2014年11月
2014年11月13日
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クレンペラーの死の4年前、最晩年の演奏であるが、いかにも巨匠ならではの重厚な名演である。
幼少期の頃からバッハの音楽に親しんできたクレンペラーの最晩年の指揮、そしてそれを演奏するのはイギリスを代表する一流オケであり、クレンペラーとの信頼が厚いニュー・フィルハーモニア管弦楽団。
勿論悪いはずがなく、これを聴かない人はバッハの音楽を聴かないも同然であり、聴いて損はない。
ヒストリカルな見地からはとんでもない演奏なのだろうが、その悠然たる風格には圧倒される。
グッと抑えた表現からにじみ出る詩情はまさにドイツのバッハであり、スケールの大きさや重量感を持ちながら透明感も十分な実にユニークな演奏だ。
バッハの演奏様式については、近年ではピリオド楽器による古楽器奏法や、現代楽器による古楽器奏法などによる小編成のオーケストラ演奏が主流となっている。
本盤に聴かれるような大編成のオーケストラによる重厚な演奏は、かつては主流であったが、近年ではすっかりと聴かれなくなってしまった。
そうした旧スタイルの演奏様式を古色蒼然と批判する向きもあるくらいである。
しかしながら、近年の演奏の何と言う味気ないことか。
芸術性の高い演奏も、稀には存在しているが、殆どは軽妙浮薄の最たるものであり、学者は喜ぶかもしれないが、音楽芸術の感動という点からは著しくかけ離れているのではないかと筆者としては考えている。
このような軽妙浮薄な演奏が流布している中で、本盤のクレンペラーの演奏は何と感動的に響くことか。
かつてはこうした交響楽指揮者がバッハを堂々と演奏していたものである。
ここには、ベートーヴェン以降の交響曲にも匹敵する厚みのある内容がぎっしり詰まっている。
いずれも雄大なフランス風序曲で始まるバッハの管弦楽組曲に、クレンペラーは晴れやかな響きを行き渡らせている。
これはベートーヴェンで見せるような、厳然とした面もちとはまた違ったクレンペラーの魅力であり、巨匠の本質にさまざまな角度から接することができる。
テンポも微動だにしない堂々たるインテンポであり、例えば、第2番のバディネリのように、かつての大編成のオーケストラによる旧スタイルの演奏の際にも、速めのテンポで駆け抜けるのが主流の楽曲でも、深沈たるテンポで実に味わい深い演奏を行っている。
金管の鋭い響きや、巨象が踏みしめるような堂々たる音楽の進め方など、スケールは極大であり、この旧スタイルの演奏としては、トップの座を争う名演と高く評価したい。
この演奏を聴くと、これほど悠揚とした演奏はもう今後耳にすることはできないのではないかとすら思えてくる。
そしてクレンペラーこそ、まさに偉大で風格のあるアポロン的演奏家ではなかろうか。
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本盤の録音は1971年であり、まさにカラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代だ。
両者の関係も蜜月状態であり、各管楽器のソリストとの関係も最高の状態にあったと言える。
そのような指揮者・ソリスト・オーケストラが集まった演奏が悪かろうはずがない。
巨匠カラヤンとベルリン・フィルの関係が最も親密だった時代の、ベルリン・フィルの名手達をソリストに迎えた熟成されたモーツァルトの世界。
本盤に収められたクラリネット協奏曲、オーボエ協奏曲、ファゴット協奏曲ともに、3曲の演奏史上最高の演奏の1つと高く評価したい。
カラヤンがもっとも充実感を感じていたろう頃の記録と言えるところであり、世間的には多忙を極めていたが、自身健康で、家族は成長して、慈愛にあふれ、みんなの別荘地サン・モリッツに、ベルリン・フィルを招いて、録音した。
カラヤン&ベルリン・フィルは、いつもの豪快さは影を潜め、むしろ、モーツァルトの曲想にマッチした優美な演奏を心がけている。
それは、ライスター、コッホ、そしてピースクの名演奏をできるだけ際立たせたいという配慮があったものと思われる。
後年のカラヤン&ベルリン・フィルをバックにした協奏曲の演奏では、どうしてもソリストの影が薄くなり、いわゆるソロの入った交響曲のようになってしまう傾向も散見されるが、本盤は、非常にバランスのとれた、いかにも協奏曲に相応しい演奏になっている点も高く評価できる。
ライスターやコッホ、ピースクの演奏も卓越した技量をベースとした闊達で最美の演奏であるし、カラヤン&ベルリン・フィルの優美な演奏と相俟って、これ以上は求め得ないような至高・至純の演奏に仕上がっている。
天上の至福を歌うのではないが、カラヤンのこの時期に通底して流麗に、地上の充足を歌い上げてゆく。
それはまるで、幼子の見え隠れする高原のお花畑に、湖水をかすめた風が優しく、吹き抜けていくかのようだ。
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2014年11月12日
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驚天動地の極上の超高音質CDの登場だ。
ユニバーサルによる数々のSACD&SHM−CD化のの中で、最も音質がいいのは本盤ではないかと考える。
本演奏については、既にマルチチャンネル付きのSACDが発売されているが、あまり問題にならない。
むしろ、マルチチャンネルが付いていないのに、本盤が、これほどまでの臨場感を感じさせることに殆ど驚異を覚える。
レーベル面をグリーンにコーティングしたり、SHM−CD化を図っただけで、これほどまでに音質が激変するというのは、正直信じられない思いがする。
バッハのヴァイオリン協奏曲は、後年のモーツァルトやベートーヴェン以降の作曲家の手によるヴァイオリン協奏曲とは異なり、ヴァイオリンの技巧を披露する箇所は少なく、むしろ、独奏楽器とオーケストラ(と言っても、室内楽的な編成であるが)の調和を旨とした楽曲である。
それだけに、本盤のような高音質SACDは、相当のアドバンテージがあると言える。
というのも、高音質SACD化によって、ヴァイオリン等の独奏楽器とオーケストラの分離が鮮明に表現できるからであり、特に、本盤の場合は、それが目覚ましい効果をあげているのである。
このような調和型のヴァイオリン協奏曲でありながら、ヒラリー・ハーンのヴァイオリンの弓使いさえ聴こえてくるのは驚異的で、まるで彼女が目の前で弾いてくれているような凄い臨場感がある。
演奏は、ヒラリー・ハーンならではの繊細にして、気迫溢れる名演で、バッハ演奏に新たな魅力を付け加えてくれた。
バッハは彼女にとってもっとも共感を持つ作曲家のひとりで、ソニーでのデビュー・アルバムもバッハのソロ作品を集めたものであった。
彼女自身「バッハは私にとって特別なもので、ちゃんとした演奏を続けていくための試金石のような存在です」と語っており、ドイツ・グラモフォン・レーベルでのデビュー盤となったこのアルバムでもバッハを取り上げることとなった。
2台のヴァイオリンのための協奏曲で共演しているヴァイオリニスト、マーガレット・バトヤーはロサンジェルス室内管弦楽団のコンサート・ミストレスで、ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲で共演しているアラン・フォーゲルはロサンジェルス室内管弦楽団の首席オーボエ奏者である。
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これは名演だ。
例えばバレンボイムのベルリン・フィル弾き振りによる演奏は、ソロとオーケストラが緊密に結びついたいわば高度の同質性が貫かれた名盤だが、この若きポリーニと最晩年のベームによる共演は、ソロとオーケストラの個性の違いが興味深い成果をあげた名演奏と言えよう。
ポリーニは、本盤から10年以上経って、アバド&ベルリン・フィルをバックに、2度目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音したが、全く問題にならない。
2度目の録音は、アバド&ベルリン・フィルのいささか底の浅いとも言える軽い演奏と、ポリーニの無機的とも評すべき鋭利なタッチが、お互いに場違いな印象を与えるなど、豪華な布陣に相応しい演奏とは必ずしも言い難い凡演に成り下がっていた。
しかし1度目の録音におけるポリーニは、若々しく溌剌とした演奏でダイナミックに弾いており、聴いていて心地良い。
それに本盤の場合は、先ず何よりもバックが素晴らしい。
特に、この2曲は、ベーム&ウィーン・フィルという最高の組み合わせであり、その重厚なドイツ風の演奏は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲演奏の理想像の具現化と言えるだろう。
造型を重要視するアプローチは相変わらずであるが、それでいて、最晩年のベームならではのスケールの雄大さにもいささかの不足はない。
ポリーニのピアノも、ここではバックのせいも多分にあるとは思うが、無機的な音は皆無であり、情感溢れるニュアンスの豊かさが見事である。
第4番のポリーニは胸のすくようなテクニックで華麗に弾いており、透明なリリシズムが美しい。
ベームの指揮とともに、よく整い、よく磨かれ、やるべきことをきちんとやっていて、さらにそれを超えて迫ってくる個性の輝きがある。
「皇帝」のポリーニも同様だが、ベームの指揮はこの方が一段と充実しており、密度が高い。
ベームの指揮は決してテンポが遅いわけではないが、時に滑らかさに欠けると感じられるところもあるが、そこをウィーン・フィルの優美な音色が巧みに補完し、格調の高いオーケストラ演奏を生み出している。
その上に個々の音がクリスタルの輝きを放つポリーニのピアノが自由に泳ぎ回る。
典雅な趣きをたたえた第4番、古典的な側面をくっきりと描き出した「皇帝」といずれも傾聴に値する演奏だ。
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カラヤンは「悲愴」を7度もスタジオ録音したほか、2010年に発売された死の前年の来日時のライヴ録音、N響とのライヴ録音など、数多くの録音が残されている。
この中からベスト3を選ぶとすれば、ベルリン・フィルとの1971年及び1976年の録音と、本盤に収められたウィーン・フィルとの1984年の録音ということになるだろう。
1971年盤はライヴのようなドラマティックな名演、1976年盤は完成度の高いオーソドックスな名演であるのに対して、1984年盤は、カラヤンの晩年ならではの荘重で深遠な名演である。
序奏はあたかも死の淵にいるかのような絶望的な響きであるし、第2主題の天国的な美しさももはやこの世のものとは思えない。
カラヤンの代名詞であった圧倒的な統率力にはいささか綻びが見えているが、それを補って余りあるほどの巨匠ならではのオーラに満ち溢れている。
これは、世紀の巨匠であるカラヤンですら晩年になって到達した至高・至純の境地と言えるだろう。
第2楽章の流れるような優美なレガートもカラヤンならではのものだし、第3楽章の圧倒的なド迫力は、間近に迫る死に対する強烈なアンチテーゼと言ったところか。
終楽章の深沈たる響きの美しさには、もはや評価する言葉が追い付かない。
ベルリン・フィルとの関係が決裂状態になり、傷心のカラヤンに寄り添って、見事な名演を成し遂げたウィーン・フィルにも喝采を送りたい。
これだけウィーン・フィルが尊敬の念を持って真剣に演奏し、最高の音を引き出せるのはカラヤンが最後ではないだろうか。
音質は1984年のデジタル録音で、従来盤でも十分満足できるものである。
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2014年11月11日
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本盤には、ケンプの第1回目のステレオ録音で世界初CD化となる貴重盤が収められている。
いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。
これらの3曲を収めたCDは現在でもかなり数多く存在しており、とりわけテクニックなどにおいては本演奏よりも優れたものが多数あるが、現在においても、本演奏の価値はいささかも色褪せていないと考える。
本演奏におけるケンプのピアノは、いささかも奇を衒うことがない誠実そのものと言える。
ドイツ人ピアニストならではの重厚さも健在であり、全体の造型は極めて堅固である。
また、これらの楽曲を熟知していることに去来する安定感には抜群のものがあり、その穏やかな語り口は朴訥ささえ感じさせるほどだ。
しかしながら、一聴すると何でもないような演奏の各フレーズの端々から漂ってくる滋味に溢れる温かみには抗し難い魅力があると言えるところであり、これは人生の辛酸を舐め尽くした巨匠ケンプだけが成し得た圧巻の至芸と言えるだろう。
同時期に活躍していた同じドイツ人ピアニストとしてバックハウスが存在し、かつては我が国でも両者の演奏の優劣についての論争が繰り広げられたものであった。
現在では、とある影響力の大きい某音楽評論家による酷評によって、ケンプの演奏はバックハウスを引き合いに著しく貶められているところである。
確かに、某音楽評論家が激賞するバックハウスによるベートーヴェンのピアノ・ソナタについてはいずれも素晴らしい名演であり、筆者としてもたまに聴くと深い感動を覚えるのであるが、体調が悪いとあのような峻厳な演奏に聴き疲れすることがあるのも事実である。
これに対して、ケンプの演奏にはそのようなことはなく、どのような体調であっても、安心して音楽そのものの魅力を味わうことができる。
筆者としては、ケンプの滋味豊かな演奏を聴衆への媚びと決めつけ、厳しさだけが芸術を体現するという某音楽評論家の偏向的な見解には到底賛成し兼ねるところである。
ケンプによる名演もバックハウスによる名演もそれぞれに違った魅力があると言えるところであり、両者の演奏に優劣を付けること自体がナンセンスと考えるものである。
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本盤に収められたブルックナーの交響曲全集は、カラヤンによる唯一のものである。
当該全集に含まれた交響曲のうち、第1番〜第3番と第6番については、カラヤンとしてもコンサートで一度も採り上げたことがない楽曲であることから、カラヤンは本全集を完成させるためにのみ演奏を行ったことになる。
カラヤンが指揮するブルックナーについては、最晩年のウィーン・フィルとの第7番(1989年)や第8番(1988年)を別とすれば、音楽評論家の評価は必ずしも芳しいものとは言い難い。
とりわけ、とある影響力の大きい音楽評論家が、カラヤンと同い年の朝比奈やヴァントの演奏を激賞し、カラヤンの演奏を内容空虚と酷評していることが、今日におけるカラヤンのブルックナー、とりわけ本全集の低評価を決定づけていると言えるのではないだろうか。
筆者としても、朝比奈やヴァントによるブルックナーについては、至高の超名演と高く評価している。
特に、1990年代後半の演奏は神がかり的な名演であるとさえ言える。
しかしながら、朝比奈やヴァントの演奏様式のみが、ブルックナーの交響曲の演奏様式として唯一無二であるという考え方には反対だ。
とある影響力の大きい音楽評論家は、ブルックナーとシベリウスは指揮者を選ぶなどということを言っておられるようであるが、筆者としては、両者の音楽がそれほど懐の狭いものであるとは考えていない。
それこそ、ベートーヴェンなどの交響曲と同様に、ブルックナーやシベリウスの交響曲も、様々な演奏様式に耐え得るだけの懐の深さを有していると考えているところだ。
本全集は、1975年から1981年にかけてのスタジオ録音であり、これはカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代。本全集完成の翌年にはザビーネ・マイヤー事件が勃発して、両者の関係が修復不可能にまで悪化することに鑑みれば、本全集はこの黄金コンビによる最後の輝きであるとさえ言えるだろう。
それにしても何と言う凄まじい演奏であろうか。
一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントなブラスセクションの咆哮、桁外れのテクニックを示す木管楽器群、そして分厚い弦楽合奏、大地が轟くかのような重量感溢れるティンパニのド迫力、これらが一体となったベルリン・フィルの超絶的な演奏に、カラヤンは流麗なレガートを施し、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功している。
かかる演奏に対して、前述の影響力の大きい音楽評論家などは内容が空虚であるとか、精神性の欠如などを云々するのであろうが、カラヤン&ベルリン・フィルが構築したかかる圧倒的な音のドラマは、そのような批判を一喝するだけの桁外れの凄みがあると言えるところであり、これは他の指揮者が束になってもかなわない至高の水準に達しているとさえ考えられる。
いずれにしても、本演奏にはカラヤン&ベルリン・フィルが創造し得た究極の音のドラマが存在していると言えるところであり、筆者としては、本全集を至高の超名演で構成された名全集と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
なお、第7番や第8番については、最晩年のウィーン・フィルとの演奏の方を、その独特の味わい深さからより上位の名演に掲げたいと考えるが、当該演奏は自我を抑制して、楽曲にのみ語らせる演奏になっているところであり、カラヤンらしさという意味においては、本全集に含まれた演奏の方を採るべきであろう。
録音は、従来盤でも十分に満足できる音質であったが、数年前にカラヤン生誕100年を記念して発売されたSHM−CD盤による全集が現時点での最高の音質である。
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ヴァントが指揮するベートーヴェンの交響曲の演奏の中でも、その芸風に最も適合している楽曲は、本盤に収められた交響曲第1番及び第2番ではないだろうか。
ヴァントによる両曲の録音は、今回で3度目、そして最後のものと言うことになるが、演奏の素晴らしさは頭一つ抜けた存在であると評価したい。
ヴァントによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、何と言っても1980年代に、手兵北ドイツ放送交響楽団とともにスタジオ録音した唯一の交響曲全集(1984〜1988年)が念頭に浮かぶ。
当該全集以前の1950年代のギュルツェニヒ管弦楽団との演奏も、テスタメントなどによって発掘がなされているが、ヴァントのベートーヴェン演奏の代表盤としての地位にはいさかも揺らぎがない。
しかも、当該全集については、現在では入手難であるが、数年前にSACDハイブリッド盤で発売されたこともあり、ますますその価値を高めていると言っても過言ではあるまい。
これに対して、本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第1番及び第2番の演奏は、1997年及び1999年に北ドイツ放送交響楽団とともにライヴ録音したものである。
本演奏と同様に、前述の全集以降は、第3番〜第6番のライヴ録音も行っただけに、残る第7番〜第9番の録音を果たすことなくこの世を去ってしまったのは極めて残念なことであった。
それはさておき、本盤の演奏は素晴らしい名演だ。
前述の全集も、ヴァントの峻厳な芸風があらわれたいかにもドイツ色の濃厚な名演揃いであったが、いささか厳格に過ぎる造型美や剛毅さが際立っているという点もあって、スケールがいささか小さく感じられたり、無骨に過ぎるという欠点がないとは言えないところだ。
それに対して、本盤の演奏は、おそらくはヴァントの円熟のなせる業であるとも思われるところであるが、全集の演奏と比較すると、堅固な造型の中にも、懐の深さやスケールの雄大さが感じられるところであり、さらにグレードアップした名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。
もちろん、華麗さなどとは無縁の剛毅さや無骨さは相変わらずであるが、それでも一聴すると淡々と流れていく曲想の端々からは、人生の諦観を感じさせるような豊かな情感が滲み出していると言えるところであり、これは、ヴァントが晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのではないかと考えられるところだ。
そして、演奏全体に漂っている古武士のような風格は、まさに晩年のヴァントだけが描出できた崇高な至芸と言えるところであり、本演奏こそは、ヴァントによるベートーヴェンの交響曲第1番及び第2番の最高の名演、さらには、ヴァントによるベートーヴェンの様々な交響曲の演奏の中でも最も優れた至高の超名演と高く評価したい。
音質は、1997年及び1999年のライヴ録音であるだけに、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにSACD化されたのは何と言う素晴らしいことであろうか。
音質の鮮明さ、音場の幅広さのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、ヴァントによる至高の超名演を、SACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2014年11月10日
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フランスの名指揮者パレーの偉大な遺産とも言うべき素晴らしい名演集だ。
パレーについては、一部のコアなクラシック音楽ファンのみが高く評価している知る人ぞ知る名匠の地位に甘んじているが、タイプは異なるとはいえ、実際にはモントゥーやミュンシュ、クリュイタンスなどにも十分に比肩し得るほどの高度な芸術性を誇っていると言えるだろう。
今般の「コンサート・ホール」レコーディングスの販売を契機に、多くのクラシック音楽ファンの間で、パレーについて正当な評価がなされることを心より願うものである。
それにしても、パレーの指揮芸術は、例えて言えば、書道における名人の一筆書きのようなものであると言えるだろう。
テンポはやや速めであり、一聴すると淡々と曲想が進行していくような趣きがあり、いささかも華美には走らない即物的で地味な様相の演奏である。
しかしながら、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの薄味の演奏では決してなく、各旋律の端々には細やかなニュアンスが施されており、演奏に込められた内容の濃さにおいては、他のフランス系大指揮者と比較しても遜色はないものと思われるところだ。
この指揮者ならではの、フランス系指揮者の曲線的なイメージとは完全に一線を画した剛毅闊達なアプローチがきわめて壮快な演奏揃いであるが、とりわけ『ラ・ヴァルス』の豪快な白熱ぶりは一聴に値する見事さである。
パレーについては、一部の音楽評論家がフランスのシューリヒトと称しているが、まさに至言とも言うべきであり、その指揮芸術には、シューリヒトのそれと同様に、神々しいまでの崇高ささえ湛えていると言えるだろう。
それにしても、淡々と進行していく各旋律に込められたニュアンスの独特の瀟洒な味わい深さには、フランス風のエスプリ漂う抗し難い魅力が満ち溢れていると言えるところであり、これぞフランス音楽の粋とも言うべきものではないかと考えられるところだ。
本盤は、パレーならではの老獪とも言うべきセンス満点の指揮芸術の魅力を十二分に味わうことができる素晴らしい名演集と評価したい。
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ジュリーニは完全主義者として知られ、録音にはとりわけ厳しい姿勢で臨んだことから、これだけのキャリアのある大指揮者にしては、録音の点数は必ずしも多いとは言い難い。
そうした中にあって、ブラームスの交響曲全集を2度にわたってスタジオ録音しているというのは特筆すべきことであり、これは、ジュリーニがいかにブラームスに対して愛着を有していたかの証左とも言えるところだ。
協奏曲についても、ヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲のスタジオ録音を行っており、とりわけピアノ協奏曲第1番については、アラウと組んだ演奏(1960年)、ワイセンベルクと組んだ演奏(1972年)の2つの録音を遺している。
これに対して、筆者の記憶が正しければ、ピアノ協奏曲第2番については、本盤に収められたアラウとの演奏(1962年)のみしかスタジオ録音を行っていない。
ジュリーニの芸風に鑑みれば、同曲の録音をもう少し行ってもいいのではないかとも思われるが、何故かワイセンベルクとは第2番の録音を行わなかったところである。
いずれにしても、本演奏は素晴らしい。
それは、何よりもジュリーニの指揮によるところが大きいと思われる。
1962年という壮年期の演奏ではあるが、いささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な演奏の中にも、イタリア人指揮者ならではの歌謡性溢れる豊かな情感が随所に込められており、まさに同曲演奏の理想像を見事に具現化していると評しても過言ではあるまい。
アラウのピアノ演奏は、第1番の演奏と同様に、卓越した技量を発揮しつつも、派手さや華麗さとは無縁であり、武骨とも言えるような古武士の風格を有した演奏を展開している。
かかるアプローチは、第1番には適合しても、第2番では味わい深さにおいていささか不足しているきらいもないわけではないが、ジュリーニによる指揮が、そうしたアラウのピアノ演奏の武骨さを多少なりとも和らげ、演奏全体に適度の温もりを与えている点を忘れてはならない。
いずれにしても、本演奏は、アラウのピアノ演奏にいささか足りないものをジュリーニの指揮芸術が組み合わさることによって、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると評価したい。
この両者が、例えば1980年代の前半に同曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。
音質は、1962年のスタジオ録音であり、数年前にリマスタリングが行われたものの、必ずしも満足できる音質とは言い難いところであった。
ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。
音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、従来CD盤とは段違いの素晴らしさであり、あらためて本演奏の魅力を窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、ジュリーニ、そしてアラウによる素晴らしい名演を超高音質のシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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20世紀後半を代表する指揮者の1人であったジュリーニであるが、いわゆる完全主義者であったということもあり、そのレパートリーは、これほどの指揮者としては必ずしも幅広いとは言えない。
そのようなレパートリーが広くないジュリーニではあったが、それでも独墺系の作曲家による楽曲も比較的多く演奏しており、とりわけブラームスについては交響曲全集を2度に渡って録音するなど、得意のレパートリーとしていたところだ。
協奏曲についても、複数の録音が遺されており、本盤に収められたピアノ協奏曲第1番についても、2度にわたってスタジオ録音を行っている。
レコーディングには慎重な姿勢で臨んだジュリーニとしては数少ない例と言えるところであり、これはジュリーニがいかに同曲を愛していたかの証左とも言えるだろう。
同曲の最初の録音は本盤に収められたアラウと組んで行った演奏(1960年)、そして2度目の録音はワイセンベルクと組んで行った演奏(1972年)であるが、この両者の比較は難しい。
いずれ劣らぬ名演であると考えるが、ピアニストの本演奏時の力量も互角であり、容易には優劣を付けることが困難である。
本演奏は、録音年代が1960年ということもあり、ジュリーニ、アラウともども壮年期の演奏。後年の円熟の大指揮者、大ピアニストとは全く違った畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力を有しており、ブラームスの青雲の志を描いたともされる同曲には、そうした当時の芸風が見事にマッチングしていると評しても過言ではあるまい。
アラウのピアノ演奏は、卓越した技量は当然であるが、派手さや華麗さとは無縁であり、武骨とも言えるような古武士の風格を有している。
他方、ジュリーニの指揮は、いささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な演奏の中にも、イタリア人指揮者ならではの歌謡性溢れる豊かな情感が随所に込められており、アラウの武骨とも言うべきピアノ演奏に若干なりとも潤いを与えるのに成功しているのではないだろうか。
いずれにしても、本演奏は、ジュリーニ、アラウともに、後年の演奏のようにその芸術性が完熟しているとは言い難いが、後年の円熟の至芸を彷彿とさせるような演奏は十分に行っているところであり、両者がそれぞれ足りないものを補い合うことによって、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると評価したい。
この両者が、例えば1980年代の前半に同曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。
音質は、1960年のスタジオ録音であり、数年前にリマスタリングが行われたものの、必ずしも満足できる音質とは言い難いところであった。
ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD盤が発売されるに及んで大変驚いた。
音質の鮮明さ、音圧、音場の幅広さのどれをとっても、従来CD盤とは段違いの素晴らしさであり、あらためて本演奏の魅力を窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
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2014年11月09日
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モーツァルトの弦楽五重奏曲は、筆者としては、最晩年のクラリネット五重奏曲と並んで、モーツァルトの室内楽曲中、最高峰に位置づけられる傑作だと考えている。
にもかかわらず、弦楽四重奏曲のいわゆる「ハイドンセット」などと比較すると、録音の点数があまりにも少ないのは大変残念な気がしている。
ただ、その理由として、理想のヴィオラ奏者を見つけるのが難しいといったこともあるのではないかと考えている。
シューベルトの弦楽五重奏曲などとは異なり、モーツァルトは中音域の分厚さを重視したため、既存の四重奏団に加わる第2ヴィオラは、演奏の成否のカギを握る最重要パートと言えるからだ。
アマデウス弦楽四重奏団が主体となる本盤が、名演と高く評価されているのは、第2ヴィオラのアロノヴィッツが、アマデウス弦楽四重奏団の一員と思わせるような、息がぴたりと合った好演を行っている点が大きいのではなかろうか。
そして、これら五者が奏でる絶妙の演奏は、現代の弦楽四重奏団では殆ど聴かれないような温かいぬくもりのある情感豊かさを湛えており、メカニックな音など一音たりとも出していない。
そして、総体として、高貴な優美さに彩られているというのは、まさにモーツァルト演奏の理想像とも言うべき最高の水準に達している。
本盤は、録音終了から40年も経っているが、現代においても、モーツァルトの弦楽五重奏曲全集中の最高の名演であり、今後もこれを凌駕する演奏が現れる可能性は極めて低いと考えている。
アマデウス弦楽四重奏団は、グラモフォンに録音するようになってから、次第に引き締まった演奏に変わってきた。
この演奏は以前よりリズミカルな動きを重視し、表現の性質を柔から剛に変えようとしているといった過渡期の一面を残しているものの、彼らの活動全体を見渡そうとするなら、聴き逃すことの出来ない1組だ。
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スウィトナーは、ドイツ・シャルプラッテンに、ブルックナーの交響曲を「第1」、「第4」、「第5」、「第7」、「第8」の5曲を録音したが、病気のためにその後の録音を断念せざるを得なかったと聞く。
「第1」を録音していることに鑑みれば、おそらくは全集の完成を目指していたものと考えられるが、録音された5曲の演奏内容の水準の高さを考えると、全集完成に至らなかったのは大変残念なことであると考える。
せめて、「第3」や「第9」を録音して欲しかったというファンは、結構多いのではないだろうか。
スウィトナーのブルックナーへのアプローチは非常に考え抜かれたものだ。
というのも、各交響曲によって、微妙にアプローチが異なるからである。
「第8」は、緩急自在のテンポ設定やアッチェレランドを駆使したドラマティックな名演であったし、「第5」は、快速のテンポによる引き締まった名演であった。
他方、「第4」では、ゆったりとしたインテンポによる作品のみに語らせる自然体の名演であった。
「第1」は、どちらかと言えば、「第4」タイプの演奏に分類されると思われるが、スウィトナーは、このように、各交響曲毎に演奏内容を変えているのであり、こうした点に、スウィトナーのブルックナーに対する深い理解と自信を大いに感じるのである。
「第7」は、「第4」と同じタイプの演奏。
つまりは、作品のみに語らせる演奏と言うことができる。
同じタイプの名演として、ブロムシュテット&シュターツカペレ・ドレスデン盤があるが、当該盤は、オーケストラの重厚でいぶし銀の音色が名演たらしめるのに大きく貢献していた点を見過ごすことはできない。
これに対して、本盤は、技量においては申し分ないものの、音色などに特別な個性を有しないシュターツカペレ・ベルリンを指揮しての名演であることから、スウィトナーの指揮者としての力量が大いにものを言っているのではないかと考えられる。
録音も、ベルリン・イエス・キリスト教会の残響を生かしたものであり、きわめて秀逸である。
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スウィトナーは、ドイツ正統派の指揮者として、ベートーヴェンやシューベルト、ブラームスなどの交響曲全集を録音し、演奏内容もいずれも極めて高い評価を得ている。
ブルックナーについては、交響曲全集を完成させたわけではないが、第4番以降の主要な作品を録音するとともに、その演奏内容の質の高さから、スウィトナーとしても、自らの主要レパートリーとしての位置づけは十分になされていたものと考えられる。
特に、本盤の「第1」は、ブルックナー指揮者としてその名を馳せている他の指揮者でさえ、演奏を行うことは稀な曲目でもあり、スウィトナーが「第1」を録音したという厳然たる事実は、前述のような位置づけの証左と言えるのではなかろうか。
演奏内容は、いかにもドイツ正統派といった評価が適切な重厚な名演だ。
スウィトナーの指揮は、聴き手を驚かすような特別な個性があるわけでもない。
むしろ、曲想を格調高く丁寧に進めていくというオーソドックスなものであるが、かかるアプローチは、ブルックナー演奏にとっては最適のものである。
金管楽器を最強奏させているが、決して無機的になることはない。
そして、堅固な造形美は、いかにもドイツ人指揮者ならではのものであるが、フレージングの温かさやスケールの雄大さは、スウィトナーの個人的な資質によるものが大きいと考える。
シュターツカペレ・ベルリンも重心の低い深みのある音を出しており、ブルックナー演奏としても実に理想的なものと言える。
スウィトナーとシュターツカペレ・ベルリンとのコンビネーションは最高で、曲の面白さをしっかりと伝えてくれる名演である。
ベルリン・イエス・キリスト教会の豊かな残響を生かした録音も素晴らしい。
特にコアなブルックナー・ファン、スウィトナー・ファンには聴き逃すことのできない名盤と言えよう。
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2014年11月08日
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作品のみを語らせる演奏というのはそうざらにあるわけではない。
海千山千の指揮者が演奏をするわけであるから、作品の魅力もさることながら、指揮者の個性がどうしても前面に出てくることになるのが必定だ。
さりとて、個性を極力自己抑制して、作品のみに語らせる演奏を行おうとしても、それが逆に仇となって、没個性的な薄味な演奏に陥ってしまう危険性も高いのが実情だからだ。
ところが、スウィトナーはそうした単純なようで難しい至芸を見事に成し遂げてしまった。
ブルックナーの「第4」では、同様の自然体のアプローチによる名演として、ベーム&ウィーン・フィル盤とブロムシュテット&シュターツカペレ・ドレスデン盤がある。
しかしながら、これらの両名演では、指揮者の力量も多分にあるとは思うが、それ以上に、ウィーン・フィルの深みのある優美な音色や、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色による魅力が、名演に大きく貢献したという事実も忘れてはならない。
これら両オーケストラと比較すると、シュターツカペレ・ベルリンは、力量においては決して劣るものではないとは思うが、特別な個性的な音を持っているわけではない。
このような地味とも言えるオーケストラを指揮しての本演奏であるからして、スウィトナーの指揮者としての卓越した力量がわかろうというものである。
ブルックナーの「第4」の魅力を、ゆったりとした安定した気持ちで味わうことができるという意味においては、本盤は、ベーム盤やブロムシュテット盤にも匹敵し得る至高・至純の名演と高く評価したい。
シュターツカペレ・ベルリンはスウィトナーの特質に寄り添いながら、一体となったメジャー級の充実したアンサンブルと華美にならない高貴な美しい音を聴かせてくれる。
ベルリン・イエス・キリスト教会の豊かな残響を生かした録音も実に秀逸であり、美しい響きと録音で、肩肘張らずに聴いていて愉しい演奏ということでは、お薦めのブルックナーである。
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いわゆるブルックナーの演奏の定石とされている荘重なインテンポを基調とした名演ではなく、ドラマティックな要素をより多くとり入れた異色の名演と評価したい。
スウィトナーは、「第4」などでは、作品のみに語らせる自然体の演奏を行い、テンポにしても、音の強弱の設定にしても、いい意味での常識的な範疇におさめた演奏を展開していたが、この「第8」では、他の交響曲の演奏とは別人のような個性的な指揮を披露している。
各楽章のトゥッティに向けた盛り上がりにおいては、アッチェレランドを多用しているし、金管楽器も、随所において無機的になる寸前に至るまで最強奏させている。
このようなドラマティックな要素は、本来的にはブルックナー演奏の禁じ手とも言えるが、それが決していやではないのは、スウィトナーがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからに他ならない。
第1楽章の中間部の金管楽器の最強奏では、旋律の末尾に思い切ったリタルダントをかけるのも実に個性的であるし、第2楽章冒頭の高弦の響かせ方も、他の演奏では聴かれないものだけに新鮮味に溢れている。
トリオの美しさは出色のものであり、その情感の豊かさと朗々と咆哮するホルンの深みのある響きは、楽曲の魅力を表現し得て妙である。
第3楽章は、非常にゆったりとしたインテンポで楽想を進めていく。
弦楽合奏の滴るような厚みのある響きは美しさの極みであるし、金管楽器も木管楽器の奥行のある深い響きも素晴らしい。
終楽章は、威容のある堂々たる進軍で開始するが、ティンパニの強打が圧巻のド迫力だ。
その後も雄渾にして壮麗な音楽が続いていく。
そして、終結部の猛烈なアッチェレランドは、ブルックナーというよりはベートーヴェンを思わせるが、いささかの違和感を感じさせないのは、スウィトナーの類稀なる指揮芸術の賜物であると考える。
ベルリン・イエス・キリスト教会の豊かな残響を生かした鮮明な録音も、本盤の価値を高めるのに大きく貢献している。
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ブルックナーの「第5」については、2010年末、マークによる快速のテンポによる名演が発売された。
全体を約66分というスピードは、途轍もないハイテンポであるが、いささかも上滑りすることがない、内容豊かで重厚な名演であった。
本盤のスウィトナー盤も、マーク盤ほどではないが、全体を約69分という、ブルックナーの「第5」としてはかなり速いテンポで演奏している。
第1楽章の冒頭の弦楽器によるピツィカートは途轍もない速さであるし、その後の最強奏も畳み掛けるようなハイテンポだ。
それでいて、歌うべきところは情感を込めて歌い抜くなど、いささかも薄味の演奏には陥っていない。
スウィトナーは例によって、金管楽器には思い切った最強奏をさせているが、無機的には決して陥っていない。
第2楽章がこれまた途轍もなく速い。
冒頭のピツィカートなど、あまりの速さに、木管楽器との微妙なずれさえ感じられるが、これはいくらなんでも素っ気なさ過ぎとは言えないだろうか。
それでも、それに続く低弦による主題は、ややテンポを落として情感豊かに歌い抜いている。
その後は、速いテンポで曲想を進めていくが、浅薄な印象はいささかも受けない。
第3楽章は、一転して中庸のテンポに戻る。
その格調の高い威容は素晴らしいの一言であり、ここは本演奏でも白眉の出来と言えるのではないか。
終楽章は、比較的速めのテンポで開始されるが、第1楽章や第2楽章のように速過ぎるということはない。
その後は、低弦による踏みしめるような重厚な歩みや金管楽器の最強奏など、実に風格豊かな立派な音楽が連続する。
フーガの歩みも、ヴァントほどではないが、見事に整理し尽くされており、雄渾なスケールと圧倒的な迫力のうちに、全曲を締めくくっている。
いずれにしても、第2楽章冒頭など、やや恣意的に過ぎる解釈が聴かれないわけではないが、全体としては、名演と評価するのに躊躇しない。
ベルリン・イエス・キリスト教会の残響を生かした鮮明な録音も、本名演に華を添える結果となっている。
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2014年11月07日
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素晴らしい高音質SACDの登場だ。
音質において決して恵まれているとは言えなかったフルトヴェングラーの遺産が、これほどまでに極上の高音質に生まれ変わったのはまさに奇跡とも言うべきであり、演奏内容の高さを加味すれば、歴史的な偉業と言っても大袈裟ではあるまい。
そして、EMIが先般ついにSACDの発売に踏み切ったことも、低迷が続くレコード業界にとっては素晴らしい快挙であったと言えるところであり、大いにエールを送りたいという気持ちで一杯であった。
高音質化の内容は、「第5」と「第7」では異なる面があり、「第5」では、音場の拡がりと音圧が見事であり、「第7」は、新マスターテープの発見も多分にあると思うが、あたかも新録音のような鮮明さが売りのように思われる。
「第1」&「エロイカ」盤と同様であるが、これだけの高音質化が施されると、演奏内容への評価も俄然異なってくる。
「第5」については、戦後の復帰後のライヴ録音(1947年)が、特に、アウディーテによる復刻によって高音質化も施されるなど、随一の名演と評価してきたが、演奏内容の精神的な深みにおいては、本盤の「第5」もそれに十分に匹敵するのではなかろうか。
既発のCDとは異なり、低弦のうなるような響きや金管楽器及び木管楽器の鮮明さが、フルトヴェングラーの解釈をより明瞭に浮かび上がらせることに繋がり、演奏内容に彫りの深さが加わったことが何よりも大きい。
「第7」については、1943年盤と1950年盤が双璧であり、特に、オーパス蔵による素晴らしい復刻によって、これまで1943年盤を推してきたが、本高音質化CDの登場によって、これからは1950年盤を随一の名演に掲げることにしたい。
「第7」の名演には、荘重なインテンポによるクレンペラー盤(1968年)や、音のドラマを徹底的に追求したカラヤン盤(1978年のパレクサ盤)があるが、本盤は、それら両者の長所を有するとともに、ドラマティックな要素も加えた随一の名演と高く評価したい。
同じ「第5」と「第7」をカップリングしたCDとしては、一昨年末にシングルレイヤーSACDで発売されたクライバー盤があり、それも極上の高音質で名演と評価はするが、本盤と比較すると(あくまでも比較論ではあるが)、何と軽妙浮薄な演奏に聴こえることか。
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本盤には、エルガーの傑作であるエニグマ変奏曲と、ブリテンの有名な管弦楽曲2曲が収められているが、いずれも名演だ。
パーヴォ・ヤルヴィは、父ネーメ・ヤルヴィ譲りの広範なレパートリーを誇る指揮者であり、発売されるCDの多種多様ぶりやその質の高さに大変驚かされるが、本名演によって、イギリス音楽においても名演を成し遂げることが可能なことを広く認知させるのに成功したと言えるだろう。
北欧出身の指揮者であるだけに、既発CDで見ても、シベリウスの「第2」やトゥヴィンの「第5」、ステンハンマルの「第2」などで見事な名演を成し遂げているだけに、北欧音楽との親近性が囁かれるイギリス音楽においても名演を成し遂げたのは当然と言えるのかもしれない。
実際に、2009年に発売された、イギリス音楽の人気作でもあるホルストによる組曲「惑星」も素晴らしい名演であり、今後、他のイギリス音楽にも、更なるレパートリーの拡充を図っていただくように大いに期待したいと考える。
それはさておき、本盤に収められた各楽曲におけるパーヴォ・ヤルヴィのアプローチは、例によって純音楽的な自然体のものと言える。
恣意的な解釈などを行うことを避け、曲想を精緻に丁寧に描いて行くというものだ。
音楽は滔々と流れるとともに、どこをとっても情感の豊かさを失うことはない。
したがって、イギリス音楽特有の詩情の豊かさの描出にはいささかも不足はなく、これはまさにパーヴォ・ヤルヴィの豊かな音楽性の面目躍如と言ったところではないかと考える。
エニグマ変奏曲における各変奏曲や、ブリテンの4つの間奏曲における各間奏曲の描き分けの巧みさも特筆すべきであり、パーヴォ・ヤルヴィの演出巧者ぶりが見事に発揮されていると高く評価したい。
シンシナティ交響楽団も、パーヴォ・ヤルヴィの統率の下、最高のパフォーマンスを誇っており、とりわけパーセルの主題による変奏曲とフーガ(「青少年のための管弦楽入門」という曲名は、楽曲の内容の充実度からしても筆者は全く好みではない)では、あたかも同楽団の各奏者が、その卓越した技量を披露する品評会のような趣きさえ感じさせる。
テラークよる極上の高音質録音も、本盤の価値を高めるのに大きく貢献している。
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本盤には旧ソヴィエト連邦時代に活躍した2人の大作曲家、プロコフィエフとショスタコーヴィチによるチェロによる協奏的作品の傑作が収められている。
いずれの楽曲も、本演奏の当時世界最高とも謳われたロストロポーヴィチに献呈されたという意味において共通しているが、素晴らしい名演と高く評価したい。
とりわけ、プロコフィエフの交響的変奏曲については、目ぼしい競合盤が殆ど存在していないことから、同曲演奏史上最高の超名演と言えるのではないか。
作曲者とも親交があり、これらの楽曲を作曲するにあたっても様々な助言を行ったと想定されることから、ロストロポーヴィチの両曲に対するスコア・リーディングの深さと演奏にかける深い思い入れには尋常ならざるものがある。
ロストロポーヴィチによるチェロ演奏は、超絶的な技量とそれをベースとした濃厚な表情づけで知られているが、楽曲によってはそれが若干の表情過多に繋がり、技巧臭やロストロポーヴィチの体臭のようなものを感じさせることがあった。
本盤に収められた両演奏においても、かかるロストロポーヴィチの超絶的な技量を駆使した濃厚な歌いまわしは顕著にあらわれているが、表情過多であるという印象をいささかも与えることがなく、むしろかかる濃厚な演奏が必然であると感じさせるのが素晴らしい。
これは、前述のように、ロストロポーヴィチがこれら両曲に対して、被献呈者として深い愛着を抱くとともに、作曲者が両曲にこめた深遠なメッセージを的確に理解しているからにほかならない。
そして、ロストロポーヴィチによる濃厚なチェロ演奏をしっかりと下支えしているのが、小澤&ロンドン交響楽団による名演奏である。
ロストロポーヴィチと小澤はお互いを認め合うなど肝胆相照らす仲であったことで知られているが、本演奏でも、小澤はロストロポーヴィチのチェロ演奏を引き立てた見事な好パフォーマンスぶりを発揮していると高く評価したい。
小澤がロンドン交響楽団を指揮することは稀であると思われるが、ここでは息の合った見事な名コンビぶりを披露している。
音質については、1987年のデジタル録音ということもあり、従来盤でも十分に満足できる良好なものである。
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2014年11月06日
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ディヌ・リパッティによる名演としては、ショパンのワルツ集の録音(1950年)が極めて名高い存在と言えるが、その他に遺された録音も、必ずしも数多いとは言い難いが、そのすべてが素晴らしい名演であると言っても過言ではあるまい。
モノラル録音という音質面でのハンディがあることから、より録音の優れた演奏の方にどうしても惹かれてしまうところであるが、それでもたまにリパッティの演奏を耳にすると、途轍もない感動を覚えるところだ。
本盤に収められたバッハのピアノ曲の小品やスカルラッティのソナタを軸とした小品集も、リパッティの表現力の幅の広さを感じさせる至高の超名演と言える。
リパッティによる本演奏の魅力は、何と言っても1940年代〜1950年の演奏であるにもかかわらず、いささかも古臭さを感じさせず、むしろ現代の様々なピアニストの演奏に通ずる清新さを秘めている点にあると考えられるところだ。
そして、それだけにとどまらず、楽曲の核心に鋭く切り込んでいくような彫りの深さ、そして、何よりも忍び寄る死に必死で贖おうとする緊迫感や気迫が滲み出ているとも言える。
いや、もしかしたら、若くして死地に赴かざるを得なかった薄幸のピアニストであるリパッティの悲劇が我々聴き手の念頭にあるからこそ、余計にリパッティによる本演奏を聴くとそのように感じさせられるのかもしれない。
いずれにしても、リパッティによるかかる命がけの渾身の名演は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な底知れぬ迫力を有していると言えるところだ。
筆者としては、リパッティによる本盤の演奏は、あまた存在している様々なピアニストによるこれらの各楽曲の演奏の中でも、別格の深みを湛えた至高の超名演と高く評価したいと考える。
このような至高の超名演を聴いていると、あらためてリパッティのあまりにも早すぎる死がクラシック音楽界にとっていかに大きな損失であったのかがよく理解できるところだ。
もっとも、リパッティによる本盤の各楽曲の演奏は、演奏自体は圧倒的に素晴らしいが、モノラル録音というハンディもあって、その音質は、前述のように鮮明さにいささか欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。
ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。
とりわけ、1950年に録音されたバッハの4曲については、従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった。
リパッティのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。
他方、スカルラッティの2曲や、ショパンの舟歌、ラヴェルの道化師の朝の歌については、今般のSACD化を持ってしてもいささか鮮明さに欠けるが、それでも従来CD盤との違いは明確であり、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。
いずれにしても、リパッティによる圧倒的な超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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本盤に収められたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、カラヤンが秘蔵っ子であったムターとともにスタジオ録音を行った演奏だ。
当時、いまだハイティーンであったムターに対して、カラヤンは同曲を弾きこなせるようになったら録音しようと宿題を出したとのことである。
しかしながら、懸命の練習の結果、同曲を弾きこなせるようになったムターであったが、その演奏をカラヤンに認めてもらえずに、もう一度宿題を課せられたとのことである。
それだけに、本演奏には、ムターが若いながらも一生懸命に練習を積み重ね、カラヤンとしても漸くその演奏を認めるまでに至った成果が刻み込まれていると言えるだろう。
カラヤンは、協奏曲録音においては、とかくフェラスやワイセンベルクなどとの演奏のように、ソリストがカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏の一部に溶け込んでしまう傾向も散見されるところだ。
しかしながら、ムターとの演奏では、もちろん基本的にはカラヤンのペースに則った演奏ではあるが、ムターの才能と将来性を最大限に引き立てようとの配慮さえ見られる。
カラヤンの伝記を著したリチャード・オズボーン氏が、モーツァルトの協奏曲の演奏の項で、「高速のスポーツカーに乗った可愛い娘を追いかけて、曲がりくねった慣れない田舎道を飛ばす」と記しているが、本盤のベートーヴェンの協奏曲の演奏も、まさにそのような趣きを感じさせる名演である。
本盤の演奏におけるムターのヴァイオリンは、いつものムターのように骨太の音楽づくりではなく、むしろ線の細さを感じさせるきらいもないわけではないが、それでも、トゥッティにおける力強さや強靭な気迫、そしてとりわけ緩徐楽章における伸びやかでスケールの大きい歌い回しなど、随所にムターの美質を感じることが可能だ。
ムターの個性が全開の演奏ということであれば、マズア&ニューヨーク・フィルとの演奏(2002年)の方を採るべきであるが、オーケストラ演奏の重厚さや巧さなどといった点を総合的に勘案すれば、本演奏の方を断然上位に掲げたいと考える。
カラヤン&ベルリン・フィルは、本演奏の当時はまさにこの黄金コンビが最後の輝きを見せた時期でもあったが、それだけに重厚にして華麗ないわゆるカラヤンサウンドを駆使した圧倒的な音のドラマは本演奏においても健在であり、ムターのヴァイオリンをしっかりと下支えしているのが素晴らしい。
録音は、リマスタリングが施されたこともあって、比較的良好な音質である。
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交響曲第1番は素晴らしい名演だ。
同曲には、ワルター&コロンビア響(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム(1987年)と言った至高の超名演があるが、本演奏はこれら両横綱に次ぐ大関クラスの名演と言えるのではないだろうか。
マーラーの交響曲第1番はマーラーの青雲の志を描いた作品であり、円熟がそのまま名演に繋がるとは必ずしも言えないという難しさがある。
実際に、アバドは後年、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後まもなく同曲をベルリン・フィルとともにライヴ録音(1989年)しており、それも当時低迷期にあったアバドとしては名演であると言えなくもないが、本演奏の持つ独特の魅力には到底敵わないと言えるのではないだろうか。
これは、小澤が同曲を3度にわたって録音しているにもかかわらず、最初の録音(1977年)を凌駕する演奏が出来ていないこととも通暁するのではないかと考えられる。
いずれにしても、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでのアバドの演奏は素晴らしい。
本演奏でも、随所に漲っている圧倒的な生命力とエネルギッシュな力感は健在だ。
それでいて、アバドならではの歌謡性豊かな歌心が全曲を支配しており、とりわけ第2楽章や第3楽章の美しさには出色のものがある。
終楽章のトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さには圧巻の凄みがあると言えるところであり、壮麗な圧倒的迫力のうちに全曲を締めくくっている。
いずれにしても、本演奏は、強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれたアバドならではの名演に仕上がっていると高く評価したい。
また、シカゴ交響楽団の超絶的な技量にも一言触れておかなければならない。
当時のシカゴ交響楽団は、ショルティの統率の下、スーパー軍団の異名をとるほどのオーケストラであったが、本演奏でも若きアバドの指揮の下、これ以上は求め得ないような最高のパフォーマンスを発揮しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。
他方、交響曲第10番は、この後の録音がなされていないことから本演奏が現時点でのアバドによる最新の演奏ということになるが、その演奏内容の評価については美しくはあるが、かと言って他の演奏を圧するような絶対美の世界を構築し得ているわけではない。
楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みはないが、他方、歌謡性豊かな情感には満ち溢れるなど魅力的な箇所も多々存在しており、ウィーン・フィルによる美演も併せて考慮すれば、佳演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
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2014年11月05日
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詩情溢れるラフマニノフと切れ味の良いラヴェル。
若きグリモーの才気が横溢する協奏曲集である。
充実の活動を続けるフランスの中堅ピアニスト、エレーヌ・グリモーが、そのキャリアの初めにDENONに残した協奏曲集。
若さよりもむしろ内向的で音楽そのものを優先する演奏姿勢が、その後の彼女の活躍を約束するかのようだ。
グリモーは超絶的な技巧を全面に打ち出すピアニストではない。
もちろん、高度な技量は持ち合わせているのだろうが、むしろ、女流ピアニストならではの繊細さとか、フランス人のピアニストならではの瀟洒なエスプリに満ち溢れているだとか、高貴な優美さと言った表現がふさわしいピアニストであると考えている。
本盤は、グリモーの23歳の時の録音で、現在のグリモーのような円熟からはほど遠いとは思うが、若さ故の勢いで演奏するのではなく、前述のようなグリモーならではの個性の萌芽が垣間見られるのが素晴らしいと思う。
後年の再録音盤(ラヴェルはジンマン&ボルチモア響、ラフマニノフはアシュケナージ&フィルハーモニア管)も所持しているが未だに何故か当盤の方を手に取ってしまう。
確かに当盤では「途上まだしも」の感は否めないが、多少の瑕疵を理由に捨て置くにはあまりに惜しいのではないか。
ソツ無く御行儀の良い演奏もそれなりに良いとは思うが、許容範囲のキズであれば少々荒削りであっても清々しくてイキのいい演奏を筆者は好む。
ロペス=コボスの指揮は、音質によるのかもしれないが、グリモーのピアノとは正反対の荒削りで激しいものである。
しかし、このアンバランスさが、かえってグリモーの演奏の性格を浮き彫りにするのに大きく貢献しているという点については、特筆すべきであろう。
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本盤には、鬼才グールドがドロップ・アウトする以前にスタジオ録音したバッハのイタリア協奏曲とパルティータ第1番、第2番が収められているが、いかにもグールドならではの個性的な名演と高く評価したい。
これらの楽曲には名演が目白押しであるが、グールドの演奏の場合は、次の楽想においてどのような解釈を施すのか、聴いていて常にワクワクさせてくれるという趣きがあり、退屈さをいささかも聴き手に感じさせないという、いい意味での面白さ、そして斬新さが存在している。
もっとも、演奏の態様は個性的でありつつも、あくまでもバッハがスコアに記した音符を丁寧に紐解き、心を込めて弾くという基本的なスタイルがベースになっており、そのベースの上に、いわゆる「グールド節」とも称されるグールドならではの超個性的な解釈が施されていると言えるところだ。
そしてその心の込め方が尋常ならざる域に達していることもあり、随所にグールドの歌声が聴かれるのは、ゴルトベルク変奏曲をはじめとしたグールドによるバッハのピアノ曲演奏の特色とも言えるだろう。
こうしたスタイルの演奏は、聴きようによっては、聴き手にあざとさを感じさせる危険性もないわけではないが、グールドのバッハのピアノ曲の演奏の場合はそのようなことはなく、超個性的でありつつも豊かな芸術性をいささかも失っていないのが素晴らしい。
これは、グールドが前述のように緻密なスコア・リーディングに基づいてバッハのピアノ曲の本質をしっかりと鷲掴みにするとともに、深い愛着を有しているからに他ならないのではないかと考えている。
グールドによるバッハのピアノ曲の演奏は、オーソドックスな演奏とは到底言い難い超個性的な演奏と言えるところであるが、多くのクラシック音楽ファンが、バッハのピアノ曲の演奏として第一に掲げるのがグールドの演奏とされているのが凄いと言えるところであり、様々なピアニストによるバッハのピアノ曲の演奏の中でも圧倒的な存在感を有していると言えるだろう。
諸説はあると思うが、グールドの演奏によってバッハのピアノ曲の新たな魅力がより引き出されることになったということは言えるのではないだろうか。
いずれにしても、本盤イタリア協奏曲やパルティータの演奏は、グールドの類稀なる個性と芸術性が十二分に発揮された素晴らしい名演と高く評価したい。
音質については、リマスタリングが施される以上の高音質化がなされていなかったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることにより、見違えるような良好な音質に生まれ変わった。
音質の鮮明さ、音圧の凄さ、音場の幅広さなど、いずれをとっても一級品の仕上がりであり、グールドのピアノタッチが鮮明に再現されるのは、録音年代を考えると殆ど驚異的であるとさえ言える。
いずれにしても、グールドによる素晴らしい名演をSACDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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ミスターミュージック(カラヤンが悪意なくバーンスタインにつけた綽名)として、指揮者としてだけではなく作曲家としても多種多様な活動をしたバーンスタインであるが、作曲家バーンスタインの最高傑作としては、何と言っても「ウェスト・サイド・ストーリー」を掲げるというのが一般的な考え方ではないだろうか。
本盤に収められている演奏は、バーンスタインが、ブロードウェイ内外の一流のミュージシャンを特別に編成して1984年にスタジオ録音を行ったものであるが、「ウェスト・サイド・ストーリー」の演奏史上最高の超名演と高く評価したい。
それは、もちろん自作自演であるということもあるが、それ以上にバーンスタインの指揮が素晴らしいと言えるだろう。
バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。
このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。
このような晩年の芸風に適合した楽曲としては、何よりもマーラーの交響曲・歌曲、そしてシューマンの交響曲・協奏曲が掲げられるところだ。
そして、米国の作曲家による楽曲についても、そうした芸風がすべてプラスに作用した名演の数々を成し遂げていたと言えるだろう。
したがって、本盤のような自作自演に至っては、バーンスタインのまさに独壇場。
水を得た魚のようなノリノリの指揮ぶりで、圧倒的な名演奏を繰り広げている。
テンポについてはおそらくは遅めのテンポなのであろうが、自作自演だけにこのテンポこそが必然ということなのであろう。
そして、濃厚にして彫りの深い表現は、同曲の登場人物の心象風景を鋭く抉り出していくのに大きく貢献しており、どこをとっても非の打ちどころがない完全無欠の演奏に仕上がっている。
独唱陣も、きわめて豪華なキャスティングになっており、とりわけマリア役のキリ・テ・カナワとトニー役のホセ・カレーラスの名唱は、本超名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。
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2014年11月04日
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ザンデルリンクによるブラームスの交響曲全集と言えば、後年にベルリン交響楽団とともにスタジオ録音(1990年)を行った名演が誉れ高い。
当該全集の各交響曲はいずれ劣らぬ名演であったが、それは悠揚迫らぬゆったりとしたテンポをベースとしたまさに巨匠風の風格ある演奏であり、一昨年、惜しくも逝去されたザンデルリンクの代表盤にも掲げられる永遠の名全集とも言える存在であると言えるところだ。
ザンデルリンクは、当該全集の約20年前にもブラームスの交響曲全集をスタジオ録音している。
それこそが、本盤に収められた交響曲第1番を含む、シュターツカペレ・ドレスデンとの全集である。
前述のベルリン交響楽団との全集が、押しも押されぬ巨匠指揮者になったザンデルリンクの指揮芸術を堪能させてくれるのに対して、本全集は、何と言っても当時のシュターツカペレ・ドレスデンの有していた独特のいぶし銀とも言うべき音色と、それを十二分に体現しえた力量に最大の魅力があるのではないだろうか。
昨今のドイツ系のオーケストラも、国際化の波には勝てず、かつて顕著であったいわゆるジャーマン・サウンドが廃れつつあるとも言われている。
奏者の技量が最重要視される状況が続いており、なおかつベルリンの壁が崩壊し、東西の行き来が自由になった後、その流れが更に顕著になったが、それ故に、かつてのように、各オーケストラ固有の音色というもの、個性というものが失われつつあるとも言えるのではないか。
そのような中で、本盤のスタジオ録音がなされた1970年代のシュターツカペレ・ドレスデンには、現代のオーケストラには失われてしまった独特のいぶし銀の音色、まさに独特のジャーマン・サウンドが随所に息づいていると言えるだろう。
こうしたオーケストラの音色や演奏において抗し難い魅力が存在しているのに加えて、ザンデルリンクの指揮は、奇を衒うことのない正統派のアプローチを示している。
前述の後年の全集と比較すると、テンポなども極めてノーマルなものに落ち着いているが、どこをとっても薄味な個所はなく、全体の堅牢な造型を保ちつつ、重厚かつ力強い演奏で一貫していると評しても過言ではあるまい。
むしろ、このような正統派のアプローチを行っているからこそ、当時のシュターツカペレ・ドレスデンの魅力的な音色、技量が演奏の全面に描出されていると言えるところであり、本演奏こそはまさに、ザンデルリンク、そしてシュターツカペレ・ドレスデンによる共同歩調によった見事な名演と高く評価したいと考える。
Blu-spec-CD化によって、音質にさらに鮮明さが加わったことも大いに歓迎したい。
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本盤には、ブラスバンドに入ったことがある者であれば、誰でも一度は演奏したことがあるであろう有名曲が収められている。
特に、ホルストの吹奏楽のための組曲第1番及び第2番、ヴォーン・ウィリアムズのイギリス民謡組曲などは定番とも言える超有名曲であるが、意外にも推薦できる演奏が殆ど存在していない。
それだけに、本盤の各演奏はきわめて稀少価値のあるものと言える。
ヴォーン・ウィリアムズやホルストは、若干時代は活動時期は前後するものの、チェコのヤナーチェクやハンガリーのバルトーク、コダーイなどと同様に、英国の作曲家としての誇りをいささかも失うことなく、英国の民謡を高度に昇華させて自作に採り入れようとした。
その結実こそは、イギリス民謡組曲、そして吹奏楽のための組曲第1番及び第2番なのであり、筆者としては、本盤に収められたいずれの楽曲も、単なるブラスバンドのためのポピュラー名曲の範疇には収まりきらないような芸術性を湛えていると高く評価している。
他に目ぼしいライバルとなり得る名演が存在しないだけに、吹奏楽の普及に多大なる貢献を行ったフレデリック・フェネル&イーストマン・ウィンド・アンサンブルによる本演奏は、本盤に収められた各楽曲の唯一の名演とも言える貴重な存在と言える。
ブラスバンドのための楽曲だけに、決して重々しくはならず、演奏全体の様相としては颯爽としたやや速めのテンポを基調としているが、各楽曲に盛り込まれた英国の詩情に満ち溢れた民謡風の旋律の数々については心を込めて歌い抜いており、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演奏を展開していると言えるところだ。
イーストマン・ウィンド・アンサンブルも、フレデリック・フェネルの指揮の下、これ以上は求め得ないような一糸乱れぬアンサンブルにより、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。
いずれにしても、これぞまさしくブラスバンドによる演奏の理想像の具現化とも言えるところであり、本盤の演奏から既に50年以上が経過しているにもかかわらず、現在でもなお本盤の演奏を超える演奏があらわれていないのも十分に頷けるところである。
ホルストと言えば組曲「惑星」のみがやたら有名であるし、ヴォーン・ウィリアムズと言えばタリスの主題による幻想曲などが特に有名であるが、仮に、本盤に収められた各楽曲を未聴であるとすれば、ホルストにしても、ヴォーン・ウィリアムズにしても、吹奏楽の分野において、このような偉大な傑作を遺しているということを、本盤を聴いて是非とも認知していただきたいと考えるところだ。
音質は、1950年代末の録音にしては従来CD盤でも十分に満足できるものであったが、今般のルビジウム・クロック・カッティングによって、従来CD盤よりも更に良好な音質に生まれ変わったと評価したい。
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2002年よりベルリン・フィルの芸術監督に就任したラトルであるが、就任後の数年間は、オーケストラへの気後れもあったとは思うが、気合だけが空回りした凡演が多かった。
そのようなラトルも、2008年のマーラーの交響曲第9番において、猛者揃いのベルリン・フィルを巧みに統率した奇跡的な名演を成し遂げ、その後は、殆ど例外もなく、素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。
本盤に収められたオルフのカルミナ・ブラーナの演奏は、2004年の大晦日のジルヴェスター・コンサートでのライヴ録音である。
この時期は、前述のように、ラトルが未だベルリン・フィルを掌握し切れていない時期の演奏ではあるが、かかるジルヴェスター・コンサートという独特の雰囲気、そして何よりも、ラトル自身がオペラにおける豊富な指揮の経験により合唱や独唱者の扱いが実に巧みであることも相俟って、当時のラトルとしては、例外的に素晴らしい名演を成し遂げていると言えるのではないかと考えられるところである。
もちろん、本演奏においても、気合は十分であり、ラトルの得意とする合唱曲、そして現代音楽であるということもあって、思い切った表現を随所に聴くことが可能だ。
テンポの効果的な振幅や思い切った強弱の変化などを大胆に駆使するとともに、打楽器の鳴らし方にも効果的な工夫を施すなど、ラトルならではの個性が満載であると言えるところである。
要は、当時のラトルの演奏の欠点でもあったいわゆる表現意欲だけが空回りするということはいささかもなく、ラトルの個性が演奏の軸足にしっかりとフィットし、指揮芸術の範疇を外れていないのが見事に功を奏している。
そして、ラトルは、前述のように合唱や独唱者の扱い方が実に巧いが、本盤の演奏においてもその実力が如何なく発揮されているとも言えるところであり、ベルリン放送合唱団、ベルリン大聖堂国立合唱団少年合唱団員を見事に統率して、最高のパフォーマンスを発揮させている手腕を高く評価したい。
ソプラノのサリー・マシューズ、テノールのローレンス・ブラウンリー、そしてバリトンのクリスティアン・ゲルハーヘルによる名唱も、本演奏に華を添える結果となっているのを忘れてはならない。
いずれにしても、本演奏は、ベルリン・フィルを完全掌握して、水準の高い名演の数々を成し遂げるようになった、名実ともに世界最高の指揮者である近年のラトルを十分に予見させるような圧倒的な名演に仕上がっていると高く評価したい。
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2014年11月03日
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本盤に収められたスーク&パネンカによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番及び第9番は、このコンビが1966〜1967年にかけてスタジオ録音を行ったベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集から、最も有名な2曲を抜粋したものである。
今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を機に、当該全集を今一度聴き直してみたが、やはり演奏は素晴らしいと思った次第だ。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ、とりわけヴァイオリン・ソナタ史上最大の規模を誇るとともに、交響曲にも比肩するような強靭にして重厚な迫力を有している第9番「クロイツェル」については、同曲の性格に符号した力強い迫力を売りにした名演が数多く成し遂げられてきている。
これに対して、スークのヴァイオリン演奏は決して卓越した技量や強靭な迫力を売りにしていない。
むしろ、曲想をおおらかに、そして美しく描き出していくというものであり、とりわけ、第9番「クロイツェル」については、他のどの演奏よりも優美な演奏と言ってもいいのかもしれない。
いささか線の細さを感じさせるのがスークのヴァイオリン演奏の常々の欠点であるが、音楽性は豊かであり、ベートーヴェンを威圧の対象とするかのような力んだ演奏よりはよほど好ましいと言えるのではないだろうか。
パネンカのピアノも優美な美しさを誇っており、スークのヴァイオリン演奏との相性にも抜群のものがある。
いずれにしても、本演奏は、とりわけ第9番「クロイツェル」に強靭にして重厚な迫力を期待する聴き手には肩透かしを喰わせる可能性はないではないが、演奏全体を支配している音楽性満点の美しさには抗し難い魅力があり、数々の名演奏家を生み出してきたチェコの至宝とも言うべき珠玉の名演に仕上がっていると高く評価したい。
そして、本盤で素晴らしいのは、何と言ってもシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化による極上の高音質である。
本演奏は、いずれも今から50年近くも前の1966〜1967年のものであるが、ほぼ最新録音に匹敵するような鮮明な高音質に生まれ変わった。
スークのヴァイオリンの細やかな弓使いやパネンカの繊細なピアノタッチが鮮明に再現されるのは、録音年代からして殆ど驚異的であり、あらためて、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。
いずれにしても、スーク&パネンカによる至高の名演を、現在望み得る最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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バーンスタインは、マーラーの「第9」をビデオ作品も含め4度録音している。
ニューヨーク・フィル盤(1965年)、ウィーン・フィル盤(1970年代のDVD作品)、ベルリン・フィル盤(1979年)、そして本コンセルトヘボウ・アムステルダム盤(1985年)があり、オーケストラがそれぞれ異なっているのも興味深いところであるが、ダントツの名演は本盤であると考える。
それどころか、古今東西のマーラーの「第9」のあまたの演奏の中でもトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。
マーラーの「第9」は、まぎれもなくマーラーの最高傑作だけに、様々な指揮者によって数々の名演が成し遂げられてきたが、本盤はそもそも次元が異なっている。
まさに、本バーンスタイン盤こそは富士の山、他の指揮者による名演は並びの山と言ったところかもしれない。
これに肉薄する往年の名演として、ワルター&ウィーン・フィル盤(1938年)があり、オーパス蔵によって素晴らしい音質に復刻はされているが、当該盤は、多分に第2次世界大戦直前という時代背景が名演に伸し上げたと言った側面も否定できないのではないだろうか。
マーラーの「第9」は、マーラーの交響曲の総決算であるだけに、その神髄である死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬がテーマと言えるが、これを、バーンスタイン以上に表現し得た指揮者は他にはいないのではないか。
第1楽章は、死への恐怖と闘いであるが、バーンスタインは、変幻自在のテンポ設定や思い切ったダイナミックレンジ、そして猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使しており、その表現は壮絶の極みとさえ言える。
これほど聴き手の肺腑を打つ演奏は他には知らない。
第3楽章の死神のワルツも凄まじいの一言であり、特に終結部の荒れ狂ったような猛烈なアッチェレランドは圧巻のド迫力だ。
終楽章は、生への妄執と憧憬であるが、バーンスタインの表現は濃厚さの極み。
誰よりもゆったりとした急がないテンポにより、これ以上は求め得ないような彫りの深い表現で、マーラーの最晩年の心眼を鋭く抉り出す。
そして、このようなバーンスタインの壮絶な超名演に潤いと深みを付加させているのが、コンセルトヘボウ・アムステルダムによるいぶし銀の音色による極上の名演奏と言えるだろう。
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バーンスタインは、その生涯に、ビデオ作品を含め、マーラーの交響曲全集を3度に渡って録音した。
このような指揮者は今日においてもいまだ存在しておらず、演奏内容の質の高さだけでなく、遺された全集の数においても、他のマーラー指揮者を圧倒する存在と言えるだろう。
いずれの全集も歴史的名演と評してもいいくらいの質の高いものであるが、その中での最高傑作は、やはり、衆目の一致するところ、マーラーゆかりの3つのオーケストラを指揮して録音を行った最後の全集ということになるのではなかろうか。
この最後の全集で残念なのは、本盤に収められた「第8」と「第10」、そして、「大地の歌」を録音できずに世を去ったことである。
この全集の他の諸曲のハイレベルな出来を考えると、これは大変残念なことであったと言わざるを得ない。
特に、「第10」は、2度目のビデオによる全集の中から抜粋したものとなっており、演奏内容は名演ではあるが、二番煎じの誹りを免れない。
他方、「第8」は、2度目の全集に収められた「第8」とほぼ同時期の録音ではあるが、ザルツブルク音楽祭におけるライヴ録音であり、全く別テイク。
本盤は、この「第8」を聴くだけでも十分にお釣りがくるCDと言える。
バーンスタインの晩年の録音は、ほぼすべてがライヴ録音であるのだが、録音を意識していたせいか、限りなくスタジオ録音に近い、いわゆる自己抑制したおとなしめ(と言ってもバーンスタインとしてはという意味であるが)の演奏が多い。
ところが、本盤は、録音を意識していない正真正銘のライヴ録音であり、この猛烈な暴れ振りは、来日時でも披露したバーンスタインのコンサートでの圧倒的な燃焼度を彷彿とさせる。
これほどのハイテンションになった「第8」は、他の演奏では例がなく、同じく劇的な演奏を行ったテンシュテットなども、遠く足元にも及ばない。
猛烈なアッチェレランドの連続や、金管楽器の思い切った最強奏、極端と言ってもいいようなテンポの激変など、考え得るすべての表現を駆使して、「第8」をドラマティックに表現していく。
バーンスタインもあたかも火の玉のように燃えまくっており、あまりの凄さに、合唱団とオーケストラが微妙にずれる点があるところもあり、正真正銘のライヴのスリリングさも満喫することができる。
それでいて、楽曲全体の造型が崩壊することはいささかもなく、聴き終わった後の興奮と感動は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。
録音が、若干オンマイクで、トゥッティの箇所で、音が団子状態になるのが惜しいが、演奏内容の質の高さを考えると、十分に許容範囲であると考える。
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2014年11月02日
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マーラーの「第7」は、最近では多くの指揮者によって数々の名演が成し遂げられており、他の交響曲と比較しても遜色のない演奏回数を誇っているが、本盤の録音当時(1985年)は、マーラーの他の交響曲と比較すると一段下に見られていたのは否めない事実である。
本盤と、ほぼ同時期に録音されたインバル&フランクフルト放送交響楽団による名演の登場によって、現代における「第7」の名演の隆盛への道が開かれたと言っても過言ではないところである。
その意味では、本盤に収められた演奏は、「第7」の真価を広く世に認知させるのに大きく貢献した至高の超名演と高く評価したい。
ここでのバーンスタインの演奏は、他の交響曲におけるアプローチと同様に実に雄弁であり、濃厚さの極みである。
バーンスタインの晩年の演奏は、マーラー以外の作曲家の楽曲においても同様のアプローチをとっており、ブラームスの交響曲全集やドヴォルザークの「第9」、シベリウスの「第2」、チャイコフスキーの「第6」、モーツァルトのレクイエム、ショスタコーヴィチの「第7」など、雄弁ではあるが、あまりにも大仰で表情過多な面が散見され、内容が伴っていない浅薄な凡演に陥ってしまっているものが多い。
ところが、同じようなアプローチでも、マーラーの交響曲や歌曲を指揮すると、他の指揮者の演奏を圧倒する素晴らしい名演が仕上がるという結果になっている。
これは、バーンスタインがマーラーの本質を誰よりも深く理解するとともに、心底から愛着を抱いていたからに他ならず、あたかもマーラーの化身のような指揮であるとさえ言える。
本盤の「第7」も、第1楽章の葬送行進曲における激しい慟哭から天国的な美しさに至るまで、表現の幅は桁外れに広範。
これ以上は求め得ないような彫りの深い濃密な表現が施されており、その情感のこもった音楽は、聴き手の深い感動を呼び起こすのに十分だ。
また、「第7」の愛称の理由でもある第2楽章及び第4楽章の「夜の歌」における情感の豊かな音楽は、至高・至純の美しさを誇っている。
終楽章の光彩陸離たる響きも美しさの極みであり、金管楽器や弦楽器のパワフルな力奏も圧巻の迫力を誇っている。
ここには、まさにオーケストラ演奏を聴く醍醐味があると言えるだろう。
「第7」の評価が低い理由として、終楽章の賑々しさを掲げる者が多いが、バーンスタインが指揮すると、そのような理由に何らの根拠を見出すことができないような内容豊かな音楽に変貌するのが素晴らしい。
録音の当時、やや低迷期にあったとされるニューヨーク・フィルも、バーンスタインの統率の下、最高のパフォーマンスを示しているのも、本名演の大きな魅力の一つであることを忘れてはならない。
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2014年11月01日
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マーラーの「第6」は、マーラーの数ある交響曲の中でも少数派に属する、4楽章形式を踏襲した古典的な形式を維持する交響曲である。
「悲劇的」との愛称もつけられているが、起承転結もはっきりとしており、その内容の深さからして、マーラーの交響曲の総決算にして最高傑作でもある「第9」を予見させるものと言えるのかもしれない。
マーラーの交響曲には、様々な内容が盛り込まれてはいるが、その神髄は、死への恐怖と闘い、それと対置する生への憧憬と妄執である。
これは、「第2」〜「第4」のいわゆる角笛交響曲を除く交響曲においてほぼ当てはまると考えるが、とりわけ「第9」、そしてその前座をつとめる「第6」において顕著であると言えるだろう。
このような人生の重荷を背負ったような内容の交響曲になると、バーンスタインは、まさに水を得た魚のようにマーラー指揮者としての本領を発揮することになる。
本演奏におけるバーンスタインのアプローチは、他の交響曲と同様に濃厚さの極み。
テンポの緩急や強弱の変化、アッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。
それでいて、第3楽章などにおける情感の豊かさは美しさの極みであり、その音楽の表情の起伏の幅は桁外れに大きいものとなっている。
終楽章の畳み掛けていくような生命力溢れる力強い、そして壮絶な表現は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っている。
そして、素晴らしいのはウィーン・フィルの好パフォーマンスであり、バーンスタインの激情的とも言える壮絶な表現に、潤いと深みを加えるのに成功している点も高く評価したいと考える。
これだけの超名演であるにもかかわらず、影響力のあるとある高名な音楽評論家が、バーンスタインの体臭がしてしつこい演奏などと難癖をつけ、ノイマン&チェコ・フィル盤(1995年)や、あるいは数年前に発売され話題を呼んだプレートル&ウィーン交響楽団盤(1991年)をより上位の名演と評価している。
筆者としても、当該高名な評論家が推奨する2つの演奏が名演であることに異論を唱えるつもりは毛頭ない。
しかしながら、本盤に収められたバーンスタイン&ウィーン・フィルの超名演を、これら2つの演奏の下に置く考えには全く賛成できない。
マーラーの「第6」のような壮絶な人間のドラマを表現するには、バーンスタインのようなドラマティックで壮絶な表現こそが必要不可欠であり、バーンスタインの体臭がしようが、しつこい演奏であろうが、そのような些末なことは超名演の評価にいささかの瑕疵を与えるものではないと言えるのではないか。
むしろ、本超名演に匹敵し得るのは、咽頭がんを患った後、健康状態のいい時にのみコンサートを開催していたテンシュテット&ロンドン・フィルによる命がけの渾身の超名演(1991年)だけであり、他の演奏は、到底足元にも及ばないと考える。
併録の「亡き子をしのぶ歌」も超名演であり、バリトンのハンプソンの歌唱も最高のパフォーマンスを誇っていると高く評価したい。
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マーラーの交響曲第5番は、マーラーの数ある交響曲の中でも最も人気のある作品と言えるだろう。
CD時代が到来する以前には、むしろ第1番や第4番が、LP1枚に収まることや曲想の親しみやすさ、簡潔さからポピュラリティを得ていたが、CD時代到来以降は、第5番が、第1番や第4番を凌駕する絶大なる人気を誇っている。
これは、CD1枚におさまる長さということもあるが、それ以上に、マーラーの交響曲が含有する魅力的な特徴のすべてを兼ね備えていることに起因するとも言えるのではないだろうか。
先ずは、マーラー自身も相当に試行錯誤を繰り返したということであるが、巧みで光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが掲げられる。
次いで、マーラーの妻となるアルマ・マーラーへのラブレターとも評される同曲であるが、同曲には、葬送行進曲などに聴かれる陰鬱かつ激情的な音楽から、第4楽章における官能的とも言える極上の天国的な美しい音楽に至るまで、音楽の表情の起伏の幅が極めて大きいものとなっており、ドラマティックな音楽に仕上がっている点が掲げられる。
このように魅力的な同曲だけに、古今東西の様々な指揮者によって、数々の個性的な名演が成し遂げられてきた。
無慈悲なまでに強烈無比なショルティ盤(1970年)、官能的な耽美さを誇るカラヤン盤(1973年)、細部にも拘りを見せた精神分析的なシノーポリ盤(1985年)、劇的で命がけの豪演であるテンシュテット盤(1988年)、瀟洒な味わいとドラマティックな要素が融合したプレートル盤(1991年)、純音楽的なオーケストラの機能美を味わえるマーツァル盤(2003年)など目白押しであるが、これらの数々の名演の更に上を行く至高の超名演こそが、本バーンスタイン盤と言える。
バーンスタインのアプローチは大仰なまでに濃厚なものであり、テンポの緩急や思い切った強弱、ここぞと言う時の猛烈なアッチェレランドの駆使など、マーラーが作曲したドラマティックな音楽を完全に音化し尽くしている点が素晴らしい。
ここでのバーンスタインは、あたかも人生の重荷を背負うが如きマーラーの化身となったかのようであり、単にスコアの音符を音化するにとどまらず、情感の込め方には尋常ならざるものがあり、精神的な深みをいささかも損なっていない点を高く評価したい。
オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、バーンスタインの濃厚かつ劇的な指揮に、適度な潤いと奥行きの深さを付加している点も忘れてはならない。
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