2015年02月

2015年02月28日


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クーベリックの『わが祖国』と言えば、ボストン交響楽団とスタジオ録音した1971年盤や、手兵のバイエルン放送交響楽団とライヴ録音した1984年盤の世評が非常に高い。

近年では、来日時にチェコ・フィルとライヴ録音した1991年盤の感動も忘れ難い。

特に、バランスや解釈の普遍性に鑑みれば、1971年盤こそ随一の名演と評価すべきであるが、本盤の演奏は格別の感動がある。

それは、ビロード革命によりチェコが自由化された後の初の「プラハの春」音楽祭のオープニングコンサート、しかも、クーベリックが祖国を離れてから(冷戦時代を西ドイツで過ごした)42年ぶりに、再び祖国に戻っての演奏会という、特別な事情があるからである。

民主化した祖国の土を再び踏むこととなった1990年の「プラハの春」音楽祭での演奏は、同曲の演奏史に記念すべき1章を刻む名演となった。

まさに、歴史的な演奏会の記録と言うべきであり、ここには、自由を謳歌し、演奏する喜びに満ち溢れたクーベリック&チェコ・フィル、そして聴衆の熱気が大きく支配している。

クーベリックも楽団員も聴衆もチェコの物悲しい伝統的旋律に必ずしも幸福ばかりでなかったチェコの歴史を思い出しながら、やっと訪れた自由の味を噛み締めているのに違いない。

ここに立ち昇る並々ならぬ熱い空間は、完璧な集中力に研ぎ澄まされた演奏と情感を、聴衆と一体となって映し出しているようで、祖国への熱い想いはとても言葉では表せないに違いない。

特に、馴染み深い「モルダウ」は、祖国に対する深い愛情が感じられる至極の名演奏で、「ターボル」の力強いド迫力なども出色であり、「ブラニーク」冒頭の重量感は初めて耳にするような力強さだ。

終曲部の「ヴィシェラフト」の主題が再現される箇所は、あまりの迫力にただただ圧倒されるのみであり、演奏終了後の聴衆の熱狂も当然のことのように思われる。

世にライヴ録音のCDは数多くあろうけれど、この作品のように真に歴史のページに金字塔を建てた演奏はほとんどないだろうし、今後ともなかなかありえないだろう。

今や平和にどっぷりと浸かり切っている日本人にはおよそ想像もつかない、人々の思いが散りばめられた1枚とも言えるだろう。

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classicalmusic at 22:46コメント(0)トラックバック(0)スメタナクーベリック 

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オペラや交響曲の大作を指揮して数々の名演を聴かせてくれたカラヤンは、また同時にオーケストラの小品を指揮しても他の追随を許さない非凡にして絶妙な演奏を披露してくれた。

本盤は、カラヤンが遺した膨大な録音の中から、「モルダウ」「高い城」「前奏曲」「ハンガリー狂詩曲」など選りすぐりの演奏を厳選して新たに編んだのがこのアルバム。

リストとスメタナの交響詩をカラヤン&ベルリン・フィルの洗練された華麗な演奏でオーケストラ演奏の醍醐味を味わうことができる。

名曲とは、優れた楽曲と演奏が一体となって聴き手に示されることが必要であり、ベルリン・フィルという世界最高峰のオーケストラを最大限に生かしてきたカラヤンの実力を、目の当たりにし、そして堪能できるのである。

有名曲を最高の演奏で提供しようとしたカラヤンの面目躍如たる録音で、高度に洗練された演奏による名曲集だ。

カラヤンという大指揮者は、収録作のような入門的名曲をずいぶんと繰り返し録音している。

録音技術の進歩に側して、その時々の若い聴衆を確実に獲得していた訳で、このあたりのマメさが「帝王」の地歩を築いたと言えるだろう。

カラヤンは、大曲であろうと、本盤に収められた小曲であろうと、どのような曲を録音するに際しても決して手抜きをしなかった。

過去の巨匠では、決して小曲をおろそかにしたのではなかろうが、本盤のような小曲集を録音をする指揮者は少数であったこともあり、カラヤンの小曲集の質の高さは群を抜いている(アンチ・カラヤン派からは、それをセールスマンとして批判するのだろうが)。

こうした小品にこそ、演奏者の音楽的力量は如実に現れるものだが、カラヤン&ベルリンフィルのコンビはさすがと言うしかない。

音楽はこのように美しくなければと思わせる名演揃いで、いずれも楽曲の性格を見事にすくい取っていて、全く自然な流れとなっている。

正統性だとか精神性だとかを考えたときに、カラヤンの演奏は賛否両論であるが、純粋に管弦楽の美しさを追い求めるのなら、カラヤンとベルリン・フィルの演奏はまったく文句のつけようがない。

本盤の出来も見事というほかはなく、カラヤンの魅力がストレートに伝わってきて、難しいことを考えずに、オーケストラの華麗な響きに身を委ねられる、まさに完璧な戦略的音楽商品。

特に、名演は「高い城(ヴィシェラフト)」。

チェコ出身の指揮者が行うチェコへの愛着を主体とした演奏とは異なるが、重心の低いベルリン・フィルを統率して、重厚にして壮大な珠玉の名演を成し遂げている。

「モルダウ」は、1980年代の最後の録音の方が味わい深く、そちらの方に軍配をあげたいが、それも高い次元での比較であり、本盤の演奏も名演と評価するのにやぶさかではない。

「前奏曲」は、1980年代にも再録音しているが、統率力においてやや陰りがみられることもあり、本盤の方に軍配をあげたい。

おそらくは、フルトヴェングラーの名演と並んで、同曲の最高の名演と評価したい。

リストの他の2曲もカラヤンならではの名演ぞろいであり、いずれも極め付きの名演が、聴く者に至福のひとときをもたらしてくれる。

こういう演奏を聴くと、カラヤン一流の美学が実は繊細なデリカシーに裏打ちされていることがわかる。

表向きの深みには欠けるのだろうが、個人的には、押し付けがましい精神性のようなものは却って邪魔で、さらっと流れても実は細部まで行き届いた演奏の中にこそ、音楽そのものから立ち現れる精神の深みが感じられてよい。

これはそのよい見本と言えるところであり、本盤は、小曲においても惜しみなく全力を尽くしたカラヤンの至芸を味わうことができる名演集と言うことが出来よう。

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ムラヴィンスキー初来日時(1973年)の衝撃のライヴ録音で、異常とも言える緊迫感で演奏した貴重な記録である。

ムラヴィンスキーの初来日公演は、日本の音楽関係者に大きな衝撃を与え、特にベートーヴェン「第4」での非ドイツ的アプローチによる凄まじい演奏は語り草になっている。

本盤のベートーヴェン「第4」は、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの黄金コンビの凄まじさを存分に味わうことが出来る超名演と高く評価したい。

ムラヴィンスキーのCDは、DGにスタジオ録音したチャイコフスキーの後期3大交響曲を除くと、録音状態が芳しくないのが難点であったが、本盤は信じられないような鮮明な音質であり、これにより、ムラヴィンスキーの透徹したアプローチを存分に味わうことが出来るようになったのは、実に幸運の極みと言える。

この録音は以前ロシアン・ディスクから粗悪な音質でCD化されていたが、今回はNHKに保管されていたマスター・テープを使用し、入念なデジタル・リマスタリングを施した結果、ムラヴィンスキーの全CD中屈指と言える鮮明な音質に仕上がった。

ムラヴィンスキーのベートーヴェン「第4」は、理論的な音楽の造形が明快で、ここまでくると気持ちいい。

第1楽章の冒頭のややゆったりとした序奏部を経ると、終楽章に至るまで疾風の如きハイテンポで疾走する。

ここはテヌートをかけた方がいいと思われる箇所も素っ気なく演奏するなど、全くといいほど飾り気のない演奏であるが、どの箇所をとっても絶妙な繊細なニュアンスに満ち満ちている。

切れ味鋭いアタックも衝撃的であり、ムラヴィンスキーによって鍛え抜かれたレニングラード・フィルの鉄壁のアンサンブルも驚異の一言である。

各奏者とも抜群の巧さを披露しているが、特に、終楽章のファゴットの快速のタンギングの完璧な吹奏は、空前絶後の凄まじさだ。

同様のタイプの演奏としてクライバーの名演(バイエルン国立管弦楽団とのライヴ録音(オルフェオのSACD盤))もあるが、内容の彫りの深さにおいて、ムラヴィンスキーには到底太刀打ちできるものではないと思われる。

アンコールの2曲は、この黄金コンビの自家薬籠中の曲だけに、全く隙のないアンサンブルを披露しており、そうした鉄壁のアンサンブルをベースとした圧倒的な迫力と繊細な抒情が見事にマッチングした超名演だ。

このCDの価値を高めているのは、NHKによる良心的な録音、及びアルトゥスによる優れたリマスタリングにもよる。

会場ノイズを除去しすぎることもなく、徒らな効果も狙うこともなく、きわめて真っ当な音で勝負してくれたのが、何よりありがたい。

このような中で、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

まさにムラヴィンスキーの芸術を知る上で欠く事のできない名SACDの登場と言えるだろう。

いずれにしても、ムラヴィンスキーによる圧倒的な超名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年02月27日


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モーツァルトが作曲した6曲の弦楽五重奏曲のうち、最初期と最円熟期の作品を収めたものであるが、いずれも素晴らしい名演だ。

スメタナ四重奏団の演奏は、いつものとおり自然体のアプローチである。

それは、特に最近の弦楽四重奏団に顕著に見られる個性的な鋭さなどとは無縁であるが、情感豊かな人間的なぬくもりのある演奏ということでは、スメタナ四重奏団の右に出るものはいないのではないかと思われる。

モーツァルトの恒久的な幸福感に充たされた表現が秀逸で、古典派の様式をわきまえたごく正統的な解釈であっても、溢れんばかりの躍動感や、常に新鮮な感覚を失わないアンサンブルの美しさは流石だ。

スメタナ四重奏団の魅力は、弦の国チェコのアンサンブルだけあって、明るく伸びやかな音色を活かした屈託の無さと、隙の無い緊密な合奏力にある。

そうした最高のアンサンブルを誇る四重奏団に、やはりチェコを代表する名手スークを加えた演奏は、我々聴き手に、ゆったりとした気持ちでモーツァルトの音楽を味わうことを可能にする、かけがえの無い理想的な演奏が繰り広げられている。

どの楽器が突出するということはなく、5つの楽器が最美のハーモニーを奏でていくという態様は、まさに弦楽五重奏曲の醍醐味の至高・至純の具現化とも言えるだろう。

中でも第1番での意欲的なダイナミズムの投入は、こうした作曲家の若書きの作品本来の生命を新たに吹き込んでいるような爽快感がある。

一方第5番は、モーツァルト円熟期の豊かな音楽性と巧みな作曲技法を手に取るように再現している味わい深いアンサンブルが聴き所だろう。

弦楽五重奏曲はモーツァルトの室内楽の精髄である味わい深い名作揃いであるが、特殊な編成のため名演が生まれにくいレパートリーでもあり、名演が少ないが、そのような中で、本盤は、まぎれもなく、最高峰に位置づけてもいい名演と高く評価したい。

人気、実力とも絶頂期にあったスメタナ四重奏団に、チェコの至宝スークがヴィオラで加わった本盤が、今なおこの2曲の最高峰として屹立しているのは、練り上げられたアンサンブルと表現が極限の高みに到達し、神々しいまでの光を放っているからに他ならない。

音質も従来盤からして、素晴らしい高音質を誇っていたが、今般のBlu-spec-CD化によって、さらに奏者の息づかいまで聴こえるような、生々しく鮮明な音質に生まれ変わった。

音質が鮮明なだけでなく、楽器ごとの音の分離状態も明瞭で、スメタナ四重奏団&スークの名演を望み得る最高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であった。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたブルックナーの交響曲集についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

特に、第5番、第8番、第9番の超スローテンポによる演奏は、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないだろうか。

他方、第3番や第6番などは、その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

このように、功罪相半ばする交響曲集であると言えるところであるが、チェリビダッケの最晩年の芸風を満喫することができることや、信じ難いような廉価であることを鑑みれば、充分に推薦に値するBOXではないかと考える。

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classicalmusic at 21:00コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーチェリビダッケ 

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ギレリスとセルという名手同士ががっぷり四つに組んで作り上げた名演だ。

クリーヴランド管弦楽団をセルの楽器と称されるまでに徹底的に鍛え上げたセル、そして、鋼鉄のピアニストとの評価がなされたギレリスの両者の組み合わせ。

この両者が組んだ協奏曲は、何か血も涙もないような冷徹な演奏に陥ってしまうのではないかとの懸念もあったが、本盤を聴いて、それは杞憂に終わった。

それどころか、燃えたぎる緊張感の中にも精妙で美しい演奏は、ギレリスのピアノとセル&クリーヴランド管弦楽団の特質が見事に合致したもので、その澄み切った音楽は感興に満ちており、実に懐の深い滋味溢れる名演に仕上がっている。

このような名演になった要因は、最晩年のセルの芸風にあると言えるだろう。

確かに、1960年代前半までのセル&クリーヴランド管弦楽団の演奏は、精緻なアンサンブルが売りであった。

オーケストラのすべての楽器の音が1つになるような鉄壁さは脅威とさえ言えるもので、筆者も、セル亡き後のクリーヴランド管弦楽団のレコーディングにおいて、いまだにその残滓があることに唖然とした記憶がある。

そうしたセルも、1960年代後半の最晩年になると、精緻なアンサンブルを維持しつつ、ある種の柔軟性が出てきたように思う。

それが、単なる老化によるものか、それとも、芸風の深化によるものかは定かではないが、いずれにせよ、演奏に滋味豊かさが加わったのは事実である。

そんな滋味溢れる名演の1つが本盤であると考える。

そうしたセルの演奏に、ギレリスも見事に応え、ここでは、鋼鉄のピアニストの看板を投げ捨て、セルとともに、温かみのある演奏を繰り広げているのが素晴らしい。

それでいて、ピアノとオケ双方が一切の甘えを排した、解釈も含めておそらく最も厳しい「皇帝」演奏とも言える。

隅から隅まで表現がシンクロしており、協奏曲表現としては、これを超える演奏は難しいのではないだろうか。

細かい合わせも見事(ピアノ独奏からオケの総奏になだれ込むところを聴くべし!)で、鳥肌が立つ。

セルはやはり上手いし、最高の演奏効果が実現するギレリスの演奏スタイルも、この作品にピッタリで、もう何から何まで表題通り。

冒頭のカデンツァ、あまりにも眩しいピアノの響きに心打たれ、胸を高鳴らせたのは筆者だけではないはずだ。

両者が共に1つの世界を作り出すことをここまで徹底して実現したこの記録は、多くの人に賞賛されてしかるべきだと思う。

併録の小品は、鋼鉄のピアニストたるギレリスの面目躍如たる、強靭な打鍵をベースとした重戦車の進軍のようなパワフルな演奏で、やや力づくの嫌いはないではなく、こちらの方は名演とは言い難い。

HQCD化によって、音質がより鮮明になった点は評価したい。

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2015年02月26日


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ムラヴィンスキーは、ブルックナーの後期3大交響曲のCDを遺しているが、この3大交響曲の中で、その眼光紙背に徹した峻厳な芸風から、もっとも、ムラヴィンスキーに向いているのは「第9」と言えるのではなかろうか。

どの作品に於いても客観性が重視されるムラヴィンスキーの演奏だが、オルガン的発想から育まれたブルックナーの作品にさしものムラヴィンスキーも悪戦苦闘(版の問題、手法は違えど、朝比奈やヴァントもそうだったのだから当然かもしれない)ぶりも否めないが故に、彼の十八番と言える名盤に見られない彼の個性が随所に見られた本作品。

ムラヴィンスキー晩年の悠揚迫らぬブルックナーであるが、とにかく最初から最後まで峻烈で厳しい演奏と言えるところであり、分厚い弦楽器のトレモロの上に堂々と響きわたる金管群の咆哮が凄まじい。

謹厳な顔からは想像もつかない天真爛漫なスケルツォや終楽章の深い沈潜には、巨匠が到達した孤高の境地がうかがえるようだ。

もちろん、朝比奈やヴァント、そしてかつてのシューリヒトなどの名演に接した者にしてみれば、本盤の演奏は、やや特異な印象を受けるというのが正直なところだ。

第1楽章の終結部のあまり品のいいとは言えないトランペットのヴィブラートや、終楽章の金管楽器による叩きつけるような最強奏などにはどうしても違和感を感じるし、特に後者については無機的にさえ聴こえるほどだ。

木管楽器、特にクラリネットやオーボエの抑揚のない直線的な奏し方も、いかにもロシア的な奏法なのであろうが、ブルックナーの演奏としてはいかがなものであろうか。

終楽章のホルンの柔らかいヴィブラートも、いささか場違いな印象を与える。

しかしながら、こうしたブルックナーの交響曲の演奏スタイルからすると、決してプラスにはならない演奏を行っているレニングラード・フィルを、ムラヴィンスキーは見事に統率し、総体としてムラヴィンスキーならではの個性的な名演を仕上げた点を高く評価したい。

相当な練習を繰り返したことも十分に想像できるところであり、後日談によれば、練習には通常よりも多く時間が取られたらしいが、本人にしてみれば「まだまだ満足出来ない、時間も足りない。」と思われただろう。

自己満足に陥らない作曲者及び作品への畏敬の念がそう物語っている。

前述のように、いわゆる正統派のブルックナー演奏ではなく、あくまでも、ムラヴィンスキーの個の世界にあるブルックナー演奏と言えると思われるが、それでもこれだけ、ムラヴィンスキーの厳格なスコアリーディングに基づく個性的な解釈と、オーケストラに対する卓越した統率力を堪能させてくれれば文句は言えまい。

ムラヴィンスキーという大指揮者の底知れぬ恐ろしさと難しさ、そして深さを感じずにはいられない。

さらにシングルレイヤーによるSACD化により、見違えるような音質に仕上がり、その音質の素晴らしさゆえにムラヴィンスキーのヴァイオリン両翼配置の美しさと強力な金管、浮きあがる木管など実に美しくしかも克明に再現されるのは、素晴らしいの一言である。

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はじめに、筆者は、必ずしもチェリビダッケの良い聴き手ではないということを告白しておかなければならない。

同業他者への罵詈雑言の数々、生前に録音を殆ど許可しなかった(海賊盤しか手に入らなかった)という異常なまでのこだわり、そして、あのハリー・ポッターのマルフォイをそのまま大人にしたような傲岸不遜な風貌も相俟って、どうもチェリビダッケには、胡散臭さを感じていたというのが正直なところだ。

チェリビダッケの没後、ようやく少なからぬライヴ録音が発売されたが、正直言って玉石混交。

あの異常なまでのスローテンポに(すべてとは言わないが)、どうしても必然性が感じられなかった。

チェリビダッケのファンからすれば、聴く耳がないと怒られそうだが、人それぞれに好みや感じ方があるので、それはそれで仕方がないのではないかと思っている次第だ。

しかしながら、数年前に発売された、来日時のブルックナーの「第5」を聴いて、歳をとったせいで丸くなったという面も無きにしも非ずだが、ようやく、チェリビダッケの芸術というものへの理解が少し出来たような気がした。

そして聴いた本盤の「第8」。

確かに、常識はずれのスローテンポではあるが、少なくとも、かつて海賊盤で聴いたミュンヘン・フィルとのライヴ録音の時のようにもたれるというようなことはなく、心行くまで演奏を堪能することができた。

チェリビダッケのブルックナー演奏の性格を一言で言えば、光彩陸離たる豊穣さと言えるのではないか。

どこをとっても隙間風の吹かない重厚さ、壮麗さが支配しており、どんなに金管楽器を最強奏させても、無機的には陥らない。

それでいて、抒情的な箇所の最弱音も、いわゆる痩せたりするということは皆無であり、常に意味のある高踏的な音が鳴り切っている。

これぞ、究極のオーケストラ演奏と高く評価したい。

確かに、通例のブルックナーの演奏からすれば異端とも言えるところであり、これは、あくまでもチェリビダッケの個の世界にあるブルックナーということになるのかもしれない。

それ故に、かつての筆者のように抵抗感を示す聴き手もいるとは思うが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

その超スローなテンポにも入りきらないほどにぎっしりと詰まったメッセージがあり、一瞬の輝きが連なってこそ音楽が生命を持っており、だからこそ細部に執着するのだ。

個と汎の有機的な融合、瞬間と連続が繰り返すチェリビダッケ独自の世界に、もう名演かどうかなど関係ない。

ここにはチェリビダッケが引き起こす音と響きの{出来事}に立ち会うことの幸せがあり、ブルックナーという原石を徹底的にチェリの作法で磨いた作品なのだ。

交響曲史の頂点、とチェリビダッケも語る、怒り、神への栄光を掴み取り、獲得してしまうまでの長い道程、そして鍛え抜かれたミュンヘン・フィルのアンサンブルが、見事に応える。

ペーター・ザドロの強烈なティンパニ、本当に人間が吹いているのだろうかと驚かされる金管群のスタミナなど、圧倒的だ。

ブルックナーが完成させた中でも最も長大な曲に対して、それを上回るような高い精神性で挑むチェリビダッケの崇高な姿がここにある。

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ジャック・ティボーは、20世紀前半のフランスを代表するヴァイオリニストであった。

彼の詩的な自伝『ヴァイオリンは語る』にもあるように、モーツァルトは、彼の精神的な友達であり、モーツァルトの作品は、彼の天性の資質を十二分に羽ばたかせてくれる作品であった。

語弊を恐れずに言えば、モーツァルトを演奏しているときのティボーは、モーツァルト自身だった。

ティボーは、嬉しいにつけ、悲しいにつけ、モーツァルトを終生の友にし、モーツァルトの姿と対話を重ねてきた。

モーツァルトの音楽と一体化したティボー40歳代における壮年期の名演の数々がここに収められている。

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は、若書き故に、ピアノ協奏曲と比較すると作品の質が格段に落ちる。

それ故に、相当に優れた演奏でないと、その魅力を表現することはできないのではないかと思う。

最近では、クレーメルが2度にわたって全集を録音したが、ヴァイオリンを敢えて歌わせず、古楽器奏法的な現代的アプローチで、前衛とも言うべき優れた名演を成し遂げたが、その他の演奏では、なかなかクレーメルのレベルには達していないように思われる。

今回、オーパス蔵からティボーの歴史的な名演が復刻されたが、クレーメルとは何と言う違いであろうか。

ティボーの演奏は、艶やかで、まるで噺家の話芸のような洒落た節回しによって、飄々と弾き進んでいく。

ヴァイオリンをヴィブラートやポルタメントを駆使して、これ以上は求められないような情感豊かに歌い抜いている。

ティボーの凄さは、どんなにヴィブラートやポルタメントを駆使しても、やりすぎの感じがせず、フランス風のエスプリとも言うべき芸術性をいささかも失わうことがないという点にあると考える。

演奏全体は、確かに整理整頓はされていないが、この演奏ならではの味わいがにじみ出ていて、感銘が深い。

まさにセンスの塊とも称すべきであり、これぞ、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲の古典的名演の最高峰と高く評価したい。

オーパス蔵による名復刻を持ってしても、音の古さはどうしてもぬぐい去ることはできないが、ティボーのヴァイオリンについてはかなり鮮明に再現されており、音質においても、かなり満足できるレベルに仕上がっていると評価したい。

このCDは、ティボーという稀有の奏者に具わった極上の気品と美質を、市販されている数多くのCDより遥かに高い水準で私達愛好家に伝えてくれるように思う。

聴いて楽しむだけではなく、クラシック音楽という、人類の大切な文化財の来し方、行く末について考える契機にもしたい、時宜を得た企画である。

広くクラシック音楽愛好家、音楽関係者に推薦したい。

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2015年02月25日


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実に素晴らしいCDが発売された。

アバドとピリスは若い頃から長年にわたって共演を行ってきたお互いを知り尽くした名コンビであるが、その関係の更なる深化を十分に窺い知ることができる演奏になっていると言えるだろう。

先ずは、アバドの近年の充実ぶり、そして円熟ぶりに目を見張らされる。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、鳴かず飛ばずの低迷期に陥り、多くの音楽評論家から民主的とは名ばかりの「甘ちゃん指揮者」などといった芳しからざる綽名を付けられたものであるが、大役の心労から胃癌にかかり、それを克服した後は、それまでとは打って変わったような深みのある名演奏を成し遂げるようになった。

ベルリン・フィルの芸術監督退任後は、主として若くて才能のある奏者とともに、それこそ自らが志向していた「民主的」という名の共に演奏を行うという基本的なスタンスが見事に花を咲かせたと言えるだろう。

本盤においてオーケストラ演奏をつとめているモーツァルト管弦楽団も、2004年にアバドが設立した18歳から26歳までの若手奏者のみで構成される団体であり、アバドを心から慕う奏者とともに、実に楽しげに、そして時には真摯かつ緊張感を持って、モーツァルトの素晴らしい音楽を共に演奏を行っていることが素晴らしい。

そして、ピリスのピアノ演奏も見事。

かつては、女流ピアニストならではの繊細が全面に出たピアニストであり、線の細さを感じさせたものであるが、近年のピリスには線の細さなどいささかも感じさせられることはない。

それどころか、第20番におけるテンポの効果的な振幅を駆使したドラマティックな表現は、強靭な迫力を誇っており、演奏の持つ根源的な力強さは、かつての若きピリスとは別人のような堂々たるピアニズムであると評価し得る。

第27番の澄み切った音楽も、ピリスは持ち前の表現力の幅の広さを活かし、センス満点の細やかなニュアンスを随所に織り込みつつ、きわめて濃密な表現を持って曲想を描き出すのに成功している。

そして、このように真摯かつ彫りの深い演奏を行いつつも、アバド&モーツァルト管弦楽団の演奏とともに楽しげに演奏をするという姿勢も失うことがないのである。

いずれにしても、本盤の演奏は、円熟の境地を迎えたアバド、そしてピリス、そして若き才能のある音楽家が集まったモーツァルト管弦楽団が一体となって、音楽を奏でる楽しさを常に保ちつつ、共に良き音楽を作り上げようと協調し合ったことによって生み出された、珠玉の名演であると高く評価したい。

アバドが生涯に渡って追求し続けた演奏とは、まさに本演奏のようなものであったであろうし、ピリスとしても、会心の出来ではないかと思われるところだ。

音質も、ピアノ曲との相性抜群のSHM−CD盤であり、十分に満足し得るものであると評価したい。

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classicalmusic at 22:45コメント(0)トラックバック(0)ピリスアバド 

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一時代を画した《カルメン》だろう。

アルコア版を用い、カラヤン得意の細やかな作品分析によって作りあげたアルバムのひとつであり、カラヤンの残した最上のオペラ全曲演奏のひとつだ。

カラヤンは、20世紀後半の、音楽の美を作り上げた人物の代表で、オペラはその中心にあったのだが、《カルメン》はそのまた中心ということになる。

力を入れつつ、時を得ないで必ずしも最高のキャストが揃えられず、成功しない場合も多かったのだが、これはうまくいった。

そしてカラヤンの求める《カルメン》像が実現した。

カラヤンのオペラはいずれもゴージャスな響きを追求するもので、オペラ・コミーク版でありながらもグランド・オペラ風に響くのが面白い。

とはいえ、絢爛豪華な旧盤と正反対なフランス風のあっさりとして洒落たタッチで、ビゼー本来の創作意図がこうであったのかとわれわれの感じ方を改めてくれるような演奏である。

オペラのなかの場面それぞれが、まるで一番の見せ場であるかのように聴かせてくれる。

各楽器のあらゆる音を聴きわけ、あらゆるテンポの変化をあやつり(もっとも本作の大部分は非常にゆっくりとしたテンポだが)、あらゆる注釈に注意を払って、カラヤンは情熱的に指揮している。

激しいコントラストで描き出されるビゼーの名作は、録音されてから40年も経って、新鮮さこそ失われたが、聴く者に迫ってくる力は変わらない。

もちろん最高のキャストが揃えられたことが、カラヤンにこういう演奏を可能にさせたわけだ。

強烈なアグネス・バルツァのカルメンは、艶っぽく強気なカルメンで、これ以上ないほど役にフィットしている。

斬新でなく、従来のカルメン像の延長線上にあるのだが、ほとんどその頂点を極めているように思える。

バルツァのカルメンは、中に入っている写真では魔女のようだが、歌は艶があり、かつドラマティックな要素も十分で、本当に申し分がない。

激しく気まぐれなカルメンに、ひたすら迫るドン・ホセとしてのホセ・カレーラスもまた、伝統的ドン・ホセ像の、20世紀の頂点だろう。

特に、2人のラストシーンは特に圧巻で、声だけなのに目の前に2人がいるかのような迫力が感じられる。

そして、バルツァの強烈な個性に満ちたカルメンと、カレーラスの情熱に溢れたホセを重厚なカラヤンの指揮が支えている。

カティア・リッチャレッリのミカエラなど、ほかの歌手たちにもまったく弱点がない。

カラヤンのひたむきな指揮によって、バルツァの威勢のいいカルメンは際立ったものとなり、録音時には最盛期を過ぎていたカレーラスのドン・ホセもまた、朗々と声を響かせることになったのだろう。

このドン・ホセは、ほとんど病的に思えるほどに情熱にあふれ、それでいて大きな困難を抱えていることを声に感じさせる。

また、ホセ・ヴァン・ダムは、いかにも不屈の男エスカミーリョらしく聴こえるし、カティア・リッチャレッリの声は人生に疲れきっている様子を伝えている。

リッチャレッリのミカエラには好き嫌いがあるかも知れないが、第1幕のドン・ホセとの2重唱や第3幕のアリアなど、とてもスケールの大きい歌唱を披露している。

ファン・ダム以外はフランス語を母語としていないので、少し発音に疑問を持つところもあるが、それを補ってあまりある歌唱が楽しめる。

誰もにお薦めできる名盤だが、特に、歌の中に演技力・臨場感を求める人は必聴であろう。

ベルリン・フィルも凄い存在感を示しており、カラヤンの指揮の下、鮮やかにうねるようにスケールの大きい演奏を聴かせる。

オペラ・コミックとしての軽やかで風通しのいい《カルメン》とは正反対の、壮麗なグランド・オペラとしての大悲劇だが、これこそカラヤンの《カルメン》で、たとえこれからこのオペラの演奏が変わってゆくとしても、これは座標ということになるはずだ。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)ビゼーカラヤン 

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卓越した構成力と驚異的な集中力、巨匠リヒテル壮年期の名盤。

発売当初から名盤として広く評価されてきたもので、この演奏を聴きながら、本物のリヒテルってどんな演奏なんだろう、と心を躍らせたものだった。

前へ前へと進むダイナミックな推進力にあふれたさすらい人幻想曲、シューベルトの音楽のロマンが美しく歌われてゆくピアノ・ソナタ第13番、いずれもリヒテルのピアノは聴き応えがある。

さすらい人幻想曲の名演についてはもう何も言う必要はなく、仏ACCディスク大賞受賞したもので、この曲の代表的な録音のひとつ。

シューベルトの名作2曲をリヒテルは卓越した構成力と驚異的な集中力で弾き切っている。

ともに緊迫感が漲り、スケール雄大な中にも豊かな情感を漂わせた名演で、録音以来40余年を経た今日でもベストに推される素晴らしい名盤である。

奥深いロマンティシズムに彩られたシューベルトだが、晩年の演奏より強い緊張感がある。

何よりも素晴らしいのは、壮年期のリヒテルの表現力の幅の広さであろう。

強靭な打鍵から、シューベルト特有の寂寥感溢れる繊細な抒情に至るまで、思い切った強弱や、テンポ設定の変化を駆使して、見事な演奏を成し遂げている。

これだけの様々な技巧を駆使しながらも、音楽がいささかも小さくはならず、スケールの雄大さを損なうことがないのは驚異的ですらある。

特に、ピアノソナタ第13番イ長調は、最晩年の傑作ピアノソナタである第20番と比較して、小イ長調と称されているが、リヒテルの第13番は、後年の第20番にも匹敵するようなスケール雄大な名演に仕上げている。

第13番には、内田光子や、古くはリリー・クラウスの名演もあるが、リヒテルの名演は、これらの名演にも十分に匹敵する深い内容を兼ね備えていると高く評価したい。

一番の魅力を感じたのは、ピアノ・ソナタ第13番の第2楽章のゆったりとした美しいメロディーが、リヒテルの澄んだピアノの音に乗って奏でられてゆくところの、どこまでも深く沈んでいく叙情感で、ファンタスティックな夢の風景のようなピアノの調べが、素敵である。

穏やかに微笑む第1楽章もいいし、最終楽章の柔らかなリズムと豪快さがまた素晴らしい。

次に印象に残ったのが、さすらい人幻想曲の終楽章のピアノで、躍動感みなぎる演奏に、リヒテル壮年期の活力があふれていて、聴いていてワクワクしてきた。

本盤の録音は1963年で、西側へ衝撃のデビューを果たし、欧米を席巻していた頃の録音。

つまり、リヒテルが鉄のカーテンの向こうから登場して間もない頃の録音であるが、当時の西側諸国がリヒテルから受けた衝撃の強さが、本盤を聴いているとよくわかる。

録音が古いために、従来盤では、リヒテルの透徹したタッチを鮮明に味わうことがやや困難な面があったが、HQCD化によって、相当程度、音質が鮮明になったのを大いに歓迎したい。

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2015年02月24日


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カラヤンは、ブルックナーの交響曲の第8番を、DVD作品などを除けば、3度スタジオ録音している。

その中でも本演奏は3度目の最後の録音に当たるものであるが、ダントツの名演であり、他の指揮者による様々な同曲の名演の中でも、上位にランキングされる至高の名演として高く評価したい。

カラヤンの最初の録音は、ベルリン・フィルの芸術監督に就任して間もない頃の演奏であり(1957年盤)、カラヤンがいまだベルリン・フィルを必ずしも掌握しきれていないこともあるせいか、立派ではあるがいささか重々し過ぎる演奏になってしまっていた。

そして、モノラル録音というのも大きなハンディがあると言わざるを得ない。

これに対して、2度目の録音(1975年盤)は、その後に全集に発展する第1弾となったものであるが、カラヤン全盛時代ということもあり、鉄壁のアンサンブルと流麗なレガートの下、金管楽器のブリリアントな響きや肉厚の弦楽合奏、フォーグラーによる雷鳴のようなティンパニなど、いわゆるカラヤンサウンド満載。

音のドラマとしては最高ではあるが、ブルックナーというよりはカラヤンを感じさせる演奏であったことは否めない。

これら1957年盤及び1975年盤に対して、本盤の演奏は、そもそもその性格を大きく異にしている。

ここには、カラヤンサウンドを駆使して圧倒的な音のドラマを構築したかつてのカラヤンの姿はどこにもない。

第1楽章や第2楽章などにはその残滓がわずかに聴き取れるが、第3楽章以降に至っては、自我を抑制し、虚心坦懐に音楽そのものの魅力をダイレクトに伝えていこうという自然体のアプローチの下、滔々と流れる崇高な音楽が流れるのみだ。

カラヤンとしても、最晩年になって漸く到達し得た忘我の境地、至高・至純の清澄な境地であると言うべきであり、これほどの高みに達した名演は、神々しささえ感じさせる荘厳さを湛えているとさえ言える。

このようなカラヤンとともに、美しさの極みとも言うべき名演奏を繰り広げたウィーン・フィルの好パフォーマンスにも大きな拍手を送りたい。

録音については従来CDやSHM−CDでも十分に鮮明ではあるが、いまだにSACD化されていないのは、非常に不思議な気がしている。

これだけの歴史的な名演でもあり、今後、更なる高音質化を大いに望みたい。

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classicalmusic at 22:48コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーカラヤン 

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1964年5月7日 東京文化会館に於けるライヴ録音。

クリュイタンスがパリ音楽院管弦楽団とスタジオ録音した4枚にもわたるラヴェルの管弦楽曲全集は、フランス風のエスプリに満ち溢れた不朽の名盤として名高い。

本盤は、当該全集が録音された直後の来日時のライヴ録音であるが、演奏は実に素晴らしい。

いずれの曲も、スタジオ録音と同様に、フランス風のエスプリに満ち溢れているが、それに加えて、ライヴならではの圧倒的な迫力や即興性があるのが特徴だ。

ここには、優雅さの表出にかけては右に出るもののいないクリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団のコンビが作り出すフランス本場物の“熱さ”が聴ける。

スペイン狂詩曲やラ・ヴァルス、ダフニスとクロエの第2組曲の終結部の猛烈なアッチェレランドと劇的な大強奏や、マ・メール・ロワやクープランの墓での絶妙に揺れ動くテンポ設定の下、各楽章を巧みに描き分けをしていくという、いわゆる即興性は、スタジオ録音には見られない本盤の特徴と言うことが出来よう。

有名な亡き王女のためのパヴァーヌも、決して通俗には陥らず、クリュイタンスが指揮すると、高貴にして優美な抒情で満ち溢れるのはさすがと言うべきであろう。

『日本のファンはパリ音楽院の最後の香りを味わった。ラヴェルは彼らの最も得意とする曲目だけに僕も体がしびれる思いがしたものだ。「亡き王女」はなんとまたエレガントに始まることだろう、これぞ王朝の音楽だ。「ラ・ヴァルス」における多彩な表現力「ダフニスとクロエ」における木管の震えるような魅力についてはどんな絶賛してもしすぎることはないだろう』(宇野 功芳)

かつて発売されていたモノラル録音は、やや音質に難があったが、リマスタリングによりかなり聴きやすい音質に生まれ変わった。

更に、嬉しいのは、本盤には、新たに発見されたステレオ音源が収録されていることで、より一層音質に臨場感が加わったのは素晴らしい限りだ。

クリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団が日本でラヴェルを演奏した記録が高音質で再現される衝撃は大きく、このコンビがEMIにスタジオ録音したラヴェルと同水準のものが、ライヴで再現されるのをCDで聴くのは素晴らしいことだ。

特に、ラ・ヴァルスの劇的な終結部が、モノラルではやや籠った音であったが、かなり鮮明な音質に変化した点が印象的であった。

この演奏を実際に聴いた人にはもちろん、そうでない人にもこれはかけがえのない「アルバム」となることであろう。

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classicalmusic at 20:49コメント(0)トラックバック(0)ラヴェルクリュイタンス 

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エミール・ギレリスとオイゲン・ヨッフム、2人の巨匠ががっぷり四つに組んだ名演として長く語り継がれている名盤。

ギレリスのピアノもヨッフム&ベルリン・フィルも、大規模作品にふさわしい表現のスケールを獲得した、雄大かつ非常に力強い有名な演奏で、これらの作品では筆頭に挙げられ続けている名盤中の名盤。

鋼鉄のピアニストであるギレリスと穏健長老派指揮者のヨッフムという、一見すると水と油のように思える組み合わせであるが、本盤を聴くとそれが杞憂であることがよくわかる。

ヨッフムの温かくも、決して隙間風の吹かない重厚な指揮ぶりがブラームスの渋い曲想に見事にマッチしており、加えて、ブラームスの協奏曲の難曲とも言われるピアノパートを力強い打鍵で弾き抜いていくギレリスの強靭なピアニズム。

演奏が悪かろうはずがなく、ギレリスが遺した最上の録音の1つと言える。

これら両者を、当時、最高の状態にあったベルリン・フィルが好サポートしており、役者三者が揃い踏みの本盤は、両協奏曲の数々の名演の中でも、ベストを争う名演に仕上がっていると高く評価したい。

特に、ギレリスにとっての初録音というのは意外であったが、ピアノ協奏曲第1番が超名演である。

鋼鉄のピアニストと言われたギレリスの鋭いタッチによる素晴らしい演奏で、ひとつひとつの音からして芯が強く、オーケストラとの呼吸も見事である。

冒頭の雷鳴のようなテーリヒェンのティンパニのド迫力には度肝を抜かれるし、随所に見られる枯れた味わいも感動的だ。

ギレリスも、決してテクニックを誇示するのではなく、ブラームスの青雲の志を描いた楽曲への深い共感の下、めまぐるしく変化する楽想を適切に捉えた絶妙の表現を示している点を評価したい。

ギレリスとヨッフム、日本では正当に評価されているとは必ずしも言えない両横綱のぶつかり合いが生んだ、奇跡の結晶と言えるだろう。

ピアノ協奏曲第2番もギレリス晩年の境地を十分に伝える名演で、わけても第3楽章の深い瞑想の世界は、他の演奏を大きく引き離した名演と言える。

このようなギレリスの派手さを抑え、遅めのテンポの深く、静かなピアノに、ヨッフムの指揮は素晴らしくマッチし、素晴らしい名演奏となった。

第1楽章など、確かに迫力には欠けるものの、聴き込む度に味わいの深さが感じられ、演奏のインパクトでは他の演奏に一歩譲るものの、いつまでも聴いていたいと思わせる。

幻想曲集も名演。

さらに今回のリマスタリングで音質にいっそう磨きがかかり、どこをとっても音響が充実しているという意味では、これ以上の演奏は考えられないというくらい気持ちのよい音がリスニング・ルームを埋め尽くしてくれる。

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2015年02月23日


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現代屈指の名ヴァイオリニストとして活躍を続けるアンネ=ゾフィー・ムターの、若干14歳(1978年時)で録音したデビュー盤。

ムターのヴァイオリンの響きがのびのびして気持ちよく、天才少女のデビュー作にありがちな才気煥発ぶりを見せつけられるという感じはなく、年齢やデビュー作であることに関係なく、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲の最高級の演奏が聴ける1枚だ。

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は、最近では小編成やピリオド楽器による演奏が主流となり、本盤のような大オーケストラが演奏することは殆ど稀になりつつある。

若書きで、モーツァルトとしては、他の楽曲に比べると魅力が一段劣るだけに、クレーメルなどによる斬新なアプローチならともかく、矮小化したアプローチでは、楽曲の魅力がますます減じてしまう。

その意味では、このカラヤン盤は素晴らしく、大柄で厚みのあるのが特徴。

カラヤン特有のまろやかで優雅なレガートと、その圧倒的な統率力によって鍛え抜かれたベルリン・フィルの極上の音色が、モーツァルトの若書きのヴァイオリン協奏曲の魅力を引き出すことに大いに貢献している。

ムターは当時14歳であったが、カラヤンの指導の下、とても少女とは言えないような年不相応の大人の演奏を行っており、彼女の豊かな才能を感じさせている。

この時からすでに貫禄十分で、年齢からは想像できないほど安定し、かつ艶やかで、最近の録音に比べるとやや慎重な表現かもしれないが、年齢不相応の風格はやはり驚くべきことであり、張りのある音色は今と変わりない。

当時のムターの演奏は、ロマン派的ではなく、むしろバロックに近い弾むような弾き方をしている。

それが、素直で丁寧な演奏と相俟って、1音1音の粒立ちを際立たせ、他に類を見ない逸品に仕上がっている。

第3番は独奏・伴奏ともやや重厚すぎるかもしれないが、第5番はムターも含めた独奏と、曲想にふさわしい立派な伴奏ともども最上の出来であろう。

ムターは、最近になって小編成のオーケストラによって全集を録音したが、それもムターの個性がより一層深まり、その意味においては名演と言っても良いのかもしれないが、本盤のような高貴かつ優美な魅力には乏しいと言わざるを得ない。

最近のムターは、濃厚というよりも、くど過ぎる表現をしているが、このモーツァルトを録音した頃は、主張と抑制のバランスがとれていて、モーツァルトの持つ、純粋さをそのまま、素直に表現した好演である。

かつてカラヤンと共演したことのあるクリスティアン・フェラス、ゲーザ・アンダなど、その後のレコーリングが途絶えたソリストも多いことから、彼は「ソリスト潰し」と揶揄されているが、今のムターの活躍ぶりをみると決してそうではなく、彼の眼が間違っていなかったことを証明できるのではないだろうか。

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ヤンソンスは、現在ではラトルやゲルギエフなどと並ぶ世界を代表する人気指揮者の1人である。

コンセルトへボウ・アムステルダムとバイエルン放送交響楽団といった超一流の音楽監督を兼務するなど、名実ともに現代を代表する大指揮者であると言っても過言ではあるまい。

ヤンソンスが初来日したのは1986年で、当時、レニングラード・フィルの副指揮者をつとめていたヤンソンスは、ムラヴィンスキーが急病で来日をキャンセルしたこともあって、その代役としてレニングラード・フィルとともに数々の演奏会をこなしたのである。

本盤に収められたショスタコーヴィチの交響曲全集は、いまだヤンソンスが若かった初来日の2年後の録音(1988年)である第7番を皮切りとして、2005年に録音された第13番に至るまで、何と17年もの歳月をかけて録音がなされたものである。

そして、オーケストラについても、副指揮者をつとめていたレニングラード・フィルや現在音楽監督をつとめているバイエルン放送交響楽団、更には、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団、ロンドン・フィル、オスロ・フィルといった世界各国の8つのオーケストラを起用して録音がなされているというのも、本全集の大きな特徴と言えるだろう。

ヤンソンスの芸風は、本全集の17年間に大きく変容しているとは言えるが、基本的には純音楽的なアプローチと言えるのではないだろうか。

ムラヴィンスキーの下で副指揮者をつとめていたにもかかわらず、ムラヴィンスキーのような楽曲の心眼に鋭く切り込んで行くような徹底して凝縮化された凄みのある表現を聴くことはできない。

さりとて、ゲルギエフやスヴェトラーノフ、そしてロジェストヴェンスキーなどによるロシア風の民族色を感じさせるようなアクの強さなども殆ど存在していない。

むしろ、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、他のロシア系の指揮者とは一線を画する洗練された演奏を行っているとさえ言えるだろう。

しかしながら、ヤンソンスの表現は洗練されているからと言って、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていない。

一聴すると淡々と流れていく各フレーズには独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現を駆使していると言えるのかもしれない。

もっとも、17年もの歳月をかけただけに、初期に録音されたものよりも後年の演奏の方がより優れており、とりわけバイエルン放送交響楽団とともに録音した第2番、第3番、第4番、第12番、第13番の5曲は、素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

これに対して、最初の録音であるレニングラード・フィルとの第7番は、いささか踏み込み不足が感じられるところであり、作曲者生誕100年を記念して発売されたコンセルトへボウ・アムステルダムとのライヴ録音(2006年)と比較すると、今一つの演奏であると言わざるを得ない。

その他の交響曲については、出来不出来はあるが、少なくとも今日のヤンソンスの名声を傷つけるような演奏は皆無であり、一定の水準は十分に保った演奏に仕上がっている。

前述のバイエルン放送交響楽団との5曲の名演やコンセルトへボウ・アムステルダムとの第7番の名演等に鑑みれば、ヤンソンスが今後バイエルン放送交響楽団、あるいはコンセルトへボウ・アムステルダムとともに、ショスタコーヴィチの交響曲全集を録音すれば、おそらくは現代を代表する全集との評価を勝ち得ることが可能ではないかとも考えられるところだ。

いずれにしても、本全集は、今日の大指揮者ヤンソンスへの確かな道程を感じさせる全集であり、最初期の第7番を除いては水準以上の演奏で構成されていること、そして破格の廉価であることに鑑みれば、初心者にも安心しておすすめできる素晴らしい全集であると評価したいと考える。

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2015年02月22日


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既に多くのひとに語り尽くされている本盤であるが、それでも誰かに、この演奏の素晴らしさを伝えたくなる稀有の名盤であり、ちょうどテンシュテットが咽頭がんに倒れる直前の録音である。

当初は、全集の中に組み込まれる予定であったが、本演奏の中に、テンシュテットがどうしても取り直しをしたい箇所があったということで、当初発売の全集には組み込まれなかったいう曰くつきの演奏である。

全集の発売後、数年経ってから漸く発売されたが、マーラーの音楽が持つ美しさ、翳り、悲しみ、すべてを徹底的に追求したテンシュテットならではの表現による素晴らしい名演だ。

その深い表現はいつまでも色褪せることなく永遠の光を放っていると言えるところであり、まさにマーラー演奏の1つの規範になりうる、20世紀の偉大な録音と言えるだろう。

テンシュテットが取り直しをしたかどうかは、筆者は承知していないが、そのようなことはいささかも気にならないような見事な出来栄えと言えるところであり、救いのない悲壮感にあふれている。

演奏はこの曲で最も暗く沈鬱で救いのないような演奏で、作曲家がワルターに「この曲を聴いたら自殺者が出るのではないだろうか」と話していたそうだが、まさにこのような演奏が作曲家が考えていたものなのではと考えてしまうくらいテンシュテットの演奏は破滅的で、絶望的な悲愴感が漂った演奏である。

思い切った強弱の変化やテンポ設定、時折垣間見せるアッチェレランドなど、とてもスタジオ録音とは思えないようなドラマティックな表現を行っている。

テンシュテットは、咽頭がんに倒れて以降は、コンサートや録音の機会が著しく減ったが、本盤のような爆演を聴いていると、病に倒れる前であっても、1つ1つの演奏や録音に、いかに命懸けの熱演を行っていたのかがよくわかる。

テンシュテットの語り口も相変わらず素晴らしく、なかでも終楽章の「告別」では、夜の闇がまさに死を思わせるような世界が作り上げられており、ゾッとしてしまう。

特に「告別」後半の長いオーケストラの間奏部分は、前人未到の境地と言ってよいであろう。

ロンドン・フィルも、こうしたテンシュテットの鬼気迫る指揮に、よくついて行っており、独唱のバルツァやケーニッヒともども、望み得る最高のパフォーマンスを示していると言っても過言ではあるまい。

『大地の歌』といえば、クレンペラーやワルターの演奏が有名であるが、これは全く別方向からのアプローチであり、持っていて損はない。

そう何度も聴けるような演奏ではないが、それだけテンシュテットの個性の表れた名演と言えるだろう。

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classicalmusic at 22:47コメント(0)トラックバック(0)マーラーテンシュテット 

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今は大指揮者との評価の高いハイティンクだが、かつて凡庸、平凡の代名詞のように言われていた時期があった。

そんなイメージを引きずってか、ハイティンクのショスタコーヴィチには迫力や厳しさが足りない、という先入観を持っている方は少なくないように思う。

たしかに、スヴェトラーノフばりの耳をつんざく金管の叫びとも、ムラヴィンスキーのような極限の美とも無縁だが、ただ上品なだけの大人しい演奏かというと、それも間違いである。

ことに「第4」「第8」といった阿鼻叫喚の作品で見せる鬼神の如き迫力は、一般にイメージされる温厚で良識のある(悪く言えば、凡庸な)ハイティンク像とは違うものだろう。

両演奏ともに、しっとりと美しい弦と懐の深いサウンドがあってはじめて、「ここぞ」という場面での気迫が生きてくるのである。

つまり、単純な叫びに終わらない含蓄があるのだ。

「第5」も、これほど静かで、心に染み入るアプローチは稀だが、それが却って、この作品の純粋器楽の美しさを浮かび上がらせている。

大声で叫ばなくても、否、敢えて叫ばないからこそ、聴き手の心にズシリと響く。

怒涛のフィナーレにおいても、自らは夢中にならずにオーケストラを燃え上がらせる大家の指揮ぶりだ。

静かなアプローチといえば「第6」第1楽章での、ひたひたと押し寄せる悲しみと嘆きに真の慟哭が認められるし、純粋器楽の美しさといえば「第9」の愉悦感も極上だ。

さて、この全集の白眉は、ヴァラディ(S)、フィッシャー=ディースカウ(Br)を独唱に迎えた「第14」であろう。

この「第14」の持つ独特の構成(2名の独唱者による11の連作歌曲風)は、まさにショスタコーヴィチの愛したマーラー「大地の歌」を彷彿とさせるだけでなく、音楽的な内容の深さにも十分に対峙できるものである。

この曲が一般的に知られていないのは、原曲のテキストがロシア語、または諸外国の詩のロシア語訳のため演奏頻度が少ないせいもあるのだろう。

この演奏では、ロルカ(スペイン)、アポリネール(フランス)、キュヘルベルケ(ロシア)、リルケ(ドイツ)によるテキストが、大胆にもそれぞれの原語で歌われているが、それが斬新であるとともに、きわめて強い説得力を持っている。

ヴァラディもフィッシャー=ディースカウも、まったく綺麗事でない、まるでベルク「ヴォツェック」の登場人物のような鬼気迫る歌唱を見せ、聴き手の魂を凍りつかせる。

ハイティンク指揮のコンセルトヘボウ管も超絶的な技巧で、この室内楽的なスコアの、精緻を極めた再現に成功している。

これは、もっともっと多くの方の耳に届けたい畢生の名演である。

ところで、ハイティンクの上質なアプローチのすべてが功を奏しているというわけではない。

「第7」など、恰幅の良い演奏だが、これは、ハイティンクの上質さが裏目に出ている例だろう。

弦主体のバランス感覚は良いとしても木管の色彩感が淡すぎて、この作品の持つヴァイタリティを表しきれないのである。

「第1」については、あまりにも落ち着き払った演奏により、才気煥発な学生ショスタコーヴィチというよりは、円熟した大人の音楽に聴こえてしまうのが、贅沢な難点と言えるだろう。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)ショスタコーヴィチハイティンク 

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フランスの名指揮者パレーの偉大な遺産とも言うべき素晴らしい名演だ。

本盤のメインでもあるビゼーの劇音楽「アルルの女」第1及び第2組曲や歌劇「カルメン」組曲については、クリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団による素晴らしい名演(1962年)が遺されており、大方の音楽評論家からも、当該演奏こそは両曲の決定的な名演との評価がなされているところである。

これに対して、本演奏は、当該クリュイタンス盤の陰に隠れた、一部のコアなクラシック音楽ファンのみが高く評価している知る人ぞ知る名演の地位に甘んじているが、クリュイタンス盤にも十分に比肩し得るほどの高度な演奏内容を誇っていると言えるだろう。

今般の本演奏の高音質盤の低価格による販売を契機に、多くのクラシック音楽ファンの間で、本演奏について正当な評価がなされることを心より願うものである。

それにしても、パレーの指揮芸術は、例えて言えば、書道における名人の一筆書きのようなものであると言えるだろう。

テンポはやや速めであり、一聴すると淡々と曲想が進行していくような趣きがあり、いささかも華美には走らない即物的で地味な様相の演奏である。

しかしながら、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの薄味の演奏では決してなく、各旋律の端々には細やかなニュアンスが施されており、演奏に込められた内容の濃さにおいては、クリュイタンス盤と比較しても遜色はないものと思われるところだ。

パレーについては、一部の音楽評論家がフランスのシューリヒトと称しているが、まさに至言とも言うべきであり、その指揮芸術には、シューリヒトのそれと同様に、神々しいまでの崇高ささえ湛えていると言えるだろう。

それにしても、淡々と進行していく各旋律に込められたニュアンスの独特の瀟洒な味わい深さには、フランス風のエスプリ漂う抗し難い魅力が満ち溢れていると言えるところであり、これぞフランス音楽の粋とも言うべきものではないかと考えられるところだ。

加えて、デトロイト交響楽団という、最もアメリカ的なオーケストラがこのようなフランス風のエスプリ漂うセンス満点の演奏を展開していることが大変な驚きであると言えるところであり、これはまさしくパレーによる不断の薫陶とともに、その類稀なる統率力の賜物であると言っても過言ではあるまい。

カップリングされているビゼーの序曲「祖国」や、トマの歌劇「ミニョン」序曲や歌劇「レーモン」序曲も、パレーならではの老獪とも言うべきセンス満点の指揮芸術の魅力を十二分に味わうことができる素晴らしい名演と評価したい。

音質は、今から50年以上も前のスタジオ録音であるが、今般のルビジウム・クロック・カッティングによって、極めて鮮明な音質に改善されたことも、本盤の価値をより一層高めるのに大きく貢献していることを忘れてはならない。

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classicalmusic at 00:44コメント(0)トラックバック(0)ビゼー 

2015年02月21日


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ラファエル・クーベリックが音楽監督を務めていた頃にシカゴ交響楽団を指揮した、若さの溢れる覇気に満ちた演奏を収めたアルバム。

若きクーベリックはシカゴ響に1950年から1953年まで在任、たいへん辛い日々を送ったらしいが、若き日のクーベリックが離れざるをえなかった故国に別れを告げ、新しい世界を見据える意気込みが聴ける演奏と言えよう。

「新世界より」と「プラハ」の組み合わせであるが、これは、クーベリックにとっては宿命的なものだ。

クーベリックが祖国に復帰後、チェコ・フィルを指揮して我が祖国などを演奏したが、ラストコンサートとなったのが、この組み合わせによる歴史的演奏会であった。

本盤は、その約40年前のスタジオ録音であるが、録音当時は、この組み合わせでカップリングを行ったわけではないので、こうしたカップリングを試みたオーパス蔵の抜群のセンスの良さを高く評価すべきであろう。

この40年間の間には、チェコも、プラハの春の後のソ連軍侵攻や、長い社会主義政権の後に訪れたビロード革命、そして民主化と激動の時代であったが、それだけに、両演奏の性格は大きく異なる。

もちろん、本盤の演奏は、当該ラストコンサートの感動的名演や、この間に演奏されたベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団との名演などに比較すると、どうしても旗色が悪いが、それでも、本演奏には、他の名演にはない独特の魅力に満ち溢れている。

特に、「新世界より」では、若さ故の勢いがあり、一気呵成に聴かせるエネルギッシュな生命力が見事で、祖国ボヘミアへの郷愁を雄大なスケールで歌い上げている。

それでいて、第2楽章など、ボヘミアの民族色豊かな抒情の歌い方にもいささかの抜かりもない。

「プラハ」も、若さ故の一直線の演奏であるが、それでいて優美にして高貴なニュアンスにも不足はなく、モーツァルトの演奏の理想像を体現している。

39歳という若いクーベリックのアメリカ録音は、オーケストラの自発性にゆだねるところ顕著だった1961年ウィーン盤の流麗かつ自然な演奏に対して、あらゆる面でクーベリックならではの知的に構成され、冴えて品位を失わぬ演奏で、節度ある美しさが印象的なモーツァルトを聴かせてくれる。

オーパス蔵盤の復刻技術とマスタリング感覚の冴えっぷりはいつもながら素晴らしく、特に低音の迫力は我々聴き手の度肝を抜くのに十分である。

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classicalmusic at 22:43コメント(2)トラックバック(0)クーベリックドヴォルザーク 

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弦の国チェコの名門、スメタナ四重奏団は緊密な中にも自在な表現でドヴォルザークの音楽を生き生きと自然に紡ぎ出している。

スメタナ四重奏団は、ドヴォルザークの弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」を果たして何度演奏し、録音したのであろうか。

スメタナ四重奏団によるドヴォルザークの「アメリカ」は1958年のモノラル録音のセッション以来、解散直前の1987年のデジタル・ライヴ盤を含めて都合5種類がリリースされている。

ヴァーツラフ・ノイマンを始めとするプラハ音楽院時代の仲間達で四重奏団が結成されたのは1945年だが、1956年以降はメンバーの交代もなく4人揃って32年の長きに亘ってアンサンブルを組み、常に第一線の水準を保ち続けたこと自体驚異的な事実だ。

本盤の録音は、1966年であり、スメタナ四重奏団としては初期の録音になるのであるが、他の録音にも優るとも劣らない素晴らしい名演と高く評価したい。

この演奏では彼らの壮年期の力強さと、第1回目の録音時の若さに溢れた溌剌とした覇気を併せ持った表現が秀逸で音質も良好だ。

スメタナ四重奏団には、聴き手を驚かすような特別な個性があるわけではない。

彼らの演奏の特徴はメンバーの1人1人が自由闊達な演奏をしながら、アンサンブルとして完璧に統率されていることで、またチェコの弦楽器奏者特有の明るく艶やかな音色と決して重厚になり過ぎない表現の中庸さにあると思う。

あくまでも、楽曲を真摯な姿勢で忠実に弾いて行くという、いわゆるオーソドックスなアプローチを旨としているが、素晴らしいのは、息のあった各奏者の鉄壁のアンサンブルと、チェコ風のローカル色豊かな美しい音色だ。

そのあたたかささえ感じさせる音色と鉄壁のアンサンブルによって、演奏したいずれの楽曲にも、潤いと温もりを与えることになるものと思われる。

したがって、アプローチがオーソドックスなものであっても、平板な演奏にいささかも陥らないのは、こうした点に理由があるものと考える。

第5回目のライヴは彼らの円熟期特有の角がとれた、音楽的にも深い味わいのある演奏で聴き逃せないが、こちらの方がドヴォルザークの斬新な曲想に、より相応しい鮮烈な表現が魅力的だ。

一方、第2楽章〈アンダンテ・カンタービレ〉が特に有名なチャイコフスキーも名演で、情緒に溺れない節度ある演奏は美しい限り。

1966年にスメタナ四重奏団が残した唯一のセッションでそれだけでも貴重な録音だが、調和のとれた美しい演奏だ。

チャイコフスキーの場合は、旋律のあまりの美しさ故に、いたずらに感傷に陥ったりして、芸術作品としての格を落としかねない危険性を孕んでいるが、スメタナ四重奏団の手にかかると、高踏的な美しさを失わないのが見事だ。

HQCD化によって、音質がさらに鮮明になったのも素晴らしく、従来盤に比べて音の分離が良くなり、全体的に音質も雑身がとれて聴き易くなった印象が持てる。

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classicalmusic at 20:49コメント(0)トラックバック(0)スメタナSQドヴォルザーク 

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本盤には、パールマンとジュリーニが、1976年に録音したブラームスのヴァイオリン協奏曲が収められている。

ブラームスならではのロマンティックで香り高いこの名曲は、ベートーヴェンやメンデルスゾーンの作品に劣らぬ人気を誇っており、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の名盤は数多いが、このディスクは独自の光彩を放っている。

このCDは独奏者の名人芸を楽しむような演奏とは対極の演奏であり、真にブラームスを愛するファンには、曲そのもののもつ美しさを心ゆくまで堪能できる、たまらない魅力を持った演奏と言える。

素晴らしい名演だと思うが、その成功の要因は、まずはジュリーニ&シカゴ交響楽団による名演奏にあると言えよう。

ジュリーニは、イタリア人指揮者でありながら、ブラームスなど独墺系の楽曲を得意とした指揮者であるが、本盤でも、そうした実力を大いに発揮している。

ブラームスの重厚なオーケストレーションを、無理なくならすとともに、そこに、イタリア人ならではの温かみのある音色を加えた味わい深い演奏を行っていると言えるのではないか。

どの箇所をとっても、ヒューマニティ溢れる美しさに満ち溢れている。

ブラームスの他の楽曲では、こうしたアプローチが必ずしも功を奏するわけではないが、ブラームスの楽曲の中でも明るさを基調とするヴァイオリン協奏曲の場合は、こうしたジュリーニのアプローチは見事に符合する。

常々ジュリーニはゆったりとしたテンポで十分歌いつつ、巨大な伽藍のようなスケール感を持ったブラームスを聴かせてくれるが、このパールマンとの共演においてもスタンスは一向に変わっていない。

楽譜に刻まれた1音1音を真摯に読み込み、オーケストラをよく歌わせている。

シカゴ交響楽団もジュリーニの指揮の下、実に楽しげに音楽を奏でているようだ。

シカゴ交響楽団の優秀さは改めて言うまでもないが、ここではジュリーニの指揮のもと、低弦の安定した分厚い、いかにもドイツ的なサウンドをつくり上げていて見事である。

こうした骨太で安定感抜群の伴奏の下、若きパールマン(31歳)の、気迫あふれる演奏が印象的で、変幻自在の素晴らしい名技を披露している。

まさに唖然とする巧さと言うべきであるが、ジュリーニの名指揮によって、技量だけが全面に出ることなく、ロマンティックでスケールの大きなブラームスとなっていて、内容の豊かさが伴っているのも素晴らしい。

そのレパートリーなどから、やや軽く見られてしまうパールマンも、ジュリーニの要求によく応え、ブラームスの音楽への献身的な演奏を実現している。

どんな難曲でもスイスイとこなしてしまうパールマンだが、これは少し違っている。

それはまるで挑戦者のようにもの凄い意気込みで、彼の情熱がじかに感じられる数ないもののひとつだろう。

このディスクが仏ACC,ADFディスク大賞、米グラミー賞など、さまざまな栄誉に浴したことも当然の事だろう。

巨匠ジュリーニの見事なリードとサポートにより、パールマンが伸びやかに、そして緻密に聴かせる演奏は今でも同曲随一の名盤としての地位を譲っていない。

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classicalmusic at 00:41コメント(0)トラックバック(0)パールマンジュリーニ 

2015年02月20日


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チェコが世界に誇るカルテットとして活躍したスメタナ四重奏団によるヤナーチェクの弦楽四重奏曲の4度目の録音で、その白熱した名演はライヴでありながら他の追随を許さぬ至芸の域に達している。

これはヤナーチェクの弦楽四重奏曲の数ある録音の中でも最高の名演であるとともに、スメタナ四重奏団の様々な演奏の中でもトップの座を争う超名演と高く評価したい。

本盤をそうした超名演たらしめたのは、ライヴ録音であるということによるのではなかろうか。

スメタナ四重奏団は、本盤の3年前にも、両曲をスタジオ録音している。

それもスメタナ四重奏団の名を辱めることのない名演ではあるが、本盤を前にすれば、太陽の前の星のような存在に過ぎない。

それぐらい、本盤はダントツの出来と言えるだろう。

第1番の第1楽章の冒頭からして、凄まじい緊迫感だ。

この冒頭の悲劇的な主題は、同曲の全体を支配しているが、スメタナ四重奏団は、終楽章に至るまで、冒頭の緊張感を保っており、それでいて随所に見られるモラヴィアの民謡風の旋律の情感豊かな歌い方にもいささかの抜かりはない。

第2番は、第1番をさらに深く、そしてスケールを雄大にした作品であるが、スメタナ四重奏団の鬼気迫る演奏は、他の弦楽四重奏団の追随を許さない至高・至純のレベルに達している。

ヤナーチェクという作曲家の憧憬や焦燥といった心理状態が凄絶なまでに写し出された音楽を、スメタナ四重奏団の精緻を極めたアンサンブルが克明に辿っていくのがこの名演の聴きどころだ。

ライヴ特有の緊張感の中に戦慄が走るような一体感で彼らの演奏が繰り広げられる。

確かに彼らは作曲家と同じチェコの音楽家であり、これらの曲に使われている民族的なエレメントや音楽に隠された言葉のアクセントやイントネーションを悟ることにそれほどの困難は無いかも知れない。

だがスメタナ四重奏団には単に同郷の強みだけではない、言ってみればこうした特異な音楽を普遍的な芸術に昇華する合奏力を持っている。

ヤナーチェクの強いメッセージを感じることができる数少ない演奏だ。

とある小説の登場によって、ヤナーチェクの様々な楽曲の録音は増える傾向にあるが、弦楽四重奏曲のについて、本盤を超える演奏を成し遂げるのは決して容易ではないと考える。

Blu-spec-CD化によって、音質は更に鮮明さを増しており、本盤の超名演の価値をより一層高めることに大きく貢献している。

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classicalmusic at 22:33コメント(0)トラックバック(0)ヤナーチェクスメタナSQ 

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歴史的なヴァイオリニストであるクライスラーによる至高の名演である3大ヴァイオリン協奏曲とモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番などを収めた充実したカップリングのCDだ。

電気録音が始まった直後にEMIがクライスラーを起用して録音した3大協奏曲は、今も色褪せない魅力を持つ。

3大ヴァイオリン協奏曲の中では、クライスラーの芸風と楽曲が符合するメンデルスゾーンを第一に評価したい。

メンデルスゾーンの音楽の2つの性格を、これほど完璧に生かした演奏はない。

クライスラーの演奏の特徴である気品は古典的な精神を、優美な情感はロマン的な情熱と抒情を自然に表現しているし、加えて洗練された感覚がヴィルトゥオジティを目立たせない。

名曲だけに、その後多くの優れた演奏が登場したが、クライスラーほどの完成度に到達しているものはなく、おそらくは、同曲の演奏史上、最美の名演と言えるだろう。

しなやかな歌いまわしから醸し出されるハートフルな表現に心打たれる。

特に、第2楽章のとろけるような美しさにはもはや評価する言葉が追い付かない。

ブレッヒ&ベルリン国立歌劇場管弦楽団の併せ方も見事である。

次いで、ベートーヴェンが名演だ。

力強いベートーヴェンの楽曲の中でも、優美さが際立つ作品だけに、クライスラーの手にかかると、極上の美酒のような名演になる。

親しみをもって語りかけてくるような、安心感をおぼえさせる演奏である。

ブラームスは、録音のせいもあるのだろうが、オーケストラの分厚さが要求される曲だけに、オーケストラがやや力感不足。

ただ、クライスラーのヴァイオリンはどこまでも美しい。

クライスラー自身も3大ヴァイオリン協奏曲を再録音しているが、音の美しさはいくらか衰え、技巧も硬くなって演奏の輝きは旧録音に及ばない。

また、ベルリン国立歌劇場管弦楽団も、ブレッヒの熟達した指揮のもとで模範的に演奏している。

この当時、ベルリンにはエーリッヒ・クライバー、ワルター、フルトヴェングラー、クレンペラーなどの名指揮者が活躍しており、このオーケストラもその一翼を担っていたことも記憶されるべきである。

モーツァルトは、録音がいかにもひどく、クライスラーのヴァイオリンの美しさを堪能するというわけにはいかないのが残念。

なお、本CDには、ブルメスターのメンデルスゾーンが収められているが、これも、クライスラーとは異なった性格の美演。

戦前のヴァイオリニストがいかに個性的であったのかを思い知らされる。

それにしても、歴史的な名演SPを、現代に生きる我々に十分に鑑賞に耐え得るように復刻してくれたのは実に素晴らしいことであり、オーパス蔵に感謝の言葉を捧げたい。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)クライスラー 

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中堅指揮者の代表格となったパーヴォ・ヤルヴィの見通しのいい指揮ぶりと、シンシナティ交響楽団の高い機能性を堪能できる1枚で、明晰な「春の祭典」もさることながら、北欧のロマンに彩られたニールセンも秀逸である。

パーヴォ・ヤルヴィは、父ネーメ・ヤルヴィ譲りの非常にレパートリーの広い指揮者であるが、近年発売されるCDの多種多様ぶりには目を見張るばかりである。

しかも、どの演奏も水準の高い名演に仕上がっており、その音楽性の高さを考慮すれば、今や父ネーメ・ヤルヴィをも凌ぐ存在となったと言えるだろう。

本盤は、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」と、ニールセンの最高傑作との呼び声の高い交響曲第5番という異色のカップリングであるが、こうした点にも、パーヴォ・ヤルヴィの広範なレパートリーの一端を大いに感じることが可能だ。

演奏は、パーヴォ・ヤルヴィの豊かな音楽性を感じさせる素晴らしい名演だ。

確かに、バレエ音楽「春の祭典」で言えば、ブーレーズのようないわゆる前衛的な凄みであるとか、あるいはニールセンの交響曲第5番で言えば、ホーレンシュタインやデイヴィスのような個性的な解釈が施されているわけではない。

したがって、両曲ともに、それぞれ本盤を上回る名演がいくつもあるというのは否めない事実である。

しかしながら、両曲ともに、パーヴォ・ヤルヴィが手塩にかけて薫陶したシンシナティ交響楽団から好パフォーマンスを引き出し、オーケストラ演奏の醍醐味を満喫させてくれる点を高く評価したい。

「春の祭典」は、テラークの優秀録音と相俟って、作曲者が施したオーケストレーションの妙味が、不必要な力みを排しつつ、あますところなく再現されている。

鋭い音がぶつかり合う荒々しさや、聴き手を煽り立てる不協和音ばかりを強調する時代は終わった。

だからといって、20世紀初頭の音楽を精緻に分析するような演奏もどうかと思う。

パーヴォ・ヤルヴィはストラヴィンスキーの書いた不規則なリズムを、巧みに刻みながらスムーズな音楽に変えていく。

音の制御も見事で、オーケストラから刺激音ではなく、明るい音色と響きの分厚さや艶やかさを引き出してみせる。

「春の祭典」という扱いにくい材料を料理し、上質なサウンドに仕上げており、オケが鳴り切る醍醐味を堪能できる。

もちろん、音符の表面をなぞった軽薄な演奏にはいささかも陥っておらず、情感の豊かさ、内容の濃さが感じられるのが素晴らしく、ニールセンでは、忍びよる暗雲との激しい闘争が峻烈に描かれている。

これは、パーヴォ・ヤルヴィの類稀なる豊かな音楽性の勝利と言えるのかもしれない。

いずれにしても、演奏にはどこにも嫌味はなく、ゆったりとした気持ちで音楽に浸ることができるという意味では、本盤はかなり上位にランキングされる名演と言うこともできるだろう。

パーヴォ・ヤルヴィの確かな統率の下、シンシナティ交響楽団の好演ぶりも特筆すべきで、本演奏に華を添えている。

マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音も、本盤の価値を高めるのに大きく貢献している。

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classicalmusic at 00:55コメント(0)トラックバック(0)ヤルヴィストラヴィンスキー 

2015年02月19日


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実に美しい名演だ。

美しいと言うのは、いささか月並みな言い方ではあるが、本盤のような演奏を耳にしては、これ以上の形容詞が思い浮かばない。

それほどまでに、清澄な美しさに満ち溢れた至高・至純の名演と言える。

スメタナ四重奏団は、最近まで世界をリードしてきたアルバン・ベルク四重奏団や今をときめくカルミナ四重奏団のような鋭さや個性的な響きはない。

かつてのカペー四重奏団などの瀟洒な独特の雰囲気があるわけでもない。

そうした特筆するような個性があるわけではないが、他方、各楽器の高い次元での調和や、音色の清澄な美しさにおいては、他のいかなる四重奏団と言えども、スメタナ四重奏団にはかなわないのではないかと考える。

いずれも湧き出るような美しい音色と表現の豊かさ、そして何よりも増して熟達したアンサンブルの巧みさが特徴だろう。

そうしたスメタナ四重奏団にあっては、お国ものの音楽を除けば、最も符号する楽曲はモーツァルトということになるのではないだろうか。

チェコの名ヴァイオリニストであるスークが加わったモーツァルトの弦楽五重奏曲ということになれば、演奏が悪かろうはずがない。

スークのヴィオラは、スメタナ四重奏団と本当にうまく溶け合って、アンサンブルの練り上げは見事の一語に尽きる。

弦楽五重奏というと、四重奏団4人とゲスト1人との間に距離感を残している演奏が多い中、お互いを知り尽くしたスメタナ四重奏団とスークによるこのアンサンブルの緊密な一体感は、まるで常設の五重奏団であるかのようで、室内楽の醍醐味を満喫させてくれる。

そのため、前述のように、至高・至純の美しさを湛えた名演が仕上がることになる。

特に、モーツァルト最晩年の音楽のエッセンスのような第6番の演奏には静謐ささえ漂っており、おそらくは同曲最高の名演である。

ここでも彼らの弦の音色の美しさと細部まで練り上げられた高度な合奏の魅力が聴き所で、特に第3楽章のトリオの部分にあるヴァイオリンとヴィオラのユニゾンで聴かせる鄙びたメロディや終楽章のフーガでのこれほど息の合った、しかも余裕を持った演奏はそうざらにあるものではない。

これほど自然な流れと魅力ある表情で奏でるなんて……、これを成熟した音楽というのだろう。

Blu-spec-CD化によって、より鮮明な音質に生まれ変わっており、従来盤に比べて明瞭かつ新鮮な音質が再現されていて、本盤の価値を大いに高めることになっている。

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classicalmusic at 22:49コメント(0)トラックバック(0)スークスメタナSQ 

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非常にユニークで魅力あふれる全集。

ベルグルンドやヴァンスカの全集に親しんでいる人も、是非一度耳にしていただきたい。

マゼールは、演奏様式をたびたび変えてきた指揮者であるが、1960年代のマゼールは、現代的で尖鋭的なアプローチと、曲の本質に切り込んでいく前進性が見事にマッチングして、個性的な名演を数多く残してきた。

もちろん、曲によってはやり過ぎのものもあるが、特に、ウィーン・フィルやベルリン・フィルと組んだものは、オーケストラの力量もあって、名演が生まれる可能性が非常に高かった。

その一例が、マゼール&ウィーン・フィルによるシベリウスの交響曲全集で、基本的に熱烈と言ってよいほど込められたメッセージが熱い。

素朴な原産地直系の自然体演奏とは、一線を画す、というよりも対極にあるのが当盤のアプローチで、北欧のひんやり感とか、寒々とした雰囲気とは隔絶している。

ここに聴かれるのは「北欧の繊細な情景」ではなくて、地の底から突き上げるようなエネルギッシュな和音であり、色彩感あふれる管弦楽法である。

マゼールの指揮により、シベリウスの音楽がチャイコフスキーやブルックナーの延長線上にあることが改めて良く分かる。

きつく堅く締め上げられたようなフォルムに、ウィーン・フィルの緊迫サウンドが刺激たっぷりの音彩を付加した、少々やり過ぎなくらい強烈な印象を与える個性派名演と言えよう。

粗野なまでの迫力で押してくる演奏で、ここまでウィーン・フィルを手玉にとるマゼールは凄いとも言える。

あのウィーン・フィルを使って、ここまで自分の思いを表現しているマゼールの手腕は大したものだ。

北欧風という意味では、かなり異なった性格の演奏であるが、楽曲の本質にぐいぐいと迫っていく鋭いアプローチが見事であり、シベリウスの交響曲の我々が通常の演奏ではなかなか知りえない側面に光を当てた異色の名演ということができる。

北欧的な冷え切った空気感を感じさせる本場物のオーケストラによる演奏も良いが、こういう情熱のほとばしる熱血的で激しく燃えたぎった演奏もたまには聴きたい。

後年に、マゼールはピッツバーク交響楽団と全集を録音しているが、とても、このウィーン・フィルとの全集の水準には達していない。

いずれの交響曲も一聴の価値のある名演揃いであるが、特に、「第1」が超名演で、マゼールの底知れない異様な才能がヒシヒシと伝わってきて身震いする。

録音は、英デッカならではの鮮明なもので、アナログ的な、温もりをもった音像で現在主流のデジタル的なシャープな音像とは違うが、オーケストラの立体分離がよい優秀録音だと思う。

シベリウス交響曲のベスト盤かと聞かれると答えるのに躊躇するが、楽しめるCDであることは間違いない。

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classicalmusic at 20:49コメント(0)トラックバック(0)シベリウスマゼール 

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これはシノーポリの傑作だ。

シノーポリの遺した数々の録音の中でもトップの座を争う名演であるだけでなく、シューマンの交響曲第2番の様々な指揮者による演奏に冠絶する至高の超名演と高く評価したい。

精神医学者でもあり、作曲家でもあったシノーポリの演奏は、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰さを特徴としている。

このような分析的なアプローチに符号した楽曲では、例えばマーラーの交響曲などが該当するが、比類のない名演を成し遂げることになった。

他方、分析的なアプローチにそぐわない楽曲においては、極端なスローテンポに陥ったり、はたまた音楽の自然な流れを損なったりするなど、今一つの演奏の陥ってしまうこともあったと言える。

ところが、本盤に収められたシューマンの交響曲第2番においては、かかる分析的なアプローチが見事なまでに功を奏していると言えるのではないか。

シューマンは長年に渡って精神病を患っていたが、とりわけこの第2番を作曲していた時は、死と隣り合わせにいたとさえ言われている。

シノーポリは本演奏において、かかるシューマンの心の慟哭や絶望感を徹底的に追求するとともに抉り出し、持ち味の分析的なアプローチによって完全に音化することを試みており、他のいかなる指揮者による演奏よりも彫りの深さが際立っている。

とりわけ第3楽章の思い入れたっぷりの濃厚な表現は、心胆寒からしめるほどの凄みがあると言えるところであり、その奥深い情感は我々聴き手の肺腑を打つのに十分であるとさえ言えるだろう。

また、これだけ細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現を行っているにもかかわらず、むしろ音楽がいささかも淀みなく流麗に流れていくというのは、ウィーン・フィルによる美演によるところが大きいと言えるのではないだろうか。

さすがのシノーポリも、これだけの高みに達した演奏を再度行うことは至難を極めたと考えられる。

というのも、シノーポリは、その後、シュターツカペレ・ドレスデンとともにシューマンの交響曲全集を録音することになるのであるが、当該全集に含まれる第2番の演奏には、とても本演奏のような魅力は備わっているとは言えないからである。

なお、カップリングの「マンフレッド」序曲は、交響曲第2番のように随一の名演との評価は困難であるが、それでも名演との評価をするのにいささかも躊躇をするものではない。

音質は従来CD盤でも比較的満足できる音質であるが、これだけの名演であるにもかかわらず、これまでSHM−CD化すらされていないというのは実に不思議な気がする。

シノーポリによる至高の超名演でもあり、今後はSHM−CD化、さらにはSACD化を図るなど、高音質化への取組を大いに望んでおきたいと考える。

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classicalmusic at 00:49コメント(0)トラックバック(0)シューマンシノーポリ 

2015年02月18日


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黒澤明監督の映画は、一部の例外を除いて「侍の映画」と言えるのではないか。

「侍」が直接的な表題となった映画は、黒澤映画の最高傑作との呼び声の高い「七人の侍」のみであるが、黒澤映画における「侍」とは、我欲には見向きもせず、一定の信念の下に生き、その信念を曲げなければならない時には死をも厭わない者を指すことが多い。

「七人の侍」に登場する「侍」も、もちろん食事にありつけたと言う面もあるが、自分とは全く関わりのない村人たちを守るために命を懸けるという者である。

「七人の侍」が、30本存在している黒澤映画の中でも世界的に最も賞賛されている映画であるが故に、「侍」のイメージについては、死をものともせずに信念のために生きる者を指すということが今や国際的にも定着していると言える。

そして、黒澤映画の「侍」は、いわゆる時代劇に登場する武士の範疇にはとどまらない。

時には、現代劇における一般市民すら「侍」となり得る。

その最たる例が「生きる」の主人公である市役所の市民課長、渡邊勘治である。

長男を男手一つで育てあげ、退職間近まで無遅刻無欠勤で市役所の職員を務めていたある日、胃癌を患っていることを知る。

絶望感に苛まれた渡邊市民課長は、死までの短い間に何をすべきか思い悩む。

その過程の中で、健康な時には、市民課長として歯牙にもかけなかった公園の整備に余命を捧げることを決意。

様々な障害を乗り越えて公園を完成した後、雪の降りしきる中、新公園のブランコで「ゴンドラの唄」を口ずさみながら従容と死んでいく。

この渡邊市民課長こそ、「侍」と言わずして何であろうか。

「生きる」には、かかるゴンドラのシーンの他にも、胃癌を患っていることがわかり、病院を後にした時の一時的な無音化(渡邊市民課長の絶望感を絶妙に表現)、誕生日のパーティをバックに渡邊市民課長が公園の整備に命を捧げることを決意するシーンなど、映画史上にも残る名シーンが満載であり、かかる決意の後は、渡邊市民課長の通夜の場面に移り、そこから過去の回想シーンを巧みに織り交ぜながらストーリーが展開していくという脚本の巧みさは殆ど神業の領域。

諸説はあると思うが、筆者は、「生きる」こそは、いわゆる「侍の映画」たる黒澤映画の真骨頂であり、最高傑作と高く評価したいと考えている。

少年オプーの成長を描いた大河ドラマ、「大地のうた」「大河のうた」「大樹のうた」の3部作で世界的にも著名なインドの映画監督の巨匠、サタジット・レイが、最も好きな黒澤映画として「生きる」を掲げたのも十分に頷ける話だ。

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classicalmusic at 22:53コメント(0)トラックバック(0)筆者のこと 

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いずれも名演だ。

「エロイカ」は死の2年前、「未完成」は1年前の録音であり、モントゥーの最晩年の演奏ということになるが、気力が充実していて、老いを感じさせない。

全体としては音楽のスケールが大きく、懐が深く、やや速めのテンポの中に、絶妙なニュアンスや表現が込められている。

これは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠だけが成し得る至芸と言うべきであり、その味わい深さは、他のどの演奏にも優るとも劣らない至高・至純の境地に達している。

「エロイカ」は、全体的にテンポが速いし、重々しくなるのを意識的に避けた感じがする。

むしろ、軽快ささえ感じさせるが、それでいて、随所に温かみのあるフレージングが支配しており、演奏全体に潤いを与えていることを忘れてはならない。

自在に変化するスフォルツァンドといい、強弱の妙といい、小気味よいリズムと心地よいテンポの揺らめきといい、モントゥーが指揮する至高の「エロイカ」である。

この演奏には力んだり、人を驚かすところは一切ないが、第1楽章での威風堂々たる風格、葬送行進曲の哀愁とそこはかとなく感じさせる滋味など、曲に合致したイデーも余すところなく表出しており、しかもオーケストラの演奏力、音色の美しさも万全である。

モントゥーのベートーヴェン演奏には、今ではあまり聴けない、旧き佳き時代のあたたかみがある(しかし、決して古臭くない)。

第1楽章の終結部のトランペットも楽譜どおりであるが、それでも弱々しさを感じさせないのは、この演奏が、威容と崇高さを湛えている証左であると考える。

終楽章のホルンの朗々たる吹奏は、他のどの演奏にも負けないぐらいの力強さであり、演奏全体の制度設計の巧さもさすがと言うべきであろう。

コンセルトヘボウ・アムステルダムの芳醇な響きと両翼配置の効果もあってか、重層的に書かれた副旋律が見事に絡み合い、構造が浮き彫りになっている演奏である。

ベートーヴェンが推敲に推敲を重ね、目指したであろう、ドラマと音響構造の両立がここまで昇華された演奏は他では聴けない。

「未完成」は、テンポ設定が緩急自在であり、その絶妙さは他のどの演奏よりも優れている。

第1楽章では、第1主題を速めに、第2主題をややゆったりとしたテンポ設定としているが、その効果は抜群で、いい意味でのメリハリの効いた名演奏に仕上がっている。

第2楽章は、全体としたゆったりとしたテンポで進行させ、白眉の名旋律を徹底して歌い抜いているのが素晴らしい。

これは、あたかも、モントゥーの輝かしい人生の最後のゴールを祝福するような趣きさえ感じさせて、実に感動的だ。

心して傾聴に値する名演、名録音である。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンシューベルト 

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先般CD3枚にも及ぶヨハン・ハルヴォルセンの管弦楽作品集をスタジオ録音したネーメ・ヤルヴィであるが、今度は同じくノルウェーの作曲家、ヨハン・スヴェンセンの管弦楽作品集をスタジオ録音した。

ネーメ・ヤルヴィは録音当時74歳の高齢であり、近年では息子のパーヴォ・ヤルヴィの華々しい活躍の陰に隠れがちと言えなくもないが、それでも、果敢に新しいレパートリーの開拓に勤しむ飽くなき姿勢には、我々聴き手としてもただただ頭を下げざるを得ないところだ。

ネーメ・ヤルヴィに対しては、一部の評論家からは何でも屋のレッテルが貼られ、必ずしも芳しい評価がなされているとはいえないようであるが、祖国の作曲家であるトゥヴィンをはじめとして、ステンハンマルやアルヴェーン、そしてゲーゼやホルンボーなど、北欧の知られざる作曲家の傑作の数々を広く世に認知させてきた功績は高く評価しなければならないのではないかと思われるところである。

確かに、誰も録音を行っていない楽曲は別として、1つ1つの演奏に限ってみれば、より優れた演奏が他に存在している場合が多いとも言えるが、それでも水準以上の演奏には仕上がっていると言えるところであり、巷間言われているような粗製濫造にはいささかも陥っていないと言えるのではないだろうか。

本盤におさめられたヨハン・スヴェンセンの管弦楽作品集については、そもそもいずれの楽曲も輸入盤でしか手に入らないものだけに、まさにネーメ・ヤルヴィの独壇場。

筆者の所有CDで見ても、アンデルセン&ベルゲン交響楽団による演奏(1988年)しか持ち合わせておらず、比較に値する演奏が稀少という意味において本演奏について公平な評価を下すことはなかなかに困難であるが、本演奏に虚心坦懐に耳を傾ける限りにおいては、いかにもネーメ・ヤルヴィならではの聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さが光った名演奏と言うことができるところだ。

スヴェンセンは、グリーグとほぼ同時代に活躍した作曲家であるが、国外での活動が多かったこともあって、グリーグの作品ほどに民族色の濃さは感じられないと言える。

それでも、ネーメ・ヤルヴィは、各楽曲の曲想を明朗に描き出すとともに、巧みな表情づけを行うことによって、実に味わい深い演奏を行っていると言えるところであり、演奏全体に漂っている豊かな情感は、まさに北欧ノルウェーの音楽以外の何物ではないと言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、スヴェンセンの知られざる名作の数々に光を当てることに大きく貢献した素晴らしい名演と高く評価したい。

今後は、スヴェンセンが作曲した2曲の交響曲やヴァイオリン協奏曲なども録音がなされるのではないかとも考えられるが、続編に大いに期待したいと考える。

音質は、従来CD盤ではあるが、十分に満足できる良好なものと評価したい。

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classicalmusic at 00:38コメント(0)トラックバック(0)ヤルヴィ 

2015年02月17日


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ハルヴォルセンの管弦楽作品集の第3弾であるが、第1弾及び第2弾と同様に、知る人ぞ知る作曲家の名作を広く認知させるのに大きく貢献する素晴らしい名演だ。

ネーメ・ヤルヴィは、広範なレパートリーを誇る指揮者であり、一般にはあまり知られていない作品などについても数多く録音してきた。

ただ、そのすべてが名演というわけではなく、一部の作品の演奏については粗製濫造との批判があったのも事実である。

しかしながら、北欧の作曲家の作品については、ヤルヴィ自身が北欧エストニア出身ということもあり、当たり外れが殆どない名演揃いであると言えよう。

本盤も、そうしたヤルヴィ得意の北欧の作曲家の作品だけに、第1集及び第2集に劣らない名演を成し遂げている。

ハルヴォルセンは、やや前の世代のグリーグと比較すると、ノルウェー国内は別としてその作品は殆ど認知されておらず、知る人ぞ知る存在に甘んじている。

作品の質の高さ、とりわけ交響曲などの大規模な作品については、グリーグを上回る事績を遺しているにもかかわらず、現在においてもそのような存在にとどめおかれているというのは、大変残念な事態であると言えるだろう。

本盤には、ハルヴォルセンが作曲した最後の交響曲である第3番を軸として、世界初録音となる「黒鳥」や「カラスの森のワタリガラスの結婚」をはじめ、管弦楽の小品が収められているが、いずれも、グリーグ以上に北欧の大自然を彷彿とさせる親しみやすい旋律の数々が盛り込まれた名作揃いである。

特に、交響曲第3番については、ハルヴォルセン自身が抒情交響曲と称したことからもわかるように、北欧の白夜を思わせるような繊細な抒情に満ち溢れた美しい旋律が満載の作品であるが、ヤルヴィは、聴かせどころのツボを心得た見事な演奏を行っているのが素晴らしい。

とりわけ第2楽章のような抒情的な箇所では心を込め抜いて歌い抜くなど、情感の豊かさにおいてもいささかの不足はない。

「黒鳥」、「結婚行進曲」、「カラスの森のワタリガラスの結婚」、「フォッセグリム」といった各小品も、北欧音楽を得意とするヤルヴィの面目躍如たる名演に仕上がっているが、特に素晴らしいのは、「フォッセグリム」と「ベルゲンシアーナ」であろう。

これら両曲を構成する各組曲や変奏曲を巧みに描き分け、楽曲全体を的確に纏めあげているのは、今や老匠となったヤルヴィならではの卓越した至芸である。

録音も鮮明であり、素晴らしい音質であると評価したい。

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ネーメ・ヤルヴィ&ベルゲン・フィルによるヨハン・ハルヴォルセン(1864-1935)の管弦楽曲集の第2弾であるが、第1弾に優るとも劣らない名演だ。

ハルヴォルセンは、エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)の後継者としてノルウェー楽壇を支えた、フィンランドのヤン・シベリウス(1865-1957)やデンマークのカール・ニールセン(1865-1931)と同世代の音楽家である。

ヤルヴィは、若い頃から、特に北欧の知られざる作曲家の名作を熱心に録音してきたが、老いてもなおそうした情熱を失わない姿勢に大いに敬意を表したい。

それにしても、ハルヴォルセンの管弦楽曲は実に親しみやすい。

どの曲も、北欧の大自然を彷彿とさせるような美しい抒情豊かな旋律に満ち溢れている。

ノルウェーの作曲家と言えば、同時代の作曲家グリーグばかりに光が当たっているが、その作品の質の高さにおいては、殆ど遜色がないと言えるのではなかろうか。

第1集には「仮面舞踏会」からの組曲というニールセンと比較したくなってしまう作品があったが、この第2集はどうしてもグリーグと比較したくなってしまう作品集だ。

特に、本盤に収められた交響曲第2番は、グリーグが習作の域を出ない交響曲しか遺していないだけに、ハルヴォルセンの偉大さがよりクローズアップされる。

グリーグは、交響曲を1曲作ったものの、同時代のノルウェーの作曲家スヴェンセン(1840-1911)の作品を聴いてその交響曲を以後演奏しないこととしたほどで、この分野ではハルヴォルセンに分があったと言えるだろう。

「宿命」というベートーヴェンの「運命」、チャイコフスキーの「悲愴」などと同じモティーフで作られた非常に重厚感あふれる大曲である。

第1番もなかなかの名作ではあったが、第2番には、チャイコフスキーの後期3大交響曲に顕著に見られるような運命のモティーフを効果的に用いるなど、とてもノルウェーのローカルな作曲家の範疇にはおさまりきらないような傑作と言えるのではないか。

後期ロマン派から近代国民派において少々古典的な手法の交響曲であるが、ノルウェーにおいてグリークが満足に交響作品を生み出さなかった事を考えると、この作品は十分価値のある作品だと思う。

特に、3作品の内、当第2番はダイナミズム・規模とも第一級の交響曲と言えるだろう。

「ノルウェー舞曲」も、グリーグの作品も名作ではあったが、ハルヴォルセンのそれは、民族色の濃さにおいて、違った魅力がある。

「ノルウェーの旋律」も、ヴァイオリンのソロとオーケストラが巧みに融合された実に美しい作品だ。

いずれにしても、本盤は、ハルヴォルセンの再評価に繋がることについて、大いに期待を持てる名CDと高く評価したい。

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ネーメ・ヤルヴィは、きわめてレパートリーの広い指揮者であるが、若き頃より、特に北欧の知られざる作品を数多く録音してきた。

そのようなヤルヴィをなんでも屋であるなどと揶揄する批評も目にすることがよくあるが、殆どの指揮者が指揮することがない北欧の知られざる名曲を広く世に知らしめたという業績は、大きく称えざるを得ないのではないかと考える。

本盤も、そうしたヤルヴィの偉大な業績の1つと言える。

最近では、息子のパーヴォ・ヤルヴィが進境著しく、名演の数々を生み出していることから、ひと頃に比べると影が薄くなったきらいがないわけではないが、本盤のような名演を聴くと、老いてもなお健在であることがよくわかる。

フィンランドのヤン・シベリウス(1865-1957)やデンマークのカール・ニールセン(1865-1931)と同世代のノルウェーの作曲家ヨハン・ハルヴォルセン(1864-1935)は、まさしくエドヴァルド・グリーグ(1843-1907)の後継者と言える存在で、グリーグの姪を妻にした人でもある。

ハルヴォルセンは、そうしたグリーグとほぼ同時期のノルウェーの作曲家であるが、グリーグが国際的な認知を得ているのに対して、国際的には殆ど知られていないと言っても過言ではない。

元はヴァイオリニストとしてデビューし、グリーグが芸術監督を務めたベルゲン・フィル(当時はハーモニエンという名称だった)でコンサート・マスターを務めたうえ、その首席指揮者ともなり、また作曲家としても活躍して、国立劇場の音楽監督も務めた。

特に、グリーグがあまり得意としなかった交響曲などの大作の分野においては、本盤の交響曲第1番の充実ぶりを聴くと、一歩先んじていたのではないかとさえ思えるほどだ。

そして本盤に収められた各楽曲を聴くと、実に北欧風の親しみやすい旋律に満ち溢れた名作揃いであり、グリーグの諸作品と比較しても、作品の質が劣るとは必ずしも言えないのではないかとも考えられる。

一聴してみると、やはりシベリウスやニールセンのような、初めて聴いたときから惹きつけられるような感じがやや弱く、彼らと同等の世界的知名度を得るには至らなかった理由がなんとなくわかる気もしてくるが、そうした比較をせずに何度か聴いているとそのうち独自の魅力を感じられるようになってくる。

演奏内容も、いずれもヤルヴィならではの聴かせどころのツボを心得た名演であり、ハルヴォルセンの知られざる名作の数々を広く世に知らしめるという意味でも、きわめて意義の大きい素晴らしいCDの登場であり、高く評価したい。

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2015年02月16日


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本盤には、若きキーシン(17歳)が最晩年のカラヤン(80歳)&ベルリン・フィルと組んで行った唯一の演奏であるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が収められているが、至高の超名演と高く評価したい。

それは、何よりも、バックをカラヤン&ベルリン・フィルがつとめたというのが大きいと言える。

本盤の演奏は、カラヤンのベルリンでの最後のコンサートとなったジルヴェスターコンサート(1988年12月31日)の直前に収録されたものとされている(加えて、ベルリン・フィルとのラスト・レコーディングにも相当する)。

もっとも、CDにはライヴ・レコーディングと表記されており、演奏終了後の拍手が収録されていることから、ジルヴェスターコンサートでの実演をベースにしつつ、一部にゲネプロでの演奏が編集されているのではないかとも考えられるところだ。

当時のカラヤンとベルリン・フィルの関係は決裂寸前。

そして、カラヤンの健康も歩行すら困難な最悪の状況であり、コンサートが行われたこと自体が奇跡でもあった。

それだけに、本演奏にかけるカラヤンの凄まじいまでの執念は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な迫力を有している。

1960年代や1970年代のカラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代の演奏のような、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマはもはや本演奏においては殆ど聴くことができない。

そして、カラヤン自身の統率力にも衰えが見られるなど、演奏の完成度という意味においては随所に瑕疵が散見されると言わざるを得ないが、前述のような本演奏にかける凄まじいまでの執念と、そしてキーシンという若き才能のあるピアニストを慈しむような懐の深い指揮が、本演奏をして至高の超名演たらしめているのであると考える。

テンポは極めてゆったりとしたものであるが、これはカラヤンが自らの波乱に満ちた生涯を、そしてベルリンで行った数々の演奏会を自省の気持ちを込めて振り返るような趣きもあると言えるところであり、本演奏は、カラヤンが最晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にあるとも言えるであろう。

キーシンのピアノ演奏も、カラヤンに対していささかも引けを取っておらず、卓越した技量をベースとして、強靱な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現力の幅は桁外れに広く、いかにもキーシンならではの堂々たるピアニズムを展開していると評価したい。

併録のスクリャービンのピアノ曲も、キーシンならではの豊かな表現力が発揮された素晴らしい名演に仕上がっている。

音質は1988年のデジタル・ライヴ・レコーディングであるが、従来盤でも十分に満足できる高音質である。

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classicalmusic at 22:37コメント(0)トラックバック(0)キーシンカラヤン 

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いかにもフルトヴェングラーならではの彫りの深い素晴らしい名演だ。

本演奏はスタジオ録音であり、セリフのみの箇所を大幅にカットしていることもあって、ライヴ録音における極めて燃焼度の高いドラマティックな演奏を成し遂げる常々のフルトヴェングラーとはいささか異なった演奏と言えるが、悠揚迫らぬインテンポによって濃密に曲想を進めていくなど深沈とした奥深さを湛えているのが素晴らしい。

なお、フルトヴェングラーには、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」については、本演奏のほかにも1950年のザルツブルク音楽祭でのライヴ録音盤(数年前にオーパスが見事な復刻を行った)があり、それは本演奏とは異なって極めてドラマティックな演奏であるとともに、歌手陣がきわめて豪華であることからそちらの方を上位に置く聴き手も多いとは思うが、本演奏にも優れた箇所も多く存在するところであり、容易には優劣はつけられないのではないだろうか。

また、本演奏においては各登場人物の深層心理に鋭く切り込んでいく彫りの深さが際立っており、とりわけ第2幕冒頭の序奏などにおいては、1950年盤以上に奥行きのある表現を展開しているなど、その筆舌には尽くし難いような深沈たる荘重さは、フルトヴェングラーとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのではないだろうか。

また、フルトヴェングラーは、1950年盤と同様に、レオノーレ序曲第3番を、マーラーが慣習づけた流儀にしたがって終結部(第2幕第2場)の直前に配置しているが、これが冒頭の序曲ともども凄い演奏だ。

両曲ともに冒頭からしていわゆるフルトヴェングラー節全開。

あたかも交響曲に接するのと同様のアプローチで、劇的でなおかつ重厚な演奏を繰り広げており、スケールは雄渾の極み。

とりわけレオノーレ序曲第3番においては、終結部のトゥッティに向けて畳み掛けていくような緊迫感と力強さは圧巻の迫力を誇っている。

このように、序曲及びレオノーレ序曲第3番だけでも腹がいっぱいになるほどの密度の濃い演奏を成し遂げていると言えるだろう。

歌手陣はさすがに1950年盤の豪華さには劣っているが、それでもマルタ・メードルやヴォルフガング・ヴィントガッセン、オットー・エーデルマンなどの一流歌手陣が最高の歌唱を繰り広げている。

フルトヴェングラーの統率の下、最高のパフォーマンスを示したウィーン・フィルやウィーン国立歌劇場合唱団にも大きな拍手を送りたい。

録音は1953年のスタジオ録音であり、従来盤でもフルトヴェングラーのCDとしては比較的満足できる音質である。

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classicalmusic at 20:53コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンフルトヴェングラー 

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本盤は、小澤征爾のEMIレーベルへのデビュー録音となったもので、録音当時34歳、「若武者」として勢い充分にオーケストラをドライヴする小澤の指揮姿を彷彿とさせる演奏であり、さらにスコアが透けて見えるような緻密さも併せ持っている。

バルトークの「管弦楽のための協奏曲」は、作曲家晩年の皮肉や苦みがふんだんに盛り込まれた作品であるが、小澤は実はそのような面にはあまり反応していない。

筆者は基本的には、内在する皮肉や苦みが演奏に際してきちんと表現されるのが一番よいとは思う。

しかし、世の中には皮肉や苦みがわからない人間もいるし、そういう人たちは、演奏家として、音楽家として否定されねばならないのか? 音楽を聴いてはならないのか? そうではあるまい。

作品を発表するというのは、作品を無理解な人間に対しても開放するということでもあり、別の人格に委ねるということだ(極論を言えば、作品を放棄すること、それどころか破棄することだ)。

作品とは演奏家にとってみれば、いかに親しげに感じられようとも、所詮他人の音楽である。

ゆえに、それぞれの人間が己の理解力の中で最大限の可能性を求める、それが大事なのだ。

だから筆者としては、小澤がベストを尽くしたこの録音を高く評価したい。

小澤が振る「管弦楽のための協奏曲」は、彼の尊敬するカラヤン同様、スムーズで、格好よくて、楽天的で、とても綺麗な音響で、その冷たい美しさはモダンインテリアのようで、録音後40年以上を経た現在でも一級品であり、まったく古びていないように思える。

だが、まさにこのような演奏に対して、アーノンクールやラトルが異議を唱えているのだということ、その点において、この演奏は過去になりつつあるということはわかっていてよい。

小澤には小澤のやり方があり、彼は今でもそのやり方をサイトウ・キネン・オーケストラとともに続けているが、その一徹さは彼には不可避であり、またそれでよいのである。

誰しも、歴史の中で自分に振り当てられた役割を果たすほか、別の選択はないのだから。

正直な気持ちを記すなら、筆者はとびきりの名人オーケストラが間然するところのない技量を見せつけるこの演奏を、不毛に贅沢な退屈であると感じることを告白しておく。

しかし、シカゴ交響楽団がいくら名人揃いだからといって、常にこのような演奏をするわけではないこと、まさに小澤の力でこのような演奏が実現されたことについては、髪の毛一筋ほども疑わない。

なかんずくフィナーレでは若かった小澤がいささかの破綻も恐れず躍動しているのが聴こえ、胸のすくような瞬間がある。

最後の金管楽器の決めは、まるで雄々しい若者の雄叫びのようであり、パリやアメリカの聴衆が、このエキゾチックな青年が作り出すストレートで屈託のない音楽に魅了されたのが理解できるのである。

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classicalmusic at 00:41コメント(0)トラックバック(0)小澤 征爾バルトーク 

2015年02月15日


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本盤には、メンデルスゾーンの交響曲第3番及び第4番という人気交響曲がカップリングされているが、いずれもショルティならではの素晴らしい名演と高く評価したい。

我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、歴史的な名盤と評されているワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本盤の演奏のような名演を1度も聴かないのはあまりにも勿体ない。

ショルティの様々な楽曲の演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかった。

したがって、楽曲によっては、力づくの強引さが際立った無機的な演奏も散見され、それがいわゆるアンチ・ショルティの音楽評論家を多く生み出す要因となったことについて否定はできないと思われるが、それでも、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

本盤の両曲の演奏においても、そうした聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さには大なるものが存在していると言えるところである。

スコットランドやイタリアの情景描写などとは無縁の、あくまでも絶対音楽としての交響曲を意識した演奏ではあるが、それだけに演奏全体の堅牢な造型美、そしてスケールの大きさには絶大なるものがあると言えるだろう。

もちろん、両曲には、例えば第3番について言えばクレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団による名演(1961年)、第4番について言えばトスカニーニ&NBC交響楽団による名演(1954年)など、他に優れた演奏が数多く成し遂げられており、本演奏をベストの演奏と評価することはなかなかに困難であると言わざるを得ないが、一般的な意味における名演と評価するにはいささかも躊躇するものではない。

シカゴ交響楽団の巧さも特筆すべきであり、本名演に華を添える結果となっていることを忘れてはならない。

音質も、1985年のスタジオ録音であるのに加えて、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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classicalmusic at 22:48コメント(0)トラックバック(0)メンデルスゾーンショルティ 

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朝比奈隆の実に4度目となるブラームスの交響曲全集である。

2000年9月から2001年3月のブラームス・チクルスのライヴ録音で、これが彼にとって最後のブラームス演奏となったものであるが、これは録音史上10指、いや5指に入るブラームスではないか。

1990年以降の演奏はテンポがかなり遅く、重厚な響きと構成を重視した演奏になっているのは周知のとおりだ。

ロマンのうねりは、1990年代の2種類の録音が優っているが、澄み切った寒い青空の下にある葉のすべて落ちた巨木のように、飾り気のない枯淡・達観の演奏もまた印象深い。

朝比奈と言えば、まずは、ブルックナーの名演で知られるが、この最晩年のライブ1発録音は、壮絶でありながらも、引き締まったフォルムの見事な演奏であることがわかる。

そう、「引き締まった」というのが本全集の大きな特徴である。

いささか間延びがちであった大フィルとの旧全集より、テンポが速く、アンサンブルも緊密だ。

それは、第2番のコーダにも現れている。

大フィル盤と同じくテンポを煽るが、大フィルが朝比奈の指揮棒についていけず、縦の線が完全にずれているのに比べ、新日本フィルは乱れそうで乱れない。

第3番はロマン性よりも、クラシカルな端正さを感じさせるし、第4番も力感に溢れている。

朝比奈はこの演奏について「フルトヴェングラーのまねをするといろいろ問題があるけど、クレンペラーならよいのではないかと思ってね」と、述べていたように思うが、もちろんそれは朝比奈流の洒落であって、出てきた音楽を聴くと、クレンペラーの真似をしたわけではなく、紛れもない、朝比奈の音楽だ。

このブラームス、生演奏だからこその熱さが存分に感じられ、これぞブラームス!という重厚感がひしひし伝わる演奏である。

朝比奈のブラームスへの共感・憧れといった気持ちが全面に出ているように感じられるとともに、ルバートを排し、収斂したテンポで音楽を統一する再晩年の境地が聴ける。

文句の付け所のない完成度の高さ(録音も秀逸)で、音楽はこれまでにもまして白熱し、知・情・意が見事に一致した素晴らしい全集の完成だ。

同じ新日本フィルとのベートーヴェンの交響曲全集と並んで、世界に冠たる大全集の登場である。

なぜか、朝比奈の場合、実演よりも録音のほうが良く聴こえることが多いというのも妙だが、筆者としてはそう感じるのだから仕方ない。

普段朝比奈を「アバウト」な指揮者だと思っている人は、これを聴くと考えを改めるだろう。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)ブラームス朝比奈 隆 

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これはユニークなCDで、全て{原典版}の楽譜を使用した演奏。

随所から通常の楽譜を使用したのとは全く違った響きが耳に入ってくるのも面白いし、いつもと打って変って静かな表現を見せる指揮者にも惹かれる。

2001年の元旦、アーノンクールはニュー・イヤー・コンサートを指揮したのであるが、考えてみると存命している指揮者でシュトラウスの作品を計画的に録音しているのは世界的に見ても彼だけであって、いわば当然の人選だったのである。

アーノンクールは、シュトラウスを、ウィーン古典派から初期ロマン派を経てブラームスに到る管弦楽曲の作家の系譜に連なる一級の作曲家であると述べている。

そして彼は各曲を「一級の管弦楽作品」として最大限の敬意をもって扱っており、その意味で彼の<言説>と演奏という<実践>は、全く矛盾なく一致している。

オーケストラはベルリン・フィルであるが、当時のアーノンクールであれば古巣のウィーン交響楽団も選択肢であったはずだが、意図的に避けたようである。

ベルリン・フィルは、ウィーンのオケよりシュトラウスの演奏経験が相対的に少ない(=先入観が少ない)ので、彼の主張「ブラームスに連なる一級の管弦楽作品」にふさわしい真摯な演奏態度を、より容易に実現できると考えたようだ。

もっともアーノンクール流の徹底的なアナリーゼと再構築を経て実現されるテクスチュアの明晰さを、過不足なく実現できたのは当時ベルリン・フィルだけだったという現実問題もあるだろう。

異常に統制されたフレージングといい、徹底的にアーノンクール流で歌われる旋律といい、ベルリン・フィルの強靭な低弦といい、これはまさに立派な交響詩である。

驚くべ高貴さと透明感に満ちた演奏であり、「クリスタルガラスの輝き」を持つシュトラウスとでも表現できよう。

明晰なテクスチュアが浮かび上がらせたのは、シュトラウスの才能の豊かさ、作品の作り込みの精緻さ、作曲家としての真摯さ、まさにブラームスに匹敵するのだと言わんばかりの前代未聞のシュトラウス像である。

観光都市ウィーンのシュトラウスのプロたちのする観光客向けの甘口の演奏に比較し、キリリと辛口に徹している。

このCDに聴かれるシュトラウスは、ウィーンの伝統の中に生まれてきた作曲家である。

シュトラウスの音楽は「ハプスブルグ王朝の連綿たる芸術音楽の系譜の中にあり、19世紀後半の精神を受け入れ、少しだけポピュラリティーに流れているが、その根っこは完全にして完璧な芸術音楽である」と理解した演奏である。

ブラームスがシュトラウスの作品を愛していたという事実が、極東の音楽ファンにすぎない筆者にもなんとなく体感できる。

極彩色で薄ぼやけたウィーンの夜会みたいな風景に背を向けたアーノンクールが何もない黒ベタを向いて瞑想にふけっている構図のジャケット・デザインも考え抜かれたものだ。

なおこの演奏が気に入ったら、コンセルトヘボウとのCD、ニュー・イヤー・コンサートのCDも買って損はない。

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classicalmusic at 00:42コメント(0)トラックバック(0)シュトラウスアーノンクール 

2015年02月14日


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プレヴィンがかつて首席指揮者を務めたロンドン響と録音したショスタコーヴィチの大作、交響曲第8番。

高性能軍団ロンドン響を駆使して、プレヴィンが壮大な音のドラマを繰り広げる。

みごとな完成度をもった演奏だ。

ショスタコーヴィチの音楽はどれを聴いても、独裁体制下でのインテリゲンチャの生き方のむずかしさを考えさせられる。

体制に迎合すると見せかけて、研ぎ澄ました牙のちらつくこともある。

隠蔽が行き過ぎて自虐的、韜晦的になることもある。

この交響曲第8番も例外ではない。

第2次世界大戦中に作曲されたこの曲は、戦争の悲惨さを訴えながら、どんな苛酷な現実のなかでも譲ることのできない芸術家の良心を滲ませている。

むしろ現実が苛酷なほど、自己の芸術を磨くチャンスになる。

プレヴィンはそれを追求してゆく作曲家の超人的な努力に同調しつつ、同時に表面からは見えにくい芸術理念を、透かし彫りのように浮かび上がらせている。

この交響曲は、当初作曲者が表明したように人生を肯定的に表現したものか、それとも、のちに作曲者が遺言したように、レクイエム、悲劇の音楽なのか。

「物語」あるいは「神話」が付随した作品だ。

プレヴィンは、とりあえずそうしたものから自由になって純粋に音楽そのものに立ち向かう。

悲劇性を押し売りすることなく、逆に、耳に聴きやすくテクスチュアを整理することもない。

特筆すべきは響きの混ぜ合わせの妙で、極小の響きの断片が微細に色合いと明暗を変えてゆく。

第4楽章は入魂の名演で、とくに後半は静かな眩暈すら呼ぶ。

戦争の恐怖や悲惨さから生まれた曲ではあるが、いたわりに満ちた音色で奏でられるアダージョを聴くとき、プレヴィンは曲の背景にこだわることなく、あくまで音楽自身がもつエネルギーを描き出そうとしている気がする。

第5楽章も圧倒的だ。

人生の否定か肯定かという「物語」を超える、音楽のみが表現できるゲミュートが聴き手を包む。

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1977年3月2日 NHKホールに於けるベーム&ウィーン・フィルによるオール・ベートーヴェン・プログラムのコンサートの記録である。

「田園」が白眉だ。

当コンビは1971年にスタジオ録音しており、既に定評のあるものだったが、こちらでは、さらに音楽に余裕がある。

第1楽章が端正なのは前述の録音と変わらないが、第2楽章が驚くほど陶酔的になっている。

1971年録音が楷書なら、こちらはやや草書に傾いたという感じであり、弦楽器も木管楽器も心ゆくまで歌っていながら崩れず、弱音の陰った響きも実にいい。

第3楽章から第4楽章「嵐」への音楽の急変も、まったく乱暴ではないのに半端でない迫力があって、立派そのもの、雄大そのものだ。

全体が自然に流れつつ、怠惰でも無関心でもなく、姿勢がよく、幸福感があり、オーケストラはひとつの楽器のように鳴っている。

本当によいワインは若いときに飲むと、苦くて、硬くて、愛想が悪いが、適切な熟成を経ると、別物のように柔らかく、やさしく、陶酔的になる。

これはベームとウィーン・フィルの熟成のピークに位置する演奏だったのだろう、完全に熟成を経たワインのように甘みも苦みも香りも渾然一体となっているこんな演奏は、ベームとウィーン・フィルでもなかなかできなかった。

この演奏の魅力のひとつは、闊達に歌うヴァイオリン群にあり、著しく耽美的でありながら気品があって、まさにこれでこそウィーン・フィルという演奏をしている。

当時、ゲルハルト・ヘッツェルという名コンサートマスターがいたからだ。

初心者のために説明すると、コンサートマスターとは、客席から見て、指揮者のすぐ左、最前列に座っているヴァイオリニストで、オーケストラ演奏において非常に重要な役割をしている。

世界で一番うまいと言われるベルリン・フィルですらコンサートマスターが交代するとミスが増えたり、音楽全体の緊張感が落ちてしまったりするのだ。

指揮者との相性も重要で、彼は「ウィーン・フィルにヘッツェルあり」とまで言われた名コンサートマスターであり、ベームとの相性も抜群だった。

彼あってこそ、このあまりに豊穣なヴァイオリン群、否、オーケストラ全体の歌が成立したのである。

残念ながらヘッツェルは山岳事故で急死してしまい、それ以来、ウィーン・フィルは凋落やむなきに至ったのである。

ちなみに同じ時代、カラヤンのベルリン・フィルにはミシェル・シュヴァルベというやはり稀代のコンサートマスターがいて、東西両横綱という感じだった。

もし、この録音にひとつだけ文句を言うとしたら、演奏終了後の拍手があまりにも早すぎるということだ。

まだ最後の音が響いているのに、ひとりのお客が気が狂ったように下品な拍手を始めるので、せっかくの音楽の美しさが台無しだ。

幸いなことに、現在では、日本の聴衆もここまでせっかちでなくなり、演奏後の静寂を味わえる機会も増えた。

音質については、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされ、音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ベーム&ウィーン・フィルによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンベーム 

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「第7交響曲」の空前の大成功によって、生涯最高の美酒に酔いしれたブルックナーが、きわめて良好な精神状態で、自信を持って書き上げた「第8」の初稿は、ハ短調という悲劇的な調性を感じさせない、実に晴朗で、伸びやかな作品であった。

ブルックナーにとっての悲劇は、この自信満々の新作を「最良の理解者」と信じ、初演を託していた指揮者レヴィに「演奏不能」と拒絶されたことだ。

ブルックナーが再び自信を喪失、精神状態に不安をきたし、当の「第8」のほか、「第3」や「第1」の価値の薄い改訂(「第3」については異論もあろうが)にまで手を染めて、ついには「第9」が未完成に終わってしまったことはブルックナー愛好者によく知られる痛恨事である。

しかし、仮にレヴィが「これは素晴らしい!」という度量を見せて、このままの形で初演していたとしたら、後にリヒターが行った改訂版での初演ほどの成功を収め得たかどうかは誰にも分からない。

確かに、この初稿は途方もなく伸びやかで斬新なため、一般の聴衆にはつかみどころがなく、受け入れられなかったかも知れないからだ。

改訂により作品の本質を「喜劇から悲劇へ」と転換させながら、ブルックナーはより求道性を高め、響きを深淵にした。

特に、第1楽章、初稿が華々しいファンファーレで終わるのに対し、改訂稿は弦のピアニッシモで終わる。

このことによって、悲劇に始まり勝利に終わるという全曲を一貫するプログラムで出来上がったことが、初演成功の大きな要因であったと思われる。

では初稿は、決定稿への踏み台に過ぎなかったのかというと、そうではなく、初稿は初稿で、まことに清新な音の大モニュメントなのである。

繰り返しになるが、「第7」成功の自信に溢れたブルックナーの書いた最も幸福な作品と言っても良く、ことに第3楽章は「天上の音楽」そのものである。

さて、悲劇的な宿命を負った美しい初稿が初めてレコードとなったのは、ここに取り上げるインバル&フランクフルト放送響による演奏である。

多くの音楽愛好家の注目を集めたのは言うまでもなく、初めて耳にしたときの新鮮な感動は今でもよく覚えている。

今、改めて聴き直してみて、インバル盤の水準の高さを認めたいと思う。

速めのテンポと引き締まったサウンドにより、初稿らしい爽やかな演奏になっているからである。

ただし、インバルは本質的にはブルックナー向きの指揮者ではないのではないか。

「第3」「第4」といった初稿の演奏が成功している割には、残りのナンバーの感銘度がいまひとつなことからも、それが伺える。

オーケストラの響きを開放するよりは凝縮する方向に向かわせるため、ブルックナーを聴く醍醐味が減ってしまうからであろう。

ベームほどの熟達と情熱があれば、それもカバーできるのであるが、そこまでの技と心がインバルには用意されていないのである。

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2015年02月13日


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本盤には、ディーリアスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲という、知る人ぞ知る名作が収められている。

このうち、チェロ協奏曲については、稀代の名チェリストであったデュ・プレと、名匠サージェント&ロイヤル・フィルによる素晴らしい名演(1965年)が存在していることから、比較的耳にする機会も多い楽曲であるが、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲やヴァイオリン協奏曲に至っては、国内盤が存在していないだけでなく、輸入盤も目ぼしい演奏が殆どないことに鑑みれば、本盤は極めて貴重な演奏であると言えるだろう。

ディーリアスは、イギリスの詩情に満ち溢れたエレガンスな美しさを誇る管弦楽曲の名曲で知られているが、本盤に収められた各協奏曲も、他の協奏曲で聴かれるような超絶的な技量を全面に打ち出した楽曲ではなく、むしろ、イギリスの詩情に満ち溢れた極上の美しさが持ち味の名作である。

本盤の演奏において、ヴァイオリン演奏を受け持つのは、気鋭の女流ヴァイオリニストであるタスミン・リトルだ。

タスミン・リトルは、本演奏と同じアンドリュー・デイヴィスと組んで(オーケストラはBBC交響楽団ではなく、ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団であるが)、エルガーのヴァイオリン協奏曲の名演(2010年)を成し遂げているだけに、本演奏においても、抜群相性の指揮者の下で、自らの個性を全面的に発揮した渾身の名演奏を繰り広げている。

強烈な個性という意味では、他の世界的な若手女流ヴァイオリニスト、例えば、ヒラリー・ハーンなどと比較するといささか物足りない気がしないわけではないが、イギリスの詩情溢れる情感の豊かさの描出においては、タスミン・リトルの方に軍配を上げたくなるところだ。

とりわけ、ディーリアスの協奏曲の演奏に際しては、楽曲に込められたイギリスの詩情をいかに格調高く表現できるのかに演奏の成否がかかっているとも言えるところであり、その意味においては、タスミン・リトルのヴァイオリン演奏はまさに理想的と言っても過言ではあるまい。

チェロはポール・ワトキンスであり、例えば、チェロ協奏曲など、前述のデュ・プレによる演奏と比較すると、演奏の持つ気迫や強靭な生命力において大きく落ちると言わざるを得ないが、タスミン・リトルのヴァイオリン演奏と同様で、イギリスの詩情溢れる情感の豊かさの描出においては、十分に合格点を与えられる名演奏を展開していると言ってもいいのではないだろうか。

指揮は、英国の大御所指揮者であるアンドリュー・デイヴィス、そしてオーケストラはBBC交響楽団という最高の組み合わせであり、これ以上は求め得ないような絶妙な表現で、本盤の各協奏曲に込められたイギリスの詩情を感動的に歌いあげており、これら各協奏曲のバックとしては、理想的な名演奏を行っていると評価したい。

いずれにしても、本盤に収められた各協奏曲は素晴らしい名演であり、チェロ協奏曲を除けば殆ど世に知られていない名作を広く認知するという意味においても、極めて意義の大きい名CDと高く評価したい。

そして、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音であると言える。

タスミン・リトルによるヴァイオリン演奏やポール・ワトキンスによるチェロ演奏の弓使いまでが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

かかる臨場感溢れる高音質のマルチチャンネル付きのSACD盤であることが、本盤の価値を更に高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 22:40コメント(0)トラックバック(0)エルガー 

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最晩年のワルターの代表的な名盤。

ハイドンの交響曲のうち、パリ交響曲以降の傑作群は、大編成のオーケストラが演奏しても十分に聴きごたえのある大交響曲であると考えている。

にもかかわらず、最近では、編成の小さい古楽器演奏だとか、古楽器奏法なるものが一般化しつつあり、ハイドンの交響曲が、コンサートの曲目にのぼることすらほとんど稀になったのはまことに嘆かわしい限りである。

そうした中で、本盤のワルターの演奏を聴くと、実に懐かしく、そして生き返ったような安心した気持ちになる。

ワルターのハイドンは、この指揮者の絶妙なバランス感覚と、形式に対する確かな理解が率直にあらわれたものと言えよう。

「軍隊」は、かつてモノーラルによるウィーン・フィルとの録音が有名であるが、ここでのコロンビア交響楽団との演奏では、この巨匠指揮者が、彼の唯一の録音となった「V字」とともに、遅めのテンポで堂々たる足取りで進めてゆく。

演奏のあちらこちらから、木の温もり、土の香りがするようで、大編成のオーケストラ(と言っても、コロンビア交響楽団なので限度はあるが)を指揮しながらも、ここには機械的だとか、メカニックなどという要素はいささかも感じられない。

ハイドンのオーケストレーションや音楽構成が良く聴こえ、隅々にまで目の届いた、ワルターのハイドンに対する思いやりみたいなものが聴ける。

ワルターは、オーケストラの響きにふくらみをもたせ、歌うような演奏を心がけた指揮者として、ファンの間で根強い人気がある。

第88番の第2楽章だとか、第100番など、あまりのスローテンポに、スコア絶対の原理主義者や音楽学者などからすれば時代遅れだとか誇大妄想とかいう批判もあり得ると思うが、音楽芸術の感動の前には、筆者としては意味のない批判だと思う。

若い頃は比較的地味なハイドン交響曲にそれほど深くレコードで馴染む対象ではなかったのが、このワルター&コロンビア交響楽団の「V字」「軍隊」はハイドン交響曲の「良さ」を感じ取ったものである。

おそらく他の指揮者の演奏に最初に接していたならその良さに気がつくのはもっと遅れていたであろう。

それ位ワルターの演奏はハイドン以上の何かふくよかさが込められたように思え人生の余裕時間を過ごせるようにも感じたところである。

コロンビア交響楽団も、ワルターの指示通りのアンサンブルを聴かせ、余裕から生まれる、豊かな音楽を響かせている。

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classicalmusic at 20:46コメント(0)トラックバック(0)ハイドンワルター 

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半ば伝説的なヴァイオリニストのイダ・ヘンデルが若きラトル共演した2つのライヴ(シベリウスは1993年、エルガーは1984年)の録音をまとめたCD。

女流ヴァイオリニストの大御所であるイダ・ヘンデルのシベリウスのヴァイオリン協奏曲は、ライナーによると、作曲者シベリウスのお墨付きを得ていたとのことであるが、作曲家自身が演奏を聴いて自分の協奏曲の「またとない解釈者」と讃えたほどの奏者の演奏を現代を代表する指揮者との共演で聴けるというのは、まさに自分自身が歴史の証人になっている気分になる。

本盤の演奏自体も素晴らしく、聴いていると、他のヴァイオリニストの演奏とは一味もふた味も違うと思う。

その違いは、テンポが実にゆったりとしていること、そして、旋律をくっきりと浮かび上がらせて、1音1音を噛み締めるように演奏している点だ。

したがって、シベリウスがスコアに記したすべての音符が克明に表現され、他の演奏では霧がかかっていたような印象を受ける箇所にも光を当てた点を評価したい。

イダ・ヘンデルのヴァイオリンは聴き手をぐいぐいと力強く引き込んでいき、この曲の持つ深みを余すことなく伝えてくれる。

聴いているうちに音楽とそれの生み出す空気感そのものに没入してしまう感じの演奏だ。

ヴァイオリンの音色も北欧の冷涼な空気にふさわしく、演奏も北欧風のロマンティックな情緒を思わせる。

もちろん、シベリウスの楽曲の性格から、イダ・ヘンデルの演奏様式がベストかどうかはわからないが、作曲者本人がその演奏を評価している点は銘記する必要があるだろう。

他方、エルガーのヴァイオリン協奏曲は、名曲であるにもかかわらず、チェロ協奏曲に比較すると、録音の数があまりにも少ない。

したがって、ヴァイオリン協奏曲を演奏する人は、よほどの自信と確信のある者に限られ、その意味では、録音された演奏は名演であることが多い。

本盤も、そうした名演の列に連なる資格のある気品のある名演と言うことが出来よう。

本演奏は同曲の魅力を再認識させるものであり、聴き応え十分でこの曲の魅力を余すことなく伝えていると思う。

両曲とも、若いラトルがサポートしているが、いずれの演奏も見事で、イダ・ヘンデルに敬意を払うかのように彼女のヴァイオリンを引き立てつつ見事に一体となった演奏を聴かせる。

何歳も年上のイダ・ヘンデルと互角に渡り合っている点に、今日の偉大な指揮者への道を歩み続けるラトルの姿を垣間見る思いがする。

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2015年02月12日


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晩年のベームが残した唯一にして極上のJ.シュトラウス2世のワルツ・ポルカ集。

オーストリアの“第2の国歌”とも称される「美しく青きドナウ」ほか、ウィーンの伝統と気品が漂うアルバムとなっている。

ウィンナ・ワルツというと、長い間ウィーン・フィル、とりわけニューイヤー・コンサートの専売特許となってきた。

確かに本場ではあろう。

だが、ボスコフスキー引退後、クオリティゆえにさすがと納得させてくれたのは、カラヤン、クライバー、アーノンクール、プレートルぐらいであったことも事実だ。

何よりも、中継の際に頻繁に挿入されるウィーンの観光映像には食傷してしまって、オーストリアという国の悲しさを感じてしまった。

大した産業もなく、昔日の栄光を切り売りするだけの国、世界各地に中継されるこの映像を通して観光宣伝に余念がないのだろう。

シュトラウスのワルツやポルカはそんな観光絵はがきの香りがするし、コンサート後すぐにCD化という売り方も含め、あまりに露骨に商業化しすぎた。

これでは真の愛好者にそっぽを向かれるのも当然である。

この演奏はベームの“老いのすさび”といった風情漂うものだ。

まるで19世紀後半の絢爛たるウィーンの宮廷舞踏会を頭に描きながら指揮しているかのようで、かつてのワルターと一脈通じるところがあり、ウィーン・フィルの特徴がプラスに作用している。

傑出しているのは「南国のバラ」で、ゆったりとしたテンポで優雅にまとめている。

固い音楽を作りがちなベームとの相性もあってか、「皇帝円舞曲」も絶品である。

この演奏からは、上品かつ流麗な馥郁たるウィーンの香りのようなもので満ちているのだ。

もともとウィーン・フィルは、崩れ出すと止めどもなく崩れる傾向があり、時に品位を失うほど(それはそれで魅力的であるが)厚化粧の音楽を奏でてしまう。

それゆえに、ベームのような厳しく禁欲的な指揮者が外側から枠をはめてやると、その範囲内で十全を尽くそうとするが、それがいいのである。

弦楽器群が、古い高級家具のように艶々としているのも美しい。

やはりこのような名演を聴いていると、最近のニューイヤー・コンサートは、伝統にあぐらをかいた弛緩しているような演奏に聴こえてしまうのだ。

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甘美で夢見るようなサロン風の趣を湛えた、映画に用いられて多くの人々の心を捉えた第2番、独特の旋律の美しさと、流麗でしっとりした深い情感を湛えた第5番、イギリスの作曲家ジョン・フィールドに影響されて作曲されたといわれる、旋律の美しさと深い情感を湛えた甘美で夢見るようなショパンの夜想曲集。

豊かな情緒性や詩的な趣が横溢する優美で詩的な作品を理想的に再現し、新たな息吹を注ぎ込んだマウリツィオ・ポリーニの演奏で楽しめる1枚。

1つ1つ熟考を重ねながら、その録音レパートリーを増やしているマウリツィオ・ポリーニが、ついにショパンの夜想曲を録音した。

そもそもショパンコンクールのときから彼は夜想曲を弾いているし、その後のライヴでも何度となく夜想曲から取り上げてきたので、そのこと自体はさほど驚くことではないかもしれない。

しかし、デビュー当時のポリーニの録音と比べると、さすがに大きな違いを感じる。

なんといっても多彩なアゴーギクを使い、色鮮やかに旋律を歌わせているという点は、ポリーニというピアニストにして、やはり新鮮に聴こえるのだ。

これは、もちろん夜想曲というショパンのハートの最も抒情的な面をあらわした作品群にアプローチするとき、決して避ける事ができないということもあるが、それ以上にポリーニ自身が歌っているという実感のあるアルバムであり、近年の録音の中でもまた少し違う感興を聴き手に与えるに違いない。

ショパンは甘いというのは、夜想曲を聴いてからのイメージだが、ポリーニは甘美なものに流されない、クールな感覚で演奏しており、甘く感傷的なショパンが苦手な方は必聴のアルバムである。

この演奏は、かつて従来CD(輸入盤)で聴いた際には、大した演奏ではないとの感想を持ち、長い間、CD棚の中で休眠状態に入っていたが、今般、SHM−CD盤が発売されるに当たり、あらためてもう一度聴き直すことにした。

SHM−CDとピアノ曲との抜群の相性もあり、従来CDでは、無機的にさえ感じられた、ポリーニの透明感溢れる切れ味鋭いタッチが、いい意味で柔らかい音質に変容した。

かつて、フルトヴェングラーは、トスカニーニのベートーヴェンを指して、「無慈悲までの透明さ」と言ったが、ポリーニの演奏するピアノ曲にも、同じような演奏傾向があると言えよう。

しかしながら、本盤の高音質化CDを聴いていると、それは録音のせいもあるのではないかと思えてくる。

それくらい、本SHM−CD盤に聴くポリーニのピアノには、血も涙もある情感の豊かさに満ち溢れている。

スタジオ録音でありながら、時折、ポリーニの歌声も聴こえるなど、ポリーニのショパンの夜想曲に対する深い理解と愛情をも感じさせられ、実に感動的だ。

ここには、かつて前奏曲やエチュードの録音において垣間見せられた機械じかけとも評すべき技術偏重の無機的なアプローチは微塵も感じられない。

その『硬質』の音でできた構築物の見事さに驚くばかりで、ポリーニもいよいよ円熟の境地に達したと言えるだろう。

やはりショパン演奏において、このピアニストの録音は目が離せないものであると納得させられたところであり、全てにおいてレベルが高いポリーニの演奏の中でも筆者としては3指に入る名演だと思う。

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ワルターがモーツァルトに傾倒するようになったのは40代も半ばを過ぎてからである。

彼は「第40番のシンフォニーを表現するのは、内容的にも技巧的にも難しい」と述べ「自分は50歳を過ぎて初めてこの曲を自信を持って指揮し得るようになった」と述懐しているが、当時の彼が録音した最初のモーツァルトの交響曲として、このレコードは貴重である。

ベルリン国立管弦楽団(シュターツカペレ)はベルリン国立歌劇場管弦楽団がコンサートをするときの別名であり、録音はその頃のSPとしてもとくに貧しいが、それにしてもまことに寂しい演奏である。

ニューヨーク盤の楽天性とも違うし、コロンビア盤の澄んだ静けさとも異なり、徹頭徹尾孤独なのだ。

第1楽章の冒頭、遅いテンポと粘ったリズム、そして音型をポツポツ切りながら現れる第1テーマにそれは明らかだが、その後のクレッシェンドにポルタメントとテヌートがかかって不健康な愁いとなるところはことに印象的である。

大きくテンポを落とす第2テーマは侘しさの極みだし、展開部の初めも同様、そして他の部分は極端にテンポを速め、主題との対照を際立たせるのである。

第2楽章はそれの延長で、テンポの速いメヌエットは小味で几帳面なリズムを見せるが、もちろん近代的な感覚とは縁遠く、トリオで遅くするやり方に寂しさは強まる。

それにもまして終楽章の異常な速さ、むしろ無意味な速さはいったいどうしたのだろう。

フルトヴェングラーのようなデモーニッシュな表現ではなく、情熱とも違い、リズムの上滑りが何かワルターの人間的な弱さを表しているようだ。

そして第2テーマで取ってつけたようにテンポを遅くするのも彼らしい。

全体としてこのレコードは後年のワルターが見せる円熟味に欠けているが、彼がこんなに孤独で不健康なことは他にはなかった。

それだけに第1回目の「ト短調」はワルター・ファンにとって特別な愛着を覚えずにはいられないのである。

第39番も名演奏である。

ウィーン・フィルを指揮したモーツァルトではかなりオケに任せるワルターだし、即興的な要素も加わるわけだが、ここでは少しも無雑作なところがなく、徹底的にオケをリードし、すみずみまで愛情と血を通わせている。

練習の時間もたっぷりあったのだろう、表現に確信を持ち、細部まで自分のものにし切った安心感があり、楽員もワルターの解釈にすっかり心服しているようだ。

それにSPとしては珍しく盤の切れ目で演奏を中断せず、録音が演奏を追いかけているので気分も一貫する。

ワルターの「変ホ長調」は昔も今も変わらない。

第1楽章の大きなテンポの動き、当時の彼としてはかなりスケールが大きいこと、力強く立派なメヌエットなど、22年後のニューヨーク・フィルとの名演を予告するものがある。

違うのはポルタメントのかかった弦の歌がいっそう情緒的なこと、いったいに休符が長く、特に第1楽章やメヌエットのトリオへ入る直前でのそれが目立つため、さらにロマンティックなこと、終楽章のテンポが大変速く、リズムも軽く、しかもアンサンブルがしっかりまとめられてすこぶる快い演奏を示していることなどである。

ニューヨーク盤は確かに偉大だが、モーツァルトのスタイルを踏み外しすぎた趣もあり、その意味ではBBCとの終楽章など、筆者はいまだに強い愛着を持っている。

状態の良いSP盤をそのまま復刻したオーパス蔵で聴く録音の美しさは格別だ。

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