2014年07月

2014年07月31日


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バーンスタインはマーラーの交響曲全集をDVD作品を含めると3度にわたって録音した唯一の指揮者である。

本盤に収められた全集はその3度目のものであるが、正確に言うと、バーンスタインは本全集を完成する前に惜しくも鬼籍に入ってしまったところだ。

というのも、第8番、「大地の歌」そして第10番の新録音を果たすことができなかったからであり、それ故に、第8番については没後発見されたザルツブルク音楽祭でのライヴ録音(1975年)、「大地の歌」については本盤には未収録、第10番は2度目のDVDによる全集中の演奏(1974年)をCDに焼き直したものが収められているところである。

このような若干の未完成というハンディはあるものの、本全集こそは、あまた存在する様々な指揮者によるマーラーの交響曲全集に冠絶する至高の超名全集と高く評価したい。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚な表情づけの演奏をするようになった。

それは本全集においても例外ではなく、その演奏は、これまでの1度目、2度目の全集と比較してもテンポの遅さや濃厚さが際立っている。

しかしながら、他の作曲家による楽曲は別として、マーラーの交響曲や歌曲においては、こうしたゆったりとしたテンポによる濃厚さがすべてプラスに作用していると言えるだろう。

そして、バーンスタインのアプローチは、ゆったりとしたテンポや濃厚な表情づけを基軸としつつ、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使してこれ以上は求め得ないようなドラマティックな演奏を行っていると言えるところだ。

マーラーの交響曲のテーマは、楽曲によって一部に例外はあるものの、基本的には死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執と憧憬であると考えるが、バーンスタイン以上にそれを音化し得た演奏は、テンシュテットによる最晩年の演奏以外には存在しないと言っても過言ではあるまい。

こうした渾身の大熱演が我々聴き手の肺腑を打つのであり、前述のように、第8番や第10番など、1970年代の録音も一部に含まれてはいるが、本全集の各演奏こそは、史上最大のマーラー指揮者であったバーンスタインがその最晩年になって漸く成し得た究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

マーラーに縁があった3つの超一流のオーケストラを起用したのも特徴であり、奥行きのある深沈とした表現が必要不可欠な第9番には北ヨーロッパの楽団ならではのくすんだいぶし銀の音色が魅力のコンセルトへボウ・アムステルダムを起用したり、壮麗な迫力を必要とする第2番にニューヨーク・フィルを起用するなど、各オーケストラの使い分けも実に考え抜かれた最善の選択がなされていると評価したい。

第4番の終楽章ではボーイソプラノを起用するなど、若干のやり過ぎの感も否めないところではあるが、本全集全体の評価を貶めるほどの瑕疵があるわけではないものと考える。

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2014年07月30日


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カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代は1960年代及び1970年代というのが大方の見方だ。

1982年になって、いわゆるザビーネ・マイヤー事件が勃発すると、両者の関係は修復不可能にまで悪化し、カラヤン自身の健康悪化も多分にはあると思うが、この両者による演奏に全盛時代の輝きが失われるようになったというのは否めない事実である(中には優れた味わい深い演奏も存在している)。

本盤に収められたハイドンのパリ交響曲集とロンドン交響曲集は、1980年代に入ってからの演奏ではあるが、ザビーネ・マイヤー事件勃発前のものであり、いまだ両者の関係に亀裂が走っていない時期の録音である。

したがって、全盛期に比肩し得るような両者による素晴らしい演奏を堪能することが可能である。

一時期のカラヤンは作為的な表現も多々あったが、このハイドンでは、彼のアクの強さは影をひそめ、そのかわりにベルリン・フィルの自発性が目立っている。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、木管楽器やホルンなどの卓越した桁外れの技量を駆使しつつ、カラヤン一流の優雅なレガートが施された演奏は、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべきものであり、ハイドンの交響曲演奏としてもこれ以上の絢爛豪華な演奏は空前にして絶後であるとも言えるだろう。

ハイドンは、カラヤンが昔から得意としていたレパートリーのひとつであり、カラヤンがとりわけ深く愛した交響曲第104番「ロンドン」については、ウィーン・フィルとのスタジオ録音(1959年)の方が、第103番も含めて、より颯爽とした爽快な演奏に仕上がっており、ハイドンの交響曲に相応しい名演とも言える。

また、第104番に、第83番、第101番をカップリングしたベルリン・フィルとのスタジオ録音(1975年)も優れた名演であった。

しかしながら、本盤に収められた演奏は、ベルリン・フィルの合奏力が、遺憾なく発揮された演奏であり、いわゆる音のドラマとしては最高峰の水準に達していると言えるところであり、聴き終えた後の充足感においては、前述の過去の名演にもいささかも引けを取っていないと考える。

細部にまで磨き上げられたアンサンブルが特徴で、旋律を心から歌わせ、音楽をここまで彫琢して聴かせる指揮者というのも、カラヤンをおいては他になかろう。

晩年のカラヤンは、ぎりぎりまでテンポを落として、風格のある演奏を行っていたが、ここでもそれが見事に功を奏し、巨匠的な仕上がりとなっている。

近年多くなった、端正な演奏とはかけ離れているが、スケールの大きさといい、完成度の高さといい、カラヤンならではの世界だ。

このような重厚でシンフォニックな本演奏に接すると、近年主流となっている古楽器奏法や、ピリオド楽器を使用した演奏が何と小賢しく聴こえることであろうか。

録音は従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、数年前にカラヤン生誕100年を記念して発売されたSHM−CD盤は、音質の鮮明さといい、音場の広がりといい、素晴らしい水準の音質である。

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2014年07月29日


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全盛期のベームによる圧倒的な名演だ。

1966、7年度のバイロイト音楽祭におけるライヴで、いろいろな意味で、「記念碑的な名演」という言葉こそふさわしいレコードである。

ベームはスタジオ録音よりも実演でこそその本領を発揮する指揮者と言われているが、本盤の演奏を聴いているとよく理解できるところだ。

それにしても、本演奏におけるベームは凄まじいばかりのハイテンションだ。

ひたすら音楽を前へと進めていこうという畳み掛けていくような気迫と緊張感、そして切れば血が噴き出してくるような圧倒的な生命力に満ち溢れている。

長大なワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」は、全体を演奏するのに大抵は14時間前後を要するが、ベームは何と約13時間程度で全曲を駆け抜けている。

これだけ速いテンポだと、性急で浅薄な印象を聴き手に与える危険性もあるが、本演奏に関してはそのようなことはいささかもなく、どこをとっても隙間風の吹かない造型の堅固さと充実した響きが支配しているのが素晴らしい。

このベームの演奏が聴き手に感じさせるのは決して表面的なテンポの速さではなく、凄まじいばかりの白熱と緊張に満ちたその音楽の素晴らしい持続力と高揚である。

全盛期のベームの特徴でもある快活なリズム感も効果的であり、随所に清新な躍動感が息づいているのが見事であるという他はない。

同曲には、重厚で強烈無比なショルティ&ウィーン・フィルによる演奏(1958〜1965年)や、ドラマティックなフルトヴェングラー&RAIローマ響による演奏(1953年)、圧倒的な音のドラマを構築したカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏(1966〜1970年)、あらゆる意味でバランスのとれたカイルベルト&バイロイト祝祭管による演奏(1955年)など、名演が目白押しではあるが、演奏の持つ実演ならではの根源的な迫力においては、ベームによる本名演もいささかも引けを取っていない。

歌手陣も豪華であり、ジークフリート役(「ラインの黄金」においてはローゲ役)のヴォルフガング・ヴィントガッセン、ブリュンヒルデ役のビルギット・ニルソン、ジークムント役のジェームズ・キング、アルベリヒ役のグスタフ・ナイトリンガー、ファフナー役のクルト・ベーメ、そしてハーゲン役のヨーゼフ・グラインドルなど、いまや伝説となった大物ワーグナー歌手も、持ち得る実力を最大限に発揮した渾身の名唱を披露しているのが素晴らしい。

また、ヴォータン役に急遽抜擢されたテオ・アダムによる素晴らしい歌唱も、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

また、ライヴ録音だけに、4作を通じて活躍する配役が原則として同じ歌手によって歌われており、これによって自然なドラマの流れが高い集中力で持続されている点も本演奏の大きなアドバンテージと言えるだろう。

いずれにしても、本盤の演奏は、全盛期のベーム、そして歴史的なワーグナー歌手がバイロイト祝祭劇場に一同に会した歴史的な超名演であると高く評価したい。

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本盤にはチャイコフスキーの3大バレエ音楽からの有名曲の抜粋が収められているが、いずれも素晴らしい超名演であると高く評価したい。

カラヤンは、チャイコフスキーを得意中の得意としており、3大バレエ音楽からの抜粋についても、フィルハーモニア管弦楽団との演奏(1952、1959年)、ウィーン・フィルとの演奏(1961、1965年)、そして本盤に収められたベルリン・フィルとの演奏(1966、1971年)と3度にわたってスタジオ録音を行っている。

また、組曲「くるみ割り人形」については、幻想序曲「ロミオとジュリエット」との組み合わせで1982年にも録音を行っている。

いずれ劣らぬ名演であるが、この中で最もカラヤンの個性が発揮された名演は、本盤に収められたベルリン・フィルとの演奏であると考えられる。

本演奏の録音当時は、まさにカラヤン&ベルリン・フィルという稀代の黄金コンビの全盛時代であった。

分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていた。

カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

本演奏においても圧倒的な音のドラマは健在であり、その演奏はまさに豪華絢爛にして豪奢。おそらくは、これらの楽曲の演奏史上でも最も重厚にして華麗な演奏と言っても過言ではあるまい。

楽曲がチャイコフスキーの3大バレエ音楽だけに、カラヤンによるこのようなアプローチは見事に功を奏しており、筆者としては、本演奏こそが、これらの楽曲(組曲等の抜粋の形での演奏)の演奏史上最高峰の玉座に君臨する至高の超名演と高く評価したいと考える。

録音は、従来盤でも十分に満足できる音質であると言えるが、カラヤンによる至高の超名演でもあり、今後はSHM−CD化、そして可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど更なる高音質化を大いに望んでおきたい。

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2014年07月28日


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「皇帝」が脂の乗り切った凄い演奏だ。

全盛期のホロヴィッツのピアノがいかに超絶的なものであったのかを窺い知ることができる演奏である。

ホロヴィッツのテクニックは殆ど神業とも言うべき圧巻の凄さであるが、表現力も桁外れであり、ピアノが壊れてしまうのではないかと思われるような強靭な打鍵から繊細なピアニッシモまで、その幅は途轍もなく広い。

変幻自在のテンポ設定はあたかも魔法のようであり、トゥッティに向けての畳み掛けていくような猛烈なアッチェレランドはとても人間業とは思えないような物凄さだ。

ホロヴィッツは、おそらくはあまり難しいことを考えずに、自らの才能の赴くままに演奏しているのに過ぎないと思うのだが、いささかも技巧臭がすることなく、豊かな情感と気高い芸術性を保持しているというのは、全盛期のホロヴィッツだけに可能な驚異的な至芸と言えるだろう。

最晩年のホロヴィッツは、そのテクニック自体が衰えることによって、著しく芸術性を損なった老醜を垣間見せるようになったとも言えなくもないが、全盛期のホロヴィッツは、卓越した技量自体が芸術性をも兼ね備えているという稀有のピアニストであったと言えるのではないだろうか。

このような天才的なホロヴィッツのピアノを、ライナーがしっかりと下支えしているのが素晴らしい。

オーケストラは、手兵のシカゴ交響楽団ではないが、RCAビクター交響楽団を統率して、最高のパフォーマンスを発揮しているのが見事である。

「月光」ソナタでのホロヴィッツは、作品の持つ様式感と、古典的形式感の骨子をしっかりと押さえ、格調を保ちつつ自発性に満ちた自在感ある音楽を生み出している。

そのため、この曲が本来備えている抒情性や幻想性がやや失われたことも否めないが、そこがホロヴィッツのホロヴィッツたるゆえんでもある。

いずれにせよ、しっかりとした構成感の中にこまやかな表情の変化が盛り込まれた演奏であり、聴きなれた名曲が自信に満ちた足どりで展開されてゆく。

チェルニーでは、音の粒が極めて明確に整えられているが、これはペダルの使用を控えているからでもあり、スカルラッティを弾く時のホロヴィッツを思わせる。

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凄い演奏だ。

まさに超個性的なガーシュウィンと言える。

ジャズ音楽とクラシック音楽の境界線上にあるとされるガーシュウィンの楽曲の演奏に際しては、そうした音楽の性格を考慮して、軽快なリズム感を重視した爽快にして明瞭な演奏が多い。

最晩年になって、テンポが異様に遅くなり濃厚で大仰な演奏を行うようになったバーンスタインでさえ、ガーシュウィンの演奏に際しては、そうした爽快にして明瞭な演奏を心掛けていたと言えるだろう。

ところが、スヴェトラーノフはそのような一般的な演奏様式など完全無視。

本盤に収められたいずれの楽曲においても、途轍もない超スローテンポで濃厚さの極みとも言うべき豪演を展開している。

そのあまりの超スローテンポぶりは、他の指揮者による演奏であればCD1枚に収まるものが、本盤ではCD2枚になっていることにもあらわれていると言えるのではないだろうか。

そして、重低音においては大地が地鳴りするようなド迫力に満ち溢れているし、トゥッティにおける強靭な豪快さは、我々の聴き手の度肝を抜くのに十分な壮絶さだ。

また、ガーシュウィン特有の軽快なリズム感も、あたかも巨象が進軍するかのような重々しさが支配しており、ガーシュウィンの音楽というよりは、スヴェトラーノフが得意とするロシア音楽を演奏しているような趣きさえ感じさせると言えるだろう。

ガーシュウィンが随所に散りばめた美しい旋律の数々についても、スヴェトラーノフは、これ以上は求め得ないような熱き心を込めて濃密に歌い抜いている。

いずれにしても、本演奏は、他の指揮者によるガーシュウィンの演奏とはひと味もふた味も異なっているが、聴き終えた後の充足感においてはいささかも引けを取っていないと評価したい。

ピアノ協奏曲ヘ調においては、アメリカ出身のピアニストであるジェフリー・シーゲルが起用されているが、濃厚で超スローテンポのスヴェトラーノフの指揮と歩調を合わせて、重厚にして美しさに満ち溢れたピアニズムを展開しているのが素晴らしい。

そして、スヴェトラーノフの強烈にして濃厚な指揮の下、最高のパフォーマンスを発揮したスウェーデン放送交響楽団による素晴らしい名演奏にも大きな拍手を送りたい。

なお、録音については1996年のライヴ録音であり、十分に満足できる良好な高音質であると高く評価したい。

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セル&クリーヴランド管弦楽団の演奏は、「セルの楽器」との称されるように、オーケストラの各楽器セクションが一つの楽器のように響くという精緻なアンサンブルを誇っていた。

したがって、その演奏の精密な完璧さという意味では比類のないものであったが、その反面、1980年代半ば以前のショルティの多くの演奏のように呼吸の浅い浅薄さには陥っていないものの、いささか血の通っていないメカニックな響きや、凝縮化の度合いが過ぎることに起因するスケールの小ささなど、様々な欠点が散見されることは否めないところだ。

もっとも、1960年代後半になりセルも晩年に差し掛かると、クリーヴランド管弦楽団の各団員にもある種の自由を与えるなど、より柔軟性のある演奏を心掛けるようになり、前述のような欠点が解消された味わい深い名演を成し遂げるようになるのであるが、本演奏が行われた当時は、一般的には晩年の円熟とは程遠い演奏を繰り広げていた。

ただ、そのようなセルも、シューマンとドヴォルザークの交響曲に関しては、これらの楽曲への深い愛着にも起因すると思われるが、晩年の円熟の芸風に連なるような比較的柔軟性のある演奏を行っていたと言えるのではないだろうか。

本シューマンの交響曲全集における各交響曲や「マンフレッド」序曲の演奏においても、いわゆる「セルの楽器」の面目躍如とも言うべき精緻なアンサンブルを駆使して極めて引き締まった演奏を展開しているが、いささかもメカニックな血も涙もない演奏には陥っておらず、各フレーズの端々から滲み出してくる滋味豊かな情感には抗し難い魅力に満ち溢れている。

また、格調の高さにおいても比類のないものがあり、いい意味での知情バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

セル独自の改訂もいささかの違和感を感じさせない見事なものである。

もっとも、第1番はクレンペラー&フィルハーモニア管による演奏(1966年)、第2番はシノーポリ&ウィーン・フィルによる演奏(1983年)、第3番はシューリヒト&パリ音楽院管による演奏(1953年)又はジュリーニ&ロサンゼルス・フィルによる演奏(1980年)、第4番はフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる演奏(1953年)、「マンフレッド」序曲はフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる演奏(1949年)がそれぞれベストの名演と言えるところであり、本演奏は名演ではあるもののそれぞれの楽曲演奏史上最高の名演とは言い難い。

とはいえ、シューマンの交響曲全集として見た場合においては、サヴァリッシュ&シュターツカペレ・ドレスデン(1972年)やバーンスタイン&ウィーン・フィル(1984、1985年)による全集と同様に、最大公約数的には極めて優れた名全集と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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2014年07月27日


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至高の名演として名高い「セル、ルガノ・ライヴ」の歴史的な録音がここに復活した。

このCDに収められた演奏は、アメリカでメジャーになったセル&クリーヴランド管弦楽団のコンビ初の欧州公演ということもあって、力の入りようがよく分かる内容になっている。

特にシューマンの第2番がライヴならではの強烈な名演奏で、セル&クリーヴランド管は、まったく一糸乱れぬ演奏を繰り広げるのだが、スタジオ収録と違い、演奏の熱気が次第にあがっていくのがよく分かる。

響きが分厚すぎるとかオーケストレーションに問題があると指摘を受けがちなシューマンの交響曲も、セルに手にかかれば響きはスッキリ整えられ、古典的な構成感も揺るぎがない。

このライヴではよほど興がのったのか、クールと言われがちなセルの指揮も非常に瑞々しく、即興的で驚異的なテンポと物凄い精度の高さの両立が成し遂げられている。

この翌年のステレオによる正規録音があるが、白熱した緊張感を孕むこの演奏は聴き逃せない。

古典的に引き締まったフォルムで磨き上げられた筋肉美を見るような演奏はステレオ盤と変わらないが、ここでは冷たい熱を帯びている。

第1楽章は絶妙なバランスとアンサンブルでスタイリッシュに仕上げている。

第2楽章のスケルツォは躍動感が素晴らしく、終結に至る弦の刻みの正確な動きはサーカスのようだ。

カーブでも一切減速なしに突っ走るから遠心力で吹き飛ばされそうな緊張が走る。

第3楽章は一転落ち着いた抒情が歌われ、ここでもロマン的に拡大するのでなく音は凝縮している。

終楽章もアクセル全開で燃えまくっているが、それでもセルの鍛えあげたクリーヴランド管はアンサンブルが乱れず、バランスの良い端正な演奏ぶりは大したものであり、均整のとれた後半ではトランペットが輝かしく咆哮する。

ドビュッシーの「海」も見通しの良いクリアーな響きが見事で、セルにしては緩急自在にテンポを動かしており、やはりスタジオ録音のクールな印象とは異なる血の通った熱い演奏だ。

ライヴならではの勢いで押し切ったような演奏とも言えるところであり、細部には全く拘らない、厳しく躍動的なセルの芸術を心行くまで堪能できる。

なお、このCDには同日のアンコールのベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」が収められている。

これも速めのテンポで折り目正しく演奏されているようだなと聴いていたら、最後の1分ではものすごい加速が始まりオケが歯を食いしばり必死に棒についていく壮絶な展開になり、当然聴衆は興奮状態になってしまう。

音質は海賊盤と聴き比べてみると、当盤では付加されたエコーを取り除いており、クリアそのもので、真性モノラルながらステレオではないかと思うほど、音場の拡がりなどの録音状態が良好である。

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本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第7番とブリテンの4つの海の間奏曲は、バーンスタインによる生涯最後のコンサートの記録である。

死の2か月前の演奏でもあるということもあって、本演奏にはただならぬ雰囲気が漂っていると言えるだろう。

ニューヨーク・フィルの音楽監督時代のバーンスタインは、いかにも陽気なヤンキー気質の爽快な演奏を繰り広げていた。

ところが、ヨーロッパに拠点を移し、ウィーン・フィルを恒常的に指揮するようになってからは、テンポは異常に遅くなりとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

とりわけ、1980年代に入ってからは、かかる特徴が顕著であり、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。

このような芸風の著しい変化は、バーンスタインによる体力の衰えが原因なのか、それともバーンスタインの音楽の捉え方がより深化したのかは正直なところよくわからない。

バーンスタインには熱烈なファンも多いことから、かかる芸風の変化を持ってバーンスタインは真の巨匠になったと評価する人もいることも十分に考えられる。

しかしながら、他方では、かかる常識はずれのテンポにとても付いていけないと感じる聴き手が多いのも事実である。

その意味では、本盤の演奏は両曲ともに、かかる晩年の芸風が顕著にあらわれており、途轍もない遅いテンポと重苦しい雰囲気に演奏全体が包まれていると言えるだろう。

ましてや、バーンスタインの体調の悪さも多分にあると思うが、ボストン交響楽団にも戸惑いが見られ、アンサンブルなども大幅に乱れるなど、バーンスタイン、そしてボストン交響楽団によるベストフォームにある演奏とはとても言い難いと言えるところだ。

したがって、本演奏を凡演として切り捨ててしまうのは容易ではあるが、筆者はむしろ、死の2か月前、体調も最悪であったにもかかわらず、渾身の力を振り絞って本演奏会に臨んだバーンスタインの直向きさに強く心を打たれるのである。

そう思って本演奏を聴くと、いかに本演奏が渾身の大熱演であったのかが理解できるところだ。

本演奏はまさに、死を間近に控えたバーンスタインが最後の力を振り絞って成し遂げた魂の音楽であると言えるところであり、その渾身の直向きさが我々聴き手の肺腑を打つのである。

このような魂の音楽に対しては、大仰で重苦しい演奏であるとか些末なアンサンブルのミスなどとは無関係であり、ただただ虚心になって最晩年のバーンスタインによる渾身の大熱演を鑑賞するのみである。

いずれにしても、本演奏は、特にマーラーの交響曲や歌曲において偉大な名演を成し遂げてきた大指揮者バーンスタインの最後の演奏としては痛々しさを感じずにはいられないが、バーンスタインが人生の最後に成し遂げた魂の音楽として、未来永劫に語り伝えたい演奏と高く評価したいと考える。

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ルービンシュタインは、3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集をスタジオ録音している。

ルービンシュタインはポーランド出身ということもあって、稀代のショパン弾きとしても知られてはいるが、前述のように3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音したことや、生涯最後の録音がブラームスのピアノ協奏曲第1番であったことなどに鑑みれば、ルービンシュタインの広範なレパートリーの中核を占めていたのは、ベートーヴェンやブラームスなどの独墺系のピアノ曲であったと言えるのかもしれない。

本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番&第5番「皇帝」は、ルービンシュタインによる3度目のピアノ協奏曲全集(1975年)からの抜粋である。

最初の全集であるクリップス&シンフォニー・オブ・ジ・エアとの演奏(1956年)や、2度目の全集であるラインスドルフ&ボストン交響楽団との演奏(1963年)と比較すると、本演奏は88歳の時の演奏だけに、技量においてはこれまでの2度にわたる全集の方がより優れている。

しかしながら、本演奏のゆったりとしたテンポによる桁外れのスケールの大きさ、そして各フレーズの端々から滲み出してくる枯淡の境地とも言うべき奥行きの深い情感の豊かさにおいては、これまでの2度にわたる全集を大きく凌駕していると言えるだろう。

このような音楽の構えの大きさや奥行きの深さ、そして格調の高さや風格は、まさしく大人(たいじん)の至芸と言っても過言ではあるまい。

特に、両曲の緩徐楽章の深沈とした美しさには抗し難い魅力があるが、その清澄とも言うべき美しさは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、自らの生涯を自省の気持ちを込めて回顧するような趣きさえ感じられる。

これほどの高みに達した崇高な音楽は、ルービンシュタインとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのかもしれない。

ルービンシュタインの堂々たるピアニズムに対して、バレンボイム&ロンドン・フィルも一歩も引けを取っていない。

バレンボイムは、ピアニストとしても(クレンペラーの指揮)、そして弾き振りでも(ベルリン・フィルとの演奏)ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音しているが、ここではルービンシュタインの構えの大きいピアニズムに触発されたこともあり、持ち得る実力を存分に発揮した雄渾なスケールによる重厚にして渾身の名演奏を展開しているのが素晴らしい。

いずれにしても、本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番及び第5番「皇帝」の演奏は、いずれも両曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

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2014年07月26日


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本盤に収められたブラームスの交響曲全集は、カラヤン&ベルリン・フィルによる3度目の、そして最後のスタジオ録音である。

それだけでなく、数多くの様々な作曲家に係る交響曲全集のスタジオ録音を行ってきた、史上最高のレコーディング・アーティストであるカラヤンによる最後の交響曲全集にも相当する。

3度にわたるカラヤン&ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲全集の中でも、最もカラヤンの個性が発揮されているのは、1977〜1978年に録音された2度目の全集であると考えられる。

というのも、この当時はカラヤン&ベルリン・フィルの全盛期であったと言えるからだ。

分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていた。

カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

当該2度目の全集においても、かかる圧倒的な音のドラマは健在であり、どこをとってもいわゆるカラヤンサウンドに覆い尽くされた圧巻の名演に仕上がっていた。

これに対して、本盤の3度目の全集においては、カラヤンの統率力の衰えは隠しようもないと言える。

1982年に勃発したザビーネ・マイヤー事件によって、カラヤンとベルリン・フィルの間には修復不可能な亀裂が入るとともに、カラヤン自身の著しい健康悪化も加わって、カラヤン&ベルリン・フィルによる演奏に、1970年代以前のような輝きが失われるようになったからだ。

したがって、いわゆるカラヤンの個性が全開であるとか、はたまたカラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築と言った観点からすれば、第1番などには全盛期の豪演の片鱗が感じられなくもないが、前述の1977〜1978年の2度目の全集と比較するといささか劣っていると言わざるを得ない。

しかしながら、本演奏には、死の1〜3年前の演奏ということもあって、枯淡の境地を感じさせるような独特の味わいがあると言えるところであり、このような演奏の奥行きのある味わい深さと言った点においては、カラヤンによるこれまでのいかなる演奏をも凌駕していると言えるだろう。

このような奥行きのある味わい深さは、カラヤンが最晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地であったと言えるのかもしれない。

音質は、1980年代後半のデジタル録音であり、従来盤でも十分に満足できるものである。

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マーラーの交響曲第5番が凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、テンシュテット&ロンドン・フィルの1984年来日時におけるマーラーの交響曲第5番のライヴ録音が、ついに発売されることになったのは、クラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、交響曲第5番についても複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1978年)、次いで本盤の来日時にライヴ録音された演奏(1984年)、そしてその4年後にライヴ録音された演奏(1988年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

いずれ劣らぬ名演ではあるが、随一の名演は1988年の演奏であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、1988年の演奏には、一つ一つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

次いで、本盤に収められた1984年の演奏が続くのではないだろうか。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという人もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

本盤の演奏は、さすがに前述のように、1988年の演奏ほどの壮絶さは存在していないが、それでもテンポの思い切った振幅を駆使したドラマティックにして濃厚な表現は大いに健在であり、まさにテンシュテットのマーラー演奏の在り様が見事に具現化された至高の超名演と言っても過言ではあるまい。

カップリングのモーツァルトの交響曲第35番「ハフナー」は名演の範疇には入ると思われるが、テンシュテットとしては普通の出来と言える。

音質については、FM東京の音源だけに従来CD盤でも比較的良好な音質である。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)テンシュテットマーラー 

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本盤には、カラヤンがウィーン・フィルを指揮して演奏したドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」及びスメタナの交響詩「モルダウ」が収められている。

両曲ともにカラヤンは十八番としており、これまでに何度もスタジオ録音を繰り返し行っている。

交響曲第9番「新世界より」については、手兵ベルリン・フィルとの4つの演奏(1940年、1957年、1964年及び1977年)、交響詩「モルダウ」についても、同じく手兵ベルリン・フィルとの3つの演奏(1958年、1967年、1977年)が存在している。

いずれ劣らぬ名演であるが、これらの名演の中でとりわけカラヤンの個性が発揮された演奏は、ベルリン・フィルとの全盛期の1970年代の演奏であった。

この当時のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていた。

カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

したがって、両曲についても、いずれも1977年盤においてかかる圧倒的な音のドラマが健在であるが、この稀代の黄金コンビも1982年のザビーネ・マイヤー事件の勃発を契機として、大きな亀裂が入ることになった。

加えて、カラヤン自身の健康悪化もあり、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏にもかつてのような輝きが失われることになったところだ。

そのような傷心のカラヤンに温かく手を差し伸べたのがウィーン・フィルであり、カラヤンもウィーン・フィルに指揮活動の軸足を動かすことになった。

本盤の演奏は、そのような時期(1985年)のカラヤンによる演奏であり、ここには1977年盤のようなオーケストラを圧倒的な統率力でドライブして音のドラマを構築したかつてのカラヤンの姿はどこにも見られない。

ただただ音楽そのものを語らせる演奏であるとさえ言えるだろう。

したがって、カラヤンの個性の発揮という意味においては1977年盤と比較していささか弱いと言わざるを得ないが、演奏が含有する独特の味わい深さや奥行きの深さという意味においては、本演奏の方をより上位に掲げたいと考える。

特に、交響曲第9番の第2楽章。

有名な家路の旋律をカラヤンは情感豊かに演奏するが、中間部は若干テンポを落として心を込めて歌い抜いている。

この箇所の抗し難い美しさはこれまでの他の演奏からは決して聴けないものであり、これこそカラヤンが最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるだろう。

ウィーン・フィルも、名誉指揮者であるカラヤンに心から敬意を表して、持ち得る実力を最大限に発揮した渾身の大熱演を披露しているのが素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、重厚さと優美さ、ドヴォルザークやスメタナならではのボヘミア風の抒情、そして、カラヤンが最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地とも言うべき独特の味わい深さと言ったすべての要素を兼ね備えた、まさに完全無欠の超名演と高く評価したい。

音質は、リマスタリングがなされたこともあって本盤でも十分に満足できるものである。

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2014年07月25日


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1981年11月21日 パリ、シャンゼリゼ劇場におけるライヴ録音。

厳格さのなかに官能的かつ宗教的な響きが内在し、静かな思索と哲学的な沈潜をも感じさせるフランク唯一の交響曲の、バーンスタインとフランス国立管弦楽団による演奏会のライヴ盤。

バーンスタインが活動の拠点をヨーロッパに移し、ドイツ・グラモフォンと契約を締結して数多くの名盤を次々と生み出していった頃の録音で、作品への感情移入の濃厚な演奏と言えるだろう。

演奏はバーンスタインらしくダイナミックで、フランス国立管弦楽団の管楽器群の冴えた音が聴きものである。

バーンスタインはフランス国立管弦楽団の輝かしい響きと管楽器群の明るい響きとを適度に生かして、とかく暗い感じに仕上げられがちなフランクの交響曲を、色彩豊かなものにしている。

このような渋い作品には演奏のコントラストが少々派手気味の方が聴き手に与えるインパクトが強烈になる。

第1楽章は遅く、粘って粘って、ようやくクライマックスに到達したかと思わせてすぐに萎えることの繰り返し。

第2楽章は夢見るように美しい。

第3楽章は一気呵成に進め、全体の流れをうまく構成することで音楽の重みをストレートに味わわせ、圧倒的な盛り上がりを実現しつつ、くどいと思わせるところがない。

つまり作品の重厚さよりも、フランス風の色調の輝きと響きの軽やかさを表出している。

しかしながら、この曲としては多少デモーニッシュに過ぎるかとも思うが、楽譜の指定よりもはるかに自由なテンポ設定には説得力もあり、この曲の魅力を引き出し、新鮮に聴かせているという点では見事。

オケもふんわりとした抑制と音の美しさがあり、怒号しないフォルテが心地よい。

バーンスタインがマーラーに取り組んだときと同じ姿勢で描き出したフランクというところであろうか。

この曲を愛する人であればぜひ聴いておいてほしい演奏。

併録のサン=サンースの「ギリシャ神話」を題材にして作曲された交響詩「オンファールの糸車」は、バーンスタイン風というか、なかなか線の太い表現を聴かせており、この作品が持つファンタジーな楽想を巧みに表現した演奏になっている。

調べたところ、おそらく同曲はバーンスタインが遺した唯一の録音である。

ライヴ録音だが聴衆ノイズはほとんどなく、たっぷりとした残響のあるものではないが、オケの響きはしっかりと捉えられていて、繊細さにも不足はない。

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classicalmusic at 22:46コメント(0)トラックバック(0)バーンスタインフランク 

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筆者はバーンスタインを押しも押されぬ史上最大のマーラー指揮者であると考えているが、その精神分裂的な性格がマーラーと通底するシューマンの交響曲や協奏曲を除けば、バーンスタインの指揮する独墺系の音楽は今一つ彫りの深さを感じさせる演奏が少ないと言える。

とりわけ、1980年代以降のバーンスタインの録音には、異常なスローテンポによる大仰な表情づけの演奏が増えてきたことから、マーラーやシューマンの楽曲を除いては、いささかウドの大木の誹りを免れない浅薄な凡演が多くなったと言わざるを得ない。

しかしながら、筆者も本盤に収められたベートーヴェンの交響曲全集を久々に聴き返してみたが、1977〜1979年のライヴ録音ということもあって、1980年代の演奏のような大仰さがなく、ウィーン・フィルによる名演奏も相俟って、素晴らしい名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

バーンスタインは、1961〜1964年にかけてニューヨーク・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しているが、それはいかにもヤンキー気質丸出しのエネルギッシュな演奏であり、随所に力づくの強引な最強奏も聴かれるなど外面的な効果だけが際立った浅薄な演奏であった。

本盤に収められた演奏でも、バーンスタインの音楽に彫りの深さを感じることは困難であるが、持ち前のカロリー満点の生命力に満ち溢れた演奏に、ウィーン・フィルによる極上の美演が付加されることにより、演奏全体に潤いと適度な奥行き、そして重厚さを付加することに成功している点を忘れてはならない。

いずれにしても、本全集は、バーンスタインによるエネルギッシュな力感溢れる指揮に、ウィーン・フィルによる美演が加わったことにより、剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

仮に、本全集の録音に際して、バーンスタインがウィーン・フィル以外のオーケストラを起用していたとすれば、これほどの魅力的で奥行きのある演奏にはならなかったのではないかとも考えられるところだ。

録音は、この廉価盤でも十分に満足できる良好な音質である。

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classicalmusic at 20:59コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンバーンスタイン 

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バーンスタインは、ビデオ作品を含め3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者であるが、3度目の全集については、実際には、交響曲第8番、第10番、そして「大地の歌」を録音することなく鬼籍に入ってしまった。

3度目の全集を構成する各交響曲や歌曲集のいずれもが至高の超名演であっただけに、大変に残念なことであると考えている。

本盤の「大地の歌」は、このような事情から3度目の全集の中に収められていないが、実際には1966年の録音であり、バーンスタインが2度録音した「大地の歌」のうちの最初のもの。

しかも、ウィーン・フィルにデビューしたての頃の録音である。

したがって、バーンスタインも、名門ウィーン・フィルを前にして、相当に気合が入っていたのではないだろうか。

同時期に録音された歌劇「ファルスタッフ」では遠慮があったと言えるが、マーラーにおいては、確固たる自信からそのような遠慮など薬にしたくもなかったに相違ない。

他方、ウィーン・フィルにとっては、カラヤンを失ったばかりでもあり、カラヤンに対抗するスター指揮者を探すべく躍起となっていた時期であった。

それ故に、本盤では、意欲満々のバーンスタインと、自らの新しいヒーローを前にして全力を尽くしたウィーン・フィルの底力が相乗効果を発揮した至高の名演ということができるのではないかと考えられる。

「大地の歌」には、ワルター&ウィーン・フィル(1952年)とクレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団(1964年)という歴史的な超名演が存在するが、本盤は、この両者に唯一肉薄する名演と高く評価したい。

なお、本演奏において、独唱には通常のアルトに代わってバリトンを起用しているが、ここでのフィッシャー・ディースカウの独唱は、違和感をいささかも感じさせず、むしろバリトンの起用にこそ必然性が感じられるような素晴らしい名唱を披露している。

その名唱は上手過ぎるとさえ言えるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

テノールのキングも、ディースカウにいささかも劣らぬ好パフォーマンスを示しているのも素晴らしい。

英デッカならではの艶やかで鮮明な高音質録音も素晴らしく、この名演に華を添えている。

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2014年07月24日


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フルトヴェングラーの代名詞と言えば、ベートーヴェンの交響曲であるが、9曲ある交響曲の中でも第1番を除くいわゆる奇数番号の交響曲については、自他ともに認める十八番であったと言えるだろう。

それら4曲の交響曲については、かなりの点数の録音が遺されているのも特徴であり、近年になっても新発見の録音が発掘されたり、あるいはより音質のより音源の発見、さらにはSACD化などの高音質化が図られるなど、フルトヴェングラーの指揮芸術に対する関心は、没後50年以上が経っても今なお衰えの兆しが一向に見られないところだ。

フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第9番の名演としては、諸説はあると思うが、これまでのところ、バイロイト祝祭管弦楽団とのライヴ録音(1951年)と、最晩年のフィルハーモニア管弦楽団とのライヴ録音(1954年)が2強を形成していたと言える。

もちろん、これら2つの演奏自体が圧倒的な素晴らしさを誇っているのであるが、それ以上に、両名演についてはSACD化が図られているというのも大きいと言えるのではないだろうか。

フルトヴェングラーの録音は、演奏が素晴らしくても音質が良くないというのが定評であり、逆に、これまであまり評価が高くなかった演奏がSACD化によって、高評価を勝ち取ることもあり得るところである(例えば、1947年5月25日のベートーヴェンの交響曲第5番のライヴ録音)。

本盤に収められた1952年の交響曲第9番についても、今般のSACD化によって、そのような可能性を秘めた名演と言えるだろう。

これまで、とりわけトゥッティにおいて音が団子状態になったり、不鮮明で聴き取りにくい箇所が極めて多かったのが大幅に解消され、前述のバイロイト盤や1954年盤にも十分に対抗できるような良好な音質に生まれ変わった意義は、極めて大きいことである。

本演奏は、かのバイロイト盤から約半年後のものであるが、それだけに気力・体力ともにさらに充実したフルトヴェングラーによる至高の指揮芸術を、これまでとは違った良好な音質で堪能することができるようのなったのは実に素晴らしいことと言えるだろう。

第1楽章冒頭の他の指揮者の演奏の追随を許さない深遠さ、その後のとても人間業とは思えないような彫りの深さ、第3楽章の誰よりもゆったりしたテンポによる演奏の神々しいまでの崇高さ、そして終楽章のドラマティックな表現など、フルトヴェングラーだけに可能な至芸は、我々聴き手の深い感動を誘うのに十分である。

オーケストラがウィーン・フィルであることも、本演奏の大きなアドバンテージであると言えるところである。

いずれにしても、SACD化によって、これまでとは格段に良好な音質に生まれ変わるに至った本盤の演奏は、バイロイト盤や1954年盤とともに3強の一角を占めるとも言うべき至高の超名演に位置づけられることになったと言えるところであり、本SACD盤の登場を大いに歓迎したい。

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これは素晴らしい名演だ。

若き日のバーンスタインによる傑作の一つと言っても過言ではあるまい。

バーンスタインは、1980年代に入ると、演奏のテンポが大幅に遅くなるとともに、濃厚でいささか大仰な演奏を行うようになった。

マーラーの交響曲・歌曲集など、極めて優れた円熟の名演もある一方で、かかる晩年の芸風が大きくマイナスに働き、ウドの大木の誹りを免れないような凡演も多かったというのも否めない事実であった。

しかしながら、ニューヨーク・フィルの音楽監督(1958〜1970年)を務めていた時代の若き日のバーンスタインの演奏は、こうした晩年の芸風とは正反対であり、若武者ならではの爽快で溌剌とした快演を数多く行っていたところだ。

ある意味ではヤンキー気質丸出しの演奏と言えるところであり、オーケストラにも強引とも言うべき最強奏させることも多々あったが、それ故に音楽内容の精神的な深みの追求など薬にしたくもない薄味の演奏も多かったと言えるところだ。

もっとも、自ら作曲も手がけていたという類稀なる音楽性の豊かさは顕著にあらわれており、自らの芸風と符号した楽曲においては、熱のこもった途轍もない名演を成し遂げることも多かったと言える。

例えば、この時代に完成されたバーンスタインによる最初のマーラーの交響曲全集(1960〜1975年)は、後年の3つのオーケストラを振り分けた全集(1966〜1990年)とは違った魅力を有している。

そして、本盤に収められたガーシュウィンやグローフェについても、当時のバーンスタインの芸風と符号しており、爽快で圧倒的な生命力に満ち溢れたノリノリの指揮ぶりが見事である。

とりわけ、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」においては、バーンスタインが指揮のみならずピアノまで受け持っているが、その才気が迸った情感のこもったピアノ演奏は、本名演の価値をさらに高めることに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

円熟という意味では後年の演奏(1982年)を採るべきであるが、圧倒的な熱演という意味においては本演奏もいささかも引けを取っていないと考える。

また、「パリのアメリカ人」は、あたかもこれからヨーロッパに進出していくバーンスタインの自画像を描いているような趣きがあり、自らに重ね合わせたかのような大熱演は、我々聴き手の度肝を抜くのに十分な迫力を誇っている。

グローフェの組曲「グランド・キャニオン」の各場面の描き分けの巧みさは心憎いばかりであるし、どの曲も圧倒的な名演奏を仕上がっているのが素晴らしい。

音質は、今から約50年前のものであり、必ずしも満足できるものではなかったが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は、DSDリマスタリングも相俟って、見違えるような高音質に生まれ変わったところだ。

若きバーンスタインによる名演を従来盤とは別次元の鮮明な音質で味わうことのできることを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 20:56コメント(0)トラックバック(0)バーンスタインガーシュウィン 

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バーンスタインは、クラシック音楽史上最大のマーラー指揮者であると考えるが、これに対して、ブルックナーについては交響曲第9番しか演奏していない。

その理由は定かではないが、自らの芸風との相性や宗教上の問題など、様々な問題があったのかもしれない。

もっとも、交響曲第9番については、2度にわたって録音していることに鑑みれば、バーンスタインは同曲に対しては深い愛着と拘りを有していたと考えられるところだ。

最初の録音は、当時の手兵であったニューヨーク・フィルとの演奏(1969年)、そして2度目の録音が本盤に収められたウィーン・フィルとの演奏(1990年)である。

最初の録音は、いかにも若き日のバーンスタインならではの爽快な演奏と言えるだろう。

この当時のバーンスタインは、ヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、当該演奏もその一連の演奏に連なるものであったと言える。

そのようなバーンスタインも、ニューヨーク・フィルの音楽監督を離任し、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。

本盤に収められた演奏も、ゆったりとしたテンポによる熱き情感に満ち溢れた濃厚さは健在であり、例えば、本盤の後に登場したヴァントや朝比奈などの名演などと比較すると、あまりにも人間臭く、そして表情過多でもあって、ブルックナーの交響曲演奏としては異質にさえ感じられるとも言えるだろう。

したがって、本演奏をいわゆるブルックナー的な演奏ではないと言って切り捨てるのは容易であると考えられる。

しかしながら、本演奏は、死の数か月前の演奏ということもあって、バーンスタインが自らのこれまでの人生を自省の気持ちを込めて振り返るような趣きがあると言えるところであり、人生の諦観や枯淡の境地を感じさせるような独特の味わい深さが存在していると言えるのではないだろうか。

そして、ウィーン・フィルも、そうしたバーンスタインの心底に深く共感し、望み得る最高の演奏を展開しているとも言えるところだ。

バーンスタインのいささか荒々しささえ感じさせる指揮によるブラスセクションの無機的な響きも、ウィーン・フィルによる美音によって、独特の潤いと温もりを付加するのに貢献しているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は正統派のブルックナー演奏とは言い難いものであるが、バーンスタインが最晩年に至って到達し得た至高・至純の境地をあらわした佳演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

音質は従来CD盤でも十分に満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、音質がより鮮明に再現されるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

いずれにしても、バーンスタインによる最晩年の佳演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2014年07月23日


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ドヴォルザークのスラヴ舞曲集の全曲録音は、これまで様々な指揮者によってなされてきた。

同じチェコ人指揮者ならばノイマンが3度にわたり録音しているし、ハンガリー人ならば、セルやドラティ、フィッシャーの名演が忘れ難い。

プレヴィンの聴かせどころのツボを心得た演奏や、マゼールの個性的な演奏も頭に浮かぶ。

このように、綺羅星のように輝く様々な名演の数々の中でも、クーベリックの録音は、ダントツの名演と言ってもいいのではないかと思う。

チェコ人指揮者ならではの民族色豊かな情感にもいささかの不足はないが、決して民俗的なローカル色を強調するのではなく、むしろ、バイエルン放送交響楽団を統率して、より普遍的でシンフォニックな演奏を心掛けている。

言うなれば、チェコ的な情感と普遍的な重厚さを併せ持つというバランスの良さが、本盤を最高の名演たらしめているのだと考える。

どの曲も、緩急自在のテンポを駆使した重厚な名演であるが、特に、第16番のスケールの雄大さは特筆すべきだと思う。

チェコの民族色溢れる情感の豊かさと、一般的な音楽としてのシンフォニックな重厚さを兼ね備えた、いい意味での剛柔バランスのとれた名演との本演奏の評価については、現在でもいささかも変わりがないところである。

したがって、ドヴォルザークのスラヴ舞曲全集の名演としては、本盤のクーベリック&バイエルン放送交響楽団による演奏(1973〜1974年)とともに、本演奏と同格の名演として、セル&クリーヴランド管弦楽団による演奏(1962〜1965年)、ノイマン&チェコ・フィルによる演奏(1985年)が掲げられると考えており、これら3つの演奏が同曲の様々な指揮者による演奏の中でもトップの座を争う至高の超名演と評価したい。

本盤の音質については、リマスタリング(ルビジウムカッティング)されただけあって、従来盤でもかなり満足できる音質であったが、スラヴ舞曲全集の中でもトップの座を争う至高の超名演でもあり、SHM−CD化など、更なる高音質化を望んでいたところであった。

そのような中で、今般、ユニバーサルがシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図ったと言うのは、本演奏が至高の超名演であることに鑑みても、歴史的な快挙と言えるだろう。

本シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、これまでの既発のリマスタリングCDとは次元が異なる極上の高音質であり、音質の鮮明さ、音圧、音場の広さのどれをとっても一級品の仕上がりである。

クーベリックによる歴史的な超名演、そしてドヴォルザークのスラヴ舞曲全集の演奏史上トップの座を争う至高の超名演を、このような極上の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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1977年にロンドン交響楽団の名誉会長に推されたカール・ベーム[1894-1981]が、それを記念して録音したチャイコフスキーの後期3大交響曲。

ベームは自分のキャリアの中にチャイコフスキーのレパートリーが無いことを非常に気にしていたようで、DGに対して再三、このチャイコフスキー後期の3作品の録音を希望していたようだ。

しかし、DG側はベームのチャイコフスキーは売れないと判断していたようで、まして同時期にカラヤンもこの3作品をDGに録音していたので、ベームの出番は無かったようである。

それでも再三に渡ってDGに交渉し、ようやくこの時期に名誉会長に就任したロンドン響に白羽の矢が立ったという話(ベームがこの録音のために就任したとも言われている)。

本当は独墺のオケと録音したかったのであろうが、この演奏についてはロンドン響を起用したのが功を奏しているのかもしれない。

もしもこれが独墺系のオケであれば重厚さを増し、ややもすると鈍重になった可能性は十分に考えられる。

3曲とも力感にあふれ、しっかりと指揮者がリードし、堅実で、中味の詰まった大変に立派な演奏で、チャイコフスキーの巧みな書法がしっかりと再現され、迫力も十分。

ベームの職人的能力の最良の面がいかんなく発揮された、見事な出来映えではないだろうか。

中では第4番は、いかにもベームらしい強靭な古典的造型感と明晰性を感じさせる中にも激しい音楽の聴かれるドイツ表現主義風ともいえる演奏。

特に終楽章におけるシンフォニックでありながらも情熱的な世界は必聴の価値がある(第4番にはチェコ・フィルとの凄いライヴもあった)。

一方、第5番と第6番「悲愴」ではドイツ色はいっそう濃くなり、チャイコフスキーというよりもブラームスとかブルックナーに近い雰囲気さえ漂っているが、交響曲の演奏としては、がっちりした造形と端正なフレージングもあって、たいへん立派なものとなっている。

チャイコフスキーが「苦悩」を音楽にするために、どれだけ巧緻に管弦楽を織り成したかが、この演奏からまざまざと聴き取れる演奏とも言えよう。

ドイツ系の指揮者による純ドイツ風アプローチとしては、ほかにクレンペラーやヴァント、シュミット=イッセルシュテット、ケンペなどが知られており、同じドイツ系でも、フルトヴェングラーやカラヤン、ザンデルリンク、マズア、エッシェンバッハなどが、ロシア的表現様式にも配慮した濃厚な演奏を聴かせていたのとは対照的で、最もドイツ的な演奏と言われた。

弦の厚ぼったい響き、テンポ、ダイナミクスとも重量長大級で、一見、田舎風の泥臭さに満ちており、そういう演奏を好む人を大いに喜ばせるに違いない。

スラヴの憂愁も哀愁もないが、チャイコフスキーが目指したドイツ音楽の姿かたちがここにあり、ベームならではのチャイコフスキー像が創り出されている。

聴けば聴くほど味が出る演奏で、特にベーム・ファン向けの個性的チャイコフスキー・アルバムと言えるだろう。

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2014年07月22日


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ベートーヴェンの三重協奏曲はベートーヴェンが作曲した労作であり、一部の評論家が指摘しているような駄作とは思わないが、それでも5曲のピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲などと比較するといささか魅力に乏しいと言わざるを得ないのではないだろうか。

もちろん、親しみやすい旋律などにも事欠かないと言えなくもないが、よほどの指揮者やソリストが揃わないと同曲の真価を聴き手に知らしめるのは困難と言えるだろう。

したがって、本演奏の関心は、もっぱら演奏者とその演奏内容の方に注がれることになる。

カラヤンとロシアの偉大な3人のソリストという超豪華な布陣は、ネット配信の隆盛などによりクラシック音楽界が不況下にある現代においては望むべくもない、夢のような共演と言えるだろう。

ましてやオーケストラが世界最高のベルリン・フィルであり、三重協奏曲のような楽曲ではもったいないような究極の布陣とも言える。

そして、本演奏が凄いのは(裏方では微妙な意見の食い違いがあったようであるが、我々は遺された録音を聴くのみである)、4巨匠とベルリン・フィルがその能力を最大限に発揮しているところであろう。

カラヤン&ベルリン・フィルは、この黄金コンビの全盛時代ならではのオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築を行っているし、ロストロポーヴィチの渾身のチェロ演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っている。

オイストラフのヴァイオリンも、ロストロポーヴィチのチェロに引けを取らないような凄みのある演奏を展開しているし、リヒテルのピアノも、本名演の縁の下の力持ちとして、重心の低い堂々たるピアニズムを展開している。

いずれにしても、凄い演奏であるし超名演に値すると言える。

そして、このような凄い超名演を持ってして漸くこの三重協奏曲の魅力が聴き手に伝えられたというのが正直なところであり、その意味では、本演奏こそが同曲の唯一無二の名演と言えるのかもしれない。

もっとも、本演奏は狭い土俵の上で、天下の大横綱が5人いてお互いに相撲をとっているようなイメージとも言えるところであり、このような5人の大横綱には、もう少し広い土俵で相撲をとって欲しかったというのが正直なところだ(と言っても、広い土俵たり得る三重協奏曲に変わる作品は存在しないが)。

音質は、従来CD盤ではやや鮮明さに欠ける音質であったが、HQCD化によってかなり音質の改善がなされていたところであり、筆者としても、HQCD盤を愛聴している。

ロストロポーヴィチのチェロやオイストラフのヴァイオリンの弓使い、そしてリヒテルのピアノタッチが、かなり鮮明に再現されるようになったのは喜ばしい限りだ。

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近年では、その活動も低調なチョン・キョンファであるが、本盤に収められたチャイコフスキー&シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏は、22歳という若き日のもの。

次代を担う気鋭の女流ヴァイオリニストとして、これから世界に羽ばたいて行こうとしていた時期のものだ。

チョン・キョンファは、シベリウスのヴァイオリン協奏曲については本演奏の後は1度も録音を行っておらず、他方、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲については、ジュリーニ&ベルリン・フィルとの演奏(1973年ライヴ録音)、デュトワ&モントリオール交響楽団との演奏(1981年スタジオ録音)の2種の録音が存在している。

両曲のうち、ダントツの名演は何と言ってもシベリウスのヴァイオリン協奏曲であろう。

とある影響力のある某音楽評論家が激賞している演奏でもあるが、氏の偏向的な見解に疑問を感じることが多い筆者としても、本演奏に関しては氏の見解に異論なく賛同したい。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏は、なかなかに難しいと言える。

というのも、濃厚な表情づけを行うと、楽曲の持つ北欧風の清涼な雰囲気を大きく損なってしまうことになり兼ねないからだ。

さりとて、あまりにも繊細な表情づけに固執すると、音が痩せると言うか、薄味の演奏に陥ってしまう危険性もあり、この両要素をいかにバランスを保って演奏するのかが鍵になると言えるだろう。

チョン・キョンファによる本ヴァイオリン演奏は、この難しいバランスを見事に保った稀代の名演奏を成し遂げるのに成功していると言っても過言ではあるまい。

北欧の大自然を彷彿とさせるような繊細な抒情の表現など、まさに申し分のない名演奏を展開しているが、それでいていかなる繊細な箇所においても、その演奏には独特のニュアンスが込められているなど内容の濃さをいささかも失っておらず、薄味な箇所は1つとして存在していない。

チョン・キョンファとしても、22歳というこの時だけに可能な演奏であったとも言えるところであり、その後は2度と同曲を録音しようとしていないことに鑑みても、本演奏は会心の出来と考えていたのではないだろうか。

こうしたチョン・キョンファによる至高のヴァイオリン演奏を下支えするとともに、北欧の抒情に満ち溢れた見事な名演奏を展開したプレヴィン&ロンドン交響楽団にも大きな拍手を送りたい。

いずれにしても、本演奏は、チョン・キョンファが時宜を得て行った稀代の名演奏であるとも言えるところであり、プレヴィン&ロンドン交響楽団の好パフォーマンスも相俟って、シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

他方、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲については、ヴィルトゥオーゾ性の発揮と表現力の幅の広さを問われる楽曲であることから、人生経験を積んでより表現力の幅が増した1981年盤や、ライヴ録音ならではの演奏全体に漲る気迫や熱き生命力において1973年盤の方を上位に掲げたいが、本演奏もチョン・キョンファの卓越した技量と音楽性の高さを窺い知ることが可能な名演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。

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全4曲どれも素晴らしい演奏だ。

全体的な傾向として派手さはないが、端正で力強く、味わい深い演奏と言えよう。

ケンぺの演奏は、華麗さなどとは無縁であり、あくまでも真摯に楽曲を描いていくという職人肌の指揮が持ち味であるが、それによって生み出されるいぶし銀の味わいが、ブラームスの交響曲と見事に符合していると言えるのではないだろうか。

中でも第3番はステレオ録音ということもあってか、以前から分売されて、名演として名高かったが、実はブラームスの「第3」はなかなか演奏が難しい。

4つの交響曲中、最もスケールが小さく、等身大に表現してしまうと、こじんまりとした軽い演奏に陥ってしまう危険性がある。

それ故に、提示部の繰り返しを行ったりして、バランスをとる指揮者も一部にいるが、ケンぺはそのようなことはしない。

ケンぺのアプローチはあくまでも正攻法。

それでいて、何と力強い作品だろうかと思わせるのはさすがというべきだろう。

同曲をブラームスの「英雄」と称する人もいるようだが、ケンぺの演奏を聴いているとそれもむべなるかなと思われる。

北ヨーロッパならではの幾分渋い色調の音色を出しつつ、重厚さにもいささかの不足もない。

第2楽章や第3楽章の抒情的な旋律の歌い方も実に感動的であり、この「第3」は、ケンぺとしても会心の名演と評価してもいいだろう。

ケンぺの職人肌の演奏は、渋いブラームスの交響曲との相性が抜群だと思うが、「第4」は、ブラームスの交響曲の総決算と位置づけられる曲だけに、演奏が悪かろうはずがない。

ブラームスの「第4」という傑作の魅力を、恣意的にではなく自然体の表現で満喫させてくれる名演ということができるだろう。

ケンぺの演奏は決して華麗さなどとは無縁であるが、よく聴くと、渋い曲想のはしばしに感じられる滋味溢れる内容の豊かさがあり、これこそ、ケンぺ&ベルリン・フィルが見事に描き出した至高のブラームス像と言えるだろう。

あまたのブラームスの交響曲全集の中でも最も剛毅で、美しい名演の1つと言えるだろう。

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実に素晴らしい名演だ。

本盤に収められているのはベロフによる2度目のドビュッシーのピアノ作品全集の中から前奏曲集第2巻を軸として、「レントより遅く」や「英雄の子守歌」、「6つの古代碑銘小品」などの小品が収められているが、いずれ劣らぬ素晴らしい名演と高く評価したい。

かつてベロフは、EMIにドビュッシーのピアノ作品全集を録音しており、当該演奏も、ベロフの今日の名声をいささかも傷つけることがない名演と言えるところだ。

しかしながら、演奏の持つ内容の濃さ、そして楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さ、そして各楽想を描き出していくに際してのきめの細かさにおいて、2度目の全集の各ピアノ曲の演奏は断然優れていると評価し得ると言える。

こうした演奏の深化には、ベロフが、右手の故障を克服したことも大きく影響していると言えるのかもしれない。

それにしても、何と言う美しい演奏であろうか。

ドビュッシーのピアノ作品は、いかにも印象派とも言うべきフランス風の詩情溢れる豊かな情感、そして繊細とも言うべき色彩感などを含有しているが、ベロフはそれらを研ぎ澄まされたテクニックをベースとして、内容豊かに、そして格調の高さをいささかも失うことなく描き出している。

表情の変転なども巧みに行っており、加えて、演奏の端々から漂ってくるフランス風の瀟洒な味わいには抗し難い魅力に満ち溢れている。

研ぎ澄まされた感性と、ベロフ自身のアンテナで感じたドビュッシー像を見事に表現しており、ドビュッシーの夜の音楽を体験できる。

ドビュッシーのピアノ作品を得意としたピアニストには、ギーゼキングをはじめとして、フランソワ、ミケランジェリなどあまたの個性的なピアニストが存在している。

それらはいずれも個性的な超名演を展開しており、こうした個性的という点においては、ベロフの演奏はいささか弱い点があると言えるのかもしれない。

しかしながら、演奏内容の詩情豊かさ、彫りの深さといった点においては、ベロフによる演奏は、古今東西のピアニストによるドビュッシーのピアノ曲の名演の中でも、上位にランキングされる秀逸なものと評しても過言ではあるまい。

いずれにしても、本盤におさめられた諸曲の演奏は、まさにドビュッシーのピアノ曲演奏の理想像の具現化とも言うべき素晴らしい名演と高く評価したい。

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2014年07月21日


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ザンデルリンクによるブラームスの交響曲全集と言えば、後年にベルリン交響楽団とともにスタジオ録音(1990年)を行った名演が誉れ高い。

当該全集の各交響曲はいずれ劣らぬ名演であったが、それは悠揚迫らぬゆったりとしたテンポをベースとした正に巨匠風の風格ある演奏であり、昨年、惜しくも逝去されたザンデルリンクの代表盤にも掲げられる永遠の名全集とも言える存在であると言えるところだ。

ザンデルリンクは、当該全集の約20年前にもブラームスの交響曲全集をスタジオ録音している。

それこそが、本盤におさめられた交響曲第2番を含む、シュターツカペレ・ドレスデンとの全集である。

前述のベルリン交響楽団との全集が、押しも押されぬ巨匠指揮者になったザンデルリンクの指揮芸術を堪能させてくれるのに対して、本全集は、何と言っても当時のシュターツカペレ・ドレスデンの有していた独特のいぶし銀とも言うべき音色と、それを十二分に体現しえた力量に最大の魅力があると言えるのではないだろうか。

昨今のドイツ系のオーケストラも、国際化の波には勝てず、かつて顕著であったいわゆるジャーマン・サウンドが廃れつつあるとも言われている。

奏者の技量が最重要視される状況が続いており、なおかつベルリンの壁が崩壊し、東西の行き来が自由になった後、その流れが更に顕著になったと言えるが、それ故に、かつてのように、各オーケストラ固有の音色というもの、個性というものが失われつつあるとも言えるのではないか。

そのような中で、本盤のスタジオ録音がなされた1970年代のシュターツカペレ・ドレスデンには、現代のオーケストラには失われてしまった独特のいぶし銀の音色、まさに独特のジャーマン・サウンドが随所に息づいていると言えるだろう。

こうしたオーケストラの音色や演奏において抗し難い魅力が存在しているのに加えて、ザンデルリンクの指揮は、奇を衒うことのない正統派のアプローチを示している。

前述の後年の全集と比較すると、テンポなども極めてノーマルなものに落ち着いているが、どこをとっても薄味な個所はなく、全体の堅牢な造型を保ちつつ、重厚かつ力強い演奏で一貫していると評しても過言ではあるまい。

むしろ、このような正統派のアプローチを行っているからこそ、当時のシュターツカペレ・ドレスデンの魅力的な音色、技量が演奏の全面に描出されていると言えるところであり、本演奏こそはまさに、ザンデルリンク、そしてシュターツカペレ・ドレスデンによる共同歩調によった見事な名演と高く評価したい。

併録の悲劇的序曲もこの黄金コンビならではの素晴らしい名演だ。

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classicalmusic at 22:52コメント(0)トラックバック(0)ブラームスザンデルリンク 

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これは素晴らしい名演だ。

ショルティは、ライナーやオーマンディ、セルなどと言った綺羅星の如く輝くハンガリー系の累代の指揮者の系譜に連なる大指揮者であるだけに、こうした偉大なる先達と同様にバルトークの最晩年の傑作である管弦楽のための協奏曲を十八番としていた。

ショルティは、本盤の演奏の前にも、ロンドン交響楽団とともにスタジオ録音(1963年)しており、当該演奏は既にシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤として発売されるなど、圧倒的な名演と高く評価されているところだ。

本盤の演奏は、当該演奏から17年の時を経てスタジオ録音されたものであるが、再録音の成果が十二分にある素晴らしい名演と高く評価したい。

ショルティのアプローチは、これは管弦楽のための協奏曲だけでなく、併録の舞踏組曲についても言えるところであるが、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなく、それ故に演奏全体的な様相は1963年の旧録音にも共通しているが、1980年代に入ってショルティの指揮芸術にも円熟の境地とも言うべきある種の懐の深さ、奥行きの深さが付加されてきたところであり、1981年の本演奏にもそうした点が如実にあらわれている。

要は、ショルティを貶す識者が欠点と批判してきた力づくとも言うべき無機的な強引さが本演奏においては影を潜め、いかなる最強奏の箇所に至っても、懐の深さ、格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

楽曲によっては、ショルティらしい力強さ、強靭な迫力が損なわれたとの問題点も生じかねないが(例えば、マーラーの交響曲第5番)、本盤に収められたバルトークによる両曲の場合は、そうした問題点はいささかも顕在化していない。

そして、本演奏においてさらに素晴らしいのはシカゴ交響楽団の超絶的な技量であろう。

ショルティの指揮にシカゴ交響楽団が一糸乱れぬアンサンブルを駆使してしっかりとついていっているところが見事であり、ショルティ統率下のシカゴ交響楽団がいかにスーパー軍団であったのかを認識させるのに十分なヴィルトゥオジティを最大限に発揮(特に終楽章)している。

かかるシカゴ交響楽団の好パフォーマンスが、本演奏を壮絶な名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も英デッカによる極めて優秀なものであり、ルビジウム・クロック・カッティングによって更に鮮明さが増している。

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classicalmusic at 20:51コメント(0)トラックバック(0)バルトークショルティ 

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若き日のピリスによる素晴らしい名演だ。

ピリスは、ショパンのピアノ協奏曲第1番をクリヴィヌ&ヨーロッパ室内管弦楽団とともにスタジオ録音(1997年)、ピアノ協奏曲第2番をプレヴィン&ロイヤル・フィルとともにスタジオ録音(1992年)しており、それらはいずれも見事な名演として高く評価されるべきものであるが、本盤に収められた演奏も、それら後年の演奏にはない初々しさや清新さに満ち溢れた独特の魅力があると言えるのではないだろうか。

ピリスの本演奏におけるアプローチは、後年の演奏のように必ずしも楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫りの深い表現を行っているわけではない。

むしろ、若さの成せる業とも言える側面も多分にあると思われるが、両曲の随所に聴かれる詩情に満ち溢れた美しい旋律の数々を、瑞々しささえ感じさせるような透明感溢れるタッチで美しく描き出していくというものである。

その演奏は純真無垢とさえ言えるものであり穢れなどはいささかもなく、あたかも純白のキャンバスに水彩画を描いていくような趣きさえ感じさせると言えるだろう。

もっとも、ピリスのピアノ演奏は、若き日の演奏と言えども、各旋律の表層をなぞっただけの美しさにとどまっているわけではない。

表面上は清澄なまでの繊細な美しさに満ち溢れてはいるが、その各旋律の端々からは、ショパンのピアノ曲において顕著な望郷の思い、人生における寂寥感のようなものが滲み出してきている。

加えて、どのような哀愁に満ちた旋律に差し掛かっても、いわゆるお涙頂戴の哀嘆調には陥ることなく、常に気品と格調の高さをいささかも失わないのが素晴らしい。

指揮者のジョルダンも、こうしたピリスのセンス溢れる見事なピアノ演奏を巧みに引き立てつつ、二流のオーケストラとも言うべきモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団をしっかりと統率して、好パフォーマンスを発揮しているものと評価したい。

なお、当盤は、先般SACD化されて好評のようであるが、この従来盤でも十分鑑賞に耐え得る音質と言えるところである。

いずれにしても、本演奏は、若き日のピリスが、その前途洋々たる将来性を世に知らしめるのに貢献した素晴らしい名演として高く評価したい。

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classicalmusic at 00:43コメント(0)トラックバック(0)ショパンピリス 

2014年07月20日


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当演奏は初出当時から極めて評価の高かったものである。

リズム重視で厳格にして快活なテンポ設定で、ケーゲルらしい隅々までレントゲン照射したかのように音形を浮かび上がらせた名演だ。

幻想味を強調せず、どこまでも現実的な演奏と言えるところであり、楽曲を合理的に再構築してしまう手腕はヴァントに通じるものがあるとも言える(思えば、放送オケとの親密な関係、練習狂と言った面も似ている)。

トータル70分という快速テンポの演奏であり、後に録音されたレーグナー盤が68分台、スウィトナー盤も69分台だったので、これが東独では標準的なスタイルだったのかもしれない。

それとも「第8番と並ぶ大曲」とは見なされていなかったということかもしれない。

第1楽章の序奏こそ堂々としたテンポであるが、ホールの残響が少ないせいもあってか、潤いがなくて冷たい感じのまま音楽が進められていく。

ティンパニの打撃と共に、トランペットの切り裂くような音も耳に付く。

ただし、ロシア(旧ソ連)の演奏ほどではないが、アンサンブルの精度は非常に高い。

14分20秒のピーク前後も全く隙がない立派な演奏であるが、ここで感じる息苦しさはヴァント&ベルリン・フィル盤に匹敵する。

それゆえ、14分56秒からテンポを落として2分あまりしみじみ演奏しているのが「私はもうこんな生活には疲れました」とこぼしているように聴こえるが、18分11秒から再びテンポが速くなり、次第に軍隊行進曲調になる。

ここのコーダは堂々としたものだが、予想していたほど激しくはなかった。

その後も厳しい音楽が続き、次の第2楽章も一息吐くどころか、圧制に苦しめられている人の嘆きを聴かされているようだ。

ショスタコーヴィチの交響曲のいくつかの楽章(第5番や第10番の第3楽章など)を思い出した。

要は筆者の考え過ぎなのかもしれないが、テンポと音響のせいで緩徐楽章からもヒンヤリした印象を受けるのは確かである。

続く第3楽章スケルツォでは冒頭の突進に驚かされ、主部は長調部分でも音楽は決して微笑まない。

主部が厳しくともトリオに入るとテンポを落として息抜きをする演奏が一般的だと思うが、ケーゲルはそんなことには全く興味がないかのごとく、ここを早足で通り過ぎてしまう。

労働基準法を全く無視したかのような(途中の休憩10分だけで12時間労働させるかのような)過酷な演奏である。

第4楽章も同様に厳しい音楽が繰り広げられていき、突然激しくなる箇所が途中に何度かあるものの、決して熱くはならない。

ここまで徹底して同じスタイルで演奏しているのだから、全曲を貫く統一感という点では抜群である(聴いていて楽しい音楽ではないが)。

そんなことを思いつつ聴いていたのであるが、10分を過ぎた辺りから次第に演奏に熱がこもってくるのである。

13分38秒の小ピークに持っていくまでは、テンポこそまるで違うけれどもチェリビダッケのような壮絶な盛り上げ方である。

そして仰天したのが17分を過ぎてからで、変わったところでティンパニが鳴る。

クナの第5番は大幅カットされてしまっているので、それとの対応関係が掴まえにくいが、ケーゲルが改訂版を参考にしつつティンパニを付加したのは間違いない。

それまでと異なり、ここのティンパニは音が明るい(まさかとは思うが、違う楽器を使ったのだろうか? なお、クナ盤では音がこもっているせいか、コーダ前のティンパニ付加はそれほど耳に付かない)。

そしてシンバルこそ鳴らないが、コーダでもティンパニはやりたい放題で、シャルクが狙った通りの軍楽調になっている。

マタチッチ盤を上回るドンチャン騒ぎで、またしてもショスタコに例えるが、「森の歌」のラストと同じく、共産主義の明るい未来を予想させるような音楽になっている。

「東側はハース版」という常識が見事に覆されてしまった訳だが、あるいは党のお偉方に改訂版使用を強要されたのだろうか?

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classicalmusic at 22:47コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーケーゲル 

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当盤は録音のために十分な日数が確保されていたようで、ここでは何と12日間に渡っており、実際に聴いても非常に丁寧な音楽づくりを心懸けているのが分かる。

特に第1楽章の主題が2度目に出てくるところの美しさには溜息が出てしまった。

マタチッチ&チェコ・フィル盤に匹敵する美しさであり、奏者の録音に対する意気込みは並大抵のものではなかったのであろう、どのパートも積極的に弾き、吹いているのが感じられるし、それでいて決して粗くならないのだから見事だ(やはり指揮者の統率力によるものか)。

当盤では5分30秒頃から加速が入ってしまい興醒めしかけるが、基本テンポからの逸脱は旧盤ほどは酷くないのでホッとする。

16分過ぎのしみじみした部分にも胸が熱くなるものがあり、やはり確固たる基本テンポがあってこそ、そういう表現が生きるのだ。

コーダは基本テンポよりやや遅く(ただし遅すぎない)始め、そのままインテンポで締め括る。

そのため、非常にスケールの大きな演奏となっていて、もはや旧盤とは別人のようである。

第2楽章は、旧盤同様にスロースタートであるが、重苦しくはなく、モノラルとステレオという違いを差し引いても、響きは確かに違う。

主題を弾く弦を柔らかい音で金管が持続音でサポートしている部分など、決して暗くならず、全体的に明るいので心が和むところであり、旧盤が厳冬期の軍隊の行進とするならば、当盤は春か秋の森の散策といえようか。

テンポの変化が抑え気味であるため、劇性ということでは当然ながら後退しているゆえに、クライマックスにシンバルを加えなかったのだろう。

だたし、テンポが粘っこいのと打楽器なしだと十分に解放されないので、ティンパニのみ残したのではないか。

このバランス感覚は見事で、最後のテンポもそれほど遅くしないのは、その必要がないからであり、これも理に適っている。

残り2楽章は、それまで非常に均整の取れた演奏をしてきたのだから、ドラマティックにやっては水の泡になるので、それを指揮者はちゃんと解っている。

あるいは旧盤をノヴァーク版的、新盤を(アダージョでティンパニが入るものの)ハース版的と言っても大間違いではないだろう。

筆者にはこの演奏が旧盤よりも格段に優れているように思われるが、といって枯れてもいない(1960〜70年代といえばケーゲルはまだ壮年期であり、老化現象でテンポが遅くなったりするはずはないのは当然である)。

これを指揮者の10年間の成長の結果と考えることも可能であろうが、それ以上に演奏スタイルをガラッと(第7番向きに)変えたことが当盤で成功を収めた最大の原因ではないかという気がする。

いずれにしても、この指揮者は同一の曲を再録音する際には、敢えて前回とは違うやり方を試みてやろうという気概を持っていたようだ。

もう1人のヘルベルト(フォン・カラヤン)のように。

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ワルターの十八番ウィーン・フィルとのハイドン、モーツァルト、シューベルトで、甘美でエレガントな味わいが力強く美しく再現(復刻)されていて、選曲も最高と言えよう。

「未完成」は、第1楽章の終結、最後の3つの和音がスタッカートで、終わりのさざ波がいかにも短く、ため息のように消えてゆく。

この部分にワルターの「未完成」の美しさは集約されているようだ。

はかない哀感、この一言に尽きる。

ワルターはかなりオーケストラの奏者に任せつつ全体を見透し、愁いにみちた甘美さでこの曲を描き上げた。

ウィーン・フィルの貴族的なニュアンスとともに、ここにはわれわれが心の中で典型とする「未完成」の姿がある。

「プラハ」は、ワルターの若々しさとウィーン・フィルの個性がミックスして、独特の魅力を生んだ録音だ。

特に、第1楽章の主部をこれほど速いテンポで指揮したのは他にはシューリヒトだけである。

第2楽章の身も世もなく歌う恍惚美と高貴な艶は、一種の虚無感と相俟って全曲の頂点となる。

天国的なモーツァルトの音楽とその演奏にふと浮かび上がる虚無の影や不安感、これこそワルターの「プラハ」の秘密と言えよう。

「奇蹟」は、魅力的な部分が多々あるにもかかわらず、全体として小味にすぎ、即興演奏風にすぎて、古典の格調を失ったハイドンである。

美しいのはメヌエットのトリオにおけるオーボエで、これほど間の良い、音色にも吹き方にもセンスのあふれた演奏は滅多に聴けないだろう。

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2014年07月19日


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本盤には、カラヤンがスタジオ録音を行った唯一のシューマンの交響曲全集が収められている。

カラヤンは、第4番については、ベルリン・フィルの芸術監督に就任して間もない頃(1957年)と最晩年(1987年)にスタジオ録音を行っていることから、本盤に収められた演奏は、3度にわたる同曲の録音中2度目のものに相当する。

また、第2番については、ローマ・イタリア放送管弦楽団とのライヴ録音(1954年)が存在することから、本盤に収められた演奏は、2度目の録音ということになる。

第1番と第3番については、現在のところ他の録音は遺されていないことから、本盤に収められた演奏がカラヤンによる唯一の録音ということになる。

このようなカラヤンによる他の録音の有無はさておき、本盤の演奏も全盛期のカラヤンならではの素晴らしい名演と高く評価したい。

本盤の演奏は1971年であり、これはカラヤン&ベルリン・フィルの黄金コンビが最も輝いていた時期である。

カラヤンが芸術監督に就任して以降に入団した名うてのスタープレイヤーがその実力を如何なく発揮し始めた頃でもあり、鉄壁のアンサンブル、ブリリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックによって極上の美音を振り撒く木管楽器群、そして本演奏の前年に入団したフォーグラーによる雷鳴のように轟きわたるティンパニの強靭な迫力。

これらが一体となった当時のベルリン・フィルは驚異的な合奏能力を有していたと言えるところであり、カラヤンはこれに流麗なレガートを施して、オーケストラ演奏の極致とも言うべき極上の名演奏(いわゆるカラヤン・サウンド)を行っていた。

このような演奏に対しては、とある影響力の大きい某音楽評論家などが精神的な深みの欠如を云々しているが、カラヤン&ベルリン・フィルによる演奏は、そうした酷評を一喝するだけの圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

本盤の演奏においても、このような音のドラマは健在であり、どこをとってもいわゆる美しさの極みとも言うべきカラヤン・サウンドに満たされている。

もっとも、第1番であればクレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1965年)、第2番であればシノーポリ&ウィーン・フィル(1983年)、第3番であればシューリヒト&パリ音楽院管(1953年)またはジュリーニ&ロサンゼルス・フィル(1980年)、そして第4番であればフルトヴェングラー&ベルリン・フィル(1953年)などといった、音楽内容の精神的な深みを徹底して追求した名演があり、我々聴き手の心を揺さぶるのもこれらの名演であると考えるが、本盤の演奏のように極上の美しさを誇る圧倒的な音のドラマを構築したカラヤンによる名演との優劣を比較することは、演奏のベクトル自体が異なるものであり、そもそもナンセンスであると考えられる。

もっとも、第4番については、最晩年の枯淡の境地が表れた味わい深い1987年盤の方がより素晴らしい名演であると言えるところであり、本盤の演奏も名演ではあるが、第4番に限っては1987年盤の方を採りたい。

音質は従来CD盤でも十分に満足できるものであるが、数年前にカラヤン生誕100年を記念して発売されたSHM−CD盤がベストの音質である。

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classicalmusic at 23:07コメント(0)トラックバック(0)シューマンカラヤン 

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本盤には、カラヤンがベルリン・フィルを指揮して1970年代はじめにスタジオ録音を行ったメンデルスゾーンの交響曲全集が収められている(LPの全集に収められていた「フィンガルの洞窟」が収められていないのが残念である)。

カラヤンは、広範なレパートリーを誇る指揮者であり、しかも独墺系の作曲家の交響曲などについては複数の録音を行うのが通例であった。

しかしながら、メンデルスゾーンの交響曲の録音は本盤のみに限られており、本盤の登場前は、カラヤンはユダヤ人であるメンデルスゾーンを忌み嫌っているなどと言った根も葉もない噂を立てられたものであったのだ。

しかしながら、本盤に収められた演奏を聴く限りにおいては、メンデルスゾーンの交響曲との相性はむしろ良かったのではないかと思えるような素晴らしい名演に仕上がっている。

カラヤンが、その後二度とメンデルスゾーンの交響曲を録音しなかったのは、カラヤン自身も本演奏の出来に満足していたからに他ならないと言えるのではないだろうか。

本演奏の録音当時は、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代であり、鉄壁のアンサンブル、分厚い豊麗な響きの弦楽合奏、ブリリアントな金管楽器、桁外れのテクニックを誇る木管楽器、そして雷鳴のように轟くティンパニなどが一体となって、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

本演奏においてもそれは健在であり、その上にカラヤンは優雅なレガートを施し、メンデルスゾーンならではの透明感溢れるみずみずしいオーケストレーションを、これ以上は望めないほどの美麗さで歌い抜いているのが素晴らしい。

楽曲毎に寸評を行っていくと、第1番について、おそらくは同曲演奏史上最も荒々しさを感じさせるような凄みのある迫力満点の豪演を展開していると言えるだろう。

そして、第2番の壮麗な響きは圧倒的な迫力を誇っており、これはオペラを得意とするカラヤンの真骨頂ともいうべき雄渾なスケールの名演に仕上がっている。

「スコットランド」は、とある影響力の大きい某評論家によって不当に貶められている演奏である。

筆者としても、某評論家が激賞するクレンペラー盤(1960年)を名演と評価するのに躊躇はしないが、それに匹敵する名演として本演奏も高く評価したい。

冒頭の序奏部は、クレンペラーに負けないくらいの深沈たる抒情に満ち満ちているし、主部に入ってからの心湧きたつ旋律の歌わせ方も絶妙だ。

第2楽章は某評論家が批判するように快速のテンポ設定であるが、それはクレンペラーと比較してのこと。

他の演奏と同様のやや速めのテンポで曲想を巧みに描いて行く。

第3楽章は素晴らしい音のドラマで、ゆったりとしたテンポによる悠揚迫らぬ歩みは、実に感動的だ。

終楽章のラストでの壮大な盛り上がりも、この名演を締めくくるのに相応しい圧倒的な迫力を誇っている。

「イタリア」は、決して急ぎすぎない中庸のテンポで、カラヤンならではの優雅なレガートを駆使した気品ある名演に仕上がっている。

「宗教改革」は、後年に「パルジファル」の至高の超名演を成し遂げるカラヤンならではの神秘感漂う壮麗さに満ち溢れた至高の超名演だ。

いずれにしても、メンデルスゾーンの交響曲全集は、一般にはアバド&ロンドン響やドホナーニ&ウィーン・フィルによる全集の評価が高いが、筆者としては、本カラヤン盤を随一の名全集と高く評価したい。

音質は従来CD盤でも十分に満足できる高音質であったが、数年前にカラヤン生誕を記念して発売されたSHM−CD盤は、音質の鮮明さといい、音場の広がりといい、素晴らしい水準の音質である。

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classicalmusic at 21:01コメント(0)トラックバック(0)メンデルスゾーンカラヤン 

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本盤に収録されたモーツァルトの2曲については、これまで幾度となくリマスタリングが繰り返されてきたが、それらとは一線を画する素晴らしい超高音質SACDの登場を大いに歓迎したい。

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は、録音が1949年ということもあり、マスターテープの保存状態がかなり良かったのではなかろうか。

何よりも、弦楽合奏の音に一本芯が通ったような力感が増したのが何よりも大きい。

そして、高弦の響きは艶やかで美しさの極み、トゥッティに差し掛かっても音が歪むことがないのが素晴らしい。

演奏は、いわゆるモーツァルト演奏に必要不可欠とされている優美さや繊細さを基調としたものではなく、いかにもフルトヴェングラーならではのロマンティシズム溢れる濃厚なものだ。

しかしながら、雄渾なスケールと彫りの深さにおいては、他のどの演奏よりも際立ったものがあり、本演奏を個性的な名演と評価するのに筆者としてはいささかも躊躇しない。

「グラン・パルティータ」は、さらに2年遡る1947年の録音であるが、これまた驚異的な高音質だ。

戦後間もなくとはとても信じられないような鮮明な音質に唖然としてしまうほどだ。

各管楽器がブリリアントに響くのは圧巻の一言であり、トゥッティにおいても音が歪むことは殆どない。

ここでのフルトヴェングラーの演奏においては、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のような濃厚な味付けは聴かれず、むしろ優美にして颯爽としたものと言える。

それでいて、厳しい造形美や楽曲の核心を抉り出していくが如き彫りの深さは健在であり、今般の高音質化によって、同曲のトップの座を争う名演になったと評価しても過言ではないのではなかろうか。

また、古き良き時代のウィーン・フィルの各奏者が奏でる美音を聴くことができるのも本盤の魅力であり、それらを望み得る最高の音質で味わえることの喜びを大いに噛みしめたい。

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classicalmusic at 00:28コメント(2)トラックバック(0)モーツァルトフルトヴェングラー 

2014年07月18日


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このケーゲル盤は、マーラーのモザイク風の作品を断片から1つ1つを吟味し、組み合わせていったような精妙さをもつ演奏だ。

アゴーギクやデュナーミク、管弦のバランスのそれぞれに意味があり、音楽的に彫りが深い。

そのため、いささか分析的ではあるが、晴朗・透明で、マーラーの抒情性を的確に表出している。

しかし、よく聴いてみると極めて異常な世界とでもいうのか、他に例を見ない演奏である。

血の通わない音楽というのか、血は通っているが冷たい血とでもいうのか、こんなパッと聴いたところ楽しくないんなぁという感じのする演奏は稀であろう。

美しいながらも、冷たいナイフを頬に当てられているように感じてしまう。

他の指揮者よりもっと高い見地に立って全体を俯瞰するとこういう演奏になるのであろうか。

マーラーの音楽の美しさを表現できていると思うのであるが、どこかひっかかるものがある。

第3楽章の美しさは素晴らしく雄弁に聴こえるのだが、曲にのめりこまないとでも言うのか、どこか心ここにあらずという感じがするのだ。

ロマンティックで耽美的な音楽を優美に、そしてじっくりと聴かせてくれる演奏なのだけれど、このほっぺたが千切れそうに冷たい体感温度の低さは何なのだろうか。
 
遠くに突き放してみたらこんな感じで見えるとでもいうのか、能でいう離見をすればこうなるのかもしれない。

とは言え、筆者としては、このような演奏もマーラーの解釈としては十分成立すると考えている。

この曲を初めて聴く人にお薦めできる演奏ではないが、このような素晴らしい演奏もあるという感じで聴く分には良いだろう。

もし弱点があるとすれば、終楽章でのカサピエトラの歌唱かとも思うが、彼女は癖のない歌唱で、幾分ぶっきらぼうな表情が、この第4楽章の楽しげで無邪気で残酷なおとぎ話の一面の真理をついている。

ちなみに第2楽章のソロ・ヴァイオリンはジェルジ・ガライが担当している(ケーゲルはガライとは、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を録音していた)。

ピストル自殺さえしなければ、ケーゲルを語る時『狂気のケーゲル』などという形容詞はおそらく不似合いだっただろう。 

このマーラーには絶頂の幸福感と、興奮すらも俯瞰でみつめる安定感がある。

筆者としては、ワルター、バーンスタイン、テンシュテットに次いで愛聴している。

ケーゲルの『大地の歌』の録音があったならば、さぞかしと思わせる。

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classicalmusic at 22:39コメント(0)トラックバック(0)マーラーケーゲル 

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マニアの間で復活が待ち望まれていた伝説的な快演「ロジェヴェンのシベリウス」。

これは確かに普通のシベリウス演奏とひと味もふた味も違う、とにかくパワフルで強烈な演奏で、こんな部分があったのかという驚きの連続だった。

調和している部分だけでなく、不協和な部分もしっかりと響かせていて、 良い悪いは別にして、きれいごとだけではすまされないシベリウス像がここにある。

奇をてらう印象は感じなかったが、明らかに一般的な指揮者と着眼点が違う。

随所で聴かれる金管軍団の炸裂サウンドを筆頭に、鋭利で強靭にしなる弦楽器、異様に表出力が強い木管群、雷鳴のように轟くティンパニと、通常のシベリウス演奏の枠を大幅に上回る力感の誇示には驚かされる。

とりわけ金管楽器の強大な音は確かに「爆演」であり、それが好評と不評を大きく左右すると言えるが、その奏法はロシア、旧ソ連のオーケストラにある程度共通するものであり、彼らの音に対する感覚がそのようになっているからだと思われる。

よく聴き込めば決して野放図に演奏しているのではなく、光り輝くようなニュアンスを持っていることがこのCDから十分聴き取ることができる(一定のレベルにある再生装置でなければ金管の音を精確に再生しきれないので注意)。

この全集では第2番が比較的穏やかな演奏で、むしろトスカニーニの方に過剰な情熱を感じるが、快速の第3楽章から第4楽章への盛り上がりは見事な演奏である。

第1番は盛大な感情の隆起に満たされた音楽として演出されており、大パレードを見るような面白さがある。

第5番も壮絶としか言いようがないが、ここまで徹底されてしまうと痛快ですらある。

第4番はなかなかの傑作で、非常に緻密であり、精細なオーケストラ技術による目の詰んだ表現を目指し、まるで研磨機で磨きこんだような音楽の地肌を見せる。

第3番、第6番、第7番ではロジェストヴェンスキーが伸びやかに歌わせている弦楽器、特にチェロが美しい音で捉えられていて、秀逸だ。

今まで聴いてきた中ではデイヴィス&ボストン響の上品で堅牢な演奏が全集としてもっとも優れているように思っていたが、このロジェストヴェンスキーの演奏は全く別の世界の優れた全集である。

特に第6番の第1楽章は他の演奏と比べるとこれが本当に同じ曲なのかと感じるほどオリジナリティーに富む演奏になっている。

この全集は好き嫌いのはっきりする演奏とも言えるが、優れたものであることは疑う余地はない。

細部にこだわって精密になればなるほど全体の強い流れを失うような今の演奏にはない、強い訴えがここにある。

決してロシア色一辺倒ではなくこの曲の持つ北欧的なそして内省的なカラーをロジェストヴェンスキーがその知性で上手く引き出した演奏となっている。

音質は、わずかにテープの経年を感じさせる部分はあるものの鮮明なステレオで、この凄まじいシベリウス演奏を生々しく捉えていて文句無しである。

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2014年07月17日


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歌劇「オテロ」は、ヴァルディの数あるオペラの中でも最もショルティの芸風に合ったものと言えるのではないだろうか。

というのも、ショルティの芸風は切れ味鋭いリズム感とメリハリの明朗さであり、緊迫感にはらんだ劇的な要素を持った歌劇「オテロ」の性格との相性抜群のものがあるのではないかと考えられるからだ。

また、本盤の演奏は1991年のライヴ録音。

ショルティも最晩年の1990年代に入ってからは、自らの指揮活動の集大成とも評すべき円熟味溢れる懐の深い演奏を行うようになってきたところであり、本演奏においても、前述のような持ち味の鋭角的かつ明晰な芸風に加えて、かような円熟味溢れる彫の深い表現を聴くことができるのが素晴らしい。

ショルティと同様に米国を拠点に活躍をした先輩格のハンガリー人指揮者、ライナーやセル、オーマンディなどとは異なり、オペラをレパートリーの中核としていたショルティではあるが、本演奏は、まさにオペラの演奏に自らの半生を捧げ、多大なる情熱を持って取り組んできたショルティの集大成とも言うべき至高の名演に仕上がっているとも言えるところだ。

それにしても、同オペラの演奏において、これほどまでにドラマティックで、重厚かつ強靭な迫力を有した演奏は、かのカラヤン&ウィーン・フィルほかによる超名演(1961年)に比肩し得るほどであると評し得るところであり、このような演奏を聴いていると、ショルティこそは、20世紀後半における最高のオペラ指揮者であったカラヤンに対抗し得る唯一の存在であったことがよく理解できるところだ。

そして、強靭な迫力と言っても、1970年代頃までに時として散見されたショルティの欠点でもあった、力づくの強引さは薬にしたくもなく、どこをとってもその音楽に奥行きのある懐の深さが感じられるのが素晴らしい。

各登場人物の細やかな心理の移ろいの描き方も万全であり、これぞまさしくオペラを知り尽くしたショルティならではの老獪ささえ感じさせる卓越した至芸と言えるだろう。

本オペラの演奏に際して、手兵のシカゴ交響楽団を起用したというのも功を奏しており、前述のような重厚にして強靭な迫力は、本演奏の当時スーパー軍団とも称されたシカゴ交響楽団の面目躍如たるものがある。

歌手陣も、ショルティが指揮するオペラならではの豪華な布陣であり、特に、ルチアーノ・パヴァロッティがオテロ役をつとめているというのが本演奏の最大の魅力であるとも言える。

また、デズデモーナ役のキリ・テ・カナワやイアーゴ役のレオ・ヌッチ、そしてカッシオ役のアントニー・ロルフ・ジョンソンなどの歌手陣、そして、シカゴ・シンフォニー・コーラスやメトロポリタン歌劇場少年合唱団も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であるのも素晴らしい。

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classicalmusic at 23:19コメント(0)トラックバック(0)ヴェルディショルティ 

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歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、モーツァルトのオペラという限定付きではあるが、その主要4大オペラの中でも最も劇的な要素を有した作品。

ショルティの芸風は切れ味鋭いリズム感とメリハリの明晰さを特徴としているが、主要オペラの中では最もショルティの芸風に適合した作品と言えるのではないだろうか。

同曲には、フルトヴェングラーなどによる名演なども存在しており、それと比較して、音楽の内容に深みがないなどと言った批判を行うことは容易ではあるが、本演奏のように、楽想を明晰に描き出していくというアプローチによって、他の指揮者による同オペラのいかなる演奏よりも、メリハリのある明瞭な演奏に仕上がっているという点については、公平な目で評価しなければならないのではないかと思われるところだ。

要は、モーツァルトのオペラの場合、音符の数が比較的少なくて様々な解釈を施したくなるものであるが、ショルティのように、特別な解釈を施すことなく、モーツァルトがスコアに記した音符の数々を、一点の曇りもなく明瞭に描き出すことのみに全力を傾注した演奏は、同オペラの演奏としては大変に珍しいとも言えるところだ。

それは、特に歌手陣への配慮によるところも大きいと言えるところであり、オペラを熟知したショルティの深謀遠慮と言った側面もあるのではないかと考えられるところである。

ショルティは、後年にも同じロンドン・フィルほかとともに同曲を再録音(1996年)するところであり、円熟味や奥行きの深さにおいては後年の演奏の方がはるかに上と言えるが、演奏の持つ明晰さという点においては、本演奏の方に軍配があがると言えるのではないだろうか。

もちろん、前述のような音楽の内容の深みへの追求度は著しく低い演奏であると言えることから、同オペラの演奏において、例えばフルトヴェングラーの演奏などのように、各登場人物の心理を徹底して抉り出すなどの彫りの深さを希求するクラシック音楽ファンには物足りなさを感じさせることは想定し得るところである。

しかしながら、モーツァルトの音楽そのものの美しさを味わうという点においては、十二分にその魅力を堪能することが可能な名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

そして、本盤で素晴らしいのは、何と言っても歌手陣である。

さすがはオペラを熟知したショルティならではの考え抜かれた的確なキャスティングと言えるところでであり、ドン・ジョヴァンニ役のベルント・ヴァイクル、ドンナ・アンナ役のマーガレット・プライス、ツェルリーナ役のルチア・ポップ、騎士長役のクルト・モルなど、当代一流の豪華歌手陣が最高の歌唱を披露しているのが素晴らしい。

また、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した名演奏を展開している点も高く評価したい。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1978年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

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classicalmusic at 21:11コメント(0)トラックバック(0)モーツァルトショルティ 

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数ある同曲の録音の中でもひときわ輝く1枚で、両手の声部が生き生きと対話し、変奏ごとの雰囲気の変化も楽しいゴルトベルク。

それでいて、1955年盤のグールドのような快活さと違い、落ち着いた深い精神性を感じさせる演奏だ。

また、こんなに優しく愛らしく、かつ自然で穏やかなバッハの演奏は、初めて聴いた。

この1枚にケンプという名ピアニストがどういう演奏を目指していたのかが凝縮されている。

現代では前提として完璧なテクニックが要求されるが、それが「一番大切な事ではない」ということを解らせてくれる良い例である。

現代のピアノでバッハを弾くとき、その機能を全く使おうとしないか、使い方を間違えている演奏が存在するが、ケンプのバッハ演奏は「なぜ現代のピアノでバッハを弾くのか? それにはどんな利点があるのか?」が良く解る。

有名なグールドの演奏も実はその辺りが良く考慮されているのだが、ケンプの方が解りやすいであろう。

この演奏を聴いた人がまず驚くのは、アリアでの装飾音の少なさのようだ。

装飾音がほとんど無いのでパサパサした演奏との評価も見たことがあるが、実際部屋に流してみると極上の空間が生まれる。

それに現代ピアノの特性を考えた場合、装飾音の問題はないし、アリアの骨格が浮き彫りになることでその後の変奏が分かりやすくなっていて、変奏曲として非常に高度な演奏である。

完成度という点では後の超絶技巧演奏に譲るが、グールド以後の、大多数の表層をいじっただけの演奏よりも遥かに独自性を出していて、素晴らしい演奏の1つである。

過去にCD化された他のゴルトベルク変奏曲とは聴き終えた後の重量感が違う。

時代、演奏家を超えた何かが記録されている気がする。

グールド・ショックも古楽運動も一段落した今だからこそ、この演奏の価値はますます高くなっているようだ。

現代が忘れてしまった数多くのことが詰まっており、本当に大切なことを語りかけてくれる。

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classicalmusic at 00:44コメント(0)トラックバック(0)バッハケンプ 

2014年07月16日


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かつてのCD全盛時代においては、膨大な数の新譜CDの発売が毎月のようになされていたが、近年においては殆ど数えるほど。

かつての名演の高音質化や大指揮者のライヴ録音の発掘などが大半(それも素晴らしいことではあるが)で、ネット配信が隆盛期を極める中で、CDにとっては極めて厳しい時代が続いていると言えるだろう。

そのような中で、膨大な投資を必要とするオペラの新譜が激減しているのは必然的とも言えるところであり、ましてや国内盤の新譜にオペラCDが登場すること自体が、もはや奇跡に近い状況にあるとさえ言えるだろう。

その意味では、本盤に収められた歌劇「カルメン」全曲の登場はにわかには信じ難い出来事。

ましてや、現代最高の黄金コンビとも言えるラトル&ベルリン・フィルによる演奏という豪華な布陣にはただただ驚くばかりだ。

前述のような厳しい時代だけに、この黄金コンビとしてもオペラの録音は何と10年ぶり2度目。

かつてのカラヤンやアバドが、自らの膨大なオペラ・レパートリーをベルリン・フィルとともに録音していたことを考えると、まさに隔世の感があるとも言えるだろう。

それだけに、この黄金コンビにとっても満を持してのオペラ録音ということになるのであろうが、演奏も素晴らしい。

何よりも、ラトルが芸術監督に就任してから10年を経て、いよいよベルリン・フィルを完全掌握している好調ぶりが如実にあらわれている。

カラヤン時代のような重厚さはないが、少なくともアバド時代と比較するとオーケストラの力感は十分に圧倒的であり、何よりも卓越した技量に裏打ちされた、各場面毎のいい意味での柔軟性に富んだ機能性の凄さは、かのカラヤン時代さえ凌いでいるとさえ言えるのではないだろうか。

ラトルの現代的な感覚の鋭さ、そしてベルリン・フィルの伝統に卓越した技量と伝統に裏打ちされた柔軟性と機能性が見事にマッチングして、まさに清新な歌劇「カルメン」像の確立に成功しているとも言える。

ベルリン・フィルやウィーン・フィルとともに同曲の超名演を遺したカラヤン、そしてロンドン交響楽団とともに強靭な生命力と豊かな歌謡性を併せ持った稀有の名演を成し遂げたアバドによる演奏とはひと味もふた味も異なる演奏と言えるが、あざとさをいささかも感じさせない現代的なセンスに溢れた本演奏は、まさにラトル&ベルリン・フィルという稀代の名コンビぶりとともに、21世紀における新しい歌劇「カルメン」像を確立したという意味において、偉大な両先輩による名演にも比肩しうるだけの素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

歌手陣も、いわゆるラトルの旗本とも言えるコジェナーやカウフマンなどが圧倒的な名唱を披露しており、ベルリン国立歌劇場合唱団の秀逸さも相俟って、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

そして、音質はSACDによる圧倒的な超高音質だ。

歌手陣の細やかな息遣い、そして独唱、合唱、オーケストラ演奏のそれぞれが明瞭に分離して聴こえるのはさすがはSACDと言うべきであり、音質の鮮明さ、音場の拡がり、音圧の凄さのどれ一つをとっても超一級品の仕上がりになっている。

いずれにしても、現代最高の黄金コンビであるラトル&ベルリン・フィル等による歌劇「カルメン」の圧倒的な名演を、最高の高音質SACDで味わうことができる喜びを大いに噛みしめたい。

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近・現代の作品に強い共感を持ち、それらの作品を紹介する事に情熱を注いできた諏訪内の熱い思いが凝縮したアルバム。

最初に聴いて驚かされるのが、極上の高音質録音だ。

本演奏については、これまで、従来盤に加えて、SACDマルチチャンネル付きのハイブリッド盤や、SHM−CD盤が発売されているが、今回のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、これまでの数々のCDとは一線を画する画期的な高音質CDと言えるだろう。

マルチチャンネルは付いていないが、かつて発売されたSACDマルチチャンネルと比較しても、臨場感において何ら劣るものではないという点は、殆ど驚異とも言える。

筆者も、本盤を聴く前に、再生装置や音源は異なるものの、SACDマルチチャンネルを聴いていたが、それと全く遜色のない音場が形成されるのには、正直言って大変驚いた次第だ。

諏訪内は、最近では、結婚や不名誉な醜聞などもあって、低迷期にあると言えるが、本盤の録音当時は、ベストフォームにあったと言える。

女流ヴァイオリニストならではの詩情溢れる繊細な優美さが、持ち前の抜群のテクニックとも相俟って、各演奏において最高に結晶化していたからである。

特に、シベリウスにおいては、こうした若き日の諏訪内の素晴らしさが最高に発揮されており、おそらくは、同曲のトップの座を争う名演と高く評価したい。

ウォルトンの作品はハイフェッツの委嘱により作曲されたもので、現在ハイフェッツの愛用した銘器“ドルフィン”を貸与されている諏訪内の強い要望により、録音が実現されたもの。

諏訪内の“ドルフィン”を操ったヴァイオリン演奏の音色と指揮者サカリ・オラモ&バーミンガム市交響楽団の演奏がとてもよく合っていて、あらゆる両協奏曲の演奏・録音の中でも最高の出来映えの1つと言えよう。

そして、この若き日の諏訪内の見事なヴァイオリンを、その弓使いまで捉えた鮮明な高音質は、もはや筆舌には尽くしがたいハイレベルの音質に達しており、まさに完全無欠のSACDの登場と言えるだろう。

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2014年07月15日


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1997年9月5日に亡くなったショルティ2度目の『ドン・ジョヴァンニ』。

死の前年のライヴ録音であるが、そんなことを感じさせない、速くて溌剌とした演奏である。

いくぶん、静かな伴奏部分に、繊細さが聴きとれるような気がする。

歌手陣の中では、題名役のブリン・ターフェルがとても素晴らしい。

アバドの『ファルスタッフ』でも主役を歌っていたが、なかなか難しい役をよくこなしている。

ほとんどのモーツァルトのバス役も歌っていたような気がするけれど、残念ながら、まだ筆者の印象は弱い。

エルヴィーラ役のアン・マーレイも、あまり馴染みはないが、先般のムーティ指揮の『フィガロの結婚』ではケルビーノを歌っていた。

歴代のエルヴィーラはかなりの名歌手が歌っているが、アン・マーレイもなかなか聴きやすい歌唱で、それなりにいいのだが、やはり他の名盤の演唱よりは少し弱い。

驚いたのは、意外にもドン・オッターヴィオで、ヘルベルト・リッペルトというテノール歌手は聞いた覚えがないが、こんなオッターヴィオは初めてである。

いつもはオッターヴィオを、ほとんど意識することはなく聴いているのだが、特にあの2つのアリアでこの歌に感動したことはほとんどなく、フルトヴェングラー、カラヤン、ベームの盤でもそう思う。

これまで特に素晴らしいと思ったのはクレンペラーの指揮のもので、これはクレンペラーの演奏が凄いのであって、おそらく歌手の問題ではない。

ショルティの指揮もかすかに繊細になっているような気もするが、今度は明らかに歌手を配慮したためだ。

『ドン・ジョヴァンニ』というオペラは、2幕構成で、CD3枚に収められる。

したがって2枚目には、1幕の終わりと2幕の始まりが入るという、居心地の悪い状態になっている。

『フィガロの結婚』『コジ・ファン・トゥッテ』も同じようなものだが、この盤では、CDの2枚目がツェルリーナのアリアで終わる。

その後の6重唱が3枚目の頭に入っているが、特に時間が押しているわけではない。

この第2幕始めの6重唱は、もともとモーツァルトは3幕構成で考えていたのではという説があるのかないのか、完全にフィナーレの音楽になっている。

通常CDは(あるいはLPでも)ここで2枚目が終わる。

終わるのにちょうど良い音楽で、ここで区切らなくてどこで区切るというのか、なぜなのか、少し気になるところだ。

さてショルティの指揮と全体の印象であるが、半分くらいはいつものショルティで、特にエルヴィーラとドンナ・アンナの情念あふれる場面での、感情の高まりが若干乏しい。

深刻な場面での、大見得を切るようなところがさっぱり盛り上がらない。

ところがドン・ジョヴァンニがツェルリーナを誘惑する2重唱の場面は、実にチャーミングに仕上がっている。

全体的に、サッパリとした速めの演奏なのだが、各幕の始めと終わりの切れが良く、トスカニーニの強靱な指揮を思わせる。

筆者が理想とするのは『ファルスタッフ』のトスカニーニなのだが、特に第1幕のフィナーレのたたみかけが速くて興奮させられる。

こんな印象は、他のどの指揮者からも受けたことはない。

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classicalmusic at 23:53コメント(0)トラックバック(0)モーツァルトショルティ 

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本盤に収められたヴェルディの歌劇「椿姫」は、ショルティの最晩年のコヴェント・ガーデン王立歌劇場での公演の歴史的なライヴ録音(1994年)である。

同オペラには、トスカニーニなどのイタリア系の指揮者以外の名演が殆ど遺されていない。

クライバー&バイエルン国立歌劇場管弦楽団ほかによる名演(1976〜1977年)が掲げられる程度であり、ヴェルディやプッチーニなどのイタリア・オペラを得意としていたカラヤンも、歌劇「椿姫」を苦手にしていた。

それだけに、カラヤンと並ぶ20世紀後半の偉大なオペラ指揮者であったショルティの双肩にかかる重責は極めて大きいものがあったと言えるところであり、本盤の演奏によって、ショルティはその重責を見事に果たした言えるだろう。

半世紀近くにもわたって様々なオペラを演奏・録音してきたショルティの事績の総決算とも言うべき至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

ショルティの指揮は、切れ味鋭いリズム感とメリハリの明朗さが信条と言えるが、1990年代に入って最晩年にもなると、その指揮芸術にも円熟味が加わり、懐の深さが演奏にもあらわれてくるようになった。

マーラーの交響曲の演奏においては、そうした円熟は、かつてのショルティの演奏にあった強烈無比な凄味を失わせることになり、一般的な意味においては名演ではあるものの、今一つの喰い足りなさを感じさせることになったが、その他の楽曲、とりわけオペラの演奏においては、円熟が見事にプラスに作用することになっていると言えるだろう。

ヴェルディのあらゆるオペラの中でも、最も美しい抒情的な旋律に満たされた同曲を、ショルティは明朗に描き出している。

かつてのショルティのように、力づくの強引さは皆無であり、音楽そのものの美しさをそのまま語らせるような演奏に徹している。

まさに、人生の辛酸を舐め尽くしてきた巨匠ならではの大人(たいじん)の至芸と言った趣きがあると言えるところであり、これぞ数々のオペラ演奏を成し遂げてきたショルティの老獪とも言える熟達の至芸が刻印されているとも言えるだろう。

歌手陣も、オペラを知り尽くしたショルティならではの絶妙なキャスティングであり、主役のヴィオレッタ・ヴァレリー役にルーマニアの新鋭アンジェラ・ゲオルギューを抜擢したのが何よりも大きい。

そして、アンジェラ・ゲオルギューも、ショルティの期待に応え、迫真の名唱を披露しているのが本名演の大きなアドバンテージの一つである。

また、アルフレード役のフランク・ロパード、ジェルモン役のレオ・ヌッチ、フローラ役のリー=マリアン・ジョーンズなどの豪華な歌手陣、そしてコヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団がショルティの熟達した統率の下、圧倒的な名唱を披露しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であるのも素晴らしい。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)ヴェルディショルティ 

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クラシック音楽史上最高の黄金コンビとも謳われたカラヤン&ベルリン・フィルも、1982年のザビーネ・マイヤー事件を契機として、修復不可能にまでその関係が悪化した。

加えて、カラヤンの健康状態も悪化の一途を辿ったことから、1980年代半ばには、公然とポストカラヤンについて論じられるようになった。

カラヤンは、ベルリン・フィルを事実上見限り、活動の軸足をウィーン・フィルに徐々に移していったことから、ベルリン・フィルとしてもカラヤンに対する敵対意識、そしてカラヤンなしでもこれだけの演奏が出来るのだということをカラヤン、そして多くの聴衆に見せつけてやろうという意識が芽生えていたとも言えるところである。

したがって、1980年代半ば頃からカラヤンの没後までのベルリン・フィルの演奏は、とりわけポストカラヤンの候補とも目された指揮者の下での演奏は、途轍もない名演を成し遂げることが多かった。

そのような演奏の一つが、本盤に収められたモーツァルトのレクイエムであると言える。

ムーティは、先輩格のジュリーニやライバルのアバド、マゼール、ハイティンク、小澤などと同様にポストカラヤンの候補と目された指揮者の一人であり、そうしたムーティとベルリン・フィルが1987年に録音した演奏がそもそも悪かろうはずがない。

それどころか、もちろんムーティは実力のある指揮者ではあるが、当時の実力をはるかに超えるとてつもない名演に仕上がっていると高く評価したい。

いずれにしても、このコンビによるブルックナーの交響曲第4番のスタジオ録音(1986年)、マゼールとのブルックナーの交響曲第7番のスタジオ録音(1987年)、アバドとのヤナーチェクのシンフォニエッタのスタジオ録音(1987年)、小澤とのチャイコフスキーの交響曲第4番(1988年)など、当時のベルリン・フィルの演奏は殆ど神業的であったとさえ言えるところだ。

それはさておき、本演奏は素晴らしい。

最近では円熟の指揮芸術を聴かせてくれているムーティであるが、本演奏の当時は壮年期にあたり、生命力に満ち溢れた迫力満点の熱演を展開していたところである。

ところが、本演奏は、むしろ近年のムーティの演奏を思わせるような懐の深さや落ち着きが感じられるところであり、あたかも円熟の巨匠指揮者が指揮を行っているような大人(たいじん)の至芸を感じさせると言えるだろう。

ベルリン・フィルの重量感溢れる渾身の演奏もそれを助長しており、演奏全体としては、同曲最高の超名演とも呼び声の高いベーム&ウィーン・フィルほかによる演奏(1971年)にも比肩し得るほどのハイレベルの演奏に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

前述のブルックナーの交響曲第4番と同様に、当時のムーティとしては突然変異的な至高の超名演と言えるところであり、その後、ムーティが現在に至るまで、モーツァルトのレクイエムともども2度と再録音をしようとしていない理由が分かろうというものである。

いずれにしても、本盤の演奏は、カップリングのアヴェ・ヴェルム・コルプスともども、ムーティ&ベルリン・フィルがこの時だけに成し得た至高の超名演と高く評価したい。

独唱陣も見事であるし、世界最高の合唱団とも称されるスウェーデン放送合唱団やストックホルム室内合唱団も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2014年07月14日


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本盤に収められたR.シュトラウスの楽劇「アラベラ」は、ショルティがウィーン・フィルとともにワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の歴史的な初のスタジオ録音(1958〜1965年)を開始する直前の演奏である。

楽劇「ばらの騎士」や「サロメ」などと比較するとあまりにも録音の点数が少ない楽曲、そして、世界で最も掌握しづらいオーケストラであるウィーン・フィルを指揮して、このようなスタジオ録音を行ったという点に、若きショルティの並々ならない意欲とR.シュトラウスに対する深い愛着があらわれていると言えるところだ。

同曲は、R.シュトラウスの楽劇としては、「サロメ」や「エレクトラ」のような革新的、前衛的な要素はあまり存在しておらず、むしろ、「ばらの騎士」などの路線に立った後期ロマン派的な楽劇と言える。

ショルティの楽曲への基本的なアプローチは、切れ味鋭いリズム感とメリハリの明瞭さであるが、このようなアプローチは、「サロメ」や「エレクトラ」には適していたとしても、同曲にはあまり相応しいものとは言えないとも考えられる。

しかしながら、ショルティが「ばらの騎士」でも名演を成し遂げたのと同様に、同曲でも素晴らしい名演を成し遂げることに成功していると言えるだろう。

確かに、随所に聴かれるトゥッティにおいて、ショルティならでは迫力満点の強靭さも存在しているが、この当時のウィーン・フィルが有していた美しさの極みとも言うべき美音が演奏全体を支配し、ショルティのいささか鋭角的な指揮ぶりに適度の潤いと温もりを付加させるのに大きく貢献していると言えるのではないだろうか。

ショルティとウィーン・フィルの関係は、とても良好なものとは言い難かったが、本演奏においては、むしろ、ショルティの方がウィーン・フィルに歩み寄っているような印象も受けるところであり、その結果として、このような素晴らしい名演に仕上がったとも言えるところだ。

同曲には、ベーム盤以外に強力なライバルが存在していないのも本盤にとって大きな追い風になっているとも言えるところであり、本演奏は、同曲演奏の一つの規範として現在でもなお輝きを失うことのない素晴らしい名演と高く評価したい。

歌手陣も豪華であり、特に、リーザ・デラ・カーザのアラベラ役は当時最高の当たり役。ズデンカ役のヒルデ・ギューデンやマンドリーカ役のジョージ・ロンドン、そしてワルトナー伯爵役のオットー・エーデルマンなど、超一流の歌手陣が最高の歌唱を披露しているのも、本演奏を聴く最高の醍醐味である。

そして、今は無きゾフィエンザールの豊かな残響を活かした英デッカによる名録音も、今から50年以上も前とは思えないような極上の高音質を誇っていると言えるところであり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 23:29コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスショルティ 

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リスト直系のクラウゼ門下だったピアニスト、クラウディオ・アラウの最円熟期の名盤として知られる1枚。

ユニバーサルミュージックが手掛けたSACD&SHM−CDシリーズの第1弾であり、当盤こそついに理想が実現した画期的なディスクであった。

それまでSHM−CDとXRCDとの組み合わせはあったが、理論的には可能なSACDとの組み合わせをなぜ行わないのか疑問を感じていただけに、当時のユニバーサルによるSACD&SHM−CDの発売は、大変喜ばしいことであった。

しかも、SACDが、一般的なハイブリッドではなくシングルレイヤーであることも、SACDの潜在能力を最大限に活かすものとして素晴らしい。

ガラスCDはともかくとして、コストパフォーマンスを考慮すれば、現在望み得る最高の高音質の可能性を秘めた、まさに理想のディスクということが言えるだろう。

ネット配信がこれだけ普及し、CDがすたれていく傾向にある中で、しかも一度SACDを撤退したユニバーサルが、このような理想のSACDを発売したことは快挙であり、大いに歓迎したい。

SACDという高音質を追求する規格と、コスト面でガラス円盤より圧倒的優位に立ちながら、透明性と流動性に優れたSHM素材の組み合わせは、音楽配信が普及する昨今においてCDという媒体に新たな付加価値を与えている。

そして、実際に聴いてみたところ、そうした期待を裏切らないような別次元の音質であった。

今から約40年前の録音であるが、そのような音質の古さなどいささかも感じさせず、眼前でピアノが演奏されているのではないかとの錯覚を起こさせるような、クリアで重量感溢れる音質が再現されている。

今後とも、ユニバーサルには、こうしたSACD&SHM−CDをシリーズで発売していただくことを心よりお願いしたい。

演奏は、既に定評ある超名演であるが、これだけの鮮明な音質を聴くと、もちろん超名演との評価はいささかも変わることがないものの、これまで聴いていたのとは異なる別の演奏を聴いているような気がしたが、そう感じたのはおそらくは筆者だけではあるまい。

それにしても1970年録音というアラウ最盛期と思われる時期の録音がSACDになったことは大変喜ばしい。

ピアノ・ソナタはアラウのテクニックと音楽性が十分に響き渡っている。

また、「孤独の中の神の祝福」も彼独特の間の取り方や、情緒が伝わってくる。

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classicalmusic at 20:54コメント(0)トラックバック(0)リストアラウ 

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若き日の自信にあふれたコチシュが、自国の作曲家の作品に見せる鋭い感性が眩しく、余裕すら感じさせる名盤。

コチシュは、バルトークを得意とし、指揮者として、そしてピアニストとしても数々の演奏を行っており、CDも数多く発売されているが、本盤は、来日時に収録を行った若き日の名演である。

バルトークは、盟友のコダーイとともに、ハンガリー(及びその周辺諸国)の民謡採集を行い、それを自分のものとして昇華したうえで、様々な自作に活かしていった。

特に、バルトークの場合、ピアノ作品に、そうした作風が顕著にあらわれていると言える。

コチシュの演奏は、決して個性をひけらかすようなものではなく、むしろ、正統派のアプローチと言える。

もちろん、卓越した技量は持ち合わせているのだが、それをベースとして、バルトーク特有のハンガリーの民謡の語法が散見される各曲を、情感豊かに描き出していく。

実にリズミカルな運動性の中に、バルトークの歌がさりげなく、しかも十分に歌われており、音の響きは鋭く研ぎ澄まされ、透明であるのが効果的だ。

アプローチが正統的であるが故に、聴き手はゆったりとした気持ちで、バルトークの音楽の美しさ、素晴らしさをダイレクトに満喫することができる。

特に、「3つのハンガリー民謡」や「古い踊りの歌」は、そうしたコチシュのアプローチが楽曲と見事に符合し、感動的で清澄な名演に仕上がっている。

他方、「組曲」や「ピアノ・ソナタ」は、若きコチシュならではの勢いのある生命力と卓越した技量が全面に出た豪演と言える。

このCDは、コチシュの代表盤となる1枚だろう。

Blu-spec-CD化によって、音質が実に鮮明になったのも素晴らしい。

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classicalmusic at 00:30コメント(0)トラックバック(0)バルトーク 

2014年07月13日


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旧東独の鬼才、ヘルベルト・ケーゲルが、ライプツィヒ放送響のメンバーを駆使して行ったスタジオ録音、バッハ「音楽の捧げ物」が初のソフト化。

ケーゲルのバッハ演奏そのものが極めて珍しく、ほぼ10日を費やしてなされた当録音は、ヘルマン・ベルナーによる新版であり、自由に曲順が変更されている上に、パウル・デッサウ編曲のカノンが5曲も含まれ、最後はウェーベルン編曲による大オーケストラのための壮麗な6声のリチェルカーレで締めくくられる。

亡くなってかなり経つというのに次々と未発表録音が現れるケーゲルであるが、「音楽の捧げ物」をオーケストラで録音している演奏というとどうしても興味が引かれる。

多彩な楽器編成で、この曲の最も面白い表現の一つだろうが、それ以上に内容も豊かな演奏。

おそらく「音楽の捧げ物」の演奏史上、最も凝ったものの一つであるこの企画が、アイディアのごった煮にならずに、説得力を獲得できたのは、硬派の雄ケーゲルならではの筋金入りの音楽作りがあったればこそ。

どんな衣装を着せても揺らぐことのないバッハの凄さと、ケーゲルの底力を思い知らされた。

これは、まぁ何とも深くて楽しいJ.S.バッハで、このバッハを聴き始めたときに、機械が壊れたのかと思った。

主題をフリューゲル・ピアノフォルテで演奏されていたのだ!

このフリューゲル・ピアノフォルテは、ポツダムのサンスーシ宮殿にある楽器が使われているそうで、初めて耳にしたピアノともチェンバロともつかないとても心持良い美しい音色である。

しかし再生装置の質によって、壊れたピアノの音に聴える可能性も否定できないと思った。

筆者の装置では、透明感を伴った美しい音が出てきて、その後の展開も聴かせる。

その後、室内楽編成(1曲オルガンもある)による王の主題によるカノン、無限ソナタなどがが続き、フルート、ヴァイオリン、チェロ、チェンバロという普通の編成のトリオ・ソナタが中心に奏される。

ここまでもなかなか緊張感に富んだ演奏なのだが、圧巻はオーケストラによる後半で、デッサウ編曲の王の主題によるカノンが5曲収録されている。

管楽器のソロを中心とした編曲であり、通常聴くバッハの響きからはほど遠いが、各声部の動きは手に取るように分かり、あらためて内容の豊かさに驚かされる。

最後を飾る6声のリチェルカーレはウェーベルン編曲版で、これが物凄い演奏になっている。

このコンビならではの淡々と音を置いているだけのようでありながら、何故か熱くなっていく演奏で、美しく感動的に終える。

特にこのウェーベルン編曲の6声のリチェルカーレの感動的な演奏は是非聴いていただきたい。

現在はピリオド奏法の演奏が多いわけだが、現代の楽器で演奏するバッハとしては、非常に面白い試みを数多く行っている演奏である。

編曲も面白いし、デッサウ、ウェーベルンの曲も自然に繋がっていく非常に面白い演奏
だ。

全身の力が抜け、喜びとも感謝とも悲しさともつかない感情が湧き上ってくる。

それにしてもケーゲルという指揮者は、果敢に新しい表現にチャレンジしていたのだなぁと思わせる録音だ。

これは立派なことには違いないし、彼の活躍した時代背景とキャリアを考えると深い感慨を覚えずにはいられない。

フィギュアスケートのカテリーナ・ビットもそうだったらしいが、ケーゲルもベルリンの壁の崩壊後であっても「社会主義者」であることを誇りにしていたという。

彼の考える社会主義の中身が問題になろうが、非常に倫理的な人間であったことは想像できる。

そんな音楽の周辺をも再考させる、ある意味「際物」寸前、しかし大変真摯なバッハである。

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classicalmusic at 22:51コメント(0)トラックバック(0)バッハケーゲル 

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ケーゲルによるヴィヴァルディの協奏曲集とシンフォニア集という珍しい録音。

協奏曲集は比較的よく見られるが、シンフォニアの録音は思った以上に少なく、当盤では2曲のシンフォニアを収録している。

思わずぎょっとするような(作品/演奏者)組み合わせではあるし、ヴィヴァルディの作品中、あまり著名でないものを集めたというのもマニアック。

ヴィヴァルディは明るく軽快、軽妙な響きが基本なので、これはいったいどうなるのかとかつてはずいぶんと話題になったものだ。

これがやはりケーゲルの手に掛かると少々悲劇度増して、弦は泣き、オーボエは上手いが地味で神妙。

弦の編成は絞り込んでいるようで大編成の違和感はないけれど、両端楽章の雄弁なる切迫感は何とも言えぬ味わいだ。

ライプツィヒ放送室内管弦楽団の演奏は、何よりもまずその透明な響きに魅せられる。

1曲目のシンフォニアのアンダンテでしめやかに歌われる弦の調べは、まさに天上から響き渡るかのようだ。

しかしそれ以上に「聖なる墓にて」の荘厳で、包み込むような深い響きは、聴き手の心の奥深くに染み込んでいく。

とても深刻で静謐な世界から始まって、題名の由来は知らないが、いかにも“それ”らしい神々しい、神妙な囁きである。

「ダリウスの戴冠」は豊かで厚みのある弦楽合奏で、いかにもハ長調らしく親しげな開始なのが、少しずつ暗転するところに緊張感というか、悲劇的な味わいになっていくから不思議だ。

急緩急のイタリア風序曲から「アンダンテ」には纏綿と深刻な味わいになって、ラスト「プレスト」はわずか33秒。

ファゴット協奏曲はイ短調なだけあって、再び弦が悲痛な叫びを上げる。

ファゴットという管楽器はユーモラスな持ち味なのだが、ここでの旋律もやたらと陰影に沈んで、軽快なる味わいにあらずだ。

クレツマーの技巧は文句なしで、ここでも緩徐楽章の嘆きが白眉であり、ヴィヴァルディなのに何と哀しい音楽なのだろう、そう思わせる音楽の力がある。

チェロのオブリガートがいい味を出しており、終楽章の弦(のラッシュ)はバロック音楽として違和感のあるものではないだろう。

協奏曲イ長調にはソロ楽器はないが、第1楽章は朗々とした押し出しの良い「アレグロ」である。

ところが第2楽章「アダージョ」に至ると再び嘆きの音楽となってしまう。

ほんの1分ほどであるが、最終楽章のヴァイオリン・ソロの絡み合いは哀しみに満ち、弦楽合奏がそれを否定して明るく振る舞う、といった不思議な風情。

「ごしきひわ」 はこのCD中唯一の著名作品であり、フグナーの豊かで厚みのある太い音色はいかにもドイツ的だ。

第2楽章「カンタービレ」には悲劇はなくて、悠々と安らぎの風情である。

終楽章はフルートとヴァイオリンのユニゾンが晴れやかな世界を醸し出しており、しっとりとして、華やかではないが、この作品が全曲中一番明るい。

この世の中に不幸な人間のいる限り、このケーゲル盤を愛聴する人間が絶えることはないと筆者は信じている。

前記したケーゲル最晩年の「アルルの女」とともに、録音史上に残る大傑作であることは間違いない。

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classicalmusic at 21:00コメント(0)トラックバック(0)ヴィヴァルディケーゲル 

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これまでは、「アルルの女」第1組曲、第2組曲、そしてオペラ「カルメン」の4つの前奏曲は、クリュイタンスの指揮したものが名盤の誉れ高かったが、この盤を聴いてみて驚いた。

ダイナミックな部分(「アルルの女」第1組曲の〈前奏曲〉の前半、〈カリヨン〉の前半、第2組曲の〈ファランドール〉など)は、他の指揮者の演奏よりもダイナミックに、たゆたうようなしっとりとした情感溢れる部分(「アルルの女」第1組曲の〈アダージェット〉、第2組曲の〈メヌエット〉など)はよりゆったりとしているのである。

「アルルの女」第1組曲の〈前奏曲〉からして、あまりに淡々とした端正な音楽に畏敬の念すら覚える。

まったく何の不足も余分もない、凍りついたような清潔な美しさである。

最初の弦楽器に続いて登場する木管楽器たちの何か寂しげな様子もただごとではない。

そのあともひたすら端正であり、大げさな気配は微塵もないのだが、有無を言わさぬ迫力があるのだ。

そして、まるでシューベルトの「未完成」交響曲第2楽章終結部のような黄昏を経て、恐ろしい後半部がやってくる。

ブルックナー第9番のスケルツォのような〈メヌエット〉も、よく歌いながらまったく楽しさがないという戦慄の音楽だが、ついで流れ出す〈アダージェット〉は、初めて聴く人を間違いなく瞠目させるに違いない。

そう、まさにマーラー第5番のアダージェットのようなのだ。

きわめて遅い、何という美しさ、何という憧れ、何という悲しさ、何という切なさ。

〈カリヨン〉では再び明るく透明な響きが戻ってくるが、これが明るさとは裏腹に、まるで死者が浮かべる微笑のうつろなまなざしのようで怖い。

とりわけ中間部は虚無感そのもので、もはや心はここになしという様子だ。

第2組曲では、〈パストラル〉中間部がまるでブルックナー第4番第2楽章のようだ。

〈間奏曲〉のしみじみとした味といい、〈ファランドール〉の祭の興奮とは正反対の冷えた感触といい、「アルルの女」をこれほどユニークに演奏した例は古今無双であろう。

この演奏全体を通じて、恣意的な臭みのまったくない弱音の表現力の豊かさに圧倒される。

人間のむなしさ、存在の悲しみをここまで表した音楽を筆者は他に知らない。

そして、こういう切実な音楽に対し、語る言葉は無力だ。

しかも録音が素晴らしく、全ての音が驚異的に鮮明に捉えられているのである。

ただ、近年なかなか手に入らなくなったこのディスク、読者諸氏が無事に手に入れていただくことを切に祈るのみである。

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