2015年05月

2015年05月31日


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近年では健康を害して指揮台に立つのも難儀をしている小澤であるが、小澤の得意のレパートリーは何かと言われれば、何と言ってもフランス音楽、そしてこれに次ぐのがロシア音楽ということになるのではないだろうか。

ロシア音楽について言えば、チャイコフスキーの後期3大交響曲やバレエ音楽、プロコフィエフの交響曲やバレエ音楽、そしてストラヴィンスキーのバレエ音楽など、極めて水準の高い名演を成し遂げていることからしても、小澤がいかにロシア音楽を深く愛するとともに得意としているのかがわかるというものだ。

R=コルサコフの最高傑作でもある交響組曲「シェエラザード」も、そうした小澤が最も得意としたレパートリーの1つであり、これまでのところ3度にわたって録音を行っている。

最初のものが本盤に収められたシカゴ交響楽団との演奏(1969年)、2回目のものがボストン交響楽団との演奏(1977年)、3回目のものがウィーン・フィルとの演奏(1993年)である。

いずれ劣らぬ名演であり、とりわけウィーン・フィルとの演奏については、オーケストラの魅力ある美しい音色も相俟って、一般的な評価も高いし、演奏全体の安定性などを総合的に考慮すれば、ボストン交響楽団の演奏が、小澤による同曲の代表的名演と評価することもできよう。

それらに対し、シカゴ交響楽団との演奏は、まだ30歳代半ば、小澤のEMIレーベルへのデビュー当時の録音であり、若き小澤が世界に羽ばたこうとしていた熱き時代のものである。

1963年のラヴィニア音楽祭での共演以来、頻繁に共演を繰り返していたシカゴ交響楽団というこの上ないパートナーを得て、若き小澤がこの名門オケを大胆にリードし、この上なく新鮮でみずみずしい、颯爽とした「シェエラザード」に仕上がっている。

この当時の小澤の演奏は、豊かな音楽性を生かしつつ、軽快で躍動感溢れるアプローチに加えて、エネルギッシュで力強い生命力に満ち溢れていた。

トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さは圧倒的な迫力を誇っており、切れば血が噴き出てくるような熱い情感に満ち溢れている。

同曲の随所で聴かれるロシア風の抒情的な旋律の歌い方もいささかも重々しくなることはなく、瑞々しさを感じさせてくれるのが素晴らしい。

同曲には様々な指揮者による多種多彩な名演が目白押しであるが、小澤の演奏は、得意のフランス音楽に接する時のような洒落た味わいと繊細とも言うべき緻密さと言えるのではないかと考えられる。

とりわけロシア系の指揮者に多いと言えるが、ロシア風の民族色を全面に打ち出したある種のアクの強さが売りの演奏も多いが、小澤の演奏はその対極に位置しているとも言える。

ロシア系の指揮者の演奏がボルシチであるとすれば、小澤の演奏はあっさりとした味噌汁。

しかしながら、その味噌汁は、あっさりとはしているものの、入っている具材は実に多種多彩。

その多種多彩さはボルシチにはいささかも劣っていない。

それこそが、小澤による本演奏の特色であり、最大の美質と言えるだろう。

要は、演奏の表層は洗練されたものであるが、どこをとっても洒落た味わいに満ち満ちた独特のニュアンスが込められるとともに、聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりにも際立ったものがあると言えるだろう。

こうした若き小澤の統率の下、卓越した技量を発揮したシカゴ交響楽団による名演奏も素晴らしい。

とりわけ管楽器の技量とパワーは桁外れであり、巧みなオーケストレーションが施された同曲だけに、本名演への貢献度は非常に大きいと考える。

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classicalmusic at 22:39コメント(0)トラックバック(0)R=コルサコフ小澤 征爾 

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ケンペ&ミュンヘン・フィルという往年の名コンビによるブルックナー録音は、本盤に収められた2曲しか遺されていないが、特に「第5」が歴史に残る素晴らしい名演だ。

ブルックナーの「第5」と言えば、シューリヒト&ウィーン・フィル盤とヴァント&ベルリン・フィル盤が、最も手応えのあったものと言えるところだ。

しかし、シューリヒトを聴いていると、ちょっと指揮者の個性が出すぎてやしまいかと、そんなことが頭をチラッとよぎる。

かたやヴァントの方は、あまりにも洗練されすぎてやしまいか、などと贅沢な不満を覚えたりする。

つまり、この2種類とは少し毛色の違った名演も欲しいのだ(なんと欲ばりなこと)。

このケンペは雄大でありながら、質朴、渋さの極みで、部分的には明らかに先の2種類よりは曲想にふさわしいと思えるし、聴いていてケンペならではの独自の音づくりには静かな感銘を受けるところである。

これぞドイツ的な音の渋さ、くすみ、幾分の暗さが微妙にブレンドされていて、全くぶれず程良い一定のテンポで持続してゆく。

全体の印象は、ヴァントと同様、いわゆる職人肌の指揮ぶりであるが、ヴァントのような超凝縮型の眼光紙背に徹した厳しさをも感じさせるものではなく、より伸びやかで大らかな印象を受ける。

それどころか、冒頭のゆったりとした導入部や、第2楽章の美しい旋律の調べなど、決してインテンポに拘泥することなく、緩急自在のテンポ設定を行っているが、全体の造型はいささかも弛緩することはない。

終楽章の複雑なフーガもきわめて整然としたものに聴こえる。

これは、ケンぺがブルックナーの本質をしっかりと捉えていたからにほかならない。

ブルックナーのこの曲への複雑な感情表出が、陰影を感じさせる深い響きから浮かび上がってくるのである。

ほぼ同時期に、同じ職人タイプのベームが「第4」の名演を残しているが、ケンぺの本盤の演奏とは全く異なるものになっているのは大変興味深い。

もちろんオーケストラも異なるし、ホールもレーベルも異なるが、それ以上に、ケンぺは、ベームのようにインテンポで、しかも自然体の演奏をするのではなく、金管、特にトランペットに、無機的になる寸前に至るほどの最強奏をさせたり、テンポを随所で微妙に変化させるなど、ケンぺならではの個性的な演奏を行っている。

筆者としては、「第5」の方をより評価したいが、この「第4」も、同じタイプのベームの名演によって、一般的な評価においても不利な立場にはおかれていると思われるが、高次元の名演であることは疑いのないところである。

当時のミュンヘン・フィルは,チェリビダッケ時代以後のような超一流のアンサンブルには達しておらず、管楽器群の独奏などあまり洗練されていないが、ローカル色の濃いオケの健闘ぶりもまた聴きものである。

両盤ともに以前はXRCD盤が発売されていたが、今は廃盤となってしまったので、次善策としてネットメディア配信で聴かれることをお薦めしたい。

筆者としては、パッケージメディアがどんどん衰退していくのは、寂しい気もするが、ネットメディアの方が安価で購入できるし、これも時代の流れなので、致し方ないと考えているところである。

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本盤に収められたチェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるベートーヴェンの交響曲第5番は、ちょっと信じがたい演奏である。

特に第1、4楽章は、比較できるどころか、足下に及ぶものすらないユニークさだ。

もしこれを聴くのなら、フルトヴェングラーやクレンペラーや、さまざまな指揮者たちの仕事を聴いたあとのほうがよい。

なぜなら、最初にこれを聴いてしまうと、おそらくほかのものが受け付けられなくなるからだ。

それだけの強烈な魅力というか、毒があるというか、耳に残留してしまう演奏なのである。

交響曲第5番は、有名なダダダダーンという4つの音で開始されるが、ベートーヴェンはこの4つの音を第1楽章だけでなく、以後の楽章でも用いた。

たとえるなら、事件が起きるときには必ず裏で糸を引いている秘密結社があるとするなら、この秘密結社に相当するのがこの4つの音なのだ。

チェリビダッケが行ったのは、この秘密結社が曲の中でどうあちこちにばらまかれ、隠され、ひそかに活躍しているかを明らかにするという徹底的な調査であり検証であり、もしかすると(筆者は「きっと」だと思うが)摘発だったのである。

この演奏で聴くと、今まで気づかなかったが、曲のあちこちに4つの音が配置されていることがわかる。

4つの音が有機的に絡み合い、そして残りの楽章全体を支配していることが如実に表されている。

第1楽章は、普通音楽を聴く者が求める感動だとか興奮だとか高揚というものからは遠い。

チェリビダッケは、人を興奮させる演説がどのように書かれているか、どのような仕組みでできているのかを指摘しているのだ。

過激なまでの分析である。

4つの音だけでなく、普通の演奏では背景に埋もれ寝ころんでいたもろもろの音が立ち上がって、聴き手のほうに接近してくるのだ。

その様子は初めて聴くとき、薄気味悪ささえするだろう。

そして、ここまで暴露され、裸にされてしまうと、曲がまるで恥ずかしがっているように聞こえなくもない。

そして、それを聴く者の心中にも何か恥ずかしめいたもの、いたたまれなさが生じてくる。

たとえば、私がある女の子を口説きたくて、精一杯工夫したラブレターを書いたとする。

第三者がそれを読んで、「あ、おまえ、感激させるために、ここはこう書いただろう」と手口をいちいち指摘するようなものだ。

恥ずかしいに決まっている。

チェリビダッケがベートーヴェンを指揮すると、意識的か無意識的か、この第5番のように曲から距離を置き、醒めた演奏になるのが常だった。

だからベートーヴェンの作品に感激したい人、酔いたい人にはまったく向かない。

第4番も、ベートーヴェンの交響曲の構築性を明確に示すチェリビダッケの最晩年の名演で、指揮者の理念が徹底的に染み込んだ{どこまでも深い}演奏だ。

ライヴでこの水準、いやライヴだからこその水準と言い直すべきだろう。

オケがチェリビダッケの意を汲み、献身的に寄り添っているのも特筆すべきだ。

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2015年05月30日


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本盤には、カラヤンの最後の来日公演(1988年)のうち、初日(5月2日)に演奏されたモーツァルトの交響曲第29番及びチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」が収められている。

当時のカラヤンは、ベルリン・フィルとの関係に修復不可能な溝が生じていたこと、そして、死を1年後に控えたこともあって健康状態も芳しいとは言えなかったことなどから、心身ともに万全とは言い難い状況にあったと言える。

1986年に予定された来日公演を、自らの病気のためにキャンセルしたカラヤンであったが、我が国を深く愛するとともに、サントリーホールの建設に当たっても様々な助言を行ったこともあり、心身ともに万全とは言えない中でも、気力を振り絞って来日を果たしたところであり、筆者としては、こうしたカラヤンの音楽家としての献身的な行為に、心から敬意を表するものである。

もっとも、カラヤンのそうした心身ともに万全とは言えない状態、そしてカラヤンとベルリン・フィルとの間の抜き差しならない関係も本演奏に影を落としていると言えるところであり、本演奏は、随所にアンサンブルの乱れやミスが聴かれるなど、カラヤン&ベルリン・フィルによるベストフォームにある演奏とは必ずしも言い難いものがある。

モーツァルトの交響曲第29番は、本演奏の1年前にベルリン・フィルとともに行ったスタジオ録音(1987年DG)、加えてチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」で言えば、先般SACD化されたベルリン・フィルとともに行った録音(1971年EMI)の方がより優れた名演であり、これらの名演と比較して本演奏を貶めることは容易ではあると言えるだろう。

現に、レコード芸術誌において、とある高名な音楽評論家が本演奏について厳しい評価を下していたのは記憶に新しいところだ。

しかしながら、本演奏については、演奏上の瑕疵や精神的な深みの欠如などを指摘すべき性格の演奏ではない。

そのような指摘をすること自体が、自らの命をかけて来日して指揮を行ったカラヤンに対して礼を失するとも考えられる。

カラヤンも、おそらくは本演奏が愛する日本での最後の演奏になることを認識していたと思われるが、こうしたカラヤン渾身の命がけの指揮が我々聴き手の心を激しく揺さぶるのであり、それだけで十分ではないだろうか。

そして、カラヤンの入魂の指揮の下、カラヤンとの抜き差しならない関係であったにもかかわらず、真のプロフェッショナルとして大熱演を繰り広げたベルリン・フィルや、演奏終了後にブラヴォーの歓呼で熱狂した当日の聴衆も、本演奏の立役者である。

まさに、本演奏は、指揮者、オーケストラ、そして聴衆が作り上げた魂の音楽と言っても過言ではあるまい。

このような魂の音楽に対しては、そもそも演奏内容の細部に渡っての批評を行うこと自体がナンセンスであり、我々聴き手も虚心になってこの感動的な音楽を味わうのみである。

いずれにしても、筆者としては、本演奏は、カラヤン&ベルリン・フィル、そして当日会場に居合わせた聴衆のすべてが作り上げた圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

音質は、1988年のライヴ録音であるが、従来CD盤でも十分に満足できる良好なものであると評価したい。

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昔から慣れ親しんできたワルターのモーツァルト集で、ワルター以降も数えきれないほど幾多の音源はあるが、モーツァルト演奏の規範的演奏として多くのリスナーから圧倒的な支持を得てきた歴史的名盤の集成が廉価盤で再登場した。

これほど「幸福とは何か」を教えてくれる演奏はあるまい。

しかし、筆者が述べるのは、その場限りの幸福ではなく、長い人生を通じてのひとつの「幸福」である。

愉しかったり嬉しいことばかりでなく、辛いことや悲しみも含め、なお「この人生は美しかった」と思える幸福のことだ。

ワルターのモーツァルト演奏での評価は、若い頃から高いものがあり、後年のワルターには、演奏前に楽屋の片隅でモーツァルトの霊と交信している姿が垣間見られたという伝説まで生まれたほどである。

その魅力を簡潔に言えば、「温かみ」「微笑み」「共感」といった人間的な魅力と独特の品位を秘めた、しかし確固たる自信にあふれた解釈にある。

ワルターはモーツァルトを得意として、数多くの名演を遺してきたが、ワルターのモーツァルトが素晴らしいのは、モーツァルトの交響曲を規模が小さいからとして、こじんまりとした演奏にはしないということ。

あたかも、ベートーヴェンの交響曲を演奏する時と同じような姿勢で、シンフォニックで重厚、かつスケールの大きな演奏を行っている。

近年の、ピリオド楽器を活用したり、古楽器奏法などを駆使した演奏とは真逆を行くものと言えるが、果たして、近年のそうした傾向が芸術の感動という観点から正しいと言えるかどうかは、筆者としては大いに疑問を感じている。

それらの中には、一部には芸術的と評価してもいい演奏も散見される(ブリュッヘン、インマゼール等)が、ほとんどは時代考証的な域を出ない凡庸な演奏に陥っている。

これは大変嘆かわしいことであり、それならば、仮に時代遅れと言われようが、ワルターのシンフォニックな演奏の方に大いに軍配をあげたくなる。

それらに比してワルターの、なんと穏やかで暖かく、底に秘められた力と情緒の美しさが全体を包み上げるスケールの大きな表現であろうか。

1曲1曲、いかにも職人が作り上げたというような、玄人肌の感触があり、音楽の表情づけがあたたかで柔らかく、今では滅多に聴くことのできないようなロマンティックでゆったりとしたヒューマンなモーツァルトが、かえって新鮮に感じられる。

ワルターのような、いわば古典的な名演を聴いていると、どこか故郷に帰った時のようにほっとした気分になるのは、必ずしも筆者だけではあるまい。

それにしても、本名演の、シンフォニックかつ重厚でありながら、随所に見られるヒューマニティ溢れる情感豊かさを何と表現すればいいのだろうか。

堂々とした風格の中に、独特の柔らかで優美な雰囲気が感じられ、とてもチャーミング。

長い人生における豊富な積み重ねといったものを背景にしながら、モーツァルトへの愛情の深さを真正面から告げていくような演奏内容はとても格調が高く、ワルターならではのモーツァルトである。

ワルターが最晩年まで続けていたというモーツァルトの総譜の徹底的な追究(スコアを写譜することによって)が、ワルター自身の円熟とともに、明晰に、しかもロマン的な表情をもって生かされているし、そのテンポも自在なものを思わせている。

「プラハ」の随所に漂う典雅なニュアンスの込め方も感動的であるし、第40番の、特に第1楽章の魔法のようなテンポの変化や絶妙のゲネラルパウゼは、ワルターだけが可能な至芸と言えるだろう。

その他の楽曲も、揺るぎなく雄大な造型の中に、モーツァルトへの愛情が湛えられた演奏で、ワルターの音楽人生の総決算として聴くのも、感慨深い。

コロンビア交響楽団は中編成だが、ワルターの見事な統率の下、極上の美演を披露していて、申し分ない。

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史上最高のレコーディング・アーティストであったカラヤンによる最後の演奏・録音となった楽曲はブルックナーの交響曲第7番で、ウィーン・フィルとの演奏(1989年)である。

言うまでもなく、さすがにそこまで断定的な言い方をしなくとも、大方の音楽ファンは、カラヤンによるブルックナーの最高の名演と言えば、最後の録音でもある「第7」を掲げるのではないだろうか。

ただ、それは、通説となっているカラヤンの個性が発揮された演奏ではなく、むしろ、カラヤンの自我が影を潜め、只管音楽そのものに奉仕しようという、音楽そのものの素晴らしさ、魅力を自然体で語らせるような趣きの演奏に仕上がっており、もちろん、筆者としても、至高の超名演と高く評価をしているが、全盛期のカラヤンの演奏とはおよそかけ離れたものとも言えるところだ。

もっともカラヤンの個性が明確にあらわれているのは、カラヤン&ベルリン・フィルが蜜月時代にあり、しかも全盛期にあった1970年代の録音になる。

カラヤンによるブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」の録音としては次に掲げる2種が存在している。

最初のものは1971年度レコード・アカデミー賞を受賞した本盤のベルリン・フィルとの演奏(1970年)(EMI)、次いで、その後、カラヤンによる唯一のブルックナーの交響曲全集に発展していくことになるベルリン・フィルとの演奏(1975年)(DG)である。

いずれもカラヤンが心技共に円熟した時期の録音で、全体がきりりと引き締まっている。

カラヤンは、ベルリン・フィルの持てる力と特質とを充分に発揮させ、いわゆる泥臭さのない明朗な音で、都会的とも言える新しい感覚をもってブルックナーを再現している。

カラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、オルガンのような重量感はあっても少しも重苦しくなく、フィナーレにそれがよく示されている。

ベルリン・フィルの技術はさすがに高度なものだし、アンサンブルも緻密で、精緻な美しさを存分味わうことができる。

カラヤンもオーケストラも、脂の乗り切っていることを示す力演なのである。

とはいえこの2種の録音が5年しか離れていないにしては、この両者の演奏の装いは大きく異なっている。

EMIとDGというレコード会社の違い、ダーレムのイエスキリスト教会とベルリン・フィルハーモニーホールという会場の違いもあるが、それだけでこれだけの違いが生じるというのはおよそ信じ難いところだ。

いずれも実に感覚的に磨かれた壮麗なブルックナーであるが、カラヤン的な個性、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛期ならではの演奏の豪快さ、華麗さといった点においては、1975年のDG盤の方にその特色があらわれていると言えるだろう。

1975年盤は、旋律は冒頭から極めて明快に力強く歌っているが、アーティキュレーションにカラヤンの個性が濃厚に示されているのが興味深い。

これに対して、本盤(1970年)の演奏は、むしろ、この時期のカラヤンとしては極力自己主張を抑制し、イエスキリスト教会の残響を巧みに生かした荘重な演奏を心がけているとさえ言えるところであり、カラヤンのブルックナーのなかでは好ましい演奏と言えよう。

その意味では、至高の超名演である「第7」(1989年)に繋がる要素も存在していると言ってもいいのかもしれない。

流麗なレガート、ここぞという時のブラスセクションの迫力などは、いかにも全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルならではのものであるが、それがいささかも外面的なものとならず、常に内容豊かで、音楽の有する根源的な迫力をあますことなく表現し尽くしているのが素晴らしいと言える。

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2015年05月29日


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ラトルの、意外にも初のR.シュトラウス録音であった。

その曲目として、カラヤン&ベルリン・フィルのDGデビュー盤だった「英雄の生涯」を選んだところがラトルらしい。

アバドの後を追ってベルリン・フィルの第6代芸術監督に2002年に就任したラトルであるが、就任から5年間ほどは、名うての猛者たちを統率することがままならず、新機軸を打ち出そうという気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返した。

これは、アバドと同様であり、ベルリン・フィルの芸術監督就任前の方が、よほど素晴らしい演奏を成し遂げていたとも言えるところだ。

しかしながら、マーラーの交響曲第9番あたりから、漸くラトルならではの個性が発揮された素晴らしい名演を成し遂げるようになった。

芸術監督に就任してから5年を経て、漸くベルリン・フィルを統率することができるようになったことであろう。

ラトルは今日でこそベルリン・フィルを完全に掌握し、現代を代表する大指揮者の1人として数々の名演を成し遂げつつあるが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任してから数年間は鳴かず飛ばずの状態が続いていたと言える。

先般、SACD化された芸術監督お披露目公演のマーラーの交響曲第5番も、意欲だけが空回りした凡庸な演奏であったし、その後もシューベルトの交響曲第8(9)番「ザ・グレート」、ベルリオーズの幻想交響曲、ブルックナーの交響曲第4番など、箸にも棒にもかからない凡演の山を築いていたと言える。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、名うての一流奏者たちを掌握するのに相当に苦労したのではないだろうか。

そして、プライドの高い団員の掌握に多大なる労力を要したため、自らの芸術の方向性を見失っていたのではないかとさえ考えられるところだ。

それ故に、必然的に意欲だけが空回りした演奏に終始してしまっていると言える。

本演奏も美しくはあるが根源的な力強さがない。

同曲を精緻に美しく描き出すことにつとめたのかもしれないが、本演奏を聴く限りにおいては、ラトルが同曲をこのように解釈したいという確固たる信念を見出すことが極めて困難である。

そうなった理由はいくつかあるが、やはりラトルの気負いによるところが大きいのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督という、フルトヴェングラーやカラヤンといった歴史的な大指揮者が累代に渡ってつとめてきた最高峰の地位についたラトルにしてみれば、肩に力が入るのは当然であるとは言えるが、それにしてはラトルの意欲だけが空回りしているような気がしてならないのだ。

ベルリン・フィルの猛者たちも、新芸術監督である若きラトルの指揮に必死でついていこうとしているようにも思われるが、ラトルとの息が今一つ合っていないように思われる。

そうした指揮者とオーケストラとの微妙なズレが、本演奏にいささか根源的な力強さを欠いていたり、はたまた内容の濃さを欠いていたりすることに繋がっているのだと考えられるところだ。

もちろん、ベルリン・フィルの芸術監督に就任したばかりの若きラトルに過大なものを要求すること自体が酷であるとも言える。

それでも本盤に収められたR.シュトラウス作品は、ラトルが複雑なスコアを読み解き、壮大さと明晰さを両立させながらベルリン・フィルを巧みに統率して、自らの個性を十二分に発揮し得た素晴らしい快演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

音質は、これまでHQCD化が図られることなどによって十分に満足できる良好な音質であると評価したい。

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classicalmusic at 22:42コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスラトル 

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ヴァントが北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者の就任前に長らく音楽監督を務めたケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団との録音集。

ヴァントは、1990年代に入ってブルックナーの交響曲の崇高な超名演を成し遂げることによって真の巨匠に上り詰めるに至ったが、ブルックナーの交響曲を数多く演奏・録音してきたヴァントが、最も数多くの録音を遺した交響曲は、何と言っても「第8」であった。

ヴァントは、本演奏の後も、ケルン放送交響楽団との演奏(1979年)、NHK交響楽団との演奏(1983年)、北ドイツ放送交響楽団との3度にわたる演奏(1987年ライヴ録音、1990年東京ライヴ録音、1993年ライヴ録音)、ミュンヘン・フィルとの演奏(2000年ライヴ録音)、ベルリン・フィルとの演奏(2001年ライヴ録音)の7度にわたって録音を行っており、本盤の登場を持って同曲を8度にわたって録音したことになるところだ。

いずれ劣らぬ名演と考えるが、この中で最も優れた名演は、ミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

本演奏の性格はケルン放送交響楽団とのスタジオ録音に近いものと言える。

ヴァントがいまだ世界的なブルックナー指揮者としての名声を獲得していない壮年期の演奏であるだけに、1990年代における神々しいばかりの崇高な名演が誇っていたスケールの大きさや懐の深さはいまだ存在していないと言えるところであり、本盤の演奏を前述の1990年以降の超名演の数々と比較して云々することは容易ではある。

しかしながら、本演奏においても、既にヴァントのブルックナー演奏の特徴でもあるスコアリーディングの緻密さや演奏全体の造型の堅牢さ、そして剛毅さを有しているところであり、後年の数々の名演に至る確かな道程にあることを感じることが可能だ。

また、本盤の演奏においては、こうした全体の堅牢な造型や剛毅さはさることながら、金管楽器を最強奏させるなど各フレーズを徹底的に凝縮化させており、スケールの小ささや金管楽器による先鋭的な音色、細部に至るまでの異常な拘りからくるある種の神経質さがいささか気になると言えるところではあるが、それでも違和感を感じさせるほどでもないというのは、ヴァントがブルックナーの本質を既に鷲掴みにしていたからにほかならないと考えられる。

そして、本演奏には、壮年期のヴァントならではの畳み掛けていくような気迫と生命力が漲っており、その意味では、ケルン放送交響楽団とのスタジオ録音と同様に優れた演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、世界的なブルックナー指揮者として世に馳せることになる後年の大巨匠ヴァントを予見させるのに十分な素晴らしい名演と評価したい。

ヴァントの剛毅で緻密な指揮にしっかりと喰らい付いていき、持ち得る実力を最大限に発揮した名演奏を披露したケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団にも大きな拍手を送りたい。

ブラームスの両交響曲も名演だ。

ヴァントによる演奏は、やや速めのテンポで一貫しており、演奏全体の造型は極めて堅固で、華麗さとは無縁であり、演奏の様相は剛毅かつ重厚なものだ。

決して微笑まない音楽であり、無骨とも言えるような印象を受けるが、演奏全体に漂っている古武士のような風格は、まさにヴァントだけが描出できた崇高な至芸と言える。

特に、「第4」は、淡々とした速めの進行の中に、実に豊かなニュアンスが込められており、まさに名人の一筆書きのような枯淡の境地が一点の曇りもなく表現されていて素晴らしい。

同じタイプの名演としては、シューリヒト(特に、晩年のバイエルン放送交響楽団との演奏)やムラヴィンスキー、クライバーの名演が思い浮かぶが、クライバーは深みにおいて一格下。

ということは、ヴァントによる名演も、同曲における屈指の名演の1つと評価しても過言ではないだろう。

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ここ数年間は大病を経験するなど体調が思わしくなくて、ファンを焼きもきさせている小澤であるが、本盤に収められたバルトークの最も有名な楽曲である管弦楽のための協奏曲とバレエ「中国の不思議な役人」 の演奏は、小澤が最も精力的に活動していたボストン時代のものだ。

それだけに、演奏全体にエネルギッシュな力感が漲っており、いずれも素晴らしい名演に仕上がっている。

バルトークの楽曲は、管弦楽曲にしても、協奏曲にしても、そして室内楽曲などにしても、奥行きの深い内容を含有しており、必ずしも一筋縄ではいかないような難しさがある。

したがって、そうした楽曲の心眼を鋭く抉り出していくような演奏も、楽曲の本質を描出する意味において効果的であるとは言える。

またその一方で、各楽曲は、ハンガリーの民謡を高度に昇華させた旋律の数々を効果的に用いるなど巧妙に作曲がなされており、それをわかりやすく紐解いていくような演奏もまた、バルトークの楽曲の演奏として十分に魅力的であるのも事実である。

小澤のアプローチは、明らかに後者の方であり、両曲の各楽想を精緻に、そして明朗に描き出して行くという姿勢で一貫していると言えるだろう。

全盛時代の小澤ならではの躍動するようなリズム感も見事に功を奏しており、両曲をこれ以上は求め得ないほどに精密に、そしてダイナミックに描き出すことに成功したと言えるところだ。

それでいて、抒情的な箇所は徹底して歌い抜くとともに、目まぐるしく変転する曲想の表情づけも実に巧みに行われており、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの薄味な演奏に陥っていないのが素晴らしい。

そして、壮年期の小澤ならではの、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と、前述のようなエネルギッシュな力感に溢れた強靭な生命力においてもいささかの不足はない。

前述のように、かつてのライナー(管弦楽のための協奏曲)やドラティ(バレエ「中国の不思議な役人」)の演奏のような楽曲の心眼に切り込んだいくような鋭さは薬にしたくもない。

しかし作品のもつ冷徹な音のドラマを生々しく表現し、これら両曲のオーケストラ音楽としての魅力を存分に満喫させてくれるという意味においては、そして、これら両曲を安定した気持ちで味わうことができるという意味においては、素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

特にオーケストラの各パートを独奏楽器に起用した、華やかな演奏効果で知られる管弦楽のための協奏曲は、ボストン交響楽団が初演したゆかりの作品であるだけに、この演奏では、ひとつひとつの音に血が通っているかのように音楽が息づき、実に彫りの深い表現を生み出している。

動的な曲想をもつがゆえに、ワイルドなサウンドがもてはやされがちなバルトークであるが、小澤の音に接すれば、それがいかに偏った解釈かよくわかる。

小澤34歳時のEMIレーベルへのデビュー録音も管弦楽のための協奏曲であり、それは「若武者」として勢い充分にオーケストラをドライヴする小澤の指揮姿を彷彿とさせる演奏であったが、この再録音ではさらにスコアが透けて見えるような緻密さも併せ持っている。

そして、曲に込められた哀しみや自虐の歌が克明に浮かび上がるのは、小澤&ボストン交響楽団の20年の成果を示す見事な演奏と言えるだろう。

小澤の精緻にしてエネルギッシュな指揮の下、渾身の名演奏を繰り広げたボストン交響楽団にも大きな拍手を送りたい。

小澤は2004年にもサイトウ・キネンと管弦楽のための協奏曲(カップリングは弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽)をライヴ録音しており、そちらも名演ではあるが、完成度においてボストン盤に軍配をあげたい。

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classicalmusic at 00:41コメント(0)トラックバック(0)バルトーク小澤 征爾 

2015年05月28日


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一時は絶滅の危機に瀕したSACDが息を吹き返しつつある。

SACDから撤退していたユニバーサルが2010年よりSACDの発売を再開するとともに、2011年になってついにEMIがSACDの発売を開始したからだ。

2009末にESOTERICから発売されたショルティ&ウィーン・フィルによるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のSACD盤が飛ぶように売れたことからもわかるように、ガラスCDのような常識を外れた価格でさえなければ、少々高額であっても、かつての良質のアナログLPにも比肩し得る高音質のSACDは売れるのである。

最近は、オクタヴィアがややSACDに及び腰になりつつあるのは問題であるが、いずれにしても、大手メーカーによる昨年来のSACD発売の動きに対しては大きな拍手を送りたいと考えている。

そして、今般、ターラレーベルがフルトヴェングラーの過去の遺産のSACD化を開始したということは、SACDの更なる普及を促進するものとして大いに歓迎したい。

ターラレーベルからは、既にフルトヴェングラー&フィルハーモニア管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第9番(1954年)がSACD化されている(既にレビュー投稿済み)ので、本盤に収められたいわゆる「ウラニアのエロイカ」は、ターラレーベルによるSACD第2弾ということになる。

フルトヴェングラーによる「エロイカ」については、かなり多くの録音が遺されており、音質面を考慮に入れなければいずれ劣らぬ名演であると言えるが、最高峰の名演は本盤に収められた「ウラニアのエロイカ」(1944年)と1952年のスタジオ録音であるというのは論を待たないところだ。

1952年盤が荘重なインテンポによる彫りの深い名演であるのに対して、本盤の演奏は、いかにも実演のフルトヴェングラーならではのドラマティックな名演であると言える。

第1楽章からして、緩急自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使するなど、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を展開している。

第2楽章の情感のこもった歌い方には底知れぬ深みを感じさせるし、終楽章の終結部に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力は、我々聴き手の肺腑を打つだけの圧倒的な迫力を誇っている。

このように、本演奏と1952年盤は同じ指揮者による演奏とは思えないような対照的な名演であると言えるが、音楽の内容の精神的な深みを徹底して追求していこうというアプローチにおいては共通している。

ただ、音質が今一つ良くないのがフルトヴェングラーの「エロイカ」の最大の問題であったのだが、1952年盤については2011年1月、EMIがSACD化を行ったことによって信じ難いような良好な音質に蘇ったところであり、長年の渇きが癒されることになった。

他方、本演奏については、これまではオーパスによる復刻盤がベストの音質であったが、1952年盤がSACD化された今となっては、とても満足できる音質とは言い難いものがあった。

ところが、今般のターラレーベルによるSACD化によって、さすがに1952年盤ほどではないものの、オーパスなどのこれまでの復刻CDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。

いずれにしても、「ウラニアのエロイカ」をこのような高音質SACDで聴くことができる喜びを大いに噛み締めたい。

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classicalmusic at 22:42コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンフルトヴェングラー 

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ソニー・クラシカルのバジェット・シリーズのひとつで、ルドルフ・ゼルキンが最も得意としたベートーヴェン作品集。

ロシア系ユダヤ人であったゼルキンはナチスの迫害を避け、アメリカに渡って活躍した。

これらの録音もその成果で、ゼルキンの若々しいスタイルが強く伝わる時代の録音でもあり、まさに往年の、王道のベートーヴェンと表現したい貫禄に満ちた演奏を聴くことが出来る。

ゼルキンの風貌や人柄にはどこか朴訥とした印象があって、ややもすれば饒舌で個性の主張が強いピアニスト達の中で、テクニックを誇示するような曲にはそれほど関心を示さなかったために、華麗なヴィルトゥオジティなどという形容には縁がなかったにしても、音楽そのものをじっくり鑑賞したい方なら、常に明確なアーティキュレーションに支えられた滋味に富んだ深い表現、本質的で飾らない真摯な演奏など、彼くらいベートーヴェンの音楽を掘り下げて解釈を探求した音楽家はそれほど多くないことに気付くに違いない。

こういう演奏は得てしてつまらない演奏になりがちだが、要所の締め、あちらこちらに見えるちょっとした閃きのような輝きが耳を奪う。

当然こうした彼の性格は録音に対してもかなり慎重で注意深かったため、ソナタに関しては全曲集を完成させることはなかったが、この11枚のセットには1962年から80年の長きに亘って録音された17曲のソナタと、協演者の異なる全5曲のピアノ協奏曲、2種類の『コラール・ファンタジーハ短調』、『ディアベッリ変奏曲』、11曲の『バガテル』、『幻想曲ロ長調』そしてハイメ・ラレードのヴァイオリンとレスリー・パルナスのチェロが加わる『トリプル・コンチェルトハ長調』が収録されている。

全盛期のゼルキンの至芸をこうした形でまとめて鑑賞できるのは幸いなことであり、こんな名演揃いのCDがこれほどの値段で手に入るとはいい世の中になったものである。

コンチェルトは晩年のクーベリック(Rafael Kubelik 1914-1996)との共演盤が有名だが、これらの録音でも真摯で力強いゼルキンのピアニズムは端的に示されている。

ソナタも素晴らしく「風格ある演奏」で、『熱情』や『悲愴』といった高名なソナタが、ど真ん中の力強い解釈により、「これこそ原型である」という説得力に満ち、聴き手はその本来の姿にあらためて酔い、感動する。

ただ、ソナタではアコーギクにおいてときおり恣意性が感じられるところがあり(決して音楽の全体的美観を損ねるほどではないが)、個人的には、ソナタよりもコンチェルトの方で、この人の美点がより発揮されているように思えた。

オケとの共同作業の中で音楽を構築するという方が、フレージングやアーティキュレーションが冴え、魅力的に響いている。

実に真っ当なベートーヴェン解釈であり、ここぞという時の渾身の迫力が凄いだけでなく、簡素な楽想でさりげなく添えられる深い芸術的情緒は、なんとも味が深く、コクがある。

客観的に全体像を見通したような組み立て方は安心して聴ける最大の要因だろう。

端正で、決して羽目を外すことのない模範的な演奏で、要するにピアノで歌うとは、人を感動させるとはこういう演奏のことなのだ。

まったくこのピアニストには1音1音追いかけて聴きたくなるような深いニュアンスと滋味溢れる響きの世界がある。

ピアノのせいもあるかも知れないが武骨そうなのに、意外に色彩感が豊富なのも優れた特徴で、音の強弱の段階づけの細やかで多彩なことは歴代のピアニストの中でもトップクラスだ。

これに比肩できるのはポリー二とグルダぐらいだろう。

音楽性ももちろんだが、ポリー二がゼルキンを尊敬するピアニストに挙げるわけである。

1曲1曲挙げればキリがないが、そのいずれの演奏も誰も成し得なかった未踏の境地によるもので、これこそ真の芸術遺産と呼ぶべきものである。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンゼルキン 

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かの有名歌手であるシュヴァルツコップが「無人島に持っていく1枚」と称賛したとの曰くつきのCDであるが、確かに素晴らしい名演だ。

機能的でパワフルと思われがちなシカゴ交響楽団と、怖い名匠と思われがちなフリッツ・ライナーのウィンナ・ワルツ集だが、これが意外や意外にふくよかなウィーンの響きを気持ち良く聴かせてくれる、とても楽しく心休まるウィンナ・ワルツ集になっている。

SACD化によって、後述のように、この演奏の凄さが際立った感もあり、録音も含めて高く評価したい名演と言える。

まず、何よりも凄いのは、アンサンブルの超絶的な正確さだ。

シカゴ交響楽団と言えば、今でこそショルティ時代の鉄壁のアンサンブルとパワフルで輝かしい音色が、どうしても脳裏をよぎってしまうが、本盤を聴くと、そのルーツは、ライナー時代に遡ることがよくわかる。

金管楽器も木管楽器も実に巧いし、しかもそのどれかが目立つということはなく、見事に揃っている。

パワーも凄まじいものがある。

そして、弦楽器も鉄壁のアンサンブルを見せ、全体として、あたかも眼前に巨大な建造物が構築されているかのような印象を受ける。

では、このような硬質とも言える演奏は、ウィンナ・ワルツと水と油ではないかと言う考え方もあるが、よく聴くと、必ずしもそうではないのだ。

それは、ライナーの指揮が、歌うべきところは実に優雅に歌うなど、実にコクのある演奏を繰り広げているからだ。

ヨハン・シュトラウスなど、ウィンナ・ワルツは、結局、ウィーン・フィルに限ると思っていたが、そんなことは全くない。

ウィンナ・ワルツの演奏と言えば、ウィーン・フィルに代表されるように、アンサンブルの僅かなズレを逆手に取って、あたかも踊り子のフリルのような柔らかさを醸す演奏が一般的だ。

ライナーの演奏は、そうした女性的なものとは実に対照的で、ものがウィンナ・ワルツだろうが何だろうが、一糸乱れぬ合奏と几帳面な3拍子で、引き締まったサウンドを聴かせてくれる。

この地味なオケの音色は、そして縦の揃ったこのアンサンブルは、本当に素晴らしいし、ライナーはしっかりウィーンらしい“崩し”も振り分けていて,見事である。

もし、足りないものと言えば、ちょっとしたユーモアや遊び心、ちょっと芝居がかったウィーンらしいノリのようなものだろう。

音楽に対する厳格な姿勢ばかりが強調されてきたライナーも、こんなに楽しいウィンナ・ワルツやポルカの演奏を残していたのだ。

とにかく、ライナーらしさは影を潜め、肩の力を抜いて、なだらかに、丁寧に、情感豊かに、全体をメゾフォルテとメゾピアノで演奏しているのだ。

したがって、繰り返し聴いて嫌にならない。まさに、夢のような1枚と言えよう。

もっとも、これは、従来CDでは聴き取れなかった音質とも言える。

その意味では、今般のSACD化によって、初めてこの名演の真価が明らかにされたと言えるだろう。

クレジットこそなく推測の域を出ないが、舞踏への勧誘のチェロはシュタルケルであろうか。

この曲でのチェロは特に絶品の美しさだ。

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classicalmusic at 00:29コメント(0)トラックバック(0)シュトラウスライナー 

2015年05月27日


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1876年から1877年にかけて作曲されたこの交響曲第4番。

この時期のチャイコフスキーは、メック夫人という素晴らしいパトロンを手に入れ、ようやく経済的な余裕が生まれ作曲に専念できるようになり、彼にとっては穏やかな日々がやってきたのである。

しかしながら、身にまとわりついた「同性愛疑惑」を晴らすだめに1877年に彼の元弟子であった娘と結婚するのであるが、これが失敗、精神的打撃を負った彼は自殺未遂を起こしてしまう。

そんな相反する生活の中でこのような素晴らしい作品が生まれたのはほとんど奇跡とでも言えるのではないだろうか。

そんなドラマティックな作品をキタエンコはいつものように冷静沈着に分析、決して感情に溺れることなく見事に音にしている。

本演奏を聴いて思うのは、ロシア系の指揮者にとってのチャイコフスキーの交響曲は、独墺系指揮者にとってのベートーヴェンの交響曲のような、仰ぎ見るような高峰に聳える存在なのではないかということだ。

というのも、キタエンコと同様に、チャイコフスキーの交響曲全集の録音を完成したプレトニョフもそうであるが、他の作曲者による楽曲、例えば、プレトニョフであればベートーヴェンの交響曲全集やピアノ協奏曲全集による演奏におけるようないささか奇を衒った個性的な解釈を施すということはなく、少なくとも演奏全体の様相としては、オーソドックスなアプローチに徹していると言えるからである。

キタエンコと言えば、カラヤンコンクールでの入賞後、旧ソヴィエト連邦時代のモスクワ・フィルとの数々の演奏によって世に知られる存在となったが、モスクワ・フィルとの演奏は、いわゆるロシア色濃厚なアクの強い演奏が太宗を占めていたと言える。

これは、この当時、旧ソヴィエト連邦において活躍していたムラヴィンスキー以外の指揮者による演奏にも共通していた特徴とも言えるが、これには、オーケストラ、とりわけそのブラスセクションのヴィブラートを駆使した独特のロシア式の奏法が大きく起因していると思われる。

加えて、指揮者にも、そうした演奏に歯止めを効かせることなく、重厚にしてパワフルな、まさにロシアの広大な悠久の大地を思わせるような演奏を心がけるとの風潮があった。

ところが、そうした指揮者の多くが、スヴェトラーノフのような一部例外はあるが、旧ソヴィエト連邦の崩壊後、ヨーロッパの他国のオーケストラを自由に指揮するようになってからというもの、それまでとは打って変わって洗練された演奏を行うようになった。

キタエンコについても、それが言えるところであり、本演奏においても、演奏全体の外観としては、オーソドックスなアプローチ、洗練された様相が支配していると言えるだろう。

もっとも、ロシア風の民族色を欠いているかというとそのようなことはなく、ここぞという時の迫力は、ロシアの広大な悠久の大地を思わせるような力強さに満ち溢れている。

そして、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のドイツ風の重厚な音色が、演奏全体にある種の落ち着きと深さを付加させているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本盤の演奏は、キタエンコによる母国の大作曲家であるチャイコフスキーへの崇敬、そしてキタエンコ自身の円熟を十分に感じさせる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

そして、本盤の素晴らしさは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

SACDの潜在能力を十二分に発揮するマルチチャンネルは、臨場感において比類のないものであり、音質の鮮明さなども相俟って、珠玉の仕上がりである。

いずれにしても、キタエンコ&ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団による素晴らしい名演を、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 22:37コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキー 

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歌劇「オテロ」は、ヴァルディの数あるオペラの中でも最もショルティの芸風に合ったものと言えるのではないだろうか。

というのも、ショルティの芸風は切れ味鋭いリズム感とメリハリの明朗さであり、緊迫感にはらんだ劇的な要素を持った歌劇「オテロ」の性格との相性抜群のものがあるのではないかと考えられるからだ。

また、本盤の演奏は1977年のスタジオ録音。

ショルティも晩年の1970年代後半に入ってからは、自らの指揮活動の集大成とも評すべき円熟味溢れる懐の深い演奏を行うようになってきたところであり、本演奏においても、前述のような持ち味の鋭角的かつ明晰な芸風に加えて、かような円熟味溢れる彫りの深い表現を聴くことができるのが素晴らしい。

ショルティと同様に米国を拠点に活躍をした先輩格のハンガリー人指揮者、ライナーやセル、オーマンディなどとは異なり、オペラをレパートリーの中核としていたショルティではあるが、本演奏は、まさにオペラの演奏に自らの半生を捧げ、多大なる情熱を持って取り組んできたショルティの傑作のひとつとも言うべき至高の名演に仕上がっているとも言えるところだ。

それにしても、同オペラの演奏において、これほどまでにドラマティックで、重厚かつ強靭な迫力を有した演奏は、かのカラヤン&ウィーン・フィルほかによる超名演(1961年)に比肩し得るほどであると評し得るところであり、このような演奏を聴いていると、ショルティこそは、20世紀後半における最高のオペラ指揮者であったカラヤンに対抗し得る唯一の存在であったことがよく理解できるところだ。

そして、強靭な迫力と言っても、1960年代後半頃までに時として散見されたショルティの欠点でもあった、力づくの強引さは薬にしたくもなく、どこをとってもその音楽に奥行きのある懐の深さが感じられるのが素晴らしい。

ショルティの指揮するイタリア・オペラには、確固たる造形性に支えられた強い説得力があり、鋭敏な指揮に見事に反応して血肉を与えていくウィーン・フィルも名演だ。

各登場人物の細やかな心理の移ろいの描き方も万全であり、これぞまさしくオペラを知り尽くしたショルティならではの老獪ささえ感じさせる卓越した至芸と言えるだろう。

ショルティはテンポの設定ひとつとっても、声を聴かせる部分では遅めにたっぷりと聴かせ、ドラマティックな場面ではお得意のダイナミズムで一気にたたみこみ引き締める。

本オペラの演奏に際して、ウィーン・フィルを起用したというのも功を奏しており、前述のような重厚にして強靭な迫力は、カラヤンによる超名演にも匹敵するという意味で面目躍如たるものがある。

歌手陣も、ショルティが指揮するオペラならではの豪華な布陣であり、デズデモナ役のM・プライスの情感豊かな力と輝きに満ちた名唱が最も印象的で、オテロ役に定評があったというコッスッタも彼のベストの歌唱を示しており、感情移入の強さが大きな魅力だ。

両者とも歌手としても脂ののった時期の演唱で、安定した歌唱を聴かせてくれるのが魅力だ。

他の諸役も水準の高い歌唱で、ショルティが卓越した統率力で全体を見事にまとめ上げている。

また、ウィーン国立歌劇場合唱団やウィーン少年合唱団も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

ショルティは後年に手兵シカゴ交響楽団と再録音しており、そちらも名演であるが、オテロ役のパヴァロッティの声質が役柄に必ずしも適していないとも言えるところであり、筆者としては、旧盤の方を採りたい。

そして、今は無きゾフィエンザールの豊かな残響を活かした英デッカによる名録音も、今から40年以上の前とは思えないような極上の高音質を誇っていると言えるところであり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 20:40コメント(0)トラックバック(0)ヴェルディショルティ 

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ハルヴォルセンの管弦楽作品集が遂に完結を迎えるなど、盛り上がりを見せるエストニアの巨匠ネーメ・ヤルヴィとベルゲン・フィルの「ノルディック・プロジェクト」。

盟友グリーグと共にノルウェー・ロマンティシズムを確立し、2つの交響曲で北欧、ノルウェーのシンフォニストとして大きな成功を収めたスヴェンセン。

「ノルウェー」というキーワードで結ばれたトルルス・モルクが弾くチェロ協奏曲、ドイツ・ロマン派、ブラームス的なスタイルを感じさせながら、ノルウェーの民族的なリズムや旋律、抒情性が作品全体から湧き出る交響曲第2番。

ネーメ・ヤルヴィ&ベルゲン・フィルによるスヴェンセンの管弦楽作品集の第2弾の登場だ。

第1弾のレビューにも記したところであるが、ネーメ・ヤルヴィは録音当時75歳の高齢であり、近年では息子のパーヴォ・ヤルヴィの華々しい活躍の陰に隠れがちと言えなくもないが、それでも、果敢に新しいレパートリーの開拓に勤しむ飽くなき姿勢には、我々聴き手としてもただただ頭を下げざるを得ないところだ。

ネーメ・ヤルヴィに対しては、一部の評論家からは何でも屋のレッテルが貼られ、必ずしも芳しい評価がなされているとは言えないようであるが、祖国の作曲家であるトゥヴィンをはじめとして、ステンハンマルやアルヴェーン、そしてゲーゼやホルンボーなど、北欧の知られざる作曲家の傑作の数々を広く世に認知させてきた功績は高く評価しなければならないのではないかと思われるところである。

確かに、誰も録音を行っていない楽曲は別として、1つ1つの演奏に限ってみれば、より優れた演奏が他に存在している場合が多いとも言えるが、それでも水準以上の演奏には仕上がっていると言えるところであり、巷間言われているような粗製濫造にはいささかも陥っていないと言えるのではないだろうか。

本盤に収められたヨハン・スヴェンセンの管弦楽作品集の第2弾については、そもそもいずれの楽曲も輸入盤でしか手に入らないものだけに、まさにネーメ・ヤルヴィの独壇場。

筆者の所有CDで見ても、交響曲第2番については、ヤンソンス&オスロ・フィルによる名演(1987年)、その他の楽曲についてはアンデルセン&ベルゲン交響楽団による演奏(1988年)しか持ち合わせていない。

それ故、比較に値する演奏が稀少という意味において本演奏について公平な評価を下すことはなかなかに困難であるが、本演奏に虚心坦懐に耳を傾ける限りにおいては、いかにもネーメ・ヤルヴィならではの聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さが光った名演奏と言うことができるところだ。

スヴェンセンは、グリーグとほぼ同時代に活躍した作曲家であるが、国外での活動が多かったこともあって、グリーグの作品ほどに民族色の濃さは感じられないと言える。

それでも、ネーメ・ヤルヴィは、各楽曲の曲想を明朗に描き出すとともに、巧みな表情づけを行うことによって、実に味わい深い演奏を行っていると言えるところであり、演奏全体に漂っている豊かな情感は、まさに北欧ノルウェーの音楽以外の何物でもないと言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、第1弾と同様にスヴェンセンの知られざる名作の数々に光を当てることに大きく貢献した素晴らしい名演と高く評価したい。

今後は、スヴェンセンが作曲した2曲の交響曲のうちの第1番やヴァイオリン協奏曲なども録音がなされるのではないかとも考えられるが、続く第3弾にも大いに期待したいと考える。

音質は、従来CD盤ではあるが、十分に満足できる良好なものと評価したい。

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classicalmusic at 00:42コメント(0)トラックバック(0)ヤルヴィ 

2015年05月26日


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近年、我が国出身の若手女流ヴァイオリニストが世界各国の有名コンクールで優勝する等の華々しい活躍をしている。

例えば、チャイコフスキー国際コンクールで優勝した諏訪内晶子(その後、神尾真由子が続く)をはじめ、パガニーニ国際ヴァイオリンコンクールにおいて史上最年少で優勝した庄司沙耶香など、雨後の竹の子のように数多くの若き才能あるヴァイオリニストが登場してきている。

もっとも、彼女たちに共通しているのは、デビュー後数年間は華々しい活躍をするが、その後は影の薄い存在に甘んじてしまっているということだ。

諏訪内晶子にしても、近年では相次ぐスキャンダルによって新譜すら殆ど発売されていない状況に陥っているし、庄司沙耶香にしても最近での活躍はあまり聞かれないところだ。

神尾真由子なども今後どのように成長していくのかはわからないが、クラシック音楽の受容の歴史が浅い我が国の若手女流ヴァイオリニストが普遍的に世界で活躍するような土壌は、未だに肥沃なものとなっていないと言えるのではないだろうか。

五嶋みどりは、特にコンクールなどでは取り立てた受賞歴はないが、14歳の時のバーンスタインとの伝説的なコンサートで一躍世界に知られる存在となったところだ。

その後は、1990年代から2000年代の前半にかけて、世界の一流指揮者、オーケストラとともに各種の協奏曲等の録音を行うなど、華々しい活躍を行っていたが、最近では、他の若手女流ヴァイオリニストと同様に活動ややや低調になり、最近ではパウル・ヒンデミット作品集の新譜が出て、新境地を拓いたかのようにみえたが、クラシック音楽ファンの反応は今一つ。

新譜の数自体が激減している昨今のクラシック音楽界の現状に鑑みれば、致し方がない面もあろうかとも思うが、五嶋みどりにしても、かつての輝きを今後も維持できるのかどうか、大きな岐路に立っていると言っても過言ではあるまい。

かつての伝説的なコンサートはもはや遠くに過ぎ去った過去の話であり、五嶋みどりが今後も円熟の大ヴァイオリニストとして末永く活躍していただくことをこの場を借りて祈念しておきたいと考える。

それはさておき、本盤に収められたシベリウスのヴァイオリン協奏曲とブルッフのスコットランド幻想曲は、五嶋みどりが輝いていた時代の素晴らしい名演だ。

五嶋みどりのヴァイオリンは、もちろん技量においても何ら問題はないが、巧さを感じさせないところが素晴らしいと言える。

要は、楽曲の美しさだけが聴き手に伝わってくるような演奏を心掛けていると言えるところであり、加えて、畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が演奏全体に漲っているのが素晴らしい。

あたかも実演であるかのような、五嶋みどりの体当たりとも言うべき渾身の、そして楽曲の美しさを際立たせた演奏は、我々聴き手の感動を誘うのに十分であり、このような力強い名演奏を聴いていると、あらためて五嶋みどりの卓越した才能を感じることが可能だ。

一部の女流ヴァイオリニストにありがちな線の細さなどは微塵もなく、どこをとっても骨太のしっかりとした構えの大きい音楽が鳴り切っているのが見事である。

このような堂々たる五嶋みどりのヴァイオリンを下支えしているのが、メータ&イスラエル・フィルによる名演奏である。

メータは、今や現代を代表する大指揮者の1人であるが、本演奏でも五嶋みどりのヴァイオリンをしっかりとサポートするとともに、イスラエル・フィルを巧みに統率して、重厚な装いの中にも両曲に込められた美しい旋律の数々を感動的に歌い抜いているのが素晴らしい。

音質は1993年のスタジオ録音であり、今般、DSDマスタリングを施した上でのルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。

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classicalmusic at 22:47コメント(0)トラックバック(0)シベリウスメータ 

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このBOXは、今から30年以上前に録音されたブレンデル旧盤のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集+ピアノ協奏曲全集である。

ピアノ・ソナタ全集は、ブレンデルのきわめて知的なベートーヴェン解釈が、はっきり表面に打ち出されている。

ブレンデルは、納得のゆくまで作品を研究した上で、その曲を自分のレパートリーにする人だが、シューベルトとともに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの分析にもすぐれている。

これは、そうした彼の徹底した研究が実を結んだもので、スタイルとしては、シューベルト的なソフトな性格をもっており、きわめて抒情的でロマンティックである。

ことに弱音の部分に魅力があり、響きの美しさとニュアンスのこまやかさはこの人ならではのものだ。

彼は余分なものを一切付け加えず、あくまで作品そのものに語らせようとしているが、そのための知と情のコントロールも見事だ。

その結果聴かれるのは、端正でバランスに優れ、しかも深い楽譜の読みと端正なテクニックの行使に支えられた説得力あふれる演奏である。

新しい全集に入っている演奏と比べても、ブレンデルの本質は少しも変わっていない。

眼前の楽譜を論理的・分析的に読みとり、それに基づいてベートーヴェンを論理的に構築しようという確信が、彼を支えている。

どの曲の演奏も音楽の呼吸が自然で表情に温もりがあり、しかも明晰である。

演奏全体は穏健であり、誰でも抵抗なく受け入れられる伝統的なベートーヴェン解釈である。

ブレンデルの狙いは、徹底した作品分析をもとに、明快で論理的な演奏を構築し、しかも乾いた演奏との印象を与えないように、ひびきの細やかなニュアンスに留意し、旋律的にも和声的にも、潤いのある抒情的な表現を志向している。

剛ではなく、柔のベートーヴェンが、ブレンデルの描こうとした世界である。

どのソナタの演奏も秀逸で、ピアノ演奏法の研究者として名高いブレンデルの実力が、十全に発揮された演奏だ。

ブレンデルは高度な技術に裏づけられ、曖昧さのない理詰めな音楽性を誇るピアニストである。

とりわけ、ここにきくベートーヴェンのピアノ協奏曲全集が録音された1970年代には、その傾向が顕著であった。

第1番から第5番にかけてのいずれの演奏においても、彼のピアノは大いに雄弁で、必要な音があるべきところにきちんと収まっている。

ベートーヴェンの音楽におけるメタ・フィジカルな要素を追い求めたというより、むしろ、整合性のとれた論理性を追求した演奏内容だ。

指揮者ハイティンクも力のある伴奏をしているが、この後、急速に成熟した彼だけに、80年代、90年代に録音がなされていれば、と思わせる要素も、ここには残されている。

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クーベリックが手兵バイエルン放送交響楽団とともに1980年にスタジオ録音したモーツァルトの後期交響曲集は、往年のワルターやベームの名演にも匹敵する素晴らしい名演として高く評価されている。

クーベリックは、その生涯を通じてモーツァルトを最も得意なレパートリーの1つに数えていた。

もちろん演奏回数も多かったが、長らく務めていたバイエルン放送交響楽団のシェフを辞任してから、はじめてこのオーケストラと後期の交響曲をまとめて録音したが、おそらくクーベリックにとっては記念碑的な意味があったに違いない。

したがって、演奏はこの指揮者の芸術の最良の成果と言えるところであり、そのことごとくが名演である。

レコード・アカデミー賞受賞の名盤としても有名なこのモーツァルト後期交響曲集は、伝統的スタイルを基調とした柄の大きな仕上げが特徴的なものであるが、楽器配置がヴァイオリン両翼型という事もあって声部の見通しは良く、飛び交うフレーズ群の醸し出す生き生きとした雰囲気が実に魅力的。

また、美しい旋律をエレガントに歌わせる一方で、山場では強靱なダイナミズムで決めてくるあたりもこうしたスタイルの美点を生かしたものと言える。

先般、オルフェオから発売されているモーツァルトの交響曲第40番及び第41番の1985年のライヴ録音についてのレビューを記したところであるが、筆者としては、クーベリックによるモーツァルトの交響曲演奏のベストは、当該1985年のライヴ録音であると考えている。

クーベリックは、実演でこそその真価を発揮する指揮者であるだけに、スタジオ録音での第40番や第41番の演奏では、1985年のライヴ録音において存在した楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や高揚感が今一つ欠けていると言わざるを得ない。

加えて、1985年のライヴ録音においては、すべての反復を行い、スケール極大な演奏に仕立て上げていたが、スタジオ録音においては、おそらくはLP時代の収録時間を気にしたせいも多分にあると思うが、多くの反復を省略している。

ただ、1985年のライヴ録音においてすべての反復を行っていることに鑑みれば、スタジオ録音の演奏が、クーベリックの意図に従ったものであるかいささか疑問が残るところだ。

このように、1985年のライヴ録音と比較すると、スタジオ録音の演奏はいろいろな面で不利な要素が存在していると言わざるを得ないが、それでも、そんじょそこらの演奏などと比較すると、極めて優れた立派な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

演奏全体の様相はシンフォニックで表情が大きく、しかも情緒的で豊かな潤いがある。

当然、かなりの自己主張をみせるのも好ましいが、一方では堅実な造形に隙がなく、モーツァルトの古典美を見事に描いている。

堅牢な造型美を誇りつつも、モーツァルトの交響曲演奏において不可欠な優美さにいささかも不足もなく、まさに安心してモーツァルトの交響曲の魅力を満喫させてくれるのが見事である。

オーケストラもこうしたクーベリックの意図を完全に音にしているが、このような演奏は滅多に生まれるものではない。

第40番や第41番については、1985年盤という高峰の高みに聳える名演が存在するだけに、前述のように若干不利な要素もあるが、少なくとも、本演奏を聴くと、近年のピリオド楽器を活用した演奏は、実に小賢しいものに聴こえてしまうところだ。

いずれにしても、クーベリック&バイエルン放送交響楽団によるモーツァルトの後期交響曲集の録音については素晴らしい名演であり、高貴にして優美な美しさを存分に味わうことができるものとして高く評価したい。

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classicalmusic at 01:05コメント(0)トラックバック(0)モーツァルトクーベリック 

2015年05月25日


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本盤には、ブーレーズが指揮したストラヴィンスキーの3大バレエ音楽のうち、「春の祭典」のシングルレイヤーによるSACD盤が収められているが、驚天動地の衝撃的な超高音質である。

通常のボリュームで聴いても部屋が吹っ飛んでしまうようなとてつもない音圧であり、その圧倒的な超高音質に完全にノックアウトされてしまうことは必定である。

このような高音質化により、本盤は、様々な指揮者による同曲の演奏史上でも今なおトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

ブーレーズは、同曲を本演奏も含め3度に渡って録音を行っている。

最初の録音はフランス国立放送交響楽団との演奏(1964年)であり、クリーヴランド管弦楽団との本演奏(1969年)が続き、そしてDGへの録音となった同じくクリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)が存在している。

このうち、最初の1964年盤については、圧倒的な名演との評価がなされてはいるものの一般配布されていなかったこともあって現在でも入手難。

3度目の1991年盤は、一般論としては立派な名演と言えるのではないかと考えられる。

もっとも、ブーレーズの芸風は、1990年代に入ってDGに自らのレパートリーを再録音するようになってからは、かつての前衛的なアプローチが影を潜め、すっかりと好々爺となり、比較的オーソドックスな演奏をするようになってきたように思われる。

もちろん、スコアリーディングについてはより鋭さを増しているものと思われるが、当該指揮によって生み出される音楽は比較的親しみやすいものに変容しており、これはまさしくブーレーズの円熟のなせる業ということになるのではないだろうか。

したがって、立派な円熟の名演ということには間違いないが、いわゆる普通の演奏になってしまっているとも言えるところであり、ブーレーズならではの強烈な個性が随分と失われてきていると言えるのではないかと思われる。

これに対して、本演奏は徹頭徹尾、ブーレーズならではの個性が全開の快演であると言えるところだ。

思い切った強弱の変化や切れ味鋭い強烈なリズムを駆使するなど、これ以上は求め得ないような斬新な解釈を施すことによって、ストラヴィンスキーによる難解な曲想を徹底的に鋭く抉り出しており、その演奏のあまりの凄まじさには戦慄を覚えるほどである。

これほどの先鋭的な解釈が施されたのは、おそらくは同曲演奏史上でも空前にして絶後であり、ブーレーズによる本演奏によって初めて、同曲が完全に音化されたと言っても過言ではあるまい。

まさに若き日の脂が乗り切ったブーレーズならではの先鋭的な超名演であり、これほど楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした精緻な表現が施された演奏は比類がない。

ブーレーズの凄みのある指揮の下、一糸乱れぬアンサンブルで持ち得る実力を十二分に発揮し、最高の演奏を繰り広げているクリーヴランド管弦楽団にも大いに拍手を送りたい。

このような豪演を聴いていると、セル時代の全盛期のクリーヴランド管弦楽団の鉄壁のアンサンブルと超絶的な技量の凄さをあらためて認識させられるところだ。

音質は、前述のようにブーレーズによる衝撃的な超名演を味わうには不可欠のシングルレイヤーによるSACD盤であり、音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ブーレーズによる圧倒的な超名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 22:25コメント(0)トラックバック(0)ストラヴィンスキーブーレーズ 

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ヤッシャ・ハイフェッツの1955年から1963年にかけてのヴィヴァルディからローザまで13名の作曲家の主要なヴァイオリン協奏曲を収録した集成アルバム。

20世紀最高といっても差し支えないだろう名ヴァイオリニストであるハイフェッツの人智を超えた技術と感動が信じ難いような廉価盤BOXで入手できる運びとなったことを先ずは歓迎したい。

おなじみハイフェッツの協奏曲名曲集(CD4のみ現代物)を改めて通して聴き、真に素晴らしい音楽は完璧な演奏技術を基盤として成り立つ事を痛感させられた。

 
今回のリマスターによって、ヴァイオリンという楽器の表現能力を極限まで出し尽くすハイフェッツの「神技」をCDからでもかなり窺い知れるようになった。

冷たい、速すぎる、無国籍だ、などと批判されるハイフェッツだが、端正な歌わせぶりや多彩な音色の変化、さらに(CDからでも感じる)ダイナミクスの幅、なによりこれだけの集中力をもって一気に聴かせる演奏にはそう出会えるものではない。

演奏は均一かつ特有のストイズムに貫かれた「抜群」のもので、どれひとつとして発売以来、推薦盤から外れたことがない。

しかもプロコフィエフ、グズラノフ、ヴュータン、ローザなど同時代の作品についての取り組みも積極的。

ハイフェッツは超絶技巧と潔癖主義のため技術だけが最高で豊かな音楽がないと批判する人もいる。

しかし、この協奏曲集を聴くとヴァイオリンの演奏技術を超越した次元で自らの豊かな音楽を心行くまで奏していることが良くわかる。

そこには作為的な表現も過剰な感情移入もなく、自然極まりない究極の音楽の追求がある。

1955年〜1963年の録音であるため最近の録音のような生々しい音ではないが偉大な演奏の前には問題とならない。

どれも快速テンポでシャープなソロを聴かせるハイフェッツの名技を堪能できるものばかりで、ミュンシュやライナーをはじめとした指揮者たちが率いるオーケストラ・パートとのやりとりも爽快だ。

ハイフェッツの人間性が良く分かるエピソードとして百万ドルトリオの録音が知られている。

ベートーヴェンのピアノ・トリオ「大公」でルービンシュタインがポーランド風の癖のある演奏をすると、弾くのを止めてルービンシュタインを見つめて言う「もう一度やろう」。

実に真剣で厳しい。

しかし、練習の合間にはチェロのフォイアマンと超絶技巧パッセージの弾き比べをしていたという。

また、日曜日毎に名演奏家を自宅に招待して室内楽を楽しんでいたという。

決して気難しい人物ではなく心から音楽を愛する真の音楽家であったということが言えるだろう。

本BOXは、そのようなハイフェッツの真価が存分に味わえる名演集である。

古い音源ではあるが、最近のリマスター技術によって、ノイズも少なく鮮度の高い音質に生まれ変わっている。

ハイフェッツについてはいくどもリパッケージものが出ているが、本集は現状ではもっともお得な廉価盤BOXなので、ヴァイオリンを愛する、また音楽を愛する全ての方々にお薦めしたい。

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classicalmusic at 20:43コメント(0)トラックバック(0)ハイフェッツ 

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素晴らしい名演だ。

ルービンシュタインは何を弾いても超一流の演奏を残した、前世紀最大の奏者の1人であることを再認識させられるものだ。

これは徹頭徹尾、ルービンシュタインの、ルービンシュタインによる、ルービンシュタインのための演奏と言える。

両曲とも、前奏のオケのトゥッティが堂々と鳴り響いた後、ほんの少し間をおいてからルービンシュタインの独奏が始まる。

歌舞伎で大見得を切る主役のようで、本当に「待ってました、千両役者」という掛け声をしたくなる、実に派手な登場である。

ルービンシュタインはベートーヴェンを大きな塊として豪快に、華麗に淀みなく弾いていて、ヴィルトゥオーゾという形容がこれほどふさわしい演奏もないだろう。

ルービンシュタインによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、第3番と言えば、何と言っても88歳の時にバレンボイム&ロンドン・フィルと組んで録音した1975年盤が随一の名演とされている。

これ以外にも、クリップス&シンフォニー・オブ・ジ・エアと組んだ1956年盤もあるが、本盤に収められた演奏はそれらの中間にあたる2度目の録音であり、バレンボイムとクリップスとの狭間に咲いた夜来香とも言えよう。

この時にも既にルービンシュタインは76歳に達しており、1975年盤において顕著であったいわゆる大人(たいじん)としての風格は十分である。

そして、超絶的なテクニックにおいては、衰えがいささかも見られないという意味においては1975年盤よりも本演奏の方が上である。

76歳とは思えないテクニックに驚かされるが、さすが、巨匠円熟の色気は圧倒的存在感だ。

もちろん大人としての風格は1975年盤の方がやや優っており、あとは好みの問題と言えるのではないだろうか。

もちろん、筆者としては、1975年盤の方を随一の名演に掲げたいが、本演奏もそれに肉薄する名演として高く評価したいと考える。

ルービンシュタインの演奏は、その卓抜したテクニックはさることながら、どのフレーズをとっても豊かな情感に満ち溢れていて、スケールも雄渾の極みであり、ルービンシュタインのピアノはいつでも何処でも、華麗で輝きに満ちている。

決して頭ごなしに睥睨するような威圧感はなく、格別主張が強い演奏でもないが、それでも聴き手に一縷の迷いも与えず、有無を言わせない迫力がある。

遅めのテンポで大きく深い呼吸で、音楽を息づかせ、それに腰の強いタッチを与えた名演で、音楽が進むにつれて調子が上がり、大柄で立体的な表現を成し遂げている。

単にピアノを鳴らすだけでなく、どの1音にも情感がこもっており、テクニックも桁外れのうまさで、強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現力の幅はきわめて広い。

ルービンシュタインの演奏を聴いていると、近年流行りの古楽器奏法であるとかピリオド楽器の使用による演奏が実に小賢しいものに思えてくるところであり、何らの小細工も施さずに堂々たるピアニズムで弾き抜いた本演奏(1975年盤も)こそは、真のベートーヴェン像として崇高な至純の高みに達している。

ラインスドルフ&ボストン交響楽団も、ルービンシュタインのピアノに率いられるかのように、常々の即物的な解釈は影を潜め、重厚ではあるが情感の豊かさを損なっていないのが素晴らしい。

ラインスドルフも伴奏に徹しているわけではなく、オケを目一杯鳴らして推進力のある演奏で対抗しているのであるが、ルービンシュタインはさらにその上を駆け抜けているのである。

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2015年05月24日


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この演奏ははっきり言って良くない。

アバドの後を追ってベルリン・フィルの第6代芸術監督に2002年に就任したラトルであるが、就任から5年間ほどは、名うての猛者たちを統率することがままならず、新機軸を打ち出そうという気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返していた。

これは、アバドと同様であり、ベルリン・フィルの芸術監督就任前の方が、よほど素晴らしい演奏を成し遂げていたとも言えるところだ。

ラトルは今日でこそベルリン・フィルを完全に掌握し、現代を代表する大指揮者の1人として数々の名演を成し遂げつつあるが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任してから数年間は鳴かず飛ばずの状態が続いていた。

世界最高峰のオーケストラを手中に収め、それだけに多くのクラシック音楽ファンの視線は厳しいものとならざるを得ないが、そうしたことを過剰に意識したせいか、気負いだけが空回りした凡庸な演奏を繰り返していたと言えるところだ。

個性を発揮しようと躍起になるのは結構なことであるが、自らの指揮芸術の軸足がふらついているようでは、それによって醸成される演奏は、聴き手に対して、あざとさ、わざとらしさしか感じさせないということに繋がりかねない。

しかしながら、2008年のマーラーの交響曲第9番あたりから、漸くラトルならではの個性が発揮された素晴らしい名演を成し遂げるようになった。

芸術監督に就任してから5年を経て、漸くベルリン・フィルを統率することができるようになったことであろう。

先般、SACD化された芸術監督お披露目公演のマーラーの交響曲第5番も、意欲だけが空回りした凡庸な演奏であったし、その後もR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」、ベルリオーズの幻想交響曲、ブルックナーの交響曲第4番など、箸にも棒にもかからない凡演の山を築いていたと言える。

ラトルも、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、名うての一流奏者たちを掌握するのに相当に苦労したのではないだろうか。

そして、プライドの高い団員の掌握に多大なる労力を要したため、自らの芸術の方向性を見失っていたのではないかとさえ考えられるところだ。

それ故に、必然的に意欲だけが空回りした演奏に終始してしまっている。

本演奏も美しくはあるが根源的な力強さがない。

同曲を精緻に美しく描き出すことにつとめたのかもしれないが、本演奏を聴く限りにおいては、ラトルがシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」をこのように解釈したいという確固たる信念を見出すことが極めて困難である。

そうなった理由はいくつかあるが、やはりラトルの気負いによるところが大きいのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督という、フルトヴェングラーやカラヤンといった歴史的な大指揮者が累代に渡ってつとめてきた最高峰の地位についたラトルにしてみれば、肩に力が入るのは当然であるとは言えるが、それにしてはラトルの意欲だけが空回りしているような気がしてならないのだ。

ベルリン・フィルの猛者たちも、新芸術監督である若きラトルの指揮に必死でついていこうとしているようにも思われるが、ラトルとの息が今一つ合っていないように思われる。

そうした指揮者とオーケストラとの微妙なズレが、本演奏にいささか根源的な力強さを欠いていたり、はたまた内容の濃さを欠いていたりすることに繋がっているのだと考えられるところだ。

もちろん、ベルリン・フィルの芸術監督に就任したばかりの若きラトルに過大なものを要求すること自体が酷であるとも言える。

現代のラトルがシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の録音を行えば、より優れた演奏を行うことができたのではないかと容易に想定できるだけに、ラトルは、同曲の録音を行うのがいささか早過ぎたと言えるのかもしれない。

音質は、これまでHQCD化が図られることなどによって十分に満足できる良好な音質であると評価したい。

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classicalmusic at 22:30コメント(0)トラックバック(0)シューベルトラトル 

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クレンペラーによって遺されたライヴ録音のうち、これだけまとまった形で、しかも世界最高のオーケストラ、ウィーン・フィルとの競演というスリルを持ったものは他に存在しない。

ここでのクレンペラーの演奏は、ウィーン・フィルの優美な演奏も相俟って、重厚長大というのではなく、音楽のニュアンスが豊穣なのだ。

音質はデッドで、通例我々がムジークフェライン・ザールに期待する残響の美しさはなく、ウィーン・フィル独特の音色もあまり感じられず、くすんだ音である。

それにテスタメント独特の中・低域が張り出したリマスタリングが加わり、録音状態はベストとは言いがたい。

しかし、ステレオ録音ゆえ、雰囲気は豊かであり、楽器の分離はやや悪いが、スケールの大きさと情報量の多さは素晴らしい。

演奏はいずれも巨大なスケールと剛毅な曲想の運びの中にもウィーン・フィルの魅力、そして実演ならではの気迫や緊張感を有している。

収録された演奏はどれも素晴らしいが、分売では買えないブラームスのドイツ・レクイエムが本セットには収められているのが嬉しい限りだ。

こちらはモノラルでありながら、情報量が豊かで鮮明、テンポはむしろ速めであり、ドラマティックな熱演である。

白眉は何と言ってもブルックナーの交響曲第5番だ。

第1楽章の何物にも揺り動かされることのないゆったりとしたテンポによる威容に満ちた曲想の運びを何と表現すればいいのであろうか。

どこをとってもいささかも隙間風の吹かない重厚さと深い呼吸に満ち溢れている。

ブラスセクションの強奏などもややゴツゴツしていて剛毅ささえ感じさせるが、それでいて音楽が停滞することなく滔々と流れていくのが素晴らしい。

第2楽章は、クレンペラーとしては、決して遅すぎないテンポによる演奏であるが、木管楽器の活かし方など実に味わい深いものがあり、厚みのある弦楽合奏の彫りの深さ、格調の高さには出色のものがある。

後半のブラスセクションがやや直線的で武骨さを感じさせるのは好みが分かれると思われるが、いたずらに洗練された無内容な演奏よりはよほど優れていると言えるだろう。

第3楽章は中庸のテンポを基調としているが、ブラスセクションの抉りの凄さや弦楽合奏と木管楽器のいじらしい絡み方など、クレンペラーの個性的かつ崇高な指揮芸術が全開である。

トリオは一転してやや遅めのテンポで味わい深さを演出しているのも実に巧妙である。

終楽章は、第1楽章と同様に悠揚迫らぬ荘重な曲想の展開が際立っており、低弦やティンパニの強靭さ、そして抉りの効いたブラスセクションの咆哮など、凄まじさの限りである。

そして、こうした演奏を基調としつつ、輻輳するフーガを微動だにしない荘重なテンポで明瞭に紐解いていく峻厳とも言うべき指揮芸術には、ただただ圧倒されるほかはなく、コーダの壮大な迫力にはもはや評価する言葉が追い付かないほどだ。

いずれにしても、本演奏は、クレンペラーの偉大な指揮芸術の凄さを堪能することができるとともに、クレンペラー&ウィーン・フィルでしか成し得ない至高の超名演と高く評価したいと考える。

次点はマーラーの交響曲第9番。

悠揚迫らぬ曲想の運び方、スケールの雄大さ、木管楽器の巧妙な活かし方など、ウィーン・フィルの濃厚な美演も加わって、これ以上は求め得ないほどの至高の高みに聳えたつ超名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

これほどの劇的な交響曲なのに、殆ど微動だにしない、ゆったりとしたインテンポで通した演奏は、純音楽的な同曲の名演を成し遂げたカラヤンやバルビローリなどにも見られない特異な性格のものと言える。

それでいて、マーラーが同曲に込めた死との戦いや、生への妄執や憧憬などが、我々聴き手にしっかりと伝わってくるというのは、クレンペラーの至高の指揮芸術を示すものと言えるだろう。

あまりのスローテンポのため、例えば、第3楽章の後半や終楽章の頂点において、アンサンブルに多少の乱れが生じるが、演奏全体から滲み出てくる同曲への深い愛着と情念を考慮すれば、殆ど気にならない演奏上の瑕疵と言える。

その他の演奏も名演揃いであり、クラシック音楽愛好家にはぜひ耳を傾けていただきたい宝物のようなボックスである。

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classicalmusic at 20:46コメント(0)トラックバック(0)クレンペラー 

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名指揮者オイゲン・ヨッフム以下ソリスト、コーラス、オーケストラ総てをドイツ勢で固め、ドイツの底力を示した稀代の名演。

ヨッフムの棒の下に非常に几帳面な音楽作りがなされていながら、結果的にはこの曲が持つ神秘的な静寂と、大地の底から湧き上がる叫び声のような奔放でしかも驚異的な音響効果の双方を表現することに成功している。

本盤ついては不朽の歴史的な超名演として名高いものであり、既に筆者も次のようなレビューを投稿済みである。

「最近では非常に人気のある作品であり、数々の録音がなされているカルミナ・ブラーナであるが、録音以来40年以上が経過した現在においてもなお、本ヨッフム盤の価値がいささかも色褪せることはない。

それどころか、本演奏は、プレヴィン&ウィーン・フィル盤(1995年)などの様々な指揮者による名演に冠絶する至高の超名演と高く評価したい。

作曲家オルフが認めた演奏であり、ヨッフム自身が同曲の初演者であるということもあるが、それだけでなく、やはり演奏自体が非常に優れている。

同曲は、紛れもないドイツ音楽であるが、ヨッフムの演奏は、同曲をドイツ音楽であることをあらためて認識させてくれるのが何よりも素晴らしい。

同曲は、華麗な合唱やオーケストレーションを誇る楽曲であることから、最近ではそうした華麗さに焦点を当てた演奏が数多くなされているように思うが(それも、魅力的ではある)、ヨッフムの演奏は、外面的な華麗さよりは、ドイツ音楽ならではの質実剛健さを基調としている。

したがって、全体の造型の堅固さには際立ったものがあるが、それでいてヨッフムは、これ以上は求め得ないようなドラマティックな演奏を展開しており、その畳み掛けていくような気迫と力強い生命力は、圧倒的な迫力を誇っている。

あたかも壮大なドイツ・オペラを鑑賞しているような趣きがあり、そのスケールは雄渾の極みである。

歌手陣も優秀であり、特に、ソプラノのヤノヴィッツとバリトンのフィッシャー=ディースカウの歌唱は秀逸である。

このうち、フィッシャー=ディースカウの歌唱は巧すぎるとさえ言えるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団やシェーネベルク少年合唱団も最高のパフォーマンスを示している。」

演奏評については、現在でもこれに付け加えることは何もないが、本盤で素晴らしいのはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、およそ信じ難いような鮮明な高音質に生まれ変わったことである。

従来CD盤では、各合唱が一部混濁して聴こえたりしたものであるが、本盤では明瞭に分離して聴こえるところであり、オーケストラとの分離についても申し分がない。

マルチチャンネルが付いていないにもかかわらず、臨場感についても抜群のものがあり、おそらくは現在において望み得る最高の鮮明な超高音質である。

シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化により、ダイナミックレンジ、ボリュームそして音質の解像度が飛躍的に向上し、沸き立つばかりのリズムの躍動感、管弦楽と合唱のダイナミックな音楽に、思わず興奮させられるところであり、こうした大編成用の楽曲では十二分にその効果を発揮している。

いずれにしても、ヨッフムによる不朽の歴史的な超名演を、シングルレイヤーによる超高音質SACDで味わうことができることを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 00:27コメント(0)トラックバック(0)オルフヨッフム 

2015年05月23日


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インバルが東京都交響楽団を指揮して演奏したマーラーの新チクルスシリーズは素晴らしい名演揃いであるが、本盤に収められた「第5」も素晴らしい名演と高く評価したい。

インバルは、マーラーの「第5」をかつての手兵フランクフルト放送交響楽団とスタジオ録音(1986年)するとともに、東京都交響楽団とのライヴ録音(1995年)やチェコ・フィルとのライヴ録音(2011年)もあるが、本演奏は、それらの演奏をはるかに凌駕する名演と言える。

かつてのインバルは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションをできるだけ抑制して、できるだけ音楽に踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。

したがって、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な演奏ではあるが、ライバルとも目されたベルティーニの歌心溢れる流麗さを誇るマーラー演奏などと比較すると、今一つ個性がないというか、面白みに欠ける演奏であったことは否めない事実である。

前述の1986年盤など、その最たる例と言えるところであり、聴いた瞬間は名演と評価するのだが、しばらく時間が経つとどんな演奏だったのか忘却してしまうというのが正直なところだ。

ワンポイント録音による画期的な高音質だけが印象に残る演奏というのが関の山と言ったところであった。

1995年盤や2011年盤になると、ライヴ録音ということもあり、インバルにもパッションを抑えきれず、踏み外しが随所にみられるなど、本盤に至る道程にある名演と言うことができるだろう。

そして、本盤(2013年)であるが、ここにはかつての自己抑制的なインバルはいない。

インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、ドラマティックな表現を施しているのが素晴らしい。

強靭なサウンドとマーラーの精神性をめぐらし、細部の細部にまで音に命を宿らせるインバルの真骨頂が全開している。

それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的な表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、さすがの至芸と言うべきであろう。

マーラーのスコアを細部に至るまで忠実に、そして美しく力強くニュアンス豊かに再現して、どの瞬間も音が意味深く鳴っている。

対位法の各声部はそれぞれが切れ込み鋭くエッジがきいていて、意味づけや存在感を主張し合っている。

そしてテンポや音量の変化も大きく刺激的で、決して表面上きれいにバランス良くまとめたような演奏ではなく、美しく官能的な旋律も、素直に酔わせてはくれない。

しかしそれこそがマーラーであり、インバルが表現したいことであろう。

好き嫌いが分かれるかもしれないが、筆者はこれこそがスタンダードとすべき名演奏と思われる。

いずれにしても、インバルが東京都交響楽団と、本盤のようなドラマティックな表現を駆使するようになったインバルを聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニが鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられない。

オーケストラに東京都交響楽団を起用したのも功を奏しており、金管楽器、特にトランペットやホルンの卓抜した技量は、本名演のグレードをさらに上げる結果となっていることを忘れてはならない。

ワンポイント・レコーディング・ヴァージョンよる極上の高音質録音も、本名演を鮮明な音質で味わえるものとして大いに歓迎したい。

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1955年2月5日 シャンゼリゼ劇場、パリに於けるライヴ録音。

シューリヒトは、颯爽としたインテンポの下、繊細なニュアンスを随所にちりばめるという、言わば渋くて、枯淡の境地を垣間見せるような名演を繰り広げた指揮者だと思っていた。

しかし、それは、録音状態のいい名演が1960年代の晩年に集中していることによるものであり、1950年代半ばにフランスのオーケストラと繰り広げた演奏によって、そのような印象が見事に覆ってしまった。

巨匠シューリヒトの芸風は飄々とか軽やかという言葉で片付けられがちだが、本盤ではどの曲でも実に豪快そのもので、恐ろしく大胆な変化を平気で繰り広げる激しい指揮者だったということが分かる。

先ず、シューリヒトの遺した、これは最高の「エロイカ」だ。

シューリヒトの天才ぶりが随所に綺羅星の如く輝いており、期待通りの気迫充分の名演で、シューリヒトらしく速めのテンポでストレートに推進してゆくが、細部にまで神経が行き届いており、微妙な表情の変化を楽しめるのはこの指揮者ならではの魅力であり、全ての音が生命感に溢れている。

冒頭の2つの和音が実に濃密な音で、いつものシューリヒトならではの颯爽としたインテンポで演奏するかと思いきや、随所においてテンポに絶妙の変化を加え、金管の最強奏による強調があったり、急速なアッチェレランドがかかったりと決して一筋縄ではいかない。

内声部は先の演奏を予告するように意味深な動きをしており、そしてまぶしく輝くようなスフォルツァンドを聴いたときにはもう演奏の虜になっている。

第2楽章は一転、ゆったりとしたテンポで格調高く旋律を歌いあげ、素晴らしい表現力を発揮している。

颯爽たるテンポによる第3楽章を経て、終楽章はロンド形式による変転の激しい各場面を目もくらむような面白さで巧みに描き分けている。

シューリヒトはこの作品を完全に手中に収めた自信に満ちており、シューリヒトの「エロイカ」の中でも最も強い感銘を受け、本当に凄いと思った。

比較的速いテンポ設定で一気呵成に駆け抜けて行く、という側面もあるが、1つ1つの音に生命が吹き込まれ、凡庸に流れて行くところは皆無である。

折り目正しくも、僅かにテンポを揺らしながら、聴く者の脳裏に音符を刻み込んで行く。

ライヴならではの瑕疵も若干見受けられるが、これは名演の代償の類と言えるものであり、この演奏のマイナス要素とは一切なっていない。

やはりシューリヒトは凄い才能の指揮者であり、フランス国立管弦楽団もシューリヒトの指揮に必死に食らい付き、フランスのオケ独特の音色がシューリヒトの芸風とマッチしており、実に魅惑的なサウンドを引き出している。

まさに圧倒的な名演と言っても過言ではないものであり、巨匠シューリヒトならではの至芸を味わえる1枚だと思う。

モーツァルトは、颯爽としたテンポの中で繊細な抒情を垣間見せるなど内容の濃い佳演となっており、フェラスのヴァイオリンも実に美しい。

悲劇的序曲は、あまりにも音の状態がよくなく、コメントは差し控えたい。

本盤のライナーは平林氏が執筆しているが、シューリヒトの過去の演奏との対比を行うなど実に充実した内容となっており、これを読むだけでも本盤は相当な価値があると言えるだろう。

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カラヤンの長く、広いレコーディング・レパートリーにおいて、生涯ただ1度だけ取り上げたニールセンの作品、それがこの交響曲第4番《不滅》である。

しかし、北欧の音楽に無縁というよりは、シベリウスやグリーグに極めて優れた演奏を聴かせていたことを思えば、カラヤンがニールセンをとりあげたことに何の不思議はない。

むしろ、シベリウスやグリーグに比べると知名度が必ずしも高くないニールセンを1981年にとりあげて録音していたカラヤンの慧眼に感服させられる。

リチャード・オズボーン著の伝記によると、カラヤンがこの曲を録音に選んだのは「第一次世界大戦とその恐るべき遺産に関連していたため」だったという。

また、作曲家自身の発言では「音楽のみが完全に表現しうるもの━━生への根源的な意志」がこの曲のテーマであり、カラヤンがそのテーマに深く共感したのだそうだ。

演奏は、例によって流麗にして豪華、深く広大な息づかいを感じさせ、それでいて力感も不足しておらず、スケールも大きい。

カラヤンの耽美主義的な表現は、総じて遅めのテンポで扱った根本的なアプローチのありかたに強く反映している。

冒頭の対照的な主題でカラヤンが特に意識的にコントラストを与えるようなアクセントづけを行っているところにも明白であるが、その後の進行の曲折のありようをカラヤンほど微細な処置というか、細部拡大主義というか、精密に扱った指揮者を知らない。

ニールセンの6曲の中で特にレコードの数が多いのが第4番の《不滅》であるが、多くの指揮者がニールセン的変化を直線的に扱っているのに対して、カラヤンはエモーションの内面的なものをかつてどの指揮者からも聴かれなかったほど透かし彫りのように浮き上がらせる。

そのいちばん目立った例は、アダージョの静寂たる佇まいの中に込められた内的情熱の沈潜である。

カラヤンのピアニッシモのコントロールの絶妙さは改めて贅言を要するまでもないところだが、《不滅》という暗示的な標題が生命と同じような音楽の永遠性の息吹きを伝えることをモットーに打ち出したニールセンの意図は、カラヤンによってこの上もなく見事に実現されているのである。

ベルリン・フィルの弦がまさに、虹を描くように次々と鮮やかな音色を聴かせ、カラヤンが壮大でダイナミックにまとめている。

素朴さ、土臭さに欠けるという指摘もされたそうだが、カラヤンにそうした要素を求めるのは文字通り「無い物ねだり」であろう。

デンマークでは「日曜日の晴れ着を着た農夫」と評され、日本でも、当時のレコード芸術では、小石氏の推薦評価は貰ったものの、もう1人の評者である大木氏からは「ベルリン・フィルの大運動場」と酷評された演奏である。

しかし、ニールセンはデンマークのローカルな作曲家ではない。

それどころか、シベリウスと並ぶ20世紀の大交響曲作曲家であり、カラヤンは、圧倒的な統率力でベルリン・フィルの技量を最大限に発揮させて、ニールセンの傑作交響曲を等身大に演奏したのに過ぎない。

録音当時のカラヤンは、相当に体力が衰えていたというが、冒頭から、そうとは到底思えないような生命力に満ち溢れた演奏を繰り広げており、筆者はこの演奏を聴いて、ニールセンの音楽の可能性を感じ取ることができた。

第2部の北欧的抒情も実に美しく、第3部の弦楽合奏の重量感もベルリン・フィルならではのもので、第4部の終結部のティンパ二の連打の圧倒的な大迫力。

前述のように、ニールセンを北欧のローカルな作曲家と看做す者からは素朴さを欠くとの批判も予測されるが、筆者としては、ニールセンを国際的な大交響曲作曲家としての認知に導くことに貢献した大名演であると評価したい。

音質はもともと抜群に優れていたが、SHM−CD化により更に目覚ましく向上している。

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2015年05月22日


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協奏曲は、1978年1月、ホロヴィッツの爛▲瓮螢・デビュー50周年記念コンサート瓩離薀ぅ録音である。

途轍もない超名演だ。

このような演奏こそは、人類が永遠に持つべき至宝であるとさえ言えるだろう。

ホロヴィッツにとって27年ぶりの協奏曲の録音だけに、この演奏にかける意気込みは並々ならぬもので、とても73歳の高齢とは思えない、スケールの大きな、打鍵のしっかりした演奏である。

本演奏におけるホロヴィッツのピアノはもはや人間業を超えているとさえ言える。

強靭な打鍵は、ピアノが破壊されてしまうような圧倒的な迫力を誇っているし、同曲の随所に聴くことが可能なロシア風のメランコリックな抒情的旋律の数々においても、ホロヴィッツは心を込めて歌い抜いている。

その表現の桁外れの幅の広さは、聴いていてただただ圧倒されるのみである。

同曲は、弾きこなすのに超絶的な技量を有することから、ピアノ協奏曲史上最大の難曲であると言われており、ホロヴィッツ以外のピアニストによっても名演は相当数生み出されてはいるが、それらの演奏においては、まずは同曲を弾きこなしたことへの賞賛が先に来るように思われる。

ところが、ホロヴィッツの演奏では、もちろん卓越した技量を発揮しているのであるが、いとも簡単に弾きこなしているため、同曲を弾きこなすのは当たり前で、むしろ、前述のように圧倒的な表現力の方に賛辞が行くことになる。

このあたりが、ホロヴィッツの凄さであり、ホロヴィッツこそは、卓越した技量が芸術を凌駕する唯一の大ピアニストであったと言えるだろう。

人間業を超えた超絶的な技量を有していながら、いささかも技巧臭がせず、楽曲の魅力のみをダイレクトに聴き手に伝えることができたというのは、おそらくは現在においてもホロヴィッツをおいて他にはいないのではないかと考えられるところだ。

そして、本演奏を聴いていると、あたかも同曲がホロヴィッツのために作曲された楽曲のような印象を受けるところであり、それ故に、現時点においても、同曲については、ホロヴィッツを超える演奏がいまだ現れていないのではないかとさえ考えられる。

それに、これ以前の録音では大量にカットを行なっていたのに対し、ここでのカットは第1楽章カデンツァ中の2小節のみで、ホロヴィッツが遺した、唯一のほぼ完全版の演奏なのである。

以前の同曲の録音と比べると、テクニックの面でやや弱さはあるものの、深々とした呼吸で、ラフマニノフの曲のもつ暗い情熱を濃厚に表出していて立派だ。

オーマンディ&ニューヨーク・フィルも、このようなホロヴィッツの圧倒的なピアニズムに一歩も引けを取っておらず、感情の起伏の激しい同曲を見事に表現し尽くしているのが素晴らしい。

なお、ホロヴィッツによる同曲の超名演としては、ライナー&RCAビクター交響楽団をバックにしたスタジオ録音(1951年)があり、指揮者はほぼ同格、オーケストラは本盤の方がやや上、ホロヴィッツのピアノは旧盤の方がより優れているが、録音は新盤がステレオ録音であり、総合的には両者同格の名演と言ってもいいのではないだろうか。

ソナタ第2番は、作曲者と相談の上、初版と第2版を織り交ぜたホロヴィッツ版で、晩年のライヴながら、楽器を鳴らし切る桁外れの才能は健在である。

演奏は、この曲のもつ技巧的な性格を前面に押し出した、すこぶる華やかなもので、幻想の世界を濃厚に、しかも豪快に弾きあげている。

いずれの演奏も、両曲を偏愛したホロヴィッツによる正規録音としては最後のもので、彼ならではのダイナミズムと繊細な表現が素晴らしい名演である。

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本盤に収められたブラームスの交響曲全集はジュリーニによる2度目の全集に相当する。

最初の全集が、フィルハーモニア管弦楽団との1960年代の録音(1960、1962、1968年)であったことから、本演奏はそれから約30年後の録音である。

もっとも、ジュリーニは、その間にもロサンゼルス・フィルとともに第1番(1981年)及び第2番(1980年)をスタジオ録音するとともに、バイエルン放送交響楽団とともに第1番をライヴ録音(1979年)していることから、ジュリーニはブラームスを得意中の得意としていたと言っても過言ではあるまい。

また、本盤の演奏は、今後ライヴ録音などが発売されれば事情が変わる可能性もあるが、現時点ではジュリーニによる最後のブラームスの交響曲の演奏ということでもあり、ある意味ではブラームスを得意としたジュリーニによる最終的な解釈が刻印されていると言えるのではないだろうか。

本演奏は、これまでの演奏と異なって、実にゆったりとしたテンポをとっている。

また、反復も原則として行っており、演奏時間もこれらの楽曲の演奏の中ではきわめて長い部類に入るものと考えられる。

テンポもあまり動かさずに悠揚迫らぬインテンポで曲想が進んでいくが、これだけの遅いテンポだと、場合によっては冗長さを感じさせたり、全体の造型が弛緩する危険性も孕んでいる。

しかしながら、ジュリーニの場合は、全体の造型が弛緩することはいささかもなく、各フレーズには独特のニュアンスや豊かな歌心が込められるなど、常にコクのある情感豊かな充実した音楽が構築されているのが素晴らしい。

ここぞという時の強靭な迫力や重厚さにおいてもいささかも欠けることがなく、例えば第1番や第2番の終楽章における圧倒的な高揚感には我々聴き手の度肝を抜くのに十分な迫力を誇っている。

また、第1番の第2楽章、第2番の第2楽章、第3番の第2楽章及び第3楽章、そして第4番の第1楽章及び第2楽章の濃厚で心を込めた情感豊かな歌い方には抗し難い魅力に満ち溢れている。

第4番の終楽章においても、パッサカリアによる表情が目まぐるしく各変奏を巧みに描き分け、巨匠ならではの老獪な至芸を感じさせるのが見事である。

そして、何よりもジュリーニが素晴らしいのは、いかなるトゥッティに差し掛かろうと、はたまた緩徐楽章などにおいて心を込めて歌い上げていようと、格調の高さをいささかも失っていない点である。

とかく重厚で仰々しいブラームスの演奏が数多く行われている中で、ジュリーニによる本演奏が含有する気品と風格は際立っている言えるところであり、ゆったりとしたテンポによるスケール雄大な演奏であることも相俟って、本演奏はまさに巨匠ならではの大人(たいじん)の至芸と言っても過言ではあるまい。

また、ジュリーニの統率の下、これ以上は求め得ないような美しい演奏を展開したウィーン・フィルによる好パフォーマンスも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

併録のハイドンの主題による変奏曲や悲劇的序曲も、晩年のジュリーニならではのスケール雄大で、重厚さと優美さを兼ね備えた素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

とりわけ、ハイドンの主題による変奏曲における第7変奏の筆舌には尽くし難い美しさは、ジュリーニとしても空前にして絶後の名演奏と言えるのではないだろうか。

録音は、従来盤でもムジークフェラインザールの豊かな残響を活かした十分に満足できる音質であったが、数年前に第1番及び第4番のみSHM−CD盤で発売され、現在では当該SHM−CD盤がベストの音質である。

もっとも、ジュリーニによる遺産とも言うべき至高の名演でもあり、今後は第2番及び第3番のSHM−CD化、そして可能であれば本全集全体についてシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)ブラームスジュリーニ 

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今や現代を代表する大指揮者となったインバルの新譜はどれも注目で聴き逃すことができない。

既にマーラーの交響曲を軸として、ショスタコーヴィチなどの交響曲の名演を東京都交響楽団やチェコ・フィルとともに再録音しており、そのいずれもが旧録音を超える圧倒的な名演となっていた。

ブルックナーの交響曲についても、既に第5番及び第8番という最も規模の大きい交響曲と最も優美な第7番、そして比較的マイナーな第6番を東京都交響楽団と再録音している。

いずれもフランクフルト放送交響楽団との演奏を上回る名演であり、インバルが、マーラーとブルックナーの両方の交響曲の演奏を得意とする稀有の指揮者であることを見事に証明していたと言えたところだ。

そして、今般、ブルックナーの交響曲チクルスの第5弾として、満を持して初期の交響曲である交響曲第2番が登場した。

とにかく素晴らしい名演。

これ以上の言葉が思い浮かばないほどの至高の超名演と言えるだろう。

インバルは、第1楽章冒頭の弦楽による繊細な響きからして、かの聖フローリアン教会の自然の中のそよ風のような雰囲気が漂う。

その後も、同曲特有の美しい旋律の数々を格調高く歌い上げていく。

それでいて、線の細さなどはいささかもなく、トゥッティにおいてはブラスセクションをしっかりと響かせるなど強靭な迫力にも不足はなく、骨太の音楽が構築されている。

このあたりの剛柔の的確なバランスは、インバルによるブルックナーの交響曲演奏の真骨頂とも言うべき最大の美質と言えるだろう。

そして、インバルによる本演奏は、朝比奈やヴァントなどが1990年代以降に確立した、今日ではブルックナーの交響曲演奏の規範ともされている、いわゆるインテンポを基調とした演奏には必ずしも固執していない。

第3楽章や第4楽章などにおいても顕著であるが、演奏全体の造型美を損なわない範囲において、若干ではあるが効果的なテンポの振幅を加えており、ある種のドラマティックな要素も盛り込まれていると言えるところだ。

それにもかかわらず、ブルックナーの交響曲らしさをいささかも失っていないというのは、インバルが、同曲の本質を細部に渡って掌握しているからに他ならないと言うべきである。

また、本演奏において特筆すべきは、東京都交響楽団の抜群の力量と言えるだろう。

先般発売されたショスタコーヴィチの交響曲第4番においてもそうであったが、弦楽器の厚みのある響き、そしてブラスセクションの優秀さは、とても日本のオーケストラとは思えないほどの凄味さえ感じさせる。

都響の誇る抜群のアンサンブル精度の高さ、その精度もさることながらブルックナーの重厚な和声構成の魅力が存分に伝わるバランスのよさ。

考え抜かれたフレーズとテンポの抑揚、アクセント、アーティキュレーションへの拘りが細部まで描写され、聴き手の心を掴む。

重厚感を持たせながら、微妙なテンポ捌きで決してだれることなく曲の終わりに向かい突き進むエネルギーは、60分間途切れることなく続き瞬く間に過ぎ去る。

いずれにしても、本盤の演奏は、今や世界にも冠たる名コンビとも言うべきインバル&東京都交響楽団による圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

録音も超優秀で、鮮明にして臨場感溢れる極上の高音質は、本盤の価値をより一層高めることになっているのを忘れてはならない。

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2015年05月21日


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シューリヒトのブルックナーの「第7」と言えば、ハーグ・フィルとのステレオ録音盤が名演として誉れ高い。

確かに、ハーグ盤は、シューリヒトの晩年の枯淡の境地を示すいぶし銀の名演であるが、オーケストラがきわめて非力という欠点があり、音質もやや冴えない。

シューリヒトが遺した同曲の録音で、筆者の手元にあるディスクでは、古いところではベルリン・フィルとのスタジオ録音(1938年)、そして1950年代でシュトゥットガルト放送響とのライヴ録音(1953年)、北ドイツ放送響とのライヴ録音(1954年)、本盤に収められたコンセール・コロンヌ管とのライヴ録音(1956年)、フランス国立管とのライヴ録音(1963年)、そしてハーグ・フィルとのスタジオ録音(1964年)が現時点で存在する。

筆者もその全てを聴いてみたが、特に本盤を含め特に1950年代のライヴ録音とハーグ盤とは全く演奏の性格が異なるのに大変驚いた次第である。

“端麗辛口”、これがこの指揮者の一般的な認識であったし、筆者個人の見解も同様であった。

しかし、最近になってゾロゾロと出てくるシューリヒトのライヴ録音には恐ろしく大胆で濃厚な演奏も多く、「この指揮者は一体何なのだ」というのが最近の印象だ。

このようにシューリヒトの演奏がライヴとスタジオ録音で別人のように異なる場合があるのが知られてきたわけだが、珍しくコンセール・コロンヌ管弦楽団に客演したこのブルックナーは、この指揮者のライヴのなかでも燃焼度の高い演奏である。

卓越したリハーサル術と指揮法によって、様々なオーケストラと素晴らしく息の合った演奏を聴かせたシューリヒトだけに、ここでの成果も見事なもので、ハーグ盤とはまた違った魅力を放っていて感動的だ。

ここでの演奏は、コンセール・コロンヌの独特の音色を生かして、実演ならではの濃やかなアゴーギクと思い切った表情付けを施したものである。

第1楽章のラストの圧倒的な盛り上がり、第2楽章のむせ返るような抒情の嵐、第3楽章の快速のスケルツォを経て、終楽章の緩急自在のテンポの変化を駆使した劇的な大演奏。

このようなドラマティックな演奏は、ブルックナー演奏としてはいささか禁じ手とも言えるが、シューリヒトの場合には全く違和感がなく、ブルックナーとの抜群の相性を感じるとともに、シューリヒトのブルックナーの本質への理解の確かさを感じざるを得ない。

そのエネルギーが尋常ではないのだが、決して破れかぶれではなく、常に頭脳は明晰に冴え渡っており、音楽の運びは理知的で、道を踏み間違えるときがない。

弦のボーイングにも工夫の跡が聴かれるアクセントで、要所をピタリと止めて輪郭をくっきりさせながら上り詰める自然な高揚感と、鳴り切っても細部が明瞭で濁りがない音は、シューリヒトならではのもので、特にこんな個性的な第2楽章はシューリヒトでなければ成し得ないものだろう。

シューリヒトの個性が存分に発揮されているだけでなく、この曲のあらゆる演奏の中でも異彩を放つ名演として記憶されるだろう。

重量感を伴った硬質なブルックナー演奏については好き嫌いがあるかもしれないが、ここでもシューリヒトは自らの主張を貫き、この組み合わせでなければ実現できない一期一会の演奏を実現している。

コンセール・コロンヌ管弦楽団もシューリヒトの確かな統率の下、鬼気迫る大熱演を繰り広げている。

音質も鮮明で細部の動きを明確にとらえており実に面白く、第3楽章の冒頭などデッドな響きも散見されるが、全体として生々しさがあり、この当時のライヴとしては、十分に満足できる水準だと言える。

ライナーの平林氏の解説も、いつもながら実に充実した内容であり、素晴らしい。

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1995年10月2-7日 モスクワ放送局第5スタジオにて収録。

スヴェトラーノフが1990年代にセッション・レコーディングを行なったラフマニノフ交響曲&管弦楽曲全集が再リリースされた。

スヴェトラーノフが遺した最高傑作の呼び声もある同アルバムは、今でもラフマニノフの最上演奏のひとつとして高く評価されている。

また再評価され高い人気を誇るスヴェトラーノフ・ファン必聴のアルバムであり、ロシア国立交響楽団のまさにロシアの広大な大地を彷彿させる咆哮サウンドは現在世界のどのオーケストラも出すことのできない強靭なサウンドである。

ラフマニノフの交響曲や管弦楽曲は、近年ではきわめて人気のある作品である。

そして、プレヴィンやアシュケナージ、マゼール、エド・デ・ワールト、デュトワ、ヤンソンスなど、様々な指揮者によって管弦楽曲等を含めた交響曲全集がいくつも誕生するに至っている。

これらはいずれも素晴らしい名演であり、客観的な視点で評価すると、プレヴィンの全集が随一の名演との評価に値すると思われるが、好き嫌いで言うと、筆者が最も好きなラフマニノフの交響曲等の全集は、本盤に収められたスヴェトラーノフによる最後の全集である。

本盤に収められた諸曲の演奏は、おそらくはそれぞれの諸曲の演奏史上でも最もロシア的な民族色の濃い個性的な演奏と言えるのではないだろうか。

トゥッティにおける咆哮する金管楽器群の強靭な響き、あたりの空気が震撼するかのような低弦の重々しい響き、雷鳴のように轟くティンパニ、木管楽器やホルンの情感のこもった美しい響きなどが一体となり、これ以上は求め得ないようなロシア風の民族色に満ち溢れた濃厚な音楽の構築に成功している。

その迫力は圧倒的な重量感を誇っており、あたかも悠久のロシアの広大な大地を思わせるような桁外れのスケールの雄大さを誇っている。

このようにどの曲も凄まじいまでの強靭な迫力と熱き情感に満ち溢れているのであるが、一例を掲げると有名な交響曲第2番の第3楽章。

スヴェトラーノフは、本楽章を17分という途轍もなく遅いテンポで、ラフマニノフによる最美の名旋律を渾身の力を込めて徹底的に歌い抜いている。

その濃厚の極みとも言うべき熱き情感のこもった歌い方は、いささかの冗長さも感じさせることなく、いつまでもその音楽に浸っていたいと思わせるほどの極上の美しさを湛えている。

スヴェトラーノフは、1960年代にも、ロシア国立交響楽団の前身であるソヴィエト国立交響楽団を指揮してラフマニノフの交響曲全集をスタジオ録音しており、それらも名演の名には値すると思うが、演奏全体の完成度や彫りの深さといった点において、本盤に収められた諸曲の演奏には到底敵し得ないと考える。

いずれにしても、スヴェトラーノフによる本全集は、例えば音楽之友社発行の「名曲名盤300選」などにおいては、評価の遡上にすら掲げられることがないものであると言える。

しかしながら、スヴェトラーノフによる本盤に収められた諸曲の演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧倒的な迫力と濃密な内容を誇っていると言えるところであり、筆者としては、かのプレヴィンによる全集にも比肩する名全集と高く評価したいと考える。

もっとも、音質について言えば、本盤でも全く問題ないのであるが、一例を挙げればノイマンの各種の録音がエクストンからSACD化されて再発売されたという実績に鑑みれば、今後、スヴェトラーノフによる一連の録音も、エクストンによってSACD化することは可能なのではないだろうか。

少なくとも本盤に収められた諸曲の演奏は、スヴェトラーノフによる至高の超名演でもあり、可能であれば、今後SACD化を図るなど更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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インバルは、東京都交響楽団との間で新マーラーチクルスを続行しているが、前作の第1番に続いて本盤も、この黄金コンビの好調さを表す素晴らしい名演だ。

インバルは、かつてフランクフルト放送交響楽団と素晴らしい全集を作り上げたが、当該全集では、インバルは劇的な要素をできるだけ抑制し、客観的な視点でマーラーがスコアに記した音符の数々を無理なく鳴らすというアプローチであった。

インバル自身には、マーラーへの深い愛着に去来する有り余るパッションがあるのだが、インバルは演奏の際には、それをできるだけ抑制しようとする。

それ故に、客観的なアプローチを取りつつも、いささかも無味乾燥な演奏に陥ることなく、内容の濃さにおいては人後に落ちることはない。

しかも、抑制し切れずに零れ落ちてくるパッションの爆発が随所に聴かれ、それが聴き手の感動をより深いものにするのだ。

ここに、インバルによるマーラーの魅力の秘密がある。

東京都交響楽団との新チクルスにおけるアプローチも、基本的には旧全集と同様であるが、旧全集と比較すると、パッションの爆発の抑制を相当程度緩和しており(ライヴ録音とスタジオ録音の違いもあるとは思うが)、これが新チクルスをして、旧全集よりもより一層感動的な名演に仕立てあげているのだと考える。

かかる点は、近年のインバルの円熟ぶりを示す証左として高く評価したい。

第1楽章は、冒頭のゆったりとしたテンポによる低弦による合奏の間の取り方が実に効果的。

トゥッティに至る高揚は雄渾なスケールで、その後の高弦による旋律の歌い方は、思い入れたっぷりの情感に満ち溢れていて美しい。

続く主部は、緩急自在の思い切ったテンポ設定、幅の広いダイナミックレンジを駆使して、実にドラマティックに曲想を抉り出していく。

随所に聴かれる金管楽器の最強奏や雷鳴のようなティンパニは、圧巻の凄まじいド迫力であり、かつての自己抑制的なインバルとは段違いの円熟のインバルならではの成せる業だ。

第2楽章は、オーソドックスな解釈であるが、弦楽器も木管楽器もこれ以上は求め得ないような情感の籠った流麗な音楽を紡ぎ出している。

第3楽章は、冒頭のティンパニによる強打の効果的な間の取り方が、第1楽章冒頭の低弦と同様で実に巧み。

その後も、ティンパニを始めとした打楽器群の活かし方は素晴らしく、打楽器を重要視したマーラーの本質を見事に衝いている。

中間部の金管楽器のファンファーレにおける猛烈なアッチェレランドは凄まじい迫力であるし、その後に続く弱音のトランペットのパッセージのゆったりしたテンポによる歌わせ方は、まさに天国的な至高・至純の美しさ。

終結部のトゥッティのド迫力は、もはや言葉を失ってしまうほど圧倒的だ。

第4楽章は、メゾソプラノの竹本節子の歌唱が実に美しく、それに合わせるかのように、東京都交響楽団も雰囲気満点の実に美しい音楽を奏でている。

終楽章は、冒頭圧巻の迫力で開始される。

その後は、ゲネラルパウゼや思い切った強弱の変化等を効果的に駆使しつつ主部に繋いでいく。

主部への導入部のティンパニは凄まじい迫力であり、主部は風格豊かな堂々たる進軍だ。

この部分は、下手な指揮者にかかると冗長さを感じさせてしまうのだが、インバルの場合は、緩急自在のテンポ設定、アッチェレランドの効果的活用、強弱の変化など、あらゆる至芸を駆使して実に濃密でドラマティックな音楽を構築しているのが素晴らしい。

合唱が導入されて以降は、スケール雄大な壮麗さが支配しており、圧倒的な高揚と迫力のうちに、全曲を締めくくっている。

独唱陣は、終楽章においても見事な歌唱を披露しており、二期会合唱団も大健闘と言える。

何よりも素晴らしいのは東京都交響楽団であり、インバルの見事な統率の下、最高のパフォーマンスを示している。

臨場感あふれる極上の高音質録音も、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年05月20日


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益々その活動に輝きが増す生ける伝説、20世紀音楽の巨人ブーレーズによるバルトーク協奏曲プロジェクトの最終章。

クレーメル、バシュメット、エマール、名実共に現代最高のソリスト達、世界トップのオーケストラ、ベルリン・フィル、ロンドン響を従え、鉄壁の布陣で臨んだ演奏。

本盤には遺作となったヴィオラ協奏曲及びヴァイオリン協奏曲第1番を軸として、2台のピアノ、打楽器と管弦楽のための協奏曲のオーケストラバージョンが収められている。

名演であると考えるが、とりわけヴィオラ協奏曲については素晴らしい超名演であると高く評価したい。

それどころか、ヴィオラ協奏曲には競合する目ぼしい名演が殆ど見当たらないことから、本演奏の登場によって漸く同曲の真価がそのベールを脱いだと言っても過言ではあるまい。

それにしても、本演奏におけるバシュメットのヴィオラ演奏は圧倒的だ。

変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化など、実に多彩な表現を見せており、その桁外れの表現力の幅の広さは圧巻というほかはない。

同曲は、バルトークの最晩年の作品だけに、その内容の深遠な奥深さには尋常ならざるものがあると言えるが、バシュメットの多彩な表現力を駆使した彫りの深い演奏は、まさに同曲の心眼を鋭く抉り出していくに足る凄みさえ感じさせるところであり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分である。

ベルリン・フィルの卓越した技量をベースにした名演奏も、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

ヴァイオリン協奏曲第1番は、クレーメルの超絶的な技量をベースにしたいささかも歌わない冷徹とも言える表現が同曲の性格に見事に符号している。

バルトークの楽曲に特有の、ハンガリー風の民族色の表現にはいささか不足しているとは言えるが、同曲を純粋な現代音楽として捉えると、かかるクレーメルのアプローチにも十分な説得力があり、何らの遜色があるわけではないと考えられる。

また、本演奏でもベルリン・フィルの圧倒的な名演奏は健在だ。

さらに、本盤には2台のピアノ、打楽器と管弦楽のための協奏曲が収められているが、これはオーケストラバージョンとしての作品の出来としてはいささか問題がある。

もっとも、ピアノや打楽器パートについては見事な書法であり、純粋なソナタとしては傑作の名に値する楽曲であると言えるであろう。

これをエマールなどの豪華ソリストがこれ以上は求め得ないような名演奏を繰り広げているのが素晴らしい。

音質は、2004年及び2008年の録音ということもあって鮮明で素晴らしいものであると言えるが、とりわけヴィオラ協奏曲については同曲演奏史上でもトップの座に君臨する超名演であることもあり、今後はSHM−CD化、そして可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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本BOXには、テイト&イギリス室内管弦楽団によるモーツァルトの交響曲全集が収められているが、現代モーツァルト演奏のひとつの高峰を示した集成であると高く評価したい。

テイトの演奏には、録音当時40代という年齢を思わせない成熟と落ち着きがあり、常にテンポを中庸かやや遅めにとって、決して無理をしないため、音楽に気品があるのも良い。

内部の情熱や意志力を客観的と言えるまで抑制し、音楽的に純粋で、一点一画もおろそかにしないデリケートな演奏は、モーツァルトの多様さがそのまま表れた味わい深い音楽だ。

全曲とも音楽的に磨き抜かれていて、いぶし銀のような響きをもった晴朗な音楽となっており、テイトの良識と知性輝く演奏と言えよう。

透明度も高く、完璧を求める繊細な神経が張り詰め、アンサンブルもきめ細かく精緻、趣味がよく、端然とした音楽だ。

テイトとしては、それぞれの作品を限度まで歌わせているが、活力が強く、モーツァルトの音楽性をよく理解した表現である。

肉体的に大きなハンデを負いながら、ジェフリー・テイトがつくる音楽には少しもひ弱さや翳りがなく、常に生き生きと明晰でバランスが良い。

しかもケンブリッジで医学を修め、音楽家としての正式な教育を受けたのは20代も半ばを過ぎてから、それもロンドンのオペラ・センターで1年学んだだけというのだから、やはり特別な才能の持ち主と言うべきだろう。

その才能は知る人ぞ知るものであったらしく、特に、ブーレーズとカラヤンは、テイトの才能を高く評価していたという。

テイトの本格的なデビュー盤は、本BOXに収められたイギリス室内管弦楽団とのモーツァルトの第40、41番である。

1984年にイギリス室内管弦楽団とモーツァルトの連続演奏会を行なって大成功を収めたテイトは、翌年には同団史上初の首席指揮者に就任し、モーツァルトの交響曲をシリーズで録音することになる。

その成果が本BOXに収められているのであるが、イギリス室内管弦楽団の澄んだ響きを鋭敏な感覚で生かしたその演奏は、爽やかな劇性とともに豊かで深い精神性をそなえている。

もっとも、このモーツァルト・シリーズと、内田光子の希望で1985年に始まったモーツァルトのピアノ協奏曲全集での成功が、デビュー当初のテイトに幾分特定のイメージを与えることになったようである。

現代の若手指揮者のなかで、この人ほどスケールの大きな指揮をする人も珍しい。

爛レンペラーの再来瓩箸泙埜世錣譴討い襪世韻法△修硫山擇詫揚迫らずゆったりとしていて、しかも強固な芯が通っている。

いずれにおいてもテイトは、くっきりとアンサンブルを整え、細部まで的確な読みの通った明快な指揮によって、しなやかな変化にとんだ表現を聴かせてくれる。

時には、もう少し手練手管や適度な誇張があってもと思わないでもないが、バランスの良い構成力と爽やかで自然な音楽の流れから生まれる素直な歌と劇性が魅力である。

管楽器、ことに木管楽器の表情が絶妙で、深々とした呼吸の自然な語り口をもった演奏である。

マッケラス同様、室内オーケストラを指揮しているが、テイトの表現は、さらにシンフォニックでスケールが大きい。

録音の良さも注目すべきで、ことに管楽器群とティンパニの音がはっきりと分離して聴こえるのも、テイト盤ならではの特色である。

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classicalmusic at 20:53コメント(0)トラックバック(0)モーツァルト 

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フルトヴェングラーの代名詞と言えば、ベートーヴェンの交響曲であるが、9曲ある交響曲の中でも第1番を除くいわゆる奇数番の交響曲については、自他ともに認める十八番であったと言えるだろう。

それら4曲の交響曲については、かなりの点数の録音が遺されているのも特徴であり、近年になっても新発見の録音が発掘されたり、あるいはより音質のより音源の発見、さらにはSACD化などの高音質化が図られるなど、フルトヴェングラーの指揮芸術に対する関心は、没後50年以上が経っても今なお衰えの兆しが一向に見られないところだ。

フルトヴェングラーによるベートーヴェンの交響曲第9番の名演としては、諸説はあると思うが、これまでのところ、レコード史上不滅の金字塔と言われるバイロイト祝祭管弦楽団とのライヴ録音(1951年)、大戦中のベルリン・フィルとのライヴ録音(1942年)、円熟期のウィーン・フィルとのライヴ録音(1952年)が3強を形成していたと言える。

もちろん、これら3つの演奏自体が圧倒的な素晴らしさを誇っているのであるが、それ以上に、これらの名演についてはSACD化が図られているというのも大きいと言えるのではないだろうか。

フルトヴェングラーの録音は、演奏が素晴らしくても音質が良くないというのが定評であり、逆に、これまであまり評価が高くなかった演奏がSACD化によって、高評価を勝ち取ることもあり得るところである(例えば、1947年5月25日のベートーヴェンの交響曲第5番、第6番「田園」のライヴ録音)。

本盤に収められた1954年の交響曲第9番についても、先般のSACD化によって、そのような可能性を秘めた名演と言えるだろう。

これまで、とりわけトゥッティにおいて音が団子状態になったり、不鮮明で聴き取りにくい箇所が極めて多かったのが大幅に解消され、前述のバイロイト盤、ベルリン盤、ウィーン盤にも十分に対抗できるような良好な音質に生まれ変わった意義は、極めて大きいことである。

本演奏は、フルトヴェングラー最晩年のものであるが、それだけに最円熟期のフルトヴェングラーによる至高の指揮芸術を、これまでとは違った良好な音質で堪能することができるようのなったのは実に素晴らしいことと言えるだろう。

第1楽章冒頭の他の指揮者の演奏の追随を許さない深遠さ、その後のとても人間業とは思えないような彫りの深さ、第3楽章の誰よりもゆったりしたテンポによる演奏の神々しいまでの崇高さ、そして終楽章のドラマティックな表現など、フルトヴェングラーだけに可能な至芸は、我々聴き手の深い感動を誘うのに十分である。

オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団であるが、寄せ集めのバイロイト祝祭管弦楽団よりも遥かに実力が上であることも大きなアドバンテージであると言えるところであり、ホルンがデニス・ブレインであることも聴きものである。

いずれにしても、SACD化によって、これまでとは格段に良好な音質に生まれ変わるに至った本盤の演奏は、バイロイト盤、ベルリン盤、ウィーン盤とともに4強の一角を占めるとも言うべき至高の超名演に位置づけられることになったと言えるところであり、本SACD盤が廃盤にならないことを願うのみである。

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2015年05月19日


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R.シュトラウスのアルプス交響曲は、単一楽章で書かれアルプスの登山から下山までを22の主題で描写している、意外にもシュトラウスの作曲した最後の管弦楽曲。

ワーグナーの後継者と言われただけあり巨大な管弦楽による広いダイナミックレンジ、劇的な場面転換による音楽で聴く者を圧倒する。

曲が派手なだけにやり過ぎと感じてしまう所もあるとは思うが、カラヤンの演奏により軽快でスリリングなものになっている。

カラヤンはR・シュトラウスの音楽を十八番としており、管弦楽曲や協奏曲、管弦楽伴奏付き歌曲、オペラに至るまで数多くの録音を遺している。

特に、交響詩については、初期の「マクベス」を除き、それぞれ複数の録音を行っている。

ところが、これらの交響詩の集大成として作曲されたアルプス交響曲をレパートリーに加えたのは、本盤が録音された1980年になってからである。

家庭交響曲を1973年に録音していることからしても、これは実に遅すぎたのではないかとも言える。

その理由の解明はさておき、本カラヤン盤が登場する以前は、アルプス交響曲の録音などは極めて少なかったと言わざるを得ない。

ベーム&シュターツカペレ・ドレスデン(1957年)はモノラルであり問題外。

質実剛健なケンぺ&シュターツカペレ・ドレスデン(1970年)が唯一の代表盤という存在であったと言える。

この他にはスペクタクルなメータ&ロスアンジェルス・フィル盤(1975年)や快速のテンポによるショルティ&バイエルン放送響盤(1979年)があったが、とても決定盤足り得る演奏ではなかったと言える。

そうしたアルプス交響曲を、現在における一大人気交響曲の地位に押し上げていくのに貢献した演奏こそが、本盤のカラヤンによる至高の超名演である。

本カラヤン盤の発売以降は、様々な指揮者によって多種多様な演奏が行われるようになり、現在では、R・シュトラウスの他の有名交響詩の人気をも凌ぐ存在になっているのは周知の事実である。

いずれにしても、本演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金コンビが構築し得た究極の音のドラマと言えるだろう。

壮大なアルプスの、日の出から日没までを描いたR.シュトラウスの交響曲をベルリン・フィルの厚みのある弦セクションが本領を発揮し、美しい情景を艶やかに描き出している。

本演奏の2年後には、ザビーネ・マイヤー事件をきっかけとして両者の関係が修復不可能にまで悪化したことから、ある意味では、この黄金コンビの最後の輝きとも言える存在なのかもしれない。

本演奏でのベルリン・フィルのアンサンブルの鉄壁さはあたかも精密機械のようであり、金管楽器や木管楽器の超絶的な技量には唖然とするばかりだ。

肉厚の弦楽合奏や重量感溢れるティンパニの響きは圧巻の迫力を誇っており、カラヤンの代名詞でもある流麗なレガートも好調そのものだ。

アルプス交響曲については、前述のように本カラヤン盤の登場以降、様々な指揮者によって多種多様な名演が成し遂げられるようになったが、現在においてもなお、本演奏は、いかなる名演にも冠絶する至高の超名演の座を譲っていないものと考える。

音質については、従来盤でも非常に鮮明な高音質を誇っていたが、今回のSHM−CD化によって、若干の音質向上効果が見られたのではないかと考えられる。

可能ならば、SACD化を望みたいところであるが、多少なりとも音質向上が図られたことについては高く評価したい。

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classicalmusic at 22:37コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスカラヤン 

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シューリヒトが最晩年にウィーン・フィルとともにスタジオ録音したブルックナーの交響曲第8番(1963年)と第9番(1961年)は、音楽評論家を含め多くのクラシック音楽ファンに支持されている不朽の名盤とされている。

1960年代前半という時期を考えると、ブルックナーの交響曲については、いまだ改訂版を使用した演奏が跋扈するとともに、ヨッフムが最初の全集を録音している最中であり、ましてや朝比奈やヴァントなどは箸にも棒にもかからない若造。

その意味では、当時においては本演奏は画期的な名演であったことが十分に理解できるところだ。

このうち、第8番については、近年のヴァントや朝比奈などによって確立された悠揚迫らぬインテンポによる演奏とはかなり様相が異なった演奏であり、速めのテンポと、随所においてアッチェレランドも含むテンポの振幅も厭わないなど、むしろドラマティックな演奏に仕上がっている。

ブラスセクションによる最強奏も圧巻の迫力を誇っているが、無機的な音は皆無であり、常に懐の深い音色に包まれているのは見事である。

そして、これほどの劇的とも言うべき豪演を行っているにもかかわらず、演奏全体の造型がきわめて引き締まったものとなり、いわゆるブルックナーらしさをいささかも失うことがないというのは、巨匠シューリヒトだけに可能な圧巻の至芸であるとともに、シューリヒトがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。

そして、このような荒ぶるような豪演に適度の温もりと潤いを付加しているのが、ウィーン・フィルによる美しさの極みとも言うべき名演奏である。

シューリヒトを深く敬愛していたとされるウィーン・フィルであるが、本演奏においてもシューリヒトの指揮に見事に応えて、持ち得る実力を最大限に発揮した渾身の熱演を展開しているのが素晴らしい。

これに対して、第9番については、悠揚迫らぬインテンポを基調とした演奏を行っている。

ブラスセクション、とりわけホルンの朗々たる奥行きのある響きの美しさは、これぞブルックナーとも言うべき崇高な美しさを誇っており、まさにウィーン・フィルによる美演を最大限に生かした神々しいまでの本演奏は、シューリヒトとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地に達したものとも言えるのかもしれない。

各フレーズに込められたニュアンスの豊かさには尋常ならざるものがあるとともに、その端々から漂ってくる豊かな情感には、最晩年の巨匠シューリヒトならではの枯淡の境地さえ感じさせ、演奏の神々しいまでの奥行きの深さには抗し難い魅力がある。

第3楽章においては、もう少しスケールの雄大さが欲しい気もするが、第1楽章と第2楽章については文句のつけようがない完全無欠の崇高の極みとも言うべき名演奏であると言えるところであり、後年のヴァントや朝比奈と言えども、第1楽章と第2楽章に限っては、本演奏と同格の演奏を成し遂げるのが精一杯であったと言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、シューリヒトのブルックナーの交響曲の演奏でも最高峰の名演であるとともに、ブルックナーの交響曲第9番の演奏史上でも、現在においてもなおトップの座を争う至高の名演と高く評価したいと考える。

音質については、先般、待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、シューリヒト&ウィーン・フィルによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

そして今般、第8番と第9番がセットで、しかも低廉に入手できる運びとなったことは慶賀の念に堪えない。

ネット配信が隆盛を極める中で、パッケージメディアの最後の砦はSACD盤であると考えられるところであり、通常CD盤と同じ位の価格で購入できる時代が漸く到来したのである。

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classicalmusic at 20:42コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーシューリヒト 

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本盤は、R.シュトラウスを最も得意としたカラヤンが、《ばらの騎士》の元帥夫人などで共演し、高く評価し信頼していたトモワ=シントウを起用しての歌曲集が収められたアルバムである。

演奏は1985年のスタジオ録音であるが、これはいわゆるザビーネ・マイヤー事件の勃発後であり、カラヤンとベルリン・フィルの関係が修復不可能にまで悪化した時期である。

本盤に収められた「4つの最後の歌」は、「メタモルフォーゼン」と並ぶ作曲者の人生の最後を飾る畢生の名曲であるが、カラヤンには、1973年にヤノヴィッツと共演した録音があり、それはヤノヴィッツのこの上ない美声も相俟って、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代を象徴する極上の美演に仕上がっていた。

当該演奏は、ベルリン・フィルの一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルと各楽器セクションの超絶的な技量を駆使した名演奏に、カラヤンによる流麗なレガートが施された、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していたと言える。

この超名演に対して、本盤の演奏は、カラヤンとの関係に大きな亀裂が生じた時代のベルリン・フィルとの演奏。

それでも、さすがにカラヤンならではの重厚で、なおかつ極上の美しさを兼ね備えた名演とは言えるが、1973年盤と比較すると、前述のような両者の関係の亀裂やカラヤン自身の健康悪化もあって、カラヤンの統率力にも綻びが見られるところであり、演奏の精度や完成度といった点においては、若干ではあるが落ちると言わざるを得ないだろう。

しかしながら、本盤の演奏には、晩年のカラヤンならではの枯淡の境地とも言うべき独特の味わい深さがあるとも言えるところであり、前述の1973年盤とは異なった独特の魅力があると言えるのではないだろうか。

本盤の「4つの最後の歌」では、ことに後半の2曲などは素晴らしく、R.シュトラウスが死の前に書いた人生への訣別の思いがよく表れている。

カラヤンに見出され、育てられたトモワ=シントウの、情感豊かな表現が、この作品の陶酔的な世界を遺憾なくあらわしている。

彼女は、R.シュトラウスの特質である息の長いフレーズを、しなやかに気負いなく美しく歌い上げ、カラヤンの指揮さばきと見事に一体化して、R.シュトラウスの音楽の精髄を存分に堪能させてくれる。

ベルリン・フィルの洗練の極みを行く合奏と、トモワ=シントウの豊麗な声が作曲者晩年の澄み切った境地を余すところなく再現している。

トモワ=シントウもさることながら、ここでは心憎いほど巧妙なカラヤンの棒の魔術に酔わされる。

静寂感・黄昏感といった、R.シュトラウスの交響詩とまるで違う世界がこの曲にはあるが、R.シュトラウスが得意なカラヤンがベルリン・フィルと共にシルクのような煌びやかな伴奏をしている。

したがって、本盤の演奏は、音のドラマとしてはいささか綻びがみられると言えるものの、人生の諦観さえ感じさせる味わい深さという意味においては、筆者としては素晴らしい名演として高く評価したいと考える。

それにしてもトモワ=シントウの声と情感豊かさは、R.シュトラウス作品にほんとうにふさわしい。

この中で最も見事なのは「カプリッチョ」からの2曲で、トモワ=シントウが伯爵夫人の心の揺れ動きを、カラヤンと呼吸をひとつにして、役になりきって歌っている。

トモワ=シントウの表現力とカラヤン芸術が、R.シュトラウスの音楽への共感をきわめて美しく澄んだ表現によって伝えた名演というべきだろう。

音質については、これまでリマスタリングが行われたこともあって、従来CD盤でも十分に良好な音質であったが、今般ルビジウム・クロック・カッティングを施された上にSHM−CD化されたことよって、若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。

いずれにしても、トモワ=シントウ、カラヤンによる素晴らしい名演をSHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたいと考える。

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2015年05月18日


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アバドが初めて録音したモーツァルトの交響曲がこの第40番と第41番「ジュピター」であった。

アバドの指揮する独墺系の作曲家による楽曲については、そのすべてが名演とされているわけではないが、本演奏の当時のアバドは最も輝いていた時期である。

ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するアバドではあるが、この時期(1970年代後半から1980年代にかけて)に、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団、そしてウィーン・フィルなどと行った演奏には、音楽をひたすら前に進めていこうとする強靭な気迫と圧倒的な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が融合した比類のない名演が数多く存在していた。

本盤の演奏においてもそれは健在であり、どこをとっても畳み掛けていくような気迫と力強い生命力に満ち溢れているとともに、モーツァルト一流の美しい旋律の数々を徹底して情感豊かに歌い抜いていて、その瑞々しいまでの美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

アバドは2曲共、ゆとりあるテンポを自由に設定しており、管弦に独特のバランスを与えて、モーツァルトの音楽の陰影を拡大してみせるような演奏を聴かせる。

半面、デュナーミクには振幅の大きさと独自の厳しさがあるため、ユニークな表現が生まれている。

その意味では、極めて複雑な演奏様式をもったモーツァルトと言えるが、緩徐楽章にも工夫がこらされており、アバドの自己主張が強く感じられる。

作品を冷静な視線でとらえながら、十分なる歌心でじっくりと歌い込んでいくいかにもアバドらしい仕事ぶりだ。

緻密でありながら推進力にとみ、客観的でありながら冷たくなることのないバランスのとれたモーツァルトであり、作品そのもののすがすがしさがかつてない新鮮さで浮き彫りになっている。

ワルターとカザルスが旧世代を代表する名演だとすれば、アバドは新世代による洗練されたモーツァルトだが、第40番は充実した音楽美のなかから詠嘆の情がそくそくと胸に迫る。

第1楽章のテーマの孤独感はそのレガート奏法とともに上品な哀しみを伝え、アタックはつねに柔らかく、再現部の第1主題(5:40)など、少しも歌っていないのにあふれるような心の表現となるのである。

第2楽章とメヌエットも強調のない寂しさが流れ、後者の中間部ではホルンのソフトな音色が聴く者を慰めてくれる(2:45)。

そしてフィナーレでは素晴らしいアンサンブルとリズム、デリケートな感受性が快く、第2主題(1:03)におけるテンポの変化は現今の指揮者には珍しいケースと言えよう。

「ジュピター」はさらに出来が良く、まことにしなやかで柔軟な棒さばきであり、デリケートなニュアンスに満ち、音楽性満点だ。

指揮者の鋭敏な耳は最高に瑞々しい音色と楽器のバランスを創り出し、第2楽章など、少しも歌っていないのに余情があふれてくる。

弱音に何とも言えぬ香りがあり、かすかな愁いさえ湛えているからであろう。

フィナーレも強靭な構築と内部の燃焼を、表面はいかにもスムーズに流麗に成し遂げたもので、微妙な色合いとアンサンブルの見事さは特筆に価する。

アバドの演奏でやや物足りないのは第1楽章で、美しいことは無類だが、今一つの壮麗な迫力がほしい。

しかし、モダン楽器による演奏で、ワルター、カザルス、バーンスタインなどの表現を好まない人には、最優秀の録音とともに、モーツァルティアンな耳の悦びを与えてくれるはずだ。

ロンドン交響楽団がこれまた素晴らしく、重厚さにはいささか欠けているきらいがないわけではないが、これだけ楽曲の美しさを艶やかに堪能させてくれれば文句は言えまい。

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バッハの『無伴奏』がチェロにおける「旧約」聖書ならば、ベートーヴェンの『ソナタ』は「新約」聖書に匹敵すると言われるが、デビュー間もないヨーヨー・マと、盟友アックスによる若々しい掛け合いが音楽に溌剌としたエネルギーを与えた快演盤。

まさにベートーヴェンのチェロ・ソナタのエッセンスをとらえた代表的名演として高い評価を得て、世界中でベストセラーを記録した1983年録音作品である。

ヨーヨー・マは、1955年に台湾系中国人を両親としてパリに生まれたが、まもなく渡米し、ジュリアード音楽院でヤーノシュ・シュタルケルとレナード・ローズに師事した。

その優れた才能は早くから評判となり、欧米各地でオーケストラと共演、多くのリサイタルを開いて絶賛を博して、いまや現代のチェロ界を背負う最高の演奏家として注目されている。

彼が、ポーランド生まれで、アメリカを中心に活躍している名ピアニスト、アックスと組んだこの演奏は、新しい資料による新ベートーヴェン全集によっているため、これまでのとは多少違っている。

このふたりの演奏は、ロストロポーヴィチとリヒテルとの熱演とは対照的に、こちらは飛び切り才能のあるふたりの若者(当時)による掛け合いが楽しく、穏やかでのびのびとしている。

ヨーヨー・マのチェロは、きわめて豪胆で明快、曖昧さのない切れ味の鋭いもので、持ち前の美音と優れたテクニックで、実に素直に悠然と弾きあげており、新鮮な音楽をつくりあげているところがよい。

アックスのピアノもヨーヨー・マとぴったりと呼吸が合っており、最上のアンサンブルと言えるところであり、全体に新鮮で引き締まった好演である。

チェロを豊かに、艶やかに鳴らし、ヴァイオリンのように自由自在に扱うヨーヨー・マの特色が生かされ、自由奔放に歌い、弾むようなリズム感は、聴き手を爽快な気分にさせてくれる。

実にしなやかでのびのびと歯切れのよい運びの中にチェロとピアノのぴったりと息の合った二重奏がかもしだす抒情のかぐわしさは、他に類を見ないもので、自然体・平常心で臨んで曲の味わい深さを出した好演と言えるだろう。

アックスのピアノも少しも引けをとらない。

アックスもベートーヴェンの音楽解釈には一家言をもった演奏家であり、両者のデュオのコンセプトを見事に一致させながらも、古典派時代の単なる伴奏ピアノと独奏楽器という様式を脱した真の二重奏ソナタとしての緊張感に満ちた演奏を繰り広げており、過剰表現のない、洗練された形式美に横溢する。

このコンビの息の合った二重奏はある時は朗々とした歌を生み出し、ある時は熱っぽいクライマックスを築き上げてゆく。

特に第3番では、ベートーヴェンがスコアに書き込んだ野卑なユーモアが、特にスケルツォなどで大炸裂、音楽に新しい生命力を与えている。

そして、豪快な第3番に対して繊細緻密な第4番という具合に、その描き分けが完璧にうまい。

「魔笛」の主題による2曲もヨーヨー・マの技巧は優れていて危なげなところはどこにもなく、短調の変奏での深く熱っぽいチェロの歌が胸を打つ。

ネアカのベートーヴェンだが、両者の和気あいあいのアンサンブルと冴えたテクニックのせいで、これらの作品が実に楽しく味わえる。

音質は従来盤ではあるが、十二分に鮮明であり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献している。

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チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であったと言える。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI、来日時の演奏についてはアルトゥスやソニー・クラシカルなど)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢で練習に臨むとともに、かなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであったと言える。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、ブルックナーの交響曲についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

本演奏は、1989年2月、ウィーン・ムジークフェラインザールでの演奏会をソニー・クラシカルが収録したもので、これまで未発表だった幻のライヴ録音である。

因みにEMIから発売されているこのコンビによる通常CD盤では、本演奏の1年前の1988年のライヴ録音であり、高音質SACD化がなされた本盤こそは、チェリビダッケによるブルックナー「第4」の決定盤と言っても過言ではあるまい。

その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価し得るのではないかとも思われるところである。

これらのことを総合的に勘案すれば、本盤は、ブルックナーの交響曲に深い愛着を持ち続けたチェリビダッケがその晩年に到達し得た自らの指揮芸術の集大成とも言うべき名盤と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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classicalmusic at 00:58コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーチェリビダッケ 

2015年05月17日


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広範なレパートリーを誇ったカラヤンであるが、カラヤンは必ずしもシューベルトを得意とはしていなかったようである。

カラヤン自身は、シューベルトをむしろ好んでおり、若き頃より理想の演奏を行うべく尽力したようであるが、難渋を繰り返し、特に、交響曲第9番《ザ・グレイト》に関してはフルトヴェングラーに任せるなどとの発言を行ったということもまことしやかに伝えられているところだ。

実際に、レコード芸術誌の「名曲名盤300選」などにおいても、シューベルトの交響曲第8番《未完成》や交響曲第9番《ザ・グレイト》の名演として、カラヤン盤を掲げた著名な音楽評論家が皆無であるというのも、いかにカラヤンのシューベルトの評価が芳しいものでないかがよく理解できるところだ。

しかしながら、それほどまでにカラヤンのシューベルトの演奏は出来が悪いと言えるのであろうか。

ともに、3回ずつ、セッション録音を残している《未完成》と《ザ・グレイト》であるが、本盤に収められたの演奏はそれぞれ2回目のものであり、カラヤン&ベルリン・フィルがまさに黄金の絶頂期を迎える少し前のもので、この頃ならではの推進力ある演奏に仕上がっており、すみずみまでカラヤンの美学に貫かれているのが特徴だ。

《未完成》は1回目のフィルハーモニア管弦楽団との録音よりも、さらにカラヤンの自己主張が強い。

しかし作品を歪曲するものではなく、美しく魅力的なアプローチであり、なめらかな旋律線に独自の感覚美を与えながら、全体を感興豊かに表出している。

《ザ・グレイト》は《未完成》より明るい音質で、演奏は全体に速めのテンポをとり、強い推進力をもってシューベルトのスコアから劇性と交響性を引き出している。

重厚な響きが快速テンポで運ばれるドライブ感が痛快、輝く金管群も後年のものとはまた違った響きであり、聴いていて爽快で、ベルリン・フィルの超絶技巧が冴えに冴え、信じられない重低音が鳴り響き、轟き渡っている。

壮年期のカラヤン、まさに血の気が多い時期だったのだろう、非常に強力な統率力でオケをドライブしている。

天下のベルリン・フィルといえども、今ではこんな壮絶な演奏は不可能になってしまった。

そして、本演奏に存在しているのは、徹頭徹尾、流麗なレガートが施されたいわゆるカラヤンサウンドに彩られた絶対美の世界であると言えるだろう。

シューベルトの交響曲は、音符の数が極めて少ないだけに、特にこのようないわゆるカラヤンサウンドが際立つことになると言えるのかもしれない。

したがって、シューベルトらしさといった観点からすれば、その範疇からは大きく外れた演奏とは言えるが、同曲が持つ音楽の美しさを極限にまで表現し得たという意味においては、全盛期のカラヤンだけに可能な名演と言えるのではないかと考えられる。

また、シューベルトの心眼に鋭く切り込んでいくような奥の深さとは無縁の演奏ではあると言えるが、これだけの究極の美を表現してくれたカラヤンの演奏に対しては文句は言えまい。

なお、カラヤンは当録音の以後にもこの2曲を含むシューベルトの交響曲全集をEMIに録音しており、華麗さと美への追求はいっそう徹底していると言えるが、カラヤンのアプローチがより徹底している本盤のほうを筆者はより好んで聴いている。

特にカラヤンを好まない聴き手にとっては、本演奏の方がより好ましい演奏に聴こえることも十分に考えられるところである。

いずれにしても、本演奏は、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルが醸成した究極の美の世界、そしてカラヤン流の美学が具現化された究極の絶対美の世界を堪能することが可能な極上の美を誇る名演と高く評価したい。

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classicalmusic at 22:51コメント(0)トラックバック(0)シューベルトカラヤン 

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本盤には、チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスといった独墺系の交響曲集が収められている。

それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左であったと言える。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであったと言える。

チェリビダッケの演奏が他の演奏と決定的に異なる点は、オーケストラの音色の透明性にあり、100人からなるオーケストラをまるで1つの楽器のように演奏するのである。

このようなことが出来たのは、後にも先にもチェリビダッケ&ミュンヘン・フィルのみであろう。

また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたシューマンとブラームスについては、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。

確かに、テンポは遅い。

しかしながら、シューマンやブラームスをチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

いずれにしても、これらの演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。

個人的に気に入っているのは、ベートーヴェンの「田園」で、このベートーヴェンとしては比較的牧歌的な曲を、信じがたいくらいの美しさで歌い上げており、この美しさは筆舌しがたいものがある。

その他の楽曲も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

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これはどうしようもない演奏だ。

一時はカラヤンと覇を争うほどの大指揮者であったバーンスタインが、何故にこのような駄演を行ったのか理解に苦しむところだ。

第2番の第1楽章はそれでもまだましと言える。

大仰で濃厚の極みとも言うべき音楽は、シベリウスの音楽というよりはマーラーの音楽を鑑賞しているような錯覚を起こさせるが、テンポなども含めとりあえずは常識の範囲内におさまっており、少なくとも凡演のレベルには達していると言える。

ところが第2楽章。

バーンスタインは何を勘違いしたのであろうか。

にわかには信じ難いような超スローテンポで曲想を進めていくが、ここまでいくともはや音楽ではなく単なる音の羅列ではあるまいか。

バーンスタインが、このような音の羅列で何を表現したかったのかは不明であるが、少なくともこの楽章に関しては、よほどのバーンスタインの熱狂的なファンでないと、全体を聴き通すことすら苦痛であると言えるだろう。

第3楽章は、本演奏の中ではもっともまともな演奏と言える。

中間部の粘ったような音楽はいかにも晩年のバーンスタインであり、その濃厚な体臭に辟易としないでもないが、少なくとも第2楽章の音の羅列を聴いた後では一服の清涼剤のように感じる聴き手は筆者だけではあるまい。

そして終楽章であるが、思わず耳を覆いたくなる。

シベリウスが作曲した旋律の中でも特に勇壮で美しい名旋律を、バーンスタインはテューバを最強奏させることによって品の悪い騒音に変容させてしまった。

このような演奏を聴いていると、聴いていて恥じらいさえ覚えるほどであり、晩年のバーンスタインはあらゆる楽曲をマーラーの音楽であると思っていたのではないかと勘繰りたくもなる。

いずれにしても、本演奏は同曲演奏史上でも最悪の駄演であり、熱狂的なバーンスタインのファンだけに存在意義がある演奏と言えるだろう。

バーンスタインは、1960年代にもニューヨーク・フィルを指揮して同曲を録音しており、それはヤンキー気質丸出しの外面的な演奏とは言えるが、本演奏よりはよほど優れているのではないかと考えられるところだ。

併録の第7番も、晩年のバーンスタインならではの大仰にして濃厚な演奏であり、筆者としても到底容認し難い凡演であると言えるが、第2番ほどのデフォルメはなされておらず、駄演とまでは言えないのではないかと考える。

もっとも、ユニバーサルはベスト100のCDを選定するに際して、何故に本盤を選定したのであろうか。

シベリウスの管弦楽曲集においてヤルヴィ盤(オーケストラはエーテボリ交響楽団)を選んだのであれば、交響曲第2番&第7番においても同様にヤルヴィ盤を選定すべきである。

このような駄演をベスト100に選定したユニバーサルに対して、この場を借りて猛省を促しておきたい。

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2015年05月16日


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1974年6月30日 東京文化会館に於ける伝説的名演のライヴ録音。

ノイマンは同曲を4度にわたってスタジオ録音しているが、ノイマンの最も脂の乗り切っていた時期に収録された本ライヴ録音こそ、永遠の名盤であると言うべきであろう。

スメタナの交響詩「わが祖国」はチェコ音楽の1丁目1番地とも言える国民的作品である。

それだけに、チェコ・フィルにとっても名刺代わりの作品であり、累代の常任指揮者や錚々たる客演指揮者などがこぞって同曲を録音してきた。

かつてのターリッヒをはじめ、アンチェル、クーベリック、スメターチェクなどの大指揮者の名演は燦然と輝いているし、小林研一郎などによる個性的な名演も記憶に新しいところだ。

こうした個性的な名演の中で、いぶし銀とも言うべき渋い存在感を有している名演こそが、本盤に収められたノイマンとのライヴ録音である。

ノイマンは、実力の割には必ずしも華々しい経歴を有しているとは言えず、チェコ・フィルとの演奏も今や、知る人ぞ知る存在に甘んじているとさえ言えるが、本演奏は、そうした地味な存在であったノイマンの実力を窺い知ることが可能な稀代の名演奏であると言っても過言ではあるまい。

本演奏も、ノイマンの華麗とは言い難い経歴を表しているかのように、華麗さとは無縁の一聴すると地味な装いの演奏である。

テンポもどちらかと言うとやや速めであると言えるところであり、重々しさとは無縁とも言えるところだ。

しかしながら、各フレーズに盛り込まれたニュアンスの豊かさ、内容の濃さ、そして彫りの深さには尋常ならざるものがあり、表面上の美しさだけを描出した演奏にはいささかも陥っていない。

そして、ノイマンも、同曲の込められた愛国的な情熱に共感し、内燃する情熱を傾けようとはしているが、それを直截的に表現するのではなく、演奏全体の厳しい造型の中に封じ込めるように努めているとも言えるところであり、そうした一連の葛藤が、本演奏が、一聴すると地味な装いの中にも、細部に至るまで血の通った内容の豊かな演奏になり得ているとも言えるのかもしれない。

加えて、本演奏で優れているのは、演奏全体に漂っている格調の高さ、堂々たる風格である。

同曲は、チェコの民族色溢れる名旋律の宝庫であるが、ノイマンは、陳腐なロマンティシズムに陥ることなく、常に高踏的な美しさを保ちつつ、まさに大人の風格を持ってニュアンス豊かに描き出していく。

ノイマンの指揮は決して奇を衒うものではなく、あくまでも自然体の正統的なアプローチであり、楽曲によっては時として物足りなさを感じることもあるが、「わが祖国」のようないわゆるお国ものを採り上げた時は、こうしたアプローチが見事に効を奏し、チェコ以外の指揮者や団体では到底達しえないような境地の名演に仕上がっている。

その境地とは、まさに祖国への愛や民族の誇りであり、それが本盤を聴いた我々を深く感動させるのだと思う。

これぞ、まさしく巨匠の至芸と言うべきであり、累代の常任指揮者による同曲の名演と比較しても、いささかも遜色のない名演に仕上がっていると評しても過言ではあるまい。

本演奏については、これだけの名演であるにもかかわらず、これまで発掘されず埋もれていたため発売はおろか高音質化の波から取り残されてきた。

そのような中で、今般、かかる名演がSACD化がなされ発売されたということは、本演奏の価値を認識させるという意味においても大きな意義がある。

いずれにしても、ノイマン&チェコ・フィルによる素晴らしい名演を現在望み得る最高の音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 22:47コメント(0)トラックバック(0)スメタナノイマン 

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本全集は、カラヤン&ベルリン・フィルという黄金コンビの最絶頂期である1970年(「第9」のみ1968年)に収録された映像作品である。

カラヤンはベートーヴェンの交響曲全集を本DVD作品を除けば4度にわたってスタジオ録音している。

このうち、フィルハーモニア管弦楽団との最初の全集を除けばすべてベルリン・フィルとの録音となっている。

いずれの全集もカラヤンならではの素晴らしい名演であると考えているが、中でもカラヤンの個性が最も発揮されたのは1970年代に録音された3度目の全集ということになるのではないだろうか。

その他では、先般、FM東京から、カラヤン&ベルリン・フィルの1977年の来日時の驚くべき普門館ライヴによる全集が発売されたところだ。

本全集は、さすがにあの超絶的な名演には敵わないが、それらとほぼ同じスタイルによる名演を映像作品によって味わうことが可能であり、精緻さと重厚さを兼ね備えた20世紀最高のベートーヴェン演奏と言える。

演奏は、この時期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの圧倒的な勢力がとにかく凄まじく、その奔流と言いたくなる強烈な流動感に息を飲まされる。

特にカラヤンが指揮した時のベルリン・フィルの気合いの入った集中力の高さは見ていて本当に圧倒される。

名うてのスタープレイヤーが数多く在籍していた当時のベルリン・フィルは、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器の美しい響き、そしてフォーグラーによる雷鳴のようなティンパニの轟きなどが一体となった圧倒的な演奏を展開していた。

カラヤンは、これに流麗なレガートを施し、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築を行っていたと言える。

それは本全集においても健在であり、これほどの圧倒的な音のドラマは、前述の普門館ライヴ録音は別格として、クラシック音楽演奏史上においても空前にして絶後ではないかと考えられるほどの高みに達している。

もちろん、カラヤンは本全集における各曲の演奏においては音のドラマの構築に徹していることから、各楽曲の精神的な深みの追求などは薬にしたくもないと言える。

したがって、とある影響力の大きい音楽評論家などは、精神的な深みを徹底して追求したフルトヴェングラーの名演などを引き合いにして、本全集のみならずカラヤンのベートーヴェン演奏の精神的な内容の浅薄さを酷評しているが、本全集はかかる酷評を一喝するだけの圧倒的な音のドラマの構築に成功しており、筆者としてはフルトヴェングラーの名演などとの優劣は容易にはつけられないものと考えている。

また、各楽曲の精神的な深みの追求がないという意味においては、何色にも染まっていない演奏であると言える(もちろん、表面的な音はカラヤン色濃厚であるが)ところであり、初心者には安心してお薦めできる反面で、特に熟達した聴き手には、各曲への理解力が試される難しい演奏と言うことができるのかもしれない。

本DVDを見聴きして、カラヤンが絶頂に在る事、ベルリン・フィルの充実度が最高の時期である事が誰の眼にも解るであろう。

録画・録音場所の選定や録画スタイルに異論を抱く愛好家が多いのは事実であり、筆者自身もそのように考えていた。

しかし、カラヤン自身が考えに考えた上での映像であり、チャレンジであった事が痛いほど画面から解る。

幸いフイルムに記録されており、年月を経た今日でも忠実な色再現をしており、音質に至っては本当に申し分ない。

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2010年よりユニバーサルが開始したシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化シリーズであるが、当初は、これまでに既にハイブリッドSACD盤で発売されていたものの焼き直しに過ぎなかった。

しかしながら、2011年6月より、これまで一度もSACD化されていない録音を採り上げており、フルトヴェングラー、ベーム、アルゲリッチ、クーベリック、ヨッフムと続き、今般はついに待望のカラヤンの登場となった。

カラヤンのシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤としては、既にベートーヴェンの交響曲第3番及び第4番、そしてチャイコフスキーの第3番ほかが収められた2枚が既発売であり、今後、どの演奏をシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化するのか大変興味深いところであったが、管弦楽の小品集5枚を選定したのには大変驚かされたところだ。

もっとも、意表をつく選定ではあると言えるが、カラヤンは大作のみならず、管弦楽曲の小品にもいささかも手を抜かずに真剣勝負で演奏に臨み、圧倒的な名演の数々を遺しただけに、かかる選定もカラヤンの芸術の一面を知る意味においては妥当であると言うべきであろう。

本盤には、1967年にスタジオ録音されたオペラ間奏曲集が収められている。

本盤に収められた各楽曲の演奏の印象を一言で言うと巧い、そしてただただ美しいということである。

1967年と言えば、まさにカラヤン、そしてベルリン・フィルの全盛時代に相当する。

かかる全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルは、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックと美音を振り撒く木管楽器群、雷鳴のようなティンパニなどが融合し、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使した圧倒的な音のドラマとも言うべき演奏の数々を行っていた。

カラヤンは、流麗なレガートを施すことによって曲想を徹底して磨き抜いたところであり、こうして磨き抜かれたベルリン・フィルの美しい音色は、いわゆるカラヤン・サウンドとも称されていたところだ。

本盤に収められた各楽曲の演奏においてもそれは健在であり、どこをとってもいわゆるカラヤン・サウンドに満たされた極上の美演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

そして、これらの各楽曲におけるカラヤンの聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さは筆舌に尽くし難いものがあり、まさに本盤に収められた各楽曲の演奏は、あらゆる意味で非の打ちどころがない圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

どの楽曲の演奏についても、前述のように巧い、そして美しいという評価が当てはまるが、特に、タイスの瞑想曲。

同曲の演奏におけるミシェル・シュヴァルベのヴァイオリン・ソロは、もはやこの世のものとは思えないような美しさであり、カラヤンによる心憎いばかりの表情づけの巧さも相俟って、身も心も蕩けてしまいそうな極上の絶対美の世界を構築しているとさえ言えるだろう。

シュミットの歌劇「ノートル・ダム」間奏曲の重厚な弦楽合奏の滴るような美しさは、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルだけに描出可能な至高の名演奏と言っても過言ではあるまい。

本盤については、これまでリマスタリングが行われるなど、高音質化の不断の取り組みが行われてきたが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われることによって、従来CD盤をはるかに凌駕するおよそ信じ難いような圧倒的な高音質に生まれ変わったところだ。

本シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の艶やかな鮮明さや臨場感にはただただ驚愕するばかりであり、あらためて当該シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛期の極上の美演を、現在望み得る最高の高音質を誇るシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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2015年05月15日


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凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、テンシュテット&ロンドン・フィルの1983年におけるマーラーの交響曲第6番のライヴ録音が発売されたのはクラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、マーラーの数ある交響曲の中でもとりわけ第6番を得意としており、複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1983年)、次いで本盤のライヴ録音された演奏(1983年)、そしてその8年後にライヴ録音された演奏(1991年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

いずれ劣らぬ名演ではあるが、随一の名演は1991年の演奏であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれたからである。

したがって、1991年の演奏には、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開しており、1つ1つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

とはいえ、それ以前もいささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げていたところであり、本盤に収められた1983年にライヴ録音された演奏もそうしたことが言えるところだ。

そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

前述のように第6番では、1991年のライヴ録音が最高峰に君臨する名演であるのは自明の理ではあるが、本盤に収められた交響曲第6番の演奏も圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

オーケストラは必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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途轍もない超名演だ。

このような超名演が発掘されたことは、クラシック音楽ファンにとっては何よりの大朗報であり、本盤の発売を行うに際して努力をされたすべての関係者に対して、この場を借りて心より感謝の意を表したい。

バーンスタインは、ワルターやクレンペラーといったマーラーの直弟子ではないが、おそらくは今後とも不世出であろう史上最高のマーラー指揮者。

何よりも、DVD作品を含めると3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音(最後の全集については、交響曲「大地の歌」や交響曲第8番及び第10番の新録音を果たすことが出来なかったことに留意しておく必要がある)したことがそれを物語っており、いずれの演奏も他の指揮者の演奏を遥かに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっているとさえ言える。

バーンスタインは、そうしたマーラーの数ある交響曲の中で最も愛していたのは、マーラーの交響曲中で最高傑作の呼び声の高い第9番であったことは論を待たないところだ。

バーンスタインは、本盤が登場するまでの間は、同曲について、DVD作品を含め4種類の録音を遺している。

最初の録音は、ニューヨーク・フィルとのスタジオ録音(1965年)、2度目の録音は、ウィーン・フィルとのDVD作品(1971年)、そして3度目の録音は、ベルリン・フィルとの一期一会の演奏となったライヴ録音(1979年)、そして4度目の録音は、コンセルトヘボウ・アムステルダムとのライヴ録音(1985年)である。

本盤の演奏は、コンセルトヘボウ・アムステルダムとの演奏が1985年5〜6月のものであることから、その約2か月後の1985年8月のものであり、現時点では、バーンスタインによる同曲の最後の演奏ということになる。

9月には、同じくイスラエル・フィルと来日して、今や我が国では伝説的となった同曲の至高の超名演を成し遂げるのであるが、当該来日公演のCD化がなされていない現段階のおいては、本盤の演奏こそは、バーンスタインの同曲演奏の究極の到達点と言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏は、壮絶な迫力(例えば、第3楽章終結部の猛烈なアッチェレランド、終楽章の濃厚かつ情感豊かな味わい深さなど)を誇っているとさえ言えるだろう。

これは、イスラエル・フィルという、同じユダヤ人としてのマーラーへの深い共感度を誇ったオーケストラを起用したこと、そして、録音を意識しないで演奏を行っていたであろうことに起因するオーケストラの渾身の熱演ぶりにあると言えるのではないだろうか。

おそらくは、同曲の最高の演奏という次元を超えて、これほどまでに心を揺さぶられる演奏というのはあらゆる楽曲の演奏において稀であるとさえ言えるところであり、まさに筆舌にはもはや尽くし難い、超名演の前に超をいくつ付けても足りないような究極の超名演と高く評価したい。

音質も非常に優れたものと言えるところであり、コンセルトヘボウ・アムステルダムとの演奏が今一つの音質であっただけに、大きなアドバンテージとも言えるだろう。

これだけの超名演だけに、可能であれば、SACD盤で発売して欲しかったと思う聴き手は筆者だけではあるまい。

それにしても、本演奏がこれだけ素晴らしいだけに、どうしても更なる欲が出てくる。

あの伝説的な来日公演をCD化することはできないのであろうか。

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