2015年03月
2015年03月31日
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シューベルトは、歌曲の分野だけではなく、室内楽曲の分野においても数多くの作品を遺した。
かかる室内楽曲の中でも傑作とされるのは、弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」や弦楽五重奏曲などが掲げられると思うが、最も有名で親しみやすいのは、衆目の一致するところ本盤に収められたピアノ五重奏曲「ます」と言えるのではないだろうか。
そうした超有名曲であるだけに、古今東西の弦楽四重奏団が、有名ピアニストと組んでこぞって録音を行ってきているが、その中でも極上の美しさを誇っているのは、本盤に収められたスメタナ弦楽四重奏団による第1回目の録音であると考えられる。
スメタナ弦楽四重奏団にとって記念すべき第1回目の「ます」であるが、往年のファンにとってシューベルトの「ます」といえば、まず思い浮かべるのがこの録音であろう。
とにかく、往年のスメタナ弦楽四重奏団による演奏は、美しさの極みであると言える。
そして、スメタナ弦楽四重奏団の美演に見事に溶け込んでいるパネンカのピアノも負けず劣らず至純の美しさを誇っており、本演奏には、まさにピアノ五重奏曲を聴く真の醍醐味があると評価したい。
本演奏におけるアプローチにおいては、聴き手を驚かせるような特別な個性などはいささかも見られない。
曲想を精緻に丁寧に描き出していくというオーソドックスなものであるが、表面上の美しさを磨くだけにとどまることなく、どこをとってもコクがあり、豊かな情感に満ち溢れているのが素晴らしい。
「弦の国チェコの至宝」絶頂期のアンサンブルに、美しく溶け合うパネンカのピアノ、とめどなく溢れかえる歌に楽しさいっぱいのシューベルトと言えよう。
ピアノ五重奏曲「ます」の近年に成し遂げられた名演としては、ギレリス&アマデウスSQによる演奏(1975年)、ブレンデル&クリーヴランドSQによる演奏(1977年)、リヒテル&ボロディンSQによる演奏(1980年)、シフ&ハーゲンSQによる演奏(1983年)、田部京子&カルミナSQによる演奏(2008年)など、個性的な名演が目白押しではある。
本盤のような情感豊かな美しい演奏を聴くと、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。
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ワレリー・ゲルギエフ指揮、マリインスキー劇場管弦楽団他による1991年録音盤で、ゲルギエフ得意のロシア作品「ホヴァンシチナ」を収録されている。
基本的にショスタコーヴィチ版に依拠しているが、できるだけ作曲者の考えを尊重したゲルギエフ版だと言える。
「ホヴァンシチナ」は、未完成のままムソルグスキーが世を去ったこともあって、「ボリス・ゴドノフ」に比較して不当にも世評が低いと言わざるを得ない。
しかしながら、リムスキー=コルサコフやショスタコーヴィチなどによる編曲によって、優れた完成版が生み出されており、その内容の深さにおいて、「ボリス・ゴドノフ」にも匹敵する傑作であると筆者としては考えているがいかがだろうか。
「ホヴァンチシナ」は、17世紀のモスクワ銃兵隊の反乱(ホヴァンスキーの乱)を題材にした5幕の大作であるが、ムソルグスキーが1881年に没したため未完となり、作曲者の旧友リムスキー=コルサコフによる実用版が作成されて、ようやく1886年2月21日にサンクト・ペテルブルクで初演された。
しかし、リムスキー=コルサコフは原曲をほとんど書き換えており、その後ショスタコーヴィチがオリジナルのピアノ譜と、作曲者自身の管弦楽法の手法をもとに、改めて原曲に忠実な実用譜が作り直された。
今日では上演に用いられる実用譜はたいていショスタコーヴィチ版であるが、全編まことに美しいオペラで、特に第2幕の開始の場面や第4幕始めの女声合唱など、実に印象的で魅力的である。
リムスキー=コルサコフ版はイマイチの出来だと思うが、ショスタコーヴィチ版は、ムソルグスキーの草稿にまで踏み込んだ大変優れたものだと考える。
本盤のゲルギエフによる演奏は、ショスタコーヴィチ版をベースとして、ゲルギエフならではの編曲を施したものであり、特に、終結部に大きな違いがある。
筆者としては、ショスタコーヴィチ版のラストのムソルグスキーの作品中もっとも美しい旋律「モスクワ川の夜明け」の主題の再現が効果的で素晴らしいと思うのだが、ゲルギエフ版のように、悲劇的な殉教で締めくくるのにも一理あるとは思う。
演奏も、ロシア的なあくの強さと緻密さのバランスに優れたゲルギエフならではの超名演であり、独唱陣も合唱団も最高のパフォーマンスを示している。
ここに聴くゲルギエフ率いるキーロフの面々とソリスト陣は、(既に定評を得てムソルグスキーにこだわりぬく)アバド盤に比してもまことに立派な演奏と言えるのではないだろうか。
いかにもロシア的なテイストを振りまきつつ、でも仕上げは丁寧でしっかりしたもので、この魅力的なオペラに親しむに絶好のディスクであろう。
それにしても、ムソルグスキーは偉大だ。
同時代のチャイコフスキーは当然として、ロシア五人組のリムスキー=コルサコフやボロディンなども西欧の音楽を意識して作曲をした(だからと言って、これらの作曲家の偉大さに口を指しはさむつもりはない)が、ムソルグスキーはあくまでも西欧音楽に背を向け、ロシア音楽固有の様式を目指そうとした。
その強烈な反骨精神には拍手を送りたいし、アルコール中毒による早世を深く惜しむものである。
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2015年03月30日
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マリス・ヤンソンスとオスロ・フィルによるEMIへのシベリウス第1弾となったもの。
今は亡きヤンソンスが、若き日に手兵としたオスロ・フィルとともに残したシベリウスのホットな演奏で、1990年録音当時としては、その後を期待するに十分な出来映えの1枚となった素晴らしい名演だ。
ヤンソンス&オスロ・フィルのクオリティの高さは来日公演で満座の聴衆を驚倒させたが、この素晴らしいコンビの代表盤のひとつが、このシベリウス録音だ。
ヤンソンスは、晩年においては、コンセルトへボウ・アムステルダムとバイエルン放送交響楽団という、世界有数のオーケストラを手中に収める現代を代表する指揮者の1人に成長したが、本盤の録音当時(1990年)は、オスロ・フィルという、決して一流とは言えないオーケストラを指揮する気鋭の指揮者の1人に過ぎなかった。
そんなヤンソンスではあるが、当時から、シベリウスを得意としており、交響曲第1番には、後年にも手兵のバイエルン放送交響楽団と録音し、それも素晴らしい名演であったが、本盤も、後年の名演に優るとも劣らない見事な名演に仕上がっている。
「第1」の魅力は音色の作り方のうまさで、輝かしい音、磨かれた音から渋めの音、くすんだ音まで、音楽のシーンに即して的確にヴィヴィッドに反応する。
そして心地よいテンポ、しなやかなフレージング、ヤンソンスの構成への見通しに優れた解釈は、作品に引き締まったプロポーションと躍動する若々しい運動性を与えている。
アンダンテ楽章は楽器の絡み合いがチャーミングであり、スケルツォは精彩に富み、フィナーレの滑らかで力強く明快率直な演奏には興奮を禁じ得ない。
近ごろ珍しいものとなってきた演奏の気迫が如実に感じられ、音が一杯詰まったという感じであるが、いわゆる北欧的な雰囲気も豊かに感じられる会心の演奏。
スケール大きく伸びやかに鳴り響き、シベリウス作品に不可欠の、北欧風の奥行きある情感に溢れている。
気迫に満ちたヤンソンスの指揮、意欲的にそれに応えるオスロ・フィルの前向きな演奏は、聴き手を興奮させてくれる。
ヤンソンスとオスロ・フィルのコンビネーションが光る、北欧特有の抒情とオーケストラの機能美を極限にまで結びつけた驚異のシベリウス演奏と言えよう。
本盤の特徴、そして優れた点は、北欧の雰囲気を大いに満喫できる点で、ヤンソンスのシベリウスは、泥臭さが無く、非常に爽快、近年のシベリウス演奏の代表的な録音のひとつに数えられる。
前述のように、この当時は、まだまだ研鑽を積みつつある若手指揮者の1人に過ぎなかったのであるが、いわゆる青臭さは皆無であり、気迫に満ちた演奏が繰り広げられている。
若さ故の勢いに任せた強引さもなく、北欧風の抒情を巧みに盛り込みつつ、実に成熟した演奏を行っている点を高く評価したい。
輪郭をぼかすことなく、各パートの音を丁寧に鳴らし、ゲネラルパウゼの効果的な活用や、木管楽器の響かせ方にも個性的なものがあり、独特の魅力を持っている。
併録の気迫に満ち、情熱的な存在感のある「フィンランディア」や、胸のすくような「カレリア」組曲も、交響曲第1番と同様の傾向の、北欧風の抒情を活かした成熟した名演だ。
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1993年6月14日 ベルリン、フィルハーモニーに於けるもので、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音から2週間後に行われたライヴ録音。
北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者であったギュンター・ヴァントが`第2の手兵オケ`として鍛え上げたベルリン・ドイツ交響楽団とのライヴ演奏を収録したアルバム。
かつてベルリン・ドイツ響友の会の会員専用CDとして頒布されたことのある伝説的名演盤でもある。
演奏の性格は殆ど同じであり、あとは、オーケストラの音色とコンサートホールの音響だけの違いと言える。
ミュンヘン・フィルは、南ドイツならではのやや温かみのある柔和な音色が持ち味であるが、力量のある指揮者に恵まれた時のベルリン・ドイツ交響楽団は、ベルリン・フィルに匹敵するような重心の低い深みのある音色を出す。
本盤の名演はその最たるものであり、これほどの次元の高い演奏になると、あとは好みの問題と言えるだろう。
本盤の数年前にヴァントは北ドイツ放送響と同曲をライヴ録音、数年後にベルリン・フィルと同曲をライヴ録音しているが、演奏の内容に(オーケストラの力量も含めて)差は殆ど見られないが、終楽章の充実感・爆発度はこの演奏が一番との声高い。
シューベルトの「第9」は、ベートーヴェンによって確立された交響曲の形式を、その後のブルックナーの交響曲を予見させるまでに昇華させた傑作交響曲であるが、ブルックナーを得意としたヴァントの「第9」は、まさに、ブルックナーの交響曲を思わせるような荘厳さを湛えている。
眼光紙背に徹したスコアリーディングをベースに、全体の厳しい造型を堅持し、重厚にして剛毅な演奏を行っている。
それでいて、第2楽章の中間部などの抒情も高踏的な美しさを保っており、剛柔のバランスのとれた至高の名演と高く評価したい。
熱心なヴァント・ファンからは「心身充実していた1990年代前半〜半ばの演奏こそヴァントの真髄がきける」「ベルリン・ドイツ放送響の力量は北ドイツ放送響以上。ベルリン・フィルはオケのプライド強すぎてヴァントの意図が100%徹底していない。ミュンヘン・フィルはチェリビダッケの影が付きまとう。今回のベルリン・ドイツ放送響が最高」とまで噂されていた垂涎のライヴ演奏である。
厳しく引き締まった造形美に打ち抜かれた崇高にして超弩級の演奏からは、ヴァントの芸風の真髄と「真打ち登場!」の手応えを実感されるに違いない。
録音も1993年のライヴ録音としてはきわめて優秀で、本盤の価値を高めることに大いに貢献している。
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2015年03月29日
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パーヴォ・ヤルヴィは、今や最も録音を活発に行っている指揮者と言えるだろう。
その数の多さもさることながら、楽曲の多種多様ぶりには驚かされるばかりである。
これは、パーヴォ・ヤルヴィが、父ネーメ・ヤルヴィ譲りの広範なレパートリーを誇っていることの証左であると考える。
ところが、不思議なのは、北欧エストニア出身の指揮者であるにもかかわらず、そして、父ネーメ・ヤルヴィが2度にわたってシベリウスの交響曲全集を録音しているにもかかわらず、シベリウスの交響曲を、現時点においても本盤に収められた第2番とクレルヴォしか録音していないということである。
しかも、それらの録音が、有名な人気作ではあるが、必ずしもシベリウスの交響曲の代表作とは言えない第2番と最も演奏される機会の少ないクレルヴォというのは、パーヴォ・ヤルヴィなりの独特の考え方があるのかもしれない。
いずれにしても、本盤の「第2」は、そうした残念な思いを補ってあまりあるほどの素晴らしい名演と高く評価したい。
本名演が素晴らしいのは、何よりもパーヴォ・ヤルヴィの表現が実に音楽性豊かであるという点である。
その棒さばきは、切れ味がよく、しかも北欧の雄大な自然が目の前に生き生きと甦って来るような演奏を繰り広げている。
オーケストラがよくコントロールされていて、フィンランドの景色を俯瞰的に見ているかのような印象を受ける。
パーヴォ・ヤルヴィは、曲想を精緻かつ丁寧に描き出しており、どこをとっても恣意的な解釈が聴かれず、音楽が自然体で滔々と流れていくのが素晴らしい。
特別な個性があるというわけではないが、スコアに記された音符のうわべだけを鳴らすという浅薄な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても情感の豊かさに満ち溢れているのが素晴らしい。
北欧の大自然を彷彿とさせるような繊細な抒情の表現にも秀逸なものがあり、シベリウスの内面的な部分とのバランスもよく、第2楽章の表現もなかなかにドラマティック。
終楽章の圧倒的な盛り上がりも圧巻の迫力であり、表現の幅はきわめて広いが、それでいて、管楽器、弦楽器そして打楽器ともに、荒っぽさを感じさせず、常にニュアンス豊かな奥行きのある演奏を繰り広げているのが見事である。
これは、パーヴォ・ヤルヴィの薫陶の下、最高のパフォーマンスを示したシンシナティ交響楽団の力量によるところが大きいと言わざるを得ない。
カップリングされているトゥビンの「第5」も、シベリウスと同様に豊かな音楽性が感じられる素晴らしい名演。
これはパーヴォ・ヤーヴィのオーソドックスでありながら、聴かせどころを盛り上げていく巧さが光っている。
同曲を収めたCDで、現在入手できるのは父ネーメ・ヤルヴィによる演奏のみであり、楽曲の質の高さの割には殆ど演奏されていない。
このような同曲の真価を広く認知させるという意味でも、本名演の登場は大いに歓迎されるべきであると考える。
マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音も、本盤の価値を大いに高める結果となっている点を忘れてはならない。
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小林研一郎が古希を迎えたのを契機として進められていたチェコ・フィルとのベートーヴェンの交響曲全集のシリーズ第5弾の登場で、小林研一郎による初のベートーヴェンの交響曲全集が完成されたというのは大変うれしい限りである。
小林研一郎は、もともとレパートリーの少ない指揮者であり、新しい楽曲に挑戦する際には常に慎重な姿勢で臨むのを旨としてきた。
もっとも、ひとたびレパートリーとした楽曲については、それこそ何度も繰り返し演奏することによって、よりレベルの高い演奏を目指すべく研鑽を積んできた。
チャイコフスキーの交響曲(特に「第5」)にしても、マーラーの交響曲(特に「第1」「第5」「第7」)にしても、ベルリオーズの幻想交響曲にしても、名演が多いのはそうした理由によるところが大きい。
それはさておき、このベートーヴェン・チクルスのこれまで発売された演奏の評価は必ずしも芳しいものは言い難い。
レコード芸術誌などにおける音楽評論家による評価も酷評に近い状態にあるし、ネットにおける様々なレビューでも良い評価をされている方は殆ど稀である。
その理由を考えると、おそらくは、小林研一郎によるアプローチの立ち位置が難しいという側面があるのではないだろうか。
ベートーヴェンの交響曲の演奏は、近年ではピリオド楽器の使用や現代楽器を使用した古楽器奏法による演奏が主流を占めているが、小林研一郎はそうした近年の流行は薬にしたくもない。
それでは、これまでの独墺系の錚々たる大指揮者が築き上げてきたドイツ正統派たる重厚な演奏を希求しているのかと言うと、これまた全くそうした伝統的な演奏様式などいささかも念頭にないと言えるところだ。
このように、小林研一郎の演奏は、個の世界にあるものであり、その個性が演奏の隅々にまで行き渡ったものとも言えるだろう。
それ故に、聴き手によっては、小林研一郎の体臭芬々たる演奏に辟易するということも十分に考えられるところだ。
しかしながら、本盤に収められた「第8」は、ベートーヴェンの交響曲の中では、剛よりも柔的な要素が多い楽曲であることから、「炎のコバケン」とも称されるようなパッションの爆発は最小限に抑えられており、これまでの小林研一郎によるベートーヴェンの交響曲演奏にアレルギーを感じてきた聴き手にも、比較的受け入れられやすい演奏と言えるのではないだろうか。
もっとも「第9」のフィナーレなどには、そうした小林研一郎の途轍もない燃焼度の高さの片鱗も感じられる点は相変わらずであり、筆者が学生時代に東京芸術劇場でライヴに接した時の感動的名演を思い起こさせる。
つまるところ、没個性的な凡演や、はたまた近年流行のピリオド楽器の使用や古楽器奏法による軽佻浮薄な演奏などと比較すると、はるかに存在価値のある演奏と言えるのではないだろうか。
確かに、両曲のベストの名演とは到底言い難いが、小林研一郎一流の熱き歌心が結集するとともに、オーソドックスなアプローチの中にも切れば血が出てくるような灼熱のような指揮ぶりも堪能することが可能な、いい意味でのバランスのとれた名演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。
そして、小林研一郎による指揮に、適度の潤いと奥行きの深さを与えているのが、チェコ・フィルによる名演奏と言えよう。
ホルンをはじめとする管楽器の技量には卓越したものがあり、弦楽器の重厚で深みのある音色も実に魅力的というほかはない。
音質は、SACDによる極上の高音質であり、小林研一郎&チェコ・フィルによる名演を望み得る最高の鮮明な音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2015年03月27日
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ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、名人揃いの世界最高峰のオーケストラだけに、芸術監督に就任する指揮者も、各奏者を掌握するための苦労は並大抵のものではない。
カラヤンも、就任当初はフルトヴェングラー時代の重鎮奏者に手を焼き、自分の理想の演奏を行えるようになったのは、芸術監督に就任して約10年後の1960年代に入ってからであると言われている。
それだけ、ベルリン・フィルという稀代のオーケストラを掌握するのに相当の時間がかかるということであるが、これは、現在の芸術監督のペトレンコにも言えることであり、前任者のラトルがベルリン・フィルとともに名演奏の数々を行うようになったのも、2010年代に入ってからで、2002年の就任後、約10年の期間を要している。
ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督として長期政権が予測されたが、64歳時に退任した。
その前任者のアバドは、カラヤンを失ったベルリン・フィルが楽団員の投票により首席指揮者に任命され、一時は世界楽団の頂点に立つマエストロであった。
しかしながら、アバドがベルリン・フィルの芸術監督をつとめていたのは1990年〜2002年のわずか12年間。
これでは、カラヤンのオーケストラを自らのオーケストラとして掌握するにはあまりにも時間がなさ過ぎたと言えるだろう。
ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。
そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、鳴かず飛ばずの低迷期に陥り、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。
多くの音楽評論家から民主的とは名ばかりの「甘ちゃん指揮者」などといった芳しからざる綽名を付けられたものである。
カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。
そのようなアバドが、大役の心労から胃癌にかかり、それを克服した後は、それまでとは打って変わったような深みのある名演奏を成し遂げるようになった。
ベルリン・フィルを掌握して、いかにもアバドならではの名演を繰り広げるようになったのは、皮肉にも胃癌を克服した2000年代に入ってからで、まさに、ベルリン・フィルの芸術監督退任直前のことであった。
退任後に、ベルリン・フィルとともに時として行われる演奏の数々が見事な名演であることに鑑みれば、アバドももう少しベルリン・フィルの芸術監督にとどまるべきであったのではないかとも思われるが、このあたりも、いかにもポストに固執しないアバドらしいとも言える。
いずれにしても、歴代の芸術監督の中でも、必ずしもベルリン・フィルとの関係が順風満帆とはいかなかったアバドではあるが、それでも、いくつかの演奏では、さすがはアバドとも賞賛されるべき名演を成し遂げていたと言える。
本盤には、アバドのベルリン・フィル時代を象徴する名演が収められており、イタリア人指揮者ならではの熱いカンタービレと細部に至るまで徹底して読み込まれた緻密な設計、聴き手を興奮させずにおかない劇場的な華やかさと輝き、そして演奏を貫く緊張感、とまぶしいばかりの光にあふれ、磁力にも似た強い力で聴き手を虜にするのである。
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ルービンシュタインは、3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集をスタジオ録音している。
ルービンシュタインはポーランド出身ということもあって、稀代のショパン弾きとしても知られてはいるが、前述のように3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音したことや、生涯最後の録音がブラームスのピアノ協奏曲第1番であったことなどに鑑みれば、ルービンシュタインの広範なレパートリーの中核を占めていたのは、ベートーヴェンやブラームスなどの独墺系のピアノ曲であったと言えるのかもしれない。
本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番&第2番は、ルービンシュタインによる3度目のピアノ協奏曲全集(1975年)からの抜粋である。
最初の全集であるクリップス&シンフォニー・オブ・ジ・エアとの演奏(1956年)や、2度目の全集であるラインスドルフ&ボストン交響楽団との演奏(1963年)と比較すると、本演奏は88歳の時の演奏だけに、技量においてはこれまでの2度にわたる全集の方がより優れているかも知れない。
しかしながら、本演奏のゆったりとしたテンポによる桁外れのスケールの大きさ、そして各フレーズの端々から滲み出してくる枯淡の境地とも言うべき奥行きの深い情感の豊かさにおいては、これまでの2度にわたる全集を大きく凌駕していると言えるだろう。
このような音楽の構えの大きさや奥行きの深さ、そして格調の高さや風格は、まさしく大人(たいじん)の至芸と言っても過言ではあるまい。
1音たりとも弾き飛ばさずに、しっかりと弾き切っているところが好ましいが、少しももたつかず、重さを感じさせない推進力のある演奏は、ベートーヴェンの若き日の作品の魅力を余すところなく伝えてくれている。
特に、両曲の緩徐楽章の深沈とした美しさには抗し難い魅力があると言えるが、その清澄とも言うべき美しさは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、自らの生涯を自省の気持ちを込めて回顧するような趣きさえ感じられる。
これほどの高みに達した崇高な音楽は、ルービンシュタインとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのかもしれない。
ルービンシュタインの堂々たるピアニズムに対して、バレンボイム&ロンドン・フィルも一歩も引けを取っていない。
バレンボイムの指揮は立派の一言で、重すぎず、軽すぎずの充実した響きと、力強い推進力に支えられた若々しい伴奏で、ベストの出来と言えよう。
バレンボイムは、ピアニストとしても(クレンペラーの指揮)、そして弾き振りでも(ベルリン・フィル、シュターツカペレ・ベルリンとの演奏)ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音しているが、ここではルービンシュタインの構えの大きいピアニズムに触発されたこともあり、持ち得る実力を存分に発揮した雄渾なスケールによる重厚にして渾身の名演奏を展開しているのが素晴らしい。
いずれにしても、本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番及び第2番の演奏は、いずれも両曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。
音質は従来CD盤(輸入盤)でも十分に満足できるものであるが、ルービンシュタインによる超名演でもあり、今後はSACD化を図るなど更なる高音質化を望んでおきたいと考える。
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2015年03月26日
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往年の名指揮者ブルーノ・ワルター(Bruno Walter 1876-1962)がCBSレーベルに録音した一連のマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)作品を7枚のCDに収録したBox-set。
LP時代に高価だった名盤が続々と安価で販売され、名演奏がきわめて身近になったが、このセットもその好例で、品質がきわめて高い。
演奏は言うまでもないが、復刻が丁寧でばらつきが少ないことが特色である。
ワルターはマーラーの弟子であり親友でもあった。
景勝地シュタインバッハで夏の休暇を楽しむマーラーを訪ねたワルターが美しい景色に見とれていると、マーラーが「それ以上眺める必要はないよ。全部私の今度の交響曲にしてしまったからね。」と言ったのは有名だ。
マーラーの死後に彼の交響曲「大地の歌」と「第9」を初演したのがワルターである。
マーラーはユダヤからカトリックに改宗したが、ワルターは終生ユダヤ人だった。
そのため、第2次世界大戦で彼は拠点をドイツからオーストリアへ、そしてアメリカへと移さざるを得なくなる。
そうして、アメリカで数々のマーラーの名録音が生まれ、それがこのアルバムだ。
もう1つ逸話を。
当時CBSはマーラーの「第1」を録音するにあたり、指揮者にバーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990)を起用することも考えていて、当人も乗り気だった。
しかし、ワルターとのレコーディングが先に終了したことから、シェアの問題もあり、バーンスタインに計画の中止を申し出たが、彼は承服しなかった。
そこで、CBSのスタッフは実際に録音されたワルターの演奏をバーンスタインに聴いてもらった。
聴き終わったバーンスタインは「素晴らしい。これは彼の交響曲だ。」と延べ、自ら録音の中止を快諾したそうだ。
ワルターの音楽の価値、バーンスタインの大きな人柄など様々なことを示すエピソードだ。
ブルーノ・ワルターのこのマーラー交響曲集は本当に素晴らしい。
バーンスタインのマーラーも確かに素晴らしいが、このワルターの演奏はそれを遥かに凌駕する。
バーンスタインの解釈より、マーラーの混沌とした宇宙がよりはっきりと感じられ、遥かにロマン的であり、マーラーの心情がひしひしと伝わってきて、こちらの感情も溢れ出しそうになる。
マーラーの音楽の根底に流れているのは「うた」なんだとあらためて理解することができる。
この演奏を聴いたら、バーンスタインのみならず、他のいかなる指揮者もマーラー演奏を断念してしまうのではないかと思わずにはいられないが、それほどに素晴らしい演奏である。
ワルターの演奏は、典雅さと苛烈さがあり、その表出度のバランスが曲や演奏によって異なるのだけれども、どれも高い香りを感じさせるものだと思う。
どの交響曲も今なお名演の誉れが高いもので、特に「第1」と「第9」が素晴らしく、薫り高く、格調高く、切々と歌い上げている。
筆者が初めて「第2」を聴いたのがこのワルターの劇的な演奏であったが、懐かしいし、現代でも通じるシャープな迫力に満ちている。
また「大地の歌」は1952年のウィーン・フィルとの名盤が名高いが、こちらも味わいのある演奏だと思う。
いずれにしても、半世紀を過ぎた今でも、多くの人に愛聴される歴史的録音だろう。
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2015年03月25日
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右手の故障を克服、見事に復活を果たしたフランスの名ピアニスト、ミシェル・ベロフによるドビュッシー作品集で、鮮烈な音感覚に円熟味が加わった演奏は、永遠に聴き継がれる名盤としての地位を確立したと言ってよいだろう。
ベロフによる2度目のドビュッシー全集からの1枚であるが、ため息がでるような詩情溢れる極上の美演である。
例えば、版画のグラナダの夕暮れの何という情感豊かさ。
ドビュッシーのピアノ曲を演奏するための鉄則として、安定した技量をベースとしつつも、各楽曲の有する詩情豊かさをいかに巧みに表現できるのかが必要となってくるが、べロフの手にかかっては、いささかの心配は要らないということになる。
映像の第1集や第2集の各小曲の描き分けも実に巧み。
各小曲ともにこれ以上は求め得ないような高踏的な美しさを誇っており、これを超える演奏は不可能ではないかと考えられるほどだ。
特に印象に残ったのは、映像第1集の水の反映であり、ゆったりとしたテンポで、ドビュッシーのあらゆるピアノ作品の中でも最もみずみずしい美しさを湛えた名作の1つとされる同曲を、これ以上は考えられないような情感豊かさで弾き抜いており、実に感動的だ。
テクニックも申し分ないが、それ以上にとても色彩豊かであり、一体いくつ引き出しがあるのか不思議に思うくらい変幻自在に音色が変わっていく。
また、ペダルは必要最低限にとどめ、はっきりと音像を浮かび上がらせているのが特徴的で、音像がぼんやりとした神秘的な演奏とは対極をなす演奏と言えるかもしれない。
研ぎ澄まされた音、豊かな色彩感、深い情感が“フランス印象派”の感覚美を超えて音楽の核心に鋭く迫る。
巨匠への道を歩む円熟のベロフによるこの演奏は、現代のドビュッシー演奏のひとつの頂点を築くものと言えるだろう。
忘れられた映像や、喜びの島、マスクも、卓越した技量をベースとしつつ、フランス風のエスプリ漂う詩情に満ち溢れており、まさに至高・至純の名演と高く評価されるべきものと考える。
20年前にレコーディングされた時は、洗練された響きとリズムの鋭さが新鮮であったが、この新しくレコーディングされたアルバムは、録音技術が進歩したせいか、さらにパワフルさが増したような気がする。
Blu-spec-CD化によって、音質は通常盤よりさらに鮮明さを増しており、本盤の価値をより一層高めることに大きく貢献している。
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ショパンのワルツ集は名演が少なくないが、SP時代のコルトーと彼の弟子リパッティが、長年にわたって王座を争ってきた。
リパッティ盤はSACD化されてかなり音質が改善されたと言えるが、それでも古いという人には、録音の新しいルイサダの名演が聴けるのは実に幸せなことである。
もう最初の「第1番」から音楽をこの上なく雄弁に語りかけてやまない。
おしゃべりなショパンだが、センスがあってしゃれ切っており、頻出するルバートも古臭くなく、即興性満点、左右10本の指の魔術がいつ果てるともなく続き、この「第1番」だけで、聴く者は完全にルイサダの虜になってしまうだろう。
「第2番」「第3番」「第7番」いずれも最高だが、ことに「第10番」は音楽が100パーセントルイサダ自身のものになり切っており、聴いていて身につまされてしまう。
それにしても、なんという変幻自在な表現だろう!
「第14番」の冒頭も他のピアニストとは全然違う。
いったい何が始まったのか、と唖然とするほど不気味であり、これは本当にすごい演奏である。
ルイサダは他のピアニストに比べルバートをかなり多用しているが、それが薄っぺらな、説得力に欠けるものには決してならず、1つ1つが深い意味を持ち、雄弁に聴こえてくるところがすごい。
サロン的な軽妙洒脱さ、ピアニズムのきらめき、匂やかな繊細典雅さなどのなかで、ルイサダの演奏はショパンの原点に還ったというか、ショパンを発見したシューマンの「花の陰に隠された大砲」という言葉を思い出させる。
1曲1曲が目も綾な色とりどりの花をなし、これはダリヤ、これはスウィートピー、これはヤグルマソウと、花の色が鮮やかに浮かんでくるほどだ。
しかしこれらの花に顔を近づけると、花の香の背後に隠された野性の匂いがツンと鼻を刺してくる。
その勁さこそ彩りゆたかな花を咲かせるエキスをなしている。
花のあでやかさと、その芯にひそむ野性とは切っても切れない関係にある。
その核心にふれた演奏だ。
これだけセンス抜群の演奏も、やはり往年のリパッティ盤にはかなわないが、録音状態等も加味すると、ルイサダ盤を選択するのが妥当ではなかろうか。
そういえば、ルイサダのワルツに対する洞察はきわめて深く、以下、彼の言葉を引用しておこう。
「ショパンのワルツ集の第1曲は嬉しそうに始まるが、第2曲にはすでにノスタルジアの感触がしのびこんでくる。
このノスタルジアあるいはメランコリーは曲が進むにつれて目立ってくるが、いつもワルツというジャンルの表面的な華麗さという仮面をつけている。
しかも第3曲はもはやワルツというよりも秘められた悲しみの純粋な詩であり、第4曲以降はすべての曲に絶望の影を宿している。
第9曲と第14曲では、ショパンは仮面をかなぐり捨てて悲哀の中に突入してゆく。
前者では最初の主題が抑えた絶望の叫びとともに再現されるし、後者ではすべての希望が抹殺されて、奈落の底へまっさかさまに突進してゆくのである」
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2015年03月24日
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優れた演奏家は今日数多いが、アルゲリッチほど聴き手をスリリングな興奮に誘うピアニストも他にはいないであろう。
完璧な技巧を背景に奔放なまでの即興性と躍動感にあふれた演奏を聴かせる名手であり、まさに天才的な名ピアニストである。
一方、鋭い緊張感と劇的な表現力に貫かれたピアノ演奏の醍醐味を満喫させるポリーニは、アルゲリッチと並び現代ピアノ界を二分する人気と実力を誇る名ピアニストである。
ポリーニは甘いリリシズムに溺れることなく、作品に対する鋭い問いかけを背後にもつ彼の演奏は、時に聴き手に問題提起を迫るような気迫をもち、刺激的である。
イタリア人ならではの輝ける感性と知的な洞察力を併せ持つ、稀に見る天才型の名手ということになろう。
とりわけこの2大ピアニストは特にショパンにおいて個性的で素晴らしい対照的な名演を聴かせた。
アルゲリッチはきわめてスケール大きくピアノを鳴らし、勢いに乗じた激しい魂の燃焼を聴かせるが、ポリーニは冷静沈着で完璧主義的な、揺るぎのない安定し切った演奏で迫る。
アルゲリッチは抜群のテクニックと、本能的とも言える激しい作品へののめり込みを感じさせ、まるで曲とともに燃え尽きてしまうのではと思わせる、鬼気迫る凄い迫力の演奏になっている。
ポリーニの方は冷静沈着、まったく激することなくきわめて精緻な計算によって、完璧とも言えるやはり名演を聴かせる。
アルゲリッチの怒涛のような快演と、ポリーニのクールなリリシズム、いずれも比較を絶した名演で、優劣を論じることはできないが、本能派のアルゲリッチと、理想派のポリーニでは、まったくクロスすることのない二極的なショパンである。
両者はまさに対極的とも言える解釈なのだが、ショパンの作品そのものに、こうした極端な解釈を許す要素があるのだろう。
激しい魂の燃焼を求めるか、あるいは完璧なプロポーションを求めるかで、自ずと選択の基準は決定されるだろう。
激しく燃えるアルゲリッチに対して、クールで冷静なポリーニと、2つの演奏を聴き比べるのは、ファンのみに許された楽しみと言えよう。
いずれをとるかは、聴き手の好みの問題と言うしかないところである。
アルゲリッチは5歳からピアノを始め、わずか8歳でモーツァルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾いたという。
14歳の時ヨーロッパに渡り、グルダ、リパッティ、ミケランジェリ、マガロフなど数多くの名ピアニストのもとで研鑽を重ねている。
1960年、19歳の時より、ドイツ・グラモフォンにレコーディングを開始し、1965年のショパン・コンクールに優勝、以来今日まで変わることなく世界のピアノ界の頂点にたつピアニストとして華々しい演奏・録音活動を繰り広げている。
ポリーニも9歳にしてデビュー・リサイタルを開くほど若くして才能を発揮しているが、何といっても1960年のショパン・コンクールに18歳という若さで優勝、審査委員長のルービンシュタインを感嘆させた。
以来国際的な演奏活動を開始するかと思われたが、1968年まで表舞台にたつことなく、さらに研鑽を重ねている。
1968年ロンドンでのリサイタルを契機にカムバックし、1970年代はじめには世界最高峰のピアニストとして名声を確立している。
我が国への来日も1974年以来続けられており、ショパンを採り上げることも稀だが、いずれも揺るぎない説得力で聴き手を襲う名演を聴かせる大家中の大家である。
両者とも現在では高齢になり、ライヴにしろセッションにしろ慎重に臨んでいるため、若き日から壮年期にかけて、ドイツ・グラモフォンに残された録音は貴重である。
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本盤は、ハンガリー出身の名指揮者ジョージ・セルが1962年にロンドン交響楽団を指揮して録音したチャイコフスキーの交響曲第4番ほかを収録したアルバムである。
チャイコフスキーの交響曲第4番は、当時不幸な結婚で悩んでいた作曲者の心境を反映した人生の苦悩と哀愁に関する標題的内容を持った情熱的な曲。
妥協を許さない厳格なアプローチで音楽の本質に迫ることで知られた指揮者、セルが残した名盤中の名盤で、チャイコフスキーが伝えたかったロシアの空気をキッチリ音楽にしている。
セルはこの録音後「私の目の黒いうちは絶対発売させない」と言った逸話が残っている演奏であるが、この逸話を知った時は、とても信じられず、愕然とした覚えがある。
セルとしては、やはり手兵クリーヴランド管弦楽団とは違い、ロンドン交響楽団では自分の思い通り演奏できない不満があったのであろうが、逆説的に言えば、セルとオケが目に見えない火花を散らしながら演奏したが故に、全体を通して、緊張感と気迫溢れる名演となったのかもしれない。
しかしさすがの名門オケ、このテンポ、短い音の連続でも響きの豊かないい音を出しており、何よりチャイコフスキーに欠かせない木管の豊かで輝かしい響きが聴かれる。
センチメンタリズムを極力排したドライで禁欲的なセルの毅然とした音楽づくりに、ロンドン交響楽団は必死で応えながらも、自らの持ち味の音の響きも保ち続け、マエストロの要求との折り合いをつけたようだ。
そのお互いの葛藤に何とか見合う曲としてチャイコフスキーの交響曲第4番は最適だったかも知れない。
セルは過度な感傷を避け、この交響曲特有の重たいイメージをあまり感じさせず、それでいて決して無機的にはならない。
第1楽章の出だしの金管・木管の音に続く弦の音にしてから、非常に大切に音を出しているなと感じさせるものだ。
全体を40分ちょっとで駆け抜けているが、この快速テンポは、かのムラヴィンスキーの1960年代の名演に匹敵するものだ。
全体的な造型や、演奏の性格はムラヴィンスキーの名演に準じるものであり、手兵のクリーヴランド管弦楽団を「セルの楽器」と称されるまでに鍛え上げたセルの片鱗が見られるが、例えば、第1楽章の終結部のテンポの激変や、終楽章のアッチェレランドなど、セルにしては珍しい踏み外しも見られる。
セルに率いられたロンドン交響楽団は、第2楽章で美しい旋律を豊かに奏でたかと思うと、一転、終楽章では一糸乱れぬ超人的なアンサンブルで聴き手を圧倒する。
特に終楽章の気迫溢れる演奏は,ただ単に賑やかな演奏ではなく、緊張感溢れる演奏となっていて、ダイナミックな中にも細やかな味付けもされており、あっという間に聴き終えてしまう。
ロンドン交響楽団の許容力と懐深さによって貴重な「セルのチャイ4」が聴けたことに感謝したい気分だ。
こんな演奏は他に類例がなく、聴き終えたあと適度な興奮と余韻、爽やかな印象が残る、今だに色褪せない名盤である。
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2015年03月23日
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1990年5月5,6日、ウィーン・ムジークフェラインザールに於ける、楽曲の珍しい組み合わせによるコンサートの記録である。
一見凡庸な選曲に見えて、凡庸な指揮者では絶対に選択しないカップリングと言えるところだ。
18世紀的な勝利への凱歌と20世紀の勝利への凱歌への懐疑といった戦略的なカップリングにより、ベートーヴェンの「第5」の物語は見事に剥奪され、屈折した構造が白日の元に引きずり出されている。
そこに偶然とはいえウィーン・フィルの美音を重ねるとは、ショルティも相当な策士と言えたところであり、見事なまでに屈折したコンセプトアルバムとなった。
ショスタコーヴィチは、ショルティが最晩年になって漸く取り組みを開始した作曲家であるが、こうしたショルティのあくなき前向きな姿勢には頭を下げざるを得ない。
2曲とも快演だが、特にショスタコーヴィチの「第9」が聴きもので、ショルティの演奏は、今までこの曲に付き纏っていた曲の経緯などを全く顧慮しない典型的なものと言えよう。
この「第9」は、「第8」に次いで録音されたものであるが、全体を20分少々という快速のテンポを取りながら、その中から浮かび上がる造型的な美しさを目指しているようだ。
新古典主義的解釈でこの作品の本質を衝き、ショルティの凄いほどの統率力がウィーン・フィルの音を引き締めると同時に、このオケの柔らかな音色が、より一層、今までの演奏との違いを感じさせる。
この当時、ショルティは既に78歳に達していたはずであるが、とてもそうとは思えない、若き日の鋭角的なショルティを彷彿とさせる力感溢れるアプローチだ。
実にきびきびとして緊張感にあふれていながら色彩感があり、ショスタコーヴィチ特有のダークなアイロニーに富む楽想がつぶさに伝わってくる。
第1楽章からホルンなどの管楽器の響きが冴え渡り表情は明晰そのもので、第2楽章など史上最速の演奏ではあるまいか。
第3楽章の速度指定はプレストであるが、作曲者の指定通りの速度での演奏は、これが初めてであったと記憶している。
ウィーン・フィルらしからぬ荒々しさも感じられるところであり、アンサンブルがあちこちで悲鳴を上げる寸前まで追い込まれつつも、驚異的な機動力で見事に乗り切っている。
ショスタコーヴィチが「第9」に込めた諧謔的な一面を的確に描出しているという点でも、一定の評価をすべき好演であると考える。
ロシア的な色彩感が自然に表されているのも興味深い。
ベートーヴェンの「第5」は、ショルティの4回目にして最後の録音となったものだが、ここには枯れた味わいなど薬にもしたくない。
最晩年を迎えた指揮者とは思えないほどの速めのテンポでエネルギッシュな演奏を繰り広げている。
ただ、さすがにベートーヴェンだけに、ウィーン・フィルのしなやかにして優美な演奏が、全体としての印象を幾分柔和なものとすることに貢献しており、決して無機的な演奏に陥っていない。
ショルティの「第5」は、筆者としてはシカゴ響との1970年代または1980年代のスタジオ録音を採りたいが、本盤については、ウィーン・フィルとの組み合わせという意味で、それなりの存在価値はあると思われる。
全体的に強い緊張感と豊かな風格をもった演奏で、両曲ともライヴ特有の緊迫感を備えた好演である。
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まさに、歴史的な超名演というのは本セットに収められたような演奏のことを言うのであろう。
世にショパン弾きとして名を馳せたピアニストは多数存在しているが、サンソン・フランソワほど個性的なピアニストは他に殆ど類例を見ないと言えるのではないだろうか。
フランソワの演奏は、自由奔放で躍動する精神が引き出し得た全く独創的なショパン演奏であり、一見、奇矯に見えるピアニズムは、今まで見えなかった形を曲に与えることになり、新鮮な驚きをもたらすのである。
いわゆる崩した弾き方とも言えるものであり、あくの強さが際立った演奏とも言える。
それ故に、コンクール至上主義が横行している現代においては、おそらくは許されざる演奏とも言えるところであり、稀代のショパン弾きであったルービンシュタインによる演奏のように、安心して楽曲の魅力を満喫することが可能な演奏ではなく、あまりの個性的なアプローチ故に、聴き手によっては好き嫌いが分かれる演奏とも言えなくもないが、その演奏の芸術性の高さには無類のものがあると言っても過言ではあるまい。
フランソワは、もちろん卓越した技量を持ち合わせていたと言えるが、いささかも技巧臭を感じさせることはなく、その演奏は、即興的で自由奔放とさえ言えるものだ。
本盤に収められた楽曲においても、実に自由奔放な弾きぶりで、自らの感性のみを頼りにして、即興的とも評されるようなファンタジー溢れる個性的な演奏を行っている。
テンポの緩急や時として大胆に駆使される猛烈なアッチェレランド、思い切った強弱の変化など、考え得るすべての表現を活用することによって、独特の個性的な演奏を行っている。
したがって、このあくの強いアプローチに対しては、聴き手によっては抵抗を感ずる者もいることと思うが、少なくとも、テクニックのみを全面に打ち出した表層的な演奏よりは、よほど味わい深い演奏と言えるのではないだろうか。
もちろん、フランソワのテクニックが劣っていたというわけではなく、ショパンの難曲を弾きこなす技量は兼ね備えていたというのは当然の前提だ。
ただ、その技量を売りにするのではなく、楽曲の魅力を自らの感性のみを頼りにして、ストレートに表現しようという真摯な姿勢が、我々聴き手の深い感動を誘うのだと考える。
各旋律の心を込め抜いた歌い方にも尋常ならざるものがあると言えるが、それでいて、陳腐なロマンティシズムに陥ることなく、常に高踏的な芸術性を失うことがないのが見事であると言えるだろう。
また、一聴すると自由奔放に弾いているように聴こえる各旋律の端々には、フランス人ピアニストならではの瀟洒な味わいに満ち溢れたフランス風のエスプリ漂う情感が込められており、そのセンス満点の味わい深さには抗し難い魅力に満ち溢れているところだ。
まさにセンスの塊とも言うべき名演奏であり、自己主張をコントロールして全体を無難に纏めようなどという考えは毛頭ないことから、聴き手によっては、前述のようにそのあくの強さに抵抗を覚える者もいると思うが、フランソワの魔術にひとたびはまってしまうと、やみつきになってしまうような独特の魔力を湛えている。
それだけに強烈な個性という意味においては、フランソワによる本演奏の右に出る演奏は存在しないと言っても過言ではあるまい。
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ネーメ・ヤルヴィによる、グリーグやスヴェンセンの少し後の世代のノルウェーの作曲家、ハルヴォルセンの管弦楽作品シリーズの第4弾の登場だ。
これまでの第1弾から第3弾までは、それぞれ交響曲を軸として、知る人ぞ知る名管弦楽作品を収めていたが、今般の第4弾では、すべて管弦楽作品で占められているのが特徴だ。
交響的間奏曲などを除くと、ノルウェー祝典序曲、ノルウェー狂詩曲、ノルウェー結婚行進曲など、楽曲の名称にノルウェーが付されている楽曲が中心であるが、いずれの楽曲も、ハルヴォルセンならではの北欧の白夜を思わせるような清澄な抒情に満ち溢れた逸品揃いである。
ネーメ・ヤルヴィについては、一部の口の悪い音楽評論家が、何でも屋であるとか、はたまた粗製濫造などと言った必ずしも芳しからざる評価を行っているが、本盤に収められた演奏を聴いていると、それが全く根拠のない罵詈雑言、誹謗中傷であると言えることが理解できるところだ。
近年では、息子のパーヴォ・ヤルヴィが、シンシナティ交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、パリ管弦楽団などを手中におさめて、広範なレパートリーを誇る数多くの録音を行っているが、ネーメ・ヤルヴィも、老いてもいささかもレコーディング活動への強い気持ちを失っていないのが素晴らしい。
特に、本盤に収められたハルヴォルセンや、既に第1弾、第2弾が発売されて好評を博しているスヴェンセンなどのような北欧の知られざる作曲家による名作を、多くの音楽ファンに知らしめてくれる功績は極めて大きいと言わざるを得ないだろう。
それに、前述のように、一部の評論家が批評するような、粗製濫造などということは全くなく、本盤に収められた各管弦楽作品の演奏についても、これまでの第1弾から第3弾までと同様に、素晴らしい名演と言えるのではないだろうか。
もちろん、比較の対象となる演奏が輸入盤を除いて殆ど存在していないだけに、本盤の演奏だけを聴いて、同曲の最も優れた演奏とするということについては躊躇をせざるを得ないが、聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりはネーメ・ヤルヴィならではのものであり、少なくとも、これらの知られざる名作の数々の魅力を、我々聴き手が安定した気持ちで味わうことができるという意味においては、十分に優れた名演と高く評価したいと考える。
音質も素晴らしい。
本盤については、シャンドス・レーベルにおいて、近年では一般化されつつあるSACDではないのが残念ではあるが、2010年から2011年の最新録音だけあって、十分に鮮明な素晴らしい音質であると言えるところであり、ネーメ・ヤルヴィ&ベルゲン・フィルによる素晴らしい名演を鮮明な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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2015年03月22日
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ブリテンは、パーセルの主題による変奏曲とフーガ(青少年のための管弦楽入門と称されているが、作品の質の高さからしてもこの呼称は全く気に入らない)だけがやたら有名であり、他は、近年小澤による渾身の名演によって知られるようになった戦争レクイエムを除けば、殆どの作品はあまり知られているとは言い難い。
ブリテンは、交響曲や管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、そして声楽曲など多岐に渡る分野の作品を数多く遺しているが、その真価は何と言ってもオペラにあると言えるのではないか。
これは、ブリテンと同じ英国出身の大指揮者であるラトルなども同様の見解を表明しており、20世紀を代表するオペラとしてもっと広く知られてもいいのではないかとも考えられるところである。
ブリテンは、10作を超えるオペラを作曲しているが、その中でも名実ともに傑作であるのは本盤に収められた「ピーター・グライムズ」であるというのは論を待たないところだ。
ピーター・グライムズという問題児に冤罪の濡れ衣を着せて、多数の人々によって自殺を強要されるという、いかにも20世紀的なテーマを扱っているが、ブリテンはこうしたストーリーに組曲「4つの海の間奏曲」や「パッサカリア」などに編曲されるほどに魅力的で親しみやすい管弦楽を付加して、実に奥深い内容を有した作品に仕立て上げている。
同曲の名演としては、ブリテンによる自作自演である本演奏とデイヴィス盤(1978年)が双璧にある名演として掲げられる。
オーケストラや合唱団は同じくコヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団と同合唱団だ。
ブリテンは、作曲者であるとともに指揮者としても相当な実力を有しており、同曲の演奏においても作曲者としての権威はいささかも揺るぎがないと言えるが、デイヴィスの指揮もその統率力といい、彫りの深さといい、ブリテンに決して引けを取っているとは言い難い。
両演奏の大きな違いは、主人公であるピーター・グライムズ役であり、骨太なジョン・ヴィッカーズに対して、抒情的なピーター・ピアーズと言ったところではないだろうか。
したがって、後は聴き手の好みの問題であるが、ブリテンと長年に渡って親交のあったピーター・ピアーズによる名唱は、同曲の静謐な悲劇を見事に音化していると言えるところであり、筆者としては本演奏の方をわずかではあるが上位に置きたいと考えている。
その他の歌手陣も最高の歌唱を披露しているのも素晴らしい。
英デッカによる超優秀録音による極上の高音質も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献していると評価したい。
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2015年03月21日
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カラヤンはドヴォルザークの「第8」を何度も録音しているが、なぜかウィーン・フィルとの録音が多い。
スタジオ録音では本盤(1961年)と1985年盤、それに、ライヴでは1974年のザルツブルク音楽祭での演奏(アンダンテ)。
いずれ劣らぬ名演であるが、ライヴならではの迫力なら1974年盤、円熟の名演なら1985年盤を採るべきであろうが、本盤には、ベルリン・フィルとウィーン国立歌劇場を手中に収め、人生の上り坂にあった壮年期のカラヤンならではの圧倒的な勢いがある。
オーケストラを存分に鳴らしつつ、テンポ設定は緩急自在、カラヤン得意の優美なレガートも絶好調であり、豪華絢爛にして豪奢な演奏になっている。
力強く颯爽と駆け抜ける第1楽章、圧倒的な高揚感で天にも届きそうな第2楽章、艶やかな第3楽章、そして圧巻は終楽章で、テンポを揺らして旋律ごとの対比を描き出していて、終結部も凄まじいド迫力だ。
カラヤン=スマートというイメージがあるが、むしろ民族的な泥臭ささえ感じられるところであり、曲のイメージに合っている。
もちろん、ウィーン・フィルの絶美の演奏が、この名演に潤いを与え、ボヘミア風の抒情にもいささかの不足がない点も特筆すべきであろう。
また、1960年代にカラヤンがウィーン・フィルと残した録音は、ベルリン・フィルとの演奏とは違う優美なニュアンスを帯びている。
ドヴォルザークの土着的味わいと、カラヤンの垢抜けた都会的透明感が、絶妙のバランスで共存し、非の付け所のない絶品として仕上がっている。
併録の「ロメオとジュリエット」も、カラヤンの十八番であり幾度も録音を繰り返したが、ウィーン・フィルとの組み合わせにより、ドラマティックな運びの中に曲想をよく生かした華麗さと繊細さのバランスが見事な名演に仕上がっている。
この1960年代の録音ではやはり勢いがあると同時に、ウィーン・フィルの美しい音を最大限引き出している。
いずれも若々しく、躍動感に富み、ウィーン・フィルが、いかに凄いオーケストラか、これでもか、と分からせてくれる名盤と言えよう。
この時期のカラヤン&ウィーン・フィルしか出せない、もう、現代では、こんなに活きのいいウィーン・フィルの響きは、聴けないであろうと思わせる貴重な記録とも言える。
また、音質も英デッカならではの見事なもので、録音会場のゾフィエンザールの弾力のある残響がとても心地よい。
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ムーティ&ウィーン・フィルの黄金コンビによるモーツァルトの交響曲集は、実に優美にして重厚な名演である。
あのカラヤンの名演を思わせるような、豪華絢爛な演奏で、古楽器演奏や奏法が幅をきかせる今日においては稀少となった、重量感溢れる弦楽器主体の旧スタイルによる名演だ。
ムーティは、モーツァルトの交響曲を古典派の規模の小さい交響曲という従来の枠組みに固執するのではなく、その後に作曲されたベートーヴェンやロマン派に作曲された交響曲に通ずる規模の大きな大交響曲として演奏している。
モーツァルトの交響曲の演奏については、最近では古楽器奏法や古楽器による演奏が主流になりつつあるが、本盤のような大オーケストラによる壮麗な演奏を聴くとほっとする思いだ。
ムーティは、ここでは、緩急自在のテンポを駆使した、生命力溢れる闊達にして多彩な表現を行っており、ウィーン・フィルの美演と相俟って、珠玉の名演を成し遂げている。
ムーティの指揮ぶりは、熱い魂の迸りを感じさせ、溢れるヴァイタリティでモーツァルトの憂愁を力強く歌っているが、ムーティがウィーン・フィルを指揮する時は、フィラデルフィア管弦楽団などを指揮する場合と異なり、決して自我を押し通すことをせず、オーケストラに演奏の自由を与えている。
そのようなムーティの自然体のアプローチが、本盤では功を奏し、高貴にして優美なモーツァルトを大いに堪能することができる。
ウィーン・フィルの演奏もいつもながら実に美しく、モーツァルトの音楽の魅力を大いに満喫することができる点を高く評価したい。
ムーティは、第36番にしても第40番にしても、繰り返しを全て行っており、本来ならば、いささか冗長になる危険もあるが、ムーティ&ウィーン・フィルの繰り広げる名演により、そうした冗長さを感じることはいささかもなかった。
むしろ、作曲者が指定した繰り返しをすべて行うことにより、ムーティは、モーツァルトの交響曲を等身大に描いたということなのだろう。
その結果、いずれも約40分という、ブラームスの交響曲などにも匹敵するような長さになっているが、モーツァルトの交響曲は実はスケール雄大な大交響曲であったとの認識を改めさせてくれたムーティの功績は極めて大きいと言うべきではなかろうか。
また、ウィーン・フィルならではの音色の美しさを決して損なうことなく見事に描出しているが、これはムーティの巧みな統率力とともに、ウィーン・フィルとの抜群の相性の良さの賜物であると考える。
ウィーン・フィルの演奏の高貴な優美さも、いつもながら見事であり、そうしたウィーン・フィルの感興豊かな美演をムーティが決して邪魔をしていないことが、本盤を名演たらしめているとも思われる。
ムーティの指揮スタイルは、主旋律を存分な歌謡性で満たし、かつリズミックで暖かいサウンドで包むようなもので、そのスタイル自体、私たちが「ウィンナ・ワルツ」に代表される「ウィーン風」イメージに通じるものだ。
また、数々のオペラをレパートリーに収めていることも重要だろう。
もちろん、音楽性やレパートリーの共通というだけでなく、「愛される」ためには、ムーティの人間性そのものが大きく貢献しているに違いない。
これを聴くと、なんとも自然で、気の赴くまま、モーツァルトのスコアに多くを委ねて、天高く音楽を歌った明朗な古典性に貫かれている。
もちろん、そこにある程度の「計算」が働いているのではあろうが、それにしても、そういった音楽を奏でる側の主観を感じる部分が少ないといった意味で、清々しいほどの純朴さを感じさせる。
そして、これもよく言われることだが、そのことが、モーツァルトの「無垢」と形容される特性に一致し、本来あるべき姿の音楽が自然に提示されているような安心感がある。
それにしても、ウィーン・フィルの音色は最高の美しさであり、ムーティは、緩急自在のテンポの下、隋所に現れる繊細な抒情にもいささかの不足もなく、まさに硬軟併せ持つ名演だと思う。
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2015年03月20日
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過激さと冷静さが同居した、最高の名盤である。
テンシュテットが咽頭癌を患った後の演奏は、いずれも命懸けのものだった。
1つ1つのコンサートに臨む姿勢たるや、まさに神がかりのような凄まじく燃焼度の高いものであった。
テンシュテットが最も得意とした作曲家はマーラーであったが、現在発売されているマーラーの数々の名演の中でも、1991年のマーラーの「第6」と1993年の「第7」は、別格の超名演と高く評価したい。
明日の命がわからない中でのテンシュテットの大熱演には、涙なしでは聴けないほどの凄まじい感動を覚える。
本盤の「第7」を、過去に完成した全集中のスタジオ録音と比較すると、演奏の装いが全く異なることがよくわかる。
粘ったようなテンポ、思い切った強弱の変化やテンポ設定、猛烈なアッチェレランドを駆使して、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。
そして、テンシュテットの演奏全般に言えることであるが、劇的な表現をしていながら細部をおろそかにせず明晰さを大切にしているので、不思議と見通しが良く、その表現が曲の性格に極めて合致している。
スコアに対するあくまでも客観的なアプローチを基盤としながら、具えられる豊かな音楽性、テンシュテットのマーラーに共通するこの魅力が、一種ユニークな作品とされている「第7」でも十二分に発揮されている。
細部の表現と一貫した音楽的流麗さの見事な両立、近代的な総合性の上に存在する後期ロマン派的音楽の香りに脱帽してしまう。
ふっと忍び寄る底知れぬ暗さと、ガツンと来る高揚、その落差は、まさにテンシュテットでありマーラーではないだろうか。
あまりの指揮の凄まじさに、テンシュテットの手の内をよく理解しているはずのロンドン・フィルでさえ、ある種の戸惑いさえ感じられるほどだ(特に、第1楽章終結部のアンサンブルの乱れなど)。
それでも、必ずしも一流と言えないロンドン・フィルが、ここでは、荒れ狂うかのようなテンシュテットと渾然一体となって、持ち得る最高のパフォーマンスを発揮しており、弦楽器の不気味さなどは、テンシュテットの思惑通りとても良く表現されていると思う。
演奏終了後の聴衆の熱狂も当然のことであると考える。
なお、テンシュテット自身はインタビューで、マーラーの音楽について「交響曲第7番が最も好きであり、特に第1楽章はマーラーの最高傑作」と述べているが、その思い入れがこの演奏からよく伝わってくる。
このCDに対抗できるのは、アプローチが全く逆のクレンペラー&ニュー・フィルハーモニア盤くらいであろう。
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いずれも鮮烈な名演だ。
ブラームスの「第3」は1954年4月27日、ベルリンのディタニア・パラストに於ける定期公演の実況盤であるが、音の状態は非常に良く、演奏も死の年のものだけに完璧をきわめ、フルトヴェングラーのディスクの中でも屈指の名盤と言えよう。
この「第3」は旧盤も素晴らしかった。
わけても第1楽章の情熱はむしろ古いほうを採りたいくらいであるが、第2楽章以下は録音の良さも含めて、完成されきった新盤に軍配を挙げるのが妥当であろう。
ただし、解釈の根本はまったく同じである。
とにかく大胆なアゴーギクによって情熱的で共感の限りを表明しており、彫りの深い表情には創造的な芸術性の力が漲っている。
第1楽章は冒頭から緊迫した生命力が湧き出しており、ティンパニの最強打が目立つほかは、旧盤の表現をいっそう凝縮させたものだ。
今回は提示部の反復も行われていない。
第2楽章は録音の鮮明さによって、楽器の音色そのものに心がにじみ出ていることが手に取るようにわかる。
相変わらずテンポの動きの大きい、むせるような歌に満ちたブラームスであるが、旧盤よりは遥かに結晶化されているようである。
第3楽章も音色自体に心がこもりきっており、それが後半、あふれんばかりにほとばしり出て来て、“音楽は心だ”と改めて思い知らされるような表現である。
ただし、第1主題のリズムは旧盤よりも格調があるとはいえ、再現部のホルンには若干崩れが見られる。
第4楽章は旧盤の造型をそのままに立派さを加えた超名演で、疑いもなく全曲の白眉と言えよう。
最晩年のフルトヴェングラーとしては、テンポの激しい動きと表情の凄まじさはその比を見ないほどであるが、ほとんど同じスタイルによる旧盤でいちばん不出来だったこの楽章が、新盤では最上の出来となったところに、フルトヴェングラーの芸術の完成をわれわれは知るのである。
わけても提示部、再現部のそれぞれ終わりの部分における追い込みで、オケの鳴りが少しも悪くならないこと、旧盤では随所に追加されたティンパニを一切使用していないこと、の2点に注目すべきである。
フルトヴェングラーが録音した5つの「未完成」の中で、いちばんすっきりしているのはウィーン盤であり、次いではこの1952年盤である。
解釈の基本は1回目のベルリン盤とまったく同一であり、それを円熟させた表現と言えるところであるが、厳しくも凝縮されたリズムとひびきが際立ち、入魂の演奏が随所に聴かれる。
無駄と虚飾のない秀演で、第1楽章は雄大なスケールをもち、旋律の表情が意外なほど素直に磨かれている。
第2楽章第2主題を吹くクラリネットの、思いをたっぷりと込めた哀しみのソロと、それに応える最弱音も印象的だ。
2曲ともフルトヴェングラーとしても屈指の優れた演奏だけに今後SACD化するなど、更なる音質の向上が望まれる。
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2015年03月19日
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1984年2月、ベルリン・フィルハーモニーにおけるライヴ録音。
ジュリーニの高潔な音楽性が結晶した趣がある名演奏。
最円熟期のジュリーニの高貴にしてゆたかな芸格を最もよく伝える名演である。
ジュリーニは、特に1980年代のロサンジェルス・フィルの監督を辞めた後からは、非常にテンポの遅い、しかも、粘っこい、いわば粘着質の演奏をすることが多くなったような気がする。
したがって、楽曲の性格によって、こうしたジュリーニのアプローチに符合する曲とそうでない曲が明確に分かれることになった。
ブルックナーの交響曲も、同時期にウィーン・フィルと組んで、「第7」、「第8」及び「第9」をスタジオ録音したが、成功したのは「第9」。
それに対して、「第7」と「第8」は立派な演奏ではあるものの、ジュリーニの遅めのテンポと粘着質の演奏によって、音楽があまり流れない、もたれるような印象を与えることになったのは否めない事実である。
本盤は、1984年の録音であるが、確かに第1楽章など、ウィーン・フィル盤で受けたのと同じようにいささかもたれる印象を受けた。
しかし、第2楽章から少しずつそうした印象が薄れ、そして、素晴らしいのは第3楽章と第4楽章。
ジュリーニの遅めのテンポが決していやではなく、むしろ、深沈とした抒情と重厚な圧倒的な迫力のバランスが見事であり、大変感銘を受けた。
総体として、名演と評価してもいいのではないかと思う。
その要因を突き詰めると、やはり、ベルリン・フィルの超絶的な名演奏ということになるのではなかろうか。
この時期のベルリン・フィルは、カラヤンとの関係が決裂状態にあったが、ベルリン・フィルとしても、カラヤン得意のレパートリーである「第8」で、カラヤンがいなくてもこれだけの演奏が出来るのを天下に示すのだという気迫が、このような鬼気迫るような超絶的名演奏を成し遂げたと言えるのではないか。
そのベルリン・フィルの奥深く澄んだ響きと柔軟で底知れぬ表出力がジュリーニの克明な表現とひとつになって、まことにスケールゆたかな、晴朗な力に漲った演奏を築いている。
最円熟期に差し掛かったこの指揮者が、カラヤン時代の響きと演奏スタイルをとどめていたベルリン・フィルの特質を生かした成果とも言える。
彼らが共通して持っているブルックナー像を基本としながら、それを気高い表現に昇華させたのはジュリーニの手腕に他ならない。
芝居じみた要素は微塵もなく、聴衆の耳に媚びることがないため、とっつきやすい演奏とは言えないが、いったんその世界に入ることが出来ると、その精神世界の虜となるだろう。
北ドイツ的な重厚な響きに陥ることなく、あくまでオーストリアの作曲家ブルックナー本来の音色が守られ、その光が交錯するような色合いもこのうえなく美しい。
しかも、透徹した音楽性と強くしなやかな持続力に貫かれた演奏は、細部まで実に精緻に磨かれており、ベルリン・フィルがそうした表現に絶妙の感覚でこのオーケストラならではの色彩とニュアンスを織りなしている。
この巨大な作品の全体と細部を、明確な光の中に少しの夾雑物も交えることなく、くっきりと表現しつくした、ジュリーニならではの感動的なブルックナーである。
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2015年03月18日
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メルツェンドルファー盤が登場するまで、畏れ多くも史上初のハイドン交響曲全集とされていたが、まずは、この偉業に頭を垂れなければならない。
全104曲、輸入盤CDにして33枚(国内盤は36枚で売られていた)の大プロジェクトである。
初出のLP時代には、なんと46枚の大全集であり、ベームのモーツァルト交響曲全集LP15枚(現行CD10枚)を大きく凌駕する。
この企画を通した英デッカとしても、ショルティによるワーグナー「ニーベルングの指環」以来の大英断だったに違いない。
1969年から72年にかけての録音と言うと、カラヤンやベームの壮年期であり、クラシック・レコードに最も活気のあった頃である。
機械化が進んだため、質的には手作りの1950年代から60年代初頭より劣っていたにせよ、こうした大きな企画が通るには絶好のタイミングだったのかも知れない。
アナログ・レコードの制作は、録音からプレスまで、CDよりも数倍、数十倍のコストがかかるため、セールスの目処の立たない企画は成り立ちにくかったからである。
その意味でも、ドラティのハイドン交響曲全集は意義のある企画だった。
個別の曲で言えば、より優れたものもあるが、この全集のおかげで発見できたことがとても多いのだ。
演奏には中庸の魅力があり、小編成のフィルハーモニア・フンガリカによる溌剌とした演奏が小気味良い。
フィルハーモニア・フンガリカは1956年のハンガリア動乱によって移住した音楽家を集めて1957年に結成されたとのことであるが、その演奏水準の高さはトップランクだ。
ハンガリアン・ファミリーの1人、ドラティとの相性は言うまでもなく抜群で、室内楽的なアンサンブル、透明度の高い音色はハイドンにとても良くマッチしている。
フレージングはいつも新鮮、リズムも躍動しており、史上初の全集としての役割は十二分に果たしている。
ドラティの演奏の精巧さはライナーやセルらに共通するもので、このグループの指揮者の実力には改めて驚かされる。
余分なものも足りないものもない、古典的格調に満ちた演奏で、エディションはランドン版。
古楽器演奏とは一味違う表情の豊かさが魅力で、神経質なところがないので、ハイドンの交響曲の持つ伸びやかさを満喫することができる。
このハイドン全集は、英デッカがハンガリーとの関係が深かったがゆえに実現した企画とのことだが、移住者にとっては経済的にも干天の慈雨であったかも知れない。
強いて欠点を挙げるなら、あまりにも短時間で全曲を録音した結果、「一丁上がり!」的な粗雑な演奏も混在していることである。
普通なら録り直すであろうピッチやアンサンブルの乱れにも無頓着なところがある。
箱や袋からわざわざ盤を取り出すLPと違って、扱いのお手軽なCD時代になり、これまで滅多に聴かなかった初期や中期の作品を耳にするようになって、そうした粗が余計に目立って聴こえるようになったのかも知れない。
とはいえ、かつて国内盤CDで6万円以上していた当セットも、いまは半額くらいで手に入るので、手元に置いて、後悔することはなかろう。
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ラフマニノフは偉大な作曲家であると同時に偉大なピアニストであった。
それだけに、4曲にも及ぶピアノ協奏曲や、パガニーニの主題による狂詩曲、2曲のピアノ三重奏曲、2曲のピアノ・ソナタをはじめとする相当数のピアノ曲を作曲しているところである。
どの曲も、難曲の部類に属するが、それは、ラフマニノフが他の誰よりも大きな手の持ち主であり、どのような曲でも弾きこなすだけのヴィルトゥーゾ・ピアニストであったことにもよるものと思われるところだ。
ラフマニノフの数あるピアノを用いた作品の中でも特に有名なピアノ協奏曲全曲とパガニーニの主題による狂詩曲について、自作自演が遺されているというのは、クラシック音楽ファンにとっても何という素晴らしいことであろうか。
本盤に収められたピアノ協奏曲第1番については1939年、そしてピアノ協奏曲第4番及びパガニーニの主題による狂詩曲については1941年のモノラル録音であり、いずれも音質は決して良好なものとは言えない。
しかしラフマニノフがこれらの作品をどのように解釈していたのか、そして、ラフマニノフがヴィルトゥーゾ・ピアニストとしていかに卓越した技量を有していたのかを知る意味においては、極めて貴重な歴史的な記録とも言えるであろう。
先ずは、いずれの演奏ともにやや速いテンポ設定をとっていることに驚かされる。
当時の演奏傾向にもよるとは思うが、それ以上に、ラフマニノフがいかに人間離れした卓越した技量の持ち主であったのかがよくわかるというものだ。
3曲ともに、ロシア風のメランコリックな抒情に満ち溢れた旋律が満載の楽曲ではあるが、ラフマニノフはやや速めのテンポをとりつつも、それらの旋律の数々を情感豊かに歌い抜いているところである。
アゴーギクなども駆使しているが、決してセンチメンタリズムには陥らず、いささかの古臭さを感じさせないのが素晴らしい。
もっとも、音質が悪いので、ラフマニノフのピアノタッチが鮮明に再現されているとは言い難いのがいささか残念ではあるが、ラフマニノフの自作に対する捉え方、そして持ち味の超絶的な技量を堪能することができるという意味においては、歴史的な意義が極めて大きい名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
もっとも、前述のように音質は今一つであるというのが玉に傷と言ったところだ。
そこで今般登場した英国のDuttonレーベルから復刻されたラフマニノフの自演盤は、他レーベルの同内容の自演盤CDと比較すると音質のクリアさという点では一歩譲るかも知れないが、何と言ってもこれまで悩みに悩まされたスクラッチノイズが聴こえないので、ストレスフリーな状態でピアノに集中出来る。
ノイズが綺麗に除去されていることによって、若干ではあるが音質は改善されたが、それでもトゥッティにおける各楽器セクションの分離の悪さは如何ともしがたいものがある。
もっとも、これまでの従来CD盤よりは聴きやすい音質でもあると言えるところであり、本演奏を聴くのであれば、迷うことなく本Dutton盤を購入されたい。
なお、ラフマニノフは、ピアノ協奏曲第2番及び第3番についても録音を行っているところであり、それらの録音については、先般Blu-spec-CD化されて、どうにか鑑賞に耐え得る音質に仕上がっていることを付記しておきたい。
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2015年03月17日
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ピリオド楽器派による時代考証とは一線を画した録音で、古楽器台頭以前の大編成オーケストラによる最もオーソドックスな演奏として、身も心も安心して委ねることのできるセットである。
この“時代”の演奏には心から身を委ねることができるのは、聴き慣れているせいだけではないと思う。
ピリオド・スタイルの隆盛によって、このように低音域を分厚く鳴らすやり方は過去の遺物と化しつつあるが、この演奏の造型の確かさと端正さは時代の嗜好を超えて傾聴に値する。
ゆったりと大きく構えた演奏で、迫力も十分、音楽の愉悦にあふれていて、現代のタイトな演奏に慣れた耳には大いに新鮮に響く。
たとえば、《軍隊》における鳴り物を賑やかに鳴らす様など、子供がおもちゃを叩いて大喜びしているのを思い出させるのだ。
昨今あまり耳にしなくなった量感豊かなハイドンであり、垣間見えるバロック的な音の仕掛けに対し、ことさらな身振りを作らず、揺るぎないバランスで響きを整え緩急をキメていき、その音の姿から、次世代作曲家との同時代性が浮かび上がる、伝統視点の熟演。
初演地に因んでロンドン・フィルを起用しているなど実に気が利いている。
これはベームの「ドン・ジョヴァンニ」の録音にプラハのオーケストラを起用するなど、ドイツ・グラモフォンが時々使う手法だ。
しかし、これが企画のための企画に終わっていないのは演奏を一聴すれば明らかである。
ドイツのオーケストラのように重厚すぎないロンドン・フィルの上品で節度ある響きが、この演奏に独特の気品を与えているからである。
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2015年03月16日
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1987年12月30、31日 ベルリン・コンツェルトハウス(シャウシュピールハウス)に於けるステレオ・ライヴ録音。
この1987年12月は、レーガン、ゴルバチョフによるINF(中距離核戦力)全廃条約締結があり、世界は冷戦の終結に向けて歴史的な前進を遂げた年であるが、古巣のライプツィヒ放送響に戻ってきたケーゲルは一時の強烈なアプローチを排し、かなり遅めのテンポを採用し、慈愛に満ちた優しい微笑みをもってこの大曲の真髄に迫っている。
「ミサ・ソレムニス」は、数多い楽聖の傑作群のなかでも一頭地を抜く存在であって、「第9」を凌ぐ作品とも評されている。
とは言え、毎年2度や3度は通しで聴いている「第9」に較べれば、ライヴやCD等での視聴の機会も圧倒的に少ないというのが実際のところであって、それは多くの人に当てはまるのではないか。
筆者は、コンサートで聴いたことは1度もないが、それなりの点数のディスクを聴いてみたところ、どれも満足出来るものは殆どなく、やはりクレンペラー盤に戻って来てしまうのであるが、その中で、このケーゲル盤は本当に珍しく素晴らしいと思える演奏であった。
ケーゲルのアプローチは、飾ったところのない素朴な「祈り」の気持ちが根本にあり、これがこの曲の本質とよく調和していると思う。
難解極まる曲であるが、晦渋さがほとんどない鷹揚な演奏であり、なおかつ冒頭曲の『キリエ』からベートーヴェン独特の肯定的な明るさが現われている。
響きが硬くならず、伸びやかであり、開放的な風通しのよさが普段のケーゲルとは異なる。
これほど聴いていて心がほぐされ、癒されるような「ミサ・ソレムニス」は実に珍しく、「晦渋生硬」という作品に対する通念を破る開放的な演奏と言えるだろう。
極度の集中力や悲劇性を持つ音楽をたびたび奏でたケーゲルが、こんな穏和な演奏をしたこともあったのだ。
しかし、何度も聴いてゆくうちに、最初に聴いたときの印象と大分変わってきたところである。
鑑賞が数回目となってくると、晩年の凄みのある厳しいアプローチのケーゲルが顔を覗かせるのである。
歌手陣がのびのびと、しかも真摯に取り組んでいるのが凄みを伴って迫ってきて、この曲を全ての演奏者が心を込めて取り組んでいるのがヒシヒシと伝わってくるのである。
それにしても合唱には酷な作品であり、職人技よりは芸術家の理想を追究したベートーヴェンの面目躍如、素人合唱団には手に負えない作品であろう。
ケーゲルは合唱指揮者からキャリアをスタートしただけに、合唱の扱いに長けた指揮者であることが明らかであり、合唱の取扱いも厳格なだけに留まらず、分厚いハーモニーを紡ぎだすことに成功している。
『グローリア』冒頭からの合唱、特にテノールと金管の絡みの素晴らしさは、楽天的ではない、ほんとうに肯定的な力強さが全開しており、筆者はこの『グローリア』に一番感銘を受けた。
聴いていて難しい曲とは感じさせないし、その精妙なつくりにも感嘆させられるが、それはおそらく、演奏の巧みさゆえだろう。
この曲を好きな者にとっては、聴けば聴くほど深みを増してくる名演である。
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2015年03月15日
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「第4」の表現はきわめてフルトヴェングラー色が濃く、まことにデモーニッシュの極みと言えよう。
第1楽章の導入部からして、他の指揮者とはまるで違う雰囲気にあふれ、特に目立つのはチェロとバスの動きを強く生かした点であろう。
導入部が終わりに近づくと、いよいよ来るべきものを予感させるようなリタルダンドが掛かり、猛烈なクレッシェンドとテヌート、および狂気じみたティンパニの強打が、ものものしくもドラマティックな効果を上げる。
まさにフルトヴェングラーならではというところだ。
主部のアレグロ・ヴィヴァーチェは遅いテンポで始まるが、次第にアッチェレランドし、相変わらずティンパニを強打しつつ、スピード感と気迫に満ちた進行を示す。
第2主題の木管の掛け合いではテンポを大きく落とし、一息つきながら美しく歌わせるが、確かにここで遅くするのは曲想にぴったり合致しており、フルトヴェングラー・ファンを泣かせる原因ではあるものの、彼の表現が大好きな筆者でさえ、いささかの疑問を感じないではない。
それは1つには「第4」という音楽がこれほど大きな起伏を必要とする曲かどうか、という問題にも関わってくるのである。
ベートーヴェンの「第1」「第2」「第4」などを、ハイドンやモーツァルトの延長として、こぢんまりと指揮することには反対である。
これはあくまでもベートーヴェンだからだ。
しかし、これら3曲が、「エロイカ」「第5」「第7」「第9」などと違うのもまた事実である。
内容はともかくとしても、規模が異なる。
したがって、こぢんまりとさせてはいけないが、そこに自ずから限度が出てこよう。
ところが、フルトヴェングラーはそんなことには一切頓着しておらず、馬鹿でかいスケールとはちきれれるような内容をもって、世界の苦悩を一身に背負った表現を、誰はばかることなく行っているのだ。
これを戦時下という時代のせいにしてはならないであろうし、芸術の根本とは本来このようにあるべきなのだ。
「第4」の場合、確かに疑問は残るが、フルトヴェングラーにとって、これ以外に自分の生きる道はなく、妥協すれば彼も死に、ひいては音楽自体も死んでしまう。
だから正直に、感じた通り行うことだけが、芸術家としての彼の真実となり得るのである。
いかにもフルトヴェングラーらしいのは、展開部の終わり、弱音の部分で、これ以上テンポを落とせば止まってしまいそうに遅くしていることだが、実際に客席に居るならばともかく、CDで聴く限り、造型を崩し、いくぶん思わせぶりな感がするのは否めない。
しかしコーダはすばらしい迫力である。
第2楽章の遅いテンポと粘ったリズムも、フルトヴェングラー以外の何ものでもあるまい。
血が通った、有機的な表現で、盛り上がりのスケール雄大な凄まじさなど見事だが、部分的にかなりもたれ、ついてゆけない人も多いことだろう。
スケルツォも構えの大きさと気迫の烈しさにおいて際立っているが、絶品というべきはフィナーレである。
速めのテンポと推進するリズムから、物凄いエネルギーが噴出し、旋律は思い切って歌われる。
あたかもひた寄せる大奔流のようで、コーダに入る前の、人間業とも思えぬスフォルツァンドと凄絶な和音の生かし方が、「第4」全体を見事に締めくくる。
第1、第2の両楽章は、フルトヴェングラーのレコードの中で、造型面においてベストとは言えないと思うが、このフィナーレだけは最高の出来映えと絶賛されよう。
一方、「コリオラン」序曲は、フルトヴェングラーの劇的表現がぴたりとはまり、彼の数多いディスクの中でも最高の出来映えの1つであろう。
その異常な緊張感と鬼気迫るような迫力、ドラマティックな訴えは見事で、ことに冒頭とコーダにおけるティンパニの最強打が凄まじい。
第2主題のテンポの落とし方も効いており、ことにコーダにおけるそれは、哀しい音色といい、ピアニッシモの生かし方といい、後ろ髪を引かれるような、おずおずとした運びが何とも言えない。
最近はこの第2主題でテンポを落とさない指揮者が増えてきたが、それではこのテーマの意味は生かし得ないだろう。
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バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータは、作曲されてから約300年が経っているにもかかわらず、今なお世界のヴァイオリニストが弾きこなすのを究極の目標とするというのは殆ど驚異である。
しかも、無伴奏のヴァイオリン曲という分野でも、このバッハの曲を超える作品は未だに存在しておらず、おそらくは、今後とも未来永劫、無伴奏のヴァイオリン曲の最高峰に君臨する至高の作品であり続けるものと思われる。
1つの楽器に可能な限り有効な音を詰め込み、表現の極限に挑戦したバッハの意欲的な創作と、調性による曲の性格の違いを明確に描かなければならない難曲でもある。
そのような超名曲だけに、古今東西の著名なヴァイオリニストによって、これまで数多くの名演が生み出されてきた。
そのような千軍万馬の兵たちの中で、ミルシテイン盤はどのような特徴があるのだろうか。
本盤は、ミルシテインにとって最初の録音であるが、先ず特筆すべきは、超人的な名人芸ということになるだろう。
圧倒的な技巧と表現力で演奏された無伴奏で、実に鮮やかとも言うべき抜群のテクニックである。
肉付きの良い音色が、完全に削ぎ落とされ、ソリッドな表現となって聴き手を突き刺す。
もちろん、卓越した技量を全面に打ち出した演奏としてはハイフェッツ盤が掲げられるが、ミルシテインは、技量だけを追求するのではなく、ロマン的とも言うべき独特の詩情に溢れているのが素晴らしい。
非常に快速なテンポで弾き進められて行くが、卓越した技巧に支えられた音色は美しく格調高い。
非人間的な音は1音たりとも発することはなく、どの箇所をとっても、ニュアンス豊かで、詩情豊かな表情づけがなされているのが見事である。
美音と歌心を主体とする優美な演奏のようにも聴こえるが、現代楽器を使用したシャコンヌの変奏の極めつけ。
現代楽器で30の変奏を完璧に描きわけ、かつ主題、動機の変形、装飾音、バスを見事に弾き分けている。
流麗な和声に溺れる「安いバッハ」とは次元が全く違い、「この部分は精神的に」などと戯けたことを発想するレベルでは全く理解不能な音楽で全く見事。
「美しい」という言葉が見当違いと思えるほどあらゆる要素を厳しく追い込んでおり、音の揺れ1つにすら意味がある。
思い入れたっぷりに弾かれた無伴奏より数段楽しめるし、ケーテン時代の作風やそれまでの無伴奏の伝統を考えればミルシテインの方が本来ではないかと思えるのである。
最近話題になったクレーメルによる先鋭的な名演などに比較すると、いかにも旧スタイルの演奏とも言えるが、このような人間的なぬくもりに満ち溢れた名演は、現代においても、そして現代にこそ十分に存在価値があるものと考える。
比類なき技巧と音色美、精神的な深さが見事に同居した稀有のアルバムと言えよう。
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スクロヴァチェフスキは、ブルックナーの交響曲第7番については、DVD作品を含めて、既に4種ものレコーディングを行っているなど、自家薬篭中のものとしているところである。
本演奏は、現時点においては最新の5度目のレコーディングに相当するが、何よりも演奏時間が5種の演奏の中で最も長くなっており、とりわけ、これまで比較的速めのテンポで演奏することが多かった第3楽章及び終楽章のテンポがややゆったりとしたより重厚なものとなっているのが特徴である。
第1楽章は、ゆったりとしたテンポに乗って奏されるチェロの音色が実に美しく、ヴァイオリンのトレモロとのバランスも見事である。
ヴァイオリンから受け渡される低弦によるトレモロの刻み方も味わい深く、この冒頭部分だけでも全体を包み込むような深い呼吸を有したスケール雄大さを誇っており、抗し難い魅力に満ち溢れている。
その後も、各旋律を陰影豊かに美しく歌わせる一方で、各楽器セクションの響かせ方は常に明晰さを保って透明感を確保するなど美しさの極みであり、木管楽器やホルンの音色の1つ1つに意味深さがある。
時として、テンポを落としてフレーズの終わりでリテヌートをかけるなど、音楽の流れに明確な抑揚があるのも素晴らしい。
コーダ直前の底知れぬ深みを感じさせる演奏や、コーダの悠揚迫らぬ堂に入った表現もスケール雄大である。
それにしても、ロンドン・フィルの充実した響きには出色のものがあり、とりわけブラスセクションや木管楽器の優秀さには舌を巻くほどである。
第2楽章は、冒頭のワーグナー・テューバの奥深い響きと弦楽合奏のバランスの良い響かせ方からして惹き込まれてしまう。
ゆったりとしたテンポで、1音1音を確かめるような曲想の運びであり、時には止まりそうになるほどであるが、しみじみとした奥深い情感豊かさは、これまでの4種の演奏を大きく凌駕していると言えるだろう。
同楽章において、一部の指揮者は、全体の造型を弛緩させないために、強弱の変化やアッチェレランドを施して冗長さに陥るのを避けているが、本演奏においては、そのような小細工は一切弄しておらず、あくまでもインテンポを基調とした直球勝負の正攻法のアプローチで一貫しており、我々聴き手は、紡ぎ出される情感豊かな美しい音楽の滔々たる流れにただただ身を委ねるのみである。
例によって、スクロヴァチェフスキは、本演奏においても、ノヴァーク版に依拠しつつ、頂点においては、ティンパニを一発目の強打の後は徐々に音量を絞っていくという独自のバージョンによる演奏を展開しているが、賑々しさを避けているのは本演奏の性格からしても至当である。
その後のワーグナー・テューバやホルンの演奏の意味深さ、フルートの抑揚の付いた吹き方など実に感動的で、いつまでも本演奏が醸し出す奥深い美の世界に浸っていたいと思わせるほどである。
第3楽章は、前後半は、中庸の落ち着いたテンポによる演奏であり、これまでの4種の演奏よりも重厚さが際立っている。
ここでも、ロンドン・フィルのブラスセクションの充実した響きが実に魅力的である。
トリオは、ややテンポを落として情感豊かに歌い上げているが、各フレーズの表情付けの巧さは、もはや神業の領域に達していると言っても過言ではあるまい。
終楽章は、冒頭はやや速めのテンポでひそやかに開始されるが、その後はテンポを落として、落ち着いた足取りによる演奏が展開される。
ブラスセクションと弦楽合奏のバランス良い鳴らし方も巧みであり、重厚さにもいささかも不足はない。
随所においてテンポを落としてホルンによる意味深いコラールを響かせたり、ブラスセクションの咆哮にリテヌートを施したりするなど、これまでの4種の演奏と比較して表情の起伏が大きくなったようにも思われるが、それがむしろ功を奏しており、同曲の弱点でもある終楽章のスケールの小ささを微塵も感じさせないのは見事という他はない。
そして、コーダにおいては、微動だにしない荘重なテンポによる威容に満ちた壮麗なクライマックスを築き上げて圧倒的な高揚のうちに全曲を締め括っている。
なお、演奏終了後の拍手は収録されていない。
いずれにしても、本演奏は、スクロヴァチェフスキの5種ある演奏の中でも最も優れた演奏であり、同曲の演奏の掉尾を飾るのに相応しい至高の超名演と高く評価したいと考える。
音質も、各楽器セクションが明瞭に分離するなど、素晴らしく鮮明なものと評価しておきたい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2015年03月14日
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本盤に収められたブルックナーの交響曲第5番(カップリングは、シューベルトの交響曲第8番「未完成」)の演奏は、オットー・クレンペラーがニュー・フィルハーモニア管弦楽団とともに、1967年3月、ロンドンのロイヤルフェスティバルホールにて行ったコンサートのライヴ録音。
クレンペラーによる同曲の演奏のレコーディングとしては、あらゆる意味において完成度の高い同年のスタジオ録音の演奏と、巨大なスケールと剛毅な曲想の運びの中にもウィーン・フィルの美演の魅力、そして実演ならではの気迫や緊張感を有した1968年のウィーン・フィルとの演奏(ライヴ録音)が存在している。
加えて、それら両演奏がステレオ録音であることに鑑みれば、モノラル録音である本演奏は不利な条件にあると言わざるを得ないが、そうした不利な条件などものともしない偉大な名演奏に仕上がっていると言えるところだ。
それにしても、第1楽章の何物にも揺り動かされることのないゆったりとしたテンポによる威容に満ちた曲想の運びを何と表現すればいいのであろうか。
どこをとってもいささかも隙間風の吹かない重厚さと深い呼吸に満ち溢れている。
ブラスセクションの強奏などもややゴツゴツしていて剛毅ささえ感じさせるが、それでいて音楽が停滞することなく滔々と流れていくのが素晴らしい。
第2楽章は、クレンペラーとしては、決して遅すぎないテンポによる演奏であるが、木管楽器の活かし方など実に味わい深いものがあり、厚みのある弦楽合奏の彫りの深さ、格調の高さには出色のものがある。
後半のブラスセクションがやや直線的で武骨さを感じさせるのは好みが分かれると思われるが、いたずらに洗練された無内容な演奏よりはよほど優れていると言えるだろう。
第3楽章は中庸のテンポを基調としているが、ブラスセクションの抉りの凄さや弦楽合奏と木管楽器のいじらしい絡み方など、クレンペラーの個性的かつ崇高な指揮芸術が全開である。
トリオは一転してやや遅めのテンポで味わい深さを演出しているのも実に巧妙である。
終楽章は、第1楽章と同様に悠揚迫らぬ荘重な曲想の展開が際立っており、低弦やティンパニの強靭さ、そして抉りの効いたブラスセクションの咆哮など、凄まじさの限りである。
そして、こうした演奏を基調としつつ、輻輳するフーガを微動だにしない荘重なテンポで明瞭に紐解いていく峻厳とも言うべき指揮芸術には、ただただ圧倒されるほかはなく、コーダの壮大な迫力にはもはや評価する言葉が追い付かないほどだ。
いずれにしても、本演奏は、クレンペラーの偉大な指揮芸術の凄さを堪能することができるとともに、クレンペラーによる同曲の名演とされている同年のスタジオ録音の演奏や、翌年のウィーン・フィルとの演奏と同格の至高の超名演と高く評価したいと考える。
カップリングのシューベルトの交響曲第8番「未完成」の演奏も、木管楽器が活躍する交響曲であることもあってクレンペラー得意のレパートリーであり、翌年のウィーン・フィルとの演奏(ライヴ録音)や、前年のバイエルン放送交響楽団との演奏(ライヴ録音)など、強力なライバルが目白押しである。
もっとも、本演奏は、ブルックナーの交響曲第5番の演奏よりもより鮮明な音質で捉えられていることもあって、音質面においてもそれら両演奏と殆ど遜色がないところであり、悠揚迫らぬ曲想の運び方、木管楽器の絶妙な活かし方、スケールの雄大さなど、これ以上は求め得ないほどの至高の高みに聳えたつ超名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。
前述の両演奏との優劣の比較は困難を極めるが、筆者としては三者同格の超名演としておきたい。
音質は、前述のようにモノラル録音ではあるが、テープヒスさえ気にならなければ、1967年のライヴ録音にしては比較的聴きやすい良好なものと評価したい(ブルックナーの交響曲第5番については、ピッチが不安定な箇所が散見されるように感じたが、鑑賞には特段の支障はないと思われる)。
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ピアニストとして唯一“サー”の称号を与えられたクリフォード・カーゾン(1907〜82)は、イギリス出身でシュナーベルに師事、欧米で偉大なピアニストとして尊敬を集めた。
カーゾンはジョージ・セルが敬意を払ったただ1人のピアニストだけあって、技巧の誇張や表現の虚飾の微塵もない格調高い音楽を聴かせた。
磨かれた音の美しさとタッチの絶妙さと相俟って、(先生の)シュナーベルから学びとった造型とロジックが、しっかりとした骨格を与えている。
カーゾンには“シュナーベルのような”重厚で堅固なベートーヴェンやブラームスの演奏を期待させた。
だがカーゾンは、むしろシューベルトをひっそり弾くことに喜びを感じるようなピアニストであった。
こだわりの人ゆえに録音が少ないのだが、その希有なまでに気品あるピアニズムが聴けるのはありがたい。
両曲とも第1ヴァイオリンはボスコフスキーであるが、ウィーン・フィルの面々との相性もぴったりで、古き佳き時代のウィーンを偲ばせる、馥郁たるロマンを湛えた演奏で、優雅で風格ある演奏を聴かせてくれる。
まずは春のきらきらした光に包まれた《ます》が素敵で、清流のごときカーゾンのピアノと感興あふれるウィーンの弦が絡み合い、5月の森の生き物たちが生き生きと喜びを発しているかのようだ。
ともすればシューベルトを優美なリリシズムでロマン的に歌い過ぎる傾向のなくもないボスコフスキーらウィーンの演奏家たちに対して、カーゾンのピアノが、素朴と言っても過言ではないほどストレートに、シューベルト若き日の思いを落ち着いたテンポに乗せて展開する。
真ん中のスケルツォ楽章がきびきびと輝きにあふれたリズムが演奏に活力を加えるのも興味深いアンサンブルとなっている。
それを挟む第2楽章アンダンテ、第4楽章の《ます》の主題による変奏曲はきめ細かく歌い、カーゾンとボスコフスキーの妙技が楽しめる。
さらに両端楽章では華美を抑えぎみに若きシューベルトらしい素朴なリリシズムを浮かび上がらせる。
録音でもピアノを中心に弦が左右に配列されているが、ステレオ感の強調を避けて、全体のまとまりを重視した“渋い”仕上がり。
一方ドヴォルザーク円熟期の力作は、親しみやすい民族色と初々しい感情の輝きがあって、一篇の感傷詩集をひもとくような魅力があり、ドゥムカによる第2楽章など忘れられない美しさだ。
演奏もこぼれるような歌の心と豊かなリリシズムの息づかいにあふれ、しっとりとした情感と優美な歌が美しい。
カーゾンのピアノは作品の核心に肉薄していく力強さと底光りのする美しさがあり、まさに一家言をもつ大家の至芸と言えよう。
カーゾンの一見控えめだが様式的に隙のない知的なピアニズムを、やはり第1ヴァイオリンのボスコフスキー以下の弦が、ウィーン風のしなやかな奏法と響きで、心から尊重するかのように歌い奏し合う優雅なアンサンブルに、独自の風格を作り出している。
そして表情の移り変わりへの感受性豊かな対応、スケルツォ楽章は魔法のような色彩変化の連続だ。
ウィーン・フィルの首席メンバーのアンサンブルが演奏全体に甘美な憩いを添えた名盤であり、抗し難い吸引力で聴き手を虜にする。
各楽器の分離よりも響きのバランスを整えたロンドン/デッカ方式のこれは典型的録音の1つ。
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第4番は、1969年3月4日、第1番は、1982年4月6日のそれぞれ、ステレオ・ライヴ録音。
第1番は恐らく唯一の演奏機会と思われるが、1980年代のケーゲルらしいスケール雄大でロマン主義色濃厚な名演で、極めて遅いテンポが採用されている。
第4番は、エテルナにもスタジオ録音を遺したレパートリーで、ケーゲルはシベリウスの交響曲の中でもこの曲だけは愛奏していた模様であり、陰陰滅滅で不気味な暗さで透徹した名演として知られていたが、こちらはライヴゆえに緊張感が尋常でない。
ケーゲルの「第4」はきわめて異色なシベリウスと言えるが、最高傑作と評される同曲をこれほど深く読み、全身で受け止めた演奏は珍しい。
シベリウスは指揮者を選ぶとはよく言われることだが、「シベリウスのムード」という共同幻想によって評価されている気がする。
もっとも音楽を楽しむのに幻想は大いに結構であり、何ら非難されるべきではない。
以上を踏まえたうえで、ケーゲルよりもオーソドックスとされる演奏はいくつかある。
世評が高いのはベルグルンド、ネーメ・ヤルヴィ、サラステ、セーゲルスタム、アシュケナージあたりだろうが、ベルグルンドが最もスタンダードかもしれない。
これはその通りだと思うし、いずれのシベリウスも美しく、大いに楽しめる。
ケーゲルの演奏は、確かに聴き方によっては「際物」、あるいは異端的なシベリウスだ。
今まで抱いていた簡潔で軽やかなリズムのシベリウスはここでは全く感じられず、ここにあるのは、きわめて重厚骨大なシべリウスであり、耳が慣れてくるとそれなりに説得力がある。
鑑賞を重ねるうちに次第に、固定観念化されたシべリウス観を抱いていたことを気付かせられる、そういう演奏である。
このシべリウスも、あるいはこのシべリウスが、紛れもなく本物のシベリウスであると考えられてくる。
正直言って、筆者はこの演奏によって初めて聴き応えのあるシべリウスに出会えた。
従来のよどみなく流れる川の流れような美しいシべリウスが遠のいて、岸に大小の荒波が次々と打ち寄せるかのようなゴツゴツとした立体感のあるシべリウスがここにはある。
この「第4」は、シべリウスの悲愴交響曲の趣であり、この曲の作曲時、シべリウスは健康に問題を抱え苦悩の情況にあったと聞く。
全てに暗い演奏のイメージが先行しがちであるが、「第1」の方は「第4」に較べればそれは感じられず、力強い躍動感がある。
「第4」は、曲想の難解さに加えて、演奏自体も一回だけの鑑賞だけでは理解しにくい難解な演奏であるが、両曲の演奏とも何度聴いても手応えを感じさせるものがある。
これはひょっとすると残念なことなのかもしれないが、スタンダードなベルグルンドやサラステでは少し物足りなく感じているのに気付く。
特に「第4」については、この曲が交響曲史上、最高傑作の1つであることの重みをいかんなく示す素晴らしい演奏であり、陰影が深く、異様な妖しさが漂う。
大自然の音楽というよりはおどろおどろしい「因業」な音楽のようにも聴こえる。
そして何故かスタンダードな演奏を沢山聴いた後では、ケーゲル盤が忘れがたいのだ。
これを聴いたため、他の指揮者による演奏が耳に軽く響いて物足りない。
この「第4」は、ファーストチョイスかどうかはともかく、シベリウスを愛する者にとっては聴くべき価値のあるものだと信じている。
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2015年03月13日
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世界的にブルックナー指揮者として高い評価を得ている“ミスターS”ことスクロヴァチェフスキの魅力を堪能できる1枚。
本盤に収められたブルックナーの後期作品は、大曲ゆえに映像タイトルがあまり多くなく、カラヤンとブーレーズのウィーン・フィルとの録音盤(DVD)以降、長らく新タイトルの登場を待ち望んでいた作品であるが、そんな長年の「渇望」を一気に癒してくれたのがこのBlu-ray名盤であった。
まずはライヴ盤だけに演奏に多少のキズはあるものの、日本のオケがここまで完成度の高いブルックナーを披露したことに賞賛を贈りたい。
スクロヴァチェフスキの年齢を考えれば、間違いなく貴重な記録となる作品であるが、それだけにとどまらず、演奏自体も十二分に聴き応えがある。
今や、ドイツものの重厚なシンフォニーに限って言えば、読売日本交響楽団が日本のトップと言って良いかもしれないと思ったほどである。
まさか日本のオケがここまで完璧にブルックナーの神髄に迫る演奏を聴かせてくれるとは、まったく想像すらできなかった。
しかも、録り直しなしの「一発ライヴ録音」でこの演奏水準を出せたということが二重の驚きだ。
日本のオケの演奏技術が向上したというのもあるのだろうが、綿密なリハーサルの積み重ねと共に、指揮者スクロヴァチェフスキの統率力、即ちタクトの力が大きいのであろう。
音響の諸相を明晰に、魔境を鮮烈に「映し出す」驚異の職人芸、あくなき芸術的探究心と覇気を掲げた老匠の指揮に、懸命に応えるオーケストラ。
マエストロの至芸、渾身の演奏、スケール感という、いつもの褒め言葉で事足りるブルックナーではない。
指揮者の精緻な「こだわり」が生きた、壮絶かつ豊穣な音楽づくりであり、ライヴの凄み、ここに極まる、と評したい。
ここに聴く、観るブルックナーは、いずれも音の巨大な塊が押し寄せてくる、モノクロームのブルックナーではなく、巨匠がこれまでの歩みを振り返り、感慨にふけった演奏でもない。
ここぞという場面での、剛毅さ、決然とした運び、創りに驚き、響きの美しき綾に酔いしれる。
そんなスクロヴァチェフスキの秘技をも、カメラは捉えた。
マエストロの好きな言葉「音楽の律動」を目の当たりにすることも出来る、画期的なライヴ映像の誕生だ。
ザールブリュッケン放送交響楽団とのスタジオ録音も良い演奏であったが、今回の演奏はそれを技術と音の美しさで凌ぐ名演中の名演である。
加えてBlu-rayならではの映像の美しさ、さらに、奏者を的確に捉える画面構成と、指揮者の解釈をも映像に反映した映像チームの力量は、NHKの番組をも凌駕するものと言えるだろう。
ぜひ来日オケや、サイトウ・キネンなどもこのチームに作って欲しいと願ってしまう。
また、5.1chサラウンドの効果も目覚ましいものがあり、響きも楽しく、がっしりとした低弦群の土台の上に、美しい中高弦楽器群と管楽器のサウンドが重なり、えも言われぬ美しい音の「ピラミッド」が形成される。
演奏時は違和感なく演奏に集中でき、カーテンコールではより臨場感を持って体感することが出来た。
スクロヴァチェフスキが80歳半ばを過ぎてなお、その指揮芸術がますます深化していることを十二分に窺い知ることが可能であると言えるところだ。
また、大曲2曲で1枚ということを考えれば、価格も良心的と言って良いと思う。
スクロヴァチェフスキには、今後とも出来るだけ長生きしていただいて、ブルックナーの交響曲をできるだけ多く演奏・録音して欲しいと思っているクラシック音楽ファンは筆者だけではあるまい。
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2015年03月12日
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交響曲第8番は、1974年5月14日、交響曲第3番「英雄」は1975年9月2日のライヴ・ステレオ録音。
ケーゲルはドレスデン・フィルとベートーヴェン:交響曲全集を完成しているが、こちらのライヴはケーゲルらしい厳正なリズム運びと躍動感が同居する名演として名高い。
今回の「第8」は、たたみかけるようなリズム満載で、第1楽章の第1主題部分が特に凄い。
初めは大人しく聴こえるが徐々に調子を上げて展開部に至るころにはトスカニーニもびっくりの激しさを持つに至っている。
機械的とすら言ってもいい激しさで、ここまで切れ味鋭いテンポで、なおかつ粗雑にならずにこの部分を演奏した例はおそらく皆無であろう。
筆者はこの演奏を聴いてこの曲が「第7」以上の激しさを持った楽曲であるという認識を持つに至った。
しかしその激しさは第2楽章以降では鳴りを潜め、第3楽章のテンポ・ディ・メヌエットでは緩やかでありながら言い切りの良いテンポで、音楽が緊張感を失わずに前進していく。
細部がよく聴こえる録音と相俟ってケーゲルがこの部分で表現したかったであろうベートーヴェンらしいユーモアや、爽やかな感覚といったものがひしひしと伝わってくる。
筆者はこの部分を聴きながら、春の日差しの中、ゆっくり散歩しながら印象深い思い出(あるいは歴史)を回想しているといったようなイメージが浮かんできてしまった。
そういう意味ではやはりベートーヴェンはいくら激しさを持ち合わせているといっても「田園」を書いた作曲家、自然に範を求めることが多かったのだ。
ある意味ケーゲルらしくないことだが、聴いていてとても心が落ち着いてくる。
そしてなんといってもこの演奏の白眉、クライマックスである第4楽章を聴いて度肝を抜かれた。
第1楽章での激しさが戻ってきて圧倒的な迫力でもって聴き手に迫ってきて素晴らしく、まさしくケーゲルの本気を聴ける。
確かにライプツィヒ放送交響楽団の的確なティンパニ、弦楽器の充実は今に始まったことではないが、ケーゲルの指揮はそれを見事に調和させ、各声部に最大限の仕事をさせている点で素晴らしいのだ。
テンポ設定ひとつとっても筆者にはこれ以上正確な演奏は思いつかない。
こう書くとクールな演奏のようだが、ケーゲルが、作曲者がこの曲で言いたかったと考える要素は余すところなく伝わってくる。
この楽章だけはそれで十分なのだ。
それでも聴く者は否が応でも高揚感を掻き立てられ、生で聴いたら間違いなく曲が終わっても感動でしばらく席から立ち上がれなかっただろう。
音質もライヴとはとても思えないぐらい鮮明で、この演奏の持つ壮大なスケール、感情表現の振り幅の大きさが堪能できる。
「エロイカ」は、直球勝負の大変な推進力のある演奏であるが、繊細なニュアンスにも富んでいる。
古典的スタイルを限界まで堀り下げたような解釈の深さを感じさせ、繰り返し聴いても飽きさせることがなく、同曲に新しい発見をいくつももたらす内容の深さがある。
第2楽章などは、テンポをかなり落して葬送行進曲を、というよりは、聴き手を深いクライマックスへ誘導してゆく。
特に新鮮だったのは、終楽章であり、展開がドラマティックで、この演奏で初めて終楽章の存在意義を感じさせられた。
ライヴであるとはいえ、セッション録音かと錯覚させるほどの構築性を感じさせられる。
朝比奈隆&ベルリン・ドイツ交響楽団の淡々としながら熱気を帯びている「エロイカ」とはまた趣きの全く異なるケーゲルのまことに懐の深い「エロイカ」である。
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2015年03月11日
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ショルティは、近年のワーグナー指揮者の中では、カラヤンとともに頭抜けた存在であり、他に比肩するもののない業績の豊かさを思わせている。
そこにある完璧とも言える音楽分析と深い理念に裏付けられたワーグナー観は、ショルティが常に最も信頼し得るワーグナー指揮者のひとりであったことを疑わせる余地はない。
特に、1950年代後半から60年代前半に録音した「ニーベルングの指環」の全曲盤は、燦然と輝く歴史的名盤であり、同曲のベスト盤として、圧倒的な評価を受けているが、ショルティの若い時代の悪癖である、やや力づくの演奏も見られるなど、問題点がないわけではなかった。
そんなショルティが、同じオケと同じ録音場所で、1982年、彼が70歳時に、「ニーベルングの指環」4部作のオーケストラ・パートの名曲の抜粋盤として再録音したのが、このCDである。
本盤は、あれから20年後の録音ということもあり、角がすっかりとれた円熟の名演に仕上がっている。
テンポ設定も実に落ち着いたものとなっており、ゆったりとした気持ちで、ワーグナーの音楽の素晴らしさを満喫することができる。
冒頭の「ヴァルキューレの騎行」は、「ジークフリートの葬送行進曲」とともに、所謂ワーグナー管弦楽曲集での定番曲となっているが、最もショルティ向きの曲と言ってもよく、そのドラマティックで切れ味鋭い演奏は圧巻であり、これは、同曲のベストの演奏と言っても過言ではないだろう。
「ジークフリートの葬送行進曲」と「フィナーレ」については、ショルティの前記全曲盤での「神々のたそがれ」の演奏と比較して聴いてみたのだが、まず、「ジークフリートの葬送行進曲」のテンポが、極端に遅くなっているのに驚かされる。
テンポの遅さは、そのまま曲の掘り下げの深さに繋がっており、力で押し切る傾向のあった若き日の演奏と比べると、弱音部での木目細やかな表現力が際立っており、ショルティの変化、円熟を強く感じる。
「フィナーレ」は、ワーグナー管弦楽曲集では滅多に演奏されない曲だと思うが、「ニーベルングの指環」全曲の最後を飾るにふさわしい感動的な名曲であり、ショルティは、円熟の名人芸で、壮大なクライマックスから、美しくも物哀しい弱音部の旋律までを見事に描き分け、最後は、厳かに、全曲を締め括ってみせる。
ここでの曲目は、ショルティにとっては、それらがコンサート・レパートリーであると同時に、完全に手中にしているオペラ・レパートリーの一部であるということが、その演奏の内容をいっそう確かなものとしている。
もちろん、ウィーン・フィルの自発性も充分生かされているが、高い造形性と深い音楽表現に裏付けられた好演と言える。
ショルティはウィーン・フィルとはあまり相性が良くないと言われているが、この演奏に関しては「ニーベルングの指環」の抜粋盤ではあるが、全曲を長いと敬遠している人にとっても全曲を聴いてみたくなるような、力強さと美しさが堪能できるものとなっている。
音質も英デッカによるナチュラルな極上の名録音である。
ただ不満を1つ述べるとすれば、もう少し楽曲の収録を増やしてもらいたかったという点。
例えば、「神々のたそがれ」については、「夜明けとジークフリートのラインの旅」をなぜ録音しなかったのだろうか。
収録時間にも余裕があるだけに、やや物足りない気がするのは筆者だけであろうか。
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「第4」は、クレンペラーとしてはやや速めのインテンポによる演奏であるが、マーラーなどとは異なり、随所に見られる金管のアクセントの強烈さなど、若干の違和感を感じる箇所が散見されることは否めない。
他方、さすがと言えるような感動的な箇所も見られ、その意味で、功罪半ばする演奏ということが言えるかもしれない。
例えば、第3楽章を例にとると、ホルンによる第1主題を明瞭に演奏させているのは大正解であり、演奏によっては、ここを快速テンポで曖昧模糊に吹奏させている例もあり、それでは第3楽章の魅力が台無しになってしまう。
しかし、この第1主題の展開部に向けての盛り上がりがあまりにも大仰、特に、トランペットのアクセントがあまりにも強烈すぎて、朝比奈やヴァントの名演に接してきた者(もちろん、これらの演奏が絶対と言うつもりは毛頭ないが)からすると、どうしても違和感を感じてしまう。
トリオに入ると、テンポを少し落として抒情豊かな至芸を見せるが、ここは実に感動的で、クレンペラーの偉大さを感じる箇所だ。
このように、第3楽章1つをとってみても、評価がなかなか定めにくいのが正直なところである。
しかしながら、1960年代の初めという、ブルックナーがあまり一般に受容されていない時期に、これだけの水準の演奏を成し遂げたのは評価すべきであり、その意味において、本演奏を佳演と評価するには躊躇しない。
クレンペラーのブルックナーは、曲によって相性のいい曲とそうでない曲があるのではないだろうか。
剛毅で微動だにしないインテンポが、例えば、「第4」などの場合、強烈なアクセントなどもあって、若干の違和感を感じさせる演奏であったが、「第5」は、ブルックナーの交響曲の中でも最も男性的な、剛毅な性格の作品であるだけに、クレンペラーの演奏が悪かろうはずがない。
そればかりか、クレンペラーのブルックナーの交響曲の演奏中でも、この「第5」が随一の名演と評価すべきではないだろうか。
どの楽章も重量感溢れる、同曲に相応しい名演であるが、特に高く評価したいのは第3楽章と終楽章。
第3楽章は、まさに巨象の進軍であり、スケールも雄大で、この凄まじい迫力は、同曲に超名演を遺した朝比奈やヴァントと言えども一歩譲るだろう。
終楽章は、第3楽章をさらに上回る巨人の演奏であり、主部の踏みしめるような超スローテンポの演奏は、壮大なスケールであり、これだけのゆったりとしたテンポをとっても、全体的な造型にいささかの揺らぎもないのは、まさに巨匠クレンペラーの晩年の至芸の真骨頂と言えるだろう。
終結部の雄大さには、もはや評価する言葉が追いついてこない。
ブルックナーの「第6」は、壮麗にして剛毅な「第5」と、優美な「第7」に挟まれて、ずいぶんと目立たない存在である。
ブルックナーならではの美しい旋律と重厚さ、つまりは「第5」と「第7」を足して2で割ったような魅力に溢れた交響曲だけに、非常に惜しいことであると思う。
しかし、こうした「第6」の魅力は、ブルックナーを愛する巨匠には十分に伝わっており、ヨッフムや、最近ではヴァントや朝比奈などが、「第6」の素晴らしい名演を遺している。
クレンペラーもそうした「第6」を愛した巨匠の1人と言うことができるだろう。
レッグに、かつて録音を止められたことがあるという、いわくつきの曲でもあるが、それだけクレンペラーが、この「第6」に傾倒していたと言えるのではないだろうか。
演奏の性格は、他の交響曲へのアプローチとほとんど変わりがなく、剛毅にして重厚。
したがって、アクセントなどは相変わらずきついが、それでも、この「第6」の場合は、あまり気にならない。
同時期にヨッフムが「第6」の名演を遺しているが、ヨッフムのロマン派的な演奏とは全く対照的だ。
したがって、第2楽章など、もっと歌ってほしいと思う箇所も散見されるが、この曲の弱点とも言われる第3楽章や終楽章は、重量感溢れる演奏を展開しており、この両楽章については、ヨッフムと言えども太刀打ちできない雄大なスケールを誇っている。
ある意味では、ヴァントの演奏の先触れとも言える側面も有している。
いずれにせよ、本演奏は、クレンペラーの同曲への愛着に満ち溢れた壮麗な名演と評価したい。
剛毅で重厚なクレンペラーのアプローチと、ブルックナーの交響曲中で最も優美な「第7」の取り合わせは、どう見ても、なかなか噛み合わないのではないかと大いに危惧したが、聴き終えてそれは杞憂に終わった。
それどころか、途轍もない名演に仕上がっている。
第1楽章の冒頭からして、深沈たる深みのある演奏であり、随所で聴かれる美しい木管の響かせ方もクレンペラーならではのものだ。
第2楽章も崇高な演奏であり、決して低俗な抒情に流されることなく、格調の高さを失わない点はさすがと言うべきである。
第3楽章は、クレンペラーの剛毅で重厚な芸風に最も符号する楽章であり、テンポといい強弱の付け方といい、文句のつけようのない素晴らしさだ。
終楽章も、踏みしめるようなリズムなど重量感溢れる演奏であり、「第7」の欠点とも言われるスケールの小ささなど微塵も感じられない。
それにしても、クレンペラーが、このような優美な「第7」で名演を成し遂げるというのは実に不思議だ。
メンデルスゾーンの「スコットランド」や「真夏の夜の夢」などで名演を成し遂げたのと同様に、これは指揮界の七不思議と言ってもいいかもしれない。
「第8」は、実に惜しい。
第3楽章までは深みのある超弩級の名演なのに、終楽章に来て大きな問題点が発生する。
クレンペラーは、終楽章に大幅なカットを施しているのだ。
なぜ、このような恣意的な解釈を行うのであろうか。
おそらくは、長過ぎるとか冗長に過ぎると思ったのであろうが、仮にそのように思っていたとすれば、いささかきつい言い方かもしれないが、ブルックナーを指揮する資格はそもそもないとも言えるだろう。
ノヴァーク版が一般化しても、ブルックナーのスコアに記した音符をできるだけ忠実に再現したハース版を変わらずに信奉し続けたヴァントや朝比奈の演奏が高く評価される今日においては、きわめて奇異な解釈と言わざるを得ないだろう。
終楽章冒頭のテンポの入り方も深沈として実に味わい深いのに、大変惜しいことである。
これぞ諺に言う、「百日の説法屁一発」というものではないか。
第3楽章まで聴き終えて、超名演との評価は確実と思っていたのに、愕然とした次第である。
この終楽章のカットは、ブルックナーファンとしては、クレンペラーの偉大さを評価する者としても許しがたいという思いが強い。
クレンペラーのブルックナーでは、「第5」が最も優れた名演だと考えているが、それに次ぐのがこの「第9」だと思う。
というのも、クレンペラーの峻厳にして剛毅な芸風が、ブルックナーの「第5」や「第9」という硬派の交響曲の性格と合致するからだと考えられる。
この「第9」の録音はクレンペラーの死の3年前のものであるが、それだけに、ここにはクレンペラーが到達した至高・至純の境地が示されているとも言えるだろう。
第1楽章は、実に堂々たるインテンポであるが、剛毅にして重厚なアプローチが、これぞブルックナーという深みのある音楽を紐解いていき、時折見られる金管の強奏も、決して無機的には陥っていない。
第2楽章は、重量級の進軍を開始するが、特に、クレンペラーの特徴が表れているのは中間部のトリオの箇所。
ここの木管楽器の活かし方は実に美しく、これは、他の指揮者でもあまり聴かれないだけに貴重な解釈と言えるだろう。
終楽章は、第1楽章と同様のことが言えるが、展開部から、それまでのインテンポから一転して、ドラマティックな演出を試みている。
木管楽器の強調などやり過ぎの感は否めないが、それでも違和感を感じるほどではないのは、クレンペラーの同曲への深い愛着と理解の賜物と言うべきだろう。
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ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の名奏者達を揃え、指揮者カール・ベームがモーツァルトの豊かな音楽性を奏でる名録音盤。
モーツァルトの管楽器による協奏曲では、最近ではほとんど聴かれなくなった重厚さと高貴な優美さを兼ね備えた珠玉の名演である。
ああいい時代だなあ、という感慨がひとしおのアルバムで、ベーム&ウィーン・フィル、そしてウィーン・フィルの管楽器のトップたちによる管楽器の協奏曲のアルバムは、いつ聴いても幸せな気分にさせられてしまう。
ここには全盛を極めたベーム&ウィーン・フィルのモーツァルト・サウンドが目一杯つまっている。
ここでも、包みこんでくれるようなベームのバック・アップで、幸せな管楽器の歌が聴ける。
ベーム&ウィーン・フィルのバックは落ち着いた安定感があり、個人の名人芸ではなく各楽器の特性を最良なかたちで引き立たせているように感じる。
奇抜なことをしない分、音楽への寄り添い方が丁寧というか、音楽そのものに近いところにあり、余分なものもないし、足りないものもなく、だからこそ飽きがこない。
録音は1972〜73年というベームの最後の全盛期であり、その指揮は、モーツァルトを得意としたベームならではの厳しい造型の中にあっても柔軟性のある自然体のものであり、ウィーン・フィルも絶美の演奏を行っている。
ベームは容貌もいかめしいがその音楽も極めて厳格であり、モーツァルトの手による愉悦の音楽に取り組むときもその姿勢はいささかも傾かない。
完璧に制御されたテンポと音量バランス、そして生真面目な解釈で正面から楽譜に立ち向かう。
そして、何よりも、当時のウィーン・フィルの名うてのプレーヤーの極上の演奏が、これらの名演により一層の華を添える結果になっている。
プリンツやトレチェクはいかにもウィーンならではのクラリネット、オーボエだと思うし、ツェーマンの野太いファゴットもどこか温かみがあって実に感動的であり、いずれも伸び伸びと典雅で快活な曲想を表現している。
独奏の名演もさることながら、それを支えるウィーン・フィルの管楽器群の麗しさやベームのとるテンポの見事なこと。
これはまさにウィーンでしか出せない響きであり、このような演奏はもうできないのではないだろうか。
このディスク中白眉は何と言ってもクラリネット協奏曲であろう。
モーツァルトが最晩年に書いた傑作であり、優しく透明な旋律の中に静かな諦念と哀愁のたゆたう、稀有に複雑な表情を持った作品である。
ベームは繰り返される牧歌的な旋律を慈しむようにゆったりとしたテンポを取る。
ベームが敷いた最高級の絨毯の上で踊るのは往年の名手プリンツ。
クラリネットという楽器の最も澄み切った音色だけを慎重に選んだかのようなケレン味のない演奏は、この優しい音楽に限りなく相応しい。
なお、ベームらしくカッチリとした構築感が魅力的なオーボエ協奏曲とファゴット協奏曲もなかなか素敵だ。
これを聴いていると未曾有の不況も忘れ去り、自然に顔もほころんでくるかのようで、木管はやはりウィーン・フィルだ。
録音も素晴らしく、この3曲の最高の名演の1つと言っても過言ではないだろう。
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2015年03月10日
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全体的に、マーツァルとしては今一つの出来と言わざるを得ない。
チェコ・フィルの音色と楽曲がとてもよく合った美演であり、実に美しい演奏ということは言えるのではないかと思う。
しかし、ブラームスの「第4」は、果たして、このように美しいだけの演奏でいいのであろうか。
第1楽章は思い入れたっぷりに曲が進んで行くし、残りの3楽章も淡々とはせず、音色が何とも美しく、多彩な音色を引き出しているマーツァルは素晴らしい指揮者には違いない。
マーツァルは、オーケストラを無理なくバランスよく鳴らすことにおいては抜群の才能を発揮する指揮者であり、チェコ・フィルの圧倒的な技量や中欧のオーケストラならではのしっとりとした美音も相俟って、このような美演となったのであると思われる。
いわゆるドイツ正統派の名演とは異なり、マーツァルの演奏は、むしろ柔和なイメージであるが、軟弱な演奏かというとそうではない。
ブラームスの音楽の美しさを、オーケストラを無理なく鳴らすことによって、優美に仕立て上げるというマーツァル得意の名人芸が繰り広げられているのだ。
但し、それ故に、曲によって相性の良さが分かれる結果となっており、ブラームスの「第1」は、美しさと重厚さを併せ持ったなかなかの名演であると思ったが、この「第4」はいかにも軽量級の演奏だ。
美しくはあるが、どこかうわべだけの綺麗さといった趣きであり、ブラームスの交響曲の演奏に必要不可欠な重量感が大いに不足している。
つまり、今一つ楽曲への踏み込みが足りないのではないかと考えられるところであり、決して、凡演とは言えないが、マーツァルならば、もう一段上の彫りの深い演奏を行うことができたのではないだろうか。
要するに、本演奏は、いかにも内容に乏しいのである。
表面だけをなぞっただけの浅薄な演奏では、「第1」などでは問題点が表面化することはなかったとも言えるが、ブラームスの交響曲中、最も内容の深い「第4」については、とても水準以上の演奏を成し遂げることはできないということなのだと思う。
エクストンによる自然で心地よく量感豊かな優れたSACDによる極上の高音質録音が、ただただ虚しく聴こえるのも実に悲しい限りだ。
マーツァルは、マーラーやチャイコフスキー、ドヴォルザークでは、美しいだけではなく、盛り上がるところは自然に盛り上がり、心の内が熱くなるのを禁じえない感動があったと言えるところであり、筆者にとっては聴き込めば聴き込むほどに愛すべき宝物になったとも言えたところだ。
このような数々の素晴らしい名演を成し遂げているのに、ブラームスのようなドイツ正統派の音楽は、マーツァルには荷が重いのであろうか。
マーツァルならば、もっといい演奏が出来るのではないかと考えられるところであり、才能がある指揮者だけに、更なる自己研鑽が必要ということなのかもしれない。
チェコ・フィルは、見事な演奏を繰り広げており、とりわけ、中欧のオーケストラならではのしっとりとした美音が、演奏全体に適度の潤いと温もりを与えている点を忘れてはならない。
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アシュケナージによるNHK交響楽団とのチャイコフスキー交響曲全集の完結篇で、最後を飾るに相応しい秀演であると思う。
アシュケナージについては、一般大衆はともかくとして、いわゆるクラシック音楽の通を自認する者の評判が芳しくないのは事実である。
語り口が甘すぎるとか、表情付けだけは巧みであるとか、芸術家としての厳しさに欠けるなど。。。
確かに、そのような批判にも一理あるとは思うが、だからと言って、アシュケナージの指揮(あるいは演奏)する楽曲のすべてが凡演ということにはならないのではなかろうか。
例えば、ラフマニノフの名演奏。
交響曲などを指揮しても、ピアノ協奏曲を演奏しても、いずれも、トップの座を争うほどの名演を成し遂げているではないか。
少なくとも、ラフマニノフを指揮(演奏)する限りにおいては、アシュケナージはまぎれもない巨匠と言うことができると考えている。
次いで、筆者は、チャイコフスキーを採りたいと思う。
ピアノ協奏曲第1番の演奏では、既に名演を遺しているが、交響曲も、ムラがあるものの、曲によってはなかなかの演奏を行ってきていると言える。
本盤の「第5」も、もちろん、ムラヴィンスキーやカラヤンなどの高みには達してはいないものの、なかなかの佳演と言ってもいいのではなかろうか。
アシュケナージはNHK交響楽団の精緻なアンサンブル力を存分に生かして、自然な流れの中でチャイコフスキーの力強い響き、叙情的な歌を描き出している。
取り立てて指摘すべき強烈な個性があるわけではないが、オーケストラを巧くドライブして、チャイコフスキーの音楽の素晴らしさを余すことなく表現した嫌みのない演奏であり、よき中庸を得た佳演と言ったところではなかろうかと思う。
演奏のスタイルは、この曲にありがちな劇場型、熱血型ではなく、シンフォニックで端正な佇まいを示したものだ。
第1楽章の盛り上がる部分も、コントロールが利いていて、過度に色を示していない。
逆に言うと、踏み込みが浅いと感じられる面もあるだろうが、終結部のシンフォニックなバランス感覚はレベルが高い。
第2楽章、第3楽章ともメランコリーにのめり込むことのない運びである。
もっとも美しいのは終楽章で、やや速めのインテンポで弦の小刻みなニュアンスを消さない配慮がシックな色合いを呈する。
このようなアプローチの結果、楽曲のイメージはやや悲しみの領域にシフトしていると考えられる。
NHK交響楽団の熱演ぶりも素晴らしく、アシュケナージの同曲に対する確信と、そこに導かれるオーケストラの絶妙な機能美を聴き取ることのできる演奏である。
また、エクストンによるSACDマルチチャンネル録音であるという点も、本盤の価値を高めることに貢献している。
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2015年03月09日
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グールドの類稀なる才能を感じさせる圧倒的な名演集だ。
グールドと言えばその代名詞はバッハの鍵盤楽曲、そしてバッハの鍵盤楽曲と言えば、グールドの演奏がいの一番に念頭に浮かぶクラシック音楽ファンが多いと思われるが、今般、改めてグールドによる一連のバッハの鍵盤楽曲の演奏を聴くと、グールドとバッハの鍵盤楽曲との強固な結びつきを感じることが可能だ。
それにしても、本盤に収められたグールドのバッハは超個性的だ。
バッハは、難解な楽曲もあれば長大な楽曲もあるだけに、聴き手にいかに飽きさせずに聴かせるのかが必要となってくるが、グールドの演奏の場合は、次の楽想においてどのような解釈を施すのか、聴いていて常にワクワクさせてくれるという趣きがあり、難解さや長大さをいささかも聴き手に感じさせないという、いい意味での面白さ、そして斬新さが存在している。
もっとも、演奏の態様は個性的でありつつも、あくまでもバッハがスコアに記した音符を丁寧に紐解き、心を込めて弾くという基本的なスタイルがベースになっており、そのベースの上に、いわゆる「グールド節」とも称されるグールドならではの超個性的な解釈が施されていると言えるところだ。
そしてその心の込め方が尋常ならざる域に達していることもあり、随所にグールドの歌声が聴かれるのは、ゴルトベルク変奏曲をはじめとしたグールドによるバッハの鍵盤楽曲演奏の特色とも言えるだろう。
こうしたスタイルの演奏は、聴きようによっては、聴き手にあざとさを感じさせる危険性もないわけではないが、グールドのバッハの鍵盤楽曲の演奏の場合はそのようなことはなく、超個性的でありつつも豊かな芸術性をいささかも失っていないのが素晴らしい。
これは、グールドが前述のように緻密なスコア・リーディングに基づいてバッハの鍵盤楽曲の本質をしっかりと鷲掴みにするとともに、深い愛着を有しているからに他ならないのではないかと考えている。
グールドによるバッハの鍵盤楽曲の演奏は、オーソドックスな演奏とは到底言い難い超個性的な演奏と言えるところであるが、前述のように多くのクラシック音楽ファンが、バッハの鍵盤楽曲の演奏として第一に掲げるのがグールドの演奏とされているのが凄いと言えるところであり、様々なピアニストによるバッハの鍵盤楽曲の演奏の中でも圧倒的な存在感を有していると言えるだろう。
諸説はあると思うが、グールドの演奏によってバッハの鍵盤楽曲の新たな魅力がより一層引き出されることになったということは言えるのではないだろうか。
いずれにしても、本盤に収められたバッハの鍵盤楽曲の演奏は、グールドの類稀なる個性と芸術性が十二分に発揮された素晴らしい名演集と高く評価したいと考える。
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2015年03月08日
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名門チェコ・フィルに新時代の到来を告げるチャイコフスキーで、復活の狼煙を上げたのは、長い亡命生活の末祖国に帰り音楽監督に就任したマーツァル。
既にチャイコフスキーの番号付きの交響曲をすべて録音したマーツァルが、マンフレッド交響曲を録音したのは大変素晴らしいことであると思う。
番号付きの交響曲、特に、後期3大交響曲と比較すると、マンフレッド交響曲の録音点数はあまりにも低いし、チャイコフスキーの交響曲全集を録音した指揮者でも、このマンフレッド交響曲の録音をしない者が多く、作品の質の高さを考慮すれば大変残念なことである。
豊潤な音の流れに身を任せる快感とチャイコフスキーらしいメロディや楽器用法の仕掛けの数々は聴くほどに魅力的だ。
組曲と共にチャイコフスキーの作品の中ではディスクが少ないだけあって、大いに存在意義のある1枚と言うことができよう。
最近では、輸入盤ではあるが、ロシア風の民族色の濃いキタエンコによる名演が発売されたが、本盤のマーツァルの演奏は、それとは対照的な純音楽的な名演と言うことができる。
かと言ってマーツァルの演奏は、表面を整え洗練を求める現代の時流とは多分に異なっており、演奏は常に熱っぽく、その表現は素朴である。
マーツァルは、チャイコフスキーの他の交響曲や、マーラーの交響曲でもそうであるが、オーケストラを無理なく鳴らし、いわゆる良い意味でのオーソドックスな解釈を行っている。
マーツァルの音楽のテンションの高さは、少し前のめり気味のビートからもわかるだろう。
巨匠風の音楽を作るならもう少しゆったりとした間をとってもいいところでも、マーツァルはそんなことにかまわない。
随所に甘美なメロディが現れるが、そんなところでもマーツァルは、洗練よりも、自然な表現を好む。
大見得を切ったり、思わせぶりに歌ったりせず、音楽を前へ進めていき、そこからは、テンポの速さ遅さ以上に作品へのマーツァルの気持ちの強さが伝わってくる。
したがって、チャイコフスキーの傑作交響曲の魅力をダイレクトに味わうことができるのが最大の長所ということができる。
今回もこれまで同様に見事なバランス感覚と見事な読解能力によって、隅々まで構築された各楽章は必聴である。
同曲に、ロシア風のあくの強さを求める聴き手からすると、いささか物足りなさを感じさせるかもしれないが、これだけ楽曲の魅力を美しく、そしてストレートに表現してくれれば文句は言えまい。
チェコ・フィルも最高のパフォーマンスを示しており、チェコ・フィル独自の歌心とあたたかな音色がブレンドして、巨大な交響曲をさらに立体的に作り上げている。
緊密なアンサンブルからは腰を据えた厳しい練習の跡が窺えるが、土の薫りと現代感覚がほどよくブレンドされた佳演である。
マーツァルの素朴な音楽性は、チェコ・フィルだからこそ生かされているところが多いように思う。
SACDによる高音質録音も本盤の魅力の1つで、音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。
いずれにしても、マーツァル&チェコ・フィルによる美演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2015年03月07日
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1994年にガーディナーがウィーン・フィルを指揮して録音したレハールのオペレッタ「メリーウィドウ」の全曲盤。
レハール本人が1940年にウィーン・フィルとこのオペレッタの序曲を録音しているが、ウィーン・フィル演奏の全曲盤となると このCDが初めてではないだろうか。
「メリー・ウィドウ」は超有名曲だけに名演が多いが、ライバルであるカラヤンやマタチッチなどの同曲異演盤と比較した場合の本盤のアドバンテージは、何といってもウィーン・フィルを起用したことにあると思われる。
間違えば趣味が悪くなってしまいがちな「メリー・ウィドウ」を、ガーディナーとウィーン・フィルが、軽やかに、品良く、甘美に演奏している。
レハールの甘美な円舞曲の旋律をウィーン・フィルが演奏すると、高貴にして優美な魅力がより一層ひきたつことになる。
ルーペルト・シェトレの「舞台裏の神々」によると、ガーディナーとウィーン・フィルの関係は微妙(同書では指揮者名を明示していないが、文脈から十分に類推可能)であり、本盤もスタジオ録音だけに相当数の編集(つぎはぎ)が行われているものと拝察されるが、それでも収録された楽曲全体として、これだけの美演を披露されると文句のつけようがないではないか。
歌手陣も実に豪華な顔ぶれである。
ツェータ男爵役のターフェル、ハンナ役のステューダー、ヴァランシェンヌ役のバーバラ・ボニー、そしてダニロ伯爵役のスコウフスという主役四者に、現在望み得る最高の歌手を揃えたのが大きい。
これにカミーユ役のトローストを加えた五重唱は、あまりの美しさに思わずため息が出そうになる。
合唱には、いかにもガーディナーらしくモンテヴェルディ合唱団を活用しているが、これまた最高のパフォーマンスを示している。
オペレッタではなくオラトリオっぽいという批判もあるが、“ウィーン風”に頼らずに、サッパリとした現代風のラヴコメディとしても立派に通用する作品だということをこの録音が見事に証明している。
録音も非常に鮮明であり、「メリー・ウィドウ」の名演盤の1つとして高く評価したい。
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本盤の売りは、全盛期のシカゴ交響楽団の超絶的な技量とXRCDによる極上の高音質録音である。
シカゴ交響楽団と言えば、ショルティの時代におけるスーパー軍団ぶりが記憶に新しいところだ。
このコンビによる初録音となったマーラーの交響曲第5番を聴けばよくわかるが、ショルティがシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して間もない時期の録音であるにもかかわらず、一切のミスをしない鉄壁のアンサンブルや、各管楽セクションの超絶的な技量、そして金管楽器の大音量に度肝を抜かれたものであった。
ハーセスやクレヴェンジャーなどのスタープレイヤーが揃っていたこともあるが、それ以上にショルティの薫陶にも多大なものがあったと言えるのではないだろうか。
ただ、ショルティがかかるスーパー軍団を一から作り上げたというわけでなく、シカゴ交響楽団に既にそのような素地が出来上がっていたと言うべきであろう。
そして、その素地を作っていたのは、紛れもなくライナーであると考えられる。
それは、本盤に収められたベートーヴェンの「田園」の演奏を聴くとよくわかるはずだ。
オーケストラのアンサンブルの鉄壁さは言うに及ばず、金管楽器や木管楽器の力量も卓越したものがあり、ここぞという時の迫力(とりわけ第4楽章)も圧倒的である。
もっとも、ショルティ時代よりも演奏全体に艶やかさがあると言えるところであり、音楽性という意味では先輩ライナーの方に一日の長があると言えるだろう。
こうしたライナー指揮によるシカゴ交響楽団による素晴らしい演奏を完璧に捉えきったXRCDによる極上の高音質録音も素晴らしい。
さすがXRCDというべき解像度の高さで、よくもこれだけの音を半世紀も昔の録音から引き出し得たと思う。
低音域の迫力や高音域の伸び、なかんずく中音域の厚みなど、惚れ惚れするほどの超高音質である。
特に弦楽合奏の艶やかな響きには抗し難い魅力があり、とても今から50年以上前の録音とは思えないような鮮明さを誇っている。
改めて、XRCDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
以上は、本XRCD盤の長所について指摘したが、演奏自体は必ずしも深みのあるものではなく、その意味ではスコアに記された音符の表層を取り繕っただけの速めのテンポによる薄味ないささか外面的な演奏と酷評する聴き手も多いとも思われる。
もっとも、筆者としては、外面的な効果がより一層際立った第5番よりはかかるアプローチも比較的成功しているのではないかと考えており、前述のようなXRCDによる極上の高音質を加味すれば、本盤全体としては文句のつけようがない水準に達していると高く評価したいと考える。
ドラティやライナーといった欧州生まれでアメリカに渡り、当地のオーケストラを育て上げた指揮者を、我々は誤解していないだろうか。
彼らの音楽イコール・ステレオと思い込んでいる。
欧州系のモノ・プレスで聴けば、それまでオーディオファイルという化粧で見えなかった素顔を見る事が初めて出来る。
彼らも素の所ではしっかりした音楽を作っていた。
それが解らなかったのは単に売り手の思惑があっただけ。
改めて素顔を聴けばライナーもミュンシュに劣らず真面目な指揮者だった。
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2015年03月06日
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素晴らしい高音質CDだ。
XRCDとSHM−CDという、高音質アイテムの組み合わせによる理想的な媒体の登場であるが、正直言って、これほどまでの高音質とは聴く前にはとても信じられなかった。
1957年録音の音源がなぜここまでクリアーに鳴り響くのか。
管楽器の鳴り方がコンサートホールの実演ばりに綺麗なのは凄いとしか言いようがない。
下手なSACDよりもよほど素晴らしい音質に仕上がっており、これが1950年代後半の録音であるとは信じられないほどだ。
ビクターの音の「職人魂」が生み出した徹底的にこだわり抜いたマスタリングによるXRCDがさらにSHM−CD仕様になるとここまで凄いCDが出来上がることに感動を覚える。
トゥッティの箇所においては、さすがに音の古さを感じさせないわけではないが、その他の箇所においては、あたかも新録音のような鮮明さに唖然とするほどで、聴けば必ず驚愕すること間違いない。
録音機器の進歩により素人でもそこそこ音のいいCDが作れる時代になったが、1950年代のマスター音源がいかに時代の最先端を駆使した録音技術であったかがこのCDを聴けば確信できる。
コスト削減にしか興味のない現代の各CDレーベルは最新技術を持ちながらスタッフはほぼおざなりでCDを作成しているだけではないのか。
スタッフの技術と良い音楽を残したいという情熱があればCDはここまでできるのだということをこのCDは証明している。
演奏も素晴らしい。
というか、これほどまでの高音質であると、俄然、演奏内容も輝きを増すと言った方が正しいのかもしれない。
フランスの指揮者でありながら、ミュンシュのドイツ音楽は高く評価されていた。
その彼のベートーヴェン解釈を堪能できるアルバム。
ミュンシュは、独仏間で領土が何度も行き来したエルザス・ロートリンゲン州の州都であるストラスブールの出身であり、ドイツ系の人も多く住んでおり、そうしたこともあって、フランス音楽だけでなく、ドイツ音楽にも数々の名演を遺してきた。
特に、ブラームスなど、定評ある名演が多いが、本盤の「エロイカ」も凄い。
明るくたくましく、かつ立体的な響きが爽快で、オーケストラを開放的に鳴らし、壮大なスケールと情熱を併せ持ち、圧倒的なエネルギーに満ちている、ミュンシュならではの1枚。
ライヴ録音であるかのような生命力溢れる力演であり、それでいて、勢い一辺倒には陥らず、例えば第2楽章など、テンポを落として感動的に歌い抜くなど、内容豊かな演奏を繰り広げている。
当時の手兵のボストン交響楽団も実に巧く、その重厚な音色は、後年の小澤時代のものとは別次元の圧巻の迫力だ。
これはミュンシュの構成力と、それを完遂し得る高度な技との勝利を示す演奏である。
ミュンシュという巨匠の素晴らしさはこのCDを聴いて初めて享受できるのではないだろうか。
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厳格なオーケストラ・トレーナーとして知られたライナーの本領が発揮された全盛期のライナー&シカゴ交響楽団による圧倒的な演奏の凄さを味わうことができる1枚だ。
一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントな金管楽器の朗々たる響き、高弦の美しい響き、迫力満点のティンパニの轟きなど、ライナー時代のシカゴ交響楽団がいかにスーパーオーケストラであったのかがわかるような破格の演奏内容になっている。
剃刀でスパっと切ったかのような尋常ならざる揃い方といい、手を変え品を変え登場する三連符のモティーフの正確な鳴らし方といい、よくもここまでというほど完璧さだ。
それでいて決して機械的にならないのは、艶やかな弦やまろやかな管、殊にパワフルにしてうるさくならない金管楽器の磨かれた響きの所以だろう。
もちろん基調は精緻なライナー節だが、硬派を掲げ、疾走するおなじみのマエストロに、思いのほか大胆な表現があったことに驚く。
シカゴ交響楽団と言えば、ショルティ時代の圧倒的な大音量による凄まじい演奏が記憶に新しいところであるが、そのルーツは、ライナー時代にあったことがよくわかるところである。
また、XRCDによる極上の高音質録音も素晴らしく、録音年代を疑うほどの超高音質に仕上がっている。
本盤は、1959年のスタジオ録音であり、今から50年以上も前の録音であるが、あたかも最新録音であるかのようなクリアな音質に蘇っており、あらためてXRCDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。
ライナーがシカゴ交響楽団に喝を入れ、彼の趣味が十全に浸透しはじめた時期、および両者の全盛期の貴重な録音がXRCDで蘇った。
このような高音質録音で聴くと、当時のシカゴ交響楽団は、前述のような名技に加えて、特に弦楽合奏において顕著であるが実に艶やかな響きを出していることがよくわかるところであり、かかるオーケストラの音色には抗し難い魅力があったと言える。
時代が若干下ることにはなるが、同じアメリカのオーケストラにおいても、オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団はシルキーな音色を特徴としていたし、セル指揮のクリーヴランド管弦楽団は、鉄壁のアンサンブルをベースとしたセルの楽器とも称される室内楽的で精緻な音色を誇っていた。
ライナー&シカゴ交響楽団も、本XRCD盤を聴くと、それらのオーケストラにも対抗し得るだけの独特の艶やかな音色を持っていたことがよく理解できるところだ。
演奏自体は、正直言って深みのある奥行きのある演奏とは言い難い。
もっとも、精神的な深みのある演奏ならフルトヴェングラーを筆頭にいくらでもあるし、よりタイトな演奏が好きならトスカニーニを聴けば良いだろう。
しかし、音質に限って言えば、いくらどんなに優れた復刻盤でも、ステレオ原盤のXRCDには太刀打ち出来ないと言えるところであり、まして板起こしやオープンリール復刻に付き物のノイズや揺れも殆どないことからすると、当盤の価値は非常に大きい。
したがって、とても名演との評価をすることは困難な外面的な演奏であると言えなくもないが、それでも当時のシカゴ交響楽団のスーパー軍団ぶりや、XRCDによる極上の高音質録音であることを考慮して推薦させていただくこととしたい。
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ムラヴィンスキーは、カラヤンとほぼ同時代に活躍していた大指揮者であったが、旧ソヴィエト連邦下で活動していたことやムラヴィンスキーが録音に慎重に臨んだこともあって、その実力の割には遺された録音の点数があまりにも少ない。
そして、その音質についても、DGにスタジオ録音を行ったチャイコフスキーの後期3大交響曲集(1960年)やアルトゥスレーベルから発売された1973年の初来日時のベートーヴェンの交響曲第4番及びショスタコーヴィチの交響曲第5番等の一部のライヴ録音(いずれも既にSACD化)などを除いては極めて劣悪な音質で、この大指揮者の桁外れの実力を知る上ではあまりにも心もとない状況にある。
そのような中で、スクリベンダム・レーベルから1965年及び1972年のムラヴィンスキーによるモスクワでのライヴ録音がリマスタリングの上発売されているが、音質も既発CDと比較すると格段に向上しており、この大指揮者の指揮芸術の真価をより一層深く味わうことが可能になった意義は極めて大きいと言わざるを得ない。
何よりも、1960年代から1970年代にかけては、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの全盛時代であり、この黄金コンビのベストフォームの演奏を良好な音質で味わうことができるのが素晴らしい。
本盤には、1965年のライヴ録音が収められているが、いずれも凄い演奏だ。
ムラヴィンスキーは、手兵レニングラード・フィルを徹底して厳しく鍛え抜いており、その演奏はまさに旧ソヴィエト連邦軍による示威進軍を思わせるような鉄の規律を思わせるような凄まじいものであった。
そのアンサンブルは完全無欠の鉄壁さを誇っており、前述の1960年のチャイコフスキーの交響曲第4番の終楽章の弦楽合奏の揃い方なども驚異的なものであった。
本盤においても、冒頭のグリンカの「ルスランとリュドミュラ」序曲からして超絶的な豪演を展開している。
本演奏を聴いて、他の有名オーケストラの団員が衝撃を受けたというのもよく理解できるところであり、他のどの演奏よりも快速のテンポをとっているにもかかわらず、弦楽合奏のアンサンブルが1音たりとも乱れず、完璧に揃っているのは圧巻の至芸というほかはあるまい。
ショスタコーヴィチの交響曲第6番は、1972年のモスクワライヴの方をより上位に掲げる聴き手もいるとは思うが、本演奏における徹底して凝縮化された演奏の密度の濃さには尋常ならざるものがある。
厳格なスコアリーディングに基づき、同曲に込められた深遠な内容の核心に鋭く切り込んでいくことによって、一聴するとドライな印象を受ける演奏ではあるが、各旋律の端々からは豊かな情感が滲み出しているとともに、どこをとっても格調の高さを失わないのがムラヴィンスキーによる本演奏の凄みと言えるだろう。
ワーグナーの2曲も至高の超名演であるが、特に、楽劇「ローエングリン」第3幕への前奏曲の猛スピードによる豪演は、「ルスランとリュドミュラ」序曲に匹敵する圧巻のド迫力だ。
モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲も爽快な名演であるが、交響曲第39番は更に素晴らしい超名演。
同曲はモーツァルトの3大交響曲の中でも「白鳥の歌」などと称されているが、ムラヴィンスキーの演奏ほど「白鳥の歌」であることを感じさせてくれる透徹した清澄な美しさに満ち溢れた演奏はないのではないか。
やや速めのテンポで素っ気なささえ感じさせる演奏ではあるが、各旋律の随所に込められた独特の繊細なニュアンスと豊かな情感には抗し難い魅力がある。
シベリウスの交響曲第7番は、ブラスセクションのロシア風の強靭な響きにいささか違和感を感じずにはいられないところであり、いわゆる北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄な演奏ではないが、同曲が絶対音楽としての交響曲であることを認知させてくれるという意味においては、比類のない名演と評価したい。
シベリウスの交響詩「トゥオネラの白鳥」やヒンデミットの交響曲「世界の調和」、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ミューズの神を率いるアポロ」、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」なども、引き締まった堅固な造型の中に豊かな情感が込められた味わい深い名演であるが、さらに凄いのはバルトークの弦楽器、打楽器とチェレスタの為の音楽とオネゲルの交響曲第3番「典礼風」だ。
これらの演奏においても例によって、若干速めのテンポによる凝縮化された響きが支配しているが、それぞれの楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥深さには凄みさえ感じられるところであり、聴き手の心胆を寒からしめるのに十分な壮絶な超名演に仕上がっていると言えるところだ。
いずれにしても、本盤は大指揮者ムラヴィンスキーの偉大な芸術を良好な音質で味わうことができるという意味においては、1972年盤と並んで安心してお薦めできる素晴らしい名盤であると高く評価したい。
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2015年03月05日
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カラヤンは、独墺系の指揮者では珍しいシベリウス指揮者であった。
他には、独墺系指揮者でただ1人全集を完成したザンデルリンクがいるだけである。
カラヤンは、「第3」を録音せずに鬼籍に入ってしまったが、録音の予定はあったと聞く。
これは大変残念なことではあるが、しかしながら、遺された録音はいずれ劣らぬ名演であると考える。
認知度が高いのは、フィルハーモニア管弦楽団時代の録音や、1960年代の「第4」以降の4曲を収録したベルリン・フィルとの録音であるが、何故か、1970年代の「第4」及び「第5」、そして、1980年代の本盤や「第2」、「第6」の認知度が意外にも低いのは何故であろうか。
特に、これらの演奏には、オーケストラの最強奏、特に、フォーグラーの迫力あるティンパニが、シベリウスにしては大仰過ぎる、更に一部の評論家によると、シベリウスの本質を逸脱しているという批判さえなされている。
しかしながら、シベリウスの本質とは一体何であろうか。
確かに、北欧風のリリシズムに満ち溢れた清澄な演奏が、シベリウスの演奏により相応しいことは認めるが、シベリウスは北欧のローカルな作曲家ではないのだ。
まさに、20世紀初頭を代表する国際的な大シンフォニストなのであり、それ故に、演奏様式はもっと多様であってもいいのではないだろうか。
カラヤンこそは、特に、認知度が低かった独墺系社会にシベリウスの交響曲や管弦楽曲の素晴らしさを認知させたという偉大な業績があり、作曲者も、カラヤンの演奏を高く評価していた事実を忘れてはならないだろう。
本盤の収められた交響曲集は、確かに、オーケストラが鳴り過ぎる、ティンパニが強靭過ぎるとの批判は予測はされるが、北欧風の清澄な抒情にもいささかの不足もなく、筆者としては、シベリウスの交響曲を、ドイツの偉大な交響曲にも比肩する芸術作品に仕立て上げた素晴らしい名演と高く評価したい。
併録の管弦楽曲集も、聴かせどころのツボを心得たカラヤンならではの名演だ。
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SACDにしては録音にやや難があるとはいえ、とても半世紀も前の録音とは信じがたく、ムラヴィンスキーが残した録音の中でも屈指の高音質であり、彼の高踏的な芸術を十分に味わえる。
チャイコフスキー「第4」の演奏は壮絶そのもので、尋常でない集中力と只事でない迫力のある音塊が眼前に繰り広げられる。
ただひたすら音に圧倒され、あっという間に時が過ぎていくが、ここに一期一会の再現芸術の本質があるように思う。
この曲は、大音響炸裂の剛演でも十分に楽しめるし、また情緒に耽溺する柔演でも満足できる、許容範囲の広いものであるが、その両方の面で突き詰めようとした、まさにムラヴィンスキーならではのもの。
本盤の演奏においては、約40分弱という、史上最速に限りなく近い疾風の如き快速のテンポで演奏されており、その演奏自体の装いもいわゆる即物的で純音楽的なアプローチで一貫しているとも言える。
他の指揮者によるチャイコフスキーの演奏において時として顕著な陳腐なロマンティシズムに陥るということはいささかもなく、どこをとっても格調の高さ、そして高踏的で至高・至純の芸術性を失うことがないのが素晴らしい。
それでいて、素っ気なさとは皆無であり、一聴すると淡々と流れていく各フレーズには、奥深いロシア音楽特有の情感に満ち溢れていると言えるところであり、その演奏のニュアンスの豊かさ、内容の濃さは聴いていて唖然とするほどである。
木管楽器や金管楽器の吹奏にしても、当時の旧ソヴィエト連邦のオーケストラの場合は、独特のヴィブラートを施したアクの強さが演奏をやや雑然たるものにするきらいがあったのだが、ムラヴィンスキーの場合は、徹底した練習を繰り返すことによって、演奏をより洗練したものへと変容させているのはさすがと言える。
そして、これら木管楽器や金管楽器の洗練された吹奏は、ムラヴィンスキーの魔法のような統率の下、あたかも音符がおしゃべりするような雄弁さを兼ね備えているのが素晴らしい。
弦楽合奏も圧巻の技量を誇っており、とりわけロシアの悠久の大地を思わせるような、重量感溢れる低弦の厚みも強靭なド迫力だ。
加えて、その一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルは紛れもなくムラヴィンスキーの圧倒的な統率力の賜物であり、とりわけ終楽章の疾風の如きハイスピード、それにアンサンブルを一切乱さずにぴたりとついていくレニングラード・フィルの巧さは圧倒的だ。
しかもかなり高いピッチで演奏しておりテンションも凄く高い。
「未完成」は、もちろんパワフルながら、多様なニュアンスの込め方にむしろ驚く。
とにかく多様なニュアンス表現にすべてをかけたような演奏で、ムラヴィンスキーということで予想する剛毅さや迫力はむしろ後退し、繊細で穏やかな部分が目立ったもの。
それにしても木管の繊細さ、弦のつややかさ、これが他のロシア系の指揮者と異なるムラヴィンスキーの音楽であり、それがかえって本質を捉えているように聴こえる。
孤高の芸術家として歩んできたムラヴィンスキーそのものを示しつつ、巨匠の描く凄惨な地獄と妖美な黄泉の国を垣間見ることになる。
特に、第1楽章展開部の金管楽器の強奏や、第2楽章の中間部の盛り上がりの箇所をソフトにに始めるところにこそ、ムラヴィンスキーを聴く醍醐味があるだろう。
それにしても何という指揮者、何というオーケストラだろうか。
全体的に金管が威力を発揮しているが、少しも下品にならないのは本当に凄い実力であり、ムラヴィンスキーの優れた薫陶の賜物であると言えるだろう。
ライヴ録音とのことであるが、まったくノイズやミスがないことに驚嘆する。
この音源の出所については様々な議論を呼ぶだろうが、そんな議論を吹き飛ばしてしまうぐらいの超名演の登場だ。
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2015年03月04日
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20世紀最高のヴァイオリニストとして今も人気の高いハイフェッツ全盛期の超絶的な技量を味わうことが可能な素晴らしい名演だ。
同時代に圧倒的な技量を誇ったピアニストにホロヴィッツがいるが、ホロヴィッツが卓越した技量が芸術を超える稀有のピアニストであったのと同様に、ハイフェッツも、卓越した技量が芸術を超える稀有のヴァイオリニストであったと言える。
本盤には、ともにサラサーテに献呈された、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第2番というきわめてマイナーな作品と、多くのヴィルトゥオーゾヴァイオリニストによって演奏されてきたヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第2番が収められている。
30曲近いヴァイオリン協奏曲を完全に暗譜し、いつでも弾けるレパートリーとしていたハイフェッツはその多くを録音したことでも抜きん出ていた音楽家でもあった。
このうち、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第2番については、第1番があまりにも有名であるため、美しいメロディに満ち溢れた魅力作であるにもかかわらず、殆ど演奏されることはない作品である。
しかしながら、ハイフェッツの超絶的な技量は、この不人気な知られざる名作に光を当て、実に魅力溢れる作品に仕立て上げるのに大きく貢献している。
オペラ・アリアのような美しきメロディが曲全体を包み込み、ハイフェッツ節が炸裂する。
その仄暗いロマンティシズムが少々感覚に重たいブルッフ作品も、ハイフェッツの手にかかると切れ味鋭く凛と張りつめて、キリっと引き締まる。
これだけの卓越した技量を披露しているにもかかわらず、技巧臭がいささかもせず、音楽の素晴らしさ、魅力だけが聴き手に伝わってくるというのは、まさに、前述のような卓越した技量が芸術を超える稀有のヴァイオリニストの面目躍如と言ったところであろう。
他方、ヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第2番は、弾きこなすのにかなりの卓抜した技量を要する作品だけに、まさしくハイフェッツの独壇場。
その唖然とするほどの超絶的なテクニックは、とても人間業とは思えないような凄みがあり、ハイフェッツにしか表現しえない唯一無二の名演と高く評価したい。
ハイフェッツによる本盤の演奏は、持ち前の超絶的な技量を駆使することのみによって、両曲の内容面をも含めた魅力を描出し得た稀有の演奏と言えるのではないだろうか。
一昔前の名技性が意外に新鮮な、数多くある名演とは一線を画し、聴き返すたびに深みを増す、すこぶる付き快演と言えよう。
本盤で、さらに素晴らしいのはXRCDによる極上の高音質である。
今から半世紀以上も前のモノラル録音であるにもかかわらず、ハイフェッツのヴァイオリンの弓使いまでが鮮明に聴こえるというのは殆ど驚異的ですらある。
あらためて、XRCDの潜在能力の大きさを思い知った次第であるが、いずれにしても、ハイフェッツの人間離れした軽快で重厚なヴァイオリン演奏を、XRCDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。
すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。
ザンデルリンクは、前述のようにムラヴィンスキーに師事していたこともあり、ショスタコーヴィチの交響曲を指揮するに際しては特別な気持ちを持って臨んでいたことを窺い知ることが可能な名演に仕上がっている。
ザンデルリンクによる本演奏は、師匠であるムラヴィンスキーの演奏とはかなり様相が異なるものとなっており、そもそもテンポ設定が全体的に随分とゆったりとしたものとなっている。
もっとも、スコア・リーディングの厳正さ、演奏全体の堅牢な造型美、そして楽想の彫りの深い描き方などは、ムラヴィンスキーの演奏に通底するものと言えるところだ。
その意味では、ショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにした演奏とも言えるだろう。
ムラヴィンスキーの演奏がダイレクトに演奏の凄みが伝わってくるのに対して、ザンデルリンクによる本演奏は、じわじわと凄みが伝わってくるようなタイプの演奏と言えるのかもしれない。
ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。
ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。
かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。
したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。
一般に評判の高いバーンスタインによる演奏など、雄弁ではあるが内容は空虚で能天気な演奏であり、かかる大言壮語だけが取り柄の演奏のどこがいいのかよくわからないところだ。
かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていないと言える。
マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。
こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。
旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身であるだけに、ザンデルリンクの演奏も、前述のようにショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにしたものであり、数あるショスタコーヴィチの交響曲の録音の中でも、かなり上位にランキングされる名演として高く評価したいと考える。
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