2014年04月

2014年04月13日


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演奏内容はあまりにも有名なので、ここではあまり触れないが、HMVへのSP録音で有名なワルター&ウィーン・フィルの1938年1月16日録音については、当時のレコーディング・マネージャーだったフレッド・ガイズベルグがライナーに1944年に「グラモフォン」誌に書いた当時の回想録がまず読み物として充分素晴らしい。

そして、何と言ってもオリジナルSPからのリマスターが素晴らしく、74年前の録音としては充分鑑賞に堪えうる音に仕上がり、聴き手は、ワルターの紡ぎ出す「音楽」に集中できる。

筆者は、フルトヴェングラーの歴史的復帰演奏会(1947年)の劣悪な音(従来盤)でも充分感動できるためか、世間一般の評判ほど音に不満を感じない。

そして、肝心の演奏であるが、第1楽章が24分47秒と現在の指揮者より若干速いテンポだが、速さを感じさせず、オケを充分歌わせている。

第4楽章も18分20秒と同様に速めであり、さすがにコーダの最弱音を聴くのはつらいが、表現内容は充分である。

全曲で70分13秒という速さは、ノイマンの指揮に似ているが、さすがに初演者であるワルターの思い入れに溢れた音楽の素晴らしさは唸らざるを得ない。

その急ぎ立てられるような演奏は、ナチの足音が近づいているという緊迫感があったからに違いない。

マーラーの交響曲第9番を語る時には、外せない1枚である。

ただし、HMVの親元EMIのCDは音質が悪いので、もし、そちらを既に聴いていて「音がどうも…」という人は、当盤を聴いてみていただきたい。

DUTTONらしく実に耳あたりのいい音で、ほんのりとステレオ感があり、ちょっと人工的であるが、ホールの後部席で聴いているような臨場感まで感じられる。

初めて聴く人にとっては、手元にある英EMIのLP復刻盤や東芝CD(初期盤)よりも、はるかに入り込みやすい音に仕上がっている。

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classicalmusic at 22:56コメント(0)トラックバック(0)マーラーワルター 

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1950年8月24日 ザルツブルク、旧祝祭劇場に於けるモノラル・ライヴ録音。

「大地の歌」と第9交響曲の初演を務め、キャリアの初期よりマーラーの直弟子として作曲者と特別ゆかりの深かったことで知られるワルターであるが、ザルツブルク音楽祭も初めの40年間は、マーラーといえばほとんどワルターの独壇場であった。

ワルターによるマーラーの第4交響曲は現状での録音点数も13種を数えるが、1950年のウィーン・フィルとのライヴ演奏は、かねてより有名な内容でようやく正規音源よる初CD化となる。

その13種類全てを聴いたわけではないが、私見では、1955年11月のウィーンでのライヴ録音が出現するまではワルターによるマーラーの第4交響曲の王座にあったCDである。

第1回目のニューヨーク・フィルとのスタジオ録音以来、ワルターのこの曲に対する解釈は何よりもリリシズムを大切にしたものであり、その分メリハリの面白さや華やかな色彩美に欠け、のっぺりとした印象を与えがちであった。

ところが、このウィーン・フィル盤は彫りの深い各楽器の生かし方によって、第1楽章ではメルヘンの世界に遊ばせてくれるし、第2楽章は特に味が濃く、鋭い音彩やアクセントが作曲当時の前衛そのものだ。

第3楽章も息の長い主題を深く呼吸させながら歌ってゆくワルターの独壇場と言えよう。

ただしフィナーレだけはいつもの素朴さで一貫する。

他に2種あるウィーン・フィルとの第4交響曲ライヴも、1955年のギューデン、1960年のシュヴァルツコップと、それぞれソリストの個性が花を添えているが、やはりここではザルツブルク音楽祭の常連だったゼーフリートが凛とした佇まいで格別の魅力がある。

仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻された録音だけに、各楽器の音質やその分離が非常に鮮明で、やや歪みがあるものの、当時のレコーディングの水準を大きく超えている。

ワルター&ウィーン・フィルの名演をこのような比較的良好な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 20:56コメント(0)トラックバック(0)ワルターマーラー 

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2009年2月のNHK交響楽団定期公演のラドミル・エリシュカ指揮「わが祖国」はFMやテレビでも放送され、全国的な大反響を呼んだ。

その圧倒的な演奏でCD化を待ち望む声が大きく高まってきていたが、彼が最も信頼を寄せる札幌交響楽団とのセッション録音が実現。

既にドヴォルザークとヤナーチェクの組み合わせの2枚のライヴ・アルバムをリリースしているラドミル・エリシュカと札幌交響楽団であるが、ついに待望のセッション録音が発売された。

エリシュカと札幌交響楽団が真摯に織り成す、まさにスラヴの叙事詩「わが祖国」は、聴くものをチェコの自然、チェコの歴史へと深く誘う、心に響き、心揺さぶる名演だ。

「高い城」の冒頭からオーケストラの弦のシックな音色を背景に微細を尽くした表現となっている。

金管はやや抑制を効かしているが、その分ほの暗いグラデーションの幅が広がっていて、耳をそばだてて聴き込む演奏。

札響の特徴として、やや渋い配色の弦の中で、木管を浮き立たせ、空高らかに鳴るようなところがあり、筆者はこれが北国の音色の様に思い、気に入っているが、その特性はよく捉えられている。

「モルダウ」は速いテンポが良い。

この曲はちょっとテンポを落とすと、通俗的な感じになってしまう。

速いテンポで締めた方が新鮮だし、全6曲を続けて聴いた場合の、軽重が的確に思える。

下手に分かりやすく情緒的にやり過ぎると胃もたれしてしまう。

「ボヘミアの森と草原から」ではもっと燃え立つようなものを期待するかもしれないが、この演奏も決して内省的に過ぎるというわけではない。

十分に内燃性の情感をはらんでいて、聴けばそれが伝わってくる。

「ターボル」と「ブラニーク」ではいくぶん開放的な音色となり、オーケストラも意気揚々といった演奏になる。

これは楽曲の性格とともに、ここでややカラーを変えるという演出にも思える。

決してガラッと変わるわけではないが、少しギアを変えた感じだ。

ここでも内面性豊かで、楽器のバランスには十全な配慮があり、木管の高らかな音色は様々にアクセントを添えている。

フィナーレは壮麗で、幸福感に満ちている。

録音は2009年、札幌コンサートホール、Kitaraで収録されたもので、CD2枚組となっているが、総収録時間は77分程度なので、CD交換の手間を考えると1枚でまとめてほしかった。

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classicalmusic at 01:11コメント(0)トラックバック(0)スメタナ 

2014年04月12日


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フルトヴェングラーの過去の名演のSACD化が着々と進んでいる。

それには、EMIが膨大なフルトヴェングラーの名演のSACD化に踏み切ったことによるところが大きいと言えるが、他のレーベルも負けておらず、キングインターナショナルが、アウディーテレーベルから一昨年発売されたフルトヴェングラーのRIAS音源のSACD化を行ったことは、高音質の呼び声が高いだけに、クラシック音楽ファンにとっては大朗報と言えるだろう。

SACD化の対象となったのは、1947年と1954年のいずれもベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番。

1947年の演奏の方は、フルトヴェングラーの第2次大戦後の復帰コンサートということもあって、歴史的な超名演との評価が定着しており、本盤に収められた1954年の演奏については、やや分が悪いと言わざるを得ない。

フルトヴェングラーの演奏は、演奏内容の深みにおいては共通しているものの、一つ一つの演奏会に対して、初めて楽曲に接する時のような気構えで臨んだとも言われていることから、各演奏の違いには顕著なものがある。

そうした中にあっても、1947年と1954年の演奏の違いは桁外れであると言えるところであり、とても同じ指揮者による演奏とは思えないほどであると言えるだろう。

交響曲第5番において顕著であるが、フルトヴェングラーの美質でもあった実演におけるドラマティックな表現は、本盤の演奏では随分と影を潜めており、その意味ではある種の物足りなさを感じるかもしれない。

もっとも、そうした踏み外しはないものの、演奏の持つ奥行きの深さ、彫りの深さ、独特の深沈とした味わい深さは、交響曲第5番及び第6番ともに、1947年の演奏を大きく凌駕していると言えるところであり、大巨匠フルトヴェングラーも死の年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にある演奏と評しても過言ではあるまい。

いずれにしても、本盤の演奏は、1947年の演奏などとの対比において諸説はあると思うが、筆者としては、フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番の演奏解釈の究極の到達点とも言うべき至高の超名演と高く評価したい。

それにしても、音質は素晴らしい。

1947年の演奏についても、従来CD盤との違いは歴然としていたが、1954年の演奏については、より後年の演奏だけに、SACD化の効果については歴然たるものがあると言えるだろう。

1954年のライヴ録音、そして音質が悪いとして定評のあるフルトヴェングラーのCDにしては、各楽器セクションの分離度や鮮明さは圧倒的であると言えるところであり、シングルレイヤーによるSACD化により、さすがに最新録音のようにはいかないが、この当時の演奏としては最高水準の音質に仕上がったと評してもいいのではないだろうか。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 22:58コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンフルトヴェングラー 

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ブラームスの交響曲第2番には、いちいち採り上げるまでもなく、自分の好んでいるCDがたくさんある。

この曲には、いつも皮肉や毒舌しか口から出てこないブラームスと違って、終始機嫌が良く、朗らかな作曲家の姿が映し出されているが、それにぴったりと合っているのが、このワルター&フランス国立放送管盤である。

ワルターの指揮は燃えるような情熱でオーケストラを引っ張っているが、オーケストラ側は引っ張られているというよりも、ワルターの音楽を完全に自分たちの響きとして消化吸収し、それを思い切り発散している。

これは指揮者とオーケストラの、ある意味では理想的な形であろう。

それに、オーケストラ全体の明るめの色調もこの曲にはふさわしい。

第1、第2楽章あたり、ワルターならではの幻想的な魅力にあふれた部分は多々あるが、それにしても凄いのはフィナーレで、このCDの最大の聴きどころであろう。

恐ろしいくらいの超スピードなのだが、フルトヴェングラーやミュンシュのような暑苦しさや危険なスリルというものはなく、ひたすら爽快である。

スピード感も熱気もことによるとニューヨーク・フィル盤を上回り、コーダはいよいいよ燃え立って実演ならではの灼熱を見せるのである。

このときワルターは78歳だが、それを考慮すると信じがたい若々しさであり、最盛期のような名演と言っても過言ではあるまい。

ハイドンの「奇蹟」は、前年のニューヨーク・フィル盤と酷似した表現だが、フランスのオケによるライヴだけに、このほうがワルターの言いたいことがはっきりわかる。

なおこのCDは音質は乾いているが、仏ターラ社の優れたリマスタリング技術によって復刻されたもので、鮮度は抜群だ。

また他レーベルでも同一の演奏が出ているが、このCDほどの音は期待できない。

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classicalmusic at 20:55コメント(0)トラックバック(0)ワルターブラームス 

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当アルバムの最大の聴きものは、交響曲第3番である。

クナッパーツブッシュはブラームスの「第3」を得意中の得意としており、残されたCDはどれも超弩級の凄まじさだ。

このウィーン・フィルとの演奏も、全篇、肌が粟立つような戦慄の表現である。

第1楽章の冒頭から巨大かつ悪魔的であり、対旋律のホルンの圭角といい、恐るべきリタルダンドといい、強弱指定を無視した猛烈な歌といい、すべてをやりつくしたクナの姿がある。

彼は音楽を引っかきまわし、ウィーン・フィルは音にいのちを刻みつけてゆく。

だから、この半世紀以上も前のライヴが最新のステレオ録音よりもずっと生々しく響くのだ。

再現部冒頭の凄さ、その後のクライマックスはまるで怪獣の叫びだし、大きな間では息が吸えなくなってしまうような気がする。

第2楽章はアンダンテだが、表情の吹っ切れていること、アレグロ楽章となんら変わりがない。

歌はむせて溢れて何が何だかわからなくなってしまいそうだし、見得を切る大テヌートや、恐るべきクレッシェンドの洪水など、もはや評する言葉を持たない。

この演奏は批評の対象にならない。

もし、クナの表現に抵抗があって愉しめないという人がいたら、なんと不幸でかわいそうな人だろうか!

ド熱いチェロで開始される第3楽章を経てフィナーレに入ると、これがまた第1楽章と好一対なのだ。

テンポの大きな落とし方、大きなリタルダンド、いずれも破目を外しており、普通ならやりすぎとしか考えられないはずなのに、こうでなくては! と思わせるのはどうしてか。

曲とぴったり合ったときの絶好調のクナの凄みは、人間業を超えてしまうのであろう。

ピアノ協奏曲第2番はカーゾンが渾身の力を振り絞った演奏だ。

それを包み込むクナッパーツブッシュの指揮は、素朴でしみじみとした情感、溢れ出るパッション、彫りの深い抉りが素晴らしい。

悲劇的序曲も曲想をよくつかんだ彫りの深い演奏で、思う存分旋律を歌わせており、噛んで含めるような、という表現がぴったりの演奏だ。

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classicalmusic at 01:03コメント(0)トラックバック(0)ブラームスクナッパーツブッシュ 

2014年04月11日


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ルガーノ、RISI放送局アウディトリオにて2011年8月11-14日に録音。

昨年2月の来日公演でもこの作品を披露、3時間近い大作を全曲暗譜で弾き、日本の聴衆を魅了している。

期待するな、と言う方がムリなアルバムである。

初期のシフは、単音の音楽を軽快に情緒豊かに演奏するタイプだった。

そのため、スカルラッティ、モーツアルト、ハイドン等の曲は非常に特徴的な演奏ができた。

この頃は、和音の作り方はあまりうまくなかったように思う。

しかし、ベートーヴェンの重層和音を扱う音楽に取り組み始めた頃から、和音の演奏方法の研究を行い、タッチ(音色)が変化し出し、そのタッチでもって各種のバッハの再録音をも行った。

今回の録音も情緒感が薄れ、重厚感が増した演奏になっている。

平均律の録音に限って言えば、前回の録音は、ペダルをふんだんに使い、主旋律以外は淡くぼかすような演奏だったが、今回の録音は、ノンペダルを徹底している。

そのため、和音のフレージングの切断が各所に見られる。

また、一部曲中でテンポが一定していないところがある。

全体的な曲の構想についても、前回の録音とは全て異なっている。

音質や指の置き方については、指を横からなでるような演奏ではなく、指を鍵盤の真上からまっすぐに落としたような演奏になっており、音質は、張りと深みのある音質となっている。

過去の録音と今の録音でシフほど完成度が違う演奏家も少ないのではないかと思える。

そしてこのアルバムもECMでリリースしているゴルトベルク変奏曲やパルティータの完成度に優るとも劣らない完成度だ。

そして、聴き直すたびに発見も多く、これは良いアルバムの特徴だろう。

おそらくは多くのクラシック愛好家、そして演奏家の模範となる演奏だと思う。

自信を持ってお薦めできるアルバムである。

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classicalmusic at 23:04コメント(0)トラックバック(0)バッハシフ 

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クナッパーツブッシュのベートーヴェン「第2」はおそらくこれが唯一の音源ということもあり、貴重な録音である。

第1楽章は冒頭から勢いをつけてドカーンときて圧倒されるが、続く序奏を積極的に歌っている。

アクセントを強めにはっきりと付けて演奏していて、テンポも大胆に動き、音楽に溌剌とした若々しいエネルギーが溢れている。

第2楽章は咳払いの中から蝋燭の炎の立ち上るように始まり、抑揚の幅を大きくとって豊かな歌を聴かせる。

繊細な表現があったかと思うと、コントラバスが唸りを上げたり幅の広い表現である。

第3楽章のスケルツォでも強弱の振幅が幅広くメリハリの効いた演奏だ。

第4楽章はかなり遅いテンポで始まるが、遅かったのは冒頭部分だけで、すぐにアッチェレランドして快適なテンポになる。

とても色彩感豊かな演奏であるが、コーダに向けてどんどんアッチェレランドしていき怒涛の終演となった。

「ブラ4」も素晴らしい。

全体的にはもうひとつのケルン放送響盤が優れているが、このブレーメン・フィル盤も、霊感溢れる即興性が生きていて興味深い。

第1楽章はレトロな響きで、低域が分厚く恰幅の良い堂々とした演奏。

音楽の高揚に伴ってテンポが速くなって、作品への共感と熱い思いが伝わってくる演奏である。

第2楽章はクナッパーツブッシュの感情の赴くままにテンポが動いているようで、この動きは自然で聴いているこちらも共感できるものだ。

特に訴えかけるようなメロディーの長調のパッセージで、グングンかかるアッチェレランドが凄い。

第3楽章は遅めのテンポで開始するが、いつの間にか普通のテンポになっており、低域が厚いので安定感がある。

音楽が進むにつれて熱気を帯びてきて、第4楽章は激しい金管の咆哮やクナッパーツブッシュの足踏みなども録音されている。

テンポの振幅と幅広い表現が特徴の演奏で、音の輪郭もくっきりとしている。

演奏中の会場のノイズは聞こえるのに、不自然に拍手をカットしてあるので、終わり方が変なのが残念だ。

昨今こんな風に演奏する指揮者はいないだろうし、実際にコンサート会場で聴いたらどんな風に聴こえるのか分からないが、聴衆が、クナッパーツブッシュという指揮者の手による音楽を聴きに行っていた時代の証言である。

音質も1952年の録音ながら、使用音源はブレーメン放送からのライセンスを得たもので、ターラの高音質化も相俟って、非常に鮮明である。

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classicalmusic at 21:01コメント(0)トラックバック(0)クナッパーツブッシュブラームス 

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カラヤンは、ブルックナーの交響曲の第8番を、DVD作品などを除けば、3度スタジオ録音している。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任後、間もなくスタジオ録音されたベルリン・フィルとの演奏(1957年)、その後全集に発展する第1弾としてスタジオ録音されたベルリン・フィルとの演奏(1975年)、そして最晩年のウィーン・フィルとの録音(1988年)の3種であるが、本盤に収められた演奏は、その最初のスタジオ録音である(これに加えて、戦前のベルリン国立歌劇場管弦楽団との演奏が存在しているが、第1楽章が欠落しており、本稿ではカウントしないこととしたい)。

この3種の録音は、いずれも優れた名演であるが、それぞれの演奏の録音年代が均等に離れているだけに、録音当時のカラヤンの芸風が窺い知ることができるという意味においても、極めて意義深い演奏であるとも言えるところだ。

本盤の演奏は、後年の演奏、例えば1975年のカラヤン&ベルリン・フィルの全盛期の演奏のようなある種の凄味があるわけではない。

その後は世界を席巻することになるカラヤン&ベルリン・フィルという稀代の名コンビであるが、当時のベルリン・フィルにはフルトヴェングラー時代の主要メンバーが多数在籍していたところであり、カラヤンとしても未だ必ずしもベルリン・フィルを掌握していたとは言い難いと言えるのではないか。

それだけに、カラヤンも自我を極力抑え、むしろベルリン・フィルに演奏の主導権を委ねたような趣きも感じられるところであり、音楽そのものを語らせると言うアプローチは、1988年の最晩年の演奏にも通底するものがある。

もっとも、音楽の精神的な深みという意味においては、最晩年の名演には到底太刀打ちできないものの、その一方で、演奏全体には、壮年期のカラヤンならではの強靭な気迫と生命力が漲っており、それこそが、本演奏の最大の魅力であると言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルが歴史に残る稀代の黄金コンビに発展していくことを十分に予見させるとともに、ブルックナーの音楽の魅力、そして壮年期のカラヤンの力感溢れる芸風などがあらわれた素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は、後年の演奏とは異なり、1957年のステレオ初期の録音というハンディがあり、ARTによるリマスタリングが施されてはきたものの、必ずしも満足できる音質とは言い難いものであった。

ところが、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化がなされるに及んで、見違えるような良好な音質に蘇った。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても素晴らしい仕上がりであると言えるところであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、壮年期のカラヤンによる素晴らしい名演を高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年04月10日


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ここ数年のインバルの新譜はいずれも素晴らしい。

指揮者がかつてと比較して小粒になったと言われる現代において、なお巨匠指揮者時代の残滓を感じさせるだけの存在感を有していると言えるところであるが、それはインバルのここ数年の偉大なる新譜によるところが大きいと思われるところだ。

インバルの名声を確固たるものとしたのは、かつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音したマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)であるというのは論を待たないところだ。

この全集は、現在でもなお、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集であるが、インバルは、数年前より、東京都交響楽団とチェコ・フィルを起用して、新しいマーラーの交響曲チクルスを開始している。

既に、チェコ・フィルと第1番、第5番、第7番、東京都交響楽団と第2番、第3番、第4番、第8番を録音しており、「大地の歌」は第8弾ということになる(フォンテックレーベルにも第6番を録音していることから、再録音するかどうかは予断を許さないが、それを加えると第9弾ということになる。フォンテックレーベルには、他に第5番を録音している)。

インバルは、前述の全集において「大地の歌」をスタジオ録音(1988年)していることから、今般の演奏は24年ぶりの録音ということになる。

前回の演奏もインバルの名声をいささかも傷つけることのない名演であったが、今般の演奏は、それをはるかに凌駕する圧倒的な超名演であると言えるのではないだろうか。

かつてのインバルによるマーラーへの交響曲演奏の際のアプローチは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションを抑制して、可能な限り踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。

1988年録音の「大地の歌」についても例外ではなく、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な名演奏ではあるが、今一つの踏み外しというか、胸襟を開いた思い切った表現が欲しいと思われることも否めない事実である。

ところが、本演奏においては、かつての自己抑制的なインバルはどこにも存在していない。

インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、どこをとっても気迫と情熱、そして心を込め抜いた濃密な表現を施しているのが素晴らしい。

それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的かつロマンティックな表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがなく、骨太の音楽作りが行われているというのは、さすがの至芸と言うべきであろう。

いずれにしても、テンポの効果的な振幅を大胆に駆使した本演奏のような密度の濃い表現を行うようになったインバルによる超名演を聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニなどの累代のマーラー指揮者が鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられないところだ。

メゾ・ソプラノのイリス・フェルミリオン、そして、テノールのロバート・ギャンビル、そして東京都交響楽団も、インバルの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを発揮していると高く評価したい。

音質は、SACDによる極上の超高音質録音であり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 22:50コメント(0)トラックバック(0)マーラーインバル 

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バックハウスの演奏そのものの出来から言えば、デッカのステレオ盤を選択するのが妥当だろうが、ここではあえてこのクナッパーツブッシュと共演した1954年のライヴをあげる。

その理由は伴奏が何とも個性的だからだ。

まず、ウィーン・フィルの個々の奏者がこの指揮者の悠然たる棒に乗って嬉々として演奏しており、その結果として著しく甘美な味わいをまき散らしているのだ。

独奏の方はあくまでも淡々としているのだが、逆に伴奏はどうころがるのかわからない危うさを秘めており、この不可思議な対比が面白い。

音質はまずまずではあるが……。

ところで、最近の情報だとこの時の映像が残されているという(しかも、部分ではなく全曲らしい)。

どのレーベルでもいいから1日も早くDVD化して欲しい。

シューマンの「第4」は、1956年、シュターツカペレ・ドレスデンとのライヴであるが、クナッパーツブッシュの圧倒的なパワーが直截に発揮されたという意味では、有名なウィーン・フィル盤より一層クナッパーツブッシュらしい演奏と言うことができる。

クナッパーツブッシュは、最初の一撃からシューマンの悩みを粉砕せずにはおれない。

悩みを愉しむ、という陰が一切なく、常に健康的で逞しい。

ティンパニの強打や金管の咆哮など、ウィーンの典雅さに包まれていない分、物凄い迫力である。

第3楽章の推進力も、まだ若々しいパワーを有していた1950年代のクナッパーツブッシュならではだ。

筆者としては、このクナッパーツブッシュの演奏ような人間的大きさで、作品の憂鬱を吹き飛ばすという対処で、病気を愛する病人による演奏に関わらないようにしたい。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)クナッパーツブッシュバックハウス 

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「皇帝」は、冒頭の部分だけとはいえ、このようなハチャメチャなライヴがよくぞ正規のCDで登場したものである。

しょっぱなからピアノとオーケストラが同時に出るところが、指揮者の棒振りのタイミングの遅さで完全にズレてしまっている。

しかも、2度目はほとんど意図的とさえ思えるほど指揮者の棒が遅いために、ぽっかりと大きく穴があいてしまっているのだ。

恐らく、バックハウスは終演後この行為に激怒したに違いないのだが、それでも両者はその後も何回か共演しているらしく、この怠け者指揮者と実直で正統派のピアニストはどこかで相通じるものがあったのだろう。

しかし、タイプこそ違っても、大きな器を持った演奏家が現代には何と少ないことか。

「第8」にはいろいろな解釈の仕方があるようだが、ぴったりくるのはワインガルトナーやシュミット=イッセルシュテットのようなウィーン風の小味な表現だ。

逆にトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラー、シェルヘンなどは、どことなく違和感が残る。

わけてもクナッパーツブッシュの超スロー・テンポによる極大のスケールと味の濃い演奏はその最たるものだが、このくらい徹底すると有無を言わさず納得させられてしまう。

それというのも、クナの芸術性が抜群だからであろう。

曲の内容は異常にふくらみ、形はデフォルメされ、ものものしくも情熱的に進み、ときには苦しみや怒りとなり、豪傑笑いも見せる。

第1楽章からテンポは遅いが、推進力に溢れた音楽の運びがすばらしい。

第2楽章はデリカシーのあるチャーミングな演奏であり、第3楽章は「気合の入った」メヌエットになっている。

第4楽章は、冒頭が手探りのように始まるところがいかにもクナッパーツブッシュであるが、凛とした立体的な演奏が実に見事である。

クナッパーツブッシュの遅いテンポに何ら違和感のない筆者であるが、曲のしなやかなフォルムからはいささか外れた、特異な「名演」なのだと思う。

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2014年04月09日


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クナッパーツブッシュ唯一のウィーン・フィルとの「ブル8」(1961年ライヴ)については、既にレビュー投稿済みなので、ここでは『エロイカ』について述べたい。

この1962年のウィーン・フィルとの『エロイカ』ライヴは、前述のミュンヘン・フィル盤とともにクナッパーツブッシュの巨大さを味わえるのが嬉しい。

第1楽章の凄絶さはブレーメン盤に譲るものの、音の響きを愉しむ高尚な遊びの精神が演奏に桁外れの大きさを与えている。

その点、月並みな論評ながらブルックナー的な演奏と言えるだろう。

クナッパーツブッシュお得意の不意打ちのアクセントもウィーン風に柔らかに翻訳されており、演奏のところどころに可憐な花を咲かせている。

大らかな分、ミュンヘン・フィル盤ほど堅牢な造型ではない。

現実の世界からより自由になった孤高の芸術家の「魂の逍遥」を味わいたい。

第2楽章は、晩年のクナッパーツブッシュとウィーン・フィルだけが創造できた異空間である。

ヴァイオリンの調べに伴う何と言う色香…、喪服を纏った若き未亡人のような妖艶さとでも言おうか。

涙に濡れるオーボエの嘆きも、聴く者の心を濡らさずにはおかない。

中間部の対位法も、晩年のクナッパーツブッシュならではの巨大な音の建築物となっている。

スケルツォもクナ節全開だ。

主部のリズムの何と言う刻みの深さ。トリオでは、クナッパーツブッシュとプレイヤーの微笑ましい心の交流が見て取れる。

ホルンのプレイヤーに向かって「そこは遠慮なく吹いて下さいよ」と合図を送ると「よしきた。任せとけ」とばかりに、とんでもない最強奏で応える。

オケのメンバーは、このようにクナッパーツブッシュに褒められたい一心で張り切る。

クナッパーツブッシュも彼らの頑張りに満足げな表情で応える、というわけだ。

さて、フィナーレの変奏曲こそは、クナッパーツブッシュの真骨頂で、まるでひとりの「英雄」の生涯を回顧するような音のドラマが展開する。

ここには、英雄の台頭、獅子奮迅の活躍から、その失脚と死までが、「叙事詩」のような壮大さで描かれているのである。

ことにテンポを落とすポコ・アダージョ以後の深い感動の歌は、クナッパーツブッシュにしか描けない。

まるでワーグナーの楽劇を聴くようであり、「なるほど、これでこそ『エロイカ』なのだ」という不思議な感動に襲われるのである。

「レオノーレ」序曲第3番も迫真の演奏である。

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classicalmusic at 23:26コメント(0)トラックバック(0)クナッパーツブッシュベートーヴェン 

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実に引き締まった筋肉質の演奏である。

まさに、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏の凄さを味わうことができると言えるだろう。

セルは、先輩格である同じハンガリー出身の指揮者であるライナーや、ほぼ同世代でハンガリー出身のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。

セルの徹底した薫陶もあって、就任時には二流の楽団でしかなかったクリーヴランド管弦楽団もめきめきとその技量を上げ、ついにはすべての楽器セクションがあたかも一つの楽器のように奏でると言われるほどの鉄壁のアンサンブルを構築するまでに至った。

「セルの楽器」との呼称があながち言い過ぎではないような完全無欠の演奏の数々を成し遂げていたところであり、本盤の演奏においてもそれは健在である。

モーツァルトの交響曲第39番及び第40番の名演としては、優美で情感豊かなワルター&コロンビア交響楽団による演奏(1959、1960年)(第40番についてはウィーン・フィルとの演奏(1952年))や、それにシンフォニックな重厚さを付加させたベーム&ベルリン・フィルによる演奏(1962、1966年)が名高いが、セルによる本演奏はそれらの演奏とは大きく性格を異にしていると言えるだろう。

むしろ、第39番については、即物的な演奏でありながら随所に繊細な表情づけが施されたムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる名演(1973年)にも通じるものがあるのではないかと考えられるところだ。

もっとも、演奏の即物性においては、本演奏はムラヴィンスキーほどに徹底しているとは言い難いが、演奏全体の造型の堅牢さにおいてはいささかも引けをとるものではない。

そして、各フレーズにおける細やかな表情づけも、ムラヴィンスキーのように徹底して行われているわけではないが、それでも各旋律の端々からは汲めども尽きぬ豊かな情感が湧き出してきており、決して無慈悲で冷徹な演奏には陥っていない点に留意しておく必要がある。

いささかオーケストラの機能美が全面に出た演奏とは言えなくもないところであり、演奏の味わい深さという点では、特に第40番については、クリーヴランド管弦楽団との来日時のライヴ録音(1970年)に一歩譲るが、演奏の完成度という意味においては申し分がないレベルに達しており、本盤の演奏を全盛期のこのコンビならではの名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

併録のモテット「エクスルターテ・イウビラーテ(踊れ、喜べ、幸いなる魂よ)」も、ソプラノのジュディス・ラスキンの名唱も相俟って、素晴らしい名演であると評価したい。

音質は、録音年代が古いこともあって、従来盤は今一つ冴えないものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、これまでの従来盤のいささか劣悪な音質を一新するような、途轍もない鮮明な高音質に生まれ変わった。

Blu-spec-CD盤も発売されており、それも十分に良好な音質であるが、所詮SACD盤の敵ではない。

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classicalmusic at 21:07コメント(0)トラックバック(0)モーツァルトセル 

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クナッパーツブッシュの面目躍如いった演奏だが、ブレーメン盤の異形をオーソドックスな器に封じ込めたもの、と言うことができる。

全体に客観性を増した演奏と言えようが、異形さが封じ込められた分、かえって恐ろしさが増すということもあるわけだ。

ミュンヘン・フィルの表現力がブレーメン国立フィルを上回ることで余裕が生まれ、格調の高さも段違いである。

また、極めてロマンティックな表現で、音楽は常にゆとりをもって表情豊かに歌っており、その響きにはコクがある。

第1楽章でのテンポ操作はより自然になり、第2楽章でのスコアの改変もない。

「葬送行進曲」は朗々と歌うなかにヒューマンな感情が表現され、非常に味わい深い。

後半の2つの楽章も悠揚迫らずといった趣があり、至るところにクナッパーツブッシュならではの表情がある。

第3楽章トリオのホルンなど、まるでアルプスの山々が眼前に現れたような伸びやかさである。

フィナーレもより高い視点からスコアを眺めた、スケールの大きさを獲得している。

表現力と造型、音そのものの存在感など、この指揮者の4種の『エロイカ』の録音の中で、最もバランスの取れた演奏として評価しておきたい。

筆者は必ずしもこの演奏を愛聴しているとは言えず、当レビューを書くために久々に聴いたのであるが、この『エロイカ』のような演奏が、コンサートに集まった聴衆を唖然とさせ、一回性の魔術で呪縛したことは容易に想像できる。

全くユニークで、特異な芸風がよく表れた演奏と言うほかない。

ターラから発売された当国内盤のCDは、既出のものに較べ音質が改善されており、この種のものとしては録音も良好である。

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classicalmusic at 00:45コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンクナッパーツブッシュ 

2014年04月08日


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クナッパーツブッシュ指揮による『エロイカ』の録音は、現在のところ4種存在する。

その中で、最も異彩の光を放つのが、このブレーメン盤であり、それにしても常識では語れないベートーヴェンである。

第1楽章冒頭の2つの和音、その間の息苦しいまでの沈黙に耐えるのは容易ではない。

巨人の踏み鳴らす足音のような凄絶さは、他の3種の録音を凌駕するものだ。

続く主部も今にも音楽が止まるのではないかと思わせるほどの超スローテンポに始まるが、さすがのクナッパーツブッシュも、このテンポを最後まで維持することはできなかったのだろう。

すぐに軌道修正していく様が面白い(その後のテンポは案外速めだ)。

全体に最晩年のクナッパーツブッシュとは違った若く強靭な生命感があるのが大きな魅力である。

第2楽章「葬送行進曲」は、硝煙くすぶる荒れ果てた戦の跡が目に浮かぶように始まる。

オケの色彩感が乏しい分、暗めのモノトーンの音色が一層凄味を醸し出しており、葬儀への参列者に襲いかかる突発的な嗚咽のようで痛々しい。

第3楽章では、オーボエに歌われたテーマが、弦や他の管楽器と共にフォルティッシモで歌われるところは、肉を斬って骨を断つような音の抉りの深さに恐れ入る。

トリオのホルンの最強奏は、聴くたびに魂を震撼させられる。

クナッパーツブッシュの胆力の為せる技であり、単なる大音響でないことは明らかである。

フィナーレも冒頭の遅いテンポが素晴らしい。

すべての16分音符が見えるようであり、剣の達人の技をスローモーションで解析するような趣がある。

ポコ・アダージョの深々とした響きも良いし、コーダのプレストも慌てず騒がず『エロイカ』のラストに相応しい堂々たる終結である。

当盤は正規の国内盤としてターラから出ているが、音の歪みもなく、情報量も圧倒的に多い。

マイクの捉えた演奏の凄絶さも克明に伝えてくれている。

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《リング》のような巨大な作品を、CDなりLPなりで聴き通すのは、初心者にはむしろ苦痛といってもいいかもしれない。

実演から入るのがいちばんだと思うが、それにしても舞台での字幕は読みにくいものだ。

筆者がお薦めしたいのは、まずは映像で、この長い作品の構造を把握しておくことだ。

最近はレヴァインやサヴァリッシュなど、いろいろな《リング》がDVDその他で市販されている。

しかしいちばんすぐれているのは、パトリス・シェローが演出し、ピエール・ブーレーズが指揮した、フランス・チームによるバイロイトの実況盤であろう。

ライン河がダムになっていたり、ヴォータンがフロックコートを着ていたりと、最初は物議をかもした上演だったが、結局その後の《リング》演出は、すべてここから始まるという原点となった。

そしていまだにこの映像を超えるものはないと、筆者は確信している。

それは何よりも、演出が音楽そのものの徹底した読み込みから生まれた、きわめて必然的なものだったからだ。

「ワルキューレ」第3幕の、画家ベックリンの「死の島」を模したと思われる岩山など、視覚的な装置としても実に美しく、説得力がある。

管弦楽も、むしろ室内楽的な透明さを目指しながら、しかも迫力に欠けないブーレーズの指揮は、ワーグナーのもくろんだ指導動機の積み重ねによる壮大な音響という構造を、非常によく表していると思う。

歌手も素晴らしい。

ちょっと情けない感じのマッキンタイヤーのヴォータンが、だからこそいまの神々にふさわしく、ジョーンズのひたむきなブリュンヒルデには、心を打たれる。

格好いいホフマンのジークムント、小人役などのツェドニクの快演=怪演ほか、歌も演技も、総じてかなりのレベルの高さである。

べつに「入門」というわけではなく、この映像は《リング》のなかでも傑出したものと言える。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)ワーグナーブーレーズ 

2014年04月07日


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古楽器アンサンブルの演奏で何と言っても面白いのはコープマン盤だ。

管と、ごく小編成の弦が対等に渡り合い、これまで聴いたことがない絶妙のバランスで、作品に新鮮な光を当てている。

音色も、リズム、アーティキュレーション、フレージングもユニークで、各声部の思いがけない対話や主張を楽しむことができる。

コープマンの指揮する演奏はどれも生き生きとして、音楽をする喜びに溢れたものばかりだが、古典派のモーツァルトの音楽にはその意味においてぴったりと言えるだろう。

古典の枠組みの中ではあるが、モーツァルトの音楽は常に感情がその中に渦巻いている。

オペラでは言うまでもないが、交響曲、特に数少ない短調である第25番においてもしかりで、この演奏にはコープマンならではの情動の揺れというものが明らかにされている。

冒頭のリズム、低声部と上声部のシンコペーションのズレによって激しい状態がつくり出されるが、ここだけを聴いてもコープマンの音楽が他と比べても、その揺れが抜きん出ていることがわかるだろう。

コープマンは通奏低音のチェンバロを弾きながら指揮をするが、そのためいかにも鍵盤楽器らしいバランス感覚があり、しかも新鮮だ。

3曲とも洗練された優雅な表現だが、第33番の第1楽章に見られるようにリズムの刻み方が独自であり、合法則的である。

したがってどの曲にも生き生きとした躍動感と活力があるが、一方歌うべきところでは柔軟な表現が美しく、味わい深い。

モーツァルトの様々な仕掛けが次々微笑みを投げかけては、またすぐ新たな愉悦の瞬間が待っている。

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classicalmusic at 23:05コメント(0)トラックバック(0)モーツァルト 

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合唱の粗さや歌唱法の古めかしさなどはさておいて、ここに聴くシェルヘンの解釈には驚くべきものがある。

「人間はいかにあるべきか」という究極の問いが、シェルヘンを衝き動かす原動力。

カント、ルソーらの啓蒙思想に傾倒したシェルヘンは、ロマン主義より一段上の「真の人間性」の回復を願い、「宇宙の法則」を確信していた。

また、数学も愛したシェルヘンにとって、幾何学を音にしたようなバッハはまさに理想の音楽だった。

だから、聴き手の情に訴える、という安易な道を選ばず、作品の構造を明らかにすることを身上とする。

ただ、それを実現しようとする情熱は、常軌を逸していた。

理想の追求に性急な余り、楽員を度々怒鳴りつけた(唯一、不足するのは「思いやり」「寛容」だろう)。

人類最高の宗教音楽《マタイ受難曲》に臨む、シェルヘンの姿勢はまことに高潔そのものである。

音の古さ、時代がかったコーラスを超えて、シェルヘンの掲げる眩しい理想を受け取りたいものだ。

彼らしいエキセントリックな面こそさほど前面には出ていないが、それでも、突き放したような厳格さから思い入れを込めたロマン的な表情付けや表現主義的な鋭さに至るまで、多様自在なアプローチのうちに全体を構築していく様は全く独自のものだ。

イエス捕縛後の合唱付き二重唱アリアのように急速な切迫感を示すと思えば、悠久さを感じさせるまでの終結合唱のように異常に遅いテンポを取ったりなど、テンポの幅も極端。

雄弁なコラールの意味付けも興味深く、一見時代がかったような歌唱もシェルヘンの意図に沿ってのことなのかもしれない。

テキストの内容を生々しく語るオーケストラ、常にアンサンブルの一員として作品に奉仕する声楽陣の姿勢も爽やかで、まさに音楽の前に謙虚なシェルヘンの生き方の反映と思われる。

しかし、これから《マタイ》を聴く、という人には、もっと良い録音や上手なコーラスも必要かもしれない。

そこで、時空を超越した決定盤であるリヒターの旧盤を挙げておく。

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classicalmusic at 20:53コメント(0)バッハシェルヘン 

2014年04月06日


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本盤のような演奏を歴史的名演と言うのであろう。

クライバーンが、旧ソヴィエト連邦の威信をかけて行われた記念すべき第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝した直後に行われたスタジオ録音ではあるが、ここでは、コンクールでの優勝の興奮が支配しているように感じられてならない。

当時のクライバーンの超絶的な技巧と、途轍もない生命力が凄まじいまでの迫力を見せ、あたかもライヴ録音であるかのような熱気に満ち溢れているからだ。

このチャイコフスキーに一貫しているのは溌剌とした太陽のような輝きである。

それは単に辣腕の名手が聴かせるドラマティックで、エネルギッシュな熱演というだけではない。

抒情的で詩的なフレーズにも太陽の恵みを受けたかのような誇らしい高揚感があり、それが聴き手をどこか晴れやかな幸福感に誘ってしまうという稀に見る演奏となっている。

停滞せずに常に前に駒を進めていく演奏、しかもそこには即興性があり、それが演奏をさらにスリリングで、緊迫感溢れるものにしていく。

それでいて決して不自然でも作為的でもない、聴き手を紛れもなくチャイコフスキーの世界に誘い、陶酔させていく奇跡的名演なのである。

当時、ソヴィエト連邦の気鋭の指揮者であったコンドラシンの指揮も圧倒的であり、数あるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の名演の中でも、トップの座を争う名演と高く評価したい。

コンクールの審査員には、リヒテルやギレリスなど錚々たる顔ぶれが揃っていたとのことであり、今から思えば政治色が審査に反映されなかったことは奇跡のような気もするが、これらの面々に絶賛されたというのも当然のことのように思われる。

残念なことであるが、クライバーンはこの時が一番凄かった。

近年では、自らの名前を冠するコンクールの名前のみで知られるピアニストに甘んじているのははなはだ残念なこととは思うが、それでも、このような歴史的名演を遺したことは、後世にもクライバーンの名前は不滅であることの証左と言えよう。

XRCD化による高音質化効果は凄まじいものがあり、金管楽器などに音場の狭さを感じるが、ピアノのリアルな音など、眼前で演奏が行われるかのような鮮明さだ。

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classicalmusic at 23:44コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーコンドラシン 

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クライバーは、その実力の割にはレパートリーがあまりにも少ない指揮者であったが、ひとたびレパートリーとした楽曲については、それこそより優れた演奏を志向すべく何度も演奏を繰り返した。

ベートーヴェンの交響曲第4番は、そうしたクライバーの数少ないレパートリーの一つであったが、DVD作品や海賊盤を除けば、本盤に収められた演奏は、その唯一の録音となったものである。

筆者が、本盤の演奏を聴いたのは中学生の時だったが、それまで今一つ親しめる存在ではなかった同曲の魅力を、本演奏を聴くに及んで初めて知ったことが今となっては懐かしく思い出される。

その後は、同じスタイルの演奏であれば、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる来日時のライヴ録音(1973年)などが高音質で発売(昨年、ついにシングルレイヤーによるSACD化)されたことから、本演奏の存在感は若干色褪せてきていたことは否めないところであったが、今般、高音質化されて発売された本演奏に接すると、あらためてその演奏の凄さを思い知った次第である。

全曲を約30分という凄まじいスピードで駆け抜けており、繰り返しなどもすべて省略しているが、それでいて、各旋律の端々に込められた独特のニュアンスの豊かさ、そして、思い切った強弱の変化やテンポの効果的な振幅を駆使して、実に内容豊かな演奏を繰り広げていると言えるだろう。

クライバーが本演奏の発売を許可したのは、数多く行ってきた同曲の演奏の中でも、崇敬するベームの追悼コンサートに際しての本演奏を特別視していたからであると思われるが、それも十分に納得することが可能な圧倒的な超名演と高く評価したい。

バイエルン国立管弦楽団も、クライバーの統率の下、渾身の名演奏を繰り広げている。

第1楽章のヴァイオリン演奏のミスや、とりわけ終楽章など、あまりのテンポの速さにアンサンブルが乱れる箇所も散見されるが、演奏全体に瑕疵を与えるほどのものではなく、むしろ、実演ならではのスリリングさを味わうことができる点を高く評価すべきであろう。

音質は、従来CD盤でも十分に満足できるものであったが、今般、シングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、クライバーによる圧倒的な超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと。

なお、本盤の価格について一言コメントをしておきたい。

前述のように、演奏内容や音質においては超一流である本盤であるが、約30分程度のベートーヴェンの交響曲第4番の演奏を収録したのみのSACDの価格として、3780円という価格がはたして適正と言えるだろうか。

同じくシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤を発売しているユニバーサルや日本コロムビアが4500円で発売していることを視野に入れたのであろうが、それでも収録されている楽曲の密度からすれば、そもそも比較の対象にならない。

いずれにしても、SACD化に果敢に取り組む姿勢には敬意を表するが、その価格設定については、この場を借りて再考を促しておきたい。

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classicalmusic at 22:06コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンクライバー 

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1950年6月19日、ウィーン・ムジークフェラインザール大ホールでのライヴ(モノラル)録音。

一度廃盤になったが、今般再登場したディスク。

超個性的な解釈で注目を集める往年の巨匠ヘルマン・シェルヘン。

その個性が最大限に発揮されているのがこのマーラー「第9」。

これはまことに熱烈なマーラー讃歌だ。

弦楽器はウィーン情緒満点のポルタメントを多用してぶんぶん歌うし、テンポの揺れもすごい。

第2楽章のレントラーも性格がはっきりしていて楽しい。

そしてこれがだんだんと狂気を帯びてくるところがすごい。

第3楽章もマーラーの精神の危機を感じさせてくれるし、終楽章アダージョの心の歌は、劣悪な音質を補って余りある。

驚くことに全曲で70分以下という史上最短の超ハイスピードな演奏になっているが、終楽章はこれだけ速いと、死が一刻と近づいてくる絶望的な恐怖心を感じてくる。

楽譜の変更やカット、意表をつく解釈の連続が、かえってマーラーの狂気をきわ立たせる。

所々オケがついていけてないものの、それがシェルヘンのライヴらしさになっているし、カットしまくり唸りまくりのマーラー「第5」の仰天ライヴ録音と比べたら、珍盤というほどでもない。

それどころか、一聴に値する記念碑的なマーラー演奏である。

シェルヘンの同曲録音はこれがスタジオ、ライヴ含め唯一の音源なので、貴重である。

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確かこれが初登場のライヴ録音。

シェルヘンはユネスコの後援で1954年にスイスのグラヴェサーノに、電子音楽を含む現代音楽の実験工房を開設したことで有名だが、指揮者としても数多い録音を遺しており、マーラーだけでなく、バッハやヘンデル、ベートーヴェンなどその分野は幅広かった。

演奏は葬送行進曲風の荘重な出だしから、鋭いミニアチュール風の彫りの細かさと剛直な力感で展開する。

第1楽章と第5楽章は、明確で力強い演奏を行っており、ウィーン交響楽団の音色は金管楽器や木管ではオーボエを中心に総じて魅力的だ。

第5楽章、マーラーと同じ時代を生きたクレンペラーは、第5楽章を相当遅く演奏する。

なんと約24分! このシェルへン盤は18分、クレンペラーの3/4の時間で演奏する。

クレンペラーは、テンポを遅くした分、巧みに細かい木管楽器/弦楽器の動きを明瞭に浮かび上がらせている。

しかし、これが「アレグロ、普通の弾き方で」なのかは甚だ疑問で、その点ではシェルへンのテンポの方が妥当といえるかもしれない。

第2楽章と第4楽章の2つの「夜の歌」は、オーケストラの特徴がここでもプラスに働き、純朴であり、そしてリリックだ。

第3楽章のスケルツォは、今日のシカゴ交響楽団やベルリン・フィルのような正確無比とはいかないが、ドイツ/オーストリア系の伝統的なオーケストラは、こうした3拍子の音楽で妙技を披露するのだ。

残念なのはオケの響きが薄手なことだが、風格ある演奏だ。

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2014年04月05日


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マーラー録音創世記の名盤!

あたかもライヴのような、流れを重視した現代ではあり得ないテイク。

シェルへンのこの録音のマーラーは、ウィーンの国立歌劇場のオケを採用しており、言うまでも無くかつてマーラーと関係の深かったオケの後継者達によるものなのだ。

前述したクレンペラー盤とともに、「第7」の最高を分け合うもうひとつの峰である。

全曲を貫く集中力とエネルギー、それでいて、ただの熱血漢の演奏ではなく、きわめて理知的なスコアの読みと合理的な音楽運びが光る。

シェルヘンは、この斬新な作品を1911年にオスカー・フリート指揮(ベルリン初演)で聴いた初々しい感動を忘れていないのだ。

まるで少年のようなひたむきさと、大人の知恵の両刀で、この巨大な作品に立ち向かっている。

長年行方不明だったこの演奏のマスターテープが発見され、優秀な国内盤CDで復刻されたとき、『レコード芸術』の批評に、「音が古くて、細部が判別できない」旨が書かれていた(残念ながら評者名は不明)が、いったいどんな装置で聴いたのだろう。

「モノーラル=古い=音が悪い」という固定観念をお持ちの気の毒な評者と思われる。

1950年代には、モノーラル録音技術がかなり完成されていたことも知らないのであろう。

また、この大曲をこれだけのクオリティで録音した偉大な先人たちへの敬意のかけらも見られないとは、想像力の欠如も甚だしい。

とりわけ当盤は、エンジニアの夏目久生氏とディレクターが拘りを持って製作した、入魂のデジタル時代のアナログ・ルネッサンスソフトによるもので、聴き慣れたはずの名盤がヴィヴィッドに蘇ったことを大いに喜びたい。

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20世紀を代表する巨匠指揮者ゲオルグ・ショルティの生誕100周年(2012年時)記念盤。

全編に厭世的な気分が流れ諦観や死の予感も漂うために「告別の歌」とも称される、マーラーが完成した最後の交響曲である第9番を収録。

当盤はショルティ第1回目(1967年)のロンドン交響楽団との演奏を録音したディスク。

空前絶後の激しいマーラー「第9」で、ショルティの最高の遺産の一つではないだろうか。

マーラーは基本的に非西欧的要素が無視できない、東欧の音楽ではないかとも思うのだが、ショルティにとってはバルトークと同じく血が近いのであろうか。

決して情感や思い入れを強調する型の演奏ではないけれど、マーラー独特のリズム、フレーズ、突発的な場面転換など、演奏者が真にマーラーに共感できてなければできない、きめ細かな表現で細部が埋められている。

マーラーを特に好きでもない指揮者の演奏では、第4楽章へのただの橋渡しにしか聴こえない中間楽章が、ここまで素晴らしい音楽になっているのは、ショルティのマーラーへの共感の証明であろう。

第4楽章も気品に溢れた素晴らしい音楽で、ショルティの世代のマーラー「第9」としては最上の演奏だと思う。

この時代(1960年代)にここまでマーラーのスコアに斬り込めたのはショルティだけだろう。

以前から思っていたが、ショルティは全て旧録音の方が面白く、マーラー然り、オケコン然りである。

ショルティはやはりオーケストラビルダーの第一人者であり、彼の振るオケはいずれも巧く、このロンドン交響楽団も実に巧い。

多数のマーラー「第9」のディスクが存在する現在ではコレクター向けかもしれないが、時代を考えると凄いものがある。

同じく名盤でほぼ同じ時期の録音のバルビローリ盤(EMI)と一緒に聴き比べてみると、いっそう面白いのではないだろうか。

音質は、1967年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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classicalmusic at 20:59コメント(0)トラックバック(0)マーラーショルティ 

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20世紀を代表する巨匠指揮者ゲオルグ・ショルティの生誕100周年(2012年時)記念盤。

マーラーの交響曲第3番は自然をテーマにした交響曲で、全体を通じてまだ生命のない時代から動植物や人間の誕生を経て、天上の世界に至る発展の過程を段階的に表現している。

作曲当時、毎年夏に静養に訪れていたシュタインバッハの自然が霊感を与えたと言われている。

当盤はショルティ第1回目(1968年)のロンドン交響楽団との演奏を録音したディスク。

ショルティはロンドン交響楽団から鮮やかに冴え渡った響きを導き出して、流動性に富んだ劇的な表現でこの大作を巧みに再現している。

いかにもショルティらしい精緻な表現で、きちっとまとめあげているが、そのなかにも、楽曲のこまやかなニュアンスを巧みに表出している。

ショルティは後年シカゴ交響楽団とも収録しているが、やはり若き日(1960年代)のデッカでの録音がある意味面白く聴けるものだ。

このマーラー交響曲第3番はロンドン響を幾分か強引に鳴らせているが、メリハリを効かせた中に歌わせるところは歌わせ、ロンドン響もよく彼の意図についていっている。

元々ロンドン響は比較的融通性のあるオーケストラで、その辺りの能力は優れたものがあるが、ショルテイの狙ったアゴーギグもきっちり再現して一応の効果を上げてはいるようである。

テンポはやや速いと感じたがトータルでは標準時間で収まっている。

ヘレン・ワッツのアルト独唱をはじめ、声楽陣も万全の歌唱を聴かせている。

ロンドン響との「第1」「第2」「第3」「第9」、コンセルトヘボウ管との「第4」の録音がいずれも完成度が高かったためか、かつてショルティがシカゴ響と全集を再録音する話の時「ショルティが断った」という記事が思い出される。

音質は、1968年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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2014年04月04日


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これまでの既発CDとは一線を画する素晴らしい高音質SACDの登場だ。

本盤に収められた楽曲は、いずれも1950年代の録音であり、マスターテープの状態にもかなり恵まれていると言えるのかもしれない。

冒頭の「ロザムンデ」は、従来のCDだと、音が団子状態になったり、音場が狭いことともあり、それほどの名演とは思っていなかったが、今般のSACD化によって、フルトヴェングラーの濃密でロマンティシズムに満ち溢れた彫りの深い音楽を構築していることが鮮明に再現され、情感豊かかつ雄渾な超名演であることがよくわかった。

ホルンは残念ながら古めかしい音がするものの、木管楽器や高弦のつややかな響きや低弦の厚みのある響きなどは、この当時の録音としては驚異的な高音質だ。

「未完成」は、冒頭をはじめ、中間部や終結部において提示される低弦による第1主題が、最新録音のようにはいかないものの、相当程度深みのある音質に蘇っており、これまでのCDとは次元の異なる素晴らしい高音質である。

ワインガルトナーは、この主題を指して、地下の底からのようにと評したが、本盤のフルトヴェングラーの演奏を聴いていると、あたかも地下の底から響いてくるような、底知れぬ不気味さを感じさせる。

高弦や木管楽器の響きは美しさの極みであり、ホルンも「ロザムンデ」ほどの古めかしさは感じさせず、フルトヴェングラーの深みのある情感豊かな名演を心行くまで満喫させてくれるのが素晴らしい。

シューマンの「マンフレッド」序曲は、1949年のライヴ録音(DG)の方が世評は高いが、今般の高音質化によって、フルトヴェングラーの濃厚にして彫りの深い表現を鮮明な音質で味わうことが可能となったことにより、筆者としては、ドラマティックさにおいては1949年盤には一歩譲るものの、両者同格の雄渾な名演と評価してもいいのではないかと考える。

リストの「前奏曲」は、おそらくは同曲史上最高の名演。

後年には、カラヤンも、本盤に唯一匹敵する素晴らしい名演を成し遂げているが、カラヤンが圧倒的な音のドラマを構築したのに対して、フルトヴェングラーは徹底した内容重視。

同曲の全ての音符が、あたかも生き物のように躍動しているかのようなコクのある音楽は、作曲者リストが同曲に込めた内容以上のものを紡ぎだした、至高・至純の高みに達している。

このような超名演を、現在望む得る最高の鮮明な高音質で味わうことができることを大いに喜びたい。

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カラヤンは広範なレパートリーを誇る指揮者であったが、その中でもオペラの分野においては、演奏内容の水準の高さにおいても他の指揮者の追随を許さない存在であった。

このようなカラヤンが最も愛したお気に入りのオペラの一つは、R・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」であったと言うのは論を待たないところだ。

カラヤンは、本盤に収められた演奏のほか、同曲の録音をDVD作品を含め、ウィーン・フィルとともに2度にわたってスタジオ録音を行っており、それらも素晴らしい名演であるとは言えるが、カラヤンによる同曲の演奏の最高峰は、まさしく本演奏である。

それどころか、本演奏は、様々な指揮者による同曲のいかなる名演にも冠絶するとともに、カラヤンが行った数多くのオペラの録音の中でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

本演奏は、まず何と言ってもカラヤンの指揮が素晴らしい。

壮年期のカラヤンならではの颯爽とした音楽性豊かな指揮ぶりが見事であり、第1幕の終結部の元帥夫人がオクタヴィアンに諭す場面の表現の何とも言えない味わい深さや、第3幕の有名な三重唱は至高・至純の美しさを誇っている。

カラヤンがその後ウィーン・フィルとともに行った録音では、これらの箇所においてはとても本演奏のような魅力はないと言えるところであり、カラヤンとしてもこれは空前にして絶後の絶妙な表現と言えるのではないだろうか。

歌手陣も豪華極まりないと言えるところであり、元帥夫人のエリーザベト・シュヴァルツコップを筆頭に、オクタヴィアン役のクリスタ・ルートヴィヒ、オックス男爵役のオットー・エーデルマン、そしてゾフィー役のテレサ・シュティヒ=ランダル、ファニナル役のエーベルハルト・ヴェヒター、さらには歌手役のニコライ・ゲッダなど、これ以上は求め得ないキャスティングの素晴らしさ、そしてその歌唱の凄さにただただ圧倒されるのみである。

オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団であるが、本演奏ではウィーン風の実に味わい深い名演奏を繰り広げており、いささかの不満を感じさせるものではない。

録音も、従来盤でも比較的満足できる音質である。

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classicalmusic at 21:09コメント(0)トラックバック(0)シュヴァルツコップカラヤン 

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本盤に収められた演奏は、いずれも1960年代後半から1970年代にかけてのカラヤンの全盛期の時代の録音だ。

加えて、蜜月状態にあったベルリン・フィルも楽団史上最高の黄金時代を迎えており、その意味では、カラヤン&ベルリン・フィルのベストフォームの演奏を聴くことができる1枚と言えるのかもしれない。

それにしても、この黄金コンビによる当時の演奏は傑出していた。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、流麗なレガート、金管楽器の朗々たる響き、肉厚の弦楽合奏、雷鳴のような迫力満点のティンパニなど、一聴しただけで、この黄金コンビによる演奏とわかるような独特のサウンド(いわゆるカラヤンサウンド)を有していた。

また、当時は、それぞれの楽器の演奏史上においても歴史に名が残るようなスタープレイヤーがあまた存在しており、その技量たるや桁外れの巧さであった。

したがって、楽曲の精神的な深みの追求に関してはいささか弱い面があったとも言えるが、そうした批判を一喝するだけのオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していたところであり、演奏を聴き終えた後の充足感には相当なものがあった。

本盤に収められた各管弦楽曲の演奏も、そうしたこの黄金コンビの圧倒的な音のドラマを味わうことが可能な素晴らしい名演だ。

レスピーギの「ローマの噴水」と「ローマの松」は、卓越したオーケストレーションを誇る楽曲であるだけに、この黄金コンビにとってはうってつけの楽曲である。

カラヤンの指揮も、聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりを発揮しており、これら2曲の様々な演奏の中でも上位を狙う名演に仕上がっている。

残念なのは、「ローマの祭り」が収録されていないことであり、その理由は定かではないが、同曲はカラヤンの美意識には符号しない楽曲であったのかもしれない。

リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲、ボッケリーニの小五重奏曲、アルビノーニのアダージョの3曲については、レスピーギよりも約10年近く前の1969年の録音であるが、ここでもこの黄金コンビによる圧倒的な音のドラマは健在だ。

いずれ劣らぬ名演であるが、特に素晴らしいのはアルビノーニのアダージョ。

これは、後年に「アダージョ・カラヤン」に収録されて大ヒットしたことでも知られている演奏であるが、カラヤンの指揮の巧さもさることながら、当時のベルリン・フィルの弦楽セクションがいかに超絶的な技量を有していたのかがよく理解できる凄い演奏と言えるだろう。

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2014年04月03日


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伝説のデュ・プレ、1969年プロムスのドヴォルザークが悲願のリリース!

ドヴォルザークはバレンボイム盤(1970年スタジオ / EMI)、チェリビダッケ盤(1967年ライヴ / DG)に次いで3種目。

ところが、まさにそのために数年越しの交渉でもデュ・プレ協会の許可が下りずに、皮肉にもとびきりの遺産として最後まで手付かずだったもの。

こうして今また良好なステレオで聴けるとは大きな喜びである。

ドヴォルザークのチェロ協奏曲と言うと、同曲を何度も録音したロストロポーヴィチによる演奏がいの一番に念頭に浮かぶ。

遺された録音はいずれ劣らぬ名演であるが、とりわけ、カラヤン&ベルリン・フィルと組んだ演奏(1968年)は、指揮者とチェリストががっぷり四つに組んだ絢爛豪華な超名演として、現在においても同曲演奏史上最高の名演としての地位を譲っていないと考えている。

このように、ロストロポーヴィチによる数々の名演の印象があまりにも強い同曲であるが、録音がやや冴えないという難点はあるものの、演奏内容だけをとれば、デュ・プレによる本演奏は、前述のロストロポーヴィチによる1968年盤にも十分に対抗し得るだけの名演と評価できるのではないだろうか。

それは、デュ・プレによる渾身の気迫溢れる力強い演奏によるところが大きいと言える。

本演奏は1969年のものであるが、これはデュ・プレが不治の病を発症する直前の演奏でもある。

デュ・プレが自らをこれから襲うことになる悲劇的な運命を予知していたのかは定かではないが、本演奏には何かに取り憑かれたような底知れぬ情念のようなものを感じさせるとも言えるだろう。

いや、むしろ、我々聴き手が、デュ・プレをその後襲った悲劇を思って、より一層の深い感動を覚えるのかもしれない。

それにしても、本演奏における切れば血が出てくるような圧倒的な生命力と、女流チェリスト離れした力感、そして雄渾なスケールの豪演は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な迫力を誇っており、このような命がけの体当たりの大熱演を繰り広げていたデュ・プレのあまりにも早すぎる死を惜しむ聴き手は筆者だけではあるまい。

グローヴズの骨太で雄大なバックにのせて、たっぷりと思いのたけを込めて歌うチェロ、惜しみなく続く暖かいブラーヴォ、心をかきむしられるこれほどの演奏が、どうしてこれまで眠ったままだったのか謎だ。

一方、イベールはデュ・プレとしては初出のレパートリーで、他ならぬ彼女が弾いていることに大きな価値があると言える。

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classicalmusic at 22:54コメント(0)トラックバック(0)デュ・プレドヴォルザーク 

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ミュンシュはライヴ録音においては当然のこと、スタジオ録音でも灼熱のように燃え上がる圧倒的な熱演を披露した。

本盤に収められたブラームスの交響曲第1番は、最晩年にミュンシュがパリ管弦楽団とともにスタジオ録音を行った4点の録音のうちの1点に相当するが、死を10か月後に控えた指揮者とは思えないような力強くも情熱に満ち溢れた圧倒的な豪演に仕上がっている。

冒頭の序奏からしてひたすら音楽を前進させようという強靭な意思が漲っている。

その後は、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化などを駆使して、ドラマティックの極みとも言うべき劇的な演奏を展開する。

とりわけ第1楽章や終楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫は、我々聴き手の度肝を抜くのに十分な圧倒的な迫力を誇っている。

第2楽章などにおける心を込め抜いた歌い方は、豊麗な情感に満ち溢れており、切れば血が噴き出てくるようなミュンシュの熱き歌心がひしひしと伝わってくるなど実に感動的だ。

パリ管弦楽団も、火の玉のような燃え上がったミュンシュの壮絶な入魂の指揮に必死でついていっており、アンサンブルが乱れる寸前のところで踏みとどまっているかのようなスリリングな演奏が、本演奏の圧倒的な迫力に更なる拍車をかけているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は、ミュンシュが成し遂げた様々な名演の中でも、同時期に録音された幻想交響曲(1967年)と並んで最上位に掲げられる超名演であると高く評価したい。

ただ、ブラームスの「第1」の演奏としては、例えば「名曲名盤300選」などで多くの音楽評論家がトップに推薦しているように本演奏が絶対的かつ理想的な名演かと言うと、一つの方向性としてはあり得るとは思うが、何か違うのではないかと言わざるを得ない。

ましてや、とある影響力の大きい音楽評論家が本演奏について、「フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーらしいドイツ的な名演」などと評しているが、これほどフルトヴェングラーを、そしてミュンシュを冒涜する言葉はないだろう。

それは、フルトヴェングラーによる同曲の様々な録音を聴けば容易に理解し得るところであるし、これはあくまでもミュンシュによる演奏なのだ。

筆者としては、本演奏が至高の超名演であることを十分に認めはするものの、同じように熱演であっても、剛毅にして重厚さを保ちつつ速めのインテンポで一気呵成に全体を巧みに纏め上げたベーム&ベルリン・フィルによる超名演(1959年)の方によりブラームスらしさを感じるということを、この場を借りて指摘をしておきたい。

録音は従来盤が全く冴えない音質で大きな問題があったが、数年前に発売されたHQCD盤では、相当程度音質は改善されたように思われる。

しかし、今般、最新のART(アビー・ロード・テクノロジー)によるリマスタリングによって、驚異的な高音質に蘇った。

最新のART技術によって蘇ったこのCDの演奏を、手持ちの旧盤と比較しながら聴いてみたのだが、音が伸びない不満を感じる旧盤に対し、この新盤は、全く別の演奏かと聴きまごうほど、ダイナミックレンジが大幅に改善されている。

特に最強音の音域の広がりは、想像を絶するほどであり、ミュンシュのスケールの大きい白熱の演奏の真価が、より鮮明に伝わってくるようになっているのだ。

ミュンシュ&パリ管弦楽団による歴史的かつ奇跡的な名演奏を、このような最新のリマスタリング技術で鮮やかに蘇った高音質録音で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 20:55コメント(0)トラックバック(0)ブラームスミュンシュ 

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ベルリオーズの幻想交響曲はミュンシュが最も得意とした曲のひとつであり、パリ管弦楽団の記念すべき最初のコンサートでの演目でもあった。

先般、その1967年11月14日に行われたパリ管弦楽団発足コンサートにおけるライヴ盤(アルトゥス)が発売されたことから、当盤は若干その価値を下げたと言えるが、演奏の安定性と言う意味では優れている面も多々あり、現在においても、ミュンシュを代表する超名演の座を譲ってはいない。

前述のコンサートに臨む前に、数日間かけてスタジオ録音された演奏ではあるが、とてもスタジオ録音とは思えないような圧倒的な生命力を感じさせる豪演だ。

第1楽章から終楽章まで、ミュンシュの指揮は阿修羅の如き突進で燃えに燃えまくっており、聴いていて手に汗を握るほどだ。

創設されたばかりのパリ管弦楽団も、これだけの快速のテンポであるにもかかわらず、一糸乱れぬアンサンブルを保っており、管楽器も弦楽器も最高の技量を示している。

発売当初から名盤の誉れ高い究極の演奏であり、熱き力の漲った、熱気溢れる超名演である。

ミュンシュ&パリ管弦楽団の黄金コンビが遺した録音は、本盤を含め4枚のCDのみであり、これらの演奏の質の高さに鑑みて、ミュンシュのあまりにも早すぎる死を残念に思う聴き手は筆者だけではあるまい。

これだけの歴史的な超名演だけに、これまで様々な高音質化の取り組みがなされてきたが、HQCD盤にしても今一つ音場が拡がらない、そして音がクリアに鳴り切らないという問題が解消されなかったというのは否めない事実である。

しかしながら、先日、ついに待望のSACD盤が発売された。

これは、マスターテープを下にしたということもあって、そもそも従来盤とは次元が異なる高音質であり、音場の拡がりも音質の鮮明さにおいても全く申し分がなく、おそらくは究極の高音質SACDと高く評価したい。

そして、ミュンシュ&パリ管弦楽団の歴史的超名演をこのような高音質SACDで味わうことができるのを大いに噛み締め、熟聴したい。

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2014年04月02日


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本盤には、デュメイがピリスと組んで1997〜2002年にかけてスタジオ録音を行ったベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集が収められている。

全10曲の録音に5年もの長期間を要したということは、デュメイ、そしてピリスがいかに慎重を期してベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの演奏・録音に望んだのかを窺い知ることが可能だ。

常々のデュメイのヴァイオリン演奏は超個性的であると言える。

持ち前の超絶的な技量をベースに、緩急自在のテンポ設定、思い切った強弱の変化、思い入れたっぷりの濃厚な表情づけや、時としてアッチェレランドなども駆使するなど、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした演奏を展開しており、その躍動感溢れるとともに伸びやかで情感豊かな表現は、即興的で自由奔放と言ってもいいくらいのものだ。

しかしながら、本演奏では、楽曲がベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタだけに、その片鱗を感じさせる箇所は散見されるものの、どちらかと言えば他の楽曲の演奏のような奔放さは影を潜めていると言えるのではないだろうか。

むしろ、演奏全体の基本的なスタンスとしては、真摯に、そして精緻に楽想を描いていくのに徹しているようにさえ感じられる。

しかしながら、スコアの音符の表層をなぞっただけの薄味な演奏にいささかも陥っておらず、各フレーズの端々にはフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいが満ち溢れており、このような演奏全体を支配している気品と格調の高さは、フランス人ヴァイオリニストでもあるデュメイの真骨頂であると言えるだろう。

そして、かかるセンス満点のデュメイのヴァイオリン演奏の魅力を、より一層引き立てているのがピリスによる名演奏である。

常々のピリスのピアノ演奏は、瑞々しささえ感じさせるような透明感溢れるタッチで曲想を美しく描き出していくというものであり、シューベルトやショパンなどの楽曲においてその実力を十二分に発揮しているが、本盤のベートーヴェンの演奏においては、そうした繊細な美しさにとどまらず、強靱さや重厚さも垣間見られるところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた堂々たるピアニズムを展開していると言えるだろう。

そして、ピリスの場合は、いかなるフォルティッシモに差し掛かっても、一音一音に独特のニュアンスが込められるとともに、格調の高さをいささかも失うことがないのが素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、様々な同曲の演奏の中でも、フランス風のエスプリ漂う洒落た味わいや格調の高い美しさを湛えた素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は、従来盤でも十分に満足できるものと言える。

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カラヤンが最も得意とし、その演奏・録音に最もこだわりを持っていたとされる、チャイコフスキーの後期3大交響曲の、それぞれ最後の映像・録音(「悲愴」は実に7回目)である。

カラヤンの美学が徹底している作品であり、金管楽器が咆哮するときに立ち上る熱気やカラヤンの表情と手の動き、演奏者を写す時のカメラアングルなど素晴らしい演出だ。

しかしアンチ・カラヤンの人にとっては、それがあざとく見える可能性もあるかもしれない。

筆者はカラヤンのチャイコフスキーの演奏にかなり以前から傾倒しており、1971年の華麗かつ豪華絢爛なEMI盤と、1975〜76年のパワフルで重厚なDG盤(どちらもオケはベルリン・フィル)とを聴き比べながら、いつも感動している(どちらも最高に凄い演奏!)。

しかし、このカラヤン最後のウィーン・フィルを指揮した演奏は、その凄さの桁が違っていて、指揮者もオーケストラも実に気迫のこもった迫力満点の演奏である。

この演奏には、行き着く所まで行き着いた「深さ」があり、個人的には疲れ果てたような表情を見せる第5番が好きだが、特に第6番「悲愴」はこれ以上のものは考えられない程の出来映えと言える。

カラヤンは「悲愴」を大変に得意としていた(1988年のベルリン・フィルとの最期の来日公演でも当曲を演奏した)が、これは最晩年の、しかもウィーン・フィルとの演奏ということで、音楽の自然さ、音色の美しさで、群を抜いている。

あまりの感動に(表現する言葉が見当たらない)筆者にとっては涙なしでは聴けないDVDとなった。

また、第4番から第6番「悲愴」までの3曲が1枚に収まっており、コストパフォーマンスの面でも大満足のDVDである(このシリーズの中でも図抜けてお得)。

チャイコフスキーとカラヤン好きの人には是非とも聴いて(見て)いただきたい作品である。

このDVDは筆者にとって一生の宝物である。

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classicalmusic at 20:57コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーカラヤン 

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アバドによるマーラーの交響曲第9番と言えば、いの一番に1999年にベルリン・フィルとライヴ録音した超名演が思い浮かぶ。

アバドは、この演奏のあと大病を患うのであるが、当該演奏には死を予見したかのような凄みがあり、それまでのアバドによる様々な演奏とは一線を画するような至高の高みに達した超名演であった。

同曲の本質は、死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執や憧憬であると言えるが、アバドは、自らが死と隣り合わせになるという絶望的な境遇に陥ったことによって初めて、その音化に見事に成功したと言えるだろう。

ところが、当該演奏の約12年前の本盤に収められた演奏はどうであろうか。

様々な意見もあろうかとも思うが、筆者としては、聴き手の心の琴線に訴えかけてくるものが今一歩弱いと言わざるを得ないのではないかと考えている。

確かに、美しい演奏ではある。

本演奏において、ウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、このオーケストラの美音が演奏全体に独特の魅力を付加しているというのも否定し得ない事実ではある。

しかしながら、その美しさというのも、例えば、カラヤンのように、余人には及び難い絶対美の世界を構築し得る(1982年盤)のであれば、一つの方向性として説得力があるのだが、本演奏の場合は、美しさのレベルにおいてもとてもカラヤンの域に達しているとは言い難い。

また、第1楽章の死への恐怖と闘いについても、前述のアバドによるベルリン・フィル盤のような凄みには到底及んではおらず、いささか中途半端との誹りは免れないのではないかと考えられる。

もっとも、随所に聴かれる歌謡性の豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには魅力があると言えるところである。

その意味では魅力的な箇所にも事欠かないとも言えるのかもしれない。

第10番については、この後の録音がなされていないことから本演奏が現時点でのアバドによる最新の演奏ということになるが、その演奏内容の評価については第9番と同様のことが言えるのではないか。

美しくはあるが、かと言って他の演奏を圧するような絶対美の世界を構築し得ているわけではない。

楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みはないが、他方、歌謡性豊かな情感には満ち溢れており、その意味では魅力的な箇所も多々存在している。

いずれにしても、第9番、第10番ともに、踏み込み不足の誹りは免れないと言えるが、他方、魅力的な箇所も散見されるところであり、ウィーン・フィルによる美演も相俟って、総体として佳演との評価をするのにいささかの躊躇もするものではない。

なお、初出の時もそうであったが、アバドは、両曲をCD化するに際して、第10番を冒頭に配してその後に第9番をカップリングするという楽曲の配列にしているが、これは何か意味があるのであろうか。

少なくとも、第10番の内容に鑑みれば、第9番の終楽章の次に配するのが至当であると考えるのだが、少なくともアバドによる本演奏を聴いても、かかる特異な配置の説得力を勝ち取るだけの根拠を見出すのは困難であると言わざるを得ない。

録音は、従来盤でも比較的満足できる音質ではあったものの、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは大いに歓迎したい。

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2014年04月01日


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本盤は、全盛時代のセル&クリーヴランド管弦楽団による演奏の凄さを味わうことができる名SACDと言える。

本盤には、この黄金コンビによるヨハン・シュトラウス2世やヨゼフ・シュトラウスによるウィンナ・ワルツの演奏(1962年のスタジオ録音。歌劇「こうもり」序曲のみ1958年のスタジオ録音)が収められているが、一般的ないわゆるウィンナ・ワルツ的な演奏とは随分と様相の異なった演奏に仕上がっていると言えるだろう。

セル&クリーヴランド管弦楽団による全盛時代の演奏はそれは凄まじいものであり、オーケストラの各楽器セクションが一つの楽器が奏でるように聴こえるという、「セルの楽器」との呼称をされるほどの一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを誇っていた。

米国においては、先輩格であるライナーを筆頭に、オーマンディやセル、そして後輩のショルティなど、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いたハンガリー人指揮者が数多く活躍しているが、オーケストラの精緻な響きという意味においては、セルは群を抜いた存在であったと言っても過言ではあるまい。

もっとも、そのようなセルも、オーケストラの機能性を高めることに傾斜した結果、とりわけ1960年代半ば頃までの多くの演奏に顕著であるが、演奏にある種の冷たさというか、技巧臭のようなものが感じられなくもないところだ。

本盤に収められた演奏も、そうしたセルの欠点が顕著であった時期の演奏であるが、楽曲がウィンナ・ワルツという小品であるだけに、技巧臭などは殆ど感じられないところである。

もっとも、前述のように、いわゆるウィンナ・ワルツ的な演奏とは様相が異なっていることから、ウィーン風の抒情に溢れた情感豊かな演奏を期待する聴き手には、いささか不満が残る演奏と言えなくもない。

しかしながら、演奏全体の引き締まった造型美や響きの精緻さにおいては、他の演奏には類例を見ない完全無欠の演奏に仕上がっており、聴き終えた後の充足感には並々ならないものがある。

いずれにしても、本盤に収められた各楽曲の演奏は、全盛期のセル&クリーヴランド管弦楽団によるオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演に仕上がっていると高く評価したい。

音質は、今から約50年前のスタジオ録音だけに、本従来盤はいささか不満の残るものであったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は圧倒的に鮮明な高音質であり、セル&クリーヴランド管弦楽団による演奏の精緻さを味わうには望み得る最高のものである。

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classicalmusic at 22:47コメント(0)トラックバック(0)シュトラウスセル 

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残した業績の数でも、それを行ってきた歳月の点でも比類のないその経歴の中で、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、シューベルトの《冬の旅》をあらゆる主要なコンサート会場で歌い、また録音も7回を数えた。

この録音は、彼の声が「美しさと表現力のピークにあった」と言われた1965年に行われた3度目のものである。

今回がCDとして初めての発売になる当演奏は39歳の時にベルリンのUfaスタジオで録音された(フィッシャー=ディースカウが日本を初めて訪れたのはこの2年前である)。

ここでフィッシャー=ディースカウは言葉を大切に、曲ごとの内容に即した表情付けをその豊かな声を駆使しつつ、かつ十二分に縦横にコントロールした、ごく自然な流れの中で望みを失った若者の孤独で寒々とした姿が歌われている。

彼は幅広い声域と豊麗な声、完璧なまでのテクニックをもち、独自の至高の世界を創り上げている。

時折厳しい表情も見せるが、全24曲聴き終わった後、私たちは何よりもこの若者の心を包み込むような暖かさに心満たされるのである。

と同時にこの24曲から成る歌曲集が秘める汲めども汲めども尽きることのない魅力を私たちは改めて知るのである。

イェルク・デムスの淡々とした上品な味わいと詩的な感性に溢れる伴奏に支えられたこの演奏を、数ある《冬の旅》の録音の中でも最高のものと考える人々も多い。

デムスとフィッシャー=ディースカウは互いを研鑽し合う仲だったようで、デムスの品の良い解釈が、頭脳プレイに陥りがちなフィッシャー=ディースカウをも納得させたのであろう。

筆者としては、フィッシャー=ディースカウの7つの当歌曲集の録音を所有しているが、録音した年、伴奏ピアニストを考慮に入れて、あとは聴く時の気分や好みに合わせて選ぶことにしている。

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classicalmusic at 21:05コメント(0)トラックバック(0)シューベルトF=ディースカウ 

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カラヤンはR・シュトラウスを得意としていたが、その中でも楽劇「ばらの騎士」は特にお気に入りの楽曲であったということでよく知られているところだ。

ザルツブルク祝祭大劇場のこけら落とし公演にカラヤンが選んだ曲目も同曲であるし、その後も同音楽祭で何度も採り上げてきた演目であった。

CDとしての録音もフィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音(1956年)、そして本盤のウィーン・フィルとのスタジオ録音(1982〜1984年)の2度に渡って行われているし、DVD作品も2種(前述の1960年のザルツブルク祝祭大劇場こけら落し公演の収録、1984年のザルツブルク音楽祭ライヴ収録)遺されている。

これはカラヤンが同曲を深く愛していたことの証左であると考えられるところだ。

DVD作品は別として、CDとしては、1956年の旧盤の方が永遠の歴史的名盤として極めて高い評価を受けている。

確かに、当該演奏は、壮年期のカラヤンならではの颯爽とした音楽性豊かな指揮ぶり、そして歌手陣の豪華さは圧倒的であり、特に、有名な第3幕の「ばらの騎士の三重唱」は、もはやこの世のものとは思えないほどの抗し難いほどの美しさを湛えていた。

それでは、本盤の演奏が1956年盤に劣っているのかと言うと、必ずしもそうとは言い切れないのではないだろうか。

本盤が録音された1982年〜1984年と言えば、ベルリン・フィルとの関係に亀裂が生じるとともに、健康状態も悪化していたこともあって、カラヤンとしても心身ともに好調とは言えない時期に相当するが、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠ならではの円熟の指揮ぶりは、明らかに旧盤を遥かに凌駕している。

旧盤では、あくまでも比較の問題であるが、オクタヴィアンとゾフィーの若きカップルの幸せの方に焦点が当たっていたものが、本盤では、元帥夫人の諦観に焦点が当てられた演奏となっており、カラヤンの指揮は、自らに忍び寄る老いを自覚しつつ、若きカップルの幸せを温かく見守るという元帥夫人に同化しているような趣きさえ感じさせるところだ。

そう思って聴くと、本演奏における「ばらの騎士の三重唱」は、数々のオペラの名演を成し遂げ、名実ともにオペラ界の頂点を極めた巨匠カラヤンの現世への告別のようにも聴こえるところであり、涙なしには聴けないほどの抗し難い感動を呼び起こす畢生の名演奏に仕上がっていると評価したい。

歌手陣は、カラヤンの旗本とも言うべき歌手陣が配されており、1956年盤と比較すると若干落ちるとは思うが、元帥夫人のトモワ=シントウ、女たらしのオックス男爵にクルト・モル、オクタヴィアンにアグネス・バルツァ、ゾフィーにジャネット・ペリーという豪華な布陣。

このうち、元帥夫人については、さすがに旧盤のエリザベート・シュヴァルツコップと比較するといささか線の細い気もしないではないが、シュヴァルツコップの巧さが鼻につくというクラシック音楽ファンの中には、本盤のトモワ=シントウの歌唱の方を好ましいと思う人がいても何ら不思議ではない。

ウィーン・フィルの演奏も美しさの極み。

当時のカラヤンは、前述のように、ベルリン・フィルとの関係が決裂しており、ウィーン・フィルに指揮活動の軸足を移していた。

ウィーン・フィルは、そうした傷心のカラヤンを温かく迎え、カラヤンとともに渾身の名演奏の数々を成し遂げていた。

本演奏もその一つであり、どの箇所をとっても、カラヤンと一体となって、オペラ指揮者としての集大成とも言うべき名演奏を成し遂げようと言う気構えが感じられるところだ。

まさに、指揮者とオーケストラの関係の理想像の具現化とも言えるところであり、指揮の巧さだけをとれば旧盤ということになろうが、本演奏こそは、カラヤンによる同曲の演奏の、そしてカラヤンがこれまで行ってきたあらゆるオペラ演奏の集大成とも言うべき至高の超名演と高く評価したい。

なお、カラヤンの最も優れた伝記を執筆したリチャード・オズボーン氏によると、カラヤンは、本盤の録音の際、「菓子屋の店先を離れようとしない子どもと同じ」ように、既に完璧な録音が終わっている長い箇所についても敢えて何度も録音し直したとのことである。

カラヤンは結果として本盤の録音に3年もの期間を要しているが、カラヤンとしても、このオペラ演奏の桃源郷とも言うべき世界にいつまでも浸っていたかったに相違ないと考えられるところだ。

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classicalmusic at 20:56コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスカラヤン 

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筆者はゲルギエフ&マリインスキー劇場管弦楽団の来日公演で、チャイコフスキー《悲愴》の実演に接したが、それはまさに作品の本質を鋭く掘り起こし、熱い真情を込めて作品の内面に深く肉迫する感動的な凄演であった。

それだけに今回はオケがウィーン・フィルということもあり、大いなる期待を持って当ディスクを購入した。

ゲルギエフの《悲愴》としてはマリインスキー劇場管盤に次ぐ演奏であるが、ライヴ録音というハンデはあるものの、いささか荒っぽい印象を受けた。

第1楽章など、テンポ設定はスコアに指定されている以上のめまぐるしい変転を見せるが、感動的な第2主題を急速なテンポで演奏したり、展開部の盛り上がりの箇所での大見えを切ったリタルダンドは、いくらなんでもやり過ぎとは言えないだろうか。

第2楽章のロ短調に変調する中間部も、インテンポであっさりと流してしまうが、好みの問題もあるが、いささか白けた雰囲気が漂う。

第3楽章はノーマルな出来で、テンポもライヴのためなのか全体的にリズミカルに進んでいる。

しかし、終楽章の展開部では、再び急速なアッチェレランドが見られるが、この部分は楽曲全体の頂点に当たる箇所でもあり、表現は悪いが、「百日の説法屁一発」という諺を思い出してしまった。

ウィーン・フィルの美演を持ってしても、この荒っぽさを中和することが出来なかったのは残念な限りである。

この2004年時点にライヴ録音されたこの《悲愴》を聴く限りにおいては、ゲルギエフには、更なる自己研鑽が必要なようであったと言わざるを得ない。

マリインスキー劇場管とのライヴではアグレッシヴな質感でグイグイ突き進んでいただけに残念だ。

結論としてゲルギエフで《悲愴》を聴くのならば、断然旧盤(マリインスキー劇場管盤)の方をお薦めしたい。

但し、当盤のSHM−CD化による高音質録音は旧盤を凌ぐ出来ばえと評価したい。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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