊張感も強い。
誇張やものものしさとは無縁の表現だが、少々もの足りない印象もある。
独唱の2人はいずれも深味のある声と表情で充実した歌唱を展開し、その端麗な表現はノイマンの音楽にふさわしい。
「第9」の第1楽章は過去への愛情に満ちた痛切な曲想を格調高く描き、終曲では一部の指揮者のように文学的な彫りの深さを追求したりはしない。
むしろ淡々と磨かれ、純音楽的とさえ感じさせる。
その端正さの中からマーラーの孤高な感情が自然に聴き手を捉える。
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2009年07月26日
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全曲が一分の隙もなく構築され、あらゆる音構造が明晰に表出された稀代の名演だ。
第1楽章は表情があくまで高雅で、テンポはかなり遅めだが異様な緊張が持続している。
それにしても何とこまやかな味わいに満ちあふれた演奏だろうか。音楽はきわめてさり気なく始まり、こちらから真剣に耳を傾けなければ素通りしていきそうなところすらある。
しかし、いったんその中に没入したならば、その豊かな世界の虜となってしまう。
ゆっくりとしたテンポで始まり、大仰なところは微塵もない。しかし、自在に呼吸する音楽は細かく揺れ動き、さまざまな表情を作り出している。
第2楽章は素直で流れがすこぶる自然で、高貴な佇まいは他の指揮者からは滅多に得られないもの。
第3楽章も内的緊張感が非常に強く、しかも立体的な美感が明晰に現れている。ゆっくりとした歩みのなかにスケルツォという枠組みを超越した味わいを醸し出す。
終楽章は実に劇的に盛り上げており、巨匠の年輪を感じる。
巨大なスケールと枯淡の情趣を兼ね備えたフィナーレもジュリーニならではの至芸といえよう。
こうした表現はウィーン・フィルの真に深々とした響きなしには考えられない。
悲劇的序曲も確信に満ちた表現で、ジュリーニの名人芸には息を呑む思いだ。
ジュリーニという指揮者の芸術の奥深さを改めて思い知らされる名盤。人生経験を多く積んだ聴き手ほどその味がわかるディスクではなかろうか。
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2009年07月25日
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サー・トーマス・ビーチャムは、その82年の生涯のうち50年間のあいだ、コンサート・ホール、オペラ・ハウスおよびレコーディング・スタジオにおいて、フレデリック・ディーリアスの擁護者あるいは鼓吹者であった。
その上、彼は『ディーリアス伝』(1959年)まで残した。
一人の指揮者が、ある特定の同時代の作曲家を半生以上をかけるという現象は、"指揮者の時代"といわれる20世紀においては稀である。
光を失い、半身麻痺した晩年のディーリアスの、眼となり手となって作曲を助けたエリック・フェンビーは、ビーチャムに「どういうきっかけでディーリアスにひかれたのか?」と訊いたことがある。
「フレデリック・ディーリアスという作曲家がいたのさ。私は彼に会ったこともなかったし、また彼の噂すら耳にしたことがなかった。ところが、彼の音楽は他のどの作曲家のとも違っていた。つまり、当時(1907年のことだよ)書かれたどの曲とも違っていた。どんな悪魔がこんな音楽を仕立てたのか誰も知らなかった。それは気まぐれ女のように私を誘惑したので、ひとつ飼いならしてみようと決心したのだ」と言ってシガーに火をつけてから(サー・トマスは大の葉巻党だった)、いたずらっぽく眼をまばたいて言い添えた。
「だが、一日にして出来たわけではなかったよ」
第1次世界大戦後、強烈でブルータルな音楽が崇拝された時代において、ディーリアスの音楽は"かすみがかっているようだ"とか"無脊椎""形がない""甘く感傷的""デカダンなほどロマンティック"などの言葉で片づけられたろう。
その和声は解決しない。それは感知しがたいほど微妙に新しい形態の中へ溶解してゆく。無能な指揮者の手にかかると、それはロンドンの黄色い濃霧のようになってしまう。
ビーチャムは朝日やそよ風のように消えてゆく朝もやの中にいるような感じに仕上げてゆく。ビーチャムは内声部を縫うように通ってゆく旋律の撚り糸に細心の注意を払い、曲にその形を与える。
ディーリアスの好んで用い、また極めて精巧であったディヴィジ(弦楽の分割書法)や感覚的なオーケストラ・カラーなどの扱い方は、まさに"マジック"というしかない。
ビーチャムが後世に残した遺産のうちディーリアスの録音は最もよくまとまった形で保存されている。ディーリアスを聴くためには"バイブル"のような存在である。
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2009年07月24日
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ガーディナー盤は、ガーディナーのアルヒーフ・レーベルへの記念すべきバッハ初録音。
ガーディナー指揮イギリス・バロック管によるものは、いわゆるオリジナル楽器の演奏で、もはやこの曲などの場合、現在ではオリジナル楽器で演奏するのが普通になり、昔ながらの現代楽器の演奏の方が、古典的なスタイルになりつつあるというのが現状であろう。
モンテヴェルディ合唱団の歌唱も素晴らしく、純正な形でこの曲を味わうには、このようなスタイルの演奏が、最もふさわしいという気がする。
演奏は、従来のモダン楽器のものと比較して概して速めのテンポを基調にした明るく明快な瑞々しい表現で新鮮なバッハを再現している。
少しのいかめしさもなく、やさしく語りかけてくるような演奏だ。
フレージングとアーティキュレーションが精密に統一され、見事なアンサンブルを形成している。
またテンポの設定は速めで、軽やかで、生き生きとした展開を示している。
イギリス・バロック管の演奏も鮮やかだが、モンテヴェルディ合唱団が巧い。
少人数の合唱にもかかわらず、美しい響きと、くっきりとした線でバッハを鮮明に表現している。
アリアと二重唱もモンテヴェルディ合唱団が歌っており、その卓越した歌唱でガーディナーの意図を良く表現している。
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2009年07月23日
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この曲の若々しさと、エネルギッシュな精力を感じさせる演奏としては、レヴァイン指揮シカゴ響が素晴らしい。
きわめて現代的な感覚の、すこぶる明るく切れ味のよい演奏で、これほど開放的で陽気な表現というのも、珍しい。
中世の猥雑さや、原始的な生命の謳歌とは別の、底抜けに明るく華麗な音の渦巻きと、若さのリズムの絶え間ない繰り返しによって積み重ねられるエネルギーの噴出が、ここに青春を歌いあげている。
こういう解釈の「カルミナ・ブラーナ」があってもいい。レヴァイン会心の演奏だろう。
レヴァインはオペラの指揮者として定評があるだけに、劇的な盛り上げが実にうまく、全体を大きな放物線で、ひとつのドラマのように捉えている。
独唱者のアンダーソン(S)、クリーチ(T)、ヴァイクル(Br)なども、現役バリバリの一級の歌い手で、きわめて表情豊かな歌唱が魅力となっている。
ことにアンダーソンの第23曲など絶品だ。ヴァイクルの、のびやかで屈託のない表情もいい。
合唱、独唱ともに乗りに乗った熱っぽい歌唱で光っており、それよりも、さらに魅力的なのはオーケストラのうまさだ。
シカゴ響のダイナミックな演奏は、特筆大書されてしかるべきで、その絶妙なオスティナートの効果は最高といえよう。
その艶やかで輝かしい音色は、シカゴ響ならではのもので、ことに打楽器群と金管楽器群は、唖然とするほど見事である。
録音も、各楽器が鮮明にとらえられていて自然だ。
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2009年07月22日
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レヴァイン指揮シカゴ響による、実に透明感のある素晴らしい演奏を挙げておきたい。
レヴァインはこの曲の劇的な要素を的確につかみ、さらに絶妙のテンポ感で全体を流麗に流し、シューベルト固有の旋律を存分に歌わせている。
それにシカゴ響のアンサンブルがまた実に素晴らしく、弦の完璧ともいえるアンサンブルに乗って管楽器がうまくソロで点描的に飾ってゆく。
ダイナミックスも若々しく迫力があり、しかも決して野蛮になることなく、デリケートな心理の綾も緻密に表現して余すところがない。
レヴァインはシカゴ響の細かい響きを生かし、本物のシューベルティアンの心をも捉えずにはおかない天与の音楽性を充分に発揮している。
リズムの流動性、各パート間のバランスやデュナーミクの配分、旋律線の表現もまったく自然だ。
どの楽章も、シューベルトのもつ旋律美にあふれ、シカゴ響も細やかなニュアンスを見事に再現していて、聴かせる。
退屈になることの多い第2楽章でも、シカゴ響はレヴァインのちょっとしたルバートに鋭敏に応えて、絶妙な歌謡性をつくり出す。
そして全体に歌にあふれていて、恰幅がよく響きが豊麗で迫力がある。
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2009年07月21日
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フランソワ&クリュイタンスのディスクは、既に半世紀も前の録音ではあるが、その洗練度とエスプリ、柔軟自在なファンタジーは現在も少しも鮮度を落としていない。
というよりはむしろ、ここまで詩的なセンスを飛翔させた演奏が激減している現在、より一層フレッシュな感覚を我々に与えてくれるものとさえ言えそうである。
ラヴェルは作品の好き嫌いの激しいフランソワの十八番の一つでもあったが、フランソワが名匠クリュイタンスの共演を得て録音した2つのピアノ協奏曲は、まさにその豪華な顔合わせの成果というにふさわしい歴史的名演になっている。
ほろ苦くコクのある音色で音符を深く味わいながら語り継いでいくフランソワの表現は、これ以上はあり得ないほどのファンタジーとポエジーを内在させており、そこから滲み出る濃密な情念は、聴き手の神経をしびれさせるようなデモーニッシュな魅力さえも放っている。
天才と狂気―これはラヴェルとフランソワに共通した資質だ。
即興性を孕みながら、ラプソディックで奔放な表情、密度の高い情緒を一貫して維持して奏されるピアノ、それをサポートし、ときには協調し、ときにはコントラストをつけてすすむオーケストラの鮮烈な、ときには神秘的なみずみずしさ。
フランソワのラヴェルに、そしてこの2曲の演奏にみなぎるポエジー、それも今後この2曲の演奏からたちのぼるとは考えられないような高度に結晶したポエジーである。
《ピアノ協奏曲》でのフランソワは、クリュイタンスの名人的な好伴奏に支えられて、フランス的な感性にあふれた演奏を繰り広げている。
ことに、ラヴェル独特の洒落た感じを表出しているところは、この人ならではのものだ。
第1楽章のホルン、最高音のピアニッシモの甘さはフランスならでは。クリュイタイスのオーケストラとフランソワのピアノは、上品対上品、エレガンスの火花を散らせて、大人の味わいである。
《左手のためのピアノ協奏曲》は、出来不出来が明瞭にわかれるフランソワの演奏のなかでも、特によく出来たもののひとつで、作品全体にただよう不思議な気分を、繊細なタッチと、大きなスケールで表現していて、フランソワの芸術の真価を堪能させてくれることだろう。
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2009年07月20日
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ドヴォルザークには、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのそれぞれに1曲ずつ傑作協奏曲がある。
この作品はピアノ協奏曲とはいっても、ソロとオーケストラのパートを同等に扱ったもので、いわば交響的な協奏曲となっている。
1997年に82歳の生涯を閉じたリヒテルは、強烈な個性と膨大なレパートリーを持つ巨人ピアニストだったが、これは、この彼に勝るとも劣らぬ個性の持ち主クライバーとが、がっぷり四つに組んだ録音。
2人の演奏家の丁々発止と火花を散らす掛け合いの面白さは比類がない。
強烈な個性をもったふたりの演奏家のかけあいのおもしろさに惹かれる演奏である。
激しく燃えるクライバーの棒と、あくまでも冷静に構えたリヒテルのソロは、一見異質で対照的だが、その豪快な音楽の運び方は見事のひとことに尽きる。
ただここでのリヒテルはピアニズムよりは内容を生かそうとしており、スケールの大きい描きぶりだが、全体として今ひとつ吹っ切れない。
ここでの聴きものはクライバーの指揮で、生命力と緊張感に満ちた響きやリズムのよさ、カンタービレの豊かさ、音色の魅惑など、どの一部でも天才的だ。
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パールマンの20代後半の演奏。
ヴァイオリンの超絶技巧をもりこんだこの難曲を、パールマンはこともなげに楽々と、そして見事に弾ききっている。
「魔神」とまで恐れられたパガニーニが開発したといわれる極めて高度な難技巧が集約された《24のカプリース》は、技巧のための練習曲とみなされた時代もあったためか、ハイフェッツをはじめとする20世紀前半の名手たちはほどんど録音していないし、演奏家にとって録音する時期が難しい作品でもある。
1960年代後半から活躍をはじめたパールマンにとっても、最良の時期の録音だったに違いない。
そのほとんど完璧といえる研ぎ澄まされた技巧のすばらしさは、アルペジオやスピッカート、各種の重音奏法など、さまざまな難技巧に余裕すら感じさせるし、作品本来の魅力を鮮やかに再現している。
パールマンは、4歳の時小児麻痺にかかり、以来下半身が不自由となったが、彼の演奏にはそうしたことからくる暗さはみじんも感じられない。
むしろ、持ち前の美音を生かしながら、のびのびと明るい音楽をつくりあげているが、これは、そうした彼の持ち味が最高度に発揮された演奏といえよう。
各曲のもつ味わいを、表情豊かに、時には幻想的に表現しており、聴いていて飽きることがない。
同曲の演奏にときおり見られるような自虐的な悲壮感はなく、その音色はどこまでも暖かく、どの曲からも演奏という行為の愉悦が感じられるところが好ましい。
パールマンにとっても二度と望めぬ名演だろう。
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2009年07月19日
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この協奏曲に関しては、つい最近、注目すべきCDを聴いた。それは、ヴァンスカ指揮によるラハティ響のサポートを得たレオニダス・カヴァコス盤である。
そこでは、当協奏曲の現行版とあわせて、これが初演されたときのオリジナル版が初めて収録されており、比較して聴くことができるので、なんとも興味深い。
こうして対比して聴いてみると、現行譜は初演譜にかなり手を加えていることがよくわかる。
特に第1楽章の管弦楽パートに、それが著しい。オーケストレーションは厚味があり、現行版よりも劇的な性格といえよう。
これまでシベリウスが改訂したという事実は知っていたが、今回初めてそれを耳で確認することができた。
オリジナル版はソロ・パートがよりヴィルトゥオーゾ風で、第1楽章は2つのカデンツァをもつ。
1967年フィンランド生まれのカヴァコスの演奏は、決して目を奪うようなヴィルトゥオーゾ風の性格ではなく、どちらかというと線が細く、伴奏ともども地味だけれど、内省的な好ましい雰囲気をもっており、じっくりと聴くことができる。
カヴァコスの引き締まって艶やかな音は、表情を抑えた場合も美しい緊張感を作り出している。
彼は若さに似合わず落ち着いた情感をもっており、加えて洗練された感覚がシベリウスの音楽に一層磨きをかけている。
オーケストラも好演している。
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2009年07月18日
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クライバーによる劇的表現と精妙な音楽づくりを堪能できる。
クライバーの音楽特性のよくあらわれた演奏で、彼は、ヴェルディの音楽に現代的な感覚を盛り込み、彼独自の音楽の世界をつくりあげている。
イタリア・オペラにしては、造形が厳しすぎる気もするが、大変精度の高い演奏だ。
ここにあるのは、単に流麗で感傷的なメロドラマではなく、切実な感情によって動かされ、生きていく人間たちのドラマであり、ヴェルディの真の意図が感じとれる。
クライバーならではのまことに生彩あふれる演奏である。
と同時にクライバーは、第1幕の前奏曲から、このオペラの悲劇性を精妙きわまりない表現によって明らかにし、常に生き生きとした流れと劇的で鮮やかに変化をそなえた演奏によって、音楽の最深部にまで的確な光を当てつくしている。
バイエルン国立歌劇場管からこのように精緻な陰翳に富んだ響きと表現を引き出した手腕も、まさに至芸というべきだろう。
歌手陣は必ずしも最強力とはいえないが、コトルバスのヴィオレッタは、そのいく分暗い声とこまやかな表現によって、悲劇のヒロインを繊細に演じていて、非常に細かい感情表現とセンチメンタルな歌唱で胸を打つ。
他の歌手もクライバーの指揮に応えてそれぞれベストの歌唱を聴かせてくれる。
LP4枚を機械的にCD2枚にするのではなく、幕や場の設定を考えた制作にも拍手を送りたい。
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2009年07月17日
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カルロス・クライバーのデビュー盤で、1973年に録音されたものである。
クライバーはこのとき43歳。彼の表現は、実に若々しい情熱と活気にあふれている。
クライバーの精妙な音作りと繊細な感覚がいたるところに示されていて、単にドイツの森の神秘と郷愁だけでなく、その深い森の中にきわめく陽光のたゆたいまでも、身妙に描き出す手腕はさすが。
音楽が生き生きとした活気に満ち、豊かな劇的イメージと劇場的な広がりを持っている。
序曲が鳴って《魔弾の射手》が生まれ、ドイツ・ロマン派の音楽が生まれる。まさにその瞬間に立ち会う思いがする。
なんという勢いだろう。
音楽は若々しく、溌剌として生気いっぱい。演奏の若さと溌剌と生気とをこちらにぶつけてくる。
カルロス・クライバーの名を世界的にした演奏は、いまもその勢いを失っていない。
緊張感がまったくゆるがず、最後まで突っ走る。
指揮者に引っ張られている観もあるけれど、ペーター・シュライヤーやグンドゥラ・ヤノヴィッツの歌も実に清々しく、正調なドイツ・ロマン派の息吹きに溢れている。
ほかの歌手たちも、録音した時の最上の歌手たちというだけでなく、見事に決まったメンバーだ。
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2009年07月16日
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これはクライバー本人がなかなか満足できず、発売が遅れた録音だ。いっそう燃え上がった有無を言わさぬ演奏が可能であったとは思えるものの、十分に素晴らしい。
クライバーの果敢な意欲と完全主義が、この演奏全体に躍動し、鮮烈な光彩を与えている。
言葉で言い表せぬほどしなやかで、精妙この上ない妖しいまでの官能美を湛えており、テンポの大きな伸縮やデュナーミクの変容と緊密に関連しながら、この比類のない愛のドラマを雄弁に表現している。
クライバーの《トリスタン》は、内側へ、下方へと沈んでゆく。激しく情念や官能性を噴出させるのとはまったく逆の方向を持っている。
エネルギーは凝縮されてゆくことによって高まる。この驚異的な作品の、ドラマと音楽との基本構造にかなっていると言うべきかもしれない。
凝縮されていくエネルギーは、解放以上に聴く者をとらえる。空前の《トリスタン》がここにある。
前奏曲は、上等のなめし革のような触感で、静けさと熱っぽさ、爽快感と粘り気が不思議なバランスで同居している。
第2幕の静かな愛のシーンでは清冽な美しさが繰り広げられる。オーケストラは透き通っていて明るく、この響きによって、音楽は常に柔らかな光りに包まれる。
実に新鮮な感銘を与えるプライスのイゾルデ、積極性のある好演が光るコロのトリスタンなど、歌手たちの歌は優れているだけでなく、指揮者の音楽に見事に合致しており、オーケストラと相まって、他に類がない細やかな味わいのある演奏になっている。
石の建築ではなく、金属とガラスのそれにも喩えられようか。
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2009年07月15日
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いわゆるこの曲のノスタルジックな面を強調せず、素晴らしいプロポーションで、古典的に再造形してみせたのが、C・クライバー指揮ウィーン・フィルの演奏だろう。
緩急起伏を大きくとった、リズム処理のうまい演奏で、この曲の古典的な様式を見事に洗い出し、すっきりとしたフレッシュな表現を行っている。
この点を詳しく述べれば、この演奏で特に目立つのは、独特のリズム処理である。
そこでは、日頃聴きなれた楽想がまるで見違えるような表情を刻みこむ。
特に終楽章などは、西洋音楽のほとんどすべての手法が、さながら大博物館的に集約されている。
全体にコンサート・ライヴのような即興性と熱気を帯びているが、クライバーはブラームスの音楽が本質的に内包している核博な知識や技術を徹底的に見直して独自の形に再建しつくしている。
クライバーはウィーン・フィルを思い切り良くドライブし強靭な歌を歌って行く。この交響曲からこれだけ激しく凄まじい表現を聴けるのは珍しい。
伝統的な解釈を捨て去って、フレッシュな感覚で楽譜を読み、その裏にあるものを描き出そうとしたようなクライバーの演奏は、いささかユニークと言えるかも知れないが、その表情の精緻なこと、そして起伏の大きいこと、しかもしなやかな美しさに満ちていることなどから、一番に挙げたいものである。
ウィーン・フィルをここまで自分に引き寄せている点も見事と言えよう。
テンポは快速で渋滞がなく、むしろスポーティなほど流麗である。
だが子細に聴くと、その中にも無限の音楽的なニュアンスが込められて、明滅するように息づいているのである。
クライバーならではの天才的な表現で、余人のなすところではないだろう。
ウィーン・フィルの演奏も実に素晴らしく、ブラームス晩年の渋みの勝った、いぶし銀のようなサウンドは文句なしである。
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2009年07月14日
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1978年の録音ではあるけれど、カルロス・クライバーがウィーン・フィルを指揮した演奏内容は、音楽の流動感に洗練された勢いの良さがあり、リズムも鋭利、曖昧な要素は少しもなく、しかも柔軟性ある表情豊かなもの。
今日の感覚でつぶさにみても、不足するところは何ひとつとしてない。
第3番は素晴らしく瑞々しい表現である。
この曲はシューベルトのいわば"若書き"だが、クライバーはここに軽やかな運動性と明晰な表情を盛り込むことに成功している。
特に第2楽章は従来の演奏と大きく異なっているが、これは2拍子で書かれた楽譜に忠実なためである。
「未完成」も、ロマン性に溺れない厳しい演奏で、しかも強い孤独感に満ちている。
既成概念を取り去った純粋な表現というべきだろう。
ここでのクライバーは、ワルターやベームとは、ひと味違った指揮をしている。
つまり、柔らかな表情を前面に打ち出した演奏ではない。
強いアクセントと、ダイナミックな音の強弱と色彩感を駆使した演奏で、クライバーのシューベルトの音楽に対する、厳しい姿勢がうかがえ、聴く者をぐっとひきつける。
これは「未完成」の新しいタイプの演奏といえよう。
オーケストラも熱演で、従来のウィーン・フィルとは思えないような力強い響きだ。
この交響曲の魅力を、強いインパクトをもって告げてくれるような好内容といえよう。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2009年07月13日
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いかに天才ヨハン・シュトラウスといえどもこの《こうもり》を凌ぐオペレッタを残すことはできなかった。
というより、《こうもり》はオペレッタとかオペラという枠を越えた極上の音楽劇であり、そして、そのことを初めてはっきりと証明したのが、このカルロス・クライバーの演奏であったといってもよいだろう。
このウィーン生まれのオペレッタにあふれる独特のウィーン情緒や粋な味わいなら、1950年代のクレメンス・クラウスやカラヤン指揮によるウィーンの名歌手たちの録音の方が楽しめる。
そして、それはそれでまたなかなか捨て難いのだが、クライバーの演奏は、最初の序曲から最後まで、一瞬といえども隙がなく、この作品にみなぎる愉悦感とはじけるような生命力を完璧なまでに表現しているので、クライバーの天才的な指揮もさることながら、ヨハン・シュトラウスの音楽の素晴らしさも再認識することになる。
もちろん指揮だけでなく、キャストも非常に充実していて、ヴァラディ、ポップ、プライ、コロ、ヴァイクルなどの芸達者な名歌手たちの歌が見事であり、ロシア民謡歌手レブロフがファルセットで歌うオルロフスキーも絶妙である。
そのためにこのクライバーの《こうもり》は、聴く者に極上のシャンパンのような素敵な酔心地と陶酔感を満喫させる。
その輝かしい音楽の魅力が、普遍的なものであることを初めて明らかにした名演として忘れることができない。
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2009年07月12日
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いま、まさにこの交響曲第5番が作られつつあるのだ、という不思議な、そして間違った感覚を持ってしまうのはどうしてなのだろう?
音楽の持つ即興性を再現させるという不可能事がクライバーによって、しかもこの極度の論理性・構築性によって出来上がっている交響曲で実現されている。
この曲の演奏の、20世紀の型を作り上げたとも言うべきフルトヴェングラーとトスカニーニの両極がここで結びついてしまったよう。
よく聴けば、テンポを大きく動かしたり、効果を高める工夫をしたりする恣意的なところはとても少ないのだが、それでいて人間の肉体的感覚を離れた、機能としての音楽からはかけ離れている。
主題の提示からして、この演奏はすでに劇的なのだ。
機能性がそのまま劇的感覚と結びついているという点では、交響曲第7番こそその極致であるかも知れない。
確かにコンサート会場を熱狂させる最高の武器である第7番なのだけれど、実際には熱狂をあおるのがそのまま弱点になりがち。
ところがこの演奏は、恐るべき劇的感覚によって支配されていながら、その劇的感覚が曲そのものからくる素直な表現でもある。
第1楽章が踊り出すときのめくるめく思いや、まるで一切の感傷を許さないとばかりに疾走するアレグレットの息を飲む感覚も特別だけれど、やっぱり終楽章が誘う錯乱は永遠に死なないだろう。
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2009年07月11日
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このディスクのプロデューサーであるジョン・カルショーの「現在望みうる最上の《指環》をレコードで再現したい」という執念のようなものが感じられる名盤だ。
ワーグナーの巨大な4連作《ニーベルングの指環》のステレオ全曲録音は、ショルティ/ウィーン・フィルの顔合わせによって始められた。
そのレコーディングは1958年9月の《ラインの黄金》に始まり、《ジークフリート》(62)、《神々の黄昏》(64)を経て、1965年の《ワルキューレ》に至るというものであったが、それは、たんに壮大なスケールをもった記念碑的なプロダクションということだけではなく、その後予想もつかなかったような数にのぼる《指環》の全曲盤が登場しているにもかかわらず、このショルティ盤を超えるものがいまだにないという点において、重要な存在をなしてきている。
そこでショルティは、ウィーン・フィルという伝統的なオーケストラの本質的なものを決して損なうことなく、完全に近代的なアンサンブルに仕立てあげ、ワーグナーの音楽のスタイルを緻密で雄大に展開しえている。
ショルティの精妙な演出と、スケールの大きな、ダイナミックな表現もさることながら、録音効果がまことに抜群で、全曲を飽きさせずに聴かせてくれる。
ロンドン、キング、ヴィントガッセン、ニルソンらをはじめとする歌手たちのすべてが、その時点における最もすぐれた、しかも適切な人々であることはいうまでもなく、すべてにおいて理想的な条件が追究されているということは、レコーディングにおけるひとつの黄金時代であったからこそ可能であったといえなくもないが、ワーグナー・ファンはもちろん、ワーグナーに興味が乏しい人々にとっても、こればかりは、無視することのできないものであるといってもよかろう。
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2009年07月09日
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ブラームスは録音が古く(1949年)、音の状態はあまりよくないが、歴史的な名演奏として価値が高いものである。
フルトヴェングラーと厚い友情で結ばれたメニューインの、ひたむきにひきあげる気合いの入ったソロも素晴らしいが、巨匠フルトヴェングラーの雄渾なバックも、感動的だ。
メニューインのヴァイオリンはこの大指揮者への傾倒がにじみ出ており、真摯にして純情、やや線は細いが心がいっぱいにこもって、しかも粘りすぎていない。
オーケストラともども音楽が豊かに湧き上がってくる。
フルトヴェングラーは造形は地味だが、響き自体はまことに立派で風格があり、内に秘められて過剰を見せぬ気迫が見事である。
オーケストラが鳴り出した時、一瞬、私は異常な衝撃を受けた。この時、ブラームスの真の音を聴いたような気がしたからである。
その音には重厚でうっすらと暗い、あの灰色のハンブルクの空があった。
こうした素晴らしいバックは、ほかのどの演奏にもない。
そのせいか、メニューインのヴァイオリンも、ことのほか激情的で、旋律を心ゆくまで歌わせている。
メンデルスゾーンも決して最良の音ではないが、1952年の歴史的名盤。
戦後の混乱も収まり、ようやく新しい時代の明かりが見え始めた頃の録音だが、メニューイン=フルトヴェングラー/ベルリン・フィルによる演奏は、時代が背負ってきた重みを嫌がうえにも実感させる深刻さがある。
感覚的喜びに我を忘れるゆとりはなく、大地に両足をしっかりと据えて自身の内面を見据えた情熱と気迫が一貫している。
36歳のメニューインと最晩年の巨匠による奇跡の演奏だ。
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2009年07月08日
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録音は古いが、LP時代にきわめつきの名演といわれていたものである。
ベートーヴェンは完全にフルトヴェングラー中心の演奏である。
ベートーヴェンの音楽に深く傾倒していたフルトヴェングラーの、スケールの大きな熱演に圧倒される。
メニューインは、極端にいうとその中で安心してその解釈にひたっているといった感じである。
メニューインは、やわらかな音色で、フルトヴェングラーの巧みな棒さばきによくこたえて、感動的な音楽をつくりあげている。
メニューインのヴァイオリンは、身も心も音楽に打ち込み、細かいデリケートな音で真摯であたたかい愛情を込めて弾いている。
フルトヴェングラーは心静かに、沈み込むような味でソロを包んでおり、曲想の変化をよく捉えた演奏をしている。
メンデルスゾーンでは、少しメニューインも自己主張していて、暖かい音色と、この時期の彼としては無難なテクニックで優しい表情でひき進む。
フルトヴェングラーは、柄の大きいシンフォニックな表現で、メニューインをすっぽり包み込んでいる。
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2009年07月07日
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名指揮者であれ、ロシア人であれドイツ人指揮者であれ、イタリア人であれ、巨匠であれ若手であれ、この交響曲を録音していない指揮者を見つけることの方が難しいほどの名曲だが、ハンガリー生まれの巨匠オーマンディ(1899-1985)も頻繁に採り上げてきた歴史を誇っている。
その生涯に実に6回も録音、その記録はカラヤンに並ぶほどである。
ここに挙げたのは1975年の録音で第5回目のものだが、作品を知り尽くした指揮者とオーケストラとが篤い信頼関係を背景に堂々と、またふくよかな息づかいで作品を再現した名演であり、どこを取っても、どこから聴いても納得させられる。
しかも演奏全体が健康的で、前向きであり、それが聴き手の心を清々しいものに変えてくれるのである。
こういったプラスアルファの満足感を与えてくれる名演は意外に数少ないものである。
個性やアクというのでなく、むしろ職人芸的巧さで一世を風靡してきたオーマンディは、歳月の経過とともに忘れられていく運命にあるようだが、この演奏を聴くたびに存在感が甦ってくる。
"フィラデルフィア・サウンド"が圧倒的で、とくに金管楽器の艶やかな音色は、ほかのオーケストラからは求められないものだ。
第2楽章の陶酔的なホルンの響き、第4楽章の金管群の燃え立つような合奏。なんとも、実に、爽快な表現である。
第1楽章など、やや華麗すぎるきらいもなくはないが、メリハリをきっちりとつけたオーマンディの指揮は立派で、練達の芸といってよい。
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2009年07月06日
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「第1」「第2」は、完成された演奏だ。
ときにもっと若く荒々しい情感も欲しくなるが、普段、何気なく素通りしているフレーズの数多くが、意味深く提示されながらも、些かの恣意性も思わせないのはさすがだ。
全体のバランスはまさに必然。内声を思い切り弾かせることで演奏に雄々しい力感が漲っている。
「英雄」も雄渾極まりない演奏である。
第1楽章は、冒頭の2つの和音からして厳格な秩序を思わせる響き。
外見こそ端正なのだが、そこに鳴っているすべての音が、ベートーヴェンの心に近づこうとするような気迫が凄まじい。
スコア通りの木管によるコーダのテーマは、そこに命の火が燃えているような気に満ちている。
第2楽章も感傷や涙とは無縁の高級な「葬送行進曲」であり、第3楽章も健全なる精神の舞踏。
フィナーレでは、変奏曲を得意としたベートーヴェンの創作の極意を堪能できる。
「第4」では、第1楽章に注目したい。
第1主題の提示を終え、短い推移を経て、そのテーマを繰り返す場面でのティンパニの活かし方、そのテーマを揺るぎないものとする意味が、これほど伝わる演奏はなかなかない。
序奏や展開部以下の充実度も申し分ない。
「第5」は速めのテンポとキリリと引き締まった造型が特徴。
第1主題は一気呵成、優美に歌われるはずの第2主題さえ怒涛の迫力で押し切ってしまう。いきおい表現は単色になるが、こういう手もありだろう。
その勢いのままに突入した第2楽章の堂々たる偉容も尋常ではなく、第3楽章以下もすべての楽器が鳴りきった迫力に圧倒される。
そして演奏がどれほど荒れ狂っても、貴族のような気品が失われることはない。
「田園」はヴァントの長所と短所の両方が現れた演奏。
最初の2楽章の伸びやかさ、優しさといったらどうだろう。あまりの美しさと優しさに哀しみをすら湛えた第2楽章を聴きながら、ヴァントが到達した孤高のブルックナー演奏への予兆を聴くのである。
ところが、第3楽章以下になると、とたんに面白味がなくなる。スケルツォでは農民たちの歌い踊る愉しさが見えず、第4楽章も「嵐」というよりは、単なる「音の運動」になってしまっているのだ。
つまり、ヴァントの演奏は、あまりにも「純器楽的」でありすぎて、作品の構造や形式は手に取るように分かるのだけれど、情景が見えてこない憾みが残る。
「第7」「第8」も、素晴らしい。
雪解けの奔流のような勢いと清冽さがあり、一切の夾雑物なしにスコアの秘密が解き明かされていくのを見るようで、精神的に愉快な演奏なのである。
ヴァントの生真面目さよりも、精神の自由さが勝った演奏と言えようか。
「第8」には、もっとユーモアの感覚が望まれるのかも知れないが、それを補って余りある躍動感がある。
「第9」は惜しい。第4楽章が著しく不出来なのだ。というより、独唱陣がひどすぎるのである。
テノールこそ可もなく不可もなしといったところだが、バリドン独唱はテキストの崇高さを台無しにしたルーズな歌唱ぶりで、8分音符の音価や音程が実にいい加減である。
しかし、何といっても女声、特にソプラノの悪質なヴィブラートには耳を疑う。なぜヴァントは許したのか。「こんな歌手では録音しない」と言うべき……否、事前にしっかり調査して、的確な人選をなすべきだったのだ。
コーラスも、アルトの表現力が弱いほか、全体にも声色の変化や陰影に乏しく、大味の感は否めない。
最初の3楽章が崇高な演奏だけに、まことに残念な結果であった。
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2009年07月05日
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ここに採り上げる全集は、1986年から90年にかけて、ヴァント生涯最後の伴侶、北ドイツ放送響と行ったスタジオ録音であるが、これは、ブルックナーやブラームス演奏とともに、ヴァントの名を後世に残す重要な全集であることは間違いない。
全演奏に一貫する特徴の第一は、「綿密なアナりーぜ」の跡が伺えることであろう。アナリーゼとは、主題をどのように発展させ、変容させ、展開させて楽曲を構成するかというベートーヴェンの創作の原初に遡るべく、スコアをとことん研究し、解剖して、緻密に演奏を繰り広げていく態度のことである。
もちろん、楽曲のアナリーゼはどんな指揮者にとっても当たり前の作業なのだが、ヴァントのスコアの読みの深さ、詳細さは群を抜いており、その結果、音楽のどの瞬間も新しい意味を帯び、真の感動に息づくことになる。
第二には、すべてのパートの充実である。同じくブルックナーを得意とした朝比奈もまた、スコアにあるすべての音に命を与えようとしたが、ヴァントの扱いはもうひとつ上の次元を行く。
朝比奈の場合、「フォルテはフォルテ」という豪放磊落な姿勢に由来するのだが、ヴァントの場合は、同じフォルテであっても、そこには無数の序列が生まれているのである。すべての音符が全曲の中における自分の位置を知っているかのように。
また、内声や対旋律の充実度、金管やティンパニの強奏はドイツ演奏の伝統を逸脱したものであり、演奏の力強さと響きの意味深さは類を見ない。
第三は、北ドイツ放送響の合奏能力の高さであろう。ドイツ伝統の重心の低いサウンドと堅牢なアンサンブルを保ちながらも、放送局オケの使命として難解な現代音楽もこなす柔軟性と国際的に開かれた表現力を併せ持つオーケストラだからこそ、重箱の隅をつつくように詳細なヴァントの要求に応えることができるのである。
また、そうしたヴァントとオーケストラの共同作業を余すところなく捉えた録音の優秀さも称賛に値する。
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「謹厳」「厳格」「気むずかし屋」「頑固者」……、ヴァントのイメージといえばそういう固いものばかりで、素晴らしいことは分かっていても、気安く近づけない感がある。
確かに、ヴァントの演奏に「立派だけど華がない」「遊びがなくて息が詰まる」という側面はある。ヴァント芸術は見るからに人を拒む峻厳な山のようだ。
しかし、ひとたび心に汗をかきながら登り詰めるなら、その頂きは思いのほか見晴らしが良く、自由な空気に満ち、美しい花々に彩られていることが分かる。何より、地上よりも「天」に近づいた気がするのである。
しかしヴァントがこのような真の自由を獲得したのは、80歳を越えた頃からだ。若い頃のヴァントの録音を聴くと、真面目さが仇になっているケースが多い。
ことに、最近CD化されたケルン・ギュルツェニヒ管時代のベートーヴェン(1950年代)など、まったく融通のきかない生硬な演奏だ。正攻法でありながら、オーケストラの合奏力が低い、とこられては、退屈な説教を聞かされているような気になる。
ヴァント自身、これらを「不十分」な演奏と語っていたそうだから、生きていれば発売を許可したかどうか。
しかし、ヴァントの偉大なところは、そうした演奏への真面目な取り組みを重ねることで、晩年の神々しさ、真の自由を獲得していったことである。
これは尊敬に値するとともに、多くの芸術家、音楽家への希望となり励みとなろう。若い頃に天才的な表現力で人々を魅了しながら、自らの才に溺れて研鑽を怠り大成できないで終わる演奏家の何と多いことか。
その点、「天才」ではなかったヴァントが到達した晩年の「高み」というのは、弛まぬ努力の尊さと、日々の研鑽の大切さを我々に教えてくれるのである。
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グリーグは過去のどの録音よりも素晴らしい。
ツィマーマンのピアノは、カラヤンの示唆もあったのか第1楽章冒頭から壮大、大柄であり、非常に遅いテンポでルバートを効かせつつ音楽を開始する。
第2楽章も各部を感じきって弾いており、不自然さも全くない。
カラヤンの指揮も完全なドイツ後期ロマン派調で、北欧のリリシズムとはやや異質だがスタイルとしては最高。
グリーグはライプツィヒでシューマンやメンデルスゾーンの音楽の様式を学び、それらを下敷きにこの曲を作曲しているが、この演奏には、そうしたドイツ音楽の演奏を思わせるような性格が濃厚にあらわれている。
かなりカラヤン・ペースの演奏ではあるが、その若々しくロマンティックな表現には魅せられる。
シューマンは両者ともやや大人しい。
この作品の抒情的な性格を、きわめて知的な目でとらえた演奏で、実にこまやかなタッチとペダリングによる、明澄な音色をもった、高雅な表現をおこなっている。
老練なカラヤンの棒と、みずみずしいツィマーマンの感性が、美しくとけあった名演だ。
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シベリウスの管弦楽曲を集めたこのディスクには「フィンランディア」「トゥオネラの白鳥」「エン・サガ(伝説)」などが収められており、最も基本的な選曲かつ最も優れた演奏と言える。
シベリウスの代表作だけに録音も多く、その中で、北欧系指揮者の演奏に眼が向けられるのは当然の成り行きだが、視野を広げる時にまず思い浮かぶのは、カラヤン/ベルリン・フィルの録音である。
カラヤンは20世紀を代表する指揮者のひとりであるが、オーケストラの機能を極限にまで発揮させ、それによって作品の性格をクローズアップさせるのが彼の個性であった。
そのような個性が、交響詩の形式に適していたことは容易に想像がつく。
カラヤン得意のシベリウスだけあって、演出のうまさと豊かな表現力に惹きつけられる。
カラヤンの個性が凝縮されており、北欧的な色彩感、情熱の昂揚などがストレートに伝わってくる。
しかも演奏のスケールは大きく、表情は豊かで、聴き手を包み込む。
ベルリン・フィルのヴィルトゥオーゾ・オーケストラとしての実力がそれを可能にしている。
重厚な「フィンランディア」から精緻な「タピオラ」まで、夢幻のニュアンスに満ちて、ドラマ性と抒情性が最高のレベルで融合した名演ばかりで何も言うことはない。
「フィンランディア」は、逞しく劇的な設計と、オーケストラの卓抜なアンサンブルに魅了されるし、「トゥオネラの白鳥」は、暗い北欧的な気分と抒情とを見事に描出している。
また「エン・サガ」は、この曲のもつ幻想的な雰囲気を、表情豊かに描いていて素晴らしい。
その北欧的な詩情と哀愁の気分に満ちた描き方などは、本場の人たちの演奏よりも、さらにフィンランドの民族色と大自然とを感じさせる。
このあたり、まさにカラヤンの至芸である。
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シノーポリ盤こそは久しく待たれていた名盤で、この作品に内包される新たな美と真実を知らしめた名演である。
フレーニの見事に熟した声で歌われるトスカは、堂々として、しかも女性的で、美しい。
官能の美はシノーポリの巧みな棒から生まれる音楽にも認められる。
激しく荒々しいのがトスカという女声の特徴だと思い込んでいると、フレーニのトスカには驚かされる。
逆上しても声のまろやかさを失わないトスカなのだから。
それは弱点であるどころか、最高の美質となっている。
舞台で味わうのがほぼ不可能な、しかし味わえたらどんなに素晴らしいかと願うトスカがここにいる。
過剰なほどに劇的なシノーポリの指揮がフレーニのトスカの良さを鮮明にし、フレーニのこまやかなトスカがシノーポリの起伏に富んだ指揮を、一層はっきりとさせる。
安易な役作りではないプラシド・ドミンゴのカヴァラドッシは、定評あるものだし、サミュエル・レイミーのスカルピアも申し分なく、ぴしっとキャスティングが決まった《トスカ》なのだが、それでもフレーニのトスカとシノーポリの指揮の重要さは変わらない。
まだこれから、という時に亡くなってしまったシノーポリの、オペラの演奏での代表作であると考えられる。
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2009年07月04日
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ジュリーニは歌の人だ。演奏のどこを切っても、ティンパニの一打にすら豊潤な歌が溢れている。それはトスカニーニのようなナイフの切れ味を持った歌ではなく、独特の粘りとうねりを伴うのが常だ。
このマーラーにも、ジュリーニ特有の粘りつくような歌が健在である。ゆえに賛否両論、「この歌の渦にいつまでも巻き込まれていたい」という人もあれば、「付き合いきれない」「これはやり過ぎだ」という人もあろう。
私は断然前者である。それは自分の性分にピタリと合うからだろう。
ジュリーニの歌に惹かれるのは、その歌が誰にも真似できない「豊かな響き」を持っていること。また、いかに歌が洪水のように溢れていようと、その道筋が道理にかなっているからであろう。
然るべきところにアクセントがあり、その長い呼吸には不自然さがひとつもない。
もちろんそれらのすべてができただけで、マーラーの「第9」が完璧に演奏できるというわけではないだろう。だとすると、演奏家よりも理論家、音楽学者の方が立派な演奏ができるということになってしまう。
結局、最後にものを言うのは、音楽家個々人の直感であり、本能であり、霊感なのだ。
ジュリーニのマーラーに聴く、心にズシリと響く感触は、ジュリーニの人生そのものであり、その人生はマーラーによって祝福されていると思えてならない。
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2009年07月03日
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ノリントン指揮ロンドン・クラシカル・プレイヤーズは、この曲の初演時とそっくり同じ編成で録音したオリジナル楽器盤である。
無論オリジナル楽器による演奏はこれが初めてである。
これは普通チューバで代用するオフィクレイドという楽器を復元し、またハープも初演時と同じく4台用いるなど、凝りに凝ったオリジナル演奏になっている。
そのせいで従来いわれてきた、グロテスクな味わいがすっかり消えて、額縁にはめられた古典的な幻想画を見るような、不思議な趣をもっている。
これを聴くとこの曲が、ベートーヴェンの死後わずか3年後(「第9」の6年後)に書かれたというのが、実感として迫ってくるから不思議である。
標題音楽解釈にとらわれず、古典的な純粋性を求めた演奏であり、全体に清澄な印象が強い。
奏者の水準は非常に高く、演奏が飛び切りよい。
第3楽章は透明度の高い空気感をよく描いているし、第4楽章も白昼夢のような怪異さを的確に示している。
さらに第5楽章の鐘の陰気な表情などはこの演奏ならではだ。
揺るぎない存在理由をもち、聴き手に多くの問題を突きつけてくる演奏である。
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蘭エディソン賞、グラモフォン・レコード賞を受賞した名盤。
ヤナーチェクのオペラを聴くならまず「イェヌーファ」からというのが常道だろう。
イギリスの名指揮者マッケラスはチェコで学んだこともあり、ヤナーチェク復興に大きな足跡を残している。
ウィーン・フィルとの一連のヤナーチェクのオペラ録音シリーズは、いずれも高い水準と非凡な魅力を持っている。
ヤナーチェクの主要な作品の現在までのところ最も信頼できる版の作製に努めているマッケラスは、初演の直後にヤナーチェク自ら改訂した最終稿を用いながら、そこへたどり着くまでになぜか削除された序曲やオリジナル版の音楽を加えるなど、「イェヌーファ」の最も純粋な原型の再現を意図している。
演奏もヤナーチェクの音楽の魂を率直に力強く表現したもので、これまでにない深い感動をおぼえる。
マッケラスの指揮は作品への愛着と共感に根ざした踏み込みの深いもので、登場人物の一人一人に生命を吹き込んでいる。
ゼーダーシュトレームのイェヌーファ、ランドヴァーの教会のおばさんなどを揃えた配役も万全で、それにイェヌーファをめぐる対照的な性格の2人の男性、血のつながらない兄弟同志でもあるラツァとシュテヴァを演じるオフマンとドヴォルスキーは、これ以上望み得ない適材適所の配役で、作品への愛着と共感に根ざしていて、マッケラスの名指揮に花を添える。
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ズスケの潔癖さが感じられる演奏だ。
彼は世のヴィルトゥオーゾ型ヴァイオリニストがしばしば示す"粘った表現"や"アクの強さ"を確固として避けている。
例えばソナタ第1番の「シチリアーノ」は、大方の奏者が粘って歌おうとするが、ズスケはあくまでさらりと奏でる。
余分なものを抜きにして、心静かにバッハが織り上げたものに包まれたい人には、好ましく感じられる演奏だろう。
ズスケのヴァイオリンの音にはまったく気張りというものがなく、力みのない演奏は実にツボを押さえたものだ。
一切の誇張を排し、作品をあるがままの姿で立ち現そうとする。
決して作品をつき離しているわけではなく、それどころかバッハの作品にぴたりと寄り添って、あたかも作品の息吹を呼吸しているかのようだ。
見事なまでに自我を放棄した彼の演奏は、ある種すがすがしい新鮮さと魅力を持っている。
聴き始めた途端、その響きの新鮮さと格式ばらない語り口に強くひかれる。
ズスケの演奏を特徴づけているのは、なによりも一切の強制的な力から逃れ得た演奏のみが持つ自由な表現の魅力である。
伸びやかな表現で、しかも作品の本質をあらわにしているのだ。
こうした演奏は何といってもズスケの室内楽体験から生まれたものであり、この「無伴奏」も、いわばソロで演奏する室内楽といった趣がある。
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極めて自信たっぷりな、実に健康的な名演。
ラロはこの作品にみなぎる、明るくリズミカルな性格を強調した演奏で、開放的でエネルギッシュな表現である。
こうした色彩的で華やかな作品は、パールマンの肌にぴったりと合っているせいか、隅々にまで乗りに乗って演奏しているのが、なんとも快い。
特に第1楽章は優れており、ヴァイオリンの音として結晶化しきっていて、この楽器の種々相を最高のテクニックと音楽性で示してくれる。
バレンボイムの好サポートも見逃せない。オケから豊かな量感を引き出し、堂々とした厚みのある、スケールの大きな演奏を展開する。
特に舞曲調の終楽章は、このふたりの息の合ったかけあいが聴きものだ。
サン=サーンスも同様の好演だが、作風に合わせてパールマンの特質がやや制御されているのも極めて妥当だ。
音色の美しさはグリュミオーと同じだが、パールマンの演奏は、巧みな抑制をきかせながら、内からわきあがる情熱を力強く表出している。
第1楽章の暗く劇的な表現も見事だし、第2楽章の豊かな歌にあふれたバルカロールの歌わせ方も素敵だ。
バレンボイムの棒も、パールマンとの共演が多いだけに、息が合っている。
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2009年07月02日
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ショルティ指揮シカゴ響の演奏では、終楽章のコーダは木管が延々と吹き続け、スコアの指示フェルマータ、ディミヌエンド、それにルンガ(フェルマータを長く延長する)を忠実に励行している。
チェコのいわゆる本場の演奏は、ここの部分を適当に切り上げているのだが、それはオーケストラがしんどいからで、名指揮者ビューローの「伝統とはだらしないことの別称だ」という警句が、いみじくも思い出される。
だがこの指示を最初に忠実に再現したのは、小澤征爾指揮サンフランシスコ響の録音だった。
日本人の小澤は伝統を知らなかったからこそ、徹底的にスコアに忠実になれたのだろう。
以後ヨーロッパの指揮者も、この指示を避けて通れなくなった。チェコの指揮者の大部分は未だに、適当に切り上げているようではあるが…。
本場のいわゆる伝統的な演奏というのは、単に自分達の都合のいいように、オリジナルをねじ曲げているケースが多いのである。
おそらくヨーロッパのオーケストラの楽団員達も、小澤の解釈に接して目から鱗が落ちる思いをしただろう。
「新世界より」はきわめて新鮮な感覚美と音楽的な起伏と、抒情的なゆたかさを感じさせる。
この曲の劇性も素直に示されており、第1楽章の冒頭から自然な起伏が流麗な表情をつくり、ふくよかな響きが渾然一体となり、曲の詩情と交響性をよく調和させている。
数多い「新世界より」のなかでも注目してよい秀演である。
「謝肉祭」も力強く、確信に満ちた表現が実に晴朗な音楽をつくっている。
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CDのメリットを最大限に生かした演奏で、予想にたがわず立派な名演だ。
音の面ばかりでなく、スラットキンはマーラーのこの分裂的な交響曲に対し、コンセプトの多層構造をデジタル的に割り切って重層させていく方針をとることによって、彼自身の強大な表現力を獲得している。
その点、スラットキン指揮セントルイス響は、より楽天的というか、曲のあるがままを再現し、マーラーの歌曲への接近と、抒情的な旋律の美しさを無心に表現している。
弦を中心にきわめてオーソドックスなヨーロッパ的スタイルのアプローチで、しかも淡いロマンが漂う若々しさが何とも魅力的だ。
通常の交響曲に対するのと何ら変わらぬ姿勢で攻めているのは、スラットキンの見識とさえいえるだろう。
決して興奮を掻き立てるような演奏ではないが、何度聴いても飽きないのは、実はこうした演奏なのかも知れない。
セントルイス響の多彩な表現力も注目すべきもので、今でもトップ・クラスの名演といえる。
テラークのデジタル録音も、実に鮮明そのもので、ピアニッシモの極限は、もはやアナログ・レコードでは再現し難いところまできていて、オーディオ的にも大いに楽しめる。
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2009年07月01日
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バーンスタインとは対照的に、美しいロマンと抒情の世界を描き出しているのが、スラットキン指揮セントルイス響である。
スラットキンはあくまで弦を中心にして、セントルイス響の見事なアンサンブルから、マーラーならではの歌を紡ぎ出している。
スラットキンの職人的な側面での強い自己主張が表れている。
4つの楽章の造形が素直で均衡感が強く、指揮者によってはもてあまし気味となる長大な終曲も、決して退屈させることがない。
特に第3楽章では彼の個性が最も端的に表れており、おだやかで、まじめで、感情のこもった表情が細部からも湧き出してくる。
オケは木管がやや劣るものの、弦の響きがきわめてふくよかで瑞々しい。
スラットキンにとってはマーラーの音楽は、決して思い入れの対象ではなく、単なる古典の名曲に過ぎないのだろう。
曲のプロポーションを構築し、旋律の魅力をあますところなく表現し尽くしている。
何度も聴いて飽きないのは、このようなプラクティカルな演奏なのかもしれない。
当演奏では1906年の第2版を使用している。
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