2015年04月

2015年04月14日


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最近ベームのモーツァルト関係の映像をいくつか見直してみて、やっぱりすごいと感嘆した。

晩年は身振りはもうほとんどわずかで、手先が揺れるばかりのところも多いのだが、ベームの眼光は音楽のすみずみにまでゆきわたっていて、ほんの小さな動きにも、オーケストラが瞬時に反応する。

わずかの身振りでこれだけの結果を引き出す指揮者というのも、滅多に例がなかろう。

ウィーン・フィルを指揮してのモーツァルトの交響曲、視覚的には、枯れ切った老人がつまらなそうに棒を振っているようにしかみえない。

だがそれにもかかわらず、オーケストラからはふっくらした美しい歌が、みずみずしく流れ出てくる。

これは本当に不思議なことで、音楽の本質がよほどしっかりとらえられていなくては、ありえないことだと思う。

晩年には伝統の象徴のようにみなされたけれども、ベームはわれわれに、新しい音楽を届け続けてくれた指揮者だった。

ところでベームが自分のワーグナー演奏を「モーツァルトとバッハによって浄化されたワーグナー様式」と呼んだことは有名だが、古典から現代に至るベームのレパートリーの中心には、いつもモーツァルトがあった。

すてきな自伝『回想のロンド』(高辻知義訳、白水社)の中で、ベームはモーツァルトについて、こう語っている。

「わたしが彼に捧げてきた愛情のすべてを彼は千倍にもしてわたしに報いてくれた。彼はいつもわたしに、苦難のときでも決して自分の職業に失望しないようにと、勇気を授けてくれた。彼は、新しい行為におもむくとき、いつも活力を汲むことのできる霊泉のような存在である」。

そして今では、ベームの遺したモーツァルト演奏が、あたかも「いつも活力を汲むことのできる霊泉」と化したかのように、われわれを力づけてくれる。

ベームの変わらざる新鮮さの秘密は、どこにあるのだろう。

往年の巨匠が大オーケストラを使って演奏するモーツァルトというと、われわれはつい、肉厚で量感のある、拡大志向の響きを連想する。

しかしベームの引き出す音は、テクスチュアを一目で見わたせるように、内側にさわやかに引き締まっており、そしてそこに「かくあるべし」という理念がピーンと張り詰めている。

ベームは若い頃から、演奏の正確さで定評があり、楽譜を丹念に読み、その無駄のない再現のために、妥協のないリハーサルを重ねた。

頑固一徹で、がみがみとやかましいというイメージが、しごかれる楽員の側にはあったという。

だがそれは、作品の精神的内容に対する純朴な敬意に支えられていたから、彼の演奏は決して、味のない機能主義に陥ることがなかった。

重要なのは、ベームのトレーニングがオーケストラを支配するためでなく、オーケストラの特徴を最大限に生かすために行われたということである。

大指揮者のうちでもベームほど、オーケストラによって、味わいに違いの出た指揮者は少ない。

ベームのすばらしさは、そのゆるぎのないリズム感にあり、とくに拍子の感覚は、つねに厳正そのものであった。

先ほど「かくあるべし」という言葉を使ったが、筆者はベームの演奏を聴くと、カント以来ドイツ人の追い求めてきた道徳的理想のようなものが、とくにその拍子感覚に脈打っているように思えてならない。

いずれにせよベームの刻む拍節は、演奏にがっちりとした構成感を与え、「正しく生きることの爽やかさ」をさえ、そこに匂い出させた。

ベームはしばしば、よい意味での職人にたとえられた人で、たしかにベームは、音楽に流されず、音楽を厳しく統括することのできる「プロの」指揮者だった。

上述の『回想のロンド』の中で、彼は指揮の極意を、次のように述べる。

「指揮者は同時に作品の中と、作品の上にいなければならない。誤った音を聴いて修正することができなくなったら、各楽器の強弱をつねにコントロールできなくなったら、彼はオーケストラから見放されたのである。そのような瞬間に彼の権威も失墜する……」。

指揮者は、音楽の流れにみずから酔うわけにはいかず、自分をその誘惑から、厳しく律していかなくてはならない。

こうした「道の厳しさ」を確信をもって追求し続けた指揮者が、カール・ベームだった。

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classicalmusic at 20:50コメント(4)モーツァルトベーム 

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ヴァントは、1990年代に入ってブルックナーの交響曲の崇高な超名演を成し遂げることによって真の巨匠に上り詰めるに至ったが、1980年代以前のヴァントがいまだ世界的な巨匠指揮者としての名声を獲得していない壮年期には、たびたび来日して、NHK交響楽団にも客演を行っていたところだ。

ヴァントの伝記を紐解くと、ブルックナーの交響曲の演奏に生涯をかけて取り組んできたヴァントが特別視していた交響曲は、「第5」と「第9」であったと言えるようだ。

朝比奈も、交響曲第5番を深く愛していたようであるが、録音運がいささか悪かったようであり、最晩年の大阪フィルとの演奏(2001年)を除くと、オーケストラに問題があったり、はたまた録音に問題があったりするなど、いささか恵まれているとは言い難い状況に置かれているところである。

これに対して、ヴァントの場合は、あくまでも比較論ではあるが、かなり恵まれていると言えるのではないだろうか。

ヴァントが遺したブルックナーの交響曲第5番の録音は、唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1974年)、手兵北ドイツ放送交響楽団とのライヴ録音(1989年)、数年前に発売されて話題となったベルリン・ドイツ交響楽団とのライヴ録音(1991年)、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(1995年)、そして不朽の名演として名高いベルリン・フィルとのライヴ録音(1996年)という5種類を数えるところであり、音質、オーケストラの力量ともにほぼ万全であり、演奏内容もいずれも極めて高水準である。

いずれ劣らぬ名演と考えるが、この中で最も優れた名演は、ミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

ここに採り上げる6種類目になる本盤(NHK交響楽団との1979年ライヴ録音)の性格はケルン放送交響楽団とのスタジオ録音に近いものと言える。

ヴァントがいまだ世界的なブルックナー指揮者としての名声を獲得していない壮年期の演奏であるだけに、1990年代における神々しいばかりの崇高な名演が誇っていたスケールの大きさや懐の深さはいまだ存在していないと言えるところであり、本盤の演奏を前述の1990年以降の超名演の数々と比較して云々することは容易ではある。

しかしながら、本演奏においても、既にヴァントのブルックナー演奏の特徴でもあるスコアリーディングの緻密さや演奏全体の造型の堅牢さ、そして剛毅さを有しているところであり、後年の数々の名演に至る確かな道程にあることを感じることが可能だ。

また、本盤の演奏においては、こうした全体の堅牢な造型や剛毅さはさることながら、金管楽器を最強奏させるなど各フレーズを徹底的に凝縮化させており、スケールの小ささや金管楽器による先鋭的な音色、細部に至るまでの異常な拘りからくるある種の神経質さがいささか気になると言えるところではあるが、それでも違和感を感じさせるほどでもないというのは、ヴァントがブルックナーの本質を既に鷲掴みにしていたからにほかならないと考えられる。

そして、本演奏には、ライヴ録音ならではの畳み掛けていくような気迫と生命力が漲っており、その意味では、ケルン放送交響楽団とのスタジオ録音よりも優れた演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、世界的なブルックナー指揮者として世に馳せることになる後年の大巨匠ヴァントを予見させるのに十分な素晴らしい名演と高く評価したい。

ヴァントの剛毅で緻密な指揮にしっかりと喰らい付いていき、持ち得る実力を最大限に発揮した名演奏を披露したNHK交響楽団にも大きな拍手を送りたい。

音質は、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりになっており、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年04月13日


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交響曲全集をも完成しているモーツァルトのスペシャリスト、マッケラスの何とも美しい《グラン・パルティータ》で、聴かせどころのツボを心得た演奏はこの曲の模範となり得る素晴らしさだ。

マッケラスはセント・ルカ管弦楽団の管楽器の首席奏者たちの実力を遺憾なく発揮させている。

豊かな響きと明快な表現とが両立した快演で、しかも読みが深く、表現に奥行きがある。

味わいと風格の点では過去の大指揮者たちの名演に並び、アンサンブルの切れ味や表現の緻密さは紛う方なく、現代の最高水準である。

マッケラスはセント・ルカ管弦楽団とハイドンの《ロンドン交響曲》のシリーズで録音していたが、そこで聴く両者の息はぴったりと1つになっていた。

その最大のポイントはセント・ルカ管弦楽団の奏者の多くが、オリジナル楽器と現代楽器の両方を奏すことができ、古楽器を通じて学んだ表現や解釈を、現代楽器の演奏に活かす技術をもっていることにある。

すなわち、現代楽器によりながらさりげなく古楽器演奏の成果があらわれているのである。

その姿勢はマッケラスも同じで、例えば彼は英国のジ・エイジ・オブ・インライトゥンメント管弦楽団のようなオリジナル楽器の楽団もよく指揮しており、先のプラハ室内管弦楽団とのモーツァルトの交響曲でも、またセント・ルカ管弦楽団とのハイドンでも、作曲者の時代の小型の編成と楽器配置をとり、音楽の作り方も、古楽オーケストラで得た経験に基づいたアイディアを種々生かしている。

この《グラン・パルティータ》にもまったく同じ姿勢が貫かれている。

例えば2つのメヌエット楽章で、ダ・カーポした際も、毎回反復を省略しないいき方もその1つである。

それも単に律儀に指定に準拠するとか、歴史的習慣に忠実にというのではなく、曲全体のプロポーションの中での効果を充分に意識しての反復となっている。

そのため前後の楽章との音楽的な対照が見事につき、「大きなパルティータ」としての曲の豊かな規模に、改めて耳の注意が向くことになる。

大人数の管楽器の音色の響きの生かし方も見事だ。

前述の古楽器をよく知っての現代楽器の扱いとともに、セント・ルカ管弦楽団がもともと肥大したサウンドで聴き手を威圧するのではなく、室内楽的に緻密な、本来の意味でよくハーモニーする演奏を目指す団体であることが、このセレナードにも無理のない自然のスケール感と、精妙で繊細なパートの交歓を生んでいるのだろう。

要所は確実におさえられているのだろうが、指揮者の体臭を良い意味で感じさせない。

セント・ルカ管弦楽団のメンバーたちの優れた技術と音楽性に乗りながら、まるでマッケラスも交じって管を吹いているような演奏だ。

こうした邪魔をしないやり方もヴェテランの味であろうか。

指揮者と楽員とが素晴らしく協調したみずみずしい楽興が、長い音楽全体に行き渡っており、フィナーレの沸き立つようなロンドの大団円の感動も一入(ひとしお)である。

テラークの優秀録音(1993年デジタル録音)と相俟って、同曲のベストの1つに掲げられる名盤と高く評価したい。

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バルビローリは、遺された録音に鑑みても極めて広範なレパートリーを誇った指揮者であったと言えるが、その中核をなしていたのはマーラーとシベリウスと言えるのではないだろうか。

バルビローリのシベリウスは、何と言ってもヒューマニティ溢れる温かさが魅力であり、本盤に収められた演奏は、交響曲のみならず小品においても、どこをとっても人間的な温かさに満ち溢れていると言えるだろう。

それでいていささかも感傷的に流れないのはバルビローリのシベリウスの優れている点であり、常に高踏的な美しさを湛えている。

そして、その美しさはあたかも北欧の大自然を彷彿とさせるような清澄さを湛えていると言えるところであり、バルビローリのシベリウスはまさに人間的な温もりと清澄な美しさが融合した稀有の演奏であると言えるのではないかと考えられる。

このような演奏は、とりわけ近年の北欧出身の指揮者による透明感溢れる精緻な演奏などとは一味もふた味も異なっていると言えるが、バルビローリのシベリウスには一本筋の通った確固たるポリシーがあり、シベリウス演奏の一つの理想像として有無を言わせない説得力を有しているものと言える。

交響曲第1番については、第1楽章の冒頭においてより鋭角的な表現を求めたい気もしないではないが、終楽章の心を込めたヒューマニティ溢れる旋律の歌い上げなども極上の美しさを誇っており、名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではない。

交響曲第2番については、壮麗な迫力と人間的な温もりが高度な次元で融合した、いい意味での剛柔のバランスのとれた素晴らしい名演。

常識的なバルビローリ調で一貫したステレオ盤に対し、モノーラルの方はメリハリが効き、強弱は思い切ってつけられ、速いテンポを基調としつつ、曲が進むにつれてますますスピード感がまし、しかも緩急のさばき方が圧倒的だ。

第1楽章後半の猛烈な嵐と猛烈な速さはめくるめくばかりで、こんな表現は他に類例がなく、初めて聴く人はバルビローリの指揮ということが信じられないだろう。

第2楽章に入ると指揮者の棒はいよいよ自由になり、アッチェレランドの激しさなど、まるでフルトヴェングラーのブルックナーのようだが、あのように音楽を歪めてしまうことなく、雄弁な語りがシベリウスそのものなのだ。

これはバルビローリが曲の本質や核心を鋭くとらえ切っているからに他ならない。

第3楽章の凄絶な突進とアクセントの決め方は、まるで戦いが始まったようで、ここではすべてが血のように赤い。

筆者としては折衷的なこの曲をあまり好んでこなかったのだが、本演奏なら夢中になる。

交響曲第5番については、とりわけ終楽章の有名な鐘の主題をこれほどまでに心を込めて美しく響かせた演奏は他にあるだろうか。

少なくとも、この極上の鐘の主題を聴くだけでも本名演の価値は極めて高いと言わざるを得ない。

そして白眉は何と言っても交響曲第7番ではないだろうか。

同曲の冒頭、そして終結部に登場する重層的な弦楽合奏の美しさは、まさに人間的な温もりと清澄さが同居する稀有の表現でありバルビローリのシベリウスの真骨頂。

本名演に唯一匹敵する存在であるカラヤン&ベルリン・フィルによる名演(1967年)における弦楽合奏も極上の絶対美を誇ってはいるが、その人間的な温もりにおいて本演奏の方を上位に掲げたい。

第2部から第3部への移行部に登場するホルンによる美しい合奏も、カラヤン盤をはじめ他の演奏ではトランペットの音に隠れてよく聴き取れないことが多いが、本演奏では、トランペットなどの他の楽器の音量を抑え、このホルン合奏を実に美しく響かせているのが素晴らしい。

第1部のトロンボーンソロはカラヤン盤がベストであり、さすがに本演奏もとてもカラヤン盤には敵わないと言えるが、それは高い次元での比較の問題であり本演奏に瑕疵があるわけではない。

もっとも、弦楽合奏のアンサンブルなどハレ管弦楽団の技量には問題がないとは言えないが、それでもこれだけの名演を堪能してくれたことに対して文句は言えまい。

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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から30年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラーに対する評価については百家争鳴の感があるが、こんなに深くスコアを読み、練習を重ね、見事な演奏をしたマーラーは少ない。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲第8番の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲第8番の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

このようなアプローチが、曲によってはやや物足りない印象を与えることがあるが、今回HQCD化された「第8」については、曲の性格にもよるのだろうが、インバルのアプローチとの抜群の相性の良さを感じる。

インバルは、厳格なスコアリーディングによる相当に緻密で彫琢の限りを尽くした演奏を繰り広げており、インバルの圧倒的な統率力の下、独唱陣や合唱団も実にうまい。

これらのスケール雄大で圧倒的な名演を、ワンポイント録音が完璧に捉え切っている様は、驚異と言うほかはない。

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2015年04月12日


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ライナー&シカゴ交響楽団によるマーラーの交響曲の録音は、本盤に収められた「大地の歌」と第4番の2曲しか遺されていない。

マーラーが今ほど演奏されなかった1950年代の貴重な録音で、ライナーにとっても珍しいレパートリーだった。

しかしながら、遺された演奏は、文学性に耽溺することなく、シカゴ交響楽団のパワフルで底力のある響きと木管や金管の見事なソロ・ワークで、作品の魅力をストレートに引き出したステレオ初期の名盤であり、いずれも一聴に値する名演であると評価したい。

R.シュトラウスと直接語らい、マーラーと同時代の空気を呼吸していたが故に、「私たちの次の世代こそが」演ずるべきと語ったライナーの貴重な録音で、優しさと構成感の強い(故に作品の本質とは齟齬も?)美演。

世紀末ウィーンを拠点とした後期ロマン派の音楽には精通しているので、決して勝手が分からぬ状況になっている演奏ではなく、独自の美意識に従って解釈されたマーラーである。

シカゴ交響楽団によるマーラーの演奏としては、後年のショルティによる全集が有名である。

同じハンガリー人であることもあり、表向きは類似しているとも言えるところだ。

両者ともに、全体を引き締まった造型で纏め上げるとともに、シカゴ交響楽団の卓越した技量を存分に駆使して、壮麗にオーケストラを鳴らしていくというアプローチを行っている。

もっとも、ショルティの演奏と大きく異なるのは、ライナーの演奏は、オーケストラの技量臭をいささかも感じさせないということであろう。

ライナー時代のシカゴ交響楽団には、特に高弦において顕著であるが艶やかな美しさに満ち溢れていたと言える。

したがって、本演奏においても、シカゴ交響楽団の持つ艶やかな音色が、ライナーの引き締まった剛直とも言える演奏に、適度の潤いと温かみを付加することに成功し、いささかも無機的には陥らない情感豊かな演奏に仕立て上げるのに大きく貢献している。

包容力溢れるカナダ出身のコントラルトのフォレスター、明るい音色で歌い上げるテノールのルイス、ともにワルターからも信頼を得ていた「大地の歌」の当時最高の解釈者2人の歌唱も聴きもので、最高の歌唱を披露していると高く評価したい。

そして、何よりも素晴らしいのはSACDによる極上の高音質である。

本演奏は1959年のスタジオ録音であるが、今から50年以上も前の録音とは思えないような鮮度の高い音質に生まれ変わっている。

当時のシカゴ交響楽団の滑らかな欧州サウンドが蘇っており、艶やかな音色が鮮明に再現されるというのはほとんど驚異的ですらある。

独唱とオーケストラの分離の良さも相俟って、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ライナーによる希少なマーラーの名演を、現在望み得る最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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本盤には、2001年に惜しくも急逝したシノーポリが遺した唯一のシューマンの交響曲全集が収められている。

シノーポリによるシューマンの交響曲の名演としては、何と言ってもウィーン・フィルとスタジオ録音した交響曲第2番の演奏(1983年)が思い浮かぶ。

当該演奏は、カップリングされていた「マンフレッド」序曲ともども、細部に至るまで彫琢の限りを尽くした緻密な表現と豊かな歌謡性を併せ持つ稀有の名演に仕上がっており、とりわけ交響曲第2番については、現在においてもなお、同曲演奏史上トップの座を争う至高の超名演と評価してもいいのではないかと考えているところだ。

本全集は、1992〜1993年にかけての演奏であり、ウィーン・フィルとの交響曲第2番の演奏から約10年ぶりのものである。

アプローチ自体は、基本的には変わりがないと言えるところであり、オーケストラがウィーン・フィルからシュターツカペレ・ドレスデンに変わったのが最も大きな違いであると考えられる。

精神医学者でもあり、作曲家でもあったシノーポリの演奏は、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰さを特徴としている。

このような分析的なアプローチに符号した楽曲としては、例えばマーラーの交響曲などが該当すると言えるところであり、シノーポリも比類のない名演を成し遂げることに成功したところだ。

したがって、精神分裂的な気質がマーラーに酷似しているシューマンの交響曲においても、シノーポリが名演を成し遂げたというのは、ある意味では当然のことであったと言えるだろう。

シューマンは長年に渡って精神病を患っていたが、シューマンの各交響曲における各旋律の随所に込められている心の慟哭や絶望感を徹底的に追求するとともに抉り出し、持ち味の分析的なアプローチによって完全に音化することを試みており、他のいかなる指揮者による演奏よりも彫りの深さが際立っている。

他方、シノーポリのイタリア人指揮者としての資質に起因すると思われるが、交響曲第1番や第3番(第4楽章を除く)などに顕著な明朗な旋律の数々も豊かな歌謡性を持って歌い抜いており、細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現を行いつつ、音楽の流れもいささかも淀みがなく流麗に流れていくという、ある意味では二律背反する要素を巧みに両立させた見事な名演奏を繰り広げていると言っても過言ではあるまい。

そして、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の重心の低い音色が、演奏全体に独特の潤いと奥行きの深さを付加するのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

もっとも、第2番については、ウィーン・フィルによる極上の美演の魅力と、若き日のシノーポリならではの畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が演奏全体に漲っていたこともあり、本全集の演奏は1983年の超名演ほどの魅力は有していないと考えられるが、他の交響曲の演奏も含め全集総体としては、シノーポリならでは素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

併録の序曲、スケルツォとフィナーレは、オペラを得意としたシノーポリならではの聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さが光った名演と評価したい。

音質は、1990年代のスタジオ録音であり、これまで特段の高音質化は図られていないが、従来CD盤でも十分に満足できる良好なものである。

しかしながら、本全集は、シノーポリの遺産とも言うべき素晴らしい名演でもあり、今後は最低でもSHM−CD化、そして可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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コリン・デイヴィスは、シベリウスの交響曲全集を3度録音した稀有の指揮者だ。

これは、シベリウスの母国、フィンランドの指揮者であるベルグルンドと並ぶ最多記録と言えるところであり、デイヴィスがいかにシベリウスに深い愛着を持っているのかの証左と言えるだろう。

デイヴィスの3つの全集のうち、現在でも依然として評価が高いのは、1970年代にボストン交響楽団を演奏して成し遂げた最初の全集である。

特に、「第1」〜「第5」は、他の名演と比較しても今なお上位にランキングされる名演であり、いささか透明感に欠ける「第6」や「第7」を踏まえて考えてみても、全集としての価値は、今なお相当に高いものがあると言えるのではないだろうか。

私事で恐縮であるが、筆者も中学生の時代にシベリウスの交響曲に慣れ親しんだが、その時に愛聴していたLPがデイヴィスによる最初の全集であった。

これに対して、2度目の全集は、最初の全集から約20年後の1990年代にロンドン交響楽団と成し遂げたものであるが、これは、はっきり言って、最初の全集と比較するといささか魅力に乏しいと言えるだろう。

デイヴィスとしては、自信を持って臨んだ録音であるのであろうが、そうした自信が過剰になってしまったきらいがあり、金管楽器などのいささか無機的な音色に、やや力の入った力みを感じさせるのが非常に気になった。

最初の全集と比較して、解釈に深みが加わった点は散見されるものの、デイヴィスとしてもいささか不本意な出来であったのではあるまいか。

2度目の全集から10年足らずの間隔で、ロンドン交響楽団の自主レーベルにではあるが、3度目の録音を行ったというのは、その証左と言えるのではないかと考えられる。

そして、この3度目の全集であるが、これは、2度目の全集で見られたような力みがいささかも感じられず、いわゆる純音楽的で自然体のアプローチによる円熟の名演揃いであると高く評価したい。

最初の全集において、いささか透明感に欠けていた「第6」及び「第7」についても、北欧の大自然を彷彿とさせるような繊細な抒情美に満ち溢れており、クレルヴォ交響曲をも含め、本3度目全集は、まさしくデイヴィスのシベリウスの交響曲演奏の総決算とも言うべき素晴らしい名演集であると高く評価したい。

2007年シベリウス没後50年に合わせてのリリースとなるこのたびのライヴは、過去2度にわたる全集録音の豊かな経験を踏まえ、巨匠デイヴィスの熱い思いのすべてが注ぎ込まれた渾身の演奏内容である。

前回(1992年)から10年以上の歳月を重ねて臨んだ第2番のライヴ録音であるが、そもそもデイヴィス+ロンドン響+シベリウスの組み合わせとくれば期待度の高さは計り知れないが、とっておきの作品を演奏することへの心からの喜びであろうか、これまでのどれよりもドラマティックで、しかもみずみずしい感性にあふれているのが驚異的。

いつ聴いても、あのどこか懐かしい気分に心弾む第1楽章、大自然の雄叫びのように荒々しいティンパニの炸裂と金管の咆哮とがこだまする中間2楽章を経て、雄大に結ばれるフィナーレ、いつしかこのうえなく温かく感動的な演奏に言葉もない。

カップリングは2005-6年シーズンのオープニング・コンサートで『クレルヴォ交響曲』の前プロに取り上げられた『ポホヨラの娘』。

そのクレルヴォと同じく民族叙事詩『カレワラ』を題材とするこの作品でもまた、繊細な弦の表情とブラス・セクションの轟きが圧倒的な感銘を残す。

そして本盤で素晴らしいのはマルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質であり、一貫して完成度の高い録音もオーディオ・ファイル注目の的で、本拠地バービカンセンターのクリアな音場を最高のスタッフが忠実に再現している。

シベリウスの交響曲のような透明感溢れる抒情的な音楽には、本盤のようなマルチチャンネル付きのSACDは抜群の効力を発揮すると言えるところであり、演奏内容の質の高さからしても、今般のSACD化を大いに歓迎したい。

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2015年04月11日


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ブラームスを得意としたジュリーニであるが、1990年代に録音されたウィーン・フィルとの全集は、いかにも晩年のジュリーニらしいゆったりとしたテンポによる堂々たる名演揃いだ。

ジュリーニは特に晩年、たっぷり時間をかけてじっくりと演奏するタイプの指揮者であったが、ウィーン・フィルも非常に歌わせるタイプのオケで、ジュリーニとの相性もぴったりなので、演奏は哀愁たっぷりの胸にジーンとくるような詩情にあふれている。

ゆったりとしたテンポによる気品のあるブラームスで、鈍重さは微塵もなく、静かな緊張感に貫かれた表現がジュリーニらしい。

本盤に収められた「第1」は、ジュリーニならではのスローなテンポではあっても、緩ませず、ブラームスの憧れたベートーヴェンの交響曲を思い描いたような、重厚さに重きを置いた解釈の演奏である。

重厚さに重きを置くといっても、そこはやはりジュリーニらしい歌うような軽やかさも忘れていない。

ジュリーニは、オケとの調和をはかりつつ、理想とするブラームスの「形」を哀愁と優しさを感じさせながら描く。

非常にゆっくりしたテンポだが、今までの総決算のような気迫に満ち、第1楽章だけでも普通の交響曲を1曲を聴いたような充実感がある。

のっけから、ううむ、と唸ってしまうほど徹底的にテンポが遅いが、決して茫洋と失速しているわけではない。

音楽を運ぶ音の動きが常に克明に捉えられて、耳が鋭敏になった上に豊かな歌がのるために、その遅さが逆にたまらなく強烈に感覚を高ぶらせる。

まさに、熟成したブランデーのような濃密な味わいだ。

冒頭の和音はソフトなフォルティッシモで開始されるが、その後はゆったりとしたテンポによる堂々たる進軍を開始する。

この進軍は主部に入っても微動だにしないが、他方、隋所に現れるブラームスならではの抒情的旋律については、これ以上は不可能なくらい美しく、かつ風格豊かに歌い上げている。

このような優美な旋律のノーブルで風格豊かな歌い方は、第2楽章や第3楽章でも同様であり、これは最晩年のジュリーニが漸く到達した至高・至純の境地と言えるだろう。

第4楽章は、再び巨象の堂々たる進軍が開始されるが、主部の名旋律の演奏の何と歌心に満ち溢れていることか。

スローテンポを基調として、ブラームスが楽譜に書き込んだもの全てを歌い切っているかのようだ。

ジュリーニの演奏を見事に支えるウィーン・フィルの重厚にして優美な演奏も素晴らしいの一言であり、この「第1」は、万人向けではないが、ジュリーニの渾身の超名演と評価したい。

ハイドンの主題による変奏曲にも同様のことが言える名演であるが、ジュリーニの持ち味であるゆっくりとした演奏でじっくり曲を作りこむ点は変わらず、晩年ならではの歌うような演奏は非常に印象に残る。

特に、第7変奏の筆舌には尽くし難い美しさは、空前にして絶後と言えるのではないだろうか。

ジュリーニの持つ明快さとウィーン・フィルのしなやかさとが相俟った、緊張感に満ちた名演だ。

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大戦末期に空爆で焼失したウィーン国立歌劇場の再開を祝って上演された演目のひとつで、1955年ウィーン国立歌劇場の再開記念公演のライヴ録音である。

元帥夫人に伝説的なライニング、オクタヴィアンに当時新進気鋭だったユリナッチ、ゾフィーにギューデン、オックス男爵にベーメと、主役どころをウィーン出身の歌手で固めた配役も強力であり、ウィーン伝統の勝利と評された。

ライヴということもあり、歌手もオケも実に生き生きとしており、女性3人の主役は父クライバー盤と同じで当時のベスト・メンバー。

特筆すべきは男爵のクルト・ベーメで、クリップス指揮の「ドン・ジョヴァンニ」で騎士長を演っているのしか手元になかったが、ブッフォに堕する寸前ぎりぎりの豊かな演技と歌唱で、筆者が聴いた中ではベストの男爵である。

とはいえ、筆者は根っからのオペラ好きではないせいかもしれないが、個人的にはオペラの場合でもオーケストラの比重は大きく考えている。

歌手がいかに豪華であっても、オーケストラが添え物的では満足できない(むろん、逆にオケが良くて歌手がB級でも困るが)。

その点、この録音はオーケストラがびっくりするほどきれいで、すっかりリラックスしたウィーン・フィルも甘美な懐かしい調べを奏でる。

ウィーン国立歌劇場管弦楽団は、細かいことを別にすれば、ほぼウィーン・フィルと同一のオーケストラであるといってよい。

だからウィーン国立歌劇場でのオペラ公演のライヴ録音は、表記はウィーン国立歌劇場管弦楽団でも、ウィーン・フィルのオペラ演奏であるといってさしつかえない。

だが、何といっても最大の聴きものは、大きなスケールと深い呼吸をもったクナッパーツブッシュの指揮である。

彼らしい悠揚迫らぬ演奏であり、銀の薔薇の献呈の場面などでは無類の陶酔を聴かせるが、彼独特の個性は影を潜めていて普遍的な美しさに到達している。

クナッパーツブッシュの作り出す音楽がちゃんと呼吸しているので、歌手をあおるようなことにはならない。

終幕の三重唱のうねるような盛りあがりなど、さすがというほかはない。

クナッパーツブッシュの歴史的名演奏のドキュメントのひとつとして長く残されるべきものだろう。

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2015年04月10日


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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から20年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラーに対する評価については百家争鳴の感があるが、こんなに深くスコアを読み、練習を重ね、見事な演奏をしたマーラーは少ない。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲第9番及び第10番(アダージョ)の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲第9番及び第10番(アダージョ)の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

もっとも、楽曲がマーラーの最高傑作である第9番及び第10番(アダージョ)だけに、やや踏み込み不足の点も否めないところであり、どちらも、インバルらしい明晰で、最初から最後まで、計算し尽くされた、非凡な演奏だとは思うのだが、このCDに収められた2曲の演奏は、逆に明晰すぎて、何か物足りない感じが残るのである。

近年の円熟のインバルには、更に素晴らしい名演を期待したいところであるとも言えるところだ。

音質は、初出時から高音質録音で知られたものであり、デンオンのPCM技術によって、かなりクリアかつ素直に録音されていて、ゴールドCD仕様のボックスのみならず、従来CD盤でも十分に満足できる音質である。

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母国の作曲家ディーリアスと親交を結び、彼の音楽の普及に最も貢献した指揮者トーマス・ビーチャムが遺した、ディーリアスのステレオ録音の全てを収録したアルバム。

このような演奏こそは、まさに英国の詩情極まれりと言ったところであろう。

ディーリアスの管弦楽曲は、いずれもいかにもイギリスの詩情溢れる親しみやすいものであるが、これをビーチャム以上に情感豊かに美しく演奏したことがこれまでにあったのであろうか。

ディーリアスと親交の深かったビーチャムは、手兵ロイヤル・フィルとともに管弦楽曲集の録音を遺しており、それは現在においてもディーリアスの管弦楽曲演奏の規範となるべき至高の超名演である。

生前の作曲者からその作品解釈を託されほどの信頼関係にあったビーチャムは、作曲者の生前から病に倒れて亡くなってからもディーリアスの音楽の普及に努力を惜しまなかった。

晩年エリック・フェンビーがディーリアスの助手として働き始めてからはイギリスでディーリアス作品で固めたディーリアス・フェスティバルを開催するなど、作曲者の最大の擁護者であった。

SPからステレオ時代1950年代後半までディーリアスの作品の多くを熱心に録音に行なっていた。

第2次大戦で時間をロスしてしまったのとモノラル時代からステレオに変り始めていた時代に対応すべくCBSからEMIに移ってディーリアスの作品を録音し直し始めたが、このアルバムの内容を録音したところで病に倒れ、作曲者の生誕100年祭を目前にこの世を去ってしまった。

このステレオ録音の特徴はそれまでビーチャムが録音を残してなかった作品が含まれていることで、その中にはビーチャム自身がこだわってきた初期の作品が含まれている。

彼自身が実際に演奏しながら手を加えてきたもので、【フロリダ組曲】【そり乗り】【夏の夕べ】【マルシュ・カプリース】など。

又永年愛奏してきた作品【ブリッグの定期市】【春はじめての郭公を聞いて】【河の上の夏の夜】【丘を越えてはるかに】【イルメリン前奏曲】などの小品も含まれている。

さらに【日没の歌】に関しては、生涯で3回も録音をトライしていたが、最後までその発売を禁止していた。

ビーチャムの演奏が素晴らしいのは、これらの各楽曲のスコアに記された音符のうわべだけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていないということであろう。

ディーリアスの管弦楽曲の演奏に際しては、その旋律の美しさに気をとられて、音楽に込められた内容への追求をどこかに置き忘れた薄味の演奏も散見されるところである。

しかしながら、ビーチャムによる本演奏は、もちろん前述のように美しさにおいても他の演奏の追随を許さないものがあると言えるが、どこをとっても奥深い情感と独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした内容の濃い、そして味わい深い演奏を展開している。

いずれにしても、ビーチャムによる本演奏は、その美しさにおいても、内容の濃さにおいても、味わい深さにおいても、まさにディーリアスの管弦楽曲演奏の理想像の具現化と言えるところであり、同じくディーリアスを愛したバルビローリ盤をとともに、ディーリアスの管弦楽曲集の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したいと考える。

各演奏における情感の豊かさ、心を込めた歌い方においては、バルビローリ盤の方に軍配があがるかもしれないが、ディーリアスの音楽が持つ豊かな詩情性をこれだけナチュラルに美しく、しかも淡々と滑らかに表現できるのは、ディーリアスを熟知していたビーチャムならではのものであり、作曲者と、時代と風土を共にした指揮者にのみ可能な名演だろう。

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本盤には、クーベリックが手兵バイエルン放送交響楽団とともに1967年から1971年という短期間で完成させたマーラーの交響曲全集のうち、交響曲第5番(1971年スタジオ録音)が収められている。

本盤の録音当時は、近年のようなマーラー・ブームが到来する以前であり、ワルターやクレンペラーなどのマーラーの直弟子によるいくつかの交響曲の録音はあったが、バーンスタインやショルティによる全集は同時進行中であり、極めて希少な存在であったと言える。

そして、本演奏は、既に録音から40年が経過したが、現在においてもその価値をいささかも失うことがない素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

本演奏におけるクーベリックのアプローチは、ある意味では極めて地味で素朴とも言えるものだ。

バーンスタインやテンシュテットのような劇場型の演奏ではなく、シノーポリのような楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏を旨としているわけではない。

また、ブーレーズやジンマンのような徹底したスコアリーディングに基づいた精緻な演奏でもなく、シャイーやティルソン・トーマスのような光彩陸離たるオーケストレーションの醍醐味を味わわせてくれるわけでもない。

クーベリックはむしろ、表情過多に陥ったり、賑々しい音響に陥ることがないように腐心しているようにさえ思われるところであり、前述のような様々な面において個性的な演奏に慣れた耳で聴くと、いささか物足りないと感じる聴き手も多いのではないかとも考えられる。

しかしながら、一聴するとやや速めのテンポで武骨にも感じられる各旋律の端々から滲み出してくる滋味豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、噛めば噛むほど味わいが出てくる演奏ということが可能である。

地味な演奏というよりは滋味溢れる演奏と言えるところであり、とりわけ、マーラーがボヘミア地方出身であることに起因する民謡風な旋律や民俗的な舞曲風のリズムの情感豊かで巧みな表現には比類がない美しさと巧さがある。

バイエルン放送交響楽団というヨッフム、クーベリックが手塩にかけて育んだ素晴らしい音楽性を持つオーケストラと共に、クーベリックはこの「第5」でも全く見事な音楽的純度の高さを示している。

たった一度だけ聴くのなら、他の録音の方が耳に残るかもしれないが、このクーベリック盤は、聴けば聴く程にその味わいを増してゆく。

派手な「香辛料」も「添加物」も加えていないクーベリックの演奏は、それ故に対位法的なバランスの良さと、その内に込めた内的共感の高さで、我々を魅了する。

いずれにしても、近年の賑々しいマーラー演奏に慣れた耳を綺麗に洗い流してくれるような演奏とも言えるところであり、その滋味豊かな味わい深さという点においては、今後とも普遍的な価値を有し続ける至高の名演と高く評価したい。

なお、クーベリックはスタジオ録音よりも実演でこそ実力を発揮する指揮者であり、本演奏より10年後のライヴ録音が独アウディーテから発売されている。

テンポも本演奏よりも速く、強靭な生命力や気迫においては、本演奏よりも優れた演奏と言えなくもないが、音質やオーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、本名演の価値はなお不変であると考える。

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2015年04月09日


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シューベルトの即興曲全8曲を演奏したものとしては、ブレンデルのCDが特に優れたものと言える。

そのシューベルトをおそらくは全ピアニストで最も理解しているブレンデルの即興曲集は格別の美しさだ。

まろやかなタッチで、これらの作品からロマンの息吹きを詩情豊かに弾き出した演奏で、その即興性に満ちた“歌”の美しさは比類がない。

ブレンデルは徹底して通俗性を排しながら、たおやかな歌が淡々と歌われてゆく。

和音の微妙なニュアンスも絶品で、ブレンデルのデリケートで考え抜かれたアプローチが、全面的に生かされていると言えよう。

ブレンデルはシューベルトの抒情を大切にしながらも、この曲集を2つのソナタのように、統一感のある構成力で美しくまとめている。

各曲とも、実に綿密に設計された演奏で、それぞれの曲の性格をしっかり浮き彫りにしており、細部まで完璧にコントロールされているが、音の柔らかさと流れの自然さが知と情の見事なバランスを保っている。

ブレンデルが弾くシューベルトは、ピアノ・ソナタも小品集も、安定と調和を聴き手に強く意識させるところがある。

決して激しすぎず、決して過剰な感情に溺れない、本質的に“中庸”を志向する気質なのだろう。

そうした中庸の落ち着きのある表現が、聴き手に精神的な安らぎをもたらし、潤いのある自然な抒情が感覚的な楽しみを与えてくれる。

しかもブレンデルの演奏は、1音1音がしっかりと打鍵されており、ピアニッシモまで良く聴きとれるので、曲の構成が良く分かる演奏である。

寂寥感と美しさが渾然一体となったシューベルトの即興曲集であるが、ブレンデルの演奏は、曲の構成が明瞭であるだけではなく、抒情と知性のバランスが良く取れている、模範的な演奏と言える。

これは、寂寥感も美しさも良く出ているが、情に流れたり、知的になり演奏が硬くなっていないと言う意味であり、ただ単に中庸ということではない、優れた演奏で、何度聴いても飽きない。

特に作品142の第3番は、纏綿とうたわれる歌が実に美しく、ウィーンの音楽家シューベルトを実感させるだろう。

聴き手を強引に自分の世界に引っ張っていこうとしないのに、聴き手がついてくる、それがブレンデルのシューベルトだ。

CDは新旧2種類の録音があるが、もちろんここではブレンデルの円熟の境地を示した新しいデジタル録音を推しておく。

新盤は、旧盤に比べると、ブレンデル独特の美しい音色と巧まざるその語り口にいっそう磨きがかかり、しかも一段と彫琢された音と表現が素晴らしく、シューベルトの孤高な世界と高貴な美しさを浮き彫りにしている。

自然な表情をもって、美しい佇まいのなかにも緊張感の漲った感動的な表現で、詩人ブレンデルの面目躍如たる名演だ。

筆者の知る限りでは、リリー・クラウス、内田光子と並ぶ即興曲の3強の1角を占める演奏と言って良く、今までシューベルトを敬遠していた人もこれを聴けばきっとシューベルトへの入り口が開けるはずだ。

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1997〜99年、ロンドン、アムステルダム及びフランクフルトでのライヴ録音。

新世紀を迎える年に満70歳になったブレンデルの、初のライヴ録音によるシューベルト・ソナタの2枚組。

丁寧にレパートリーを選び、深い洞察と研究に基づく滋味豊かな名録音を数々残してきたブレンデルが初めてライヴで収録したシューベルトのソナタ集である。

シューベルトのソナタは、ブレンデルにとって特別思い入れのある作品であり、後期のソナタはすでに2回のスタジオ録音を行ったが、第9番は今回が初めての録音となる。

シューベルトの作品に注ぐブレンデルの厳しくも温かい眼差しと、作品の内部に深く立ち入る真摯な態度を感じさせ、1度聴けば忘れがたく耳に残る、決して聴き飽きることのない見事な演奏だ。

1970年代前半、そして80年代後半にブレンデルは同じようなソナタ集を出しており、今回のアルバムの中には3度目の録音(第20番と第21番)となるものさえある。

ソナタとはいえ、ベートーヴェン的な構築性とは異なり、“枠”や“しがらみ”から解放されたような奔放なまでの自適さや闊達さ、そして汲めども尽きぬ歌心に満ちた旋律線などシューベルト固有の世界が広がる。

ブレンデルの演奏はこの“宝の山”の価値を思い知らせてくれており、とりわけ第20番や第21番などは、清冽な音色(タッチ)と熟成した表現が瑞々しい。

聴き手を構えさせることなく、ごく自然に引き込み、深い思索と詩情に浸らせてくれるところなど、ブレンデル自身が到達し得た至高の芸域を痛感する演奏だ。

本盤は、そうしたブレンデルの実力がよくわかるCDで、最後の作品は内田光子の演奏に及ばない部分もあるものの、初期作や「幻想」ではブレンデルの実力が存分に発揮されており、シューベルトの心境がピアノの響きから手にとるようにわかる好演である。

「幻想ソナタ」(D.894)は、出だしの主題フレーズの柔らかい和音の響きを巧妙な色合いの変化で悠長に歌い上げている。

また第21番(D.960)では、全楽章にブレンデルの落ち着いた深い情感が漲っており、特に長大な第4楽章を弾ききる集中力、出だしの旋律の躍動感あるタッチはブレンデルならではの円熟の表情である。

これほど強弱をつけて、シューベルトの美しさを見事に歌い込めるピアニストは、ブレンデルだけであり、理詰めで音楽が分かっている凄い人である。

現役ピアニストのほとんどはテンポを不用意に動かして、例外なく自滅している。

本来シューベルトに強弱をつけることは自殺行為なのであるが、この人ほどシューベルトが分かっていると、このような離れ業が可能なのであろう。

明らかに“シューベルト弾き”は存在すると思うが、ショパンやシューマンを得意にするピアニストから比べると、その数はほんのわずかであり、“誰でも”というわけにはいかぬが、ブレンデルはその中でも筆頭格的存在だ。

あと現役ではカツァリスがいい演奏を聴かせるが、その方法は伝統的な枠をしっかり守ったもので、ブレンデルのシューベルトは常識を突き抜けて素晴らしく、尊敬に値する。

円熟の巨匠、ブレンデルの溢れる歌心がホールの聴衆を温かく包んだコンサートの雰囲気までもが伝わるライヴ・レコーティングである。

ブレンデルの演奏は、シューベルトの音楽を十ニ分に表現した本当に美しいものであるが、体調が良く、シューベルトと対峙する気構えのある時に聴く分はともかく、体力や気力の萎えているときはさすがに厳しくしんどいところがある。

しかし筆者にとって決して手放せないディスクであることだけは確かだ。

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ブルックナーやストラヴィンスキー、ブラームス全集などで注目を集めるオランダの指揮者、ズヴェーデンは、現在、オランダ放送フィルとブルックナーの交響曲を継続的にレコーディングしており、既に第2番、第4番、第5番、第7番、第8番、第9番の6曲の録音を終了し、どの作品でも高い評価を受けていたところである。

それゆえ、既に発売された各交響曲の演奏のいずれもが水準の高い名演であることに鑑みれば、このコンビでブルックナーの交響曲全集を完成して欲しいと思っていた聴き手は筆者だけではないとも思われる。

そして今般、続編である第3番(2011年録音)が登場したのは実に慶賀に堪えないところだ。

ズヴェーデンは1960年生まれで未だ50歳になったばかりでもあり、是非とも今後残る交響曲の録音を行っていただき、全集を完成していただくことをこの場を借りて強く要望しておきたいと考える。

ズヴェーデンのブルックナーの交響曲へのアプローチは、これまでに録音された交響曲の演奏でもそうであったが、ヴァントや朝比奈などの数々の名演によって通説となりつつある、いわゆるインテンポを基調とする演奏スタイルを原則として採用している。

もっとも、インテンポによる演奏を基調とはしているが、随所においてテンポを微妙に変化させることによって、演奏に効果的なスパイスを利かせていることも付記しておく必要がある。

そして、各旋律の歌わせ方には、ロマンティシズムの香りが漂っており、加えて、細部にわたって独特の表情づけを行うなど、単にスコアに記された音符の表層だけを取り繕っただけの薄味な演奏にはいささかも陥っておらず、常に含蓄のある豊かな情感に満ち溢れた演奏を行っているのが素晴らしい。

したがって、演奏全体としては、いわゆるブルックナーらしさをいささかも失っておらず、とりわけ第2楽章の清澄な美しさなど、抗し難い魅力に満ち溢れていると評価したい。

以前みられた弦セクション重視の傾向もあまり表れておらず、響きも標準的であるが、それでもコンマス出身だけあって、ヴァイオリン群の美感が今回特に素晴らしく、幻惑的な美しさを醸し出している。

総じて、ズヴェーデンのブルックナーの中でも、オーソドックスでありながら、ずば抜けた美しさを持った1枚に仕上がっていると言えよう。

本演奏の当時のズヴェーデンは未だ50歳であるが、指揮者としては若手であるにもかかわらず、これだけの風格のある、そして彫りの深い演奏を成し遂げたということ自体が驚異的であり、ズヴェーデンという指揮者の類稀なる才能を感じるとともに、今後さらに大化けしていくことも十分に考えられるところだ。

いずれにしても、本盤に収められた交響曲第3番の演奏は、前作第8番の演奏と同様に、ズヴェーデンがブルックナー指揮者として健在であることを世に知らしめるとともに、残された他の交響曲(第0番、第1番、第6番)の演奏にも大いに期待を抱かせる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

また、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

最近では、エクストン・レーベルを筆頭にして、SACD盤を積極的に発売しても、マルチチャンネルから撤退するケースが多いようであるが、本盤のような、各楽器セクションの配置が明瞭にわかるような臨場感溢れる鮮明な高音質を聴いていると、是非ともマルチチャンネル付きのSACDを復活させていただきたいと切に願わざるを得ないところだ。

そして、かかるマルチチャンネル付きのSACDによる圧倒的な高音質録音が、本演奏の価値を高めるのに大きく貢献しているのも忘れてはならない。

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2015年04月08日


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ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと評価できるのではないだろうか。

それにしても、我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。

現在では、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティは、若き日にコンセルトヘボウ・アムステルダムと「第4」の名演を残しており(1961年)、ショルティ自身も、本演奏の出来には相当に満足していたようで、その出来映えに愛着に近い強い自信をもち、再録音の必要はないと公言していた。

後年、1970年の交響曲第5番の録音をはじめとして、シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲全集の録音を開始したが、その際、第4番を再録音するかどうかについて相当に逡巡したとのことであった。

そうした中でのこの新盤(1983年)は22年を経て録音されたものであり、ショルティの円熟をことさら印象づける。

今回のシカゴ交響楽団との演奏ではオケの合奏能力をフルに生かし、緻密で繊細な響きを作り出しており、ショルティはこの曲に合わせて徹底的に室内楽的な表現を施しているが、旧盤よりもさらに角がとれ、表情が自然でありながらも自由で大胆である。

しかし、それはあくまでも自然な流れを損なわず、みごとな造形の均衡をもたらしている。

いずれにしても、ショルティとしても突然変異的な名演と言えるほどで、ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感や明瞭なメリハリが、本演奏においてはあまり全面には出ていないとも言えるところだ。

マーラーの交響曲の中でも、最も楽器編成が小さく、メルヘン的な要素を有する「第4」は、かかるショルティの芸風とは水と油のような関係であったとも言えるが、本演奏では、そうしたショルティらしさが影をひそめ、楽曲の美しさ、魅力だけが我々聴き手に伝わってくるという、いい意味での音楽そのものを語らせる演奏に仕上がっていると言えるだろう。

ショルティも、多分に楽曲の性格を十二分に踏まえた演奏を心がけているのではないかとも考えられるところであり、逆に言えば、円熟期のショルティにはこのような演奏を行うことが可能であったということだ。

これはショルティの指揮芸術の懐の深さを表わすものであり、とある影響力の大きい音楽評論家などを筆頭にいまだ根強い「ショルティ=無機的で浅薄な演奏をする指揮者」という偏向的な見解に一石を投ずる演奏と言えるのではないだろうか。

終楽章のソプラノのキリ・テ・カナワによる独唱の表情豊かな歌もこの作品にふさわしく、そのロマン溢れる歌唱は美しさの極みであり、彼女独特の節まわしで色気のある歌声を聴かせ、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

シカゴ交響楽団の緻密で繊細な響きは英デッカによる極上の優秀録音によって完全に捉えられており、別の意味で唖然とさせられる。

筆者としては、いまだ未聴のクラシック音楽ファンには是非とも一聴をお薦めしたい名盤と高く評価したい。

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マーラーの交響曲第9番は、マーラーが完成させた最後の交響曲だけに、その内容には途轍もない深みがある。

その本質的なテーマは、諸説はあるとは思うが、忍び寄る死への恐怖と闘い、そして、生への憧憬と妄執であると言えるだろう。

それだけに、他の交響曲では通用するアプローチでも、第9番に限っては、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、到底名演になり得ないとも言えるところだ。

ショルティは、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音(1967年)に続いて、手兵シカゴ交響楽団とともに本盤に収められた2度目のスタジオ録音(1982年)を行っている。

旧盤は、スコアに記された音符の背後にあるものへの追求や彫りの深さといった点においては、いささか不足していると言わざるを得なかったが、新盤は、スーパー軍団と称されたシカゴ交響楽団の卓越した技量を見事に統率するとともに、楽曲の心眼にも鋭く踏み込んだ懐の深い円熟の名演である。

ここでのショルティは、客観性と主観性、それに近代的なリリシズムを見事に結びつけており、完成度の高いマーラーを聴かせている。

ショルティは音の威力と鮮やかなメリハリの効果を与えたきわめて明快な表現で、緊張感にあふれた演奏を行っていると同時に、オーケストラの技量が存分に発揮されており、いかにもショルティらしい現代的な感覚の演奏だ。

いずれにしてもシカゴ交響楽団というヴィルトゥオーゾ・オーケストラの機能を遺憾なく発揮させた1つの頂点を示したものとも言えよう。

まさに、本演奏は有名レストランでシカゴ交響楽団が出す豪華料理と高級ワインを味わうような趣きがあり、我々聴き手は、ただただレストランにおいて極上の豪華な料理と高級ワインを堪能するのみである。

もっとも、あまりの料理やワインの豪華さに、聴き手もほろ酔い加減で幻惑されてしまいそうになるが、本演奏は、それほどまでに空前絶後の「燦然たる音の饗宴」に仕上がっている。

ショルティ&シカゴ交響楽団のコンビは、なにを演奏した場合でも生き生きした動感をみなぎらせていたが、このマーラーも例外ではない。

冒頭から意志的な力とコントロールで均衡感の強い音楽を組み上げているが、同時に自在な呼吸に支えられた豊かな表情があり、成熟を感じさせる演奏だ。

かつてのワルターに代表される詩情豊かなゆったりしたマーラーとは別種の現代的な感性に根差したマーラーの出現であり、鮮明にして整然とした世界が生み出されてゆく。

しかしながらショルティは、マーラーを即物的にとらえ、非情に再現しているのではない。

マーラーが奏でた牴劉瓩紡个垢訖瓦らの共感、それが持続低音となってこの演奏を支えている。

精妙に再現されながら豊かな味わいに乏しい演奏に時折接することがあるが、精緻であると同時に動感を失わず、味わいにも富んでいるのがショルティだ。

ショルティのプロフェッショナリズムのもと、ホールの癖を逆手にとって強靭な個性を確立したシカゴ交響楽団。

両者の持ち味が遺憾なく発揮されたマーラーで、驀進するブルレスケばかりでなく、フィナーレの弦も表情豊か、あらためてこのコンビの凄さを感じる。

マーラーを古典として眺め、そこに自然な音楽像を作り出した感動的名演と言えよう。

聴き終えた後の充足感が、例えばバーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダム盤(1985年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもなく、筆者としてはマーラーの演奏様式の一翼を担った名演として高く評価したいと考える。

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リリー・クラウスが最も得意にしたのはモーツァルトであるが、最も彼女の個性を羽ばたかすことが出来たのは、シューベルト、それも即興曲においてであった。

モーツァルトを弾くにはある種の抑制が必要であり、クラウス自身、次のように語っている。

「モーツァルトの演奏を湖に例えれば、その湖底は激しく渦巻いていなければなりません。しかし、その表面は僅かに波立つ程度でなければいけないのです」。

しかしシューベルトはロマン派だからもっと自由に感情を吐露できるので、この即興曲において、クラウスは自分のすべてをぶちまけ、何の気がねもなく自分自身のあらゆる感情を出し尽くしている。

彼女は火のような情熱の持ち主であり、極めて多感な芸術家であるが、彼女としては抑制を大いに効かせた筈のモーツァルトでさえ、表情が強すぎる、という人も居るくらいだ。

ましてや、垣根がまったく取り払われたシューベルトでは、クラウスがあまりにも強い感情移入を果たしているため、表情が絶えず大きく、フォルティッシモのキメの粗さを見せる場面も無いではない。

醒めた眼で楽譜を眺め、それを卓越した技術でクールに音化することを良しとする現代の風潮に、クラウスのシューベルトは主観的でありすぎるかも知れない。

しかし、芸術というものは元来が自己主張であり、自分はこう思う、というものが強くあるからこそ人前で演奏するので、要はそれが感動的であるか否かの問題なのであって、自分の感情を殺しては芸術も何もありはしない。

もっとムラのないタッチで滑らかに弾かれた即興曲のディスクは他にもたくさんあるが、こんなに雄弁に語りかける、多彩な人間感情に満ちた演奏は決してあり得ない。

クラウスの表現の幅は実に広く、男性ピアニストをさえ凌ぐフォルティッシモの迫力、低音の充実と高音の燦くような輝き、音色の絶妙な変化、リズムの間の名人芸、痛切なアクセント、大きなクレッシェンドとデクレッシェンド。

そして、それらを駆使して表出されるのは、シューベルトが即興曲に托して歌い上げた人生のすべてである。

悲しい訴え、劇的な凄絶さ、優しい慰め、孤独感、迸る情熱、心からの祈り、それらがスケール雄大な造型と最高の音楽性の中に表われるのだ。

全8曲、すべてが名演の名に恥じないものばかりだが、わけても「作品90の2」はその比を見ない。

冒頭の波を打つような右手の音型からして、他のピアニストとはまるで違っており、何も特別なことをしていないのに音楽が泉のように溢れ、花のように香り、極めて自然に流れてゆく。

コーダの凄まじいアッチェレランドと終結の生きた間もクラウスならではの献身的な姿であり、まさに宝石のような一篇と絶賛したい。

「作品90の1」の壮大なバラードも見事で、大波の揺れるようなメロディの歌と、恐ろしい運命のリズムと、感じ切った心が忘れ難い。

また「作品90の4」の中間部で、左手の冒頭をまったくペダルを使わずに弾き始める大胆な表現にも息を呑む。

こんなに厳しい弾き方は他のピアニストには決してできないし、弱音の美しさを何にたとえよう。

クラウスは体全体、魂全体で嘆いていて、彼女の舞台姿が眼前に浮かぶような名録音と言えよう。

さらに「作品142の3」が絶品で、このヴァリエーションは最も高い意味における愉しみがあり、そこには愉悦の美音が氾濫し、哀しみの極みでさえもわれわれの心を慰めてくれる。

まさに音楽の行き着く至高の境地であろう。

クラウスは変奏の1つ1つを、お伽話のように語りかけ、最後、「お話はこれでお終い」というように全曲を閉じるのである。

「作品142の4」はクラウスの十八番で、多彩な音色と表現力を駆使した名人芸は、ついにこれ以上求め得ないギリギリのコーダとなって、驚くべき緊張の裡に終結する。

それは「作品90の2」のエンディングとともに、命を賭けて音楽と対決する真の芸術家でなければよく成し得ぬものと言えよう。

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2015年04月07日


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R.シュトラウスと親交があった往年の巨匠カール・ベームによる《英雄の生涯》を収めたSACD盤。

ベーム晩年の落ち着いた音楽運びが描く雄大なスケールと、一昔前のウィーン・フィルらしいふくよかなサウンド、そしてヴァイオリニスト、ゲルハルト・ヘッツェルが添える色どり等、古き良き時代の音がする名演。

かつて筆者は、本盤の《英雄の生涯》を1980年代に発売された初期西独プレスのCDで聴いたことがあるが、あまりのつまらなさに途中で聴くのをやめたのを思い出す。

というのも、いかにも晩年のベームの欠点が露呈した硬直化したテンポによる鈍重な印象を受けたからであり、それ以降、筆者のCD棚に眠ったままであった。

ベームの《英雄の生涯》については、本盤の3年前にバイエルン放送響とライヴ録音したオルフェオ盤があり、ライヴならではの熱気もあって、筆者はそちらの方を愛聴してきた。

しかし、今般SACD化され、飛躍的に音質が向上した本盤を聴いて大変驚いた。

そこには鈍重さなど微塵もなく、堂々たるインテンポによる巨匠の至芸を大いに感じたからである。

全体にテンポは遅めであり、《英雄の生涯》を得意としたカラヤンの名演のように、ドラマティックとか華麗さとは全く無縁であるが、一聴すると何らの変哲もない曲想の中に、晩年のベームならではのスパイスの効いた至芸を垣間見ることができる。

深々と暖かく柔らかな響き、そして貫祿を備えた滑らかな堂々たる音楽の進行、完熟期ベーム&ウィーン・フィルならではの《英雄の生涯》である。

ベームは分厚いオーケストレーションを丁寧に捌きながら音楽を重層的に響かせているが、それがオケの美質を最大限に生かす結果に繋がっている。

よく聴かれるこれみよがしの大げさな表現は無く、なんとなく聴いていると地味だし冷静すぎると思う人もいるかもしれない。

しかし、繰り返しと聴く度に実に素晴らしく、音楽の流れに自然に従っているように聴こえるのはまさに練達の演奏ぶりと言えるだろう。

派手になりすぎないところがベームのR.シュトラウス演奏の極意であり、自己顕示欲の塊のようなこの曲のいやらしさが感じられないくらいで、だからこそこの演奏は古びないのであろう。

ベームの的確な解釈と重厚な演奏は、作曲家と親交のあった彼ならではの作品となっている。

一例をあげると「英雄の業績」。

ここは、R.シュトラウスの過去の楽曲のテーマが回想されるが、ベームはここで大きくテンポを落とし、主旋律を十分に歌わせながら、《ティル》や《死と変容》、《ドン・ファン》などの名旋律を巧みに浮かび上がらせており、この老獪ささえ感じる巧みな至芸は、他のどの演奏よりも素晴らしいと言えるだろう。

ベームの晩年において、自分の友人であったR.シュトラウスの作品を用いて過去を振り返るという懐古的雰囲気をあえて表現した、というべきであろう。

さらにこの時代のウィーン・フィルの音色も魅力的で、特に朗々たるホルンの響きは今や聴くことができないものと言えるところであり、ベームが最も信頼した名コンサートマスターのヘッツェルのソロが聴けるのも、本盤の価値を大いに高めることに貢献している。

音質は前述のように従来盤とは段違いに素晴らしく、鮮明さ、音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためて本演奏の素晴らしさとSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ベーム&ウィーン・フィルによる名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 22:41コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスベーム 

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ブライデン・トムソン&ロンドン交響楽団によるヴォーン=ウィリアムズの交響曲全集は、定評あるボールトやプレヴィンの全集をも凌駕する出来映えを誇っていると言っても過言ではない。

「第1」は雄渾・壮大、非常な力演である。合唱の比重が大きい作品で、その処理が何よりも重要だが、トムソンは素晴らしく鋭敏な、そして声とコーラスに対する見事な手腕をもって難関を切り抜けており、構成力も強い。練りに練られた表現と、その中に明滅する抒情性の美しさ、劇性の確かさは彼の力量を示している。オケが熱演を展開し、独唱にも気迫があり、表情豊かな音楽だ。

「第2」は標題音楽的な内容だが、純音楽的にすぐれた表現で演奏も緻密、第1楽章では多くの素材に対するトムソンの愛着が伝わってくるし、第2楽章は弦合奏の幻想的な響きが印象派風の音構造を着実に描き出す。第3楽章もドビュッシーのような感覚美を浮かび上がらせ、終楽章の力感に満ちた接続曲風に変転する楽想の自然さも見事というほかはない。

「田園」というタイトルのついた「第3」の穏やかな抒情感は、イギリス近代音楽の精髄と言えよう。それはトムソンのようなイギリスの指揮者だからこそ表現できるものかもしれないが、第1楽章の大自然の時の流れのように悠揚とした進行を聴けば、この曲がベートーヴェンとは違った「田園」であることを痛感する。第4楽章ではケニーが透明度の高い声で、絶妙な表情と雰囲気を表している。

「第4」は戦争への不安と波乱の予感が背景にあり、この作曲家にしては珍しく、危機をはらんだ多くの不協和音が全曲を支配している。第1楽章でトムソンはロンドン響から緊迫感に富んだサウンドを引き出し、第2楽章でも指揮の確かさと合奏力の優秀さが光る。フィナーレは軍隊調でかなりの迫力だ。

「第5」の第1楽章はホルンの呼び声に始まる牧歌的な音楽で、第2楽章は民俗舞踊風のテンポの速いものだが、このコンビはこういう音楽の演奏をさせると他の追随を許さぬものがある。第3楽章のロマンスをトムソンは心からの共感をこめて内面の歌を歌い、フィナーレでは乗りに乗って魅力的な旋律をつぎつぎに繰り出してくる。

「第6」は闘争的な楽想で開始する第1楽章の、自由だが考え抜かれた書法は作曲者のキャリアの証で、その緊張感の表現が素晴らしい。第3楽章もフーガ的な構成をとる緊密な音楽で、その旋律とリズムのポリフォニーの明快な表現が快い。モデラートの静かな第4楽章は、延々と漂うような音楽が続く不思議な終曲だ。

「第7」はこの曲の最高の秀演である。第1楽章は実に豊かな共感を表した演奏で、第2楽章は急速な弦のうねりと共に現れる管の詩情、ハープとピアノの色彩の美しさ等が聴き手を魅了してやまない。第3楽章での悲しみの抒情は作品の本質に触れたもので、終楽章は壮大なトゥッティのバランスが巧みに整えられ、ソロと合唱は晴朗そのものだ。コーダの表現もこれ以上は望めないだろう。

「第8」の演奏は、トムソンの作品に対する激しい共感をよく伝えている。第1楽章は情熱的で内的緊張感が強く、各変奏の変転が明快に表出される。また、アンダンテ・ノン・トロッポの部分では弦の内声の厚みと柔らかさがよく、見えかくれする主題を巧みに追求している。第2楽章の管もうまい。第3楽章は作曲者得意の手法を的確に表し、第4楽章も隙のない表現である。

「第9」は作曲者の最晩年、85歳の時に書かれた作品で、全体を老巨匠のペシミズムが支配している。第1楽章は不気味な序奏に始まり、クラリネット独奏が示す第1主題も不思議なイメージだ。第2楽章はフリューゲルホルンの静かな導入と、粗野な行進曲の楽想の対比が狙いだ。第3楽章はシニカルなスケルツォ、終楽章は静かな導入部からホルンによる主題へと移る。

以上、演奏全体から受ける印象は無骨ではあるが、それ故に味わいがあり、この無骨さがヴォーン=ウィリアムズの音楽にマッチして、聴く者に圧倒的な力で訴えてくるのである。

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管弦楽の魔術師R.シュトラウスの傑作を集めたアルバムで、セルは若い頃R.シュトラウスに可愛がられ、演奏会にも積極的にR.シュトラウスの作品を取り上げ、広く紹介した指揮者である。

ロマン主義から現代音楽への橋渡しをした存在とも言われるR.シュトラウスは、若き日のセルの才能を見出し、指揮者としての活動に導いた存在でもある。

セルは生前にR.シュトラウス本人からの薫陶を受けた数少ない指揮者で、作曲者との親交に裏付けられた説得力にあふれる演奏が手兵・クリーヴランド管弦楽団のもと、縦横に展開されている。

セルは、モーツァルトやハイドンの演奏で評価の高い指揮者であったが、このR.シュトラウスでは、彼の楽器だったクリーヴランド管弦楽団の名手の演奏も相俟って素晴らしく引き締まった演奏を聴かせる。

クリーヴランド管弦楽団は、セルが首席指揮者として君臨していた時代には、「セルの楽器」と評価されるほどの精緻なアンサンブルを誇ったが、本盤を聴くとそれがよくわかる。

良い意味での冷たさがあり、洗練されたシンフォニックな表現は、オーケストラ音楽の楽しみを十二分に味わわせてくれる。

同じく、R.シュトラウスを得意としたベームやカラヤン、ケンペとは異なるすっきりとした魅力があるところなど、この巨匠ならではの芸格と言うべきだろう。

先ずは、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」を掲げたい。

セルの圧倒的な統率力の下、クリーヴランド管弦楽団をまるで手足のように操り、超凝縮型の圧倒的な名演を成し遂げている。

R.シュトラウスのオーケストレーションは、同曲でも複雑さを極めるが、それをあたかも顕微鏡で解剖するかの如く、精緻に表現していく様は圧巻という他はない。

セルは、あまり濃密な表現はもちこまないが、細部まで配慮の行き届いた的確な表現によって、生き生きと爽やかな緊張感ともって音楽を運んでおり、作品の洒落た味わいをすっきりと打ち出している。

セルの「ティル」は、肥大化する無意識の衝動に動かされた悪戯者ではなく、最初っから計算づくのインテリ政治犯のようで、ユニークである。

次に、「ドン・キホーテ」を掲げたい。

セルのアプローチは、全体が的確に見極められており、どこか1ヶ所だけが突出してしまうようなところがなく、バランスが良いので、総合的にみて、この曲を知る上では格好の名演と言えよう。

施された表情は、いずれもよく吟味されており、過不足なく多彩で、洗練されている。

ここでのチェロのフルニエは垢抜けしており、決して気品を失わない独奏は見事であり、全体のなかに無理なく溶け込んでいる。

そうした名独奏を十分に曲想生かしつつに、セルは、手兵のクリーヴランド管弦楽団を自在にドライブして、各変奏を巧みに描き分けている。

オケの優れた能力をフルに発揮させながら、各変奏を隙なく描き上げていく手腕は、実に見事だ。

これら両曲に対して、「死と変容」は、やや力づくの箇所がないわけでもなく、セルの本領が発揮したとは言えない点が散見され、いささか残念な演奏に終わっている。

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2015年04月06日


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シマノフスキは、19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したポーランドを代表する作曲家であり、交響曲や協奏曲、室内楽曲、器楽曲、オペラなどに至るまで、あらゆるジャンルに渡る作品を遺したにもかかわらず、お世辞にもメジャーな作曲家とは言えない存在に甘んじている。

シマノフスキの前後に位置する作曲家、すなわち、ショパンや現代音楽の旗手の1人であるペンデレツキなどがあまりにも有名過ぎるというのにも起因しているのかもしれない。

また、交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」で有名なグレツキにさえ、知名度において劣るのだから、遺された作品の質の高さを考えると、きわめて不当な評価を受けていると言わざるを得ない。

近年では、ラトルが、一貫してシマノフスキを採り上げているし、最近ではブーレーズによるきわめて優れた名演も生み出されており、今後、シマノフスキに対する評価が高まっていくことを大いに期待したい。

本盤は、そうしたシマノフスキが作曲した2曲の弦楽四重奏曲を収録したものであるが、シマノフスキの中期と最晩年の作品だけに、その作風の大きな変化を味わうという意味においても、好カップリングCDである。

演奏は、カルミナ四重奏団であり、しかも、デビューCDとのことであるが、傑作でありながら、決して親しまれているとは言えない楽曲をデビュー曲として選択したところに、この団体の底知れぬ実力を感じさせる。

1987年ボルチアーニ・コンクールにおいて2位という審査結果を不満とした審査員5人が異例の声明を出してカルミナ四重奏団を賞賛するという衝撃的な国際デビューを飾ったカルミナ四重奏団は、その後の世界的な演奏活動、CDの完成度の高さを通じトップ・クラスのクァルテットとして世界の評価を獲得している。

これは彼等ならではの知的なプログラミングで、ほとばしるような強さと輝きを併せ持つ演奏は何度聴いても衝撃的だ。

そうしたカルミナ四重奏団の自信と気迫が、本演奏全体にも漲っており、他にも録音が殆ど存在しないことを考慮すれば、本演奏こそ、シマノフスキの弦楽四重奏曲の決定盤としての評価は、あながち不当なものではないと考える。

カルミナ四重奏団の演奏は繊細の極みで、スコアにある緊密なリズム処理を周到に行い、またその鮮明性を保つため、音の響きに敏感な抑制性を与えている。

その結果、微細なパーツにより成り立つ特にシマノフスキの音楽を高いレベルで再現できていると思われる。

その結果、この作品が持つ音楽的な効果を、十分に引き出すことに成功している。

そのことは、例えば、第2番の第2楽章のリズムとメロディの交錯する感触などに象徴的で、野趣性とともに、独特の気高さを漂わせた演奏となっている。

ウェーベルンの弦楽四重奏のための緩徐楽章もカルミナ四重奏団の恐るべき実力を世界に知らしめた名演である。

Blu-spec-CD化による音質向上効果も大変目覚ましいものがある。

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ワルター・ギーゼキングのドビュッシーのピアノ曲の演奏はやはり素晴らしい。

稀代のドビュッシーのピアノ曲の演奏家として知られたギーゼキングであるが、遺された録音がモノラル録音であったこともあって、どうしてもその後の様々なピアニストによる演奏と比較すると、必ずしも絶対的な地位を確立していたとは言い難い状況にあったと言えるところだ。

そうしたギーゼキングの代表的な名演とも言うべきドビュッシーのピアノ曲の一連のスタジオ録音が、EMIによってSACD化され、分売されたことは、以前の各レビューにも記したところであるが、これらがまとめてセットで、しかも安価で発売される運びとなったことは何と言う素晴らしいことであろうか。

ギーゼキングによるドビュッシーのピアノ曲の演奏は、特別な個性を発揮したり、はたまた奇を衒った解釈を施したりするということは薬にしたくもなく、緻密なスコアリーディングに基づき、曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくという、ある意味ではオーソドックスなアプローチに徹したものと言える。

楽譜の正確な解釈と陰影豊かで格調高い演奏によるドビュッシーで、あくまで作品を知的に読み取り、余情を挟むことなく、絶妙にコントロールされた表現に徹しているものの、その内容は決して無味乾燥にはなっていないところはさすが名匠ギーゼキングであり、こまやかなニュアンスを駆使した、純度の高い至芸が聴ける。

卓越したテクニックにも出色のものがあると言えるものの、モノラル録音ということも多分にあるとは思うが、素っ気なささえ感じさせるところもあり、即物的な演奏とさえ言えるところだ。

しかしながら、一聴すると淡々と流れていく各旋律の端々には、独特の細やかなニュアンスやフランス風のエスプリ漂う豊かな情感に満ち溢れており、決して無機的な演奏には陥っていないと言える。

そして、ギーゼキングの演奏で素晴らしいのは、1950年代の演奏であるにもかかわらず、いささかも古臭さを感じさせるということがなく、むしろ、その演奏は清新さに溢れていると言えるところであり、その気高い格調の高さにおいても卓抜としたものがあったと言えるだろう。

ドビュッシーのピアノ曲を得意とするピアニストは、その後数多く誕生しているが、それらのピアニストによる数々の名演を耳にした上で、ギーゼキングによる本演奏を聴いても、録音の古さは感じても、演奏内容自体には違和感など全く感じさせず、むしろ新鮮味さえ感じさせるというのは殆ど驚異的ですらあると言えるところだ。

本セットに収められた諸曲も、前述のようなギーゼキングによる芸風が見事に表われた名演と言えるところであり、まさに古くて新しい、現代においてもドビュッシーのピアノ作品演奏の規範とも言うべき至高の名演と高く評価したいと考える。

このように、ギーゼキングによるドビュッシーのピアノ作品の演奏は、演奏自体は素晴らしいが、モノラル録音というハンディもあって、その音質は、従来CD盤では鮮明さに欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、先般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

もちろん、最新録音のようにはいかないが、従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年代前半のモノラル録音とは信じられないような、かなり鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

いずれにしても、ギーゼキングによる至高の名演を、SACDによる比較的良好な高音質で味わうことができるのと、EMIがこれらの名演を集成して、低廉に入手できる運びになったことを大いに歓迎したいと考える。

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ポリーニとシューマンの相性は非常に良いように思われる。

本盤も、そうした相性の良さがプラスに働いた素晴らしい名演と高く評価したい。

シューマンのピアノ曲の本質は、内面における豊かなファンタジーの飛翔ということになるが、ショパンやリストのような自由奔放とも言える作曲形態をとらず、ドイツ音楽としての一定の形式を重んじていることから、演奏によっては、ファンタジーが一向に飛翔せず、やたら理屈だけが先に立つ、重々しい演奏に陥ってしまう危険性がある。

ポリーニのピアニズムは、必ずしもシューマンの精神的な内面を覗き込んでいくような深みのあるものではないが、卓越した技量をベースとした透徹したタッチが、むしろ理屈っぽくなることを避け、シューマンのピアノ曲の魅力を何物にも邪魔されることなく、聴き手がそのままに味わうことができるのが素晴らしい。

いささか悪い表現を使えば、けがの功名と言った側面がないわけではないが、演奏は結果がすべてであり、聴き手が感動すれば、文句は言えないのである。

また、シューマンの作品は、どのような分野のものであれ、病的な部分というか、翳のような部分を抱え込んでしまっているケースが少なくない。

だが、ポリーニのアプローチは、そのようないわば負の部分にはあまり拘泥することなく、ピアノの音自体の強靭な存在感でもって、ほとんど直線的になされていく。

それでいて、出来上がった演奏は多面的な魅力をおび、シューマンの本質を鮮やかに掬いあげえているところに、ポリーニのすごさがあると言えよう。

ピアノ協奏曲は輝かしい情熱と豊かな詩情を兼ね備えた、最も条件のそろった名演である。

ポリーニは、鮮明なタッチと曇りのない歌心の中から誠に美しい詩情と振幅の大きな表現を浮かび上がらせている。

完璧なテクニックをうならせた彼の演奏は、揺るぎない造型的美観の把握や緊迫した集中力の持続が見事なだけでなく、美しいカンティレーナの魅力にも溢れており、そこではほとんど文句のつけようがない成果が実現されている。

アバド&ベルリン・フィルのバック・アップも十全であり、ポリーニのピアノとの間に呼吸の乱れは少しもなく、とにかく中身の濃い演奏内容である。

交響的練習曲は、シャープで躍動感に満ちた魅力をもっていて、ダイナミックかつブリリアント、壮大この上ない建造物を作りあげている。

もちろん細部まで克明に彫琢されているが、ラテン的で明るい歌謡性もが光っている。

アラベスクもポリーニはうまく、響きをたっぷりと採って、感傷に溺れないで健康的な明快な音楽に仕上げる。

ポリーニの清澄にしてきらめきのある音質を生かした演奏は、端正ななかにも、華やかな輝きをもっている。

そして、なめらかな躍動感も、その演奏に生き生きとした流動感を与えており、全体として快い流れでまとめられている。

ちょっと澄ました軽やかさで、音楽の襞を明晰に追って、あっさりともたれないところがいい。

ピアノ協奏曲、交響的練習曲、アラベスク、いずれ劣らぬ名演であり、ピアニストの個性ではなく、楽曲の素晴らしさだけが聴き手にダイレクトに伝わってくるという意味では、3曲のベストを争う名演と言っても過言ではないと思われる。

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2015年04月05日


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ブルックナーの交響曲の演奏スタイルは、1990年代以降に成し遂げられたヴァントや朝比奈による神がかり的な超名演の数々によって確立されたとも言えるところであるが、それ以前において、ブルックナーの交響曲の名演を成し遂げていた代表的な指揮者と言えば、シューリヒトやマタチッチと言えるのではないだろうか。

マタチッチによるブルックナーの交響曲演奏は、様々なレーベルによって発売されているが、現時点では、第3番、第4番、第5番、第7番、第8番、第9番の6曲が遺されているところだ。

NHK交響楽団とのライヴ録音の数々は、最晩年(1984年)の第8番を含め、極めて優れたものであるが、スタジオ録音ということであれば、チェコ・フィルとの第7番が名高い存在である。

マタチッチは、チェコ・フィルとともに、第7番のほか、第5番をスタジオ録音、そして本盤に収められた第9番をライヴ録音しているが、最良の名演は、何と言っても、第7番、とりわけその第1楽章及び第2楽章であると言えるところだ。

第9番については、マタチッチは、本盤に収められたチェコ・フィルとの演奏のほか、ウィーン交響楽団(1983年)とともに行ったライヴ録音も遺されており、演奏の質においては甲乙付け難い存在であるが、オーケストラの力量からすれば、本盤のチェコ・フィルとの演奏に軍配をあげるべきであろう。

本盤の演奏は、マタチッチの巨大な体躯を思わせるような豪快そのもの。

ブラスセクションなども無機的になる寸前に至るまで最強奏させるなど、その迫力満点の強靭な演奏ぶりには度肝を抜かれるほどである。

テンポの振幅については随所に施しているものの、比較的常識的な範囲におさめている。

その意味では、1990年代になってヴァントや朝比奈が確立した、いわゆるインテンポを基調とした演奏スタイルに限りなく近い性格を有しているとも言えるが、前述のブラスセクションの最強奏などが極めて印象的であり、ドラマティックな要素を多分に有した演奏であるとも言えるところだ。

したがって、聴き手によっては抵抗感を覚える人もいるとは思われるが、それでも、演奏全体に漲っている熱き情感と根源的な力強さは圧倒的であり、チェコ・フィルの優秀な力量とも相俟って、本演奏の当時としてはブルックナーの交響曲の一面を描出した見事な演奏に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

さすがに、シューリヒト&ウィーン・フィルによる超名演(1961年)ほどの高みに達しているとは言い難いが、筆者としては、マタチッチの偉大な才能、そしてブルックナーへの適性があらわれた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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コリン・デイヴィスは、シベリウスの交響曲全集を3度録音した稀有の指揮者である。

これは、シベリウスの母国、フィンランドの指揮者であるベルグルンドと並ぶ最多記録と言えるところであり、デイヴィスがいかにシベリウスに深い愛着を持っているのかの証左と言えるだろう。

デイヴィスの3つの全集のうち、現在でも依然として評価が高いのは、1970年代にボストン交響楽団を演奏して成し遂げた最初の全集である。

特に、「第1」〜「第5」は、他の名演と比較しても今なお上位にランキングされる名演であり、いささか透明感に欠ける「第6」や「第7」を踏まえて考えてみても、全集としての価値は、今なお相当に高いものがあると言えるのではないだろうか。

私事で恐縮であるが、筆者も中学生の時代にシベリウスの交響曲に慣れ親しんだが、その時に愛聴していたLPがデイヴィスによる最初の全集であった。

これに対して、2度目の全集は、最初の全集から約20年後の1990年代にロンドン交響楽団と成し遂げたものであるが、これは、はっきり言って、最初の全集と比較するといささか魅力に乏しいと言えるだろう。

デイヴィスとしては、自信を持って臨んだ録音であるのであろうが、そうした自信が過剰になってしまったきらいがあり、金管楽器などのいささか無機的な音色に、やや力の入った力みを感じさせるのが非常に気になった。

最初の全集と比較して、解釈に深みが加わった点は散見されるものの、デイヴィスとしてもいささか不本意な出来であったのではあるまいか。

2度目の全集から10年足らずの間隔で、ロンドン交響楽団の自主レーベルにではあるが、3度目の録音を行ったというのは、その証左と言えるのではないかと考えられる。

そして、この3度目の全集であるが、これは、2度目の全集で見られたような力みがいささかも感じられず、いわゆる純音楽的で自然体のアプローチによる円熟の名演揃いであると高く評価したい。

最初の全集において、いささか透明感に欠けていた「第6」及び「第7」についても、北欧の大自然を彷彿とさせるような繊細な抒情美に満ち溢れており、本盤に収められたクレルヴォ交響曲をも含め、本3度目全集は、まさしくデイヴィスのシベリウスの交響曲演奏の総決算とも言うべき素晴らしい名演集であると高く評価したい。

2005-6年シーズンのオープニング・コンサートで、デイヴィスとロンドン響が取り上げたクレルヴォ交響曲。

「LSO Live」でシベリウス全集を再度進行中だった当コンビにとっては、1996年以来5年ぶりの再録音となるものだ。

全5楽章からなる大作クレルヴォ交響曲は民族叙事詩「カレワラ」を題材にとり、若きシベリウスの名を一躍フィンランド国内に轟かせることになった記念すべき作品である。

全曲の中心となる第3楽章では、実演での興奮そのまま、オケはもちろんとりわけ男声コーラスが力強くユニゾンで歌い上げるさまは驚くほど劇的で、まさにド迫力。

そして、すでにクレルヴォ歌いとしてはヴェテランのソリストが聴かせる、なんとも情感のこもったやりとり。

続く第4楽章では、自慢のパワフルなブラス・セクションの見せ場がこれでもかと爆発しており魅力度満点。

声楽を伴う作品への取り組みにもひときわ熱心なことで知られるデイヴィスの心血を注ぎ愛情がぎっしり詰まったシベリウスとはいえ、あえてこうした意欲的なプログラムを大事な場にかけることは長年の悲願だったのであろう。

手兵に寄せる厚い信頼もあって演奏会が大成功を収めただけに、特別に感動的なものとなっている。

そして本盤で素晴らしいのはマルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質であり、一貫して完成度の高い録音もオーディオ・ファイル注目の的で、本拠地バービカンセンターのクリアな音場を最高のスタッフが忠実に再現している。

クレルヴォ交響曲のような劇的な作品には、本盤のようなマルチチャンネル付きのSACDは抜群の効力を発揮すると言えるところであり、演奏内容の質の高さからしても、今般のSACD化を大いに歓迎したい。

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アバドは、私見であるが、これまでの様々な名指揮者の中でも、最高の協奏曲指揮者と言えるのではなかろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。

そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。

それでも協奏曲の演奏に限ってみれば、ベルリン・フィルの芸術監督就任以前と寸分も変わらぬ名演を成し遂げていたと言える。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番におけるアルゲリッチとの競演(1994年)、そして、レコード・アカデミー賞を受賞したブラームスのピアノ協奏曲第2番におけるブレンデルとの競演(1991年)など、それぞれの各楽曲におけるトップの座を争う名演の指揮者は、このアバドなのである。

本盤に収められた日本を代表するヴァイオリニストである五嶋みどりと組んで録音を行ったチャイコフスキーとショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲についても、こうした名演に系譜に連なるものとして高く評価したいと考える。

協奏曲の演奏に際してのアバドの基本的アプローチは、ソリストの演奏の引き立て役に徹するというものであり、本演奏においても御多分にも漏れないが、オーケストラのみの演奏箇所においては、アバドならでは歌謡性豊かな情感に満ち溢れており、格調の高さも相俟った美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れている。

ここぞという時の力感溢れる演奏は、同時期のアバドによる交響曲の演奏には聴くことができないような生命力に満ち溢れており、これぞ協奏曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。

チャイコフスキーやショスタコーヴィチの協奏曲に特有のロシア風のメランコリックな抒情を強調した演奏にはなっておらず、両曲にロシア風の民族色豊かな味わいを求める聴き手にはいささか物足りなさを感じさせるきらいもないわけではないが、五嶋みどりのヴァイオリン演奏の素晴らしさ、両曲の持つ根源的な美しさを見事に描出し得たといういわゆる音楽の完成度という意味においては、まさに非の打ちどころのない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

五嶋みどりのヴァイオリンについては、もちろん技量においても何ら問題はないが、巧さを感じさせないところが素晴らしい。

要は、楽曲の美しさだけが聴き手に伝わってくるような演奏を心掛けていると言えるところであり、加えて、畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が演奏全体に漲っているのが素晴らしい。

実演ということも多分にあるとは思うが、五嶋みどりの体当たりとも言うべき渾身の、そして楽曲の美しさを際立たせた演奏は、我々聴き手の感動を誘うのに十分であり、このような力強い名演奏を聴いていると、あらためて五嶋みどりの卓越した才能を感じることが可能だ。

一部の女流ヴァイオリニストにありがちな線の細さなどは微塵もなく、どこをとっても骨太のしっかりとした構えの大きい音楽が鳴り切っているのが見事である。

音質は、SACD化がなされることにより、臨場感のある素晴らしい高音質になっており、とりわけ五嶋みどりのヴァイオリンの弓使いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的ですらある。

あらためて本演奏の凄みを窺い知ることが可能になるとともに、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、アバド&ベルリン・フィル、そして五嶋みどりによる素晴らしい名演をSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年04月04日


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ブルックナーの交響曲を数多く演奏・録音してきたヴァントが、最も数多くの録音を遺した交響曲は、何と言っても「第8」であった。

ヴァントは、1990年代に入ってブルックナーの交響曲の崇高な超名演を成し遂げることによって真の巨匠に上り詰めるに至ったが、1980年代以前のヴァントがいまだ世界的な巨匠指揮者としての名声を獲得していない壮年期には、たびたび来日して、NHK交響楽団にも客演を行っていたところだ。

本盤に収められたブルックナーの交響曲第8番は、ヴァントが得意中の得意としたレパートリーであり、NHK交響楽団に客演した際のコンサートの貴重な記録でもある。

ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団との演奏(1971年)、ケルン放送交響楽団との演奏(1979年)に次ぐ3度目の録音ということになる。

ヴァントは、本演奏の後も、北ドイツ放送交響楽団との3度にわたる演奏(1987年ライヴ録音、1990年東京ライヴ録音、1993年ライヴ録音)、ミュンヘン・フィルとの演奏(2000年ライヴ録音)、ベルリン・フィルとの演奏(2001年ライヴ録音)の5度にわたって録音を行っており、本盤の登場を持って同曲を8度にわたって録音したことになるところだ。

いずれ劣らぬ名演と考えるが、この中で最も優れた名演は、ミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

本演奏の性格はケルン放送交響楽団とのスタジオ録音に近いものと言える。

ヴァントがいまだ世界的なブルックナー指揮者としての名声を獲得していない壮年期の演奏であるだけに、1990年代における神々しいばかりの崇高な名演が誇っていたスケールの大きさや懐の深さはいまだ存在していないと言えるところであり、本盤の演奏を前述の1990年以降の超名演の数々と比較して云々することは容易ではある。

しかしながら、本演奏においても、既にヴァントのブルックナー演奏の特徴でもあるスコアリーディングの緻密さや演奏全体の造型の堅牢さ、そして剛毅さを有しているところであり、後年の数々の名演に至る確かな道程にあることを感じることが可能だ。

また、本盤の演奏においては、こうした全体の堅牢な造型や剛毅さはさることながら、金管楽器を最強奏させるなど各フレーズを徹底的に凝縮化させており、スケールの小ささや金管楽器による先鋭的な音色、細部に至るまでの異常な拘りからくるある種の神経質さがいささか気になると言えるところではあるが、それでも違和感を感じさせるほどでもないというのは、ヴァントがブルックナーの本質を既に鷲掴みにしていたからにほかならないと考えられる。

そして、本演奏には、ライヴ録音ならではの畳み掛けていくような気迫と生命力が漲っており、その意味では、ケルン放送交響楽団とのスタジオ録音よりも優れた演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、世界的なブルックナー指揮者として世に馳せることになる後年の大巨匠ヴァントを予見させるのに十分な素晴らしい名演と高く評価したい。

ヴァントの剛毅で緻密な指揮にしっかりと喰らい付いていき、持ち得る実力を最大限に発揮した名演奏を披露したNHK交響楽団にも大きな拍手を送りたい。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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史上最高のレコーディング・アーティストと評されているのはかのヘルベルト・フォン・カラヤンであるが、そのカラヤンをも遥かに超える膨大なレコーディングを行っている指揮者が存在する。

既に70歳代後半を迎えているが、今なおレコーディングへの意欲をいささかも失っていないその指揮者こそはネーメ・ヤルヴィである。

最近はパーヴォもクリスチャンも大活躍のヤルヴィ一家であるが、レパートリーの広さ、演奏の迫力、膨大な録音量等、父親ネーメの存在感はまだまだ圧倒的だ。

特にオーケストラが大編成となる作品における手腕の見事さはさすがで、これまでにも数々の素晴らしい演奏を聴かせ、師ムラヴィンスキー譲りの巧みなオーケストラ・コントロールがまず注目されるところでもあり、その「鳴りの良さ」が、多くのオーケストラ・ファンの信頼を得てきている。

しかしながら、ネーメ・ヤルヴィに対しては、一部の毒舌の音楽評論家から「なんでも屋」であり、膨大なレコーディングは粗製濫造などといった罵詈雑言が浴びせられているが、それはいささか言い過ぎであると言えるところであり、確かに、他の指揮者を圧倒するような名演は殆ど皆無ではあるが、いずれの録音も水準以上の演奏に仕上がっているのではないかと考えられるところだ。

ネーメ・ヤルヴィの最大の功績は、これまでのレビューに紹介してきた通り、特に北欧の知られざる作曲家の作品を数多く録音して、広く世に知らしめたということであり、このことだけでも、後世に名を残すだけの名指揮者と言っても過言ではあるまい。

そのような膨大なレコーディングを行っているネーメ・ヤルヴィであるが、意外にもチャイコフスキーの3大バレエ音楽の録音は本盤が「眠れる森の美女」に続き2作目とのことである。

数年前にBISレーベルに水準の高いチャイコフスキーの交響曲全集を録音しているだけに意外な気もするが、それだけにネーメ・ヤルヴィとしても満を持して取り組んだ録音であると言うことができるだろう。

そして、本盤のバレエ音楽「白鳥の湖」の録音は、そうした我々の期待をいささかも裏切ることがない素晴らしい名演に仕上がっている。

3大バレエ音楽の中でも、「眠れる森の美女」や「くるみ割り人形」と比較すると全曲録音の点数が多い「白鳥の湖」であるが、本演奏は数ある名盤の中でも特筆すべき出来映えであると高く評価したい。

ネーメ・ヤルヴィのアプローチは、例によって聴かせどころのツボを心得たわかりやすさを信条とするもの。

交響曲ではなく、バレエ音楽だけに、このようなアプローチは理想的であり、チャイコフスキーならではの親しみやすい旋律に満たされた同曲の魅力を、我々聴き手は安定した気持ちで満喫することができるのが素晴らしい。

各場面の描き分けも秀逸であり、これまで数多くのレコーディングを手掛けてきたネーメ・ヤルヴィならではの演出巧者ぶりが十二分に発揮されている。

いずれにしても、本演奏は、演奏内容、そして音質面の両面において、極めて水準の高い素晴らしい名盤であると高く評価したいと考える。

ネーメ・ヤルヴィは、今後「くるみ割り人形」を録音するとのことであるが、実に楽しみである。

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20世紀前半にオペラ界、演劇界に君臨したロッテ・レーマンの遺産であるとともに、ブルーノ・ワルターのピアノ伴奏が聴けるはなはだ貴重なディスクである。

何と言ってもピアノはその人の人間味が直接肌にふれてくるだけにワルターを愛する者には懐かしく、指揮以上の魅力があるとも言えるだろう。

指揮の方がずっと巧いのは言うまでもないが、果たしてどちらが彼の個性をより多く映し出しているかという点になると問題がある。

可憐なシューマンに対し、レーマンは馥郁たる成熟した声と、比類無きドラマ作りをトレードマークとした。

単曲のリートにおいては凝縮された物語を、連作においては小宇宙を形成するかのような、構成力と集中力を発揮。

レーマンの秀でたそれら能力がもっとも現れたのが、オバート=ソーンの見事な手腕によって復刻された「女の愛と生涯」と「詩人の恋」。

彼女の息づかいまで再現されたこの盤は、シューマンの精神世界をもっとも情緒豊かに表現した歌唱として、録音史上語りつがれること間違いなしの傑作である。

「女の愛と生涯」のワルターのピアノはごく素朴だ。

タッチも弱いし、テクニックも冴えないが、これを聴くかぎりにおいて、彼のリズムやダイナミックスがモーツァルトを基盤としていることがいっそうよくわかるのである。

レーマンの重いリズムとは対照的な軽さ、ロマン派のシューマンを弾きながら、はめをはずさぬところ、それはワルターの技巧不足から生ずる弱さとはまた別な、何か根本的なものとしてわれわれに映るのである。

もちろん彼ならではの間はあるが、ワルターならば、もっとロマンティックなピアノを弾いてもよさそうなものなのに、と思う人も多いことだろう。

そのくらい控えめなのだ。

レーマンの独唱はテクニックや声の点で最高とは言えないが、ここに表出されるむせるような女くささは見事である。

前半の曲に少女らしい恥じらいや慎みのない点は、人によって抵抗もあろうが、これほど感情的な歌唱は他に決してない。

レーマンには1928年、ワイスマン指揮による「女の愛と生涯」の録音もあり、彼女の全盛期だっただけに、その歌唱は主情的・情熱的なものだったが、それに比べるとここでの歌唱は、より客観性を重視した優しいものとなっている。

これは伴奏のワルターのリードによるところもあるだろう。

「詩人の恋」は、「女の愛と生涯」と同様、ワルターのピアノはレーマンの歌唱に比して素朴すぎ、音量的にも弱いのが残念だが、彼の天性は本来情緒的であるから、粘りすぎたり大げさにならない程度の人間味はある。

それが最高に表われているのが終曲の後奏で、このデリケートで女性的なタッチ、嫋々たるピアニッシモ、ルバートを多用し、和音をずらして気分的に弾いてゆく表情は美しさのかぎりと言えよう。

意外に主張の乏しいワルターのピアノであるが、この後奏を聴くだけでも価値はある。

どうしてこれを「女の愛と生涯」も含めて、全曲に及ぼさなかったかと、つくづく惜しまれる。

おそらく彼のピアノには根源的な性格が指揮以上に出ているのではないだろうか。

しかし演奏家として当然持つべき表現力は指揮の方が数段上であると思わざるを得ない。

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2015年04月03日


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ハイティンクの円熟を感じさせる素晴らしい名演の登場だ。

ハイティンクは、アシュケナージなどと並んで評価が大きく分かれる指揮者と言えるのではないだろうか。

ハイティンクは、全集マニアとして知られ、さすがにハイドンやモーツァルトの交響曲全集は録音していないが、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなど、数多くの作曲家の交響曲全集のスタジオ録音を行ってきているところだ。

既に、80歳を超えた大指揮者であり、近年では全集のスタジオ録音に取り組むことはなくなったが、発売されるライヴ録音は、一部を除いてさすがは大指揮者と思わせるような円熟の名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

本盤に収められたブルックナーの交響曲第8番も、そうした列に連なる素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

ハイティンクは、同曲をコンセルトヘボウ・アムステルダム(1969、1981年)、そしてウィーン・フィル(1995年)とともにスタジオ録音、シュターツカペレ・ドレスデン(2002年)とライヴ録音を行っており、特に、ウィーン・フィルとの演奏については、オーケストラの美演もあって捨てがたい魅力があるが、演奏全体の持つスケールの雄大さや後述の音質面に鑑みれば、本演奏には敵し得ないと言えるのではないだろうか。

ベートーヴェンやマーラーの交響曲の演奏では、今一つ踏み込み不足の感が否めないハイティンクではあるが、ブルックナーの交響曲の演奏では何らの不満を感じさせないと言える。

本演奏においても、ハイティンクは例によって曲想を精緻に、そして丁寧に描き出しているが、スケールは雄渾の極み。

重厚さにおいてもいささかも不足はないが、ブラスセクションなどがいささかも無機的な音を出すことなく、常に奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。

ただならぬ風格に圧倒される第1楽章、金管の咆哮が凶暴なスケルツォ、悠久の時を感じさせるアダージョはやはり絶品で、壮大に締めくくられるフィナーレに至ってはいつまでも忘れがたい印象を残す。

これぞブルックナー演奏の理想像の具現化と言っても過言ではあるまい。

悠揚迫らぬインテンポを基調としているが、時として効果的なテンポの振幅なども織り交ぜるなど、その指揮ぶりはまさに名人芸の域に達していると言ってもいいのではないか。

ハイティンクの確かな統率の下、コンセルトヘボウ・アムステルダムも圧倒的な名演奏を展開しており、とりわけホルンをはじめとしたブラスセクションの優秀さには出色のものがあると言えるだろう。

いずれにしても、本演奏は、現代を代表する大指揮者の1人であるハイティンクによる円熟の名演と高く評価したい。

そして、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

音質の鮮明さに加えて、臨場感溢れる音場の広さは見事というほかはなく、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

マルチチャンネルで再生すると、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的であるとすら言えるだろう。

ハイティンクによる素晴らしい名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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最初にLPで発売予定時から絶賛されていた演奏で、その年のレコード・アカデミー賞を受賞した、バーンスタイン晩年の最高度に円熟した演奏である。

現在カタログには、40種類以上の現役盤がひしめいているが、結局魅力度ということにかけては、バーンスタイン指揮ウィーン・フィルが、圧倒的な貫禄であたりを睥睨している。

バーンスタインは押しも押されぬ史上最大のマーラー指揮者であると考えるが、その精神分裂的な性格がマーラーと通底するシューマンの交響曲や協奏曲を除けば、バーンスタインの指揮する独墺系の音楽は今一つ彫りの深さを感じさせる演奏が少ないと言える。

とりわけ、1980年代半ば以降のバーンスタインには、異常なスローテンポによる大仰な表情づけの演奏が増えてきたことから、マーラーやシューマンの楽曲を除いては、いささかウドの大木の誹りを免れない浅薄な凡演が多くなったと言わざるを得ない。

しかしながら、本盤に収められたブラームスの交響曲全集は、1981〜1982年のライヴ録音ということもあって、1980年代後半の演奏のような大仰さがなく、ウィーン・フィルによる名演奏も相俟って、素晴らしい名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

いずれの曲も、ライヴならではの迫力で、スケールの大きな巨匠風の演奏であり、ロマンティシズムに溢れた演奏である。

バーンスタインはウィーン・フィルの柔らかなアンサンブルを駆使して、ふっくらと聴き手を包み込むような、包容力溢れる暖かい手触りの名演を展開している。

バーンスタインは己の感情をストレートにぶつける事によって古典的形式美の奥に封印された喜怒哀楽の全てを漏らさず紡ぎ出し、劇的でスリリングでしかも朗らかな歌心にも溢れた極めてロマン的なブラームス像を打ち出した。

バーンスタインは、1960〜1964年にかけてニューヨーク・フィルとともにブラームスの交響曲全集をスタジオ録音しているが、それはいかにもヤンキー気質丸出しのエネルギッシュな演奏であり、随所に力づくの強引な最強奏も聴かれるなど外面的な効果だけが際立った浅薄な演奏であった。

しかし、本盤に収められた演奏では、バーンスタインの音楽に彫りの深さを感じることが可能であり、持ち前のカロリー満点の生命力に満ち溢れた演奏に、ウィーン・フィルによる極上の美演が付加されることにより、演奏全体に潤いと適度な奥行き、そして重厚さを付加することに成功している点を忘れてはならない。

ウィーン・フィルはブラームスの交響曲を初演したオーケストラで、それだけにここでも並々ならぬ自信が感じられる。

バーンスタインはそうしたオーケストラの魅力を余すところなく発揮させており、ライヴ録音ならではの白熱的な演奏を展開している。

ウィーン・フィル独特の弦の柔らかな響きと管楽器の美しいハーモニー余すことなく表現して、指揮者と楽団の知的で親密さがなければ実現できなかったであろう快い緊張感に支えられた均質な演奏に聴き手は高い満足度を感じる全集であると言えるだろう。

いずれにしても、本全集は、バーンスタインによるエネルギッシュな力感溢れる指揮に、ウィーン・フィルによる美演が加わったことにより、剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

仮に、本全集の録音に際して、バーンスタインがウィーン・フィル以外のオーケストラを起用していたとすれば、これほどの魅力的で奥行きのある演奏にはならなかったのではないかとも考えられるところだ。

録音は1981〜1982年のデジタル・ライヴ録音であるが、従来盤でも充分に満足し得る高音質である。

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1953年4月14日 ベルリン、ティタニア・パラストでのライヴ・レコーディング。

フルトヴェングラー晩年の、燃焼度抜群の名演で、オーケストラの力の入りようも尋常ではなく、強烈な印象を残す録音として名高いもの。

フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第7番の演奏の録音は数多く遺されているが、一般的には1943年のベルリン・フィルとのライヴ録音と1950年のウィーン・フィルとのスタジオ録音が双璧の名演とされている。

いずれも数年前にオーパス蔵が素晴らしい復刻を行ったことから、両名演の優劣をつけるのが極めて困難な状況が続いていたところである。

しかしながら、一昨年1月、EMIが1950年盤をSACD化したことによって、きわめて鮮明な音質に生まれ変わったことから、おそらくは現在では1950年盤をより上位に置く聴き手の方が多数派を占めていると言えるのではないだろうか。

このような2強の一角を脅かす存在になりそうなのが、先般シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化という、現在望み得る最高の高音質化が図られた、本盤に収められた1953年のライヴ録音ということになる。

本演奏については、従来盤(DG)の音質はデッドで音場が全く広がらないという問題外の音質であったが、数年前にスペクトラムレーベルが比較的満足し得る復刻を行ったところだ。

しかしながら、ユニバーサルによる今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、これまでとは次元が異なる高音質に生まれ変わったと言えるところであり、鮮明で解像度が高く、とても半世紀前の録音とは思えない。

ようやく本演奏の真価を味わうことが可能となるに至ったと言えるだろう。

第7番は1943年のライヴ録音のようなテンポの激しい動きは無いが、集中力と完成度の高い一気に聴かせる素晴らしい演奏である。

冒頭の和音からして崇高さを湛えており、その後は濃厚さの極みとも言うべき重厚な音楽が連続していくが、彫りの深さといい、情感の豊かさといい、これ以上の演奏は考えられないほどの高みに達した神々しさを湛えている。

終楽章の終結部に向けてのアッチェレランドを駆使した畳み掛けていくような力強さは、圧倒的な迫力を誇っている。

筆者としては、本SACD盤が登場しても、なお1950年盤の方をより上位に置きたいと考えてはいるが、本SACD盤は1950年盤に肉薄する超名演と評価するのにいささかも躊躇しない。

他方、交響曲第8番については、ストックホルム・フィルとの演奏(1948年)がEMIによって既にSACD化されているが、必ずしも音質改善が図られたとは言えなかっただけに、本盤の演奏の方が、音質面においても、そしてオーケストラ(ベルリン・フィル)の質においても、より上位を占めるに至ったと言っても過言ではあるまい。

第8番は、フルトヴェングラーが必ずしも得意とした交響曲ではなかったとされているが、このような高音質で聴くと、むしろ同曲を自己薬籠中のものとしていたのではないかとさえ思われるような熟達した名演を繰り広げていることがよく理解できるところだ。

モーツァルト的な演奏とは違う、まさにベートーヴェン的な情熱感のある演奏を繰り広げている。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤という現在最高のパッケージメディアで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 00:56コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンフルトヴェングラー 

2015年04月02日


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本盤の売りは、同じくエクストンレーベル(オクタヴィア)から発売されたアシュケナージ&チェコ・フィルによるR・シュトラウスの管弦楽曲集の名演盤(1998年)と同様に、何と言ってもシングルレイヤーによるマルチチャンネル付きのSACDによる臨場感溢れる極上の音質のあまりの素晴らしさであろう。

数年前には殆ど絶滅の危機に瀕していたSACDであるが、2010年よりユニバーサルがシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化シリーズ開始したことや、EMIが2011年よりSACDに参入したことによって、急速に息を吹き返しつつある。

ネット配信が隆盛を極める中で、パッケージメディアの最後の砦はSACDと考えるところであり、今後とも、大手メーカーが引き続きSACDの発売を積極的に行っていただくことを強く要望しておきたいと考える。

ところで、ユニバーサルやEMIによるSACD盤は、その殆どはマルチチャンネルが付いていない2チャンネル方式となっている。

SACDが発売された当初はマルチチャンネルが売りであっただけに、SACDの復活は嬉しい反面で、いささか複雑な思いがしているところでもある。

オクタヴィアも数年前からマルチチャンネル付きのSACDの発売を取りやめてはいるが、本盤のような圧倒的な高音質SACDを聴くと、このままマルチチャンネル付きのSACDが衰退していくのは大変惜しい気がするところだ。

マーラーの交響曲のような立体的とも言うべき豪壮華麗なオーケストレーションの魅力を満喫するためには、何と言ってもマルチチャンネル付きのSACDは必要不可欠とも言えるところであり、マーラーの交響曲第7番のマルチチャンネル付きのSACD盤が、他にはシャイーなどの一部の演奏に限られていることに鑑みても(バーンスタインの旧盤は3チャンネル)、本盤の価値は極めて高いと言わざるを得ないのではないかと考えられる。

演奏内容については、マーラーの交響曲の中でも特に奥深い内容を湛えた第7番だけに、必ずしも名演との評価をすることは困難と言えるかもしれない。

もっとも、並み居るスタープレイヤーが揃ったチェコ・フィルによる名演奏も相俟って、後述のようなアシュケナージによる音楽そのものを語らせる指揮ぶりが、マーラーの交響曲第7番の魅力を浮かび上がらせることに成功しているとも言えるところであり、少なくとも佳演の評価は可能であると言えるのではないだろうか。

本演奏の特徴を一言で言えば、楽曲の魅力をダイレクトに表現した自然体の演奏ということになるのではないかと考えられる。

本演奏においては、特別な個性などは全く存在していない。

奇を衒うことなど一切排して、ただただ音楽そのものを語らせる演奏に徹しているとさえ言える。

楽曲の聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さも見事に功を奏しており、表情づけの巧みさや各楽器セクションのバランスの良い鳴らし方なども相俟って、マーラーの交響曲第7番の美しさ、魅力を、安定した気持ちで心行くまで満喫することが可能な演奏に仕上がっているとも言えるだろう。

むろん、アシュケナージのマーラーだから深い味は期待できないが、優秀な録音と相俟ってオーケストラの音が実に瑞々しく雄大に捉えられており、感覚的ではあるがそれなりに楽しめる。

いずれにしても、本盤は、演奏内容としては佳演であるが、シングルレイヤーによるマルチチャンネル付きのSACDによる臨場感溢れる極上の鮮明な高音質録音であることに鑑みれば、総体として推薦に値するディスクではないかと考える。

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classicalmusic at 22:57コメント(0)トラックバック(0)マーラーアシュケナージ 

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本盤には、アバド&ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲全集等が収められているが、全曲ともに若干甘い気はするものの名演と評価したい。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任間もない頃に、本盤に収められたブラームスの交響曲全集を完成させた。

ちなみにアバドは、4つのオーケストラを振り分けた旧全集(1970〜72年)でも明るくのびやかな響きによって、溌剌と新鮮な表現を聴かせてくれたが、本全集の演奏には、いっそう美しい余裕と確かな構成感がある。

細部の琢磨にも一段と精緻であると同時に、きわめてバランスの良い表現は、常に豊かな歌を湛えており、しかものびやかに洗練され格調が高い。

もっとも、カラヤン時代の猛者がいまだ数多く在籍していたベルリン・フィルを掌握し得た時期の録音ではないことから、第1番などは名演の名には恥じない演奏であるとは言えるが、アバドの個性が必ずしも発揮された演奏とは言い難いものであった。

他方、楽曲の性格とのマッチングや録音時期(芸術監督就任前の1988年)の問題もあって、第2番はアバドならではの豊かな歌謡性が発揮された素晴らしい名演であった。

このようにベルリン・フィルの掌握の有無なども演奏の出来に作用する重要な要素であるとは思うが、根本的には、アバドの芸風に符号する楽曲かどうかというのが演奏の出来不出来の大きな分かれ目になっていると言えるのではないだろうか。

アバドのアプローチは、前任者のカラヤンのような独特の重厚なサウンドを有していたわけでもない。

むしろ、各楽器間のバランスを重視するとともに、イタリア人ならではの豊かな歌謡性を全面に打ち出した明朗な演奏を繰り広げている。

このようなアプローチの場合、第1番ではいささか物足りない演奏(もっとも、第1番はカラヤン時代の重厚な音色の残滓が付加されたことによって、怪我の功名的な名演に仕上がった)になる危険性があり、他方、第2番については、楽曲の明朗で抒情的な性格から名演を成し遂げることが可能であったと考えられる。

一方、第3番及び第4番も、楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫りの深さ(とりわけ第3番の両端楽章や第4番の終楽章)といった面においてはいささか生ぬるい気がしないでもないが、とりわけ第3番の第2楽章及び第3楽章や第4番の第1楽章及び第2楽章などの情感豊かな歌い方には抗し難い魅力があり、第2番ほどではないものの、比較的アバドの芸風に符号した作品と言えるのではないだろうか。

また、第3番については、第2番と同様にアバドが芸術監督に就任する前の録音でもあり、ウィーン・フィルに軸足を移したカラヤンへの対抗意識もあって、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは渾身の名演を繰り広げていたベルリン・フィルの途轍もない名演奏が、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

もっとも、大病を克服した後のアバドは、凄みのある名演を成し遂げる大指揮者に変貌していると言えるところであり、仮に現時点で、ブラームスの交響曲全集を録音すれば、より優れた名演を成し遂げる可能性が高いのではないかと考えられるところだ。

いずれにしても、アバドはベルリン・フィルの芸術監督就任直後にブラームスの交響曲全集を完成させるのではなく、芸術監督退任直前に録音を行うべきであったと言えるのではないか。

録音は従来盤でも十分に満足できる高音質である。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)ブラームスアバド 

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両曲ともに定評ある名演であり、クラリネット協奏曲はルビジウムカッティング盤、ピアノ協奏曲はSHM−CD盤が発売されているが、本盤の売りは2つ。

1つは、SACDマルチチャンネルによる高音質化、もう1つはベームとアバドという名指揮者の芸風の比較ができるという点である。

まず、SACDマルチチャンネルであるが、これは極上の音質であり、ルビジウムカッティングやSHM−CDなどとはそもそも次元が異なる。

まるで、ヨーロッパの極上のホールで聴いているような錯覚を覚えるほどの奥行きのある音であり、定評ある名演を、おそらくは現時点で求めうる最高の音質で味わうことができることを大いに喜びたい。

もう1つの両名指揮者の比較であるが、これも違いがよくわかる。

ベームの厳しい造型の下、隙間風の吹かない重厚な演奏、これに対して、バランスを重視するアバド。

どちらもウィーン・フィルの音色の美しさを生かしていくというアプローチには共通点も見られるが、この違いは大変興味深かった。

モーツァルトのクラリネット協奏曲では、最近ではほとんど聴かれなくなった重厚さと高貴な優美さを兼ね備えた珠玉の名演である。

録音は1972年というベームの最後の全盛期であり、その指揮は、モーツァルトを得意としたベームならではの厳しい造型の中にあっても柔軟性のある自然体のものであり、ウィーン・フィルも絶美の演奏を行っている。

そして、何よりも、当時のウィーン・フィルの首席奏者だったプリンツのウィーン風の極上の演奏が、この名演により一層の華を添える結果になっている。

他方、ウィーン出身のピアニストであるにもかかわらず、ジャズ音楽に裾野を広げたりするなど、自由奔放な活動が目立つグルダであるが、そのようなグルダが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタなどの独墺系の音楽を演奏する際には、自由奔放なグルダはすっかりと影をひそめ、真摯なピアニストに変貌する。

モーツァルトのピアノ協奏曲においても、そのような真摯な姿勢は変わりがないと言えるのではないか。

実際に、本演奏におけるグルダのピアノも、曲想を心を込めて描き出して行くという真摯なものだ。

そのアプローチは、いささかも奇を衒うことがなく、楽曲の魅力をダイレクトに聴き手に伝えていこうという自然体の姿勢そのものであり、モーツァルトの音楽特有の優美さをいささかも損なっていないのが素晴らしい。

それでいて、時として見られる寂寥感の描出についても抜かりはなく、全体として、いかにもドイツ風の重厚かつシンフォニックな演奏を行っている点を高く評価したい。

第3楽章においては、グルダならではの自作のカデンツァを聴くことができるが、ここでは、常々の自由奔放なグルダを垣間見ることが可能であり、演奏全体に新鮮さを与えている点も見過ごしてはならない。

このようなグルダを下支えするのが、アバド&ウィーン・フィルの素晴らしい好演ということになるであろう。

本演奏は1974年であるが、この当時のアバドは、イタリア人指揮者ならではの豊かな歌謡性と、音楽の核心にひた向きに切り込んでいこうという生命力溢れる気迫がマッチングした素晴らしい名演の数々を生み出していたが、本演奏においても、そうしたアバドの指揮は健在である。

若きアバドの指揮の下、ウィーン・フィルが素晴らしい演奏を繰り広げている点も特筆すべきであり、演奏全体に適度な潤いと奥行きの深さを与えているのを見過ごしてはならない。

いずれにしても、演奏の素晴らしさ、音質の見事さ、そして名指揮者や名ソリストの至芸等を満喫することができる名SACDであることには異論はあるまい。

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2015年04月01日


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映画『男はつらいよ』については、初めは、低俗な喜劇ぐらいにしか感じていなかった。

寅次郎の筋は意識的なワンパターンである。

まず夢の場面と、寸劇があった後、ヤクザ者の寅が柴又のとやらにひょっこり帰ってくる。

おいちゃん、おばちゃん、妹のさくら、その夫の博と子供の満男、隣の印刷工場のタコ社長など、おなじみのメンバーに大歓迎されるが、それもつかの間、ささいなことからけんかが始まって再び家を飛び出す。

旅の空で美しい女性と知り合い恋心を燃やすが、やがて失恋、という段取りだ。

寅次郎は無学で根気がなく、頭も少し弱いが、驚くほど純情、純粋で人情に厚く、ひょうきんで、彼のまわりには笑いが絶えない。

相手が芸術家だろうと、金持ちであろうと、乞食であろうと、いっさい分けへだてせず、人間対人間として付き合う。

寅次郎にとって相手の肩書とか職業などは一文の値打ちもなく、人間性だけが大切なのである。

だから女性も完全に心を開いて寅次郎の胸の中に飛び込み、自分のすべての悩みを打ち明け、「私は寅さんが大好き」と言う。

その言葉に嘘偽りはないのだが、寅次郎の方は女も自分に恋しているのだ、と誤解してしまい、悲喜劇が起こるのである。

このシリーズが始まった頃、寅次郎は愚かなだけの男で、おいちゃんが「ばかだなぁ」と慨嘆するのが常であった。

寅次郎がばかなことをしでかし、それを監督もばかにし、観客もばかにし、笑い合って日頃のストレスを解消する、というパターンの連続であった。

ところが……、いつの頃からか、おいちゃんの「ばかだなぁ」というセリフが聞かれなくなり、寅次郎に変化が見えてきたのである。

といって、教養がついたわけではないし、頭が良くなったわけでもなく、寅はあくまで寅なのだが、微妙な深みが出てきたのだ。

つまり作品の中で車寅次郎が一人歩きを始め、その寅次郎に監督であり、原作者でもある山田洋次が教えられるようになったのである。

筆者は今では『男はつらいよ』は最高の娯楽作品で、同時に最高の芸術作品だと考えているが、その理由はまさにこの一点にあるのだ。

寅次郎は無教養で常識がなく、礼儀作法もまったく知らないがゆえに、人間の生まれながらの純粋さがほんのわずかも傷つけられることなく残されていて、大自然から与えられた純粋直観が曇らされていない。

人はとかく肩書で他人を判断しがちであり、教養の有無や礼儀作法の有無で価値を決めがちであるが、寅次郎に言わせれば、これほどナンセンスなことはないだろう。

まったくの裸になったときどういう人間なのか、それだけが問題なのであって、むしろ、教養や常識や礼儀作法は人間を堕落させる。

余計なものがべたべたとはりついて、本来の純粋性が失われ、俗っぽくなり、本質が見えなくなり、何よりも裸になれなくなってしまう。

そこへゆくとフーテンの寅は生まれたままの姿でそこに立っていて、自分の正直な気持ちだけで生きている。

笑いたいときに笑い、悲しいときに悲しみ、怒りたいときに怒る、そこにかけひきや偽りはいっさいない。

子供のような人、いや、神様のような人、それが寅次郎である。

映画の中でいろいろな出来事が起こったとき、他の人は常識でしか考えられないが、寅次郎はズバリ真実を見抜き、真実のままに行動する。

そのことに東大出の山田洋次監督は教えられるのであろう。

といっても、『男はつらいよ』はあくまで大衆のための娯楽作品である。

しかし、寅次郎は単なる笑わせ役ではないのであって、人を笑わせ、楽しませながら、人間の真実を教えてくれる存在である。

山田洋次監督の才能は抜群であるが、彼の偉大さは、渥美清という天才俳優を得て、笑わせながら人生の深い味わいを、しかもそれを求めている人にのみ与えてゆく点であろう。

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classicalmusic at 22:38コメント(0)トラックバック(0)筆者のこと 

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R.シュトラウスの「ダフネ」は、「エレクトラ」と同様にギリシャ神話を題材にしたオペラであるが、「エレクトラ」のようにエキセントリックなところは微塵もなく、牧歌的な抒情に彩られた作品ということができるだろう。

もちろん、悲劇であり、劇的な箇所もないわけではないが、随所に見られるR.シュトラウスならではの色彩感溢れる華麗なオーケストレーションが、前述の牧歌的な抒情も相俟って、独特の魅力を放っている。

まさに、R.シュトラウスお得意の交響詩を聴くような面白さがあると言えるのかもしれない。

作曲技法が洗練の極みに達したR.シュトラウス晩年の歌劇は、初期や中期の諸作ほどオペラ・ハウスのレパートリーとして定着してはいない。

しかし、ひとたびこの新録音を耳にすれば誰もがその魅力を痛感することだろう。

大編成の管弦楽を用いて力強く華麗な響きを生み出しながらも透明感を保つオーケストラ・パートなど、円熟期ならではの充実ぶりである。

ビシュコフ&ケルン放送交響楽団は、「エレクトラ」や一連の交響詩の録音において既に名演を成し遂げているが、本盤においても、R.シュトラウスがスコアに書き記した音楽を精緻に、そしてスケール雄大に描き出していく。

そのダイナミックレンジの幅の広さ、牧歌的な抒情における情感の豊かさ、劇的な箇所の迫力など、いずれもとっても見事と言うべき好演を行っている。

ビシュコフは精緻なスコアから豪華絢爛たる音像を描き出すが、その棒は譜面の細部まで鮮明に浮かび上がらせる緻密さも併せ持ち、このオペラの美点を100パーセント表現しきる卓越した指揮として称えたい。

現在のオペラ界を代表する錚々たる歌手陣も豪華。

フレミングの美声は乙女ダフネとしては幾分豊麗に過ぎるかもしれないが、絶妙にコントロールされた見事な歌唱を繰り広げ、ロイキッポスを演じるシャーデのしなやかな喉も特筆すべきだ。

特に、主役のダフネのフレミングは適役であり、アポロのボータ、ロイキッポスのシャーデともども最高のパフォーマンスを示しており、特に、終結部に至る手前の三者による三重唱は、鬼気迫る迫真の歌唱を行っている。

録音も非常に鮮明であり、本名演の価値を大いに高めている。

作曲者からこの作品を献呈された初演者のベームが亡くなって約四半世紀、ようやく現代の「ダフネ」が誕生した事を心から喜びたい。

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classicalmusic at 20:48コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウス 

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フィッシャー=ディースカウが、ポリーニという絶好の共演者を得て、1978年にザルツブルク音楽祭に於いて、十八番にしていた《冬の旅》を演唱した貴重な記録である。

彼自身、1970年代初めの頃のあのムーアとの録音を最高とは考えていなかった証拠と言えないだろうか。

ムーアには、伴奏者が持つ限界が見えている。

同じリートをいろいろな歌手達と何度も何度も演奏し、録音する生活の中では、自ずから自分のスタイルを失っていくことになるのではなかろうか。

それに反して、エンゲルとか、デムスとか、ブレンデルとか、一流のピアニストには、1つのリートに一回性を求める立場が保留されている。

それだからこそ、個性的な伴奏が、新鮮な解釈と共に可能になるのだ。

そうした中で、稀代のピアニストとして大成したマウリツィオ・ポリーニは、傑出した伴奏者として特筆に値する音楽家である。

ポリーニの豊かな音楽体験と、厳しい人生経験から、この名伴奏が産まれたことは明らかである。

フィッシャー=ディースカウはこの人を伴奏者に得て、ムーア盤で示した独特の《冬の旅》解釈を極限まで洗練させ、完成した名演としてレコードに残すことに成功したのである。

演出を越え、解釈を克服したところに、無類の《冬の旅》の出現がありえたわけで、これは奇蹟でも、偶発的産物でもない、至芸というものなのである。

細かいことを言えば、第6曲「あふれる涙」での三連音符と付点音符の組み合わせだが、ポリーニの解釈こそ彼の豊かな音楽体験の産物なのであって、ショパンの《24の前奏曲》とか、バッハの《平均律》などを深く研究したピアニストなら、疑いもなく、ポリーニの解釈を正統と評価するに違いない。

伴奏の専門家たちの手から、こうした解釈が決して産まれなかったのは、それなりの理由がある。

つまり、記譜上の書式通りに弾こうとするから問題が起こるのであって、書式と実際の演奏法の間の関係について、時代様式の心得がないと、シューベルトでもシューマンでも、問題が起こるのだ。

続く「河の上で」も素晴らしい演奏で、こうした名演は、ピアノのパートの干渉度が大きい曲では、声楽家の努力と才能だけでは産まれえぬものなのである。

「鬼火」や「春の夢」などにも同じことが言えるところであり、特に一見幸福そうな後者から、これだけ深い悲しみが表現できようとは、驚異としか言いようがない。

ここまで行くと、この意外というほかないフィッシャー=ディースカウとポリーニという組み合わせが、結果として最高の名コンビということになった。

後半12曲に入っても、緊張感は衰えることなく、最後の5曲に凝集されていく《冬の旅》のエッセンスは、ますます純度を増していく。

曲尾にそれまで示されていた歌唱の唐突なクレッシェンドは、ここでは姿を消し、歌のパートに代わってピアノが不気味な盛り上がりを聴かせている。

「決して静まることがない」ライアーマンの楽器がそこでは前面に出るのである。

そして、ポリーニはフィッシャー=ディースカウの期待に応えて、ピアノの右手の奇妙な旋律を絶妙に歌い上げている。

それは歌唱の弱まって終わる効果と見事な対比を形成してわれわれの心の中に未聞の深い印象を残すのだ。

《冬の旅》ここに窮まる。

この名演があっては、プライもホッターも出る幕がなさそうである。

そして、大半の責任は歌手にあるのではなく、伴奏者の選択にあることを、この名録音が教えてくれているのではなかろうか。

フィッシャー=ディースカウは、53歳に達してとうとう最高の伴侶を得たのである。

音質もフィッシャー=ディースカウの息づかいとポリーニのピアノタッチが明瞭に聴こえるなど、1978年のライヴ録音としては極めて優れたものと評価したい。

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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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