2014年03月

2014年03月31日


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1960年1月9日、ニューヨーク、メトロポリタン歌劇場に於けるライヴ録音で、モノラルのライヴながら良い音質である。

2011年1月に陽の目を見たメトロポリタン歌劇場でのライヴで、個人所有のエア・チェック音源をゴールデン・メロドラムがCD化したディスクである。

ワーグナー自身が自画自賛した作品だけに、“聖地”バイロイトだけでなく、世界中の歌劇場においても屈指の人気作として幾多の名舞台が繰り広げられてきた。

録音も数多く存在するが、ベームは自らが語るように「バッハとモーツァルトによって浄化された様式的ワーグナー像」を確立している。

それは「終局迄突き進む唯一のクレッシェンド」であり、まさに音楽的に見て隙がない。

強固な芯が全体を貫いていて、その推進力は物凄いエネルギーを秘めている。

「私は『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデ役を33人の指揮者の下で歌ってきたが、ベームに匹敵する人は誰もいなかった」という旨の事を語ったというニルソンを始め、歌手陣の声は1960年のエア・チェックという事を考えると、それなりの鑑賞度の高さを具え、当時の会場の空気を伝えてくれる。

しかし、管弦楽は遠い。

その為、高揚感という点ではやや物足りない。

管弦楽がもっとましな録音だったら……と思わずにはいられない。

とはいえ、全体的に高い水準でまとめられているところは流石にベームならではであり、物足りない個所を割引いてもなお余りある魅力があり、決して史料的価値だけの録音ではない。

そうした意味において当盤が発掘された事はベーム・ファン、そしてワグネリアンにとって誠に喜ばしい限りである。

因みにキャストの紹介など演奏開始を伝える放送局のナレーションが冒頭に入っている。

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classicalmusic at 23:58コメント(0)トラックバック(0)ワーグナーベーム 

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カラス、ディ・ステファノ、バスティアニーニの3強が揃った1957年のスカラ座ライヴがこのオペラの筆頭ディスクだろう。

彼ら三つ巴のアンサンブルが素晴らしい上、カラスのアメリアもこの役どころの精髄を捉えた見事な歌いぶり。

それにもましてバスティアニーニによるレナートは、彼最大の当たり役として記憶にとどめるべき名唱といえる。

カラスの《仮面舞踏会》にはヴォットーの盤もあり、こちらも看過すべきではないが、このオペラが歌本位のものであること、およびヴェルディの他のオペラと同様ハイ・バリトンのレナートに音楽的支柱をおくものであることを考えると、やはりゴッビでは物足らず、バスティアニーニの高みまで達している必要があろう。

ここでのカラスの歌唱は彼女の最盛期のものだけに、劇的な表現力と声の迫力が素晴らしく、カラスの残したヴェルディ・オペラの中でも最高のもののひとつとなっている。

カラスはこのアメリアでも、天才の直感をもって役柄の真髄を歌い出したとしか言いようがなく、歌のもつ痛切な悲劇的緊迫感と一分の乱れもない風格の高さに感歎しないではいられない。

その悲劇的な緊張と持続の素晴らしさ、感情とドラマの彫りの深さ、そしてそれを歌と声に的確に反映させる表現は見事。

彼女の声にもまだ衰えの影は少しもなく、第2幕のアリアなど実に素晴らしい名唱だ。

他の歌手も各自の個性を十二分に発揮しながら、歌の充実したぶつかり合いが一種独特の緊張と白熱を生み出している。

1957年のモノーラル・ライヴ録音で、音の状態こそあまり良くないが、このオペラの神髄をついた名演奏である。

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classicalmusic at 20:46コメント(0)トラックバック(0)ヴェルディカラス 

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カラスの同曲唯一のスタジオ録音。

ステレオ以降期の録音のため、モノーラルながら音質は良い。

このスイスの山村を舞台に展開される田園的抒情劇ともいっていいこのオペラは、同じベルリーニの《ノルマ》や《清教徒》とはかなり性格も異なり、違った表現が必要となる。

ロマンティックな牧歌劇がひときわ美しい作品であり、ベルリーニならではの新鮮な音楽の魅力をほぼ満喫させてくれるのは、やはりアミーナ役のカラスが圧倒的に素晴らしいヴォットー盤である。

カラスとヴォットーは、ここでほぼ理想的な再現を行っている。

この曲のもつ室内楽的でロマンティックな情感が余す所なく示されているし、カラスの表現の幅広さを味わう意味でもこれは興味深い。

この時代のオペラを得意にする歌手も増えた現在、そろそろヴォットー盤を凌ぐ演奏が出てきてもと思うのだが、なかなかそうはいかない。

このアミーナでも、カラスがノルマや《清教徒》のエルヴィーラのようなドラマティックな役柄とはまた別の一面を見事に表現しているからにほかならない。

ここでもカラスのベル・カント・オペラにおける声の威力と表現力が申し分なく発揮されているし、共演者たちとヴォットー指揮のスカラ座のアンサンブルも作品のスタイルを見事に表現しているのだが、エルヴィーノ役のモンティの古風なスタイルがやや違和感を感じさせる。

高音と技術、表現力など、さすがにカラスならではの素晴らしさで、相手役のモンティはやや弱いけれどヴォットーの指揮とキャストも立派で充実していて、それを充分に補っている。

デビュー当時のコッソット(当時22歳)の名も見える。

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classicalmusic at 01:40コメント(0)トラックバック(0)カラス 

2014年03月30日


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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は指揮者によって変幻自在の変身を遂げるオーケストラと言えるが、ワレリー・ゲルギエフにかかると上品な印象をかなぐり捨てて、強烈な咆哮を放つヴィルトゥオーゾ集団に変貌した。

賛否両論に分かれる演奏だと思う。

ゲルギエフの演奏の常だが、オーケストラの色よりも指揮者の色の方がはるかに濃く感じられる。

2002年10月17日〜21日、ムジークフェラインでのウィーン・フィル特別演奏会のライヴ演奏なので、とりわけそのような印象が濃くなっているのかも知れない。

剛腕ゲルギエフがウィーン・フィルを限界までに鳴らした演奏で、ダイナミック・レンジを限界一杯まで引き伸ばし、金管楽器は音割れ寸前まで吹き鳴らしている。

木管も弦も消えてしまい、金管の咆哮が強く印象付けられる箇所もあり、ライヴ録音の難しさも感じるが、ゲルギエフ・ファンには堪らない魅力のある演奏となっている。

第3楽章の弦のピチカートが終わり、間髪入れずに第4楽章が始まる瞬間は感興を呼ぶ。

筆者がこの曲に初めて接し(カラヤン&ベルリン・フィル)、心を奪われたのが第4楽章だったので、今でも心がざわめき、血が騒く。

少々のアンサンブルの乱れはあるにせよ、アマチュア・オケのように必死になって一心不乱に演奏しているウィーン・フィルの演奏なんてそう聴けるものではないだろう。

強烈な演奏なので好き嫌いが分かれるのは当然だが、これだけ見事に咆えてもらえればリスナーは満足するに違いない。

ロシア民謡の「白樺は野に立てり」の主題のところでクールダウンして、一気呵成にクライマックスへ駆け上がるオーケストラのアンサンブルの限界すれすれの演奏はやはり怪演かも知れないが、快演でもあった。

なお、リーフレットの解説を平林直哉氏が記しているが、ゲルギエフの紹介とこの交響曲の解説はその通り理解できるのだが、このライヴ演奏を聴かずに書かれているようだ。

録音が届く前に書かなければならなかったようで気の毒ではあるが、これでは国内盤を買う人をがっかりさせるような気がする。

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classicalmusic at 22:53コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーゲルギエフ 

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ワレリー・ゲルギエフは、いま最も注目されている実力指揮者である。

彼の録音は、そのほとんどが手兵マリインスキー劇場管弦楽団、あるいは最近ではロンドン交響楽団を起用しているが、このチャイコフスキーはウィーン・フィルとの初録音である。

1998年のザルツブルク音楽祭のライヴだが、この条件からゲルギエフの精神的な充実感がわかるというものである。

確かに演奏は冒頭から濃密で、陰影が深い。

しかし、ゲルギエフは尖鋭な現代感覚の持ち主で、音楽は確実に構築され、ライヴだからといって決して誇大な表情になることがない。

それどころか、豪快でありながら筋肉質に引き締まった音楽である。

ライヴ録音ということもあり、第1楽章など、盛り上がりに向けたアッチェレランドなど、テンポが著しく揺れ動くが、全体の造型にいささかの揺らぎも見られないのが素晴らしい。

もちろん第2楽章では、メランコリックな抒情も濃厚さの限りであり、感情が細かく起伏した歌を聴かせる。

つまり、造形と内容のバランスが非常によく、そのために指揮者の思いがわかりやすく示されている。

第3楽章の優美なワルツを経て、終楽章では堂々とした高潮が圧倒的なド迫力で、情熱的な感情表現とともに、作品のすべてを描き尽くしている。

ゲルギエフの個性が全開の名演だと思う。

このようなゲルギエフの個性的な指揮に、ウィーン・フィルがぴたりとついていくのも見事であり、ゲルギエフ&ウィーン・フィルの本盤の初共演後の実りある関係を暗示していると言えよう。

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classicalmusic at 20:51コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーゲルギエフ 

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ブルーノ・ワルター最盛期の名演を、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻。

本作は正規盤初出のため音質が鮮明で、気力充実したワルターの指揮ぶりを堪能できる1枚。

最近では、ワルターのステレオ録音は彼本来の持ち味がかなり失われているという意見が広まっているようである。

豊麗にして端正闊達でありながら熱いエネルギーがあるというワルターならではの不思議な音楽の魅力は、ニューヨーク時代の演奏、とりわけライヴ録音に顕著に出ているのであるが、海賊盤はほとんどが音が悪くてあまり顧みられることはなかった。

この1953年のライヴは音も鮮明で、ワルターの深い音楽性がほぼ完全な形でとらえられた優秀な音質によって、地鳴りのするような迫力に満ち、気力充実したワルターの魅力を満喫できる。

「ハフナー」は、宇野功芳氏も「翌日のスタジオ録音よりもさらに凄まじい。テンポの変動、ホルンの最強奏、これこそアンチ・ロココのモーツァルトだ」と絶賛しているし、ライヴならではの気迫がみなぎるワルターの指揮は圧倒的だ。

マーラーの第4番も、少々のっぺりしたスタジオ録音とは大違いで、これは思っていたのと全然違う、音に生気と喜びが満ち溢れ、天上の音楽を何とも愛おしく聴かせてくれる。

深くまろやかでコクがあり、甘美で高雅な薫りが溢れ、しかも痛ましいほどの狂気が垣間見える。

ワルターの振るマーラーの「第4」といえば、他に1945年のニューヨーク・フィル盤や1960年のウィーン・フィル(告別コンサート)盤などが有名であるが、それらと比較してもこの1953年のニューヨーク・フィル盤が一歩秀でている。

とにかくニューヨーク・フィルの音に厚みがあり、血が通った演奏である。

ゼーフリートの声も清らかな声も素晴らしく、これぞ官能の極みと言えよう。

「ハフナー」はまさに沸騰するかのような活力が、マーラーでは耽美的な朗々たる歌が、それぞれ何と魅力的なことであろうか。

スコアの解析ばかりに執着して温もりのないマーラーや、ピリオド奏法そのものを売りにして中身の伴わないモーツァルトなど「真っ平御免!」という方は必聴。

まさに“本物の音楽”がここにあり、比較的良好な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 00:41コメント(0)トラックバック(0)ワルターマーラー 

2014年03月29日


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ムラヴィンスキーが1973年の初来日公演でショスタコーヴィチ「第5」を異常とも言える緊迫感で演奏したときの貴重な記録で、彼の芸術を知る上で欠く事のできない至高の名盤と言えるだろう。

ショスタコーヴィチの交響曲は、ある批評家が言っていたと記憶するが、とんでもないことを信じていたとんでもない時代の交響曲なのである。

したがって、楽曲の表層だけを取り繕った演奏では、交響曲の本質に迫ることは到底不可能ということだ。

世評ではハイティンクやバーンスタインの演奏の評価が高いように思うが、筆者としては、ハイティンクのようにオーケストラを無理なく朗々とならすだけの浅薄な演奏や、バーンスタインのように外面的な効果を狙った底の浅い演奏では、とても我々聴き手の心を揺さぶることは出来ないのではないかと考えている。

ムラヴィンスキーの演奏は、ハイティンクやバーンスタインの演奏とは対極にある内容重視のものだ。

ショスタコーヴィチと親交があったことや、同じ恐怖の時代を生きたということもあるのかもしれない。

しかしながら、それだけではないと思われる。

本盤の「第5」など、ムラヴィンスキーにとっては何度も繰り返し演奏した十八番と言える交響曲ではあるが、にもかかわらず、ショスタコーヴィチに何度も確認を求めるなど、終生スコアと格闘したという。

その厳格とも言えるスコアリーディングに徹した真摯な姿勢こそが、これだけの感動的な名演を生み出したのだと考える。

社会主義体制下で「抑圧の克服から勝利へ」というこの曲のテーマをショスタコーヴィチと共に地で生き抜いたムラヴィンスキーの壮絶なる想いが、レニングラード・フィルの鉄の規律から放たれる鋭利なハーモニーと一見クールな演奏の深淵から炎の如き熱情の煌めきとなって溢れ出てくる。

芝居っ気の全くない辛口の演奏であり、「第5」に華々しい演奏効果を求める者からは物足りなく感じるかもしれないが、その演奏の内容の深さは、ほとんど神々しいばかりの崇高な領域に達している。

レニングラード・フィルの鉄壁のアンサンブルも驚異的であり、特に、妻でもあるアレクサンドラのフルートやブヤノフスキーのホルンソロ(特に第4楽章中間部)は、筆舌には尽くしがたい素晴らしさだ。

ムラヴィンスキーは数々の「第5」の録音を遺しており、いずれも名演の名に値するが、録音も含めると、本盤を最上位の超名演と高く評価したい。

音質は従来CD盤でも十分に満足できる出来映えであったが、HQCD化により更に鮮明になり、力強さが増したように感じられる。

SACD互換機をお持ちでないリスナーには本HQCD盤をお薦めしたい。

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classicalmusic at 22:45コメント(0)トラックバック(0)ショスタコーヴィチムラヴィンスキー 

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ショルティは偉大なマーラー指揮者の一人であると考えているが、ショルティが録音したマーラーの交響曲の中で、4種類もの録音が遺されているのは、現時点では第1番しか存在していない。

これに次ぎ、3種類の録音が遺された第5番は、ラスト・レコーディングも同曲であったこともあり、ショルティにとって特別な曲であったことが理解できるが、第1番に対しても、ショルティは第5番に比肩するような愛着を有していたのでないかと考えられるところだ。

4種類の録音のうち、ケルン放送響とのモノラル録音(1957年)が最初で、本盤がそれに次ぐスタジオ録音(1964年)、そして同年のウィーン・フィルとのライヴ録音(オルフェオレーベル)、そしてシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1983年)がこれに続くことになる。

いずれ劣らぬ名演と思うが、シカゴ交響楽団との演奏は、1964年の2種の演奏とはかなり性格が異なっている。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通しているが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあった。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、1983年の演奏は、本演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっていた。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ管弦楽団盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

これに対して、本演奏は第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。

アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは圧巻の凄味を誇っている。

ショルティは、同年にウィーン・フィルとライヴ録音を行っており、演奏の性格は同様であるとも言えるが、オーケストラの安定性(ウィーン・フィルは、この当時、ショルティにかなりの嫌悪感を抱いていたと言われる)、オルフェオレーベルの今一つ低音が響いてこないもどかしさもあって、本演奏の方をより上位に置きたい。

いずれにしても、1983年の演奏に比して、あくまでも直球勝負の本演奏に抵抗感を覚える人も多いのではないかとも思われるが、筆者としては、マーラーの交響曲の演奏様式の一つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が全開した名演と評価したい。

ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っていると評価したい。

音質は、1964年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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かつてPHILIPSからもリリースされていたムラヴィンスキー晩年の有名なライヴ音源。

他のレーベルからもリリースされていたが、いずれも入手が難しいものばかりだったため、この廉価盤のALTO(旧REGIS)の復刻盤は貴重なもので、何よりも音質が安定している。

というのも、かつてPHILIPSからリリースされていたアルバムはやや高めのピッチで収録されていたため、全体に甲高い音に感じられるという弱点があったが、こちらはピッチが正常なものに修正されているのが有難い。

演奏はショスタコーヴィチの交響曲第8番の決定盤と長らく言われ続けているだけあって、これ以上は考えられないほど凄絶なものだ。

「第8」は、作曲者生前の公式発表によれば、ナチス侵攻による苦難とそれに打ち克つソヴィエト連邦を描いた作品ということになるが、それはショスタコーヴィチによる巧みなカモフラージュであり、スターリンの独裁による圧政が重ね合わされていたのだ、という説もある。

後者については、ソ連崩壊後だから言えることで、当時、そんな思い切ったことができただろうか、という疑問も残るが、少なくとも、ムラヴィンスキーの演奏を聴く限り、後者に説得力があるように思う。

圧政に苦しむ者、虐げられた者を鞭打つような、情け容赦のなさ、一片の慈悲のなさが、ムラヴィンスキーの強い意志とレニングラード・フィルの鋼鉄のアンサンブルによって再現されているが、その重く、暗い生活を、旧ソ連市民へ向け、世界へ向け、告発しているかのようではないか。

ライヴでありながら、一点の隙も見せない凄みが作風とマッチして、聴く者の背筋をも凍らせるのである。

激しさだけではなく、落ち着いた静けさの中にも常に緊張感が漂い、どのフレーズにも熾烈で痛切な思いが込められている。

レニングラード・フィルのアンサンブルやソロの巧さには本当に舌を巻くほどで、ムラヴィンスキーの他のライヴ録音と比較しても、完成度や録音状態はトップクラスであろう。

真摯に曲に立ち向かった極めて説得力の強い名演奏である。

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2014年03月28日


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ショスタコーヴィチの交響曲第5番も「森の歌」も初演者であるムラヴィンスキーによる歴史的名演として名高いもの。

ムラヴィンスキーにとってもシンボルとなっている「第5」は、何度も録音を繰り返し、いずれも素晴らしい演奏揃いであるが、この1954年のスタジオ録音をベストとする人が多い名演中の名演。

ムラヴィンスキーの重量感豊かな演奏法があますところなく示された素晴らしい表現だ。

少しもつくろわずに率直に処理しているが、そこには情緒もあれば民族性も描き出されている。

暗さと淋しさ、寒さを感じさせる音感、ロシアをそのままに響かせたこの演奏は誰にでもできるものではない。

一方、なかなか聴く機会がない「森の歌」は、1948年のジダーノフ批判により苦境に追い込まれたショスタコーヴィチが、当局の批判に応えて書いた大作である。

植林計画をテーマとしたもので、極めて民族色の濃い音楽となっている。

「森の歌」は、亡命することなく祖国でしたたかに生涯を全うしたショスタコーヴィチの苦しみを見るような苦い作品だが、ムラヴィンスキーの微塵の妥協もない演奏は、さながら鋼鉄の如しである。

ムラヴィンスキーの演奏は、もうこれ以上の演奏は考えられないほど壮絶で、ロシア音楽界の総力を結集したような力強い演奏である。

ムラヴィンスキーの棒は、この作品の持つ民族的エネルギーを情熱的、かつ率直に表現したもので、まさしく指揮芸術の頂点を極めた人の演奏だ。

それに応えて、バスのペトロフの野太い歌唱はいかにもロシアの大地を思わせ、泥臭い合唱も壮大な広がりをもった絶唱を聴かせてくれる。

「第5」は1954年の初期ステレオ録音、「森の歌」は1948年のモノラル録音なのでもともと音質は良好とは言えないが、とりわけ「森の歌」は空前絶後の超名演であり、両曲ともリマスタリングによりかつての国内盤よりも鮮明な音質になっているのが有難い。

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エルガーのチェロ協奏曲は、悲劇のチェリストであるデュ・プレの代名詞のような楽曲であった。

エルガーのチェロ協奏曲とともに2大傑作と称されるドヴォルザークのチェロ協奏曲については、ロストロポーヴィチをはじめ数多くのチェリストによって録音がなされ、あまたの名演が成し遂げられている。

ところが、エルガーのチェロ協奏曲に関しては、近年では若手の女流チェリストであるガベッタによる名演(2009年)なども登場しているが、デュ・プレの名演があまりにも凄いために、他のチェリストによる演奏が著しく不利な状態に置かれているとさえ言えるだろう。

かのロストロポーヴィチも、デュ・プレの同曲の名演に恐れをなして、生涯スタジオ録音を行わなかったほどである(ロストロポーヴィチによる同曲のライヴ録音(1965年)が数年前に発売された(BBCレジェンド)が出来はイマイチである)。

デュ・プレは同曲について、本盤のスタジオ録音(1965年)のほか、いくつかのライヴ録音を遺している。

テスタメントから発売されたバルビローリ&BBC響との演奏(1962年)なども素晴らしい名演ではあるが、演奏の安定性などを総合的に考慮すれば、本演奏の優位はいささかも揺らぎがない。

本演奏におけるデュ・プレによる渾身の気迫溢れる演奏の力強さは圧巻の凄まじさだ。

本演奏の数年後には多発性硬化症という不治の病を患い、2度とチェロを弾くことがかなわなくなるのであるが、デュ・プレのこのような凄みのあるチェロ演奏は、あたかも自らをこれから襲うことになる悲劇的な運命を予見しているかのような、何かに取り付かれたような情念や慟哭のようなものさえ感じさせる。

もっとも、我々聴き手がそのような色眼鏡でデュ・プレのチェロを鑑賞しているという側面もあるとは思うが、いずれにしても、切れば血が出てくるような圧倒的な生命力と、女流チェリスト離れした力感、そして雄渾なスケールの豪演は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分である。

それでいて、エルガーの音楽に特有の人生への諦観や寂寥感、深遠な抒情の表現においてもいささかの不足はないと言えるところであり、その奥深い情感がこもった美しさの極みとも言える演奏は、涙なしには聴くことができないほどのものだ。

このような演奏を聴いていると、同曲はデュ・プレのために作曲されたのではないかとの錯覚さえ覚えるほどであり、さすがのロストロポーヴィチも、同曲のスタジオ録音を諦めた理由がよく理解できるところである。

デュ・プレのチェロのバックの指揮をつとめるのはバルビローリであるが、ロンドン交響楽団を巧みに統率するとともに、デュ・プレのチェロ演奏のサポートをしっかりと行い、同曲の数々の抒情的な旋律を歌い抜いた情感豊かな演奏を繰り広げているのが素晴らしい。

併録の歌曲集「海の絵」も、ジャネット・ベイカーの歌唱が何よりも美しい素晴らしい名演と評価したい。

音質は、1965年のEMIによるスタジオ録音であり、従来CD盤では音に歪みが生じているなど今一つ冴えないものであったが、数年前にHQCD化されたことによって、音場が広がるとともに音質もかなり鮮明に改善されたところだ。

そして、先般、待望のハイブリッドSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところであるが、今般のシングルレイヤーによるSACD盤は、当該ハイブリッドSACD盤をはるかに凌駕していると評しても過言ではあるまい。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてシングルレイヤーによるSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、デュ・プレやバルビローリ等による素晴らしい超名演を、超高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)デュ・プレバルビローリ 

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第2次大戦後、長らく指揮活動から遠ざけられていたフルトヴェングラーの待望の復帰コンサート(1947年5月25日〜27日)は、敗戦に打ちひしがれていたドイツ国民にとっても復興への希望をつなぐ歴史的な演奏会であったのではないだろうか。

そうした当時の聴衆の熱気、そしてフルトヴェングラーの指揮活動への渇望もあって、現時点でCD化されている初日(5月25日)、第3日(5月27日)の演奏は、フルトヴェングラーの、そしてコンサートの演目でもあったベートーヴェンの交響曲第5番、第6番、「エグモント」序曲の最高の名演と評価する識者も極めて多いと言えるところだ。

長年にわたって一般的であったのは第3日の演奏であり、これはDGより逐次高音質化の努力が行われ、昨年にはついにシングルレイヤーによるSACD化も行われたところであるが、それでも完全に満足できるレベルの音質には至っていないところである。

これに対して、第1日の演奏は、ターラレーベルなどから発売はなされていたものの、音質がさらに今ひとつで第3日の演奏に比して目立たない存在であったが、一昨年に、アウディーテレーベルから発売されたRIASの音源によるCDが信じ難いような高音質であったため、俄然注目を浴びる存在となった。

聴きようによっては、第3日の演奏のSACD盤よりも優れた音質とも言えるところであり、演奏内容の質にも大差がないこともあって、現時点では、一部には異論があるかもしれないが、第1日の演奏の方をフルトヴェングラーの代表盤と評する見方が今や支配的になってきたと考えられるところである。

そして、今般、当該アウディーテ盤がついにシングルレイヤーによるSACD化がなされる運びとなり、これをもって、当該盤は揺るぎない玉座の地位を占めるに至ったと評しても過言ではあるまい。

演奏内容、そして音質のいずれの面においても、フルトヴェングラーの数ある演奏の中でも最高峰と言える。

これ以上は求め得ないような重厚にしてドラマティック、そして彫りの深い表現が駆使された交響曲第5番、「田園」としてはいささか重い表現と言えるが、深沈とした味わい深さにおいては他の演奏の追随を許さない交響曲第6番、いずれもフルトヴェングラーの両曲の最高の名演であり、様々な意見はあると思うが、筆者としては、交響曲第5番については、様々な指揮者による名演の中でも随一の超名演と高く評価したい。

それにしても音質の素晴らしさは、戦後間もない1947年のライヴ録音ということに鑑みれば、殆ど驚異的であると言えるだろう。

フルトヴェングラーの大半のライヴ録音は、とりわけトゥッティなどにおいて音が団子状態になり、各楽器セクションの動きが不明瞭になるという欠陥が多々存在しているところであるが、本盤においてはそのようなことは殆どない。

「田園」の第1楽章冒頭からしばらくの間はやや音が前に出てこない感もないわけではないが、それ以外の箇所については、フルトヴェングラーの他の演奏盤のいずれと比較しても、各楽器セクションの分離の明瞭度は比較的優れており、シングルレイヤーによるSACD化により、さすがに最新録音のようにはいかないものの、この当時の演奏としては最高水準の音質に仕上がったと評してもいいのではないだろうか。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 01:17コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンフルトヴェングラー 

2014年03月27日


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本DVDには、ショパンと同じポーランド生まれの類稀な才能を持ったピアニスト、クリスティアン・ツィマーマンと卓越したテクニックで独特の情感を創り出す天才指揮者、レナード・バーンスタインの共演が収録されている。

第1番は1984年、第2番は1985年の録音であり、ツィマーマンが30歳間近、バーンスタインが急逝する5年前の作品となるが、素晴らしい名演と高く評価したい。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。

本盤の演奏とほぼ同時期に、バーンスタインはウィーン・フィルとともにブラームスの交響曲全集をライヴ録音(1981〜1982年)しており、当該演奏もどちらかと言えば疑問符を付けざるを得ない点も散見されるところであるが、ウィーン・フィルの懐の深い音色が演奏を浅薄なものに陥るのを避けるための大きな防波堤になり、少なくとも佳演との評価は可能な演奏に仕上がっている。

一方、本盤の演奏においても、基本的には交響曲全集の場合と同様であり、いかにもバーンスタインの晩年の芸風が色濃く反映された演奏に仕上がっている。

両曲の第1楽章冒頭の超スローテンポによる開始には殆ど閉口させられるが、その後も極めて遅いテンポ、ゲネラルパウゼの多用、粘ったような曲想の進行、濃厚さの極みとも言うべき表情過多な表現などが駆使されており、これ以上は考えられないような濃密な音楽が構築されている。

したがって、いわゆるドイツ正統派のブラームス演奏とは百八十度異なる異色の演奏であり、バーンスタインがマーラーの交響曲の演奏で垣間見せるヒューマニティ溢れる熱き心で満たされているとさえ言えるだろう。

まさに、バーンスタインの体臭が芬々としている演奏と言えるところであり、これは好き嫌いが明確に分かれる演奏であるとも言えるところだ。

もっとも、本盤の演奏では、ツィマーマンのピアノが清新さに満ち溢れた名演奏を展開していることから、バーンスタインの体臭芬々たる濃厚な演奏が若干なりとも中和されていると言えるところであり、交響曲全集ほどの違和感を感じさせることがないと言える。

ツィマーマンのピアノ演奏については、若さ溢れる演奏でありながら、卓越した技術と音楽性がブレンドされ、既にヴィルトゥオーゾとしての風格が出始めている演奏だ。

これをバーンスタインがさらに昇華させており、ひとつの芸術作品としての存在感を示している。

ツィマーマンの若い頃の演奏を改めて観て感じたが、彼の音楽性はブレていないように思われる。

それは、ツィマーマンが音楽に対して真摯にそして一切の妥協を許さず向き合っている証拠である。

今なお進化し続けているのは、ツィマーマンの根幹にこれが存在するからなのだろう。

そして、ウィーン・フィルによる懐の深い美演が、演奏全体に独特の潤いを与えているのを忘れてはならないところだ。

いずれにしても、以上の点を総合的に勘案すれば、本盤の演奏を名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

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classicalmusic at 23:37コメント(0)トラックバック(0)ツィマーマンバーンスタイン 

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1996年5月の「プラハの春」音楽祭のオープニングは、初めてチェコ、スロヴァキア人以外で登場し、チェコ国民の聖典のようなこの曲の演奏を、ロジャー・ノリントンらイギリス人に任せて大成功を収めた。

当盤は、その直後のロンドンで収録されたスタジオ録音であるが、本番の演奏同様に、冒頭に「チェコ国歌」が収録されている。

後期ロマン派の作品を以前から取り上げていたノリントンではあるが、ピリオド楽器のオーケストラで、版の見直しもあり、極めて刺激的な演奏となった。

今までどちらかというと情感たっぷり、思いっ切りロマン派な演奏が良しとされてきた「わが祖国」。

しかし、今や歴史的名演となった半世紀前のターリッヒやアンチェルの演奏は、後の録音に比べると驚くほど飾り気が少ない。

100年前の楽器、100年前の編成を用いたこの録音は単なる懐古趣味ではなく、「わが祖国」が本来持つ繊細さ、深い情感の世界に我々を誘ってくれる。

個々の楽器の音色も流麗で、民族色のある国民楽派と呼ばれる時代の音楽には、こうした爽やかにして深みのあるピリオド楽器の音色が合うのかもしれない。

オケのアンサンブルも精緻であり、標題音楽として情景が流れるように伝わってくる。

これを聴けば、新たな再発見があるはずで、熱に浮かれぬ清新な演奏を、このCDで確かめてみることをお薦めしたい。

音質も1996年のスタジオ録音ということもあって、鮮明で優秀なものである。

なお、当ディスクの解説によれば、ザ・ロンドン・クラシカル・プレイヤーズは1997年初めに解散したという。

ということで、これは、この団体最後のCDということになったそうである。

ノリントン自身もこれから現代楽器(主にシュトゥットガルト放送響)を用いた演奏に傾斜していくことになる。

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classicalmusic at 21:06コメント(0)トラックバック(0)スメタナ 

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作曲者と指揮者を結ぶ「絆」の強さを音で聴かせる名盤だ。

R.シュトラウスは交響詩《英雄の生涯》をオランダの名指揮者で、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を一代で世界屈指の名門オーケストラに育成したウィレム・メンゲルベルク(1871-1951)と彼のオーケストラに捧げている。

R.シュトラウスは「若々しい心と情熱にあふれ、しかも練習熱心な」指揮者とオーケストラの賛美者であり、たびたび客演もしていたのだが、自画像のような名作を捧げることで友情と賛美の証としたのである。

R.シュトラウスの「超絶技巧のオーケストレーション」とも言える煌びやかな音響の「超絶」を統率するのは当時の指揮者にとっては至難の業であったが、複雑なスコアを楽に紐解くことができ、大音響を好んだメンゲルベルクにとって、R.シュトラウスの作風はまさに望むところであった。

すぐにメンゲルベルクはこの作品を指揮するようになり、彼の技術と作品との最高のコンビネーションの証拠がこのCDにもあらわれているが、アムステルダムでは他の指揮者が採り上げることを許さなかったというから偉かったのである。

そんな演奏を聴いたR.シュトラウスは芳醇さと優雅さを絶賛しながらも、さらにより鋭利なアクセントと活力、そして荒々しさも求めたというから面白い。

全盛期を謳歌していたメンゲルベルク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団は1941年に《英雄の生涯》を録音しているが、芳醇さと鋭さ、優雅さと荒々しさに加えて、惚れ惚れとするばかりの巧さを加味、記念碑的名演としている。

隅から隅まで作品を知り尽くした指揮者とオーケストラが、愛情と責任感とを背景に歌い上げた熱演であると同時に、トランペットなどソロをとる首席奏者たちの素晴らしさが際立っており、どこか風格すら感じてしまうほどである。

作曲者が求めていた理想の作品の姿がこうした名演で残されたことは値千金の価値を持つ。

SP録音ながら信じ難いサウンドの優秀さにも驚かされるし、名ホールのアコースティックまでもが味わえるのも奇跡のようである。

これを聴いてしまうと、その後のオーケストラは本当に成長し、発展したのかと、しばし考え込むことにもなりかねない。

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classicalmusic at 01:00コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスメンゲルベルク 

2014年03月26日


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当盤は1937年の有名な「悲愴」ではなく、メンゲルベルクが1937年録音のハウリングを嫌い、1941年に再度「悲愴」をスタジオ録音したものである。

指揮者メンゲルベルクの比較的後期に当たる録音であるが、その演奏はロマンに満ち溢れ、現代の数ある指揮者でも決して辿り着けない究極のロマンがここにある。

この「悲愴」を初めて聴いた人は絶句するに違いない。

作曲家グリーグも、若き日のメンゲルベルクの「悲愴」を聴いて打ちのめされたそうだ。

これほどまで雄大で濃密な「悲愴」は空前絶後で、メンゲルベルクはあらんかぎりの個性を投入し激しくデフォルメしながら、チャイコフスキーの狂おしい情熱を極限まで高めることに成功している。

地滑りのようなテンポの緩急、すすり泣くようなポルタメント、むせかえるほどの音色の熱気、全てが呪術的なオーラを放っている。

古臭いという声も聞かれるが、これこそ19世紀感覚の演奏かもしれない。

まさに、メンゲルベルクの個性が最も良く出た演奏の一つであろう。

特に第1楽章ではテンポを大きく揺さぶり、更に第2主題で大きく弦を震わせてはポルタメントで聴く者をうっとりさせながら、後半ではSPというレンジの狭さを感じさせないほどのダイナミックな表現をしている。

その凄まじいまでの手法はまさに絶品で、この楽章の終盤での静寂部では、その余韻までもが聴く者を離さない。

第2楽章でも、ロマンティシズムに溢れる歌わせ方は第1楽章同様で、まさに情緒溢れる表現で歌わせている。

第3楽章は打って変わって豪快な棒さばきで進んでいく。

とどめは終盤、ここで大見得を切ったメンゲルベルクはテンポをガクッと落とした後、SPの狭いレンジをフルに使ってパワーを全開させ、アッチェランドをかけて突っ走っていく。

そしてラストはお得意のリタルダンド!

もっともこの手法は当時では珍しくないようで、フルトヴェングラーやアーベントロートも同様にテンポダウンしている。

そして最終楽章はまさに慟哭するような表現に終始している。

時折テンポを大きく変えながら、弦を震わせてはポルタメントを有効に活用し、聴く者にふと幻想を抱かせるような演奏である。

1937年録音と1941年録音、どちらが好むかは人それぞれであろうが、いずれにせよメンゲルベルクのロマンが集約された「悲愴」と言えよう。

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classicalmusic at 23:02コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーメンゲルベルク 

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20世紀最高のマーラー指揮者の一人であったサー・ゲオルグ・ショルティが、1992年に、マーラーゆかりのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演した際のライヴ録音。

まず、かつてのシカゴ交響楽団を指揮してマーラーの交響曲全集を録音した頃のショルティの音楽とは一味違うことを最初に記しておく。

ライヴということで編成も小編成なのかもしれないし、あるいはオーケストラの特色もあるのかもしれないが、繊細で非常に丁寧である。

但し、マーラーの指示を細かく解釈するといった類の丁寧さではない。

歌唱もシカゴ盤に比較すると、内向的というか、しみじみと歌っているし、それに対する伴奏的な立場を堅持しているのかもしれない。

第1楽章、第5楽章などはパワフルではないが、特に老成した雰囲気でもなく、やや健康的にすぎるかもしれない。

それでも終楽章ではテンポをゆっくり取り、非常に儚げなタッチで不思議な浮遊感を保ちながら演奏していく、独特のメルヘンチックな音楽である。

コンセルトヘボウ管のアンサンブルはシカゴ響に優るとも劣らないのだが、ここまでショルティの自由にうねる表現に一糸乱れずついてきているのは大変であっただろう。

しかも、シカゴ響より温かみのあるコンセルトヘボウ管の弦楽器の音色は、まるでこちらまで涅槃の境地に連れて行かれそうになるくらい素晴らしい。

ショルティが一番最初にレコーディングしたという、1961年のコンセルトヘボウ管との交響曲第4番の第3楽章終結部もこんな音だったなぁと思い返した次第である。

音質も英デッカによる極めて優秀なものであり、ライヴ録音ではあるが、拍手や客席の音は特になく、演奏上の傷もない。

巨匠晩年の感動的な「大地の歌」であり、ショルティを食わず嫌いしている人は一度これを聴いてみてほしい。

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classicalmusic at 21:09コメント(0)トラックバック(0)マーラーショルティ 

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1957年6月17日に収録されたモノラル録音で、若き日のショルティが躍動感に溢れた熱い演奏を繰り広げている。

シカゴ交響楽団との新録音も素晴らしい演奏だが、この旧盤は率直なきびしい表現という意味では捨て難い。

ショルティが客観的で直截な音楽をつくっており、マーラーの作品の重量感が強調された演奏だ。

当時のショルティの棒には極めて率直な若々しさがあり、オーケストラを筋肉質と言えるほど引き締めている。

とにかく楽器を良く鳴らし、オーケストラのダイナミックレンジと機動力を最大限に活かしたような指揮は、(若き日の)ショルティの指揮スタイルのひとつであり、リズムの正確さ、鋭敏さも大きな特徴である。

後年の彼とは異なる新鮮な演奏と言うべきだろうが、そのため音そのものの力感とともに爽やかな抒情やほのかな甘さもある。

第1楽章から作品の劇性を直截的に表現し、とにかく凄いほどの力のこもった演奏で、今さらのようにショルティの統率力の見事さを感じさせる。

第2楽章のダイナミックな活気ある表現には力がみなぎっていて、こうした動きの強い部分にショルティの劇的な判断が生きることがよくわかる。

ショルティが力で押すだけの指揮者ではないことは、第3楽章の柔軟で清澄な表現が物語っているが、全体に誇張や作為がまったくない。

このマーラー若書きの作品をひたむきに演奏した迫力も凄いが、なかでも端正な表情のなかにあたたかい抒情が漂うのは聴き逃せない。

終楽章の高揚感も新盤と異なる説得力があって、激しい意志力に貫かれており、強固な表現は、きわめて劇性が強い。

新盤が発売された後もカタログに残るだけの価値のある演奏だろう。

モノラルながら音質も良好なので、いろいろな意味で(若き日の)ショルティを知ることのできる演奏だ。

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classicalmusic at 00:22コメント(0)トラックバック(0)マーラーショルティ 

2014年03月25日


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朝比奈隆のレパートリーの中核となっていたのは、ブルックナーやベートーヴェンの交響曲であり、ブラームスの交響曲もそれに次ぐ存在であった。

ただし、あくまでも私見ではあるが、朝比奈が遺したブラームスの交響曲全集の録音は、大阪フィルや新日本フィルなど複数を数えているものの、ブルックナーやベートーヴェンの交響曲の演奏と比較すると、今一つ冗長と言うか、面白味に欠けるような気がするのだ。

スケールは雄大であるが、細部におけるニュアンスの込め方に今一つ欠けているというのが、そのような気にさせる要因であると言えるのかもしれない。

良く言えば、細部に拘泥しない恰幅の良さ、悪く言えば大味な演奏とも言えるのではないだろうか。

ブルックナーやベートーヴェンの交響曲とは異なり、ブラームスの交響曲の場合、細部における細やかな表現の在り様は、演奏を行うに際しての生命線とも言えるだけに、朝比奈の演奏のアキレス腱ともなっていると言えるところだ。

しかしながら、本盤に収められた東京都交響楽団とのライヴ録音だけは超名演だ。

朝比奈による数あるブラームスの交響曲第1番の演奏の中でも最高の名演であるにとどまらず、同曲演奏史上でもトップクラスの超名演と高く評価したい。

本演奏におけるアプローチは、これまでの朝比奈による同曲の演奏と基本的には何ら変わるところはない。

スケールは雄渾の極みであり、細部に拘らず、ブラームスがスコアに記した音符の数々を恰幅よく鳴らし切るという、いわゆる直球勝負のスタイルによる演奏だ。

そして、あたかも重戦車が進軍するが如き重量感に溢れており、その力強さは、同曲演奏史上でも空前にして絶後の凄まじいまでの強靭な迫力を誇っている。

加えて、これまでの朝比奈によるブラームスの交響曲演奏の唯一の高いハードルにもなっていた細部におけるニュアンスの込め方についても、何故か本演奏においては、どこをとっても独特の表情付けがなされるなど、過不足なく行われていると言えるところである。

したがって、本演奏は、例によって繰り返しを忠実に行うなど、全体を約53分もの時間を要してはいるが、これまでの朝比奈による同曲の演奏のように冗長さを感じさせるということはいささかもなく、隙間風が一切吹かない内容の濃さを有していると言えるところだ。

いずれにしても、本演奏は、スケールの大きさと細部への入念な配慮を両立し得た稀有の名演と言えるところであり、朝比奈としても、会心の出来と評すべき超名演と言えるのではないだろうか。

それにしても、東京都交響楽団のうまさを何と表現すればいいのであろうか。

東京都交響楽団は、崇敬する朝比奈を指揮台に頂いて、ドイツのオーケストラに決して負けないような重厚かつ重量感溢れる豪演を展開しており、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

DSDマスタリングによる鮮明な高音質も見事という他はない。

ただ、DSDマスタリングをするのであれば、これだけの素晴らしい超名演であるだけに、SACD盤で発売して欲しかったと思うクラシック音楽ファンは筆者だけではあるまい。

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classicalmusic at 22:45コメント(0)トラックバック(0)ブラームス朝比奈 隆 

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これはいかにもショルティならではの強烈無比な演奏だ。

録音は1966年であり、かの歴史的な超名演であるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」をウィーン・フィルとともにスタジオ録音している最中のもの。

かかる録音も終わりに近づいており、そうしたことに去来するであろう自らの指揮芸術に対する漲るような自信と誇りが演奏自体にもあらわれているかのようである。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通しているが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあった。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、ショルティは、マーラーの交響曲第2番を1980年になって、当時の手兵であるシカゴ交響楽団とともに再録音を行っているが、この1980年の演奏は、本演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏に仕上がっていた。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&ニューヨーク・フィル盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

これに対して、本演奏は第1楽章冒頭から終楽章の終結部に至るまで、ショルティの個性が全開。

アクセントは鋭く、ブラスセクションは無機的とも言えるほど徹底して鳴らし切るなど、楽想の描き方の明晰さ、切れ味の鋭いシャープさは、他の指揮者によるいかなる演奏よりも(ブーレーズの旧盤が匹敵する可能性あり)、そしてショルティ自身による1970年のマーラーの交響曲第5番の演奏にも比肩するような凄味を有していると言えるだろう。

したがって、1980年の演奏に抵抗を覚えなかった聴き手の中にさえ、このような血も涙もない演奏に抵抗感を覚える者も多いのではないかと思われるが、筆者としては、マーラーの交響曲の演奏様式の一つとして十分存在意義のあるものと考えており、好き嫌いは別として、ショルティの個性が全開した名演と評価したい。

ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っているとともに、ソプラノのハーパーやアルトのワッツをはじめとした声楽陣も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

音質は、1966年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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classicalmusic at 21:02コメント(0)トラックバック(0)マーラーショルティ 

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1998年12月17日(ハイドン)、1997年10月4日(ブラームス)、ウィーン・コンツェルトハウス・大ホールに於けるデジタル・ライヴ録音。

巨匠ザンデルリンクは、2002年に演奏活動から引退する直前までヨーロッパ各地の名門オケに客演を繰り返し、どのオーケストラからも驚異的高水準の演奏を引き出すことで尊敬を集めた。

ほぼ毎年客演したウィーン交響楽団との相性も抜群で、機能的でストレートな反応にザンデルリンクの豪快なドライヴが見事に決まっている。

いずれもザンデルリンクからリリース快諾を得たとのことで、ファンにはうれしいアルバムの登場である。

巨匠お得意のブラームスの交響曲第3番では、どっしり落ち着いた風格にウィーン響の華やかさが加味されて絶妙の味わいがある。

どの楽章も隅々まで心配りが行き届き、渋みのあるロマンはたっぷり濃厚。

最近の小編成オケによる演奏とは土台も次元も違う演奏で、改めてブラームスの魅力を思い知らされる。

ブラームスの交響曲第3番の新たな名演の登場と言えるだろう。

また、カップリングの「驚愕」は、ありそうでなかったディスク初登場レパートリー。

ハイドンを面白く聴かせる第一人者の巨匠ゆえに、堅苦しさや優等生的な融通の利かなさはまるでなく、愉悦と大胆な遊び心に満ちた快演。

お馴染みのメロディーがこれほど格調高く、しかも伸び伸びと歌われた演奏はそうあるものではない。

どこか古風な落ち着いた響きをもったスケール豊かな演奏は、ピリオド楽器による演奏から得られない魅力に満ちている。

ザンデルリンクは既に10年前に引退して、昨年逝去してしまったのだなぁ…、という感慨の深い1枚とも言えよう。

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classicalmusic at 00:41コメント(0)トラックバック(0)ハイドンブラームス 

2014年03月24日


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1984年11月23日 ミュンヘン・ヘルクレスザールにおけるステレオ・ライヴ録音。

巨匠ザンデルリンクは、1980年代から1990年代にかけてミュンヘン・フィルに頻繁に客演を繰り返した。

このアルバムでは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲、そしてJ.S.バッハの2台のヴァイオリンのための協奏曲は、ブラームスの交響曲第4番に比べるとあまり高い評価は評論誌でされてなかったが、耽美的な演奏であることは、収録されている曲全体を通じて感じられた。

「エグモント」序曲からして壮大、重厚な響きに圧倒される。

バッハはもちろん旧スタイルの演奏で、堂々たる押し出しの立派な音楽を作っている。

そして「ブラ4」! これぞ圧倒的な名演奏だ。

尋常ではない遅いテンポが採用され、ロマンティシズム、耽美指向が濃厚に漂う個性的な演奏である。

旧東ドイツの指揮者と言えば、ケンペのブラームスの交響曲全集、そしてザンデルリンクのブラームスの交響曲全集を聴き、いずれも「らしさ」を感じながら、聴き惚れていた頃を懐かしく思い出す。

殊にザンデルリンクがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した交響曲全集は音楽的に古風な体質を持つ独特な名演奏として評されていた。

筆者にとっては、ブラームスはやはりバーンスタインやカラヤンで聴くより何よりザンデルリンクであり、地味ながら男心をそそる細やかなタッチが当時新鮮であった。

ここではチェリビダッケが鍛えたミュンヘン・フィルの明るく、美しいサウンドを時には豪快に、時には繊細に料理したライヴゆえの自在な起伏が最高だ。

逆に、乱調の気配が全くなく、セッション録音のように大人しくきっちりと音楽が進行している内省的な音楽の性格の部分では、美しくあまりに切ない懐かしい響きとリズムの重さがとても心地よく聴こえる。

どうしても聴きたくて仕方が無い、そういう衝動に駆られる男性的な魅力のある音楽と演奏であり、情熱の塊のようなものも時折感じられる箇所も少なくない。

1986年のチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルによる来日公演との比較も一興。

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classicalmusic at 22:57コメント(0)トラックバック(0)ザンデルリンクブラームス 

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巨匠クルト・ザンデルリンクと言えば、2度の交響曲全集を録音しているほどブラームスを得意としていた。

セッション録音のベルリン交響楽団との新全集と同じ年にライヴ録音されたこの第4番は、ザンデルリンクのどの同曲異演よりもいっそう主情的で情熱的というか、私小説的な解釈とも言える。

例によって遅いテンポが採用されているが、その劇性は凄まじく手に汗握る熱演となっている。

また、ロマン主義解釈の大家であることは疑いないザンデルリンクであったが、ここまで耽溺的な一面があったのかと驚かされる。

特に第1楽章はどこもかしこも詠嘆しているような、諦観の涙に濡れた美しい情感に覆われており、祈りにも似た没入を示している。

もともと存在自体がアナクロであったこの作曲者の辿り着いた最後の境地である作品ゆえに、こういうアプローチは正道だと思う。

美しいという点では、チェリビダッケの同曲の演奏も異常なほど耽美的であったが、ある意味で人間界を越えたような抽象的な美だった。

だがザンデルリンクは同じように耽美的でも、もっとずっと濃厚な人間感情に彩られている。

しかしその一方で、速いテンポで鋭角的とさえ評せる第3楽章のように一筋縄にはいかない部分もあって、その裂帛の気合いに身の毛もよだつばかりだ。

フィナーレに至っては奈落の底へ突き落とされるかのようなカタルシスさえ感じさせる。

とはいえ、古典形式に厳格に拘った作曲者に対して、情に溺れ過ぎて形を壊すような背信行為には陥っていないところは流石と言うべきであり、興味深い。

「悲劇的序曲」はベルリン交響楽団との全集では再録音しなかった曲で、第4番の録音から7年後の録音だが、古格を保つ驚愕の名演であり、交響曲と殆ど同じことが言える。

録音状態も良好なので、これら2曲を熱愛する人には心からお薦めしたい。

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classicalmusic at 20:55コメント(0)トラックバック(0)ブラームスザンデルリンク 

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ザンデルリンクのディスコグラフィは、実演でのレパートリーに較べるとだいぶ少なめなものとなっており、シューベルトの「ザ・グレート」とハイドンの交響曲第39番という2つの作品もレコーディングがおこなわれていないため、今回、ライヴ音源がリリースされたのは非常に歓迎されるところである。

巨匠ザンデルリンクに「ザ・グレート」のディスクがなかったこと自体驚きだったが、ついに名人集団スウェーデン放送響との名演が発見された。

とても初出レパートリーとは思えぬほど、どこまでも自然体で、柔らかな響きを保ち、ホルンを朗々と吹かすところなど、こうでなくては! と感じさせる。

全体の運びはザンデルリンクならではの重厚長大スタイルながら、情感が非常に豊かでニュアンスに富んでいる。

また、エネルギッシュにオーケストラをドライヴする姿が目に浮かぶようであり、これぞスケール極大の大演奏で、「ビッグではなく、グレートなのだ」と主張しているかのようだ。

スウェーデン放送響の「ザ・グレート」としては、1994年収録の当ザンデルリンク盤と、1990年に同じベルワルド・ホールで収録されたスヴェトラーノフによる「ザ・グレート」があり、両者の比較も興味の尽きないところだ。

ハイドンの交響曲第39番は曲も演奏も気に入った。

正直言って初めてこの曲をまともに聴いたのだが、ザンデルリンクがかつてハイドンの交響曲に集中していた時代にLPでその何枚かを聴いて、この指揮者のハイドンへの並々ならぬ腕前に感心していた事もあって、それを懐かしく思い出した。

ザンデルリンクはしばしばハイドンをコンサートの前プロに置くことが多かったのだが、この第39番は特に彼が愛奏した素晴らしい作品である。

オーケストラの合奏能力は超一流というわけではなくライヴ故に余計アンサンブルも怪しい処もあるのだが、通奏低音としてのハープシコードがとても効果的である。

ハイドンの「短調疾風怒濤期」からの交響曲である第39番の第1楽章からの「処理」は中々聴かせるものがあり、第3楽章のメヌエット等も魅力的で、流石「交響曲の父」と呼ばれるだけの名演を繰り広げている。

音質は1990年代のライヴ録音だけに、鮮明で素晴らしいものであると高く評価したい。

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2014年03月23日


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ポリーニの円熟を感じさせる素晴らしい名演だ。

本盤に収められているショパンのピアノ曲は、筆者の記憶が正しければ、4つのマズルカを除けば、ポリーニにとって2度目の録音ということになる。

メインの前奏曲集については、ポリーニの名声を確固たるものとした1974年のスタジオ録音以来、約35年ぶりの再録音。

2つの夜想曲は、2005年の全曲録音以来6年ぶりの再録音。

スケルツォ第2番は、1990年の全集の録音以来、約20年ぶりの再録音。

マズルカ集については、本盤に収められた諸曲は初録音であるが、第22〜25番を2年前に録音しており、マズルカ集の録音としてはそれ以来となる。

とりわけ、録音の間隔が空いたメインの前奏曲集については演奏内容の差が歴然としており、本盤の演奏内容の素晴らしさ、見事さは圧倒的であると言えるだろう。

前回の1974年の演奏は、少なくとも技量においては凄まじいものがあった。

研ぎ澄まされた透明感溢れるピアノタッチという表現が当てはまるほどであり、古今東西のピアニストによる前奏曲集の演奏の中でも巧さにおいては群を抜いた存在であるとも言えた。

ただ、音質がやや硬質でもあったリマスタリングやSHM−CD化がなされていない従来CD盤で聴くと、ピアノの硬質な音と相俟って、機械的な演奏に聴こえてしまうきらいがあり、聴きようによっては、あたかも機械仕掛けのオルゴールのようなイメージもしたところである。

ところが、本演奏は、そのような問題はいささかも感じられない。

超絶的な技量においては、老いても綻んでいるとことは殆どないと言えるが、何よりも、演奏全体にある種の懐の深さを感じさせるのが素晴らしい。

スコア・リーディングの深みも大いに増しているとも思われるところであり、細部におけるニュアンスの豊かさ、心の込め方には、尋常ならざるものがある。

このような含蓄のある演奏を聴いていると、今やポリーニは真に偉大なピアニストになったと評しても過言ではあるまい。

次いで、スケルツォ第2番が素晴らしい。

前回の演奏では、ほぼ同時期に録音されたポゴレリチの演奏が衝撃的であったせいか、今一つ喰い足りないものを感じさせたが、今般の演奏は、それを補って余りあるほどの偉大な演奏に仕上がっている。

卓越した技量を披露しつつも、彫りの深さ、内容の濃さにおいては近年のピアニストを寄せ付けないだけの高み達しており、おそらくは現代のピアニストによる同曲の演奏の中でも最高峰の名演と評しても過言ではあるまい。

他の併録曲もいずれも素晴らしい名演であり、本盤こそは、ポリーニの円熟と充実ぶりを大いに感じさせる名アルバムと高く評価したい。

音質は、ピアノ曲との相性が抜群のSHM−CDであり、本盤の価値をより一層高めることに大きく貢献していることも忘れてはならない。

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ホルストの組曲『惑星』は、豪壮華麗なオーケストレーションが施されたいかにもショルティ向きの作品であるにもかかわらず、本演奏のみの一度しか録音を行っていない。

しかも、録音年代は1978年。

シカゴ交響楽団の音楽監督として最も脂の乗っていた時期であるにもかかわらず、オーケストラとしてシカゴ交響楽団を起用せずに、敢えてロンドン・フィルを起用したというのは大変に意外である。

もちろん、ロンドン・フィルはショルティにとって大変縁のあるオーケストラであり、エルガーの2つの交響曲のほか、本盤に収められた行進曲『威風堂々』、エニグマ変奏曲なども同オーケストラと録音している点を考慮すれば、ショルティは、楽曲によってオーケストラを使い分けていたということが言えるのかもしれない。

そして、それ故にこそ、英国王室の「サー」の称号も得ているショルティは、ホルストの組曲『惑星』をあくまでも純然たる英国音楽として捉え、当時一般に流布しつつあったオーケストラ演奏の醍醐味を味わわせてくれるショーピースのような演奏に背を向け、英国音楽としての矜持を保って格調高く描き出そうとしたのかもしれない。

ショルティの本演奏におけるアプローチは、例によって、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであるが、いかなるトゥッティの箇所に至っても、同時期のシカゴ交響楽団との演奏の一部に聴かれるようないささか力づくとも言うべき強引さが殆どなく、前述のような格調の高さを損なっていないのが素晴らしい。

もっとも、「火星」などにおける強靭な迫力には凄味があるし、他方、「金星」や「海王星」における英国の詩情に満ち溢れた美しさにも抗し難い魅力が満ち溢れており、各楽曲毎の描き分けの巧みさにおいても秀逸なものがあると言えるだろう。

いずれにしても、本演奏は、いい意味での剛柔のバランスと格調の高さが支配した演奏とも言えるところであり、ショルティがその後、シカゴ交響楽団と再録音しなかった理由を窺い知ることが可能な素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

そして、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルが、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を最大限に発揮した好パフォーマンスを発揮しているのも、本名演に華を添える結果となっていることを忘れてはならない。

行進曲『威風堂々』は、演奏全体をいかにもショルティならではの強靭なリズム感とメリハリの明瞭さで一貫しており、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされた圧倒的な名演に仕上がっている。

音質も英デッカによる極めて優秀なものであり、ルビジウム・クロック・カッティングによって更に鮮明さが増したと言えるところだ。

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本盤には、ブラームスのヴァイオリン協奏曲と二重協奏曲が収められているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

ヴァイオン協奏曲は、メニューインがヴァイオリンをつとめているが、フルトヴェングラーの没後の凋落ぶりに鑑みれば、とても信じられないような素晴らしい演奏を披露している。

メニューインは、本盤の録音の頃がベストフォームにあったと言えるのかもしれない。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、4大ヴァイオリン協奏曲の中でもオーケストラが特に分厚いことで知られており、オーケストラ演奏が薄っぺらだとそもそもどうにもならない。

フルトヴェングラーの場合は、そのようなことはいささかも心配ご無用で、本演奏においても、粘ったような進行や重厚さが際立っており、楽曲の核心に向かって鋭く切り込んでいくような彫りの深さも健在だ。

オーケストラは、いつものベルリン・フィルやウィーン・フィルではなく、ルツェルン祝祭管弦楽団ではあるが、フルトヴェングラーの統率の下、持ち得る能力を最大限に発揮した最高のパフォーマンスを示しており、重厚さにおいても前述の両オーケストラと比較してもいささかも引けを取るものではない。

二重協奏曲は、ウィーン・フィルの首席奏者をソリストに起用して演奏したものであるが、これまた素晴らしい名演と評価したい。

ブラームスが最晩年に作曲した協奏曲だけに、フルトヴェングラーのような深遠なアプローチは見事に功を奏しており、孤独な年老いた独身男性の寂寥感を抉り出すような凄みのある演奏に仕上がっている。

ボスコフスキーのヴァイオリンやブラベッツのチェロもウィーン・フィルと一体となってフルトヴェングラーによる崇高な音楽の醸成に奉仕しているのが素晴らしい。

また、この当時のウィーン・フィルの音色に顕著に存在した独特の音色が、演奏全体に適度な潤いとあたたかみを付加している点も忘れてはならない。

録音は、ヴァイオリン協奏曲が1949年とやや古いが、今般のSACD化によって見違えるような素晴らしい音質に生まれ変わった。

特に、ヴァイオリンやチェロの弓使いまでが鮮明に聴こえるのは、録音年代を考えると殆ど驚異的ですらある。

いずれにしても、このような歴史的な名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2014年03月22日


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本盤にはフルトヴェングラーがメニューインを起用してスタジオ録音を行ったベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲と、ロマンス第1番及び第2番が収められているが、いずれも素晴らしい至高の超名演と高く評価したい。

ヴァイオリン協奏曲については、今般の一連のシリーズにおいて同時にSACD化された、ルツェルン祝祭管弦楽団と1947年にスタジオ録音した演奏もあり、そちらも素晴らしい名演で今般のSACD化によって更にそのグレードを上げたところである。

両演奏の優劣の比較は困難を極めるところであるが、録音が本演奏の方が良好であることや、オーケストラの力量においてもフィルハーモニア管弦楽団の方が数段上であることを考慮に入れれば、筆者としては本演奏の方をわずかに上位に置きたいと考える。

本演奏におけるフルトヴェングラーの指揮は例によってスケールの雄大な巨匠風そのものだ。

先を決して急ぐことはない荘重なインテンポで楽想を進めていくが、常に音符の背後にある音楽の精神的な深みを追求しようという姿勢には不動のものがあり、楽曲の核心を鋭く抉り出していくような彫りの深さには際立ったものがある。

フルトヴェングラーによる奥行きのある指揮に対して、メニューインのヴァイオリンも一歩も引けを取っていない。

メニューインは、フルトヴェングラーの死後はクレンペラーとの共演も含め、さほどの名演を遺しているとは言い難いので、この時がベストフォームとも言えるのかもしれないが、卓越した技量を駆使しつつ、情感の豊かさや気品の高さをいささかも失うことがなく、いささかも隙間風の吹かない濃密な演奏を展開しているのが素晴らしい。

併録の「ロマンス」第1番及び第2番は、フルトヴェングラーならではの濃厚なロマンティシズムを味わうことが可能な名演だ。

本演奏におけるうねるような人間味溢れる濃厚さは、他の指揮者だと大仰に聴こえてしまう危険性もあるが、フルトヴェングラーの場合はいささかもそのような危険性に陥ることはない。

それどころか、深沈とした奥行きを感じさせるというのは、フルトヴェングラーだけに可能な圧巻の至芸と言える。

録音は、1953年のスタジオ録音であり、フルトヴェングラーの録音としては比較的恵まれているとも言えるが、今般のSACD化によって見違えるような素晴らしい音質に生まれ変わった。

メニューインのヴァイオリンの弓使いまで聴こえるのは殆ど信じ難いほどであり、このような歴史的な名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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本盤は、フルトヴェングラーの管弦楽曲のいわゆる小品を集めたCDであるが、これまでのリマスタリングCDとは次元の異なる素晴らしい高音質SACDと高く評価したい。

フルトヴェングラーは、いかなる規模の小さい小品であっても、他の規模の大きい交響曲やオペラなどに接するのと同様のアプローチを行っている。

その意味では、クレンペラーと同様であるが、クレンペラーのように聴き手がどう考えようが、わが道を行くということはなく、聴き手に楽曲の魅力を伝えるという演出巧者ぶりは多分に感じられる。

それは、後年のカラヤンと同様なのであるが、カラヤンのように、小品に特化した聴かせどころのツボを心得た演奏を行っているというわけではない(カラヤンの演奏には、フルトヴェングラーの演奏とは違った、圧倒的な音のドラマの構築という魅力があり、決して劣っているわけではない)。

フルトヴェングラーの場合は、小品に特化した演奏は薬にしたくもなく、その演奏は楽曲全体が聴かせどころとも言える濃密なものであり、それ故に、小品においても、雄渾なスケールをいささかも損なうことなく、それでいて聴き手を直ちに惹きつけてやまない彫りの深い名演の数々を生み出したのだと言える。

本盤も、そうしたフルトヴェングラーだけが成し得た至芸の数々を味わうことが可能だ。

メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」序曲とベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」は1949年の録音であるが、決して不満を感じさせる音質ではなく、また他の曲はいずれも1950年代の録音であり、マスターテープの保存状態もかなり良かったものと思われる。

高弦や木管楽器のつややかな響き、完全とは言えないものの相当程度各弦楽器が分離して鮮明に聴こえるようになった弦楽合奏など、驚異的な高音質と言える。

ウェーバーの「魔弾の射手」序曲のホルンもいささかも古臭さを感じさせず、実に生々しく響くのには大変驚かされた。

いずれにしても、フルトヴェングラーの至芸を、現在望み得る最高の音質で味わうことができることの幸せを大いに噛みしめたい。

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フルトヴェングラーによる交響曲や管弦楽曲のSACD化に引き続き、今回のSACD化シリーズは協奏曲や管弦楽伴奏付きの歌曲が中心だ。

クラシック音楽業界が不況にあり、ネット配信の隆盛によりパッケージメディアの権威が大きく揺らいでいる中でのEMIによるこのような果敢な取り組みは、大いに賞賛に値する。

本盤には、エドウィン・フィッシャーと組んだベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番と、ルフェビュールと組んだモーツァルトのピアノ協奏曲第20番、そしてフルトヴェングラーによる自作自演である交響的協奏曲が収められている。

いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

このうちベートーヴェンは、まさにフルトヴェングラーの独壇場と言える。

ピアノの伴奏箇所においては、エドウィン・フィッシャーのピアノを引き立てる立場に徹しているようにも感じられるが、オーケストラ単独の箇所はフルトヴェングラー節が全開。

オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団であるが、このイギリスのオーケストラからドイツ風の重心の低い音色を引き出し、音楽の構えの大きい雄渾なスケールの演奏を行っている。

スタジオ録音ということもあり、ライヴ録音の時のような猛烈なアッチェレランドなどは影を潜めてはいるが、重厚にして力感溢れる演奏は、いかにもフルトヴェングラーの音楽ならではの奥行きの深さを誇っている。

エドウィン・フィッシャーのピアノも、フルトヴェングラーの指揮にはいささかも引けを取っておらず、生命力溢れる力強さの中にも崇高な深みを感じさせるピアニズムが見事である。

他方、モーツァルトは、必ずしもフルトヴェングラーが得意とする作曲家とは言えないが、本盤に収められたピアノ協奏曲第20番はそうした通説を覆すほどの名演だ。

これには、ピアノ協奏曲第20番という楽曲の性格に起因するところが大きいと思われる。

本演奏における冒頭は慟哭に聴こえるし、その後も思い切った強弱や適度なテンポの変化などドラマティックな表現も散見されるが、音楽がいささかも矮小化することはなく、スケールの雄大さを失っていないのは、フルトヴェングラーだけが成し得た卓越した至芸の賜物と言える。

ルフェビュールのピアノも、むしろフルトヴェングラーの指揮と歩調を合わせるように、強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで、豊かな表現力を披露しているのが素晴らしい。

録音については、既発CDはピアノの音は比較的よく聴きとることができたが、フルトヴェングラー指揮のオーケストラの音がやや判然としなかったと言わざるを得なかった。

しかしながら、今般のSACD化によって、ピアノの音色もよりクリアになるとともに、オーケストラの音が非常に鮮明になった。

このような歴史的な名演を、望み得る最高の高音質SACDで味わうことができることを大いに喜びたい。

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2014年03月21日


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これまでの既発売のフルトヴェングラーでは考えられないような超高音質SACDの登場を大いに歓迎したい。

弦楽合奏の圧倒的な重量感、高弦の艶やかな響き、金管楽器や木管楽器のブリリアントな響きなど、とても1950年代の録音とは信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった。

特に、R・シュトラウスの3曲は、もともとフルトヴェングラーの数ある録音の中でも比較的音質が良いことで知られていただけに、その効果は一層絶大で、最新録音に匹敵するような鮮度を誇っていると言っても過言ではあるまい。

おそらくは、フルトヴェングラーSACDシリーズの中でも白眉の高音質と言えるだろう。

いずれにしても、今般のフルトヴェングラーの遺産の一連のSACD化に向けてのEMIの取り組みは、フルトヴェングラーの圧倒的な名演だけにその意義は極めて大きく、まさに歴史的な偉業と高く評価したい。

「モルダウ」は、決して急ぐことがないゆったりとしたインテンポによる彫りの深い、そして雄渾な名演であるが、かかるフルトヴェングラーの卓越した至芸を鮮明な音質で堪能できるのが素晴らしい。

特に、終結部の急流の部分は、従来CDだと音が団子状態でよく聴き取れないのが難点であったが、本盤においては相当程度分離して聴こえるのが見事。

「ドン・ファン」は、冒頭の輝かしい響きの何という鮮明さ。

その後は、各管楽器、弦楽器がクリアに分離して聴こえるのは驚異的であるし、低弦による迫力ある鮮明な響き、そしてソロヴァイオリンによるシルキーな美音には抗し難い魅力がある。

ホルンの朗々たる響きも、古めかしさをいささかも感じさせない。

フルトヴェングラーによる同曲の真髄を徹底的して追求することに根差した彫りの深い濃密な表現が、今般の高音質化によって鮮明に再現された意義は極めて大きいと言うべきであり、同曲には圧倒的な音のドラマを構築したカラヤンの名演もあるが、筆者としては、一概に優劣は付け難いものの今後は本盤の方を愛聴したいと考える。

「ティル」も圧巻の高音質で、冒頭のホルンの音色が、従来CDだといささか古めかしく聴こえたが、本盤ではそのようなことはなく、音の鮮度が保たれているのは素晴らしい。

その後も、金管楽器の生々しい響き、木管楽器の艶やかな響き、打楽器の迫力は唖然とするほどで、トゥッティにおいて、各楽器が鮮明に分離して聴こえるのは凄いの一言。

フルトヴェングラーの表現は、「ドン・ファン」と同様に彫りの深い濃厚さが支配しており、今般の高音質化によって、間違いなく同曲最高の名演の地位を獲得したと言っても過言ではないのではないか。

「死と変容」は、フルトヴェングラーならではの壮絶にしてドラマティックな名演であるが、従来CDだと、特にトゥッティの箇所で、音がやや団子状態になるなど、今一つその至芸を満喫することが困難な面もあった。

しかしながら、今般の高音質化によって、フルトヴェングラーが表現する死との凄まじい闘いや生についての天国的な美しさが、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な力感溢れる高音質に生まれ変わっており、本名演の価値をより一層高いものとしたと言えるのではないか。

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classicalmusic at 23:06コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスフルトヴェングラー 

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第1集と比較すると、いずれも録音年代が古いだけに、音質においてやや分が悪いことは否めない。

しかしながら、この年代の録音にしては、素晴らしい高音質に蘇っており、演奏の質の高さも含め、至高の名SACDとして高く評価したい。

少なくとも、初期盤や、その後に何度も繰り返されたリマスタリングCDとは桁違いの高音質である。

冒頭の「さまよえるオランダ人」序曲の圧倒的な音場、音圧からして、その圧巻の迫力に大変驚かされる。

演奏内容も、フルトヴェングラーならではの振幅の激しいものであり、終結部のゲネラルパウゼなど、いささかやり過ぎのきらいがないわけではないが、音楽が矮小化することがないのは、さすがの至芸と言える。

「トリスタンとイゾルデ」は、さすがに1930年代の録音だけに、音質はいささか古いが、それでも、望みうる最大限の音質の鮮明化は施されているように思われる。

フルトヴェングラーは、後年、このオペラの全曲をスタジオ録音しているが、演奏自体は、本盤の方がはるかに上。

同曲の不健康な官能美を、いささかも感傷に陥らず、高踏的な崇高さで描いたのは見事と言うほかはない。

「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第1幕への前奏曲は、最もフルトヴェングラー向きの作品だけに、あたりを振り払うかのような峻厳たる威容は、他のどの演奏よりも素晴らしい。

そして、本盤の白眉は「パルシファル」だ。

その中でも、聖金曜日の音楽の純音楽盤は、他にもきわめて録音が少ないが、これまではフルトヴェングラー盤の音質が悪いだけに、窮余の策としてワルター盤を最上位の名演に掲げてきたが、今般の高音質化によって、かなり満足できる音質に生まれ変わっており、今後は、このフルトヴェングラー盤をより上位に置きたいと考える。

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classicalmusic at 20:54コメント(0)トラックバック(0)ワーグナーフルトヴェングラー 

2014年03月20日


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これは「第4」の極上の高音質を聴くべきCDで、それだけでも十分におつりがくるくらいの名SACDと高く評価したい。

まず「第2」であるが、この劣悪な音質はいかんともし難いのだと思う。

何よりも、フルトヴェングラーが「第2」を殆ど演奏しなかったことがその理由であり、漸く発見された本演奏にしても、マスターテープが失われているのだから、そもそもリマスタリングのやりようがないということだと考える。

アセテート盤からの復刻で、雑音などが頻繁に聴こえ、ダイナミックレンジの極端な狭さから、決して聴きやすい音質とは言えないが、既発のCDに比べると、幾分聴きやすくなったのではないか。

ただ、演奏内容は、ワルターの名演などに比較すると、第3楽章のトリオのわざとらしいテンポ設定などイマイチであり、フルトヴェングラーとしても決して満足のできる演奏とは言えないのではないかと思う。

これに対して、「第4」は音質が実に鮮明。

これまでのCDとは全く次元の異なる高音質と言える。

あたかも最新録音を聴くような趣きさえする。

「第4」には、ワルターの優美さや、ムラヴィンスキーの透徹した鋭利さを旨とする演奏が高く評価されており、筆者も、それに大いに賛成するが、こうして高音質化された本CDを聴くと、フルトヴェングラーの演奏も、それらに優るとも劣らぬ見事な名演と改めて再認識することになった。

フルトヴェングラーは、「第4」を偶数番交響曲というような範疇におさめることなく、「エロイカ」や「第5」に接するのと同様にアプローチしているのであり、そのスケールの雄大さにおいては、過去のどの演奏よりをも凌いでいると言えよう。

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classicalmusic at 22:49コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンフルトヴェングラー 

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ライナーノーツで満津岡氏が論じられておられるように、フルトヴェングラーは、ベートーヴェンの奇数番号の交響曲を得意とし、偶数番号の交響曲はワルターなどの演奏に一歩譲るとされている。

確かに、「第2」など、このシリーズの1曲しか録音が遺っていないし、「第8」も3種類だけしか遺されていない。

しかしながら、本盤の「田園」や本シリーズの「第4」を聴くと、果たして、そのような単純な考え方が成り立つのかと疑問が生じてくる。

それくらい、本盤の「田園」は、これまで発売されたCDとは次元が異なる高音質なのだ。

弦楽器の艶やかな、そしてホルンの朗々たる響きは、あたかも最新録音に近いような鮮度を誇っており、低弦の重量感溢れる迫力も出色のものだ。

これほどまでに高音質化されると、「第4」と同様であるが、演奏内容に対する評価も俄然変更を余儀なくされることになる。

フルトヴェングラーの「田園」は、これまでの従来盤で聴くと、あまりのスローテンポ(特に第1楽章)ぶりに、お化けが出てきそうだとの評価をしたこともあるが、本盤を聴くと、そのテンポが実に理にかなった適切なものであることがよくわかる。

その深沈たるコクのある味わい深さは、フルトヴェングラーだけが成し得る至純の表現と言うべきであり、終楽章の讃歌に至るまで、これ以上は求め得ないような深みのある凄い音楽が連続する。

「田園」と言えば、ワルターの新旧両盤やベーム盤が何よりも名演として念頭に浮かぶが、こうして高音質化された本盤を聴くと、特に、その内容の深さという点に鑑みれば、フルトヴェングラーの本演奏こそ、それら他の名演を凌駕する至高の領域に達していると言える。

これに対して、「第8」は、音質の改善効果がイマイチである。

もちろん、「第2」などと比較すると、まだましと言えるのかもしれないが、それでも「田園」と比較して聴いてみると、その音質の劣悪さが際立つ。

もちろん、演奏自体は、さすがと思わせる箇所も多く、記録としては貴重なものと言えよう。

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凄い高音質SACDの登場だ。

「ワルキューレの騎行」を除いて、いずれも1950年代のスタジオ録音であり、もともと音質の条件は良かったと言えるが、それでも、既発売のリマスタリングCDとは段違いの高音質であると高く評価したい。

重厚な弦楽合奏もつややかに響くし、金管楽器がいささかも古臭さを感じさせず、ブリリアントに鳴り切っているのが素晴らしい。

「ブリュンヒルデの自己犠牲」におけるフラグスタートの歌唱も鮮明の極みであるし、オーケストラの音色と明瞭に分離するとともに、ホールの空間さえ感じさせる点など、これまでのフルトヴェングラーのCDでは考えられなかったことだ。

これほどの高音質になると、これまでかなりの偏見で捉えられてきたフルトヴェングラーのワーグナーについても、全面的にその評価を改める必要が出てくるのではないか。

その偏見とは、影響力の大きいとある高名な音楽評論家による、「ワーグナーはクナッパーツブッシュによるインテンポによる演奏が名演で、これに対して、フルトヴェングラーの演奏は、テンポの激変が音楽を著しく矮小化しており、クナッパーツブッシュの名演には一歩も二歩も譲る」との評価であるが、筆者としては、そうした見解は、多分にこれまでのCDの劣悪な音質によるのではないかと考えている。

本盤のような高音質CDになると、フルトヴェングラーの演奏に彫りの深い内容の濃さが出て、スケールの大きさにおいても、クナッパーツブッシュの名演に必ずしも劣るとは言えないと考えるからだ。

確かに、テンポの揺れは感じるが、決して音楽を矮小化することには繋がっておらず、むしろ、オペラ指揮者としての演出巧者ぶりが遺憾なく発揮されていると言うべきである。

特に、「ブリュンヒルデの自己犠牲」のラスト、愛による救済のテーマが流れる箇所の雄渾なスケールは、フルトヴェングラーだけが成し得る至高・至純の高みに達している。

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2014年03月19日


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フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの交響曲第5番の演奏については数多くの録音が遺されており、いずれも名演であるが、その中でも最も評価が高いのは本盤に収められた、戦後復帰コンサートの3日目である1947年5月27日のライヴ録音と、既に昨年1月にEMIよりSACD化されて話題を呼んだ1954年のスタジオ録音であるということは論を待たないところだ。

両演奏はあらゆる意味で対照的な性格を有しているが、フルトヴェングラーの指揮芸術の懐の深さをあらわすものとして、クラシック音楽ファンの間でも長年に渡って愛好されてきた名演である。

1954年盤は、前述のようにSACD化によって見違えるような鮮度の高い音質に生まれ変わっており、音質におけるハンディはほぼ解消されたと言ってもいいだろう。

これに対して1947年盤については、かねてから演奏は最高であるが音質が劣悪との刻印が押されているものであり、かかる音質の劣悪さは数年前にSHM−CD盤が発売されても殆ど変わることがなかった。

さらに一昨年、アウディーテより、本演奏の2日前の戦後復帰コンサート初日のライヴ録音がにわかには信じ難い鮮明な音質で発売されたことから、ますます当該1947年盤の立場が危うくなってきていたところであった。

そのような中での今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の登場は、まさに起死回生とも言うべき壮挙と言えるだろう。

もちろん、最新録音のような鮮明な音質になったわけではないが、少なくともこれまでの数々のリマスタリング盤やSHM−CD盤とは次元の異なる高音質に生まれ変わっており、この歴史的な超名演をかなり満足できる音質で堪能できるようになった意義は極めて大きいと言わざるを得ない。

演奏は、フルトヴェングラーの実演がいかに凄まじいものであったのかがわかるような壮絶な超名演だ。

楽曲の本質を鋭く抉り出していくような彫りの深い表現が全体を支配しており、第2楽章の濃厚な味付けはむせ返るようなロマンティシズムに満ち溢れている。

終楽章のエンディングに向けて徐々にテンポを加速し、頂点に向けて畳み掛けていくような凄みのあるアッチェレランドを駆使しているが、それでいて全体の堅固な造型がいささかも弛緩することがないのは、フルトヴェングラーだけに可能な圧巻の至芸と言えるだろう。

併録の「エグモント」序曲や大フーガも、濃厚なロマンティシズムとドラマティックな迫力に満ち溢れた素晴らしい超名演だ。

フルトヴェングラーは、仮に小品であっても、交響曲に接するのと同じように、楽曲の内容の精神的な深みを徹底的に追求する姿勢で演奏に臨んだが、これら両曲の演奏においても同様であり、その演奏の彫りの深さにおいては、他の指揮者が束になっても到底かなわない。

いずれにしても、このようなフルトヴェングラーによる歴史的な遺産とも言うべき至高の超名演を、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤という、現在望み得る最高品質のパッケージメディアで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 23:39コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンフルトヴェングラー 

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これは凄まじいまでに凝縮化された演奏だ。

セルは、トスカニーニを尊敬していたとのことであるが、かのトスカニーニの演奏を評してフルトヴェングラーが言ったとされる有名な言葉、「無慈悲なまでの透明さ」を見事に具現化した演奏と言えるのではないだろうか。

このような引き締まった筋肉質の演奏は、外見だけに限って言うと、かのムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる名演(1968年)にも比肩し得ると言えるだろう。

巷間「セルの楽器」とも称されたクリーヴランド管弦楽団の一糸乱れぬ精緻なアンサンブルが、かかる演奏の性格を更に助長することに貢献しており、ある意味ではこれほどまでに辛口で微笑まない「エロイカ」は、他にもあまり類例がないのではないかとさえ感じられるほどだ。

本演奏を従来CDで聴くと、1957年のスタジオ録音ということもあって、かなりデッドで色気がない音質であることから、血も涙もない無慈悲な演奏にも聴こえるところであった。

加えて、当時のクリーヴランド管弦楽団の鉄壁の演奏に、ある種の人工的な技巧臭も感じずにはいられなかった。

ところが、数年前に発売されBlu-spec-CD盤で聴くと、DSDリマスタリングがなされたこともあって、人工的な技巧臭などはいささかも感じさせず、演奏全体の凝縮化された堅固な造型には変わりがないものの、各フレーズには豊かな情感が込められているのを聴くことが可能であり、必ずしも無慈悲で血も涙もない演奏には陥っていないことがよく理解できるところである。

セルの芸術の真価を味わうためには、本演奏に限らず、高音質CDで味わうことが必要と言えるのかもしれない。

いずれにしても、こうしたBlu-spec-CD盤で聴く限りにおいては、本演奏は、セル&クリーヴランド管弦楽団という稀代の黄金コンビの全盛期の演奏の凄さを味わうことが可能であるとともに、引き締まった造型美と凝縮化された内容の密度の濃さを感じさせる圧倒的な名演であると高く評価したい。

併録の「エグモント」序曲 、序曲「コリオラン」、「シュテファン王」序曲の3曲についても、「エロイカ」と同様のアプローチによる引き締まった造型美と内容の充実度を感じさせる圧倒的な名演に仕上がっている。

音質は、前述のようにDSDリマスタリングを施した後に、Blu-spec-CD化が図られたことによって、劣悪な音質の従来CDに比して各段に鮮明な高音質に生まれ変わった。

このBlu-spec-CD盤は当サイトで、現在でも入手可能である。

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classicalmusic at 21:04コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンセル 

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フルトヴェングラーが最も得意としたレパートリーは、何と言ってもベートーヴェンの交響曲であったが、次いで得意としていたのはワーグナーとこのブラームスの交響曲であったのではないだろうか。

その中でも、ベートーヴェンの交響曲第10番との異名を持つ交響曲第1番を十八番としていたのは、十分に理解できるところだ。

それだけに数多くの録音を遺しており、10種類もの録音が確認されているところである。

筆者としても、その殆どをこれまで聴いてきたところであり、いずれ劣らぬ名演であるが、問題はその大半の音質が今一つであり、フルトヴェングラーの芸術の本領を味わうには心もとない状況にあった。

その中でも、本盤の演奏は、フルトヴェングラーは北ドイツ放送交響楽団に客演した唯一の演奏であるが、10種類ものフルトヴェングラーの同曲演奏の中では音質においても恵まれていることもあって、代表盤の地位を占めていたところである。

しかしながら、昨年よりEMIやユニバーサルがフルトヴェングラーの過去の名演のSACD化を行い、ブラームスの交響曲第1番については、ウィーン・フィルとのライヴ録音(1952年1月)、ベルリン・フィルとのライヴ録音(1952年2月)のSACD化が行われた。

もっとも、必ずしも最新録音というわけにはいかないが、少なくとも従来CD盤との違いは明らかであり、これによって、フルトヴェングラーによる同曲演奏の魅力を比較的満足できる音質で味わうことができることになり、この2つのSACD盤がフルトヴェングラーによる同曲演奏の代表盤の地位を占めることになったと言っても過言ではあるまい。

したがって、本盤の演奏の影がかなり薄くなったところであったが、今般、ついにターラレーベルが本演奏をSACD化することになった。

演奏自体も極めて優れたものであっただけに、今般のSACD化によって、かつての代表盤としての地位を取り戻すことになった意義は極めて大きいと言わざるを得ない。

それにしても、本演奏は素晴らしい超名演だ。

冒頭から重厚にして濃厚なフルトヴェングラー節が全開。

終楽章の圧倒的なクライマックスに向けて夢中になって畳み掛けていく力強さは圧倒的な迫力を誇っている。

また、どこをとっても豊かな情感に満ち溢れており、その深沈とした奥行きや彫りの深さは、まさに神々しいばかりの崇高さを湛えている。

いずれにしても本盤の演奏は、フルトヴェングラーによる同曲最高の超名演と高く評価したい。

併録のハイドンの主題による変奏曲も、効果的なテンポの振幅や、彫りの深い表現を駆使したフルトヴェングラーならではの圧倒的な超名演と評価したい。

音質は、前述のように、今般のSACD化によって見違えるような良好な音質になった。

もちろん最新録音のようにはいかないが、弦楽器の艶やかな音色には抗し難い魅力に満ち溢れており、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 00:54コメント(0)トラックバック(0)ブラームスフルトヴェングラー 

2014年03月18日


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本盤には、シベリウスを十八番としたバルビローリによる管弦楽の小品が収められているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

バルビローリのシベリウスは、そのヒューマニティ溢れる温かさが魅力である。

それは交響曲において特に顕著ではあったが、管弦楽小品においても同様であり、どの演奏においてもバルビローリならではの人間的な温もりが感じられると言っても過言ではあるまい。

もっとも、だからと言って穏健な演奏に終始しているわけではないことに留意しておく必要がある。

例えば、冒頭に収められた交響詩「フィンランディア」は、冒頭から途轍もないエネルギッシュな力感溢れる演奏で開始される。

終結部のトゥッティに向けて畳み掛けていくような力奏も圧倒的な迫力を誇っており、バルビローリのこの演奏にかける灼熱のように燃え上がるような熱き情熱が感じられるのが素晴らしい。

中間部の讃美歌はいかにもバルビローリならではの温もりのある情感に満ち溢れており、本演奏はいい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると高く評価したい。

組曲「カレリア」は、シベリウスの初期の作品ということもあって、どちらかと言うと颯爽とした趣きの演奏が多いが、本演奏はまさに「歌う英国紳士」の面目躍如たる情感の豊かさが全体を支配している。

それでいて、いささかも感傷的に流れるということはなく、どこをとっても高踏的な美しさを湛えているのが素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、演奏の内容の密度の濃さから、同曲演奏史上でもトップの座を争う名演と高く評価したい。

他の諸曲も素晴らしい名演であり、例えば、「悲しきワルツ」の楽曲の心眼に踏み込んでいくような深遠な演奏や、交響詩「ポホヨラの娘」や「レミンカイネンの帰郷」の荒々しささえ感じさせる気迫溢れる力強い演奏も凄い。

とりわけ、「レミンカイネンの帰郷」を聴いて、バルビローリの指揮で交響詩≪4つの伝説曲≫全体を通して聴きたいと思った聴き手は筆者だけではあるまい。

ハレ管弦楽団も部分的には、ブラスセクションの荒っぽさや弦楽合奏のアンサンブルなどにおいて若干の問題がないわけではないが、これだけの名演奏を繰り広げたことを考えれば文句は言えまい。

録音は、リマスタリングを繰り返してきたこともあってとりあえずは満足し得る音質であるが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1960年代のスタジオ録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった。

バルビローリによる演奏の最大の美質でもある弦楽合奏の美しさが艶やかに表現されているのは殆ど驚異的ですらあると言えるだろう。

もっとも、ハレ管弦楽団のブラスセクションのいささかきめの細かさを欠いた荒っぽい演奏ぶりが高音質化によってさらに露わになったのは玉に傷とも言えるが、いずれにしても、バルビローリによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 23:07コメント(0)トラックバック(0)シベリウスバルビローリ 

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チャイコフスキーの後期3大交響曲のCDは、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの伝説的な名盤を筆頭に、カラヤン、バーンスタイン、スヴェトラーノフ、バレンボイム、小林研一郎、プレトニョフ、ゲルギエフなど、本当に数多くの録音が出ているが、このパッパーノのCDはそれらの中でも輝きを放つ名演となっている。

まず、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の音色に華がある。

和音の揃いや重厚な歩みよりは、イタリアのオーケストラらしく、それぞれのパート、それぞれの奏者が美しい音を出すことを何よりも優先している感じだ。

そしてパッパーノの指揮は、ただそれらを好き放題にやらせるのではなく、引っ張ったり弛めたりしながら、歌に溢れた、瑞々しいサウンドを構築していく。

この歌心と瑞々しさ、若さ、新鮮さ、活気は、重厚なドイツのオーケストラとも、彩りと迫力があるフランスのオーケストラとも、機能的なアメリカのオーケストラとも違う個性だ。

第4番はこういうアプローチが一番合っているかもしれない。

バレンボイム盤も良かったが、繊細さではこちらの方が優っている。

第1楽章は煌びやかで音色が美しく飽きないし、第3楽章も愛らしく、フィナーレの華々しさは「これぞオペラの国イタリアのオーケストラ」という華やかさだ。

第5番もまた素晴らしい演奏だ。

第2楽章の流麗な美しさは言語に絶するほどで、アリアのように大事に歌われている感じだ。

フィナーレの躍動感も相当なものだが、よくある「爆演」のような破綻がなく、音楽として整っている。

「悲愴」の第3楽章は、息の合った合唱を思わせる高揚感であり、第4楽章の慟哭を表現する弦のサウンドにはあまりにも艶かしくてゾッとするほどだ。

ヴィヴィッドでダイナミックな演奏だが、甘ったるくはならず、3曲ともとてもクオリティが高いので、後期3大交響曲集としては大変に優れている。

録音もEMIにしてはかなり良く、残響をそれなりに取り入れながらも各楽器の質感がそこそこ保たれているし、見通しもまずまず良好で、曇った感じもほとんどしないので聴きやすい。

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classicalmusic at 20:55コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキー 

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ジノ・フランチェスカッティは1950〜60年代の前半に活躍し、当代きっての美音の持ち主と讃えられた名ヴァイオリニストである。

メン&チャイと日本人好みの略称で呼ばれるようになった、この組み合わせは、フランチェスカッティの出した同じ組み合わせのモノラル盤に由来する。

このステレオになって再録音された演奏は、今でも必聴盤と言える。

巨匠フランチェスカッティといっても、最近ではほとんど話題にのぼらないヴァイオリニストだ。

しかし、一聴して分かるように、たちまちその豊かな表情をもった音色に魅惑される。

ハイフェッツのような切れ味爽やかというのではなく、その逆で、包み込んでくれる響きであり、エロティックとでもいうのだろうか、色気のある音色だ。

日本では、あまり高い評価を受けることなく半ば忘れられれたヴァイオリニストであるかもしれないが、こんな美音が出せる人が他にいるだろうか。

かつて美音家といえばグリュミオーであったが、まったくタイプの違う唯一無比の豊麗な音色である。

チャイコフスキーの協奏曲では、目立った表情づけをしていないが、それでもチャイコフスキー節が朗々と歌われている。

その演奏は知的で気品にあふれたもので、チャイコフスキーがこんなにも澄み切った音楽だとは…。

感傷的でオーバーな表現とは次元の異なる美しさが奏でられている。

より注目はメンデルスゾーンの方で、冒頭のあの切々たるメロディーが、実に美しく奏でられている。

厳しすぎず、優しすぎず、情熱もありの癒しもありの、バランスが見事なヴァイオリンにセルの伴奏が相俟って、高潔な美しさに満ち溢れた最高の名演と高く評価したい。

音質は、年代以上に良いが、もちろん最新録音と同じようにはいかず、濁りもややあるが、オケもヴァイオリンもクリアに録られている。

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classicalmusic at 00:42コメント(0)トラックバック(0)メンデルスゾーンチャイコフスキー 

2014年03月17日


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まず、SACDシングルレイヤーとSHM−CDを組み合わせた本盤の超極上の高音質を高く評価したい。

本演奏は、もともと英デッカによる高音質録音であり、従来CDでもかなりの高音質を誇っていたが、その後、SACDハイブリッド盤、SHM−CD盤など、様々な高音質化への取り組みがなされてきた。

しかしながら、本盤は、これまでのCDとは一線を画する究極の高音質である。

演奏内容であるが、素晴らしい名演だ。

バーンスタインは、マーラー指揮者としては、歴史にも名が残る大巨匠と言えるが、他の作曲家の作品については、アメリカの作曲家など、一部を除いて疑問符をつけざるを得ないと考えている。

特に、ドイツ音楽は、雄弁ではあるが、底の浅さが目立つ浅薄な演奏が多く、名演とは言い難いものが多い。

ベートーヴェンやブラームスの交響曲全集など、ウィーン・フィルの力もあって、一定の水準には達しているとは思うが、大仰さだけが際立った演奏であり、せいぜい佳演という評価が精一杯。

シューマンは、作曲当時の病的な精神状態がマーラーのそれと似通った側面があるせいか、名演との評価は可能だと思うが、濃厚な表情づけのモーツァルトのレクイエムなど、凡庸な演奏には事欠かない。

しかしながら、そのような中でも、本盤は例外中の例外といった趣きの名演なのだ。

それには1966年という録音年代を考慮に入れる必要があるだろう。

バーンスタインも、ウィーン・フィルにデビューしたばかりであり、「リンツ」などウィーン・フィル任せでほとんど指揮しなかったであろうし、ピアノ協奏曲第15番におけるピアノも、ウィーン・フィルの演奏に合わせた印象を受ける。

こうした自我を抑えた謙虚な姿勢が、皮肉にも、このような素晴らしい名演を生み出したと言える。

当時のウィーン・フィルは、カラヤンを失い、カラヤンに対抗し得るスター指揮者の発掘にやっきとなっていたが、そうした力強い意気込みが、ウィーン・フィルをして、このような名演奏を成し遂げさせたのだとも言えよう。

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classicalmusic at 23:13コメント(0)トラックバック(0)モーツァルトバーンスタイン 

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チェコの民主化後、今は亡きチェコの名指揮者ズデニェク・コシュラーのもとに編成されたチェコ・ナショナル交響楽団と巨匠との『わが祖国』で、死の1年前のコシュラーの遺言ともいうべき録音である。

数ある『わが祖国』の中でもユニークな位置にあるのが、このコシュラー&チェコ・ナショナル響盤である。

とはいえ、チェコの楽団によるスメタナの『わが祖国』の録音には、圧倒的にチェコ・フィルの演奏が多い。

ターリッヒとノイマンのそれぞれ新旧2種類をはじめ、アンチェル、スメターチェク、ビエロフラーヴェク、そしてクーベリック、小林研一郎、ペシェク、マッケラスと、現役のCDだけでも11種類ある。

しかし、これらに優るとも劣らないのが、この演奏であると思う。

チェコ・ナショナル響は、コシュラーとの関係を深めてから、彼が指揮する時にはいつも素晴らしい演奏を聴かせた。

ただ、その録音が非常に少ないのだが、幸いなことに、この『わが祖国』の演奏で、そのことを充分に理解することができる。

スケールが大きく、しかも雰囲気豊かで、指揮者、オーケストラ双方の意気込みが隅々にまで感じられる。

しかし、コシュラーは決して感情に押し流されることなく、自然な流れの中で生き生きと音楽を再現している。

しかもコシュラーはなるべくスメタナの原典に近い演奏をすることを意図しているのも特色である。

解説にもあるように、有名な「モルダウ」における叙情たっぷりのメロディーと、眠いクラシックと一線を画す歯切れの良いリズミカルな奏法の両立が素晴らしい。

他に色々なディスクを聴いてみて、その両立が出来る理由を納得した。

チェコ・ナショナル響はまだ若い楽団であるが、かつての音楽での存在を再びという願いを元に、既存のチェコの楽団からメンバーを募ったという事で、技術でも精神性においても第一級なのであろう。

実に統制のとれた演奏を聴かせてくれ、オケの性質上幾分無骨な肌ざわりの荒さがあるが、ムードに酔いしれない、骨太で意志的な演奏はこのコシュラー&チェコ・ナショナル響盤の魅力であり、身上である。

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classicalmusic at 20:57コメント(0)トラックバック(0)スメタナ 

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モントゥーは1950年代後半に、ボストン交響楽団とのコンビでチャイコフスキーの後期3大交響曲の録音を行なっており、それらはいずれもこの名指揮者の品格ある音楽性を存分に味わえる出来ばえだが、なかでも第5番の出来が素晴らしかった。

当盤はそのスタジオ録音と同日に行われたライヴ録音(1958年)であるが、モントゥーの数多い名盤中でも最右翼に位置するもののひとつだし、第5交響曲のディスクの中でも屈指のものと言えるだろう。

ここにはどんなドラマも及ばないほどの、人間の真実の恐れと苦悩がある。

ムラヴィンスキーのような純音楽的な再現ではないが、モントゥーはチャイコフスキーをほとんどベートーヴェンの域にまで引き上げたのである。

両端楽章はぶっきら棒と言って良いほど飾り気のない表現だが、ボストン交響楽団の充実した硬質な響きがモントゥーの芯の強い明快な音楽と合致し、少しの曖昧さもない名演を生み出した。

モントゥーはこのシンフォニーをロマンティックで幻想的なものとせず、現実的なそれとして指揮しているのだ。

中間の2つの楽章も個性的で、別にことさら大仰な身ぶり、手ぶりをしているわけではないのだが、至極当たり前の語り口がいつしか驚くほど底力のある表現力を身につけるまでに発展していく様が、何とも素晴らしい。

エレガントであらゆる音が生きて語りかけるワルツ楽章も良いが、それ以上にユニークなのは第2楽章である。

こんなに言いたいことがはっきりした、雄弁に物語る表現も珍しい。

全楽章にわたって、木管の音を抑えず、くっきりと奏し、金管のうめきをかえって明るい音色で強奏させ、音楽を確実に意味づける点も素晴らしい。

所謂チャイコフスキー的なアプローチとは違うが、音楽が完全にモントゥーのものと化し、芸術的に真実な自己表現として鳴り響いた名演と絶賛したい。

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classicalmusic at 00:59コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーモントゥー 

2014年03月16日


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モントゥーによるチャイコフスキーの3大交響曲の演奏は、ほぼ同時期に録音されたムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの歴史的な超名演(1960年)と比較すると、知る人ぞ知る存在に甘んじていると言わざるを得ない。

このうち、交響曲第4番については、ムラヴィンスキーの演奏があまりにも凄い超絶的な名演であるために、他の演奏は不利な立場に置かれていると言わざるを得ないが、筆者としては、ムラヴィンスキーの名演は別格として、それに次ぐ名演としては、カラヤン&ベルリン・フィルによる演奏(1971年)と本演奏を掲げたいと考えている。

このうち、カラヤンの演奏は、ベルリン・フィルの卓越した技量を駆使したオーケストラ演奏の極致と言うべきもので、これにライヴ録音を思わせるようなドラマティックな要素が付加された圧倒的な音のドラマであった。

これに対して、モントゥーによる本演奏は、同曲にこめられた、運命に翻弄される作曲者の苦悩や絶望感、そして生への憧憬などを徹底的に追求するとともに、それを音化することに成功した彫りの深い演奏に仕上がっている。

極論すれば、カラヤンの演奏が音のドラマであるのに対して、本演奏は人間のドラマといった趣きがあるとも言えるところである。

全体としては、ムラヴィンスキーの演奏と同様に、速めのテンポ(ムラヴィンスキーより快速の39分で全体を駆け抜けている)による引き締まった造型が印象的であるが、かかる堅固な造型の中において、モントゥーは、細部に至るまで彫琢の限りを尽くしたドラマティックな演奏を展開している。

トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強い生命力は、圧倒的な迫力を誇っており、とてもスタジオ録音とは思えないような壮絶の極みとも言える劇的な演奏を展開している。

第2楽章のロシア風のメランコリックな抒情の歌い方にも、格調の高さが支配しており、高踏的な美しさを誇っているのは、モントゥーだけに可能な圧巻の至芸であると言えるだろう。

モントゥーの確かな統率の下、圧倒的な名演奏を繰り広げているボストン交響楽団にも、大きな拍手を送りたい。

また、サンフランシスコ交響楽団とのR.シュトラウスの『死と変容』に関しても、フルトヴェングラーに匹敵する指揮ぶりを刻印し、リアルな凄絶さと、とろけるような幻想美を併せ持った見事な演奏だ。

録音は、従来盤が50年以上前のものということもあってややデッドで音場が広がらないという問題があったが、数年前に発売されたSHM−CD盤によって、良好な音質に改善され、マスター・クォリティに限りなく近づいた。

いずれにしても、モントゥーによる至高の超名演をSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 23:02コメント(0)トラックバック(0)モントゥーチャイコフスキー 

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本盤には、テンシュテットがEMIに遺した録音のうち、ロンドン・フィルとの一連のマーラーの交響曲の演奏や、チョン・キョンファやケネディなどとの各種協奏曲の演奏を除いたほぼすべての演奏が収められている。

本全集の中には、シューマンの交響曲第3番及び第4番、4本のホルンのためのコンチェルトシュトゥック、メンデルスゾーンの交響曲第4番、そしてドヴォルザークの第9番など、最近では入手困難な音源も含まれており、仮にその他の楽曲のCDを何枚か所有していたとしても、価格が極めて廉価であることに鑑みれば、購入する価値が十分にある充実したラインナップである。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの一連の交響曲の豪演が思い浮かぶが、本BOXを聴くと、それ以外の楽曲でも数多くの名演を遺した大指揮者であったことがあらためてよく理解できるところだ。

テンシュテットは、1985年に咽頭がんを患い、その復帰後はがんの進行との壮絶な闘いであった。

健康がいい時だけに指揮を許されるという絶望的な状況に追い込まれたが、それでもテンシュテットは一つ一つのコンサートをそれこそ命がけで行っていったのである。

したがって、1986年以降の録音は、それこそ死と隣り合わせの狂気のオーラさえ感じさせる渾身の豪演揃いであるが、それ以前の録音においても、テンシュテットはオーケストラを徹底的に追い立て、それこそドラマティックの極みとも言うべき劇的な名演奏を繰り広げていた。

本BOXはその壮絶な記録であり、どの演奏もテンシュテットならではの途轍もない凄みのある超名演である。

先ずは、何と言っても十八番のマーラーの交響曲第1番(CD7)が素晴らしい。

シカゴ交響楽団を指揮したためか、別売のロンドン・フィルとの一連のマーラーの交響曲集に含まれず、本BOXの方に収録されているが、これは壮絶の極みとも言うべき爆演だ。

1990年というテンシュテットとしても健康状態が最悪の時期であったが、本演奏のような渾身の命がけの演奏は、我々の肺腑を打つのに十分な圧倒的な迫力を誇っている。

とりわけ終楽章などは、ほとんど狂っているとしか言いようがないような爆発的な昂揚感を垣間見せるが、これぞマーラーの交響曲を鑑賞する醍醐味があると言えるだろう。

同曲にはワルター&コロンビア響盤(1961年)やバーンスタイン&COA盤(1987年)という超名演があるが、本演奏はそれらに比肩し得る至高の超名演と高く評価したい。

次いで、ワーグナーの管弦楽曲集を集めた2枚(CD10、11)を掲げたい。

録音は1980年〜1983年という、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代の末期からザビーネ・マイヤー事件が勃発して両者の関係に大きな亀裂が生じ始めた頃の録音である。

本演奏では、最晩年の病魔と闘うという鬼気迫るような凄まじい気迫はいまだ感じられないが、それでも、オーケストラを全力で追い立てて行く生命力溢れる爆演ぶりは、テンシュテットだけに可能な至芸と言えるだろう。

テンシュテットは必ずしもインテンポに固執せず、楽劇「ニーベルング」の指環からの抜粋(CD10)においてはテンポを相当に動かしているが、それでいて音楽が矮小化せずスケールの雄大さをいささかも失っていないのは、テンシュテットならではの圧巻の至芸である。

これらの演奏の録音当時はカラヤン自身の健康悪化もあり、ポストカラヤンが大きくクローズアップされていた。

そのような中で、いまだ病魔の影さえ感じられなかった当時のテンシュテットは、カラヤン自身の高い評価もあって後継者の第一人者との評価も得ていたのである。

ベルリン・フィルも、関係が悪化しつつあるカラヤンへの対抗意識も多分にあったと思うが、ポストカラヤンと目される指揮者とは圧倒的な名演を繰り広げていた時期に相当し、本演奏においても、テンシュテットの圧倒的な統率の下、うなりあげるような低弦の重量感溢れる迫力やティンパニの雷鳴の如き轟き、天国的な美しさを誇る高弦の囁き、悪魔的な金管の最強奏など、カラヤンによる同曲の演奏とは一味もふた味も違う圧巻の名演奏を繰り広げているのが素晴らしい。

他の楽曲もいずれも超名演であるが、とりわけシューマンの4本のホルンのためのコンチェルトシュトゥック(CD14)に注目したい。

同曲はカラヤンが一度も演奏・録音しなかった楽曲であるだけに、何よりも全盛期のベルリン・フィルのホルンセクションの圧倒的な実力を知る上では格好の演奏と言えるのではないだろうか。

ゲルト・ザイフェルトとノルベルト・ハウプトマンという両首席に、下吹きの名人と言われたマンフレート・クリアなど、当時ベストフォームにあったベルリン・フィルのホルンセクションによる卓越した技量と極上の美しい響きを味わえるのが素晴らしい。

いずれにしても、本BOXは、同時発売のマーラーの交響曲集と並んで、テンシュテットの桁外れの実力を広く知らしめる意味において、極めて意義が大きいものである。

価格も破格の廉価であり、クラシック音楽の初心者にも、そして本演奏をいまだ聴いていない熟達した愛好者にも自信を持ってお薦めできる名BOXと高く評価したい。

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20世紀の大ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインの正規録音のすべて(RCA、EMI、デッカ)収めているうえに、オーソライズされたライヴ録音も含む、全144枚のまさに大全集。

ルービンシュタインが1976年にコンサート活動からの引退を表明するまで、実に半世紀近くに及ぶ活躍のなかで残された録音の集大成が、この大全集である。

SP時代からのすべての録音(29〜76年)を収め、初CD化の演奏もあり、当時としては珍しい曲目を含む幅広いレパートリーが披露されている。

独奏曲の他、協奏曲や、往年の名手たちと組んだ室内楽曲も含む。

「ルービンシュタインのピアノを聴く」ということを「ショパンを聴く」という意味にとらえる人は多い。

ショパンが作品に込めた甘美さや悲痛さをあれほどにまで完璧に歌いきれるピアニストは、これからも彼以外にはなかなか見つからないだろう。

しかし、彼はショパンのスペシャリストだったわけではなく、レパートリーはバッハに始まり、ドイツ・オーストリアの古典からロマン派、フランス近代、ロシア音楽やスペイン音楽にまで及んでいる。

演奏家生命の長かったルービンシュタインは、晩年まで堂々たる風格を備えた芸風を保った。

この大全集にも70歳代以降の晩年の演奏があるが、若々しささえ漂うのは奇跡的である。

その演奏のスケールの大きさと共に、音楽の彫りの深さ、コクのある表情などは、世紀の巨匠ならではの風格を実感させる。

ルービンシュタインは、もはや今日のピアニストにはできない、絶妙な味を聴かせる。

それは“エスプリの味”とでもいえるもので、どの演奏でもいかなる図式的な解釈をしていないのに、まさに当意即妙なのである。

ルービンシュタインの感性がロマンティックな土壌の上で開花し、音と音が絶妙に反応しあった、華のある演奏である。

内容詳細については、「最も参考になったカスタマーレビュー」に載っているので、そちらをご参考にして頂きたい。

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2014年03月15日


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インバルは、今や押しも押されぬ世界最高のマーラー指揮者であると言える偉大な存在であるが、現在におけるそうした地位を築くにあたっての土台となったのは、何と言っても1980年代に、当時の手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)である。

当該全集は、CD時代が到来し、マーラーブームとなっていた当時にあって、最も規範的な全集として識者の間でも極めて高いものであったところだ。

当該全集において、インバルは交響曲第10番を収録していたが、それは全曲ではなく、アダージョのみの録音であった。

インバルは、当該全集におけるスコアを精緻に、そして丁寧に描き出していくという普遍的とも言えるアプローチからしても、第10番については、マーラーが実際に作曲したアダージョにしか関心を示さないのではないかとも考えられたところであるが、当該全集の完成後4年ほどしてから、ついに、第10番の全曲版をスタジオ録音することになった(本盤)。

第10番については、既に様々な版が存在しているが、本演奏では、最も一般的なクック版(ただし第2稿であるが)が採用されている。

その意味では、インバル自身にも、版については特段の拘りがないと言えるのかもしれない。

インバルは、近年では東京都交響楽団やチェコ・フィルなどとともに、マーラーの交響曲の再録音を行っているところであるが、今後、第10番の再録音を行う際には、どのような版を使用するのか大変興味深いところだ。

本演奏のアプローチは、全集と同様に、スコアを忠実に音化していくという、近年のマーラーの交響曲演奏にも繋がっていくものであり、バーンスタインやテンシュテットなどが個性的な名演の数々を成し遂げている時代にあっては、希少な存在であったとも言える。

昨今のインバルのマーラーの交響曲演奏に際してのアプローチは、この当時と比較すると、思い切ったテンポの振幅を施すなど、全体の造型を蔑ろにしない範囲において、より劇的な解釈を施すようになってきているだけに、本演奏における精緻にして正統的とも言えるアプローチは、極めて貴重なものとも言えるだろう。

もちろん、楽譜に忠実と言っても、無味乾燥な演奏には決して陥っていないのがインバルの素晴らしいところであり、どこをとっても、秘められたパッションの燃焼度には尋常ならざるものがある。

まさに、血が通った演奏であり、これは、インバルのマーラーの交響曲に対する深い理解と愛着の賜物に他ならない。

いずれにしても、本演奏は、いまや稀代のマーラー指揮者として君臨するインバルの芸術の出発点とも言うべき素晴らしい名演と高く評価したい。

なお、前述のように本演奏はクック版第2稿によっているが、今後、インバルがチェコ・フィルまたは東京都響と同曲を録音する際には、クック版第3稿またはその他の稿による演奏を期待したい。

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チェコの名指揮者であったノイマンの得意のレパートリーは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコの作曲家による楽曲や、ボヘミア地方で生まれたマーラー(チェコ出身の指揮者はそれを誇りとしており、クーベリックや近年のマーツァルなど、チェコ出身の指揮者には、マーラーをレパートリーとした者が多い)の交響曲であったが、それ以外の楽曲、とりわけベートーヴェンの楽曲についてはなかなかの名演奏を遺しているところだ。

本盤に収められたベートーヴェンの序曲集は、そうしたノイマンの得意としたレパートリーの一つと言えるだろう。

こうして、エクストンが、最晩年のノイマンとの録音を行ってくれたことは大変に素晴らしいことであったとも言える。

ノイマンによる各序曲集の演奏は、聴き手を驚かすような奇を衒った解釈を施しているわけではない。

楽想を精緻に、そして丁寧に描き出して行くというオーソドックスなアプローチに徹しているところであり、それはあたかもノイマンの温厚篤実な人柄をあらわしているかのようであるとも言える。

もちろん、ノイマンの演奏が穏健一辺倒のものではないという点についても指摘しておかなければならないところであり、ベートーヴェンの楽曲に特有の強靭にして力強い迫力においてもいささかも不足はない。

それでいて、無機的で力づくの強引な演奏など薬にしたくもなく、常に奥行きのある音が鳴っており、ベートーヴェンの楽曲を単なる威圧の対象として演奏するという愚には陥っていない。

豊かな抒情に満ち溢れた情感豊かな表現も随所に聴かれるところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた演奏に仕上がっているとも言えるところだ。

聴き手によっては、ベートーヴェンの序曲集だけに、よりドラマティックな表現を期待する人も多いとは思うが、聴けば聴くほどに味わい深さが滲み出てくる、いわばいぶし銀の魅力を有する本演奏は、ノイマンとしても最晩年になって漸く成し得た大人の指揮芸術の粋であり、筆者としては、ノイマンによる遺言とも言うべき至高の名演と高く評価したい。

当時、トランペットのケイマルやホルンのティルシャルなど、一流のブラスセクションを擁していたチェコ・フィルの演奏も秀逸であり、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

そして何と言っても音質も素晴らしい。

このエクストンのゴールドラインシリーズは、音質の鮮明さ、音圧の凄さ、音場の幅広さなど、いずれをとっても一級品の仕上がりである。

いずれにしても、ノイマンの最晩年の至高の名演をSACDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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ホロヴィッツ&ワルターのブラームスは驚くべき名演奏である。

1936年、アムステルダムに於ける実況録音で、若き31歳のホロヴィッツと、59歳のワルターががっぷり四つに組み、火花を散らして闘っているのだ。

それにしてもワルターの気迫は物凄く、凄まじい緊迫感にあふれたリズム、アクセント、速いテンポによる推進力、ティンパニの最強打、特に第1楽章のコーダは阿修羅のようだ。

しかもむきになって造型を崩すことがなく、アンサンブルもぴったりと決まっている。

ワルターはレコード録音と実演との差があまりなかった指揮者らしいが、このブラームスは特別な例なのだろうか。

新鋭の天才ピアニスト、ホロヴィッツとの協演、メンゲルベルクが君臨するアムステルダム・コンセルトヘボウへの客演など、種々の要素が絡み合って、このように火と燃えた演奏が可能になったのであろう。

このブラームスはあたかも鬼神が乗り移ったかのように、エネルギーを完全に音化し切っているのだ。

終楽章の歯切れの良いリズムや、興奮の極と言いたい加速の効果も見事だが、そうした迫力と共に、憧れにせつなく燃えつきる歌や、フルトヴェングラーを思わせるような聴こえないくらいのピアニッシモや、あえかな木管のデリカシーにおいても、ワルターは別人のように思い切った表情を見せるのである。

彼は客演のとき、そのオーケストラの特質を充分に生かす指揮者であった。

全曲にわたって、あのメンゲルベルク節とも言える、濃厚で脂切ったポルタメントやヴィブラートが頻出するのはその表れだが、もちろんワルターには様式ぶった人工的なテンポの動きは見られない。

ホロヴィッツの演奏もまさに言語を絶するすばらしさで、何よりも人間業を超えたテクニックの冴えに舌を巻くし、魔術的とさえ言えよう。

しかも技術に溺れず、音楽を最大限に生かし抜くのだ。

感じ切ったピアニッシモから超人的なフォルティッシモまで、表現の幅は著しく広く、自然なルバートが多用されて音楽を息づかせ、表情の強い歌や情感も決してワルターに負けてはいない。

そしてカデンツァでは猛然たるアクセントと共に、奔放な即興性さえ見せるのである。

第1楽章に100小節ほどのカットがあるが、これは録音盤の破損によるものらしく、残念だが仕方がない。

1950年の録音であるミルシテイン&ホロヴィッツのブラームスは、両者共に壮年期の演奏で、お互いにニュアンスのある表現を生み出しつつも、、細部にこだわらずに全体を通す、といった感が強く、そうした中での個性の生かし方がとても興味深い。

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