2010年12月
2010年12月31日
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1981年から88年にかけて録音されたカツァリスのピアノによるベートーヴェンの交響曲全集をセット化したもの。
現代の音楽ファンにとっては、交響曲をピアノ演奏で聴く、といった事態はもはや起こり得ない。
が、文豪ゲーテがメンデルスゾーンの弾くピアノでベートーヴェンの「第5」を初めて耳にした、といわれているように、かつて交響曲のピアノ版は、社会的に重要な役割を担っていたのである。
多忙だったリストがわざわざベートーヴェンの交響曲全9曲のピアノ編曲版を作ったのは、第一に、交響曲作曲家としてのベートーヴェンを敬愛しており、これらの普及を心から願っていたためであり、第二に、社会の欲するところを満たすためであったろう。
それにしても、今どき、カツァリスのようなピアニストが出現したとは珍しい。
ピアニストがオーケストラに対抗してベートーヴェンの交響曲ファンを引きつけるのは、不可能とはいわぬまでも至難。
だがカツァリスは、楽しむようにそれをやっているようである。
リストの編曲版にカツァリスは手を加えて、これらの曲をピアノのためのグランド・ソナタと位置付け、さらに困難さを増したスコアを、驚くべきテクニックで弾ききっている。
カツァリスは、リストの編曲版をすべてにわたって吟味し、リストが不可能と判断した箇所でもさらに克服する努力を続けている。
このベートーヴェン・シリーズの価値はそこにあり、彼がピアノのあらゆる機能とあらゆる音色を駆使し、オーケストラに限りなく近づこうとする意志は並大抵ではない。
彼自身にとっては十二分に意味のある挑戦であったろうし、前人未踏の記録であるがゆえに貴重だ。
しかし全音楽的表現という点では、オリジナルにかなうものではない。
カツァリスが驚異的技術の持ち主であることも事実なのだが、これは一種の趣味の世界ではないだろうか。
19世紀に戻った気分で一聴してみては?
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2010年12月30日
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ヤナーチェクの死の半年前に完成し、最後の傑作となった弦楽四重奏曲第2番《ないしょの手紙》は、カミラとの出会いから、愛が芽生えて、この若い人妻へのプラトニックな愛が満たされるまでを音で書き綴った作曲者の手記のような曲である。
これをロマンティックな眼で回想的にとらえたスメタナSQ4回目の録音(1979年のライヴ)の名演も忘れ難いが、アルバン・ベルクSQがヤナーチェクの作風のなかの表現主義的な一面を前面に引き出して熱演した最新盤も、ライヴとしては最高級の録音とあいまって強烈に訴える。
《ないしょの手紙》としてはいささか雄弁すぎる表現かもしれないが、組み合わされた第1番《クロイツェル・ソナタ》の演奏はこのアルバン・ベルクSQの右に出るものはないだろう。
トルストイの禁欲主義を偽善と非難し、不倫といえども、人生にとって真実の恋に優るものはないとした内容を、表現主義のオペラのようにとらえて緻密に再現しているからだ。
すでにヤナーチェクに地方性を求めようとするのは時代遅れになっているが、秘密告白癖はそうはいかない。
鮮烈に、えぐりだすように、アルバン・ベルクSQは、ヤナーチェクの告白を響かせてしまう。
いたたまれないというか、背筋にくるというか、いささか度を越した音楽のドラマトゥルギーに拒否反応を起こすのだって、立派な聴き方ではないか。
《クロイツェル・ソナタ》も《ないしょの手紙》も、なんていやらしいんだろう、なんて露悪趣味なんだろう!
でもそう感じてしまった時、ヤナーチェクの音楽と、アルバン・ベルクSQの演奏の魔の手にとらえられてしまう怖れがある。
困ったCDというべきか。
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2010年12月29日
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フィンランドの指揮者、パーヴォ・ベルグルンドは当然ながら、自国のシベリウスの音楽に関してはスペシャリストと言えるだろう。
彼はシベリウスの交響曲全集を既にボーンマス響で一度、ヘルシンキ・フィルで一度録音しているので、このヨーロッパ室内管とで三度目となるわけだ。
この演奏の圧倒的な高みはどうだろう。本当のことを言えば、いかにベルグルンドの手になるとはいえ、前者2つはほとんど必要なくなったと言ってよいほどの出来だ。
録音を重ねるごとにより洗練され、透明度が増し、この三度目に至っては緻密さの極みとでも言おうか、彼の理想とするところのシベリウス像が明確に打ち立てられた演奏となっている。
旧盤2つに比べ、新盤は果敢にも輪郭の明確さを達成しようと挑んでいるところが素晴らしく、統率のとれたアーティキュレーションには驚かざるを得ない。
ヴィブラートを抑制し、アタックの角を立て、音の立ち上がりも鋭く、リズムも厳しく俊敏、さらに各声部の音響バランスに細心の注意が注がれ、曖昧さから決別しようとしているのである。
そのおかげで、おそらくどの録音よりもテクスチュアの解像度が高くなっているのが素晴らしい。
特に、第4番以降の作品でその効果が大いに発揮されていると思う。
ヘルシンキ盤からたった10年で想像もつかぬほどの遥かな地点に到達した恐るべき楽譜の読みの深さ、無駄をすべてそぎ落とした究極の抽象性、絶妙なバランスと自然の鳴動そのもののような強い運動性など、シベリウスの本質がすべて完璧な形で実現されている演奏だ。
一音たりとも傾聴を誘わない瞬間はない。今の音が次の音への期待を膨らませる。どの曲を聴いても尋常ではない充実感に満たされる。
弦のアンサンブルと木管の色彩の対比や合成で表現に微細な変化が生み出されてゆき、実に精緻な仕上がりで聴き手を引きつけている。
純粋にシベリウスの思考そのものへ近づけてくれる演奏。
何度でも聴きたい。聴くべき!
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2010年12月28日
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名ピアニストのアシュケナージが指揮を始めた頃の演奏。
というと、ピアノの余技のように思う人もいるかもしれないが、決して片手間の指揮ではなく、スケールの大きな巨匠風の表現だ。
第1、3、6番が高く評価したい秀演。
フィルハーモニアでの10年間はアシュケナージの指揮者としての修業時代にあたるが、この間、彼は外面的な自己主張を抑制し、作品の姿を尊重するように変わってきた。
アンサンブルもそれに応じて洗練された。
彼のシベリウスは健康で明快、北欧的な雰囲気にとらわれず、交響的な側面を強調している。
したがって若々しい情熱的な起伏が示され、生き生きとした音楽を楽しませてくれる。
アシュケナージはロシア人である。
ここでは、そうした彼と同じ北国の作曲家に対する、あつい情熱がみなぎっており、きわめて民族色の濃い演奏となっている。
北欧のたくましさと抒情を、巧みな棒さばきで表現したもので、たっぷりと旋律をうたわせながら、きわめて感受性ゆたかな音楽をつくりあげている。
北国の人でなければ表出できない味わいが全篇にあふれており、雄大なスケールとこまやかな詩情が魅力だ。
楽想の変化に対する瞬間的な対応もよく、弱音をあまり強調せず、金管や打楽器をのびやかに扱っているのも健康的。
したがって全体に音楽が率直でありながら入念、妙な小細工やひ弱さがないのが大きな長所といえる。
アシュケナージの音楽には、さまざまな相反する要素が不思議なほどバランスよく共存している。
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2010年12月27日
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素朴なオリジナル版と華麗な編曲版を聴き比べる企画の面白さに惹かれるし、演奏がまた両方とも実に素晴らしい。
プレヴィンとウィーン・フィルによる管弦楽版は、ラヴェルの色彩的なオーケストレーションを生かしながら、ロシア的情感を豊かに盛り込んだ大変充実したもの。
"プレヴィンがウィーン・フィルとの演奏会でラヴェルのスコアを再現している"ということが、このディスクの1つのセールス・ポイントになっている。
しかも、ここにはライヴにありがちな演奏上の問題がほとんどない。
プレヴィンのスタイルは、どちらかといえばオーソドックスで、不要な演出はどこにも見られない。
ここでは、伝統あるオーケストラの中にひそむ近代的なフレキシビリティの存在を意識させる。
この作品は、むろん標題的な要素をはっきりともった作品なのだが、プレヴィンは、とりあえずそうした音楽外の事柄にこだわらず、スコアに書かれた音楽を純度高く演奏することにだけ没頭する。
そうした方法が、ウィーン・フィルという自発性と室内楽精神に富んだオーケストラから、演奏者同士、そして演奏者から指揮者への共感と協調に満ちた気持ちのいい音楽を紡ぎ出す。
個々の楽器の音色美、そして合奏時の全体の美しさはウィーン・フィルならでは。
こうした本質的に絶対音楽指向のアプローチながら、演奏者たちを、そしてなによりも作品そのものを強引に引っ張りまわさないプレヴィンの柔軟な音楽づくりから、自然な標題的起伏が浮かび上がる。
ピアノ版も見事で、ブレンデルは各曲の性格を的確につかみ、じっくりと運びながら、全体を精巧にまとめている。
ドイツ・オーストリア系の作曲家を得意としているブレンデルだが、この曲もコンサートでは頻繁にとりあげていた。
これは実にどっしりと落ち着いた演奏で、ロシア臭の強いリヒテルとはやや異なり、1枚1枚の絵を丹念に、まるで細密画を思わせるかのように仕上げているのが特徴だ。
〈古い城〉〈卵の殻をつけた雛鳥の踊り〉〈バーバ・ヤーガの小屋〉など、その繊細な描写力は凄いの一語に尽きる。
ブレンデルは決してピアニスティックな効果を展示しようとはせず、むしろ抑制された表現の内で彼の考えるこの作品の本質に迫ろうとする。
最強音を排した強弱のグラデーションの多様さ、常に求心的であろうとする表現は、その演奏においてあらゆる意味での押しつけがましさの要素を無縁なものとしながら、確固とした自己主張を行い、何よりも新鮮である。
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2010年12月26日
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ケーゲルは、古典派、ロマン派の作品とともに、20世紀音楽の良き理解者の1人として知られている。
ケーゲルは主に近代・現代音楽の演奏を得意とする人で、こうしたストラヴィンスキーの作品も彼のレパートリーのうちのひとつである。
ここには彼のそうしたキャリアがよく生かされ、リズムのアクセントは明確で、全体にシャープな音楽作りを行っている。
しかも、そうした中に、近代的ロマンティシズムや豊かな色彩も感じさせる。
これら2枚のディスクに収録された曲の中では、協奏曲《ダンバートン・オークス》が、そうした彼の持ち味がよく表れた演奏だ。
ストラヴィンスキーがアメリカに滞在中の1938年に作曲された作品だが、ケーゲルは、バロック時代の様式で書かれたこの曲を、明確かつ精巧に仕上げている。
《プルチネルラ》は小編成による演奏で全体を室内楽風にうまくまとめているし、《うぐいすの歌》にも独特の音色の表現が感じられる。
ストラヴィンスキーの音楽はいつだって機械仕掛けの人工楽園だ。
それは、主情的な思い入れのある音楽、血の通った音楽なんてものの対極にある。
血沸き肉躍るバーバリズムとよく言われる《春の祭典》にしても、ゴジラだと思い一皮めくると実はメカゴジラという種類の音楽だろう。
それは原始風に作られた人工楽園なのであって、原始そのものとは違う。そこを間違え熱血演奏をやると空回りする。
人工楽園はあくまで細密に冷静に再現されねばならない。
そういった点で、やはりケーゲル盤にとどめをさす。この冷血漢にはもっとストラヴィンスキーを録音しておいて貰いたかった。
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2010年12月25日
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シベリウスの全交響曲を揃えてみたい、できれば廉価で、というならサンクト・ペテルブルクでのライヴを収録したサラステ盤がお薦め。
シベリウスの交響曲全集の名盤の歴史は、遠い昔のカヤヌス&ロンドンsoに始まり、バルビローリ&ハレo、ベルグルンド&ヘルシンキpo、ボーンマスso、ヤルヴィ&エーテボリsoなど、北欧の名指揮者たち(とイギリス勢)がその名声を築く重大なレパートリーになってきた。
その新世代を代表する1人がエサ=ペッカ・サラステだ。
サラステとフィンランド放送soによる2度目の全集は、1993年にサンクト・ペテルブルクで行われたライヴ録音だが、指揮者とオーケストラの作品に対する共感が熱く伝わってくる完成度の高い演奏である。
音楽がこんこんと沸き上がってくる。豊かな広がりはあるが、躍動的で重苦しくはならない。シベリウスが好きになる名演。
サラステは初期の愛国的な情熱をみなぎらせた作品から、晩年の洗練された語法による豊かな幻想をたたえた作品まで、シベリウスの交響曲の発展過程と各曲の特徴や性格を明確に表現していて、どの曲においても骨太のタッチでこまやかなニュアンスや独特のパウゼも入念に扱い、民族的な要素や北欧風の美しい抒情をくっきりと浮かびあがらせる。
シベリウス独特の情熱の高揚感とクールな透明度の高い響きも大変素晴らしい演奏である。
本場フィンランドの演奏では、ベルグルンド盤がどこか土の匂いを感じさせる語り口で緩やかに暗い歌を紡いで行く名演。
一方サラステ盤は若いぶんそれよりいくぶん開放的で鮮やかな歌を聴かせる。
銀色に淡く輝く未来の音楽を聴くような新しい肌触りのシベリウスだ。
フィンランドの指揮者がシベリウスを素晴らしく表現できるのは当然と片づけるのは簡単だが、彼がフィンランド放送soとロシアで行なった演奏会のライヴ録音盤は、激情と詩情の交錯を鮮やかに表出した第1&2番はもとより、第3番以降の複雑晦渋な作曲家の創作心理を、巧みに描き分けた手腕と感性こそ秀逸と評すべきだろう。
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2010年12月24日
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ジュリーニのヨーロッパ帰国時代のフランス音楽名演集。
ジュリーニはロス・フィル音楽監督時代に《海》《マ・メール・ロワ》を録音しており、自身の手で鍛え上げたロス・フィルの緻密な合奏力を駆使して、精緻この上ない完璧なまでの演奏を聴かせていたが、ここでの《マ・メール・ロワ》はロス・フィルを退いて5年後、そして《海》はさらに5年を経たジュリーニ80歳の時にコンセルトヘボウ管で再録音したもの。
《亡き王女のためのパヴァーヌ》も再録音だが、《牧神の午後への前奏曲》は初録音。
最初に聴いたとき、「この深み、気品、スケールの大きさは尋常ではない」と深く感じ入った。
その演奏は、いずれも聴き手を意識していないような内的緊張感をもって、丹念に音を積み上げてゆきながら、崇高なまでに美しい音と響き、何とも形容し難いほどの表情を生み出しており、まさに感動的である。
ジュリーニは、ここで、ひとつひとつのフレーズを慈しむかのように丹念に音楽をつくり上げることによって、深い内容をたたえた崇高美とも言うべき異様なまでの音楽美の世界をつくり上げている。
それは、もはや祈りにも近い。
《海》は、第1楽章の大きく孤を描くようなスケールの大きな設計。第2楽章の生き生きとした表情。第3楽章の激しさと美しさと迫力。心を深く揺さぶる。
また、ラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》は遅いテンポだが、じっくり響き切った充実した演奏。
《マ・メール・ロワ》の気高くヒューマンな世界も素晴らしい。
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2010年12月23日
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ミラノ・スカラ座の1985~86年のシーズンのオープニングに上演された際に、ほぼ同じ顔ぶれでスタジオ録音されたもの。
久しぶりに《アイーダ》の真価を存分に堪能させてくれる名演だ。
劇としての醍醐味と歌手陣の均衡、オケの充実が聴きものになっている。
まず、イタリア屈指のアイーダ歌い、キアーラが素晴らしい。
単に声の威力にまかせた歌の誇示ではなく、聴き手を優しく包み込んでしまう独特の魅力は、フレーニを除いては他に比肩するものを見出すのが難しい。
このキアーラと多彩な表現力をもつディミトローヴァという充実の女声陣に、ラダメスの名唱を聴かせるパヴァロッティ、ヌッチ、ブルチュラーゼ、ローニというベスト・メンバーによる熱演を、マゼールは、意欲あふれる指揮ぶりで、見事に統率し、悲劇的緊張と気迫にみちた、密度の高い音楽ドラマを生み出している。
歌手陣もマゼールの棒によく応えており、愛と憎しみが織りなすドラマを、オケと人声が一体となって浮かびあがらせている。
とくにパヴァロッティのラダメスの端正な歌いぶりは風格のある堂々としたものだ。
全体の聴き応えの点で先ず特筆すべきものであろうが、これほど充実した《アイーダ》はめったに聴けない。
いろいろな意味で《アイーダ》の演奏にはそれぞれの時代のイタリア・オペラ界の総力が結集されるとすれば、これは1980年代と90年代を代表する《アイーダ》と言ってよい。
キアーラのアイーダもまさにそれ。ディミトローヴァの両声具有的アムネリスもいい。
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2010年12月22日
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ギローによるレチタティーヴォ付きの版による演奏。ADFディスク大賞受賞盤。
今日でもこの《カルメン》の魅力は色褪せていない。
《カルメン》というポピュラー極まりないオペラは、そのポピュラリティゆえに通俗的解釈に陥りやすい危険性も大きい。
毒婦、妖婦としてのカルメン、娼婦としてのカルメンといったイメージは、大衆の多くが持つものであるし、それはメリメの原作でのジプシーに対する強烈な偏見にも由来しているのだろう。
しかし、ビゼーの音楽は、メリメの"毒"とは一線を画した"品格"を持っている。
ジプシーとしての誇りと女性らしい魅力を持ったロス・アンヘレスのカルメンが素晴らしい。
自由奔放な女性としてのカルメン像、その自由に対する誇りを持つ女性としてのカルメン像を、ロス・アンヘレスは見事に打ち出した。
ロス・アンヘレスの名唱は、自然にして自由なスペイン女性としての誇りと魅力を持ったカルメン像を描き出す。
彼女は、この録音当時(1958年)は舞台ではミカエラをうたい、カルメンを劇場でうたったのはかなり後になってからだが、カルメンを妖婦タイプではなく魅力的な女性として見事に表現している。
音楽的なセンスにあふれたブランクのエスカミーリョに、若々しい美声と初々しい歌唱のゲッダのドン・ホセも素晴らしく、主役陣も万全で、ビーチャムの作り出す音楽の中に完全に適合している。
これらの名歌手たちを統率するビーチャムの、軽妙洒脱なセンスに満ちた指揮も魅力的で、全曲を見事にまとめあげている。
ビーチャムの美しい音楽作りも含め、この曲の屈指の名盤だ。
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2010年12月21日
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ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団を率いてマゼールが1970年につくった名盤。
若き日のマゼールの、意表をつくオーケストラのバランスや自由なテンポ・ルバートの妙が、痛快な面白さを与えてくれる。
主役にモッフォを起用していることからも明らかなように、これはいわゆる典型的な《カルメン》の演奏ではない。
だから泰西名画風の名演を期待すると裏切られるかもしれない。
だがここにおけるドラマの大胆な力たるや、尋常一様のものではない。
歌手陣もマゼールの破天荒な解釈にふさわしい名手達で、モッフォの妖艶なカルメンは、卑俗に堕する一歩手前で踏み止まった絶妙な味わいを聴かせるし、ドン・ホセのコレッリも抜群の存在感を示す。
エスカミーリョのカプッチッリは堂々たる美声の威力で男性的魅力にあふれた闘牛士像をつくり出している。
ところで、美貌を誇ったアンナ・モッフォだが、ディスク面でみると、とくにこれといったものはそれほど多くはない。
その中にあって、際立った存在が当《カルメン》盤であろう。
ここにおけるモッフォのカルメンは、指揮者マゼールがつくり出す音楽の中で、たいそううまく生かされている。
というか、彼女の声のなさ、表現が単調になりがちといった弱点が、巧みにカヴァーされている、といったほうがよいのかもしれない。
マゼールの音楽づくりによって、モッフォのカルメンが充分に血肉化している。
それにしても、ここに聴くマゼールの《カルメン》は、なんと大胆でスリリングなのだろうか。
その切り口の鋭さたるや、まさに天下一品である。
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2010年12月20日
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1994年5月のミラノ・スカラ座での公演をライヴ録音したCDである。
ムーティの2度目の全曲録音に当たるこの1組は、彼の円熟が示されている。
歌手はとても立派だ。現時点でおそらくこれ以上望みようのない最高の演唱であろう。
ブルゾンのリゴレットはこの役を歌う歴代の名歌手のなかではかなりまっとうではないかと思う。
つまりゴッビのように異常な性格でもなく、カプッチッリのように圧倒的でもない。
スタイルで大見得を切ったりスタイルで押し切ってしまうところがないので、大人しい印象を受けるかもしれない。
しかし聴き込むほど、噛みしめるほどに、ブルゾンの歌唱からは豊かな人間味が伝わってくる。
やや地味だけれど決してつくりものではないので、聴き返すたびに感動してしまう。
この円熟したブルゾンがいるからこそ、共演する2人の若者たちの新鮮な歌唱が余裕をもって楽しめるのだ。
ロストは可憐で透明な美声で端正に歌い、アラーニャは極めてスタイリッシュで小気味よく歌い、若々しく艶のある声を颯爽と響かせる。
しかし、これは歌手だけの名人芸で成り立つ《リゴレット》ではなく、ムーティの強力な指導力が前面に出た演奏だ。
時にブルゾンの歌の個性が主張を強めることがあっても、ムーティはあくまで全体がひとまとまりになったオペラ《リゴレット》像を追求する。
次はレチタティーヴォ、次はアリア、といった聴き方をしてはならないとさえ思えてくる。
悲劇はまっしぐらに進行し、ヴェルディの、もしかしたら最も力と技が充実した作品かもしれないオペラのパワーを引き出す。
鋭い劇的緊張感から繊細な響きまで多様な要素をオーケストラで雄弁に表現するさまは素晴らしくて、とてもライヴとは思えないほどの完成度。
精度に重きを置く方向もあるけれど、これはこれ。戦慄する、戦慄できる《リゴレット》だ。
ムーティはいつもの基本方針に従って歌手には慣習的なヴァリアンテではなく、ヴェルディが書いた楽譜どおりの音符を歌わせている。
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2010年12月19日
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名作中の名作、ではあるけれど、《リゴレット》はヴェルディの若々しい活力がふんだんに注がれたオペラであると、シャイー指揮の演奏は強く感じさせてくれる。
じっくり、丁寧に聴かせるというより、たとえここをゆっくりと聴きたいと思っていても、かまわず走り抜けてゆく演奏だ。
聴く者はまっすぐこのオペラの世界へ入っていける。
シャイーのヴェルディ・オペラ録音はまだ多くはないが、このオペラを作曲したときのヴェルディとほぼ同じ年齢という特別の共感もあって、劇的な力と情熱の表現がひときわ魅力的だ。
シャイーはどっしりと落ち着いた歩みの中に、自由で伸びやかな音楽表現を展開し、単によく整った若々しい活気と生気に満ちた演奏というだけではなく、ドラマと音楽の中から湧き上がってくる力とエネルギーをしっかり捉え、それを大きな劇場空間に解放している。
ボローニャ市立歌劇場のオケの響きとアンサンブルは以前よりずっと整備されてシャイーの意図に敏感に反応している。
歌手陣もよくそろっているが、中ではヌッチのリゴレットが、大変表情豊かでいちばん聴き応えがある。
やがて名人芸を披露するようになるヌッチが、まだ若く、ずっとストレートにリゴレットを歌っているのも、この演奏の長所と考えるべきだろう。
一方、パヴァロッティのマントヴァ公は、絶好調の時期に歌われた良さがある。
くせのあるアンダーソンのジルダは人によって好き嫌いが出るはず。
いずれにせよ、名人たちを集めて豪華に、という路線よりも、適材適所を考慮してのキャスティングとなっていて、これがシャイーの指揮に沿った、駆け抜ける《リゴレット》の悲劇表現に役立っている。
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2010年12月18日
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《ブランデンブルク協奏曲》をマリナーは3度録音したが、これは、1980年に録音された2度目のもの。
1971年録音の旧盤では、故サーストン・ダートの校訂した版を使用していたが、今回は通常の版によっている。
旧盤ほどの新鮮な解釈はみられないにしても、演奏の洗練度やアンサンブルの緻密さなどには1日の長がある。
弦の軽快な流動感、明確な造形感覚、そして生き生きとした情感が演奏の隅々にまで行き渡っている。
シェリング(vn)、ホリガー(ob)、ランパル(fl)などの名手を迎えたことが演奏を充実させ、雰囲気を豊かに、華やかにしている。
マリナーの表現自体は極めてオーソドックスで、バロック・スタイルを際立たせることなく、スコアをあるがままに音化しようとしており、そこに独特な解釈は殆どみられない。
《管弦楽組曲》は全体に現代的感覚にあふれた若々しい表現で、マリナーが緩急起伏の対比をくっきりとつけながら、それぞれの曲を精巧にまとめている。
ことに第2,3番の序曲や「ガヴォット」は、彼の長所がよく現れていて聴かせる。
いずれもバッハの音楽の精神をしっかりとつかんだ秀演で、ソリストたちも立派。
《ヴァイオリン協奏曲集》は、シェリングのバッハの音楽に対する深い傾倒と研鑽が集約的に示された演奏。
旧録音と解釈上に大きな変化はないが、どのフレーズも一段と身についたものになり、表現に深みが加わっている。
例えば第2番の第1楽章の中間部のアダージョの深々とした感情の表し方に、それが出ている。
第1番もよくまとまった演奏で、両曲ともに第2楽章が傑出している。
マリナーの指揮も柔らかで美しく、オケも控えめではあるが見事な演奏。
《2つのヴァイオリンのための協奏曲》では、アッソンも好演。
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2010年12月17日
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1925年を最後にアメリカでの活動を中断していたバックハウスは、1954年、28年ぶりにアメリカを訪れ、カーネギー・ホールでリサイタルを持った。
これは、それから2年後の1956年に再びカーネギー・ホールで行われたリサイタルのライヴ録音であるが、その頃に唯一となった日本での公演が実現されているだけに、記録としても貴重である。
ベートーヴェンのソナタを連ねたあとに、シューベルトとショパンやシューマンといった作曲家のロマン的な小品が置かれた興味ある1枚である。
バックハウスは、どんな難曲も見事にこなす技巧を誇り、「鍵盤の獅子王」と呼ばれていたが、このアルバムにも表れているように、ただ指が敏速に動くというのではない。
そのタッチの集まりが豊満で力強い響き、濁りのない美しいフォルテを生み、それが骨太な構築、質実剛健な演奏につながっている。
一方、演奏家が本当に得意な曲目に絞って録音していたこの時代、バックハウスも或る時期からレパートリーを限定した。
この貴重なライヴにも、彼の得意な、あるいは好んだ曲目が並ぶ。
ベートーヴェンのソナタ2曲では、彫りの深い造形が成されている。
《月光》では淡々と弾きながらも、この曲のもつ情感をよく表出していて、きわめて訴えかける力の強い演奏だ。
《ハンマークラヴィーア》ではスケールの雄大な、巨人的風格にあふれた演奏で、「鍵盤の獅子王」と呼ばれたバックハウスの面目が躍如としている。
アンコールの小品4曲では、この巨匠の淡々としたなかにも素朴な美しさ、作品への深い愛着が滲み出る。
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2010年12月16日
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ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲が生み出されたのは、1931年のことであった。
それを現代のヴィルトゥオーゾ、パールマンが小澤=ボストン響とレコーディングしたのは1978年のことである。
その50年にも近い時間の経過が、作品の位置と評価を変えてきたのも事実であろう。
特に、このパールマンの演奏を聴くと、その音楽があまりにも平易に、しかも実に多彩な音色とともにその魅力を明らかにしているのに驚かされる。
それは、パールマン自身の音楽的な志向が、決してこの作品と距離をおいたところにないということを思わせており、明るくスケルツァンドな性格がや近代的な抒情性が、シャープな語法の中に自然に生きている。
すばらしいテクニックの持ち主であるパールマンに、このような技巧的な曲を演奏させると、その実力を万全に発揮する。
フレッシュな感覚にあふれているのも魅力で、小澤の指揮も、ぴたりとツボを心得た練達ぶりを見せている。
カップリングされたベルクのヴァイオリン協奏曲も熱演だ。
パールマンの冴えたテクニックと、すこぶるあたたかで、ニュアンスの豊かな音色にひかれる演奏である。
パールマンは、卓抜な技と美麗な音をしなやかに生かして、作品への熱い思いとロマンに存分な表現を与えている。
柔軟かつ明快で、ヒューマンな味わいもこの名手ならではの魅力で、小澤のセンシティヴな指揮ともども、作品の魅力をくっきりと琢磨している。
ことに、ベルクの音楽の一面である、濃厚なロマンティシズムを強く表出しており、その情感豊かな表現は感動的だ。
小澤の棒も、のびのびとしていてすばらしい。
「ツィガーヌ」でのパールマンは、ヴァイオリンを存分に歌わせ、その名人芸をたっぷりと披露しており、聴いていて楽しい。
メータのバックもうまい。
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2010年12月15日
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コリン・デイヴィスが初めて録音した《惑星》であり、初めてのベルリン・フィルハーモニーとのセッションであるが、その音楽の仕上がり具合は大変素晴らしい。
期待通り、極上の《惑星》だ。
デイヴィスがこの曲のレコーディングをこれまで行わなかったのは、ベルリン・フィルのような輝かしい響きをもったオーケストラとの共演を待ち望んでいたからではなかろうか。
各曲のコントラストも見事に描き出されており、その巧妙をきわめた語り口はまさに老練の味というべきもの。
明快で、軽やかですらある指揮ぶりだが、かつてよりもロマンティックに歌う要素を強めているのも興味深い。
精度の高いベルリン・フィルのパワーが炸裂する「火星」や「木星」なども圧倒的だが、むしろ精緻なアンサンブルで幻想的な宇宙の神秘さまで表現した「金星」や「海王星」などの静寂さが支配する音楽に、この名演の聴きどころがある。
ベルリン放送女声合唱団が加わる「海王星」の神秘さ等には、ラヴェルやドビュッシーの音楽に一脈通じるような不思議な美しさが漂う。
オーケストラがガンガン鳴りまくる体育会系《惑星》にウンザリしている人にはうってつけの演奏である。
しっとりとした色気すら漂わせる繊細な響きは、デイヴィス及びベルリン・フィルの既成イメージを覆すに十分だ。
かといって軟弱でもない。そのへんが絶妙。
ベルリン・フィルの名手の技巧を完璧に引き出し、細部の彫琢に神経を配ったデイヴィスの音楽作りの巧さがこの作品の通俗性を払拭している。
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2010年12月14日
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シュライアーがシューベルトの「水車小屋」を十八番としているように、フィッシャー=ディースカウの十八番は、この「詩人の恋」といってよいだろう。
彼は6種類のディスクを残しており、そのいずれもが名演で、それらを凌駕する他の演奏は見当たらないといっても過言ではない。
その中で、成熟度やバランスの点でエッシェンバッハとの共演盤が一地頭抜きん出ている。
この歌曲集では、シューベルトの場合と違い、メロディに代わって短いモティーフが主導する。
それらは若者の初々しい情感と男性的な気概、心理の微妙な変化、ユーモアと身を切る自虐、夢と現実のもつれなどを隈取っている。
フィッシャー=ディースカウは、そのモティーフの変化の振幅に鋭敏に反応し、微妙な陰影を連続技で浮き彫りにしてくる。
その情報量の多さは驚異的で、その点、フィッシャー=ディースカウに勝る歌い手はいない。
エッシェンバッハも、それに劣らぬ鋭敏さで対応している。
ロマン性と近代性の融合という歌曲集「リーダークライス」の主眼に最も鋭く迫っているのが、フィッシャー=ディースカウ&エッシェンバッハ盤だ。
この歌曲集の前半は主に夜と森の神秘感が、後半は近代的な自我意識の探究が主導する。
演奏者は、まず第1曲で夕暮れの森の中での孤独感を内面の自我意識の認識に結びつけられるかどうか、そこにこの歌曲集の演奏のいちばんのポイントがある。
フィッシャー=ディースカウは、孤独感が自我意識を誘い出す心理的な過程を見事に浮き上がらせ、エッシェンバッハのピアノはその内的構造を手にとるようにわからせてくれる。
そうした演奏は曲の説明に陥り、散文化しやすいが、このコンビは決してポエジーを失うことなく、1曲1曲を同じ的確な解釈と説得力で展開していく。
その語りと歌とのバランスは精妙この上ない。
多くの演奏が森と深層心理の深みに足をとられ、晦渋さに陥りやすいなかで、わかりやすい展開とまとまりの良さという点も特筆に値する。
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2010年12月12日
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原典主義者ムーティがウィーン・フィルを得て、現代の言葉でモーツァルトを語った演奏だ。
ムーティのモーツァルトは、主観と客観の絶妙なバランスに支えられており、現代の聴き手にとってモーツァルトの交響曲を聴くことがいかに大きな慰めとなり、また救いとなるかを、現代の言葉で証明して見せた魅力と説得力がある。
モーツァルトだからということで距離をおくことなく、実にのびやかに歌い上げた爽快感あふれる演奏であり、時に見せる大胆なアプローチも、かえってモーツァルトの新しさを掘り起こしている。
第40番は明快で、いかにもムーティらしい率直な演奏だが、求心的エネルギーが異例の気迫と説得力を作り出している。
それはこの交響曲を魂の叫びとして再現した劇的演奏であり、ムーティの燃えるような眼差しが灼熱の音となって噴出したかのようだ。
そんなムーティにとっては、当然、クラリネットを含む第2版が採用されている。
ムーティの《ジュピター》は、この作品がモーツァルトの《英雄》交響曲であることを鮮烈に実感させる。
これほど力強く、壮麗で、また劇的な演奏は前例がなく、演奏が放つエネルギーに圧倒される。
ウィーン・フィルも怖さすら感じさせる演奏を聴かせている。
指示された反復記号も原則的に忠実に守って、作品のメッセージのすべてが実に生き生きとした音となって響きわたっている。
ウィーン・フィルを得たことも大きな魅力で、現代に聴くモーツァルト像が、こんなにもつややかな音色とふくよかな表情で再現された例もないといえよう。
美しく、ロマンティックな夢に誘われる現代のモーツァルト演奏だ。
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2010年12月11日
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ミュンシュがアメリカで客死する直前、創設当初のパリ管弦楽団と入れた録音に、十八番のオネゲル:交響曲第2番が含まれたのは幸いだ。
ブラームス「第1」が神格化され、ベルリオーズ「幻想交響曲」、ラヴェルの作品集が高い評価を受ける中、この演奏にスポットが当たることは少ないが、忘れてはならない演奏である。
指揮ぶりはたいへん率直で力にあふれたものだが、それにパリ管が軽妙な味を添えてゆく。
ミュンシュはオネガルのよき理解者で、第2次大戦前からその作品を演奏、録音している。
2人の精神に共通項が多かったからであろうが、オネゲルがよりペシミスティックであったとすれば、ミュンシュはよりオプティミスティックであった。
第2次大戦の暗い影を反映した第2交響曲で、ミュンシュはむしろ男性的な演奏を聴かせる。
それも悲痛な感情を深く掘り下げるが、根底には救いを感じさせる。
第1楽章で反復される不吉な音型が息の長い旋律と結びつく時はその例であろう。
第2楽章の憂鬱な表情なども素晴らしい。
それだけに最後のトランペットのコラール風の旋律が、いっそうの存在感を発揮している。
パリ管の弦が美しく、しかも量感に富んだ響きもミュンシュの解釈にふさわしい。
同じく最晩年のミュンシュがパリ管を指揮した数少ない録音のひとつであるラヴェルのピアノ協奏曲は、ピアノよりもミュンシュと彼が指揮するパリ管に大きな聴きどころのある演奏であるが、ここに聴くパリ管のバックアップは、とにかく素晴らしいものだ。
結成直後のパリ管は、当時のフランスを代表する管楽器奏者たちがその首席に名を連ねていたが、管楽器のヴィルトゥオーゾ的なソロが多くの華やかな名場面を形成しているこの作品は、彼らに名人芸の開陳の絶好の場を提供しており、それは、この演奏ならではの面白さにもなっているのである。
アンリオ=シュヴァイツァーのソロは、ラヴェルとしては少し甘すぎるきらいもあるが、悪くない出来を示している。
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2010年12月10日
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近年の円熟ぶりが特筆される内田光子から贈られた宝石のようなシューベルト。
愛用のスタインウェイをシューベルトと内田自身にとって思い出深いウィーンの、それもムジークフェライン大ホールに持ち込んでの録音。
ピアノの音の純粋な美しさ、心の襞に寄り添うような自然な情緒表現が素晴らしい。
シューベルトの後期のピアノ曲群は、梅毒に罹患後、死への歩みを進めていく作曲者の見た憧れと絶望が、悲しいほどの美しさを湛えつつ描かれている。
このシューベルトの音楽の持つ"魔"と"深淵"を、内田光子はまったく奇を衒うことなく描き出している。
時に伝統的な語法に従い(作品90の1)、時に大胆に自己の発見と主張を押し出し(作品90の4)つつ、内田光子はシューベルトの"真実"を新鮮にわれわれに提示してくれる。
作品に向けられる眼差しが予想を超える緻密さと繊細さをもち、それが演奏のあらゆる細部に反映されて動かし難い説得力となっている。
作品はここまで推敲され、演奏はここまで妥協なく磨き上げられなくてはならぬのかと頭が下がる。
しかし内田光子が傑出しているのは、そうした推敲の痕跡を見せるのではなく、こうして到達された頂きが限りなく大らかで自然な点だろう。
結果としての演奏は不思議なほど伸びやかで、愛すべき歌の心にあふれており、シューベルトならではのロマンティシズムに陶酔する至福を約束する。
聴き手も詩人にする演奏といってもよいだろう。
近年の最も優れた演奏。
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2010年12月09日
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ヘヴィ級の魅力をもった《ます》の演奏であるが、愉しさの点でも第一級だ。
同曲はリヒテル初録音で、ライヴならではの緊迫感がすこぶる快い。
メンバーの名前からは、スラヴ的な重々しい音楽を予想していたのに、聴こえてきたのはウィーン風なポルタメントを少しだけ生かした、じつに軽快で闊達な《ます》だった。
それほど単純にいえるようなことではないが、《ます》の五重奏曲の演奏で、やはり第一にその成否を左右するのがピアニストであることは事実であろう。
もちろん、ソロイスティックな魅力とアンサンブルに寄り添っていくような感性が、そこでは求められるであろうし、何といっても音の美しさが絶対に欲しいということになると、やはりその名は絞られてくる。
それゆえ、聴き手の関心の中心になるのはもちろんリヒテルの演奏で、彼が弾き出す美音は心に深くしみいってくる。
聴衆を前にしたリヒテルが、気持ちを静かに燃やしているのが感じとれる演奏といったらよいだろうか。
リヒテルとボロディンSQのメンバーらによる1980年のライヴがつねに名盤の一つとして挙げられるのは、当然の結果であったかもしれない。
ここではピアノのリヒテル、ボロディンSQともに力強い語り口で、しかも表現力はたいそう濃い。
ナイーヴでシャイなシューベルトでは全然ないけれど、なおかつ他を圧倒するような存在感を示している。
ともかくピアノの美しさが必要なだけ際立っているのは確かであるし、品位と風格がインティメートな結びつきの中にもある。
ボロディンSQの3人とヘルトナーゲルの誠実かつ真摯な演奏ぶりが楽趣を高めているのも忘れてはならない。
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2010年12月08日
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クレーメルとアルゲリッチが生み出した、この名コンビの絶品。
アルゲリッチのピアノが本当に素晴らしい。それにもましてクレーメルが!という、何とも凄い、空前の、お化けのような二重奏。
一切の余計な思い入れを排した、研ぎ澄まされたクレーメルのクールな音楽性と、アルゲリッチのたぎるような眼差しをもったホットな表情が、稀に見るスリリングな世界へと止揚され、それがまたプロコフィエフという作曲家の複雑な音楽の質と最高に一致を見せている。
ここには、自分たちの差異をしっかり認識した上で深い共感を獲得した、本物の相互理解に基づく真の意味での室内楽の極致が示されている。
特にクレーメルの表現に、従来の尖鋭で透徹した表情に加えて、音色的にも表現的にも、より一層大きく包み込むような懐の深さが加わっているのが印象的である。
第1番だけでも聴く意味がある。
もっとも、こういう暗く重い音楽を聴くのを好むのはどうかと考える必要はありそう。
とはいえ、クレーメルとアルゲリッチが正面からぶつかりあうところなど、実にスリリングで気迫いっぱいだから、そういう演奏の素材としてのプロコフィエフ、みたいに感じられてしまうのは事実で、それが良いか悪いかはともかく、並の演奏、並のCDでは絶対ないわけだ。
ここでぶつかったかと思うと、次には親しく語り合い、というピアノとヴァイオリンの関係の急変ばかり聴いてしまうのはいかがなものか、と思いつつ、やっぱりそういう演奏の白熱の中からプロコフィエフの音楽はちゃんと浮かび上がってくるのだろう。
これ以上の演奏はほとんど考えられないほどで、誰も真似できないし、真似してはいけない。
両者のリズム感の良さも特筆しておきたい。
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2010年12月07日
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1966年度の仏ADFディスク大賞受賞盤。
ルーセルの最も円熟期に書かれた2つの交響曲。
ドビュッシーやラヴェルといったフランスの印象派の伝統から受け継がれた音感覚や、またドイツのロマン派の暗い情感が、新古典主義的な明快な形式感の中に含まれているルーセルの複雑な響きの綾を、ミュンシュは各テーマの表情がくっきりと浮かび上がるようにしながら、彼ならではの丁寧な演奏を行っている。
ミュンシュらしい豪快で阿修羅の如き演奏で、2曲とも驚くほどの集中力によって充実した力感と緊張をつくり出している。
音構造はもとより、すべてが明快に把握され、ルーセルの和声法や対位法的書法の的確な処理、抒情的な表現を必要とする部分の豊かな歌、管楽器の明るい色彩美も特筆したい。
タクトをプロペラのように振り回すミュンシュの背後には、メラメラと立ち上る真っ赤な炎が見えたに違いない。
この狂熱の炎によって、作品を構築する枠組みすら溶解しかねないほどである。
しかし、ミュンシュは、造型を崩壊させる一歩手前で踏みとどまる。その寸前の凄まじい美しさが、この演奏の価値である。
第3番第1楽章の緊張感みなぎる出だしから、それは明らかである。
ここにはミュンシュのすべてがあるといってよく、ルーセルの交響曲がこれほど興趣にみちて聴こえる演奏は滅多にない。
現在はかなり楽団員の年齢が若返ってインターナショナルな響きを出すようになったラムルー管弦楽団だが、この録音ではミュンシュとの相性が大変良く、当時のフランスの響きを楽しめる。
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2010年12月06日
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1963年、ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルによる、シベリウス:交響曲第3番の旧ソ連における初演のライヴ録音である。
ムラヴィンスキーならではの、巨匠の至芸だ。
意志の力が強く、人間的であり、立体的で彫りの深い音のすべてに指揮者の魂が刻印されている。
それでいて、シベリウスの本質を逸脱していないのはさすがだが、金管の強奏がいささかロシアくさいのは致し方ない。
かつて柴田南雄氏が、自著で「ムラヴィンスキーには、ロシアのシンフォニックな語法しか操れないのだろうか」と批判されているが、私はこの見方には断固反対だ。
ムラヴィンスキーほど、ロシアのシンフォニックな語法だけに収まらない大演奏家はいないからである。
それでなければ、あんなに素敵なモーツァルトやベートーヴェンを演奏できるはずがない。
シベリウス演奏には、ブルックナーと似た厳しさがあるが、実際、ここに鳴っているシベリウスの純粋さ、透徹した厳しさは、まったく孤高の存在である。
俗世を顧みず、ひたすら透明な美を追究する姿勢は、ムラヴィンスキーとシベリウスに共通するものであり、なんの齟齬もない。
なお、このCDにはオリジナルのモノーラル録音とボーナストラックに疑似ステレオ化バージョンが収録されているが、断然後者の方が音質が鮮明で、この演奏の真価をよく伝えている。
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2010年12月05日
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スウィトナー時代のシュターツカペレ・ベルリンの代表的名盤。
自然で、柔らかな表情をたたえたウェーバーで、随所でオーケストラ・ピットで培われた劇場的な雰囲気がいかされている。
なのに、このCDが目下廃盤の憂き目にあいそうなのは、定番の《魔弾の射手》や《オイリアンテ》が入っておらず、5曲のうちポピュラーなのは《オベロン》のみという事情があるのかもしれない。
しかし筆者に言わせればそれでも魅力は十分。
1曲目の《オベロン》の夢のような美しさにうっとりとさせられれば、もうそのまま最後まで聴かずにはいられなくなる。
音楽の自然な流れを大切にし、しかも卓抜な演出力の持ち主でもあるスウィトナーの特質が遺憾なく発揮されている。
スウィトナーの指揮はおよそぼってりとしたところのない、清潔で引き締まったタッチで一貫している。
それでいてどの序曲のどのページも柔らかくデリケートな表情に満ちており、それがいきいきとオペラないし劇の気分をリスニングルームいっぱいに醸し出す。
最も見事なのは《精霊の王》で、緩急と起伏を大きくつけながら、ドイツ的なコクのある音楽を作り上げている。
《オベロン》での序奏部分のファンタスティックな雰囲気の描き方が巧妙で、主部に入ってからの闊達な表情との対比も鮮やかだ。
シュターツカペレ・ベルリンも素晴らしい出来で、抜群の底力を発揮している。
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2010年12月04日
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吉永小百合のナレーション付き。その台本は松本隆。小澤征爾のこの曲の初録音。言わば日本向けのレコーディングである。
全曲を一応はカヴァーしているが小さな省略も少なくない。
小澤征爾の指揮は、繊細にして緻密、しかもインスピレーションあふれる音の輝きがあり、およそ解釈といったものを超越した心ときめかせる世界がつくり出されている。
小澤は冒頭の序曲からずいぶんとシンフォニックにボストン交響楽団を鳴らし堂々と曲を進めるが、その中にも繊細な色彩感を漂わせたみずみずしい空気感もある。
小澤征爾が小澤のメンデルスゾーンを演奏しているのだが、それがドイツ・ロマン主義音楽に対するこの指揮者の解釈が引き出したものということで聴くと、そこには日本人の耳に心地よい、舌触りの良い甘美さを味わうことができる。
ビロードにも似たボストン交響楽団の深いサウンドも素晴らしく、しばし幻想の夢に酔う思いだ。
そして何よりもこの全曲盤の最大の魅力は、ナレーションに女優の吉永小百合が起用されていることに尽きるであろう。
彼女のナレーションは、時に音楽以上に美しく、また豊かな表現力で、幻想の物語へと聴き手を招き入れる。
作家松本隆による日本語の台本も、表現としてとても自然であり、垣根を感じることなく作品の世界に遊ばせてくれる。
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2010年12月03日
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サン=サーンスの交響曲を代表する名作であるこの第3番は、フランス的なエスプリや軽妙で粋な表情の魅力などに溢れた作品であるが、作品のそうした側面を描き切った純粋にフランス風といえる名演には意外に恵まれていないのが実情である。
クリュイタンス、パレー、ミュンシュなどの録音も一流の名演ではあるが、いまひとつ表情が重すぎたりするきらいがあり、作品の明晰でスマートな美を完全に表現しているとはいいがたい。
このマルティノン盤は、そのような中にあって唯一の例外といえる演奏であり、マルティノンのフランス人ならではのダンディで洗練された美学は、この作品のフランス的芳香を最も本来的にリアリゼしているのである。
この作品はフランス音楽にしては珍しく、きわめてしっかりとした造型をもっているが、マルティノンの指揮は、そうした性格を生かしながら、サン=サーンスの音楽の流麗な旋律線を大切にしている。
歯切れのよいリズムで、各部分を明快率直に表現しており、思う存分旋律を歌わせているのも素敵だ。
オルガンにマリー=クレール・アランを起用しているのも魅力。
フランクは現在もなお、この交響曲の洗練度の高さと崇高な空気を隈なく再現した最も規範的な演奏のひとつといいうるものであろう。
そこに余剰な劇性や誇張がまったくなく、終始一貫よどみなく、明快かつ流麗な曲運びが示されている。
そこから立ちのぼってくるフランス的な気品と芳香がまことに素晴らしく、聴き返すにつけ、この交響曲の最も魅力的な姿を見事な手腕で伝えた名盤という感を強くする。
そこには、洗練されたフランス的な感性とともに、作曲家がみせた構成的な意欲が示され、この作品の土壌が明確に描き出されている。
演奏全体の感触はまさに端整で知的、軽妙さと洒脱さを諸所にちりばめたマルティノンならではのもの。
柔軟な表情、典雅な響き、品位に富んだ陰影、しかも作品の本来のスタイルを真正面から捉えた棒さばきである。
正攻法ゆえの極上の美がここにもある。
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2010年12月02日
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ブロムシュテットが、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に迎えられた時、その顔合わせによる最初のレコーディングにヒンデミットの作品を選んだということはきわめて興味深い。
1995年の生誕100年を通じてその存在が再認識されたとはいえ、ヒンデミットの音楽は、一般的にいってわが国では、まだまだ充分に評価され、認められているとはいえない。
それでも、いくつかの作品については眼が向けられてきたが、オーケストラ作品の中で最も親しみやすいのは、やはり《ウェーバーの主題による交響的変容》であろう。
それは、彼がいわば"おもしろい音楽"を書いた時期に属するが、ブロムシュテットもそれを親しく聴かせてくれる。
サンフランシスコのオーケストラが、完全に磨き上げられ、ソロイスティックな面とアンサンブルが、ほどよいバランスと明快さをもって、密度の高い構成感とともに好演を生み出しているのである。
明るく楽しい面での技巧性という意味では、ブロムシュテットの新しいヒンデミット解釈の特徴があると感じられる。
ヒンデミットの録音を積極的に行っているコンビであるが、《画家マチス》の柔らかく繊細で、感受性に富んだ演奏には特筆に値する新鮮さが感じられる。
ブロムシュテットならではの解釈であり、サンフランシスコ響ならではの響きだ。
ふくよかな弦の響きを生かしながら、管の潤色を充分に施した第1楽章から出色の出来ばえである。
繊細な弦が絡む第2楽章も素敵だ。
ぐっとスケール感と重量感の増す第3楽章の扱いも見事で、息も長くたっぷりと歌われる旋律は、ヒンデミットが決して一介の無味乾燥な即物主義者にとどまらなかった事実を裏づけているようで興味深い。
そうした特徴は《葬送音楽》でさらに内容的な深まりを示している。
それに続き、中でも最も聴き応えのあるものは《いとも気高き幻想》などである。
オーケストラのアンサンブルはよく整えられており、独特の対位法的な書法も線的に描き出すと同時に、音楽の構成上の均衡や一つの抒情的要素も生かしながら、3つの楽章をじっくり聴かせてくれる。
終曲のパッサカリアの構成的な運びは、とくに魅力的である。
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2010年12月01日
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モーツァルトの交響曲という以上に、古典派の名曲の中でも最も有名な2曲であるだけに、そのレコーディングの数も膨大なものがあり、1点を選ぶことは不可能とも言える。
その中であえて推すとするならば、レヴァイン指揮ウィーン・フィルによる1989年の録音ということになるだろう。
レヴァインの豊かな感受性と清新な音楽性が特筆される演奏だ。
ウィーン・フィルの音の輝きを率直に生かすことによって、音楽は雰囲気と動感の美しさを両立させ、香り高い音楽を作る。
第40番はその好例で、この曲がこれほど明晰に、かつ豊麗に歌われることは滅多にない。
第2楽章のレガートと弱音の魅力はまさに声楽的といえるほどで、むろん造形の崩れもない。
第41番「ジュピター」もレヴァインの特性が最良の形で示された名演である。
基本的にオーソドックスなスタイルによるものであるが、構成的にもきわめて明快にとらえられており、オーケストラもまた、その個性的な音色をいかしながら、充分にその要求にこたえている。
伝統あるウィーン・フィルによって初めてのモーツァルトの交響曲の全曲録音が、レヴァインに託されたということも、それを一面から裏づけていると言えよう。
そこには、古今の演奏スタイルから得た考えぬかれた解釈の集積があり、しかも、現代に生きる音楽家としての活力と躍動感もある。
そしてそうした中で、レヴァイン特有のリリシズムがいかされているのも魅力である。
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