2014年09月

2014年09月12日


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ドイツ・ロマン派の権威でもあるサヴァリッシュが、シューマンの演奏機会の少ない作品で見事な演奏を聴かせる。

最近までほとんど聴かれることのなかったシューマンの「レクイエム」だが、40歳を超えたころに作曲された美しい曲であり、こうした曲に光を当てるあたりは、さすがにサヴァリッシュの見識と言えそうだ。

モーツァルトやフォーレの同名作品と比べても見劣りするどころか、こちらのほうが魅力を湛えているように感じられる部分がたくさんあって、仰々しい音で飾り立てるのでなく、情熱の限りをぶつけるわけでもない。

特に『怒りの日』における、モーツァルトやヴェルディのような性急なテンポで荒々しい表現をとるのではなく、じわじわと運命の日が歩み寄ってくるかのような神秘的な表現としたのは素晴らしいの一言。

シューマンのこの分野の作品に急速に光が当てられるようになってきたのは、現代というあらゆる分野での感覚の解放が進み、先入観やタブーが取り払われ、狂気や彼岸など未知の領域に新しい感覚の冒険を敢行したシューマンの音楽の革新性が理解される条件がようやく整ってきたからであろう。

このCDでもサヴァリッシュの演奏は、これら2曲のもつ異空間感覚の魅力を、透徹した感覚の冴えと緻密な分析力で驚くほど明晰かつ色彩的に浮かび上がらせている。

サヴァリッシュは、合唱の各声部を巧みにコントロールし、声の色合いを微妙に変えながら、ふと現れる深い淵のような静かな響きも交え、うねりのような名演を展開する。

歌手陣も一貫して充実したかがやきのあるひびきを示している。

特にクレー指揮の〈レクイエム〉以来2度目の挑戦であるヘレン・ドナートは、シューマンの演奏に必要な熱っぽさと高貴さとを失わず、見事に歌い上げている。

彼女にとって初めての〈ミニョン〉も期待にそむかぬ歌いぶりで、彼岸との触れ合いに戦慄する魂の高揚を聴き手に伝えてくる。

バイエルン放送交響楽団、合唱、独唱のメンバーは一体となってサヴァリッシュ指揮のもと、全体に風格のあるスケールの大きな演奏を実現している。

そして、シューマンのこれら晩年の作品が、一部の通好みだった秘曲としてのヴェールをぬいで、現代に呼吸する作品となったのである。

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ミサ・ソレムニスは交響曲第9番と並ぶベートーヴェンの最高傑作であるが、交響曲第9番には若干の親しみやすさがあるのに対して、晦渋な箇所も多く、容易には聴き手を寄せ付けないような峻厳さがあると言えるだろう。

したがって、生半可な指揮では、名演など到底望むべくもないと考えられる。

同曲には、クレンペラーのほか、トスカニーニやワルター、そしてカラヤンやバーンスタインなどの名演も存在しているが、クレンペラーによる演奏こそは、同曲のあらゆる名演に冠絶する至高の超名演と高く評価したい。

なお、クレンペラーは、その芸術が同曲と符号しているせいか、同曲の録音を本演奏のほか、ケルン放送響(1955年ライヴ)及びフィルハーモニア管(1963年ライヴ)、ニュー・フィルハーモニア管(1965年スタジオ)との演奏の4種類遺している。

音質面などを総合的に考慮すれば、最後のスタジオ録音の優位は動かないものと考えられるが、本盤はそれとは正反対の速いテンポでぐいぐい引っ張っていく、クレンペラー壮年期の緊迫感溢れる素晴らしい演奏であり、これも捨て難い。

ここでのクレンペラーは速めのテンポを基調にして、曲想を精緻に真摯に、そして重厚に描き出していくというものだ。

そして、ここぞと言うときの強靭な迫力は、我々聴き手の度肝を抜くのに十分な圧倒的な迫力を誇っている。

演奏全体の様相としては、奇を衒うことは薬にしたくもなく、飾り気などまるでない演奏であり、質実剛健そのものの演奏と言っても過言ではあるまい。

もっとも、同曲の壮麗さは見事なまでに描出されており、その仰ぎ見るような威容は、聴き手の居住まいを正さずにはいられないほどである。

かかる格調が高く、なおかつ堅固な造型の中にもスケールの雄渾さを兼ね備えた彫りの深い演奏は、巨匠クレンペラーだけに可能な圧巻の至芸と言えるところであり、その音楽は、神々しささえ感じさせるほどの崇高さを湛えているとさえ言える。

例によって、木管楽器の活かし方もクレンペラーならではのものであるが、それが演奏に独特の豊かなニュアンスを付加するのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

独唱陣も素晴らしい歌唱を披露しており、クレンペラーの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを行っている合唱団に対しても大きな拍手を送りたい。

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ルーマニア出身の巨匠指揮者セルジュ・チェリビダッケ(1912〜1996)の生誕100年を記念し、彼が最も得意としたブルックナーの交響曲をSACDハイブリッド化したボックスセットからの同時分売。

交響曲第4番「ロマンティック」は1989年2月、ウィーン・ムジークフェラインザールでの演奏会をソニー・クラシカルが収録したもので、生前からその存在は知られながら、これまで未発表だった幻のライヴ録音である。

トータルで84:08(拍手込み)という演奏時間は、EMIから正規盤として1996年に発売された1988年10月のライヴよりも長く、それゆえ収録にディスク2枚分を要している。

残響の豊かなムジークフェラインの音響効果を考慮してのテンポ配分と思われ、30分を超える巨大な造形によるフィナーレでは、極遅のコーダで管のコラールを支えるチェリビダッケ独特の弦の刻みに施されたアクセントが未曽有の感動を呼び起こす。

結果的には素晴らしい演奏で、筆者としてはこれまでEMI盤を普段から愛聴してきたのであるが、今回のソニー・クラシカル盤も、大いに心を揺さぶられる名演であること間違いない。

特に普段はチェビダッケはガスタイク・フィルハーモニーでの録音を聴く機会が多く、ムジークフェラインザールの豊かで華麗な響きにも改めて魅了された。

余すところ無くミュンヘン・フィルのハーモニーが味わえ、ガスタイク・フィルハーモニーの
EMI盤とは違った魅力が放たれている。

終楽章フィナーレの偉大さは相変わらずで、EMI盤は終演後の拍手がカットされているが、ソニー・クラシカル盤は拍手が収録されており、終演後直後の静寂から、まばらに拍手が始まり…、聴衆の『何か凄いものを聴いてしまった』という心の代弁が筆者にはヒシヒシと感じ取れるのである。

録音は、ソニー・クラシカル所蔵のオリジナル・マスターからの初のDSDマスタリングによるSACDハイブリッド化し、マスタリングはベルリンのb-sharpスタジオで行われたもので、音質は鮮明であるとともに、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるなど、音場が幅広いように感じられるところである。

そのことは、ムジークフェラインザールの残響の豊かさが生かされた臨場感溢れる音質であることも一躍買っていることを忘れてはならない。

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2014年09月11日


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バルビローリは、シベリウス等の北欧音楽とともにイギリス音楽を得意中の得意としていた。

とりわけ、本盤に収められたディーリアスの管弦楽曲集は、バルビローリが指揮したイギリス音楽の様々な録音の中でも最良の遺産の一つと言っても過言ではあるまい。

ディーリアスの管弦楽曲は、いずれもいかにもイギリスの詩情溢れる親しみやすいものであるが、これをバルビローリ以上に情感豊かに美しく演奏したことがこれまでにあったのであろうか。

ディーリアスと親交の深かったビーチャムが、手兵ロイヤル・フィルとともに管弦楽曲集の録音(1958、1960、1963年)を遺しており、それは現在においてもディーリアスの管弦楽曲演奏の規範となるべき至高の超名演であるが、各演奏における情感の豊かさ、心を込めた歌い方においては、本盤のバルビローリの演奏の方に軍配があがる。

また、バルビローリの演奏が素晴らしいのは、これらの各楽曲のスコアに記された音符のうわべだけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていないということであろう。

ディーリアスの管弦楽曲の演奏に際しては、その旋律の美しさに気をとられて、音楽の内容の追求をどこかに置き忘れた薄味の演奏も散見されるところであるが、バルビローリによる本演奏は、もちろん前述のように美しさにおいても他の演奏の追随を許さないものがあるが、どこをとっても奥深い情感と独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした内容の濃い演奏を展開している。

また、本盤に収められた楽曲のうち、「アパラチア」(古い黒人奴隷の歌による変奏曲)と「ブリッグの定期市」(イギリス狂詩曲)については、バルビローリの死の数か月前の録音であり、これらの楽曲の演奏に漂う清澄な美しさは、バルビローリが死の直前になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのかもしれない。

いずれにしても、バルビローリによる本演奏は、その美しさにおいても、内容の濃さにおいても、まさにディーリアスの演奏の理想像の具現化と言えるところであり、ディーリアスと親交があったビーチャム盤を除けば、ディーリアスの管弦楽曲集の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

録音は、数年前にリマスタリングされたこともあって比較的良好な音質である。

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周知の通りセルジウ・チェリビダッケは「録音嫌い」で知られたマエストロである。

その理由を訊かれたとき、彼がよく引き合いに出していたのはフルトヴェングラーの言葉だった。

録音した演奏のプレイバックを聴いて、フルトヴェングラーはこう叫んだという。

「何もかもが変わってしまった!」と。

もちろん1950年代以前と現代とではすでに録音技術にも大きな差があるし、再現度は格段に高まっているはずなのだが、それでもオーケストラが響く空間のアコースティックや聴衆の醸し出す雰囲気といった、何気に重要なパラメータを含むアンビエント――参加意識も含めた「共時体験」としての――は、排除されないまでも、少なくとも圧縮され薄まらざるを得ない。

各々の演奏会場の音の響き方によって採るべきテンポも当然変わってくると考えるタイプのマエストロは、生演奏に接することしか音楽の真実に迫るすべはないと主張する。

それは確かにその通りだろう。

一期一会の演奏会は、突き詰めれば一瞬たりとて同じ音がなく「時間とともに消えてゆく」現象の集積なのだから。

しかし、フルトヴェングラーにせよチェリビダッケにせよ、我々は過去に偉大な演奏があり得たことを「知って」しまっている。

その記録がいかに(彼らにとって)不完全なものだとしても、現に音楽として「追体験」できる音源が存在する以上、聴いてみたくなるのが人情というものだ。

ライヴ体験と切り離され録音された演奏だけで評価を下す危険性は常に意識しておかなくてはならないが、次々に発掘される名演の「記録」は、一種の文化的世界遺産ともいうべき価値を有している。

生きて飛んでいる蝶を間近に見るのが最上の観察だとしても、絶滅した蝶の姿は標本から類推するしかないのだから。

チェリビダッケの偉大さは、彼のそうした哲学的な音楽の捉え方が単なる観念論でなく、きわめて高度な職人技の上に成り立っていたということである。

たとえば交響曲第7番の第1楽章、冒頭に姿を現す弦のさざめきを表現する際、一人一人のトレモロに関し微妙に弓幅を変えることでムラのないヴェールのような広がりを醸し出すテクニック。

また交響曲第4番のフィナーレにおけるコーダでは、ユニゾンで奏される弦の刻みの拍の頭に楔を打ち込むがごとく短いアクセントを施し、最後に回帰してくる凱歌を気宇壮大に迎え入れる素地がつくられる。

こうした処理はスコアの“改変”ではなく、現場主義的な発想のもとに楽譜の意図する効果を最大限発揮させるための熟練された方法論に他ならない。

緻密に練られた解釈と、それを実現するのに必要な「楽器」とが揃った1980年代後半から90年代初めこそが、チェリビダッケとミュンヘン・フィルの最盛期だったと言っていいだろう。

さらにチェリビダッケの最晩年、亡くなる数年間はまた一層深化した異形の境地が訪れるのだが、より均整のとれたフォルムという意味でもその前の時期のほうが一般的な評価は高いはずである。

このDVDセットに所収されているのは何れもその実り多い時期のライヴで、交響曲第6番は彼らの本拠ミュンヘンのガスタイク、交響曲第7番と第8番は来日公演時のサントリーホールにおける収録。

すでに稀代の名演として定評のある演奏だが、今回は幻ともいうべき1989年のムジークフェラインザールでのライヴが入っているのが貴重だ。

前述の通り演奏会場の音響やアンビエントも演奏の大きな構成要素と捉えるチェリビダッケにとって、ムジークフェラインはいささか荒ぶる音楽への志向を誘われるホールだったのかも知れない。

特に両端楽章での激しいアゴーギクを伴った凄みのある音楽運びは、他に残された演奏にはあまりみられないほどの変動幅を含んでいる。

完全かどうかという見方をすれば粗もあり、これがチェリビダッケの〈ロマンティック〉の代表盤だとは言えないが、彼らの垣間見せた意外な「貌」という意味では非常に貴重な音源と言って間違いない。

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本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第5番は、新たに発見されたメタル・マスターよりリマスタリングを行っているとのことである。

録音は、1937年のスタジオ録音であるが、確かに、これまでの既発売のCDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。

フルトヴェングラーの「第5」の名演としては、1947年の復帰後のコンサートの3日目のライヴ録音(DG)が超名演として知られているが、これはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されて、それによって音質の抜本的な改善がみられたところである。

復帰初日のライヴ録音も一昨年、アウディーテからきわめて鮮明な音質で発売されたことから、今後はDG盤とアウディーテ盤が決定盤との評価が確立するものと考えられる。

これに次ぐ名演とされているのが、昨年1月にEMIからSACD盤が発売されたが、1954年のスタジオ録音ということになる。

ドラマティックな1947年盤に対して、こちらは荘重なインテンポを基調とする奥行きのある演奏ではあるが、フルトヴェングラーの芸術の懐の深さをあらわすものとして、この3強の地位は今後ともいささかも揺るぎがないと考えられる。

そして、この3強に続く名演が、1943年のライヴ録音(既にドリームライフによりSACD化)と本盤の1937年のスタジオ録音ということになるのではないだろうか。

フルトヴェングラーの全盛期は1930年代と主張される識者の方も多数おられるところであり、本演奏においても、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルの黄金時代の演奏がいかに重厚で深みのあるものであったのかがよく理解できるところだ。

既発CDの音質がきわめて劣悪であったことから、前述の3強や1943年盤の後塵を拝していた名演が、今般のSACD化によって再び脚光を浴びることになることが大いに期待されるところだ。

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、メニューインと組んでルツェルン祝祭管弦楽団を指揮したスタジオ録音であるが、一般的にメニューインとの演奏で名演とされているのは1953年のスタジオ録音盤(同様に今回SACD化)の方である。

しかしながら、今般のSACD化によって見違えるような良好な音質に生まれ変わっており、1953年盤にも比肩し得る名演であることが証明された意義は極めて大きい。

メニューインについては、とある某有名評論家を筆頭に芳しからざる酷評がなされているが、フルトヴェングラーの下で演奏する際には、気品溢れる芸術的な演奏を披露していると言っても過言ではあるまい。

それにしても、メニューインのヴァイオリンの弓使いまで聴こえる今般のSACD化による高音質化の威力は殆ど驚異的ですらある。

ブラームスのハイドンの主題による変奏曲は、1952年のライヴ録音だけに、今般のSACD化による音質向上効果には著しいものがあり、実演ならではのフルトヴェングラーのドラマティックな表現をも加味すれば、フルトヴェングラーによる同曲の演奏の中では最高の名演と高く評価したい。

ワーグナーの2曲は、いずれも1948〜1949年にかけてのスタジオ録音であるが、こちらもSACD化によって素晴らしい音質に蘇った。

いずれも定評ある懐の深い名演であるが、特に、「ブリュンヒルデの自己犠牲」におけるフラグスタートの名唱が鮮明に響くのには大変驚いたところであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

なお、本盤に収められたハイドンの主題による変奏曲は、第1弾のブラームスの交響曲第1番(TOGE−11006)と同じ日のコンサートの際の演奏であるにもかかわらず、当該盤には本演奏ではなく1949年のスタジオ録音の方が収められていた。

フルトヴェングラーの実演での凄さに鑑みれば、同一のコンサートの演目は可能な限り同じCDに収めるのがベストであり、このようなカップリングには若干の疑問を感じることをこの場を借りて指摘しておきたい。

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2014年09月10日


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本盤には、プレヴィンが当時の手兵であるロンドン交響楽団とともに1970年代にスタジオ録音したチャイコフスキーの3大バレエ音楽のうち、最晩年の傑作「白鳥の湖」全曲が収められている。

プレヴィンは、クラシック音楽の指揮者としてもきわめて有能ではあるが、それ以外のジャンルの多種多様な音楽も手掛ける万能型のミュージシャンと言える。

したがって、本演奏においてもそのアプローチは明快そのもの。

楽曲を難しく解釈して峻厳なアプローチを行うなどということとは全く無縁であり、楽曲をいかにわかりやすく、そして親しみやすく聴き手に伝えることができるのかに腐心しているように思われる。

したがって、ベートーヴェンなどのように、音楽の内容の精神的な深みへの追求が必要になってくる楽曲においては、いささか浅薄な演奏との誹りは免れないと思うが、起承転結がはっきりとした標題音楽的な楽曲では、俄然その実力を発揮することになる。

本盤に収められたチャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」は、そうしたプレヴィンの資質に見事に合致する楽曲と言えるところであり、加えて若さ故の力強い生命力も相まって、素晴らしい名演に仕上がったと言っても過言ではあるまい。

聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりは心憎いばかりであり、プレヴィンの豊かな音楽性が本演奏では大いにプラスに働いている。

クラシック音楽入門者が、バレエ音楽「白鳥の湖」を初めて聴くに際して、最も安心して推薦できる演奏と言えるところであり、本演奏を聴いて、同曲が嫌いになる聴き手など、まずはいないのではないだろうか。

いずれにしても、プレヴィンによる本演奏は、チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」(全曲)には、ロジェストヴェンスキー、ゲルギエフなどによるロシア風の民族色溢れる名演や、アンセルメやデュトワによる洗練された色彩美を誇る名演などがあまた存在しているが、安定した気持ちで同曲を魅力を味わうことができるという意味においては、第一に掲げるべき名演と評価したい。

音質は今から40年ほど前の録音であるが、従来CD盤でも比較的満足できる音質であった。

数年前にリマスタリングも施されたことによって、音質は更に鮮明になるとともに音場が幅広くなったように感じられるところであり、筆者も当該リマスタリングCD盤を愛聴してきたところだ。

しかしながら、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤やリマスタリングCD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1970年代のスタジオ録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった。

いずれにしても、プレヴィンによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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生前は原則として一切の録音を拒否し、幻の指揮者と言われていたチェリビダッケであるが、没後、相当数の録音が発売されることになり、その独特の芸風が多くのクラシック音楽ファンにも知られることになった。

数年前にブルックナーの交響曲第5番とともに、本盤に収められた交響曲第8番の来日時(1990年)のコンサートのライヴ録音のCD化が行われたのは記憶に新しいところである。

今般、ついに、そのライヴ録音CDが、第5番とともに、シングルレイヤーによるSACD化が図られることになったのは、チェリビダッケの芸術を更に広く知らしめる意味においても、極めて意義の大きいことと言わざるを得ない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿り着いたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、一音一音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の一つ一つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは一つ一つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、それはブルックナーの交響曲についても言えるところだ。

EMIから発売されているブルックナーの交響曲集についても、第3番や第6番は素晴らしい名演であったが、第5番や第8番については、超スローテンポによる演奏で、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いのではないだろうか。

ところが、1990年の来日時の演奏である本盤に収められた第8番、そして同時発売の第5番については、アプローチとしては基本的に変わりがないものの、チェリビダッケが愛した日本での公演であること、当日の聴衆の熱気、そして何よりも極上の高音質録音によって、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえることなどが相俟って、スローテンポであってもいささかも間延びがしない充実した音楽になっているのではないかと思われるところだ。

確かに、この演奏をブルックナーの交響曲演奏の理想像と評価するには躊躇するが、いわゆる音のドラマとしては究極のものと言えるところであり、良くも悪くもチェリビダッケの指揮芸術の全てが如実にあらわれた演奏と言うことができるだろう。

いずれにしても、聴き手によって好き嫌いが明確に分かれる演奏であり、前述のように、ブルックナーらしさという意味では疑問符が付くが、少なくともEMIに録音された演奏よりは格段に優れており、筆者としては、チェリビダッケの指揮芸術の全てがあらわれた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

そして、前述のように、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは、シングルレイヤーによるSACD化によって、音質が更に鮮明になり、なおかつサントリーホールの残響の豊かさが生かされた臨場感溢れる音質であることも一躍買っていることを忘れてはならない。

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2014年09月09日


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バッハの無伴奏チェロ組曲はあらゆるチェリストにとっての聖典とも言うべき不朽の名作であり、本盤のカザルスによる演奏を嚆矢として、錚々たるチェリストが数々の演奏を遺してきている。

カザルスによる本演奏は1936〜1939年のSP期の録音であり、その後に録音された他のチェリストによる演奏と比較すると音質は極めて劣悪なものである。

そして、単に技量という観点からすれば、その後のチェリストによる演奏の方により優れたものがあるとも言えなくもない。

演奏スタイルとしても、古楽器奏法やオリジナル楽器の使用が主流とされる近年の傾向からすると、時代遅れとの批判があるかもしれない。

しかしながら、本演奏は、そもそもそのような音質面でのハンディや技量、そして演奏スタイルの古さといった面を超越した崇高さを湛えている。

カザルスのまさに全身全霊を傾けた渾身のチェロ演奏が我々聴き手の深い感動を誘うのであり、かかる演奏は技量や演奏スタイルの古さなどとは別次元の魂の音楽であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みがある。

その後、様々なチェリストが本演奏を目標として数々の演奏を行ってはきているが、現在においてもなお、本演奏を超える名演を成し遂げることができないというのは、カザルスのチェロ演奏がいかに余人の及ばない崇高な高峰に聳え立っていたのかの証左である。

いずれにしても、カザルスによる本演奏は、バッハの無伴奏チェロ組曲を語る時に、その規範となるべき演奏として第一に掲げられる超名演であるとともに、今後とも未来永劫、同曲演奏の代表盤としての地位を他の演奏に譲ることはなく、普遍的価値を持ち続けるのではないかとさえ考えられる。

前述のように、本演奏は音質面のハンディを超越した存在であるが、それでも我々聴き手としては可能な限り良好な音質で聴きたいというのが正直な気持ちである。

筆者としても、これまで輸入CD盤やリマスタリングされた国内CD盤(EMI)、さらにはナクソスやオーパスなどによる復刻など、様々な盤で本演奏を聴いてきており、最も優れた復刻はオーパス盤であったが、現在では入手難である。

先般発売されたSACD盤(これが決定盤になると考えられる)は未聴であるが、それでも2010年に行われた新たなリマスタリング盤は、かなり聴きやすい音質に生まれ変わったところである。

いずれにしても、カザルスによる歴史的な超名演を、新リマスタリングによる比較的良好な音質で味わうことができるのを歓迎したい。

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F=ディースカウが、自らの歌唱芸術の歩みを確かめる里程標として幾度となく<冬の旅>を採りあげ、また録音してきたことは周知の事実であろう。

かつて筆者が耳にしてきた9種の録音の中でも、名唱とされるのは、ステレオ初期のEMI盤、デムスとのグラモフォン盤、ムーアとの1970年代の録音(一般にはこれが決定盤とされる)、バレンボイムとの録音、と並ぶが、いずれもこの名歌手のそれぞれの時期の会心の歌唱が記録されているものとして評価が高い。

それが、つい先日購入した1955年プラド音楽祭でのライヴ盤を聴いて、この曲集からかつてなかったほどの深い感銘を受けたことをここに記しておきたい。

この名歌手がステレオ期に入ってから聴かせる洗練された完成度の高い表現とはだいぶ趣を異にする、ある種“生々しい”歌唱が当盤では聴けるのである。

第1曲「おやすみ」からすでに感じられることなのだが、この録音での歌唱は主情的というか、かなり詩の意味を劇的かつ直截に表現しているような感がある。

第7曲「川で」や第18曲「嵐の朝」、あるいは第22曲「勇気」といったあたりで聴かれるその雄弁な表現は、ほとんどオペラ的とさえ称していいようなレベルにまで達している。

これがステレオ期に入ってからは、より知的な客観性みたいなものがはっきりと出てきて、いかにもF=ディースカウらしい歌唱に変わってくるわけだが、その知的客観性なるものに筆者の場合はある種の“分別臭さ”みたいなものを感じてしまって純粋に感動できないのではないか、という気がするのである。

一方、第2曲「風見」や第8曲「かえりみ」のように、いくぶん肩に力が入りすぎているような印象を受けるものもあるし、若さの部分が逆に若気の至りに感じられてしまう曲もまたなきにしもあらずなのだが、筆者は当盤の歌唱を最も好む。

ここでは、まさに今赤い口を開いて疼いている“青春の生傷”が歌われていて、それが他の録音以上に深い感銘を筆者の胸に残すからである。

とある雑誌で「この歌手の<冬の旅>はステレオ時代からが聴きものだ」というような事を評論家たちが異口同音に述べているのを読んだことがあるが、筆者の意見はむしろ逆である。

確かに、上述のように表現の未熟さ等を指摘できる箇所がないわけではない。

しかしこれほどに熱いものが強く胸に残る<冬の旅>を、少なくとも筆者は他で経験した記憶がないのである。

フルトヴェングラー&フィルハーモニア管とのマーラーの<さすらう若者の歌>と同様に、この大歌手は若くしてすでに余人の及ばぬ世界を創造し始めていたということなのだろう。

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これは素晴らしい名演だ。

鬼才とも称されたミケランジェリは完全主義者として知られ、それ故にレコーディングには厳しい姿勢で臨んだことから、録音の点数は限られている。

その分、遺された録音はいずれ劣らぬ名演と言えるが、そうした名演の中でも、おそらくは本盤こそは、その中でも最高のアルバムの一つと言えるのではないだろうか。

ミケランジェリは、超絶的な技巧はさることながら、その透明感溢れるピアノタッチには出色の美しさがある。

完全主義者故に、即物的な演奏をするとの印象を与えがちであるが、本盤の両曲の演奏を聴くと、むしろイタリア人ピアニストならではの歌心溢れる情感豊かな演奏をも行っていたことが理解できるところだ。

特に、ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章のこの世のものとは思えないような極上の美しさは、ミケランジェリだけに可能な至高の表現と言えるところであり、抗し難い魅力に満ち溢れている。

この第2楽章と両端の第1楽章及び終楽章との表現の対比は実に巧みであり、卓越した技量も相俟って、同曲の様々なピアニストによる名演の中でもトップの座を争う至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第4番は、若書きの第1番は別として、有名な第2番や第3番と比較すると、不当にも目立たない存在に甘んじているが、本演奏を聴くと、本演奏以外に名演に恵まれなかったことが原因ではないかとも思われるところだ。

それほどまでに、本演奏の優秀性はずば抜けたものがあると言えるだろう。

ラフマニノフの楽曲特有のロシアへの望郷の念に根差したメランコリックな抒情と、ラフマニノフとしては稀とも言える近現代音楽としてのある種の革新性が、同曲には併存していると考えられるが、ミケランジェリは、テンポの効果的な振幅などを駆使して、同曲の魅力を見事に描き出すのに成功している。

いずれにしても、本演奏こそは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第4番の真の魅力を十二分に表現し得た唯一の名演と高く評価したい。

指揮者のエットレ・グラチスは殆ど無名の存在であるが、本盤の両曲の演奏では、ミケランジェリの卓越したピアノ演奏を引き立てつつ、フィルハーモニア管弦楽団をしっかりと統率して、持ち得る実力以上のものを発揮した稀代の名演奏を展開していると評価したい。

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classicalmusic at 00:40コメント(0)トラックバック(0)ミケランジェリラヴェル 

2014年09月08日


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本盤には、フルトヴェングラーのレパートリーとしてはきわめて珍しい歌曲集が収められている。

マーラーの「さすらう若人の歌」と、マーラーと同年生まれで、歌曲に劇的で深い要素を導入したことで知られる後期ロマン派の作曲家、ヴォルフの歌曲集の組み合わせだ。

このように、フルトヴェングラーにとって馴染みが薄い楽曲においても、そのスケールの大きい芸術はいささかも揺るぐことはない。

「さすらう若人の歌」はスタジオ録音、ヴォルフの歌曲集はライヴ録音(拍手入り)であるが、荘重なインテンポでいささかも急ぐことなく音楽の歩みを進めていっており、楽曲の心眼を抉り出していくような彫りの深さは、深沈とした情感を湛えていて実に感動的だ。

マーラーの「さすらう若人の歌」については、ワルターやバーンスタインによる名演が、本録音の後に登場してくることになり、本演奏のような演奏様式は時代の波に取り残されていくことになったが、それでもこのような深みのある人間のドラマとも評すべき奥行きのある名演は、人間関係やその絆が希薄になりつつある現代においてこそ、なおその存在意義は高いものと言わざるを得ないだろう。

フィッシャー=ディースカウは、その後も同曲を何度も録音しているが、本盤が随一の名唱と言えるのではないだろうか。

というのも、後年の歌唱では巧さが全面に出てしまいがちであると言えるからである(それでも、十分に堪能させてくれるので、文句がつけようがないのだが)が、本演奏では、巧さよりも人間味や情感の豊かさが全面に出てきており、フルトヴェングラーの人間のドラマの構築に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

ヴォルフも素晴らしい名演だ。

ここでのフルトヴェングラーのピアノは、「さすらう若人の歌」における指揮ぶりと何ら変わりがないと言えるところであり、深沈とした奥行きのある演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある音楽の醸成に成功している。

シュヴァルツコップの歌唱も、フルトヴェングラーの凄みのあるピアノ演奏に一歩も引けを取っておらず、このような至高・至純の名演に大きく貢献していると言っても過言ではあるまい。

音質は、今般のSACD化によって、既発CDとは次元が異なる良好な音質に生まれ変わった。

特に、フィッシャー=ディースカウやシュヴァルツコップの息遣いまで聴こえるような声楽の鮮明さには大変驚かされた。

いずれにしても、このような歴史的な名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができることを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 22:53コメント(0)トラックバック(0)F=ディースカウシュヴァルツコップ 

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本盤には、アバドによるマーラーの交響曲全集が収められているが、その内容からすると、果たして交響曲全集と称することが可能か疑問である。

アバドは、若き頃からマーラーを得意としており、DVD作品を含め数多くの演奏・録音を行ってきている。

ところが、その録音の経緯をつぶさに見てみると、必ずしも全集の完成を目的として行われたものではないことがよく理解できるところだ。

それは、本全集に収められた各交響曲の録音時期を見てもよく理解できるところであり、第1番はシカゴ交響楽団との演奏(1981年)に次ぐ2度目のベルリン・フィルとの録音(1989年)、第2番はシカゴ交響楽団との演奏(1976年)に次ぐ2度目のウィーン・フィルとの録音(1992年)、第3番はウィーン・フィルとの最初の録音(1980年)、第4番はウィーン・フィルとの最初の録音(1977年)、第5番はシカゴ交響楽団との演奏(1980年)に次ぐ2度目のベルリン・フィルとの録音(1993年)、第6番はウィーン交響楽団(1967年)に次ぐ2度目のシカゴ交響楽団との録音(1979年)、第7番はシカゴ交響楽団との最初の録音(1984年)、第8番はベルリン・フィルとの最初の録音(1994年)、第9番はウィーン・フィルとの最初の録音(1987年)、第10番はウィーン・フィルとの最初の録音(1985年)となっている。

要は、録音年代やオーケストラに何らの統一性がなく、とりあえず交響曲全集に纏めてみたといった類ものとも言えるところだ。

特に、アバドの芸風は1990年のベルリン・フィルの芸術監督就任後、そして2000年の大病の克服後にそれぞれ大きく変化してきており、本盤の全集であれば、第8番については録音自体がなかったということで致し方なかったとしても、第1番、第2番、第5番についてはそれぞれ旧録音を収録すれば、より統一性のとれた全集に仕上がったのではないかとも考えられるところだ。

アバドが最も輝いていた時期はベルリン・フィルの芸術監督就任前であり、この時期のアバドは、楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演の数々を成し遂げていた。

本盤の全集で言えば、第1番、第3番、第4番、第6番、第7番については、そうしたアバドのかつての長所が大きく功を奏した素晴らしい名演に仕上がっている。

もっとも、第9番及び第10番については、マーラーの交響曲の中でも最も奥の深い内容を有した楽曲であり、アバドのこのようなアプローチでは、いささか楽曲の心眼への踏み込み不足の感は否めないところだ。

また、アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになり、各楽器セクション間のバランスに執拗に拘るアバドと、カラヤン時代の名うての奏者がいまだ在籍していたベルリン・フィルとの間に少なからず軋轢も生じていたように思われる。

そのマイナス要素が顕著にあらわれた演奏が本盤に収められた第5番であり、これはもしかしたらアバドによるマーラーの交響曲のあらゆる演奏・録音の中でも最も出来の悪いものと言えるのかもしれない。

第2番は、ウィーン・フィルとの演奏であることもあって、本演奏の後に録音されたルツェルン祝祭管弦楽団との演奏(2003年)にはさすがにかなわないが、本演奏に先立つシカゴ交響楽団との録音(1976年)と比較すると、アバドの円熟が感じされる素晴らしい名演に仕上がっている。

第8番は、合唱付きの壮麗な迫力が持ち味であり、オペラを得意とするアバドにとってはむしろ得意とする楽曲である。

それだけに、本演奏においては、この時期のアバドとしては劇的な迫力を有するとともに、雄大なスケールを誇る名演に仕上がっていると言えるのではないかと考えられる。

いずれにしても、このように録音時期が異なることに起因するアバドの芸風の変化、また、それによる演奏の出来不出来など、全集としてはかなりの問題を有しているとも言えるが、大半の交響曲については名演と評価しても過言ではあるまい。

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classicalmusic at 21:07コメント(0)トラックバック(0)マーラーアバド 

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我が国のピアニストの大御所、横山幸雄のデビュー20周年を記念するアルバムの登場だ。

曲目は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番とラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の人気曲どうしの組み合わせ。

いずれも、超絶的な技巧を要するとともに、ロシア風のメランコリックな抒情の的確な描出が必要不可欠な楽曲であるだけに、ピアニストの実力(それは技量においても芸術性においてもということになるが)が試されると言えるだろう。

本盤に収められた両曲の演奏は、横山幸雄にとって、グリーグのピアノ協奏曲以来の久しぶりの協奏曲の録音ということになるが、そうした長年のブランクをいささかも感じさせない圧倒的な名演に仕上がっていると高く評価したい。

両曲ともに、横山幸雄の超絶的な技量は冴えわたっていると言えるところであり、このような凄い演奏を聴いていると、あらためて横山幸雄こそは我が国のピアニストの中でもトップクラスの実力を誇っているということをあらためて窺い知ることが可能と言える。

ライヴ録音というのが信じられないほどミスタッチは殆どないのが驚異的であり、持ち前のヴィルトゥオジティを如何なく発揮していると言えるだろう。

もっとも、それでいて技量一辺倒にはいささかも陥っておらず、両曲の随所に配されたロシア風のメランコリックな抒情に満ち溢れた名旋律の数々を、心を込めて情感豊かに歌い抜いている。

もっとも、両曲の場合、演奏によっては陳腐なセンチメンタリズムに堕するものも散見されるところであるが、横山幸雄の場合は、そうした懸念は心配ご無用。

いかに抒情豊かな箇所に差し掛かっても、格調が高さを失うことがなく、高踏的な美しさを保っているのが素晴らしい。

また、持ち前の超絶的な技量にもよるところが大きいとも言えるが、強靭な打鍵による重量感溢れるピアノタッチから、繊細で消え入るようなピアノタッチに至るまでの表現力の幅広さは桁外れの凄さであり、これはまさに両曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。

いずれにしても、本盤の両曲の演奏は、横山幸雄のデビュー20周年を飾るに相応しい圧倒的な名演と高く評価したい。

こうした素晴らしい横山幸雄のピアノ演奏を下支えしているのが、小泉和裕指揮の東京都交響楽団である。

このコンビは、両曲の随所に盛り込まれたロシア風のメランコリックな抒情に彩られた旋律の数々を情感豊かに描出しており、両曲の演奏として最高のパフォーマンスを発揮していると高く評価したい。

音質も素晴らしい。

音質の鮮明さ、音圧の凄さ、音場の幅広さなど、いずれをとっても一級品の仕上がりであり、何よりも横山幸雄のピアノタッチが鮮明に再現されるのは見事。

あらためて、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、横山幸雄、そして小泉和裕&東京都交響楽団による圧倒的な名演をSACDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 00:41コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーラフマニノフ 

2014年09月07日


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4つの最後の歌は、R・シュトラウスの最晩年の傑作であるが、本盤に収められた演奏こそは、ヤノヴィッツとカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏(1969年)と並んで、同曲の演奏史上最高の名演と言っても過言ではあるまい。

特に、歌手の個性という意味においては、本盤の演奏の方をより上位に置く聴き手も多いと言えるところだ。

本演奏を名演たらしめているのは、何と言ってもシュヴァルツコップによる圧倒的な名唱にあると言えるのではないだろうか。

確かに、あまりにも上手過ぎるために、とある影響力の大きい某音楽評論家が評しておられるように、音楽そのものの美しさよりも歌手の個性が全面に出てくるきらいがないわけではないが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

各4つの歌曲に込められた、人生の諦観を感じさせるような奥行きのある音楽を、シュヴァルツコップほど巧みに表現し得た歌手はこれまで存在したと言えるだろうか。

シュヴァルツコップは、歌曲やオペラなどにおいて数々の名演を成し遂げた不世出の大歌手と言えるが、そうしたシュヴァルツコップが遺した数々の名演の中でも、本演奏は、その深沈たる深みにおいて最上位の部類に入ると言っても過言ではあるまい。

その他の歌曲についても、シュヴァルツコップの巧さが際立った素晴らしい名演と高く評価したい。

シュヴァルツコップの素晴らしい歌唱を下支えしているのが、セル&ベルリン放送交響楽団、そしてロンドン交響楽団による至高の名演奏である。

セルと言えば、クリーヴランド管弦楽団との鉄壁のアンサンブルを駆使した精緻な演奏の数々が念頭に浮かぶが、1960年代も半ばが過ぎ、そして、ベルリン放送交響楽団やロンドン交響楽団などと成し遂げた演奏においては、むしろ各奏者に自由を与え、より柔軟性のある情感豊かな演奏を行うことが多かったと言えるところだ。

本盤の演奏もその最たるものと言えるところであり、シュヴァルツコップの名唱をしっかりと下支えしつつ、情感豊かな味わい深い名演奏を展開している点を高く評価したい。

音質は、従来CD盤ではやや鮮明さに欠ける音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

シュヴァルツコップの息遣いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、シュヴァルツコップ、そしてセル&ベルリン放送交響楽団、ロンドン交響楽団による至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 22:35コメント(0)トラックバック(0)シュヴァルツコップセル 

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桁外れのレパートリーの広さと膨大な数のレコーディングを誇るマゼールであるが、本盤に収められたマーラーの交響曲全集は、マゼールによる唯一のものである。

マゼールほどその芸風を変化させた指揮者は、ワルターなど殆ど少ないと言えるが、本盤の録音当時のマゼールは、1960年代の前衛的で先鋭な演奏を繰り広げていたマゼールが1970年代から1980年代初頭のいわば中だるみの時期を経て、ベルリン・フィルの次期芸術監督を狙って再び野心的な演奏を繰り広げ始めた時期に相当する。

この時期のマゼールの演奏のすべてが素晴らしいとは言い難いが、それでもベルリン・フィルと録音したブルックナーの交響曲第7番や第8番など、今なおその価値をいささかも失うことのない素晴らしい名演の数々を生み出していたのも事実である。

本全集のメリットは、何と言っても全曲ともにオーケストラにウィーン・フィルを起用したことであろう。

個別の交響曲をウィーン・フィルと録音した例はそれまでにも何度もあったが、全曲に渡ってウィーン・フィルを起用した全集は本盤が初めてであり、その後も現在に至るまで皆無であると言える(DVD作品としてバーンスタインの全集があるが、第2番はロンドン響、大地の歌はイスラエル・フィルであった)。

いずれにしても、ウィーン・フィルならではの極上の美音が演奏全体を支配しており、これを聴くだけでも本全集の価値は高いと言えるのではないかと考えられる。

そして、マゼールのアプローチであるが、テンポが実にゆったりしているのに大変驚かされる。

バーンスタインやテンシュテットのようにドラマティックな劇場型演奏ではなく、むしろ曲想を丁寧に掘り下げて描き出していくという趣きがある。

しかしながら、随所に、いかにもマゼールならではの仕掛けが施されており、前述の中だるみの時期の演奏に時として聴かれたある種のあざとさが感じられないわけではないところだ。

もっとも、ウィーン・フィルの懐の深い美演が、そのようなあざとさを感じさせる箇所を解きほぐし、演奏全体として格調の高さを損なっていないというのが素晴らしい。

その意味では、ウィーン・フィルに始まって、ウィーン・フィルで終わるという演奏と言えるのかもしれない。

したがって、本全集をファーストチョイスとしてお薦めするというのはいささか気が引けるが、ある程度マーラーの交響曲を聴き込んだ熟達した聴き手には、マーラーの交響曲の違った魅力を発見することが可能な演奏として、一聴の価値のある全集と言えるのではないかと考える。

また、本全集に交響曲「大地の歌」が含まれておらず、マゼールは本全集に併せて録音を行わなかったようである。

マゼールは、その後、バイエルン放送響と同曲を録音(1999〜2000年)しているが、演奏はイマイチであることから、せめて本全集に併せてウィーン・フィルと録音しておけば、もう少しいい演奏を行うことが可能であったのではないかとも考えられるところであり、大変残念な気がするところだ。

録音は、1980年代のスタジオ録音であり、従来盤でも十分に通用する素晴らしい音質である。

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classicalmusic at 21:04コメント(0)トラックバック(0)マーラーマゼール 

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これは素晴らしい超名演だ。

アバドは、今では特定のオーケストラに縛られることなく、世界最高の指揮者として、特に若手の音楽家の育成を中心に活動を続けているが、ベルリン・フィルの芸術監督(1990〜2002年)を務めていた時代、とりわけ癌により指揮活動の中止を余儀なくされた2000年頃までは、一部の例外はあるものの、鳴かず飛ばずの低迷期にあったと言えるだろう。

前任のカラヤンの存在があまりにも大きかったということ、そして、カラヤン時代の旗本を務めてきたスター・プレイヤーの代替わりの時期に重なったことなど、不利な状況に置かれたということもあるが、アバド自身も、レパートリーを広げるという高邁な理想を掲げたものの、王道とも言うべき独墺系の音楽において名演を成し遂げることができず、ただでさえ厳しい監視の目に晒されているベルリン・フィルの芸術監督としては、とても大方のクラシック音楽ファンを唸らせるような成果を上げることが出来なかったと言えるところだ(癌を克服した後のベルリン・フィルの芸術監督の離任間近の頃から、演奏に凄味と彫りの深さが加わったことは何とも皮肉なことだ)。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督就任前の、特に1970年代から1980年代前半にかけてのロンドン交響楽団を主として指揮していた時代のアバドは、実に素晴らしかった。

この時代の演奏のいずれも、殆ど例外なく、切れば血が噴き出してくるような凄まじいまでの圧倒的な生命力が随所のおいて漲っており、これにイタリア人ならではの歌謡性豊かな情感が込められた、いい意味での剛柔のバランスのとれた圧倒的な名演であった。

本盤に収められたストラヴィンスキーの3つのバレエ音楽(春の祭典、火の鳥、カルタ遊び)も、そうしたアバドの全盛時代の超名演であり、前述のような剛柔のバランスに加えて、独特のシャープさを兼ね備えた稀有の名演に仕上がっていると高く評価したい。

アバドは、ベルリン・フィルとはこの3曲を録音することは現在に至るまで行っていないが、それは本盤の演奏の出来に満足していたからに他ならないだろう。

音質は、1970年代のアナログ録音であるものの、従来CD盤でも比較的良好な音質であり、数年前にはSHM−CD盤も発売されるなど、比較的満足できるものであった。

ところが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、全盛期のアバド&ロンドン交響楽団による圧倒的な名演を、現在望みうる最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

そして、可能であれば、このコンビによるストラヴィンスキーによる他のバレエ音楽、例えば、ペトルーシュカやプルチネッラなどについてもシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を行っていただくことを大いに期待したい。

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classicalmusic at 00:34コメント(0)トラックバック(0)ストラヴィンスキーアバド 

2014年09月06日


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メロス弦楽四重奏団は、1965年にシュトゥットガルト室内管弦楽団の首席奏者などによって結成されたドイツの団体である。

中心的なメンバーであった第1ヴァイオリンのヴィルヘルム・メルヒャーの死によって、2005年に惜しくも解散したが、ドイツの団体らしく重心の低い重厚な音色には定評があり、シューベルトの楽曲についても、弦楽四重奏曲も全集を完成させるなど得意のレパートリーとしていた。

もっとも、アルバン・ベルク弦楽四重奏団とは異なり、現代音楽は一切演奏しなかったことから、いかなる流行にも右顧左眄されることなく、ドイツ音楽の伝統に根差したオーソドックスな演奏を貫き通したという意味において、質実剛健な職人肌の名弦楽四重奏団であったとも言えるだろう。

本盤の演奏も、メロス弦楽四重奏団の面目躍如たる重厚なドイツ正統派の名演。

シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」を「天国的な長さ」と称して高く評価したのはシューマンであるが、本盤の演奏は、同曲の様々な団体による演奏の中でも、最も「天国的な長さ」を感じさせる名演奏と言えるだろう。

シューベルトが指定した反復のすべてを実行するなど、かのアルバン・ベルク弦楽四重奏団が47分程度をかけて同曲を演奏しているのに対して、57分程度もかけて演奏しており、演奏時間からしても天国的な長さを大いに感じさせてくれると言えるところだ。

前述のように、現代音楽は一切演奏しない団体であるだけあって、演奏は、前期ロマン派の作曲家であるシューベルトによる楽曲の範疇を逸脱しないオーソドックスなもの。

曲想を精緻かつ重厚に描き出していく演奏は、清澄な美しさに満ち溢れた同曲の魅力を最大限に引き出すのに大きく貢献していると言えるだろう。

同曲の魅力を安定した気持ちで味わうことができるという意味においては、最もお薦めできる名演と言えるところであり、アルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏の持つある種の現代的な革新性に抵抗感を覚えるクラシック音楽ファンには、最も受け容れられる演奏と思われるところだ。

ロストロポーヴィチのチェロ演奏は、後年のエマーソン弦楽四重奏団との演奏と同様に、いささか雄弁に過ぎるというきらいもないわけではないが、心を込め抜いた情感豊かな演奏には抗し難い魅力が満ち溢れていると言えるところであり、これだけ堪能させてくれれば文句は言えないのではないだろうか。

エマーソン弦楽四重奏団との演奏との優劣については高い次元での比較の問題であり、クラシック音楽ファンの好みの問題に帰するものと考えられる。

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classicalmusic at 22:39コメント(0)トラックバック(0)シューベルトロストロポーヴィチ 

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1955年3月3日 コングレス・ハレ、ライプツィヒでのライヴ(モノラル)録音。

エリー・ナイ(1882-1968)は20世紀前半に活躍したドイツの名女流奏者。

ドイツでかつて“ピアノの女神”と称えられたエリー・ナイは、わが国では不当に低く評価されていないだろうか。

彼女のベートーヴェン演奏は、バックハウスやケンプとは比較にならぬほどの“尊敬”と“敬愛”を集めていた。

E・フィッシャーと並んで、ドイツ・ピアニズムの精神性を、“信仰”の次元にまで高めたのが、ナイの演奏であった。

ナイは戦前から活躍しながら、わが国ではあまり知られていないが、ベートーヴェンとともにブラームスも得意のレパートリーとしていただけに、力強い構成力と優美な情感が結びつき、聴き応えがある。

ひとつひとつの音の表情が細かいため、フレーズに豊かな感情が息づき、それが強い推進力と相俟って充実した演奏を生み出している。

テクニックは万全ではなく、むしろ、老境にあるナイのピアニズムは拙々としたものだ。

しかし、この同曲の「精神美」の本質を、最もドイツ的な美意識とドイツ的な語法を用いて演奏したナイのこの録音は、永遠に伝えられるべきものである。

コンヴィチュニー指揮のゲヴァントハウス管弦楽団も同じ傾向の演奏で、ドイツ人の典型的なブラームスが聴ける。

コンヴィチュニーの重厚な伴奏はオーケストラ音楽としての、この名曲の真価も存分に堪能させ、それに融合したナイの深々とした叙情とバックハウス、ケンプに伍して一歩も引かないスケールを誇るこの名演は、ドイツ音楽、ドイツ型演奏の愛好家には堪らない逸品と言えるだろう。

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classicalmusic at 20:49コメント(0)トラックバック(0)ブラームスコンヴィチュニー 

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インバルのマーラーはやはり素晴らしい。

特にこの第5番はインバル&フランクフルト放送響のマーラー演奏における最高傑作と言えるところであり、聴かず嫌いの人にも聴いてみてもらいたい。

都響との演奏も評判が良く、今や国内でマーラーを聴くなら都響の演奏で、と言われるまでのオケの健闘ぶりは素晴らしいのであるが、筆者には都響との熟した演奏よりもこのフランクフルト放響との演奏が与えてくれた衝撃の大きさの方がより強い印象をいまだに残している。

インバルのマーラーの交響曲に対するアプローチは、ありあまるパッションを出来るだけ抑制して、可能な限り客観的な表現を心がけようというものである。

ただ、それだけでは、四角四面の面白みのない演奏になりがちであるが、インバルの場合は、抑制しきれなかったパッションが随所に散見されるところであり、そうしたはみ出てしまったパッションに聴き手が大いなる感銘を受けるのだ。

本盤の第5番の場合、随所に、抑制しきれなかった溢れんばかりのパッションが散見されるところであり、もちろん、バーンスタインやテンシュテットなどに比較すると抑制的ではあるが、インバルとしては相当に劇的な演奏に仕上がっている。

もちろん、インバルならではの厳しい造型、精緻さ、そして各楽器群の整理し尽くされた響きも健在であり、これらを総括すれば、いい意味でのバランスにとれた名演と言うことができるだろう。

インバルのマーラーで感心するのは、楽器のピッチの正確さであり、楽器単位で見事にまとまっている。

この方法なら、どれほど強奏しても音響が濁らずに楽器のパートが見事に聴き取れる。

インバルの方法(微細・精密・現象)だと、共感の度合いが冷静に音化されやすい。

響きが清澄で、一見即物的に聞こえるが、その底辺には(同じユダヤ人ゆえなのか)マーラーへの強い共感を感じる。

正統的で劇的なアプローチの中に、諧謔的で偏執的な卑俗さが混じっている。

その相反する要素をあくまで冷静に描きつつも、作品に対する思い入れを忘れない、まさに理想的な演奏となっている。

当時のフランクフルト放送交響楽団もインバルの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを示している。

そして何よりも素晴らしいのは、ワンポイント録音による極上の高音質。

これほどナチュラルな音場で、マーラーの交響曲を味わえるというのは、本盤以外にはなかなか存在しないのではないか。

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classicalmusic at 00:59コメント(0)トラックバック(0)マーラーインバル 

2014年09月05日


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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラ―に対する評価については百家争鳴の感がある。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲第2番の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出していると言える。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲第2番の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

ソプラノのヘレン・ドナートやアルトのドリス・ゾッフェル、そしてハンブルク北ドイツ放送合唱団も最高のパフォーマンスを発揮していると高く評価したい。

音質は、初出時から高音質録音で知られたものであり、ゴールドCD仕様のボックスのみならず、従来CD盤でも十分に満足できる音質である。

いずれにしても、インバルによる普遍的価値を有する素晴らしい名演を高音質録音で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 23:02コメント(0)トラックバック(0)マーラーインバル 

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マーラーの青雲の志を描いた交響曲第1番は、マーラー指揮者と称される指揮者でも敬遠する者が存在する。

マーラーの直弟子であるクレンペラーがそうであったし、必ずしもマーラー指揮者とは言えないかもしれないが、朝比奈は、一度もマーラーの「第1」を演奏しなかった。

他方、小澤は、何と3度に渡って同曲を録音しているが、その中で名演と評価できるのは最初の1977年盤のみ。

それ以降の録音は、どこか構えたようなわざとらしさが目立つ。

要は、この曲へのアプローチはなかなか難しいものと言えるのかもしれない。

そのような中で、マーラーの直弟子であるワルターや、マーラーの化身とも言うべきバーンスタインの名演が存在するのだが、この2大巨頭に迫る名演というのは、なかなか成し得ることが困難と言える。

それでも、このインバル盤は、前述の小澤盤と同様に、相当に健闘していると言えるのではないだろうか。

インバルのマーラーの交響曲に対するアプローチは、有り余るパッションを出来るだけ抑制して、全体を純音楽的に、客観的に表現しようというものであるが、そうした大仰さのない、わざとらしさのないアプローチが、同曲の性格と見事にマッチングしていると思うからである。

インバルの演奏は解説書にも書かれてあるように、見通しの良いくっきりとした演奏である。

それにしても、フランクフルト放送交響楽団の何と言う巧さと鳴りっぷりの良さ。

そして、同オーケストラに、これだけの見事な演奏をさせたインバルの統率力にも高い評価を与えるべきであろう。

高音質録音によって、そうした演奏の特色が更に鮮明に表現されており、本盤の価値を高めることに大いに貢献している点も忘れてはなるまい。

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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラ―に対する評価については百家争鳴の感がある。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲第6番の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体は、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲第6番の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

音質は、初出時から高音質録音で知られたものであり、ゴールドCD仕様のボックスのみならず、従来CD盤でも十分に満足できる音質である。

いずれにしても、インバルによる普遍的価値を有する素晴らしい名演を高音質録音で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2014年09月04日


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セル&クリーヴランド管弦楽団によるドヴォルザークの楽曲の演奏はいずれも素晴らしい。

全盛時代のセル&クリーヴランド管弦楽団は、各楽器セクションが一つの楽器のように聴こえるような一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを誇ったことから、「セルの楽器」とも称された完全無欠の演奏を展開していたところであるが、1960年代半ば頃までの演奏は、そうした完全無欠の演奏が、ある種の技量に偏ったメカニックな冷たさを感じさせたのも否めない事実であるところだ。

そのようなセルも1960年代後半の最晩年に差し掛かると、クリーヴランド管弦楽団の各奏者にも一定の自由を与え、芸風により柔軟性が垣間見られるようになったところであり、円熟の味わい深い名演奏を成し遂げるようになった。

もっとも、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽については、何故か1960年代半ば以前の演奏においても、そうした晩年の演奏にも比肩し得るような情感豊かな味わい深い演奏を行っていたところである。

これは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽には、ハンガリーの隣国の音楽ということもあり、セル自身が深い愛着と理解を有していた証左と言えるのかもしれない。

本盤に収められたドヴォルザークの交響曲第8番や第9番の各演奏においてもそれは健在であり、表面上は鉄壁のアンサンブルを駆使した完全無欠の演奏でありつつも、各フレーズの端々には、前述のようなチェコ音楽への深い愛着と理解に根差した豊かな情感が込められていると言えるところであり、いずれも味わい深い素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

もっとも、交響曲第8番については、1970年にEMIにスタジオ録音した同曲演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演が存在しており、最晩年の演奏ならではの味わい深さと言った点において本演奏はいささか分が悪いと言えるが、それでも本演奏を名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

音質は1958年(第8番)、1959年(第9番)のステレオ初期のスタジオ録音であり、従来盤では今一つの音質であったが、数年前に発売されたBlu-spec-CD盤は、従来盤を遥かに凌駕する鮮明な音質に生まれ変わった。

セル&クリーヴランド管弦楽団による完全無欠な名演を高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 22:52コメント(0)トラックバック(0)ドヴォルザークセル 

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グールドによるバッハのピアノ曲演奏の一連の録音は、いずれも歴史的な名演と言えるところであるが、本盤に収められた「イギリス組曲」も素晴らしい名演だ。

1971年から1976年の6年もの歳月をかけて録音を行っているが、グールドは、実演をやめ、スタジオ録音のみに活路を見出していたところであり、それだけにグールドの「イギリス組曲」への並々ならない拘りが感じられる。

それにしても、本演奏は超個性的だ。

「イギリス組曲」は、全体としては比較的長い楽曲であるだけに、聴き手にいかに飽きさせずに聴かせるのかが必要となってくるが、グールドの演奏の場合は、次の楽想においてどのような解釈を施すのか、聴いていて常にワクワクさせてくれるという趣きがあり、長大さをいささかも聴き手に感じさせないという、いい意味での面白さ、そして斬新さが存在している。

もっとも、演奏の態様は個性的でありつつも、あくまでもバッハがスコアに記した音符を丁寧に紐解き、心を込めて弾くという基本的なスタイルがベースになっており、そのベースの上に、いわゆる「グールド節」とも称されるグールドならではの超個性的な解釈が施されていると言えるところだ。

そしてその心の込め方が尋常ならざる域に達していることもあり、随所にグールドの歌声が聴かれるのは、「ゴルトベルク変奏曲」をはじめとしたグールドによるバッハのピアノ曲演奏の特色とも言えるだろう。

こうしたスタイルの演奏は、聴きようによっては、聴き手にあざとさを感じさせる危険性もないわけではないが、グールドのバッハのピアノ曲の演奏の場合はそのようなことはなく、超個性的でありつつも豊かな芸術性をいささかも失っていないのが素晴らしい。

これは、グールドが前述のように緻密なスコア・リーディングに基づいてバッハのピアノ曲の本質をしっかりと鷲掴みにするとともに、深い愛着を有しているからに他ならないのではないだろうか。

グールドによるバッハのピアノ曲の演奏は、オーソドックスな演奏とは到底言い難い超個性的な演奏と言えるところであるが、多くのクラシック音楽ファンが、バッハのピアノ曲の演奏として第一に掲げるのがグールドの演奏とされているのが凄いと言えるところであり、様々なピアニストによるバッハのピアノ曲の演奏の中でも圧倒的な存在感を有していると言えるだろう。

諸説はあると思うが、グールドの演奏によってバッハのピアノ曲の新たな魅力がより一層引き出されることになったということは言えるのではないだろうか。

いずれにしても、本盤の「イギリス組曲」の演奏は、グールドの類稀なる個性と芸術性が十二分に発揮された素晴らしい名演と高く評価したい。

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classicalmusic at 21:01コメント(0)トラックバック(0)バッハグールド 

2014年09月03日


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若くして不治の病でこの世を去らなければならなかった悲劇のピアニストであるディヌ・リパッティであるが、その最大の遺産とも言うべき至高の名演こそは、本盤に収められたショパンのワルツ集であると考えられるところだ。

モノラル録音という音質面でのハンディがあることから、近年ではルイサダなどによる名演の方にどうしても惹かれてしまうところであるが、それでもたまに本盤の演奏を耳にすると、途轍もない感動を覚えるところだ。

それは、リパッティの演奏に、ショパンのピアノ曲演奏に必要不可欠の豊かな詩情や独特の洒落た味わいが満ち溢れているからであると言えるところであるが、それだけでなく、楽曲の核心に鋭く切り込んでいくような彫りの深さ、そして、何よりも忍び寄る死に必死で贖おうとする緊迫感や気迫が滲み出ているからである。

いや、もしかしたら、若くして死地に赴かざるを得なかった薄幸のピアニストであるリパッティの悲劇が我々聴き手の念頭にあるからこそ、余計にリパッティによる本演奏を聴くとそのように感じさせられるのかもしれない。

いずれにしても、リパッティによるかかる命がけの渾身の名演は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な底知れぬ迫力を有していると言えるところだ。

ワルツ集を番号順に並べて演奏するのではなく、独自の視点に立ってその順番を入れ変えて演奏している点にも、リパッティのショパンのワルツ集に対する深い拘りと愛着を感じることが可能だ。

いずれにしても、リパッティによる本ワルツ集の演奏は、あまた存在している様々なピアニストによるショパンのワルツ集の演奏の中でも、別格の深みを湛えた至高の超名演と高く評価したい。

もっとも、リパッティによるショパンのワルツ集の演奏は、演奏自体は圧倒的に素晴らしいと言えるが、モノラル録音というハンディもあって、その音質は、前述のように鮮明さにいささか欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった。

リパッティのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、リパッティによる圧倒的な超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 22:50コメント(0)トラックバック(0)ショパンリパッティ 

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グールドの類稀なる才能を感じさせる圧倒的な名演だ。

グールドと言えばその代名詞はバッハのピアノ曲、そしてバッハのピアノ曲と言えば、グールドの演奏がいの一番に念頭に浮かぶクラシック音楽ファンが多いと思われるが、今般、リマスタリングされたCDを聴くと、改めてグールドとバッハのピアノ曲との強固な結びつきを感じることが可能だ。

それにしても、本盤に収められたパルティータの演奏は超個性的だ。

パルティータは、長大な楽曲であるだけに、聴き手にいかに飽きさせずに聴かせるのかが必要となってくるが、グールドの演奏の場合は、次の楽想においてどのような解釈を施すのか、聴いていて常にワクワクさせてくれるという趣きがあり、長大さをいささかも聴き手に感じさせないという、いい意味での面白さ、そして斬新さが存在している。

もっとも、演奏の態様は個性的でありつつも、あくまでもバッハがスコアに記した音符を丁寧に紐解き、心を込めて弾くという基本的なスタイルがベースになっており、そのベースの上に、いわゆる「グールド節」とも称されるグールドならではの超個性的な解釈が施されていると言えるところだ。

そしてその心の込め方が尋常ならざる域に達していることもあり、随所にグールドの歌声が聴かれるのは、ゴルトベルク変奏曲をはじめとしたグールドによるバッハのピアノ曲演奏の特色とも言えるだろう。

こうしたスタイルの演奏は、聴きようによっては、聴き手にあざとさを感じさせる危険性もないわけではないが、グールドのバッハのピアノ曲の演奏の場合はそのようなことはなく、超個性的でありつつも豊かな芸術性をいささかも失っていないのが素晴らしい。

これは、グールドが前述のように緻密なスコア・リーディングに基づいてバッハのピアノ曲の本質をしっかりと鷲掴みにするとともに、深い愛着を有しているからに他ならないのではないかと考えている。

グールドによるバッハのピアノ曲の演奏は、オーソドックスな演奏とは到底言い難い超個性的な演奏と言えるところであるが、前述のように多くのクラシック音楽ファンが、バッハのピアノ曲の演奏として第一に掲げるのがグールドの演奏とされているのが凄いと言えるところであり、様々なピアニストによるバッハのピアノ曲の演奏の中でも圧倒的な存在感を有していると言えるだろう。

諸説はあると思うが、グールドの演奏によってバッハのピアノ曲の新たな魅力がより一層引き出されることになったということは言えるのではないだろうか。

いずれにしても、本盤のパルティータの演奏は、グールドの類稀なる個性と芸術性が十二分に発揮された素晴らしい名演と高く評価したい。

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カラヤンは、R・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」を3度スタジオ録音している。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任して間もない頃の1959年盤(DG)、そして本演奏(1974年(EMI))、更に最晩年の1985年盤(DG)の3種類あり、いずれもオーケストラはベルリン・フィルとなっている。

いずれも素晴らしい名演と高く評価するが、この中で最もカラヤンの個性が発揮された演奏は、紛れもなく本盤に収められた演奏であると言えるのではないだろうか。

というのも、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金コンビの全盛時代は1960年代及び1970年代であり、本演奏はまさしくその真っ只中に録音されたからである。

本演奏においても、そうした全盛期のこの黄金コンビの演奏の凄さを味わうことが可能だ。

ベルリン・フィルは、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、金管楽器の朗々たる響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器の響き、分厚い弦楽合奏、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニの迫力などが一体となり、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演奏を繰り広げている。

カラヤンは、流麗なレガートを施すことによって、楽想を徹底的に美しく磨きあげており、シュヴァルベのヴァイオリンソロの美しさも、抗し難い魅力に満ち溢れている。

おそらくは演奏だけをとれば、カラヤン&ベルリン・フィルが構築し得た最高の音のドラマと言えるだろう。

ジャケットのデザインも含め完全無欠とも言うべき本演奏は、同曲演奏史上究極の名演との評価もあながち言い過ぎではないと考えられる。

しかしながら、好き嫌いでいうと、筆者としては、カラヤンの統率力に綻びが見られるとは言え、後年の1985年の録音の方が好みである。

というのも、1985年盤には、カラヤンの自省の念も込められた枯淡の境地が感じられるからであり、演奏の味わい深さという意味では、1985年盤の方をより上位に掲げたいと考える。

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classicalmusic at 00:24コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスカラヤン 

2014年09月02日


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本盤にはモーツァルトのピアノ協奏曲第23番及び第26番「戴冠式」が収められているが、いずれも素晴らしい名演だ。

それどころか、様々なピアニストと指揮者による両曲の演奏の中でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

グルダとアーノンクールという、いずれも個性的な演奏を繰り広げる鬼才ピアニストと鬼才指揮者の組み合わせであり、聴き手を驚かすような特異な演奏を展開するのと思ったが、意外にも基本的にはいささかも奇を衒うことがない真摯な演奏を繰り広げている。

鬼才同士が本気を出すとどのように凄い演奏をするのかの最たる例とも言えるところであり、自己の録音には厳しい評価をしてきたグルダでさえもがこの演奏に満足し、このコンビによる演奏のシリーズ化を切望するほどの名演奏に仕上がったと言えるほどだ。

グルダは、モーツァルトのピアノ協奏曲では本演奏と、アバド&ウィーン・フィルと組んだ第20番及び第21番(DG)にも満足していたとのことである(当該DG盤については既にレビューに記したのでそちらを参照されたい)。

グルダのピアノは、ゆったりとしたテンポによって演奏を進めていくが、その表現はむしろ即興的とも言うべき自由奔放なもので躍動感に満ち溢れた演奏とも言える。

それでいて、両曲の緩徐楽章における繊細な抒情の歌い方は静謐ささえ感じさせるほどの美しさを誇っており、グルダの桁外れの表現力の幅の広さを感じることが可能だ。

両曲の終楽章においては、強靭な打鍵から繊細なピアニッシモに至るまで彫琢の限りを尽くした明晰さが際立っているが、愉悦性や情感の豊かさ、そして流麗な美しさをいささかも失うことがないのが素晴らしい。

グルダは、このように真摯な姿勢で演奏に臨むとともに、アーノンクールともども心から楽しんで演奏しているような趣きもあり、あまりの感情移入のためにグルダが歌っている声さえ聴こえるほどだ。

アーノンクールの指揮も、全体としては前述のように奇を衒わない真摯な指揮ぶりと言えるが、各楽器の響かせ方などにおいてはこの指揮者ならではの個性的な表現が聴かれるなど、必ずしも一筋縄ではいかない側面もある。

コンセルトヘボウ・アムステルダムのいぶし銀の音色も、本名演に適度の潤いと温もりを与えている点も忘れてはならない。

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classicalmusic at 22:45コメント(0)トラックバック(0)グルダアーノンクール 

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バーンスタインが史上最大のマーラー指揮者であることは論を待たないところだ。

バーンスタインは、DVD作品を含めて3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者でもあるが(最後の全集は残念ながら一部未完成)、そのいずれもが数多くのマーラーの交響曲全集が存在している現在においてもなお、その輝きを失っていないと言えるだろう。

本盤に収められたマーラーの交響曲全集は、バーンスタインによる最初のものに相当する。

録音は1960〜1975年という15年の歳月にわたってはいるが、その殆どは1960年代に行われており、バーンスタインがいまだ40歳代の壮年期の演奏ということが可能である。

オーケストラは、当時音楽監督を務めていたニューヨーク・フィルを軸として、第8番はロンドン交響楽団、「大地の歌」についてはイスラエル・フィルが起用されている。

このようなオーケストラの起用の仕方は、1970年代によるDVDによる2度目の全集がウィーン・フィルの起用を軸としつつも第2番においてロンドン交響楽団、「大地の歌」においてイスラエル・フィルを起用したこと、3度目の全集においては、ウィーン・フィル、コンセルトへボウ・アムステルダム、そしてニューヨーク・フィルの3つのオーケストラを起用したこととも共通している。

バーンスタインのマーラー演奏は極めてドラマティックなものだ。

変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、その劇的な表現は圧倒的な迫力を誇っており、聴いていて手に汗を握るような興奮を味わわせてくれると言えるだろう。

こうしたバーンスタインのマーラー演奏のスタイルは最晩年になってもいささかも変わることがなかったが、晩年の3度目の全集では、より一層表現に濃厚さとスケールの大きさ、そして楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さが加わり、他の指揮者による演奏を寄せ付けないような至高の高みに達した超名演に仕上がっていた。

本盤に収められた演奏は、40代の壮年期のバーンスタインによるものであるだけに、3度目の全集のような至高の高みには達してはいないが、前述のようなドラマティックな表現は健在であり、とりわけトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力においては、2度目や3度目の全集をも凌駕しているとさえ言えるだろう。

ストレートで若干荒削りな演奏と言えなくもないが、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの洗練された美を誇る演奏などに比べれば、よほど本演奏の方がマーラーの本質を捉えていると言えるとともに、我々聴き手に深い感動を与えてくれると言えるだろう。

いずれにしても、本全集は、稀代のマーラー指揮者であったバーンスタインによる最初の全集として、今後ともその存在価値をいささかも失うことがない名全集と高く評価したい。

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classicalmusic at 21:05コメント(0)マーラーバーンスタイン 

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本盤には、カラヤンの最後の来日公演(1988年)のうち、最終日(5月5日)に演奏されたモーツァルトの交響曲第39番及びブラームスの交響曲第1番が収められている。

当時のカラヤンは、ベルリン・フィルとの関係に修復不可能な溝が生じていたこと、そして、死を1年後に控えたこともあって健康状態も芳しいとは言えなかったことなどから、心身ともに万全とは言い難い状況にあった。

1986年に予定された来日公演を、自らの病気のためにキャンセルしたカラヤンであったが、我が国を深く愛するとともに、サントリーホールの建設に当たっても様々な助言を行ったこともあり、心身ともに万全とは言えない中でも、気力を振り絞って来日を果たしたところであり、筆者は、こうしたカラヤンの音楽家としての献身的な行為に、心から敬意を表するものである。

もっとも、カラヤンのそうした心身ともに万全とは言えない状態、そしてカラヤンとベルリン・フィルとの間の抜き差しならない関係も本演奏に影を落としていると言えるところであり、本演奏は、随所にアンサンブルの乱れやミスが聴かれるなど、カラヤン&ベルリン・フィルによるベストフォームにある演奏とは必ずしも言い難いものがある。

モーツァルトの交響曲第39番及びブラームスの交響曲第1番ともに、本演奏の1年前にベルリン・フィルとともに行ったスタジオ録音(1987年DG)、加えてブラームスの交響曲第1番で言えば、本演奏の5か月後にロンドンで行われたライヴ録音(1988年テスタメント)の方がより優れた名演であり、これらの名演と比較して本演奏を貶めることは容易ではあると言えるだろう。

しかしながら、本演奏については、演奏上の瑕疵や精神的な深みの欠如などを指摘すべき性格の演奏ではない。

そのような指摘をすること自体が、自らの命をかけて来日して指揮を行ったカラヤンに対して礼を失するとも考えられる。

カラヤンも、おそらくは本演奏が愛する日本での最後の演奏になることを認識していたと思われるが、こうしたカラヤンの渾身の命がけの指揮が我々聴き手の心を激しく揺さぶるのであり、それだけで十分ではないだろうか。

そして、カラヤンの入魂の指揮の下、カラヤンとの抜き差しならない関係であったにもかかわらず、真のプロフェッショナルとして大熱演を繰り広げたベルリン・フィルや、演奏終了後にブラヴォーの歓呼で熱狂した当日の聴衆も、本演奏の立役者である。

まさに、本演奏は、指揮者、オーケストラ、そして聴衆が作り上げた魂の音楽と言っても過言ではあるまい。

このような魂の音楽に対しては、そもそも演奏内容の細部に渡っての批評を行うこと自体がナンセンスであり、我々聴き手も虚心になってこの感動的な音楽を味わうのみである。

いずれにしても、筆者としては、本演奏は、カラヤン&ベルリン・フィル、そして当日会場に居合わせた聴衆のすべてが作り上げた圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

音質は、1988年のライヴ録音であるが、従来CD盤でも十分に満足できる良好なものであると評価したい。

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2014年09月01日


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本盤には、ドビュッシーの管弦楽曲全集が収められているが、「夜想曲」、交響詩「海」、「牧神の午後への前奏曲」などの有名曲も含め、いずれの楽曲も素晴らしい名演と高く評価したい。

ラヴェルの管弦楽曲全集の至高の名演としてはクリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団による演奏が掲げられるが、それに相当するドビュッシーの管弦楽曲全集の名演こそは、本盤に収められたマルティノン&フランス国立放送局管弦楽団による演奏である。

マルティノンは、シカゴ交響楽団の音楽監督時代が不遇であったため(とは言っても、ラヴェルの管弦楽曲集などの名演を遺している点に留意しておくことが必要である)、過小評価されているきらいがないわけではないが、ウィーン・フィルとともにチャイコフスキーの「悲愴」の超名演を成し遂げるなど、その実力は折り紙つきであった。

そして、その実力を如何なく発揮し得た演奏こそが、本盤に収められたドビュッシーの管弦楽曲全集の超名演であると言っても過言ではあるまい。

マルティノンは、例えばブーレーズなどのように曲想を曖昧にせず(もちろん、ブーレーズの演奏も説得力があり名演と評価し得ると考える)、むしろ明瞭に描き出すように努めている。

これによって、ドビュッシーの光彩陸離たる色彩感豊かなオーケストレーションが微塵の曇りもなく表現されているのが見事であると言えるだろう。

また、各フレーズの端々からほのかに漂ってくるフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいには、抗し難い魅力に満ち溢れていると言えるところであり、これぞフランス音楽を鑑賞する醍醐味が存在している。

いずれの楽曲の演奏も素晴らしいが、とりわけ有名な「牧神の午後への前奏曲」のアラン・マリオンのフルートソロは、いかにもフランス人奏者だけにしか出し得ない洒落た味わいに満ち溢れている。

いずれにしても、本盤に収められた全集の各演奏は、様々な指揮者による各楽曲の演奏の中でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

音質は、従来CD盤でもリマスタリングを繰り返してきたこともあって比較的満足し得る音質である。

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ショルティはマーラーの交響曲を得意としていたが、意外にもシカゴ交響楽団との全集を完成させた1983年以降は、殆どマーラーの交響曲を録音していない。

その後、10年以上にもわたって、様々な楽曲のレコーディングを行ったショルティにしては、実に意外なことと言わざるを得ない。

しかしながら、そのようなショルティにも例外があり、交響曲第5番だけは、全集の一環としてスタジオ録音(1970年)を行った後、シカゴ交響楽団とのライヴ録音(1990年(本盤))、そしてショルティのラスト・レコーディングとなったチューリヒ・トーンハレ管弦楽団とのライヴ録音(1997年)の2度にわたって録音を行っている。

ショルティが同一の楽曲を3度に渡って録音するというのは、ベートーヴェンの一部の交響曲、そして、マーラーの交響曲で言えば第1番のみであることから、今後、新たなライヴ録音が発掘されることが想定されるものの、ショルティがいかに同曲を深く愛していたのかを窺い知ることができるところだ。

ショルティの遺したマーラーの交響曲第5番の3つの演奏のうち、最もショルティの個性が発揮された名演は、何と言っても1970年の演奏である。

シカゴ交響楽団の音楽監督に就任したばかりであるにもかかわらず、シカゴ交響楽団を見事に統率し、耳を劈くような強烈な音響が終始炸裂するなど、強烈無比とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

血も涙もない音楽が連続するなど、まさに、音の暴力と言ってもいい無慈悲な演奏であるが、聴き終えた後の不思議な充足感は、かのバーンスタインや&ウィーン・フィル盤(1988年)やテンシュテット&ロンドン・フィル盤(1991年)の名演にいささかも引けを取っていないと言えるものであった。

これに対して、本盤の演奏は、1970年の演奏ほどの強烈さは存在しない。

切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さはショルティの指揮芸術の特徴であり、そうした特徴は本演奏の随所に感じられるのであるが、演奏全体としては角が取れたある種の懐の深さが支配していると言えるところであり、1970年の演奏を聴いた者からすると、やや物足りない気がしないわけでもない。

もっとも、本演奏の有する前述のような懐の深さ、そして安定感は、ショルティの円熟の成せる業とも言えるところであり、1970年の演奏さえ度外視すれば、十分に素晴らしい名演と評価してもいいのではないかと考えられるところだ。

シカゴ交響楽団は、相変わらずスーパー軍団の名に相応しい圧倒的な名演奏を展開しており、当時もいまだ健在であったトランペットのハーセスやホルンのクレヴェンジャーなどのスタープレイヤーたちが、最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本演奏を聴く醍醐味と言えるだろう。

ショルティは、前述のように、1997年にも同曲を録音しているが、ラスト・レコーディングということに食指は動くが、オーケストラの統率力に陰りがみられること、トーンハレ管弦楽団にもある種の戸惑いが感じられることなどもあって、筆者としては、1970年の演奏を除けば、本盤の1990年の演奏の方を名演として高く評価したいと考える。

音質は英デッカによる1990年の録音でもあり極めて優秀なものである。

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ビゼーの最高傑作でもある歌劇「カルメン」は、舞台となったスペインのエキゾチックとも言うべき名旋律に溢れた作品であるだけに、そうしたスペイン風の雰囲気を十分に生かした演奏が多い。

そして、そのようなスタイルの演奏こそが、歌劇「カルメン」を演奏する際のアプローチの王道ともなっているが、ショルティによる本盤の演奏は、それとは一線を画するタイプのものと言えるだろう。

ショルティは、もちろん、同曲の随所に散りばめられたスペイン風の情緒溢れる旋律の数々を情感豊かに歌わせることを全く行っていないわけではない。

ただ、そうした旋律を歌わせることよりもむしろ、同オペラを一つの壮大な交響曲と見做して、絶対音楽として描き出しているような趣きがあると言えるだろう。

ショルティの演奏の特徴でもある切れ味鋭いリズム感と明瞭なメリハリは、本演奏においても最大限に発揮されていると言えるところであり、後世の様々な作曲家にオーケストレーションを激賞されたとされるビゼーがスコアに記した音符の数々、そして旋律の数々を、他のどの演奏よりも明晰に描き出すのに成功している。

したがって、前述のように、スペイン風の情緒溢れる旋律の数々の歌わせ方が若干犠牲になっているという側面も否定できないところであり、このあたりが、本演奏に対するクラシック音楽ファンの好悪を分ける最大の分岐点であるとも思われるところだ。

なお、ショルティは、同オペラを録音するに当たっては、当時音楽監督をつとめていたシカゴ交響楽団ではなくロンドン・フィルを起用しており、その分だけ1970年代のショルティの演奏において時として聴かれ、そして欠点ともされている力づくの強引さが薄められているとも言えるが、それでも前述のようなリズムの鋭さやメリハリの明晰さは健在である。

このように、クラシック音楽ファンにとっては、好悪が大きく分かれる演奏とは思われるが、筆者としては、あまりにも有名過ぎて手垢にまみれているとも言える歌劇「カルメン」の演奏に対して、ある種の清新さを付加したという意味において、十分に存在意義のある名演と評価したいと考える。

歌手陣も、ショルティならではの考え抜かれたキャスティングであり、何と言ってもカルメン役のタティアナ・トロヤヌスの迫真の絶唱が圧倒的な存在感を示している。

また、ドン・ホセ役のプラシド・ドミンゴ、エスカミーリョ役のヨセ・ヴァン・ダム、そして、ミカエラ役のキリ・テ・カナワなど、録音当時全盛期を迎えた超一流の歌手陣が一同に会するというこれ以上は求め得ないような超豪華な布陣であり、それらの布陣が最高のパフォーマンスを発揮しているというのは、本演奏の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1975年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。

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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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