2015年04月

2015年04月30日


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旧盤から15年以上を経て、円熟のゲルギエフが再度問いかける、作曲70周年の問題作であるが、素晴らしい名演と高く評価したい。

現在の様々な指揮者の中で、ショスタコーヴィチの交響曲の名演を成し遂げる可能性がある指揮者と言えば、これまでの実績からして、本盤のゲルギエフのほかは、インバルが掲げられると思うが、他の指揮者による名演もここ数年間は成し遂げられていないという現状に鑑みると、現在では、ショスタコーヴィチの交響曲の演奏についてはゲルギエフとインバルが双璧と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本盤に収められた名演は、このような考え方を見事に証明するものと言えるだろう。

第8番の過去の名演としては、初演者として同曲が有する精神的な深みを徹底して追求した決定盤の誉れ高いムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの名演(1982年)があり、本盤の演奏も、ムラヴィンスキーの系列に繋がるものと言える。

ゲルギエフ&マリインスキー劇場管弦楽団による、ショスタコーヴィチの交響曲第8番は、1994年9月に同じオーケストラとオランダのハーレムにて録音され、ロングセラーとなっていた。

今回は15年以上を経て、ゲルギエフの円熟ぶりと、手兵マリインスキー劇場管弦楽団を完全に手中に収めた神業の完成度に驚かされる。

旧盤で見られた未消化さや解釈の甘さは完全に払拭され、黒光りするような凄味が感じられるところであり、こうした幻想的で複雑な大曲にこそ、ゲルギエフの真価が最大に発揮し得ると言えるだろう。

ここでもゲルギエフは、楽曲の本質を抉り出していくような鋭さを感じさせる凄みのある演奏を披露しており、おそらくは、同曲演奏史上ベストを争う名演と高く評価したい。

全体として堅固な造型を構築しつつ、畳み掛けていくような緊迫感や、生命力溢れる力強さは圧巻の迫力を誇っている。

また、スコアに記された音符の表層をなぞるだけでなく、スターリン時代の粛清や死の恐怖などを描いたとされている同作品の本質をこれだけ音化し得た演奏は、おそらくはムラヴィンスキー以来はじめてではないかとさえ思われるほどだ。

その壮絶とも言える圧倒的な迫力は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分だ。

今回の演奏時間は65分38秒、旧盤より2分半ほど長くなっているが、注目は第1楽章のテンポの遅さ。

旧盤より2分半、ムラヴィンスキーの1982年盤に比べて3分半も遅く、数ある同曲の録音中でもかなり遅い部類に属する。

重苦しさに満ちながら、驚くほど強い緊張感が張り詰め、金縛りにあったように動けなくなる凄さ!ゲルギエフのテンポ設定に納得させられる。

急速楽章の第2、第3楽章はほぼ同じ演奏時間であるが、ラルゴの第4楽章は1分ほど速く、希望の兆しが見える第5楽章は逆に遅くなっている。

ことにパッサカリアの第4楽章が絶品で、こうした精密極まりない音楽でゲルギエフの見せるテクニックは誰にも真似できない凄さがあり、ショスタコーヴィチの天才性を改めて実感できる。

終楽章の不思議な重さにもゲルギエフの哲学が感じられる。

ゲルギエフの統率の下、手兵マリインスキー劇場管弦楽団は最高のパフォーマンスを示している。

マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献している点を忘れてはならない。

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ヨッフムがコンセルトヘボウ・アムステルダムとともにスタジオ録音した名盤の待望の復活を先ずは大いに歓迎したい。

手堅い表現で知られたヨッフムは、晩年スケール感を加えて驚くべき境地に達し、80歳を過ぎてからの来日公演におけるブルックナーは忘れえぬ名演だった。

コンセルトヘボウ・アムステルダムを率いたベートーヴェン交響曲全集は、後にロンドン交響楽団と入れた一期一会の崇高な演奏と較べると質実過ぎると感じるかもしれないが、ここでは中庸にして核心を突く壮年期ならではの才腕が聴き取れる。

ヨッフムというと手堅い演奏で知られているが、この交響曲全集も非常に綿密な演奏で、正確な演奏である。

有名なカラヤン盤と比較すると、テンポも遅めで、演奏も華やかではないが、その簡素な表現と質実剛健とも言える演奏は、むしろ最もオーソドックスなベートーヴェンのスタンダードと言えるものである。

このベートーヴェンも、もう1つのロンドン交響楽団との全集と同じく、猛々しい部分も凪の部分も、ヨッフム独特の「愛」が感じられる名演である。

近年では、ベートーヴェンの交響曲の演奏様式も当時とは大きく様変わりし、小編成オーケストラのピリオド楽器による演奏や、大編成のオーケストラによるピリオド奏法による演奏などが主流を占めつつあり、いまやかつての大編成のオーケストラによる重厚な演奏を時代遅れとさえ批判するような見解も散見されるところだ。

近年発売されたティーレマン&ウィーン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全集は、そうした近年の軽妙浮薄とも言うべき演奏傾向へのアンチテーゼとも言うべき意地の名演であったが、それも少数派。

一部の音楽評論家や音楽の研究者は喜んでいるようであるが、少なくとも、かつての大指揮者による重厚な名演に慣れ親しんできたクラシック音楽ファンからすれば、あまり好ましい傾向とは言えないのではないかとも考えられるところだ。

パーヴォ・ヤルヴィやノリントン、ジンマンなどによって、芸術的にもハイレベルの名演は成し遂げられているとは言えるものの、筆者としては、やはりどこか物足りない気がするのである。

そうした中にあって、ヨッフム&コンセルトヘボウ・アムステルダムによる演奏を聴くと、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになるのは筆者だけではあるまい。

もちろん、ヨッフムは何か特別な解釈を施しているわけではない。

奇を衒ったようなアプローチは皆無であり、コンセルトヘボウ・アムステルダムの幾分くすんだドイツ風の重厚な響きを最大限に生かしつつ、曲想を丁寧に描き出していくというオーソドックスな演奏に徹していると言えるところだ。

もっとも、随所にロマンティシズム溢れる表現や決して急がないテンポによる演奏など、ヨッフムならではの独自の解釈も見られないわけではないが、演奏全体としてはまさにドイツ正統派とも言うべき重厚な演奏に仕上がっていると言えるだろう。

オーケストラの自発性を引き出した柔らかな響きの「田園」や溌剌とした第8番など、偶数番号がなかんずく優れた出来栄えである。

もちろん、ベートーヴェンの交響曲全集にはあまたの個性的な名演があり、特に偶数番号の名演としては、ワルター&コロンビア交響楽団、イッセルシュテット&ウィーン・フィルなどが存在し、これらと比較すると強烈な個性に乏しいとも言えるが、ベートーヴェンの交響曲の魅力をダイレクトに表現しているという意味においては、本盤のヨッフムによる演奏を素晴らしい名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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ロンドン交響楽団自主制作シリーズで多くのライヴ録音をリリースし、充実した指揮ぶりを示しているコリン・デイヴィス、3度目のシベリウス/交響曲全集のスタートとなった1枚。

コリン・デイヴィスは、シベリウスの交響曲全集を3度録音した稀有の指揮者だ。

これは、シベリウスの母国、フィンランドの指揮者であるベルグルンドと並ぶ最多記録と言えるところであり、デイヴィスがいかにシベリウスに深い愛着を持っているのかの証左と言えるだろう。

デイヴィスの3つの全集のうち、現在でも依然として評価が高いのは、1970年代にボストン交響楽団を演奏して成し遂げた最初の全集である。

特に、「第1」〜「第5」は、他の名演と比較しても今なお上位にランキングされる名演であり、いささか透明感に欠ける「第6」や「第7」を踏まえて考えてみても、全集としての価値は、今なお相当に高いものがあると言えるのではないだろうか。

私事で恐縮であるが、筆者も中学生の時代にシベリウスの交響曲に慣れ親しんだが、その時に愛聴していたLPがデイヴィスによる最初の全集であった。

これに対して、2度目の全集は、最初の全集から約20年後の1990年代にロンドン交響楽団と成し遂げたものであるが、これは、はっきり言って、最初の全集と比較するといささか魅力に乏しいと言えるだろう。

デイヴィスとしては、自信を持って臨んだ録音であるのであろうが、そうした自信が過剰になってしまったきらいがあり、金管楽器などのいささか無機的な音色に、やや力の入った力みを感じさせるのが非常に気になった。

最初の全集と比較して、解釈に深みが加わった点は散見されるものの、デイヴィスとしてもいささか不本意な出来であったのではあるまいか。

2度目の全集から10年足らずの間隔で、ロンドン交響楽団の自主レーベルにではあるが、3度目の録音を行ったというのは、その証左と言えるのではないかと考えられる。

そして、この3度目の全集であるが、これは、2度目の全集で見られたような力みがいささかも感じられず、いわゆる純音楽的で自然体のアプローチによる円熟の名演揃いであると高く評価したい。

ロンドン響首席指揮者(1995年以降)、シュターツカペレ・ドレスデン名誉指揮者(同楽団史上初)の任にあり、ますます進境を深めているデイヴィス、このシベリウスでも作品を手中に収めた懐の深いアプローチで終始貫かれ、実に含蓄ある響きが立ち現われている。

最初の全集において、いささか透明感に欠けていた「第6」及び「第7」についても、北欧の大自然を彷彿とさせるような繊細な抒情美に満ち溢れており、クレルヴォ交響曲をも含め、本3度目全集は、まさしくデイヴィスのシベリウスの交響曲演奏の総決算とも言うべき素晴らしい名演集であると高く評価したい。

3楽章形式の「第3」では清々しい音楽的表情が充溢しており、細工を弄しない泰然としたたたずまいからの豊かなダイナミクスはまさにシベリウスの醍醐味。

単一楽章である「第7」での端正でいながら作品の深い呼吸感を広大なスケールでふくらませていくあたりなど、現在のデイヴィスの真骨頂とも言えるところであり、ロンドン交響楽団の緊密なアンサンブルと相俟って、実に格調高い聴きものとなっている。

そして本盤で素晴らしいのはマルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質であり、一貫して完成度の高い録音もオーディオ・ファイル注目の的で、本拠地バービカンセンターのクリアな音場を最高のスタッフが忠実に再現している。

シベリウスの交響曲のような透明感溢れる抒情的な音楽には、本盤のようなマルチチャンネル付きのSACDは抜群の効力を発揮すると言えるところであり、演奏内容の質の高さからしても、今般のSACD化を大いに歓迎したい。

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2015年04月29日


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本盤はカラヤン&ベルリン・フィルのロンドンに於けるライヴ録音(1985年)で、曲目はベートーヴェンの交響曲第4番とR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。

両曲ともに、完熟期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの素晴らしい名演と高く評価したい。

まずは、ベートーヴェンの「第4」であるが、リチャード・オズボーンによる偉大な伝記を紐解くと、カラヤンはこの「第4」の指揮に相当手こずったとの記述がある。

確かに、遺されたスタジオ録音を聴く限りにおいては、凡演ではないものの、どこか食い足りないというか、カラヤンならばもう一段上の演奏ができるのではないかと思ったりしたものである。

しかしながら、本盤に収められた1985年のロンドン・ライヴ盤は素晴らしい名演であり、カラヤンも晩年に至って漸く理想の「第4」の演奏を実現できたのではないか。

やや遅めのテンポをとってはいるが、ダイナミックレンジの幅広さや抒情豊かな箇所の情感溢れる歌い方など、いい意味でのバランスのとれた至高の演奏に仕上がっている。

カラヤンはR・シュトラウスを十八番にしていたが、とりわけ交響詩「英雄の生涯」に私淑していたと言える。

スタジオ録音では1959年盤(DG)、1974年盤(EMI)、1985年盤(DG)の3種が存在しており、ライヴ録音でもモスクワ盤(1969年)や、ロンドン盤(1972年及び本盤に収められた1985年)など複数が存在している。

前述した演奏のいずれもがベルリン・フィルとのものであることが特徴と言えるところであり、カラヤンが同曲を演奏するにあたってはオーケストラの機能性を重視していたことがよく理解できるところだ。

カラヤンはライヴでこそその真価を発揮する指揮者であり、前述の3種のスタジオ録音は素晴らしい超名演であるが、ここでは本盤を含め3種あるライヴ録音の間の比較を軸に論じていくこととしたい。

1969年盤はモスクワでのライヴということもあって一期一会的な豪演で、シュヴァルベのヴァイオリンソロはいかにもカラヤン好みの官能的な美しさを誇ってはいるものの、録音があまり冴えず荒々しい響きが際立ち、オーケストラの音色はいわゆるカラヤンサウンドで満たされているとは言い難い面があり、カラヤンの個性が最良に発揮されているとは言い難いとも言える。

これに対して1972年ロンドンでのライヴ盤は、カラヤン色が濃い演奏と言える。

シュヴァルベのヴァイオリンの官能的な美しさは相変わらずであるが、オーケストラは肉厚の弦楽合奏、ブリリアントな金管楽器の朗々たる響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器、雷鳴のように轟くティンパニなどをベースに流麗なレガートが施されるなど、いわゆるカラヤンサウンドが満載であり、徹頭徹尾カラヤン色に染め上げられた演奏に仕上がっている。

これに対して本演奏(1985年ロンドン・ライヴ)は、カラヤンの統率力の衰えから、カラヤンサウンドを聴くことができるものの、1972年盤のように徹頭徹尾ということにはなっていない。

したがって、音のドラマの構築という点では1972年盤よりも劣っていると言わざるを得ないが、本演奏にはカラヤンが自らの人生を自省の気持ちを込めて顧みるような趣きが感じられるところであり、枯淡の境地にも通じるような味わい深さといった面では、1969年盤や1972年盤をはるかに凌駕していると言えるだろう。

これには、ヴァイオリンソロが官能的な美しさを誇るシュヴァルベから質実剛健なシュピーラーに変わったのも大きいと考えられる。

いずれにしても、これら3種の名演の比較については困難を極めるところであり最終的には好みの問題になるとは思うが、筆者としては、カラヤンが最晩年に至って漸く到達した枯淡の境地、至純の境地を味わうことができる本演奏を随一の至高の超名演と高く評価したい。

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ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけて、着実に歩を進めながらマーラーの交響曲全集を録音したが、ブーレーズのアプローチはどの交響曲に於いても、殆ど変っていないように思われる。

本盤に収められたマーラー最長のシンフォニーであり、複雑で膨大な構造を持つ第3交響曲を、解析能力抜群のブーレーズはウィーン・フィルとともに壮大に描き切っている。

マーラー嫌いにこそ真髄が味わえるとさえ感じさせるブーレーズによるマーラーチクルスは、すこぶる冴えわたっている。

かつては、作曲家も兼ねる前衛的な指揮者として、聴き手を驚かすような怪演・豪演の数々を成し遂げていたブーレーズであるが、1990年代に入ってDGに録音を開始するとすっかりと好々爺になり、オーソドックスな演奏を行うようになったと言える。

1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていたが、かつての前衛的なアプローチは影を潜めてしまった。

もっとも、これは表面上のことであって、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化し、細部への拘りを徹底した精緻な演奏を成し遂げるべく腐心しているようにさえ感じられるようになった。

むしろ楽曲のスコアに対する追求の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在である。

演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることができないような旋律や音型を聴き取ることが可能なのも、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の1つと言えるだろう。

もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。

したがって、「第3」で言えば、ドラマティックなバーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1987年ライヴ)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1986年ライヴ)の名演などとはあらゆる意味で対照的な演奏と言えるところである。

もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。

作曲家のアイデンティティとも言える「角笛」シリーズの一隅を成す「第3」は、言わずもがなの壮大なスケールと切れの良さに繊細なフレージングの妙味が加わって無敵の演奏が繰り広げられている。

同曲は比較的大編成のオーケストラを要するため、音響バランスに注意が必要だが、ブーレーズの耳の良さ及び分析力のよって、見事に表現されている。

さらに、ウィーン・フィルの優美な演奏が、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることも忘れてはならない。

特に第3楽章の舞台裏ポストホルン(首席トランペットのシューによる見事な吹奏)のノスタルジックな美音も印象的だ。

ウィーンの音楽家たちを率いて、ここまで客観的・分析的な演奏を構築した上に、総体としては“楽しめる”ものに仕上げる手腕は、いつまでも“作曲家の視点”ばかりを指摘していても的外れに終わってしまう、演奏家としての周到さと円熟を披瀝している。

バロック・オペラから現代作品まで幅広く、深みのある歌唱を繰り広げる絶好調のフォン・オッターの共演も話題性を超えたコラボレーションとして結実している。

加えてウィーン少年合唱団、ウィーン楽友協会女声コーラスも最高のパフォーマンスを示している。

演奏に刺激されてか、細部と総体のバランスも絶妙なすこぶる優秀な録音に仕上がっている。

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名匠、名伴奏者オーマンディが指揮するフィラデルフィア管弦楽団とがっぷり組み合ったブラームスの第2協奏曲は、ルービンシュタインによる4度目の録音で85歳のピアノとは思えない矍鑠ぶりを記録しており、バックハウス&ベーム盤と並ぶ名演と言えるだろう。

ブラームスは、何よりもルービンシュタインの堂々たるピアノが素晴らしい。

ルービンシュタインの音楽が円熟を極めると同時にテクニックの水準が非常に高いレベルにあった、またとない貴重な時期の演奏である。

ブラームスの演奏には、堅固な造形が前面に出たものと、ロマンティシズムが前面に出たものがあり、この演奏は後者に属する。

しかし構成感や造形も申し分なく、足腰がしっかりしていてバランスがピカイチ、これこそブラームスの全体像を見事に捉えた演奏である。

自然な情感が実に豊かで、気難しくはないけれども歯ごたえがしっかりしているので、聴いていて心地よく音楽の流れに身を任せることができ、同時に感慨や高揚感も十分である。

作品の良さが自然に、トータルに引き出されているのでうっとうしさや嫌みがなく、内容充実とともに繰り返し聴きたくなる。

さすがに若いころからブラームスに傾倒して長年にわたり演奏を積み重ねてきただけのことはある。

この人特有の低音域の豊かさとまろやかで深い音色、充実した分厚い和音の響き、何よりテクニックに安定感と余裕があり、それを派手にひけらかすことなくブラームスの音楽と一体化させている。

ルービンシュタインのステレオ録音には、とかく「この年齢にもかかわらず」との評がありがちで、確かにそう言いたくなる演奏があるのもわかるところではある。

しかし、このみずみずしくてテンポが遅すぎず、流れに滞りのない演奏にはそういったご心配は一切無用。

人生の辛酸を舐め尽くした巨匠の味わい深い演奏が、生涯独身を貫いて、人生の寂しさやわびしさを人一倍感じ、華麗さとは無縁の渋い作品を生み出してきたブラームスの音楽に見事に符合する。

オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団は、いささか音の重心が軽く、ブラームスとしては今一歩深みが乏しい気もするが、確かな技量と様式感で、ピアノと一体化した解釈が素晴らしい。

ルービンシュタインの堂々たる演奏を加味すれば、総合的評価として、本演奏を名演と評価することに躊躇しない。

録音もピアノとオーケストラのバランスがとてもよく、奥行き感や残響がうまく捉えられていて、ふくよかで豊かな表情を生み出している。

ルービンシュタインの協奏曲録音には、たとえステレオでもこれらの要素に違和感があるものがいくつかあるのだが、この録音は彼のものでも最高の状態であろう。

他方、シューマンは、ルービンシュタイン生涯最後のセッション録音だけに、実に演奏の奥が深く、作品の内面的なロマンティシズムを見事に描き出していて余すところがない。

冒頭の「夕べに」からして、他のピアニストとは次元の違う音のドラマが繰り広げられており、この幻想小曲集こそ、ルービンシュタインが人生のゴールで到達した至高・至純の境地と言えるのだろう。

幻想小曲集の随一の超名演と評価したい。

Blu-spec-CD化によって、ルービンシュタインの名演がより鮮明に味わうことができることを大いに喜びたい。

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2015年04月28日


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右腕の故障から復活を遂げたベロフが、1994年にスタートさせた2回目のドビュッシーピアノ作品全集録音は、フランスの知性と感性が美しく融合した現代におけるドビュッシー演奏のひとつの解答として世界中で絶賛された名盤である。

かつてベロフは、EMIにドビュッシーのピアノ作品全集を録音しており、当該演奏も、ベロフの今日の名声をいささかも傷つけることがない名演と言えるところだ。

しかしながら、演奏の持つ内容の濃さ、そして楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さ、そして各楽想を描き出していくに際してのきめの細かさにおいて、2度目の全集の各ピアノ曲の演奏が断然優れていると評価し得る。

その中でも、ドビュッシーの前奏曲集第1巻や子供の領分は、その作曲家としての天才性を発揮した名作であるが、それ故に、あまたのピアニストがこれまで様々な名演を成し遂げてきた作品でもある。

そうした中で、べロフの演奏も、それら古今東西の名演の中でも十分に存在感のある名演と高く評価したい。

ベロフの約20年ぶりとなる再レコーディングでは、録音技術も向上したせいもあって、彼のタッチも響きも卓越したリズムも克明に聴く事ができる。

ドビュッシーは、印象派と称される作曲家でもあるだけに、前奏曲集第1巻や子供の領分を構成する各小曲において、安定したテクニックだけでなく、味わいのある詩情が必要となる。

この詩情を情感豊かに表現できなければ、それこそ単なるピアノ練習曲の世界に陥ってしまう。

しかしながら、べロフについてはそのような心配は全く御無用で、遥かに円熟の度を増した表現は音楽の核心を捉え深い味わいに満たされる。

それにしても、何と言う美しい演奏であろうか。

ドビュッシーのピアノ作品は、いかにも印象派とも言うべきフランス風の詩情溢れる豊かな情感、そして繊細とも言うべき色彩感などを含有しているが、ベロフはそれらを研ぎ澄まされたテクニックをベースとして、内容豊かに、そして格調の高さをいささかも失うことなく描き出している。

そしてべロフは、卓越した技量をベースとしつつも表情の変転なども巧みに行っており、加えて、演奏の端々から漂ってくるフランス風のエスプリ漂う詩情豊かで瀟洒な味わいには抗し難い魅力に満ち溢れている。

どの曲も見事な出来映えであるが、特に、前奏曲集第1巻の中でも最高傑作とされる「沈める寺」の情感豊かな演奏は圧倒的だ。

有名な「亜麻色の髪の乙女」は、表情過多のあまりいささか身構え過ぎのような気もしないでもないが、単なるムード音楽に堕していない点は評価したい。

子供の領分の各楽曲の描き分けも、べロフ自身も楽しんで演奏しているような趣きがあり、その芸術性の高さは、さすがと言うべきである。

右手故障という不遇な人生から見事復活を遂げたベロフの演奏には、何よりもピアノを、特に自国の作曲家を演奏する喜びを感じる。

ドビュッシーのピアノ作品を得意としたピアニストには、ギーゼキングをはじめとして、フランソワ、ミケランジェリなどあまたの個性的なピアニストが存在している。

それらはいずれも個性的な超名演を展開しており、こうした個性的という点においては、ベロフの演奏はいささか弱い点があると言えるのかもしれない。

しかしながら、演奏内容の詩情豊かさ、彫りの深さといった点においては、ベロフによる演奏は、古今東西のピアニストによるドビュッシーのピアノ曲の名演の中でも、上位にランキングされる秀逸なものと評しても過言ではあるまい。

いずれにしても、本盤に収められた諸曲の演奏は、まさにドビュッシーのピアノ曲演奏の理想像の具現化とも言うべき素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

そして、今般、かかるベロフによる素晴らしい名演がBlu-spec-CD化がなされたということは、本演奏の価値を再認識させるという意味においても大きな意義がある。

ベロフによる研ぎ澄まされたピアノタッチが鮮明に再現されており、従来CD盤との音質の違いは歴然としたものがあると言えるところだ。

いずれにしても、ベロフによる素晴らしい名演をBlu-spec-CDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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カラヤンは手兵ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を3度にわたってスタジオ録音しているが、同時にブラームスの交響曲全集も3度にわたってスタジオ録音している。

その他にも、一部の交響曲について、ウィーン・フィルやフィルハーモニア管弦楽団、コンセルトへボウ・アムステルダムなどと録音を行うとともに、ベルリン・フィルなどとのライヴ録音も遺されていることから、カラヤンがいかにブラームスの交響曲を得意としていたのかがよく理解できるところだ。

ベルリン・フィルとの全集で言えば、最初の全集が1963〜1964年、本盤の2度目の全集が1977〜1978年、そして3度目の全集が1987〜1988年と、ほぼ10年毎に、そしてベートーヴェンの交響曲全集のほぼ直後に録音されているのが特徴である。

この3つの全集の中で、最もカラヤンの個性が発揮されているのは、紛れもなく本盤の2度目の全集であると考えられる。

この当時のカラヤン&ベルリン・フィルは、まさにこの黄金コンビの全盛時代である。

分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていたと言える。

カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

本盤においても、かかる圧倒的な音のドラマは健在であり、どこをとってもいわゆるカラヤンサウンドに覆い尽くされた圧巻の名演に仕上がっている。

特に第3番は新盤よりこちらの方が音が整理され、情感溢れる名演であり、第2番のフィナーレのカラヤンらしからぬライヴのような突っ込みも圧倒的、第4番もこちらの方がしっとりしていい感じで、第1番だけは新盤の重量感ある録音が曲に合っているようだが、これも甲乙つけがたい。

このような演奏について、例えば全集においては、ザンデルリンク&ベルリン響による名演(1990年)、第1番においては、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる名演(1952年)、第2番については、ワルター&ニューヨーク・フィルによる名演(1953年)、第3番については、クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィルによる名演(1950年)、第4番については、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる名演(1948年)などと比較して、その精神的な深みの追求の欠如などを指摘する者もいるとは思われるが、これほどの圧倒的な音のドラマを構築したカラヤンによる名演との優劣を付けることは困難であると考える。

そして、このカラヤン生誕100周年の交響曲シリーズの音質は、今までの国内盤とあまりに違い、スッキリと分離した楽器の音(ことに弦楽器)が、団子にならず歪まない。

フォルテでの迫力も、濁らずに鳴っているので、これがベルリン・フィルの絶頂期の録音だと、あらためて驚嘆する。

この後、最晩年に再録音し、そちらも名演とされているが、この1978年盤も負けていないし、より自然で鮮やかな演奏はフレッシュで、音の抜けも良く整った録音である。

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ベートーヴェンの三重協奏曲はベートーヴェンが作曲した労作であり、一部の評論家が指摘しているような駄作とは思わないが、それでもピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲などと比較するといささか魅力に乏しいと言わざるを得ないのではないだろうか。

もちろん、親しみやすい旋律などにも事欠かないと言えなくもないが、よほどの指揮者やソリストが揃わないと同曲の真価を聴き手に知らしめるのは困難と言えるだろう。

したがって、本演奏の関心は、もっぱら演奏者とその演奏内容の方に注がれることになる。

カラヤンとロシアの偉大な3人のソリストという超豪華な布陣は、ネット配信の隆盛などによりクラシック音楽界が不況下にある現代においては望むべくもない、巨匠たちの夢のような共演と言えるだろう。

ましてやオーケストラが世界最高のベルリン・フィルであり、三重協奏曲のような楽曲ではもったいないような究極の布陣とも言える。

そして、本演奏が凄いのは(裏方では微妙な意見の食い違いがあったようであるが、我々は遺された録音を聴くのみである)、4巨匠とベルリン・フィルがその能力を最大限に発揮しているところであろう。

カラヤン&ベルリン・フィルは、この黄金コンビの全盛時代ならではのオーケストラ演奏の極致とも言うべき重厚にして圧倒的な音のドラマの構築を行っているし、ロストロポーヴィチの渾身のチェロ演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っている。

オイストラフのヴァイオリンも、ロストロポーヴィチのチェロに引けを取らないような凄みのある演奏を展開しているし、リヒテルのピアノも、本名演の縁の下の力持ちとして、重心の低い堂々たるピアニズムを展開している。

いずれにしても、オイストラフ、ロストロポーヴィチ、リヒテル、カラヤンが白熱の演奏を繰り広げる凄い演奏であるし超名演に値すると言える。

そして、このような凄い超名演を持ってして漸くこの三重協奏曲の魅力が聴き手に伝えられたというのが正直なところであり、その意味では、本演奏こそが同曲の唯一無二の名演と言えるのかもしれない。

もっとも、本演奏は狭い土俵の上で、天下の大横綱が5人いてお互いに相撲をとっているようなイメージとも言えるところであり、このような5人の大横綱には、もう少し広い土俵で相撲をとって欲しかったというのが正直なところだ(と言っても、広い土俵たり得る三重協奏曲に変わる作品は存在しないが)。

他方、ブラームスの二重協奏曲は最晩年の名作であり、ベートーヴェンとは異なる魅力作である。

オイストラフとセルによるヴァイオリン協奏曲が秀逸であったことからも分かるように、その延長線にあるといえる素晴らしい名演だ。

全盛期のオイストラフとロストロポーヴィチによる火花が散るような渾身の演奏は我々聴き手の度肝を抜くのに十分な圧倒的な迫力を誇っているし、最晩年になって鉄壁のアンサンブルに人間味溢れる温かみが加わったセル&クリーヴランド管弦楽団による入魂の名演奏も素晴らしい。

本演奏こそは、オイストラフとロストロポーヴィチ、セルの最高の美質が溶け合ったブラームスであり、同曲演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい(もちろん、三重協奏曲も同曲演奏史上最高の超名演である)。

前者はモントルー国際レコード賞、後者は1971年度レコード・アカデミー賞と仏ADFディスク大賞を受賞している。

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classicalmusic at 00:33コメント(0)トラックバック(0)オイストラフロストロポーヴィチ 

2015年04月27日


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1983年11月7日、バイエルン国立歌劇場アカデミー・コンサートのライヴ録音(ステレオ)で、入手できる海賊盤もなく、大変貴重な演奏。

桁外れな才能に恵まれながらも、レコーディングにはほとんど関心を示さず、また、ライヴ録音に関してもなかなか承認しないことから、生きながらすでに伝説と化していた感のある天才指揮者、カルロス・クライバーが珍しくも許諾したライヴ音源。

カルロス・クライバーが最後に指揮してから一体何年が経つのだろう。

“指揮台に立つだけで奇跡を巻き起こす超カリスマ指揮者”も1990年代に入るとほとんど活動を停止してしまい、隠遁の身となり、2004年に帰らぬ身となった。

そしてカルロスがまだ生きていた頃、こうしてとうとう30年以上も前のライヴ録音までが発掘されたのは、うれしいような悲しいような、ファンとしては複雑な思いにさせられる。

しかし、このディスクの内容は聴き手の期待感をはるかに上回る、霊感に満ちた、信じ難いほどの個性的な名演である。

ことに響きの密度の濃さはただごとではない。

オーケストラが、「何となく全体で」鳴っているのではなく、「一つひとつの楽器が心を寄せ合って」歌っているのが、第1楽章の冒頭のあの有名なメロディから、すぐにわかる。

異常に速いテンポだが、違和感はまったくない。

第2楽章も、何という音楽的な、凛(りん)としたしなやかなカンタービレなのだろうか!

高原の風のように、これほど胸いっぱいに吸い込みたくなる、澄み切った空気が、音楽によって体験できるとは…。

この楽章最後の、カッコウのような木管の掛け合いの美しさには涙が出る。

疾走する第3楽章は愉悦のきわみで、カルロスの舞踊的なセンスのひらめきは天下一品だ。

第4楽章の雷と嵐は、指揮者によって演奏の良し悪しが非常にはっきりと出る部分で、つまらない演奏で聴くと雨が降ったのかどうかも気がつかないほどだが、カルロスの手にかかると、聴き手の誰しもが全身ずぶぬれになる。

クライマックスの一撃は言葉を失うほど壮絶で、遠のく遠雷のティンパニさえも、雷神の背中のようにたくましい筋肉で盛り上がっている。

この楽章の意味するものが、“自然の偉大な力への畏怖”であるということに、改めて気付かせられる。

第5楽章は、誤解を恐れずに言えば、実に男らしい愛に満ちた演奏である。

これっぽっちもベタベタしたところがなく、強くて線が太い。

そしてこのうえもなく優しくて暖かい。

演奏後の拍手とブラヴォーの盛り上がりの素晴らしさが、生演奏の会場でいかにカルロスならではの“奇跡”が起きていたかを証明している。

やはり、あの指揮ぶりをもう一度この目で見たかった! そんな渇望感を覚えずにはいられない、ファン必聴のディスクである。

ただし、オーケストラに保管されていたオリジナルのマスター・テープは、部分的に劣化していたため、カルロスの息子に渡されていたカセットへのコピーもCD化の際にマスターとして使用したとのことで、ステレオとはいえ音質は冴えない。

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classicalmusic at 22:36コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンクライバー 

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完成度の高い技術と、洞察の深い肉太の音楽性をもつアメリカのエマーソンSQにとって、バルトークの弦楽四重奏曲は自らの音楽的資質を表現する最適な素材だった。

リーダーの1人、ドラッガーは、バルトークと親交のあったフェリックス・ガリミールからバルトークの真髄を1970年代に伝授され、次第にレパートリーに加えて、1988年、カーネギー・ホールでのデビューに当たり全6曲を1回の公演で演奏して注目を集め、そのライヴの余勢をかって一気に全曲録音を完成させた。

曲により第1と第2ヴァイオリンが交替し、一晩に全6曲を奏き通すこともあるという彼らの精力的なバルトーク演奏には、鋭い知性と豊かな感性とが見事に調和した、エマーソンSQの理想のアプローチを垣間見る思いがする。

この団体は、バルトークが見せる妥協のない厳しい造形を明確に浮き彫りにして、いささかの曖昧さも残さない。

そして、優れて集中的なバルトークの表現を、迫真の緊迫感をもって再現している。

音楽の振幅を思い切って幅広く拡大した演奏である。

その拡大は強奏はもとより、ことに弱音の表現力を心底から信頼して行なわれているのが特徴である。

激しい求心力と頼り甲斐のある安定感とともに、弦楽器ならではのテクスチュアの多様さも耳を引き付ける。

第5番のフィナーレなど、その典型である。

その反面、第2番や第6番の終楽章がそうなのだが、しなやかな、しかし聴き手の肺腑を抉らないではおかない深々とした歌が歌われ、演奏がひとつの要素に片寄って単調に陥るのを防いでいる。

これは彼らの純粋で温厚な性格と、疲れを知らない精気を鼓舞させて完成した極めてダイナミックにして情熱的なバルトークであり、彼らの類い稀な芸術性の高さを証明している。

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classicalmusic at 20:42コメント(0)トラックバック(0)バルトーク 

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クラウディオ・アバド死去とのニュースが報道され、愕然としているところだ。

享年80、少し早い気もする。

ベルリン・フィルの芸術監督時代、胃がんを患い、一時は回復して、ポストを降りた後、ルツェルン祝祭の復興やモーツァルト管弦楽団を創設し、充実した演奏活動をしていたアバド。

アバドの業績と録音については、筆者もレビューを書いているので、そちらを参考にしていただきたい。

ご冥福を心よりお祈り致します。

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classicalmusic at 07:46コメント(0)トラックバック(0)アバド 

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ブーレーズは、15年もの長きにわたってマーラーの交響曲全集の録音に取り組んできたが、本盤は、その最後を飾るものである。

まさに、有終の美を飾る名演として高く評価したい。

全集の最後を、未完の交響曲第10番で終えるというのも、いかにもブーレーズらしい。

ブーレーズのマーラーは、若き日の前衛時代ではなく、むしろ角の取れたソフト路線が顕著となった時期の録音だけに、純音楽的なアプローチでありながら、比較的常識的な演奏に仕上がっていることが多いように思う。

そのような中で、今回の第10番は、もちろん、若き日のブーレーズのような切れ味鋭い前衛的な解釈が全体を支配しているわけではないが、近年のブーレーズに顕著な好々爺のような穏健的な解釈ではなく、むしろ、曲想を抉り出していくような冷徹とも言えるアプローチをとっている。

それ故に、甘さを一切排した、若き日のブーレーズを彷彿とさせるような名演に仕上がっている。

テンポがやや速めなのも、こうした傾向に拍車をかけており、私見ではあるが、ブーレーズが、マーラーの交響曲へのアプローチの仕方を、この第10番において漸く見出すことができたのではないかと思うほどだ。

演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。

ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。

ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃には、すっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜めてしまった。

もっとも、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。

もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。

本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、複雑なスコアで知られるマーラーの第10番を明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるように努めているように感じられる。

それ故に、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴と言えるだろう。

さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、マーラーが同曲に込めた死への恐怖や生への妄執と憧憬にまで及んでおり、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、かかる楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。

これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。

併録の「子供の不思議な角笛」は、第10番とは異なり、いかにも近年のブーレーズらしい穏健な解釈であるが、コジェナーやゲルハーヘルの独唱と相俟って、ゆったりとした気持ちで音楽を味わうことができるのが素晴らしい。

ゲルハーエルには庶民的な風合いがあって実に好ましく、しかも彼には庶民を装っている自分を脇から眺める、もう1つの自意識もあって「塔の中の囚人の歌」では囚人の大言壮語に対するパロディの視点がちゃんと確保されている。

コジェナーも「美しいトランペットの鳴り渡るところ」ではまことに情が深く、メゾソプラノの落ち着いたトーンと、コジェナーならではの表現力豊かな歌唱が魅力的である。

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classicalmusic at 01:04コメント(0)トラックバック(0)マーラーブーレーズ 

2015年04月26日


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ラトル&ベルリン・フィルの近年の充実ぶりを示す素晴らしい名演だ。

今後、本演奏を皮切りとしてマーラーチクルスを開始するようであるが、今後の録音に大いに期待できる名演である。

ラトルのベルリン・フィルへのデビューは、マーラーの「第5」であったが、意欲だけが空回りしたイマイチの演奏であったと記憶する。

その後の数年間は、ラトルもベルリン・フィルを掌握するのに苦労したせいか、凡演の数々を生み出すなど、大変苦しんだようである。

しかしながら、数年前のマーラーの「第9」あたりから、ベルリン・フィルを見事に統率した素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

本盤も、そうした一連の流れの中での圧倒的な名演だ。

第1楽章の冒頭から、ゆったりとしたテンポで重厚な深みのある音色を出している。

ここには、ラトルの「復活」に対する深い理解に基づく自信と風格が感じられる。

トゥッティにおいてもいささかも力むことがなく、力任せの箇所は皆無、テンポの緩急やダイナミックレンジの幅の広さは桁外れであり、随所にアッチェレランドをかけるなど、劇的な要素にもいささかの不足はない。

弦楽器のつややかな響きや、金管楽器の巧さも特筆すべきものであり、ベルリン・フィルも、アバド時代から続いた世代交代が、ラトル時代に入って、漸く安定期に入ったことを大いに感じることができる。

終結部の大見得を切った演出は実にユニークであるが、あざとさをいささかも感じさせないのは、ラトルの「復活」への深い共感と理解の賜物であると考える。

第2楽章は一転して速いテンポであるが、情感の豊かさにおいては人後に落ちるものではなく、決して薄味な演奏には陥っていない。

中間部の猛烈なアッチェレランドは実に個性的な解釈。

第3楽章は、冒頭のティンパ二の強烈な一撃が凄まじく、その後の主部との対比は実に巧妙なものがあり、ラトルの演出巧者ぶりを大いに感じることが可能だ。

それにしても、この楽章の管楽器の技量は超絶的であり、あまりの巧さに唖然としてしまうほどだ。

後半の金管楽器によるファンファーレは、凄まじい迫力を誇っているが、ここでも力みはいささかも感じられず、内容の濃さを感じさせるのが素晴らしい。

低弦の踏みしめるような肉厚の重厚な響きは、カラヤン時代を彷彿とさせるような充実ぶりだ。

第4楽章は、ゆったりとしたテンポで進行し、静寂さが漂うが、ここでのメゾ・ソプラノのコジェナーは、素晴らしい歌唱を披露している。

ベルリン・フィルも、コジェナーの歌唱と一体となった雰囲気満点の美演を披露している。

特に、木管楽器の美麗な響きは、カラヤン時代にも優るとも劣らない美しさであり、聴いていて思わず溜息が漏れるほどだ。

終楽章は、壮麗にして圧倒的な迫力で開始され、低弦による合いの手の強調が実にユニークで、ゲネラルパウゼの活用も効果的だ。

主部は堂々たる進軍であるが、随所に猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、ドラマティックな要素にもいささかも不足はない。

合唱が入った後は、ゆったりとした荘重なインテンポで曲想を丁寧に描き出していく。

ソプラノのロイヤルや、メゾ・ソプラノのコジェナーも実に見事な歌唱を披露しており、ベルリン放送合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

そして、壮大なスケールと圧倒的な迫力の下に、この至高の名演を締めくくるのである。

SACDによる音質の鮮明さや音場の幅広さも本盤の価値を高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

木幡一誠氏によるライナーノーツの充実した解説は、実に読みごたえがあり、スカスカのライナーノーツが氾濫するという嘆かわしい傾向にある中で、画期的なものとして高く評価したいと考える。

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classicalmusic at 22:58コメント(0)トラックバック(0)マーラーラトル 

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カペー四重奏団から、現在少しずつ録音が進行しつつあるハーゲン四重奏団に至るまで、いったい何十組のベートーヴェンを聴いてきたのか、自分でもよくわからないが、筆者はこのハリウッド四重奏団の演奏が最高のベートーヴェンだと思っている。

ハリウッド四重奏団の特色は、明晰で強靱、輝きのある音色、明解なイントネーションとリズムにあると言える。

ハリウッド四重奏団の演奏の特徴は、『スジガネ入りのリスナーが選ぶ クラシック名盤この1枚』(知恵の森文庫)に詳しい。

この団体のベートーヴェンを推して、筆者の1人である難波敦氏は、「ハリウッド四重奏団は、演奏の約束事を軽く飛び超えて、大フーガを含めたすべての旋律を徹底的に歌うように演奏していく」と述べている。

筆者も全く同感で、ハリウッド四重奏団の演奏を聴くと音楽が持つ抒情を明確に感じ取ることができ、メロディーの艶やかな歌い方に聴き惚れてしまう。

そうかといって流麗になりすぎ、凡庸に流れてしまうような箇所がないことが素晴らしく、それは一重に第1ヴァイオリン奏者フェリックス・スラットキンの至芸を支える三者の力によるのだと察せられる。

他のカルテットは、曲が要求するある決まった演奏形式を必ず守ったうえで、自分たちの個性を展開しようとするのだが、形式を維持することにつねに気を配ろうとするために演奏が発展せず、そこで止まってしまうことがあり、ベートーヴェンの曲はメロディーがなくてつまらない、ということになってしまう。

しかし、ベートーヴェンはモーツァルトよりも遥かに、メロディーに頼って曲を書いた作曲家である。

心を込めて美しく歌うスラットキンの第1ヴァイオリンが主導して流麗にして繊細な音楽がつくられてゆくが、4人全体の響きが充実して均質的な美しさをもつので、演奏全体は深い奥行きと大きなスケール感をもつ。

どの曲も名演だが、ことに短調の2曲、作品131、132の2曲が、心に染み入る印象深い演奏になっている。

いずれも清らかな歌に満ちたみずみずしく深く澄んだ演奏で、他の名演奏には聴かれない鮮烈な抒情美を聴かせてくれる。

「後期」の演奏の王道である厳しく絞り込み緻密に練り上げた強固な演奏とは一線を画する演奏だが、ベートーヴェンの最晩年の心の在りように肉薄している点では、ブダペスト四重奏団やメロス四重奏団など「後期」の名盤たちと肩を並べる個性豊かな必聴の名演奏である。

歌うところは歌い、厳しいところは厳しく、そして全体的に落ち着いた、むしろヨーロッパのカルテットに通ずるような演奏になっている。

このような演奏を名演と呼び、名盤と呼ぶのであろうし、アメリカのカルテットによるベートーヴェンなどという先入観は持たないことだ。

名前で損しているような団体だが、緻密なアンサンブルとがっしりとした構成感、艶のあるあたたかな美しい音色で聴かせる非常に力のある名カルテットであり、じっくり聴いてみるとジュリアード四重奏団よりも実力が上かもしれない。

演奏者の名前や、録音されたレーベルだけで、聴くレコードを選ぶのは、愚かなことであるとつくづく感じているところだ。

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1944年3月にベルリン国立歌劇場で行われた定期公演のライヴ録音。

フルトヴェングラーの指揮による「魔弾の射手」序曲の録音は5種類あるが、この大戦末期のベルリンでのライヴ盤が傑出している。

死の直前のウィーン・フィルのスタジオ録音よりさらに彫りが深く、実に雰囲気豊かであり、フルトヴェングラーの情感が生々しく迫ってくる。

とりわけ曲の前半はテンポがきわめて遅いが、深閑としてボヘミアの森の暗さをこの上なく雰囲気豊かに描き切っている。

序奏はテンポが遅くておどろおどろしく、スケールも大きく、ホルンのロマンティックな音色が美しく、チェロの表情はつけすぎるくらいだ。

主部もスローテンポを維持し、経過句やコーダのアッチェレランドは抑え気味だが、ひびきの翳が濃く、細部まで刻明に弾き切っているので感銘深い。

1926年盤、1954年盤と並んで後世に遺したい名演と言えよう。

「ダフニスとクロエ」第2番は全奏の音がよく言えば溶け合っているが、実は分離が悪く、濁り気味なので、ラヴェルの音彩を楽しむというわけには到底ゆかず、「夜明け」のみずみずしい詩情など求むべくもない。

ティンパニが意味なく強いのもいただけないし、採るとすれば「無言劇」における木管のソロの巧さであろうか。

フルトヴェングラーの7種の「田園」の中では、このベルリン盤が最も主観的で、フルトヴェングラー色が強い。

フルトヴェングラーの「田園」で最も魅力があるのは第1、2楽章である。

どっしりと重々しく進める第1楽章、対照的に抒情を生かしてこまやかに歌ってゆく第2楽章、ともに楽器のバランスが鮮やかで、この2楽章のゆったりとした表現の美はフルトヴェングラーをおいては見られない。

第1楽章は1952年のウィーン盤によく似ているが、オケのせいもあっていっそう暗く、終結のリタルダンドが大きい。

第2楽章でもテンポの動きが多用されており、第2テーマのあたりのスピード感はほかの盤には見られぬところだ。

以上2つの楽章ではクラリネット奏者の巧さが印象的である。

第3〜5楽章はテンポも速くなって、いよいよ実演色濃厚になり、テンポの変化も多くなるが、そのぶんアンサンブルが雑になり、格調を崩してしまうのも事実だ。

たとえばスケルツォの最後の部分における猛スピード、フィナーレの第2テーマにおけるアッチェレランドなど、いくらなんでもやりすぎではないか。

もしもほかの指揮者がこんなことをしたら、徹底的に叩かれるのは必定だ。

それだけに「嵐」は凄絶だが、ティンパニのアタックは無機的だし、途中でガクンと遅くなるのもおかしい。

フルトヴェングラーならではの「田園」だが、やはり曲自体、これほどまでのドラマを必要としていないのだろう。

音質は、フルトヴェングラーの遺産のSACD化シリーズの中では、音質改善効果が極めて少ないと言えるが、既発売のCDと比較すると、若干は音質の向上効果は見られるところであり、フルトヴェングラーのドラマティックな名演を、不十分ながら、これまでよりは良好な音質で味わうことができることについては一定の評価をしておきたい。

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2015年04月25日


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オーパス蔵が良質のLPから見事な復刻を行った本盤は、トスカニーニの指揮芸術を良好な音質で満喫することができる1枚である。

かつて、トスカニーニは、快速のインテンポによる指揮者というイメージがあったが、それは、過去に発売された多くのLPやCDのデッドで劣悪な音質によるところが大きい。

最近では、復刻CDやXRCD化などにより高音質化が図られ、歪められたトスカニーニ像が正されつつあるのは朗報と言うべきであろう。

本盤も、オーパス蔵による見事な復刻によって、トスカニーニの至芸を十分に満足し得る音質で味わうことができるようになったことが素晴らしい。

どの曲も、決してインテンポではなく、曲想を巧みに描き分けるための緩急自在のテンポ設定を行うことにより、聴かせどころのツボをしっかりと押さえている。

加えて、トスカニーニならではの濃厚なカンタービレが随所に現れ、徹底的に鍛え抜かれたNBC交響楽団の名人芸も卓越している。

本盤に収められたいずれの曲もトスカニーニの類稀な指揮芸術の至芸を味わえる超名演揃いであると高く評価したい。

メインのシューマンの「第3」は、表題の「ライン」を意識した演奏ではなく、いわゆる音のドラマとしての交響曲を念頭に置いた演奏であるが、オーパス蔵による見事な復刻によって、スコア一辺倒の冷たい音楽ではなく、血も涙もある名演に仕上がっている。

全体の印象は、あたかも南国イタリアの青空の下にあるようで、随所にトスカニーニ一流のカンタービレが、いささかも品性を失うことなく効果的にちりばめられている。

テンポも随所において変化をさせており、トスカニーニ=インテンポという見解を覆すのに十分な卓抜さだ。

ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲は、更に名演で、これはイタリアの陽光に照らされたフランス音楽だ。

詩情がいのちのラヴェルだが、トスカニーニは委細構わずに進む。

とにかく美しさが徒事ではなく、この色彩の洪水と凄絶なフォルテと音楽の前進性は素晴らしいの一語に尽きる。

オーケストラの統率力は抜群で、どんなに楽器が増え、最強奏してもごちゃつくところはいっさいない。

シューマンと同様に、情景描写よりも音のドラマを意識した演奏を行っているが、にもかかわらず、ラヴェルの巧みなオーケストレーションを余すことなく完璧に描き出し、結果として、同曲に込められた情景が眼前に浮かび上がってくるという離れ業を成し遂げている。

これは、巨匠トスカニーニだけが成し得た至高の指揮芸術と言えるだろう。

それにしても1949年の録音というのが信じられないくらい音質が良い。

そして、圧巻は超名演として知られるレスピーギの「ローマの祭り」。

冒頭から終結部まで、誰にも止めることができない勢いと張り詰めるような緊張、オーケストラの驚異的なアンサンブル、そして切れば血が吹き出てくるような圧倒的な生命力が全体を支配しており、それでいて、10月祭の官能的とも言うべきカンタービレの歌い方も実に感動的だ。

特に、主顕祭のもはや人間業とは思えないようなド迫力には、評価する言葉すら思いつかないくらい、完全にノックアウトされてしまった。

これについては、数年前にXRCD化され、当該盤こそが決定盤と考えていたが、オーパス蔵による復刻は、特に重低音の再現において著しい成果をあげており、これだけでも一聴の価値があると思う。

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ティボーとコルトーの組んだフランクのヴァイオリン・ソナタ、およびショーソンのピアノと弦楽四重奏のためのコンセールは、カぺー四重奏団の録音と並ぶフランス室内楽の代表的録音。

いずれも定評ある歴史的名演であるが、本盤の売りはオーパス蔵によるSP復刻の見事さであろう。

ティボーやコルトーといった歴史的な演奏家の名演奏を、現在望み得る最高の音質で味わうことができるのは何という幸せであろうか。

ティボーの録音はいかにも音が古めかしくて、と敬遠している向きも、とりあえずこの1枚だけは聴いてみて欲しい。

フランクのヴァイオリン・ソナタは、精神性と宗教性を兼ね備えた近代フランスのヴァイオリン・ソナタの中の傑作で、数多くの名録音が残されているが、その録音中最も古くから注目されているのが、このティボーとコルトーの1枚だろう。

ティボーは、ビロードのような音色と個性的な語り口を生かし、甘くエレガントにこの名作を歌い上げている。

時代を感じさせる夢幻的な音だが、曲の内面から語られる詩情の豊かさは凄い。

夢幻性の滲んだ演奏スタイルはもちろん現代の感覚とは遠いが、深いところから音の表面に盛り出てくるものの大きさ、こまやかさ、詩情の豊かさには底知れぬものがある。

それはフランクが期待した以上のものかもしれないが、音楽から真の輝きをもたらしている点で空前絶後である。

それにしても、フランクのヴァイオリン・ソナタにおけるティボーの技巧一辺倒ではなく、瀟洒な味わいの繊細な美しさ。

そのロマンティックでありながらも洗練された表現は、陶酔的な魅力を放っている。

これこそフランスのエスプリと言うべきであり、コルトーの併せ方も素晴らしいという一言に尽きる。

第2楽章、躍動するコルトーのピアノにズシリとした手応えを聴き、やがて優美な3連音の伴奏に乗って歌うティボーの可憐なメロディ(第2主題の後半)を確かめた後、全曲の核心たる第3楽章になると、一瞬、別録音かと思うほど音質がリアルさを増す。

それに何よりも、2人の音楽的なセンスの高貴なまでの美しさには惚れ惚れとさせられてしまうところであり、微妙な移ろいを見せるティボーのヴァイオリンとコルトーの含蓄の深さが光っている。

ティボーにしてもコルトーにしても少年時代にフランクが現存していたことも強みであろう。

フランクはEMIからも出てるがティボーの音色が全然違うので、是非オーパス蔵盤を聴いていただきたい。

SP盤特有のノイズはかなり目立つが、それでもノイズ減で隠れていたヴァイオリンの艶がリアルで素晴らしく、ノイズがどうのこうのといったレベルではなく、本質的にヴァイオリンの響きが違うので驚いた次第である。

しかもこのオーパス蔵盤のほうがティボーの線の細さがより鮮明に捉えられている印象を受けるので尚更良く、聴き慣れた演奏だが、魅力を再認識した。

ショーソンの憂愁な抒情の歌わせ方も味わい深いものであり、現在においてもなお、両曲のベストワンに君臨する超名演と評価したい。

20世紀前半のフランスを代表する名演奏家は単にフランス的な感覚を披露しているのではなく、作品から深い情感と高い昂揚感を引き出しているのである。

まさに“不世出”とはこのような演奏について言える表現である。

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本作は、生涯に100曲以上の交響曲を作曲したハイドンの第104番《ロンドン》と第103番《太鼓連打》を収録したアルバム。

若きカラヤンがウィーン・フィルと共に、生命力あふれる実に堂々とした演奏で、ハイドン最後の2曲の交響曲を聴かせてくれる作品。

大編成のモダン・オーケストラを壮麗に響かせた艶やかで優美な演奏で、まさに王者の風格があり、独自の魅力を漂わせている。

ウィーン国立歌劇場音楽監督時代の一連のデッカ録音の中の最高作の1つで、明るいオケの音色を生かして、確固たる古典美をつくりだしている。

カラヤンのハイドン交響曲に初めて接したのはウィーン・フィルを振っての1959年他の英デッカのLP盤《太鼓連打》《ロンドン》だったリスナーも多いと思う。

後年カラヤンはハイドン交響曲を1975年頃ベルリン・フィルとEMIに、そして1980年代初め同じベルリン・フィルとDGに録音しており、ますます豪華で重厚な交響曲へと仕上げられて行き、流麗なレガートの味は堪能できるだろう。

しかし三つ子の魂百までで英デッカ盤のある意味溌剌さは後年盤には求める事は出来ず、既に50年以上前の録音とはいえ、今なお、価値の高い1枚と言えるだろう。

ハイドンの《ロンドン》はカラヤンが好んで指揮した楽曲の1つである。

筆者の手元にも、ベルリン・フィルを指揮した新旧2種のスタジオ録音、ウィーン・フィルを指揮した1979年のザルツブルク音楽祭でのライヴ録音、そして本盤の合計で4種もある。

これらの中でも、最もバランスのとれた名演は、本盤のウィーン・フィルとのスタジオ録音ではないかと考えている。

演奏者の品位と、曲の力を引き出した演奏で、カラヤンらしいそつのない、颯爽とした演奏になっていて、クレンペラーのような荘厳さとは変わってエレガントなタッチを感じる。

カラヤンならではの颯爽としたテンポによる演奏であるが、よく聴くと、隋所に抑揚の効いた極上のレガートがかかっており、各楽章の描き分けも実に巧みだ。

特に第4楽章、あっけないほどに隙のない展開、小5分で締めくくってしまうが、そこが心憎いほど演出巧者なカラヤンの神髄かも知れない。

ウィーン・フィルも、極上の美演でカラヤンの指揮に応えている。

《太鼓連打》は、後年のベルリン・フィルとのスタジオ録音も名演であり、あとは好みの問題だと思うが、この当時のウィーン・フィルの演奏の美しさには抗しがたい魅力がある。

前述のようにカラヤンはハイドンを晩年ベルリン・フィルとも録音しているが、このウィーン・フィルとの録音では、肩の力を抜いて、まさに「ご当地」の音楽に興じている演奏家たちの気構えが充分に伝わってくる。

両曲で聴かせる品の良さ、快活さ、そして音の密度の濃さには、聴いていて満足感を得られるし、何よりハイドンの音楽の素晴らしさを存分に紹介してくれていると思う。

なお、《ロンドン》等最終楽章で本盤は後年盤で演奏された反復部分は略されておりスッキリしている。

SHM−CD化により、これらの名演がより高音質で聴けることになったことを大いに喜びたい。

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2015年04月24日


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ラロのスペイン交響曲(4楽章版)とショーソンの詩曲、サン=サーンスのハバネラ&序奏とロンド・カプリチオーソのカップリングで、ティボーの面目躍如たるレパートリーがぎっしり詰まった1枚。

しかしながら、オーパス蔵の素晴らしい復刻を持ってしても、音質の劣悪さはあまり解消されたとは言えない。

ティボーのヴァイオリンに焦点を絞って録音がなされたこともあって、オーケストラの音質が劣悪であり、序奏とロンド・カプリチオーソにおけるピアノの音も蚊の鳴くような音だ。

しかしながら、これだけで切って捨ててしまっては、本CDの意義が全く見失われてしまう。

本CDで聴くティボーのヴァイオリンは、自在闊達というか草書体というか、ティボー節というべき独特の提琴の歌と響きが堪能できる。

ティボーの絹のような細い官能的な線が魅力的で、何と言う瀟洒な味わいであろうか。

現今のヴァイオリニストでも、個性的な弾き手は数多くいるが、個性に加えて、これだけのフランス風のエスプリ溢れる瀟洒な味わいを音化できる弾き手は、おそらくはティボーだけではないかと考える。

確かに、技量という点からすれば、他にも優れた弾き手はあまたいるが、ティボーの演奏を聴いていると、仰ぎ見るような偉大な芸術を前にして、技量など二の次のように思われてくる。

いずれの曲もティボーの至芸を味わうことが可能であるが、筆者は、特に、スペイン交響曲と詩曲に惹かれた。

スペイン交響曲はエルネスト・アンセルメの指揮するスイス・ロマンド管弦楽団のメリハリのついた伴奏がついている。

ティボーのヴァイオリンに録音の射程を絞っており、ティボーの艶めかしいソロを堪能するにはうってつけで、スペイン交響曲のむせ返るような異国情緒を、これ以上に雰囲気豊かに演奏した例はほかにも見当たらない。

詩曲は、ウジェーヌ・ビゴーの指揮するラムルー管弦楽団との録音であるが、詩曲におけるこれぞフランス音楽ならではの香しい詩情は、ティボーだけにしか出し得ない瀟洒な味わいに満ち溢れている。

絶妙な間の取り方といい、歌いまわしの妙技といい、ポルタメントを駆使してまさに妖艶という言葉がぴったりの演奏である。

ノイズは凄まじいものの、フィリップスから出たものよりは音像がはっきりしている。

サン=サーンスのハバネラは、かつてケン・レコードから出ていたもので、ピエール・モントゥーの指揮するサンフランシスコ交響楽団との共演だが、モントゥーの伴奏は過不足なく、実に巧い。

序奏とロンド・カプリチオーソは、ピアノ伴奏であり、極端にヴァイオリンをクローズアップした録音ではあるものの、ティボーならではの自由自在な弾きっぷりが心地よい。

勿論、前述のようにテクニックや正確さ、楽譜への忠実度のみで音楽を聴く向きには論外なアナクロにしか映らないであろう代物だが、一度はまると媚薬のような弦の悦楽に耽ることができる。

ティボーと言えば、フランス流の洒脱さや気品といった陳腐な文脈で語られることが多い。

実際、そういう面が一番の聴きものである事は否めないが、どうか、歌いまわしの節々に現れる、ヴァイオリンの音色の純度の高さにも耳を傾けてほしいものだ。

音質は、オーパス蔵特有の極端な音質改変(低域あるいは中高域の異常な強調など)もなく、ほぼ音源そのままの音になっているのが好感が持てる。

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classicalmusic at 22:46コメント(0)トラックバック(0)サン=サーンス 

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グレン・グールド没後20年/生誕70年を記念した3枚組メモリアル・アルバム。

彼の代表作である、1955年と1981年の「ゴルトベルク変奏曲」をカップリングし、さらにレアな音源(1955年の録音時のアウトテイク)を初CD化。

グールドの全く対照的な新旧2つのゴルトベルク変奏曲を1つのセットに収めた好企画盤。

1955年の「ゴルトベルク」は、24ビットリマスターで収録、1981年の「ゴルトベルク」のオリジナル盤はデジタル録音だが、今回は、並行して録音されていたアナログ・テープからのDSDマスタリングによるマスターを初めて使用。

そして、グールドと縁の深いティム・ペイジと「ゴルトベルク」について語った50分におよぶインタビュー・セッション(1982年録音、日本盤のみ完全日本語訳付)を収録。

グレン・グールドのレコーディング・デビュー作となる1955年の「ゴルトベルク変奏曲」は世界に旋風を巻きおこした。

確固たる現実的な音楽観、完璧な演奏技術、驚くべき透明感、的を得たリズムの変化、それに加え、ハミングしたりときには乱暴なまでにテンポを速める不思議な癖。

それらがグールドをたちまち伝説のピアニスト、まったく新しい手法によるバッハの音楽の解明者の地位に祭りあげた。

そして、それから26年後のグールドの最後のレコーディング作品もまた「ゴルトベルク変奏曲」だった。

こちらでは、さらにリラックスし、ときおり遅すぎるほどにテンポを落とし、より内面的に音楽を読みとり(けれども彼ならではの激しいアタックやアクセントは変わっていない)、変奏曲のうち15曲で前半部を反復している。

1955年作品と1981年作品はそれぞれ独自の手法をとっているが、どちらも素晴らしく、これら2つの演奏はどちらもクラシック音楽全体の中でも比類を絶して素晴らしいもののひとつに入る。

旧盤の繰り返しをすべて省いた一直線の快速の演奏、新盤のゆったりとしたテンポで、自らの人生を顧みるかのような味わいのある演奏。

いずれも優劣の付け難い永遠の超名演と言うべきであるが、それを1つのセットにまとめることによって両者の違いをより明確に聴き分けることが可能となったのも大いに評価に値する。

新盤では、繰り返しの実施の有無が各変奏曲によってバラバラで一貫性がないとの批判が一部にあるが、これは、グールドのバッハ解釈の究極の到達点を示すものとして、むしろ肯定的に解釈すべきではなかろうか。

このCD3枚組の新たな豪華ボックスセットは楽しく、聴く喜びにあふれ、音楽の真理があり、音楽を愛する者なら誰でもコレクションに加えるだろう。

ディスク3にはレコーディング・セッションのアウトテイクとおしゃべりが収録されている。

そのなかでグールドは即興で「God Save the King」を弾き、さらにそれを「The Star-Spangled Banner」へつないでいる。

また、評論家ティム・ペイジによるロング・インタビューはグールドの風変わりなユーモアと独特の音楽観に深い洞察を与えてくれる。

本作はまさに必携のコレクションである。

もちろん、グールドのバッハだけが、バッハ演奏の正当な解釈であると言うつもりは毛頭ないが、従来の古色蒼然たるバッハ解釈に新風を吹き込み、芸術性を損なうことなく、バッハの知られざる魅力を堪能させてくれたという意味では、グールドの功績は大と言わざるを得ないだろう。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)バッハグールド 

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ワルター晩年の一連の録音の中でも、彼の温かい人柄と鋭敏さの表れた屈指の名演奏と高く評価したい。

シューベルトの「第9」は超名曲であるが、演奏そのものは非常に難しいと考えている。

というのも、シューベルトが相当な意欲を持って作曲しただけに、ここには、あらゆる要素が内包されているからである。

ウィーン風の優美な情緒は当然のこととして、偉大なる先達であるベートーヴェンを意識した並々ならぬ意欲、最晩年のシューベルトならではの死への恐怖と人生への達観の境地、そして、後年のブルックナーの交響曲につながる巨大さだ。

同曲の名演が、どこか食い足りないのは、これらのすべての要素を兼ね備えるということが容易ではないことに起因するものと考えている。

そのような中で、ワルターの演奏は、ブルックナーの交響曲につながるような巨大さにはいささか欠けるものの、それ以外の要素についてはすべて兼ね備えた名演と言えるのではないだろうか。

まさにこの曲の「天国的な美しさ」が端的に伝わってくる名演と言えるところであり、シューベルト最後最大の、そして歌に満ち抒情あふれる美しいこのシンフォニーを、ワルターは心優しく温かくのびやかに歌いあげている。

それでいて、メリハリはきいているし、アゴーギグをきかせてテンポを動かし、リズムを生かしている。

各楽器の弾かせ方にもウィーン風の情緒が漲っているし、例えば終楽章にも見られるように、劇的な迫力においてもいささかの不足もない。

特に第3楽章のトリオの優美さは、もうこれ以上の演奏は考えられないくらい素晴らしく、他のどんな名指揮者が一流オケを振った演奏よりもこの曲の美しさが浮かび上がってくる様は、ワルターの至芸という他はない。

また、第2楽章の中間部の、シューベルト最晩年ならではの行き場のない陰りの音楽の絶妙な表現も見事の一言に尽きる。

コロンビア交響楽団も、ワルターの統率の下、極上の美演を披露しており、本名演に華を添えている点を見過ごしてはならない。

現代の指揮者では少なくなってしまった人間味あふれるのびやかなワルターの指揮とシューベルトのスケール雄大な曲が相俟って、聴き応えのするアルバムになっている。

DSDリマスタリングによって、音質が驚くほど鮮明でクリアになったのは、大変素晴らしいことだ。

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classicalmusic at 00:42コメント(0)トラックバック(0)シューベルトワルター 

2015年04月23日


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モーツァルトのレクイエムには様々な名演がある。

筆者も、かなりの点数の演奏を聴いてきたが、それらに接した上で、再び故郷に帰ってきたような気分になる演奏こそが、このベーム(1971年)盤だ。

これはもう再三再四賛辞を送られてきた名演中の名演で、ベーム最良の遺産の1つと高く評価されているもの。

テンポは、いかにも晩年のベームらしく、ゆったりとした遅めのテンポを採用しているが、例えば、同じように遅めのテンポでも、バーンスタイン盤のように大風呂敷を広げて大げさになるということはない。

かと言って、チェリビダッケのように、音楽の流れが止まってしまうような、もたれてしまうということもない。

遅めのテンポであっても、音楽の流れは常に自然体で、重厚かつ壮麗で威風堂々としており、モーツァルトのレクイエムの魅力を大いに満喫させてくれる。

同じく重厚かつ壮麗と言っても、カラヤンのように、オペラ的な華麗さはなく、ベームは、あくまでも宗教曲として、質実剛健の演奏に心掛けている点にも着目したい。

表面こそ自然な流れを重んじた仕上がりながら、内からは凄まじいばかりの気迫が噴出する。

最近では、ジュスマイヤー版を採用した壮麗な演奏が稀少になりつつあるが、これほどまでにドイツ正統派の風格のあるレクイエムは、今後も殆ど聴くことはできないと思われる。

ベームのレクイエムを聴くと、モーツァルトがバッハの宗教曲などのバロック音楽を自分の音楽素養として持ち、続くベートーヴェンやブラームスの音楽に影響を与えたのが分かる解釈である。

本演奏については、ユニバーサルからシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤が発売されたことから、当該盤について言及をしておきたい。

手元にあるハイブリッドSACD盤及びSHM−CD盤と聴き比べてみたが、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって次元の異なる高音質に生まれ変わったと言える。

SHM−CD盤は問題外であるが、ハイブリッドSACD盤ではやや平板に感じられた音場が非常に幅広くなったように感じられ、マルチチャンネルが付いていないにもかかわらず、奥行きのある臨場感が加わったのには大変驚かされた。

特に、力強く濁りのないコーラスのハーモニーが、より鮮明になったのは特筆すべきことだ。

紙ジャケットの扱いにくさや解説(特に対訳)の不備、値段の高さなど、様々な問題はあるが、ネット配信の隆盛によってパッケージメディアが瀕死の状態にある中でのユニバーサルによるSACD盤発売、そして、シングルレイヤーやSHM−CD仕様、そして緑コーティングなどの更なる高音質化に向けた果敢な努力については、この場を借りて高く評価しておきたいと考える。

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classicalmusic at 22:48コメント(0)トラックバック(0)モーツァルトベーム 

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2007年収録の第6番でスタートし、2011年の第9番で完結したゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団によるマーラーの交響曲全集が、10枚組のBOXセットとなって低廉に入手できる運びになったことをまずは喜びたい。

ゲルギエフのマーラー交響曲全集は、第8番を除きすべてロンドン、バービカンホールでのロンドン交響楽団とのライヴ録音である。

50代後半のいかにもエネルギッシュなゲルギエフらしい一気呵成な対応であり、手兵のオーケストラを一定期間集中させ、全曲に一貫した解釈を施すうえではこの短期決戦のライヴ録音は有効だが、その実、相当な自信に裏づけされたものであろう。

このシリーズは、すべてコンサートでの演奏をライヴ録音しているところにその特徴があり、実演における白熱の模様がストレートに肌で感じられるのも魅力のひとつと言えるところであり、第6番や第7番などはその最たる例で、極端なテンポ設定や荒削りでユニークなアプローチも際立っていた。

また、シリーズの大詰めの時期にあたる第5番と第9番では、同一プログラムを数多くこなしたのちに、周到な準備を経て収録に臨んだこともあり、完成度の高さでもゲルギエフがロンドン交響楽団のシェフに就任して以来、屈指の成果を示している。

ことに第9番は、ゲルギエフ&ロンドン交響楽団によるマーラーチクルスの中でも飛び抜けた内容を誇る名演と高く評価したい。

しかしながら、上記以外の各交響曲の演奏を顧みると、名演とイマイチの演奏が混在しており、玉石混交と言った状況にある。

これまで発売されたいずれの交響曲も、聴く前は、名演、駄演のどちらに転ぶかわからないといった予測が付かない不安があったが、総体としては、これまでの様々なマーラー演奏の中でもかなり上位にランキングできる素晴らしい名演集と評価してもいいのではないか。

ゲルギエフは、ここでは、チャイコフスキーやショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーなどで垣間見せた野性味溢れるドラマティックなアプローチは薬にしたくもない。

むしろ、自我を極力抑えて、マーラーの音楽を精緻に美しく描き出していくことに専念しているように思われる。

もちろん、演奏に強弱の起伏がないわけではなく、トゥッティにおける金管楽器やティンパニなどの最強奏は圧巻の迫力を誇っているのだが、いわゆる踏み外しがいささかも感じられないのである。

これは、ゲルギエフが、テンポの変化を最小限に抑えているのに起因しているのかもしれない。

したがって、この演奏の場合、ドラマティックな要素は極めて少なく、むしろ、スケールの壮大さで勝負した感がある。

このようなアプローチは、本来的にはマーラーのような劇的な要素が支配的な交響曲の場合には相応しいとは言えないが、前述のような壮大なスケール感と精緻な美しさによって、マーラーに新鮮な魅力を見出すことに成功した点は評価せざるを得ないのではないかと考える。

マーラーに、ドラマティックな演奏を期待する聴き手、バーンスタインやテンシュテットなどの劇的な名演を好む聴き手からは、物足りないとの批判が寄せられることは十分に予測されるが、音楽構成を大きく捉えて細部をよく彫琢し、かつメロディの美しさとリズムの躍動感を際立たせた演奏は抜群のバランス感覚を感じさせる。

筆者としては、マーラーに新しい光を当てた異色の名演として、高く評価したいと考えている。

SACDマルチチャンネルによる極上の高音質録音も、ゲルギエフの精緻なアプローチを鮮明に再現し得るものとして、大いに歓迎したい。

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ワイセンベルクが1966年に復帰して約10年後、彼とカラヤンの絆が実を結んだ全盛期の頃の演奏。

リハーサルなしで録り上げた第4番をはじめ、すべての楽章、旋律、どれもが聴き応え充分な内容の1枚。

しかしながら、そもそもカラヤンが、協奏曲の指揮者として果たして模範的であったかどうかは議論の余地があるところだ。

カラヤンは、才能ある気鋭の若手奏者にいち早く着目して、何某かの協奏曲を録音するという試みを何度も行っているが、ピアニストで言えばワイセンベルク、ヴァイオリニストで言えばフェラスやムター以外には、その関係が長続きしたことは殆どなかったと言えるのではないだろうか。

ソリストを引き立てるというよりは、ソリストを自分流に教育しようという姿勢があったとも考えられるところであり、遺された協奏曲録音の殆どは、ソリストが目立つのではなく、全体にカラヤン色の濃い演奏になっているとさえ感じられる。

そのような帝王に敢えて逆らおうとしたポゴレリチが練習の際に衝突し、コンサートを前にキャンセルされたのは有名な話である。

本盤に収められた演奏も、どちらかと言えばカラヤン主導による演奏と言える。

カラヤンにとっては、当時蜜月関係のピアニストであったワイセンベルクをあたたかく包み込むような姿勢で演奏に臨んだのかもしれない。

特に、オーケストラのみの箇所においては、例によってカラヤンサウンドが満載。

鉄壁のアンサンブルを駆使しつつ、朗々と響きわたる金管楽器の咆哮や分厚い弦楽合奏、そしてティンパニの重量感溢れる轟きなど、これら両曲にはいささか重厚に過ぎるきらいもないわけではないが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功している。

カラヤンの代名詞でもある流麗なレガートも好調であり、音楽が自然体で滔々と流れていくのも素晴らしい。

ワイセンベルクのピアノも明朗で透明感溢れる美しい音色を出しており、詩情の豊かさにおいてもいささかの不足はなく、とりわけ両曲のカデンツァは秀逸な出来栄えであるが、オーケストラが鳴る箇所においては、どうしてもカラヤンペースになっているのは致し方がないと言えるところである。

それ故ワイセンベルクによるピアノ演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルの中の1つの楽器と化しており、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築の最も忠実な奉仕者であると言えるところであり、このような演奏では、ワイセンベルクのピアノは単なる脇役に過ぎない。

要は、いわゆるピアノ協奏曲ではなく、ピアノ付きの交響曲になっていると言える。

それ故に、カラヤンのファンを自認する高名な評論家でさえ、「仲が良い者どうしの気ままな演奏」(リチャード・オズボーン氏)などとの酷評を下しているほどだ。

しかしながら、筆者は、そこまでは不寛容ではなく、本演奏は、やはり全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルでないと成し得ないような異色の名演であると高く評価したい。

たとえば、第3番冒頭の、ピアノが入ってくるところの美しさなど絶品で、オーケストラもピアノもこんなに美しい演奏は、そうそうない。

いわゆるピアノ協奏曲に相応しい演奏とは言えないかもしれないが、少なくとも、ベートーヴェンの楽曲の演奏に相応しい力強さと重厚さを兼ね備えていると思われるからだ。

筆者としては本演奏を両曲のあらゆる演奏の中でも最もスケールが雄渾で、壮麗な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

特に、ベートーヴェンの音楽に“精神”でなく“美”を求める人には、お薦めの1枚である。

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2015年04月22日


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カラヤンの生誕100周年を契機に、様々なライヴの名演盤が発掘されているが、本盤も、カラヤンがライヴの人であることを証明する素晴らしい名演だ。

近年発売された様々な伝記でも明らかにされているが、カラヤンは、スタジオ録音とコンサートを別ものと捉えていた。

そして、コンサートに足を運んでくれる聴者を特別の人と尊重しており、ライヴでこそ真価を発揮する指揮者だったことを忘れてはならない。

カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代は一般的に1960年代及び1970年代と言われているが、この当時の弦楽合奏は鉄壁のアンサンブルと独特の厚みがあり、いわゆるカラヤンサウンドの基盤を形成するものであった。

本ライヴ録音はまさにその全盛期の真っ只中に演奏されたものだけに、いわゆるカラヤンサウンド満載の演奏と言える。

冒頭のモーツァルトからして、絶妙のレガートによる極上の美演が繰り広げられており、ディヴェルティメントのような軽快な楽曲を超一流の高貴な芸術作品に仕立て上げているというのは、カラヤンならではの魔術という他はない。

一糸乱れぬアンサンブルを駆使した重量感溢れる分厚い弦楽合奏は圧巻の迫力を誇っていると言えるところであり、カラヤンは、このような重厚な弦楽合奏に流れるようなレガートを施すことによって、曲想を徹底して美しく磨き抜いている。

これによって、おそらくは同曲演奏史上最も重厚にして美しい演奏に仕上がっていると言えよう。

古楽器奏法やピリオド楽器の使用が主流となりつつある今日においては、このようなカラヤンによる重厚な演奏を時代遅れとして批判することは容易である。

しかしながら、ネット配信の隆盛によって新譜CDが激減し、クラシック音楽界に不況の嵐が吹き荒れている今日においては、カラヤンのような世紀の大巨匠が、特にディヴェルティメントのようなモーツァルトとしては一流の芸術作品とは必ずしも言い難い軽快な曲を、ベルリン・フィルの重量感溢れる弦楽合奏を使って大真面目に演奏をしていたという、クラシック音楽界のいわゆる古き良き時代(それを批判する意見があるのも十分に承知しているが)が少々懐かしく思われるのもまた事実であり、このような演奏を聴くとあたかも故郷に帰省した時のようにほっとした気持ちになるというのも事実なのだ。

このように賛否両論はある演奏であると言えるが、筆者としては、同曲を安定した気持ちで味わうことができるという意味において、素晴らしい名演と高く評価したい。

ストラヴィンスキーの「春の祭典」は、同曲演奏史上でもトップの座に君臨する超弩級の名演である1978年ライヴ録音(パレクサ盤)に連なる確かな道程を感じることのできる名演である。

「春の祭典」は、まずは管楽器奏者の抜群の技量に圧倒される。

これがライヴ録音なんて信じられない。

弦楽合奏の厚みも桁外れのド迫力であり、こうしたベルリン・フィルの猛者を圧倒的な統率力で纏め上げていくカラヤンの凄さ。

しかも、技術偏重には陥らず、音色に妖気のようなものが漂っているところが見事であり、「春の祭典」の本質を射抜いた史上初の演奏と言っても過言ではないのではないか。

名うての名プレーヤーが揃うベルリン・フィルを、カラヤンが圧倒的な統率力でドライブし、緩急自在のテンポを駆使して、難曲の代表格である同曲の聴かせどころを心得た心憎いまでの巧みな演奏を行っており、同曲を実にわかりやすく聴かせてくれる点を高く評価したい。

音質は、1972年のライヴとは思えないくらい鮮明である。

カラヤンのライヴ録音は、今後もいろいろと発掘されていくと思われるが、おそらくは、それらのライヴ録音によって、カラヤンの凄さがあらためて再認識されるのではないかと大いに期待している次第だ。

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classicalmusic at 22:42コメント(0)トラックバック(0)カラヤンストラヴィンスキー 

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本盤は、ヴァイオリン奏者、アンネ=ゾフィー・ムターとピアニスト、ランバート・オーキスが1996年2月ミュンヘンのガスタイク・フィルハーモニーにおいて、3夜にわたって行われたリサイタルのライヴ・レコーディング盤で、ムター・モーツァルト・プロジェクト最後の1組となったものだ。

ピアノ三重奏曲集は物足りない演奏であったが、協奏曲全集と双璧の充実したソナタ全16曲の演奏。

かつてのベルリン・リサイタル盤のK.304やベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集での過渡的であまりにも作為的なテンポや音色造りは一掃されて、ここでの自然で確信に満ちた演奏は風格さえ漂い、ムターの持ち味である美しい音色とボウイングはもちろん素晴らしい。

ピアノのオーキスもロマン派以降の作品ではピアニストとしての魅力や音色に不満を感じるが、もともとフォルテピアノを得意とする人だけにここでは水を得た魚のようだ。

ムターの場合カラヤン時代とカラヤン以降の時代に分けられるが、本盤に収められた演奏に関しては1人の女性ヴァイオリニストとしての表現力に目覚めたムターの感受性の世界と言えよう。

かつては巨匠カラヤンの指導の下、10代でデビューしたムターは、カラヤン&ベルリン・フィルという土俵の上で懸命な演奏を行っていたところであるが、1989年にカラヤンが鬼籍に入った後の1990年代に入ってからはその素質や個性を大きく開花させ、個性的な演奏の数々を披露するようになったところである。

カラヤンから脱皮して1人のアーティストとしての饒舌な節回しがムターらしさになっており、こんなに心に響くモーツァルトの音はムターならである。

ムターのヴァイオリン演奏は、他の多くの女流ヴァイオリニストのように抒情的な繊細さや優美さで勝負するものではない。

一部の女流ヴァイオリニストによる演奏において聴かれるような線の細さなどはいささかも感じさせることはなく、常に骨太で明朗な音楽の構築に努めているようにも感じられるところだ。

もっとも、かような明朗さを旨とする演奏にはいささか陰影に乏しいと言えなくもないが、当時のムターの年齢を考えるとあまり贅沢は言えないのではないかとも考えられる。

本演奏においても、そうした骨太で明朗な音楽づくりは健在であり、加えて、心を込め抜いた熱きロマンティシズムや変幻自在のテンポの変化、思い切った強弱の付加など、自由奔放とも言うべき個性的な演奏を繰り広げている。

それでいて、お涙頂戴の感傷的な哀嘆調に陥ることは薬にしたくもなく、常に格調の高さをいささかも失うことがないのがムターのヴァイオリン演奏の最良の美質であり、これはムターの類稀なる豊かな音楽性の賜物であると考えられるところだ。

加えて、卓越した技量においても申し分がないところであるが、ムターの場合は巧さを感じさせることがなく、いわゆる技巧臭よりも音楽そのものの美しさのみが際立っているのが素晴らしい。

また、ライヴ録音ということもあって、各楽章の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出てくるような熱い生命力においてもいささかの不足はないところだ。

このようなムターによる卓越したヴァイオリン演奏の引き立て役として、オーキスによるピアノ演奏も理想的であると言えるところであり、いずれにしても本演奏は、ムターによる円熟の個性的なヴァイオリン演奏を味わうことが可能な素晴らしい名演と高く評価したい。

モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの録音の中でも、グリュミオー盤、ゴールドベルク盤に次ぐ素晴らしい演奏と言えるだろう。

音質は1996年のライヴ録音ではあるが十分に満足できるものと評価したい。

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本盤は、全盛時代のライナー&シカゴ交響楽団がいかに凄い演奏を繰り広げていたのかを窺い知ることができるCDである。

それは何よりも、SACDによる鮮明な高音質によるところが大きい。

本演奏は1957年のスタジオ録音であるが、今から55年以上も前の録音とは到底思えないような鮮度の高い音質に生まれ変わったのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

これを聴くと、当時のライナー&シカゴ交響楽団は、卓越した技量もさることながら、とりわけ弦楽合奏の音色に独特の艶やかさがあることがよくわかるところであり、単なる技量一辺倒の演奏を行っていたのではないことが理解できるところだ。

もちろん、技量には卓越したものがあり、鉄壁のアンサンブル、ブラスセクションのブリリアントな響き、唖然とするようなテクニックを有した木管楽器群など、当時のシカゴ交響楽団の演奏の凄さを味わうことが可能である。

演奏内容も、素晴らしい名演と高く評価したい。

ライナーが残した唯一の「新世界より」は、聴き慣れた作品からも新たな魅力を引き出し、音楽的な純度を際立たせるライナーの手腕が発揮された名演。

ドヴォルザークの音楽に特有のローカルな雰囲気を感じさせず、絶対音楽としての美しさを極めた演奏で、特にイングリッシュ・ホルンの名ソロが聴ける第2楽章の静かな美しさは、惚れ惚れするほど見事。

ライナーは、ドヴォルザーク特有の民族的な粉飾を脱し、純音楽的に極められた演奏を繰り広げており、終始速めのテンポで引き締まった演奏を心掛けているように思われる。

この演奏を聴いて真っ先に念頭に浮かんだのが、トスカニーニ&NBC交響楽団による演奏(1953年)だ。

トスカニーニの「新世界より」を、筆者はこの交響曲のほぼ理想的な再現と考えているが、この演奏は、残念ながらモノーラル録音であり、XRCD化されても、音質的にどうしても古さを感じさせずにはおかない。

しかし、トスカニーニに限りなく肉迫したライナーの名演がステレオ録音で遺されていることは、私たちにとって大きな救いであると言って良いだろう。

本演奏では、さすがにトスカニーニの演奏のような即物的な表現に徹し切れているとは言い難いが、それでも純音楽的に徹したストレートな表現は、まさにトスカニーニの演奏の系列に連なる演奏と言っても過言ではあるまい。

シカゴ交響楽団の完璧なアンサンブルと重厚で引き締まったサウンドを生かして綴られたこの演奏は、揺るぎない造型的美観や、異常なまでに張り詰めた緊迫感を特色とした恐ろしく純度の高い名演であり、そこに繰り広げられている少しの妥協もない磨き上げられた表現は、何度接しても常に新鮮な感動を授けてくれるのである。

そして、とりわけ金管楽器やティンパニなどによる最強奏は、壮絶ささえ感じさせるほどの圧巻の迫力を誇っている。

もっとも、こうした壮絶な演奏に適度の潤いと温もりを与えているのが、前述のような当時のシカゴ交響楽団が有していた弦楽合奏の艶やかな音色であり、その意味では、本演奏は、ライナーとシカゴ交響楽団の黄金コンビだけに可能な名演とも言えるだろう。

いずれにしても本盤は、指揮者、オーケストラ、演奏内容そして録音の4拍子が高水準で揃った名SACDと高く評価したい。

本盤にはその他、躍動感あふれ、楽しい気分が横溢する「謝肉祭」「売られた花嫁」「バクパイプ吹きのシュヴァンダ」からのポルカとフーガが併録されている。

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2015年04月21日


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アシュケナージは、プレヴィン指揮のロンドン交響楽団ともラフマニノフのピアノ協奏曲全集を完成していたが、15年後のこの演奏には、この間のアシュケナージの豊かな経験が余すところなく示されている。

指揮者としても交響曲全集を完成するなど、ラフマニノフの音楽に強い愛着と自信をもつアシュケナージの作品に対する熱い共感が、いっそう味わい美しく歌われていると言って良いだろう。

プレヴィンとの前作も、この協奏曲のロシア的な情感を若々しい感覚で陰翳美しく表現していたが、この演奏は、音も表現もさらに幅広く柔軟に磨き抜かれているし、すばらしく洗練された多彩なタッチによって、ラフマニノフの音楽を精妙に、かつしなやかな強さをもって彫りなしている。

アシュケナージはスケールの大きな技法で、ラフマニノフの旋律を朗々と歌い上げて見事というほかはなく、その美しく深い味わいは、やはり40代後半という円熟期のアシュケナージならではのものである。

またアシュケナージ自身祖国へのノスタルジアを込めたかのように、憧れに満ちたかのような独特の粘り気のあるフレージングで、分厚く積み重なった和音を叩き出している。

ことに第2番は秀演、力演ひしめく中で、本演奏はいつ聴いてもすばらしく、大きな充実感と新鮮な感動をもたらしてくれる。

独自の爽やかなロマンティシズムと豊かな音楽性が全編に溢れ、どこまでも屈託のないしなやかなラフマニノフの世界を繰り広げている感。

量感もあり、木管楽器との絡み合いには極上のリリシズムが漂う。

アシュケナージは純粋にピアノという楽器でものを言える数少ない1人であろう。

また、本物のロマンとは知的なものなのである。

それにしても何てゆったりとした大きなうたなのだろう。

このこぼれんばかりの情緒を湛えた第2番の協奏曲以上に、磨き抜かれた、厳しい美しさを誇る第3番の協奏曲は、意外に名盤が少ない。

そんな中で、常に最高の位置を占めてきた名盤が、既にこの協奏曲を4回も録音しているアシュケナージだ。

実に4度目となるこの録音でも、輝かしく、また張りと潤いに溢れたピアノの音色も魅力的だが、アシュケナージの演奏には、聴き手を作品の世界に嫌がうえにも導き入れて陶酔させてしまうドラマティックな吸引力があるし、抒情的味わいも一段と濃く、深く、しかも演奏全体が暖かい点が素晴らしい。

オーケストラとの間に醸される充実した空気が何よりも魅力的だし、アシュケナージがこの曲を完全に手中にし、余裕と豊かなニュアンス表現のうちに振幅の大きいソロを聴かせている点も見逃せない。

第1番と第4番も、十全の円熟味と安定感を示した秀演と言って良いだろう。

それにハイティンクとコンセルトヘボウ管弦楽団がそうしたソロを手厚く支えて、演奏をいっそう充実したものにしている。

ハイティンクの指揮も、アシュケナージに劣らずスケールが大きく、シンフォニックに作品のオーケストラ・パートを歌わせている。

そして英デッカならではの録音の優秀さも、このCDの大きな特色で、アシュケナージとハイティンクの演奏をよりリアルに、引き立てていると言えよう。

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ドイツ音楽の正統を伝える数少ない巨匠であったサヴァリッシュによる重厚長大かつホットなブラームス演奏をまとめたボックス・セット。

NHK交響楽団との数多くの公演で我が国でも非常に有名なサヴァリッシュは、とある高名な音楽評論家などが著しく低評価を与えていたこともあり、敬遠されがちという印象があるが、実際にNHKホールにその実演に接した音楽愛好家は彼の音楽性、理知的でありながら時に踏み外して情熱的になる演奏は高く評価されている。

そのように実力に関しては申し分のないサヴァリッシュであるが、人気の方については今一つと言わざるを得ない。

我が国のオーケストラを頻繁に指揮する指揮者については、過小評価されてしまうという不思議な風潮があるのはいかがなものかとも思うが、それでもサヴァリッシュの不人気ぶりには著しいものがあると言わざるを得ない。

確かに、サヴァリッシュが外国の一流オーケストラを指揮した名演というのは殆ど存在していないというのは事実である。

唯一、現在でも素晴らしい名演とされているのは、シュターツカペレ・ドレスデンを指揮してスタジオ録音(1972年)を行ったシューマンの交響曲全集であるというのは衆目の一致するところだ。

ただし、各交響曲のいずれもが様々な指揮者によるそれぞれの楽曲の演奏中のベストの名演ということではなく、全集全体として優れた演奏ということであり、まさに最大公約数的な名全集に仕上がっていたところである。

これはいかにもサヴァリッシュらしいとも言えるのではないだろうか。

サヴァリッシュは、史上最年少でバイロイト音楽祭に登場するなど、きわめて才能のある指揮者として将来を嘱望されていたにもかかわらず、その後はかなり伸び悩んだと言えなくもないところだ。

膨大な録音を行ってはいるが、前述のシューマンの交響曲全集以外にはヒット作が存在しない。

いい演奏は行うものの、他の指揮者を圧倒するような名演を成し遂げることが殆どないという、ある意味では凡庸と言ってもいいような存在に甘んじていると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたブラームスの交響曲全集は、目立った名演を殆ど遺していないサヴァリッシュとしては、前述のシューマンの交響曲全集に次ぐ名全集と言えるのではないだろうか。

確かに、個々の交響曲の演奏に限ってみれば、いずれの交響曲についても他に優れた演奏があまた存在していると言えるが、全集全体として見ると、水準以上の名演が揃った優れたものと言えるところだ。

サヴァリッシュの演奏は、鋭敏なバランス感覚と安全運転だけに終始しない即興性の見事な融合に特徴を見出せる。

確かに、バランス感覚が出すぎる演奏に出くわすと「安全運転」「生真面目」「平均点」という評価になることがある。

しかし、即興性が見事なバランス感覚の上に立ち現れたとき、我々はドイツ本流の指揮者による管弦楽を聴く醍醐味をこれでもか、と堪能することができる。

スケールが大きく、一点一画を揺るがせにしない、しかし全く窮屈でない、という過去のどんな指揮者の演奏に優るとも劣ることはあるまい。

堅固な造型美と重厚かつ剛毅さを兼ね備えたいかにもドイツ風の硬派の演奏と言えるが、かかる芸風はブラームスの交響曲の性格に見事に符号していると言えるところであり、ロンドン・フィルの渾身の名演奏も相俟って、素晴らしい名全集に仕上がっていると言えるだろう。

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テスタメントによるジュリーニ&ベルリン・フィルシリーズの第3弾の登場だ。

これまでの第1弾や第2弾においても驚くべき名演が揃っていたが、今般の第3弾のラインナップも極めて充実したものであり、そしてその演奏内容も第1弾や第2弾にいささかも引けを取るものではない。

本盤には、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」とマーラーの交響曲第1番「巨人」が収められているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

ジュリーニは、レパートリーが広い指揮者とは必ずしも言い難い。

また、レパートリーとした楽曲についても何度も演奏を繰り返すことによって演奏そのものの完成度を高めていき、その出来に満足ができたもののみをスタジオ録音するという完全主義者ぶりが徹底していたと言える。

したがって、これほどの大指揮者にしては録音はさほど多いとは言い難いが、その反面、遺された録音はいずれも極めて完成度の高い名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

本盤の両曲については、いずれもジュリーニの限られたレパートリーの1つであり、マーラーの交響曲第1番「巨人」についてはシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1971年EMI)、そしてハイドンの交響曲第94番「驚愕」についてはフィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音(1956年EMI)、そしてバイエルン放送交響楽団とのライヴ録音(1979年独プロフィール)が存在しており、これらはいずれ劣らぬ名演であった。

本盤の演奏は、いずれもベルリン・フィルとのライヴ録音(1976年)であり、マーラーの交響曲第1番「巨人」はスタジオ録音の5年後、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」はスタジオ録音の20年後の演奏に相当することから、ジュリーニとしても楽曲を十二分に知り尽くした上での演奏であったはずである。

もっとも、本演奏が行われた1976年は、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代に相当するところだ。

したがって、ベルリン・フィルが完全にカラヤン色に染まっていた時期であるとも言えるが、本演奏を聴く限りにおいてはいわゆるカラヤンサウンドを殆ど聴くことができず、あくまでもジュリーニならではの演奏に仕上がっているのが素晴らしい。

ジュリーニの格調が高く、そしてイタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と気品のある極上の優美なカンタービレに満ち溢れた指揮に、ベルリン・フィルの重厚な音色が見事に融合した剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

そして、ライヴ録音ならではの熱気が演奏全体を更に強靭な気迫のこもったものとしており、その圧倒的な生命力に満ち溢れた迫力においては、ジュリーニによる前述の過去のスタジオ録音を大きく凌駕していると考える。

なお、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」については、1979年のライヴ盤との優劣の比較は困難を極めるところであり、これは両者同格の名演としておきたい。

録音も今から30年以上も前のライヴ録音とは思えないような鮮明な高音質であると評価したい。

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2015年04月20日


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白血病という不治の病を患い、49歳という若さでこの世を去らなければならなかった悲劇の指揮者フリッチャイであるが、米国において鉄壁のオーケストラトレーナーとして君臨した同じハンガリー人指揮者のライナーやセル、オーマンディ、そしてショルティなどとは一線を画するようなヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏を行っていた。

同じハンガリー人指揮者であったケルテスの海水浴中の不慮の死と同様に、そのあまりにも早すぎる死は、クラシック音楽界にとっても一大損失であった。

仮にもう少しフリッチャイが長生きをしていれば、世界の指揮者地図は大きく塗り替えられることになったのではないかとさえ思われるほどだ。

本盤に収められたチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、フリッチャイの死の4年前の演奏だ。

既に白血病を発症したフリッチャイが、懸命の闘病生活の中で演奏を行ったものである。

それだけに、本演奏にかけたフリッチャイの気迫と執念には並々ならぬものがあったことは容易に想像がつくところだ。

本演奏の中に気に入らない箇所(第1楽章の一部)があって、発売自体が録音から30年以上も遅れることになったが、これだけ完成度が高い演奏であるにもかかわらず、更に高みに達した演奏を志向したというところに、フリッチャイという指揮者の偉大さを痛感せざるを得ない。

本演奏においても、第1楽章の冒頭の序奏からしてただならぬ雰囲気が漂う。

あたかも、間近に迫る死を予見しているかのような不気味さを湛えているところであり、その後は、若干のテンポの変化を交えつつ、1音1音を心を込めて歌い抜き、彫りの深い演奏を展開しているところだ。

その尋常ならざる心の込め方は、時には慟哭にさえ聴こえるほどであり、あたかも忍び寄る死に対して必死で贖おうとするフリッチャイ自身を彷彿とさせるように思われてならない。

全体で50分程度を要するというゆったりとしたテンポによる演奏ではあるが、冗長さを感じさせず、演奏全体の造型もいささかも弛緩することがない。

そして、これだけ思い入れたっぷりの渾身の熱演を展開しているにもかかわらず、同曲の演奏において時として見られる陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、フリッチャイによる遺言とも言うべき至高の超名演であり、同曲の他の指揮者による超名演であるムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる演奏(1960年)、カラヤン&ベルリン・フィルによる演奏(1971年)とともに三強の一角を占める超名演と高く評価したい。

音質については、モノラル録音が大半のフリッチャイの演奏の中では希少にして鮮明なステレオ録音であり、音質的には極めて恵まれていると言えよう。

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バルトークの弦楽四重奏曲については、最近ではカルミナ弦楽四重奏団やアルカント弦楽四重奏団など名演が目白押しであるが、このミクロコスモス弦楽四重奏団による全集の演奏の性格を一言で言えば、ハンガリーの民族色を全面に打ち出した名演と言うことができるのではなかろうか。

タカーチ弦楽四重奏団の創設者である第1ヴァイオリンのタカーチやチェロのミクロシュ・ペレーニらハンガリー代表する演奏家が集結したミクロコスモス弦楽四重奏団が祖国の大作曲家の大傑作を真摯に演奏している。

バルトークの作品が、ハンガリー民謡を基にしていることはよく知られているが、なんとよく歌う演奏であろうか。

お国訛りの強く出た演奏で、弾かれると言うよりは語られるような、微妙なニュアンスが表現の隅々に行き渡っていて、テンポもそれに寄り添って微妙に揺れて、時には踊るようなリズムを刻み、尖っても金属的にはならず、不協和音の中にも歌を見つけ出して歌い上げている。

バルトークの弦楽四重奏曲は、20世紀を代表する弦楽四重奏曲として、ハンガリー音楽という狭隘な範疇にはとどまらず、むしろ、20世紀において人類が経験しなければならなかった未曾有の悲劇の数々の縮図のような深遠な内容を有する傑作であるが、これら一連の傑作の根底にあるのは、コダ−イとともにハンガリー国内を巡って、民謡などの採集を行った成果であることも忘れてはならない事実なのである。

したがって、ミクロコスモス弦楽四重奏団のアプローチも、これらの傑作が含有している民族的な側面に光を当てるものとして、高く評価されるべきものであると考える。

特にタカーチのヴァイオリンが墨絵の筆遣いのような微妙なニュアンスでアンサンブルを率いており、それがとても魅力的。

アルバン・ベルク弦楽四重奏団やハーゲン弦楽四重奏団の鋭利な演奏を聴き慣れている耳には新しい発見があり、闇の中から挑んでくるようなバルトークではないが、とても感動的な演奏である。

更に、本盤の魅力は、SACDマルチチャンネルによる極上の高音質録音であり、バルトークの傑作を、現在望み得る最高の音質で鑑賞できることの意義は大変大きいと言える。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)バルトーク 

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アバドはレパートリーがきわめて広範であるために、一般的にはそのような認識がなされているとは必ずしも言い難いが、いわゆるマーラー指揮者と評しても過言ではないのではないだろうか。

マーラーの交響曲全集を1度、オーケストラや録音時期が異なるなど不完全な形ではあるが完成させているし、その後も継続して様々な交響曲の録音を繰り返しているからである。

ライバルのムーティが第1番しか録音していないのと比べると、その録音の多さには際立ったものがあり、こうした点にもアバドのマーラーに対する深い愛着と理解のほどが感じられるところである。

アバドのマーラー演奏の特徴を一言で言えば、持ち味の豊かな歌謡性ということになるのではないか。

マーラーの長大な交響曲を演奏するに当たって、アバドの演奏はどこをとっても豊かな歌心に満ち溢れている。

したがって、マーラー特有の随所に炸裂する不協和音や劇的な箇所においても歌謡性を失うことがいささかもなく、踏み外しを行ったりするなど極端な表現を避けているように思われるところである。

もっとも、アバドもベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間にシカゴ交響楽団などと録音された演奏では、持ち前の豊かな歌謡性に加えて、生命力溢れる力感と気迫に満ち溢れた名演の数々を成し遂げていた。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は借りてきた猫のように大人しい演奏が多くなり、とりわけ大病を克服するまでの間に演奏された本盤の第5番は、物足りなさ、踏み込み不足を感じさせる演奏であったとも言える。

アバドはその後、大病にかかる直前、そして大病降伏後の演奏では、豊かな歌謡性に加えて、楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいくような彫りの深さが加わったと言えるところであり、特に、ベルリン・フィルとの第3番、第4番、第6番、第7番及び第9番、ルツェルン祝祭管との第2番は圧倒的な名演に仕上がっている。

しかしながら本演奏も、彫りの深さといった側面ではいささか物足りないという気がしないでもないが、今日の耳で改めて聴いてみると、かかる欠点は殆ど目立つことなく、持ち前の豊かな歌謡性が十分に活かされた素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

これほどまでに、歌心に満ち溢れるとともに情感の豊かさを湛えている同曲の演奏は類例を見ないところであり、バーンスタインやテンシュテットなどの劇的な演奏に食傷気味の聴き手には、清新な印象を与える名演であると言っても過言ではあるまい。

もっとも、こうした細やかな配慮の行き届いた演奏であっても、根源的な音楽の力感ともいうべきものがいささかも失われていないのである。

アバドの意図を汲み最高の演奏で応えたベルリン・フィルに対しても大いに拍手を送りたい。

欲を言えば、現在のアバドなら、さらに楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいくような彫りの深い演奏が可能であると思われるところであり、出来得ることならば再録音を望みたいと考える。

録音は従来盤でも十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によってさらに鮮明な音質に生まれ変わった。

アバドによるこのような名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年04月19日


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巨匠カラヤンと技巧派ワイセンベルク蜜月時代の遺産のひとつが復刻された。

カラヤン初にして唯一のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集録音として大きな注目を集めた作品でもある。

しかしながら、そもそもカラヤンが、協奏曲の指揮者として果たして模範的であったかどうかは議論の余地があるところだ。

カラヤンは、才能ある気鋭の若手奏者にいち早く着目して、何某かの協奏曲を録音するという試みを何度も行っているが、ピアニストで言えばワイセンベルク、ヴァイオリニストで言えばフェラスやムター以外には、その関係が長続きしたことは殆どなかったと言えるのではないだろうか。

ソリストを引き立てるというよりは、ソリストを自分流に教育しようという姿勢があったとも考えられるところであり、遺された協奏曲録音の殆どは、ソリストが目立つのではなく、全体にカラヤン色の濃い演奏になっているとさえ感じられる。

そのような帝王に敢えて逆らおうとしたポゴレリチが練習の際に衝突し、コンサートを前にキャンセルされたのは有名な話である。

本盤に収められた演奏も、どちらかと言えばカラヤン主導による演奏と言える。

カラヤンにとっては、当時蜜月関係のピアニストであったワイセンベルクをあたたかく包み込むような姿勢で演奏に臨んだのかもしれない。

特に、オーケストラのみの箇所においては、例によってカラヤンサウンドが満載。

鉄壁のアンサンブルを駆使しつつ、朗々と響きわたる金管楽器の咆哮や分厚い弦楽合奏、そしてティンパニの重量感溢れる轟きなど、これら両曲にはいささか重厚に過ぎるきらいもないわけではないが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功している。

カラヤンの代名詞でもある流麗なレガートも好調であり、音楽が自然体で滔々と流れていくのも素晴らしい。

ワイセンベルクのピアノも明朗で透明感溢れる美しい音色を出しており、詩情の豊かさにおいてもいささかの不足はなく、とりわけ両曲のカデンツァは秀逸な出来栄えであるが、オーケストラが鳴る箇所においては、どうしてもカラヤンペースになっているのは致し方がないと言えるところである。

それ故ワイセンベルクによるピアノ演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルの中の1つの楽器と化しており、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築の最も忠実な奉仕者であると言えるところであり、このような演奏では、ワイセンベルクのピアノは単なる脇役に過ぎない。

要は、いわゆるピアノ協奏曲ではなく、ピアノ付きの交響曲になっていると言える。

それ故に、カラヤンのファンを自認する高名な評論家でさえ、「仲が良い者どうしの気ままな演奏」(リチャード・オズボーン氏)などとの酷評を下しているほどだ。

しかしながら、筆者は、そこまでは不寛容ではなく、本演奏は、やはり全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルでないと成し得ないような異色の名演であると高く評価したい。

初咲きの花のように初々しい第1番、精緻なカラヤンの指揮ぶりに対し大胆に振る舞うワイセンベルクのピアノが楽しい第2番、ともにマジックとも呼ばれた一時代を画したサウンドに一体化されたピアノ・ソロと認識していたものが、あらためて聴くとソロを引き立てる見事な伴奏ぶりに驚く。

いわゆるピアノ協奏曲に相応しい演奏とは言えないかもしれないが、少なくとも、ベートーヴェンの楽曲の演奏に相応しい力強さと重厚さを兼ね備えていると思われるからだ。

筆者としては本演奏を両曲のあらゆる演奏の中でも最もスケールが雄渾で、壮麗な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

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マゼールが今から約15年前に、当時の手兵バイエルン放送交響楽団とともに集中的に取り組んだブルックナーチクルスのコンサート記録である。

本全集が廉価で手に入ることも考慮に入れれば、後述のようにすべてを名演と評価するには躊躇せざるを得ないが、全体としては水準の高い演奏で構成された全集と評価してもいいのではないかと考える。

マゼール指揮によるブルックナーの交響曲と言えば、1974年に録音されたウィーン・フィルとの「第5」(英デッカ)、1988年に録音されたベルリン・フィルとの「第7」及び「第8」(ともにEMI)が念頭に浮かぶ。

「第5」については、マゼールが若さ故の力強い生命力と超絶的な才能を武器に、前衛的とも言えるような鋭いアプローチによる演奏を繰り広げていた1960年代のマゼールの芸風の残滓が随所に感じられるなど、ブルックナー演奏としてはやや異色の印象が拭えなかった。

他方、「第7」及び「第8」については素晴らしい名演で、特に、「第7」については、故小石忠男先生がレコード芸術誌において、「マゼールに一体何が起こったのか」とさえ言わしめたほどの成熟した超名演であった。

おそらくは、現在でも、この演奏を指揮者名を伏して聴いた多くの聴き手の中で、指揮者がマゼールと言い当てる者は殆どいないのではないか。

このような同曲演奏史上においても上位にランキングされる超名演が、現在では、国内盤は廃盤で、輸入盤でさえも入手難というのは大変残念な事態であると考えている。

録音当時はカラヤンの最晩年であり、ポストカラヤン争いの本命を自負していたマゼールと、カラヤンへの対抗意識も多分にあったと思うが、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは鬼気迫る名演を繰り広げていたベルリン・フィルとの絶妙な組み合わせが、途轍もない超名演を生み出す原動力になったのではないかと考えられる。

「第8」も、「第7」ほどではないもののレベルの高い名演であり、仮にマゼールが、本人の希望どおりベルリン・フィルの芸術監督に就任していれば、ベルリン・フィルとの間で歴史的な名全集を作り上げた可能性も十分にあったと言える。

しかしながら、運命はマゼールに味方をしなかった。

芸術監督の選に漏れたマゼールは、衝撃のあまりベルリン・フィルとの決別を決意。

ドイツ国内での指揮さえも当初は拒否したが、その後数年で、バイエルン放送交響楽団の音楽監督に就任。

さらに、1999年になって漸くベルリン・フィルの指揮台にも復帰した。

要は、本全集は、マゼールが指揮者人生最大の挫折を克服し、漸くベルリン・フィルに復帰したのとほぼ同時期に録音がなされたということである。

本全集録音の数年前からは、ヴァントがベルリン・フィルとの間で、ブルックナーの交響曲の神がかり的な超名演の数々を繰り広げており、マゼールとしても、ベルリン・フィルとは和解はしたものの、かかる成功を相当に意識せざるを得なかったのではないかと考えられる。

そうしたマゼールのいささか屈折した思いが、文句がない名演がある反面で、一部の交響曲には、意欲が空回りした恣意的な解釈が散見されるというやや残念な結果に繋がっている。

文句のつけようがない名演は、「第0」「第1」「第2」の3曲であり、第3番以降になるとやや肩に力が入った力みが垣間見える。

特に、「第5」及び「第7」は、テンポを大幅に変化させるなど、いささか芝居がかった恣意的な表現が際立っており、前述した過去の演奏に遠く及ばない凡演に陥ってしまっているのは大変残念だ。

しかしながら、全集総体としては、水準の高い演奏が揃っており、破格の廉価盤であることを鑑みれば、十分に推薦に値するBOXであると考えられる。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーマゼール 

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クラシック音楽界史上最高の黄金コンビとも謳われたカラヤン&ベルリン・フィルも、1982年のザビーネ・マイヤー事件を契機として、修復不可能にまでその関係が悪化した。

加えて、カラヤンの健康状態も悪化の一途を辿ったことから、1980年代半ばには、公然とポストカラヤンについて論じられるようになった。

カラヤンは、ベルリン・フィルを事実上見限り、活動の軸足をウィーン・フィルに徐々に移していったことから、ベルリン・フィルとしてもカラヤンに対する敵対意識、そしてカラヤンなしでもこれだけの演奏が出来るのだということをカラヤン、そして多くの聴衆に見せつけてやろうという意識が芽生えていたとも言えるところである。

したがって、1980年代半ば頃からカラヤンの没後までのベルリン・フィルの演奏は、とりわけポストカラヤンの候補とも目された指揮者の下での演奏は、途轍もない名演を成し遂げることが多かった。

その典型例が、本盤に収められたブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」と第6番である。

ムーティは、先輩格のジュリーニやライバルのアバド、マゼール、ハイティンク、小澤などと同様にポストカラヤンの候補と目された指揮者の1人であり、そうしたムーティとベルリン・フィルが1980年代半ばに録音した演奏がそもそも悪かろうはずがない。

それどころか、もちろんムーティは実力のある指揮者ではあるが、当時の実力を遥かに超える途轍もない名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

いずれにしても、このコンビによるモーツァルトのレクイエムのスタジオ録音(1987年)、マゼールとのブルックナーの交響曲第7番のスタジオ録音(1987年)、アバドとのヤナーチェクのシンフォニエッタのスタジオ録音(1987年)、小澤とのチャイコフスキーの交響曲第4番(1988年)など、当時のベルリン・フィルの演奏は殆ど神業的であったとさえ言えるところだ。

それはさておき、本演奏は素晴らしい。

最近では円熟の指揮芸術を聴かせてくれているムーティであるが、本演奏の当時は壮年期にあたり、生命力に満ち溢れた迫力満点の熱演を展開していたところである。

ところが、本演奏は、むしろ近年のムーティの演奏を思わせるような懐の深さや落ち着きが感じられるところであり、あたかも円熟の巨匠指揮者が指揮を行っているような大人(たいじん)の至芸を感じさせると言えるだろう。

派手な音の効果だけで圧倒しようとするブルックナーの交響曲演奏とは対照的に、この作曲者特有の口べたで木訥と言われる内面的な〈渋さ〉を巧みに表現した名演。

とはいうものの、明快さ、スマートさが信条のムーティならではの巧みさ、オーケストラ自身の響きの美しさも健在。

ベルリン・フィルの重量感溢れる渾身の演奏もそれを助長しており、演奏全体としては、同曲最高の超名演とも呼び声の高いベーム&ウィーン・フィルによる演奏(1973年)やヴァント&ベルリン・フィルによる演奏(1998年)にも比肩し得るほどのハイレベルの演奏に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

前述のモーツァルトのレクイエムと同様に、当時のムーティとしては突然変異的な至高の超名演と言えるところであり、その後、ムーティが現在に至るまで、モーツァルトのレクイエムともどもブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」と第6番を2度と再録音をしようとしていない理由が分かろうというものである。

いずれにしても、本盤の演奏は、ムーティ&ベルリン・フィルがこの時だけに成し得た至高の超名演と高く評価したいと考える。

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classicalmusic at 00:42コメント(0)トラックバック(0)ブルックナームーティ 

2015年04月18日


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飛ぶ鳥落とす勢いの快進撃を続けるインバルと東京都交響楽団の一連のライヴ録音によるシリーズ。

今や現代を代表する大指揮者となったインバルの新譜はどれも注目で聴き逃すことができない。

既にマーラーの交響曲を軸として、ショスタコーヴィチなどの交響曲の名演を東京都交響楽団やチェコ・フィルとともに再録音しており、そのいずれもが旧録音を超える圧倒的な名演となっていた。

ブルックナーの交響曲についても、既に第5番及び第8番という最も規模の大きい交響曲と最も優美な第7番を東京都交響楽団と再録音している。

いずれもフランクフルト放送交響楽団との演奏を上回る名演であり、インバルが、マーラーとブルックナーの両方の交響曲の演奏を得意とする稀有の指揮者であることを見事に証明していたと言えたところだ。

そして、今般、ブルックナーの交響曲チクルスの第4弾として、満を持して比較的マイナーな交響曲である交響曲第6番が登場した。

とにかく素晴らしい名演。

これ以上の言葉が思い浮かばないほどの至高の超名演と言えるだろう。

同曲は、インバルも、第1楽章冒頭の弦楽による繊細な響きからして、かの聖フローリアン教会の自然の中のそよ風のような雰囲気が漂う。

その後も、同曲特有の美しい旋律の数々を格調高く歌い上げていく。

それでいて、線の細さなどはいささかもなく、トゥッティにおいてはブラスセクションをしっかりと響かせるなど強靭な迫力にも不足はなく、骨太の音楽が構築されている。

このあたりの剛柔の的確なバランスは、インバルによるブルックナーの交響曲演奏の真骨頂とも言うべき最大の美質と言えるだろう。

そして、インバルによる本演奏は、朝比奈やヴァントなどが1990年代以降に確立した、今日ではブルックナーの交響曲演奏の規範ともされている、いわゆるインテンポを基調とした演奏には必ずしも固執していない。

第3楽章や第4楽章などにおいても顕著であるが、演奏全体の造型美を損なわない範囲において、若干ではあるが効果的なテンポの振幅を加えており、ある種のドラマティックな要素も盛り込まれていると言えるところだ。

それにもかかわらず、ブルックナーの交響曲らしさをいささかも失っていないというのは、インバルが、同曲の本質を細部に渡って掌握しているからに他ならないと言うべきである。

また、本演奏において特筆すべきは、東京都交響楽団の抜群の力量と言えるだろう。

先般発売されたショスタコーヴィチの交響曲第4番においてもそうであったが、弦楽器の厚みのある響き、そしてブラスセクションの優秀さは、とても日本のオーケストラとは思えないほどの凄味さえ感じさせる。

絹のような弦楽器のサウンドに管楽器の確かな和声が寄り添い、重厚で豊かなブルックナー・サウンドを生み出している。

演奏によって新鮮な魅力を聴かせつつも厳格なまでに自己の哲学を貫くインバルのその姿勢が、確固とした人気を保つ秘訣と言えるだろう。

いずれにしても、本盤の演奏は、今や世界にも冠たる名コンビとも言うべきインバル&東京都交響楽団による圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

録音も超優秀で、鮮明にして臨場感溢れる極上の高音質は、本盤の価値をより一層高めることになっているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 22:39コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーインバル 

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2000年の2月に惜しまれつつ世を去ったベートーヴェンの解釈で高い評価を得ていた名ピアニスト、フリードリヒ・グルダが残したベートーヴェンのピアノ協奏曲全集で、鬼才と呼ばれたグルダの音楽性が光る名盤。

ウィーンに生まれ同地で音楽を学んだグルダは、若い頃からクラシックとジャズを混合したプログラムでリサイタルを行うなど個性的な活動を繰り広げ、鬼才の名を欲しいままにした名ピアニスト。

多彩な演奏スタイルを身につけたアーティストであったが、明快なタッチによる求心性と精神的なゆとりが同居しているベートーヴェンの演奏は、グルダの録音の中でも最も高い評価を獲得している1組。

グルダには、鬼才と称されるように個性的な演奏が多いが、初期の「第1」と「第2」では、自我を極力抑制し、ドイツ音楽ならではのシンフォニックでかつ正統派の演奏を聴かせてくれる。

重厚かつ力強い打鍵から軽快なリズム感、そして抒情的な箇所での繊細なタッチに至るまで、表現力の幅広さも特筆すべきものがある。

それに加えて、この当時のウィーン・フィルの音色の高貴な優美さは、筆舌には尽くし難い素晴らしさだ。

これら両者へのシュタインの合わせ方も実に巧みで、ベートーヴェン初期のピアノ協奏曲の名演の中でも上位にランクされる名演に仕上がっていると言っても過言ではないだろう。

≪運命≫交響曲と同じハ短調という調性を持ち、悲劇的なパトスに満ちた劇的な「第3」や優美な旋律と柔和な表現が忘れられない印象を残す「第4」だと、鬼才の名を欲しいままにしているグルダのこと、より個性的なアプローチをとるのかと思いきや、初期の2曲と同様に、あくまでも自我を抑え、オーソドックスな正統派のアプローチに終始している。

もちろん、だからと言って物足りないということは全くなく、強靭な打鍵から繊細なタッチまで、確かな技量をベースとしつつ表現力の幅は実に幅広く、「第3」と「第4」の性格の全く異なる両曲を的確な技巧と柔軟な感性で描き分けも見事に巧みに行っている。

ウィーン・フィルは、どんなに最強奏しても、決して美感を失うことはなく、どの箇所をとっても高貴な優美さを損なうことはない。

シュタインも重厚で巨匠風の堂々たる指揮ぶりで、これら独奏者、オーケストラ、指揮者の3者が揃った演奏は、過去の「第3」や「第4」の名演の中でも、上位にランキングされるものと思われる。

華麗で威風堂々としたスケールの大きな曲想がそのニックネームに相応しい名曲「皇帝」は、グルダ、ウィーン・フィル、そしてシュタインという素晴らしい組み合わせによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集の有終の美を飾る堂々たる名演である。

グルダの基本的なアプローチは正統派のオーソドックスなもので、「第1」〜「第4」の場合とは特に変わりはない。

ただ、曲が「皇帝」だけに、全体に重厚かつ悠然とした自信に満ち溢れた演奏をしており、ウィーン・フィルの高貴かつ優美な演奏と、シュタインの巨匠風の堂々たる指揮が見事にマッチして、珠玉の名演に仕上がっている。

総じてグルダはベートーヴェンの音楽に思想の表現手段としての音楽以上の意味を持たせることには基本的に興味がないようであるが、ベートーヴェンを音楽として楽しむには、このグルダ盤は最高だ。

もったいぶった哲学的瞑想も、鯱張ったポーズもなく、ただ純粋な音楽的アプローチでベートーヴェンと向き合い、多彩な魅力を十全に引き出している。

音楽を超えたベートーヴェン像を求める向きにはなじまないだろうが、音楽としてベートーヴェンの魅力を存分に味わえる。

いつ聴いても新鮮、スリリング且つダイナミックで、退屈しない素晴らしい全集だ。

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classicalmusic at 20:42コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェングルダ 

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これは凄い超名演だ。

カラヤンは、ライヴでこそ実力を発揮する指揮者であるが、本盤はそうしたカラヤンの面目躍如たる至高の超名演に仕上がっている。

カラヤンの「英雄の生涯」については、先般、同じロンドンでの1985年のライヴ録音が発売され、超名演であったが、次いで発売された1972年ライヴ盤も、それに匹敵する素晴らしい名演だと思う。

それどころか、最もカラヤンの個性が発揮された演奏は、紛れもなく本盤に収められた演奏であると言えるのではないだろうか。

1972年と言えば、カラヤンとベルリン・フィルという黄金コンビの最良の時代であり、指揮者とオーケストラが一体となり、両者が最高のパフォーマンスを示していた。

本演奏においても、そうした全盛期のこの黄金コンビの演奏の凄さを味わうことが可能だ。

ベルリン・フィルは、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、金管楽器の朗々たる響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器の響き、分厚い弦楽合奏、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニの迫力などが一体となり、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演奏を繰り広げている。

カラヤンは、流麗なレガートを施すことによって、楽想を徹底的に美しく磨きあげており、シュヴァルべのソロも抜群の巧さで、本ライヴ録音の価値を更に高めている。

マイクの位置のせいか、金管楽器がやや強く聴こえるなど、録音のバランスがいささか悪い気もするが、この時代のライヴ録音からすれば、水準以上の音質であり、全盛期のカラヤンの圧倒的な統率力と、ベルリン・フィルというスーパー軍団の重厚かつ超絶的な技量を満喫できるのは贅沢な限りだ。

ジャケットのデザインも含め完全無欠とも言うべき本演奏は、同曲演奏史上究極の名演との評価もあながち言い過ぎではないと考えられる。

しかしながら、好き嫌いでいうと、筆者としては、カラヤンの統率力に綻びが見られるとは言え、後年の1985年のライヴ録音の方が好みである。

というのも、1985年盤には、カラヤンの自省の念も込められた枯淡の境地が感じられるからであり、演奏の味わい深さという意味では、1985年盤の方をより上位に掲げたいと考える。

他方、「田園」は、素っ気なささえ感じられるような快速のテンポのせいか、カラヤンとの相性が必ずしもいい曲ではないと考えているが、本盤では、全盛期のライヴということもあり、同時期のスタジオ録音よりはずっと楽しむことが出来た。

ベートーヴェンの全交響曲中で、カラヤンがあまり名演を遺していないのが同曲であると考えている。

その理由は、カラヤンが、他の指揮者ならば必ず反復をする第3楽章を含め、すべての反復を省略するなど、快速のテンポで全曲を演奏するが、スタジオ録音というハンディもあって、全体として聴き手に、平板で、せかせかとした浅薄な印象を与えがちなことが掲げられる。

しかしながら、本盤は、ライヴにおけるカラヤン、そしてベルリン・フィルの圧倒的な高揚感と、録音の鮮明さによって、いつものように快速のテンポでありながら、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルでないと成し得ないような重厚にして、しかも流麗な至高・至純の音楽を構築することに成功している。

もしかしたら、本盤こそ、カラヤンが「田園」という楽曲について、聴き手に伝えたかったことの全てが込められているのかもしれない。

筆者も、カラヤンの「田園」で感動したのは、本盤が初めてである。

解説は、リチャード・オズボーンであり、内容はいつもながら実に素晴らしい。

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classicalmusic at 00:53コメント(0)トラックバック(0)カラヤンR・シュトラウス 

2015年04月17日


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現在、最も積極的にレコーディングに取り組んでいるパーヴォ・ヤルヴィであるが、楽曲によってオーケストラを巧みに使い分けているのが特色である。

その中でも、独墺系の作曲家による楽曲の演奏に際しては、原則としてフランクフルト放送交響楽団を起用することにしているようであり、ブルックナーの交響曲についても例外ではないと言えるところだ。

パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団によるブルックナーの交響曲の演奏に関しては、既に第5番、第7番、第9番が発売されているが、本盤に収められた第4番は第4弾となるものであり、待望の新盤と言えるものだ。

本盤においても、インバル時代の息吹を取り戻した名門オケの底力を示す、新時代のブルックナー解釈を打ち出している。

本演奏におけるパーヴォ・ヤルヴィによるアプローチは、第7番、第9番の演奏ように中庸のテンポをベースとして、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものとは少し様相が異なっている。

何か特別な個性を発揮して、奇を衒った解釈を施すなどということがないという点においては共通しているが、むしろ、第5番の演奏のように、テンポはやや速めで、楽章毎のテンポの緩急を際立たせている点も特徴的であると言えるところであり、1990年代に入って一般化したブルックナーの交響曲の演奏様式の王道を行くオーソドックスな演奏とは異なった演奏とも言えるところだ。

もっとも、各楽器セクションのバランスの良い鳴らし方には出色のものがあり、いかなるトゥッティに差し掛かっても無機的な響きを出すということはなく、常に壮麗で懐の深い音色に満たされているのが素晴らしい。

また、緩徐楽章における旋律の数々もやや速めのテンポをとることによって、陳腐なロマンティシズムに陥ることを極力避けており、それでいて、どこをとっても格調の高さを失うことがないのが見事である。

ブルックナーの交響曲第4番のこれまでの名演としては、古くはヨッフム、そしてヴァントや朝比奈によって圧倒的な名演が成し遂げられてきており、これら大指揮者の深みのある演奏と比較して本演奏を云々するのは容易なことである。

しかしながら、必ずしもブルックナー指揮者とは言い難いパーヴォ・ヤルヴィが、同曲の曲想を丁寧に紐解き、これだけの見事な演奏を成し遂げたことにむしろ思いを致すべきであり、筆者としては、同曲の魅力を十二分に満喫することができるという意味において、素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

経験を積んだ老齢の指揮者のみが名演を成し遂げるというイメージがあるブルックナーの交響曲であるが、そのイメージを覆さんばかりの勢いと鮮度を持つパーヴォ・ヤルヴィの演奏は、これまでの3作でも実証済みであり、聴き尽くされた交響曲が圧倒的な鮮度で蘇るさまは、まさにパーヴォならではと言えよう。

そして、本盤でさらに素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

以前のチクルスでもそうであったが、パーヴォ・ヤルヴィによるアプローチが極上の高音質録音によって鮮明に再現されているのが見事であり、そうした音質の鮮明さといい、音圧の力強さといい、そして音場の拡がりといい、まさに申し分のないものであると考えられる。

いずれにしても、パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団による素晴らしい名演を、現在望み得る最高の鮮明な高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 22:44コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーヤルヴィ 

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カラヤンは、チャイコフスキーを得意としており、交響曲第4番は6度もスタジオ録音している。

加えて、ウィーン交響楽団とのライヴ録音も存在しており、カラヤンとしても何度も演奏した得意のレパートリーと言えるが、遺された録音の中で随一の名演は、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代である1971年に録音された本盤であると考える。

本盤の特徴を一言で言えば、ライヴ録音を思わせるような劇的な迫力だ。

豪演と言っても過言ではないような圧巻の迫力であり、その圧倒的な生命力は、とてもスタジオ録音とは思えないほどである。

冒頭から、悪魔的な金管の最強奏に始まり、厚みのある弦合奏の重量感や、雷鳴のようなティンパニの轟きには戦慄を覚えるほどだ。

第1楽章終結部の猛烈なアッチェレランドは、古今東西の同曲の演奏の中でも、最高の迫力を誇っている。

第2楽章の木管の巧さも特筆すべき美しさであり、そのむせ返るような熱い抒情には、身も心もとろけてしまいそうだ。

終楽章の疾風の如きハイテンポによる進行は圧巻という他はないが、それでいて、アンサンブルにいささかの乱れもないのは、殆ど驚異でもある(これに匹敵できるのは、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの1960年盤のみ)。

カラヤンはチャイコフスキーを得意としていたが、このうち、交響曲第5番は5回もスタジオ録音している。

いずれも名演であると思うが、その中でもトップの座に君臨するのは、1971年に録音された本盤であると考える。

スタジオ録音であるが、ライヴ録音ではないかと思われるほど、劇的な性格を有した豪演と言うことができる。

この当時は、カラヤンとベルリン・フィルは蜜月状態にあり、この黄金コンビは至高の名演の数々を成し遂げていたが、本盤の演奏も凄い。

金管楽器も木管楽器も実に巧く、厚みのある重厚な弦楽器も圧巻の迫力で、雷鳴のようなティンパニの轟きも、他の誰よりも圧倒的。

そうした鉄壁の技量とアンサンブルを誇るベルリン・フィルを、これまた圧倒的な統率力で指揮するカラヤンの凄さ。

粘ったようなテンポや猛烈なアッチェレランドの駆使、そしてカラヤンには珍しいポルタメントの効果的な活用など、実に内容豊かでコクのあるチャイコフスキーを構築している。

カラヤンは、チャイコフスキーを得意としたが、その中でも十八番は、この交響曲第6番「悲愴」だったと言える。

スタジオ録音だけでも7度も行うとともに、先般発売された来日時のライヴ録音や、NHK交響楽団とのライヴ録音などを加えると、圧倒的な点数にのぼる。

オペラのように起承転結がはっきりした標題音楽的な要素や、華麗なオーケストレーションなど、いかにもカラヤンが得意とした要素が散りばめられているのが、カラヤンが同曲を得意とした要因の1つに掲げられると考える。

遺された録音は、いずれも名演であるが、その中でも、本盤は、ライヴ録音ではないかと思われるような劇的な豪演を成し遂げているのが特徴と言える。

悪魔的とも言うべき金管楽器の鋭い音色や、温かみのある木管の音色、重厚な低弦の迫力、そして雷鳴のように轟くティンパニの凄さなど、黄金時代にあったベルリン・フィルの圧倒的な技量が、そうした劇的な要素を大いに後押ししている。

カラヤンも、圧倒的な統率力で、ベルリン・フィルを巧みにドライブするとともに、ポルタメントやアッチェレランド、流れるようなレガートなどを効果的に駆使して、「悲愴」の魅力を大いに満喫させてくれる。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーカラヤン 

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歴史的な名指揮者が指揮したワーグナーの珠玉の名演を集めた好企画CDだ。

恐らく“怪物”ワーグナー程序曲や前奏曲が好んで演奏会で採り上げられ、録音が行われる作曲家は他におるまい。

巨大なオペラ本編の雰囲気を凝縮した交響詩的世界がその最大の魅力であろう。

本CDのミソは、SACDマルチチャンネルであるということで、本盤に収められた名演を現在望み得る最高の音質で味わうことができる点が素晴らしい。

本盤には、20世紀を代表するワーグナー指揮者として、歴史にその名を刻んでいる、ベーム、カラヤン、ヨッフム、クーベリックなどの録音が収められている。

先ずは、ワーグナーの聖地バイロイトでも最高の名演を聴かせていたベームが、ウィーン・フィルと至高のワーグナーを披露している。

カラヤン&ベルリン・フィルは、桁外れに幅広い表現力で、ワーグナーのオーケストレーションの魅力を最大限に表現し尽くした演奏と言えるだろう。

ヨッフムは一語でいうと地味で素朴な風格を帯びているが、といってヨッフムの演奏は少しも鈍重ではなく、温かく優しい表情が印象深い。

また、誇張を排した真摯な表現の中に適度なドイツ的重厚さと劇的な緊張感を湛えたクーベリックのスタイルは今なお高い支持を受けている。

特に、音質面ですばらしいと思ったのは、カラヤンによる「ワルキューレ」と「神々の黄昏」からの抜粋。

2008年には、4部作全曲がSHM−CD化され、それもなかなか見事な音質ではあったが、本盤の音質はそもそも次元が違う。

逆に言うと、本盤を聴いて、ないものねだりながら、4部作全曲をSACDマルチチャンネルで聴きたくなってしまった。

次いで、ベームの「ローエングリン」と「さまよえるオランダ人」が見事であり、オペラの舞台が眼前に迫ってくるかのような実在感が見事である。

他の諸曲も鮮明であるが、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だけは、オリジナルテープの劣化のせいか、やや音質に難があるのは残念であった。

とはいえ費用対効果を考えると、ワーグナーの音楽を最高の音質と演奏で味わうのに最高の1枚であると評価したい。

ちなみにマルチチャンネルとは、基本的にはスピーカー5個とサブ・ウーファー1個で再生されるSACDのことである。

前に3つ、後ろに2つ、適当なところにサブ・ウーファーを1つ、というセッティングであるが、実際には5.0chといって、サブ・ウーファーを使わないマルチチャンネル・ディスクが多い。

ライヴ録音だったらホールの感じで、前方にステージ、残響音や拍手の音が部屋中に拡がり、スタジオ録音なら、前方の音を、真横、後ろに配置して、拡がりのある空間で音楽が聴ける。

とにかく、マルチチャンネルはステレオ(2チャンネル)とは比べ物にならないくらい臨場感が出るのだ。

最近では、ユニバーサルを筆頭にして、SACD盤を積極的に発売しても、マルチチャンネルから撤退するケースが多いようであるが、本盤のような、各楽器セクションの配置が明瞭にわかるような臨場感溢れる鮮明な高音質を聴いていると、是非ともマルチチャンネル付きのSACDを復活させていただきたいと切に願わざるを得ないところだ。

そして、かかるマルチチャンネル付きのSACDによる圧倒的な高音質録音が、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのも忘れてはならない。

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classicalmusic at 00:55コメント(0)トラックバック(0)ワーグナー 

2015年04月16日


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朝比奈隆はブルックナーの交響曲全集を3度にわたって録音した世界で唯一の指揮者である。

本盤に収められた「第8」の演奏は、1990年代前半に完成させた朝比奈による3度目の全集に含まれるものである。

3度目の全集に含まれる演奏は、いずれ劣らぬ素晴らしい名演揃いであるが、その中でも「第8」は、「第3」及び「第9」に並ぶ素晴らしい名演であると言えよう。

それどころか、朝比奈が録音したブルックナーの「第8」の中でも、NHK交響楽団と録音した1997年盤、大阪フィルとの最後の演奏となった2001年盤と並んで、3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

朝比奈は、ブルックナーの交響曲の中でも「第5」とこの「第8」を得意としていたことはよく知られているところだ。

その理由はいくつか考えられるが、つまるところ朝比奈の芸風に最も符合した交響曲であったからではないだろうか。

朝比奈のアプローチは荘重なインテンポで、曲想を真摯にそして愚直に進めていくというものだ。

スコアに記された音符を1つも蔑ろにすることなく力強く鳴らして、いささかも隙間風が吹かない重厚な音楽を構築していく。

このようにスコアに記された音符をすべて重厚に鳴らす演奏であれば、カラヤンやチェリビダッケも同様に行っているが、彼らの演奏は、ブルックナーよりも指揮者を感じさせるということであろう(カラヤン&ウィーン・フィルによる1988年盤を除く)。

俺はブルックナーの「第8」をこう解釈するという自我が演奏に色濃く出ており、聴き手によって好き嫌いが明確にあらわれるということになるのだ。

これに対して、朝比奈の演奏は、もちろん朝比奈なりの同曲への解釈はあるのだが、そうした自我を極力抑え、同曲にひたすら奉仕しているように感じることが可能だ。

聴き手は、指揮者よりもブルックナーの音楽の素晴らしさだけを感じることになり、このことが朝比奈のブルックナーの演奏をして、神々しいまでの至高の超名演たらしめているのだと考えられる。

しかも、スケールは雄渾の極みであり、かかるスケールの大きさにおいては、同時代に活躍した世界的なブルックナー指揮者であるヴァントによる大半の名演をも凌駕すると言っても過言ではあるまい(最晩年のベルリン・フィル盤(2001年)及びミュンヘン・フィル盤(2000年)を除く)。

オーケストラの実力はともかくとして、ブルックナーの魂の真髄を表現する演奏という意味に於いて、これほど作為が無い、至高の演奏は筆者の試聴歴では未だかつて無いものである。

ムーティをして「晩年のカラヤンのブルックナーは神の声がする」と言わしめたが、この朝比奈の至高の超名演もスタイルは違えども、まさしく「神の声」を聴くようである。

本盤で惜しいのは大阪フィルがいささか非力という点であり、特に終結部のトランペットが殆ど聴こえないというのは致命的とも言えるが、演奏全体の評価に瑕疵を与えるほどのものではないと言える。

この演奏の素晴らしさは、演奏が終わった後の数秒の沈黙と、その後の大喝采が物語っている。

録音はマルチチャンネル付きのSACDであり、朝比奈による崇高な超名演を望み得る最高の音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 23:09コメント(0)トラックバック(0)ブルックナー朝比奈 隆 

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まずは、モーツァルトの4大オペラがクレンペラーの名指揮の下で廉価で聴けるのを大いに歓迎したい。

「フィガロの結婚」は、異様なまでにテンポの遅い重厚な演奏だが、クレンペラーの巨大な視野に支えられた独自のバランスが保たれ、見事なまとまりを示している。

ここには愉悦の姿はないし、遅いテンポに適合できない歌唱も見受けられるが、それでも損なわれないだけの風格によって、クレンペラー晩年の芸術特有の味わいが立ち昇ってくるのである。

歌手ではグリストの名唱を筆頭にエヴァンスとバキエが印象的である。

「ドン・ジョヴァンニ」は、徹底的に19世紀ロマン主義の伝統を継承した演奏で、デモーニッシュなドラマとしての側面を強調する。

歌手もクレンペラーの意図を反映して、ギャウロフは豪胆で骨太、暴力的とさえいえるドン・ジョヴァンニを歌い、ベリーのレポレロには重厚さが目立つ。

ルートヴィヒ、クラス、ゲッダも責任を見事に果たしている。

この曲の最もスケール雄大なデモーニッシュな演奏として、独自の存在を主張するものだ。

「コジ・ファン・トゥッテ」は、通常の概念とは大きく離れてはいるものの、モーツァルトの音楽の粋からは決して逸脱していない、クレンペラーの作り出した全くユニークなドラマの世界が、ここに厳然とした姿で存在する。

世紀の巨匠の巨大な音楽的俯瞰力に支えられた縮縮尺に、聴き手の耳が慣れた時から、この演奏は独特の魅力と魔力を放ち始める。

歌手陣もその音楽の枠に見事に呼応しつつも、大いに自己主張することに成功している。

「魔笛」は、台詞をすべて省略した演奏だが、それはクレンペラーが絶対音楽としての純潔を志向していることを物語っている。

この剛直できびしい表現が「魔笛」のすべてではないが、そこに豊かで生き生きとした血と肉を与えたのは、充実したキャストによる見事な歌で、ひとつの完成した世界を生み出している。

クレンペラーの遺したモーツァルト・オペラの全曲盤の中では最も優れた傾聴に値する名演である。

クレンペラーの演奏は、全体的に動的というより静的で、でも細部の隈取がクリアで、いつも巨大なあざやかな壁画を眺めているような印象を受ける(実演は必ずしもそうでなかったようであるが)。

それが、やや色彩的にどぎつい後期ロマン派では、下手な演奏では下品になる所が、テンポの動きはあまりないけれど、全体としてスケールの大きい格調の高い、彫りの深い演奏となって実現する。

この音楽の傾向は、モーツァルトのオペラの中にあっては、「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」で特徴的に見事な表現となって現れる一方、「フィガロの結婚」では、序曲とか、ケルビーノの試着の場とか、何というかもう少し、浮き立つようなエラン(活気)のようなものがあってもいいのではないかと思わないでもない。

ただ同じ傾向の作品である「コジ・ファン・トゥッテ」は、そうでもないところが面白い。

ただ多少の相違はあっても全体としてクレンペラーのスタイルは一貫していて、それを味わうセットと判断すべきであろう。

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最盛期のギレリスが巨匠セルとともに残した名匠同士によるベートーヴェンで、ギレリスとセルという名手同士ががっぷり四つに組んで作り上げた名演だ。

クリーヴランド管弦楽団をセルの楽器と称されるまでに徹底的に鍛え上げたセル、そして、鋼鉄のピアニストとの評価がなされたギレリスの両者の組み合わせ。

この両者が組んだ協奏曲は、何か血も涙もないような冷徹な演奏に陥ってしまうのではないかとの懸念もあったが、本盤を聴いて、それは杞憂に終わった。

それどころか、燃えたぎる緊張感の中にも精妙で美しい演奏は、ギレリスのピアノとセル&クリーヴランド管弦楽団の特質が見事に合致したもので、その澄み切った音楽は感興に満ちており、実に懐の深い滋味溢れる名演に仕上がっている。

このような名演になった要因は、最晩年のセルの芸風にあると言えるだろう。

確かに、1960年代前半までのセル&クリーヴランド管弦楽団の演奏は、精緻なアンサンブルが売りであった。

オーケストラのすべての楽器の音が1つになるような鉄壁さは脅威とさえ言えるもので、筆者も、セル亡き後のクリーヴランド管弦楽団のレコーディングにおいて、いまだにその残滓があることに唖然とした記憶がある。

そうしたセルも、1960年代後半の最晩年になると、精緻なアンサンブルを維持しつつ、ある種の柔軟性が出てきたように思う。

それが、単なる老化によるものか、それとも、芸風の深化によるものかは定かではないが、いずれにせよ、演奏に滋味豊かさが加わったのは事実である。

そんな滋味溢れる名演の1つが本盤であると考える。

そうしたセルの演奏に、ギレリスも見事に応え、ここでは、鋼鉄のピアニストの看板を投げ捨て、セルとともに、温かみのある演奏を繰り広げているのが素晴らしい。

ギレリスのピアノは、ハッタリや過剰なロマンは皆無、素晴らしい粒立ちのタッチで、1つ1つの音符を慈しむように丁寧に弾き、それが素晴らしい叙情性を生む。

それでいて、ピアノとオケ双方が一切の甘えを排した、解釈も含めておそらく最も厳しいベートーヴェン演奏とも言える。

隅から隅まで表現がシンクロしており、協奏曲表現としては、これを超える演奏は難しいのではないだろうか。

細かい合わせも見事(ピアノ独奏からオケの総奏になだれ込むところを聴くべし!)で、鳥肌が立つ。

セルはやはり上手いし、最高の演奏効果が実現するギレリスの演奏スタイルも、ベートーヴェンにピッタリで、もう何から何まで筋書き通り。

緊張感を伴いながらの精妙で美しい演奏は、ギレリスのピアノとセル&クリーヴランド管弦楽団の特質が見事に合致したことを示すもので、その澄み切った音楽は感興に満ちた素晴らしさに富んでいる。

いわば両者のベートーヴェンの音楽に対する愛着が滲み出て来るような演奏で、力技や効果狙いは皆無、ゆっくり目のテンポ、掌の上で音楽を大切に転がすような取り扱いが、なにか忘れていたものを大切に差し出させれているようだ。

両者が共に1つの世界を作り出すことをここまで徹底して実現したこの記録は、多くの人に賞賛されてしかるべきだと思う。

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2015年04月15日


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何故か長らく廃盤の憂き目にあっていた名盤の待望の復活である。

ブルックナー的という概念にとらわれない純音楽的ブルックナーであり、ベームの人柄がそのまま出ている生真面目な演奏であるが、堅苦しくならず、角の立たない優しさに溢れている。

この作品のもつ構成的な美しさをよくあらわした演奏で、淡々と音楽を運びながらも、ベームの強い意志が貫かれている。

この作曲者としては例外的に「歌謡的」なこの交響曲を、あくまで自然に、また悠然とウィーン・フィルと歌い上げていく。

ベームは、作為の無い素直な解釈であり、アゴーギク、デュナーミクも抑制的であるが、かと言ってストイックな演奏ではなく、ウィーン・フィルの合奏能力を確信して、余り締めつけずに悠々と振っている。

特に、テンポを微妙に動かしながら、明暗の度合いをくっきりと打ち出した第1楽章は、出だしのチェロの第1主題の歌わせ方から、その特徴が出ている。

息の長い旋律線を弦が歌い上げるとき、あたかも輝かしい光と熱が音から放射されるように感じられる。

ベームは職人芸の指揮者とよく言われ、ドイツ系の交響曲の緩やかな楽章を注意深く聴いてみるとわかるが、カラヤンのような、耽美的な味わいが薄いだけで、いつも豊かな歌に満ちていることがわかる。

その後も厚みのある弦楽器の音色を生かしてゆったりと表現した第2楽章、一分の隙もなく金管楽器を壮麗に鳴らした第3楽章、ロマン的な雰囲気を柔らかに表出した第4楽章、ウィーン・フィルの豊かな響きとともに、ベームの音楽設計が光る。

ところでベームは、ブルックナーの交響曲をすべて演奏しているわけではなく、遺された録音などを勘案すると、演奏を行ったのは第3番、第4番、第5番、第7番及び第8番の5曲に限られているものと思われる。

これ以外にも若干のライヴ録音が存在しているが、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスの各交響曲全集を録音した指揮者としては、必ずしも数多いとは言えないのではないかと考えられる。

この中でも、文句なしに素晴らしい名演は1970年代前半にウィーン・フィルを指揮して英デッカにスタジオ録音を行った第3番(1970年)及び第4番(1973年)である。

その点、本盤に収められた演奏(1976年)は、ベームの全盛時代の代名詞でもあった躍動感溢れるリズムが、本演奏ではいささか硬直化してきているところであり、音楽の自然な流れにおいても若干の淀みが生じていると言わざるを得ない。

しかしながら堅固な造型、隙間風の吹かないオーケストラの分厚い響きは相変わらずであり、峻厳たるリズムで着実に進行していく音楽は、素晴らしいの一言。

何よりも素晴らしいのは、ウィーン・フィルならではの美しい音色を味わうことができることだ。

どんなに最強奏しても、あたたかみを失わない金管楽器や木管楽器の優美さ、そして厚みがありながらも、決して重々しくはならない弦楽器の魅力的な響きなど、聴いていてほれぼれとするくらいだ。

演奏の精度、燃焼度ともに高い素晴らしい演奏で、この音の輝き、神々しさはウィーン・フィルならではのものであろう。

洗練され、ロマンティックな香りがそこはかとなく漂い、ウィーン・フィルの生の音を思い出させる自然な録音も嬉しい。

指揮者・オーケストラ・録音と3拍子揃った貴重な名演と言えるだろう。

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ピアノ、指揮者、オーケストラ、そして録音の4拍子が揃った稀有の名演である。

先ずは、リチャード・グードのピアノであるが、その微動だにしない堂々たるピアニズムを高く評価したい。

グードは今の時代を代表する偉大なピアニストの1人であり、特にベートーヴェンの作品を弾かせたら当代最高峰と言っても過言ではないだろう。

グードはベートーヴェンの演奏によって名声を築き上げたピアニストで、今回の録音はグードとベートーヴェン作品との長年にわたる関係の延長として生まれたものと言えよう。

グードが弾くベートーヴェンのピアノ・ソナタは、コンサートでもディスクでも(グードはアメリカ出身ピアニストとして初めてベートーヴェンのソナタを全曲録音した)聴くたびに新しい発見がある。

そこには型にはまったマンネリ感が全くなく、音楽そのものと聴き手の間に自分自身を割り込ませようとする演奏家にありがちな尊大さがかけらも感じられない。

この"無私無欲"の才能は彼の師であるルドルフ・ゼルキンが体現していたのと同じものだ。

グードのピアノからは、まるで作曲家自身が鍵盤に向かい、たったいま頭に浮かんだばかりの楽想を表現しているかのように聴こえる。

峻厳たる造型の構築力にも秀でたものがあり、強靭な打鍵は地の底まで響かんばかりの圧巻の迫力がある。

スケールも雄大であり、その落ち着き払った威容には、風格さえ感じさせる。

他方、ピアノタッチは透明感溢れる美しさを誇っており、特に、各曲の緩徐楽章における抒情的なロマンティシズムの描出には抗し難い魅力を湛えている。

技量にも卓越したものがあるのだが、上手く弾いてやろうという小賢しさは薬にしたくも無く、1音1音に熱い情感がこもっており、技術偏重には決して陥っていない。

この風格豊かで、内容の濃いグードのピアノに対して、イヴァン・フィッシャーの指揮も一歩も譲っていない。

いわゆる古楽器奏法を行っているのだが、音楽は実に豊かに流れる。

強弱の絶妙な付け方といい、楽器の効果的な活かし方といい、フィッシャーの音楽性の豊かさや表現力の桁外れの幅の広さを大いに認識させられるところであり、これまでのベートーヴェンのピアノ協奏曲の演奏では聴かれなかったと言っても過言ではないほどの至高・至純の美しさを湛えている。

従来のピアノ協奏曲の録音だと、ピアノが主導権を握って指揮者&オーケストラは伴奏に徹するか、それとも、指揮者が大物であることもあって、ピアノがオーケストラの1つの楽器として埋没してしまうか、はたまた指揮者とピアニストが火花を散らし合ういわゆる競争曲になるケースが多いのだが、本盤の場合は、ピアノと指揮者&オーケストラが同格であり、両者が一体となって音楽を作り上げているのが素晴らしい。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集も数え切れないほど聴いてきたが、この演奏は最近聴いた中では最上のものと言っていいだろう。

ブダペスト祝祭管弦楽団も、フィッシャーの指揮の下、最高のパフォーマンスを示している。

録音はこれまた極上であり、グードのピアノタッチや、フィッシャー&ブタペスト祝祭管弦楽団の最美の演奏を鮮明な音質で味わえる点も高く評価したい。

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ブルックナーの交響曲第6番は、ポピュラリティを獲得している第4番や峻厳な壮麗さを誇る第5番、そして晩年の至高の名作である第7番〜第9番の間に挟まれており、知る人ぞ知る存在に甘んじていると言わざるを得ない。

楽曲自体は、極めて充実した書法で作曲がなされており、もっと人気が出てもいい名作であるとも考えられるところであるが、スケールの小ささがいささか災いしていると言えるのかもしれない。

いわゆるブルックナー指揮者と称される指揮者であっても、交響曲第3番〜第5番や第7番〜第9番はよくコンサートで採り上げるものの、第6番はあまり演奏しないということが多いとも言える。

このことは、前述のような作品の質の高さから言っても、極めて残念なことと言わざるを得ないところだ。

そのような中で、ヴァントは、この第6番を積極的に演奏してきた指揮者である。

ヴァントが遺した同曲の録音は、唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1976年)、そして、手兵北ドイツ放送交響楽団との2度にわたるライヴ録音(1988年と1995年(本盤))(DVD作品としては、翌年のライヴ録音(1996年)が別途存在している)、更には、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(1999年)の4つの録音が存在している。

これらはいずれ劣らぬ名演であると言えるが、この中でも最も優れた超名演は、ミュンヘン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

もっとも、北ドイツ放送交響楽団との最後の録音となった本盤の演奏も、さすがにミュンヘン・フィルとの演奏のような至高の高みには達していないが、当該演奏の4年前の演奏ということもあって、十分に素晴らしい至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

第1楽章など、金管を思いっきり力強く吹かせているが、決して無機的には陥ることなく、アルプスの高峰を思わせるような実に雄大なスケールを感じさせる。

それでいて、木管楽器のいじらしい絡み合いなど、北欧を吹く清涼感あふれる一陣のそよ風のようであり、音楽の流れはどこまでも自然体だ。

第2楽章は、とある影響力の大きい某音楽評論家が彼岸の音楽と評しておられたが、本盤の演奏こそがまさに彼岸の音楽であり、前述のようにミュンヘン・フィルとの演奏ほどの至高の高みには達していないものの、ヴァントとしても、最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地をあらわしていると言えるのではないだろうか。

第6番は、第3楽章や第4楽章のスケールが小さいと言われるが、ヴァントの演奏を聴くと必ずしもそうとは思えない。

終楽章など、実に剛毅にして風格のある雄大な演奏であり、特に、第2楽章の主題が回帰する箇所のこの世のものとは思えないような美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

ヴァントは、2002年にベルリン・フィルと同曲を演奏する予定だったとのことであるが、その死によって果たせなかった。

本盤の演奏やミュンヘン・フィルとの超名演を超えるような名演を成し遂げることも十分に想定出来ただけに残念という他はないところだ。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年04月14日


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アルバン・ベルク四重奏団は、1971年に第1ヴァイオリンのギュンター・ピヒラーをリーダーとして結成されたウィーンの団体で、ベルク未亡人の同意を得てこの名称を冠し、ベルクの作品でレコード・デビューを果たしたことは周知のとおり。

レヴェルの高いこのデビュー盤で、たちまちヨーロッパで一目置かれる存在となった。

ベルクにとどまらず、ウィーンとゆかりの深い作曲家の作品をレパートリーとして数々の録音を行なってきたが、このシューベルトの代表的弦楽四重奏曲2曲もそのひとつ。

これは、大変内容の充実したスケールの大きな演奏で、ウィーンの伝統に即しながら、新しい感覚で表現しているところが魅力だ。

アルバン・ベルク四重奏団は、モーツァルトやベートーヴェン、またブラームスなどのロマン派の作品、あるいはバルトークやベルク、ウェーベルンの曲にしても、かなり早い時期から独自の境地を開いており、年を経るごとに大きく変わってくるということがなかったように思われる。

そうした中でも、特にシューベルトの作品に対しては、決して構えた姿勢や力の入った表現ではとらえようとはせず、実にのびのびとした演奏を聴かせるが、それでいて、必要な内的緊迫感を見事に表現しているのが素晴らしい。

とりわけ《死と少女》は、彼らにとって決してルーティンなどになりえない、まさに唯一無二のかけがえのない世界だったようで、常に全力投球を惜しまなかった。

シューベルトの美しい旋律とハーモニーの陰に隠された恐ろしいまでの孤独と寂寥感をこのアルバン・ベルクSQの演奏は聴かせている。

第1ヴァイオリン奏者のピヒラーは、「シューベルトの音楽に表現された彼岸の世界ほど表現することが難しいものはない」とよく言っていたが、この《死と少女》の演奏は、その典型的な例と言えるところであり、これまでのウィーン流のたおやかなシューベルトのイメージを一蹴し、新風を吹き込んだ演奏である。

そのアンサンブルはきわめて緊密で、すこぶる明快、彫りの深い力感を重んじながら透明な響きで旋律をよく歌うと同時に、明晰で厳しくそして緻密にシューベルトの音楽の内面まで深く掘り下げて表現する。

したがって悲劇性と抒情性も含めてこの曲のさまざまな性格が迫真的に表現されている。

各声部の絶妙な語り口で暗いロマン的情熱を適度に引き出している第1楽章、深刻さよりも抒情性が優位に立っているような表現の第2楽章はひとつひとつの変奏もよく旋律の歌わせ方も見事であり、主部と中間部との際立った対比が巧みな第3楽章など、どこをとってみても彼ら独自の美しさが見事に表出していると思う。

この演奏には迸るような激しい情熱や異例なほどの緊張感に満ちた厳しさが溢れているだけに、その間を縫って明滅するように奏でられる抒情的な歌の彼岸の世界をくっきりと浮かび上がらせている。

シューベルトの音楽が、このように際立った鋭さと緊迫感をあらわにするのは、そう多くあることではない。

それでいて、音楽が硬直せず、洗練された情感をもっているのは、この団体の音楽性であろう。

カップリングされている《ロザムンデ》の演奏も聴き応えがあり、端正な造形で、この作品の歌と抒情とをすっきりとまとめあげていて、その爽やかさに惹かれる。

豊かな艶をもったピヒラーの第1ヴァイオリンを中心に、流麗に、そして強固に表現されたシューベルトだ。

特に第1楽章ではしなやかな歌も忘れておらず、動と静のコントラストを巧みに活用し、懐の深さを示している。

現代的な鋭利な感覚のなかに、この曲固有の優美な抒情性を無理なく共存させているところに、このSQの特色があると言えよう。

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