2011年03月

2011年03月31日


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フルトヴェングラーには現在までに3種類の『ワルキューレ』全曲ディスクがあり、録音年順に辿ると、1950年のミラノ・スカラ座でのライヴ盤、次いで53年ローマ・イタリアsoとの録音、そして54年のつまり彼の逝く年に録音されたウィーン・フィル盤である。

そこに第1幕だけであるが、1952年のローマRAIでの演奏が加わった。

案に違わずそのいずれもが、フルトヴェングラーの高貴なロマンティシズムに裏打ちされた感銘深い演奏であり、オペラ全曲あるいは『指環』全曲のドラマトゥルギーの中から確然と造型された『ワルキューレ』第1幕となっている。

いわば遥か彼方の大団円を見はるかすような巨視的な曲作りである。

ただ志向はあくまでドラマティック。

冒頭の激しい嵐の描出で劇性の伏線を張り、第1場のジークムントとジークリンデとの出会いから第2場フンディンク絡みのシーンまでを幾分静的に描き、第3場以降を加速度的に盛り上げ、激しくて深いクライマックスへと煽り立てる。

言うまでもなく第3場のドラマーティクに主軸を置いた音楽作りである。

それが最も尖鋭に感じられるものとしてスカラ座盤を挙げようと思うが、歌手陣を考え合わせるとイタリア放送so盤、オーケストラの良さではウィーン・フィル盤ということになろうか。

この1952年ローマRAI盤の演奏には生き生きとみなぎる劇的な力と雄弁さ、凄まじいまでの表現力、そして独得の白熱と高揚があり、フルトヴェングラーの気迫と精神力にはただ驚くばかりだ。

歌手ではジークリンデ役のコネツニがやや軽いが若々しく可憐だ。

『ワルキューレ』第1幕には、ワーグナーが生涯書いた最も美しいページが数多くあるが、このCDは、フルトヴェングラーの『指環』全曲の名演の一端を知る上で恰好のものといえるだろう。

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2011年03月29日


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あまりにも素晴らしい演奏なので、改めて紹介させていただく。

1955年のバイロイト音楽祭でのライヴ。

最近、放送音源などによるライヴ録音の発掘が積極的に行われているが、これは英デッカによる正真正銘「正規」録音である。

上演の模様を鮮やかにとらえたオリジナル・ステレオのサウンドが素晴らしい。

そして、聴きものは、まずカイルベルトの指揮。

その生々しい迫力に満ちた演奏を聴くと、この往年のドイツの名指揮者の実力と魅力を思い知らされる。

忘れるには惜しい名匠だ。

これは、カイルベルトの残したオペラの録音のなかでも、特筆すべき名盤である。

そして、1950年代から1960年代にかけてバイロイトで活躍した、ヴィントガッセンとヴァルナイという2人のワーグナー歌手の歴史的な共演盤でもある。

2人の名歌手の最盛期の貴重な記録だが、さすがにスケールの大きな味わいの深い二重唱が展開されている。

ヴァルナイの言葉の明晰さ、声の響きの逞しい力、ドラマティックな緊張の鋭さ、そして音楽の生み出す感動に聴き手の心に強く訴えかける真摯さは全く素晴らしい。

かつて、情報の限られていた日本では、レコードで活躍する演奏家ばかりが目立って、そうでない音楽家が不当に過小評価される傾向があった。

このヴァルナイなどはその代表格であろう。

後発のニルソンの華々しい録音活動にかくれてしまったが、1950年代のバイロイト音楽祭では最高のブリュンヒルデ歌いであった。

筆者には、直線的な威力で聴かせるニルソンより、黄金時代の伝統をついで、大きく深く音楽を呼吸させるヴァルナイの歌のほうが、よほど感動的に聴こえる。

このテスタメント盤は、録音機会の少なかった彼女が残した貴重なライヴ録音盤である。

地の底からわきあがって高天にのぼるような、その長大な呼吸を聴くことができる。

ヴィントガッセンにもほぼ同じことがいえ、ジークフリートでの知的な解釈と若々しいヴァイタリティが聴きものだ。

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2011年03月28日


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ショルティによるエルガーとコダーイ作品は再録音だが、ブラッハーは初録音だった。

近代の変奏曲の傑作を3曲収録した好選盤。

すでに、ショルティも齢80を超え、深い関係にあった楽団と、心に叶った演目だけを演奏していた時期に収録されたライヴ録音である。

かつて、ステレオ初期の時代に、ウィーン・フィルを力ずくでねじ伏せようとしていた趣きはまるでなく、エルガーでは、老練な語り口で、各変奏を自然に描き分けていくアプローチが展開されている。

周知のように《エニグマ》では、オリジナル主題に基づく14の変奏において、エルガーと親しかった人たちの人間的特徴がスケッチされている。

従って各変奏は、できるだけ違いを引き立てるよう演奏されるのが普通である。

しかしショルティは違う。

彼は、音楽の流れを重視しつつ違いをさりげなく聴き手に伝える、といった体の演奏を繰り広げてゆく。

ゆったりと流れる大きな流れの中の各変奏の多様で自然な表情。老練な語り口だ。

ショルティの師であったコダーイの名作《孔雀》は、ウィーン・フィルの流麗な音色を生かし、民族色に富む世界を生き生きと再現しているのが魅力。

オーケストラの美麗な響きを活かしながら、老巨匠が生涯にわたって保ち続けた小気味よいリズム感を介して、活き活きとした世界を形成。

フィナーレでハンガリー民謡の主題が回帰する際には、感動的なクライマックスを築き上げている。

ここでのショルティは、小気味のよい快活なリズムも披露、演奏に花を添えている。

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2011年03月27日


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スーク・トリオの屈指の名盤で、ドヴォルザーク/ピアノ三重奏曲全曲の初録音。

第2次世界大戦後に活動したピアノ三重奏団の中で、各楽器のソリスティックな味わいと室内楽的密度の濃さが最高にバランスされた団体が、このスーク・トリオだった。

彼らは代表的なピアノ三重奏曲をほとんど録音し、それらのすべてに高い成果をあげているが、中でも彼らならではの傑作といえるのがこのドヴォルザークの全集。

この4曲の中で、普通演奏会に取り上げられるのは「ドゥムキー」くらいで、他はほとんど顧みられないが、その全曲を録音していることに、彼らのドヴォルザークと同郷人としての心意気が現われている。

演奏もまさにこれしかないというほどこなれ、共感に満ち溢れている。

作品そのものの質まで見直させるほどの演奏である。

どの曲も、きわめて緊張度の高く、実に躍動感あふれた演奏である。

しかも情熱をみなぎらせてはいるが、ときには温かいやさしさもあり、その演奏はきわめて多面的で、そのリズムは完全にボヘミア的である。

第1番は堅固な構成をみせ、それに対して第2番では旋律美を重視している。

第4番「ドゥムキー」は、テンポの変換もよく、さすがにボヘミア的情感をみなぎらせた好演だ。

ことに第2楽章の静と動のコントラストのつけ方の見事さ、第5、第6楽章の民族色豊かな表現の素晴らしさなど、この曲を十分にひきこんだ自信と余裕が感じられる。

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2011年03月26日


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20世紀はパガニーニのヴァイオリン協奏曲の蘇演ラッシュであった。

第3番から第6番の計4曲が、シェリングやグリュミオーなど希代の名ヴァイオリニストたちによって蘇ったのである。

そしてとどめはこのアッカルドによる全集。

彼自らも第6番の蘇演を手がける一方、全曲カットなしの完全復刻、なおかつ各曲のカデンツァは自作もしくは手を加えたものを使用するなど、"アッカルドのパガニーニ"をアピールする。

至難の技巧的パッセージをイン・テンポでズバズバ決める痛快さ、抒情的旋律線のふるいつきたくなるような歌い回しなど、質の高い演奏で肉薄している。

"パガニーニの名盤ランキングの上位の座"こそ、誰にも譲らぬアッカルドの指定席だと言ったら、偏見のそしりを免れないだろうか。

だが実際、超絶技巧が連続すればするほど、ほとんど嬉々としてそれに向かい合う姿はまさに水を得た魚といったところ。

このような技術面が際立った曲は、つい新たに出る盤に目が向きがちだけれど、当アッカルド&デュトワ盤はすでに長い間最前線の位置を保ち続けている。

それだけ彼らの音楽性が、単なる表面上のことを超えて、洗練されたよさをもっているせいであろう。

事実、パガニーニの協奏曲は、アプローチの仕方ひとつで、かなり趣味の悪いものとなりかねない要素もはらんでおり、事実、そうしたディスクもいくつかあるのだけれど、ここに聴くアッカルドとデュトワとの共同作業は、そうした心配がまるでないといっていい。

個々の要素がていねいに、音楽性豊かに配慮されていて、演奏の出来映えとして、センスがよい。

しかも、充溢した時期にあったアッカルド(録音当時、彼は34歳頃である)なので、ヴァイオリニストとしての腕は冴えに冴え、パガニーニの協奏曲をスリリングに再現するだけの力も充分に備えている。

音色も輝かしく、よく歌い、立派な演奏だ。

指揮者デュトワがとっているスタンスも好ましい。

デュトワ指揮ロンドン・フィルが、天真爛漫なまでにさっそうとバックを務めているのも、この場合正解だ。

要所を押さえたデュトワの好サポートが強力な支えになっているのも特筆すべきだ。

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2011年03月25日


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アンセルメと言えば、フランスものというイメージが強いが、若い頃にディアギレフが主宰するロシア・バレエ団の指揮者を務めていたことも関係してか、ロシアものにも定評がある。

スイス・ロマンドを使ってのここでのボロディンの2曲の交響曲においても、もちろんそれを実証する手腕が鮮やかに示されている。

いくらか理知的と言える表現の中にロシア的なものを充分に感じさせ、色彩的にまとめ上げている。

もちろん聴くべき中心となるのは第2番だが、第2楽章途中で未完となった第3番が聴けるのは、長らくこのディスクだけだった。

ステレオ録音が一般的になるのは1956年頃からだが、これはそれ以前の最初期のステレオ録音。

アンセルメとスイス・ロマンドは感覚的に明るく洗練されているので、ボロディンの曲にあるスラヴの土の匂いが、西欧風の美感におきかえられているのが興味深い。

ここに収められた曲は、いずれもその好例である。

しかも演奏はそれなりに完成されており、ロシア音楽の洗練された表現を望む人には、好個のものといってよいだろう。

原色的な管弦楽の使い方が、粗野に流れず、しかも鮮明に表現されている。

繊細な音色の配合を表現しうるスイス・ロマンドが、ボロディンの交響曲では、思い切って原色的な色彩構成をとっている。

しかも、表面的な荒々しさに堕することなく曲想にくっきりとしたくま取りをあたえている。

これはアンセルメの配慮にもとづくものであり、成功した演奏である。

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2011年03月24日


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このアルバムは、名歌手シュヴァルツコップが、「無人島への1枚」に選んでから突然話題になったものだが、ライナーの棒はノスタルジックな憧れに溢れ、シカゴ響の名人芸ともあいまって、実に雰囲気豊かなウィンナ・ワルツの名演といえる。

ライナーとシカゴ響によるワルツとポルカは、積年の汚れを洗い落した名画のように、シュトラウスの音楽本来の美しさが際立っている。

よく人間は顔や噂で判断してはいけないというが、このライナーとシカゴ響によるワルツ集など、そのもっともよい例かもしれない。

映画などに残されたライナーの厳めしい顔と指揮ぶりからは想像もできないような魅力あふれる演奏である。

とはいえ、彫りの深い響きと精妙なリズムによってシュトラウスのワルツやポルカの真髄に迫っているあたりは、やはりライナーである。

曲の隅々まであの鋭い眼光がゆきとどいた正攻法でシンフォニックな演奏は、まったく隙がなく、それでいて少しも野暮にならず、粋でありながら格調も感じさせる。

リズムやフレージングは、ウィーン独特のものとは少し違うものの、この演奏を聴いていると、音楽から思わず姿勢を正したくなるような格調の高さと他の演奏では味わえない美しさがあり、シカゴ響の名手たちのソロのうまさもまたとても味わい豊かである。

やはりJ.シュトラウスが生きた19世紀のウィーンを知る巨匠ならではの、香り高いワルツ・アルバムである。

ライナー独特の魅力あふれる演奏であり、現在の《舞踏への勧誘》と《ばらの騎士》も入ったCDではワルツの変容も楽しめる。

さらにSACD化による高音質も、本名演の価値を高めることに貢献していることを忘れてはならない。

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2011年03月23日


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ブラームスのヴァイオリン協奏曲を何度も録音しているダヴィッド・オイストラフだが、ステレオでのクレンペラー=フランス国立管やセル=クリーヴランド管との名盤と並んで、LP初期に録音されたコンヴィチュニーとドレスデン国立管(当時はザクセン国立管と呼ばれた)の演奏もまた、忘れ難い名演である。

全体は恰幅のよい表現力をもち、構成も安定しており、風格がある。

ブラームスの抒情性がじつに逞しく描き出されていく。

オイストラフの豊麗な音と豊かなカンタービレに加えて、ここではコンヴィチュニーの武骨で逞しい、しかし、細部の一点一画まで強靭な意志をこめた指揮と"ドイツ的"としか形容できないオーケストラの音と音楽性が、ブラームスの音楽の魅力を余すところなく描きつくしている。

チャイコフスキーという作曲家の中にあるロシア的要素と西欧的要素のバランスをどうとらえるかで、チャイコフスキー解釈のあり方は変わってくる。

スラヴと西欧の融合したチャイコフスキーの音楽の特殊性を考えてみた時、このコンヴィチュニーとの共演盤は、オイストラフのこの曲の多くの録音の中でもとくに優れたものということができよう。

テクニックの全盛期にあったオイストラフの、華麗にして雄大ながら、饒舌にはならぬセンスと母国の作曲家に対する共感、そしてそれらを一つに結びつけるロマンティシズムの飛翔は、コンヴィチュニーの堅実な音楽性、ドレスデン(ザクセン)国立管弦楽団の渋い音と合わさって、至高の演奏を展開している。

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2011年03月22日


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この録音は長いあいだ眠っていたもので、1999年になって初めて世に出た。

未発売の理由は不明だが、音質は最新録音よりも優秀なくらいで、演奏も最高であり、クレンペラーの遺産のなかでも特筆されよう。

例によって、クレンペラー独特の怜悧な目で各パートをきちんと浮かび上がらせようとしているが、そこからは聴いたこともないような新鮮な響きや、まぶしいくらいにきらきらと輝くような瞬間が繰り出される。

また、あっけらかんとした楽しさや、言いようもないくらいにのどかな場面も次々と出てくる。

しかし、その反面、楽しそうなフルートのワルツが虚無的に響いたり、ファゴットのつぶやきが何とも不気味に、皮肉っぽく響いたりする。

引きずるような重いテンポも異様な雰囲気を演出しているが、ときどき縦の線が大きく崩れ(未発売であった理由か?)、これがいっそう自堕落な気分を助長する。

謝肉祭の場面も、一種異様な盛り上がりで、血だらけの死体がころがっているそばで、大勢がにぎやかに踊り歌っているといった風情である。

《ペトルーシュカ》の録音でも、これほど一風変わったものはないが、これを聴いて初めて筆者は、曲の面白さに気がついたといっても過言ではない。

クレンペラーの現代音楽の録音は少ないだけに、貴重な記録である。

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2011年03月20日


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ウィーン国立歌劇場の、日本での引っ越し公演(1980年)のライヴ。

ベームの残したモーツァルトのオペラのレコードは、スタジオ録音とライヴ録音とでだいぶ様相が異なる。

両者のあいだには大きな変化が生じ、ベームはまるで2つの顔をもつようだ。

ライヴでは演奏の本質はスタジオと変わりないが、聴衆の反応を感じ取ると、慎重派のベームといえども少しずつエキサイトし、用意された下書きとは違った表現が表れてくる。

ライヴ特有の多少粗削りながら音楽の流れを閉ざさないモーツァルトも素晴らしい。

このライヴ盤は、まったく予想だにしないくらい、傑出したものとなった。

1980年といえば、ベームは85歳を超えているが、ここで指揮をするベームは、信じがたいほど精気に満ちた、躍動感のある、若さほとばしるモーツァルトを形作っている。

利発で機転のきくスザンナのルチア・ポップの、絶妙なタイミングの言葉のやりとり、情感のこもるしんみりした歌、最後まで気の休まることのないこの役を、みごとにこなしている。

フィガロを演じるヘルマン・プライも、最高の相手(ポップ)に恵まれて、十二分の力を発揮。

ケルビーノのアグネス・バルツァも、2曲のアリアとも完璧な出来ばえ、歌い終わったあとの拍手の長さからみても、人気一番であったろう。

ちょっとびっくりしたのは、伯爵夫人のグンドゥラ・ヤノヴィッツだ。

レコードで聴く彼女は上品でそつが無く、静的な歌い方でハメをはずすことはないと思っていたが、どうしてどうして、ふたつの美しいアリアを十分に歌い分け、彼女一代の名唱を残した。

このときの聴衆の拍手は、この歌にどれだけ感銘したか、印象深いものであったかを物語っている。

彼女はレシタティーヴォ・セッコの部分でも意志の強さを表現し、堂々とした伯爵夫人を演じている。

脇役にまで一流どころを揃えたこの《フィガロ》は、20世紀の規範となるべき普遍性をもった演奏として、誰が聴いても納得できる夢のようなレコーディングとなった。

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2011年03月19日


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《ボレロ》だけがベルリン・フィルで、《ラ・ヴァルス》や《スペイン狂詩曲》《クープランの墓》などはパリ管弦楽団との演奏である。

フランスの威信をかけて設立されたパリ管弦楽団は、フランスが誇る大巨匠シャルル・ミュンシュの急逝の後、カラヤンが短期間その任に当たった時代の録音の中でも、ラヴェルの管弦楽曲を集めた1枚は、この両者の組み合わせのユニークな味わいが最も面白く発揮された快演であった。

カラヤンのつくり出す構築的で重厚な造型に対し、パリ管弦楽団はフランス的な軽快さと爽やかな味わいを加えていく。

なかでも《道化師の朝の歌》では、この双方の特性がぶつかり合い、濃厚でありながらも決して胃にもたれないまったく独特の魅力を持つ名演が生まれた。

こうしてみると、カラヤンとパリ管弦楽団の組み合わせによるフランス物は実に良いコンビだったわけで、もっとたくさんの録音が残されなかったのが惜しまれる。

ドイツとフランスの幸福な結婚とも呼ぶべき演奏である。

ラヴェルの全作品をパリ管弦楽団と録音してくれていたらと思わずにはいられない素晴らしい演奏だが、ベルリン・フィルとの《ボレロ》も文句のつけようがない。

ピアニッシモで開始し、終結部でフォルティッシモが炸裂するまでの長いクレッシェンドは見事に計算され、寸分の狂いもなく前進する。

ベルリン・フィルの管楽器の名手たちがつぎつぎに登場してくるこの演奏は聴き手にも緊張感が伝わってくる。

聴き手にある種の陶酔感を与えるオスティナート・リズムと主題の魔力はまさにカラヤンならではの魔力と言えよう。

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2011年03月17日


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1983年、テンシュテットのもっとも愛する第6番がレコーディングされたが、このライヴ録音はそれからしばらくたって収録されたもの。

マーラーでも屈指の暗い曲想を持つこのシンフォニーで、まず筆者が重視するのは、終楽章の導入部である。

運命の動機が冒頭からフル・オーケストラで現れ、金管による鬱々としたコラールに引き継がれる。

不安定な気分をかき立てながら曲は加速し、第1主題のごうごうたるトゥッティへと突き進む。

ドロドロと渦巻く、どす黒い情念が奥底から噴き出し、鬱積した苦悩や不安が赤裸々に姿を現すさまを、これほど強烈な音楽として定着させた例は、古今でも数少ないのではないか。

だからこそ演奏は、諦念のなかにもふつふつとたぎる暗い情念を十全に描き出し、かつスリリングな展開を強烈な曲想のままに示さなければ、ウソだろう。

テンシュテット&ロンドン・フィルの聴きどころは、まさにここにある。

マーラー的な語法を自家薬籠中のものとした上で、存分のドライブ感と彫りの深い演出を聴かせ、曲をきれいごとで終わらせない。

散発的に飛びだす管の突飛なフレーズの扱いや音色、着実なテンポ設定など、彼の棒から自然と生成するリードは、そのまま巧みな設計へとつながり、最終的には強大なカタストロフィーと陶酔へ導いてくれる。

もちろん他の楽章の出来も素晴らしい。

いわゆる「マーラーの毒」をたっぷり含んだ第3楽章の底知れぬ深みは驚異的。

ロンドン・フィルも良くテンシュテットの棒に応えている。

1980年代以降、マーラー・ブームに合わせ、第6番のCDも増えた。だが、生真面目なだけでインパクトに欠ける盤や、分析的なあざとさばかりが目立つ盤などは、やっぱりペケだ。

テンシュテットの第6番には、1991年に行ったライヴ録音もあるが、演奏にほとばしる生命力の強さや端正な造形の点で、筆者は1983年のライヴ録音盤を採る。

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2011年03月16日


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「私の死に対する想いは、幸福な開放感と来世への至福への憧れ」と告白したフォーレは、自作の《レクイエム》から〈怒りの日〉を省く、という大胆極まりないアイデアを実践した。

長い間、葬儀でオルガンを弾いていた彼は「本能的に慣習から抜け出したかった」と語っている。

この曲はかつて、クリュイタンスの2度目の録音が決定盤と言われたが、近年、事情は一変した。

これまで広く使用されてきたスコアが、出版社の要請による改訂版であることが判ったのだ。

そこで、本来の独奏ヴァイオリン、ヴィオラ2部、チェロ2部、コントラバス、ハープ、オルガン、ティンパニという、ささやかな編成の演奏が主流になってきた。

一度耳にすれば、成る程、これこそフォーレゆかりのマドレーヌ教会の日常に相応しい慎み深い音楽だ、と誰もが頷くに違いない。

さて、そのオリジナル版の演奏であるが、筆者はまずラター指揮ケンブリッジ・シンガーズ盤を推薦しよう。

まず、指揮者に衒いがなく、コーラスの至純さにも類がない。本当に清らかで平安な音楽だ。

野辺に咲く花のように、目立たないけれど、しっかり自分の生を主張する、といった演奏であり、フォーレの質素にまことに相応しい。

較べれば、世評の高いガーディナー盤の、なんと自我に曇って聴こえることか。

併録の女声のための宗教小品の至純さも比類がない。

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2011年03月15日


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マデルナは8歳にしてミラノ・スカラ座で指揮をしたという神童であったが、その後、電子音楽などに積極的に取り組む前衛作曲家として活躍した。

第2次大戦後にはシェルヘンのもとで12音技法を学んでいる。

時代の最先端をゆく作曲家でありながら精力的に指揮活動を行ったという姿勢は、ブーレーズに共通するが、その在り方は随分違ったものであった。

一口に言えば、マデルナは、本質的に「真の演奏家」の気質を持っていたのである。

つまり、理論家としての怜悧な分析力を持ちながらも、決してブーレーズのように整理整頓されすぎた「冷めた」演奏は行わなかった。

熱い血の通う「人間的」な演奏家だったのだ。

また、商業的な成功=レコード産業に背を向け、つねに演奏会場における一期一会の真剣勝負に命をかけた、という点も、まさに「真の演奏家」たる所以である。

それは、当時の聴衆や共演者にはまことに幸せなことであったが、後世の音楽愛好家にとっては至極残念なことである。

残された録音のほとんどが放送録音であり、しかも、海賊盤という現実が、その惜しまれる急逝とともに、マデルナ芸術が真価に見合う評価に至らない最大の障害となっている(しかし、本人は後世の評価すら望んでいなかったのかも知れない)。

ここに聴くマーラーも、尊敬すべき演奏である。自己陶酔に陥らない客観性と見通しの良さを誇りつつ、音楽は「生きる」歓びに赤々と燃えている。

人間愛に貫かれた肯定的な演奏がズシリと胸に響く。

それはスコアを丹念に読み込んだ「正統」であることは間違いない。

入手困難にならないうちに、「マデルナ復権」を心より願って掲げた次第である。

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2011年03月14日


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ケンプ晩年の録音で、どの作品も、シューベルトの"歌心"を、ごく自然に、温かくひきあげたもので、こうしたぬくもりのある演奏というのは、こんにちでは少なくなった。

ケンプの格調の高い叙情性は、シューベルトにふさわしく、叙情的な資質を実に端的に表明している。

ソナタは18曲を演奏しているが、どの曲もシューベルト特有の詩情とロマンが芳醇な薫りをもってあふれんばかりに示されている。

そのすべてに共通した、滋味ゆたかな、温かさにみちた演奏は常に高雅であり、繊細で柔軟な歌にあふれている。

この自然体の音楽は作品の本質そのものの表現といってよい。

アゴーギクも妥当で、数多いシューベルトの録音でも特筆すべきアルバム。

ケンプの資質の最良の部分があらわされており、彼の芸の深さをうかがうことのできる名演である。

最近でこそ多くのピアニストが取り上げるようになったが、かつては繰り返しの多い退屈になりかねない音楽として、シューベルトのソナタは敬遠されがちであった。

しかしその頃から積極的に演奏に臨み、後期の有名な作品ばかりでなく、ついには全曲を録音したのは、メジャーな演奏家としてはケンプが初めてではなかったろうか。

この全集を聴けば良く分かるが、まるで天国から啓示を与えるかのような至福の表情を持つケンプの音楽性は、まさにシューベルトにぴったりだったのだ。

近年はシューベルトに関心を示すピアニストも多くなったが、全集まで録音しようとする人は少ない。

今聴き直してみても、その存在価値にはいささかの揺らぎもない。

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2011年03月13日


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このベッリーニ最後のオペラも《ノルマ》と同様、カラスとセラフィンを越える演奏は残念ながらまだない。

半世紀以上も前の演奏だから当時の古い様式感に問題はあるものの、20世紀にベルカント・オペラを蘇らせた偉大なソプラノの才能を後世に伝える歴史的名盤だ。

この《清教徒》はカラス全盛期のエルヴィーラ役の究極の解釈を示す名唱で、この強靭な声の威力と見事なコトラトゥーラ技術が、求心的なドラマを形成する方向へ凝縮していく姿は、この不世出の大歌手の凄絶なまでの素晴らしさを伝えてくれる。

ベッリーニの命とも言えるカンタービレなフレーズにおけるみずみずしさ、レチタティーヴォの驚くべき雄弁さ、〈私は愛らしい乙女〉の優美な鮮やかさから、〈狂乱の場〉の悲劇的な表情とアクロバティックなテクニックの壮絶さなど、どの部分を切り取ってもその歌唱の見事さには感嘆するしかない。

それにこれは痩せる前の完璧なテクニックを誇るカラスなのだ。

さらに絶対的な価値を与えているのがセラフィンの素晴らしい指揮で、全ての歌手の美点を最大限に引き出しつつ、音楽の美しさを余すところなく表現する技は真の玄人芸と呼ぶ見事さである。

共演のディ・ステファノやパネライは力唱しているが、残念ながら様式を外れている。

カラスの凄さに酔う、または圧倒されるためのCD。

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classicalmusic at 13:39コメント(0)トラックバック(0)カラスセラフィン 

2011年03月12日


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クリップス盤は、モーツァルト生誕200年(1956年)を祝うレコードのひとつとして発売されたものである。

ウィーンでの音楽生活が長い指揮者クリップスと、いつもコンビを組んでいるウィーン・フィル、そして国立歌劇場を主な舞台とする歌手たちと合唱団で構成され、お互いに身も心も通じた仲間たちで作られているのが、特色である。

序曲の出だしからあまり悲劇的な予感はさせず、軽快なリズムとウィーン風のよく歌うオーケストラ、木管楽器の妙なる響きが続く。

人間模様を描くこのオペラでは、心の安らぎ、怒り、嘆き、悲しみ、驚きと、心に映る感情の発露が至るところに出てくる。

そうした場面での木管の果たす役割とその効果は、随所に聴くことができる。

オーケストラは歌の伴奏という観念ではなく、歌手と対等の立場で絶妙な動きを見せ、一心同体で音楽を作り上げる。

これが、ウィーン伝統のモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》であろう。

チェザーレ・シエピのタイトルロールのドン・ジョヴァンニは押しも押されもしない、ドン中のドン、文句のつけようがない。

シエピは、ドン・ジョヴァンニ像を作り上げた男とさえいわれている。

彼の雄姿を見たさに、劇場に足を運ぶ人(主に女性だが)が多くなった、という話を聞いたことがある。

ドンナ・アンナのスザンヌ・ダンコとドン・オッターヴィオのアントン・デルモータのカップルは、着実に自分の役割を演じる。

ツェルリーナのヒルデ・ギューデンは美貌で美声、そして芝居達者と三拍子揃った当時の新鋭歌手の売れっ子。

マゼットのヴァルター・ベリーも、デビュー間もないころで、マゼット役から後年の成長を約束したような歌、新人離れした落ち着いた歌が聴かれる。

レポレロのフェルナンド・コレナの、有名な「カタログの歌」。こんな立派な歌だったのかと誰もが思うほど、スケールが大きい。

道化役の歌としては、あまりに立派で役柄を壊すとの説もあるが、立派すぎてだめということはないと思う。

大事な役のドンナ・エルヴィラは、リーザ・デラ=カーザ。若くて美人で、線はちょっと細いが勢いがあり、素直な声、よく通る声。いちずにドン・ジョヴァンニを追いかける純情な女を表現して好ましい。

騎士長のクルト・ベーメは超低音域の音に強さがあり、2幕の終焉近く、恐怖感を募らせる雰囲気をかもし出す適役である。

ひとことで言えば、オペラ・ブッファ側に軸を置いた、ウィーン風の《ドン・ジョヴァンニ》なのだ。

録音も細部まできちんととれて、厚みのある豊かな響きが楽しめ、現在でも充分に通じるすばらしい盤である。

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2011年03月11日


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《ミサ曲ロ短調》は、コルボ指揮ローザンヌ室内管ほかの演奏が素晴らしい。

これはオリジナル楽器によるものではなく、モダン楽器によった演奏だが、そこここにオリジナル楽器的奏法がみられ、いずれこの曲の場合もオリジナル楽器の演奏が、主流になるのを予告しているともいえる。

オーケストラの音色が明るく、響きも美しい。

また合唱の扱いの上手さも、コルボの特筆すべき腕のひとつ。

バッハというと、リヒターがまずあげられるが、合唱の扱いでは、コルボも負けていなだろう。

合唱団の上手さは、むしろこちらのほうが上だと思う。

ローザンヌ声楽アンサンブルも編成が小さく、透明で動きの鮮明なきめ細かな歌唱が魅力的で、きわめて洗練されたアンサンブルが光った演奏だ。

特に声楽パートは、神経の行き届いたバロック的発声で、ヴィブラート過剰な現代的発声とは違った、この曲にはふさわしい配慮がなされているのもいい。

独唱では、男声=テノール、バリトン、バスが秀演で、特にバリトンのフッテンロッハーが光っている。

さらにアンドレのトランペットは人によってはうるさいと感じる人もいるかもしれないが、バッハ・トランペットを、これほどみごとに鳴らした演奏は他にはなく、天井から差した、一条の光のようにさえ感じさせる。

概してコルボの演奏には、このような雰囲気を持つものが多く、そのなかにそれぞれの作曲家のエッセンスを注ぎ込んだ静謐さが、彼の特徴ではないだろうか。

《マニフィカト》でのコルボの指揮は、流れがよく、やさしさにあふれていて、聴いているうちに、実になごやかな気分になってくる。

透明感にみちたすがすがしいその演奏は、若い世代には好まれよう。

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2011年03月10日


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ハンス・ロスバウトは、私の知る範囲では、1950年代に脚光を浴びた現代音楽の旗手たちの作品を積極的に取り上げ、世間に紹介した指揮者という印象ばかりが強い。

現代音楽はあまり聴かない筆者のような者にとっては、遠い存在であり、単なる変わり者としかうつらない。

そこらあたりが、変人好きな私の興味をひく要素ともなっている。

現代音楽ばかり演奏しているから変だとはいえまい、という意見もあるかもしれないが、現代音楽を演奏しすぎたからとしか思えないほど、彼の音楽は異様な響きをもっている。

しかし、これは素晴らしく音楽的なブルックナーである。

妙な言い方だが、最近のブルックナー演奏は、あまりに巨大な「音響」と化しているように思うのだ。

そこでは瞬間ごとにその音響に浸ることだけが目的となってしまう。

もしかすると彼の音楽の本質が、そのようなものであるのかもしれないが。

しかしこの演奏は、あくまでフレーズごとにしっかり歌いながら、どこまでも室内楽的に見通しがよく、結果として、この交響曲全体の構造をみごとにあらわにする(オーケストラがいささか非力だけど)。

音楽には始めがあり、どのような筋道を通って終わりに向かうのか。

この当たり前のことが、珍しくも実現されているといえよう。

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2011年03月09日


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このソナタとパルティータは、ヴァイオリン奏者としてエネスコが遺した記録の中でも、とりわけ重要なものだ。

エネスコは幼年時代からバッハの音楽を愛し、芸術家としてもバッハの解釈に精神を集中した。

その成果が《無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ》の全曲録音で、エネスコ67歳の年の1948年頃にニューヨークで収録されたものだという。

演奏家の心の奥深くで燃え上がるパッションをほとばしらせたバッハである。

エネスコ晩年、もとより盛期をかなり過ぎた時期の録音ではあるが、この名匠によるバッハ《無伴奏》全曲が残されたことの有難さは筆舌に尽くし難い。

録音も貧弱だし、作曲家が書かなかった装飾や過度なヴィブラートの使用を嫌ったエネスコの演奏だけに、骨と皮だけのバッハに聴こえるところもないではない。

それにヴァイオリンの演奏技術が著しく向上した現在では、年齢からくる技巧の衰えも気にならないではない。

パルティータ第2番の最初のほうなど、その意味で先行きが思いやられたが、先へ行くほど集中力を増し、シャコンヌの楽章の表現の厳しさとほとばしる気迫には文句なしに圧倒されてしまった。

似たことはあとの5曲についても言え、エネスコがバッハに寄せた敬愛の深さを物語る貴重な形見の一つである。

強い集中力と感情の移入は、バッハの音楽の様式を正確に再現すると同時に、豊かな感情を引き出している。

落ち着いた、しかもスケールの大きな解釈は、まさに巨匠にふさわしい。

朗々とした歌や語りかけるようなアーティキュレーションにも人間的なあたたかさが通い、その音色は豊麗で瑞々しく、万華鏡を覗いているかのように多彩だ。

他からは求められない滋味に加え、いわば"神韻"と呼びたい何かが、ここには確かに感じ取れる。

バッハの全作品を暗譜していたという伝説が囁かれるほどこの大作曲家に傾倒し、パリを中心に活躍していたころ、バッハ研究の最高権威と自他共に許していたエネスコの録音に触れなかったら、《無伴奏》そのものについて、記述を諦めるほかはないだろう。

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2011年03月08日


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フリッチャイは、ハンガリー出身の指揮者で、実力者となるとともに、モーツァルトの録音も多くなった。

彼のモーツァルトへのこよなき愛は、作り出す音楽の調べの中に、絶えることのない泉のようにあふれ出ている。

フリッチャイの《魔笛》は、彼の他のモーツァルトのオペラと基本的には同じである。

見通しのよい、混濁感の少ない響きを特徴としている。

テンポも決して急がず、足取りも軽く颯爽としていて、決して重すぎることはない。

一音一音慈しむように、大切なものを取り扱うように大事にして、音楽はつくられていく。

内に秘めるあふれるようなモーツァルトへの愛も、演奏に際しては必要以上に情に流されるものではなく、また抑えすぎることもなく、うまくバランスされている。

フリッチャイの選ぶ歌手は、歌唱力に不安がなく、自己流の歌いまわしが少ない人、つまり癖の少ない人である。

音程がしっかりし、歌に柔軟性のある、しなやかな歌いぶりのできる人が選ばれている。

タミーノのヘフリガーは、モーツァルトが考え望んでいたと思われるほど、すばらしい声の持ち主。誠実でまざりけのない、しかも透明で強い声は、高貴な王子に適役である。

夜の女王の娘パミーナは、デビュー間もないシュターダー。タミーノの相手役として、これ以上の声はいないのではないか。汚れを知らない、気高き乙女を想像させる澄んだ声、世界中にシュターダーの名を広め、人気の的となったのもうなずける。

夜の女王はシュトライヒ。難しい曲に懸命に立ち向かう姿勢にほだされる。第1幕のレシタティーヴォとアリア。最初のレシタティーヴォをシュトライヒは、冷静に諭すように歌って、後半との対比で激情と怒りの心情をうまく表出している。

パパゲーノのフィッシャー=ディースカウも、好演である。あのフィッシャー=ディースカウがパパゲーノをやっていたことがあるのかと思うくらい若いときの録音なのだが、上手に鳥刺しを演じ、本能のおもむくままに生きる男を、おかしく面白くこなしている。

すべての役者、オーケストラ、合唱隊もフリッチャイの意図を理解し、フリーメイソン風にも傾きすぎず、かといって娯楽性、メルヘンの世界を無視するでもなく、自前のバランス感覚で、演出の難しい《魔笛》をうまくまとめている。

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2011年03月07日


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ウィーン・フィルという豊麗極まりない音を生み出す名器を手にしたバーンスタインが、シベリウスの音楽の新しい魅力を教えてくれる。

新録音でのバーンスタインは、ウィーン・フィルの自発性に任せて、のびのびとした音楽をつくっている。

バーンスタイン自身がウィーン・フィルの美音を味わい楽しんで指揮しているのが目に浮かぶようだ。

それでいて全編が「バーンスタイン節」で貫かれている。

バーンスタインの指揮は、第5番の牧歌的なホルンと木管の音色が美しく、この曲によく合っており、ホルンと木管による印象的な出だしから素敵だ。

あらゆる音が彼の巨大な音楽性を通過することによって生命を帯びるのだ。

シベリウスの個性的なオーケストレーションが生む神秘的とも言える美しさを見事に表現している。

北欧的な民族色を抜け出した洗練された響きがこの作品の交響曲としての価値を不滅のものしている。

甘美なロマン主義ではなく現代的都会的な感覚に強く訴える。

バーンスタインの第7番は、非常に美しく、作品に対する愛情が悲痛なまでに伝わってくる。

第7番は正直言ってどうも得体の知れない作品だが、バーンスタインの手にかかると見事なまでに有機的な関連が示される。

そして調性を信じながら20世紀を生きたシベリウスとバーンスタインの最後の叫びを聴くようだ。

バーンスタインはこの曲で調性音楽の痛みを甘受しようとしていたと言えるのではないだろうか。

作曲家への強い共感に支えられたシベリウスであり、バーンスタインが鋭く豊かな感受性の持ち主であったことを如実に感じさせる演奏だ。

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2011年03月06日


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モーツァルトを振るときのフリッチャイは、ひと味ちがうような気がする。

モーツァルトを畏敬してやまない気持ち、モーツァルトへの憧憬の念がそうさせるのかと考えたりする。

旧東ドイツの手兵、ベルリン放送Oから、軽く弾むリズム、細部まで見通せる透明な音、しなやかな旋律を引き出したフリッチャイの感性と手腕に驚かされる。

《後宮》というオペラじたいが青春そのものの作品である。フリッチャイに選ばれた歌手たちは、若手ばかりで、青春がはち切れそうなガンバリを見せる。

シュターダーのコンスタンツェは、やや細身ながら独特の魅力をもつ声で、力強くはっきりとした意思を示す。

第2幕第10曲「わが幸福が消えた日から」は、自分の悲しい運命、哀愁感を嘆き歌い、次の第11曲「たとえどんな苦難が待ち受けていようとも」では、強い意志をこめてドラマティックに絶唱。

この2曲は《後宮》のハイライトであり、シュターダーも絶品なのだ。

もう1人の女性ブロントヒェン役は、リタ・シュトライヒ。

フリッチャイの《後宮》で成長したシュトライヒは、やがて《フィガロ》のスザンナ役で大成する。

ここでは若さでピチピチのブロントヒェンを演じ、文句のつけようがない。

ベルモンテのヘフリガーは、声も役柄も、青春のモーツァルトを歌う最適な声、純粋で実直な若者を描き出している。

オスミンのグラインドルは、役を十分に理解して好演、ブッファを盛り上げている。

歌手は、合唱団を含め、申し分のない出来である。

また、ジングシュピール独特のドイツ語による会話は、歌手全員がドイツ語圏の人のためか、これもまた美しく響き、オペラを成功させた一因として見逃せない。

録音はモノラルだが当時としてはすばらしく、現在でも十分観賞に堪えるものである。

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2011年03月05日


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どこまでもドイツ音楽の伝統に根をおき、ドイツ民族の美学を最良の形で示した重鎮カイルベルトが、バイロイト音楽祭で《ニーベルングの指環》を指揮した伝説の1955年ライヴ録音。

カイルベルト壮年期の熱気と覇気に満ちた筋肉質な音楽作りの力によって、この長大な作品を一気呵成に聴かせてくれる。

カイルベルトの指揮は肌触りはざらざらしているが、《ジークフリート》で主役ふたりが出逢ってからの感動は筆舌につくし難い。

また《神々のたそがれ》では特に「ジークフリートの葬送行進曲」の緊迫感と悲劇的な盛り上がりは凄い。

最後のヴァルハラの炎上まで、坂を昇りつめるように一気に盛り上がるその迫力は他に例をみない。

バイロイト祝祭管弦楽団の技術に粗さも感じられるが、カイルベルトの覇気は、そんな小さな傷も気にならない圧倒的迫力を生み出している。

歌手陣の充実も、正に「バイロイト音楽祭の黄金期の記録」と呼ぶべきもの。

声のエネルギーに満ち満ちていた時代のヴィントガッセンのジークフリート、ホッターのヴォータンは、他の彼らの録音以上の若々しい声の魅力に満ちている。

ヴァルナイのブリュンヒルデも圧巻。この名手の貴重な記録だ。

かつてはベーム盤もバイロイトのライヴ録音ということで大きな話題になったし、高く評価された。

だが、その一方で、音はよくてもこの壮大なドラマを充分に表現しきれていないのは、ライヴ録音のためではないかという疑問もあったのだが、それも、カイルベルトによる1955年のライヴ録音で氷解した。

ベームを過大評価していたのである。

戦後バイロイトの1つの頂点を刻む記録。

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classicalmusic at 17:08コメント(0)トラックバック(0)ワーグナーカイルベルト 

2011年03月04日


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長年、ブルックナーの交響曲を指揮してきたヴァントの、揺るぎない確信が感じられる演奏である。

本拠地であるハンブルクのムジークハレでのライヴで、第6番の録音はこれで3回目となった。

ヴァントの音楽は彫りが深く、その端正な解釈は外面的効果のために曲の本質的要因を損なうことが決してない。

表情の隅々まで共感のにじみ出た第1楽章から生命力に満ちた終楽章まで、精緻なアンサンブルともども賞賛に価しよう。

自然に流れる虚飾のない構成とすっきりとした潔いリズム、そして大音量で鳴り響いていても、どこか昔をなつかしむ風情のある表情は、83歳にしてついに到達した音楽の深みといっていい。

このあたりからブルックナーは、とくにアダージョ楽章において、自然の描写、というよりは、たんなる自然の鏡のような反映の作風を、確立したように思われる。

第6番のアダージョ、すでに作曲家は第5番の真夏の盛りを越えて、秋の入り口にさしかかっているのは明らかだ。

弦楽器によるしっとりとした歌が高まっていく第2楽章のくだりは、まるで残照のよう。

ヴァントは、その美しい陽だまりの世界を、慈しむかのように、丁寧に描き出す。第2主題の柔らかい癒しには、言葉もない。

曲全体から時折、寂しげな雰囲気が漂ってくるものの、大きな起伏のあるフィナーレまでくると、いつのまにか寂寥感も癒されて、ほのぼのと温かい気持ちに包まれる。

名盤と呼べるものの少ない第6番だけに喜ばしい1枚だ。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2011年03月03日


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ジュリーニは、素晴らしい《ドン・ジョヴァンニ》を残してくれた。

荘厳な序曲の出だしでデモーニッシュな幽玄の世界を描き、これに続くオペラがどんなドラマであるかを推測させる、充分な緊迫感のある音楽で迫ってくる。

ジュリーニは企てたドラマ性の追求を終始一貫してやり通し、細部まで配慮の行き届いた緻密な設計で、音作りを徹底した。

ジュリーニの創る音楽の流れには、無理がない。音楽は一貫して流れる。

これは彼の、《ドン・ジョヴァンニ》に対する信念と自信の表れであろう。

フィルハーモニア管弦楽団から、各声部、明瞭な分離のいい音、若々しい響きを引き出して、全曲を通じて歌手のアリアをタイミングよく支えている。

また、オーケストラも一体となって歌う。デモーニッシュな場面では、低弦部の響きが鬼気迫る迫力を生み出しているのも見落とせない。

まさしく、ジュリーニ以外ではできなかった、最高度の音のドラマである。

キャストも超豪華で、とくに円熟の極にあったシュヴァルツコップは文字通りの力演で、女心の複雑な心理をよく歌い分け、さすがと納得させられる。

シュッティは透明な声に加え聡明な歌いぶりで魅了し、サザーランドも素晴らしい声で豊かな音楽性を感じさせる。

男声陣はヴェヒターが若々しい情熱をもって歌い切って輝かしく、タデイも老巧なところを見せる。

この企画に参加した人々が、各自予想外の力を発揮し、それがひとつの目標へ向かう力となって、何人も考えることさえなかった高みに昇りつめた。

きわめて芸術性にすぐれた、奇跡のような録音である。

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2011年03月02日


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オペラティックな面白さにあふれた、ある意味では大変分かりやすいワーグナー演奏。

つまりフルトヴェングラーの深遠な抒情やベームの凝集的表現の対極にある。

それはワーグナーの音楽の生命をもう一度自由な空間に解放しようとする試みだろう。

《ラインの黄金》の演奏は作品の持つドラマとしての内容と面白さを存分に描き、語り出すことをまず第一に指向している。

純音楽的角度から音の練磨や整理を目指すのでなく、実際に舞台で展開されるドラマをオペラティックに、雄弁に物語ろうとする姿勢だ。

テンポが遅いことも、様々なドラマの芽が次々に掲示されてゆくこの曲を、大変面白く聴かせる結果となっている。

歌手ではイェルザレムのよく考えられた性格表現に感心させられる。

《ワルキューレ》の録音では、特にレヴァインという指揮者の特性がはっきりと示されている。

しなやかで、しかも彼独特の粘りのある音の運びが、ワーグナーのオーケストレーションのテクスチュアを抒情的に、また壮大、勇壮に音を響かせながら、現代的なワーグナーの音像を展開してくれる。

ジェイムズ・モリスはこの役に必要な諸条件を具えた、1、2を争うヴォータン歌いだ。

レヴァインの明快でわかりやすい、しかもオペラティックな興趣にとんだ表現のおかげで、この《ジークフリート》の録音は彼の「リング」全曲の中でも特に成功した演奏になった。

歌手ではゴルトベルクのジークフリートが、旧態依然たるヘルデンテノールの域を出ていないのが残念だが、ツェドニクの名人芸、ヴォータンの人間性と神性の葛藤を歌に滲ませてゆくモリス、そしてベーレンスがとりわけすぐれた歌唱を聴かせる。

《神々のたそがれ》では、レヴァインのオペラティックで感興豊かな語り上手の部分が、壮大な叙事詩の内容と一致した傑出した出来栄えだ。

音の響きそのものが尋常ならぬ美しさに満ち、自ずからドラマを語り出し、滔々と流れていくさまは壮観であり、説得力がある。

配役ではドラマの進展と諸相をあますところなく表現して素晴らしいベーレンスを筆頭に、ステューダー、サルミネン、ヴァイクルが成功している。

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2011年03月01日


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クナッパーツブッシュはブラームスの交響曲第3番を得意にしており、何種類も録音があるが、どれかひとつと言われれば、最後のシュトゥットガルト放送響を採る。

クナの「ブラ3」は、どの演奏も遅いテンポでうねるように流れ、大胆なアゴーギクを駆使しながら、そこには音楽としての必然性があるという共通点がある。

しかし年月を経るとともに、その内実が変容していったのは、積み重ねた年輪のなせる業であろう。

このシュトゥットガルト盤は、クナが到達したほとんど最後の境地である。

この演奏は、この偉大な芸術家の独白を聴く思いがする。

第1楽章のテンポは「遅い」のではなく「幅が広い」のである。決してもたれることなく、巨大なフォルムが浮かび上がるが、その感情はどこか懐古的である。

第2楽章は、すべてのパートがじつにしみじみと語りかけてくるのが素晴らしい。

そして第3楽章のテーマを弾くチェロがこんなに痛切だったことが今までにあったろうか! メロディーがヴァイオリンに移ったときの対旋律のチェロは、ほとんど泣いているようではないか!

一般的に放送オケというのは機能的で、わりとドライな演奏をしがちだが、この日のシュトゥットガルト放送響は違う。

オケがクナの棒の下で演奏できる喜びに、胸をふるわせていたに違いないと私は確信するのである。

第4楽章は普通の倍も遅いようなテンポで開始され、ひたすらうねっていくが、そこには強烈なエネルギーの放射がある。

しかしそれはフルトヴェングラー流の、指揮者もオケも夢中になって燃え上がっていくというタイプの演奏ではなく、指揮者が淡々と出す指示に、オケが自発的に心をこめて応えるというものではなかったのか。

だからこそ、音楽が楽譜の指示からはみ出して大揺れに揺れても、どこか見通しの良さがあるのだと思う。

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