2015年03月

2015年03月31日


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シューベルトは、歌曲の分野だけではなく、室内楽曲の分野においても数多くの作品を遺した。

かかる室内楽曲の中でも傑作とされるのは、弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」や弦楽五重奏曲などが掲げられると思うが、最も有名で親しみやすいのは、衆目の一致するところ本盤に収められたピアノ五重奏曲「ます」と言えるのではないだろうか。

そうした超有名曲であるだけに、古今東西の弦楽四重奏団が、有名ピアニストと組んでこぞって録音を行ってきているが、その中でも極上の美しさを誇っているのは、本盤に収められたスメタナ弦楽四重奏団による第1回目の録音であると考えられる。

スメタナ弦楽四重奏団にとって記念すべき第1回目の「ます」であるが、往年のファンにとってシューベルトの「ます」といえば、まず思い浮かべるのがこの録音であろう。

とにかく、往年のスメタナ弦楽四重奏団による演奏は、美しさの極みであると言える。

そして、スメタナ弦楽四重奏団の美演に見事に溶け込んでいるパネンカのピアノも負けず劣らず至純の美しさを誇っており、本演奏には、まさにピアノ五重奏曲を聴く真の醍醐味があると評価したい。

本演奏におけるアプローチにおいては、聴き手を驚かせるような特別な個性などはいささかも見られない。

曲想を精緻に丁寧に描き出していくというオーソドックスなものであるが、表面上の美しさを磨くだけにとどまることなく、どこをとってもコクがあり、豊かな情感に満ち溢れているのが素晴らしい。

「弦の国チェコの至宝」絶頂期のアンサンブルに、美しく溶け合うパネンカのピアノ、とめどなく溢れかえる歌に楽しさいっぱいのシューベルトと言えよう。

ピアノ五重奏曲「ます」の近年に成し遂げられた名演としては、ギレリス&アマデウスSQによる演奏(1975年)、ブレンデル&クリーヴランドSQによる演奏(1977年)、リヒテル&ボロディンSQによる演奏(1980年)、シフ&ハーゲンSQによる演奏(1983年)、田部京子&カルミナSQによる演奏(2008年)など、個性的な名演が目白押しではあるが、本盤のような情感豊かな美しい演奏を聴くと、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

そして、何よりも素晴らしいのは、XRCDによる極上の高音質録音であり、アナログ期の代表的演奏を最上の音質で復刻されている。

本盤は1960年の録音ではあるが、とても50年以上前の録音とは思えないような、そして弦楽器の弓使いまでが聴こえてくるような鮮明な高音質に生まれ変わったのは殆ど驚異的ですらある。

音質最重視で贅沢にも1曲のみの収録であるが、丁寧かつ最新のリマスタリングが、アナログに針を下ろしたときの当時の興奮と喜びをふたたび約束してくれることであろう。

いずれにしても、スメタナ弦楽四重奏団とパネンカによる極上の美演を、望み得る最高の音質で味わうことができる本XRCDの登場を大いに歓迎したい。

さて、問題は価格設定であるが、いくらXRCDの極上の高音質と言っても、9800円というのはいくらなんでも高すぎるのではあるまいか。

しかしながら、アマゾンでは、マーケットプレイスから低廉に購入することができるので、比較的入手しやすいと思う。

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ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団他による1991年録音盤で、ゲルギエフ得意のロシア作品「ホヴァンシチナ」を収録されている。

基本的にショスタコーヴィチ版に依拠しているが、できるだけ作曲者の考えを尊重したゲルギエフ版だと言える。

「ホヴァンシチナ」は、未完成のままムソルグスキーが世を去ったこともあって、「ボリス・ゴドノフ」に比較して不当にも世評が低いと言わざるを得ない。

しかしながら、リムスキー=コルサコフやショスタコーヴィチなどによる編曲によって、優れた完成版が生み出されており、その内容の深さにおいて、「ボリス・ゴドノフ」にも匹敵する傑作であると筆者としては考えているがいかがだろうか。

「ホヴァンチシナ」は、17世紀のモスクワ銃兵隊の反乱(ホヴァンスキーの乱)を題材にした5幕の大作であるが、ムソルグスキーが1881年に没したため未完となり、作曲者の旧友リムスキー=コルサコフによる実用版が作成されて、ようやく1886年2月21日にサンクト・ペテルブルクで初演された。

しかし、リムスキー=コルサコフは原曲をほとんど書き換えており、その後ショスタコーヴィチがオリジナルのピアノ譜と、作曲者自身の管弦楽法の手法をもとに、改めて原曲に忠実な実用譜が作り直された。

今日では上演に用いられる実用譜はたいていショスタコーヴィチ版であるが、全編まことに美しいオペラで、特に第2幕の開始の場面や第4幕始めの女声合唱など、実に印象的で魅力的である。

リムスキー=コルサコフ版はイマイチの出来だと思うが、ショスタコーヴィチ版は、ムソルグスキーの草稿にまで踏み込んだ大変優れたものだと考える。

本盤のゲルギエフによる演奏は、ショスタコーヴィチ版をベースとして、ゲルギエフならではの編曲を施したものであり、特に、終結部に大きな違いがある。

筆者としては、ショスタコーヴィチ版のラストのムソルグスキーの作品中もっとも美しい旋律「モスクワ川の夜明け」の主題の再現が効果的で素晴らしいと思うのだが、ゲルギエフ版のように、悲劇的な殉教で締めくくるのにも一理あるとは思う。

演奏も、ロシア的なあくの強さと緻密さのバランスに優れたゲルギエフならではの超名演であり、独唱陣も合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

ここに聴くゲルギエフ率いるキーロフの面々とソリスト陣は、(既に定評を得てムソルグスキーにこだわりぬく)アバド盤に比してもまことに立派な演奏と言えるのではないだろうか。

いかにもロシア的なテイストを振りまきつつ、でも仕上げは丁寧でしっかりしたもので、この魅力的なオペラに親しむに絶好のディスクであろう。

それにしても、ムソルグスキーは偉大だ。

同時代のチャイコフスキーは当然として、ロシア五人組のリムスキー=コルサコフやボロディンなども西欧の音楽を意識して作曲をした(だからと言って、これらの作曲家の偉大さに口を指しはさむつもりはない)が、ムソルグスキーはあくまでも西欧音楽に背を向け、ロシア音楽固有の様式を目指そうとした。

その強烈な反骨精神には拍手を送りたいし、アルコール中毒による早世を深く惜しむものである。

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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラーに対する評価については百家争鳴の感があるが、こんなに深くスコアを読み、練習を重ね、見事な演奏をしたマーラーは少ない。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲第4番の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲第4番の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

インバルのマーラー演奏のベースは、厳格なスコアリーディングによる緻密な解釈ということになると思うが、だからと言って、安全運転の体温の低い客観的な演奏ではない。

それどころか、本盤の「第4」について言えば、第2楽章の流麗なレガートや、第3楽章の抒情から最強奏のパッションの爆発に至るまでのダイナミックレンジの広さや変幻自在のテンポ設定など、バーンスタインやテンシュテット風の個性溢れる劇的解釈も散見される。

ただ、インバルの演奏が、この両者の演奏と大きく異なるのは、決して踏み外しをしないということであろう。

それ故に、曲によっては、例えば「第9」などには顕著であるが、物足りなさを感じることがあるのは事実である。

しかし、「第4」の場合は、インバルのこうしたアプローチとの相性も抜群であり、名演に仕上がったと言っても過言ではないと思われる。

ワンポイント録音の素晴らしさが、HQCD化によりさらに鮮明になったことも特筆しておきたい。

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2015年03月30日


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マリス・ヤンソンスとオスロ・フィルによるEMIへのシベリウス第1弾となったもの。

今をときめくヤンソンスが、手兵としたオスロ・フィルとともに残したシベリウスのホットな演奏で、1990年録音当時としては、その後を期待するに十分な出来映えの1枚となった素晴らしい名演だ。

ヤンソンス&オスロ・フィルのクオリティの高さは来日公演で満座の聴衆を驚倒させたが、この素晴らしいコンビの代表盤のひとつが、このシベリウス録音だ。

ヤンソンスは、現在においては、コンセルトへボウ・アムステルダムとバイエルン放送交響楽団という、世界有数のオーケストラを手中に収める現代を代表する指揮者の1人に成長したが、本盤の録音当時(1990年)は、オスロ・フィルという、決して一流とは言えないオーケストラを指揮する気鋭の指揮者の1人に過ぎなかった。

そんなヤンソンスではあるが、当時から、シベリウスを得意としており、交響曲第1番には、後年にも手兵のバイエルン放送交響楽団と録音し、それも素晴らしい名演であったが、本盤も、後年の名演に優るとも劣らない見事な名演に仕上がっている。

「第1」の魅力は音色の作り方のうまさで、輝かしい音、磨かれた音から渋めの音、くすんだ音まで、音楽のシーンに即して的確にヴィヴィッドに反応する。

そして心地よいテンポ、しなやかなフレージング、ヤンソンスの構成への見通しに優れた解釈は、作品に引き締まったプロポーションと躍動する若々しい運動性を与えている。

アンダンテ楽章は楽器の絡み合いがチャーミングであり、スケルツォは精彩に富み、フィナーレの滑らかで力強く明快率直な演奏には興奮を禁じ得ない。

近ごろ珍しいものとなってきた演奏の気迫が如実に感じられ、音が一杯詰まったという感じであるが、いわゆる北欧的な雰囲気も豊かに感じられる会心の演奏。

スケール大きく伸びやかに鳴り響き、シベリウス作品に不可欠の、北欧風の奥行きある情感に溢れている。

気迫に満ちたヤンソンスの指揮、意欲的にそれに応えるオスロ・フィルの前向きな演奏は、聴き手を興奮させてくれる。

ヤンソンスとオスロ・フィルのコンビネーションが光る、北欧特有の抒情とオーケストラの機能美を極限にまで結びつけた驚異のシベリウス演奏と言えよう。

本盤の特徴、そして優れた点は、北欧の雰囲気を大いに満喫できる点で、ヤンソンスのシベリウスは、泥臭さが無く、非常に爽快、近年のシベリウス演奏の代表的な録音のひとつに数えられる。

前述のように、この当時は、まだまだ研鑽を積みつつある若手指揮者の1人に過ぎなかったのであるが、いわゆる青臭さは皆無であり、気迫に満ちた演奏が繰り広げられている。

若さ故の勢いに任せた強引さもなく、北欧風の抒情を巧みに盛り込みつつ、実に成熟した演奏を行っている点を高く評価したい。

輪郭をぼかすことなく、各パートの音を丁寧に鳴らし、ゲネラルパウゼの効果的な活用や、木管楽器の響かせ方にも個性的なものがあり、独特の魅力を持っている。

併録の気迫に満ち、情熱的な存在感のある「フィンランディア」や、胸のすくような「カレリア」組曲も、交響曲第1番と同様の傾向の、北欧風の抒情を活かした成熟した名演だ。

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底知れぬヴァイタリティとカリスマ性を持ち合わせ、21世紀を牽引する指揮者の筆頭に挙げられるワレリー・ゲルギエフが、名門ウィーン・フィルを指揮した迫真のライヴ録音の『展覧会の絵』に加え、ムソルグスキーの名作3曲をカップリングした素晴らしい高音質SACDの登場だ。

本演奏は、レコード・アカデミー賞を受賞した名演であるだけに、初出のCDからして、ゴールドディスクとして高音質化への取り組みがなされていた。

また、更にほどなくして、SACDハイブリッド盤が発売された。

当該盤には、マルチチャンネルが付いており、その臨場感溢れる音場の幅広さは、これこそ究極の高音質CDであると考えていた。

ところが、今回のSHM−CD仕様のSACDシングルレイヤー盤は、そもそも従来の諸盤とは次元が異なる高音質と言える。

特に、『展覧会の絵』は、ラヴェルの華麗なオーケストレーションが味わえる作品だけに、今回の高音質盤は、最大限の威力を発揮する。

全体としてきわめて鮮明であるのだが、特に、トゥッティの箇所における金管も木管も、そしてそれを支える弦楽も、見事に分離して聴こえるというのは殆ど驚異ですらある。

それは、併録の『はげ山の一夜』にも言えるが、特に、『ホヴァンシチナ』前奏曲の冒頭の霧のような立ちあがりは、本盤だけが再現し得る至高・至純の繊細さと言えるだろう。

ゴパック(歌劇『ソロチンスクの市』から)におけるオーケストラの自由闊達な動きも、完璧に捉えきっているのが素晴らしい。

演奏は、前述のように、平成14年度のレコード・アカデミー賞を受賞した定評ある超名演。

ゲルギエフの濃厚で強いエネルギーでもって、激しいところは圧倒的な響きが印象的であるが、演奏しているのはウィーン・フィルということで、優しい響きのメロディーやピアニッシモのところは鳥肌が立つほど美しく、両者の特徴が上手くかみ合っている。

ゲルギエフは『展覧会の絵』を夢中になって見て回るが、そこではラヴェルの洗練されたオーケストレーション以上に作曲家ムソルグスキー生来の感性が強調されている。

指揮者はこれを実現するため、ウィーン・フィルの金管楽器奏者たちを叱咤激励し、とくに「カタコンブ」における壮大なコラール風のスタイルから曲の最後を締めくくる「キエフの大門」の圧倒的なクライマックスまで、彼らの特徴である朗々とした響きを思いきり出させている。

しかしながら、この指揮者によるルバート奏法は何箇所か、純粋に感じ取られたというよりもなにか継ぎ足されているような感じがする。

たとえば「テュイルリー」における主席クラリネットのリタルダンドや、「古城」の基本拍子を滞らせるフレージング過剰の弦楽器のレガートがそうである。

フィリップスの広がりのある音響工学はコンサート・ホールの雰囲気をよく伝えているが(これはライヴ・レコーディングなのである)、ダイナミックなインパクトと鮮やかな細部に欠けている。

フリッツ・ライナー盤やジョージ・セル盤がいまだ聴くときの基準になっているのだ。

その結果、『はげ山の一夜』の渦を巻くような勢いも拡散して響き、劇的にも平板である。

ただ、歌劇『ホヴァンシチナ』前奏曲とゴパック(歌劇『ソロチンスクの市』から)は気持ちのいい演奏で、よきつなぎ役となっている。

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1993年6月14日 ベルリン、フィルハーモニーに於けるもので、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音から2週間後に行われたライヴ録音。

北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者であったギュンター・ヴァントが`第2の手兵オケ`として鍛え上げたベルリン・ドイツ交響楽団とのライヴ演奏を収録したアルバム。

かつてベルリン・ドイツ響友の会の会員専用CDとして頒布されたことのある伝説的名演盤でもある。

演奏の性格は殆ど同じであり、あとは、オーケストラの音色とコンサートホールの音響だけの違いと言える。

ミュンヘン・フィルは、南ドイツならではのやや温かみのある柔和な音色が持ち味であるが、力量のある指揮者に恵まれた時のベルリン・ドイツ交響楽団は、ベルリン・フィルに匹敵するような重心の低い深みのある音色を出す。

本盤の名演はその最たるものであり、これほどの次元の高い演奏になると、あとは好みの問題と言えるだろう。

本盤の数年前にヴァントは北ドイツ放送響と同曲をライヴ録音、数年後にベルリン・フィルと同曲をライヴ録音しているが、演奏の内容に(オーケストラの力量も含めて)差は殆ど見られないが、終楽章の充実感・爆発度はこの演奏が一番との声高い。

シューベルトの「第9」は、ベートーヴェンによって確立された交響曲の形式を、その後のブルックナーの交響曲を予見させるまでに昇華させた傑作交響曲であるが、ブルックナーを得意としたヴァントの「第9」は、まさに、ブルックナーの交響曲を思わせるような荘厳さを湛えている。

眼光紙背に徹したスコアリーディングをベースに、全体の厳しい造型を堅持し、重厚にして剛毅な演奏を行っている。

それでいて、第2楽章の中間部などの抒情も高踏的な美しさを保っており、剛柔のバランスのとれた至高の名演と高く評価したい。

熱心なヴァント・ファンからは「心身充実していた1990年代前半〜半ばの演奏こそヴァントの真髄がきける」「ベルリン・ドイツ放送響の力量は北ドイツ放送響以上。ベルリン・フィルはオケのプライド強すぎてヴァントの意図が100%徹底していない。ミュンヘン・フィルはチェリビダッケの影が付きまとう。今回のベルリン・ドイツ放送響が最高」とまで噂されていた垂涎のライヴ演奏である。

厳しく引き締まった造形美に打ち抜かれた崇高にして超弩級の演奏からは、ヴァントの芸風の真髄と「真打ち登場!」の手応えを実感されるに違いない。

録音も1993年のライヴ録音としてはきわめて優秀で、本盤の価値を高めることに大いに貢献している。

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2015年03月29日


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パーヴォ・ヤルヴィは、今や最も録音を活発に行っている指揮者と言えるだろう。

その数の多さもさることながら、楽曲の多種多様ぶりには驚かされるばかりである。

これは、パーヴォ・ヤルヴィが、父ネーメ・ヤルヴィ譲りの広範なレパートリーを誇っていることの証左であると考える。

ところが、不思議なのは、北欧エストニア出身の指揮者であるにもかかわらず、そして、父ネーメ・ヤルヴィが2度にわたってシベリウスの交響曲全集を録音しているにもかかわらず、シベリウスの交響曲を、現時点においても本盤に収められた第2番とクレルヴォしか録音していないということである。

しかも、それらの録音が、有名な人気作ではあるが、必ずしもシベリウスの交響曲の代表作とは言えない第2番と最も演奏される機会の少ないクレルヴォというのは、パーヴォ・ヤルヴィなりの独特の考え方があるのかもしれない。

いずれにしても、本盤の「第2」は、そうした残念な思いを補ってあまりあるほどの素晴らしい名演と高く評価したい。

本名演が素晴らしいのは、何よりもパーヴォ・ヤルヴィの表現が実に音楽性豊かであるという点である。

その棒さばきは、切れ味がよく、しかも北欧の雄大な自然が目の前に生き生きと甦って来るような演奏を繰り広げている。

オーケストラがよくコントロールされていて、フィンランドの景色を俯瞰的に見ているかのような印象を受ける。

パーヴォ・ヤルヴィは、曲想を精緻かつ丁寧に描き出しており、どこをとっても恣意的な解釈が聴かれず、音楽が自然体で滔々と流れていくのが素晴らしい。

特別な個性があるというわけではないが、スコアに記された音符のうわべだけを鳴らすという浅薄な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても情感の豊かさに満ち溢れているのが素晴らしい。

北欧の大自然を彷彿とさせるような繊細な抒情の表現にも秀逸なものがあり、シベリウスの内面的な部分とのバランスもよく、第2楽章の表現もなかなかにドラマティック。

終楽章の圧倒的な盛り上がりも圧巻の迫力であり、表現の幅はきわめて広いが、それでいて、管楽器、弦楽器そして打楽器ともに、荒っぽさを感じさせず、常にニュアンス豊かな奥行きのある演奏を繰り広げているのが見事である。

これは、パーヴォ・ヤルヴィの薫陶の下、最高のパフォーマンスを示したシンシナティ交響楽団の力量によるところが大きいと言わざるを得ない。

カップリングされているトゥビンの「第5」も、シベリウスと同様に豊かな音楽性が感じられる素晴らしい名演。

これはパーヴォ・ヤーヴィのオーソドックスでありながら、聴かせどころを盛り上げていく巧さが光っている。

同曲を収めたCDで、現在入手できるのは父ネーメ・ヤルヴィによる演奏のみであり、楽曲の質の高さの割には殆ど演奏されていない。

このような同曲の真価を広く認知させるという意味でも、本名演の登場は大いに歓迎されるべきであると考える。

マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音も、本盤の価値を大いに高める結果となっている点を忘れてはならない。

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classicalmusic at 22:43コメント(0)トラックバック(0)シベリウスヤルヴィ 

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小林研一郎が古希を迎えたのを契機として進められていたチェコ・フィルとのベートーヴェンの交響曲全集のシリーズ第5弾の登場で、小林研一郎による初のベートーヴェンの交響曲全集が完成されたというのは大変うれしい限りである。

小林研一郎は、もともとレパートリーの少ない指揮者であり、新しい楽曲に挑戦する際には常に慎重な姿勢で臨むのを旨としてきた。

もっとも、ひとたびレパートリーとした楽曲については、それこそ何度も繰り返し演奏することによって、よりレベルの高い演奏を目指すべく研鑽を積んできた。

チャイコフスキーの交響曲(特に「第5」)にしても、マーラーの交響曲(特に「第1」「第5」「第7」)にしても、ベルリオーズの幻想交響曲にしても、名演が多いのはそうした理由によるところが大きい。

それはさておき、このベートーヴェン・チクルスのこれまで発売された演奏の評価は必ずしも芳しいものは言い難い。

レコード芸術誌などにおける音楽評論家による評価も酷評に近い状態にあるし、ネットにおける様々なレビューでも良い評価をされている方は殆ど稀である。

その理由を考えると、おそらくは、小林研一郎によるアプローチの立ち位置が難しいという側面があるのではないだろうか。

ベートーヴェンの交響曲の演奏は、近年ではピリオド楽器の使用や現代楽器を使用した古楽器奏法による演奏が主流を占めているが、小林研一郎はそうした近年の流行は薬にしたくもない。

それでは、これまでの独墺系の錚々たる大指揮者が築き上げてきたドイツ正統派たる重厚な演奏を希求しているのかと言うと、これまた全くそうした伝統的な演奏様式などいささかも念頭にないと言えるところだ。

このように、小林研一郎の演奏は、個の世界にあるものであり、その個性が演奏の隅々にまで行き渡ったものとも言えるだろう。

それ故に、聴き手によっては、小林研一郎の体臭芬々たる演奏に辟易するということも十分に考えられるところだ。

しかしながら、本盤に収められた「第8」は、ベートーヴェンの交響曲の中では、剛よりも柔的な要素が多い楽曲であることから、「炎のコバケン」とも称されるようなパッションの爆発は最小限に抑えられており、これまでの小林研一郎によるベートーヴェンの交響曲演奏にアレルギーを感じてきた聴き手にも、比較的受け入れられやすい演奏と言えるのではないだろうか。

もっとも「第9」のフィナーレなどには、そうした小林研一郎の途轍もない燃焼度の高さの片鱗も感じられる点は相変わらずであり、筆者が学生時代に東京芸術劇場でライヴに接した時の感動的名演を思い起こさせる。

つまるところ、没個性的な凡演や、はたまた近年流行のピリオド楽器の使用や古楽器奏法による軽妙浮薄な演奏などと比較すると、はるかに存在価値のある演奏と言えるのではないだろうか。

確かに、両曲のベストの名演とは到底言い難いが、小林研一郎一流の熱き歌心が結集するとともに、オーソドックスなアプローチの中にも切れば血が出てくるような灼熱のような指揮ぶりも堪能することが可能な、いい意味でのバランスのとれた名演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。

そして、小林研一郎による指揮に、適度の潤いと奥行きの深さを与えているのが、チェコ・フィルによる名演奏と言えよう。

ホルンをはじめとする管楽器の技量には卓越したものがあり、弦楽器の重厚で深みのある音色も実に魅力的というほかはない。

音質は、SACDによる極上の高音質であり、小林研一郎&チェコ・フィルによる名演を望み得る最高の鮮明な音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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ヴァントは、1990年代に入ってブルックナーの交響曲の崇高な超名演を成し遂げることによって真の巨匠に上り詰めるに至ったが、1980年代以前のヴァントがいまだ世界的な巨匠指揮者としての名声を獲得していない壮年期には、たびたび来日して、NHK交響楽団にも客演を行っていたところだ。

本盤に収められたブルックナーの交響曲第4番は、ヴァントが得意中の得意としたレパートリーであり、NHK交響楽団に客演した際のコンサートの貴重な記録でもある。

ヴァントの「第4」では、ベルリン・フィル盤(1998年)、ミュンヘン・フィル盤(2001年)、北ドイツ放送響とのラストレコーディング(2001年)の3点が同格の超名演と高く評価されてしかるべきであろう。

それらに対して、NHK交響楽団を指揮した本盤(1982年ライヴ)の性格はケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1976年)に近いものと言える。

この「第4」は、いわゆるブルックナー指揮者と評される指揮者にとっては、なかなかに難物であるようで、ヨッフムなどは、2度にわたる全集を成し遂げているにもかかわらず、いずれの「第4」の演奏も、他の交響曲と比較すると必ずしも出来がいいとは言い難い。

ヴァントがいまだ世界的なブルックナー指揮者としての名声を獲得していない壮年期の演奏であるだけに、1990年代における神々しいばかりの崇高な名演が誇っていたスケールの大きさや懐の深さはいまだ存在していないと言えるところであり、本盤の演奏を前述の1990年以降の超名演の数々と比較して云々することは容易ではある。

しかしながら、本演奏においても、既にヴァントのブルックナー演奏の特徴でもあるスコアリーディングの緻密さや演奏全体の造型の堅牢さ、そして剛毅さを有しているところであり、後年の数々の名演に至る確かな道程にあることを感じることが可能だ。

また、本盤の演奏においては、こうした全体の堅牢な造型や剛毅さはさることながら、金管楽器を最強奏させるなど各フレーズを徹底的に凝縮化させており、スケールの小ささや金管楽器による先鋭的な音色、細部に至るまでの異常な拘りからくるある種の神経質さがいささか気になると言えるところではあるが、それでも違和感を感じさせるほどでもないというのは、ヴァントがブルックナーの本質を既に鷲掴みにしていたからにほかならないと考えられる。

そして、本演奏には、ライヴ録音ならではの畳み掛けていくような気迫と生命力が漲っており、その意味では、ケルン放送交響楽団とのスタジオ録音よりも優れた演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、世界的なブルックナー指揮者として世に馳せることになる後年の大巨匠ヴァントを予見させるのに十分な素晴らしい名演と高く評価したい。

ヴァントの剛毅で緻密な指揮にしっかりと喰らい付いていき、持ち得る実力を最大限に発揮した名演奏を披露したNHK交響楽団にも大きな拍手を送りたい。

1970年代から80年代にかけてのNHK交響楽団は一種独特の魅力と迫力があり、相性のいい指揮者と出会うと鬼神もかくやといった豪快な演奏で多くの聴衆を魅了してきた。

今回もまた激烈なヴァントの指揮のもとかつての重厚かつ豪放なN響サウンドが見事に蘇っている。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年03月28日


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江崎昌子による待望のショパンのピアノ作品集の第5弾の登場だ。

ポーランドを第2の拠点として活躍するピアニスト、江崎昌子は、2004年度日本ショパン協会賞を受賞し、ショパン演奏が高く評価される日本を代表するショパン弾きである。

筆者は、マズルカ全集におけるセンス満点の素晴らしい名演に接してから、江崎昌子が発売するショパンのピアノ作品集の演奏に注目してきたところである。

エチュード集にしても、はたまたピアノ・ソナタ全集にしても、ノクターン全集にしても、江崎昌子の類稀なる音楽性とセンスの良さが如何なく発揮された演奏に仕上がっていると言えるところであり、前述のマズルカ全集にも比肩し得るだけの素晴らしい名演と言えるところだ。

そして、本盤のバラード集&即興曲集であるが、前述の既発売のピアノ作品集にも優るとも劣らない、そして、まさに我々聴き手の期待がいささかも裏切られることがない圧倒的な名演と高く評価したいと考える。

江崎昌子による本演奏は、第4弾までの演奏と同様に、ショパンの各楽曲に対する深い洞察力に裏打ちされた、実に考え抜かれた解釈が光っている。

ショパンの怒り・哀しみ・喜び、ショパンが生きていた頃のポーランドの事などピアノの音色から様々な想いが伝わってくる。

おそらくは、録音に至るまでに何度も両曲集を弾きこなすとともに、スコアに記された音符の表層にとどまらず、各曲の音符の背後にある作曲当時のショパンの精神構造や時代背景に至るまで、徹底した追究が行われたのではないかと考えられるところだ。

江崎昌子は、こうした徹底した自己研鑽とスコアリーディングに基づいて、バラード集や即興曲集を構成する各曲を万感の思いを込めて情感豊かに曲想を描き出している。

このように考え抜かれた演奏を旨としてはいるが、理屈っぽさや生硬さは皆無であり、音楽が滔々と自然体に流れるとともに、バラードや即興曲の美しさや魅力を聴き手にダイレクトに伝えることに成功しているのが素晴らしい。

加えて、ショパンの演奏に時として聴かれる陳腐なロマンティシズムなど薬にしたくもなく、どこをとっても気高い品格と洒落た味わいを兼ね備えているのが素晴らしい。

もちろん、ルービンシュタインやフランソワ、コルトーなどによる歴史的な超名演などと比較すると、いわゆる強烈な個性にはいささか不足していると言えなくもない。

しかし、バラードや即興曲を安定した気持ちで味わうことができるという意味では、これまでの様々なピアニストによる同曲の名演にも引けを取っていない。

少なくとも、我が国の女流ピアニストによるショパンの演奏としては、間違いなく最右翼に掲げられるべき圧倒的な名演と評価しても過言ではあるまい。

音質は、SACDによる極上の高音質録音であり、江崎昌子のピアノタッチが鮮明に再現されるのは実に見事であると言えるところであり、本名演の価値をより一層高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本盤は、江崎昌子による素晴らしい名演と極上の高音質録音が相俟った名SACDと高く評価したいと考える。

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アバドの指揮する独墺系の作曲家による楽曲については、そのすべてが名演とされているわけではないが、その中で、メンデルスゾーンについては、既に録音された演奏のすべてが名演との評価を得ている数少ない作曲家である。

本盤には、アバドが1980年代にロンドン交響楽団とともに録音(1984、1985年)したメンデルスゾーンの交響曲全集が収められている。

どの曲も、ロマン派ながらバッハに傾倒してもいたメンデルスゾーンにふさわしい、ロマン的な抒情性と端正な造形を兼ね備えた演奏で、第一級の全集と言って良いだろう。

アバドは、本演奏の約20年前の1967年にも、ロンドン交響楽団とともに交響曲第3番及び第4番を録音(英デッカ)しており、それも当時気鋭の指揮者として人気上昇中であった若きアバドによる快演であったが、本演奏の方が円熟味など様々な点からしてもより素晴らしい名演と言えるだろう。

また、アバドは1995年にも、ベルリン・フィルとともに交響曲第4番をライヴ録音(ソニークラシカル)しており、それは実演ならではの熱気溢れる豪演に仕上がっていることから、第4番に限っては、1995年盤の方をより上位に置きたいと考える。

それはさておき本演奏についてであるが、本演奏の当時のアバドは最も輝いていた時期である。

ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するアバドではあるが、この時期(1970年代後半から1980年代にかけて)に、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団、そしてウィーン・フィルなどと行った演奏には、音楽をひたすら前に進めていこうとする強靭な気迫と圧倒的な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が融合した比類のない名演が数多く存在していたと言える。

本盤の演奏においてもそれは健在であり、どこをとっても畳み掛けていくような気迫と力強い生命力に満ち溢れているとともに、メンデルスゾーン一流の美しい旋律の数々を徹底して情感豊かに歌い抜いていると言えるところであり、その瑞々しいまでの美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

重厚さにはいささか欠けているきらいがないわけではないが、これだけ楽曲の美しさを堪能させてくれれば文句は言えまい。

アバドは欧米のオーケストラにイタリア的な新風を吹き込んだ指揮者であることは誰しも認めるところだが、それは先輩ジュリーニの孤高の至芸に比べれば更に徹底したものだった。

この傾向は図らずもムーティによって受け継がれることになるが、そのテクニックには先ずオーケストラからの音のベクトルの転換というストラテジーがある。

端的に言えば、伝統的なオーケストラには特有の個性や芸風が培われていて、それが長所にも、また場合によっては枷にもなるわけだが、その枷の部分を取り払うことによってオーケストラを一度解放し、楽員の自発性を発揮させながら新たに全体をまとめていくというのがアバドの手法だ。

特にメンデルスゾーンのように天性の平明さを持った屈託の無い音楽には理詰めの厚化粧は禁物で、むしろ風通しの良いフレッシュな感性と開放感の表出がより適しているだろう。

そうした意味でこのメンデルスゾーンの交響曲全集では彼らによって最良の効果が発揮されているように思う。

少なくともオーケストラの自主性がよく表れた演奏で、ロンドン交響楽団の音色もアバドの指揮の下では何時になく明るく軽快になっているのも偶然ではないだろう。

しかも彼らが伝統的に持っている凛とした気品は少しも失われていない。

いずれにしても、本盤の演奏は、アバドが指揮した独墺系の音楽の演奏の中では最高峰の1つに位置づけられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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2010年2月12日 ミュンヘン・フィルハーモニーに於けるライヴ録音で、ハイティンクの円熟を感じさせる素晴らしい名演だ。

ハイティンクは、アシュケナージなどと並んで評価が大きく分かれる指揮者と言えるのではないだろうか。

ハイティンクは、全集マニアとして知られ、さすがにハイドンやモーツァルトの交響曲全集は録音していないが、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなど、数多くの作曲家の交響曲全集のスタジオ録音を行ってきているところだ。

既に、80歳を超えた大指揮者であり、近年では全集のスタジオ録音に取り組むことはなくなったが、発売されるライヴ録音は、一部を除いてさすがは大指揮者と思わせるような円熟の名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたブルックナーの交響曲第5番も、そうした列に連なる素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

ハイティンクは、同曲をコンセルトヘボウ・アムステルダム(1971年)、そしてウィーン・フィル(1988年)とともにスタジオ録音を行っており、特に、ウィーン・フィルとの演奏については、オーケストラの美演もあって捨てがたい魅力があると言えるが、演奏全体の持つスケールの雄大さや後述の音質面に鑑みれば、本演奏には敵し得ないと言えるのではないだろうか。

ベートーヴェンやマーラーの交響曲の演奏では、今一つ踏み込み不足の感が否めないハイティンクではあるが、ブルックナーの交響曲の演奏では何らの不満を感じさせないと言える。

本演奏においても、ハイティンクは例によって曲想を精緻に、そして丁寧に描き出しているが、スケールは雄渾の極み。

重厚さにおいてもいささかも不足はないが、ブラスセクションなどがいささかも無機的な音を出すことなく、常に奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。

これぞブルックナー演奏の理想像の具現化と言っても過言ではあるまい。

悠揚迫らぬインテンポを基調としているが、時として効果的なテンポの振幅なども織り交ぜるなど、その指揮ぶりはまさに名人芸の域に達していると言ってもいいのではないか。

ハイティンクの確かな統率の下、バイエルン放送交響楽団も圧倒的な名演奏を展開しており、とりわけホルンをはじめとしたブラスセクションの優秀さには出色のものがあると言えるだろう。

いずれにしても、本演奏は、現代を代表する大指揮者の1人であるハイティンクによる円熟の名演と高く評価したい。

そして、本盤で素晴らしいのは、ハイブリッドSACDによる極上の高音質録音であると言えよう。

音質の鮮明さに加えて、臨場感溢れる音場の広さは見事というほかはなく、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

近年ますます、その演奏と解釈に磨きのかかるハイティンクの、息詰まるような緊張感をたたえた感動的な演奏が高音質録音で余すことなく捉えられている。

このようなハイティンクによる素晴らしい名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年03月27日


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プレトニョフ&ロシア・ナショナル管弦楽団によるチャイコフスキーの交響曲全集も、今般の交響曲第3番の登場でついに第6弾。

これによって、死後補筆の第7番を除けば、番号付きの交響曲がすべて出揃った。

残るは、マンフレッド交響曲のみであり、いよいよこのコンビによる2度目の全集の完成も間近に迫ったところだ。

本盤の演奏を聴いて感じられるのは、そしてそれはこれまでの他の交響曲の演奏においても共通しているとも言えるが、プレトニョフのチャイコフスキーへの深い崇敬の念であると言える。

2度にわたって交響曲全集を録音するという所為もさることながら、演奏におけるアプローチが、他の楽曲とは次に述べるように大きく異なっているからである。

プレトニョフは、数年前に、ロシア・ナショナル管弦楽団とともにベートーヴェンの交響曲全集を録音しており、それは聴き手を驚かすような奇抜とも言える超個性的な演奏を繰り広げていた。

それだけに、賛否両論が渦巻いていたが、それに対して、今般のチャイコフスキーの交響曲全集においては、ある意味では正統派の演奏。

演奏の総体としては、いささかも奇を衒うことがないオーソドックスな演奏を展開していると言えるところである。

もちろん、オーソドックスとは言っても、そこはプレトニョフ、個性が皆無というわけではない。

本盤に収められた交響曲第3番においても、テンポの振幅を効果的に活用したり、ここぞという時にはアッチェレランドを駆使するなど、プレトニョフならではのスパイスが随所に効いていると言えるだろう。

にもかかわらず、演奏全体としては、あざとさをいささかも感じさせず、前述のように、オーソドックスな装いとなっているのは、プレトニョフがチャイコフスキーの交響曲を深く理解するとともに、心底からの畏敬の念を有しているからに他ならないのではないかとも考えられるところだ。

プレトニョフにとっては、本盤の交響曲第3番の演奏は、約15年ぶりの録音ということになるが、この間のプレトニョフの指揮芸術の円熟を感じさせるものであり、音楽の構えの大きさ、楽曲への追求度、細部への目配りなど、どの点をとっても、本演奏は数段優れた名演に仕上がっていると言えるだろう。

併録の戴冠式祝典行進曲は、一般に馴染みのない楽曲であるが、中庸のテンポを基調としつつ、聴かせどころのツボを心得たオーソドックスなアプローチで、知られざる名曲に光を当てるのに成功した素晴らしい名演と高く評価したい。

それにしても、ペンタトーンレーベルによる本チクルスの音質は例によって素晴らしい。

何と言っても、マルチチャンネル付きのSACDであるということは、本チクルスの大きなアドバンテージの1つであると言えるところであり、プレトニョフの精緻にして緻密さを基調とするアプローチを音化するのには、極めて理想的なものと言えるのではないだろうか。

いずれにしても、プレトニョフによる素晴らしい名演を、マルチチャンネル付きの極上の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、名人揃いの世界最高峰のオーケストラだけに、芸術監督に就任する指揮者も、各奏者を掌握するための苦労は並大抵のものではない。

カラヤンも、就任当初はフルトヴェングラー時代の重鎮奏者に手を焼き、自分の理想の演奏を行えるようになったのは、芸術監督に就任して約10年後の1960年代に入ってからであると言われている。

それだけ、ベルリン・フィルという稀代のオーケストラを掌握するのに相当の時間がかかるということであるが、これは、現在の芸術監督のラトルにも言えることであり、ラトルがベルリン・フィルとともに名演奏の数々を行うようになったのも、2010年代に入ってからで、2002年の就任後、約10年の期間を要している。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督として長期政権が予測されることから、今後はベルリン・フィルとの間で理想の演奏を成し遂げていくことは想像するに難くない。

その前任者のアバドは、カラヤンを失ったベルリン・フィルが楽団員の投票により首席指揮者に任命され、一時は世界楽団の頂点に立つマエストロであった。

しかしながら、アバドがベルリン・フィルの芸術監督をつとめていたのは1990年〜2002年のわずか12年間。

これでは、カラヤンのオーケストラを自らのオーケストラとして掌握するにはあまりにも時間がなさ過ぎたと言えるだろう。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。

そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、鳴かず飛ばずの低迷期に陥り、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

多くの音楽評論家から民主的とは名ばかりの「甘ちゃん指揮者」などといった芳しからざる綽名を付けられたものである。

カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。

そのようなアバドが、大役の心労から胃癌にかかり、それを克服した後は、それまでとは打って変わったような深みのある名演奏を成し遂げるようになった。

ベルリン・フィルを掌握して、いかにもアバドならではの名演を繰り広げるようになったのは、皮肉にも胃癌を克服した2000年代に入ってからで、まさに、ベルリン・フィルの芸術監督退任直前のことであった。

退任後に、ベルリン・フィルとともに時として行われる演奏の数々が見事な名演であることに鑑みれば、アバドももう少しベルリン・フィルの芸術監督にとどまるべきであったのではないかとも思われるが、このあたりも、いかにもポストに固執しないアバドらしいとも言える。

いずれにしても、歴代の芸術監督の中でも、必ずしもベルリン・フィルとの関係が順風満帆とはいかなかったアバドではあるが、それでも、いくつかの演奏では、さすがはアバドとも賞賛されるべき名演を成し遂げていたと言える。

本盤には、アバドのベルリン・フィル時代を象徴する名演が収められており、イタリア人指揮者ならではの熱いカンタービレと細部に至るまで徹底して読み込まれた緻密な設計、聴き手を興奮させずにおかない劇場的な華やかさと輝き、そして演奏を貫く緊張感、とまぶしいばかりの光にあふれ、磁力にも似た強い力で聴き手を虜にするのである。

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ルービンシュタインは、3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集をスタジオ録音している。

ルービンシュタインはポーランド出身ということもあって、稀代のショパン弾きとしても知られてはいるが、前述のように3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音したことや、生涯最後の録音がブラームスのピアノ協奏曲第1番であったことなどに鑑みれば、ルービンシュタインの広範なレパートリーの中核を占めていたのは、ベートーヴェンやブラームスなどの独墺系のピアノ曲であったと言えるのかもしれない。

本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番&第2番は、ルービンシュタインによる3度目のピアノ協奏曲全集(1975年)からの抜粋である。

最初の全集であるクリップス&シンフォニー・オブ・ジ・エアとの演奏(1956年)や、2度目の全集であるラインスドルフ&ボストン交響楽団との演奏(1963年)と比較すると、本演奏は88歳の時の演奏だけに、技量においてはこれまでの2度にわたる全集の方がより優れているかも知れない。

しかしながら、本演奏のゆったりとしたテンポによる桁外れのスケールの大きさ、そして各フレーズの端々から滲み出してくる枯淡の境地とも言うべき奥行きの深い情感の豊かさにおいては、これまでの2度にわたる全集を大きく凌駕していると言えるだろう。

このような音楽の構えの大きさや奥行きの深さ、そして格調の高さや風格は、まさしく大人(たいじん)の至芸と言っても過言ではあるまい。

1音たりとも弾き飛ばさずに、しっかりと弾き切っているところが好ましいが、少しももたつかず、重さを感じさせない推進力のある演奏は、ベートーヴェンの若き日の作品の魅力を余すところなく伝えてくれている。

特に、両曲の緩徐楽章の深沈とした美しさには抗し難い魅力があると言えるが、その清澄とも言うべき美しさは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、自らの生涯を自省の気持ちを込めて回顧するような趣きさえ感じられる。

これほどの高みに達した崇高な音楽は、ルービンシュタインとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのかもしれない。

ルービンシュタインの堂々たるピアニズムに対して、バレンボイム&ロンドン・フィルも一歩も引けを取っていない。

バレンボイムの指揮は立派の一言で、重すぎず、軽すぎずの充実した響きと、力強い推進力に支えられた若々しい伴奏で、ベストの出来と言えよう。

バレンボイムは、ピアニストとしても(クレンペラーの指揮)、そして弾き振りでも(ベルリン・フィル、シュターツカペレ・ベルリンとの演奏)ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音しているが、ここではルービンシュタインの構えの大きいピアニズムに触発されたこともあり、持ち得る実力を存分に発揮した雄渾なスケールによる重厚にして渾身の名演奏を展開しているのが素晴らしい。

いずれにしても、本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番及び第2番の演奏は、いずれも両曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

音質は従来CD盤(輸入盤)でも十分に満足できるものであるが、ルービンシュタインによる超名演でもあり、今後はSACD化を図るなど更なる高音質化を望んでおきたいと考える。

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2015年03月26日


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“ピアノの魔術師”と呼ばれたリスト珠玉のピアノ曲ばかりを集めた名曲集で、演奏しているのはリスト弾きとして人気を博した巨匠ホルヘ・ボレット。

リストの直系の孫弟子と言われているボレット特有の優しく、そして微妙な強弱の駆け引きに長けた名演奏が存分に味わうことのできる、リストを聴くに打ってつけのアルバムである。

音の魔術師と言われたリストの音楽の魅力が、ボレットの確実な技巧で余す所無く表現されていると名盤と言えるだろう。

言うまでもなく、リストはショパンと並んで、ロマン派を代表するピアニストであり、ピアノ曲を数多く作曲した大芸術家であるが、これは気のせいかもしれないが、古今東西のピアニストでも、いわゆるショパン弾きに対して、リスト弾きというのは決して多いとは言えないのではないだろうか。

リスト弾きで頭に浮かぶのは、大物ではシフラ、ボレット、アラウ、ベルマンと言ったところか。

ボレットは、異論はあろうが、筆者としては、このリスト弾きの巨匠の中でも、比較的癖の少ないオーソドックスな演奏をしているのではないかと考えている。

本盤は、リストのピアノ作品の中でも有名な小品を収めており、リスト弾きとしてオーソドックスなボレットの芸風を知る上でもベストの選曲となっている。

「鬼火」や「狩り」の力強い打鍵、「ペトラルカのソネット」、「ため息」、「コンソレーション」、「愛の夢」の繊細な抒情、「メフィスト・ワルツ」や「タランテラ」のリズミカルな舞踊、そして超有名な「ラ・カンパネラ」の超絶的な技巧など、リストのピアノ曲の多種多彩な魅力を存分に満喫させてくれる。

ピアニストにとっては、高度で超絶的テクニックを必要とする曲群であるが、ボレットはテクニック偏重を感じさせず、理屈をこねるよりも、もっと素直に単純に聴き手を楽しませる。

リスト弾きのボレットならではの勘どころを押さえた演奏となっていて、テクニックだけで押しまくる今どきのピアニストとは違ってしっとりとしたスケールの大きい演奏を聴かせてくれる。

その美しい高旋律や魔術的な技巧、ボレットはすべての曲において正しい解釈をしてくれていると言えよう。

ボレットのピアノの音は優しくて温かみがあるので、聴いていて疲れない。

技巧的なリストの曲をこうも内容の濃いものに仕上げてしまったボレットの腕には感嘆する。

ボレットのピアノは、テンポはやや遅めであるが、1音1音に濁りがなく、丁寧に演奏されている印象があり、音の輪郭をはっきりさせるところと曖昧なところなど非常に細やかな表現をしている。

また、ベヒシュタインの透明感ある音色の美しさが非常に楽しめる、リストのピアノ名曲集としての価値も高い。

ボレットの名をすでに知っている者も、知らない人も、ここでの演奏は彼の特質を表しており、技巧や激しさよりも作品本来の美しさに出会うことができる。

ボレットは超絶技巧を要する曲でも柔らかいタッチでまとめ上げていて、ベルマンの荒々しい演奏や、アラウの切れのある演奏、アシュケナージのコンピューターのような演奏と比べてみるのも一興ではないだろうか。

ボレットの演奏はひょっとするとあまり日本人好みではない演奏なのかもしれないが、フジコ・ヘミングが評価されるようになった昨今、ボレットの演奏を聴いてみるのも良いかもしれない。

そのきらめくような、まさにブリリアントと表現するのが一番しっくりくる演奏は、まさに“リストの曲”といった感じだ。

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チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるブルックナーの交響曲集のSACD盤がついに発売された。

本セット盤には、ブルックナーの交響曲第4番、第6番、第7番、第8番が収められており、このうち第8番については、先般、アルトゥスレーベルから同一音源のシングルレイヤーによるSACD盤が発売されており、厳密に言うと、初SACD化は第4番、第6番、第7番の3曲ということになる。

もちろん、本セット盤はハイブリッドSACDであるし、ベルリンのスタジオにてDSDマスタリングが行われていることから、第8番についても、同じ音源によるSACDでも音質の性格はかなり異なるものとなっている。

因みに、EMIから発売されているこのコンビによる通常CD盤では、第4番が1年前の1988年のライヴ録音、第6番は同一音源、第7番は4年後の1994年のライヴ録音、第8番は3年後の1993年のライヴ録音であり、第7番及び第8番については来日時の本盤の演奏の方を高く評価する音楽評論家が多いことなどに鑑みれば、高音質SACD化がなされた本セット盤こそは、チェリビダッケによるブルックナーの交響曲選集の決定盤と言っても過言ではあるまい。

チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現し尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であった。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI、来日時の演奏についてはアルトゥスやソニー・クラシカルなど)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢で練習に臨むとともに、かなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、ブルックナーの交響曲についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

EMIから発売されている通常CD盤で言うと、第5番、第8番、第9番については、超スローテンポによる演奏は、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないかと考えられる。

これに対して、第3番や第4番、第6番などは、その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価し得るのではないかとも思われるところである。

もっとも、EMI盤では違和感を感じさせた第8番も、本セット盤に収められた演奏は、チェリビダッケがこよなく愛した日本でのコンサートのライヴ録音ということもあって、同じく超スローテンポであっても、演奏の密度の濃さもあって冗長さを感じさせないと言えるところであり、必ずしも筆者の好みの演奏ではないが、音のドラマとしては十分に合格点を与えることが可能な名演と評価し得るのではないかと考えられる。

これは、第7番についても同様のことが言えるところであり、これらのことを総合的に勘案すれば、本セット盤は、ブルックナーの交響曲に深い愛着を持ち続けたチェリビダッケがその晩年に到達し得た自らの指揮芸術の集大成とも言うべき名セット盤と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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往年の名指揮者ブルーノ・ワルター(Bruno Walter 1876-1962)がCBSレーベルに録音した一連のマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)作品を7枚のCDに収録したBox-set。

LP時代に高価だった名盤が続々と安価で販売され、名演奏がきわめて身近になったが、このセットもその好例で、品質がきわめて高い。

演奏は言うまでもないが、復刻が丁寧でばらつきが少ないことが特色である。

ワルターはマーラーの弟子であり親友でもあった。

景勝地シュタインバッハで夏の休暇を楽しむマーラーを訪ねたワルターが美しい景色に見とれていると、マーラーが「それ以上眺める必要はないよ。全部私の今度の交響曲にしてしまったからね。」と言ったのは有名だ。

マーラーの死後に彼の交響曲「大地の歌」と「第9」を初演したのがワルターである。

マーラーはユダヤからカトリックに改宗したが、ワルターは終生ユダヤ人だった。

そのため、第2次世界大戦で彼は拠点をドイツからオーストリアへ、そしてアメリカへと移さざるを得なくなる。

そうして、アメリカで数々のマーラーの名録音が生まれ、それがこのアルバムだ。

もう1つ逸話を。

当時CBSはマーラーの「第1」を録音するにあたり、指揮者にバーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990)を起用することも考えていて、当人も乗り気だった。

しかし、ワルターとのレコーディングが先に終了したことから、シェアの問題もあり、バーンスタインに計画の中止を申し出たが、彼は承服しなかった。

そこで、CBSのスタッフは実際に録音されたワルターの演奏をバーンスタインに聴いてもらった。

聴き終わったバーンスタインは「素晴らしい。これは彼の交響曲だ。」と延べ、自ら録音の中止を快諾したそうだ。

ワルターの音楽の価値、バーンスタインの大きな人柄など様々なことを示すエピソードだ。

ブルーノ・ワルターのこのマーラー交響曲集は本当に素晴らしい。

バーンスタインのマーラーも確かに素晴らしいが、このワルターの演奏はそれを遥かに凌駕する。

バーンスタインの解釈より、マーラーの混沌とした宇宙がよりはっきりと感じられ、遥かにロマン的であり、マーラーの心情がひしひしと伝わってきて、こちらの感情も溢れ出しそうになる。

マーラーの音楽の根底に流れているのは「うた」なんだとあらためて理解することができる。

この演奏を聴いたら、バーンスタインのみならず、他のいかなる指揮者もマーラー演奏を断念してしまうのではないかと思わずにはいられないが、それほどに素晴らしい演奏である。

ワルターの演奏は、典雅さと苛烈さがあり、その表出度のバランスが曲や演奏によって異なるのだけれども、どれも高い香りを感じさせるものだと思う。

どの交響曲も今なお名演の誉れが高いもので、特に「第1」と「第9」が素晴らしく、薫り高く、格調高く、切々と歌い上げている。

筆者が初めて「第2」を聴いたのがこのワルターの劇的な演奏であったが、懐かしいし、現代でも通じるシャープな迫力に満ちている。

また「大地の歌」は1952年のウィーン・フィルとの名盤が名高いが、こちらも味わいのある演奏だと思う。

いずれにしても、半世紀を過ぎた今でも、多くの人に愛聴される歴史的録音だろう。

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2015年03月25日


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右手の故障を克服、見事に復活を果たしたフランスの名ピアニスト、ミシェル・ベロフによるドビュッシー作品集で、鮮烈な音感覚に円熟味が加わった演奏は、永遠に聴き継がれる名盤としての地位を確立したと言ってよいだろう。

ベロフによる2度目のドビュッシー全集からの1枚であるが、ため息がでるような詩情溢れる極上の美演である。

例えば、版画のグラナダの夕暮れの何という情感豊かさ。

ドビュッシーのピアノ曲を演奏するための鉄則として、安定した技量をベースとしつつも、各楽曲の有する詩情豊かさをいかに巧みに表現できるのかが必要となってくるが、べロフの手にかかっては、いささかの心配は要らないということになる。

映像の第1集や第2集の各小曲の描き分けも実に巧み。

各小曲ともにこれ以上は求め得ないような高踏的な美しさを誇っており、これを超える演奏は不可能ではないかと考えられるほどだ。

特に印象に残ったのは、映像第1集の水の反映であり、ゆったりとしたテンポで、ドビュッシーのあらゆるピアノ作品の中でも最もみずみずしい美しさを湛えた名作の1つとされる同曲を、これ以上は考えられないような情感豊かさで弾き抜いており、実に感動的だ。

テクニックも申し分ないが、それ以上にとても色彩豊かであり、一体いくつ引き出しがあるのか不思議に思うくらい変幻自在に音色が変わっていく。

また、ペダルは必要最低限にとどめ、はっきりと音像を浮かび上がらせているのが特徴的で、音像がぼんやりとした神秘的な演奏とは対極をなす演奏と言えるかもしれない。

研ぎ澄まされた音、豊かな色彩感、深い情感が“フランス印象派”の感覚美を超えて音楽の核心に鋭く迫る。

巨匠への道を歩む円熟のベロフによるこの演奏は、現代のドビュッシー演奏のひとつの頂点を築くものと言えるだろう。

忘れられた映像や、喜びの島、マスクも、卓越した技量をベースとしつつ、フランス風のエスプリ漂う詩情に満ち溢れており、まさに至高・至純の名演と高く評価されるべきものと考える。

20年前にレコーディングされた時は、洗練された響きとリズムの鋭さが新鮮であったが、この新しくレコーディングされたアルバムは、録音技術が進歩したせいか、さらにパワフルさが増したような気がする。

Blu-spec-CD化によって、音質は通常盤よりさらに鮮明さを増しており、本盤の価値をより一層高めることに大きく貢献している。

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ショパンのピアノ曲に関しては、アシュケナージが素晴らしい全集を録音しているので、各曲についてはおそらくアシュケナージの本セットを求めれば、最上のショパン・コレクションが出来上がると言える。

世にはあまたショパン弾きと言われるピアニストが存在しているが、最もスタンダードな演奏と評せるのはアシュケナージであろう。

アシュケナージは無類の技巧とセンスで、ショパンの作品をきわめてオーソドックスに弾き上げているからである。

小品まで網羅した大規模な全集で、完成に15年以上要したアシュケナージのライフ・ワークのひとつであり、新しいワルシャワのパデレフスキー版による、優れた解釈が聴かれる。

言ってみれば、聴き比べをしようと思わせない見事な名演奏であり、いわゆる基本的なライブラリーには、アシュケナージが最も相応しいと言えよう。

筆者にとってアシュケナージの弾くショパンは、まさに「啓示」であった。

音楽の世界に分け入る里程標であり、1曲1曲を聴き込むごとに、深い情緒が得られた。

ショパンは「ピアノの詩人」と呼ばれるが、技術だけで弾きこなしても、ショパンの音楽は人の心を揺さぶることはない。

演奏家の卓越した感性が必要であり、アシュケナージのピアノは、技術、音色とも見事だが、それ以上に痛切とも思えるショパンへの共感が伝わる。

もちろん、アシュケナージは同時に現代的な感性を持ち合わせているので、共感といってもむせび泣いたり、叫んだりという単純なものではない。

西欧モダニズムの教養を背景とした外的均衡を保ちながらショパンの光と影を描いており、それは、稀有のピアニズムの証左である。

どのような未知の小品にでも、ベストのコンディションで臨むアシュケナージの姿勢には頭が下がる思いである。

アシュケナージの程よい陰翳をたたえた暖かく美しい響きは、ショパンの音楽にきわめて似つかわしい。

テクニックが優れているのはもちろん、音色といいタッチといい文句のない出来を示している。

エキセントリックなところはまったくなく、ショパンに天才的な閃きを求める人には物足りないところがあるかもしれないが、初期の作品やどんな小さな曲にも真正面から取り組み、作品の持ち味を生かしきるところにはまったく敬服させられる。

華麗な曲はそこそこ華麗に、内面的な曲は彫りの深い表現で、実に的確にショパンのプロポーションを余すところなく、再現し尽くしている。

なかでもマズルカ、ポロネーズといった民族的な舞曲に基づく作品の仕上がりは申し分ない。

これほどのレベルで「全集」が聴けるというのは、まさに音楽愛好家にとって、ショパン・ファンにとって福音である。

また、録音時期のためアナログ録音とデジタル録音が混在しているが、英デッカの素晴らしい録音技術のため、これもまったく問題とはならない。

清潔にして立派、そして格調も高く、これらのCDは現代ショパン演奏の最高水準を後世に伝える、20世紀の偉大な遺産であり、現代を代表するピアニストによる一大記念碑と言えるだろう。

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ショパンのワルツ集は名演が少なくないが、SP時代のコルトーと彼の弟子リパッティが、長年にわたって王座を争ってきた。

リパッティ盤はSACD化されてかなり音質が改善されたと言えるが、それでも古いという人には、録音の新しいルイサダの名演が聴けるのは実に幸せなことである。

もう最初の「第1番」から音楽をこの上なく雄弁に語りかけてやまない。

おしゃべりなショパンだが、センスがあってしゃれ切っており、頻出するルバートも古臭くなく、即興性満点、左右10本の指の魔術がいつ果てるともなく続き、この「第1番」だけで、聴く者は完全にルイサダの虜になってしまうだろう。

「第2番」「第3番」「第7番」いずれも最高だが、ことに「第10番」は音楽が100パーセントルイサダ自身のものになり切っており、聴いていて身につまされてしまう。

それにしても、なんという変幻自在な表現だろう!

「第14番」の冒頭も他のピアニストとは全然違う。

いったい何が始まったのか、と唖然とするほど不気味であり、これは本当にすごい演奏である。

ルイサダは他のピアニストに比べルバートをかなり多用しているが、それが薄っぺらな、説得力に欠けるものには決してならず、1つ1つが深い意味を持ち、雄弁に聴こえてくるところがすごい。

サロン的な軽妙洒脱さ、ピアニズムのきらめき、匂やかな繊細典雅さなどのなかで、ルイサダの演奏はショパンの原点に還ったというか、ショパンを発見したシューマンの「花の陰に隠された大砲」という言葉を思い出させる。

1曲1曲が目も綾な色とりどりの花をなし、これはダリヤ、これはスウィートピー、これはヤグルマソウと、花の色が鮮やかに浮かんでくるほどだ。

しかしこれらの花に顔を近づけると、花の香の背後に隠された野性の匂いがツンと鼻を刺してくる。

その勁さこそ彩りゆたかな花を咲かせるエキスをなしている。

花のあでやかさと、その芯にひそむ野性とは切っても切れない関係にある。

その核心にふれた演奏だ。

これだけセンス抜群の演奏も、やはり往年のリパッティ盤にはかなわないが、録音状態等も加味すると、ルイサダ盤を選択するのが妥当ではなかろうか。

そういえば、ルイサダのワルツに対する洞察はきわめて深く、以下、彼の言葉を引用しておこう。

「ショパンのワルツ集の第1曲は嬉しそうに始まるが、第2曲にはすでにノスタルジアの感触がしのびこんでくる。

このノスタルジアあるいはメランコリーは曲が進むにつれて目立ってくるが、いつもワルツというジャンルの表面的な華麗さという仮面をつけている。

しかも第3曲はもはやワルツというよりも秘められた悲しみの純粋な詩であり、第4曲以降はすべての曲に絶望の影を宿している。

第9曲と第14曲では、ショパンは仮面をかなぐり捨てて悲哀の中に突入してゆく。

前者では最初の主題が抑えた絶望の叫びとともに再現されるし、後者ではすべての希望が抹殺されて、奈落の底へまっさかさまに突進してゆくのである」

そんなルイサダの来日公演が間もなく始まるが、期待に胸をふくらませているところだ。

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2015年03月24日


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このCDのメインは、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」で、1953年8月26日のルツェルン音楽祭での演奏のライヴ録音である(フルトヴェングラーの同曲の最後の録音となったもの)。

これは、ラジオ放送を録音したもの(いわゆるエアチェック)なので音の状態は十分ではないものの、演奏は素晴らしい。

フルトヴェングラーの指揮する「エロイカ」は、極めて高い見識を持った優れた解釈を下地にしており、残されたすべての演奏が格別の名演である。

ここでの演奏は、時期的に近接している1952年11月30日のウィーン・フィルとの演奏とごく近いものだが、物腰の柔らかいウィーン・フィルと違い、ルツェルン祝祭管弦楽団(スイス・ロマンド管弦楽団の団員などから構成されているという)の素直な反応がフルトヴェングラーにウィーンでの演奏よりも少しばかり動的かつ情熱的な演奏を促したのも知れない。

第1楽章は物凄い気迫で開始され、最初の和音だけとれば、これが今までのベストと言えよう。

そして続く主題の足どりはゆったりとして実に良い雰囲気であり、堂々としてスケール雄大、ひびきが満ちあふれる。

オーケストラが指揮者に慣れていない感じで、それがフレッシュな感動を生み出す原因の1つになっているのだろう。

指揮者の棒は1952年のスタジオ録音以上に力みがないが、音の背後の凄絶さはまさに最高、常に立派な充実感に満たされている。

テンポの動きは再現部の前と直後に1度ずつあるだけで、後は安定しきっており、最晩年の確立した大演奏と言えよう。

第2楽章は心はこもっているが流れを失わず、旋律はソロといい合奏といい、肉のり厚く歌われ、中間部から再現部のフガート、その後の阿鼻叫喚に至るまで、他のどの盤に比べても仕掛けはないが、それでいて物足りなくないのは偉とすべきであろう。

この楽章は、深く悲しみに沈み込むような1952年12月8日のベルリン・フィルとの演奏より2分も短い。

お互い相手を知りぬいた組み合わせとは異なった、一期一会の感興がこの演奏の大きな魅力となっている。

スケルツォからフィナーレにかけても同じスタイルだが、後者に入ると音質がだんだん濁ってくるのが残念だ。

しかし、少しも速くならないフーガといい、ポコ・アンダンテといい、コーダといい、音の後ろに凄いものが隠されており、充分満足させてくれるのが素晴らしい。

このCDには余白を埋めるものとして、さらに2つのルツェルン音楽祭での録音が収録されている。

1つは1954年8月22日のベートーヴェンの交響曲第9番、その終楽章の最後7分余り。

これは最晩年のフルトヴェングラーの演奏の中でもとりわけ優れた感動的な演奏であるが、これは全曲として聴くべきものだろう。

もう1つは、1951年8月、ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章の練習風景である。

資料によると第2楽章の97小節から187小節までが扱われているが、フルトヴェングラーの指示は基本的に簡潔で具体的なものである。

143小節からの下降音型で、フルトヴェングラーは『重々しさ』を求め、それに応じて見事にオーケストラの演奏が変化していく様子が興味深い。

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優れた演奏家は今日数多いが、アルゲリッチほど聴き手をスリリングな興奮に誘うピアニストも他にはいないであろう。

完璧な技巧を背景に奔放なまでの即興性と躍動感にあふれた演奏を聴かせる名手であり、まさに天才的な名ピアニストである。

一方、鋭い緊張感と劇的な表現力に貫かれたピアノ演奏の醍醐味を満喫させるポリーニは、アルゲリッチと並び現代ピアノ界を二分する人気と実力を誇る名ピアニストである。

ポリーニは甘いリリシズムに溺れることなく、作品に対する鋭い問いかけを背後にもつ彼の演奏は、時に聴き手に問題提起を迫るような気迫をもち、刺激的である。

イタリア人ならではの輝ける感性と知的な洞察力を併せ持つ、稀に見る天才型の名手ということになろう。

とりわけこの2大ピアニストは特にショパンにおいて個性的で素晴らしい対照的な名演を聴かせた。

アルゲリッチはきわめてスケール大きくピアノを鳴らし、勢いに乗じた激しい魂の燃焼を聴かせるが、ポリーニは冷静沈着で完璧主義的な、揺るぎのない安定し切った演奏で迫る。

アルゲリッチは抜群のテクニックと、本能的とも言える激しい作品へののめり込みを感じさせ、まるで曲とともに燃え尽きてしまうのではと思わせる、鬼気迫る凄い迫力の演奏になっている。

ポリーニの方は冷静沈着、まったく激することなくきわめて精緻な計算によって、完璧とも言えるやはり名演を聴かせる。

アルゲリッチの怒涛のような快演と、ポリーニのクールなリリシズム、いずれも比較を絶した名演で、優劣を論じることはできないが、本能派のアルゲリッチと、理想派のポリーニでは、まったくクロスすることのない二極的なショパンである。

両者はまさに対極的とも言える解釈なのだが、ショパンの作品そのものに、こうした極端な解釈を許す要素があるのだろう。

激しい魂の燃焼を求めるか、あるいは完璧なプロポーションを求めるかで、自ずと選択の基準は決定されるだろう。

激しく燃えるアルゲリッチに対して、クールで冷静なポリーニと、2つの演奏を聴き比べるのは、ファンのみに許された楽しみと言えよう。

いずれをとるかは、聴き手の好みの問題と言うしかないところである。

アルゲリッチは5歳からピアノを始め、わずか8歳でモーツァルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾いたという。

14歳の時ヨーロッパに渡り、グルダ、リパッティ、ミケランジェリ、マガロフなど数多くの名ピアニストのもとで研鑽を重ねている。

1960年、19歳の時より、ドイツ・グラモフォンにレコーディングを開始し、1965年のショパン・コンクールに優勝、以来今日まで変わることなく世界のピアノ界の頂点にたつピアニストとして華々しい演奏・録音活動を繰り広げている。

ポリーニも9歳にしてデビュー・リサイタルを開くほど若くして才能を発揮しているが、何といっても1960年のショパン・コンクールに18歳という若さで優勝、審査委員長のルービンシュタインを感嘆させた。

以来国際的な演奏活動を開始するかと思われたが、1968年まで表舞台にたつことなく、さらに研鑽を重ねている。

1968年ロンドンでのリサイタルを契機にカムバックし、1970年代はじめには世界最高峰のピアニストとして名声を確立している。

我が国への来日も1974年以来続けられており、ショパンを採り上げることも稀だが、いずれも揺るぎない説得力で聴き手を襲う名演を聴かせる大家中の大家である。

両者とも現在では高齢になり、ライヴにしろセッションにしろ慎重に臨んでいるため、若き日から壮年期にかけて、ドイツ・グラモフォンに残された録音は貴重である。

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本盤は、ハンガリー出身の名指揮者ジョージ・セルが1962年にロンドン交響楽団を指揮して録音したチャイコフスキーの交響曲第4番ほかを収録したアルバムである。

チャイコフスキーの交響曲第4番は、当時不幸な結婚で悩んでいた作曲者の心境を反映した人生の苦悩と哀愁に関する標題的内容を持った情熱的な曲。

妥協を許さない厳格なアプローチで音楽の本質に迫ることで知られた指揮者、セルが残した名盤中の名盤で、チャイコフスキーが伝えたかったロシアの空気をキッチリ音楽にしている。

セルはこの録音後「私の目の黒いうちは絶対発売させない」と言った逸話が残っている演奏であるが、この逸話を知った時は、とても信じられず、愕然とした覚えがある。

セルとしては、やはり手兵クリーヴランド管弦楽団とは違い、ロンドン交響楽団では自分の思い通り演奏できない不満があったのであろうが、逆説的に言えば、セルとオケが目に見えない火花を散らしながら演奏したが故に、全体を通して、緊張感と気迫溢れる名演となったのかもしれない。

しかしさすがの名門オケ、このテンポ、短い音の連続でも響きの豊かないい音を出しており、何よりチャイコフスキーに欠かせない木管の豊かで輝かしい響きが聴かれる。

センチメンタリズムを極力排したドライで禁欲的なセルの毅然とした音楽づくりに、ロンドン交響楽団は必死で応えながらも、自らの持ち味の音の響きも保ち続け、マエストロの要求との折り合いをつけたようだ。

そのお互いの葛藤に何とか見合う曲としてチャイコフスキーの交響曲第4番は最適だったかも知れない。

セルは過度な感傷を避け、この交響曲特有の重たいイメージをあまり感じさせず、それでいて決して無機的にはならない。

第1楽章の出だしの金管・木管の音に続く弦の音にしてから、非常に大切に音を出しているなと感じさせるものだ。

全体を40分ちょっとで駆け抜けているが、この快速テンポは、かのムラヴィンスキーの1960年代の名演に匹敵するものだ。

全体的な造型や、演奏の性格はムラヴィンスキーの名演に準じるものであり、手兵のクリーヴランド管弦楽団を「セルの楽器」と称されるまでに鍛え上げたセルの片鱗が見られるが、例えば、第1楽章の終結部のテンポの激変や、終楽章のアッチェレランドなど、セルにしては珍しい踏み外しも見られる。

セルに率いられたロンドン交響楽団は、第2楽章で美しい旋律を豊かに奏でたかと思うと、一転、終楽章では一糸乱れぬ超人的なアンサンブルで聴き手を圧倒する。

特に終楽章の気迫溢れる演奏は,ただ単に賑やかな演奏ではなく、緊張感溢れる演奏となっていて、ダイナミックな中にも細やかな味付けもされており、あっという間に聴き終えてしまう。

ロンドン交響楽団の許容力と懐深さによって貴重な「セルのチャイ4」が聴けたことに感謝したい気分だ。

こんな演奏は他に類例がなく、聴き終えたあと適度な興奮と余韻、爽やかな印象が残る、今だに色褪せない名盤である。

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2015年03月23日


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1990年5月5,6日、ウィーン・ムジークフェラインザールに於ける、楽曲の珍しい組み合わせによるコンサートの記録である。

一見凡庸な選曲に見えて、凡庸な指揮者では絶対に選択しないカップリングと言えるところだ。

18世紀的な勝利への凱歌と20世紀の勝利への凱歌への懐疑といった戦略的なカップリングにより、ベートーヴェンの「第5」の物語は見事に剥奪され、屈折した構造が白日の元に引きずり出されている。

そこに偶然とはいえウィーン・フィルの美音を重ねるとは、ショルティも相当な策士と言えたところであり、見事なまでに屈折したコンセプトアルバムとなった。

ショスタコーヴィチは、ショルティが最晩年になって漸く取り組みを開始した作曲家であるが、こうしたショルティのあくなき前向きな姿勢には頭を下げざるを得ない。

2曲とも快演だが、特にショスタコーヴィチの「第9」が聴きもので、ショルティの演奏は、今までこの曲に付き纏っていた曲の経緯などを全く顧慮しない典型的なものと言えよう。

この「第9」は、「第8」に次いで録音されたものであるが、全体を20分少々という快速のテンポを取りながら、その中から浮かび上がる造型的な美しさを目指しているようだ。

新古典主義的解釈でこの作品の本質を衝き、ショルティの凄いほどの統率力がウィーン・フィルの音を引き締めると同時に、このオケの柔らかな音色が、より一層、今までの演奏との違いを感じさせる。

この当時、ショルティは既に78歳に達していたはずであるが、とてもそうとは思えない、若き日の鋭角的なショルティを彷彿とさせる力感溢れるアプローチだ。

実にきびきびとして緊張感にあふれていながら色彩感があり、ショスタコーヴィチ特有のダークなアイロニーに富む楽想がつぶさに伝わってくる。

第1楽章からホルンなどの管楽器の響きが冴え渡り表情は明晰そのもので、第2楽章など史上最速の演奏ではあるまいか。

第3楽章の速度指定はプレストであるが、作曲者の指定通りの速度での演奏は、これが初めてであったと記憶している。

ウィーン・フィルらしからぬ荒々しさも感じられるところであり、アンサンブルがあちこちで悲鳴を上げる寸前まで追い込まれつつも、驚異的な機動力で見事に乗り切っている。

ショスタコーヴィチが「第9」に込めた諧謔的な一面を的確に描出しているという点でも、一定の評価をすべき好演であると考える。

ロシア的な色彩感が自然に表されているのも興味深い。

ベートーヴェンの「第5」は、ショルティの4回目にして最後の録音となったものだが、ここには枯れた味わいなど薬にもしたくない。

最晩年を迎えた指揮者とは思えないほどの速めのテンポでエネルギッシュな演奏を繰り広げている。

ただ、さすがにベートーヴェンだけに、ウィーン・フィルのしなやかにして優美な演奏が、全体としての印象を幾分柔和なものとすることに貢献しており、決して無機的な演奏に陥っていない。

ショルティの「第5」は、筆者としてはシカゴ響との1970年代または1980年代のスタジオ録音を採りたいが、本盤については、ウィーン・フィルとの組み合わせという意味で、それなりの存在価値はあると思われる。

全体的に強い緊張感と豊かな風格をもった演奏で、両曲ともライヴ特有の緊迫感を備えた好演である。

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まさに、歴史的な超名演というのは本セットに収められたような演奏のことを言うのであろう。

世にショパン弾きとして名を馳せたピアニストは多数存在しているが、サンソン・フランソワほど個性的なピアニストは他に殆ど類例を見ないと言えるのではないだろうか。

フランソワの演奏は、自由奔放で躍動する精神が引き出し得た全く独創的なショパン演奏であり、一見、奇矯に見えるピアニズムは、今まで見えなかった形を曲に与えることになり、新鮮な驚きをもたらすのである。

いわゆる崩した弾き方とも言えるものであり、あくの強さが際立った演奏とも言える。

それ故に、コンクール至上主義が横行している現代においては、おそらくは許されざる演奏とも言えるところであり、稀代のショパン弾きであったルービンシュタインによる演奏のように、安心して楽曲の魅力を満喫することが可能な演奏ではなく、あまりの個性的なアプローチ故に、聴き手によっては好き嫌いが分かれる演奏とも言えなくもないが、その演奏の芸術性の高さには無類のものがあると言っても過言ではあるまい。

フランソワは、もちろん卓越した技量を持ち合わせていたと言えるが、いささかも技巧臭を感じさせることはなく、その演奏は、即興的で自由奔放とさえ言えるものだ。

本盤に収められた楽曲においても、実に自由奔放な弾きぶりで、自らの感性のみを頼りにして、即興的とも評されるようなファンタジー溢れる個性的な演奏を行っている。

テンポの緩急や時として大胆に駆使される猛烈なアッチェレランド、思い切った強弱の変化など、考え得るすべての表現を活用することによって、独特の個性的な演奏を行っている。

したがって、このあくの強いアプローチに対しては、聴き手によっては抵抗を感ずる者もいることと思うが、少なくとも、テクニックのみを全面に打ち出した表層的な演奏よりは、よほど味わい深い演奏と言えるのではないだろうか。

もちろん、フランソワのテクニックが劣っていたというわけではなく、ショパンの難曲を弾きこなす技量は兼ね備えていたというのは当然の前提だ。

ただ、その技量を売りにするのではなく、楽曲の魅力を自らの感性のみを頼りにして、ストレートに表現しようという真摯な姿勢が、我々聴き手の深い感動を誘うのだと考える。

各旋律の心を込め抜いた歌い方にも尋常ならざるものがあると言えるが、それでいて、陳腐なロマンティシズムに陥ることなく、常に高踏的な芸術性を失うことがないのが見事であると言えるだろう。

また、一聴すると自由奔放に弾いているように聴こえる各旋律の端々には、フランス人ピアニストならではの瀟洒な味わいに満ち溢れたフランス風のエスプリ漂う情感が込められており、そのセンス満点の味わい深さには抗し難い魅力に満ち溢れているところだ。

まさにセンスの塊とも言うべき名演奏であり、自己主張をコントロールして全体を無難に纏めようなどという考えは毛頭ないことから、聴き手によっては、前述のようにそのあくの強さに抵抗を覚える者もいると思うが、フランソワの魔術にひとたびはまってしまうと、やみつきになってしまうような独特の魔力を湛えている。

それだけに強烈な個性という意味においては、フランソワによる本演奏の右に出る演奏は存在しないと言っても過言ではあるまい。

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ネーメ・ヤルヴィによる、グリーグやスヴェンセンの少し後の世代のノルウェーの作曲家、ハルヴォルセンの管弦楽作品シリーズの第4弾の登場だ。

これまでの第1弾から第3弾までは、それぞれ交響曲を軸として、知る人ぞ知る名管弦楽作品を収めていたが、今般の第4弾では、すべて管弦楽作品で占められているのが特徴だ。

交響的間奏曲などを除くと、ノルウェー祝典序曲、ノルウェー狂詩曲、ノルウェー結婚行進曲など、楽曲の名称にノルウェーが付されている楽曲が中心であるが、いずれの楽曲も、ハルヴォルセンならではの北欧の白夜を思わせるような清澄な抒情に満ち溢れた逸品揃いである。

ネーメ・ヤルヴィについては、一部の口の悪い音楽評論家が、何でも屋であるとか、はたまた粗製濫造などと言った必ずしも芳しからざる評価を行っているが、本盤に収められた演奏を聴いていると、それが全く根拠のない罵詈雑言、誹謗中傷であると言えることが理解できるところだ。

近年では、息子のパーヴォ・ヤルヴィが、シンシナティ交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、パリ管弦楽団などを手中におさめて、広範なレパートリーを誇る数多くの録音を行っているが、ネーメ・ヤルヴィも、老いてもいささかもレコーディング活動への強い気持ちを失っていないのが素晴らしい。

特に、本盤に収められたハルヴォルセンや、既に第1弾、第2弾が発売されて好評を博しているスヴェンセンなどのような北欧の知られざる作曲家による名作を、多くの音楽ファンに知らしめてくれる功績は極めて大きいと言わざるを得ないだろう。

それに、前述のように、一部の評論家が批評するような、粗製濫造などということは全くなく、本盤に収められた各管弦楽作品の演奏についても、これまでの第1弾から第3弾までと同様に、素晴らしい名演と言えるのではないだろうか。

もちろん、比較の対象となる演奏が輸入盤を除いて殆ど存在していないだけに、本盤の演奏だけを聴いて、同曲の最も優れた演奏とするということについては躊躇をせざるを得ないが、聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりはネーメ・ヤルヴィならではのものであり、少なくとも、これらの知られざる名作の数々の魅力を、我々聴き手が安定した気持ちで味わうことができるという意味においては、十分に優れた名演と高く評価したいと考える。

音質も素晴らしい。

本盤については、シャンドス・レーベルにおいて、近年では一般化されつつあるSACDではないのが残念ではあるが、2010年から2011年の最新録音だけあって、十分に鮮明な素晴らしい音質であると言えるところであり、ネーメ・ヤルヴィ&ベルゲン・フィルによる素晴らしい名演を鮮明な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 00:36コメント(0)トラックバック(0)ヤルヴィ 

2015年03月22日


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ブラームスの「第1」はカラヤンの名刺代わりの作品であった。

頭に思い浮かぶだけでも、ベルリン・フィルとの3種のスタジオ録音、先般相次いで発売された最後の来日時、死の前年のロンドンでの両ライヴ録音など、まだまだ数多くあるような気がする。

カラヤン得意の曲だけにいずれ劣らぬ名演揃いであるが、いずれも手兵のベルリン・フィルとの録音。

他方、本盤は古き良き時代のウィーンならではの芸術的な香りが残っていた1950年代のウィーン・フィルとのスタジオ録音、しかも、鮮明な英デッカのステレオによる名録音というだけで、他の盤とは異なった大きな存在価値がある。

当時、ベルリン・フィルとウィーン国立歌劇場を手中に収め、文字通り楽壇の帝王への道を突き進んでいたカラヤンの壮年期の生命力溢れる圧倒的な指揮ぶりが、これまた全盛期のウィーン・フィルの美演と見事に融合し、重厚さと優美さといういささか相反する要素を併せ持つ珠玉の名演となっている。

何よりも後年のベルリン・フィルとの諸録音には無い、黄金期ウィーン・フィルの輝かしく芳醇な音色が絶品だ。

特に第2、3楽章の濃厚妖艶なレガートと輝く弦楽の魅惑は、まだ素朴さを残した管も味があって最高である。

終楽章も明るく華麗に締め、ベルリン・フィルとの諸録音(特に1988年のロンドン・ライヴ)に聴かれる音響大洪水とはかけ離れているが、流麗華美でこれも魅力的。

いわゆるカラヤン臭が少なく、大家ぶったところもない、オケの思うまま、自由に演奏させているが締めるべきところは締めるといった演奏。

1959年の録音で、これから登り坂の壮年期のカラヤンの溌剌とした指揮とフルトヴェングラーの余韻が未だ残るウィーン・フィルのコラボが生んだ極上の名演と言えよう。

晩年、カラヤンはベルリン・フィルと決別して、ウィーン・フィルに回帰したが、そこには残念ながら、往時のカラヤンらしい抜群の切れはない。

しかし、この壮年期の演奏記録は別で、カラヤンが後にベルリン・フィルと録音したものと比べると、壮大さでは劣るかもしれないが、オケの音色の美しさは際立っているように思う。

驚くほど充実し、その音楽の<純度>、爽快な<迫力>には得難い魅力がある。

帝王カラヤンの最も充実した時期の記録であり、ウィーン・フィルは、このカリスマとの邂逅に、持てる力を出し切っている。

ベルリン・フィルの隙のない完璧な演奏スタイルとは異なり、ウイーン・フィルらしい流麗さ、時に統制を緩めたようなパッショネイトな表情もあり、生き生きと息づく音楽である。

カラヤンは、生涯にわたって大学祝典序曲を1度も録音しなかったが、他方、悲劇的序曲は晩年に至るまで幾度となく録音している。

本盤の演奏も、「第1」と同様の性格を有する流麗で幻想的、且つドラマティックな名演に仕上がっている。

壮年期のカラヤンの覇気が漲り、冒頭の2つの和音から一気に引き込まれるような推進力を持っている。

遅いテンポで濃厚ロマンティシズムが薫り立ち、ティンパニの激打と瞬発的金管強奏により、曲の持つ緊迫感とドラマを克明に打ち出した。

好みは分かれるかもしれないが、1970年代のカラヤン全盛期の録音よりもこの1959年録音の簡潔でバランスの取れた、絶妙の味わいの演奏を好む聴き手も少なくないだろう。

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classicalmusic at 22:35コメント(0)トラックバック(0)ブラームスカラヤン 

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ブリテンは、パーセルの主題による変奏曲とフーガ(青少年のための管弦楽入門と称されているが、作品の質の高さからしてもこの呼称は全く気に入らない)だけがやたら有名であり、他は、近年小澤による渾身の名演によって知られるようになった戦争レクイエムを除けば、殆どの作品はあまり知られているとは言い難い。

ブリテンは、交響曲や管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、そして声楽曲など多岐に渡る分野の作品を数多く遺しているが、その真価は何と言ってもオペラにあると言えるのではないか。

これは、ブリテンと同じ英国出身の大指揮者であるラトルなども同様の見解を表明しており、20世紀を代表するオペラとしてもっと広く知られてもいいのではないかとも考えられるところである。

ブリテンは、10作を超えるオペラを作曲しているが、その中でも名実ともに傑作であるのは本盤に収められた「ピーター・グライムズ」であるというのは論を待たないところだ。

ピーター・グライムズという問題児に冤罪の濡れ衣を着せて、多数の人々によって自殺を強要されるという、いかにも20世紀的なテーマを扱っているが、ブリテンはこうしたストーリーに組曲「4つの海の間奏曲」や「パッサカリア」などに編曲されるほどに魅力的で親しみやすい管弦楽を付加して、実に奥深い内容を有した作品に仕立て上げている。

同曲の名演としては、ブリテンによる自作自演である本演奏とデイヴィス盤(1978年)が双璧にある名演として掲げられる。

オーケストラや合唱団は同じくコヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団と同合唱団だ。

ブリテンは、作曲者であるとともに指揮者としても相当な実力を有しており、同曲の演奏においても作曲者としての権威はいささかも揺るぎがないと言えるが、デイヴィスの指揮もその統率力といい、彫りの深さといい、ブリテンに決して引けを取っているとは言い難い。

両演奏の大きな違いは、主人公であるピーター・グライムズ役であり、骨太なジョン・ヴィッカーズに対して、抒情的なピーター・ピアーズと言ったところではないだろうか。

したがって、後は聴き手の好みの問題であるが、ブリテンと長年に渡って親交のあったピーター・ピアーズによる名唱は、同曲の静謐な悲劇を見事に音化していると言えるところであり、筆者としては本演奏の方をわずかではあるが上位に置きたいと考えている。

その他の歌手陣も最高の歌唱を披露しているのも素晴らしい。

英デッカによる超優秀録音による極上の高音質も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献していると評価したい。

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classicalmusic at 20:42コメント(0)トラックバック(0)ブリテン 

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《英雄の生涯》は、カラヤン&ベルリン・フィルによる複数の録音が世評が高いし、筆者も好きでよく聴く。

しかし「《英雄の生涯》のユニークな演奏を1つ選べ」と言われたら、ショルティ&ウィーン・フィル盤なのである。

ショルティとウィーン・フィルは、決して相性のよいコンビでなかったと聞く。

確かに音楽性は相反する感じなので、反目することがあったのは当然と思えるが、ショルティとウィーン・フィルが遺した演奏には、両者の長所が融合し合った幸せな音楽の瞬間が多々ある。

本盤でも、速めのテンポで、アグレッシヴに指揮するショルティだが、そこはさすがにウィーン・フィル、音色には潤いがあり、リズムにもうねるようなしなやかさがある。

ショルティのエネルギッシュなアプローチを見事に受けとめて、素晴らしい音楽に仕上げている。

冒頭の「英雄」は、雄渾さとしなやかさでもって、快速のテンポで突き進み、それは、まさに向かうところ敵なしといった感じ。

ショルティの力んだ棒が見えるような溌剌さがあり、何となくアンサンブルがルーズだが集中力がある。

「英雄の敵」に入っても、テンポにはいささかの緩みも見られず、ウィーン・フィルの木管群が憎々しく卑小な英雄の敵たちを描き出す。

「英雄の妻」では一転してテンポを落とすが、名手ライナー・キュッヒルの美音ソロが聴き所で、ここのキュッヒルのソロの実に美しいこと。

「英雄の戦場」は、いかにもショルティらしく圧倒的な音量でオーケストラを豪快にならすが、その凄まじさには戦懐を覚えるほどで、凄絶な戦いを描くウィーン・フィルの金管群・打楽器群・弦楽器群、バスドラムの刻む変則的な4連符が凄まじい。

「英雄の業績」は、そっけなさを感じるほどの快速のインテンポ。

「英雄の引退と完成」は、再びテンポを落として、演奏全体を雄大に締めくくっている。

この「英雄の業績」から「英雄の引退と完成」にかけての寂寥感に満ちた音楽は、45分程度の曲なのに自分の生涯が終わりを迎えるかのような寂しさに包まれる。

ショルティは、一部批評家から、無機的なインテンポの指揮者と酷評されているが、本盤のような演奏に接すると、決してそうではなく、むしろ緩急自在のテンポを駆使した起伏の激しい演奏をしていることがよくわかる。

本演奏を名演と言えるかどうかは、ウィーン・フィルとの相性などを考慮するといささか躊躇するが、ショルティの個性が溢れたユニークさという点では、一聴の価値は十分にある演奏であると考える。

世評は高くないかも知れないが、剛毅さ・艶麗さ・凄絶さ・そして黄昏の美といった、この曲の持つ魅力を十全に引き出した名演と言えるだろう。

むしろ、併録のワーグナーは、解釈に奥行きが出てきたと評された1980年代後半の録音であり、ショルティ円熟の名演と言ってもいいと思われるが、もう少し大きな音楽の流れを聴きたいような気もする。

SHM−CD化の音質向上効果は、従来CDの音質もかなりのものであったことから、若干のレベルにとどまっている。

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classicalmusic at 00:34コメント(0)トラックバック(0)ショルティR・シュトラウス 

2015年03月21日


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カラヤンはドヴォルザークの「第8」を何度も録音しているが、なぜかウィーン・フィルとの録音が多い。

スタジオ録音では本盤(1961年)と1985年盤、それに、ライヴでは1974年のザルツブルク音楽祭での演奏(アンダンテ)。

いずれ劣らぬ名演であるが、ライヴならではの迫力なら1974年盤、円熟の名演なら1985年盤を採るべきであろうが、本盤には、ベルリン・フィルとウィーン国立歌劇場を手中に収め、人生の上り坂にあった壮年期のカラヤンならではの圧倒的な勢いがある。

オーケストラを存分に鳴らしつつ、テンポ設定は緩急自在、カラヤン得意の優美なレガートも絶好調であり、豪華絢爛にして豪奢な演奏になっている。

力強く颯爽と駆け抜ける第1楽章、圧倒的な高揚感で天にも届きそうな第2楽章、艶やかな第3楽章、そして圧巻は終楽章で、テンポを揺らして旋律ごとの対比を描き出していて、終結部も凄まじいド迫力だ。

カラヤン=スマートというイメージがあるが、むしろ民族的な泥臭ささえ感じられるところであり、曲のイメージに合っている。

もちろん、ウィーン・フィルの絶美の演奏が、この名演に潤いを与え、ボヘミア風の抒情にもいささかの不足がない点も特筆すべきであろう。

また、1960年代にカラヤンがウィーン・フィルと残した録音は、ベルリン・フィルとの演奏とは違う優美なニュアンスを帯びている。

ドヴォルザークの土着的味わいと、カラヤンの垢抜けた都会的透明感が、絶妙のバランスで共存し、非の付け所のない絶品として仕上がっている。

併録の「ロメオとジュリエット」も、カラヤンの十八番であり幾度も録音を繰り返したが、ウィーン・フィルとの組み合わせにより、ドラマティックな運びの中に曲想をよく生かした華麗さと繊細さのバランスが見事な名演に仕上がっている。

この1960年代の録音ではやはり勢いがあると同時に、ウィーン・フィルの美しい音を最大限引き出している。

いずれも若々しく、躍動感に富み、ウィーン・フィルが、いかに凄いオーケストラか、これでもか、と分からせてくれる名盤と言えよう。

この時期のカラヤン&ウィーン・フィルしか出せない、もう、現代では、こんなに活きのいいウィーン・フィルの響きは、聴けないであろうと思わせる貴重な記録とも言える。

また、音質も英デッカならではの見事なもので、録音会場のゾフィエンザールの弾力のある残響がとても心地よい。

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classicalmusic at 22:37コメント(0)トラックバック(0)カラヤンドヴォルザーク 

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ムーティ&ウィーン・フィルの黄金コンビによるモーツァルトの交響曲集は、実に優美にして重厚な名演である。

あのカラヤンの名演を思わせるような、豪華絢爛な演奏で、古楽器演奏や奏法が幅をきかせる今日においては稀少となった、重量感溢れる弦楽器主体の旧スタイルによる名演だ。

ムーティは、モーツァルトの交響曲を古典派の規模の小さい交響曲という従来の枠組みに固執するのではなく、その後に作曲されたベートーヴェンやロマン派に作曲された交響曲に通ずる規模の大きな大交響曲として演奏している。

モーツァルトの交響曲の演奏については、最近では古楽器奏法や古楽器による演奏が主流になりつつあるが、本盤のような大オーケストラによる壮麗な演奏を聴くとほっとする思いだ。

ムーティは、ここでは、緩急自在のテンポを駆使した、生命力溢れる闊達にして多彩な表現を行っており、ウィーン・フィルの美演と相俟って、珠玉の名演を成し遂げている。

ムーティの指揮ぶりは、熱い魂の迸りを感じさせ、溢れるヴァイタリティでモーツァルトの憂愁を力強く歌っているが、ムーティがウィーン・フィルを指揮する時は、フィラデルフィア管弦楽団などを指揮する場合と異なり、決して自我を押し通すことをせず、オーケストラに演奏の自由を与えている。

そのようなムーティの自然体のアプローチが、本盤では功を奏し、高貴にして優美なモーツァルトを大いに堪能することができる。

ウィーン・フィルの演奏もいつもながら実に美しく、モーツァルトの音楽の魅力を大いに満喫することができる点を高く評価したい。

ムーティは、第36番にしても第40番にしても、繰り返しを全て行っており、本来ならば、いささか冗長になる危険もあるが、ムーティ&ウィーン・フィルの繰り広げる名演により、そうした冗長さを感じることはいささかもなかった。

むしろ、作曲者が指定した繰り返しをすべて行うことにより、ムーティは、モーツァルトの交響曲を等身大に描いたということなのだろう。

その結果、いずれも約40分という、ブラームスの交響曲などにも匹敵するような長さになっているが、モーツァルトの交響曲は実はスケール雄大な大交響曲であったとの認識を改めさせてくれたムーティの功績は極めて大きいと言うべきではなかろうか。

また、ウィーン・フィルならではの音色の美しさを決して損なうことなく見事に描出しているが、これはムーティの巧みな統率力とともに、ウィーン・フィルとの抜群の相性の良さの賜物であると考える。

ウィーン・フィルの演奏の高貴な優美さも、いつもながら見事であり、そうしたウィーン・フィルの感興豊かな美演をムーティが決して邪魔をしていないことが、本盤を名演たらしめているとも思われる。

ムーティの指揮スタイルは、主旋律を存分な歌謡性で満たし、かつリズミックで暖かいサウンドで包むようなもので、そのスタイル自体、私たちが「ウィンナ・ワルツ」に代表される「ウィーン風」イメージに通じるものだ。

また、数々のオペラをレパートリーに収めていることも重要だろう。

もちろん、音楽性やレパートリーの共通というだけでなく、「愛される」ためには、ムーティの人間性そのものが大きく貢献しているに違いない。

これを聴くと、なんとも自然で、気の赴くまま、モーツァルトのスコアに多くを委ねて、天高く音楽を歌った明朗な古典性に貫かれている。

もちろん、そこにある程度の「計算」が働いているのではあろうが、それにしても、そういった音楽を奏でる側の主観を感じる部分が少ないといった意味で、清々しいほどの純朴さを感じさせる。

そして、これもよく言われることだが、そのことが、モーツァルトの「無垢」と形容される特性に一致し、本来あるべき姿の音楽が自然に提示されているような安心感がある。

それにしても、ウィーン・フィルの音色は最高の美しさであり、ムーティは、緩急自在のテンポの下、隋所に現れる繊細な抒情にもいささかの不足もなく、まさに硬軟併せ持つ名演だと思う。

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classicalmusic at 20:41コメント(2)トラックバック(0)モーツァルトムーティ 

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リヒテルのアメリカへのセンセーショナルなデビューの翌年に収録された記念碑的な録音で、今でも当時の聴き手に与えた衝撃が色褪せずに伝わってくる、彼の演奏を語る上で欠かすことのできない1枚。

まさにリヒテル壮年期の名盤で、ベートーヴェンとシューマンの名作を緊密な構築力と劇的なダイナミズムを駆使して描き切っており、深い幻想性も湛え、今日でもベストに推される演奏内容だ。

両曲とも元の音楽のすばらしさに加えて、名人リヒテルの演奏によって、聴き手に届けられる音楽は一層の魅力と輝きを与えられた典型的な例の1つであろう。

ピアノの強弱の幅の広さ、スピードの変化の妙、間の取り方の絶妙さは音楽の感動表現に100%奉仕している。

聴いていて、演奏者の作為をまったく感じさせず、作曲家とリスナーとが対面しているような錯覚を覚える。

ベートーヴェンという作曲家は不思議な作曲家だと痛感させられるところであり、完全にロマン派に入ってしまいそうな曲だ。

また、シューマンの幻想曲はほの暗い世界の中で、夢と苦悩が無限の幅で交錯する世界を見事に描いている傑作で、リヒテルにはその能力を発揮するのに恰好の題材と思える。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」は、他にも優れた名演が数多くあり、本盤がベストとは言い難いが、それでも演奏内容の水準は高い。

ベートーヴェンに相応しい強靭な打鍵と重量感は、この時代のリヒテルならではのものであり、それでいて、第2楽章の抒情の美しさにも出色のものがある。

この「テンペスト」は何か超越した領域にある演奏であることは間違いなく、リヒテルの奏でるピアニッシモは他の演奏家とは違う神秘的な音色である。

ギレリスやアラウの「テンペスト」も大変魅力的であるが、この演奏は単に「感動」だけでは語れない超越的で神秘的なものを感じてしまう。

まさに奇跡的な演奏であり、筆者も相当数聴いている方ではあるが、こんな演奏は聴いたことがない。

終始息を潜めて聴かなければならないほどの高い緊張感に包まれた神秘的な演奏であり、これほど神秘的な、精妙な響きを作り出せるピアニストはリヒテル以外にこれまでも、これからも現れないであろう。

このように「テンペスト」がメインのアルバムではあるが、筆者としては、むしろ、シューマンの幻想曲の方を高く評価したい。

それどころか、本盤のリヒテルの演奏は、シューマンの幻想曲の過去の様々な名演の中でもトップの座を争う超名演と高く評価したい。

絶妙なバランス感覚による演奏であるが、バランスではないのかも知れない。

リヒテルにとっては全てが必然のもとに演奏されているのであろう、きっと。

そして、この演奏の特徴の1つは、壮大なスケール感であろう。

とにかく、音楽全体の構えが実に大きい。

シューマンの演奏に際しては、ライナー・ノーツの解説にもあるようなファンタジーの飛翔が要求されるが、本盤のリヒテルのような気宇壮大な演奏だと、それだけでファンタジーにも溢れる名演に向けた大きなアドバンテージを得ることになる。

壮年期のリヒテルならではの力強い打鍵と生命力も健在であり、各楽章の描き分けも卓抜としたものがある。

まさに、すべての要素を兼ね備えた至高の超名演と言える。

リヒテルは緩急の変化により劇的効果を生み出すピアニストと言えるが、ここでのシューマンはその特長が生かされていて、とてもロマンティックな旋律を生み出している。

リヒテルの演奏を語る上で欠かすことのできない1枚と言えるだろう。

SACD化によって、音場が拡がるとともに、音質に鮮明さを増した点も評価したい。

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2015年03月20日


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このフランスの名曲に、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏、しかも映像作品を選ぶというのは、奇を衒っていると思われるかもしれないが、本当に気に入っているのだ。

カラヤンはこの曲の組み合わせで、本盤以外に1964年3月と1985年12月〜1986年2月にそれぞれDGで録音を行っているので、本盤(1985年11月〜12月)はちょうど後者の録音と同時期の収録ということになるが、この演奏のいちばんの特徴は、ライヴ録音ということである。

注意して聴いていると、オーディエンス・ノイズが頻繁に入ることからすぐに分かる。

カラヤンの映像作品の多くは、聴衆が映っていてもニセの聴衆だったり、あるいは音と映像が完全に別取りで、ライヴを装っていてもスタジオ録音だったりして、視聴していて白けることおびただしいものもある。

筆者は映画が好きなせいか、映像を見るとすぐに「カメラの位置は?」と考えてしまうのだが、たとえば1972年収録の「海」の映像作品では、客席に聴衆はいるものの、曲の冒頭はカラヤンの斜め後ろからオケを撮っており、絶対に望遠で撮った絵ではないことから、これだとカメラは指揮者の数メートル後ろの舞台上にいなくてはならない。

実際の演奏会ではそんなことは有り得ないわけだから、「ああ、これもニセものかぁ……」と、その後は見る気がしなくなるのだ。

やたら逆光を多用したり、顔の見えにくい奏者を幾何学的に並べたり、あるいは管楽器を構える角度がやたらぴったり合っていたりするのもわずらわしい。

ふだんあれだけ体を振ってアンサンブルを作る努力をしているライスターが、微動だにしないでクラリネットを咥えているわけないのだ。

部分撮りの奏者の顔が音楽をやっているように見えないことが多いのは、ことによるとその奏者だけで映像のみ収録し、音は捨てているからだろうか。

同じアングルの映像で、最初はフルート1人が吹いていて、次に2人に増え、終いには4人になるのを見せられると、腹が立つのを通り越して呆れてしまう。

映像の遊びは音楽にとって邪魔なだけだ。

もちろん本盤でもそういった「はめ込み画像」はあるのだが、フルオケが映っている場面、そしてなぜか凝った別撮り映像においても、奏者の表情が真剣でしかも活き活きとしているので、見ていて嬉しくなってしまう。

「海」におけるコンサートマスターのブランディスの体を張ったリード! あれは決して映像収録用の「演技」だとは思えないのだ。

「牧神」と「ダフニス」では、それまでトップサイドだったシュピーラーがコンマスに交替し、ブランディスがトップサイドに下がる贅沢さ! それにツェラーのフルートの妙技! さらに、まだ颯爽としなやかだったカラヤンの棒も、ドイツもののときより真剣に見える。

映像のことをあれこれ言ってしまったが、音そのものでも、「聴衆を前にした燃えるベルリン・フィル」が楽しめる。

カラヤンは基本的にはライヴ録音はやらない主義だったから、本盤のような正規のライヴ・ステレオ録音は貴重である。

「海」の第1楽章最後の部分の巨大な音の柱! 第2楽章後半、どこまでもぐんぐんと伸びていくような盛り上がりと、そのあと深海に沈潜したような静寂、「海」というよりは戦争の記録映画の伴奏にも使えるような、スペクタクルな第3楽章、それでいて毛ほどの粗さもないのだ。

「牧神」はツェラーを筆頭とする管がひたすら巧く、それを支える温かくて精妙な弦も見事だ。

「ダフニス」は、かつてベルリンのフィルハーモニーザールが「カラヤンサーカス」と言われていたことを思い出させるような、音の饗宴の世界である。

「夜明け」の甘美さ、「無言劇」の驚異的なアンサンブルの完璧さ、「全員の踊り」の凄まじい盛り上げ方、カラヤン&ベルリン・フィルのライヴが、いかに凄かったのかの証となるだろう。

そこでは、まさに生きている人間が演奏しているのだ。

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過激さと冷静さが同居した、最高の名盤である。

テンシュテットが咽頭癌を患った後の演奏は、いずれも命懸けのものだった。

1つ1つのコンサートに臨む姿勢たるや、まさに神がかりのような凄まじく燃焼度の高いものであった。

テンシュテットが最も得意とした作曲家はマーラーであったが、現在発売されているマーラーの数々の名演の中でも、1991年のマーラーの「第6」と1993年の「第7」は、別格の超名演と高く評価したい。

明日の命がわからない中でのテンシュテットの大熱演には、涙なしでは聴けないほどの凄まじい感動を覚える。

本盤の「第7」を、過去に完成した全集中のスタジオ録音と比較すると、演奏の装いが全く異なることがよくわかる。

粘ったようなテンポ、思い切った強弱の変化やテンポ設定、猛烈なアッチェレランドを駆使して、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。

そして、テンシュテットの演奏全般に言えることであるが、劇的な表現をしていながら細部をおろそかにせず明晰さを大切にしているので、不思議と見通しが良く、その表現が曲の性格に極めて合致している。

スコアに対するあくまでも客観的なアプローチを基盤としながら、具えられる豊かな音楽性、テンシュテットのマーラーに共通するこの魅力が、一種ユニークな作品とされている「第7」でも十二分に発揮されている。

細部の表現と一貫した音楽的流麗さの見事な両立、近代的な総合性の上に存在する後期ロマン派的音楽の香りに脱帽してしまう。

ふっと忍び寄る底知れぬ暗さと、ガツンと来る高揚、その落差は、まさにテンシュテットでありマーラーではないだろうか。

あまりの指揮の凄まじさに、テンシュテットの手の内をよく理解しているはずのロンドン・フィルでさえ、ある種の戸惑いさえ感じられるほどだ(特に、第1楽章終結部のアンサンブルの乱れなど)。

それでも、必ずしも一流と言えないロンドン・フィルが、ここでは、荒れ狂うかのようなテンシュテットと渾然一体となって、持ち得る最高のパフォーマンスを発揮しており、弦楽器の不気味さなどは、テンシュテットの思惑通りとても良く表現されていると思う。

演奏終了後の聴衆の熱狂も当然のことであると考える。

なお、テンシュテット自身はインタビューで、マーラーの音楽について「交響曲第7番が最も好きであり、特に第1楽章はマーラーの最高傑作」と述べているが、その思い入れがこの演奏からよく伝わってくる。

このCDに対抗できるのは、アプローチが全く逆のクレンペラー&ニュー・フィルハーモニア盤くらいであろう。

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classicalmusic at 20:43コメント(0)トラックバック(0)マーラーテンシュテット 

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いずれも鮮烈な名演だ。

ブラームスの「第3」は1954年4月27日、ベルリンのディタニア・パラストに於ける定期公演の実況盤であるが、音の状態は非常に良く、演奏も死の年のものだけに完璧をきわめ、フルトヴェングラーのディスクの中でも屈指の名盤と言えよう。

この「第3」は旧盤も素晴らしかった。

わけても第1楽章の情熱はむしろ古いほうを採りたいくらいであるが、第2楽章以下は録音の良さも含めて、完成されきった新盤に軍配を挙げるのが妥当であろう。

ただし、解釈の根本はまったく同じである。

とにかく大胆なアゴーギクによって情熱的で共感の限りを表明しており、彫りの深い表情には創造的な芸術性の力が漲っている。

第1楽章は冒頭から緊迫した生命力が湧き出しており、ティンパニの最強打が目立つほかは、旧盤の表現をいっそう凝縮させたものだ。

今回は提示部の反復も行われていない。

第2楽章は録音の鮮明さによって、楽器の音色そのものに心がにじみ出ていることが手に取るようにわかる。

相変わらずテンポの動きの大きい、むせるような歌に満ちたブラームスであるが、旧盤よりは遥かに結晶化されているようである。

第3楽章も音色自体に心がこもりきっており、それが後半、あふれんばかりにほとばしり出て来て、“音楽は心だ”と改めて思い知らされるような表現である。

ただし、第1主題のリズムは旧盤よりも格調があるとはいえ、再現部のホルンには若干崩れが見られる。

第4楽章は旧盤の造型をそのままに立派さを加えた超名演で、疑いもなく全曲の白眉と言えよう。

最晩年のフルトヴェングラーとしては、テンポの激しい動きと表情の凄まじさはその比を見ないほどであるが、ほとんど同じスタイルによる旧盤でいちばん不出来だったこの楽章が、新盤では最上の出来となったところに、フルトヴェングラーの芸術の完成をわれわれは知るのである。

わけても提示部、再現部のそれぞれ終わりの部分における追い込みで、オケの鳴りが少しも悪くならないこと、旧盤では随所に追加されたティンパニを一切使用していないこと、の2点に注目すべきである。

フルトヴェングラーが録音した5つの「未完成」の中で、いちばんすっきりしているのはウィーン盤であり、次いではこの1952年盤である。

解釈の基本は1回目のベルリン盤とまったく同一であり、それを円熟させた表現と言えるところであるが、厳しくも凝縮されたリズムとひびきが際立ち、入魂の演奏が随所に聴かれる。

無駄と虚飾のない秀演で、第1楽章は雄大なスケールをもち、旋律の表情が意外なほど素直に磨かれている。

第2楽章第2主題を吹くクラリネットの、思いをたっぷりと込めた哀しみのソロと、それに応える最弱音も印象的だ。

2曲ともフルトヴェングラーとしても屈指の優れた演奏だけに今後SACD化するなど、更なる音質の向上が望まれる。

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classicalmusic at 00:48コメント(0)トラックバック(0)フルトヴェングラーブラームス 

2015年03月19日


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本盤には、クーベリックが手兵バイエルン放送交響楽団とともに1967年から1971年という短期間で完成させたマーラーの交響曲全集のうち、交響曲第2番「復活」(1969年スタジオ録音)が収められている。

本盤の録音当時は、近年のようなマーラー・ブームが到来する以前であり、ワルターやクレンペラーなどのマーラーの直弟子によるいくつかの交響曲の録音はあったが、バーンスタインやショルティによる全集は同時進行中であり、極めて希少な存在であったと言える。

そして、本演奏は、既に録音から40年以上経過したが、現在においてもその価値をいささかも失うことがない素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

本演奏におけるクーベリックのアプローチは、ある意味では極めて地味で素朴とも言えるものだ。

バーンスタインやテンシュテットのような劇場型の演奏ではなく、シノーポリのような楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏を旨としているわけではない。

また、ブーレーズやジンマンのような徹底したスコアリーディングに基づいた精緻な演奏でもなく、シャイーやティルソン・トーマスのような光彩陸離たるオーケストレーションの醍醐味を味わわせてくれるわけでもない。

クーベリックはむしろ、表情過多に陥ったり、賑々しい音響に陥ることがないように腐心しているようにさえ思われるところであり、前述のような様々な面において個性的な演奏に慣れた耳で聴くと、いささか物足りないと感じる聴き手も多いのではないかとも考えられる。

しかしながら、一聴するとやや速めのテンポで武骨にも感じられる各旋律の端々から滲み出してくる滋味豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、噛めば噛むほど味わいが出てくる演奏ということが可能である。

地味な演奏というよりは滋味溢れる演奏と言えるところであり、とりわけ、マーラーがボヘミア地方出身であることに起因する民謡風な旋律や民俗的な舞曲風のリズムの情感豊かで巧みな表現には比類がない美しさと巧さがある。

バイエルン放送交響楽団というヨッフム、クーベリックが手塩にかけて育んだ素晴らしい音楽性を持つオーケストラと共に、クーベリックはこの「第2」でも全く見事な音楽的純度の高さを示している。

たった一度だけ聴くのなら、他の録音の方が耳に残るかもしれないが、このクーベリック盤は、聴けば聴く程にその味わいを増してゆく。

派手な「香辛料」も「添加物」も加えていないクーベリックの演奏は、それ故に対位法的なバランスの良さと、その内に込めた内的共感の高さで、我々を魅了する。

いずれにしても、近年の賑々しいマーラー演奏に慣れた耳を綺麗に洗い流してくれるような演奏とも言えるところであり、その滋味豊かな味わい深さという点においては、今後とも普遍的な価値を有し続ける至高の名演と高く評価したい。

なお、クーベリックはスタジオ録音よりも実演でこそ実力を発揮する指揮者であり、本演奏より13年後のライヴ録音が独アウディーテから発売されている。

テンポも本演奏よりも速く、強靭な生命力や気迫においては、本演奏よりも優れた演奏と言えなくもないが、音質やオーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、本名演の価値はなお不変であると考える。

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classicalmusic at 22:51コメント(0)トラックバック(0)マーラークーベリック 

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内田光子は近年クリーヴランド管弦楽団を弾き振りして、モーツァルトのピアノ協奏曲の再録音を進めているところであり、きわめて高い評価を得ているが、内田のモーツァルト弾きとしての名声を決定づけたのが、30年ほど前にジェフリー・テイト&イギリス室内管弦楽団と共演した、この全集であった。

イギリスを中心に活動していた内田が、長年弾きこんできたレパートリーだけあって、まさに自信に満ちた演奏だ。

いずれも自然体で、音楽的で、上質で、熟し切った音楽性満点のモーツァルトで、内田のタッチのまろやかな響きが、細かい表情と結びついて音色が変化すると同時に、解釈に明快な意志を反映させ、演奏の細部にこだわる危険から救っている。

その根底にあるのは内田の豊かな自発性であり、繊細な感情の展開でも演奏は決して弱々しくならない。

「クレンペラーの再来」とまで言われていたテイトが、伴奏指揮をおこなっているのも聴きもので、充実した気力に基づきながら、細かい神経が行き届いており、イギリス室内管弦楽団もそれに敏感に反応している。

内田は、シンフォニックで格調の高いテイトの伴奏に乗って、造型的な美しさを存分に引き出し、一本強い芯の通った、感動的な音楽をつくりあげている。

内田のタッチは透徹したもので、きらきらときらめき、モーツァルトの気品高い音楽をリアルに再現している。

そして内田のモーツァルトは享楽的な要素が一切なく、きわめて集中度の高い求心的なものである。

真摯な作品への取り組みが表立ち、遊びの精神などかけらもないが、それだけにモーツァルトの天才性が、リアルに浮かび上がってくる。

やや聴き手に集中を要求するというしんどい面も確かにあるが、これだけ内面に踏み込んだ解釈はちょっとない。

その意味で特に第24番が素晴らしい名演で、内田の真摯なアプローチが奏功した、典型的な例と言えよう。

ほの暗い情熱を秘めたモーツァルトの怨念が、そびらに迫ってくるような迫力は格別である。

そして第2楽章と両端楽章のコントラストも鮮やかで、その均衡は実に天才的というほかはない。

第25番も内田らしい緊密な構成と、流麗な歌の精神が生かされた好例で、古典的な格調の高い演奏が味わえる。

第27番も推薦に値する。

磨き抜かれた美しいタッチ、それにどこまでも透明な濁りのない音色、これらはモーツァルトの晩年のピアノ曲には、不可欠の要素であるからだ。

内田の演奏はきわめて真摯なもので、贅沢を言えばもう少し遊び心が欲しいとも思うが、これだけ見事に演奏されていれば、文句のつけようもあるまい。

だが第26番「戴冠式」にはより華やかさと天国的な愉悦感があればと、ないものねだりもしたくもなる。

テイト指揮イギリス室内管弦楽団も素晴らしいバックをつけており、特に第23番はオーケストラとピアノの密着度が高く、交響的とも言える充実した響きを実現させて見事である。

テイトはモーツァルトの音楽の生き生きしたエネルギーを充分にとらえているが、常に自然な流れの中に導入しているため、エネルギーに押し流されることがない。

内田は表情を抑えても、その下に流れる感情の動きは常に自由であるために演奏が平板にならない。

つまり抑えようとしても抑えきれない自発性が、彼女の演奏に生命を与えているのであり、したがってどんなフレーズにも常に細かい表情があり、それにふさわしい音色を生み出しているのである。

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classicalmusic at 20:44コメント(0)トラックバック(0)モーツァルト内田 光子 

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1984年2月、ベルリン・フィルハーモニーにおけるライヴ録音。

ジュリーニの高潔な音楽性が結晶した趣がある名演奏。

最円熟期のジュリーニの高貴にしてゆたかな芸格を最もよく伝える名演である。

ジュリーニは、特に1980年代のロサンジェルス・フィルの監督を辞めた後からは、非常にテンポの遅い、しかも、粘っこい、いわば粘着質の演奏をすることが多くなったような気がする。

したがって、楽曲の性格によって、こうしたジュリーニのアプローチに符合する曲とそうでない曲が明確に分かれることになった。

ブルックナーの交響曲も、同時期にウィーン・フィルと組んで、「第7」、「第8」及び「第9」をスタジオ録音したが、成功したのは「第9」。

それに対して、「第7」と「第8」は立派な演奏ではあるものの、ジュリーニの遅めのテンポと粘着質の演奏によって、音楽があまり流れない、もたれるような印象を与えることになったのは否めない事実である。

本盤は、1984年の録音であるが、確かに第1楽章など、ウィーン・フィル盤で受けたのと同じようにいささかもたれる印象を受けた。

しかし、第2楽章から少しずつそうした印象が薄れ、そして、素晴らしいのは第3楽章と第4楽章。

ジュリーニの遅めのテンポが決していやではなく、むしろ、深沈とした抒情と重厚な圧倒的な迫力のバランスが見事であり、大変感銘を受けた。

総体として、名演と評価してもいいのではないかと思う。

その要因を突き詰めると、やはり、ベルリン・フィルの超絶的な名演奏ということになるのではなかろうか。

この時期のベルリン・フィルは、カラヤンとの関係が決裂状態にあったが、ベルリン・フィルとしても、カラヤン得意のレパートリーである「第8」で、カラヤンがいなくてもこれだけの演奏が出来るのを天下に示すのだという気迫が、このような鬼気迫るような超絶的名演奏を成し遂げたと言えるのではないか。

そのベルリン・フィルの奥深く澄んだ響きと柔軟で底知れぬ表出力がジュリーニの克明な表現とひとつになって、まことにスケールゆたかな、晴朗な力に漲った演奏を築いている。

最円熟期に差し掛かったこの指揮者が、カラヤン時代の響きと演奏スタイルをとどめていたベルリン・フィルの特質を生かした成果とも言える。

彼らが共通して持っているブルックナー像を基本としながら、それを気高い表現に昇華させたのはジュリーニの手腕に他ならない。

芝居じみた要素は微塵もなく、聴衆の耳に媚びることがないため、とっつきやすい演奏とは言えないが、いったんその世界に入ることが出来ると、その精神世界の虜となるだろう。

北ドイツ的な重厚な響きに陥ることなく、あくまでオーストリアの作曲家ブルックナー本来の音色が守られ、その光が交錯するような色合いもこのうえなく美しい。

しかも、透徹した音楽性と強くしなやかな持続力に貫かれた演奏は、細部まで実に精緻に磨かれており、ベルリン・フィルがそうした表現に絶妙の感覚でこのオーケストラならではの色彩とニュアンスを織りなしている。

この巨大な作品の全体と細部を、明確な光の中に少しの夾雑物も交えることなく、くっきりと表現しつくした、ジュリーニならではの感動的なブルックナーである。

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classicalmusic at 00:52コメント(0)トラックバック(0)ブルックナージュリーニ 

2015年03月18日


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これは素晴らしい名演だ。

1970年代前半までのポリーニは、圧倒的な技量を全面に打ち出しつつ、そこに、若さ故の生命力、気迫に満ち溢れた勢いがあり、聴き終えた後の充足感が尋常ではない。

1970年代後半になると、技量の巧さだけが際立った無機的な演奏が増えてくる傾向にあり、特に、同じシューベルトのピアノ・ソナタ第19番〜第21番を収めたCDなど、最悪の演奏と言えるだろう。

それに比べると、本盤のピアノ・ソナタ第16番は、段違いの出来と言える。

シューベルトのピアノ・ソナタ特有のウィーン風の抒情の歌い方や、人生の深淵を覗き込むようは深みには、いささか乏しい気もするが、それでも、この力強い打鍵の圧巻の迫力や表現力の幅の広さは、圧倒的なテクニックに裏打ちされて実に感動的だ。

シューマンのピアノ・ソナタも名演であり、ポリーニとシューマンの相性は非常に良いように思われる。

本盤のピアノ・ソナタ第1番も、そうした相性の良さがプラスに働いた素晴らしい名演と高く評価したい。

シューマンのピアノ曲は、一歩間違うと、やたら理屈っぽい教条主義的な演奏に陥る危険性があるが、若きポリーニにはそのような心配はご無用。

シューベルトと同様に、圧倒的な技量の下、透徹した表現で、感動的に全曲を弾き抜いている。

シューマンのピアノ曲の本質は、内面における豊かなファンタジーの飛翔ということになるが、ショパンやリストのような自由奔放とも言える作曲形態をとらず、ドイツ音楽としての一定の形式を重んじていることから、演奏によっては、ファンタジーが一向に飛翔せず、やたら理屈だけが先に立つ、重々しい演奏に陥ってしまう危険性がある。

ポリーニのピアニズムは、必ずしもシューマンの精神的な内面を覗き込んでいくような深みのあるものではないが、卓越した技量をベースとした透徹したタッチが、むしろ理屈っぽくなることを避け、シューマンのピアノ曲の魅力を何物にも邪魔されることなく、聴き手がそのままに味わうことができるのが素晴らしい。

いささか悪い表現を使えば、けがの功名と言った側面がないわけではないが、演奏は結果がすべてであり、聴き手が感動すれば、文句は言えないのである。

シューベルトの第16番もシューマンの第1番もいずれ劣らぬ名演であり、ピアニストの個性ではなく、楽曲の素晴らしさだけが聴き手にダイレクトに伝わってくるという意味では、両曲のベストを争う名演と言っても過言ではないと思われる。

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classicalmusic at 22:44コメント(0)トラックバック(0)ポリーニ 

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畏れ多くも史上初のハイドン交響曲全集であるが、まずは、この偉業に頭を垂れなければならない。

全104曲、輸入盤CDにして33枚(国内盤は36枚で売られていた)の大プロジェクトである。

初出のLP時代には、なんと46枚の大全集であり、ベームのモーツァルト交響曲全集LP15枚(現行CD10枚)を大きく凌駕する。

この企画を通した英デッカとしても、ショルティによるワーグナー「ニーベルングの指環」以来の大英断だったに違いない。

1969年から72年にかけての録音と言うと、カラヤンやベームの壮年期であり、クラシック・レコードに最も活気のあった頃である。

機械化が進んだため、質的には手作りの1950年代から60年代初頭より劣っていたにせよ、こうした大きな企画が通るには絶好のタイミングだったのかも知れない。

アナログ・レコードの制作は、録音からプレスまで、CDよりも数倍、数十倍のコストがかかるため、セールスの目処の立たない企画は成り立ちにくかったからである。

その意味でも、ドラティのハイドン交響曲全集は意義のある企画だった。

個別の曲で言えば、より優れたものもあるが、この全集のおかげで発見できたことがとても多いのだ。

演奏には中庸の魅力があり、小編成のフィルハーモニア・フンガリカによる溌剌とした演奏が小気味良い。

フィルハーモニア・フンガリカは1956年のハンガリア動乱によって移住した音楽家を集めて1957年に結成されたとのことであるが、その演奏水準の高さはトップランクだ。

ハンガリアン・ファミリーの1人、ドラティとの相性は言うまでもなく抜群で、室内楽的なアンサンブル、透明度の高い音色はハイドンにとても良くマッチしている。

フレージングはいつも新鮮、リズムも躍動しており、史上初の全集としての役割は十二分に果たしている。

ドラティの演奏の精巧さはライナーやセルらに共通するもので、このグループの指揮者の実力には改めて驚かされる。

余分なものも足りないものもない、古典的格調に満ちた演奏で、エディションはランドン版。

古楽器演奏とは一味違う表情の豊かさが魅力で、神経質なところがないので、ハイドンの交響曲の持つ伸びやかさを満喫することができる。

このハイドン全集は、英デッカがハンガリーとの関係が深かったがゆえに実現した企画とのことだが、移住者にとっては経済的にも干天の慈雨であったかも知れない。

強いて欠点を挙げるなら、あまりにも短時間で全曲を録音した結果、「一丁上がり!」的な粗雑な演奏も混在していることである。

普通なら録り直すであろうピッチやアンサンブルの乱れにも無頓着なところがある。

箱や袋からわざわざ盤を取り出すLPと違って、扱いのお手軽なCD時代になり、これまで滅多に聴かなかった初期や中期の作品を耳にするようになって、そうした粗が余計に目立って聴こえるようになったのかも知れない。

とはいえ、かつて国内盤CDで6万円以上していた当セットも、いまは半額くらいで手に入るので、手元に置いて、後悔することはなかろう。

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classicalmusic at 20:53コメント(0)トラックバック(0)ハイドンドラティ 

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ラフマニノフは偉大な作曲家であると同時に偉大なピアニストであった。

それだけに、4曲にも及ぶピアノ協奏曲や、パガニーニの主題による狂詩曲、2曲のピアノ三重奏曲、2曲のピアノ・ソナタをはじめとする相当数のピアノ曲を作曲しているところである。

どの曲も、難曲の部類に属するが、それは、ラフマニノフが他の誰よりも大きな手の持ち主であり、どのような曲でも弾きこなすだけのヴィルトゥーゾ・ピアニストであったことにもよるものと思われるところだ。

ラフマニノフの数あるピアノを用いた作品の中でも特に有名なピアノ協奏曲全曲とパガニーニの主題による狂詩曲について、自作自演が遺されているというのは、クラシック音楽ファンにとっても何という素晴らしいことであろうか。

本盤に収められたピアノ協奏曲第1番については1939年、そしてピアノ協奏曲第4番及びパガニーニの主題による狂詩曲については1941年のモノラル録音であり、いずれも音質は決して良好なものとは言えない。

しかしラフマニノフがこれらの作品をどのように解釈していたのか、そして、ラフマニノフがヴィルトゥーゾ・ピアニストとしていかに卓越した技量を有していたのかを知る意味においては、極めて貴重な歴史的な記録とも言えるであろう。

先ずは、いずれの演奏ともにやや速いテンポ設定をとっていることに驚かされる。

当時の演奏傾向にもよるとは思うが、それ以上に、ラフマニノフがいかに人間離れした卓越した技量の持ち主であったのかがよくわかるというものだ。

3曲ともに、ロシア風のメランコリックな抒情に満ち溢れた旋律が満載の楽曲ではあるが、ラフマニノフはやや速めのテンポをとりつつも、それらの旋律の数々を情感豊かに歌い抜いているところである。

アゴーギクなども駆使しているが、決してセンチメンタリズムには陥らず、いささかの古臭さを感じさせないのが素晴らしい。

もっとも、音質が悪いので、ラフマニノフのピアノタッチが鮮明に再現されているとは言い難いのがいささか残念ではあるが、ラフマニノフの自作に対する捉え方、そして持ち味の超絶的な技量を堪能することができるという意味においては、歴史的な意義が極めて大きい名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

もっとも、前述のように音質は今一つであるというのが玉に傷と言ったところだ。

そこで今般登場した英国のDuttonレーベルから復刻されたラフマニノフの自演盤は、他レーベルの同内容の自演盤CDと比較すると音質のクリアさという点では一歩譲るかも知れないが、何と言ってもこれまで悩みに悩まされたスクラッチノイズが聴こえないので、ストレスフリーな状態でピアノに集中出来る。

ノイズが綺麗に除去されていることによって、若干ではあるが音質は改善されたが、それでもトゥッティにおける各楽器セクションの分離の悪さは如何ともしがたいものがある。

もっとも、これまでの従来CD盤よりは聴きやすい音質でもあると言えるところであり、本演奏を聴くのであれば、迷うことなく本Dutton盤を購入されたい。

なお、ラフマニノフは、ピアノ協奏曲第2番及び第3番についても録音を行っているところであり、それらの録音については、先般Blu-spec-CD化されて、どうにか鑑賞に耐え得る音質に仕上がっていることを付記しておきたい。

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classicalmusic at 00:42コメント(0)トラックバック(0)ラフマニノフ 

2015年03月17日


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吉松隆氏自身が「点と線だけでできた最小の舞踊組曲」だというこの作品は、耳に優しく心地よく響いてくる小品集。

最長でも3分に満たぬ小曲集でありながら、いずれも幻想的かつ情緒的で、星夜の空によく似合う逸品揃い。

しめやかな曲、軽やかな曲と曲想は様々ながらも、どことなく万葉の息吹を感じさせる神話的な透明感が聴く者の心を慰める。

まずは、このように美しいピアノ作品集を作曲した吉松隆氏に感謝の気持ちを捧げたい。

どの楽曲も、現代の作曲家とも思えないような美しい旋律に満ち溢れた名作であり、各楽曲につけられた題名もセンス抜群である。

筆者も、本CDではじめて、吉松隆氏の作品に接することになったが、そのあまりのセンス抜群の美しさにすっかりと感動してしまった。

吉松隆氏と言えば現代クラシック界の難解な音楽に反旗を翻すいわば異端的な存在とも言えるが、だからといって彼を退嬰的であるとは少しも思わない。

吉松隆氏の音楽にサティやドビュッシーなど近代の作曲家の影響を見出すのはた易いが、彼の音楽は間違いなく20世紀初頭に書かれ得たものではなく、紛れもない、我々現代人の感性によって生み出されたものである。

ジャズとクラシックとの融合が20世紀初頭の音楽家たちにとって1つの前衛であったように、吉松隆氏の音楽は、ポップスとクラシックの高度な融合を図っているように思える。

そして、この手の試みの中で稀有な成功を果たした例として、彼の音楽は世界の最前衛に位置していると言っても過言ではない。

演奏であるが、田部京子は極めて洗練された魅力的な音色で描き出していて、このような美しい作品にびったりと言えよう。

田部京子はその簡潔な譜面に豊かなイマジネーションを投影し、感覚に訴える演奏を聴かせるが、常に芯が通っていて、流れが引き締まっている。

田部京子は、この同じデンオン・シリーズの中で、メンデルスゾーンの無言歌集(吉松隆氏の作品と同様の美しい小品集)でも名演を録音しているが、アプローチはメンデルスゾーンの場合と同じ。

女流ピアニストならではの繊細なタッチと、ここぞという時の力強い打鍵がバランスよくマッチングしており、吉松隆氏の素晴らしい音楽を更なる高みに持ち上げている。

ただでさえ美しい35曲にものぼる各楽曲が、同CDの宣伝文句にも記述されているように、あたかも宝石のような35の神秘的な小宇宙を紡ぎだしていっている。

音質も非常に鮮明であり、田部京子の繊細なタッチがよりクリアに表現されている点も、本CDの価値を大いに高めるのに貢献している。

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快活・健康的・素朴などなど、こういった類の言葉でハイドンの音楽は語られるが、まさにこれにぴったりの演奏が当盤である。

ピリオド楽器派による時代考証とは一線を画した録音で、古楽器台頭以前の大編成オーケストラによる最もオーソドックスな演奏として、身も心も安心して委ねることのできるセットである。

この“時代”の演奏には心から身を委ねることができるのは、聴き慣れているせいだけではないと思う。

ピリオド・スタイルの隆盛によって、このように低音域を分厚く鳴らすやり方は過去の遺物と化しつつあるが、この演奏の造型の確かさと端正さは時代の嗜好を超えて傾聴に値する。

ゆったりと大きく構えた演奏で、迫力も十分、音楽の愉悦にあふれていて、現代のタイトな演奏に慣れた耳には大いに新鮮に響く。

昨今あまり耳にしなくなった量感豊かなハイドンであり、垣間見えるバロック的な音の仕掛けに対し、ことさらな身振りを作らず、揺るぎないバランスで響きを整え緩急をキメていき、その音の姿から、次世代作曲家との同時代性が浮かび上がる、伝統視点の熟演。

初演地に因んでロンドン・フィルを起用しているなど実に気が利いている。

これはベームの「ドン・ジョヴァンニ」の録音にプラハのオーケストラを起用するなど、ドイツ・グラモフォンが時々使う手法だ。

しかし、これが企画のための企画に終わっていないのは演奏を一聴すれば明らかである。

ドイツのオーケストラのように重厚すぎないロンドン・フィルの上品で節度ある響きが、この演奏に独特の気品を与えているからである。

あまりにオーソドックスなため、どの演奏がどうである、という解説は困難を極める。

そこで、このセットに共通する特徴をいくつか挙げるに留めたい。

まず第一には、演奏する歓びに溢れていることであるが、とは言っても、少し説明不足かも知れない。

アンサンブルをする歓び、職人的に書かれたハイドンのスコアを、音にする歓びに溢れている、とでも言えば本質に大分近づいてくる。

つまり、精神的にどうのこうの言う前に、単純に縦の線を合わせるとか、三度の響きを正確にとか、アクセントをどう置くだとか、合いの手を入れるニュアンスなど、「合奏」することの純粋な面白さをヨッフムと団員たちが追求しており、その愉しさが聴き手の心をウキウキさせるのだ。

そして、もうひとつ挙げるなら、ヨッフムが熟練した統率能力と背中合わせに併せ持つヨッフムの「子供のような純粋さ」である。

たとえば、《軍隊》における鳴り物を賑やかに鳴らす様など、子供がおもちゃを叩いて大喜びしているのを思い出させるのだ。

ハイドンのもうひとつの面白さに気づかせてくれる演奏と言えるところであり、ヨッフムの素晴らしいブルックナーを彷彿とさせる。

こういうハイドンを聴くと、本当に心が和み、小編成では味わうことのできない大らかさにホッとするのだ。

クナッパーツブッシュのように無限の宇宙を感じるとか、シューリヒトのように魂が天を駆けるという特別な演奏ではない。

それでいて、大衆に媚びた低級な演奏でもなく、現在ではなかなか聴けないスタイルの演奏だ。

特別な仕掛けや細かな計算が表に出るような指揮ではなく、大らかで素朴ながら、ハイドンの音楽の面白さがストレートに伝わってくる。

真面目さとユーモア、高尚と親しみやすさ、そんなものが同居した、バランスの取れた名演集である。

こうしたがっちりとした造型と、大柄な表現は、今やほとんど誰もできなくなってしまった。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)ハイドンヨッフム 

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筆者は、本盤の演奏内容については、既に以下のようなレビューを投稿済みである。

「若き日のピリスによる素晴らしい名演だ。

ピリスは、ショパンのピアノ協奏曲第1番をクリヴィヌ&ヨーロッパ室内管弦楽団とともにスタジオ録音(1997年)、ピアノ協奏曲第2番をプレヴィン&ロイヤル・フィルとともにスタジオ録音(1992年)しており、それらはいずれも見事な名演として高く評価されるべきものであるが、本盤に収められた演奏も、それら後年の演奏にはない初々しさや清新さに満ち溢れた独特の魅力があると言えるのではないだろうか。

ピリスの本演奏におけるアプローチは、後年の演奏のように必ずしも楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫りの深い表現を行っているわけではない。

むしろ、若さの成せる業とも言える側面も多分にあると思われるが、両曲の随所に聴かれる詩情に満ち溢れた美しい旋律の数々を、瑞々しささえ感じさせるような透明感溢れるタッチで美しく描き出していくというものである。

その演奏は純真無垢とさえ言えるものであり穢れなどはいささかもなく、あたかも純白のキャンバスに水彩画を描いていくような趣きさえ感じさせると言えるだろう。

もっとも、ピリスのピアノ演奏は、若き日の演奏と言えども、各旋律の表層をなぞっただけの美しさにとどまっているわけではない。

表面上は清澄なまでの繊細な美しさに満ち溢れてはいるが、その各旋律の端々からは、ショパンのピアノ曲において顕著な望郷の思い、人生における寂寥感のようなものが滲み出してきている。

加えて、どのような哀愁に満ちた旋律に差し掛かっても、いわゆるお涙頂戴の哀嘆調には陥ることなく、常に気品と格調の高さをいささかも失わないのが素晴らしい。

指揮者のジョルダンも、こうしたピリスのセンス溢れる見事なピアノ演奏を巧みに引き立てつつ、二流のオーケストラとも言うべきモンテカルロ国立歌劇場管弦楽団をしっかりと統率して、好パフォーマンスを発揮しているものと評価したいと考える。

いずれにしても、本演奏は、若き日のピリスが、その前途洋々たる将来性を世に知らしめるのに貢献した素晴らしい名演として高く評価したい。」

そして、これだけの素晴らしい名演だけに、これまで高音質化が望まれてきたところであるが、長らくリマスタリングなども行われず、いささか残念な気がしていたところであったが、今般、SACD化がなされたというのは、演奏の素晴らしさからしても極めて意義が大きいと言えるだろう。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても超一級品の仕上がりであると言えるところであり、とりわけ若き日のピリスによる瑞々しさを感じさせるピアノタッチが鮮明に再現されるとともに、ピアノ演奏とオーケストラ演奏が明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的である。

いずれにしても、若き日のピリス、そしてジョルダン&モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団による素晴らしい名演を高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年03月16日


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本演奏の評価に入る前に、EMIがフルトヴェングラーの遺産にとどまらず、クレンペラーやシューリヒト、カラヤン、テンシュテットなどによる名演のSACD化を進めていることについて大いに歓迎したいと考える。

今回はアルゲリッチによる一連の演奏のSACD化であるが、今後は、他の演奏家による名演のSACD化も大いに望みたいと考える。

本盤には、アルゲリッチ&デュトワによるショパンのピアノ協奏曲第1番及び第2番が収められているが、両曲の様々な名演の中でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

アルゲリッチのピアノは、卓越したテクニックをベースとして、強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現の幅は桁外れに広く、テンポの緩急も変幻自在であり、まさに自由奔放とも言うべき圧倒的な表現を披露している。

それでいて、全体の造型が弛緩することはいささかもないというのは圧巻の至芸と言える。

ショパンの演奏では、陳腐なロマンティシズムに拘泥した感傷的なものも散見されるが、アルゲリッチのピアノはそのような感傷的要素とは無縁であり、どこをとっても気高い芸術性を失うことがないのは、アルゲリッチの芸術家としての類稀なる才能の証左であると考える。

こうしたアルゲリッチの自由奔放なピアニズムに、適度な潤いと瀟洒な味わいを付加しているのが、デュトワ&モントリオール交響楽団による名演奏である。

デュトワが指揮するモントリオール交響楽団の演奏は、フランスのオーケストラ以上にフランス的と言われていたが、本演奏でも、そうしたフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいのある美演を披露してくれているのが素晴らしい。

そして、デュトワの指揮も、かつての妻であるアルゲリッチのピアノをしっかりと下支えする献身的な指揮ぶりであり、アルゲリッチのピアノの頼もしい引き立て役に徹している。

これら両曲の名演の中で、特に評価が高いものとして、ツィマーマンによる弾き振りによる超個性的な名演(1999年)が掲げられる。

本演奏は、さすがにツィマーマンの名演ほど個性的ではないが、アルゲリッチの自由奔放なピアノとデュトワ&モントリオール交響楽団によるセンス満点の味わい深い演奏が融合した稀有の超名演と高く評価したい。

録音は、これまでのHQCD盤でもかなり満足し得る音質ではあったが、今般のSACD盤はそれをはるかに凌駕する究極の高音質録音である。

アルゲリッチによる超名演をこのような究極の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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1987年12月30、31日 ベルリン・コンツェルトハウス(シャウシュピールハウス)に於けるステレオ・ライヴ録音。

この1987年12月は、レーガン、ゴルバチョフによるINF(中距離核戦力)全廃条約締結があり、世界は冷戦の終結に向けて歴史的な前進を遂げた年であるが、古巣のライプツィヒ放送響に戻ってきたケーゲルは一時の強烈なアプローチを排し、かなり遅めのテンポを採用し、慈愛に満ちた優しい微笑みをもってこの大曲の真髄に迫っている。

「ミサ・ソレムニス」は、数多い楽聖の傑作群のなかでも一頭地を抜く存在であって、「第9」を凌ぐ作品とも評されている。

とは言え、毎年2度や3度は通しで聴いている「第9」に較べれば、ライヴやCD等での視聴の機会も圧倒的に少ないというのが実際のところであって、それは多くの人に当てはまるのではないか。

筆者は、コンサートで聴いたことは1度もないが、それなりの点数のディスクを聴いてみたところ、どれも満足出来るものは殆どなく、やはりクレンペラー盤に戻って来てしまうのであるが、その中で、このケーゲル盤は本当に珍しく素晴らしいと思える演奏であった。

ケーゲルのアプローチは、飾ったところのない素朴な「祈り」の気持ちが根本にあり、これがこの曲の本質とよく調和していると思う。

難解極まる曲であるが、晦渋さがほとんどない鷹揚な演奏であり、なおかつ冒頭曲の『キリエ』からベートーヴェン独特の肯定的な明るさが現われている。

響きが硬くならず、伸びやかであり、開放的な風通しのよさが普段のケーゲルとは異なる。

これほど聴いていて心がほぐされ、癒されるような「ミサ・ソレムニス」は実に珍しく、「晦渋生硬」という作品に対する通念を破る開放的な演奏と言えるだろう。

極度の集中力や悲劇性を持つ音楽をたびたび奏でたケーゲルが、こんな穏和な演奏をしたこともあったのだ。

しかし、何度も聴いてゆくうちに、最初に聴いたときの印象と大分変わってきたところである。

鑑賞が数回目となってくると、晩年の凄みのある厳しいアプローチのケーゲルが顔を覗かせるのである。

歌手陣がのびのびと、しかも真摯に取り組んでいるのが凄みを伴って迫ってきて、この曲を全ての演奏者が心を込めて取り組んでいるのがヒシヒシと伝わってくるのである。

それにしても合唱には酷な作品であり、職人技よりは芸術家の理想を追究したベートーヴェンの面目躍如、素人合唱団には手に負えない作品であろう。

ケーゲルは合唱指揮者からキャリアをスタートしただけに、合唱の扱いに長けた指揮者であることが明らかであり、合唱の取扱いも厳格なだけに留まらず、分厚いハーモニーを紡ぎだすことに成功している。

『グローリア』冒頭からの合唱、特にテノールと金管の絡みの素晴らしさは、楽天的ではない、ほんとうに肯定的な力強さが全開しており、筆者はこの『グローリア』に一番感銘を受けた。

聴いていて難しい曲とは感じさせないし、その精妙なつくりにも感嘆させられるが、それはおそらく、演奏の巧みさゆえだろう。

この曲を好きな者にとっては、聴けば聴くほど深みを増してくる名演である。

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classicalmusic at 20:38コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンケーゲル 

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フルトヴェングラー56歳の時のライヴ録音だけに、若々しく、アゴーギクの様相にはこの指揮者ならではのものがある。

テンポに一貫した緊迫感があり、素晴らしく生命力の横溢した表現で、創意豊かな気迫に満ちた「第9」だ。

ベルリン盤と有名なバイロイト盤との間には10年近い歳月が流れ、ドイツの壊滅と裁判による演奏停止期さえ含まれているが、スタイルにはほとんど変化がなく、細部の表現に至るまで、驚くほど似ている。

たとえばベルリン盤の第1楽章と第3楽章の遅いテンポ、雄大なスケールは、すでに1951年盤のそれと同一であって、これはフルトヴェングラーとしても異例のことである。

「第9」に関する限り、フルトヴェングラーは1940年代の初めから、彼の最後期のスタイルを獲得していたのであった。

とはいえ、ベルリン盤とバイロイト盤を比べると、スタイルは同じでも内容の深さはかなり違う。

バイロイト盤の、あたかも永遠を想わせるような、無限の彼方にまで拡がってゆく精神の深みは、ベルリン盤にはまだ見られない。

その代わり、ベルリン盤の良さは直接的な迫力、若々しい生命力とダイナミズムにあるだろう。

ことにティンパニストが決めどころに見せる死んだ気の最強打は、時に聴く者の肺腑を抉る(第1楽章の再現部冒頭が最も良い例と言えよう)。

フルトヴェングラーの解釈で気になるのは、終楽章で歓喜の主題が低弦から静かに湧き上がる直前の2つの和音をスタッカートにしている点で、これはバイロイト盤のように楽譜通り四分音符を充分にのばしたほうが良い。

またテノール独唱に伴う行進曲が始まる前の“vor Gott”のフェルマータはバイロイト盤より長いが、聴いた感じはもう一つ効果的でない。

バイロイト盤ではフェルマータを切る前にクレッシェンドを掛けるのだが、これが効いているのである。

テノール独唱に男声合唱が加わる途中から凄まじいアッチェレランドを掛けるやり方はバイロイト盤には見られぬもので、何度聴いても興奮させられるが、その結果、次のオーケストラだけのフガートが速くなりすぎてしまうのは、実演ならではのミスであろう。

また第3楽章のコーダに近い金管の警告の直前で、第2ホルンが上行音型を1拍早く吹いてしまうのは、フルトヴェングラーもさぞかしびっくりしたに違いない。

次にバイロイト盤を上回る個所を挙げておこう。

第1楽章の再現部以降の味の濃さと迫力、第4楽章の終結の2ヵ所で、このあたりはやはり寄せ集めのバイロイトのオケと、手兵のベルリン・フィルとの差が出ている。

後者など、あの速いテンポにオーケストラが一糸乱れずついてゆき、最後の5つの音符をティンパニストが見事に決めるのである。

もう1つ、同じ楽章のアンダンテ・マエストーソの部分で、男声のユニゾンが歌う“ein lieder Vater wohnen”のディミヌエンドと音色の懐かしさは、バイロイト盤やストックホルム盤ではこれほど巧くいっていない。

この部分、ほどんどの指揮者はフォルティッシモの指定のままどならせてしまうが、それではこの言葉の意味は生かされない。

筆者の知る限り、メンゲルベルクとフルトヴェングラーだけが、父なる主のいます星の彼方に想いを寄せているのである。

この1942年盤は、メロディア盤や仏ターラ盤、最近ではグランドスラムによる復刻盤などでも聴けるが、本アルトゥス盤とそれらとは音の明快さが雲泥の相違で、バイロイト盤と並んでどうしても持っていたいCDとなった。

なお、この演奏は3月22日のベルリン・フィル定期ではなく、4月19日に行われたヒトラー誕生日祝賀コンサートのライヴではないかという意見もあることを付記しておく。

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2015年03月15日


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「第4」の表現はきわめてフルトヴェングラー色が濃く、まことにデモーニッシュの極みと言えよう。

第1楽章の導入部からして、他の指揮者とはまるで違う雰囲気にあふれ、特に目立つのはチェロとバスの動きを強く生かした点であろう。

導入部が終わりに近づくと、いよいよ来るべきものを予感させるようなリタルダンドが掛かり、猛烈なクレッシェンドとテヌート、および狂気じみたティンパニの強打が、ものものしくもドラマティックな効果を上げる。

まさにフルトヴェングラーならではというところだ。

主部のアレグロ・ヴィヴァーチェは遅いテンポで始まるが、次第にアッチェレランドし、相変わらずティンパニを強打しつつ、スピード感と気迫に満ちた進行を示す。

第2主題の木管の掛け合いではテンポを大きく落とし、一息つきながら美しく歌わせるが、確かにここで遅くするのは曲想にぴったり合致しており、フルトヴェングラー・ファンを泣かせる原因ではあるものの、彼の表現が大好きな筆者でさえ、いささかの疑問を感じないではない。

それは1つには「第4」という音楽がこれほど大きな起伏を必要とする曲かどうか、という問題にも関わってくるのである。

ベートーヴェンの「第1」「第2」「第4」などを、ハイドンやモーツァルトの延長として、こぢんまりと指揮することには反対である。

これはあくまでもベートーヴェンだからだ。

しかし、これら3曲が、「エロイカ」「第5」「第7」「第9」などと違うのもまた事実である。

内容はともかくとしても、規模が異なる。

したがって、こぢんまりとさせてはいけないが、そこに自ずから限度が出てこよう。

ところが、フルトヴェングラーはそんなことには一切頓着しておらず、馬鹿でかいスケールとはちきれれるような内容をもって、世界の苦悩を一身に背負った表現を、誰はばかることなく行っているのだ。

これを戦時下という時代のせいにしてはならないであろうし、芸術の根本とは本来このようにあるべきなのだ。

「第4」の場合、確かに疑問は残るが、フルトヴェングラーにとって、これ以外に自分の生きる道はなく、妥協すれば彼も死に、ひいては音楽自体も死んでしまう。

だから正直に、感じた通り行うことだけが、芸術家としての彼の真実となり得るのである。

いかにもフルトヴェングラーらしいのは、展開部の終わり、弱音の部分で、これ以上テンポを落とせば止まってしまいそうに遅くしていることだが、実際に客席に居るならばともかく、CDで聴く限り、造型を崩し、いくぶん思わせぶりな感がするのは否めない。

しかしコーダはすばらしい迫力である。

第2楽章の遅いテンポと粘ったリズムも、フルトヴェングラー以外の何ものでもあるまい。

血が通った、有機的な表現で、盛り上がりのスケール雄大な凄まじさなど見事だが、部分的にかなりもたれ、ついてゆけない人も多いことだろう。

スケルツォも構えの大きさと気迫の烈しさにおいて際立っているが、絶品というべきはフィナーレである。

速めのテンポと推進するリズムから、物凄いエネルギーが噴出し、旋律は思い切って歌われる。

あたかもひた寄せる大奔流のようで、コーダに入る前の、人間業とも思えぬスフォルツァンドと凄絶な和音の生かし方が、「第4」全体を見事に締めくくる。

第1、第2の両楽章は、フルトヴェングラーのレコードの中で、造型面においてベストとは言えないと思うが、このフィナーレだけは最高の出来映えと絶賛されよう。

一方、「コリオラン」序曲は、フルトヴェングラーの劇的表現がぴたりとはまり、彼の数多いディスクの中でも最高の出来映えの1つであろう。

その異常な緊張感と鬼気迫るような迫力、ドラマティックな訴えは見事で、ことに冒頭とコーダにおけるティンパニの最強打が凄まじい。

第2主題のテンポの落とし方も効いており、ことにコーダにおけるそれは、哀しい音色といい、ピアニッシモの生かし方といい、後ろ髪を引かれるような、おずおずとした運びが何とも言えない。

最近はこの第2主題でテンポを落とさない指揮者が増えてきたが、それではこのテーマの意味は生かし得ないだろう。

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バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータは、作曲されてから約300年が経っているにもかかわらず、今なお世界のヴァイオリニストが弾きこなすのを究極の目標とするというのは殆ど驚異である。

しかも、無伴奏のヴァイオリン曲という分野でも、このバッハの曲を超える作品は未だに存在しておらず、おそらくは、今後とも未来永劫、無伴奏のヴァイオリン曲の最高峰に君臨する至高の作品であり続けるものと思われる。

1つの楽器に可能な限り有効な音を詰め込み、表現の極限に挑戦したバッハの意欲的な創作と、調性による曲の性格の違いを明確に描かなければならない難曲でもある。

そのような超名曲だけに、古今東西の著名なヴァイオリニストによって、これまで数多くの名演が生み出されてきた。

そのような千軍万馬の兵たちの中で、ミルシテイン盤はどのような特徴があるのだろうか。

本盤は、ミルシテインにとって最初の録音であるが、先ず特筆すべきは、超人的な名人芸ということになるだろう。

圧倒的な技巧と表現力で演奏された無伴奏で、実に鮮やかとも言うべき抜群のテクニックである。

肉付きの良い音色が、完全に削ぎ落とされ、ソリッドな表現となって聴き手を突き刺す。

もちろん、卓越した技量を全面に打ち出した演奏としてはハイフェッツ盤が掲げられるが、ミルシテインは、技量だけを追求するのではなく、ロマン的とも言うべき独特の詩情に溢れているのが素晴らしい。

非常に快速なテンポで弾き進められて行くが、卓越した技巧に支えられた音色は美しく格調高い。

非人間的な音は1音たりとも発することはなく、どの箇所をとっても、ニュアンス豊かで、詩情豊かな表情づけがなされているのが見事である。

美音と歌心を主体とする優美な演奏のようにも聴こえるが、現代楽器を使用したシャコンヌの変奏の極めつけ。

現代楽器で30の変奏を完璧に描きわけ、かつ主題、動機の変形、装飾音、バスを見事に弾き分けている。

流麗な和声に溺れる「安いバッハ」とは次元が全く違い、「この部分は精神的に」などと戯けたことを発想するレベルでは全く理解不能な音楽で全く見事。

「美しい」という言葉が見当違いと思えるほどあらゆる要素を厳しく追い込んでおり、音の揺れ1つにすら意味がある。

思い入れたっぷりに弾かれた無伴奏より数段楽しめるし、ケーテン時代の作風やそれまでの無伴奏の伝統を考えればミルシテインの方が本来ではないかと思えるのである。

最近話題になったクレーメルによる先鋭的な名演などに比較すると、いかにも旧スタイルの演奏とも言えるが、このような人間的なぬくもりに満ち溢れた名演は、現代においても、そして現代にこそ十分に存在価値があるものと考える。

比類なき技巧と音色美、精神的な深さが見事に同居した稀有のアルバムと言えよう。

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