2014年06月

2014年06月30日


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バルビローリは、どちらかと言えば北欧音楽や英国音楽を得意のレパートリーとした指揮者として広く知られているが、マーラーの交響曲についてもコンサートで頻繁に採り上げるとともに、ライヴ録音などを含めると相当数の録音を遺しているところである。

交響曲第6番「悲劇的」についても複数の録音が遺されており、ベルリン・フィルとの演奏(1966年(ライヴ録音))、そしてニュー・フィルハーモニア管弦楽団との演奏(1967年(ライヴ録音及びスタジオ録音(本盤)の2種))の3種の録音が存在している。

今後も、更に録音が発掘される可能性は否定できないが、これら3種の録音はいずれ劣らぬ名演である。

この中で、1966年ライヴ録音盤と1967年ライヴ録音盤は、オーケストラがベルリン・フィルとニュー・フィルハーモニア管弦楽団の違いがあるものの、演奏全体の造型やテンポ、そしてアグレッシブな豪演などと言った点においてはほぼ共通するものがある。

これに対して、本演奏は、バルビローリにとっても同曲の唯一のスタジオ録音ということもあるが、これらの2種のライヴ録音とは、その演奏の性格が大きく異なっているところだ。

そもそもテンポが大幅に遅くなっている。

トータルの時間でも10分以上の遅くなっているのは、前述のライヴ録音盤がいずれも約73分であることに鑑みれば、大幅なスローダウンと言えるだろう。

それだけに、本演奏におけるバルビローリの感情移入の度合いには尋常ならざるものがある。

バーンスタインやテンシュテットなどに代表されるドラマティックな演奏や、はたまたブーレーズなどによる純音楽に徹した演奏などとは異なり、滋味豊かな情感に満ち溢れるとともに、粘着質とも言うべき濃厚な表情づけが特徴である。

ここぞという時のトゥッティにおける強靭な迫力にもいささかも不足はないが、そのような箇所においても独特の懐の深さが感じられるのが、バルビローリによるマーラー演奏の性格をより決定づけているとも言えるだろう。

本演奏でもかかるアプローチは健在であり、ゆったりとしたテンポによるこれほどまでの濃厚で心を込め抜いた演奏は、かのバーンスタイン&ウィーン・フィルによる超名演(1988年)ですらすっきりとした見通しの良い演奏に感じさせるほどであり、聴き終えた後の充足感には曰く言い難いものがある。

なお、バルビローリは、近年ではマーラーの最終的な決定を尊重するという意味で主流になりつつあるが、当時としては珍しい、スケルツォ楽章(第2楽章)とアンダンテ楽章(第3楽章)を入れ替えるバージョンで、1966年ライヴ録音盤と1967年ライヴ録音盤では演奏を行っていたが、本演奏では従来どおりの入れ替えないバージョンで演奏を行っているのは実に興味深いと言えるところだ。

また、バルビローリの濃厚で粘着質な指揮に、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団も必死で喰らいつき、持ち得る実力を十二分に発揮した渾身の名演奏を展開しているのも素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、バルビローリの同曲への深い愛着と思い入れを感じることが可能な入魂の名演と高く評価したい。

併録の「メタモルフォーゼン」も、いわゆるバルビローリ節が全開の名演であり、各フレーズを心を込めて情感豊かに感動的に歌い上げているのが素晴らしい。

ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の弦楽合奏の卓越した技量も大いに賞賛したい。

音質は、1967年のEMIによるスタジオ録音であり、従来盤については今一つ冴えない音質であったが、ARTリマスタリングが行われたことによって、若干ではあるが音質改善が見られたように思われるところだ。

ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、これまでの既発CDとは段違いの素晴らしさであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、バルビローリによる至高の超名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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シェーンベルクの歌劇「モーゼとアロン」については、既にブーレーズやケーゲルによる現代感覚溢れる切れ味鋭い名演が存在している。

ブーレーズの演奏(1974年)は、劇的で晦渋とも称される同曲を徹底したスコア・リーディングの下に解析するとともに、細部に至るまで彫琢の限りを尽くした精緻な演奏を行っていた。

これに対して、ケーゲルの演奏(1976年)は、スコアに記された音符の背後にあるものに徹底してメスを入れ、楽曲の心眼とも言うべき精神的な深みに鋭く切り込んでいくとともに、それらを現代人の持つ感覚を持って、一切の情感を排して冷徹に描き出すというとてつもない凄みを有していた。

これら両演奏に対して、本盤のショルティによる演奏は、十二音技法を徹底して駆使しているとされる同曲の複雑な曲想を、圧倒的な技量を有したスーパー軍団であるシカゴ交響楽団を巧みに統率して、精緻かつ完璧に描き出すことに成功した演奏ということが言えるのではないだろうか。

おそらくは、シェーンベルクが記した複雑な同曲のスコアを完璧に再現し得たという意味においては、オーケストラの技量を含めて考えると、ブーレーズの演奏以上の出来ではないかとも考えられるところだ。

もっとも、新ウィーン派の傑作オペラと評される歌劇「モーゼとアロン」の含蓄のある内容を徹底して突き詰めていく演奏を希求するクラシック音楽ファンにしてみれば、内容空虚で浅薄な演奏との誹りは十分に想定されるところであるが、少なくとも、傑作と評される割には録音の点数があまりにも少ない同曲の魅力、特に、必ずしも広く親しまれているとは言い難いシェーンベルクの十二音技法による楽曲の素晴らしさを、多くのクラシック音楽ファンに知らしめることに成功した演奏という意味においては、本盤の演奏も相応の評価が必要ではないかと考えられるところだ。

とりわけ、シカゴ交響楽団の合奏能力の凄さは、とても人間業とは思えないようなレベルに達しており、複雑で晦渋とも言われる同曲の曲想を明瞭に紐解くことに大きく貢献していることを忘れてはならない。

歌手陣も、ショルティが選び抜いたキャスティングだけに、なかなかの顔ぶれが揃っており、モーゼ役のフランツ・マツーラ、アロン役のフィリップ・ラングリッジの主役2人の歌唱には目覚ましいものがある。

また、祭司役のオーゲ・ハウグランドや少女役のバーバラ・ポニー、そしてシカゴ・シンフォニー・コーラスやグレン・エリン児童合唱団員なども最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

そして、特筆すべきは、英デッカによる極上の高音質録音であり、同曲のシェーンベルクの精緻なオーケストレーションを精緻かつ完璧に再現するというショルティのアプローチをCDを通して貫徹するのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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このモーツァルト:ピアノ協奏曲第9番「ジュノーム」の演奏を最後に全てのコンサート活動から引退したピアニスト、アルフレッド・ブレンデルの演奏活動60年の集大成とも言えるライヴ盤である。

ブックレットにはブレンデル自身によるファンへのメッセージとリサイタルの楽曲解説、協奏曲で指揮者を務めたマッケラスのメッセージ、ウィーン・フィル楽団長ヘルスベルクのメッセージを掲載している。

最初に触れておきたいのはある『伝説』である。

それは名ピアニストは同じ誕生日を持ち11年ごとに現れる、というものだ。

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Arturo Benedetti Michelangeli, 1920年1月5日 - 1995年6月12日)
アルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel, 1931年1月5日 - )
マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini, 1942年1月5日 - )

この3人は誕生日が同じで11年違いなのだ。

いずれも劣らぬ最高レベルのピアニストである。

そしてこの引退公演の曲目を見て、最後にブレンデルの弾きたかった曲というのがよく分かる気がする。

なんという、優しい「ジュノーム」なんだろう。

モーツァルトの初期作品であるこのコンチェルトは、確かに愛すべき、チャーミングな作品ではあるが、ウィーン時代の後期名作コンチェルトと比べると、よく言えば屈託のない、悪く捉えれば、他愛のない作品といえる。

いままで聴いた演奏の中で、これほど愛情に満ち、優しく弾かれたことはかつてなかったように感じる。

それは、指揮者のマッケラス以下、ウィーン・フィルの団員が去り行く名手を惜しみ、限りない愛情と共感を覚えて演奏しているからに他ならない。

以下、ハイドンから始まりシューベルト、バッハにいたる独奏曲においても、なにか大切な宝物を置いて、去ってゆかなければならない、そんな惜別の念がひしひしと伝わり、一音一音慈しむように弾いているブレンデルの姿が浮かぶようで、アンコールのシューベルトを聴いていて思わずほろりとさせられた。

特に、シューベルトでもピアノ・ソナタ第21番を弾きたい、聴かせたいというのが強く出ている気がした。

この偉大なピアニストのラスト・アルバムにジーンとした。

「いままでありがとう、ブレンデル。今後は後進の指導に期待しています」と、素直に感謝できる、極上の演奏の記録だと思う。

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2014年06月29日


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ブレンデルが、70歳を過ぎてから本格的に取り組み出したモーツァルトの、協奏曲シリーズ第4弾。

シンプルかつ純粋無垢なモーツァルトでありながら、ほのかなロマンの香りが漂うブレンデルならではの演奏。

ブレンデルはモーツァルトのピアノ協奏曲全集を、マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団と録音していたが、四半世紀ぶりとなるこの演奏には、70歳を越えるという最円熟期にある巨匠の澄み切った境地がすみずみにまで反映しているといってよいだろう。

前回も、純度の高い音と表現を細部までくっきりと行きわたらせて、この2つの協奏曲の味わいを充実した響きで再現していたが、ここでの表現は、いっそう緻密である。

しかも1音1音にまで吟味の行き届いた表現を自在に織りなした演奏は、余分な身振りや自己主張で音楽の姿を崩すことなく、あくまで柔軟で懐が深い。

録音当時のブレンデルならではの柔らかく澄明で含蓄の深い表現、それに磨きぬかれた音と品格美しい表現の彩りも印象的である。

交響曲全集を完成するなど、モーツァルトの音楽に知悉したマッケラスの、細部まで明快な配慮が無理なく行き届いた見事なサポートも特筆されよう。

ポピュラーな第20番や第24番などに比べれば地味に感じる第12番と第17番の組み合わせだが、ブレンデルとマッケラスの手にかかると何とチャーミングな曲に聴こえることだろうか。

ブレンデルはとりわけ第12番のことを「モーツァルトのコンチェルトの中で最も愛らしい作品」と評しているだけに、意外な魅力を発見させてくれるパフォーマンスを披露している。

円熟の極を行くピアノを支えるオケのしなやかさ。

聴き手を温かく包み込んでくれる。

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ブレンデルにまたモーツァルトの“周期”がおとずれていた。

約15年かけて成したマリナーとの共演によるモーツァルトのピアノ協奏曲全集は、ブレンデルの代表盤のひとつと目されるが、それに飽き足らぬかのように貪欲に進化しつづけ、新たな地平を切り開いてみせるのはさすが。

脱帽である。

マッケラス&スコットランド室内管とによるこのシリーズもすでにこのアルバムで3点目。

本盤の第9番「ジュノーム」と第25番のカップリングは一見すると“落差”があるようにも思われるが、実際には第9番「ジュノーム」は後期作品と比較しても一歩もひけをとらぬ逸品であり、ブレンデルの演奏はそれを如実に示す。

無邪気な子供が「ホラ、これって素敵でしょう?」と言って自分の宝物をみせびらかすような屈託のない喜びと感動がヒシヒシと伝わってくるのだ。

マッケラスの棒もきわめてポジティヴで、活気のあるアンサンブルによりピアノが一層際立って聴こえる。

とりわけ第9番「ジュノーム」が出色だ。

筆者はモーツァルトの一桁台のピアノ協奏曲は殆ど聴く事がなく、第9番「ジュノーム」もこのCDと出会うまでは、滅多に聴くことがなかった。

このCDは第25番との併録であり、初めはその前座のような気持ちで聴いた。

モーツァルト初期の他愛のない作品と思って聴き始めたのだが、それにしてもなんという、優しい「ジュノーム」なのであろうか。

表情豊かな慈愛に満ちた名演で、後期の協奏曲に少しも劣らない中身の濃さを感じさせてくれる演奏であった。

特に第2楽章に心が打たれる。

ブレンデルの演奏がそう感じさせるのかも知れない。

弱音のなんとも慈しみに満ちた、それでいて哀しい音楽。

これらはまさに、人間だから出せる音としか思えない。

冒頭のオケの悲愴感極まる演奏から、ピアノが地の底から湧き上がるかのように、それでいて静かに、あくまでも自然に入ってくる様は、この曲のこの楽章の《心》を伝えている。

21歳のモーツァルトがどのような思いで、この曲を書き上げたかは知らない。

天才の気まぐれなのか、なんなのか。

しかし、見事にこの世界における哀しみの一つを音として現している。

感動的名演。

演奏の内容もさることながら、この録音には脱帽で、奥行き感を伴った、オーケストラと見事なホールトーンの中からピアノの実体感が醸し出される。

これまでこれ以上のピアノ・コンチェルトの録音を聴いた事がない。

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2014年06月28日


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このCDに収められた2つのピアノ協奏曲は、モーツァルトの数多い作品の中でも色濃い内容を持っているが、ブレンデルは淡々とした演奏を繰り広げながらも1音1音を慈しむかのような演奏は、まさに一級品と言えよう。

この2曲はいずれもモーツァルトのピアノ協奏曲のなかでも短調の曲であり、さらにモーツァルト自作のカデンツァが遺されていない作品である。

モーツァルト自作のカデンツァがないということは、ピアニストが自分で即興で埋めなくてはならない。

その意味で、当盤はモーツァルトの作品の特徴である短調の繊細な美しさを楽しむだけでなく、ピアニストの力量も聴ける1枚なのである。

筆者もこの2曲の同曲異演盤をかなりの点数聴いてきたが、まだこのブレンデル以上のカデンツァにお目にかかったことはない。

そもそもカデンツァというのは演奏者が自作で即興演奏するものであり、ブレンデルの場合、彼がきちんと作曲をしているという点で素晴らしいのである。

筆者はブレンデルの旧録音である、マリナー指揮、アカデミー室内管の演奏も持っているが、まったくカデンツァは変わりはない。

つまり、ブレンデルは1970年代からずっと同じカデンツァを使ってきているということになる。

それは、それだけ完成度が高く、聴衆からの評価も高いことを意味している。

旧録音とこの新録音とどこが違うのかと言えば、演奏面では透明感だと言える。

モーツァルトの短調作品が持つ特有の心象風景のような透明な世界が、この新録音には広がっている。

マッケラスとスコットランド室内管のバックも、その透明感をしっかりとサポートして、古典派の協奏曲らしくブレンデルと対話している。

その端正な演奏から生み出されるドラマティックな世界は、何度聴いても飽きがこない。

そのことが、筆者をブレンデルのモーツァルト:ピアノ協奏曲へ目を向けるきっかけとなった、エポックメイキングな1枚なのである。

何が何でも聴いておきたい名盤の1つと言えよう。

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2000年9月17-20日、スコットランド、ダンディー、ケアード・ホールに於けるデジタル録音。

ピアノ協奏曲では初めてクラリネットが用いられた、後期の円熟した筆致を示す堂々たる交響的構築による第22番と、作曲家の死の年に生み出された、晩年の清澄な心境を反映した最後のピアノ協奏曲である第27番。

モーツァルトのピアノ協奏曲の名作2曲を収録した1枚。

先ごろ現役を引退したブレンデルの円熟の境地を色濃く反映させた演奏で、第22番のカデンツァはブレンデル自らが作曲したものを使用している。

ブレンデルは2000年前後にモーツァルトのピアノ協奏曲を集中的に録音した。

今思い起こせば、ブレンデルという才人が残したモーツァルト演奏の総決算であったわけで、録音されたこと自体が貴重であった。

この新盤でブレンデルはマッケラスと一緒に演奏したにもかかわらず、ひたすら自分の音楽に邁進している。

マッケラスはモーツァルトやベートーヴェンの交響曲を演奏する際には、ピリオド・アプローチを積極的に取り入れ、爆発的に鳴り響く音響を伴う劇的な演奏を行っているのに対し、ここではピリオド・アプローチは最小限に抑えられており、ブレンデルは演奏の主導権を握ってオーソドックスな演奏に徹している。

ピリオド・アプローチが珍しくもなくなっている今日、モーツァルトのピアノ協奏曲、それもこの2曲でめぼしい成果が上がっていないのは、もしかしたら、この2曲の透明度の高さ故にピリオド・アプローチがそぐわないのかもしれない。

録音当時、ピアニストと指揮者は69歳と75歳。

2人共に知的な重鎮だけに構えて聴きだしたのだが、浮かんできたのは老人2人の微笑ましいモーツァルトだった。

無理のないテンポ運び、無駄な力も一切加えていない様子で、カデンツァからオケに戻る場面でも劇的な印象を与えずに自然体を演出する。

「演出する」とは少し変な言い方かもしれないが、彼らは十分にそれを意識して自然であろうとしているように思えるのだ。

何気ないフレーズにも繊細にコントロールがなされ適度な歌があるので、やっぱり知的な印象が最後には残される。

よって精妙なモーツァルトを十二分に堪能できるのである。

一方で、第27番のような霊感に満ちた美しい世界を、はなっから求めていないような演奏でもある。

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鍵盤の師子王と呼ばれたバックハウスと若き日に強烈無比な演奏をしていたショルティというとんでもなく衝撃的な顔合わせのケルンでのライヴ録音の登場だ。

バックハウスが残した『皇帝』協奏曲には3種のセッション録音の他にもシューリヒトやクナッパーツブッシュとのライヴ録音があったが、これにまだ少壮であったショルティとの爽快な共演が加わった。

バックハウスが72歳(1884年3月生まれ)、1956年の『皇帝』は、まだ43歳で血気盛んなショルティ(同年ザルツブルク音楽祭にデビュー)との願ってもない顔合わせで、衰え知らずその一歩もゆずらぬやりとりからライヴの醍醐味ここに尽きるといった感で屈指の聴きもの。

ピアノ協奏曲はピアノのためにあるのだとつくづく感じさせる演奏でもあり、バックハウスの巨大な度量は計り知れない。

録音当時バックハウスは年齢的には老年期であったが、最晩年の枯淡の境地に至る前の最円熟期の演奏と言えるものであり、そのピアノの鳴りっぷりの良さは燦然たる素晴らしさだ。

ベートーヴェンを知悉し尽した境涯から生まれる即興性は、なるほどと唸らざるを得ない。

当時頭角をめきめきとあらわしつつあった生気のあるショルティの演奏もさわやかな白熱ぶりで楽しく、その指揮ぶりは、筆者の好む、アシュケナージ、シカゴ響との録音を思い出させる新鮮でエネルギッシュなもの。

バックハウスはこれから3年後に、S=イッセルシュテット&ウィーン・フィルとかの有名なデッカ録音を残すことになるのだが、この時期にかくも立派な演奏が繰り広げられていたとは!

魔性の魅惑を備えた演奏ではないが、王道を行く名演のひとつと言えるものであり、久しぶりに『皇帝』らしい『皇帝』を聴いた満足感に満たされた。

また、2度目のスタジオ盤全集中の録音と同じ年にあたる『ワルトシュタイン』ソナタのライヴでは揺るぎない打鍵が圧倒的に素晴らしく、堅牢な構築美と風格ある技巧で強い感銘を与える名演だ。

バックハウスによる不滅のベートーヴェン演奏が味わえる。

ショパンのエチュードはSP時代に決定的名盤を残したバックハウスの切り札なのだが、実演ではこれが唯一の記録だろう。

演奏は取り立てて評するところはないが、曲間で指慣らしの和音を挿入して、次の曲の調性へ誘うバックハウスならではの余興があるのが乙だ。

ショパンを除くすべて、WDRのオリジナル・マスターからの復刻でやはりこの年代としては驚異的な音質で蘇ったことも大きな収穫である。

これは筆者にとって貴重な1枚となった。

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2014年06月27日


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バックハウスが1950〜54年に録音したベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集のモノラル録音は、録音史上における最大の芸術的遺産の一つと断言する事に筆者は躊躇しないが、その録音を補完して、彼のライヴにおける姿を知る為にもうひとつ重要な録音が、この1954年に録音された、「カーネギー・ホール・リサイタル」である。

ステレオ録音でしかバックハウスを知らない人は、この録音を聴くと大いに驚く事であろう。

ここに聴くバックハウスの姿は、まさに即興性の塊で、インテンポの中に絶妙な揺らぎや加速などが交錯する事によって、生々しい一期一会の芸術的神秘、音楽の迫真性を獲得している。

これこそがバックハウスの芸術の真髄だったのだ。

このディスクの中でも特に第32番の演奏は、20世紀最大のベートーヴェン解釈者としてのバックハウスの最高の記録であると筆者は断言したい。

第32番はベートーヴェンの晩年屈指の名曲として知られており、通なクラシックファンの間で同曲を溺愛する人が決して少なく事を筆者は承知しているが、おそらくそういう人たちもこのバックハウスの解釈を聴くと間違いなく仰天することだろう。

 
第1楽章は8:10、第2楽章は13:25であるが、問題は第2楽章であり、これ程、演奏時間が短い同曲の演奏は殆ど皆無だ。

なぜこれ程短いのかと言うと、前半のアダージョが次第に加速を帯びて途中から完全にアンダンテになっているからである。

これは同録音のみならず、他日の録音にも聴かれるバックハウスの同曲に対する一貫した解釈なのであるが、これについては「弾き飛ばし」であると批難する声が一般にあるのを筆者ならずとも耳にすることであろう。

しかし、ここにこそ、バックハウスの本質があると言って良い。

バックハウスはこの曲について、多くのピアニストが第2楽章前半のアダージョ部で表現しようとする「人間的な感情への沈潜」を徹底的に拒否しようとしているのではないだろうか。

人間的感傷を吹き飛ばして、一気に天の高みに飛翔する事こそがバックハウスが同曲に見出したベートーヴェンの姿であったと、この演奏を聴くと理解される。

ベートーヴェンの第32番に興味のある人、またバックハウスのベートーヴェン解釈に興味ある人には必聴の録音であるとお薦めしたい。

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classicalmusic at 22:50コメント(0)トラックバック(0)バックハウスベートーヴェン 

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1973年10月29日 東京文化会館でのライヴ録音。

ミケランジェリといえば大変なキャンセル魔であったが、このライヴ録音も当初予定していたリサイタルをキャンセルされ、かろうじて録音が許されたのがこの日のリサイタル。

現状日本における唯一のオリジナルテープが現存するリサイタル録音がこれ。

ミケランジェリは、周知のとおりその完璧主義的性格からほんの少しでも自分が納得いかないときは、前述のように、直前にコンサートをキャンセルすることが珍しくなく、逆にそれが評判を呼ぶという形で名声を博した。

また、ミケランジェリは録音嫌いで知られ、彼の演奏を録音したCD(ライヴ録音を除く)は多くない。

そういった意味でもこの1973年のライヴ録音は貴重であり、それが高音質で聴けることはありがたい。

ミケランジェリの演奏会のライヴ録音は数多くあれど、録音状態がよくないことが多い。

しかし、このライヴ録音は文句なしに良く、さらに非圧縮SACDシングルレイヤーにより一層透明度が増し素晴らしい音質になった。

また、この演奏会では、後半にラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」、「夜のガスパール」が入っているが、ミケランジェリの響きが高音質で味わえるのが最高である。

「夜のガスパール」はいくつかライヴ録音があるが、これが最良の出来だと思う。

音質もさながら特に「スカルボ」は、不気味な響きと、躍動感あふれるリズム感が絶妙なバランスで調和されている。

もちろん、前半のシューマンとショパンもミケランジェリらしく素晴らしい出来映えだ。

ミケランジェリが、ピアノが持っている極限の美音を再現するのに命がけであったことが良くわかる貴重なSACDである。

ミケランジェリファンならずとも少しでも彼の他の演奏を聴いたことのある人ならぜひとも買っておきたい一品である。

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ドホナーニは、かつてのニキシュにはじまり、その後、多くの大指揮者を生み出したハンガリー人指揮者の系譜に連なる指揮者である。

マゼールの後任として、かつてセルが世界一流のオーケストラに育て上げたクリーヴランド管弦楽団の首席指揮者に就任し、数々の名演を生み出したことは、今なお記憶に新しいところだ。

もちろん、ドホナーニほどの指揮者だけに、ドホナーニはクリーヴランド管弦楽団以外のオーケストラとともに名演を遺している。

本盤に収められたウィーン・フィルとのスタジオ録音も、そうしたドホナーニによる貴重な名演である。

巷間、ドホナーニとウィーン・フィルの相性は必ずしも良くなかったと言われている。

その理由は定かではないが、特に、ドイツ系の音楽を指揮する際には、ウィーン・フィルの楽員の反応が芳しくなかったようだ。

さすがにショルティほどではないものの、ドホナーニの知的とも言うべきアプローチが、ウィーン・フィルの演奏志向と必ずしも一致しなかったということは容易に推測できるところである。

しかしながら、本盤に収められたストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」のような、オーケストレーションの華麗さを売りにした楽曲や、いわゆるお国ものとも言うべきバルトークのパントマイム「中国の不思議な役人」のような楽曲においては、ドホナーニの知的なアプローチが、演奏全体を引き締まったものとするとともに、ウィーン・フィルの美質でもある美しい響きが演奏を冷徹なものに陥ることを避け、いい意味での潤いや温もりを付加するのに貢献するなど、まさに、指揮者とオーケストラがそれぞれ足りないものを補い合った見事な名演を成し遂げるのに成功していると言えるのではないだろうか。

もちろん、これらの楽曲には、他にも優れた名演はあまた存在しているが、少なくとも、相性が今一つであったドホナーニとウィーン・フィルの息が統合した数少ない演奏の一つとして、本盤の両演奏は稀少な存在とも言えるところだ。

さすがのプライドの高いウィーン・フィルの楽員も、ストラヴィンスキーやバルトークの楽曲の演奏に際しては、ドホナーニに余計な注文も付けなかったであろうし、逆に、ドホナーニも自信を持って演奏に臨んだことが窺い知れるところだ。

いずれにしても、筆者としては、本盤の両曲の演奏は、ドホナーニがウィーン・フィルと行った演奏の中でも最も優れた名演として、高く評価したい。

本盤の演奏は、デジタルに切り替わる直前のアナログの末期の録音ではあるが、さすがは英デッカとも言うべき極めて鮮明で極上の高音質を誇っている。

そして、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化がなされることによって、これ以上は求め得ないような圧倒的な高音質に進化したところだ。

いずれにしても、ドホナーニ&ウィーン・フィルによる素晴らしい名演を、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CDという現在求め得る最高の音質で味わうことができることを大いに喜びたい。

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2014年06月26日


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交響曲は1976年5月17日、エアランゲン・シュタートハレでのステレオ・ライヴ録音、管楽セレナーデは1977年5月27日、ミュンヘン、ヘルクレスザールでのステレオ・ライヴ録音。

この「第8」はかつて海賊盤などでもリリースされていた強烈な演奏で、マニア筋から高い評価を受けていたが、今回は正規盤での登場。

しかも機材を入れ替えてのリマスタリングが功を奏して音質的には以前の海賊盤とは比較にならない快適さである。

演奏は、ライヴ特有の緊迫感溢れる秀演で、冒頭チェロから濃厚な感情移入の聴かれるテンションの高いもの。

民族的な旋律がふんだんに投入された作品のイメージにふさわしい仕上がりが絶品である。

ラファエル・クーベリックという指揮者は、録音とライヴではまったく違う、というのが有名だが、このバイエルン放送局のライヴ音源で聴くと、それが納得できる。

ドヴォルザークは、ベルリン・フィルとの全集が定番で、クーベリックとしては熱演の部類に入るが、スタジオ録音であるためか、基本的なスタイルはやはりクールでスポーティである。

しかし、このライヴは実に熱い演奏だ。

バイエルン放送響とも、15年以上の付き合いだからか、すでに阿吽の呼吸で、1つの乱れもなく弾ききっている。

それにベルリン・フィル(DG)盤とは違い「手兵とのライヴ」であるため、ここぞというところでのテンポの溜めが効いている。

ベルリン・フィル(DG)盤と比較しても弦の響きの柔らかさが際だち、とにかく美しい自然な流れで、間然とするところのない名演である。

しかしアポロン的な性格の演奏なら、ジュリーニ&シカゴ響やアバド&ベルリン・フィルのほうが凄い。

ただし別のクーベリックが鮮烈に燃えに燃えた演奏と比較されると、これはどれがいいか、持ち味が違うので、筆者には甲乙つけがたい。

ヴァイオリン両翼型の楽器配置にしており、バイエルン放送響のしなやかで抒情性すら感じさせる弦楽パートは魅力的。

管楽セレナーデに関しては、今回初めてこの曲の魅力を改めて感じられるほどに素晴らしい演奏だ。

そして、どこかクーベリックの祖国への熱い思いが、あふれ出るように感じるのは、筆者だけであろうか。

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classicalmusic at 23:08コメント(0)トラックバック(0)ドヴォルザーククーベリック 

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交響曲が1978年4月2日、協奏曲が1979年11月2日、ともにミュンヘン、ヘルクレスザールでのステレオ・ライヴ録音。

交響曲第7番は、モノラル期の1951年にフィルハーモニア管弦楽団とEMIに、ステレオ最初期の1956年にウィーン・フィルとDECCAに、1971年にベルリン・フィルとDGにそれぞれスタジオ・レコーディングをおこなっており、今度のライヴ録音はクーベリック4種類目の「第7」ということになる。

もともとドヴォルザークの交響曲第7番は、後期3大交響曲の中でも最もドイツ・ロマン派的色合いの濃い作品として知られており、民俗的リズムや素朴さの強調よりは、緊迫感とマッシヴで荒々しい迫力、ヴァイオリンの高域を多用した強靭で情熱的なカンタービレといったファクターが重要視される傾向にあったのは周知の事実。

クーベリックは作品のそうした傾向を重視したのか、あるいは2つのヴァイオリン・セクションが束ねられた勁いサウンド(第4楽章第2主題確保部分など実に効果的)を求めたためか、バイエルン放響を指揮した演奏では珍しく、ここでは第2ヴァイオリンを右側に置いた通常スタイルの楽器配置を採用しているのがポイント。

全体に、クーベリックの実演ならではの高いエネルギー・レヴェルと自在なアゴーギクが印象的な演奏で、冒頭から凄いパワーと集中力である。

特に第3楽章主部でのヴァイオリン・セクションの導きによる高揚感や、第4楽章におけるマッシヴな力感、情熱の激しさは圧倒的。

大詰めのルバートに興奮した聴衆のブラヴォーも強烈だ。

やはりクーベリックを聴くならライヴかと感じさせる演奏で、熱演と言えるのではないか。

カップリングのヴァイオリン協奏曲でも、ヴァイオリン両翼型の楽器配置が採用されている。

なお、ソロの塩川悠子は、クーベリックの父で伝説的な名ヴァイオリニストだったヤン・クーベリックが使用していたヴァイオリン(ストラッド)を、ラファエル・クーベリックから贈られるほど親しい間柄だったとのこと。

ここでの演奏もオーケストラとピタリと息の合った実に見事なもので、派手さや華麗さこそないけれど、独奏者と指揮者とオケと三位一体となった好感の持てる仕上がりとなっているようである。

なお、リマスター音質は、スタジオの機材を一新しただけあって大変に良好なものとなっている。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)ドヴォルザーククーベリック 

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ユニバーサルが一昨年夏ごろからシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の発売を開始したが、それから約1年が経過して、日本コロムビアも同様にシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤に踏み切った。

この価格が適正かどうかはともかくとして、EMIなども含め、昨年来の大手レコード会社によるSACD化への積極的な取組については大いに歓迎したい。

本盤に収められたシューベルトとシューマンのピアノ五重奏曲は、今をときめく弦楽四重奏団であるカルミナ弦楽四重奏団が田部京子を迎えてスイスにてスタジオ録音を行ったものであるが、両曲ともに素晴らしい名演と高く評価したい。

何よりも田部京子の気品溢れるピアノ演奏が素晴らしい。

ロマン派を代表するピアノ五重奏曲だけに、ロマンティシズム溢れる名旋律の宝庫でもある両曲であるが、田部京子は一音一音を蔑ろにせずに精緻に、そして情感豊かに曲想を描き出しているところだ。

ある意味ではオードドックスとも言えるアプローチであるが、田部京子の場合は、どこをとっても気品と優美さを失っていないのが見事である。

情感を込めるあまり全体の造型が弛緩したり、はたまた陳腐なロマンティシズムに拘泥するようなことは薬にしたくもなく、どこをとっても格調の高さを失っていないのが田部京子のピアノ演奏の最大の美質である。

カルミナ弦楽四重奏団は、現代を代表する弦楽四重奏団として、現代的でシャープな演奏を特徴としているが、本盤の演奏においては、そうした片鱗を感じさせはするものの、共演に田部京子も得て、この団体としてはオーソドックスなアプローチに徹しており、奥行きのある豊かな情感に満ち溢れた名演奏を展開しているとも言えるのではないだろうか。

いずれにしても、本盤の演奏は、田部京子とカルミナ弦楽四重奏団の抜群の相性の良さが功を奏した素晴らしい名演として高く評価したい。

音質は、数年前にマルチチャンネル付きのハイブリッドSACD盤が発売され、それは極上の高音質であった。

それに対して、本盤はシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤であり、その比較は困難を極めるとも言える。

これほどのハイレベルの高音質になると、後は好みの問題とも言えるが、筆者としては、音質が若干シャープかつより鮮明になったという意味において、本盤のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の方をより上位に掲げたい。

いずれにしても、田部京子&カルミナ弦楽四重奏団による素晴らしい名演を、現在望み得る最高の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 00:54コメント(0)トラックバック(0)シューベルトシューマン 

2014年06月25日


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本盤には、ショルティが完成させた唯一のマーラーの交響曲全集を構成する交響曲第6番が収められている。

中期の交響曲として同様に分類される第5番をショルティは3度にわたって録音しているのに対して、第6番は本盤が唯一の録音であるが、これは、ショルティが本演奏に満足していたのか、それとも第5番ほどに愛着を持っていなかったのか、その理由は定かではない。

それはさておき、演奏は凄まじい。

これは、同じく1970年に録音された第5番や第7番と共通していると言えるが、まさに強烈無比と言っても過言ではないほどの壮絶な演奏と言えるのではないだろうか。

ショルティのマーラーの交響曲演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかったが、かかるショルティの芸風が最も如実にあらわれた演奏こそは、本盤に収められた第6番を含む1970年に録音された第5番〜第7番のマーラーの中期の交響曲の演奏であると考えられる。

それにしても、第5番のレビューにおいても記したところであるが、筆者はこれほど強烈無比な演奏を聴いたことがない。

耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂しており、血も涙もない音楽が連続している。

まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、同曲の超名演であるバーンスタイン&ウィーン・フィル盤(1988年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1991年ライヴ盤)にいささかも引けを取っていない。

あまりにも強烈無比な演奏であるため、本演奏は、ショルティを好きになるか嫌いになるかの試金石になる演奏とも言えるのかもしれない。

加えて、本演奏の素晴らしさはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

いかにショルティが凄いと言っても、その強烈無比な指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も英デッカによる1970年の録音当時としては極めて優秀なものである。

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classicalmusic at 23:04コメント(0)トラックバック(0)マーラーショルティ 

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ブラームスの4つの交響曲の中で最もフルトヴェングラーの芸風に合致するのは、衆目の一致するところ第1番ということになるのではないだろうか。

フルトヴェングラーはベートーヴェンの交響曲を十八番としていただけに、ブラームスの交響曲の中でも最もベートーヴェンの交響曲に近い性格を有している第1番において、その実力を如何なく発揮することは自明の理と言えるからである。

実際のところ、筆者も正確に数えたことはないが、フルトヴェングラー指揮のブラームスの交響曲第1番の録音は、かなりの点数が遺されている。

しかしながら、録音状態はいずれも芳しいとは言えないところであり、フルトヴェングラーならではの至芸を味わうにはきわめて心もとない状況に置かれてきたと言わざるを得ない。

そのような長年の渇きを癒すことになったのが、昨年1月、EMIから発売された、1952年(本演奏の2週間前)にウィーン・フィルと行った演奏のライヴ録音のSACD盤であった。

当該SACD盤の登場によって、既発CDとは次元の異なる高音質に生まれ変わったところであり、これによってフルトヴェングラーによるブラームスの交響曲第1番の決定盤としての地位を獲得したと考えてきたところである。

そのような中で、今般、ユニバーサルによって1952年のベルリン・フィルとのライヴ録音がSACD化されたというのは、前述のEMIによるSACD盤の登場と並ぶ快挙と言えるだろう。

本演奏については、数年前にターラ盤が発売され、それなりに満足し得る音質改善は図られてはいたが、音質の抜本的な改善には繋がっているとは必ずしも言えず、フルトヴェングラーの彫りの深い芸術を味わうのはきわめて困難な状況に置かれていた。

ところが、今般のSACD化によって、見違えるような良好な音質に生まれ変わるとともに音場もかなり広くなったところであり、フルトヴェングラーの深みのある至芸を堪能することが可能になった意義は極めて大きいと言わざるを得ない。

演奏は、前述のEMI盤と同様に冒頭から重厚にして濃厚なフルトヴェングラー節が全開、終楽章の圧倒的なクライマックスに向けて夢中になって畳み掛けていく力強さは圧倒的な迫力を誇っている。

また、どこをとっても豊かな情感に満ち溢れており、その深沈とした奥行きや彫りの深さは、まさに神々しいばかりの崇高さを湛えている。

いずれにしても本盤の演奏は、今般のSACD化によって前述のEMI盤と並ぶ至高の超名演と高く評価し得るに至ったと言えるだろう。

併録のグルックの歌劇「アルチェステ」序曲も、いかにもフルトヴェングラーならではの濃厚な味わいの名演だ。

いずれにしても、このようなフルトヴェングラーによる至高の超名演を、現在望み得る最高のパッケージメディアであるシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 21:03コメント(0)トラックバック(0)ブラームスフルトヴェングラー 

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ドヴォルザーク作品の中でも屈指のボヘミア的作品と言われる「第6」交響曲と、同じく民族的ながらもきわめて壮麗なヤナーチェクの《シンフォニエッタ》の組み合わせ。

 
どちらもクーベリックの得意なレパートリーであり、いずれの作品においてもまずは指折られるべき名演奏と言えるだろう。

このオルフェオから出されたライヴ録音は、ただでさえ筆者の垂涎のカップリングである上に、演奏も空前の名演であるとされているから、完全に溺愛しているCDである。

クーベリックのヤナーチェク《シンフォニエッタ》のCDは正規盤だけで5種類に及ぶ。

1946年の亡命前のチェコ・フィルとのもの、ウィーン・フィルとの1955年頃のモノラルのスタジオ録音と、時期を接したライヴ録音、1970年代に入ったばかりのDGへのバイエルン放送響とのスタジオ録音に、この1980年代のバイエルン放送響とのライヴである。

録音の時期も適当にばらついており、比較しやすい特徴もあるが、ウィーン・フィルとの2種類は出来が芳しくない。

むしろ、若いときに残したチェコ・フィルとの録音に魅力を感じる。

DGとのものは、定評のある名盤であり、とても優れた演奏で、客観的な安定した標準的名演として永く語られるであろう録音である。

この1981年のライヴは、少々バランスはDG盤に劣ると思われるが、ヤナーチェクへのクーベリックの思いが、よりストレートに表出されている点で優れている。

その分、リズムが幾らか刺激的に刻まれており、ヤナーチェクの語法が生々しく語られるさまは、好きな者にとって快感ですらある。

筆者がイメージするボヘミアの情景に最も近いのが、クーベリックのドヴォルザーク「第6」であるという基本的な考え方は、DG盤を聴いて以来、個人的には未だに変わってはいない(少なくともこの曲におけるクーベリックの絶対的優位性は、筆者にとって一度も崩されていない)。

当盤のドヴォルザークの「第6」は特にその感が強く、熱心な愛好家以外にはあまり馴染みのないこの作品が、ドヴォルザークならではの美しい旋律美にあふれた魅力作であることを教えてくれる。

特にアダージョ楽章の質朴な味わいは、バイエルン放送響木管セクションの巧さも手伝って秀逸、続く第3楽章もさながら“スラヴ舞曲”の趣きで楽しめる。

もちろん、前半の《シンフォニエッタ》も含め、溢れかえる民族的要素を決して泥臭くならずに表出するクーベリックなればこその名演であることは言うまでもないことであろう。

特に弦楽セクションの瑞々しさはこれまでにない美点で、クーベリックの採るヴァイオリン両翼型配置の妙味もなおさら際立つ。

ただ、DG盤とこのライヴ録音を比較すると、細部で相当な心境の変化がクーベリックに生じたことを吐露した録音とも言え、とても興味深い。

それが彼の本質的な解釈の変化なのか、それともDG盤がベルリン・フィルで、このオルフェオ盤が直前まで手兵だったバイエルン放送響によるものかは、分からない。

しかし、クーベリックは本質的な解釈自体をライヴであるからといって変えることはなかったので、クーベリックの心境の変化だと捉えている。

ドヴォルザークの「第6」をクーベリックで聴くと後期3大交響曲を上回る大名作に聴こえるから不思議だ。

巨匠が晩年敢えて取り上げた曲だけに値千金の重みがある。

音質が大変に良好なことも朗報で、《シンフォニエッタ》終曲のフィナーレなど素晴らしい響きだ。

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2014年06月24日


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本盤には、アバド&ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲第3番及び第4番が収められているが、両曲ともに若干甘い気はするものの名演と評価したい。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任間もない頃に、本盤に収められた第3番及び第4番を含めブラームスの交響曲全集を完成させた。

もっとも、カラヤン時代の猛者がいまだ数多く在籍していたベルリン・フィルを掌握し得た時期の録音ではないことから、第1番などは名演の名には恥じない演奏であるとは言えるが、アバドの個性が必ずしも発揮された演奏とは言い難いものであった。

他方、楽曲の性格とのマッチングや録音時期(芸術監督就任前の1988年)の問題もあって、第2番はアバドならではの豊かな歌謡性が発揮された素晴らしい名演であった。

このようにベルリン・フィルの掌握の有無なども演奏の出来に作用する重要な要素であるとは思うが、根本的には、アバドの芸風に符号する楽曲かどうかというのが演奏の出来不出来の大きな分かれ目になっていると言えるのではないだろうか。

アバドのアプローチは、前任者のカラヤンのような独特の重厚なサウンドを有していたわけでもない。

むしろ、各楽器間のバランスを重視するとともに、イタリア人ならではの豊かな歌謡性を全面に打ち出した明朗な演奏を繰り広げている。

このようなアプローチの場合、第1番ではいささか物足りない演奏(もっとも、第1番はカラヤン時代の重厚な音色の残滓が付加されたことによって、けがの功名的な名演に仕上がった)になる危険性があり、他方、第2番については、楽曲の明朗で抒情的な性格から名演を成し遂げることが可能であったと考えられる。

他方、本盤に収められた第3番及び第4番も、楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫りの深さ(とりわけ第3番の両端楽章や第4番の終楽章)と言った面においてはいささか生ぬるい気がしないでもないが、とりわけ第3番の第2楽章及び第3楽章や第4番の第1楽章及び第2楽章などの情感豊かな歌い方には抗し難い魅力があり、第2番ほどではないものの、比較的アバドの芸風に符号した作品と言えるのではないだろうか。

また、第3番については、第2番と同様にアバドが芸術監督に就任する前の録音でもあり、ウィーン・フィルに軸足を移したカラヤンへの対抗意識もあって、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは渾身の名演を繰り広げていたベルリン・フィルのとてつもない名演奏が、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

もっとも、大病を克服した後のアバドは、凄みのある名演を成し遂げる大指揮者に変貌していると言えるところであり、仮に現時点で、ブラームスの交響曲全集を録音すれば、より優れた名演を成し遂げる可能性が高いのではないかと考えられるところだ。

いずれにしても、アバドはベルリン・フィルの芸術監督就任直後にブラームスの交響曲全集を完成させるのではなく、芸術監督退任直前に録音を行うべきであったと言えるのではないか。

録音は従来盤でも十分に満足できる音質ではあったが、今般のSHM−CD化によってやや音質に鮮明さが増すとともに、音場が幅広くなったと言えるところだ。

いずれにしても、アバドによる名演をSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 23:10コメント(0)トラックバック(0)ブラームスアバド 

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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後間もない頃にブラームスの交響曲全集を完成させたが、筆者としては、アバドがブラームスの交響曲に取り組むのはいささか早過ぎたのではないかと考えているところだ。

というのも、ベルリン・フィルはカラヤンの指揮の下でブラームスの交響曲を何度も演奏しており、本演奏ではアバドの解釈がベルリン・フィルに必ずしも浸透しているとは言い難いからである。

したがって、第1番などは名演ではあるが、それはカラヤン時代の遺産が作用しているという怪我の功名的な側面もあり、アバドの個性が発揮された演奏とは言い難いものであったとも言える。

しかしながら、第2番はむしろ、第1番とは異なりアバドの個性がそれなりに発揮された名演と言えるのではないだろうか。

本盤に収められた第2番がこのようにアバドならではの名演となった理由はいくつかあると考えられるが、先ずは楽曲の性格がアバドの芸風に符号している点が掲げられる。

第2番は、ブラームスの交響曲の中でも最も牧歌的な雰囲気に満ち溢れており、流麗で伸びやかな曲想が特徴的なブラームスの田園とも称される楽曲である。したがって、アバドの純音楽的で歌謡性豊かなアプローチに最も適した交響曲であると言える。

第2の理由としてベルリン・フィルによる名演奏が掲げられる。

本演奏については1988年の録音であり、これはカラヤンが存命でなおかつ芸術監督であった時代のものである。

この当時のベルリン・フィルは、ウィーン・フィルに軸足を移したカラヤンへの対抗意識もあり、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは渾身の名演を繰り広げていた。

本演奏もその例外ではなく、ここにはアバドの指揮に必死に喰らいついていった(というよりも、アバドを立てた)ベルリン・フィルの猛者たちの圧倒的な名演奏を聴くことが可能だ。

なお、アバドは、1970年代初頭にもベルリン・フィルとともにブラームスの「第2」を録音しており、それも若きアバドによる生命力溢れる素晴らしい名演であったが、本演奏においては、さらに円熟味とスケールの雄渾さが加わっていると評価することも可能であり、筆者としては本演奏の方をより上位に掲げたい。

併録の大学祝典序曲も交響曲第2番と同様のアプローチによる文句の付けようがない名演であり、ハイドンの主題による変奏曲は、アバドならではの豊かな歌謡性を活かした歌心溢れる美演である。

音質については、今般のSHM−CD化によって若干鮮明になるとともに、音場が広くなったように感じた。

いずれにしても、アバドの名演をこのようなSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 21:03コメント(0)トラックバック(0)ブラームスアバド 

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本盤に収められたブラームスの交響曲第1番は、アバドがベルリン・フィルの芸術監督に就任直後に完成させた全集に含まれるものである。

本演奏を聴き終えた感想は、アバドもなかなか健闘しているのではないかと言ったところだ。

というのも、この時期のアバドは低迷期に入っていたと言えるからである。

アバドが最も輝いていたのは、ベルリン・フィルの芸術監督の就任前であり、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団などと数々の名演を成し遂げていた時期であると考えている。

ところが、アバド自身も全く想定していなかったベルリン・フィルの芸術監督に就任してからは、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始し、かつての輝きを失ってしまったように思われる。

そのようなアバドが再び凄みのある演奏を繰り広げるようになったのは、大病を克服した後であり、それは皮肉にもベルリン・フィルの芸術監督退任直前のことであった。

アバドは、前任のカラヤンや前々任のフルトヴェングラーなどとは異なり、カリスマ性など皆無であったことから、プライドの高い楽員で構成され、カラヤン時代に全盛を誇った大物奏者が数多く在籍していたベルリン・フィルを統率するのは、とても荷が重いことであったのかもしれない(アバドのライバルであったムーティもそのことを予見していたと言われている)。

そもそも本演奏では、アバドのやりたい音楽とベルリン・フィルの奏でる音楽に微妙なずれがあるのではないかと考えられる。

というのも、ブラームスの交響曲第1番はカラヤンの代名詞のような楽曲であり、その重厚にして華麗な演奏はカラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代の象徴のようなものであったからだ。

カラヤン時代の名うての奏者が数多く在籍していたベルリン・フィルとしても、カラヤンのようにオーケストラを最強奏させるのではなく、各楽器間のバランスの重視に軸足を置いたアバドのやり方には相当手こずったのではないかとも考えられる。

したがって、本演奏は、全体としてはアバド流の歌謡性豊かな演奏にはなっているが、随所にカラヤン時代の重厚さが入り混じると言う、アバドの個性が全開とは言い難い演奏であり、筆者としては、アバドがブラームスの交響曲に取り組むのはいささか早過ぎたのではないかと思われてならないところだ。

もっとも、本演奏も見方を変えれば、カラヤン時代の重厚さとアバドの歌謡性が融合した新時代を象徴する演奏とも評価し得るところであり、アバドの健闘が光る名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではない。

悲劇的序曲は、アバドが芸術監督に就任する直前の演奏ということもあって、アバド、そしてベルリン・フィルによる畳み掛けていくような気迫と力感、そして豊かな歌謡性が漲る豪演であり、交響曲第1番以上の名演と評価したい。

SHM−CD化による若干の高音質化も本盤の価値を高めるのに大きく貢献している。

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2014年06月23日


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アバドはベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。

最初の全集は、芸術監督就任から10年近く経った頃の録音で、アバドが大病に倒れる直前に完成されたものである。

これに対して、2度目の全集は、大病を克服した後、ローマにおいて第1番から第8番をライヴ録音で収録したもの(DVD作品のCD化)であり、第9番だけは最初の全集に収められたライヴ録音をそのまま採用している。

要は、アバドは最初の全集の中でも、第9番だけには自信を持っていたということを窺い知ることが出来るところだ。

このように、アバドが自信を持っていたこともあり、筆者としても、アバドによるベートーヴェンの交響曲全集の中で最も出来がいいのは第8番と第9番であると考えている。

全体を約62分という、第9番としては相当に速いテンポで演奏しているが、せかせかした印象をいささかも与えることがなく、トゥッティに向けて畳み掛けていくような力感溢れる気迫とともに、どこをとっても情感の豊かさと歌謡性を失うことがないのが素晴らしい。

特に、第1番から第6番では軽妙さだけが際立ったベルリン・フィルも、この第9番においては、さすがにフルトヴェングラーやカラヤンなどの往年の指揮者による重厚な演奏にはかなわないものの、倍管にしたことも多分にあるとは思うが、重心の低い奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。

特に、終楽章の合唱の壮麗さは抗し難いほどの美しさを誇っており、これは世界最高峰とも称されるスウェーデン放送合唱団の起用が見事に功を奏している。

独唱陣もいずれも素晴らしい歌唱を披露しており、スウェーデン放送合唱団とともにエリック・エリクソン室内合唱団も最高のパフォーマンスを示していると言えるだろう。

いずれにしても、新しい研究成果に基づくベーレンライター版使用による本演奏は、近年の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとなったものであり、アバドによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては第8番と並んで最高峰にある名演と高く評価したい。

録音は従来盤でも十分に鮮明な高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

アバドによる名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 22:45コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンアバド 

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アバド&ベルリン・フィルによる1度目のベートーヴェンの交響曲全集のうち、第1番から第6番については、少なくとも往年の名指揮者による重厚な名演に聴きなれた耳からすると、天下のベルリン・フィルを指揮したにしてはあまりにも軽妙浮薄な演奏であると言えるところであり、筆者としてもあまり高い評価をして来なかった。

ところが、本盤に収められた第7番については、第6番までとは異なり、アバドによるベートーヴェンとしては少なくとも軽妙浮薄とまでは言い切れないのではないだろうか。

もっとも、同曲の過去の名演、例えばフルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年)、さらにはカラヤン&ベルリン・フィル(1978年ライブ(パレクサ))などと比較すると、さすがに音の重心は低いとは言い難い。

もっとも、本演奏では、ベルリン・フィルの音色にもかつての伝統的な重厚な音色の残滓を聴くことが可能であるとともに、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加しており、アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、後述の第8番や第9番に次いで、佳演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。

また、新しい研究成果を踏まえたベーレンライター版使用による本演奏は、近年主流となっている古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においても相当の評価をせざるを得ないとも考えられるところだ。

次いで、第8番については、楽曲の性格も多分にあるとは思うが、アバドの演奏にも第7番以上に違和感を感じるところがない。

フルトヴェングラーなどかつての大指揮者たちが名演を遺していないことも功を奏しているのかもしれないが、それ以上にアバドによる歌謡性豊かな指揮が、往年のワインガルトナーによる名演の如き極上のワインのような味わいを演奏全体に付加するのに成功しており、少なくとも、アバドによるベートーヴェンの交響曲演奏の中では、前述の第7番を凌駕するとともに、第9番と並んで名演と評価してもいいのではないだろうか。

録音については従来盤でも十分に高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。

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classicalmusic at 20:57コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンアバド 

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本盤に収められたベートーヴェンの「第5」や「田園」を聴いていると、ベルリン・フィルの音色の前任のカラヤン時代からのあまりの変わりように大変驚かされる。

アバドがベルリン・フィルの芸術監督に就任してから10年近く経った頃の録音でもあり、その間にカラヤン時代の名うての奏者の大半が代替わりしたのも大きいと言えるのかもしれない。

それにしても本演奏は、フルトヴェングラーはもとより、カラヤンによる重厚な演奏とは一味もふた味も違う軽妙な演奏である。

その音色はカラフルという表現が当てはまるほどで、南国イタリアの燦々と降り注ぐ陽光を思わせるような明るい響きが支配している。

アバドが1980年代にウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集には若干なりとも存在したドイツ風の重厚な響きは、もはや本演奏では完全に一掃されており、良くも悪しくもアバドの個性が完全に発揮された演奏ということになるのであろう。

このような軽妙浮薄な演奏を、天下のベルリン・フィルを指揮して成し遂げたということについては、古くからのクラシック音楽ファンからすれば許し難いことのように思われるのかもしれない。

筆者としてはさすがに許し難い演奏とまでは思わないが、好き嫌いで言えば到底好きになれない演奏と言わざるを得ない。

しかしながら、最新の研究成果を採り入れたベーレンライター版使用による本演奏が、近年におけるピリオド楽器の使用や古楽器奏法による演奏の先駆けとなったということについては否定できないところであり、その意味においては一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。

録音については従来盤でも十分に高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。

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classicalmusic at 00:51コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンアバド 

2014年06月22日


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アバドがベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは、芸術監督に就任後10年近く経ってからである。

その理由としては、芸術監督就任の少し前にウィーン・フィルと全集を録音していたのが何よりも大きいとは思うが、ベルリン・フィルを完全に掌握するのを待っていたという側面もあったのではないだろうか。

前任のカラヤンも、ベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは芸術監督就任から10年近く経ってからであったことを考慮に入れれば、これは天下のベルリン・フィルの芸術監督の宿命と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、良くも悪しくもアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。

フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。

かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、本演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。

筆者としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽妙浮薄な演奏と言わざるを得ない。

しかしながら、最新の研究成果を反映させたベーレンライター版の使用による本演奏は、近年主流の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においては、好き嫌いは別として一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。

録音は従来盤でも十分に鮮明な高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

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classicalmusic at 23:04コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンアバド 

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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。

前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。

ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

最近発売されるアバドのCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在である。

それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。

正確に言うと、「第9」だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のライヴ録音となっている。

本盤に収められた第1番及び第2番は、1度目の全集に含まれるもの。

演奏自体は前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。

最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。

本演奏を聴くと、アバドならではの歌謡性は豊かであるが、非常に軽やかな演奏という印象だ。

これは、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。

前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ない。

もっとも、今般のSHM−CD化によって、音質が鮮明になるとともに、音場が若干ではあるが幅広くなった点については評価したい。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンアバド 

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クラウディオ・アバドはかつての手兵であったベルリン・フィルとドイツ・グラモフォンにベートーヴェンの交響曲全集を1999年から2000年にかけて録音しているが、本作はそれに先立つ1996年のザルツブルク音楽祭での実況録音である。

話題の「ベーレンライター新版」とは銘打ってはいないものの、アバドが各所で新鮮な解釈を聴かせる(例:フィナーレのピッコロなど)ことも発売当時大いに話題になった。

要は、アバドはベートーヴェンの交響曲の中でも、第9番には特別に自信を持っていたということを窺い知ることが出来るところだ。

このように、アバドが自信を持っていたこともあり、筆者としても、アバドによるベートーヴェンの中で最も出来がいいのは第9番であると考えている。

全体を第9番としては相当に速いテンポで演奏しているが、せかせかした印象をいささかも与えることがなく、トゥッティに向けて畳み掛けていくような力感溢れる気迫とともに、どこをとっても情感の豊かさと歌謡性を失うことがないのが素晴らしい。

特にベルリン・フィルも、この第9番においては、さすがにフルトヴェングラーやカラヤンなどの往年の指揮者による重厚な演奏にはかなわないものの、倍管にしたことも多分にあるとは思うが、重心の低い奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。

特に、終楽章の合唱の壮麗さは抗し難いほどの美しさを誇っており、これは世界最高峰とも称されるスウェーデン放送合唱団の起用が見事に功を奏していると言える。

ソリスト陣も非常に豪華で素晴らしい歌唱を披露しており、スウェーデン放送合唱団とともにエリック・エリクソン室内合唱団にもアバドの意思が反映され、かつてないほど精緻な響きを聴かせてくれ、最高のパフォーマンスを示していると言えるだろう。

いずれにしても、新しい研究成果に基づくベーレンライター版使用による本演奏は、近年の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとなったものであり、アバドによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては最高峰にある名演と高く評価したい。

録音は従来盤でも十分に鮮明な音質であったが、先般発売されたBlu-spec CD盤では、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

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2014年06月21日


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LP発売当時「これ以上何をお望みですか」と、かの吉田秀和氏に言わしめた1枚。

完璧!! その一言に尽きる演奏で、こんな凄いエチュードがあるのかと思った。

とある影響力の大きい某音楽評論家とその周辺の者たちによってポリーニの演奏を冷たいとか無内容などと評されているが、その批判は見当違いである。

全くケチの付け所のない最高の演奏であり、単にミスもない、完璧な表現に対し嫌悪しているだけだと勘繰りたくなる。

ポリーニ(1972年収録当時30歳で彼の収録活動初期にあたる)は実に確かなテクニックで客観的にさりとて機械的でなく各曲のタッチにメリハリをつけて弾き進めている。

ポーランドの資質とはニュアンスは当然異なるが、ショパンの情熱を些か鋭く冷たくたぎらせた最高の名演だと評したい。

確かなテクニックをベースに、センチメンタリズムを排し和声の構造を明快に解きほぐす知的なスタイルは、ショパン演奏史にも一石を投じたものだ。

内声部を浮き彫りにした情報量の多いきらびやかな響きとなって聴こえてくるが、圧倒的な輝きだ。

1960年にショパンコンクールに優勝したときのライヴやEMI録音の協奏曲第1番を聴くと、すでにスタイルは完成しているが、ここまで透徹した理性は貫かれていない。

だが、1970年代初めDGに移籍してからは、こうしたクールなスタイルを武器にこのエチュードをはじめ、「ペトルーシュカの3楽章」やシューマンの幻想曲やソナタ、シューベルトの「さすらい人幻想曲」と数々のヒットを飛ばし、独自の世界を築いている。

ポリフォニックな面白さはポリーニには全くないが、この測ったようにキッチリと並べられた音符の洪水の前には、ただただ唖然とするしかない。

客観的・クールなショパンエチュードの金字塔的作品。

ロルティやジュジアーノによる名盤が登場して本CDが若干過去のものになりつつあるかもしれないが、所持しておいてまず損はしないCDだ。

1960年から68年のブランクには、ポリーニは演奏活動を縮小し、ミラノ大学に進学し物理学を学んでいた。

一度音楽から離れ数理の世界を探求したことがプラスに作用したのだろう。

だが、今の若い演奏家はそうした充電が許されなくなっているのだろうか、テクニックはポリーニを超えても、30代〜40代で独自の透徹した境地を貫くところまで育っていけるのか心配なところである。

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classicalmusic at 22:37コメント(0)トラックバック(0)ショパンポリーニ 

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本盤には、ブーレーズが指揮したストラヴィンスキーの3大バレエ音楽のうち、「春の祭典」と「ペトルーシュカ」が収められている。

このうち、「春の祭典」については、様々な指揮者による同曲の演奏史上でも今なおトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

ブーレーズは、同曲を本演奏も含め3度に渡って録音を行っている。

最初の録音はフランス国立放送交響楽団との演奏(1964年)であり、クリーヴランド管弦楽団との本演奏(1969年)が続き、そしてDGへの録音となった同じくクリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)が存在している。

このうち、最初の1964年盤については、圧倒的な名演との評価がなされてはいるものの一般配布されていなかったこともあって現在でも入手難。

3度目の1991年盤は、一般論としては立派な名演と言えるのではないかと考えられる。

もっとも、ブーレーズの芸風は、1990年代に入ってDGに自らのレパートリーを再録音するようになってからは、かつての前衛的なアプローチが影を潜め、すっかりと好々爺となり、比較的オーソドックスな演奏をするようになってきたように思われる。

もちろん、スコアリーディングについてはより鋭さを増しているものと思われるが、当該指揮によって生み出される音楽は比較的親しみやすいものに変容しており、これはまさしくブーレーズの円熟のなせる業ということになるのではないだろうか。

したがって、立派な円熟の名演ということには間違いないが、いわゆる普通の演奏になってしまっているとも言えるところであり、ブーレーズならではの強烈な個性が随分と失われてきていると言えるのではないかと思われる。

これに対して、本演奏は徹頭徹尾、ブーレーズならではの個性が全開の快演である。

思い切った強弱の変化や切れ味鋭い強烈なリズムを駆使するなど、これ以上は求め得ないような斬新な解釈を施すことによって、ストラヴィンスキーによる難解な曲想を徹底的に鋭く抉り出しており、その演奏のあまりの凄まじさには戦慄を覚えるほどである。

これほどの先鋭的な解釈が施されたのは、おそらくは同曲演奏史上でも空前にして絶後であり、ブーレーズによる本演奏によって初めて、同曲が完全に音化されたと言っても過言ではあるまい。

ブーレーズの凄みのある指揮の下、一糸乱れぬアンサンブルで最高の演奏を繰り広げたクリーヴランド管弦楽団にも大いに拍手を送りたい。

このような豪演を聴いていると、セル時代の全盛期のクリーヴランド管弦楽団の鉄壁のアンサンブルと超絶的な技量の凄さをあらためて認識させられるところだ。

「ペトルーシュカ」については、ブーレーズによる同曲の2度の録音のうち、本演奏は最初のものとなる。

2度目のクリーヴランド管弦楽団との演奏(DG)(1991年)が、「春の祭典」の場合と同様に、いわゆるノーマルな名演になっているのに対して、本演奏はまさに若き日の脂が乗り切ったブーレーズならではの先鋭的な超名演。

これほど楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした精緻な表現が施された演奏は比類がないと言えるところであり、「春の祭典」と同様に、ブーレーズによる本演奏によって初めて、同曲が完全に音化されたと言っても過言ではあるまい。

ブーレーズは、当時ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任して間もない頃であったが、ニューヨーク・フィルもブーレーズの指揮にしっかりと応え、持ち得る実力を十二分に発揮した最高の演奏を披露しているのが素晴らしい。

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classicalmusic at 20:55コメント(0)トラックバック(0)ストラヴィンスキーブーレーズ 

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ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけてマーラーの交響曲全集を録音した。

演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。

ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。

ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃には、すっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜めてしまった。

もっとも、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。

もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。

本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、マーラーの「第4」のスコアを明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるようにつとめているように感じられる。

それ故に、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴と言えるだろう。

さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、かかる楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。

これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。

いずれにしても本演奏は、バーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダムによる名演(1987年)とあらゆる意味で対極にあるとともに、カラヤン&ベルリン・フィル(1979年)の名演から一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。

第4楽章におけるバンセもそういったブーレーズの解釈と意図に沿った歌唱を行っている。

このようなブーレーズの徹底した純音楽的なアプローチに対して、最高のパフォーマンスで応えたクリーヴランド管弦楽団の卓越した演奏にも大きな拍手を送りたい。

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classicalmusic at 00:32コメント(0)トラックバック(0)マーラーブーレーズ 

2014年06月20日


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素晴らしい高音質SACDの登場だ。

今般のフルトヴェングラーの一連のSACDシリーズの中でも白眉の出来と言えるのではなかろうか。

フルトヴェングラーによるブラームスの「第4」の初期盤をかつて聴いたが、音の揺れがひどく、とても聴くに堪えない音質であったと記憶する。

爾来、初期盤は、筆者のCD棚に埃をかぶって放置されているが、その後、何度もリマスタリングを繰り返したものの、いずれもどんぐりの背比べといった状態であった。

数年前に、グランドスラムからかなり満足し得る音質のCDが発売されたが、今般のSACDとは比べるべくもない。

それくらい、今般のSACDは、次元の異なる高音質と言えるだろう。

これだけの高音質録音になると、フルトヴェングラーのドラマティックな表現が見事に再現されることになり、その演奏に対する評価も大きく変更を余儀なくされることになる。

ブラームスの「第4」については、シューリヒトやムラヴィンスキーなどの淡麗辛口な演奏や、それに若さを付加したクライバーによる演奏の評価が高く、他方、情感溢れるワルターや、重厚な渋みを加えたベーム盤などが、高く評価されてきた。

筆者も、それに異論を唱えるつもりはないが、それは、今般のフルトヴェングラーのSACD盤が存在しないことが前提である。

ブラームスの「第4」について、これだけドラマティックな演奏をして、名演の評価を勝ち得た演奏は皆無であり、その意味では、本盤は、画期的な名演と評価できる。

第1楽章の、自然体ではじまる開始部の何とも言えない深みからして、別次元の名演と言えるし、その後の緩急自在のテンポ設定は、あたかも魔法の指揮のようだ。

第2楽章のむせ返るような熱い抒情は感動の極みであるし、第3楽章の効果的な間の取り方など、巨匠だけが成し得る至芸と言えるだろう。

終楽章のパッサカリアについては、凄まじい音のドラマであり、これは他のいかなる名演をも凌駕する至高・至純の高みに達している。

併録の「コリオラン」序曲は、おそらくはフルトヴェングラーの同曲の演奏中最高の名演。

ということは、史上最高の名演と言うことであり、今般の高音質化によって、さらに名演のグレードが上がったと言える。

「レオノーレ」序曲第2番の巨大なスケールと圧巻のドラマについては、もはや表現する言葉が追いつかないような凄まじさだ。

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classicalmusic at 22:51コメント(0)トラックバック(0)フルトヴェングラーブラームス 

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1969年4月18日 ベルリン・フィルハーモニーでのライヴ(ステレオ)録音。

バックハウスが不世出のベートーヴェン弾きであることに異論を唱える方はまずいないだろう。

これは1899年にフランクフルトでバックハウスがダルベールに師事したことに由来しているが、ピアノの流派を弟子から師匠へ遡ると、[バックハウス→ダルベール→リスト→ツェルニー→ベートーヴェン]となり、すなわち、バックハウスはベートーヴェン直系の弟子筋にあたるのだ。

音楽評論家で自らも高名なピアニストのワルター・ニーマンが「新古典主義者」と評したバックハウスのスタイルは、がっちりとした構成と主情的表現が皆無というのが特色で、まさしくベートーヴェンこそは、バックハウスのピアニズムが遺憾なく発揮されるレパートリーと言えるだろう。

バックハウス最晩年のこれらの演奏は、いずれも神々しささえ感じさせるような至高の超名演だ。

単純に技量面だけに着目すれば更に優れた演奏も数多く生み出されてはいるが、その音楽内容の精神的な深みにおいては、今なお本演奏を凌駕するものがあらわれていないというのは殆ど驚異的ですらある。

まさに本演奏こそは、例えばベートーヴェンの交響曲などでのフルトヴェングラーによる演奏と同様に、ドイツ音楽の精神的な神髄を描出するフラッグシップの役割を担っているとさえ言えるだろう。

バックハウスのピアノはいささかも奇を衒うことなく、悠揚迫らぬテンポで曲想を描き出していくというものだ。

飾り気など薬にしたくもなく、聴き手に微笑みかけることなど皆無であることから、聴きようによっては素っ気なささえ感じさせるきらいがないわけではない。

しかしながら、かかる古武士のような演奏には独特の風格があり、各フレーズの端々から滲み出してくる滋味豊かなニュアンスは、奥深い情感に満ち溢れている。

全体の造型はきわめて堅固であり、スケールは雄渾の極み。

その演奏の威容には峻厳たるものがあると言えるところであり、聴き手もただただ居住まいを正さずにはいられないほどだ。

したがって、本演奏を聴く際には、聴く側も相当の気構えを要する。

バックハウスと覇を争ったケンプの名演には、万人に微笑みかけるある種の親しみやすさがあることから、少々体調が悪くてもその魅力を堪能することが可能であるが、バックハウスの場合は、よほど体調が良くないとその魅力を味わうことは困難であるという、容易に人を寄せ付けないような厳しい側面があり、まさに孤高の至芸と言っても過言ではないのではないかとさえ考えられる。

バックハウスとケンプについてはそれぞれに熱烈な信者が存在し、その優劣について論争が続いているが、筆者としてはいずれもベートーヴェンのピアノ・ソナタの至高の名演であり、容易に優劣を付けられるものではないと考えている。

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classicalmusic at 21:04コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンバックハウス 

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モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 (ベーム指揮ウィーン・フィル、1956年1月ライヴと1960年8月ライヴ)。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番(クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィル、1957年1月ライヴ) (カンテルリ指揮ニューヨーク・フィル、1956年3月ライヴ)。

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 (カイルベルト指揮シュトウットガルト放送響、1953年3月ライヴ)、(シューリヒト指揮ルガノ放送響、1961年4月27日ライヴ) (コンヴィチュニー指揮ゲヴァントハウス管、1960年4月20日ライヴ)。

ガツンと心に来る、鍵盤の獅子王のベーゼンドルファー、バックハウスの協奏曲ライヴ、大指揮者との重厚で凄絶な競演の数々。

まさに壮観という他ないバックハウスの協奏曲ライヴ集。

モーツァルトは第27番を2種、ベートーヴェンでは、第4番を2種、「皇帝」を3種も味わうことができる。

バックハウスが如何にレパートリーを絞り、繰り返し、その演奏内容の向上に傾注していたかが判る。

それに加え、当時の大指揮者が協奏曲の伴奏をどのように考えていたかも手に取るように判る好企画。

なぜかと言うとピアノ協奏曲はオーケストラ部分の重要性が高いジャンルであるからだ。

第4番で言えば、カンテルリは言うなれば押し付けがましい感じの伴奏で、主役は俺だと言わんばかりである。

クナもマイペース、カイルベルトはソリストと競うかのように煽りを加えて対抗心がむき出し、シューリヒトは天衣無縫なようで、ソリストの見せ場をちゃんと守っている様子、ベームはいつでも高水準で模範的、コンヴィチュニーがやはり古式ゆかし立派な伴奏で、風格も五分五分と言ったところ。

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classicalmusic at 00:47コメント(0)トラックバック(0)バックハウス 

2014年06月19日


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カラヤン&ベルリン・フィルは、ヨハン・シュトラウス祇さ擇哭鏡ぁ▲茱璽奸Ε轡絅肇薀Ε垢作曲した主要なウィンナ・ワルツ集を晩年にデジタル録音(1980年)した。

カラヤンは、ウィンナ・ワルツを得意としており、若い頃から何度も録音を行ってきた。

筆者の手元にあるものを調べてみても、古くは1946〜1949年(EMI)や1959年(英デッカ)のウィーン・フィルとのスタジオ録音、そして、1966年及び1969年(DG)、1975年(EMI)と本盤(1980年)のベルリン・フィルとのスタジオ録音、さらにはウィーン・フィルとのニューイヤーコンサート(1987年ライヴ)と相当点数にのぼっているところだ。

その他にもまだまだありそうな気がするが、これらの演奏は、いずれも素晴らしい名演に仕上がっている。

1940年代や1959年のウィーン・フィルとの演奏は、若き日のカラヤンならではの颯爽とした装いの名演であると言えるし、最晩年の1987年盤は、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠ならではの味わい深さが際立った超名演であると言えるところだ。

そして、その間に挟まれたベルリン・フィルとの演奏は、本盤の演奏も含め、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金コンビが成し遂げた圧倒的な音のドラマが構築されていると言えるだろう。

カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代は1960年代〜1970年代であるというのが一般的な見方であり、この時期の演奏は、ベルリン・フィルの一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器の美しい響き、雷鳴のようなティンパニの轟きなどが一体となった圧倒的な演奏に、カラヤンならではの流麗なレガートが施された、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

1982年にザビーネ・マイヤー事件が勃発すると、両者の関係には修復不可能なまでの亀裂が生じ、この黄金コンビによる演奏にもかつてのような輝きが一部を除いて殆ど見られなくなるのであるが、1966年盤や1969年盤、1975年盤、そして本盤にしても、いずれもこの黄金コンビの全盛時代における超絶的な名演奏を堪能することが可能である。

もっとも、ウィンナ・ワルツらしさという意味においては、その前後の演奏、すなわち1959年のウィーン・フィルとの演奏、または1987年のニュー・イヤー・コンサートにおける演奏の方を上位に掲げたい(本盤の演奏で言えば、ラデッキー行進曲の生真面目さや常動曲の愉悦性の無さなど、もう少し何とかならないのかとも思われるところだ)が、これだけの圧倒的な音のドラマを構築した本盤や1966年盤、及び1969年盤、そして1975年盤との優劣は容易にはつけられないと考える。

そして、本盤、1975年盤、そして1966年盤及び1969年盤の比較については、録音会場(ベルリン・イエス・キリスト教会VSベルリン・フィルハーモニーザール)、ティンパニ奏者(テーリヒェンVSフォーグラー)、DGとEMIの音質の違いなど様々な相違点が存在しているが、いずれも高いレベルでの比較の問題であり、あとは好みで選ぶしかあるまい。

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東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。

すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていない。

マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。

こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。

それはさておき、本盤のザンデルリンクの演奏は素晴らしい。

さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏ほどの深みや凄みには達していないが、旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身のザンデルリンクだけに、ショスタコーヴィチの交響曲の本質への深い理解については、人後に落ちないものがあった。

加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したい。

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classicalmusic at 00:44コメント(0)トラックバック(0)ショスタコーヴィチザンデルリンク 

2014年06月18日


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ヨッフムの死の半年前の記念碑的な来日公演が、ついにシングルレイヤーによるSACD盤で発売されることになった。

ユニバーサルやEMIが揃ってSACD盤の発売に積極的になってからというもの、一時は瀕死の状態にあったSACDが急速に脚光を浴びるようになったというのは、パッケージメディアの良さをあらためて認識させるという意味において、大変喜ばしいことである。

そうしたSACD復活の流れの中で、大指揮者による数々の来日公演のCD化で定評のあるアルトゥスレーベルが、先日のムラヴィンスキーの来日公演(1973年)のCD2点を皮切りとして、シングルレイヤーによるSACD盤の発売に踏み切ったのは、何と言う素晴らしいことであろうか。

アルトゥスレーベルによるSACD化第2弾として、何を発売するのか筆者としても非常に興味を抱いていたところであるが、今般選ばれた音源は、いずれも文句のない歴史的な名演揃いである。

特に、ヨッフムの最後の来日公演でのブルックナーの交響曲第7番は、今でもファンの間で語り伝えられている歴史的な超名演であり、今般のシングルレイヤーによるSACD化によって、鮮明かつ臨場感溢れる極上の高音質に生まれ変わった意義は極めて大きいものと言わざるを得ないところだ。

それにしても素晴らしい超名演だ。

ブルックナーの権威として自他ともに認めるヨッフムであるが、巨匠ヨッフムとしても死の半年前という最晩年になって漸く成し遂げることができた最高の名演奏と言えるのではないだろうか。

ヨッフムによる本演奏は、後年のヴァントや朝比奈などによって確立された、いわゆるインテンポを基調とした近年主流となったブルックナー演奏とは必ずしも言い難い。

テンポの振幅も大胆に活用しているし、旋律の歌い方も熱きロマンティシズムにさえ満ち溢れているほどだ。

それでいて、演奏全体の造型はきわめて雄大。

楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さにおいては尋常ならざる凄みがあると言えるところであり、演奏全体としては、いわゆるブルックナーらしさをいささかも失うことがないというのは、まさにブルックナーの権威たるヨッフムの真骨頂と言えるだろう。

とりわけ、第2楽章のゆったりとしたテンポによる悠揚迫らぬ音楽の運びは、神々しいまでの崇高さを感じさせるほどであり、これはヨッフムが最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の清澄な境地と言えるのではないだろうか。

併録のモーツァルトの交響曲第33番も、近年の古楽器奏法やピリオド楽器使用による軽妙浮薄な演奏とは正反対の、重厚にしてシンフォニックな名演であり、これぞ巨匠の音楽と言っても過言ではあるまい。

オーケストラがコンセルトヘボウ・アムステルダムであったことも功を奏しており、ヨッフムの神々しいまでの統率の下、最高のパフォーマンスを発揮しているのが見事である。

いずれにしても、本盤は、演奏の素晴らしさ、そして極上の高音質(とりわけ、モーツァルトの交響曲第33番の演奏における艶やかな音色には抗し難い魅力が満ち溢れている)という、望み得る要素をすべて併せ持った至高の名SACDと高く評価したい。

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classicalmusic at 22:55コメント(0)トラックバック(0)ヨッフムブルックナー 

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ジュリーニは、レパートリーが広い指揮者とは必ずしも言い難く、また、レパートリーとした楽曲についても何度も演奏を繰り返すことによって演奏そのものの完成度を高めていき、その出来に満足ができたもののみをスタジオ録音するという完全主義者ぶりが徹底していたと言える。

したがって、これほどの大指揮者にしては録音はさほど多いとは言い難いが、その反面、遺された録音はいずれも極めて完成度の高い名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

これは、1971年、ジュリーニがシカゴ交響楽団の首席客演指揮者を務めていた時代の、このオケとのつながりがいちだんと密になり始めたころ、ジュリーニ50代半ば過ぎのレコーディングで、彼にとって初めてのマーラー録音であったと記憶する。

その悠揚迫らざる棒さばきのもと、どちらかと言えば現代風の鋭利な解釈ではなく、音楽的な美しさの優先する健康体のマーラーを聴かせている。

音楽のスケールの豊かさ、いたるところにちりばめられた美しい歌、それにいきいきした生命力はいつもながらのものだが、ここではとくに、ジュリーニの知的な能力の高さを改めて痛感させられる。

何しろスコアの読みが精細かつシャープ、そしてそれが全曲を実に見通しよく、きっちりと組み上げているのだ。

シカゴ交響楽団も持ち前のパワーだけでなく、むしろ室内楽的とさえ言える繊細なアンサンブルを展開して、指揮者のめざすところに応えている。

あのパワフルなモンスター・オーケストラが、むしろ一貫して精妙なアンサンブルを確保しつつ、息の長い歌の美しさを、見事な流動感とともに描き尽くしているところがすばらしい。

ジュリーニの格調が高く、そしてイタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と気品のある極上の優美なカンタービレに満ち溢れた指揮に、シカゴ響の美しい音色が見事に融合した剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)マーラージュリーニ 

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このプロジェクトは1962年にヴィーラント・ワーグナーの演出で制作されたもので、指揮を担当したベームは主役の2人にニルソンとヴィントガッセンの起用を求めたという。

この2人は初年度から高い評価を得たが、幸いなことにその演奏の収録が行なわれていた。

主役2人の演唱も圧倒的だが、演奏もすばらしい。

ベームによる贅肉をそぎ落とした引き締まった響きと速めのテンポは、この作品の内包するエロティシズムとは無縁のものながら、聴くたびに圧倒される白熱的な名演奏である。

ベームは、バイロイトにもたびたび登場し、ワーグナーのツボを心得た指揮者である。

一世代前の、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのような重厚壮大な「重さ」とは一線を画するものであるが、ワーグナー演奏としてけっして場違いな印象はなく、むしろ戦後のバイロイトが築いた頂点のひとつであり、「ヴィーラントによるバイロイト様式の完成」ではないかと思われる。

そして、フルトヴェングラーが深沈とした奥行きの深さ、クライバーがオーケストラのいぶし銀の音色を活かした重厚さを特色とした名演であったのに対して、ベームによる本演奏は、実演ならではのドラマティックで劇的な演奏と言えるのではないだろうか。

そして、学者風でにこりともしない堅物の風貌のベームが、同曲をこれほどまでに官能的に描き出すことができるとは殆ど信じられないほどである。

ベームは、実演でこそ本領を発揮する指揮者と言われたが、本演奏ではその実力を如何なく発揮しており、冒頭の前奏曲からして官能的で熱き歌心が全開だ。

その後も、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や緊張感、そして切れば血が吹き出してくるような強靭な生命力に満ち溢れており、全盛期のベームならではのリズミカルな躍動感も健在だ。

テンポは若干速めであると言えるが、隙間風が吹くような箇所は皆無であり、どこをとっても造型の堅固さと充実した響きが支配しているのが素晴らしい。

とりわけ、第2幕のイゾルデ役のビルギット・ニルソンとトリスタン役のヴォルフガング・ヴィントガッセンによる愛の熱唱は、ベームの心を込め抜いた指揮も相俟って、おそらくは同曲演奏史上でも最高峰の名演奏に仕上がっていると言えるところであり、その官能的な美しさといい、はたまたドラマティックな迫力といい、聴いていてただただ圧倒されるのみである。

ニルソンの、イゾルデにふさわしい威容と禁断の愛に苦悩する表現の豊かさは見事なもの。

そして、第3幕終結部の愛と死におけるビルギット・ニルソンによる絶唱は、もはや筆舌には尽くし難い感動を覚えるところだ。

第2幕ではニルソンのスケールの大きさにのみこまれそうなヴィントガッセンも、第3幕で死を目前にしての鬼気迫る熱唱は凄絶というほかない。

これらの主役2人のほか、歌手も総じてすぐれた出来映えで、1960年代に全盛期を迎えた名歌手の饗宴は真に感動的だ。

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classicalmusic at 00:14コメント(0)トラックバック(0)ワーグナーベーム 

2014年06月17日


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「第8」の演奏は、まったく奇跡的なものである。

速めのテンポこそ「第7」と共通するが、あの枯淡の境地とはまったく異なり、ここでのシューリヒトは全身を火の玉と化して、圧倒的なパワーで全曲を駆け抜ける。

第1楽章は、ひとつの細胞が誕生したように始まり、分裂と生成を繰り返しつつ、徐々に巨大な音楽に成長する。

第2楽章は、原始的な生命のリズムが鼓動し、第3楽章は天国の花園だ。

第4楽章は、疾風の勢いだ。

あたかも剣の達人が数百人の敵をなぎ倒しながら駆けるが如く。

そのエネルギーが尋常ではないのだが、決して破れかぶれではなく、常に頭脳は明晰に冴え渡っており、音楽の運びは理知的で、道を踏み間違えるときがない。

「第9」は美しい夕映えのような演奏である。

第1楽章の開始から、聴く者の魂は遥かな宇宙へと連れ去られる。

第2主題では、夕映えに照り映える水面のように、色と光を刻々と変化させ、この彼岸と此岸を行き来するような無常感は、ひとつの魂が赤々と燃えながら天に召されるようなコーダまで尽きることがない。

第2楽章は、厳しい精神の舞踏であり、第3楽章こそは、黄泉の国を逍遥する魂の歌だ。

ついに魂は、神と出会う。何という歓喜、何という安らぎ!

ブルックナーの死によって完成されなかったフィナーレでは、全能の神への賛美が、峻厳な対位法を伴って高らかに謳われるはずだったのだが……。

このような作品の本質を、これほど伝えてくれる演奏は他になく、今後もそう簡単には現れないだろう。

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classicalmusic at 23:06コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーシューリヒト 

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本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、そして、ピアノ・ソナタの第12、22、23番は、東西冷戦の真っ只中であった時代、当時の鉄のカーテンの向こう側からやってきた壮年期のリヒテルによる記念碑的な名演だ。

リヒテルは、偉大なピアニストであったが、同時代に活躍していた世界的な大ピアニストとは異なり、全集を好んで録音したピアニストではなかった。

こうした事実は、これだけの実績のあるピアニストにしては大変珍しいとも言えるし、我々クラシック音楽ファンとしてはいささか残念であるとも言えるところである。

したがって、リヒテルがベートーヴェンのピアノ協奏曲全集やピアノ・ソナタ全集を録音したという記録はない。

ピアノ協奏曲について言えば、スタジオ録音としては、単発的に、本盤の第1番や第3番などを録音したのみであり、他の諸曲についてはライヴ録音が何点か遺されているのみである。

ピアノ・ソナタについても同様であり、こうしたことは、リヒテルがいかに楽曲に対する理解と確信を得ない限り、録音をしようとしないという芸術家としての真摯な姿勢の証左とも言えるのではないだろうか。

それだけに、本盤に収められた各演奏は、貴重な記録であると同時に、リヒテルが自信を持って世に送り出した会心の名演奏とも言えるところだ。

ピアノ協奏曲にしても、ピアノ・ソナタにしても、リヒテルは、超絶的な技巧は当然のことながら、演奏全体のスケールの雄大さ、各フレーズに込められたニュアンスの豊かさ、そして表現の彫りの深さなど、どれをとっても非の打ちどころのない演奏を展開している。

人間業とは思えないような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現の幅広さは桁外れであり、十分に個性的な表現を駆使しているが、それでいて、そうした表現があくまでも自然体の中で行われており、芝居がかったところがいささかも見られない。

要は、恣意的な解釈が聴かれないということであり、ベートーヴェンへの深い愛着と敬意以外には私心というものが感じられないのが見事である。

個性の発揮とスコア・リーディングの厳格さという二律背反する要素を両立させている点に、本演奏の凄みがあるとも言えるだろう。

とりわけ、ピアノ・ソナタ「熱情」におけるピアノが壊れてしまうと思われるような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまでのダイナミックレンジの幅広さには出色のものがあり、終楽章終結部の猛烈なアッチェレランドはもはや人間業とは思えないほどの凄みのある演奏に仕上がっていると高く評価したい。

また、ピアノ・ソナタ第22番は、「ワルトシュタイン」と「熱情」に挟まれるなど地味な存在であるが、リヒテルによる本演奏によって、必ずしも有名とは言い難い同曲の真価を聴き手に知らしめることに成功したとも言えるところであり、その意味では稀有の超名演と評しても過言ではあるまい。

ピアノ協奏曲第1番のバックをつとめているのはミュンシュ&ボストン交響楽団であるが、さすがはストラスブール出身で、ブラームスなどの交響曲において名演を聴かせてくれたミュンシュだけに、本演奏においてもドイツ風の重厚な演奏を行っており、リヒテルによる凄みのあるピアノ演奏のバックとして、最高のパフォーマンスを示していると高く評価したい。

いずれにしても、本盤に収められた各演奏は、リヒテルのピアニストとしての偉大さを十二分に窺い知ることが可能な圧倒的な超名演と高く評価したい。

音質については、本盤におさめられた楽曲のうち、ピアノ協奏曲第1番とピアノ・ソナタ第22番が、数年前にXRCD&SHM−CD化され、それは圧倒的に素晴らしい音質であった。

しかしながら、今般、それらにピアノ・ソナタ第12番、第23番を加えてSACD化されたというのは何と言う素晴らしいことであろうか。

とりわけ、3曲のピアノ・ソナタの音質改善効果には目覚ましいものがあり、音質の圧倒的な鮮明さ、そして何よりもリヒテルの透徹したピアノタッチが鮮明に再現されるのは、1960年の録音ということを考慮に入れると、殆ど驚異的とさえ言えるだろう。

いずれにしても、リヒテルによる圧倒的な超名演をSACDによる超高音質で味わうことができるようになったことを心より大いに喜びたい。

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classicalmusic at 00:55コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンリヒテル 

2014年06月16日


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ザンデルリンク、ベルリン交響楽団とのベスト・コンビネーションが評判のシベリウス・シリーズからの1枚。

独墺系の指揮者によるシベリウスの交響曲は大変珍しい。

シベリウスの交響曲を頻繁に採り上げた指揮者としては、ザンデルリンクのほか、カラヤンしかいないと思われるが、カラヤンは、録音予定はあったものの第3番をついに録音することなく世を去ったこともあり、今のところ、ザンデルリンクは、シベリウスの交響曲全集を完成させた独墺系のただ一人の指揮者と言える。

ザンデルリンクのシベリウスは、いかにもドイツ風の重厚な性格の演奏だ。

落ち着いた音色、程良い力感、程良い歌い込み、ザンデルリンクの持ち味がシベリウスの音楽とマッチした演奏。

シベリウスを得意とする北欧や英国系の指揮者とは、一線を画するユニークなものであり、シベリウスを得意とした同じ独墺系のカラヤンの耽美的な(楽曲によっては劇的な)演奏とも大きく異なる。

前述のように、野暮ったいほどドイツ的な性格を帯びており、あたかもブラームスの交響曲を指揮するかのように、造型美と重厚さを全面に打ち出した演奏である。

しかしながら、よく聴くと、旋律の歌い込みであるとか、節度ある情感の豊かさであるとか、はたまた、無機的には決して陥らない力感であるとか、非常に考え抜かれた解釈された表現であることがよくわかる。

要は、巧言令色とは薬にしたくもなく、噛めば噛むほど味わいが出てくる内容豊かな演奏ということができる。

したがって、シベリウスの交響曲演奏としては、前述のようにユニークとも言えると考えるが、シベリウスの本質をしっかりと捉えた演奏ということができるところであり、名演と評価しても過言ではないものと考える。

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classicalmusic at 22:50コメント(0)トラックバック(0)シベリウスザンデルリンク 

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ショルティは、先輩格のハンガリー人指揮者で同様に米国を舞台に指揮活動を行ったライナーやオーマンディ、セルなどと異なり、オペラの分野において極めて幅の広いレパートリーを有していたことで知られている。

とある影響力の大きい某音楽評論家の酷評によって、その実力の割には不当に貶められているショルティであるが、同時代に活躍した史上最高のレコーディング・アーティストであるカラヤンにも比肩し得るほどの数多くのオペラ演奏・録音を行った功績は、もっと広く知られてもいいのではないかとも考えられるところだ。

ショルティは、その芸風との相性があまり良くなかったということもあって、モーツァルトの交響曲については、わずかしか演奏・録音を行っていないが、オペラについては、主要4大オペラのすべてをスタジオ録音するなど、確固たる実績を遺している。

本盤に収められた歌劇「フィガロの結婚」の演奏は、そうした一連のモーツァルトの主要オペラの録音の頂点に立つものと言えるだろう。

ショルティの芸風は、切れ味鋭いリズム感とメリハリの明晰さであるが、オペラ、とりわけモーツァルトのオペラを演奏する際には、そうした芸風を全面に打ち出すことをやや抑制しているような印象を受ける。

それは、特に歌手陣への配慮によるところも大きいと言えるところであり、オペラを熟知したショルティの深謀遠慮と言った側面もあるのではないかと考えられるところだ。

加えて、1980年代に入ると、前述のような芸風に円熟味や奥行きの深さが加わってきたとも言えるところであり、その意味においては、本盤の演奏は、ショルティによるモーツァルトのオペラ演奏の一つの到達点とも言うべき名演と言えるのかもしれない。

もちろん、本演奏においても、楽想を明晰に描き出していくというショルティならではのアプローチは健在であり、他の指揮者による同曲のいかなる演奏よりも、メリハリのある明瞭な演奏に仕上がっていると言えることは言うまでもないところだ。

そして、本盤で素晴らしいのは、何と言っても歌手陣である。

さすがはオペラを熟知したショルティならではの考え抜かれた的確なキャスティングと言えるところでであり、伯爵夫人役のキリ・テ・カナワ、スザンヌ役のルチア・ホップ、ケルビーノ役のフレデリカ・フォン・シュターデ、フィガロ役のサミュエル・レイミー、伯爵役のトーマス・アレン、バルトロ役のクルト・モルなど、当代一流の豪華歌手陣が最高の歌唱を披露しているのが素晴らしい。

また、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した名演奏を展開している点も高く評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1981年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

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classicalmusic at 20:55コメント(0)トラックバック(0)モーツァルトショルティ 

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これは素晴らしい名演だ。

ウィンナ・ワルツを収めたCDは数多く存在しているが、本盤は、その中でも最も魅力的な名演の一つと言ってもいいのではないだろうか。

ケンぺは、ベートーヴェンやブラームス、そしてブルックナーの交響曲などにおいて、ドイツ風の重厚な名演の数々を成し遂げていた指揮者だけに、どちらかと言えば謹厳実直で質実剛健な演奏を行うというイメージが付きまとっていると言っても過言ではないところだ。

しかしながら、本盤のような愉悦に富んだ名演を聴いていると、ケンペは必ずしも質実剛健一辺倒の演奏を行っていたわけではなく、むしろ、ケンペという指揮者の表現力の幅広さ、多彩さ、そしてその豊かな音楽性を窺い知ることが可能だ。

それにしても、演奏全体に漲っているリズミカルな躍動感は、ウィンナ・ワルツの演奏としては申し分がない理想的なものと言えるところであり、とりわけ喜歌劇「こうもり」序曲の畳み掛けていくような気迫や強靭さは圧倒的な迫力を誇っており、聴いて思わず度肝を抜かれるほどだ。

それでいて、ケンペならではのドイツ風の重厚さも随所に聴かれるところであり、レハールのワルツ「金と銀」やヨゼフ・シュトラウスのワルツ「天体の音楽」の重心の低い深沈たる味わいの深さには抗し難い魅力がある。

かかる演奏は、もはやウィンナ・ワルツという領域を超えた、ベートーヴェンやブラームスの交響曲などにも比肩し得る至高の芸術作品のレベルに達していると言っても過言ではあるまい。

そして、このようなドイツ風の重厚な演奏を行っているにもかかわらず、いわゆる野暮ったさなどはいささかも感じさせず、愉悦性を失わないというのは、大芸術家ケンペだけに可能な圧巻の至芸とも言うべきであろう。

そして、いぶし銀の音色を有するシュターツカペレ・ドレスデンによる名演奏が、ケンペによる重厚な演奏に独特の潤いと温もりを付加させているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は、あまた存在するウィンナ・ワルツ集の中でも、トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

音質は、1970年代のスタジオ録音ではあるが、リマスタリング、HQCD化等が行われたことや、聖ルカ教会の残響を活かした名録音であったこともあり、十分に満足できるものであった。

しかしながら、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤が発売される運びになった。

本シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、従来CD盤やHQCD盤などとはそもそも次元が異なる極上の高音質であり、音質の鮮明さ、音圧、音場の広さのどれをとっても一級品の仕上がりである。

いずれにしても、ケンペ&シュターツカペレ・ドレスデンによる至高の超名演を、このような極上の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 00:17コメント(0)トラックバック(0)シュトラウスケンペ 

2014年06月15日


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ザンデルリンク盤は1977年のスタジオ録音で音質が良く、ムラヴィンスキーとともに持っていたい。

ドイツ風の重厚な名演だ。

ザンデルリンクは、旧東ドイツ出身の指揮者ではあるが、旧ソヴィエト連邦において、ムラヴィンスキーの下、レニングラード・フィルの客演指揮者をつとめていたこともあり、ショスタコーヴィチの演奏について、ムラヴィンスキーの薫陶を得ていたものと思われる。

もちろん、ムラヴィンスキーの演奏とはその性格を異にするが、それでも、その演奏に通低する精神性においては、共通するものがあるのではないかと考える。

ショスタコーヴィチは、現在の北朝鮮のような国において、粛清の恐怖に耐えながら、したたかに生き抜いてきた。

そうした死と隣り合わせの恐怖が、各交響曲の根底にあると考えられる。

だからこそ、ムラヴィンスキーの演奏には、単に、初演者であるからというのにとどまらない、強い説得力があるものと言える。

ザンデルリンクも、前述のように社会主義政権下にあった東独出身であり、こうした恐怖には強く共感するものがあったと考える。

本演奏には、前述のような、厳しい造型美を旨とするドイツ風の重厚な佇まいに加えて、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を鷲掴みにした凄みのある深い共感に満ち溢れている。

第1楽章は遅いテンポで格調高く、じっくりと攻めており、スケールが大きい。

閃きや鋭さはムラヴィンスキーの方が上だが、クライマックスにおける音の洪水には体が流されそうだし、(12:01)からのスタッカート指定を強調し、弦のリズムでものをいう表現は、前者とはまったく違うスタイルで、音彩もすばらしい。

この直後に連続する内容いっぱいの音楽は、どれほどの最強音になっても美感を失わず、しかも味わいは濃厚、ここだけはムラヴィンスキーを大きく超えている。

第2楽章の強靭なリズムとアンサンブルも聴きものだが、強音部になるととかく金管の音色の単調さが目立つのはどういうわけだろうか。

第3楽章は表現を整理しすぎ、整然とした佇まいがマイナスに作用しているが、冒頭部は美しいし、コーダの感慨深さも特筆すべきだ。

終楽章も、単なる苦悩から歓喜へというようなお祭り騒ぎにはなっておらず、ムラヴィンスキーの演奏と同様に、テンポを落とした幾分控えめな終結が印象的である。

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「ミサ・ソレムニス」は交響曲第9番と並ぶベートーヴェンの最高傑作であるが、交響曲第9番には若干の親しみやすさがあるのに対して、晦渋な箇所も多く、容易には聴き手を寄せ付けないような峻厳さがあると言えるだろう。

したがって、生半可な指揮では、名演など到底望むべくもないと考えられる。

同曲には、クレンペラーのほか、ワルターやトスカニーニ、そしてカラヤンやバーンスタインなどの名演も存在しているが、クレンペラーによる本演奏こそは、同曲のあらゆる名演に冠絶する至高の超名演と高く評価したい。

ベートーヴェンはクレンペラーにとって、最も重要なレパートリーで、EMIに同じフィルハーモニア管弦楽団を指揮しての交響曲全集録音もあるが、もちろん、これはそれとは別テイクの放送音源である。

なお、クレンペラーは、その芸風が同曲と符号しているせいか、同曲の録音をスタジオ録音を含め、本演奏のほかにも行っているが、ライヴだからこその緊張感やスケール感が明確に伝わってくることの素晴らしさという点を考慮すれば、本演奏の優位は動かないものと考える。

クレンペラーは悠揚迫らぬテンポを基調にして、曲想を精緻に真摯に、そして重厚に描き出している。

そして、ここぞと言うときの強靭な迫力は、我々聴き手の度肝を抜くのに十分な圧倒的な迫力を誇っている。

演奏全体の様相としては、奇を衒うことは薬にしたくもなく、飾り気などまるでない演奏であり、質実剛健そのものの演奏と言っても過言ではあるまい。

もっとも、同曲の壮麗さは見事なまでに描出されており、その仰ぎ見るような威容は、聴き手の居住まいを正さずにはいられないほどである。

かかる格調が高く、なおかつ堅固な造型の中にもスケールの雄渾さを兼ね備えた彫りの深い演奏は、巨匠クレンペラーだけに可能な圧巻の至芸と言えるところであり、その音楽は、神々しささえ感じさせるほどの崇高さを湛えているとさえ言える。

例によって、木管楽器の生かし方もクレンペラーならではのものであるが、それが演奏に独特の豊かなニュアンスを付加するのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

独唱陣も素晴らしい歌唱を披露しており、クレンペラーの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを行っているフィルハーモニア管弦楽団及び同合唱団に対しても大きな拍手を送りたいと考える。

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classicalmusic at 21:05コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンクレンペラー 

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キタエンコ&ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団によるチャイコフスキーの交響曲チクルスの第3弾の登場だ。

既発売のマンフレッド交響曲や交響曲第6番は、キタエンコの円熟を感じさせる素晴らしい名演であったが、本盤に収められた交響曲第5番も、それらに優るとも劣らない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

キタエンコによる本演奏のおけるアプローチは、マンフレッド交響曲や交響曲第6番と基本的には変わりがない。

かつてのモスクワ・フィルの音楽監督時代においては、いかにもロシア風のあくの強さを感じさせる演奏を行っていたが、ヤンソンスやプレトニョフなどにも共通していると思うが、その演奏にはより洗練度が増してきたものと思われるところだ。

キタエンコがそのような洗練された演奏を行うようになったのは、ドイツに拠点を移し、フランクフルト放送交響楽団やケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団などを指揮するようになってからであり、いい意味で円熟の度を増してきたと言ってもいいのかもしれない。

マンフレッド交響曲や交響曲第6番と同様に、本盤の交響曲第5番においても、キタエンコは、楽曲を精緻に描き出していくという純音楽的なアプローチを施しており、まさに全体として洗練された装いが支配している。

もちろん、そのように評したからと言って、キタエンコの演奏が安全運転に堕した凡庸な演奏に陥っているわけではないことに留意しておく必要がある。

テンポはややゆったりとしたものとなっており、スケールは雄渾の極み。

そして、ここぞと言う時のトゥッティにおけるパワフルな演奏(特に、第1楽章中間部、終楽章の展開部や終結部)は、いかにもロシアの悠久の大地を感じさせるような壮大な迫力を誇っており、ドイツに拠点を移してもキタエンコに今なお息づくロシア人としての熱き魂を感じることが可能だ。

第2楽章などにおける心を込め抜いたロシア風のメランコリックな抒情の表現にもいささかの不足もなく、第3楽章のワルツの美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

また、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の重心の低いドイツ風の重厚なサウンドも、本演奏に奥行きと深みを与えている点を忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は、前述のようにキタエンコの円熟とともに、今後のキタエンコ&ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団によるチャイコフスキーの交響曲チクルスの続編に大きな期待を抱かせる素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

併録として、チャイコフスキーの最晩年の傑作歌劇である「スペードの女王」の序曲が収められているが、これまた正攻法のアプローチによる素晴らしい名演だ。

そして、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

昨年より、大手レコード会社がSACDの発売を積極的に行うようになったことから、SACDに復活の兆しが見られるところであるが、その殆どはマルチチャンネルが付加されていないところである。

本盤のようなマルチチャンネル付きのSACDによる臨場感溢れる鮮明な高音質を聴いていると、あらためてSACDの潜在能力の高さを再認識させられるところだ。

いずれにしても、キタエンコによる素晴らしい名演を、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 01:06コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキー 

2014年06月14日


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古くからのファンにとってはミルシテインとボールトの夢の競演と言えよう。

しかもベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲である。

ボールト卿がベートーヴェンの中でもっとも愛したのではないかと思われるのがヴァイオリン協奏曲。

9つのシンフォニーよりもスケールの大きなこの曲を料理するのは容易ではない。

スークとボールトとの共演の名盤があるが、これが緻密すぎると感じる向きにお薦めなのがこのCDだ。

ここでは、珍しく序奏からテンションが高い。

ライヴということもあるのか、ミルシテインの個性からか、いずれにしても白熱しつつも、大変格調の高い名演奏だ。

ミルシテインは引き締まった造形だが、随所にはっとするような、閃きに満ちた清冽な歌がある。

エレガントでスタイリッシュと言うと表層的な演奏という印象を与える心配があるが、ミルシテインの演奏は(特にカップリングされた曲)ほんとうにかっこいい。

そして気品に満ちている。

露ほどのケレン味もなく、くどさや泥臭さとは一切無縁。

しかも、なんと美しい音色なのだろう。

BBCのこのシリーズは実演ならではの白熱した見事なパフォーマンスが楽しめる注目盤が多い。

その中でも録音状態も良好で十分に鑑賞に堪え得る名CDだ。

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classicalmusic at 23:08コメント(0)トラックバック(0)ミルシテインベートーヴェン 

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バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」は、作曲されてから約300年が経っているにもかかわらず、今なお世界のヴァイオリニストが弾きこなすのを究極の目標とするというのは殆ど驚異であると言える。

しかも、無伴奏のヴァイオリン曲という分野でも、このバッハの曲を超える作品は未だに存在しておらず、おそらくは、今後とも未来永劫、無伴奏のヴァイオリン曲の最高峰に君臨する至高の作品であり続けるものと思われる。

そのような超名曲だけに、古今東西の著名なヴァイオリニストによって、これまで数多くの名演が生み出されてきた。

そのような千軍万馬の兵たちの中で、ミルシテイン盤はどのような特徴があるのだろうか。

本盤は、ミルシテインの1957年ザルツブルク音楽祭に於けるライヴ録音であるが、先ず特筆すべきは、超人的な名人芸ということになるだろう。

実に鮮やかとも言うべき抜群のテクニックであると言える。

もちろん、卓越した技量を全面に打ち出した演奏としてはハイフェッツ盤が掲げられるが、ミルシテインは、技量だけを追求するのではなく、ロマン的とも言うべき独特の詩情に溢れているのが素晴らしい。

非人間的な音は一音たりとも発することはなく、どの箇所をとっても、ニュアンス豊かで、詩情豊かな表情づけがなされているのが見事である。

特に「シャコンヌ」は全ての演奏の中でも頂点を極めていると言えるところであり、聴いていただければお分かりになると思うが、この演奏は信じられない程の緊張感に満ちている。

ミルシテインが如何にライヴで力を発揮するタイプだったのかということを理解できると思う。

最近話題になったクレーメルによる先鋭的な名演などに比較すると、いかにも旧スタイルの演奏とも言えるが、このような人間的なぬくもりに満ち溢れた名演は、現代においても、そして現代にこそ十分に存在価値があるものと考える。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)バッハミルシテイン 

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最近では体調を崩してファンを心配させている小澤であるが、小澤はマーラーの交響曲を得意のレパートリーとしている。

今では入手難となっているが、かつての手兵であるボストン交響楽団とは全集を完成させているほどであるが、マーラーの数ある交響曲の中でも小澤が最も多くの録音を行っているのが交響曲第1番だ。

本盤に収められたボストン交響楽団とともに行ったスタジオ録音(1977年)、その10年後に前述の全集の一環として録音された演奏(1987年)、そして、サイトウ・キネン・オーケストラとともに行ったライヴ録音(2008年)の3種存在している。

いずれも名演と言えるが、3種の演奏のうちどれか一つをとれと言われれば、筆者としては躊躇なく本盤に収められた1977年のスタジオ録音を採りたい。

近年発売されたサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏や、全集の一環として録音された演奏があまりにも目立つ存在であることから、本演奏は長らく輸入盤すら手に入らない状況におかれており、知る人ぞ知る存在に甘んじていたが、数年前にオリジナルジャケットによる待望のCD盤が発売され、長年の渇きが癒されたのであった。

そして、そのような隠れた名演が、今般、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤として発売されたというのは、本演奏の価値をあらためて世に知らしめるという意味において極めて意義が大きいと言わざるを得ない。

全集の一環として録音された演奏、さらにはサイトウ・キネン・オーケストラとの演奏は、功成り名を遂げた大指揮者による円熟の名演と言った趣きがあるが、それに対して、本演奏は若き小澤による畳み掛けていくような気迫や生命力が漲った演奏と言うことができるだろう。

マーラーの交響曲第1番は、マーラーの青雲の志を描いた作品とも言えるところであるが、本演奏の当時、いまだ40代であった小澤にとっては、同曲との相性が抜群のものであったと言えるのではないだろうか。

小澤のアプローチが、そのまま同曲の魅力を際立たせているとも言えるところであり、もちろん、ワルター&コロンビア交響楽団によるスタジオ録音(1961年)やバーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダムによるライヴ録音(1987年)といった歴史的な超名演と比較して云々することは容易であるが、純音楽に徹した演奏という意味においては最右翼に掲げられる圧倒的な名演と評価しても過言ではないと考える。

ボストン交響楽団も、小澤の火の玉のような渾身の指揮にしっかりと付いていっており、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

それにしても、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CDの音質は圧倒的だ。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても超一級品の仕上がりである。

いずれにしても、若き日の小澤&ボストン交響楽団による圧倒的な名演を、現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 01:11コメント(0)トラックバック(0)マーラー小澤 征爾 

2014年06月13日


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エジプトのアレキサンドリアでの演奏会で絶賛されたモーツァルトのニ長調、その洗練さと優雅さ。

学究肌のイメージが付きまとうシゲティであるが、実際の演奏はみずみずしく、品格にあふれるものであった。

そしてもう一方のベートーヴェンはワルターが録音した初めてのコンチェルトである。

戦前のSPでベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」といえば、クライスラー&ブレッヒかシゲティ&ワルターのいずれかであった。

どちらに与するかは、聴き手次第だったらしいが、特にシゲティ盤に与する人はワルターの指揮も大きな力となっていたと思う。

確かにワルターの表現は今改めて聴き返してみると円熟味に不足するとはいえ、ティンパニを強打して始まる印象的な冒頭や、緩急自在のテンポ感、特に第2主題の大きくテンポを落とす情感と、レガートやポルタメントを多用する歌い方など、まことにチャーミングである。

ダイナミズムも柔らかいかと思えば、再現部冒頭のように厳しい一面も見せる。

しかし当時のワルターの欠点は、テンポの速いところでアンサンブルが雑になったり、リズムがのめりがちになったりすることであろう。

その良い例が終楽章で、ここではスケールがいかにも小さく、音楽が軽くなりすぎてしまった。

シゲティのヴァイオリンは彼の3種のレコードの中では、この第1回目が当然のことながら技術はいちばん充実している。

もちろんシゲティの音はあたかも鋼のごとく固く、強く、きつい。

ムードとか甘さはどこに探しても見当たらないが、しかしヴィブラートが粗すぎたり、音がかすれたりすることがなく、最高の音楽性をもって真摯に弾いてゆく。

ことに第2楽章の出来が良く、透徹しており、深い精神美に満たされている。

速いテンポでリズミックな舞曲調を生かしたフィナーレも個性的で若々しく、これこそ近代ヴァイオリニストが録音に残した演奏の最高峰である。

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classicalmusic at 23:18コメント(0)トラックバック(0)ビーチャムワルター 

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両曲ともに名演だ。

ザンデルリンクは、シベリウスの交響曲全集を完成させた唯一の独墺系の指揮者であるが、いずれの交響曲も、造型美を重視したドイツ風の重厚なものであり、イギリスや北欧の指揮者の手による演奏とは性格が大きく異なるが、シベリウスの交響曲の知られざる魅力を知らしめた異色の名演として高く評価したい。

本盤の両曲も、そうしたザンデルリンクならではの重厚なアプローチを見せてくれているが、特に、ゆったりとしたテンポで、シベリウスがスコアに記した数々の美しい旋律を精緻に演奏している点が素晴らしい。

弦楽器のトレモロや、金管・木管の響かせ方にもユニークなものがあり、初めて耳にするような場面が散見されるなど、演奏に新鮮なみずみずしささえも感じさせるのには大変驚かされた。

こうした点に、ザンデルリンクのシベリウスに対する深い理解と愛着を感じさせられる。

特に「第7」はシベリウスの個性にあまりしっくり来ないはずのスタイルなのに、聴きこむと納得してしまう。

文句のつけようのない名演だと思う。

録音は、今回のハイパー・リマスタリングによって、見違えるような高音質に蘇った。

重量感にはいささか欠ける面はあるが、鮮明さが飛躍的に増しており、シベリウスの交響曲には理想的な音質になった。

かつて本演奏にはSACD盤が発売されていたが、本盤は、SACD盤に優るとも劣らない音質であると言えるだろう。

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