2011年04月
2011年04月30日
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ブラームス弾きといえるヴァイオリニストがいるとするならば、デ・ヴィートこそは、その最高峰に位置づけられるべき人物であろうと筆者は考えている。
このちょっとセピア色がかった写真のようなブラームスを聴くと、懐かしい気持ちにさせられる。
まず、ヴァイオリンの音色が、じつに良いのである。太くて温かいこの音色は何物にも替えがたい。
ちょっと聴いただけで「あ、デ・ヴィートだ」とわかる音だ(一時代前の名ヴァイオリニストはみな固有の音を持っていた)。
適度に内面的でしっとりとした表現の中に優雅な雰囲気やひたむきな情熱を滲ませた彼女の芸風は、ブラームスの音楽の特質と稀にみる一致を示すものとして注目される。
そして、そうした彼女が深い共感をもって歌いあげたこの演奏は、作品の性格や様式感が最も適切に描出された名演であり、そこでは、ブラームスの内面が深く追体験された表現を堪能することができる。
第1番と第3番でフィッシャーの共演を得たことも嬉しい。
デ・ヴィートのヴァイオリンの美しい音色と豊かな響きを生かした優美な演奏は、フィッシャーの闊達な演奏と結びついて、ブラームスの音楽からのびのびとした情感を引き出している。
テンポの設定もおおらかで、ほかの多くの演奏がこせこせしたものにさえ感じられる。
ことに第3番は、中でも絶品といえる出来を示している。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2011年04月29日
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ヒュッシュ&ミュラーによる《冬の旅》は、その後に優れた録音があるにもかかわらず、いまだに忘れ得ない演奏である。
《冬の旅》の古典的範唱と言おうか、最ドイツ的正統を正面に見据えたヒュッシュのこれらの歌は、今の世代の人たちにあっては、窮屈に感じられるかもしれないが、ドイツ・リートのもつ厳しい自律性に貫かれ、聴き手に媚びることのまったくない名唱だ。
ヒュッシュのやや暗く重い声質(バス・バリトン)は《冬の旅》の孤独感と寂寥感を表現するのに適していたし、真摯で端正な歌唱も1つ1つの曲の性格を的確に表現していた。
そして、彼の解釈は知性と感情のバランスに優れており、シューベルトの音楽の構成感と豊かな情感を生かしていた。
とくに〈春の夢〉のほのかな希望から〈村にて〉の寂寥、〈まぼろしの太陽〉の幻覚を経て〈辻音楽師〉の孤独な旅への共感に至るヒュッシュの歌唱には、粛然とする厳しさがある。
ナチスが政権を掌握した年の録音であり、健全な市民階級の崩壊がナチスの時代を呼び出す結果となったのはまぎれもなく、ヒュッシュの《冬の旅》には、そうしたドイツ中層階級の苦難が反映されている。
受難の時代にどう生きればよいかという切実な問いをこれほど正面から受けとめ、それに答えた演奏は皆無といえよう。
ミュラーの伴奏もヒュッシュをよく支え、無数の《冬の旅》の録音の中でも1、2を争う名演だ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2011年04月28日
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先日、東京二期会から、「フィガロの結婚」のゲネプロに招待されたので、東京文化会館まで行ってきた。
レハールの「メリー・ウィドウ」を得意とする二期会が「フィガロの結婚」を上演して悪かろうはずがない。
私は「フィガロ」の舞台に接するのはこれが初めてだったが、あの歓び、あの愉しさを私は一生忘れないだろう。
美しいアリアもいいが、それ以上に素晴らしい二重唱、そして六重唱がちりばめられており、聴き手はモーツァルトから授けられるマジックの虜となって作品の中を泳ぐように味わうことになる。
かくれんぼをしたり、窓から飛び降りたり、怪我の振りをしたり、平手打ちがあったり、親子再会があったり、暗闇での求愛があったりと、物語はとても1日の出来事とは思えないほど盛りだくさんの材料が並べられている。
だが、そのめまぐるしい展開もモーツァルトの音楽に包み込まれることで、淀みなく流れる水のように快く耳を刺激、あたかも音の媚薬に浸るかのような感銘に誘う。
宮本亜門演出の舞台は、目でも耳でも「フィガロ」の魅力を堪能させてくれる。
流れるように運びながら、そこに日常性に潜む人生の哀歓を渋く映し出してゆく宮本の演出の下で、各歌手たちがそれぞれの個性的な役づくりと存在感を競い合う。
このオペラはレコーディングのための寄せ集めのキャストではすぐれたアンサンブルがむずかしいこともあり、すぐれた演奏は、実際の上演をもとにしていることが多い。
二期会のゲネプロでは、それぞれの声の対比も明確で個性豊かな歌とアンサンブルも素晴らしく、デニス・ラッセル・デイヴィスの生彩あふれる指揮もブッファならではの愉しさを明快に表現していた。
東京フィルハーモニー交響楽団は流麗さには乏しいが、デイヴィスの指揮は誇張や饒舌を排して楷書体で運びながら、1人1人の歌手たちの個性も委縮させることなく、溌剌たる生気をそこに漲らせてゆくのが耳に快かった。
全体的に「サロメ」より「フィガロ」の方が、二期会向きのオペラだと感じた。
詳細はこちら
二期会ホームページ
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2011年04月27日
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どの曲もカラヤン臭の強い表現だが、オッフェンバックの音楽のツボをきちんと押さえた演奏だ。
その精妙な設計力と、旋律の歌わせ方とリズム処理のうまさはカラヤンならではのもので惚れ惚れとしてしまう。
曲目としては玉石混交で、音楽として必ずしも品位の高いものとは言い難いところがあるにもかかわらず、カラヤンは適度の品位とドラマティックなセンスをもって、ベルリン・フィルの豊麗な機能と共に楽しく聴かせてくれる。
こうした曲を指揮させたら、カラヤンの右に出るものはいない。
「天国と地獄」など実に堂に入ったもので、中間部あたりの音楽の作り方はまさに入神の棒さばきだ。
「美しいエレーヌ」もよく練り上げられた演奏。
その他の曲も実に丁寧な仕上げぶりで、ベートーヴェンやブルックナーなどの大曲と真剣に取り組む時と、このような曲をとりあげる時のどちらも、持ち前の巧妙な語り口で感動的に演奏するところはいかにもカラヤンらしい。
どのような小曲でもカラヤンは丁寧に音楽を磨きあげ、芸術的な高みにまで仕上げる達人であった。
ここに収められた6曲のいずれもが、カラヤン流の味つけと類稀な描写力で磨かれた音楽たちである。
家庭あるいは学校教材用として格好のものだろう。
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2011年04月26日
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カラヤンがブラームスの《ドイツ・レクイエム》に示した愛着の深さは、その生涯にこの作品を映像を除いて5回も録音しているというところにも、見出すことができよう。
そのいずれを選ぶかは、その年代に大きな幅があり、録音の質も変わってきているので一概には言えないが、最初の1947年の録音に次いで、この3回目となる1976年の演奏が挙げられてもよいであろう。
そこでもカラヤンは、本質的な宗教性を強調しようとするよりも、そのユニークな構造性とロマンティシズムを通じて、ひとつのドラマを歌い上げようとしているかにみえる。
しかも、最初の録音よりもはるかにその演出力が強まっているようにみえるのが、ひとつの特徴ともいえそうだ。
カラヤン独特の完全主義からくる美意識の前に、ブラームスは余りに磨かれ、美しすぎるという思いはある。
こんな流麗な、こんな劇的なブラームスがあってもいいのか?という思いが楽章ごとに頭を過ぎる。
しかし、後半に移るころにはもうカラヤンの手中におちてしまっている。
これがカラヤンのすごさだろう。
ある種の魔力がこの演奏の中に潜んでいるようだ。
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2011年04月25日
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カラヤンはどういうわけかこの曲をよほど気に入っていらしく、モノーラル時代からデジタル時代まで、DVDも加えれば7種類も録音を残している。
これは尋常な数ではない。
換言すれば、ここから彼の「魂」の成長ないし変化の軌跡をたどることができる。
とは言うものの、最初の1947年の録音がダントツにすぐれており、他のすべての指揮者の録音を含め、その頂点に立つ演奏でもある。
戦後やっと2年たっての演奏で、彼がまだナチの後遺症を引きずっていた時期にあたる。
そのせいか、このドイツ・レクイエムを通して自己の魂のありようを検証しようとする、きびしい自己省察が聴きとれる。
当時のカラヤンに戦争への深刻な反省と鎮魂の気持ちがあったのだろう。
この録音は奥行きの深いひびきに満ち、死と向き合い、生の意味を問うきびしい精神性をベースに、死者に思いを馳せる敬虔な祈りとやさしい慰撫をひびかせている。
その展開が自然でスケールが大きく、しかも全体のバランスは申し分ない。
謙虚でありながら、きわめて気高い姿勢に貫かれ、入魂の業を示し、それは独唱・合唱にも感染している。
合唱が充実していて圧倒的な感銘を与え、ホッターはこの曲にびったり合い真に感動的だし、シュヴァルツコップのやさしい祈りも身にしみる。
その後この精神の気高さはどこへ行ったのか。
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2011年04月24日
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20世紀の作品を得意とするフランスのピアニスト、ベロフにとって、ドビュッシーはむろん重要なレパートリーのひとつ。
ベロフはきわめて感性の鋭い天才肌のピアニストであり、フランス・ピアノ音楽に新たな光を注ぎ込んだ。
メシアンの演奏などでも証明されているが、このドビュッシーも新鮮な感覚が随所で聴きとれる。
円熟期に達したベロフがそのシャープな感覚によって敢然と打ち出してくるドビュッシーの音像。
彼の本能の一部とさえ思える現代的な感応力がこの演奏全篇に行きわたっており、しばしば聴き手をハッとさせるような超感覚的な空気を作り出している。
表現手法はかなり直截ではあるけれども、それが決してこけおどしに聴こえないのは、ベロフの音楽性の内的なリアリティゆえだろう。
さらにリズム感の鋭敏さと音の粒のクリアーさも、このピアニストの大きな武器となっている。
ベロフの紡ぎ出すドビュッシーの《前奏曲集》に接して、筆者は目から鱗が落ちる思いがしたものだった。
彼の鋭利な感覚が決然と作り上げてみせる地平を何度も聴き返し、やはりドビュッシーは現代音楽の祖だと再認識した記憶がある。
徹底的に新しい感覚のアプローチを得て、尚も輝かしい存在となる作曲家だということを実感した次第。
とりわけ《前奏曲集》第2巻、ここでドビュッシーが行なおうとしたことは、まさにベロフのような瑞々しいチャレンジによってこそ真価を発揮するように思える。
ドビュッシー音楽の演奏には、実はベロフに代表されるような一種フッ切れた音楽観が不可欠なのであろう。
きらめくような音立ちに支えられて、どこまでも切れ味よく《版画》3曲が描出されてゆく。
そのモダンでストレートな感覚は、実に新鮮である。
全12曲の《練習曲集》の恐るべき内容を筆者に最も直截に啓示してくれたのも、実にこのベロフのディスクだった。
「練習曲」とは名ばかりのドビュッシーの感覚のエッセンス、あるいは語法の集大成ともいうべきこの曲集は、最もラディカルにこの作曲家の天才を伝えたもの。
ベロフのピアノは、作品のかかる尖鋭性を極めてストレートかつ霊感豊かに描出してみせる。
鮮やかに変幻する色彩、めまぐるしく交錯する楽想、飛翔し躍動する音群等、これらインスピレーションに満ちた音の数々を、彼は持ち前の鋭利なタッチと現代感覚で弾きあげ、類なく閃きに満ちた世界に仕上げている。
ドビュッシーの天才とベロフの異才が一体となり実に新鮮な美学が完成しているように思う。
《ベルガマスク組曲》は古風なフォーマットのなかにドビュッシーが美しい近代和声を響かせ、さらにここでベロフが冴えたタッチで再現する。
コントラストのはっきりした演奏で、アグレッシヴなスタンスでこの4曲に切り込んでいる。
《子供の領分》は、思い入れたっぷりの表現と弱音の美しさが際立ち、この曲集のしなやかなニュアンスをよく引き出している。
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2011年04月23日
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第2次大戦後で最も傑出し、歴史的名盤となったフルトヴェングラーによる『指環』全曲盤。
1950年3月2日から4月2日までミラノ・スカラ座で行なわれた歴史的な上演の実況録音盤である。
1953年秋にローマのスタジオで録音した『指環』に比べても、いっそうフルトヴェングラー色が濃いワーグナーになっている。
このスカラ座の演奏には、生き生きとみなぎる劇的な力と雄弁さがあり、最初から最後まで一瞬の弛緩もなしに持続する強い緊張がある。
スカラ座盤の方がフルトヴェングラーの体臭がより強く表れているが、ローマ盤よりも解釈が徹底しており、存在価値があるように思われる。
たとえば『ワルキューレ』第1幕の、甘すぎるくらい艶のあるヴァイオリンの歌、幕切れの部分の猛烈なアッチェレランド、第3幕の「ヴォータンの別れ」における流れの緊迫感と勁い意志の力などは、もちろん行きすぎではあるが、フルトヴェングラーならではの表現ともいえよう。
『神々のたそがれ』における「ラインへの旅」もテンポの非常に速い勇み立った指揮ぶりで、前へ前へと進む若々しいリズムが爽快だが、かなり独特なフルトヴェングラー調のワーグナーであり、「葬送行進曲」のヒステリックなくらい突撃的な演奏についても同様なことがいえる。
印象に残ったのは『ジークフリート』第3幕の愛の二重唱で、フラグスタートのブリュンヒルデとスヴァンホルムのジークフリートという戦後最高のコンビがクライマックスを築き、ここのオーケストラ伴奏もさすがに意味深く、雄弁であった。
音の状態も予想以上によく、かけがえのないのない記録だ。
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2011年04月22日
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海賊盤ではオケが引っ込み気味の録音だったが、この正規盤ではバランスの良い録音に改善された。
1953年バイロイトに初登場、それが最後となったクラウスの指揮には1960年代のブーレーズの登場を予感させるようなラテン的な明澄さと締まったテンポ感、さらりとした味があった。
クラウスのユニークなワーグナー解釈は、我々に新鮮な美の発見と喜びを与えてくれる。
精緻なオーケストラのテクスチュアの中から生まれるリリシズムと、ゲルマン的心理のうねりと、筋肉質なダイナミズムの融合は、ゲルマンの血を残しつつ、より一歩進化した洗練を、ワーグナーの世界にもたらした。
緻密で美しい、しかも常に豊かな音楽を見失わないクラウスの指揮の素晴らしさは、今日でも全く変わることなく我々を魅了してくれる。
音楽の豊麗さという点でも傑出しており、ふくよかなロマンティシズムやたくましい流麗さ、そして壮大な詩とドラマがある。
その精緻で雄弁な音の繰り広げる壮大なドラマの面白さと感動はまったく底知れないものだ。
しかも歌手には第2次大戦後の最もすぐれたワーグナー歌手をズラリと揃えている。
歌手として絶頂期にあったヴィントガッセンの輝かしいジークフリートが聴ける。
ブリュンヒルデはこれに負けず劣らずヴァルナイである。
特にホッターの不世出のヴォータンが聴けるのが嬉しい。
こうした名ワーグナー歌手たちが、その全力を傾けつくしたこの演奏が、第2次大戦後のワーグナー歌唱の輝かしいピークを形作っているという思いを改めて強める。
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2011年04月21日
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ペライアとコリン・デイヴィスの初共演アルバムだった。
ペライアは早くからシューマンを得意としており、1972年にダヴィッド同盟舞曲集&幻想小曲集でデビュー、1976年来日時に交響的練習曲&蝶々、1984年に幻想曲、1986年にピアノ・ソナタ第2番を録音していた。
グリーグはこれが初録音。
若手(といっても録音当時)の演奏ではペライアのピアノ、C・デイヴィス指揮バイエルン放送響が、リリカルな名演を聴かせている。
ペライアらしい端正にして透明な演奏だ。
シューマンはよく流れる瑞々しいピアノで、静かで端正な透明感は特にフィナーレにぴったりだし、第1楽章冒頭の主題が指揮者ともども完全なイン・テンポで進むのも珍しい。
ペライアは、アタックの強さよりは、どちらかといえば淡い色彩のタッチに執着しているようだが、それこそ、シューマンの作品にもっとも求められるものではないだろうか。
グリーグは古典的なすっきりとしたリズムとテンポで慎ましく進めており、すべての音が聴こえる粒の揃ったタッチが快い。
力強さよりは若々しい詩を思わせる、クールなリリシズムが特徴の若やいだ表現が魅力的だ。
デイヴィスの指揮はスタイルがペライアにぴったりである。
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2011年04月20日
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ベートーヴェンは非常に遅いテンポだが、チョン・キョンファのソロには緊張感が保たれている。
音色には艶があり、響きはしなやかで、以前のような気迫は感じられないが、そのかわり一層の柔軟性が加わり、演奏が伸びやかになっている。
今ならチョン・キョンファの新盤がいちばん好きだ。それはヴァイオリンが自由闊達に弾いているのに、なおかつ自然さも獲得しているからである。
やりすぎも、踏みはずしもないのに、ひたすら聴き手の心をつかんで離さない。
第1楽章展開部後半の短調のメロディーなど、特別なことは何もせず、心をこめて弾いているだけなのに、澄みきった悲しみが切々と迫ってくる。
テンシュテットのオケも有機的だ。
まず、冒頭の静けさと第2主題の暗さ、それがおずおずと明るく変化していく提示部の美しさを聴いただけで、このオケ部分がすごいことがわかるし、ソロと絡むとき同じ気分で反応していくのには感動してしまう。
この演奏でもっともすごいと感じるのは、第2楽章かもしれない。
静謐な美しさというのはこういうものであろうか。とにかく静かなのだ。心地よい緊張感とともに、音楽がすっと心に入ってくるのである。
オケのデリカシーに満ちた伴奏も特筆ものだ。
第3楽章は、ソロ・オケともども心が弾んでいるのがよくわかる。音楽が前へ前へと流れるので、曲が短く感じられるほどだ。
でもこの楽章でも、例の「静けさ」が時折顔を出す。オーボエとソロヴァイオリンの対話もそれであり、だからこそ終結へなだれ込んでいくクレッシェンドが、こんなにも感動的なのだと思う。
ブルッフでは落ち着いた情感と強い集中力が結びついており、息の長いフレージングで丹念に演奏している。
テンシュテットも息の合った共演ぶりだ。
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2011年04月19日
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肩の力が抜けている、というか、構えたところのない「自然体」の演奏である。
高橋悠治は常に新しい角度から楽曲を追求し、問題を提起する。
ここでも「ゴルトベルク変奏曲」に閉ざされた観念の世界から開放するべく、装飾音やテンポの設定などで独自の解釈をみせている。
その結果、非常に躍動感あふれるバッハが生み出された。
こんなふうに生き生きしたバッハがかつて日本にあっただろうか。
それは後半(第16変奏以降)でいっそう明らかになる。
グールドとはまた違った意味で、20世紀の演奏家による21世紀人のための、現代のバッハ演奏といっていいだろう。
もしもバッハの時代のように、家庭で楽器演奏をして、またそれを聴いて愉しむのであれば、そのときの演奏はこのような、親しみやすくかつサロン音楽に堕することのない上質なものであってほしい。
いまどきは、もっぱら「古楽器演奏」ばかりがもてはやされているけれど、バッハの時代の演奏を再現することが、現代においてどんな意義を持っているのか。
そうした根本的な問いを欠いて、まるで古楽器以外はバッハではないかのように決めつけるのは、いかがなものだろうか。
このCDを聴いていると、昨今のバッハ演奏の「流行」に無批判に追従する連中に対して、「古楽器? 原典版? それが現代のわれわれと何の関係があるんです?」と、皮肉のひとつも言いたい気分になる。
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2011年04月18日
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このドビュッシーは、いわゆるフランス的な演奏とはその本質を異にしているが、いかにもツィマーマンらしい十分に吟味された精妙にして精巧な表現が見事な内容になっている。
彼の入念で高度な読譜力は、緻密にコントロールされたテクニックやクリスタルで美しいタッチを得て、その表現の意図をほとんどパーフェクトにレアリゼする結果をもたらしており、それは、これが構成的で頭脳的な演奏であることをも印象づけている。
音楽的なバランス感覚に秀でたツィマーマンらしい、響きの美しさが注目されるが、それは巧みなペダリングを伴って、音色に幅広い濃淡を与えるとともに、まるで水面に墨を落としたような音の広がりを実現させている。
一方、時間と空間に対する個性的な解釈も明らかにされており、全体に余裕のあるペースで弾き進めながらも、緩急の対照が強く浮き彫りにされている。
第1巻で言えば〈西風が見たもの〉と〈沈める寺〉とが好対照。
ニュアンス、というと淡い、何かとらえ難いものに思えてしまうけれど、ツィマーマンがドビュッシーの音楽で追求しているニュアンスは、もっと確固としていて、硬く、はっきりそれと聴きとれる。
同時にツィマーマンは、シャープな切れ味を、故意に捨て去ろうとしている。
ミケランジェリが行った方向とは、まったく違っているわけだ。
曖昧さを拒否する一方、すべてをあからさまにすることをも拒否して、ツィマーマンの《前奏曲集》は、難しい場所に立ち、そこで詩情をつくり出す。
思えば理智的な美学と感覚的な美意識の、両方からはさまれたあやうい場所にいたのは、ツィマーマンだけではなかった。
ドビュッシー自身もまた……。
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2011年04月17日
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ウィーン・フィル恒例のニューイヤー・コンサートの創始者として知られるC・クラウス。
それらの曲目を収めたモノーラル録音は今も不朽の名演奏として有名で、今なお、シュトラウスのワルツやポルカの優美な美しさ、粋な愉悦感を、クラウスほど気品をたたえながら表現できた指揮者はいないと思う。
その"古き良き時代のウィーン"としかいいようのない独特の香気やウィーン・フィルの響きも、クラウスの指揮がとくに際立って美しい。
この《こうもり》も例外ではなく、けっして忘れることができない。
LP初期の録音のため台詞はカットされているが、それもシュトラウスの音楽のすばらしさを一層ひきたてていると、いえなくもない。
淀みなく流れるワルツやポルカ、チャルダーシュなどのリズムによって展開される極上のオペレッタの楽しさと美しさを満喫できる。
もしオペレッタの演奏に時代を超えた規範的演奏というものがあるとするならば、まずこの演奏に指を屈するべきだ。
なによりも音楽的純度が高い。
なんと品よくエレガントなのであろう。
しばしばウィーン風演奏の極致と評されてきたが、やはり本物はクサクない。
アイゼンシュタインのパツァーク、アルフレートのデルモータ、ロザリンデのギューデン、アデーレのリップなど、ウィーン国立歌劇場黄金時代の名歌手たちの歌も申し分なく、この演奏で聴けるような優雅な雰囲気や独特の官能性は、もはや時代とともに失われてしまったことを実感させる。
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2011年04月16日
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米ソ雪融けに乗って、旧ソ連系アーティストの招聘で当てたマネージャー、ヒューロックの依頼で、ルービンシュタインが32年ぶりにモスクワを訪れたのは1964年。
最初は「ギャラの安さ」に驚いたものの、「あのすばらしいロシアの聴衆にもう一度会えるなら」と、最後は胸を躍らせ、訪ソしたという。
「政治的主張」は「精神性」と同じくらい、ルービンシュタインにふさわしくない事象と考えられているけれども、モスクワでのライヴに収められたショパンの選曲、演奏には、そんな先入観を転覆させるだけの迫力がある。
人生の快楽を極め、芸術の深奥に開眼した「王様」にとって、故国のポーランドや、その当時の「親玉」である旧ソ連など共産主義国家が芸術に干渉し、人間の尊厳を傷付けるような振る舞いをすることは許し難いことだったに違いない。
しかし、ルービンシュタインは演説やデモ参加ではなく、彼にとって最も有効な伝達手段=ピアノの演奏によって、深い悲しみ、激しい怒りを表現する道を選んだ。
「葬送行進曲」と、苛酷な運命を闘うポーランドの同胞への憐れみと励まし、圧政への怒りにみちた「英雄ポロネーズ」の組み合わせは、静かな抵抗の意志に貫かれている。
旧ソ連の図書・レコード公団、メロディアのスタッフによるやや硬質の録音も、ルービンシュタインの「硬派」としての貴重な表情を記録する上ではプラスに働いた。
生涯にわたり、さまざまな名演を残した「王様」ではあるが、これほど鬼気迫るリサイタルは、ごく特別な瞬間だったはずだ。
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2011年04月15日
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クレンペラーは、1968年ウィーンのフェストホーフェンで、人生を総括するかのような5回のコンサートを行った。
プログラムは、どれもクレンペラーにとって意味深い作品で、一連のコンサートの最終日となった6月16日に、この《未完成》は演奏されている。
オーケストラに重くのしかかるかのように開始される、低弦による序奏。それは作品の悲歌的気分を高めるように作用する。
指揮者の求心力に、オーケストラの集中力が対峙して、ゆっくり雄大にスケール感を増しながら、流れのあるドラマを導いていく。
形式という建築的な造形などまったく気にせずに、深い陰影の内に、破局への予感を響かせながら破局へと向かうのだ。何という美しさだろう。
その第2楽章は、夢そのもので、そのまま死の入り口へと通じている。
マーラーの「交響曲第9番」やベルクの「ヴァイオリン協奏曲」といった「死」そのものをテーマに扱ったウィーン音楽の系譜の中に、この作品を位置付けた師マーラーのやり方を踏襲して、クレンペラーは演奏しているようにも聴こえてくる。
夢はシューベルトが描いた「最後の審判」の物語である。
クレンペラーのはにかんだような「ショーン(美しい)」という言葉が最後に聞こえるが、今眼前に起きていることすべてを肯定しているかのようだ。
この一言が魔法を解いたかのように、演奏の終わりをも告げる「死」の音楽をやり終えて、後半何を演奏したのだろう。
クレンペラーは最晩年、その芸術の高みに到達した。これ以上の大器晩成の例を、筆者は知らない。
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2011年04月14日
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このブラームスの交響曲第2番にも、自分の好んでいるものがたくさんある。
ザンデルリンク(新盤)、モントゥー(ロンドン響)、チェリビダッケ(EMI)、シューリヒト(ウィーン・フィル)、ほかにもムラヴィンスキー、クナッパーツブッシュ、フルトヴェングラーなども。
しかし、以前全集で紹介しているので少し悩んだが、この曲の最高の名演奏として、ワルターのニューヨーク・フィルとの録音を推薦する。
それは、この曲にはいつも皮肉や毒舌しか口から出てこないブラームスと違って、終始機嫌が良く、朗らかな姿が映し出されているからで、それにぴったりと合っているのが、このワルター、ニューヨーク・フィル盤だったのである。
ワルターの指揮は燃えるような情熱でオーケストラを引っ張っているが、オーケストラ側は引っ張られているというよりも、ワルターの音楽を完全に自分たちの響きとして消化吸収し、それを思い切り発散している。
これは指揮者とオーケストラの、ある意味では理想的な形であろう。
それに、オーケストラ全体の明るめの色調もこの曲にはふさわしい。
それにしても凄いのは第4楽章だ。
恐ろしいくらいの超スピードなのだが、フルトヴェングラーやミュンシュのような暑苦しさや危険なスリルというものはなく、ひたすら爽快である。
このときワルターは77歳だったが、、それを考慮すると信じがたい若々しさである。
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2011年04月13日
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カーゾンが遺した名演ぞろいの協奏曲録音の中でも断然の金字塔。
カーゾンのタッチの美しさは称賛され尽くしたと言っても過言ではないが、ここには加えて情熱の輝きと力強さがある。
第1楽章での和音の純度の高さと逞しさには惚れ惚れとさせられるし、一転して第2楽章の弾き始めからの柔らかな響きには繊細だが豊麗なイマジネーションにあふれている。
セル=ロンドン響の演奏がこれまた稀有の高みに達した大変なもの。
私はセルの録音を体系的に隈なく聴いてきたわけではないけれど、どうして彼は、クリーヴランド以外のオケを振るとこんなに良いのだろう。
驚くほど充実した響きで、表現にはいささかの弛緩はなく、深々とした美しい歌はスケールが大きい。
この曲で成功するか否かは、オーケストラの連中がどれだけ「この曲の主役は俺たちだ!」と思うかにかかっているのではないか。
この演奏を聴いていると、いつもそう思う。それくらい、このオケパートの充実ぶりは凄いのだ。
そしてその分厚いオケに対抗する、カーゾンのタッチが強靭で、なおかつ澄みきっていることと言ったら!
CDを聴いているのに、まるで音楽が生まれているその場に立ち会っているような緊張感があるのも素晴らしい。
そしてフィナーレで両者はどこまでも凛々しく、ついには白熱の光芒を放つ。
全曲通じてまったく間然とするところがない奇跡的な名演だ。
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2011年04月12日
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グイド・カンテッリという指揮者をご存じの方は、いったいどのくらいいるのだろうか。
1920年にイタリアで生まれ、弱冠23歳でノヴァラ歌劇場の芸術監督に就任するも、軍隊に召集、そして脱走。
戦後復帰し、1948年にスカラ座のリハーサル中にトスカニーニに認められたのを契機に、アメリカ・欧州各地で活躍するようになった。
しかし1956年に、飛行機事故で36歳の人生を閉じてしまう。
実質的に十余年の活動期間にもかかわらず、精力的に録音に取り組んだため、すばらしい演奏が数多く残されている。
さらに最近テスタメント他により、復刻CDのみならず未発表録音のCD化が進められており、嬉しいかぎりである。
そのなかでこのメンデルスゾーンの「イタリア」は、一聴の価値がある。
フィルハーモニアとは1951年と1955年に録音しているが、後者のほうが弦・管のバランスも良く、完成度も高い。
艶やかで伸びのある弦、細かい動きを正確に刻む木管、第3楽章のトリオではまったくブレスを感じさせないデニス・ブレインのホルン。
これらの名手を率いながら、イタリア人らしい明るさと、礼拝堂の前に佇んでいるような威厳をもった演奏となっている。
さらにこのCDがお薦めな点は、カップリングされているベートーヴェンの交響曲第5番。
第1楽章が不慮の事故で収録されず、第2〜4楽章のみがステレオで収められている。
これがすばらしく、第1楽章を想像する楽しみがもうひとつあるのである。
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2011年04月11日
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モーツァルトの初期のピアノ協奏曲は、なかなか単独では入手しにくく、どうしても全集盤のなかの1枚として聴くことが多くなる。
そこでせっかくだから、全集としてもすぐれたものを選んでみたい。
リリー・クラウスやイングリット・ヘブラー、そしてアシュケナージ、ブレンデル、バレンボイムの新旧、シフ、ペライア、さらには古楽器のビルソン、インマゼールなど、それぞれ曲数のばらつきや解釈に一長一短があるとはいえ、すぐれた演奏だと思う。
なかでもシフは指揮のシャンドール・ヴェーグともどもとくに傑出している。
しかし私にとって忘れられないのは、ゲーザ・アンダが弾き振りした全集だ。
とくに初期、中期にかけての協奏曲には、すばらしい名演が多い。
たとえば第1番から第4番までの編曲ものや、第5番、第6番、第8番、第12番、第13番など、じつにインティメートな、しっかりした演奏を繰り広げる。
弾き振り特有の少しつんのめったような間合いもあるが、それも含めてテンポ感が的確で、安心して豊饒なモーツァルトのコンチェルトの世界にひたることができるのだ。
オケが少人数であり、ややひなびた色合いがあるのも、かえって味わい深い。
もちろん第20番以後の後期作品もいいが、ほかに名盤があるのが苦しいところだ(第25番はよい!)。
しかし全集としてのトータル・コンセプトを考えれば、やはりアンダ盤がいちばん好ましいものだと思っている。
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2011年04月10日
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ケーゲルは東独の指揮者には珍しくレパートリーが広く、ストラヴィンスキーをはじめ、ヒンデミット、ヴェーベルン、ノーノなども録音しているが、フランスものはこれが初レパートリー。
典型的なドイツ風な演奏でも、この曲が充分説得力のあるものであることを立証した1枚。
ベルリオーズは、リスト、ワーグナーに通じるロマン主義音楽の始祖であって、後世への影響を考えれば、このような解釈があっても不思議はない。
全体に重く、暗い印象が伴うのはその1つの表れだ。
ともかく暗い音楽を聴いてのたうちまわりたい人にはあの世に脚を一本つっこんでいるかのような演奏が超印象的なこの録音を推薦。
ベルリオーズをフランス音楽のアングルからばかり捉えてきた考え方に対しては警鐘となる演奏であり、幻想交響曲の1つの在り方を示唆した録音だ。
ケーゲルは、ロマン的情熱のかけらもなく、常ながらの死体的音楽を展開する。
死体的音楽とは有機的連関を欠いた音楽ということ。
死体は、生の有機性を失い、無機物と化しているゆえ死体であり、ケーゲルの《幻想》も、音楽をタテにもヨコにも細分化し、個々の響きを扱いぬこうとする姿勢に於いて、まぎれもなく死体的である。
おまけにこの録音、終楽章の鐘の音が怪しい。錆びついた大鐘を無理やりぶっ叩いたような感じの響きがする。とにかく澱んで濁った大きな音だ。
というわけで、ケーゲルの《幻想》は結局、死体のように無機的に鳴り続ける管弦楽と怪奇な大鐘の響きの織り成す、この上なく猟奇的な一編となる。
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2011年04月09日
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ショスタコーヴィチの15曲の交響曲うち、第2次世界大戦の間に作曲された第7番から第9番までを《戦争交響曲》と呼ぶことがある。
ゲルギエフはその概念を拡大し、ショスタコーヴィチの自由への戦いが始まる第4番から第9番までを《戦争交響曲》と呼び、その録音を完成している。
第5番はなかでも屈指の出来を示すもの。
初演者ムラヴィンスキーをはじめとして名演を残してきた指揮者は数多い。
ゲルギエフはショスタコーヴィチが独自の交響曲を確立したこの名作に新たな生命を与えているが、小奇麗に纏め上げることはしない。
作品をいったん完全に咀嚼し、その後、自らの個性と一体になった形で新たな有機体を創造する。
そこでは彼自身のソヴィエト時代の経験も大きく生かされていることだろう。
それにしてもなんという真実の音楽であろうか。
曲が盛り上がれば血がしたたり、リズムはめくるめくばかりの雄弁さでものをいい、心の大波が押し寄せる。
ゲルギエフの表現にウソは一つもなく、まさに作品の本質を衝いた名演といえよう。
現代の音楽界でただ一人カリスマ的魅力を放つゲルギエフ。破格の求心力で作品を生きたドラマとして再現する。
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2011年04月08日
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この2つの演奏は、ライヴ録音の魅力をいっぱいにたたえている。
アルゲリッチ特有の、難しいパッセージになるとキュッとテンポを上げるクセはここでも健在で、聴いているほうは手に汗をにぎってしまう。
それでいて、ロマンティックなところは徹底して歌うのがたまらない。
両曲ともフィナーレのド迫力はたいへんすばらしい。
ラフマニノフを弾いてスケールの大きさで男性ピアニストに少しも引けを取らない女流といえば、現在のところ、アルゲリッチにとどめを刺す。
ラフマニノフでもこの女流、"か弱さ"とか"か細さ"といったものとは全く無縁である。
しかもこの女流は、背伸びしてラフマニノフに挑戦しているのでは決してない。
ただ見せかけの豪快さを追っているにすぎないピアニストの演奏は、音も濁り、勢いは失われているものだが、このライヴはそうでない。
きめ細かい清楚な響きを生み出す一方で、スケール大きく豪放に歌い上げてゆく。
圧巻は第3楽章。達者な技巧と晴朗でモダンな感覚の共存が、なんとも快く、見事。
チャイコフスキーは、この天才女流の、いやが上にも燃え立った、生々しい息遣いを伝えて余すところがない。
音楽は絶えずピチピチと飛び跳ねており、リズムは閃き、敏感なセンスは満点、フレーズはバネのようにしなり、ルバートの訴えやものすごいアッチェレランド、魔術をみるような音の弾き分けなど、音楽の意味をつぎつぎと解明してゆく創造力が最高だ。
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2011年04月07日
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堂々とした骨太の《ローエングリン》がこれだ。
クーベリック盤はワーグナーのロマン的オペラと銘打たれた作品の味わいを素直に引き出した名演。
ロマンティックなオペラというより、重厚でドラマティックな力を備えた作品として描かれている。
初期のロマンティック・オペラと後期の楽劇のいわば分岐点に立つ作品だが、クーベリックは、そのロマンティックな側面をことさらにふくらませることなく、明快にひき締まった感覚で、ドラマティックで新鮮な演奏を築いている。
この巨匠ならではの格調高く透徹した表現によって、作品のすみずみにまで、いかにもしなやかに澄んだ光を通しており、強く爽やかな劇性がまことにくっきりと美しい。
バイエルン放送交響楽団の明快で、ごまかしのない演奏も魅力的。
もう一世代前になった感のある歌手たちだが、まだ古びない、十分に立派な歌が聴ける。
聖杯騎士にふさわしい品格をそなえた気品あふれるキングや、性格表現にすぐれたステュアートのテルラムントなど、知と情を合わせそなえた歌手陣もすばらしく充実しており、中でもヤノヴィッツの清らかに澄んだ声と初々しく清楚な歌唱は最高のエルザといってよいだろう。
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2011年04月06日
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精神に異常をきたしたといわれてきた頃のシューマンの作品2曲。
破目こそはずしていないが奔放な演奏である。
この2人のコンビならば、摩擦係数の高い過剰気味の演奏になると思われたが、きわめてリリカルな表現で、シューマン自身言うところのフローレスターンとオイゼービウスの対立的な気質のうち、内的なやさしい夢想に耽るオイゼーピウスが主導する。
しかも彼の晩年の作品に特有な狂気をはらんだほの暗い情念が、きわめて明晰な隈どりを得て、全体はわかりやすく軽快に展開してゆく。
そしてこの欝然とした音楽がほとんどおだやかで愉悦的にさえ聴こえる。
シューマンはそのような方向で作曲の筆を進めようとしながら、自分では抑えられぬ内面の暗い衝動に妨げられ、それが果たせなかったと思われる。
そんな想いを深く鋭く洞察したかのような演奏だ。
わりあい有名な第1番は、最初から情熱をほとばしらせ気迫に満ちているが、そこにロマン派特有の慰めや憧れに似たものもある。
規模の大きい、完成度の点ではより高い第2番がとくに素晴らしく、熱気を見せているものの、もっと多様性を打ち出した演奏だ。
ここからは、精神の弛緩や狂気などよりも、むしろ天才的な音楽家の孤独の叫びや訴え、感傷、気負いが、聴く者のハートに直接飛び込んでくる。
2人とも技巧的に抜群なのはいうまでもないが、それだけに頼らず、シューマンの本質をとらえながら、現代的なスタイルの演奏を成功させている。
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2011年04月05日
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この《戦争レクイエム》の録音からほどなくして、ヘルベルト・ケーゲル(1920-90)は自殺した。
旧東独にあって果敢にも前衛作品を擁護したケーゲルが、旧東独の崩壊直後、自らの命を絶ったのは今では謎である。
小説家で自ら命を絶つのは数多けれど、指揮者でピストル自殺なんて本当に珍しいのは、おそらくこの職業が人をも恐れぬ鉄面皮でなくてはやっていけないからだと思うが、ともかくケーゲルはひどい躁鬱だったらしい。
いわば芸術的遺言となってしまったこの録音は、何らかの暗示なのだろうか?
それを汲み取れとばかりに演奏は鋭く、厳しい。
怒りに憑かれたようなこの演奏には寒気を感じるが、聴き手を滅多にない音楽体験に浸らせる。
目が血走ったような熱狂と、見るものを石に変えてしまうような冷やかさが同居し、こんな演奏が表す心象風景とはいかなる地獄図だったのかと思って、ケーゲルに共感させられてしまうのだった。
キビキビとした声楽パート、しかしヒタヒタと胸を打つ歌わせ方だ。
声楽を伴った交響作品には見事な手腕を発揮したケーゲル(マーラーやノーノの名演を聴け!)の持ち味と力量が全開した観。
名演の多い同作品だが、この演奏は「オレは命をかけたんだぜ」とばかりにニラミを利かせる。
ケーゲルは不滅だ!!
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2011年04月04日
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プロコフィエフの代表的なバレエ音楽のひとつで、今日でも上演される機会がたいへん多く、現代バレエ音楽の傑作といわれている。
プロコフィエフのバレエ音楽《ロメオとジュリエット》には、オリジナルのバレエ全曲版のほかに3つの演奏会用組曲があるが、このディスクに収録されているのは、アバドが全曲版と組曲版から新たに20曲を選んで、ドラマの進行順に配列し構成したいわば"アバド"版であり、ひとつの物語として考えられている。
現在では、このスタイルによるディスクは増えているとはいえ、当盤ではトラック7と16に、マンドリンが入るナンバーが出てくるなど、ユニークな選球眼が光っている点がおもしろい。
バランスのとれた、すがすがしく端麗な演奏で、ベルリン・フィルの能力が十分に発揮されており、この作品の魅力を再認識させられる。
ライヴ録音でありながら、オーケストラの巧さとスタイリッシュな響きが一体となって、ロシア的な重苦しさが排されており、マンドリンの音楽ともども、「作品の舞台はイタリアだったな」ということに、あらためて思い至る方もいらっしゃるに違いない。
音楽は淡々とした足どりで進むが、悲劇の幕切れに向かってしだいにボルテージが上がっていき、聴く側も息詰まる思いがする。
プロコフィエフは、ソヴィエトへ帰国するまでは、かなり前衛的な音楽を書いていたが、復帰を境として、平易で明快、大衆的でしかも高度な芸術性を失わない音楽を書くようになった。
この作品もそうした特色がよく出ており、アバド指揮ベルリン・フィルは、随所にあらわれるプロコフィエフ独特の旋律を美しく歌い流し、劇性にも抜かりなく、魅力的な音楽となっている。
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2011年04月03日
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この演奏は「9番」に限らず、個人的にはもっとも愛着のあるマーラーのCDのひとつである。
もちろん、客観的に考えればこの盤とベルリン盤を同じ土俵の上で語るのは、先方に失礼ですらある。
録音からプレスに至る「レコード芸術品」としての価値はこの海賊盤CDには存在しないからだ。
しかし筆者としては、正規盤であろうが海賊盤であろうが良いものは良いというスタンスなので、海賊盤でも良さそうなディスクを見つけたら躊躇せずに買う。
ベルリン・フィルのスタジオ録音と、もっとも大きく違うところは、ここには光と影が存在することだろう。
ベルリン・フィルは重厚で陰鬱なドイツの音がするのに対し、ここにはイタリアの涙と笑いがある。
映画『ベニスに死す』ではないが、マーラーとイタリアの色彩は微妙にマッチするのだ。
バルビローリの体内にも半分はイタリアの血が流れているわけで、共鳴の度合いが尋常ではなく、第4楽章冒頭のサー・ジョンの唸り声は作品と同化しきって感動的である。
魂の里帰りとでも呼びたいような凄まじい演奏だ。
録音も1960年のイタリアというには上出来である。
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2011年04月02日
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ライヴ収録された《展覧会の絵》の余白に、スタジオ録音の《禿山の一夜》以下3曲を補充したロシア・アルバム。
ゲルギエフはウィーン・フィルという老獪なオケを実に巧みに操り、各曲の特徴を見事に描き分けている。
テンポは比較的速めだが、曲同士のコントラストがあり、鮮やかでメリハリがある。
スケールの大きな演奏だが、ロシア的重厚長大と言うよりは、現代的で洗練された重厚さと言える。
相手がウィーン・フィルであろうとなかろうと、ゲルギエフの汗の迸るようなリーダーシップの矛先は、容赦なく楽員たちに襲いかかる。
あえて言うなら、この《展覧会の絵》は、良くも悪くも、ゲルギエフ本領発揮の独壇場ということになろう。
ラヴェルの編曲がソフィスティケートしたかと思われた、曲の底流にあるロシア的なアクの強さを、いわば素手でむんずと摑み出して、客席に投げつけてくるようなところがある。
昨年筆者はゲルギエフがマリインスキー劇場管を指揮した《展覧会の絵》の実演を聴いたが、その時の記憶がまざまざと蘇る。
いっそのこと、オケがロシアの超重量級だったら、いっそう徹底して、むしろすっきりしたかも。
とはいえ、ウィーン・フィルのうまさにはここでも改めて舌を巻く。
特に各ソロのアゴーギクを伴った柔軟な表情は、音色の絶妙な変化も含め、実に魅力的だ。
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2011年04月01日
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スケールの大きなシンフォニックな表現の中に、このオペラ独自の幻想と主役たちの苦悩とを最もよく伝えているのは、もう録音の古さも多少感じられるが、クレンペラー指揮の演奏であろう。
クレンペラーの、終始一貫、すさまじいまでに力に満ちた厳しい音楽に圧倒される。
一見、悠然たるテンポの運びから吹き出してくる壮絶な気迫と白熱のドラマにも圧倒される。
しかも単なる表面的なダイナミズムの激しさだけではなく、もっと実体をもった強固な音の構築である。
それは劇場的、オペラティックな表現ではない。
クレンペラーは音によってドラマを描くのではなく、あくまで音楽そのものを表現している。
たたみかけるような凝集力ではベーム盤に一歩譲るとしても、ここには、いかにもクレンペラーらしい厳しい意志的な掘り下げと、憧憬の、一種霊的な表現とがある。
アダムのタイトル・ロール、収録時33歳のシリアのゼンタ、そして今は亡きフィンランドの名バス、タルヴェラのダーラントも、それぞれ役の中に深く踏み込んだ熱演を聴かせている。
ちなみにクレンペラーは、1843年のドレスデン・オリジナル版を、序曲の終わりにも、全曲の幕切れにも、ゼンタの「救済の動機」を繰り返さないかたちで取り上げている。
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