2015年05月

2015年05月15日


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白血病という不治の病を患い、49歳という若さでこの世を去らなければならなかった悲劇の指揮者フリッチャイであるが、米国において鉄壁のオーケストラトレーナーとして君臨した同じハンガリー人指揮者のライナーやセル、オーマンディ、そしてショルティなどとは一線を画するようなヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏を行っていた。

同じハンガリー人指揮者であったケルテスの海水浴中の不慮の死と同様に、そのあまりにも早すぎる死は、クラシック音楽界にとっても一大損失であった。

仮にもう少しフリッチャイが長生きをしていれば、世界の指揮者地図は大きく塗り替えられることになったのではないかとさえ思われるほどだ。

本盤に収められたウィーン交響楽団とのモーツァルトの交響曲集は、フリッチャイの活躍の舞台が国際的になってからの晩年の録音で、既に白血病を発症したフリッチャイが、懸命の闘病生活の中で演奏を行ったものである。

それだけに、本演奏にかけたフリッチャイの気迫と執念には並々ならぬものがあったことは容易に想像がつくところだ。

フリッチャイのモーツァルトへの熱い共感と晩年の芸風が端的に示された演奏のひとつで、特に第40番のゆったりと大きなうねりをもった運びと豊かなロマンを湛えた表現は独特である。

と同時に、その演奏は、美しく引き締まった音楽の流れと推進力を常に失うことがない。

あたかも、間近に迫る死を予見しているかのような不気味さを湛えているところであり、若干のテンポの変化を交えつつ、1音1音を心を込めて歌い抜き、彫りの深い演奏を展開しているところだ。

その尋常ならざる心の込め方は、時には慟哭にさえ聴こえるほどであり、あたかも忍び寄る死に対して必死で贖おうとするフリッチャイ自身を彷彿とさせるように思われてならない。

非常にゆったりとしたテンポによる演奏ではあるが、冗長さを感じさせず、演奏全体の造型もいささかも弛緩することがない。

そして、これだけ思い入れたっぷりの渾身の熱演を展開しているにもかかわらず、同曲のモダン楽器による演奏において時として見られる陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

他方「ジュピター」は、健やかで厳しい表現としなやかに強い音楽の変化が印象的で、ここでも緩徐楽章における豊かに澄んだ気宇の大きな歌が味わい深い。

ここでフリッチャイは、初期からの特徴である明快なリズムやフレージングを保ちながら、表情がいっそう豊かになり、それが演奏に奥行きを与えている。

フリッチャイの演奏様式は、彼に先立つ巨匠たちとは違い、力強くはあっても重くなく、「ジュピター」交響曲にふさわしい威厳と爽やかな気分とを調和させ、彼の円熟を示す演奏の1つと言えよう。

晩年のフリッチャイの演奏に共通しているのは、まさにこうして全人格的に音楽を受け止め、厳しく核心を突いたその表現と言うべきだろう。

49歳で世を去ったフリッチャイは、確かに道半ばで倒れた夭逝の音楽家であり、いわゆる巨匠という範疇には入らない指揮者なのかもしれない。

特に晩年の演奏には、病気をおして短期間にそのキャリアを全力で走り抜けたが故の傷があるのも確かである。

しかし、それだけにまたフリッチャイが、その短い晩年に成し遂げたような変貌と円熟ぶりは、他に例がないと言って良いだろう。

そこには通常は何十年という時間と経験がもたらす円熟とはまた違った、極めて人間的な、そして切実なまでの純粋さと美しさをもった世界がある。

ここには肉体的な危機の中でも音楽に対する情熱を失うことのなかったフリッチャイの音楽家としての志の高さが、はっきりと刻印されている。

そして、まさにこのことが、今も聴き手の心を打ち、その個性的な輝きを失わない理由と言って良いだろう。

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2015年05月14日


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本盤に収められたブラームスのピアノ協奏曲第2番、そして、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの第23番「熱情」は、東西冷戦の真っ只中であった時代、当時の鉄のカーテンの向こう側からやってきた壮年期のリヒテルによる記念碑的な名演だ。

協奏曲、ソナタともに、リヒテル最初のアメリカ・ツアーの折の録音で、その雄弁な表現に圧倒されてしまう。

リヒテルは、偉大なピアニストであったが、同時代に活躍していた世界的な大ピアニストとは異なり、全集を好んで録音したピアニストではなかった。

こうした事実は、これだけの実績のあるピアニストにしては大変珍しいとも言えるし、我々クラシック音楽ファンとしてはいささか残念であるとも言えるところである。

したがって、リヒテルが特定の作曲家のピアノ協奏曲全集やピアノ・ソナタ全集を録音したという記録はない。

ブラームスのピアノ協奏曲について言えば、スタジオ録音としては、単発的に、本盤の第2番などを録音し、後年にマゼールと再録音が遺されているが、他の諸曲についてはライヴ録音が何点か遺されているのみである。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタについても同様であり、こうしたことは、リヒテルがいかに楽曲に対する理解と確信を得ない限り、録音をしようとしないという芸術家としての真摯な姿勢の証左とも言えるのではないだろうか。

それだけに、本盤に収められた各曲の演奏は、貴重な記録であると同時に、リヒテルが自信を持って世に送り出した会心の名演奏とも言えるところだ。

ブラームスのピアノ協奏曲第2番にしても、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番「熱情」にしても、リヒテルは、超絶的な技巧は当然のことながら、演奏全体のスケールの雄大さ、各フレーズに込められたニュアンスの豊かさ、そして表現の彫りの深さなど、どれをとっても非の打ちどころのない演奏を展開している。

人間業とは思えないような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現の幅広さは桁外れであり、十分に個性的な表現を駆使していると言えるが、それでいて、そうした表現があくまでも自然体の中で行われており、芝居がかったところがいささかも見られない。

要は、恣意的な解釈が聴かれないということであり、ブラームスやベートーヴェンへの深い愛着と敬意以外には私心というものが感じられないのが見事である。

個性の発揮とスコア・リーディングの厳格さという二律背反する要素を両立させている点に、本演奏の凄みがあるとも言えるだろう。

とりわけ、ピアノ・ソナタ「熱情」におけるピアノが壊れてしまうと思われるような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまでのダイナミックレンジの幅広さには出色のものがあり、終楽章終結部の猛烈なアッチェレランドはもはや人間業とは思えないほどの凄みのある演奏に仕上がっていると高く評価したい。

またブラームスのピアノ協奏曲第2番では、オケとともに凄まじい迫力がその演奏にもたらされており、刺激的なものとなっている。

また、同曲に込められたブラームスの枯淡の境地とも言うべき美しい旋律の数々を、格調の高さを損なうことなく情感豊かに歌い抜いているのも素晴らしい。

そして、演奏全体のスケールの雄大さは、ロシアの悠久の大地を思わせるような威容を誇っていると言えるところであり、これぞまさしくリヒテルの本演奏におけるピアニズムの最大の美質と言っても過言ではあるまい。

バックをつとめているのはラインスドルフ&シカゴ交響楽団であるが、さすがにここでもドイツ風の重厚な演奏を行っており、リヒテルによる凄みのあるピアノ演奏のバックとして、最高のパフォーマンスを示していると高く評価したい。

リヒテルの再録音、即ちマゼールと共演したものもあるが、間延びしていて、ラインスドルフとの共演よりも集中力が保持できていないもどかしさを感じさせるところであり、それに対しこの旧盤は一気呵成に終楽章まで聴かせ、燃焼度も高く、オーケストラと一体となってブラームスの世界を紡ぎ出している。

いずれにしても、本盤に収められた各演奏は、リヒテルのピアニストとしての偉大さを十二分に窺い知ることが可能な圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

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ショルティは20世紀後半を代表する指揮者の1人であるが、我が国の音楽評論家の間での評価は実力の割に極めて低いと言わざるを得ない。

先般、お亡くなりになった吉田秀和氏などは、数々の著作の中で、公平な観点からむしろ積極的な評価をしておられたと記憶するが、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評しているとある影響力の大きい音楽評論家をはじめ、ショルティを貶すことが一流音楽評論家の証しと言わんばかりに、偏向的な罵詈雑言を書き立てる様相ははっきり言っておぞましいと言うほかはないところだ。

ニキシュは別格として、ライナーやオーマンディ、セル、ケルテスなど、綺羅星の如く登場したハンガリー人指揮者の系譜にあって、ショルティの芸風は、強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするもの。

そうした芸風でシカゴ交響楽団を鍛え抜いた力量は、先輩格のライナー、オーマンディ、セルをも凌駕するほどであったと言えよう。

もちろん、そうした芸風が、前述のような多くの音楽評論家から、無機的で冷たい演奏との酷評を賜ることになっているのはいささか残念と言わざるを得ない。

確かに、ショルティの芸風に合った楽曲とそうでない楽曲があったことについて否定するつもりは毛頭ないが、少なくともショルティの演奏の全てを凡庸で無内容の冷たい演奏として切って捨てる考え方には全く賛同できない。

ただ、ショルティのそうした芸風からずれば、ウィーン・フィルとの相性が必ずしも良くなかったことはよく理解できるところだ。

フレージングの1つをとっても対立したことは必定であり、歴史的な名演とされる楽劇「ニーベルングの指環」の録音の合間をぬって録音がなされたとされる、本盤に収められたワーグナーの管弦楽曲集にしても、ウィーン・フィルの面々は、ショルティの芸風に反発を感じながらも、プロフェッショナルに徹して演奏していたことは十分に想定できるところだ。

膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、ショルティはワーグナーを数多く手掛けており、ウィーン・フィルとともに本演奏を含め主要な楽劇等をスタジオ録音しているなど、ワーグナーを自らの最も重要なレパートリーの1つとして位置づけていた。

それだけにショルティは、ワーグナー演奏には相当な自信を持っているのであろうが、本盤では、特に最強奏の箇所において力づくのなりふり構わぬ響きが際立っている。

特に、1960年代に録音された「リエンツィ」や「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、そして「トリスタン」にその傾向が著しい。

それ故、ワーグナーの楽曲がショルティの芸風に必ずしも符号していたかどうかは疑問のあるところであるが、それでもウィーン・フィルとの一連の録音は、ショルティの鋭角的な指揮ぶりを、ウィーン・フィルの美音が演奏全体に潤いを与えるのに大きく貢献しており、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

多少、無機的な音はするものの、やみくもに楽器を大きく打ち鳴らすだけの“迫力”とは次元を異にする、洗練された“凄み”のようなものが伝わってくる。

華麗で重厚な響きの中にダイナミックなオーケストレーションが展開され、少なからぬ人が「ワーグナー管弦楽曲のCDはこうあってほしい」と思うであろう形の1つ、と言って良いかもしれない。

もちろん、ウィーン・フィルとしてはいささか不本意な演奏であろうが、それでも生み出された音楽は立派な仕上がりであり、聴き手としては文句を言える筋合いではないと言える。

いずれにしても、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さにウィーン・フィルならではの美音による潤いが付加された本演奏は、若き日のショルティを代表する名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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凄い演奏だ。

いまや世界最高のマーラー指揮者として君臨しているインバルの勢いや、もはや誰もとどめることが出来ない。

インバルを世界的巨匠へ押し上げたマーラー演奏であり、圧倒的な技術とアンサンブルで驚くべき見事な演奏を繰り広げる東京都交響楽団と、両者のボルテージが最高潮へと導き、世界最高峰の演奏と言われるマーラーが姿を現す。

インバルによるマーラーの交響曲演奏と言えば、かつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団との全集(1985年〜1988年)が名高いが、ここ数年にわたって、東京都交響楽団やチェコ・フィルとの演奏は、段違いの素晴らしさと言えるのではないだろうか。

本盤に収められた東京都交響楽団とのマーラーの交響曲第1番の演奏は、インバルとしては、前述の全集中に含まれた同曲の演奏(1985年)、チェコ・フィルとの演奏(2011年)に次ぐ3度目の録音となる。

同曲は、マーラーの青雲の志を描いた交響曲であるだけに、前回の全集の中でも非常に優れた演奏の1つであったし、チェコ・フィルとのものも大変素晴らしい出来映えであったが、本盤の演奏は更に優れた名演に仕上がっており、まさに、近年のインバルの充実ぶりが窺える圧倒的な超名演と言っても過言ではあるまい。

かつてのインバルによるマーラーへの交響曲演奏の際のアプローチは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションを抑制して、可能な限り踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。

全集の中でも優れた名演の1つであった第1番についても例外ではなく、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な名演奏ではあるが、今一つの踏み外しというか、胸襟を開いた思い切った表現が欲しいと思われることも否めない事実である。

ところが、チェコ・フィルとの演奏、そして、東京都交響楽団との本演奏においては、かつての自己抑制的なインバルはどこにも存在していない。

インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、どこをとっても気迫と情熱、そして心を込め抜いた濃密な表現を施しているのが素晴らしい。

それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的かつロマンティックな表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、さすがの至芸と言うべきであろう。

いずれにしても、テンポの効果的な振幅を大胆に駆使した本演奏のような密度の濃い表現を行うようになったインバルによる超名演を聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニなどの累代のマーラー指揮者が鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられないところだ。

さらに、前回のチェコ・フィルとの演奏よりも細かなニュアンスや間の取り方など、非常に深みのある味わい深い円熟の名演奏になっていて、同曲の代表的名盤との地位を確立したと言って良いだろう。

オーケストラに東京都交響楽団を起用したのも功を奏しており、本超名演のグレードをさらに上げる結果となっていることを忘れてはならない。

例えが適切かどうか分からないが、インバルと、都響及びチェコ・フィルとの関係は、フルトヴェングラーとベルリン・フィル及びウィーン・フィルとの関係に似ているような気がする。

つまり前者のパートナーとは徹底的に自分のやりたい音楽を追求し、後者はオーケストラの特性をある程度尊重して、ある意味余裕をもって遊んでいるという感じだ。

こういった使い分けが無理なくできて、どちらも素晴らしいところは、インバルが真の巨匠の域に達したことを示すものだろう。

そして、ワンポイント・レコーディングによる極上の高音質録音も、本超名演を鮮明な音質で味わえるものとして大いに歓迎したいと考える。

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2015年05月13日


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グリーグの作曲した音楽の全てをひたすら精妙かつダイナミックな鮮烈演奏で聴かせるのは、あの名門老舗楽団、スイス・ロマンド管弦楽団を雄弁・緊密に引き締める新世代指揮者トゥルニエール。

素晴らしい名演の登場だ。

かつては、グリーグの劇音楽「ペール・ギュント」と言えば、2つの組曲で演奏するのが主流であった。

わずかに抜粋版としてバルビローリ盤などがあったが、ヤルヴィによる完全全曲盤が登場するに及んで、その流れが変わってきたように思う。

その後、ブロムシュテットなどの名演も登場するなど、劇音楽全体に対する評価がかなり高まってきたと言えるのではないか。

そうした一連の流れの中での、本盤の登場であるが、フランスの新進気鋭の指揮者ならではの生命力溢れる快演と言える。

ヤルヴィ盤と異なり、セリフのみの箇所をすべて省略しているが、音楽として鑑賞するには、この方がちょうど良いと言えるのかもしれない。

それでも、長大な当劇音楽を、CD1枚に収まる75分程度で演奏したというのは、テンポ設定としても、やや速めと言えるのかもしれない。

とは言っても、若さ故の上滑りするような箇所は皆無であり、むしろ、緩急自在のテンポ設定を駆使した演出巧者といった評価が相応しいと言える。

本盤の演奏ではダイナミックなテンポ変化もみせながら、急速部分は驚くほど速く、一糸乱れぬアンサンブルの精悍さと相俟って、曲を実にエキサイティングかつ先鋭的な響きで聴かせてくれる。 

対照的に、魔王の山の場面のおどろおどろしさ、有名な朝の音楽のえもいわれぬ清らかさなど、ゆったりしたフレーズのしなやかな歌わせ方も比類なく、北欧的な透明感に満ちたえもいわれぬ美にうっとりさせられてしまう。

それに第4〜第5曲にかけての畳み掛けるような劇的な表現は、実に堂に行ったものであるし、第8曲の有名な山の魔王の宮殿にての、ゆったりとしたテンポは、あたかも豹が獲物を狙うような凄みがあり、猛烈なアッチェレランドは圧巻のド迫力、合唱団も実に優秀で、最高のパフォーマンスを示している。

第9曲の威容はあたりを振り払うような力強さであり、第10曲の壮絶な迫力にはほとんどノックアウトされてしまう。

それと対照的な第12曲のオーゼの死の情感豊かさは、この指揮者の表現力の幅の広さを大いに感じさせるのに十分だ。

その後に続く音楽も、ここに書ききれないくらい素晴らしいが、特に、第13曲の爽快な美しさ、そして第21曲の帰郷は、圧巻の迫力であるし、第19曲や第26曲のソルヴェイグの歌、子守唄は、北欧音楽ならではの至高・至純の美を誇っている。

なにしろ楽団はアンセルメとの蜜月で知られる名門スイス・ロマンド管弦楽団であり、精妙なのは当然かもしれないが、かくも痛快な解釈でこの名門楽団をまとめてみせる若きフランスの俊英トゥルニエールの才覚には、驚くほかはない。

独唱陣も合唱団も実に上手く、本名演に華を添えているのを忘れてはなるまい。

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現在では既に引退してしまったブレンデルによる4度目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集であるが、当時、進境著しかったラトル&ウィーン・フィルという豪華なバックを伴って、ブレンデルによる全集中、最高の名演を成し遂げることになった。

まさに、ピアニストに指揮者やオーケストラと役者が揃った名演であると高く評価したい。

本全集より14年前の旧録音も名演であり、その方を高く評価する者もいるが、指揮者やオーケストラの芸格や、ブレンデルの円熟を考慮すれば、筆者としては、やはりこの最新の全集を最上位に置きたいと考える。

先ずは、ブレンデルのピアノを高く評価したい。

この理論派のピアニストの理屈っぽさについては、一部の批評家の間で酷評されているのは承知しているが、本盤では、そのような短所を聴きとることは皆無であり、音楽は実にスムーズに流れている。

それでいて、骨太のテクニックによる強靭にして重厚な打鍵は、怒れる獅子ベートーヴェンを見事なまでに体現しており、他方、緩徐楽章における抒情的表現にもいささかの不足もない。

4度目の全集は、いずれの楽曲も名演の名に値するが、やはり、最高峰の名演に君臨するのは、第5番「皇帝」であると考える。

ここでのブレンデルのピアノは実に模範的だ。

4度目の録音ということもあるのだろう、どこをとっても曖昧模糊な箇所はなく、堂々たるピアニズムで、威風堂々たるベートーヴェンを描いて行く。

とにかく、ブレンデルのピアノが実に堂々たるピアニズムであり、まさに「皇帝」の風格を兼ね備えているのが素晴らしい。

どこをとっても、力強い打鍵、自信に満ち溢れた堂々たるインテンポで一貫しており、それでいて、緩徐楽章の抒情豊かな演奏も、格調の高さを決して失うことはない。

このピアニストに特有の理屈っぽさは微塵もなく、楽曲の魅力だけが我々聴き手にダイレクトに伝わってくる。

加えて、ラトル&ウィーン・フィルの演奏が実に素晴らしい。

ラトルの指揮は、ブレンデルの巨匠風の表現に一歩も引けを取っておらず、ブレンデルのピアノともども重厚さの極みであり、このような巨匠風の表現を聴いていると、ベルリン・フィルの芸術監督として大活躍する現在において大きく開花している偉大な才能の萌芽を随所に感じることが可能である。

本盤の録音当時は、未だベルリン・フィルの芸術監督就任前であるが、こうした堂々たる指揮ぶりに、その後のラトルの前途洋々たる豊かな将来性が感じられる。

例えば、「第4」の第2楽章の重厚さ。

他の演奏だと、緩徐楽章であることを意識して、やたら軟弱な表現に終始してしまうケースも散見されるが、さすがにラトルはそのような落とし穴に陥ることは全くない。

終楽章における圧倒的な迫力もラトルならではのものであり、こういったところに、今日のラトルを予見させる才能があらわれていると言えよう。

ウィーン・フィルの美しい演奏も特筆すべきであり、ブレンデルのピアノやラトルの指揮に独特の潤いを付加し、この名演の価値を更に高めることに大きく貢献していることを見逃してはなるまい。

録音も通常CDでありながら、鮮明な音質であり、本盤の名演の価値を更に高める結果となっている。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)ブレンデルラトル 

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本盤は、カラヤンが到達した最晩年の境地を垣間見るモーツァルトを収録したアルバムで、待望の名盤の復活である。

70代後半に入ったカラヤンは、自己の芸術を集大成するかのように意欲的なレコーディングを続けたが、モーツァルトの交響曲はなかなか手がけなかった。

この2曲は、そうしたカラヤンが満を持すように録音した久しぶりのモーツァルト録音であった。

第29番は実に22年ぶり3度目の、第39番は12年ぶり5度目の録音になる。

カラヤンは同じDGへの1975年録音の演奏も、ひたすら突っ走る目眩しく天駆ける飛翔感があり、この2曲の本質を突いた抜群の魅力を持っている。

しかし、明るくストレートな表現は、オリジナル楽器のオーケストラに任せて、ここでは最晩年の1987年の録音を選びたい。

最晩年のカラヤンが自らのドイツ的資質を明らかにした演奏であり、ここでは、モダン・オーケストラでしか味わえない魅力を最良の形で表現していると言える。

ベルリン・フィルとのカラヤンのモーツァルトは、この手兵のすぐれた機能を生かして、いかにも美しい響きとスケールをもっていた。

そうしたカラヤンのモーツァルトの魅力は、ここでも当時最新のデジタル録音によって、いっそう美しくとらえられている。

カラヤンが残したモーツァルトの交響曲の最後のスタジオ録音であるが、それ以前のスタジオ録音とは大いに異なり、この曲をこう解釈するという自己主張が抑えられ、曲そのものの魅力を表現しようという、いわゆる自然体の姿勢が顕著である。

と同時に、しばしば耽美的と評され、濃密な表現が際立ってもいたその演奏が、ここではよりしなやかな流れを獲得している。

細部まで眼の通った入念な仕上げも見事だが、最晩年のカラヤンは、さらに巨視的に音楽をとらえているといってよいだろう。

それだけにこの演奏は、かつてのカラヤンのモーツァルトの交響曲演奏に感じられたある種の重苦しさを逃れて、その音楽にいっそう深く美しい光を当てている。

ここには、カラヤンを貶す人の間で巷間言われているような尊大さのかけらは殆ど見られない。

全体的にゆったりとしたテンポの下、カラヤン得意のレガートによって歌い抜かれた高貴で優美な曲想が、人生の諦観とも言うべき深い情感を湛えている。

第29番は独自のあたたかさと透明度の高さが融合した演奏で、かつてのカラヤンの弱点でもあった自我の表出を抑え、古典主義的世界の再現を見事に果たしている。

特にコン・スピーリトの終楽章は驚くほど躍動的で、爽快なテンポで全体をきりりと引き締めている。

第39番は、冒頭の和音からして内的な充実の感じられる崇高な響きを持っており、聴き手に深い感銘を与えるが、明晰で格調高く、しかも不思議に親しみやすい。

カラヤンが同じザルツブルク出身のモーツァルトと天才同志の魂の会話をしているような、そんなことまで思わせる感動的な名演だ。

カラヤンの死の2年前の演奏であるが、カラヤンとしてもまさに人生のゴールを目前にして、漸く到達した至高にして崇高な境地というべきなのであろう。

これらの演奏には、半世紀をこえるカラヤンのモーツァルトへの共感が最も純粋な形で込められているといってよいのではないだろうか。

音質は、ルビジウム・クロック・カッティングを施した上で、さらに高品質SHM−CD仕様がなされたことにより、素晴らしくクリアな音質となっている。

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2015年05月12日


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本盤には、パールマンのヴァイオリンとバレンボイム指揮ベルリン・フィルが1992年にベルリンのシャウシュピールハウスで行ったコンサートの模様のライヴ映像が収録されている。

この両曲の現役盤ではパールマン&バレンボイムが、いかにも伸びやかな素晴らしい名演で、最右翼に挙げられるだろう。

何よりもパールマンの音は美しい。

無駄のないボウイングは緻密で清らかな音を生み出し、それが明快なフレージングと結びついた演奏は、実に伸びやかで同時に引き締まっている。

実に堂々として充実した演奏で、パールマンは、持ち前の美しい音色をぞんぶんに生かしながら、実にていねいに弾きあげている。

ロマンティックな気分にあふれた演奏で、その官能的な味をもった音色と、仕上がりの美しさは比類がない。

パールマンはユダヤ系のヴァイオリニストで、旋律をたっぷりと歌わせることのうまい人であるだけに、ここでもヴァイオリンの特性を生かした、朗々と歌う美しい演奏を展開している。

この両作品の旋律的な美しさを、あますところなく表出した演奏で、明るく艶やかな音色で健康的に弾きあげているのが良く、これほど豊かに歌わせ、しかも美麗に磨き上げた演奏というのも珍しい。

響きの美しいロマンティックな演奏で、感覚はすこぶる知的で若々しく現代的だが、実に力強く堂々と弾きこんでいる。

パールマンの技巧は完璧そのもので、しかも豊かで美しい音色はこの上もなく魅力的だし、また演奏のスケールも大きく、ヴィルトゥオーゾの風格を漂わせている。

テクニックの優秀さは言うに及ばず、音色の透明なことと歌に感情がこもっていることでも、他に比肩する演奏はちょっと見当たらない。

快刀乱麻を断つような技巧の冴えと、磨き抜かれた美しい音色、そしてヴァイオリンをヴァイオリンらしく歌わせる、そのセンスの良さは、パールマンの天性の賜物であり、少しも難曲らしくなく、自然で融通無碍な演奏だ。

パールマンは技巧的に安定しているばかりでなく、終始自信に満ちた演奏で、どの部分をとっても楽器が完全に鳴り切っている。

旋律はよく歌い、音色は明るく艶やか、情感にも富んでいて、瑞々しい抒情性も失わず、音楽があくまで自然で豊かに溢れ出てくる。

あまりにも美しくうますぎて、内面性に乏しいなどと、贅沢なケチもつけたくなるほどの、完全無欠な演奏なのである。

パールマンの個性は両曲の緩徐楽章で最も効果を上げており、真摯であるがむきにならず、余裕をもって演奏しているため、音楽は豊かな雰囲気で聴き手に訴えかけてくる。

バレンボイムの好サポートも特筆すべきであり、実に堂々としたスケールの大きな立派なもので、充実した荘重な運びの中にソロを包み、遺漏がなく、パールマンとの熱っぽく激しいわたりあいは聴きもの(見もの)だ。

パールマンの数ある演奏のなかでは、いまひとつ生気に欠けるものの、豊かな風格が感じられ、バックの豊麗なオーケストラの響きも、大きな魅力のひとつとなっている。

文句のつけようがない名演で、このコンビで聴いていると、この両曲は少しも難しくなく、きわめてスムーズで美しい音楽に聴こえるから不思議である。

音声はPCMステレオ、ドルビー5.0サラウンド、DTS5.0サラウンドの3種類が選択でき、画質、音質とも優秀だ。

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2011年はベーム没後30年であった。

生前は、とりわけ我が国において、当時絶頂期にあったカラヤンに唯一対抗し得る大指揮者として絶大なる人気を誇っていたが、歳月が経つにつれて、徐々に忘れられた存在になりつつあるというのは残念でならないところである。

そのような状況の中で、本コレクターズ・エディションのような廉価盤が次々と発売される運びとなったことは、ベームの偉大な芸術を再認識させてくれる意味においても極めて意義が大きいと言わざるを得ないだろう。

本盤には、ベートーヴェンの交響曲全集(及び5つの序曲)が収められているが、これはベームによる唯一の全集である。

ベームは、本全集以外にも、ベートーヴェンの交響曲をウィーン・フィルやベルリン・フィル、バイエルン放送交響楽団などと単独で録音を行っているが、全集の形での纏まった録音は本全集が唯一であり、その意味でも本全集の価値は極めて高いと言える。

ベームによる本全集の各交響曲や序曲の演奏は、重厚でシンフォニックなものだ。

全体の造型は例によってきわめて堅固であるが、その中で、ベームはオーケストラを存分に鳴らして濃厚さの極みと言うべき内容豊かな音楽を展開している。

スケールも雄渾の極みであり、テンポは全体として非常にゆったりとしたものである。

演奏は、1970〜1972年のスタジオ録音であり、これはベームが最も輝きを放っていた最後の時期の演奏であるとも言える。

ベームは、とりわけ1970年代半ば過ぎになると、持ち味であった躍動感溢れるリズムに硬直化が見られるなど、音楽の滔々とした淀みない流れが阻害されるケースも散見されるようになるのであるが、本演奏には、そうした最晩年のベームが陥ったリズムの硬直化がいささかも見られず、音楽が滔々と淀みなく流れていくのも素晴らしい。

いずれの楽曲も名演であると言えるが、最も優れた名演は衆目の一致するところ第6番「田園」ということになるであろう。

本演奏は、ワルター&ウィーン・フィルによる演奏(1936年)、ワルター&コロンビア交響楽団による演奏(1958年)と並んで3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

本演奏の基本的な性格は前述のとおりであるが、第4楽章の畳み掛けていくような力強さや、終楽章の大自然への畏敬の念を感じさせるような崇高な美しさには出色ものがあり、とりわけウィンナ・ホルンなどの立体的で朗々たる奥行きのある響きには抗し難い魅力がある。

次いで第9番を採りたい。

ベームは、最晩年の1980年にも同曲をウィーン・フィルとともに再録音(ベームによる最後のスタジオ録音)しており、最晩年のベームの至高・至純の境地を感じさせる神々しい名演であるとは言えるが、演奏全体の引き締まった造型美と内容充実度においては本演奏の方がはるかに上。

とりわけ、終楽章の悠揚迫らぬテンポであたりを振り払うように進行していく演奏の威容には凄みがあると言えるところであり、ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)、タティアーナ・トロヤノス(アルト)、ジェス・トーマス(テノール)、カール・リッダーブッシュ(バス)による名唱や、ウィーン国立歌劇場合唱団による渾身の合唱も相俟って、圧倒的な名演に仕上がっていると評価したい。

その他の楽曲も優れた名演であるが、これらの名演を成し遂げるにあたっては、ウィーン・フィルによる名演奏も大きく貢献していると言えるのではないだろうか。

その演奏は、まさに美しさの極みであり、ベームの重厚でシンフォニック、そして剛毅とも言える演奏に適度な潤いと深みを与えているのを忘れてはならない。

音質は、1970年代初めの頃のスタジオ録音であるが、従来盤でも十分に満足できるものである。

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2008年はカラヤンの生誕100年ということで、数々の企画盤やライヴ音源の復刻が行われたが、本盤もその貴重な1枚。

1988年ロンドンでのベルリンフィルとの演奏会で、結果的にこれが最後のロンドン公演だったとのこと。

楽器の到着が間に合わなかったドタバタや、もうあまり体が動かせなくなっていた帝王の姿など、その模様をカラヤンの評伝も書いたリチャード・オズボーンがライナーノーツに記している。

曲目はシェーンベルクの「浄夜(弦楽合奏版)」とブラームスの交響曲第1番で、音質はあまり良いとは言えないが、演奏は名演の前に「超」をいくつか付してもいいくらいの超絶的な大名演だ。

ここでの「浄夜」に聴かれる重厚な美音の洪水、このような重厚な演奏は、現在のベルリンフィルからはもはや聴けないものだ。

今の感覚からするとやや重たいかもしれない曲線美、降り注ぐような弦の霜降り的な濃厚さ、しかし決してテンポはもたれはしないそのバランス感覚は絶妙。

あくまで後期ロマン主義の傑作としての演奏で、世紀の替り目に書かれたシェーンベルクが、ココシュカやエゴン・シーレと魂を同じくする音楽というよりはクリムトの時代の背景音楽としてのゴージャス感で響いてくる。

しばしば疎ましかったカラヤン独特のレガート・スタイルも、曲との適合か、心地良く感じられるほど。

R.シュトラウスの名演で鳴らしたカラヤンが「グレの歌」を手がけなかったのが惜しくなった。

一方のブラームスは壮観なまでに音響が聳え立ち、何かドラマが人工物にすり替えられているような抵抗を感じないではないのだが、しかしやはりこれを実演で聴いて圧倒されないではいることは出来なかったことであろう。

内声の隅々に至るまで充実した分厚さ(あまりにもべったり塗り籠めていると嫌悪を覚える方もいるかもしれない)や、集団の高度な自発性がもたらす弾力性(ふと精強な軍隊のイメージが頭をよぎるのはやはり否めない)が相俟って、轟々たる推進力が生まれている。

特に終楽章でこんなコーダを築き上げられるオーケストラは他になく、その場に居合わせたら恐怖すら覚えたかもしれない。

カラヤンのブラームスの「第1」には他にも数々の名演があるが、その中でもこの演奏はダントツだと思う。

とても死の1年前の指揮者によるものとは言えない、情熱的で熱い演奏が繰り広げられている。

やはり、カラヤンはライヴの人だったのだ。

ロイヤル・フェスティバル・ホールの聴衆にとって当夜のことは確かに一生の思い出であろう。

もはや好悪を超えた次元にあった音楽家集団の記録として忘れられなくなりそうだ。

カラヤンの録音芸術における完全主義により、テクノロジーの粋を極めた数々の作品は、それゆえに支持するもの、拒否するものも多かった。

しかし、カラヤンの数々のアプローチは録音技術における数々のアカデミックな研究につながり、多元的な成果を生み出した。

カラヤンが常に新しいメディアに興味を示したのは、なにか新しいことを伝えられる媒介を探求するという彼の姿勢がそのまま投影されたものであり、時代を先駆けたマルチな芸術家であった証左である。

逆に言えば、録音技術というフィルターの効果の薄いライヴ録音(もちろんリマスターはあるけれど)はまた別のものを伝える貴重な記録となる。

本ディスクも録音状態から言えば必ずしも良好とは言えないし、またカラヤンが目指した究極形態と比して完成度は劣るが、演奏それ自体として魅力が横溢している。

立派な、といえば、もう立派すぎるくらいの演奏で、在りし日のカラヤン&ベルリン・フィルの音作りがどういうものであったかを典型的に伝えてくれる1枚には違いない。

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2015年05月11日


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これはフルトヴェングラーの遺した数多いディスクの中でも、特に素晴らしい名演奏の1つである。

コンラート・ハンゼンは1906年生まれのドイツのピアニストで、あまり有名ではないが、この「第4」に関するかぎりバックハウスよりも遥かに見事だ。

全体の主導権は指揮者が握っており、たとえば造型などまったく自由自在なフルトヴェングラーのそれであるが、ハンゼンはあたかも自分自身が感じている如く自然に溶け込んでいる。

いや、ハンゼンは精神的にロマンティックなピアニストなのであり、要するにフルトヴェングラーと同じ感情を持った人なのであろう。

おそらく独奏をさせればこんなにすごい造型は創造し得ないだろうが、天才的な指揮者と協演して自己の理想を発見し、心からの尊敬と共感と歓びとをもって弾いているに違いない。

実際、ハンゼンのピアノにはすべての人間感情が隠されている。

素朴でしっとりとした雰囲気、澄みきったリリシズムを基本としながらも、テンポを大きく動かし、大胆きわまる感情移入を随所に見せる。

第1楽章展開部冒頭の驚くべき遅いテンポ、第1楽章再現部の聴く者を興奮させずにはおかない打ち込み方、第2楽章の強い訴えなどがその例だが、至るところに見せる左手の強調、表情豊かな盛り上げ、チャーミングなトリル、ロマンティックな歌、付点音符の名人芸的な弾ませ方など、これ以上は望めないというぎりぎりの線にまで達している。

そしてフルトヴェングラー&ベルリン・フィルの精神そのものの響きがハンゼンのソロを有機的に包み込み、特に繊細さと寂しい静けさの2点においては比較するものとてあるまい。

ベートーヴェンの意図をこれほどニュアンス豊かに感じきって演奏した例は他に皆無だし、ハンゼンもまことに印象的だ。

フィナーレのコーダにおける激しい加速、それ以上に第1楽章コーダの極度に遅いテンポも別の曲を聴く趣があろう。

しかも両者はつとめて即興的な再現を試みているらしく、それが演奏をたった今生まれたようなみずみずしさで蔽うのである。

ともかく、ハンゼンもフルトヴェングラーも、ここではやりたいことをすべてやり尽くしている。

こんなに主観的な演奏はないとも言えるが、聴いていると演奏者の存在は忘れてしまい、音楽の美しさだけが身に迫ってくる。

ベートーヴェンの「第4協奏曲」を徹底的に堪能できるのであり、この演奏によって初めてこの曲の良さを知る人もきっと多いに違いない。

特筆すべきは第1楽章のカデンツァで、ハンゼンはここでベートーヴェン自作のものを使用しながら、後半に入ると自由に変化させ、「熱情ソナタ」の動機さえも組み入れて素晴らしい効果を上げている。

ことによるとフルトヴェングラーの考えが入っているのかもしれない。

他方、ベートーヴェンの「第7交響曲」は、あくまでも私見であるが、フルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年盤)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年盤、EMI)、そしてカラヤン&ベルリン・フィル(1978年盤、パレクサ)を名演のベスト3と考えているが、劇的な迫力という観点からすれば、むしろ1950年盤よりも上ではないかと思われ、前述の1950年盤との比較をどうしても考えてしまう。

テンポはめまぐるしく変化し、随所におけるアッチェレランドの連続、金管楽器の最強奏や低弦によるドスの利いた重低音のド迫力など、自由奔放と言ってもいいくらい夢中になって荒れ狂うが、それでいて全体の造型にいささかの揺るぎもなく、スケールの雄大さを失わないのは、フルトヴェングラーだけが成し得た天才的な至芸と言えるだろう。

SACD化により、さすがに最新録音のようにはいかないが、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルの戦時中の至芸を従来盤よりも鮮明な音質で味わうことができる。

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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。

しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。

前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。

ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

アバドの晩年に発売されたCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在であった。

それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。

正確に言うと、「第9」だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のローマでのライヴ録音(DVD作品)となっている。

要は、第9番だけは最初の全集に収められたライヴ録音をそのまま採用しているということであり、アバドはベルリン・フィルとの最初の全集の中でも、第9番だけには自信を持っていたということを窺い知ることが出来るところだ。

本盤に収められたベートーヴェンの交響曲全集は、アバド&ベルリン・フィルによる2度目の全集である。

最初の全集については、前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。

最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。

いずれにしても、本全集はアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。

フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。

かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、旧全集のエロイカの演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。

筆者としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽妙浮薄な演奏と言わざるを得ない。

もっとも、前述のように、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。

前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ないと言える。

もっとも、本全集では、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加しており、アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、佳演と評価するのが至当なところではないかと考える。

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レナード・バーンスタインは、その晩年にウィーン・フィルとともにモーツァルトの主要な交響曲集のライヴ録音を行ったところであり、本盤に収められた交響曲第25番及び第29番はその抜粋である。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏もかなり行われていたように思われる。

本盤の演奏においても、ゆったりとしたテンポによる熱き情感に満ち溢れた濃厚さは健在であり、例えば、これらの楽曲におけるワルターやベームの名演などと比較すると、いささか表情過多に過ぎるとも言えるところだ。

もっとも、オーケストラがウィーン・フィルであることが、前述のような大仰な演奏に陥ることを救っていると言えるところであり、いささか濃厚に過ぎるとも言えるバーンスタインによる本演奏に、適度の潤いと奥行きを与えている点を忘れてはならない。

バーンスタインがこのウィーン・フィルを指揮した演奏は、オーケストラを巧みにドライヴした熱気と力強さにあふれている。

楽員の自発性が尊重された演奏であり、バーンスタインの指揮の下、ウィーン・フィルはその真髄を完全に体現している。

第25番は洗練された美の極致とも言える鮮麗なサウンドで、聴き手を魅了してやまない。

第29番も極めて音楽的に絶妙な表現で、造形も端正そのものだし、木管の自発的で豊かな表現力にはもはや形容する言葉もない。

近年のモーツァルトの交響曲演奏においては、古楽器奏法やピリオド楽器を使用した小編成のオーケストラによる演奏が主流となりつつある。

そうした軽妙浮薄な演奏に辟易としている中で本演奏を聴くと、本演奏には血の通った温かい人間味を感じることが可能であり、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

バーンスタインのシンフォニックな厚みのある演奏は、いかにも巨匠風のスケールの大きな大芸術だ。

稀代の指揮者バーンスタインの名盤というと、おそらく、誰もが真っ先に思い浮かべるのはマーラーの交響曲の熱演だろう。

確かにあれは圧倒的な出来映えなのだけれど、このモーツァルトの交響曲もまた、それに劣らぬ歴史的名演ではないかと筆者は考えている。

バーンスタインの古典は、一般に見逃されているようだが、彼のハイドンやモーツァルトは、構成のしっかりした実に立派なもので、ぜひ再認識してほしいと思う。

いずれにしても、本演奏は、近年の血の通っていない浅薄な演奏が目白押しの中にあってその存在意義は極めて大きいものであり、モーツァルトの交響曲の真の魅力を心行くまで堪能させてくれる人間味に溢れた素晴らしい名演と高く評価したい。

クラリネット協奏曲も秀演で、シュミードルの独奏は甘く美しく、まさにウィーン独自の音と音楽であり、ここではバーンスタインもサポートに回って、豊麗なバックグラウンドをシュミードルに提供している。

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2015年05月10日


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本セットには、第一期ボロディン弦楽四重奏団によるショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1〜13番(1962〜72年ステレオ録音)が収められている。

1945年に結成、チェロのベルリンスキーを精神的支柱に、今なお数多い現代の弦楽四重奏団をリードする、ロシアの名クヮルテットによるショスタコーヴィチの弦楽四重奏録音の復活を大いに歓迎したい。

結成時のオリジナル・メンバーによるボロディン・クヮルテット、いわゆる「ドゥビンスキー時代」の彼らのかけがえのない録音がChandos Historicalから着々と世に出ているが、中でもこれは特に注目に値するセットと言えよう。

演奏はどれも最高の評価を獲得してきたもので、数あるショスタコーヴィチの弦楽四重奏録音の中にあって、その厳しいスタイルはまさに空前絶後。

結成当初から作曲者に演奏法を直接指導されたという同団の演奏には、「ボロディンSQなくしてショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲は語れない」との絶賛が数多く寄せられている、いわばショスタコ四重奏の規範として知られる名盤である。

レコーディング当時、まだ作曲されていなかった第14番と第15番を含んでいないのは残念とはいえ、この時期の彼らの演奏をまとめて聴けるこのセットの価値にはまさに圧倒的なものがある。

ショスタコーヴィチは、弦楽四重奏曲を交響曲と同様に15曲も作曲したが、これはバルトークによる6曲の弦楽四重奏曲と並んで、20世紀における弦楽四重奏曲の最高傑作との評価がなされている。

確かに、作曲書法の充実度や、内容の奥深さなどに鑑みれば、かかる評価は至当であると考えられる。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、現在で言えば北朝鮮のような非民主的な独裁国家で、粛清の恐怖を耐え忍びながらしたたかに生き抜いた作曲家であった。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、ショスタコーヴィチに関して記したその他の様々な文献を紐解いてもみても、その交響曲や弦楽四重奏曲などには、かかる粛清の恐怖や、スターリンをはじめとする独裁者への批判や憤り、独裁者によって粛清された犠牲者への鎮魂などが色濃く反映されている。

したがって、旧ソヴィエト連邦の時代を共に生き、粛清への恐怖に実際に身を置いた者こそが、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲に込められたこのような深遠な世界をよりうまく音化することができると言えるのではないだろうか。

ボロディン弦楽四重奏団は、前述の通り旧ソヴィエト連邦下において1945年に結成され、それ以降も旧ソヴィエト連邦において活動を行ってきた団体である。

したがって、その演奏は、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の心眼に鋭く切り込んでいくという鋭さ、そして凄みにおいては、他のいかなる弦楽四重奏団が束になってもかなわないレベルに達していると言えるところであり、その演奏の彫りの深さは、尋常ならざる深遠さを湛えている。

とりわけ、晩年の弦楽四重奏曲の凄みのある演奏には戦慄を覚えるほどであり、これは音楽という次元を通り越して、あたかもショスタコーヴィチの遺言のように聴こえるのは筆者だけではあるまい。

なお、ボロディン弦楽四重奏団は、1978年から1984年にかけて、本録音当時作曲されていなかった第14番及び第15番を含むすべての弦楽四重奏曲の録音を行っており、各楽曲の本質への追求度という意味においては当該演奏の方が数段上であると考えられなくもないが、その分、演奏自体はかなり冷徹なものとなっていると言えなくもない。

新盤も決定的名盤と記されるに相応しい全集であるが、そのあまりにも透徹した非人間的な響きに敬遠を覚えた人も少なくないと思う。

しかしこの旧盤には新盤にはないロマンティシズムの人間的響きが感じられ、未だ旧ソ連の鉄の教育による同質音楽ではなく、ハイドン、ベートーヴェンにもひけをとらない「四重奏」の音楽を堪能できるものとなっている。

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アファナシエフ究極の名演という言葉は、この録音にこそふさわしいと思う。

ロシア・ピアニズムの流れを組む名手でありながら孤高の芸術世界を築くアファナシエフの描く音楽はいずれも心の深淵をのぞき込むかのように深く暗い表情を湛えている。

感情的興奮やヴィルトゥオジティとは全く次元の異なる世界にリスナーはとまどい、やがて言葉を失うほどの感銘を覚える。

アファナシエフは、ブラームスの深淵に浸りきり、研ぎ澄まされた音の中にあらゆる感情が込められた空前の表現を行っている。

前作の後期ピアノ作品集は、おそらくは過去のブラームスのピアノ作品集のCD中最高の超名演(私見ではグールドより上)であったが、本盤も、前作ほどではないものの、素晴らしい名演である。

確かに「アファナシエフ流」のインパクトは後期作品集に劣るが、ポツポツと弾かれる音が漂う「間」(ま)、その空白を感傷が埋めているような、この人特有の音空間はやはりとんでもなく美しく、録音が良いせいか、本当に音の1つ1つが冴え渡っている。

特に、作品116の7つの幻想曲は、ブラームスの最晩年の作品だけに、前作の深みのある鋭い名演に繋がるアプローチを行っている。

同曲は、複数のカプリチオと間奏曲で構成されているが、各曲ごとに大きく異なる楽想を、アファナシエフならではのゆったりとしたテンポで、ブラームスの心底の深淵を覗き込むような深遠なアプローチを行っている。

シェーンベルクの十二音技法にも通じるような深みを湛えた至純の名作であるが、アファナシエフの演奏は、まさに、こうした近現代の音楽に繋がっていくような鋭さがある。

それでいて、晩年のブラームスの心の奥底を抉り出すような深みのある情感豊かさも、感傷的にはいささかも陥らず、あくまでも高踏的な次元において描き出している点も素晴らしい。

テンポは、過去のいかなる演奏と比較しても、相当に(というか極端に)遅いと言わざるを得ないが、シューベルトの後期3大ピアノ・ソナタの時のようなもたれるということはなく、こうした遅いテンポが、おそらくはアファナシエフにだけ可能な濃密な世界(小宇宙)を構築している。

研ぎ澄まされた鋭さ、深みのある情感、内容の濃密さという3つの要素が盛り込まれたこの演奏は、聴き手にもとてつもない集中力を要求する。

その深みのある情感豊かさは、同曲の過去のいかなる演奏をも凌駕するような至高・至純の高みに達している。

4つのバラードは、ブラームスの若書きの作品ではあるが、アファナシエフの解釈は、晩年の諸作品へのアプローチと何ら変わることがない。

バラード集の時間軸を変容させ、独特の呼吸で横の線を異化していく特異な世界があるが、このバラード集に纏わりつく死のイメージをここまで音化した演奏は思いつかない。

誰の演奏を聴いてもイマイチ感のあるバラード集で、暗黒面の境界線に佇みながら静かに生者のほうを見つめるピアノを聴かせてくれる、凄い演奏が作品の方向性を作り変えている。

要は、同曲を、最晩年の作品に繋がっていく道程と位置づけており、各バラードの解釈は、初めて耳にするような深みを湛えている。

2つのラプソディーは、ブラームスとしては比較的めまぐるしく表情が変転する楽曲であるが、アファナシエフは、ここでも単なるお祭りさわぎに終始することなく、次元の高い深みのある音楽が紡ぎだされていく。

また、本質的にこの人のピアノはロマン派と相性が良いのだということが良く分かる点も、後期作品集と同様である。

そういえば、アファナシエフが「もののあはれ」を表現の原点としているというエピソードがあるが、この人の演奏を聴いていると、「もののあはれ」というものが、普通な意味でのメランコリーを否定しつつも、結局はメランコリーの一形態だったではないか、ということを思い出させられる。

我々がアファナシエフの演奏をメランコリックとつい評してしまうときも、本来そのような重層的な意味合いを意識すべきなのかもしれないが、そんな遠回りをしなくても、本盤の場合はストレートにメランコリックである。

Blu-spec-CD化によって、アファナシエフのタッチをより鮮明に味わうことができるようになったことを大いに喜びたい。

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2015年05月09日


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1958年チュニジア生まれのピアニスト、ジャン=マルク・ルイサダのワルツ集に続くDGへのショパンの第2作であった。

ルイサダの国際コンクールの入賞歴は思いの他少ないのであるが(1985年のショパン国際コンクールで第5位入賞)、個性的な解釈と文学的な表現から多くのファンを持ち、日本でもテレビ番組の講師を務めたことで、大人気となったことは記憶に新しいところだ。

このマズルカは1990年の録音で、ルイサダの評価が一気に高まるきっかけとなった重要な演奏であり、音楽評論家の故吉田秀和氏が褒めちぎった名盤でもある。

マズルカはショパンのポーランドを想う切ないペーソスに溢れた最も魅力ある曲種だと思う。

悲喜こもごも、この曲集の中にはポーランドの古くからの民俗的な音階やリズムが飛び交う。

その演奏内容であるが、非常に個性が強く、かなり極端なルバートがかけられていて、仮に車の運転でこんなにブレーキとアクセルを繰り返したら絶対に酔ってしまうであろうが、この演奏では不思議なことにそれが自然に感じられるのだ。

ルイサダの演奏はとても表情豊かで、ショパンの喜び、悲しみ、郷愁、すすり泣き、時には慟哭も聴こえてきて、まるでショパンの心情をルイサダが代弁しているようにも思える。

ルイサダのピアノはまず何と言っても詩情豊かであり、濁りのないタッチで透き通った美しさを示す。

マズルカのあの憂いある微妙なニュアンスはルイサダの多彩なタッチと同化し、自然な抑揚感の中に溶け込んでいく。

ルイサダはそれぞれの曲の性格をきわめて自在に弾きこなし得る抜群のセンスの良さを持った演奏家であると言える。

かつてショパンが異国の地において遠い祖国を想い綴った、いわば日記帳のように書き留められた彼の切ない情感の揺らぎがこの演奏から聴き取れる。

そんなルイサダの演奏には回顧的な味わいがある一方、大胆な作品への今日的な切り込みもある。

マズルカのリズムがもつ独特の味をきわめてシャープに強調するが、1曲ごとにショパンが書いた表現のニュアンスを発見しており、演奏を新鮮なものとしている。

初期から後期まで作品の解釈が同じレヴェルという点では類型的と言えるが、確固とした世界が築かれている点は立派である。

また、楽譜を改変して弾いているところも何箇所かあるが、それもことごとくしっくりくるので、やはりルイサダにしかできない素晴らしい演奏だと感じてしまう。

特に作品41ー1などは、まるでショパンが郷愁にかられてすすり泣いているように思えるような演奏で、聴いていて思わず胸が熱くなってしまった。

躍動的なリズムと、時折見せる深い慟哭が、マズルカを単なる舞踊音楽ではないものとして品格を高めているのである。

この他にも筆者はいくつものマズルカ集を持っているが、全曲を1度に聴くのはかなりエネルギーが要るので、いつもは好きな曲を抜粋して聴いていた。

しかしながら、ルイサダの演奏は『次はどんなふうに弾くのだろう』とワクワクしてしまい、あっという間に全曲を楽しんでしまったのである。

生き生きしていて熱く深い、でも決して押しつけがましくなく、素直な気持ちで聴ける、とても好感が持てる素晴らしい演奏だと思う。

普通のマズルカに飽きてしまっている人には是非お薦めしたい演奏であるが、スタンダードな演奏を聴きたい人には、ルービンシュタイン盤かステファンスカ盤をお薦めしたい。

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2011年3月4日&6日、アムステルダムのコンセルトヘボウに於けるライヴ録音で、ヤンソンス&コンセルトヘボウ・アムステルダムによるマーラーの交響曲チクルスの第6弾の登場だ。

演奏内容は、2012年秋にリリースされた「マーラー交響曲全曲ライヴ映像」に含まれていたものと同じであるが、このたびその映像もボーナスとして、ブルーレイ、DVDふたつのフォーマットで用意されるといううれしい配慮がなされている。

前作の「第3」や前々作の「第2」も名演であったが、今般の「第8」も素晴らしい名演と高く評価したい。

「第2」や「第3」もそうであったが、先ずは、録音の素晴らしさについて言及しておきたい。

本盤も、これまでと同様のマルチチャンネル付きのSACDであるが、世界でも屈指の音響を誇るコンサートホールとされるコンセルトヘボウの豊かな残響を活かした鮮明な音質は、これ以上は求め得ないような圧倒的な臨場感を誇っている。

特に、マーラーの合唱付きの大編成の交響曲の録音において、オーケストラの各セクション、独唱、合唱が明瞭に分離して聴こえるというのは殆ど驚異的な高音質であると言えるところであり、それぞれの楽器や合唱等の位置関係までがわかるほどの鮮明さを誇っている。

これまで、マーラーの「第8」では、インバル&東京都交響楽団ほかによる超優秀録音(本盤と同様にマルチチャンネル付きのSACD録音)にして素晴らしい名演があったが、本盤も当該盤に比肩し得る極上の高音質であり、なおかつ素晴らしい名演であると言えるだろう。

「第8」は、重厚長大な交響曲を数多く作曲したマーラーの手による交響曲の中でも最大規模を誇る壮大な交響曲である。

オーボエ4、イングリッシュホルン1、ホルン8のほか、チェレスタ、ピアノ、ハルモニウム、オルガン、ハープ2、マンドリンも擁する巨大オーケストラに加えて、児童合唱団や2組の大合唱団、さらには多くの独唱者たちというその特異な編成もさることながら、全曲の最初と最後に山場が置かれる独特の構成や、その間のさまざまな楽器の組み合わせによる多様なひびきの面白さ、カンタータやオラトリオを思わせるセレモニアルな性格に特徴がある。

したがって、全体をうまく纏めるのが難しい交響曲でもあると言えるところだ。

ヤンソンスは、全体の造型をいささかも弛緩させることなく的確に纏め上げるとともに、スケールの大きさを損なっていない点を高く評価したい。

また、その一方で、長丁場のドラマ作りが難しい作品とも言えるが、そこはヤンソンスのこと、中盤過ぎまで抒情的な部分が占める第2部では、埋もれがちな細部の掘り起こしにも余念がなく、第1部の冒頭主題が回帰する第2部終結部に至る道のりを丁寧な音楽づくりで手堅く纏め上げている。

そして、そのアプローチは、曲想を精緻に描き出して行くというきわめてオーソドックスで純音楽的なものであり、マーラーの光彩陸離たる音楽の魅力をゆったりとした気持ちで満喫することができるという意味においては、前述のインバルによる名演にも匹敵する名演と言える。

コンセルトヘボウ・アムステルダムは、前任のシャイー時代にその独特のくすんだようないぶし銀の音色が失われたと言われているが、本演奏においては、そうした北ヨーロッパならではの深みのある音色を随所に聴くことが可能であり、演奏に奥行きと潤いを与えている点を忘れてはならない。

豪華メンバーを揃えた独唱陣も素晴らしい歌唱を披露しており、バイエルン放送合唱団
、ラトビア国立アカデミー合唱団、オランダ放送合唱団、オランダ国立少年合唱団、オランダ国立児童合唱団も最高のパフォーマンスを示していると評価したい。

いずれにしてもヤンソンスがコンセルトヘボウに鳴り響かせた大宇宙を捉え切った極上の高音質SACD盤(同内容の全曲演奏を収録した映像特典つき)で味わえるのを大いに歓迎したいと考える。

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ホルストの組曲「惑星」を、プレヴィンは2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音がロンドン交響楽団との演奏(1973年)、そして2度目の録音が本盤に収められたロイヤル・フィルとの演奏(1986年)であるが、いずれ劣らぬ名演と評価したい。

それにしても、本演奏は素晴らしい。

何が素晴らしいかと言うと、とにかく奇を衒ったところがなく、組曲「惑星」の魅力を指揮者の恣意的な解釈に邪魔されることなく、聴き手がダイレクトに味わうことが可能であるという点であると考える。

同曲はあまりにもポピュラーであるため、個性的な解釈を施す指揮者も多く存在しているが、本演奏に接すると、あたかも故郷に帰省してきたような安定した気分になるとも言えるところだ。

プレヴィンは、クラシック音楽の指揮者としてもきわめて有能ではあるが、それ以外のジャンルの多種多様な音楽も手掛ける万能型のミュージシャンと言える。

それ故にこそ、本演奏のようなオーソドックスなアプローチをすることに繋がっていると言えるだろう。

プレヴィンはこの曲をスペクタクルにせず、それまでになかった都会的な洗練された優雅さを感じさせる。

楽曲を難しく解釈して峻厳なアプローチを行うなどということとは全く無縁であり、楽曲をいかにわかりやすく、そして親しみやすく聴き手に伝えることができるのかに腐心しているように思われる。

したがって、ベートーヴェンなどのように、音楽の内容の精神的な深みへの追求が必要とされる楽曲においては、いささか浅薄な演奏との誹りは免れないと思うが、起承転結がはっきりとした標題音楽的な楽曲では、俄然その実力を発揮することになる。

組曲「惑星」も、そうしたプレヴィンの資質に見事に合致する楽曲と言えるところであり、加えて、プレヴィン円熟のタクトも相俟って、素晴らしい名演に仕上がったと言っても過言ではあるまい。

聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりは心憎いばかりであり、プレヴィンの豊かな音楽性が本演奏では大いにプラスに働いている。

確かに、イギリスには作曲者による自作自演盤を筆頭に、ボールト盤、サージェント盤など名盤の歴史があり、それらはスペクタクルにはいささかも傾くことなく、表現の奥ゆかしさ、自然に醸し出される味わいの豊かさなどの点で、作品との特別な連帯感、一体感を堪能させてきたが、プレヴィンはそこに新しい筆を持ちこみ、タッチも、輪郭も、色彩も、より鮮やかで初々しい《惑星》像を再現して、伝統を一歩先へと推し進めたように思われる。

クラシック音楽入門者が、組曲「惑星」を初めて聴くに際して、最も安心して推薦できる演奏と言えるところであり、本演奏を聴いて、同曲が嫌いになる聴き手など、まずはいないのではないだろうか。

ロイヤル・フィルも、常にこの曲を弾きこんでいるせいか、たいへんうまい。

この精緻な味わいは他のディスクではなかなか味わうことが出来ないので、是非一聴をお薦めしたい1枚である。

いずれにしても、本演奏は、プレヴィンによる素晴らしい名演であり、同曲を初めて聴く入門者には、第一に推薦したい名演であると評価したい。

テラークの優秀録音も本盤の価値を高めるのに貢献しており、安心して万人に推薦できる名盤である。

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2015年05月08日


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1973年4月28日 レニングラード・フィルハーモニー 大ホール(ステレオ/ライヴ録音/新マスタリング)に於けるムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの黄金コンビによる超名演を非常に優れた音質で味わえる好企画SACDである。

ムラヴィンスキーはドイツ古典派、ロマン派の音楽に深い造詣を持っていたことはよく知られているが、本盤に収められた演奏においても、その揺るぎなく格調の高い指揮ぶりは、優秀録音からもよく伝わってきて、深い感銘を残さずにはおかない。

ただしロシア物を指揮するムラヴィンスキーと、ドイツ物を指揮する彼では、微妙な相違があったような気がする。

ドイツ物を演奏する場合は、どこか醒めていて、陶酔に陥るのを避けるべく自らをコントロールしているような演奏ぶりだ。

ベートーヴェンの「第4」は、初来日直前のレニングラードでのライヴである。

どちらかと言えば、音質、演奏ともに、来日時の演奏の方に軍配をあげたくはなるが、あくまでもそれは高い次元での比較であり、そのような比較さえしなければ、本演奏も、素晴らしい名演である。

ムラヴィンスキーのベートーヴェン「第4」は、理論的な音楽の造形が明快で、ここまでくると気持ちいい。

第1楽章の冒頭のややゆったりとした序奏部を経ると、終楽章に至るまで疾風の如きハイテンポで疾走する。

切れ味鋭いアタックも衝撃的であり、疾風の如き一直線のテンポではあるが、どの箇所をとっても深いニュアンスに満ち溢れており、無機的には決して陥っていない。

ここはテヌートをかけた方がいいと思われる箇所も素っ気なく演奏するなど、全くと言っていいほど飾り気のない演奏であるが、どの箇所をとっても絶妙で繊細なニュアンスに満ち満ちている。

ムラヴィンスキーによって鍛え抜かれたレニングラード・フィルの鉄壁のアンサンブルの揃い方も驚異的であり、金管楽器も木管楽器の巧さも尋常ならざる素晴らしさだ。

各奏者とも抜群の巧さを披露しているが、特に、終楽章のファゴットの快速のタンギングの完璧な吹奏は、空前絶後の凄まじさだ。

他方、ブラームスの「第4」は、ベートーヴェンと同日のライヴであるが、これは、ムラヴィンスキーの遺した同曲の演奏中、最高の名演と高く評価したい。

堅固で明快な構成感を打ち出しながら、しかもその内側にブラームスのロマンをはっきりととらえた、力強く集中度の高い演奏を聴かせてくれる。

それはよく言われるようにこの交響曲の枯れた味わいというよりは、強靭で意志的なものを感じさせるが、そんなところがこの指揮者の厳しい格調に通じるものにも他ならないだろう。

眼光紙背に徹したスコアの読み方は人工的なほどだが、音として出てきたものはきわめて自然でしなやかで、純音楽的である。

淡々とした運びの中の自在な表情と無限の息づき、強弱のたゆたいや寂しさ、魔法のようなテンポの動きなど、センス満点の名演だ。

ベートーヴェンと同様に速めのテンポであり、もう少しテンポを緩めてもいいのではと思われる箇所も、すっと何もなかったように通りすぎてしまう。

しかしながら、随所に見せるニュアンスの豊かさは、まさに至高・至純の美しさに満ち溢れている。

終楽章は、パッサカリア形式による曲想がめまぐるしく変化するが、鉄壁のアンサンブルを堅持し、オーケストラを手足にように操る指揮芸術の凄さは、もはや筆舌には尽くしがたいものである。

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現役でありながら、他の長老が次々にこの世を去る中、半ば伝説化しつつある巨匠スクロヴァチェフスキがザールブリュッケン放送響とともに取り組んできたブルックナー交響曲全集。

手兵のザールブリュッケン相手なだけにかなり指揮者の意思は伝わっているとはいえ、オケの実力が必ずしも一流でないため十分ではないところはあるが、廉価で、00番、0番も聴けるということでお奨めしたい。

1990年代にブルックナーの交響曲の神々しいまでの崇高な超名演の数々を遺したヴァントや朝比奈が相次いで鬼籍に入ったことにより、現在では、いわゆるブルックナー指揮者と称される巨匠はスクロヴァチェフスキ1人となってしまった。

とりわけ、ここ数年のスクロヴァチェフスキのブルックナー演奏は、かつてのヴァントや朝比奈のような高みに達しており、数年前の来日時に読売日本交響楽団と演奏された第7番及び第8番は、神々しいまでの崇高な超名演であった。

もっとも、スクロヴァチェフスキが、このような崇高な超名演を成し遂げるようになったのは、この数年間のことであり、それ以前は名演ではあるものの、各楽器間のバランスや細部の解釈に気をとられるあまりいささか重厚さを損なうなど、もちろん名演ではあるが、ヴァントや朝比奈のような高みには達していなかったと言えるところだ。

本盤に収められたブルックナーの交響曲全集は、ヴァントや朝比奈が崇高な超名演の数々を成し遂げていた1991年〜2001年にかけて、スクロヴァチェフスキがザールブリュッケン放送交響楽団とスタジオ録音を行ったものである。

スクロヴァチェフスキのブルックナーは、「重厚」「雄大」というようなキーワードと無縁、あるいは「大自然」「神への祈り」などというような要素とも無縁である。

これは、作曲家でもある氏の目を通し、いったん解体され再構築された「新しい音楽」なのであり、そのため、上記のような要素を重視して聴こうとすると肩すかしを食らうであろう。

しかし何度も聴けば、スクロヴァチェフスキによる細かい仕掛けや絶妙なテンポ、繊細なバランスにうならされること請け合いだ。

前述の来日時の超名演においては、もちろん細部への拘りもあったが、むしろスケール雄大で骨太の音楽が全体を支配していたので、当該演奏と比較すると、本演奏でのスクロヴァチェフスキは、前述のように各楽器間のバランスを重視するとともに、スケール自体も必ずしも大きいとは言い難いと言える。

もっとも、各楽器間のバランスを重視しても、録音の良さも多分にあるとは思われるが、重厚さを失っていないのはさすがと言えるだろう。

また、細部への拘りも尋常ならざるものがあり、その意味では楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現と言えるのかもしれないが、いささかも違和感を感じさせないのはさすがと言えるだろう。

緩徐楽章などにおける旋律の歌い方には、ある種のロマンティシズムも感じさせるが、それが決していやではないのは、スクロヴァチェフスキがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからに他ならない。

各交響曲の演奏ともに出来不出来はさほど大きいとは言えないが、それでも、第00番、第0番、第1番、第2番及び第6番といった、比較的規模の小さい交響曲においては、スクロヴァチェフスキによる細部への拘りや各楽器間のバランスを重視するアプローチがむしろ功を奏しており、他の指揮者による名演と比較しても十分に比肩し得る素晴らしい名演に仕上がっている。

他方、第5番や第8番については、一般的には名演の名に値すると思われるが、そのスケールの若干の小ささがいささか気になると言えなくもない。

いずれにしても、本全集は、さすがに近年の演奏のような崇高な深みがあるとは言い難いが、現代を代表するブルックナー指揮者である巨匠スクロヴァチェフスキの名をいささかも辱めることのない、素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。

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1993年に通常CDで発売された際、音楽評論家諸氏が大絶讃したことで非常な評判となったミケランジェリとスメターチェクの「皇帝」は、長らく入手困難となっていたが、この度オリジナル・マスターからSACD化され、新たに登場した。

ミケランジェリがもっとも脂の乗り切った時期に演奏されたライヴ録音で、実に健康的なベートーヴェンだ。

たいへんスケールの大きな演奏で、しかも細部の彫琢も行き届いていて、出だしからミケランジェリの磨き抜かれた美音と生気あふれるスピード感で、聴き手の心を鷲づかみにする。

この快演ぶりはミケランジェリの数種ある「皇帝」のどれにもない凄さであり、物凄いエネルギーとオーラを放っている。

ミケランジェリのピアノはデリカシーの強調は一切なく、思い入れとは無縁の表現で、アクセントの強い男性的なフォルティッシモを駆使し、スケール雄大に、骨太に、颯爽と進める。

ミケランジェリの良さは、そのようなスタイルをとりながらも落ち着きと風格を保ち、音色自体から生理的な喜びを与えてくれる点。

高音は夜空に打ち上げられる花火のきらめきに、低音は打ち上げ音に、またオーケストラ伴奏は大群衆のどよめきに似て、ひびきと光の饗宴を楽しませてくれる。

とくに高音のきらめきは磨き抜かれた艶をおび、仕掛け花火がつぎつぎに炸裂してゆくようで、眼のさめる思いをさせられる。

ミケランジェリのソロは、タッチが明確で1つ1つの音が美しい余韻を伴っていて全体が清々しい。

これは感覚的な美しさというべきもので、この曲の古典的な様式とロマン的な様式の接点を見事に捉えている。

ピアノの音の純粋な美感をこれほど感じさせる演奏も少なく、アポロン的名演とでも言おうか、ここには理想主義的な「エンペラー」像がある。

全盛期のミケランジェリには、落ち着きと貫録があり、アポロン的清澄度は後年の演奏よりもいっそう高い。

そして目を見張らされるのがスメターチェクのバックであり、充実した響きと推進力あふれる演奏でミケランジェリともども作品のボルテージを高める好伴奏を繰り広げている。

スメターチェクのテンポは速めで引き締まった表情をもち、しかも晴れやかな表情もあって、魅力的だし、オーケストラのみの長い前奏も、ベートーヴェンの交響曲を聴くような気分にさせてくれる。

ベートーヴェンの音楽をミケランジェリ&スメターチェクが自らにぐっと引き付けた希代の名演であり、文句のつけようがない。

さらにSACD化によって従来盤とは比較にならないほどの高音質化が図られ、ライヴ録音なのにピアノとオケのバランスも極上で、今までのどの「エンペラー」よりも素晴らしい。

ミケランジェリによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番も数種の録音が存在するが、技術、覇気、若々しさのいずれの点からも、この1961年ロンドン・ライヴに優るものはない。

ある時はオルガン、ある時はチェレスタのような響きを見せながら、ピアノならではの低音が渦を巻く凄さ、こんな鬼気迫る演奏は滅多に聴けない。

その表現は厳しいとはいえ、音楽そのものは決して冷徹なものではなく、むしろきわめてヒューマニスティックな深い味わいを湛えている。

その他、得意のドビュッシーの「映像」両巻からテンポの遅い2曲ずつ選曲されているが、名盤の誉れ高いDG盤に比べてテンポが速く、また別種の味わいを見せてくれる。

いずれも完璧主義者らしい見事な演奏で、特に定評ある音色の、その色合いが作品ごとに使い分けられているのも素晴らしい。

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2015年05月07日


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1979年ステレオ・ライヴ録音。

大ピアニストのミケランジェリと大指揮者のジュリーニ。

お互いにイタリア人であるが、その芸風は全く異なるところであり、加えて、ミケランジェリの録音が限られていることに鑑みれば、テレビ放送とは言え、このような形で両者の競演が録音の形で遺されているということは殆ど奇跡的と言っても過言ではあるまい。

20世紀のピアニスト中、最も美しい音を持つと言われるミケランジェリと、雄大なスケールでモニュメンタルな名演を次々打ち建てるジュリーニの組み合わせであるが、実演ならではの迫力と、カンタービレの美感が凄い演奏だ。

このように両者の芸風は全く異なると記したが、この両者に共通することがあるとも言える。

それは、両者ともに完全主義者であったと言えることだ。

ミケランジェリについては、あまりにも完全主義が高じて完璧主義者とも言える存在だけに、それが自らの芸風にも表れており、スコアに記された1音たりとも蔑ろにしないという、圧倒的なテクニックをベースとした即物的とも言うべきアプローチを旨としていたと言える。

それだけに、聴きようによっては、ある種の冷たさを感じさせるのも否めないところであり、楽曲によっては相性の悪さを感じさせることも多々あったと言える。

これに対して、ジュリーニも完全主義者であり、とりわけレコーディングに対しては、レパートリーをある程度絞り込むとともに、徹底して何度も演奏を繰り返し、自分の納得する演奏を成し遂げることが出来た後に行うという方針で臨んでいた。

これだけの大指揮者としては、さすがにミケランジェリほどではないものの、正規のスタジオ録音が比較的少ないと言えるところだ。

しかしながら、その芸風はミケランジェリとはまるで異なり、堅牢な造型の中にもイタリア風の歌謡性をベースとした、人間的な温もりを感じさせるものであったと言える。

1980年代も後半になると、楽曲によってはテンポが異常に遅くなり、堅牢であった造型があまりにも巨大化し、場合によっては弛緩することも少なからず存在しているのであるが、ロサンゼルス・フィルの音楽監督をつとめていた1970年代半ばから1980年代前半にかけては、ジュリーニが最も充実した演奏を繰り広げていた時期とも言えるところだ。

このように、同じく完全主義者であるものの芸風が全く異なるジュリーニとミケランジェリの組み合わせではあるが、演奏自体はお互いに足りないものを補った見事な名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

ミケランジェリの1音たりとも蔑ろにしない完璧なピア二ズムが、ジュリーニの歌謡性豊かな指揮によって、ある種の温かみを付加させるのに大きく貢献しており、いい意味での硬軟のバランスがとれた演奏に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

ミケランジェリは時として冷徹にさえ聴こえる音色が魅力であるが、この演奏に関しては全くそれが感じられず、むしろこの曲を慈しむかのようなぬくもりさえ感じられる。

どちらかと言えば、ミケランジェリのペースにジュリーニが合わせていると言えるが、それでも要所においてはジュリーニが演奏全体の手綱をしっかりと引き締めていると言えるところであり、まさに、全盛期の両者だからこそ成し得た珠玉の名演になっているとも言えるのではないかと考える。

これだけの歴史的な名演だけに更なる高音質化への取り組みが期待されるところであるが、このコンビによる同時期に録音された第1番と第3番がシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が図られたのにもかかわらず、何故か第5番「皇帝」だけが、高音質化されていないのが現状である。

本従来盤でも十分に満足できる音質ではあるが、ミケランジェリの完璧主義とも言うべきピアノタッチが鮮明に表現されるには、やはりシングルレイヤーによるSACD&SHM−CDによる艶やかな鮮明さや臨場感によって再現されるのが望まれる。

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巨匠ノイマンが最晩年にレコーディングした至高のマーラー・サイクルの頂点とも言える「第6」がSACDハイブリット化して再登場した。

これこそクラシック音楽演奏史上燦然と輝く金字塔であり、 このレコーディングの数ヶ月後に他界したノイマンの精神が、この演奏の細部にまで宿っている。

互いに敬愛を寄せるノイマンとチェコ・フィル、そのすべてが完全に昇華された充実の極みとも言える演奏が繰り広げられている。

もちろん、チェコ・フィルの顔と呼べる、唸るホルン・セクション、法悦するミロスラフ・ケイマルなど聴き応え満点の演奏内容だ。

全体を通して力強い演奏であるが、タイトルにとらわれない解釈も非常に好ましく、その内には人間の悲哀が込められているように感じられるところであり、そういう意味で「悲劇的」要素も充分に表出していると思う。

第1楽章は恐ろしい死の行進で開始されるが、冒頭からしてノイマンの気迫あふれた指揮は異次元空間を作り上げている。

チェロ、バスのリズムがすごい意味を感じさせるが、少しも力んではいないのに音楽的かつ有機的なのだ。

各楽器のバランスや全体の響き、ハーモニーの作り方も素晴らしく、例えばトランペットが柔らかい音で意味深く突き抜けたかと思うと、木管合奏が哀しく訴えかけ、ティンパニが心に痛みを感じさせつつ強打される、といった具合なのだ。

それにしてもオケの各パート、そしてマーラーのオーケストレーションを完璧に自分のものにしたノイマンの実力は神業とさえ言えよう。

この作曲家独自の鮮やかな音彩を保持したまま、常に深い内容を湛え、メカニックな楽器自体の音は1音たりとも出していない。

ホルンの最強音がため息に聴こえたり、ときにはかくし味の色合いを見せたり、あえかなデリカシーを魔法のように現出させたり…、アルマの主題は(2:30)に顔を出す。

第2楽章のスケルツォも冒頭のティンパニのアクセントから分厚く、音楽的な意味深さは相変わらずだし、その上メリハリの効果にも富み、各種打楽器の実在感、リズムの生命力、悪魔的なホルンなど、どこをとっても味わい濃厚であり、美感も満点、そしてそれらをマイクが100%とらえ切っている。

第3楽章は歌い方にもルバートにも心がこもり切り、マーラーの夢のように美しい管弦楽法がその心の訴えとともに表われるところ、これ以上の演奏を望むことはできない。

そして終楽章。

出のハープがものをいい、ヴァイオリンははかなく、突然の恐怖から低弦の雄弁な語り口にいたるわずか20小節ほどの間に激変する音楽の対処の仕方だけを見ても、ノイマン&チェコ・フィルの質の高さ、密度の濃さは際立っている。

演奏はどこまでも生々しく進み、アンサンブルは揺るぎなく、第1楽章のアルマの主題の変形である序奏主題の哀切さは、それが登場するたびに情感を増して比類がない。

コーダの途中(28:56)など、すでに力尽きたマーラーの姿であり、それゆえ、いっそうアルマを恋い慕うのだ(29:04)。

ティンパニによる破滅の運命の動機(29:20)もここでは弱いが、ついに終結の3小節で最後の鉄槌が振り下ろされ(31:18)、英雄は死ぬ。

マルチチャンネル付きのSACDによる臨場感あふれる極上の高音質録音も実に効果的であり、ノイマン&チェコ・フィルによる本名演の価値を更に高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

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マーツァルは、チェコ・フィルとともにマーラーの交響曲全集の録音を行っている途上にあるが、「第8」と「大地の歌」「第10」を残したところで中断してしまっている。

その理由は定かではないが、既に録音された交響曲の中では、本盤に収められた「第6」と「第5」「第3」が特に素晴らしい超名演に仕上がっていると言えるところであり、他の交響曲の演奏の水準の高さからしても、是非とも全集を完成して欲しいと考えている。

さて、この「第6」であるが、これが実に素晴らしい名演なのだ。

「第6」の名演と言えば、いの一番に念頭に浮かぶのがバーンスタイン&ウィーン・フィルによる超名演(1988年)だ。

これは変幻自在のテンポ設定や、思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使したドラマティックの極みとも言うべき濃厚な豪演であり、おそらくは同曲に込められた作曲者の絶望感や寂寥感、そしてアルマ・マーラーへの狂おしいような熱愛などを完璧に音化し得た稀有の超名演である。

これに肉薄するのがテンシュテット&ロンドン・フィル(1991年)やプレートル&ウィーン響(1991年)の名演であると言えるだろう。

ところが、マーツァルの演奏には、そのようなドラマティックな要素や深刻さが微塵も感じられないのだ。

要は、マーラーが試行錯誤の上に作曲した光彩陸離たる華麗なオーケストレーションを、マーツァルは独特の味わい深い音色が持ち味のチェコ・フィルを統率してバランス良く音化し、曲想を明瞭に、そして情感を込めて描き出している。

まさに純音楽に徹した解釈であると言えるが、同じ純音楽的な演奏であっても、ショルティ&シカゴ響(1970年)のような無慈悲なまでの音の暴力にはいささかも陥っていないし、カラヤン&ベルリン・フィル(1975年)のように耽美に過ぎるということもない。

「第6」をいかに美しく、そして情感豊かに演奏するのかに腐心しているようであり、我々聴き手も聴いている最中から実に幸せな気分に満たされるとともに、聴き終えた後の充足感には尋常ならざるものがある。

チェコ・フィルは、その独特の味わい深い音色が持ち味の中欧の名門オーケストラであるが、マーツァルは同オーケストラをバランス良く鳴らして、マーラーの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが施された曲想を美しく明瞭に描き出している。

この「第6」でも、最強奏から最弱音に至るまで表現の幅は実に広く、特に、最強奏における金管楽器の光彩陸離たる響きは、幻惑されるような美しさだ。

とはいえ、端正な音楽造りに定評あるマーツァルとしては異例なほど迫力に満ちた演奏で、特に終楽章では少々の乱れを度外視した荒々しい表現に驚かされる。

ビロードのような艶を誇るチェコ・フィルの弦楽セクションがここでは非常に鋭角的で、ヴァイオリンの切れ味、ゴリゴリとした低弦の威力が圧巻だ。

金管の迫力も凄まじいものであるし、金属打楽器やピッコロは鮮烈、ハープまでが雄弁な自己主張をおこなって、アンサンブルを優先したいつものチェコ・フィル・サウンドを大幅に踏み越えた圧倒的な勢力を聴かせてくれる。

それでいて、スコアに記された音符のうわべだけを音化しただけの薄味な演奏には陥っておらず、どこをとってもコクがあり情感の豊かさを失っていないのが素晴らしい。

本演奏を聴いていると、心が幸福感で満たされてくるような趣きがあり、聴き終えた後の爽快感、充実感は、他の演奏では決して味わうことができないものであると言えるだろう。

これは間違いなくマーツァルの類稀なる音楽性の豊かさの賜物であると言えるところであり、いずれにしても本演奏は、前述のバーンスタイン盤などのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にあるものと言えるが、「第6」の魅力を安定した気持ちで心行くまで堪能させてくれるという意味においては、素晴らしい至高の超名演と高く評価したい。

このような純音楽的な名演において、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音は実に効果的であり、本名演の価値を更に高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

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2015年05月06日


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ベームは終生に渡ってモーツァルトを深く敬愛していた。

ベルリン・フィルと成し遂げた交響曲全集(1959〜1968年)や、バックハウスやポリーニと組んで演奏したピアノ協奏曲の数々、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者との各種協奏曲、そして様々なオペラなど、その膨大な録音は、ベームのディスコグラフィの枢要を占めるものであると言っても過言ではあるまい。

そのようなベームも晩年になって、ウィーン・フィルとの2度目の交響曲全集の録音を開始することになった。

しかしながら、有名な6曲(第29、35、38〜41番)を録音したところで、この世を去ることになってしまい、結局は2度目の全集完成を果たすことができなかったところである。

ところで、このウィーン・フィルとの演奏の評価が不当に低いというか、今や殆ど顧みられない存在となりつつあるのはいかがなものであろうか。

ベルリン・フィルとの全集、特に主要な6曲(第35、36、38〜41番)については、リマスタリングが何度も繰り返されるとともに、とりわけ第40番及び第41番についてはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化もされているにもかかわらず、ウィーン・フィルとの録音は、リマスタリングされるどころか、国内盤は一時は廃盤の憂き目に陥っていたという極めて嘆かわしい現状にある。

確かに、本盤に収められた第29番及び第35番の演奏については、ベルリン・フィルとの演奏と比較すると、ベームならではの躍動感溢れるリズムが硬直化し、ひどく重々しい演奏になっている。

これによって、モーツァルトの交響曲に存在している高貴にして優美な愉悦性が著しく損なわれているのは事実である。

しかしながら、一聴すると武骨とも言えるような各フレーズから滲み出してくる奥行きのある情感は、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが描出し得る諦観や枯淡の味わいに満たされていると言えるところであり、その神々しいまでの崇高さにおいては、ベルリン・フィルとの演奏を遥かに凌駕していると言えるところである。

モーツァルト指揮者としてのベームは、「どんな相談にものってくれる博学の愛すべき哲学者」といった雰囲気をたたえており、彼の前に立っているだけで嬉しい気分になってしまう。

ウィーン・フィルとの録音は確かに多数残されたが、このモーツァルトはベームが亡くなる前のほぼ5年間に録音されたものである。

絶妙なるテンポを背景とする自然な音の流れ、磨き抜かれているが決して優しさを失わないフレージング、引き締まったアンサンブルを背景に繰り広げられる演奏はまさに生きた至芸と言いたい。

聴き手それぞれに思い入れのある名演であるが、筆者の座右宝はまずは第29番だ。

いずれにしても、総体としてはベルリン・フィル盤の方がより優れた名演と言えるが、本演奏の前述のような奥行きのある味わい深さ、崇高さにも抗し難い魅力があり、本演奏をベームの最晩年を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

音質については、従来盤でも十分に満足できる音質であるが、今後は、リマスタリングを施すとともにSHM−CD化、更にはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなどによって、本名演のより広い認知に繋げていただくことを大いに期待しておきたい。

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インバルが、約20年以上も前に完成させたブルックナーの交響曲全集であり、一部の交響曲については再録音も行っているが、今なおその存在価値を失わない永遠の名全集と高く評価したい。

その理由はいくつか掲げられるが、何よりも、初稿が出版されていた交響曲については、可能な限りそれに拘ったという点を第一に掲げるべきであろう(「第2」は、当時、ギャラガン校訂版が出版されておらず、やむなく1877年版を採用。「第7」については、ノヴァーク版を使用)。

本全集の録音当時は、ブルックナーの交響曲を、初稿を用いて演奏した例など殆どなく、音楽学者の学究対象でしかなかった。

現在でこそ、ケント・ナガノや、シモーネ・ヤングなどの初稿を用いた優れた名演が数多く登場しているが、本全集録音当時は鑑賞することさえままならない時代であったのである。

そのような時代に、インバルが初稿の魅力にいち早く着目して録音を行ったということは、今日における初稿の再評価に先鞭をつけたということであり、これはインバルの先見の明の証左と言えるのではないだろうか。

第二に、本盤には、第00番や第9番のフィナーレの補筆版など、演奏されることすら稀な楽曲を盛り込んでいることであり、これには、前述の可能な限り初稿を採用するとの姿勢と相俟って、ブルックナーの本質を徹底的に追求しようというインバルの並々ならぬ意欲を大いに感じることが可能である。

第三に、演奏にはムラがなく、いずれも高い水準の名演であるということである。

インバルの各交響曲に対するアプローチは、やや速めのインテンポで、曲想を精緻に描き出していくというものであり、その凝縮化され引き締まった演奏全体の造型は極めて堅固なものだ。

金管楽器も最強奏させているが、いささかも無機的に陥ることはなく、ゲネラルパウゼの用い方も実に効果的だ。

それでいて、ブルックナー特有の聖フローリアンの自然を彷彿とさせるような抒情豊かさにおいても抜かりはなく、剛柔併せ持つ雄渾な名演に仕上がっている。

これは、ヴァントが1990年代になって成し遂げる数々の名演を予見させるものであり、このような名演を、ブルックナーの交響曲の演奏様式が、多分にロマン的な要素が支配するなどによって未だ確立したとは必ずしも言えなかった1980年代に、原則として初稿を用いて成し遂げたという点に、筆者は、インバルのブルックナーに対する深い理解と飽くなき探求心を大いに感じるのである。

古今東西の指揮者において、マーラーとブルックナーの両方を得意とした指揮者は皆無と言ってもいいと思うが、マーラー指揮者として名高いインバルによる本全集や、最近発売された「第5」「第7」「第8」の名演を聴くと、インバルこそは、マーラーとブルックナーの両方を得意とした史上初めての指揮者との評価もあながち言い過ぎではないのではないかと考える。

インバルの薫陶を受けたフランクフルト放送交響楽団も、持ち得る限りの最高のパフォーマンスを披露している。

本全集の再発売を機会にリマスタリングが行われたとのことであるが、音質は初期盤と比較すると明らかに向上しており、この歴史的な名全集の価値をより一層高めることに大きく貢献している点も忘れてはならない。

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本盤に収められたロストロポーヴィチによるショスタコーヴィチの交響曲第5番については、かつてLPで聴いた時のことを鮮明に記憶している。

本演奏の録音は1982年であるが、この当時は、現在では偽書とされている「ショスタコーヴィチの証言」が一世を風靡していた時期に相当し、ロストロポーヴィチのショスタコーヴィチとの生前における親交から、本演奏は証言の内容を反映した最初の演奏などともてはやされたものであった。

筆者は「証言」をむさぼり読むとともに本演奏を収めたLPを聴いたものの、若かったせいもあるとは思うのであるが、今一つ心に響くものがなかったと記憶している。

その後、大学生になってCDを購入して聴いたが、その印象は全く変わることがなかった。

そして、先般SHM−CD化されたのを契機に、久々に本演奏を聴いたが、やはり心に響いてくるものがなかったと言わざるを得ない。

確かに、巷間言われるように本演奏には楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような緊迫感や生命力溢れる力強さなどが漲っているが、この時点でのロストロポーヴィチは、手兵のワシントン・ナショナル交響楽団をうまく統率し切れずに、いささか空回りしているような気がしてならないのだ。

加えてオケの演奏レヴェルが低く、ワシントンD.C.という都市にあるオケでありながら、ボルティモア交響楽団や、ピッツバーグ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ヒューストン管弦楽団、ミネソタ管弦楽団などのローカル・オケとも比較が出来ないほど、サウンドが荒く、アンサンブルが成立していない状態での録音である。

このオケは、「ナショナル」という冠をつけているが、国立の楽団ではない。

ただ、アメリカ合衆国大統領の就任式で国歌等を演奏するのは、慣例としてこの楽団の仕事になっているらしい。

その割に、楽団の音色、響きは発展途上のオケのままという感じで、音色というか響きに滑らかさがなく、ざらざらしていて埃っぽい。

当然透明感がなく、第1楽章から平坦で変化のないフレーズどり(オケのサウンドがひどく、ダイナミクスレンジも狭いようだ)で、第3楽章などは聴くに堪えない音を出していて、鈍重な弦楽器の厚ぼったい響きに歯切れの悪さを覚えるだけである。

やや雑然とした演奏に聴こえるのもおそらくはそのせいであり、ロストロポーヴィチによる同曲の演奏であれば、いささか大人しくはなったと言えるが、後年の2つの録音、(ワシントン・ナショナル交響楽団との1994年盤(テルデック)又はロンドン交響楽団との2004年盤(LSO))の方がより出来がいいと言えるのではないだろうか。

特に後者は音質が優れているだけでなく、オケの演奏技術もかなり向上して、音程、サウンドのテクスチャー、音のブレンドなどに格段の進歩を見せている。

他方、プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」からの抜粋については、ロシア風の民族色に満ち溢れた名演と高く評価したい。

ロストロポーヴィチがワシントン・ナショナル交響楽団の音楽監督を務めていた頃の、彼の内面の激情が燃えたぎるような精力的なこの演奏は、プロコフィエフの傑作に鮮やかに光を当てる結果を招来したと言えるだろう。

録音は、従来盤でもかつてのLPと同様に十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質がやや鮮明になるとともに、音場が若干幅広くなったことについては評価したい。

全体の評価としては、「ロメオとジュリエット」の名演とSHM−CD化による若干の高音質化を加味して準推薦の評価とさせていただくこととする。

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2015年05月05日


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ポリーニの“弾き振り”によるモーツァルトのピアノ協奏曲第2弾の登場で、2007年にライヴ録音された逸品。

前回の第17番&第21番に続くもので、これが今後シリーズ化されていくのだとしたら楽しみだ。

前回に引き続いて「後期の傑作」と「初期の魅力的な佳作」のカップリングとなっているが、筆者にはポリーニがベームと録音した第19番と第23番の組み合わせを踏襲するスタイルを意識しているように思えてならない。

若きポリーニが尊敬する巨匠と録音したモーツァルト、そしていま音楽家として熟成したポリーニは指揮もあわせてウィーン・フィルとのモーツァルトの世界に帰ってきたのである……と考えるとロマンティック過ぎるだろうか。

両曲に共通することであるが、ピアノの音色は水銀の珠を転がすような美しさであり、中音も低音も強調されない粒の揃ったタッチは、他では絶対に聴けないものと言える。

第12番はモーツァルトがウィーンで作曲した最初の本格的なクラヴィーア協奏曲であり、かつ管楽器抜きの弦四部で演奏することも可能なように書かれている。

第1楽章から親しみやすい典雅な伸びやかさがあり、落ち着いたポリーニのピアノが安らぎを与える。

第2楽章はモーツァルトらしいところどころ哀しい色を帯びた美しいアンダンテで、ここでポリーニのピアノはたっぷりと憂いを含んだ憧憬的な音色で歌っており、昔のポリーニを知るものには隔世の感がある。

終楽章のロンドも愛らしく、ポリーニのやや硬質だが、透徹した鋭利なタッチが冴え渡っている。

第24番はモーツァルトの「短調の世界」を存分に味わえる大曲であり、演奏もこれに即した深々とした情感を満たす。

シャープなピアノが音の膨らみを警戒し、鋭敏に輪郭線を描いている。

たとえば終楽章の感情の爆発も、スピーディーで線的に描かれていて、1つの演奏形態の理想像を示していると思う。

一方で、第2楽章の木管楽器との音色の交錯もなかなか巧みで聴き応えたっぷり。

部分的に弦楽器が表情を硬くしすぎる感があったが、気にするほどではなく、もちろん名演と呼ぶに差し支えない出来栄え。

そして時にはあたかもベートーヴェンの曲であるかのようなダイナミズムを見せ、全体として、それにしてもポリーニがこれほどと思わせるくらい、とても甘美なモーツァルトに仕上がっている。

さらに本盤で素晴らしいのはウィーン・フィルの優美な演奏と言えるだろう。

ウィーン・フィルは、いかにもモーツァルトならではの高貴な優美さをいささかも損なうことなく、見事なアンサンブルを構築している。

ライヴ録音であるが拍手は第24番終了後にのみ収録されている。

個人的に拍手は不要と思うが(なお言うとポリーニの音楽はスタジオ録音の方が堪能できる)曲間の拍手をカットしてくれたのはありがたい。

リスナーのことを配慮してくれたのだろう。

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ヴェルディ生誕200年のアニヴァーサリー・イヤーに当たる2013年、様々な関連ディスクがリリースされていたが、リッカルド・ムーティが2011年に収録したヴェルディの『オテロ』も注目すべきものの1つに掲げられよう。

ムーティ&シカゴ交響楽団の著しい進境を示すもので、気鋭の歌手陣を起用し、細部までムーティの意図が浸透した秀演であると高く評価したい。

資料によると、ムーティは2011年4月7、9、12日とシカゴ交響楽団の定期演奏会で『オテロ』を演奏会形式で上演、さらに一同を率いて15日にはニューヨークのカーネギー・ホールでも演奏しており、相当力を入れていたことが分かる。

本盤の大きな特徴として以下の2点を挙げたい。

・オペラを主戦とするオーケストラではなく、シカゴ交響楽団という世界屈指のシンフォニー・オーケストラを振っていること。

・オテロとデズデモナの2人の主役に、イタリア人歌手を起用しなかったこと。

これらの点から、ムーティは、このオペラの普遍的な価値を強く打ち出した演奏を目指した、と考えたい。

参考までにあらためて配役を書くと以下の通りだ。

 アレクサンドルス・アントネンコ(T オテロ)
 カルロ・グェルフィ(Br イアーゴ)
 クラッシミラ・ストヤノヴァ(S デズデモナ)
 フアン・フランシスコ・ガテル(T カッシオ)
 バルバラ・ディ・カストリ(Ms エミーリア)
 マイケル・スパイアズ(T ロデリーゴ)
 エリック・オウェンズ(Bs-Br ロドヴィーコ)
 パオロ・バッターリア(Bs モンターノ)
 デイヴィッド・ガヴァーツン(Bs 伝令)

オテロとデズデモナは、それぞれラトヴィアの歌手アントネンコと、ブルガリアの歌手ストヤノヴァが担当している。

そのため、伝統的なイタリア・オペラといった雰囲気とはやや違った風合いを感じる、というのは筆者の「思い込み」の部分もあるかもしれないが、当演奏を聴いてみると、いわゆるイタリア・オペラの歌唱を形容する大雑把な言葉である「ベルカント」とは少し違った、もっと地に足のついたような力強さがある歌唱が表出しているように感じられる。

そして、これが実にうまく効いていて、落ち着いた劇的高揚感が得られ、いかにも立派な音楽として鳴っているのである。

また、オーケストラがダイナミックレンジの広い劇的な音響を構築していることから、数ある『オテロ』中でも、シンフォニックな演奏と言えるものになっていると思う。

加えて、多彩な楽器が登場するこのオペラの色彩的な性格も、SACDマルチチャンネルの的確な録音が適度なスケールで捉えていて、例えば1枚目12トラックのマンドリンと合唱の鮮明な響きなど、本録音ならではの魅力と感じる。

デュエイン・ウルフの確かな統率の下、シカゴ交響楽合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

一方で、前述したように、この作品に、いかにもイタリア・オペラらしい雰囲気を求める人には、違和感の残る演奏かもしれない。

他の歌手ではイアーゴのグエルフィは、近年珍しいくらい憎々しくいやらしい個性的な歌唱で、全体的に目立つと言えば目立つが、ちょっと浮いているようにも思う。

このあたりも、イアーゴにどんな表情づけを望むのかといった「聴く人の好み」で評価は分かれるだろう。

とはいえ、2013年にリリースされた注目盤の1つであることは間違いないので、ムーティの新しい意図を体験してみたいという方には、是非ともお薦めしたい1組である。

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田部京子の演奏で1996年にリリースされ、大好評を博した「プレイアデス舞曲集」の続編が登場した。

今回収められている作品の多くは田部京子のために書かれたもので、彼女の魅力を最大限に引き出した珠玉の小品である。

まずは、このように美しいピアノ作品集を作曲した吉松隆氏に感謝の気持ちを捧げたい。

今回収録されているのは、「プレイアデス舞曲集」第6集から第9集までと、田部の誕生日に贈られた「2つのロマンス」、そしていくつかの小品集である。

収録曲は、いずれも“夢”と“星”に因んだものばかり。

透明、リリカル、美しい、シンプルといったお約束めいた単語を書き連ねて、吉松隆氏の作品を論じるつもりはないが、田部京子という類い希な表現者を通じて、確固たる“小宇宙”を形成しているのが、とにもかくにも印象的だ。

タイトル通り、夜の空にひとりでしんと耳をすますと宇宙から聴こえてきそうな星の音、星の燃える音、ぶつかる音...それらを音曲にしたような星の音楽。

どの楽曲も、現代の作曲家とも思えないような美しい旋律に満ち溢れた名作であり、各楽曲につけられた題名もセンス抜群である。

全部で38の“小宇宙”を聴き終えて、ある時は慈しむように、またある時は鋭敏に奏で上げていくピアニストのセンスが実感できる、きわめてユニークなアルバムになっている。

筆者も、前作で初めて吉松隆氏の作品に接することになったが、今作もそのあまりのセンス抜群の美しさにすっかりと感動してしまった。

吉松隆氏と言えば現代クラシック界の難解な音楽に反旗を翻すいわば異端的な存在とも言えるが、だからといって彼を退嬰的であるとは少しも思わない。

吉松隆氏の音楽にサティやドビュッシーなど近代の作曲家の影響を見出すのはた易いが、彼の音楽は間違いなく20世紀初頭に書かれ得たものではなく、紛れもない、我々現代人の感性によって生み出されたものである。

ジャズとクラシックとの融合が20世紀初頭の音楽家たちにとって1つの前衛であったように、吉松隆氏の音楽は、ポップスとクラシックの高度な融合を図っているように思える。

そして、この手の試みの中で稀有な成功を果たした例として、彼の音楽は世界の最前衛に位置していると言っても過言ではない。

演奏であるが、田部京子は極めて洗練された魅力的な音色で描き出していて、このような美しい作品にびったりと言えよう。

田部京子はその簡潔な譜面に豊かなイマジネーションを投影し、感覚に訴える演奏を聴かせるが、常に芯が通っていて、流れが引き締まっている。

田部京子は、この同じデンオン・シリーズの中で、メンデルスゾーンの無言歌集(吉松隆氏の作品と同様の美しい小品集)でも名演を録音しているが、アプローチはメンデルスゾーンの場合と同じ。

女流ピアニストならではの繊細なタッチと、ここぞという時の力強い打鍵がバランスよくマッチングしており、吉松隆氏の素晴らしい音楽を更なる高みに持ち上げている。

ただでさえ美しい38の各楽曲が、同CDの宣伝文句にも記述されているように、あたかも宝石のような38の神秘的な小宇宙を紡ぎ出していっている。

そう、まずは虚心坦懐に耳を傾けてみよう! 20世紀末から新世紀へと移り変わった期間に、作曲者が書き綴った“夢”と“星”に寄せる愛すべき歌が聴こえてくることだろう。

音質も非常に鮮明であり、田部京子の繊細なタッチがよりクリアに表現されている点も、本CDの価値を大いに高めるのに貢献している。

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2015年05月04日


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カラヤン最晩年(1986年)のモーツァルトのレクイエムである。

祈りの心を込めて真摯に歌い上げる壮麗な合唱と哀愁を秘めた清澄な独唱、そして重厚な響きのウィーン・フィルをカラヤンが見事に統率し、彼の意思が隅々まで透徹した情感豊かで崇高なる演奏を聴かせている1枚。

ベーム&ウィーン・フィルをはじめとする厳かな演奏がひしめく中にあって、筆者がまず第一に手を伸ばすのが本CD。

カラヤンは、1960年代、1970年代に、それぞれベルリン・フィルと組んでモーツァルトのレクイエムを録音しているが、特に1970年代の演奏に顕著ないわばオペラ風な劇的性格の演奏とは異なり、本盤は枯れた味わいの演奏に仕上がっている。

1回目は宗教音楽としての美しさを、2回目はクラシック音楽としての美しさを、そしてこの録音はそれらを超越した、この曲の持つ神秘性を引き出した録音と言えるのではないか。

カラヤンの指揮は王道を行くもので、比較的テンポも中庸で、カラヤンの故郷ザルツブルグゆかりのモーツァルトの白鳥の歌をケレン味なく演奏している。

これが、偉大なるモーツァルトに捧げるカラヤンの「祈り」なのである。

それは、晩年の健康状態のすぐれないカラヤンの精神が、これを作曲したときのモーツァルトの精神にかぎりなく近づいたからではないだろうか。

カラヤンの、いつもの美しさを求める傾向は影をひそめ、モーツァルトが表現しようとしたレクイエムの神髄に、ストイックなほどに迫っている、最高のモツレク演奏のひとつだと思う。

オーケストラもウィーン・フィルであるし、特に重要なソプラノ奏者がバルツァからトモワ=シントウに変わったこともあると思われるが、それ以上に、ベルリン・フィルとの関係が悪化し、健康状態も相当に悪化したカラヤンのこの当時の心境の反映、または、カラヤンが最晩年に至って到達した枯淡の境地とも言えるのではないだろうか。

いずれにしても、このような要素が複合的に絡み合い、モーツァルトのレクイエムの感動的な名演の1つとなった。

同曲の代表的名盤とされるベーム盤より遥かに聴きやすく、古楽器ものより重厚さや華麗さに溢れている。

ソリストもバランスが取れていて四重唱の「思い出して下さい…」が大変素晴らしく、個人的には重過ぎない「キリエ」「怒りの日」から、ここまでの流れの美しさが好みである。

何と言っても、帝王晩年の黄昏を感じさせ、老境に至ったカラヤンの穏やかな心の深みを垣間見せる、自然体の表現が最大の魅力だ。

カラヤンらしいのは深みのある表現にも関わらず、曖昧さがなく、非常に聴きやすい演奏である事。

美と敬虔と荘厳の共存した稀有な名演でありながら、カラヤンはウィーン・フィルの最も荘厳な音色を引き出しているようでもあり、全ての人に訪れる死というものに正面から向き合って死とは何かと問いかけているような迫力を感じる。

合唱は、相変わらずウィーン楽友協会合唱団であるが、カラヤンの統率力の下、終身監督であるカラヤンと一体となった感動的な演奏を行っている。

1980年代のカラヤンのCDの出来は録音状態も含め、結構ムラがあるように思うが、このCDは全盛期のものと比べても極上の1枚だと言えるだろう。

いずれにしても、カラヤンらしい神々しい演奏であり、落ち着いた神聖な気分に浸りたい人にはぴったり来る演奏であろう。

SHM−CD化により、解像度がやや向上したことも評価したい。

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本盤の演奏は、1966年のバイロイト音楽祭のライヴ録音である。

名指揮者ベームが最も充実した時代の演奏であると同時に、戦後のバイロイトの最も実り多かった時代の記録でもある。

ベームの遺したワーグナーのオペラの録音には、バイロイト祝祭管との歌劇「さまよえるオランダ人」の演奏(1971年)や、バイロイト祝祭管との楽劇「ニーベルングの指環」の演奏(1966、1967年)など数々の名演を遺しているが、それらの名演にも冠絶する至高の名演は、本盤に収められたバイロイト祝祭管との楽劇「トリスタンとイゾルデ」であると考える。

それどころか、同曲の他の指揮者による名演であるフルトヴェングラー&フィルハーモニア管による演奏(1952年)やクライバー&シュターツカペレ・ドレスデンによる演奏(1980〜1982年)と並んで3強の一角を占める超名演と高く評価したい。

そして、フルトヴェングラーが深沈とした奥行きの深さ、クライバーがオーケストラのいぶし銀の音色を活かした重厚さを特色とした名演であったのに対して、ベームによる本演奏は、実演ならではのドラマティックで劇的な演奏と言えるのではないだろうか。

そして、学者風でにこりともしない堅物の風貌のベームが、同曲をこれほどまでに官能的に描き出すことができるとは殆ど信じられないほどである。

ベームは、実演でこそ本領を発揮する指揮者と言われたが、本演奏ではその実力を如何なく発揮しており、冒頭の前奏曲からして官能的で熱き歌心が全開だ。

その後も、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や緊張感、そして切れば血が吹き出してくるような強靭な生命力に満ち溢れており、全盛期のベームならではのリズミカルな躍動感も健在だ。

テンポは若干速めであるが、隙間風が吹くような箇所は皆無であり、どこをとっても造型の堅固さと充実した響きが支配しているのが素晴らしい。

晩年の老いたベームとは異なる、真の巨匠としてのベームの逞しい音楽が渦巻いている。

バイロイトに集結した名歌手陣の、その感動的な歌唱の魅力は素晴らしく、現在聴いても少しも色褪せていない。

とりわけ、第2幕のイゾルデ役のビルギット・ニルソンとトリスタン役のヴォルフガング・ヴィントガッセンによる愛の熱唱は、ベームの心を込め抜いた指揮も相俟って、おそらくは同曲演奏史上でも最高峰の名演奏に仕上がっていると言えるところであり、その官能的な美しさといい、はたまたドラマティックな迫力といい、聴いていてただただ圧倒されるのみである。

そして、第3幕終結部のイゾルデの愛の死におけるビルギット・ニルソンによる絶唱は、もはや筆舌には尽くし難い感動を覚えるところだ。

これらの主役2人のほか、クルヴェナール役のエーベルハルト・ヴェヒター、ブランゲーネ役のクリスタ・ルートヴィヒ、そして、マルケ王役のマルッティ・タルヴェラによる渾身の熱唱も、本名演に大きく貢献していることを忘れてはならない。

また、その後大歌手に成長することになる、ペーター・シュライヤーが水夫役で登場しているのも、今となっては贅沢な布陣と言える。

録音は、従来盤でもリマスタリングが行われたこともあって十分に満足できる音質であると言えるが、同曲演奏史上トップの座を争うベームによる至高の超名演でもあり、今後はSHM−CD化、そして可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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カラヤンはR.シュトラウスを十八番にしていたが、とりわけ交響詩「英雄の生涯」に私淑していたようであり、R.シュトラウスの全交響詩の中でも最もスケールの大きい作品だけに、遺された録音はいずれも精緻さと重厚さを兼ね備えた20世紀最高のR.シュトラウス演奏と言える。

スタジオ録音では、1959年盤(DG)と1974年盤(EMI)、1985年盤(DG)の3種が存在しており、ライヴ録音でもモスクワ盤(1969年)や、ロンドン盤(1972年及び1985年)など複数が存在している。

前述した演奏のいずれもがベルリン・フィルとのものであることが特徴と言えるところであり、カラヤンが同曲を演奏するにあたってはオーケストラの機能性を重視していたことがよく理解できるところだ。

カラヤンはライヴでこそその真価を発揮する指揮者であり、前述の3種のライヴ録音は素晴らしい超名演ではあるが、ここでは本盤と3種あるスタジオ録音の間の比較を軸に論じていくこととしたい。

いずれも名演の名に値すると思うが、演奏の性格は大きく異なると考えられる。

1959年盤については、カラヤンによるDGへのデビュー盤でもあるが、この当時はベルリン・フィルにフルトヴェングラー時代の重心の低い音色の残滓が存在しており、シュヴァルベのヴァイオリンソロはいかにもカラヤン好みの官能的な美しさを誇ってはいるものの、オーケストラの音色はいわゆるカラヤンサウンドで満たされているとは言い難い面があり、カラヤンの個性が完全に発揮されているとは言い難いとも言える。

これに対して1974年盤は、カラヤン色が濃い演奏と言える。

シュヴァルベのヴァイオリンの官能的な美しさは相変わらずであるが、オーケストラは肉厚の弦楽合奏、ブリリアントな金管楽器の朗々たる響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器、雷鳴のように轟くティンパニなどをベースに流麗なレガートが施されるなど、いわゆるカラヤンサウンドが満載であり、徹頭徹尾カラヤン色に染め上げられた演奏に仕上がっている。

これに対して1985年盤は、カラヤンの統率力の衰えから、カラヤンサウンドを聴くことができるものの、1974年盤のように徹頭徹尾ということにはなっていない。

したがって、音のドラマの構築という点では1974年盤よりも劣っていると言わざるを得ないが、本演奏にはカラヤンが自らの人生を自省の気持ちを込めて顧みるような趣きが感じられるところであり、枯淡の境地にも通じるような味わい深さといった面では、1959年盤や1974年盤をはるかに凌駕していると言えるだろう。

ことに自己の回想録のように深く沈み込んだような美しさはそれまでには見られなかったもので、それに加えてオーケストラの唖然とする合奏力は、カラヤン美学の総決算と言ってもいいだろう。

これには、ヴァイオリンソロが官能的な美しさを誇るシュヴァルベから質実剛健なシュピーラーに変わったのも大きいと考えられる。

いずれにしても、これら3種の名演の比較については困難を極めるところであり最終的には好みの問題になるとは思うが、筆者としては、カラヤンが最晩年に至って漸く到達した枯淡の境地、至純の境地を味わうことができる1985年盤を随一の至高の超名演と高く評価したいと考える。

本映像作品はこの1985年盤と同時期に収録されたものだが、すべて同じセクションから取られたものではないものの、基本的なコンセプトは全く同一なのは言うまでもない。

その場合は、やはり映像がある方が迫力が非常に大きくなるという点で魅力が倍増する。

特にカラヤンが指揮した時のベルリン・フィルの気合いの入った集中力の高さは見ていて本当に圧倒される。

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2015年05月03日


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定期公演の実況盤であり、良くも悪くも実演に於けるフルトヴェングラーの特徴が最大限に発揮された「ザ・グレイト」である。

それだけにフルトヴェングラーのファンには逸することのできぬものと言えよう。

フルトヴェングラーでも、これだけ感情を生に爆発させた例は珍しいほどだ。

第1楽章の主部をこんなに速いテンポで、これほど燃え上がるような迫力で指揮した人を筆者は知らない。

ものものしく、じっくりと開始して、次第に盛り上げてゆくという、フルトヴェングラーのいつものやり方とは違い、最初から夢中になっている。

したがって、著しく動的な演奏であり、聴く者もわれを忘れて引きずり込まれてしまう。

テンポの極端な変動も自在に行われ、第2主題はもちろんのこと、展開部へ入る瞬間の気分の変え方はまことに堂に行っている。

さらに提示部と展開部のそれぞれ終わりの部分や、コーダなどのアッチェレランドは常軌を逸しており、時には唐突である。

展開部の終わりで大きくテンポを落としたまま、再現部でア・テンポに戻らず、そのまま進行するのも即興的だ。

おそらく会場でこの実演に接していた人たちはフルトヴェングラーの呪縛にかかって興奮の極みを示してしたに違いなく、曲頭に多かった咳払いが主部に入るやほとんど聞こえなくなってしまうほどだが、1942年のフルトヴェングラーにはやや後年の円熟味が欠け、即興的にすぎて造型に乱れを見せているのは事実であろう。

にもかかわらず、これだけやり尽くしてくれればそんな疑問は吹っ飛び、裸身のフルトヴェングラーを垣間見る想いで、ファンにはこたえられない。

展開部の最後におけるホルンとティンパニの最強奏など、いったい何事が始まったのかと思うほどだし、コーダの決め方もさすがだが、ここだけはフィナーレの同じ部分とともに、音がマイクに入り切っていないもどかしさも残る。

第2楽章は毅然たる進行がシューベルトらしい温かいロマンティシズムを弱める結果になっているが、それでも曲が進むにつれてフルトヴェングラー独特の神秘な表情やテンポの揺れが頻出し、恍惚たる弦の歌も出て、細部まで堪能させてくれるのである。

スケルツォは速いテンポと素朴なリズムの躍動による生命力あふれた表現であり、メロディックな部分とリズミカルな部分でテンポがごく自然に変わるのも賛成だ。

最近は杓子定規な演奏が流行っているが、曲想によるテンポの動きは当然なくてはならぬところであり、それが自然であれば゛“イン・テンポ”なのである。

ただしこの楽章、アンサンブルや楽器のバランスに緻密さを欠くのと、トリオの平凡なのがマイナスと言えよう。

フィナーレは第1楽章とともに最もフルトヴェングラーらしい部分だ。

ことに冒頭を芝居気たっぷりな遅いテンポで開始し、みるみるアッチェレランドを掛けてゆくやり方はフルトヴェングラーならではの表現で、まったくうれしくなってしまう。

大時代だと笑う人もあろうが、これこそフルトヴェングラーのドラマであり、真実性にあふれているため、少しも不自然ではない。

むしろこのようなフルトヴェングラー節を享受できず、のめり込めない人のほうが不幸だと思う。

それにしてもフィナーレのテンポは速い。

ひびきとダイナミックスはあくまで凄まじく、トランペットが強奏され、再現部のスピード感は異常なほどで、ブルックナーの「第9」におけるスケルツォを想わせ、ついて行けない人もあろうが、会場で生を直接に聴けば、おそらく居ても立ってもいられないはずだ。

そしてその中に、たとえば展開部の冒頭のように、テンポが落ち、テーマが思いがけぬみずみずしさで登場して、ハッとさせる部分も含まれているのである。

フルトヴェングラーはティンパニを人一倍活躍させる指揮者であり、ベートーヴェンの「第4」やブラームスの「第3」のように、ティンパニの追加がうるさく感じられる曲もあるが、この場合は成功していると思う。

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classicalmusic at 22:42コメント(0)トラックバック(0)シューベルトフルトヴェングラー 

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ゼルキン&アバド/ロンドン交響楽団によるモーツァルトのピアノ協奏曲シリーズは、全集録音を予定していたが、ゼルキンの死によって中断されてしまった。

とりわけ優れているのは第9番「ジュノーム」、第15番、第25番の3曲で、いずれもゼルキンは作曲者の深い哀しみや人生の夕暮れを描きつくしてあますところがない。

続くのが第8番、第17番、第18番、第22番の4曲で、楽章によってムラがあるが、上出来の部分は前記3曲に匹敵しよう。

どの曲ともやや遅めのテンポで演奏され、ゼルキンのソロも落ち着いた情感を基調にしている。

タッチは明確で表情に富み、特にピアニッシモからは香しさが漂ってくるようにさえ感じられる。

何よりもアーティキュレーションが美しく、感情の細かな動きが音色と表情に反映されて、豊かなニュアンスをもたらしている。

何の気負いもなく、ごく自然に音楽の流れに身を任せているような演奏は、巨匠の晩年だからこそ許される、神々しい遊びとでも言えよう。

モーツァルトはこういう演奏で聴きたいもの、と思わせる名演だ。

第9番「ジュノーム」でまず印象的なのが、アバドの解釈である。

冒頭からきわめて遅いテンポで導入し、続く経過句ではテンポを速め、第2主題を優美・艶麗に歌わせる。

その間の呼吸は実に見事で、このような解釈はそうできるものではない。

ゼルキンの左手にみせる決然たる表情は彼の意志が確固たるものであることを示し、フレージングは真摯な感情を反映する。

第17番ではゼルキン、アバドとも洗練されたニュアンスを示している。

第15番が殊に素晴らしく、ゼルキンのタッチは弱音のときに美しい余韻を残す。

それは澄み切った精神性を強く感じさせるもので、演奏に天国的な美しさを与えている。

第22番でもゼルキンのタッチは明確で、響きは軽やか、彼はモーツァルトの音楽のもつ微妙な陰影を実に美しく生かしている。

アバドの指揮も魅力的で、表情豊かにオーケストラを歌わせ、弦の響かせ方も本当に見事だ。

第18番では、アバドが冒頭から明るい弦の音色を生かし、すっきりとしたフレージングで第1主題を導入する。

ゼルキンの表情と音色は細かく変化するが、解釈は強い意志で貫かれている。

第24番は遅めのテンポで演奏が始まられ、冒頭の第1主題に強い緊張感を与え、その後のトゥッティとの対照を強調する。

しかし第23番と第27番はゼルキン一流の内容主義のモーツァルトだが、あるいはやり過ぎ、あるいは徹底不足で、もうひとつ感銘を与えないままに終わっている。

前者の例は第23番で、こんなにスロー・テンポの演奏も珍しい。

リズムも重く、絶えず思索しながら進めてゆくが、多用されるルバートに必要性がない。

後者の例は第27番でインスピレーションに乏しいオールド・スタイルとでも言うべきか。

このように出来不出来のある選集と言えるが、特筆すべきは全14曲を通じてのアバドの素晴らしいサポートで、ゼルキンの個性にぴったり合わせ、まるで自分自身の表現のように聴かせるとともに、音楽的な香りの点でも申し分ない。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)ゼルキンアバド 

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カルロス・クライバーは、その実力の割にはレパートリーがあまりにも少ない指揮者であったが、ひとたびレパートリーとした楽曲については、それこそより優れた演奏を志向すべく何度も演奏を繰り返した。

ベートーヴェンの交響曲第7番は、そうしたクライバーの数少ないレパートリーの1つであり、来日公演でもとりあげ、日本の聴衆を熱狂の渦に巻き込んだのであるが、ウィーン・フィルとのスタジオ録音(1975年)の他、多数のDVD作品や海賊盤が市場に蔓延っていたところである。

クライバーは本演奏の発売を禁じていたが、没後この演奏が発売されると世界の音楽ファンに衝撃を与え、それまで今一つ親しめる存在ではなかった同曲の魅力を、本演奏を聴くに及んで初めて知ったことが今となっては懐かしく思い出されるところだ。

その後は、別のスタイルの演奏であれば、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルによるスタジオ録音(1950年)などが高音質で発売(SACD化)されたことから、本演奏の存在感は若干色褪せてきていたことは否めないところであったが、今般、高音質化されて発売された本演奏に接すると、あらためてその演奏の凄さを思い知った次第である。

天井知らずの熱狂と猛烈なスピード感、切り立つ音響の凄まじさと入念をきわめた細部表現による多彩でデリケートなニュアンスを併せ持ち、緊張と解放を自由自在に繰り返しながら未曾有の燃焼度を達成した稀代の名演である。

全曲を約40分弱という凄まじいスピードで駆け抜けており、繰り返しなどもすべて省略しているが、それでいて、特に緩徐楽章における各旋律の端々に込められた独特のニュアンスの豊かさ、そして、思い切った強弱の変化やテンポの効果的な振幅を駆使して、実に内容豊かな演奏を繰り広げていると言えるだろう。

クライバーの没後、本演奏の発売される運びとなったのは、数多く行ってきた同曲の演奏の中でも、崇敬するベームの追悼コンサートに際しての本演奏を特別視していたからであると思われるが、それも十分に納得することが可能な圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

バイエルン国立管弦楽団も、クライバーの統率の下、渾身の名演奏を繰り広げている。

第1楽章のフルートの入りのミスや、とりわけ終楽章など、あまりのテンポの速さにアンサンブルが乱れる箇所も散見されるが、演奏全体に瑕疵を与えるほどのものではなく、むしろ、実演ならではのスリリングさを味わうことができる点を高く評価すべきであろう。

ウィーン・フィルとのDG盤に比較すると、終楽章で特に顕著であるが、クライバーの華麗な棒さばきに必死の形相で喰らい付いてゆこうとするバイエルン国立管弦楽団の健気さと熱い心がダイレクトに伝わってくるという意味で、筆者としては、本盤に軍配を上げたいと思う。

音質は、従来CD盤でも十分に満足できるものであったが、今般、ハイブリットSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、クライバーによる圧倒的な超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年05月02日


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筆者は他の演奏のレビューでもこれまでよく記してきたところであるが、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の演奏は極めて難しいと言える。

それは、レコード芸術誌の「名曲名盤300選」などにおいて、著名な音楽評論家が選出する同曲の名演の順位が割れるのが常であることからも窺い知ることができるところである。

このことは、シューベルトをどう捉えるのかについて定まった考え方がないことに起因すると言えるのではないかとも考えられる。

フルトヴェングラーによるシューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」の名演として、本演奏以外に一般的に最もよく知られているのは、録音自体は極めて劣悪ではあるが、本盤と同じくベルリン・フィルを指揮した1942年盤(ライヴ録音)ということになるのではないだろうか。

当該演奏におけるフルトヴェングラーの表現はドラマティックそのもの。

あたかもベートーヴェンの交響曲のエロイカや第5番、第7番を指揮する時のように、楽曲の頂点に向けて遮二無二突き進んでいく燃焼度の高い演奏に仕上がっている。

このような劇的な性格の演奏に鑑みれば、フルトヴェングラーはシューベルトをベートーヴェンの後継者と考えていたと推測することも可能である。

しかしながら、本盤に収められた演奏は、1942年盤とは全く異なる性格のものだ。

ここでのフルトヴェングラーは、荘重な悠揚迫らぬインテンポで決して急がずに曲想を進めている。

シューベルトの楽曲に特有の寂寥感の描出にもいささかの不足もなく、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さには尋常ならざるものがある。

本演奏は、あたかもブルックナーの交響曲のような崇高さを湛えていると言えるところであり、本演奏だけに限ってみると、フルトヴェングラーがシューベルトをブルックナーの先達であるとの考えに改めたとすることさえも可能である。

実際のところは、フルトヴェングラーがシューベルトを、そして交響曲第9番「ザ・グレイト」をどう捉えていたのかは定かではないが、あまりにも対照的な歴史的な超名演をわずか10年足らずの間に成し遂げたという点からして、フルトヴェングラーがいかに表現力の幅が極めて広い懐の深い大指揮者であったのかがよく理解できるところだ。

ただ、本演奏の弱点は、音質が必ずしも良好とは言えなかったところであり、従来盤ではフルトヴェングラーの彫りの深い表現を堪能することが困難であったと言わざるを得ない。

しかしながら、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって見違えるような素晴らしい音質に生まれ変わり、フルトヴェングラーの遺産の中でも特筆すべき出来映えに仕上がったと言えるところだ。

第1楽章冒頭のホルンの音色はいささか古臭いが、第2楽章の豊穣な弦楽合奏の音色、第3楽章の低弦の唸るような重厚な響きなど、ここまで鮮度の高い音質に蘇るとは殆ど驚異的ですらある。

これによって、フルトヴェングラーの彫りの深い表現を十分に満足できる音質で堪能できるようになった意義は極めて大きいと考える。

ハイドンの交響曲第88番「V字」も、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレイト」と同様のアプローチによるスケール雄大で彫りの深い名演であり、第1楽章の弦楽合奏の豊穣で艶やかな響きなど、音質向上効果にもきわめて目覚ましいものがある。

いずれにしても、フルトヴェングラーによる至高の超名演を、このような高音質のSACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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バーンタインの演奏するマーラーは、「人類の遺産」と称しても過言ではなく、バーンスタインこそが史上最大のマーラー指揮者であることは論を待たないところだ。

バーンスタインは、本DVD作品を含めて3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者でもあるが(最後の全集は残念ながら一部未完成)、そのいずれもが数多くのマーラーの交響曲全集が存在している現在においてもなお、その輝きを失っていないと言えるだろう。

本盤に収められたマーラーの交響曲全集は、バーンスタインによる2度目のものに相当する。

収録は1970年代に行われており、オーケストラは、ウィーン・フィルの起用を軸としつつも第2番においてロンドン交響楽団、「大地の歌」においてイスラエル・フィルを起用している。

各オーケストラの使い分けも実に考え抜かれた最善の選択がなされていると評価したい。

このようなオーケストラの起用の仕方は、最初の全集が当時音楽監督をつとめていたニューヨーク・フィルを軸として、第8番はロンドン交響楽団が起用したこと、3度目の全集においては、ウィーン・フィル、コンセルトへボウ・アムステルダム、そしてニューヨーク・フィルの3つのオーケストラを起用したこととも共通している。

バーンスタインのマーラー演奏はいずれも極めてドラマティックなものだ。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、ウィーン・フィル等を叱咤激励してマーラーの音楽を懸命になって啓蒙していたところだ。

変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、その劇的な表現は圧倒的な迫力を誇っており、聴いていて手に汗を握るような興奮を味わわせてくれると言えるだろう。

こうしたバーンスタインのマーラー演奏のスタイルは最晩年になってもいささかも変わることがなかったが、晩年の3度目の全集では、より一層表現に濃厚さとスケールの大きさ、そして楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さが加わり、他の指揮者による演奏を寄せ付けないような至高の高みに達した超名演に仕上がっていたと言える。

本盤に収められた演奏は、50代の壮年期のバーンスタインによるものであるだけに、3度目の全集のような至高の高みには達してはいないが、前述のようなドラマティックな表現は健在であり、とりわけトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力においては、1度目や3度目の全集をも凌駕しているとさえ言えるだろう。

ストレートで若干荒削りな演奏と言えなくもないが、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの洗練された美を誇る演奏などに比べれば、よほど本演奏の方がマーラーの本質を捉えていると言えるとともに、我々聴き手に深い感動を与えてくれると言えるだろう。

マーラーの交響曲のテーマは、楽曲によって一部に例外はあるものの、基本的には死への恐怖と闘い、そしてそれと対置する生への妄執と憧憬であると考えるが、バーンスタイン以上にそれを音化し得た演奏は、テンシュテットによる最晩年の演奏以外には存在しないと言っても過言ではあるまい。

本全集の各演奏こそは、史上最大のマーラー指揮者であったバーンスタインがヨーロッパに軸足を移してから漸く成し得た究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

そして在りし日のウィーン・フィルとバーンスタインとの蜜月時代を確認するには、最良の1組と言えるだろう。

いずれにしても、本全集は、稀代のマーラー指揮者であったバーンスタインによる映像作品による全集として、今後ともその存在価値をいささかも失うことがない名全集と高く評価したい。

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同曲演奏史上最高の超名演だ。

ロストロポーヴィチを迎えての「ドン・キホーテ」で、カラヤンによるR.シュトラウスの録音中屈指の名演として有名なもの。

ベルリン・フィルの豊穣な響きはもちろん、ロストロポーヴィチの卓越した演奏もまた素晴らしい。

録音は1975年であるが、これは、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代。

カラヤンにとっては、その後、様々な故障を抱えて体力的に衰えていく分岐点となった年であるし、ベルリン・フィルも、楽団史上最高の名奏者が集まった全盛期であった。

そして、ロストロポーヴィチの脂が最も乗った時期でもあり、当時のベルリン・フィルの首席ヴィオラ奏者のコッホも加わったメンバーの組み合わせは、まさに豪華絢爛にして豪奢と言わざるを得ないだろう。

こうした豪華な面々の組み合わせがかえって仇になる作品もあるとは思うが、R.シュトラウスの管弦楽曲の場合は、そのオーケストレーションの華麗さ故に大いにプラスに働くことになる。

カラヤン&ベルリン・フィルの重量感溢れる豪壮な演奏は、それだけで聴き手の度肝を抜くのに十分であるし、ロストロポーヴィチのチェロの表現力の幅の広さは、まさに史上最高のドン・キホーテと言っても過言ではあるまい。

冒頭からR.シュトラウスにうってつけの豊満な響きで、まったりとしながらメリハリが利いていて飽きさせない。

主題提示部の圧倒的な迫力から、終曲の詩情豊かな繊細さに至るまで、このチェリストの底知れぬ実力を感じずにはいられない。

滑らかでスムーズ、淀みないカラヤンの指揮するオーケストラに、逞しく奔放なロストロポーヴィチの演奏が音楽的なスケールとダイナミズムを一層際立たせた名演奏である。

チェロとオーケストラが融合しながら協奏曲とはひと味違う、真の意味での管弦楽曲作品に仕上がっている。

ロストロポーヴィチの鬼気迫る演奏がドン・キホーテの狂気を見事に表出し、それに拮抗するカラヤン&ベルリン・フィルのゴージャスなサウンドが素晴らしい。

また、コッホの哀愁を帯びたヴィオラの音がヨボヨボのロバに乗ったサンチョ・パンザを髣髴とさせる。

カラヤンの作為的な演出が全面に出た演奏を嫌う向きも多いが、この曲はそれが大正解なのである。

これはドン・キホーテの脳内に構築されたバーチャル空間なのだから。

筆者は本来、説明的な標題音楽というのが苦手なのだが、この演奏の前にはその嗜好が霧散してしまう。

虚構の豪奢な伽藍が陸続と連なるような大絵巻を描出できる指揮者はカラヤンをおいて他にはいないだろう。

カラヤン&ベルリン・フィルは、本盤の約10年前にフルニエと、約10年後にメネセスと組んで、「ドン・キホーテ」を録音しており、いずれも名演ではあるものの、とても本盤ほどの魅力はない。

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2015年05月01日


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これは同じくベルリン・フィルと1964年にスタジオ録音した第9番とともにバルビローリ屈指の名演だ。

バルビローリは、どちらかと言えば北欧音楽や英国音楽を得意のレパートリーとした指揮者として広く知られているが、マーラーの交響曲についてもコンサートで頻繁に採り上げるとともに、ライヴ録音などを含めると相当数の録音を遺しているところである。

交響曲第6番についても複数の録音が遺されており、本盤に収められたベルリン・フィルとの演奏(1966年(ライヴ録音))、そしてニュー・フィルハーモニア管弦楽団との演奏(1967年(ライヴ録音及びスタジオ録音の2種))の3種の録音が存在している。

今後も、更に録音が発掘される可能性は否定できないが、これら3種の録音はいずれ劣らぬ名演である。

この中で、バルビローリにとっても同曲の唯一のスタジオ録音は、2種のライヴ録音とは、その演奏の性格が大きく異なっているところだ。

そもそもテンポが大幅に遅くなっている。

トータルの時間でも10分以上の遅くなっているのは、前述のライヴ録音盤がいずれも約73分であることに鑑みれば、大幅なスローダウンと言えるだろう。

これに対して、1966年ライヴ録音(本盤)と1967年ライヴ録音盤は、オーケストラがベルリン・フィルとニュー・フィルハーモニア管弦楽団の違いがあるものの、演奏全体の造型やテンポ、そしてアグレッシブな豪演などと言った点においてはほぼ共通するものがある。

それだけに、本演奏におけるバルビローリの感情移入の度合いには尋常ならざるものがある。

バーンスタインやテンシュテットなどに代表されるドラマティックな演奏や、はたまたブーレーズなどによる純音楽に徹した演奏などとは異なり、滋味豊かな情感に満ち溢れるとともに、粘着質とも言うべき濃厚な表情づけが特徴である。

冒頭からウンウンうなりながらの熱演で、どっしりと重心の低い解釈で肉薄している。

ここぞという時のトゥッティにおける強靭な迫力にもいささかも不足はないが、そのような箇所においても独特の懐の深さが感じられるのが、バルビローリによるマーラー演奏の性格をより決定づけているとも言えるだろう。

本演奏でもかかるアプローチは健在であり、情感豊かにこれほどまでの濃厚で心を込め抜いた演奏は、かのバーンスタイン&ウィーン・フィルによる超名演(1988年)ですらすっきりとした見通しの良い演奏に感じさせるほどであり、聴き終えた後の充足感には曰く言い難いものがある。

「悲劇」を予想させるこの交響曲に広がる力の大きさをもって向かうバルビローリの感情移入した姿勢は、聴き手の共感を得、ひしひしと響きが伝わってくる。

なお、バルビローリは、近年ではマーラーの最終的な決定を尊重するという意味で主流になりつつあり、1967年スタジオ録音では従来どおりの入れ替えないバージョンで演奏を行っていたが、本盤に収められた1966年ライヴ録音盤と1967年ライヴ録音盤では当時としては珍しい、スケルツォ楽章(第2楽章)とアンダンテ楽章(第3楽章)を入れ替えるバージョンで、演奏を行っていたのは実に興味深いと言えるところだ。

第1、3楽章の強迫感、第2楽章の悠然としたスケール、そして度肝を抜くフィナーレはまさに必聴である。

また、バルビローリの濃厚で粘着質な指揮に、ベルリン・フィルが必死で喰らいつき、持ち得る実力を十二分に発揮した渾身の名演奏を展開しているのも素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、バルビローリの同曲への深い愛着と思い入れを感じることが可能な入魂の名演と高く評価したいと考える。

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1955年秋、モントルー音楽祭での実演録音で、シューリヒト絶頂期の姿が刻み込まれている貴重なディスク。

ハイドンの第104番「ロンドン」はロマンティックな表情が濃厚で、レア発売当時からその個性的な解釈が話題となったもので、星の数ほどあるハイドンのディスク中、間違いなく最上級を狙う演奏である。

少なくとも、筆者はハイドンと言わず、自分の知る全レコード中でもトップ10に入れたいほど愛好しており、聴いていて、こんなに幸せを感じるレコードは、それほど多くはない。

シューリヒトは、後年のモーツァルトの交響曲やブルックナーの交響曲第8番や第9番の名演から、颯爽としたインテンポを基調とする巨匠とのイメージがあるが、特に本盤に収められたハイドンの第104番は、そうしたイメージを覆すのに十分な、緩急自在の絶妙のテンポの変化を基調とする超名演だ。

ハイドンは、第1楽章の荘厳な序奏に引き続く主部の堂々たる歩み。

第2楽章は一転中庸のテンポとなるが、中間部はテンポを絶妙に変化させ、ハイドンの抒情豊かな名旋律を格調高く歌いあげている。

第3楽章は最強奏で開始するが、一瞬のゲネラルパウゼや中間部のややためらいがちなヴァイオリンの入り方の何という巧みさ。

終楽章はいつもの颯爽としたシューリヒトであるが、時折見せるテンポの変化も実に効果的だ。

どんなにロマンティックに歌っても清潔感を失うことがなく、ベートーヴェンの「田園」でも聴かせた「超レガート奏法」は、まったく浮き世を超越している。

シューマンの「第2」も、やや音質が落ちるものの、ハイドンと同様に、緩急自在のテンポを基調とした名演を繰り広げている。

第1楽章は、睡眠薬による白日夢のような序奏に始まるが、シューリヒトは我々を否応なしにシューマンの錯綜した精神の森へと誘う。

トランペットの調べが遠い叫び声のように響き、音楽は幾重にも重なった心の闇の中を進むのだが、シューリヒトの往く道は常に明るく照らされている。

第2楽章も精神的な闘争だが、まるで妖精たちの森へ迷い込んだような趣があり、第3楽章の歌もシューリヒト一流のロマンの衣裳を纏い、実に陶酔的である。

フィナーレは、心に悩みを抱きながら無理に笑っているような、ベートーヴェン的な勝利とは無縁の音楽であるが、シューリヒトは、シューマンの晦渋さを明快な音楽に翻訳して、我々を愉しませてくれるのである。

シューリヒトが素晴らしいのは、ハイドンにしてもシューマンにしても、テンポにいかなる変化を加えても、全体の造型にいささかの狂いもなく、しかも音楽の格調高さを失わないことであり、これこそがシューリヒトをしてドイツ音楽の正統派の巨匠として認知される所以なのだと思われる。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、シェリングの独奏に合わせたせいか、テンポの変化は幾分控え目であるが、双方の渋い芸風がブラームスの楽曲に見事にコラボ。

シェリングの熾烈なまでの一途さと禁欲的な真摯さに打たれるし、格調高くぐいぐいと音楽を推進させる指揮者とあまりにも見事な独奏者のやりとりが、実に厳しく、そして美しい。

これこそ、ブラームスを聴く醍醐味と言える名演だ。

放送局音源だけに音質も優秀であり、レア当時より鮮明な音質でこれらの名演が充分堪能できるのがとても嬉しい。

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classicalmusic at 20:36コメント(0)トラックバック(0)シューリヒトシェリング 

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フィッシャー=ディースカウが1951年にEMIとレコーディング契約をして以来の伴奏者だったピアニスト、ジェラルド・ムーアとのコラボレーションによるシューベルトの歌曲集。

溌剌とした時代の若きディースカウの歌声が響き、当時から卓越した美声と表現力をもっていたことが、今回オリジナルの形そのままに復活したシューベルト歌曲集で十分に示されている。

先般のEMIによる過去の名盤のSACD化シリーズにおいては、若き日のフィッシャー=ディースカウによる一連のシューベルトの歌曲集も採り上げられることになった。

フィッシャー=ディースカウは、紛れもなく独墺系歌曲の最高の歌い手の1人であると言えるが、その最高の名唱とされているのは、何と言っても1970年代にジェラルド・ムーアと組んでスタジオ録音(DG)したシューベルトの3大歌曲集と言えるのではないだろうか。

本盤に収められたシューベルトの歌曲の演奏は、それよりも約20年ほど前の若き日の歌唱ということになるが、モノラル録音という音質面でのハンディはあるものの、1970年代の名唱とは違った意味で、素晴らしい名唱と評価したいと考える。

というのも、フィッシャー=ディースカウの歌唱は、あまりにも巧いために、後年の歌唱においては、その巧さが鼻につくケースも散見されるところであるが、本演奏においては、若さ故の気迫や熱き生命力が全体に漲っており、いささかも技巧臭を感じさせないのが素晴らしいと言えるからだ。

そして、勢い一辺倒の内容のない歌唱には陥っておらず、どこをとっても、シューベルトの音楽の素晴らしさ、美しさを心行くまで堪能させてくれるのが見事である。

本盤に収められた歌曲は、いずれもシューベルトの歌曲の中では必ずしも有名なものとは言い難いものであると言えるが、それでも各歌曲の聴かせどころのツボを心得たいい意味での演出巧者ぶりは、本演奏当時の若き日より健在であると言えるところであり、まさに非の打ちどころのない名唱に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

ジェラルド・ムーアのピアノ演奏も、シューベルトの楽曲に特有の寂寥感に満ち溢れた美しい旋律の数々を情感豊かに描き出しており、フィッシャー=ディースカウによる名唱をより引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1955年のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

フィッシャー=ディースカウの息遣いやジェラルド・ムーアのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、フィッシャー=ディースカウ、そしてジェラルド・ムーアによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

なお、当たり前のことではあるが、前述の3大歌曲集のSACD化に際して、扱いにくい紙パッケージに封入したことや対訳を省略したユニバーサルに対して、本盤では通常パッケージで、なおかつ対訳が付いていることについても、この場を借りて評価をしておきたい。

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classicalmusic at 00:44コメント(0)トラックバック(0)シューベルトF=ディースカウ 
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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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