2015年06月

2015年06月30日


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2014年はモスクワ出身の名指揮者キリル・コンドラシンの生誕100周年に当たる。

コンドラシンは1978年のコンセルトヘボウ客演の際にオランダに政治亡命して西側での音楽活動を本格的に始めた矢先の1981年3月8日に突然他界した。

その死には当局がらみの暗殺説も浮上している。

コンドラシンは既に1958年のチャイコフスキー・コンクールで優勝したヴァン・クライバーンの凱旋公演にも随伴していて、冷戦時代の旧ソヴィエトの指揮者の中ではいち早く西側での演奏を実現した人だ。

このSACDに収められた音源はいずれも今回が初めてのリリースではないが録音も保存状態も極めて良好で、リマスタリングによって奥行きと立体感の感じられる音響が蘇っている。

『バビ・ヤール』はモノラル・ライヴ、カンタータ『10月』の方はステレオ・セッション録音になる。

交響曲第13番『バビ・ヤール』はユダヤ人虐殺が行われたウクライナの地名をタイトルに持ち、ロシアに受けつがれる反ユダヤ主義を非難する内容となっている。

旧ソ連ではタブーのテーマだったゆえ反体制的とみなされ、1962年12月の初演の際にも演奏者に当局から圧力がかかったとされている。

この録音は世界初演の2日後の再演時のライヴであるが、出演者もほぼ同じで、ショスタコーヴィチも臨席、緊張が生々しく伝わってくる。

当初はショスタコーヴィチの多くの作品の初演を手がけていたムラヴィンスキーが指揮する予定だったらしいが、ソヴィエトのユダヤ人差別政策を仄めかす詩の内容が検閲に引っかかり、ムラヴィンスキー降板の後もこのコンサート以降の音楽活動への影響を恐れて土壇場まで歌手の入れ替わりが続いたようだ。

当時のコンドラシンは当局からの執拗な妨害にあって苦境に立たされていた筈だが、逆に言えばそうした状況にあってこの凄まじいまでの集中力に支えられた初演が可能だったのかも知れない。

コンドラシンは作曲家の抉り出した心理描写と映像のように浮かび上がる情景を音像として驚くほど冷静に、しかしまた劇的に表現し切っているし、モスクワ・フィルも流石に巧い。

バス・ソロを歌うグロマツキーは朴訥として器用な歌手ではないが、詩の表す陰鬱で悲愴な情感は良く出していて、この危険な役回りを引き受けたことを潔しとしたい。

ショスタコーヴィチ本人を始めとする初演遂行側の表現の自由に賭けた熱意と圧迫を受けていた人道的思想の発露が漕ぎ着けた初演は大成功を収めたと伝えられているが、結果的に考えるならば後の政治亡命も起こるべくして起こったと言わざるを得ない。

コンドラシンはこの作品初演成功後、交響曲第4番やオラトリオ『ステンカ・ラージンの処刑』の初演も飾っている。

一方プロコフィエフのカンタータ『10月』は、帝政ロシア崩壊に至る一連の事件から10月革命20周年を記念した曲で、ここでもコンドラシンは冷徹に音楽的バランスを熟慮してそれぞれの部分の強烈な個性を的確に捉えているが、何故かここでは第1、2、4、7、9部のみの尻切れトンボで収録されているのが残念だ。

一般に風変わりなオーケストレーションと合唱、モノローグによるグロテスクな奇曲という評価だが、プロコフィエフの作曲技法はかえって洗練された鋭利さを感じさせる作品だと思う。

プラガのデータについては鵜呑みにできない怪しげなところが無きにしも非ずだが、交響曲第13番については1962年12月18日に初演が行われ、この音源は同年12月20日の同一メンバーによる再演ライヴから収録されたものらしい。

プロコフィエフの方は1966年5月5日のセッションと記載されている。

ライナー・ノーツには『バビ・ヤール』のみだがロシア語のローマ字発音表記の歌詞に英語対訳が付けられている。

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ワルターと言えば、モーツァルトの優美な名演の印象が強いだけに、誠実で温かみのあるヒューマンな演奏だとか、温厚篤実な演奏を行っていたとの評価も一部にはあるが、このブラームスの「第1」の熱い演奏は、そのような評価も吹き飛んでしまうような圧倒的な力強さを湛えている。

「第1」は、1959年の録音であるが、とても死の3年前とは思えないような、切れば血が吹き出てくるような生命力に満ち溢れた熱演だ。

もちろん、第2楽章や第3楽章の豊かな抒情も、いかにも晩年のワルターならではの温かみを感じさせるが、老いの影などいささかも感じられず、まさに、ワルター渾身の力感漲る名演と高く評価したい。

コロンビア交響楽団は、例えば、終楽章のフルートのヴィブラートなど、いささか品を欠く演奏も散見されるものの、ワルターの統率の下、編成の小ささを感じさせない重量感溢れる好演を示している点を評価したい。

ワルターによるブラームスの「第2」と言えば、ニューヨーク・フィルとの1953年盤(モノラル)が超名演として知られている。

特に、終楽章の阿修羅の如き猛烈なアッチェレランドなど、圧倒的な迫力のある爆演と言ってもいい演奏であったが、本盤の演奏は、1953年盤に比べると、随分と角が取れた演奏に仕上がっている。

しかしながら、楽曲がブラームスの「田園」とも称される「第2」だけに、ワルターの歌心に満ち溢れたヒューマンな抒情を旨とする晩年の芸風にぴたりと符合している。

第1楽章から第3楽章にかけての、情感溢れる感動的な歌い方は、ワルターと言えども最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地ではないかと思われる。

終楽章は、1953年盤に比べると、幾分角のとれた柔らかい表現にはなっているものの、それまでの楽章とは一転して、力感溢れる重量級の演奏を行っている。

コロンビア交響楽団は、金管楽器などにやや力不足の点も散見されるが、ワルターの統率の下、なかなかの好演を行っている。

「第3」は、巷間第1楽章や第4楽章の力強さから、ブラームスの「英雄」と称されることもあるが、筆者としては、むしろ、第2楽章や第3楽章の詩情溢れる抒情豊かな美しい旋律のイメージがあまりにも強く、ここをいかに巧く演奏できるかによって、演奏の成否が決定づけられると言っても過言ではないと考えている。

その点において、ワルターほどの理想的な指揮者は他にいるであろうか。

ワルターは、ヨーロッパ時代、亡命後のニューヨーク・フィルを指揮していた時代、そして最晩年のコロンビア交響楽団を指揮していた時代などと、年代毎に芸風を大きく変化させていった指揮者であるが、この最晩年の芸風は、歌心溢れるヒューマンな抒情豊かな演奏を旨としており、そうした最晩年の芸風が「第3」の曲想(特に第2楽章と第3楽章)にぴたりと符合し、どこをとっても過不足のない情感溢れる音楽が紡ぎだされている。

もちろん、両端楽章の力強さにもいささかの不足もなく、総体として、「第3」のあまたの名演でも上位にランキングされる名演と高く評価したい。

「第4」におけるワルターのアプローチは、何か特別な解釈を施したりするものではなく、むしろ至極オーソドックスなものと言えるだろう。

しかしながら、一聴すると何の仕掛けも施されていない演奏の端々から滲み出してくる憂愁に満ち溢れた情感や寂寥感は、抗し難い魅力に満ち溢れている。

これは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、その波乱に満ちた生涯を自省の気持ちを込めて振り返るような趣きがあり、かかる演奏は、巨匠ワルターが最晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にあるとも言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、ブラームスの「第4」の深遠な世界を心身ともに完璧に音化し得た至高の超名演と高く評価したい。

小編成で重厚さに難があるコロンビア交響楽団ではあるが、ここではワルターの統率の下、持ち得る実力を最大限に発揮した最高の演奏を披露しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

併録の2つの序曲も名演で、特に、大学祝典序曲など、下手な指揮者にかかるといかにも安っぽいばか騒ぎに終始してしまいかねないが、ワルターは、テンポを微妙に変化させて、実にコクのある名演を成し遂げている。

悲劇的序曲は、「第2」の終楽章の延長線にあるような、力強い劇的な演奏となっており、ワルター円熟の名演と高く評価したい。

他方、ハイドンの主題による変奏曲は、めまぐるしく変遷する各変奏曲の描き分けが実に巧みであり、これまた老巨匠の円熟の至芸を味わうことができる名演と言える。

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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音した一連のブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、ベルリン・フィル盤と同様に更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

ブルックナーの交響曲中で最もポピュラリティを獲得している「第4」であるが、ブルックナーの権威であるヴァントとしても、1998年のベルリン・フィルとの演奏で、漸く理想の名演を成し遂げることができたのではないかと思う。

それは、やや速めのインテンポで淡々とした演奏ではあったが、随所に見せる味の濃さが見事であった。

しかし、ヴァントの死後、手兵の北ドイツ放送交響楽団との神々しいばかりのラストコンサート盤が発売されるに及んで、ベルリン・フィル盤もトップの座を譲ることになった。

本盤は、そのラスト・コンサート盤の1か月前の演奏であるが、これは、ラスト・コンサート盤にも優るとも劣らない超名演で、これをもって『ロマンティック』の最高峰と言うに憚らぬ大演奏と言えるだろう。

数多いヴァントのブルックナーであるが、耳の肥えたファンほどミュンヘン・フィルとの組み合わせに執着するのも道理で、ヴァント晩年の味わい、オーケストラの音色の適度な明るさ、弦の暖かみのある厚い響き、管楽器の比類ない美しさなど他に代え難い魅力にあふれている。

いわゆるブルックナー開始は、やや強めの弦楽のトレモロによって開始されるが、これを聴いただけで他の指揮者とはものが違う。

この第1楽章は、意外にも随所でテンポの変化を行っているが、それでいて音楽が実に自然に流れる。

金管楽器を常に最強奏させているが、無機的な響きは皆無であり、ヴァントのブルックナーの交響曲の本質への深い理解と相俟って、筆舌には尽くしがたいハイレベルの演奏を成し遂げている。

第2楽章は、ゆったりとしたテンポで淡々と進行しているが、そこから湧きあがってくる何とも言えない寂寥感を何と表現すればいいのだろうか。

第3楽章も、主部をやや速めのテンポで演奏して、中間部でテンポをやや緩やかにするという緩急の差を、オーケストラを手足のように扱い、決して恣意的な印象を与えないで成し遂げるのは、まさに巨匠ならではの至芸。

終楽章は、ヴァントのブルックナー交響曲演奏の総決算と言えるもので、厳格なスコアリーディングによる緻密さと、最晩年の「第8」でも顕著であるが、柔軟で、なおかつスケール雄大なアプローチを融合させた稀有の名演を成し遂げている。

演奏終了後、聴衆から拍手が起こるまでに一瞬の間が空くが、これは、この超名演から受けた聴衆の深い感動と、聴衆の質の高さが窺い知れる素晴らしい瞬間だ。

この演奏会の半年後2002年2月14日にヴァントは90年の生涯を閉じたのだった。

いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年06月29日


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デュリュフレのレクイエムは、3大レクイエム(モーツァルト、ヴェルディ、フォーレ)に次ぐ名作とされているにもかかわらず、録音の点数が多いとは必ずしも言い難い。

そのような中で、フォーレのレクイエムにおいて素晴らしい名演を成し遂げているミシェル・コルボが、同曲のスタジオ録音を行っているのは何と言う嬉しいことであろうか。

本盤におけるコルボによる演奏は、そのような期待をいささかも裏切ることがない素晴らしい名演に仕上がっている。

清澄な美しさを誇る同曲であるが、コルボの指揮は、これ以上は求め得ないような繊細な表現を駆使して、精緻に同曲を描き出している。

それでいて、繊細であるが故に薄味になるということはいささかもなく、どこをとってもコクがあり、加えて豊かな情感に満ち溢れるのが素晴らしい。

そして、各フレーズの端々から滲み出してくるフランス風のエスプリに満ち溢れた瀟洒な味わいには抗し難い魅力がある。

また、同曲は、フォーレのレクイエムと比較すると、時折ドラマティックな振幅も散見されるが、そうした箇所においてもコルボはいささかも力づくの無機的な演奏には陥らず、常に懐の深い崇高さを失うことがないのが素晴らしい。

独唱陣も極めて豪華なキャスティングであると言えるだろう。

メゾ・ソプラノのテレサ・ベルガンサとバリトンのホセ・ファン・ダムという超豪華な布陣は、本演奏でもその名声に恥じない素晴らしい歌唱を披露していると評価したい。

コロンヌ管弦楽団と同合唱団も、コルボの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを発揮している。

いずれにしても、コルボによる本演奏こそは、同曲演奏の理想像の具現化であると言えるところであり、録音から約30年近くが経っているにもかかわらず、現在でも同曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

併録のグレゴリオ聖歌の主題による4つのモテットも、デュリュフレのレクイエムがグレゴリオ聖歌を使用していることを踏まえてのカップリングであると考えられるが、演奏も清澄な美しさを誇る素晴らしい名演に仕上がっている。

音質は、パリのトリニテ教会やノートルダム・デュ・リバン教会の豊かな残響を効果的に生かした鮮明なものであり、従来盤でも十分に満足できる高音質である。

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ヤッシャ・ハイフェッツのRCA音源の中から、ヴァイオリン・ソナタと名のつく作品を集めた9枚組ボックス。

死後既に25年を経ているが、ヴァイオリニストの王として依然衰えない人気を誇っているハイフェッツのアンソロジーで、ここにはハイフェッツの魅力がぎっしり詰まっている。

彼の熱烈なファンであれば2011年にソニーからリリースされた全103枚のザ・コンプリート・アルバム・コレクションを持っているだろうが、より気軽に彼の演奏に親しみたいという方には、この9枚組のソナタ集が手頃で便利だ。

選曲はバロックから現代音楽までの広い範囲をカバーしていて、巨匠の多彩なレパートリーと伝説的なボウイングのテクニックが俯瞰できるセットになっている。

ただしここではオーケストラが加わる曲に関しては全く含まれていないので、そちらの方は同シリーズの協奏曲集に譲ることになる。

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集を中核に、バッハからブロッホに至る様々なスタイルの音楽が並んでおり、変化に富む内容となっている。

長らく未発表で2002年になって初めて発売された、グリーグのソナタ第3番とブラームスのソナタ第1番「雨の歌」も収録されている。

演奏はハイフェッツらしい颯爽とした折り目正しい演奏で、聴き終わった時に爽快感を感じる。

いずれの演奏もハイフェッツの高度に安定した技巧には感心させられるし、しかも技巧だけに偏った冷たい演奏ではなく、そこには熱気が漂い、抒情が流れている。

たとえば、ベートーヴェンでは「クロイツェル」が特に光っており、第1楽章には情熱がこめられているし、第2楽章は変化に富み、第3楽章には推進力がある。

「スプリング」も鮮やかな技巧と速めのテンポで演奏されて聴き応えがあり、流麗な出来映えを見せている。

とりわけ個人的に興味を持って鑑賞したのは8枚目に収録されている現代作曲家の作品集で、ブロッホの2曲のソナタ及びファーガソンのソナタ第1番、そしてカレン・ハチャトゥリアンのト短調ソナタの4曲。

それらはハイフェッツが同時代の音楽に傾けた強い共感を感じさせる演奏だし、また現在でもそれほど頻繁に採り上げられない曲なので貴重なセッションだ。

ちなみにカレン・ハチャトゥリアンはアラム・ハチャトゥリァンの甥にあたり、このソナタはレオニード・コーガンに捧げられたが、ハイフェッツの録音によって欧米でも知られるようになったという経緯を持っている。

編集は比較的自由にさまざまな時代からの演奏がカップリングされている。

また通しのセッションではないにしても一応ベートーヴェンやブラームスのソナタは全曲収めているが、バッハの無伴奏はソナタのみで3曲のパルティータが漏れている。

ソナタ集というタイトルに拘ったのかも知れないが、できれば全6曲を入れて欲しかったところであり、それによって更にコレクションとしての価値も高まっただろう。

ただモダンですっきりしたバッハが念頭にあったのか、どこか軽い感じのするバッハになっているのは否めない。

それが結果としてバッハの新しい演奏スタイルの確立に一石を投じる役割を果たしたと言って良いだろう。

ことにソナタ第3番の終楽章はいかにもハイフェッツらしい爽快な演奏だ。

録音年代は1936年から1972年で当然ながらモノラル、ステレオが混在している。

曲によっては多少ノイズが気になるものもあるが、この時代の録音としては良好で鑑賞に充分堪え得る音質だ。

これら一連のディスクを所有していない人にはとてもお得なセットとして推薦したい。

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フィッシャー=ディースカウが1951年にEMIとレコーディング契約をして以来の伴奏者だったピアニスト、ジェラルド・ムーアとのコラボレーションによるシューベルトの歌曲集。

先般のEMIによる過去の名盤のSACD化シリーズにおいては、若き日のフィッシャー=ディースカウによる一連のシューベルトの歌曲集も採り上げられることになった。

フィッシャー=ディースカウは、紛れもなく独墺系歌曲の最高の歌い手の1人であると言えるが、その最高の名唱とされているのは、何と言っても1970年代にジェラルド・ムーアと組んでスタジオ録音(DG)したシューベルトの3大歌曲集と言えるのではないだろうか。

本盤に収められたシューベルトの歌曲の演奏は、それよりも約20年ほど前の若き日の歌唱ということになるが、モノラル録音という音質面でのハンディはあるものの、1970年代の名唱とは違った意味で、素晴らしい名唱と評価したいと考える。

というのも、フィッシャー=ディースカウの歌唱は、あまりにも巧いために、後年の歌唱においては、その巧さが鼻につくケースも散見されるところであるが、本演奏においては、若さ故の気迫や熱き生命力が全体に漲っており、いささかも技巧臭を感じさせないのが素晴らしいと言えるからだ。

そして、勢い一辺倒の内容のない歌唱には陥っておらず、どこをとっても、シューベルトの音楽の素晴らしさ、美しさを心行くまで堪能させてくれるのが見事である。

巧緻な歌唱を支える若き日のフィッシャー=ディースカウの声は、言葉のニュアンスを深く、美しく伝えて、各曲の伝える世界を克明に描き出している。

本盤に収められた歌曲は、『魔王』や『セレナード』などのシューベルトの歌曲の中でも比較的有名なものを収めているところであるが、これら各歌曲の聴かせどころのツボを心得たいい意味での演出巧者ぶりは、本演奏当時の若き日より健在であると言えるところであり、まさに非の打ちどころのない名唱に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

本盤のピアノ演奏は、いつものジェラルド・ムーアがつとめているが、例によってジェラルド・ムーアによるピアノ演奏は、シューベルトの楽曲に特有の寂寥感に満ち溢れた美しい旋律の数々を情感豊かに描き出しており、フィッシャー=ディースカウによる名唱をより引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年代のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

フィッシャー=ディースカウの息遣いやジェラルド・ムーアのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、フィッシャー=ディースカウ、そしてジェラルド・ムーアによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

なお、当たり前のことではあるが、前述の3大歌曲集のSACD化に際して、扱いにくい紙パッケージに封入したことや対訳を省略したユニバーサルに対して、本盤では通常パッケージで、なおかつ対訳が付いていることについても、この場を借りて評価をしておきたい。

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2015年06月28日


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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音した一連のブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、ベルリン・フィル盤と同様に更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

ヴァントが最晩年にベルリン・フィルと遺した名演の数々は実に凄いものであった。

「第5」に始まり、「第9」、「第4」、「第7」、「第8」と、いずれも神々しいばかりの名演である。

今般、同時期にミュンヘン・フィルと行った名演の数々が、国内盤で発売されたが、いずれも、ベルリン・フィル盤と比べても、優るとも劣らない名演である。

重複しているのは、「第4」、「第5」、「第8」及び「第9」であるが、違いはオーケストラの音色と録音くらいのものであり、あとは好みの問題だと思われる。

本盤の「第9」の録音は1998年4月。

その約半年後のベルリン・フィルとの録音、さらに、来日時の録音が、名演のベストスリーということになるが、その中でも、本盤とベルリン・フィル盤が超名演と言うことになるだろう。

どちらもとび切りの一級で、スケルツォとアダージョに優劣はつけられないが、第1楽章は再現部冒頭とコーダがベルリン・フィル盤を上まわる。

ということは史上最高ということであって、ヴァントはブルックナーがこうしてほしいとスコアに書きこんだすべてを初めて音にして見せたのだ。

第1楽章など、実にゆったりとしたテンポによる深沈とした趣きであるが、ここぞというときの金管楽器の最強奏など悪魔的な響きであり、低弦の重厚な響かせ方にも凄みがある。

第2楽章も豪演だ。

ここは中庸のテンポをとるが、中間部のトリオの箇所との絶妙なテンポの対比も自然体で見事だ。

終楽章は、相変わらず金管を最強奏させているが、決して無機的には陥らず、天啓のような趣きがある。

それと対比するかのようなこの世のものとは思えないような美しい弦楽の奏で方は、ブルックナーの絶筆に相応しいアプローチであると思われる。

それにしても言語に絶するのはコーダで、最後の頂点を築いた後、天国の音楽へ、その別世界に突然入ってゆくところは美しさの限りだ。

演奏終了後に起きる一瞬の間も、当日の聴衆の感動を伝えるものであり、ヴァントの音楽を愛する聴衆の質の高さの表れということが言えるだろう。

ハイドンの交響曲第76番は、一聴すると無骨とも言える各旋律の端々から漂う独特のニュアンスや枯淡の境地さえ感じさせる情感には抗し難い魅力に満ち溢れていると言えるところであり、ヴァントによる同曲演奏の総決算とも言うべき素晴らしい名演と評価したい。

いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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現代を代表する指揮者ラトルが、ベルリン・フィルの芸術監督に就任する頃に、ウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集だ。

サー・サイモン・ラトルは1955年生まれのイギリス人の指揮者で、2002年よりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者であるが、もう若くはないとの彼の申し出で、2018年で去るとのことである。

ベルリンの新聞によれば、ラトルは前任者たちとは異なり、新しい世代の指揮者と言われている。

指導力は前任者たちと同じようにあるものの、とても人付き合いがよく、独裁的ではなく、楽団員たちに対して偏見がなく、寛大である。

ベルリン・フィルの演奏者たちは言わずもがなとてつもない能力のある一匹狼の集まりである。

一旦指揮を始めると、ラトルはオーケストラをしっかりと自分のものとし、練習のときには、問題があると、指揮台を降り、その楽団員のもとに自ら行き、直接話し合い、自分の目的を説明し、全員でともに音楽を作っていき、指揮する場合、スコアを研究し、長い時間をかけていわば料理しているとのことである。

ラトルは、従来の指揮者と異なり、常に新しい作品をベルリン市民に紹介してきた。

楽団員には、指揮者の言いなりに演奏し、あの指揮者ならあの音とわかるような決まりきった演奏をすることは求めず、作曲家にふさわしい様々な演奏ができる能力を育ててきた。

つまり楽団員にとっては常に新しい発見の日々と思われる。

清澄さ、明瞭さ、透明感がラトルの音楽性の特徴であるが、また音楽教育にも熱心で、楽団員を連れて、保育所にも学校にも生の音楽を聴かせに行くが、そこには希望があるという。

完全について彼は次のように言っている。

「完全はこの世には存在しない。楽団員には最高の技術は求めない。車は技術で作る。音楽は別の世界だ。作曲家はだれでも雰囲気を大事にする。そして解釈について話し合うことを好む。作曲家は完璧に楽譜通りに演奏することは最初から求めていない。音楽を通じてコミュニケーションをしたいなら、精緻さに陥らないようにすることだ。音楽家は機械ではない。そしてミスを恐れる音楽には生命がない」と。

このウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のCDは、すべてライヴで、「第5」が2000年12月、その他は2002年4月から5月にかけて演奏されたものである。

この年にラトルはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に選出されているが、ウィーン・フィルを選んだのは、ベートーヴェンの望む雰囲気があると判断したものと思われる。

そしてベートーヴェンがもし生きていたら、演奏に関する解釈を喜んで聴いてくれるに違いないと、楽団員に彼の解釈を説明し、楽団員が彼の意を理解したと思われる。

21世紀の新のベートーヴェン像としてラトルが名門ウィーン・フィルを起用して行った、モダン楽器を用いての古楽的奏法の導入、アーノンクールたちからの影響もあろうが、ラトルはベートーヴェンのスコアに潜んでいる劇性を見事に描いた、非常にバランスのいい演奏と言えよう。

強いて言えば、ライヴではなくスタジオ録音で徹底して録音して欲しかった反面、ライヴならではの臨場感溢れる素晴らしい出来になっているCDであるとも思う。

ウィーン・フィルもとてつもない技量を持った楽団員の集まりであるし、ラトルの音楽には常に、作曲家の世界を大事にする新しい発見がある。

本全集からは、サイモン・ラトルの目指しているものがなにか、彼の世界に触れることができよう。

「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が私を求めた、だからここにいる」との、いつも控えめなラトルが遠慮がちに言った言葉はとても重い。

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これはアバド最良の遺産のひとつである。

本盤に収められたマーラーの交響曲第4番は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうち最初のものに該当する。

最新の演奏は2005年にベルリン・フィルを指揮したものであるが、それは近年のアバドの円熟ぶりを窺い知ることが可能な至高の名演であった。

したがって、それより四半世紀以上も前の本演奏の影はどうしても薄いと言わざるを得ないが、筆者としては、若きアバドならではのファンタジーと幸福感に溢れた独特の魅力がある素晴らしい名演と高く評価したい。

アバドが最も輝いていた時期はベルリン・フィルの芸術監督就任前であり、この時期(とりわけ1970年代後半から1980年代にかけて)のアバドは、楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が付加された、いい意味での剛柔バランスのとれた名演の数々を成し遂げていた。

本演奏は、そうしたアバドのかつての長所が大きく功を奏し、ウィーン・フィルのふくよかでいぶし銀のような響きと、アバドの緻密さとさわやかな歌謡性がマッチした素晴らしい名演に仕上がっている。

マーラーの交響曲第4番は、他の重厚長大な交響曲とは異なり、オーケストラの編成も小さく、むしろ軽妙な美しさが際立った作品であるが、このような作品になるとアバドの歌謡性豊かな指揮は、俄然その実力を発揮することになる。

本演奏は、どこをとっても歌心に満ち溢れた柔和な美しさに満ち溢れており、汲めども尽きぬ流麗で、なおかつ淀みのない情感の豊かさには抗し難い魅力がある。

しなやかでふくよかなウィーン・フィルの音色が十分に生かされ、すべてが美しく歌っているからである。

それでいて、流麗なだけでなく充分に劇的で、生命力の躍動にも富んでおり、ここぞという時の力奏には気迫と強靭な生命力が漲っており、この当時のアバドならではのいい意味での剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており(ウィーン・フィルがステレオで録音した初めての第4番)、アバドの歌謡性の豊かな演奏に、更なる潤いと温もりを与えている点を忘れてはならない。

ゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンソロも極上の美しさを誇っており、終楽章におけるフレデリカ・フォン・シュターデによる独唱も、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

とはいえ、ここではアバドがかなり自己主張しており、ウィーン・フィルの美演を聴くというよりはアバドの指揮に耳を傾ける演奏となった。

特に第1楽章は若々しく新鮮で、大変スマートなマーラーであり、また極めて分析的で、曲想の移り変わりに神経を使っている。

第2楽章のクラリネットにつけられたルバートの巧みさなど息もつかせぬ面白さである。

音質は、1970年代のアナログ録音であるものの、従来CD盤でも比較的良好な音質であり、数年前にはSHM−CD盤も発売されるなど、比較的満足できるものであった。

ところが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、アバド&ウィーン・フィルによる素晴らしい名演を、現在望み得る最高の高音質であるシングルレイヤーによるSACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月27日


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フィッシャー=ディースカウが、ピアニスト、カール・エンゲルとのコラボレーションによるシューベルトの歌曲集。

先般のEMIによる過去の名盤のSACD化シリーズにおいては、若き日のフィッシャー=ディースカウによる一連のシューベルトの歌曲集も採り上げられることになった。

伴奏をムーアからエンゲルに代えてのシューベルト歌曲集第3巻は、シラーの詩による大作『水に潜る者』をはじめ、耳にする機会の少ない力作バラードを収めており、シューベルト・アルバムとしても珍しい企画と言えよう。

フィッシャー=ディースカウは、紛れもなく独墺系歌曲の最高の歌い手の1人であると言えるが、その最高の名唱とされているのは、何と言っても1970年代にジェラルド・ムーアと組んでスタジオ録音(DG)したシューベルトの3大歌曲集と言えるのではないだろうか。

本盤に収められたシューベルトの歌曲の演奏は、それよりも約20年ほど前の若き日の歌唱ということになるが、モノラル録音という音質面でのハンディはあるものの、1970年代の名唱とは違った意味で、素晴らしい名唱と評価したいと考える。

というのも、フィッシャー=ディースカウの歌唱は、あまりにも巧いために、後年の歌唱においては、その巧さが鼻につくケースも散見されるところであるが、本演奏においては、若さ故の気迫や熱き生命力が全体に漲っており、いささかも技巧臭を感じさせないのが素晴らしいと言えるからだ。

そして、勢い一辺倒の内容のない歌唱には陥っておらず、どこをとっても、シューベルトの音楽の素晴らしさ、美しさを心行くまで堪能させてくれるのが見事である。

本盤に収められた歌曲は、いずれもシューベルトの歌曲の中では必ずしも有名なものとは言い難いものであると言えるが、それでも各歌曲の聴かせどころのツボを心得たいい意味での演出巧者ぶりは、本演奏当時の若き日より健在であると言えるところであり、まさに非の打ちどころのない名唱に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

本盤のピアノ演奏は、いつものジェラルド・ムーアではなくカール・エンゲルがつとめているが、カール・エンゲルによるピアノ演奏も、シューベルトの楽曲に特有の寂寥感に満ち溢れた美しい旋律の数々を情感豊かに描き出しており、フィッシャー=ディースカウによる名唱をより引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年代のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

フィッシャー=ディースカウの息遣いやカール・エンゲルのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、フィッシャー=ディースカウ、そしてカール・エンゲルによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

なお、当たり前のことではあるが、前述の3大歌曲集のSACD化に際して、扱いにくい紙パッケージに封入したことや対訳を省略したユニバーサルに対して、本盤では通常パッケージで、なおかつ対訳が付いていることについても、この場を借りて評価をしておきたい。

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デッカの看板指揮者のひとりとして、1950年代から60年代にかけて膨大な数のセッション・レコーディングをおこなった巨匠、エルネスト・アンセルメ[1883-1969]の偉業を偲ぶイタリア・ユニバーサルの大型企画。

近年、有名作曲家の作品全集や有名指揮者・演奏家の録音全集がBOXで数多く発売されているが、ありそうでなかったのがアンセルメの録音全集だった。

エルネスト・アンセルメが指揮者としてのキャリアをはじめた頃は、クラシックの楽壇にも急激な変革がもたらされていた。

彼はそうした動向に強い情熱を示して、誰よりも先頭に立って新しい潮流を受け止め、深い理解と緻密な分析を通して自己の芸術を模索した指揮者だったと思う。

アンセルメはまたスイス滞在中のストラヴィンスキーへの共感から、このセットに収められたCD33枚分の音源のうち14枚が彼の作品に当てられている。

それはまたアンセルメがピエール・モントゥーの後釜としてディアギレフ率いるバレエ・リュスと共に多くのバレエを上演した経験が結実したレパートリーなのだろう。

これはライナー・ノーツからの受け売りだが、彼らが1916年にアメリカ公演に出た時、105日間で105公演という現在では考えられないハード・スケジュールをこなし、しかも演目は『春の祭典』や『ダフニス』などの難曲揃いだったというが、ニジンスキーの振り付けや新進気鋭のダンサー、レオニード・マシーンを抜擢したキャストがその成功をもたらし、アメリカの音楽界にも新鮮な衝撃を与える結果になったようだ。

アンセルメのロシア物への造詣の深さと驚異的なレパートリーは、こうした背景によって培われた成果に違いない。

幸い33枚のCDは作曲家ごとに再編集されているので聴きたい曲目を容易に見つけることができる。

参考までに作曲家ごとのCDの割り振りを見ると、やはり圧倒的な量を誇っているのがストラヴィンスキーのCD15-28で、中でもバレエ音楽『火の鳥』に関してはCD15(1955年録音、スイス・ロマンド管弦楽団)、CD23(1968年、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)、そして同年、同オーケストラとのリハーサル盤がCD24に、更に組曲版としてCD26(1919年版、1950年、スイス・ロマンド管弦楽団)とCD28(1910/1919年版、1946年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)の実に5種類の演奏を鑑賞することができる。

次がチャイコフスキーで3大バレエを含むCD1-6の6枚、プロコフィエフにはジュリアス・カッチェンをソロに迎えたピアノ協奏曲第3番や『スキタイ組曲』が収められたCD29-33の5枚が当てられている。

またリムスキー・コルサコフは2種類の『シェラザード』を含むCD8-11の4枚、ボロディンがCD7、その他ムソルグスキー、バラキレフ、リャードフ、グラズノフ、グリンカ、ラフマニノフの作品がCD12-14の3枚にまとめられている。

オーケストラは上述の他にCD13のグラズノフの『四季』『ワルツ』及びラフマニノフの『死の島』はパリ音楽院管弦楽団、CD28ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』がロンドン・フィルハーモニー管弦楽団で、その他は総てアンセルメによって設立されたスイス・ロマンド管弦楽団の演奏になる。

アンセルメの録音は今日でもなお新鮮に感じられるし、スイス・ロマンド管弦楽団の技量については個性的ではあっても二流のオーケストラではない。

例えばストラヴィンスキーの組曲版『兵士の物語』では、ピックアップ・メンバーであったにせよ素晴らしいアンサンブルを聴かせている。

使用音源の大半は鮮明なステレオ録音で、モノラルの音源についてもデッカ・クオリティのため十分に聴きやすい水準なので、音質もモノラル、ステレオ共に極めて良好で鑑賞に全く不都合はない。

ライナー・ノーツは33ページほどで収録曲目一覧及び英、伊語によるアンセルメのキャリアについてのコメントと、最後に全曲の録音データが掲載されている。

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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音したブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

ブルックナーの交響曲第6番は、ポピュラリティを獲得している第4番や峻厳な壮麗さを誇る第5番、そして晩年の至高の名作である第7番〜第9番の間に挟まれており、知る人ぞ知る存在に甘んじていると言わざるを得ない。

楽曲自体は、極めて充実した書法で作曲がなされており、もっと人気が出てもいい名作であるとも考えられるところであるが、スケールの小ささがいささか災いしていると言えるのかもしれない。

いわゆるブルックナー指揮者と称される指揮者であっても、交響曲第3番〜第5番や第7番〜第9番はよくコンサートで採り上げるものの、第6番はあまり演奏しないということが多いとも言える。

このことは、前述のような作品の質の高さから言っても、極めて残念なことと言わざるを得ないところだ。

そのような中で、ヴァントは、この第6番を積極的に演奏してきた指揮者である。

ヴァントが遺した同曲の録音は、唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1976年)、そして、手兵北ドイツ放送交響楽団との2度にわたるライヴ録音(1988年と1995年)、更には、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(1999年)の4つの録音が存在している。

これらはいずれ劣らぬ名演であると言えるが、この中でも最も優れた超名演は、ミュンヘン・フィルとの本演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

第1楽章など、金管を思いっきり力強く吹かせているが、決して無機的には陥ることなく、アルプスの高峰を思わせるような実に雄大なスケールを感じさせる。

それでいて、木管楽器のいじらしい絡み合いなど、北欧を吹く清涼感あふれる一陣のそよ風のようであり、音楽の流れはどこまでも自然体だ。

第2楽章は、とある影響力の大きい某音楽評論家が彼岸の音楽と評しておられたが、本盤の演奏こそがまさに彼岸の音楽であり、ヴァントとしても、最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地をあらわしているのではないだろうか。

第6番は、第3楽章や第4楽章のスケールが小さいと言われるが、ヴァントの演奏を聴くと必ずしもそうとは思えない。

終楽章など、実に剛毅にして風格のある雄大な演奏であり、特に、第2楽章の主題が回帰する箇所のこの世のものとは思えないような美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

ヴァントは、2002年にベルリン・フィルと同曲を演奏する予定だったとのことであるが、その死によって果たせなかった。

本盤のミュンヘン・フィルとの超名演を更に凌駕するような名演を成し遂げることも十分に想定出来ただけに残念という他はないところだ。

いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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2015年06月26日


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現代を代表する名ピアニストの1人であるゲルバーが残した格調の高いベートーヴェン3大ピアノ・ソナタであるが、ゲルバーのベートーヴェンは素晴らしい。

同じく「テンペスト」、「ワルトシュタイン」、「告別」の3大人気ピアノ・ソナタがBlu-spec-CD化されており、それも音質の素晴らしさも相まって見事な演奏であったが、本盤の3曲も、それらの演奏に優るとも劣らない素晴らしい名演奏だ。

ゲルバーはアルゼンチン生まれのピアニストだが、現在では数少ない、ドイツピアニズムの正統な後継者になっている。

ただし、同じくドイツピアニズムの後継者であるゲルハルト・オピッツがしばしば「堅すぎる」「不器用だ」という批評を受けるのに対して、ゲルバーの演奏にはそういった面は見られない。

テンポ設定は少し速めだが、重厚な響きをフルに生かしたゲルバーらしい演奏に仕上げられている。

ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏の特色は、何と言ってもその美しさにある。

もっとも、単なる表面上の美しさにとどまっているわけではない。

その美しさは、後述のように深い内容に裏打ちされていることを忘れてはならない。

加えて、演奏全体の造型は堅固であり、ドイツ風の重厚さが演奏全体に満ち満ちており、独墺系のこれまでの様々な偉大なピアニストの系譜に連なる、まさにいい意味での伝統的な演奏様式に根差したものであると言えるだろう。

「悲愴」、「月光」の終楽章や、「熱情」の第1及び終楽章の雄々しく男性的な打鍵の力強さ、「悲愴」の第2楽章や「月光」の第1楽章の繊細な抒情、これらを厳しい造型の中でスケール豊かに表現している。

テンポも目まぐるしく変わり、最強奏と最弱音のダイナミックレンジも極めて幅広いが、ベートーヴェンとの相性の良さにより、恣意的な表現がどこにも見られず、ベートーヴェンの音楽の魅力がダイレクトに伝わってくる。

そして、どこをとっても、眼光紙背に徹しているとも言うべき厳格なスコア・リーディングに基づいた音符の読みの深さが光っており、前述のようにいわゆる薄味な個所は皆無であり、いかなる音型にも、独特の豊かなニュアンス、奥深い情感が込められていると言えるところだ。

技術的にも何らの問題がないところであり、随所に研ぎ澄まされた技巧を垣間見せるが、いささかも技術偏重には陥っておらず、常に内容の豊かさ、彫りの深さを失っていないのが見事であり、知情兼備の演奏であると言っても過言ではあるまい。

総括すれば、いい意味での剛柔のバランスのとれた演奏というのが、ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏であると言えるところであり、ドイツ正統派の伝統的な演奏様式に、現代的なセンスをも兼ね合わせた、まさに現代におけるベートーヴェンのピアノ・ソナタ演奏の理想像の具現化と評価し得ると考えられるところだ。

まさに巨匠の芸風といえるスケールの大きさ、凝縮された感情、叙情、ファンタジー、どこを切っても濃密で熱い血がほとばしる迫真のベートーヴェンである。

いずれにしても、本盤の各楽曲の演奏は、ゲルバーならではの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質については、従来CD盤でも1990年前後のスタジオ録音ということもあって、比較的満足できる音質であると言えるが、これだけの名演だけに、長らくの間、高音質化が望まれてきた。

そのような中で、今般、かかる名演が待望のBlu-spec-CD化がなされたということは、本演奏の価値を再認識させるという意味においても大きな意義がある。

ゲルバーによるピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてBlu-spec-CD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、ゲルバーによる素晴らしい名演をBlu-spec-CDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

そして、可能であれば、既にBlu-spec-CD化されている「テンペスト」、「ワルトシュタイン」、「告別」も含めて、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化して欲しいと思っている聴き手は筆者だけではあるまい。

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クルト・ザンデルリンクは、2011年9月18日、ベルリンにて98歳の生涯を終えた。

2002年に引退をしてからは指揮活動から遠ざかってはいたが、現役時代に行った演奏の数々の中には素晴らしい名演も数多く存在しており、その死は誠に残念至極であり、この場を借りて、改めてザンデルリンクの冥福を心からお祈りしたい。

ザンデルリンクはムラヴィンスキーに師事するとともに、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチを得意としており、交響曲第15番については2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音が、ベルリン交響楽団との演奏(1978年)であり、2度目の録音が、クリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)である。

いずれ劣らぬ名演と言えるところであり、1978年盤はより引き締まった演奏全体の造型美を味わうことが可能と言えるが、特に1991年の演奏については懐の深い円熟の名演とも言えるところであり、筆者としては、本演奏の方を僅かに上位に掲げたいと考える。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

ザンデルリンクの場合は、東独という、旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家の出身であること、そしてムラヴィンスキーに師事していたこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲の本質への深い理解については、人後に落ちないものがあったと言える。

本演奏も、さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏(1976年)ほどの深みや凄みには達していないと言えるが、それでもザンデルリンクによる彫りの深い表現が全体を支配するなど、外面だけを取り繕った薄味な演奏にはいささかも陥っていないと言えるところだ。

加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える

マーラーもまったくただものではなく、ザンデルリンクの凄さを思い知らされる演奏である。

ザンデルリンクが創り出す音楽は、さしずめブロンズ像のようなもので、細部の再現性ではなく、全体の大づかみな構築を問うている。

だから、作品が逞しく聴こえるところであり、この逞しいとは、もちろん他人よりも大きな音を出すとか響きが分厚いということではない。

たとえば両端楽章は大きな振幅でうねるが、そのうねりに神経質なところがなく、実に自信があるのだ。

このザンデルリンク流が細部ほじくり型より容易な演奏法だということはまったくない。

単にうるさいところは強く弾き、メロディは歌いまくればこういう演奏になるかと言えば、そんなことはないのである。

フレージングの力学に通じ、どうすれば音楽が自然に流れるように聞こえるのかを知らなければならない。

ザンデルリンクはその技のきわめつきの名手であり、彼の手にかかると、複雑なこの交響曲もじつにやすやすと流れていくのである。

たとえば第4楽章は、誰もが心をこめて歌う楽章だが、感情移入という点では、バーンスタインのほうがザンデルリンクよりもよほど熱烈だ。

ザンデルリンクの演奏では感情の力学ではなく、響きの力学に従って音楽が先へ進む。

だから、この楽章がことさら嘆きとか悲しみを訴えることはなく、美的なものとして現れてくるのだ。

筆者は、この太い名木を組み合わせて作ったような感触のフィナーレが大好きである。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)ザンデルリンクショスタコーヴィチ 

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フルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルターなど、綺羅星の如く大巨匠が活躍していた20世紀の前半であったが、これらの大巨匠は1960年代の前半には殆どが鬼籍に入ってしまった。

そうした中で、ステレオ録音の爛熟期まで生き延びた幸運な大巨匠(それは、我々クラシック音楽ファンにとっても幸運であったが)こそは、オットー・クレンペラーであった。

クレンペラーは、EMIに対して膨大な点数のスタジオ録音を行ったが、その大半はこの大巨匠の指揮芸術の素晴らしさを味わうことが可能な名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

そうした押しも押されぬ大巨匠であるクレンペラーのレパートリーの中心は独墺系の作曲家の楽曲であったことは異論のないところであるが、そのすべてが必ずしもベストの評価を得ているわけではない。

特に、本盤に収められた《ワルキューレ》第1幕(1969年ステレオ録音)については、賛否両論があるものと言えるだろう。

当時の独墺系の巨匠指揮者に共通するものとして、クレンペラーも歌劇場からキャリアをスタートさせただけに、ワーグナーのオペラについても得意のレパートリーとしていた。

このうち楽劇「ニーベルングの指環」については、クレンペラーは若き日より何度も指揮を行ってきたところであるが、残念ながらライヴ録音も含め現時点では全曲録音が遺されていないようである。

本盤のアプローチは、クレンペラーならではの悠揚迫らぬゆったりとしたテンポ設定による重厚かつ剛毅とも言えるものであり、強い表現意欲に突き動かされたような演奏内容である。

生き物のように重々しくコントラバスがうごめく冒頭を聴くと、マーラーの「復活」がこの曲からかなり直接的な影響を受けたのではないかとさえ思えてくるが、それもここでのクレンペラーの極端なアプローチがあればこそであり、その異様なまでのグロテスクな迫力には圧倒されてしまう。

本編に入ってからもオーケストラは常に意味深く雄弁に響き渡り、ワーグナーのオーケストレーションの天才をここまで強調するクレンペラーの慧眼にはいちいち頷くほかはない。

クレンペラーの演奏の特徴である、動的というより静的、でも細部の隈取がクリアで、いつも巨大なあざやかな壁画を眺めているようなところが良く現れた演奏となっている。

全体に寸分の揺るぎもない重厚な演奏で、そのリズムは、巨人の足どりのようにずっしりと重いが、これが本当のワーグナーの響きというものだろう。

フルトヴェングラーのようなテンポの思い切った振幅やアッチェレランドなどを駆使したドラマティックな表現などは薬にしたくもなく、限りなくインテンポを基調したものと言える。

テンポ設定だけを採れば、同時代の巨匠で言えば、ワーグナーを十八番としていたクナッパーツブッシュの演奏に限りなく近いと言えるが、深遠かつ荘重な演奏とも言えたクナッパーツブッシュの演奏に対して、クレンペラーの演奏は、深みにおいては遜色がないものの、前述のように剛毅で武骨な性格を有していると言えよう。

これは、クレンペラーによるブルックナーの交響曲の演奏にも共通するところであるが、アクセントなどがいささかきつめに聴こえるなど、聴きようによっては、作曲家の音楽というよりは、クレンペラーの個性の方が勝った演奏になっているとも言えなくもない。

もっとも、こうした演奏は、他の作曲家、例えばベートーヴェンやマーラーの交響曲などにおける歴史的な超名演との極めて高い次元での比較の問題であり、そうした超名演との比較さえしなければ、本盤の演奏を一般的な意味における名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

3人の歌手には注文をつけたいところもあるが、ともかく《ワルキューレ》第1幕の凄みを教えてくれる強烈な演奏内容である。

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2015年06月25日


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村上春樹氏の小説によってさらに脚光を浴びることになったヤナーチェク。

巷間、チェコの作曲家としては、第1にスメタナ、第2にドヴォルザーク、第3にヤナーチェク、そして第4にマルチヌーとされているところだ。

しかしながら、楽曲の質の高さ、他の作曲家への影響力の大きさなどを総合的に勘案すれば、ヤナーチェクはチェコの第3の作曲家などではなく、むしろスメタナやドヴォルザークを凌駕する存在と言えるのではないだろうか。

モラヴィアの民謡を自己の作品の中に高度に昇華させて採り入れていったという巧みな作曲技法は、現代のベートーヴェンとも称されるバルトークにも比肩し得るものであると言えるし、「利口な女狐の物語」や「死者の家から」などといった偉大なオペラの傑作は、20世紀最大のオペラ作曲家とも評されるベンジャミン・ブリテンにも匹敵すると言えるところだ。

そして、ヤナーチェクの最高傑作をどれにするのかは議論を呼ぶところであると考えられるところであるが、少なくとも、本盤に収められたグラゴル・ミサは、5本の指に入る傑作であるというのは論を待たないところである。

グラゴルとは古代スラヴ王国でキリスト教布教のために用いられた文字のことで、4人の独唱者、混声合唱、管弦楽とオルガンのために書かれた大規模な作品である。

同曲には、オペラにおいて数々の名作を作曲してきたヤナーチェクだけに、独唱や合唱を巧みに盛り込んだ作曲技法の巧さは圧倒的であると言えるし、モラヴィア民謡を巧みに昇華させつつ、華麗な管弦楽法を駆使した楽想の美しさ、見事さは、紛れもなくヤナーチェクによる最高傑作の1つと評してもいささかも過言ではあるまい。

本盤では、世界最高のヤナーチェクの権威で、チェコ音楽のオーソリティーであるマッケラスが心を込めてヤナーチェクの大作を指揮して遺した決定的名盤。

マッケラスは、こうした偉大な作曲家、ヤナーチェクに私淑し、管弦楽曲やオペラなど、数多くの録音を行っている、自他ともに認めるヤナーチェクの権威であり、ウィーン・フィルやチェコ・フィルとの数多くの演奏はいずれも極めて優れたものだ。

本盤に収められたチェコ・フィルや、優れた独唱者(特に第3楽章スラヴァのゼーダーシュトレームのソプラノ独唱は喜びと輝きに溢れていて心が満たされる)、そしてプラハ・フィルハーモニー合唱団を駆使した同曲の演奏は、ヤナーチェクの権威であるマッケラスならではの同曲最高の名演と評価したいと考える。

マッケラスの指揮は明快で曖昧さが皆無であり、アンチェル盤やクーベリック盤等と比較すると、常に作品と一定の距離を置いたアプローチとも感じられる。

しかし、後の再録音盤のように曲を手の内に引き込みすぎて却って作為的になりすぎるような事は無く、曲の魅力を十二分に堪能できるのが嬉しい。

本盤がこのヤナーチェクの傑作グラゴル・ミサの最有力盤としているのは、やはりそのテンションであろう。

主題の目まぐるしい展開がヤナーチェクの特徴であるが、それをテンション高く、エキセントリックさを十二分に伝えており、同じチェコ・フィルでも、アンチェル盤では、エキセントリックさがなく、スケール大きな把握の演奏で、さすがターリッヒ直弟子のマッケラスは、モラヴィアの心まで自家薬籠中のものにした感がある。

スケールの雄大さ、そして独唱者や合唱団のドライブの巧みさ、情感の豊かさのいずれをとっても非の付けどころのない高水準の演奏であり、途中で挿入されるオルガン・ソロの歯切れが悪いことと、録音のせいかオケがやや薄い響きになるのが残念だが、合唱の出来は万全と言って良く、筆者としては、本演奏こそは、同曲演奏の理想像の具現化と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

いずれにしても、ヤナーチェクの傑作グラゴル・ミサを、マッケラス&チェコ・フィルをはじめとしたチェコの独唱者や合唱団による素晴らしい名演で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 22:49コメント(1)トラックバック(0)ヤナーチェク 

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ベートーヴェンの交響曲全集で、最も完成度の高い、かつ癖がなく聴きやすいものの1つではなかろうか。

大編成オーケストラを指揮しながら、引き締まった美学を貫いたセルのベートーヴェン演奏はスタンダードと呼ぶに相応しいものとして定評がある。

だが一方では、セルと言えば練習の鬼、厳格、一分の隙もない、というのが代名詞のようにに言われ逆に言うと面白みに欠けるという評価にもなっていた。

それはおそらくLP時代からの平板的で奥行きがない録音のせいで、今回のりマスタリングを聴いてその評価が一変してしまった。

本セットを改めて聴いてみると過度に力を入れず、洗練された正統派のベートーヴェンで、トスカニーニ並みの完璧なリズムとダイナミクスを備えつつも微妙なニュアンスや即興性にも富んでいることが良く分かった。

強烈な個性や情熱を感じさせる演奏も良いが、セルの堂々と揺るがぬ、かつ絶対だれないテンポと、クリーヴランド管弦楽団の鉄壁のアンサンブルによる引き締まった演奏は、迫力十分でも感情過多ではないので聴き飽きないし耳にもたれない。

セルというと、ドヴォルザークなどのチェコ系の作品やR.シュトラウスが高く評価されているようであるが、最も素晴らしいのはベートーヴェンであり、この全集がその証明である。

例によって、指揮者の特別な個性を際だたせるような表現ではないが、やや速めのテンポで高い合奏能力をもったオーケストラによって誠実に演奏されている。

オーケストラの各楽器が見事に解け合って、まるで1つの楽器のように聴こえ、知情意のバランスのとれた演奏で、曲の素晴らしさが率直に伝わってくる。

また、セルの全集はベートーヴェンの前向きで意志的な音楽世界を極めて直截に表現し、一貫して強い推進力を感じさせる。

妥協を許さない強靭なセルの音楽性とリーダーシップがベートーヴェンの作品における意志的側面を見事に浮き彫りにしている。

その点で現在も新鮮であり、このような全集がステレオで残っており安価に入手できることは有難いことだ。

鉄壁のアンサンブル、クールな表現スタイルと言われたセル&クリーヴランド管弦楽団であるが、パーヴォ・ヤルヴィなどの、近年のソリッドな演奏に慣れた耳からすると、むしろ暖かみ、人間味や、ロマンさえも感じさせる。

時代を考えれば当然であるが、大編成オケによるベートーヴェンがコンサート・レパートリーの主役だった時代の息吹を存分に味わえる。

演奏以上に驚かされたのが音質の良さである。

初期CDの音はあまり良くなく、オリジナル・紙ジャケットのセットは高かった上にすぐ品薄になってしまうなど、なかなか理想的な形で出てこなかったセルのベートーヴェン交響曲全集が、漸く万人が入手しやすい形でリリースされた。

リマスタリングは、かなり高い水準で成功しており、特に、少し録音の古い「エロイカ」が良好な音質に蘇っているのも嬉しい。

「エロイカ」はSACD化もされており、そちらも素晴らしい音質で聴けるが、音の骨太感、全体の密度感は今回のセットの方が上な気がする。

さざ波のような弦、適度な余韻をもたらす心地よいホールトーンなどが見事にとらえられており、従来盤と比較したところその違いに驚いてしまった。

テープヒスも、録音年代から考えると全体に低いレベルで抑えられている。

クリーヴランド管弦楽団のものすごい力量も良く分かり、当時世界一のオーケストラと言われたのが納得できる。

ところどころセルの唸り声のようなものも入っており一層生々しさを感じさせる。

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classicalmusic at 20:51コメント(3)トラックバック(0)ベートーヴェンセル 

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いささか懐古的になるが、ユニバーサルが2010年より、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の発売を開始したのは、ネット配信が隆盛期を迎えパッケージメディアの権威が揺らいでいる中において、快挙とも言える素晴らしい出来事であった。

ユニバーサルは発売開始以降、月に3〜5枚のペースで当該SACD&SHM−CD盤を発売してきているが、小澤によるブラームスの交響曲第2番とブリテンの戦争レクイエムを除いては、かつて発売されていたSACDハイブリッド盤の焼き直しに過ぎなかったと言わざるを得なかった。

しかしながら、ライバルのEMIがフルトヴェングラーの遺産のSACD化に踏み切り、大変な好評を得ていることに触発された面もあるのではないかとも思われるが、先般、これまで1度もSACDで発売されたことがないフルトヴェングラーの一連の歴史的な録音を、定評のあるシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で発売するというのは、素晴らしい壮挙として大いに歓迎したいと考える。

本盤に収められているのはシューマンの交響曲第4番と「マンフレッド」序曲であるが、いずれもそれぞれの楽曲の演奏史上最高の玉座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

フルトヴェングラーが亡くなる1年半前、1953年5月のスタジオ録音によるシューマンの交響曲第4番は、フルトヴェングラーの最も優れたレコーディングとして知られるもので、最新の音楽之友社刊『新編名曲名盤300』でもこの曲のベスト・ワンとして推されている名盤である。

フルトヴェングラーは同曲を、悠揚迫らぬインテンポで荘重に曲想を進めていく。

シューマンの絶望感に苛まれた心の病巣に鋭く切り込んで行くような深沈とした彫りの深さにも際立ったものがある。

演奏全体の造型はきわめて堅固ではあるが、峻厳さを感じさせることはいささかもなく、演奏全体が濃厚なロマンティシズムに満ち溢れているのが素晴らしい。

晩年のスタジオ録音でありながら、ライヴ録音に優るとも劣らぬ鬼気迫る熱演が繰り広げられていると同時に、音楽の流れが自然であり、また細部の処理も入念で、全体として完成度が極めて高い。

歌に満ちたフレーズ、オーケストラの充実した響き、楽器間の絶妙な音量バランス、音楽に寄り添ったテンポのうねりなど、本当に見事だ。

また、通常、フルトヴェングラーの演奏では、「フルトヴェングラーを聴く」という意味合いが強くなるが、この演奏では、シューマンの楽曲自体の素晴らしさを堪能することができるという点でも、楽曲の魅力を最大限に引き出した演奏だと思う。

これほどの深みのあるシューマンの交響曲第4番の演奏は他にも例がなく、その後は、ベーム&ウィーン・フィル(1979年)、バーンスタイン&ウィーン・フィル(1984年)、カラヤン&ウィーン・フィル(1987年)などの名演も生まれてはいるが、本フルトヴェングラーによる超名演には到底足元にも及ばないと考える。

「マンフレッド」序曲も、フルトヴェングラーならではの濃厚で奥行きの深さと実演ならではのドラマティックな圧倒的生命力を感じさせる至高の超名演であり、ウィーン・フィルを指揮した名演(1951年、既にEMIよりSACD化)よりも更に上位に置きたいと考える。

音質は、1953年のスタジオ録音(「マンフレッド」序曲は1949年のライヴ録音であり、若干音質は落ちる)ということもあって従来盤でもフルトヴェングラーのCDとしては良好な方であったが、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、にわかには信じ難いような鮮明な音質に生まれ変わった。

フルトヴェングラーによる至高の超名演をこのような極上の高音質SACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月24日


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本盤に収められたセル&クリーヴランド管弦楽団によるドヴォルザークのスラヴ舞曲全集については、既にリマスタリングCDが発売された際に、次のようなレビューを既に投稿済みである。

「全盛時代のセル&クリーヴランド管弦楽団による演奏の凄さを味わうことができる圧倒的な超名演だ。

セル&クリーヴランド管弦楽団は、『セルの楽器』とも呼称されるほどの鉄壁のアンサンブルを誇った名演奏の数々を展開した稀代の黄金コンビであった。

すべての楽器セクションがあたかも1つの楽器のように聴こえるという精緻にしてまさに完璧な演奏の数々を繰り広げていたところである。

もっとも、そうした完全無欠の演奏が、ある種の技量に偏ったメカニックな冷たさを感じさせたのも否めない事実であり、とりわけ1960年代の半ば頃までの演奏にはそうした演奏があまた散見されたところだ。

もっとも、理由はよくわからないが、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽、そして独墺系の作曲家の中ではとりわけシューマンの音楽については、1960年代後半以降の最晩年の演奏において垣間見せた、情感豊かで柔軟性のある円熟の名演の数々を披露していたと言える。

特に、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコ音楽には、ハンガリーの隣国の音楽ということもあり、深い愛着と理解を有していたと言えるのかもしれない。

本盤に収められたドヴォルザークのスラヴ舞曲全集も、実に素晴らしい圧倒的な超名演だ。

いずれの楽曲も一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使した、まさに完全無欠の演奏を展開しており、おそらくはオーケストラ演奏としてパーフェクトなものとさえ言えるだろう。

それでいて、1962〜1965年にかけての演奏であるが、この時期のセルの欠点でもあったある種のメカニックな冷たさなどはいささかも感じさせず、どこをとってもチェコの民族色溢れる豊かな情感に満ち溢れているのが素晴らしい。 

ドヴォルザークのスラヴ舞曲全集の名演としては、クーベリック&バイエルン放送交響楽団による演奏(1973〜1974年)や、ノイマン&チェコ・フィルによる2度目の演奏(1985年)などが掲げられるが、本盤のセル&クリーヴランド管弦楽団による演奏も、これらの名演に肉薄する圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。」

音質は、1960年代のスタジオ録音であるものの、従来盤でも比較的良好な音質と言えるが、数年前に発売されたシングルレイヤーによるSACD盤は途轍もない鮮明な高音質であったところだ。

セル&クリーヴランド管弦楽団による鉄壁のアンサンブルを駆使した完全無欠の演奏の凄みを味わうには望み得る最高の音質であるとさえ言える。

機能的なアンサンブルで定評のあるセルとクリーヴランド管弦楽団のコンビだが、ここではスラヴ的なメロディを時に粘っこく、リズミカルな曲では熱っぽく演奏している。

セルは、ゆったりとしたテンポを基調に置いているだけに、クーベリックよりも緩急の描き分けが一層大きくなっており、音の強弱の幅、表情付けも大きい。

こうした特徴が1つの曲の中で絶妙にブレンドされており、優美さと、スラヴ舞曲特有の激しく軽快に躍動するリズム感を兼ね備えた、スケールの大きい素晴らしい名演となっているのだ。

もっとも、当該SACD盤は現在では入手可、多少高額であったとしても、当該SACD盤の購入を是非ともお薦めしておきたいと考える。

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ルドルフ・ブッフビンダーが1997年から翌98年にかけてウィーン・コンツェルトハウスで行った定期演奏会からモーツァルトのピアノ協奏曲20曲と『ロンドニ長調』を9枚のCDに収録している。

ようやく日本でも実力が知られてきた感があるウィーン系ピアニスト、ブッフビンダーのモーツァルト:ピアノ協奏曲集。

このセットの特徴は全曲ブッフビンダーがウィーン交響楽団を弾き振りしたライヴ音源からのCD化で、コンサートの期間も集中していたために彼の楽曲に対する解釈にも、またCDの音質の面でも一貫した統一感がある。

近年ブッフビンダーはライヴ録音を精力的に行っているが、それはオーガナイズ側の制作費の節減もあるだろうが、一方で彼自身の演奏に取り組むポリシーの実現化であることは疑いない。

モーツァルトのピアノ協奏曲集には幾多の名盤があり選択肢が多いが、ピアノもオケも、音をしっかりと鳴らし、素直な表現で、美しい演奏を聴かせてくれる。

ブッフビンダーのピアノは、気品に溢れ明快であり、モーツァルトに誠実に取り組む姿勢が伝わってくる。

ここではウィーン系のピアニストが地元のオーケストラを弾き振りしていることも重要な鑑賞ポイントになるだろう。

ブッフビンダー自身はボヘミア出身だが、5歳の時からウィーン音楽アカデミーで学んだことで、彼は伝統的なウィーンの奏法を身につけている。

弾き振りだけあってウィーン交響楽団とのバランスが絶妙で、ピアノの音が実に優雅である。

ブッフビンダーの先輩にはモーツァルトの権威でもあるバドゥラ=スコダを筆頭にグルダ、デムス、ヘブラーなど錚々たるピアニストがいるが、彼らの中で系統的なモーツァルトのピアノ協奏曲全曲を録音したのはヘブラーだけのようだ。

尚このセットは全曲集ではないが代表的な作品は総てカヴァーしている。

また弾き振りではペライア、ポリーニ、内田光子などの先例があるにしても、オーケストラを巧みに統制しながら瑞々しい音色をオーケストラから引き出した指揮者としての手腕も流石だ。

ブッフビンダーの弾き振りの秘訣はその合わせ技にあると思う。

それはおそらくブッフビンダーの長期間に亘るアンサンブル・ピアニストとしてのキャリアの賜物だろう。

確かにブッフビンダーの参加したアンサンブルはどの曲も核心をつかんだ手堅い演奏だ。

協奏曲の場合でもオーケストラを自分に従わせると同時に、自らが積極的に合わせていく姿勢はひとつの練達の技と言える。

この協奏曲集でもソロを突出させることなくオーケストラから自然にピアノ・パートを浮かび上がらせる采配と、彼のクリアーなタッチから生まれる煌めくような音色が印象的だ。

それぞれの曲に対する解釈は比較的すっきりしていて、そこにウィーン流のシンプルさと音楽の流れを止めない流麗な表現がある。

短調で書かれた第20番や第24番でも深刻になり過ぎず、良い意味での軽さを失わずに極めて整然とした様式感を感知させているところにもウィーン趣味が表れている。

現役のピアニストでこれだけ真摯に自然体でモーツァルトを弾く人は貴重な存在と言えるところであり、ピアノ・ソナタへの取り組みも期待したい。

収録曲はピアノ協奏曲第5、6、8、9番、第11番から第18番、第20番から第27番までの20曲と、ピアノとオーケストラのための『ロンドニ長調』だが、ひとつにまとめられたボックス仕様ではなく、それぞれが独立したジュエル・ケースに入った9枚のCDの集合体であるために、枚数のわりにはかさばるのが欠点だ。

独、英語によるモーツァルトのピアノ協奏曲についてのコメントと、演奏者紹介を掲載したパンフレット程度の数ページのライナー・ノーツが各CDごとに挿入されている。

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1956年6月14日、引退直前のワルターがフランス国立放送管弦楽団へ客演した際の放送用ライヴ録音。

ワルターが録音した「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の中で、音色や雰囲気の点で、最もロマンティックなのはウィーン盤であるが、解釈自体としていちばんロマン的なのは、この演奏である。

ワルターは慣れないフランスのオケに徹底して自分の解釈をたたきこみ、ときには強引に引っ張ってゆく。

音色こそ乾いて明るいフランス調だが、響きは豊かで厚みに満ち、第1楽章における大きなテンポの動き、第4楽章の極めて遅い運びなど、ワルターのどのレコードよりも著しく、モーツァルトのあふれんばかりの歌とワルター節とを心ゆくまで堪能できる。

従って、ワルターのモーツァルトに疑問を持つ人には最も嫌われる演奏と言えるのかも知れない。

第2楽章のたっぷりとしたカンタービレ、ワルターとしてはやや速めで、音楽に勢いのあるメヌエットもそれぞれ素晴らしく、録音もややドライだが、生々しく採れている。

逆に「フリーメーソンのための葬送音楽」は、2つのコロンビア盤に比して、かなり落ちる。

楽器の分離がやや悪く、旋律線のくっきりしない録音のせいもあるのだろう。

「リンツ」もオーケストラがワルターの指揮ぶりに慣れていないせいか、2つのコロンビア盤との録音よりも、ワルターのロマンティックな表情が強調されて表われており、それがファンにとってはたまらない魅力となる。

第1楽章に頻出するテンポの動きと思い切ったカンタービレは現代の指揮者からは絶対に聴けないし、第2楽章も音楽に対するワルターの愛情や共感がほとばしり出ている。

ワルターは常に「ここはこういう音楽なんだよ」と語りかけるのである。

フィナーレ結尾のアッチェレランドをかけた情熱的な高揚はいつもながらのワルターだ。

第39番は2つのニューヨーク盤ほどのスケールの大きさや豊かな響きには乏しいが、初めの2つの楽章には、完成度が低いからこそ、ワルターの考えがはっきり伝わってくる面白さがある。

第1楽章の導入部からして、がっしりとした大建築物を仰ぎ見るような表現で、翳の濃さや響きの分厚さとともにベートーヴェンを想わせる。

主部に入ると、金管やティンパニがモーツァルト演奏の常識を破って(モーツァルトにおけるこれらの楽器は、フォルテの指定でも指揮者の要求がなければメゾ・フォルテで演奏される)強奏強打され、あふれるような歌に満ち、テンポが大きく変化されて、いわゆる爽やかさやデリカシーといった、モーツァルトの典型的な解釈を求める人には大いに抵抗のある表現が展開される。

コーダの急速な追い込みなど、まさに息詰まるような迫力と言えるところであり、休符の長い間や洒落たテヌートも昔のSPそのままである。

厚みのあるカンタービレがほとばしるようなアンダンテ、情熱的と言いたいくらい思い切ったアクセントを持ったメヌエット、いずれも速めのテンポながら一分の隙もない緊張感を保ちながら進められるが、フィナーレにいたっては、ワルター絶好調の名人芸であろう。

雄大な造型と、めくるめくような迫力と、厚く輝かしい響きを備えながら、同時に比類のない繊細さとアンサンブルの冴えを聴かせ、テーマには微妙な間さえ現われるが、その魅力が何とも言えない。

しかもこの壮麗を極めた演奏は、外側からつけ加えられたものではなく、ワルターの内部から湧き上がった力によっているのだ。

すなわちこれらのロマンティックな表情や迫力が、いささかの人工臭を残さないまでに、昇華されつくしたのである。

慣れないオケをここまで操り、自信にあふれて新しいモーツァルト像を打ち立てたワルターに心から敬意を表したい。

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2015年06月23日


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ピエール・モントゥー(1875-1964)は、往年の名指揮者の中で、わが国を訪れた数少ない巨匠の1人である。

モントゥーは、1963年4月、大阪フェスティヴァルの3回の演奏会でロンドン交響楽団を指揮した。

これは幸運と言うべきだが、演奏会が大阪だけで、多くの音楽愛好家を口惜しがらせたという。

ただ筆者は1度だけモントゥーの指揮をテレビで見たことがある。

もう20年以上も前だが、モントゥーはシカゴ交響楽団を指揮してベートーヴェンの交響曲(第1番か第8番)を演奏した。

それはテレビ映画だったが、長いバトンを振って悠然と指揮するモントゥーの姿からは、風雪に耐えた大樹を思わせる毅然とした態度と、温和で暖かい人間性が滲み出ていて、今も懐かしく思い出される。

その印象はレコードで聴くモントゥーの演奏の魅力を裏づけるものであった。

交響曲であれ、バレエ音楽であれ、歌劇であれ、あるいは協奏曲や歌曲のパートナーとしてであれ、モントゥーは、作品と聴き手の仲介者の立場に徹し、決して自己顕示的でない。

しかし、それはモントゥーの解釈が没個性的であることを意味せず、むしろ節度を保った演奏の中で彼の個性は輝きを放っているのである。

モントゥーは1942年にアメリカ合衆国の国籍をとったが、元来はパリに生まれたユダヤ系のフランス人で、音楽教育をパリ音楽院で受けている。

従って一般にはフランスの音楽家と考えられているが、多くの同僚と違って、モントゥーの演奏から洒落た感覚とか粋なニュアンスが第一に感じられることはない。

モントゥーの演奏は洗練されているが、本質的に健康で豊かな感情に満ち、しかもそれに押し流されない「良識」(フランス人の最も好きな言葉だが)をそなえている。

モントゥーの意志の強さとエネルギーは、頼まれたら否と言えない性質、衰退の極にあるオーケストラの再建、新しいオーケストラの訓練、若い指揮者の育成……に遺憾なく発揮されている。

ストラヴィンスキーの《春の祭典》の初演で騒ぎにもめげず最後まで演奏を続けた闘志にもそれは感じられる。

モントゥーの業績の中でも特筆すべきは、1919年からの5年間、クーセヴィツキーの前任者としてボストン響を再建した立役者であることだ。

ドイツ人ムックの後任であったから、ムック派の関係者の一部から猛烈な妨害工作があり、楽員を45名も入れ替えねばならないなど苦労を背負ったが、辛抱強くやり遂げた。

続くクーセヴィツキー時代、ボストン響から、その功労を無視され続けたモントゥーだったが、1951年、ミュンシュの情愛のこもった招聘に応え、再びボストン響の指揮台に立った。

モントゥーとボストン響の美しい再縁を取り持ったミュンシュに感謝したい。

このように見て来ると、同じような道を歩んだミュンシュと比較するが、演奏に示した解釈はかなり対照的である。

しかし、筆者にはその根底に2人を結ぶ共通のパイプがあるように思えてならない。

それはフランス人の持っている人生を肯定的に考える性格、明晰な知性、鋭い直感であり、ゴール人以来の男性的な率直さ、暖かさである。

さらに付け加えるとすれば、2人の演奏が「老い」を感じさせなかったことである。

特にモントゥーは亡くなる直前まで演奏会と録音を続けたから、それはいっそうはっきりする。

「巨匠」と呼ばれる指揮者も多かれ少なかれ「老い」を感じさせるものだが、モントゥーにはその気配が全くなかった。

モントゥーの演奏は常に構成がしっかりしていてテンポは弛緩することなく、リズムの歯切れが良いこともあって常に若々しく、爽やかであった。

この活力が何処から来たものか筆者にはわからないが、このような芸術家の存在は私たちを幸福にしてくれるのではないだろうか。

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これは、全音楽ファン、ベートーヴェン愛好家に聴いて欲しい全集である。こんなにも瑞々しく、力強く、真摯でいながら愛らしいベートーヴェン全集は稀だからである。

古楽器ブームの台頭から、「ワルターは古い」というレッテルの貼られた時期もあり、筆者自身そんな風潮に踊らされる愚も犯したが、今、改めてまっさらな心で聴くとき、暖かで、爽やかな感動に震えずにおれない。

また、ステレオ初期ながら、ジョン・マックルーアのプロデュースによる録音は最上級であり、最新録音の多くを凌駕している。

ワルターといえば、「第2」「第6」の名演が定評のあるところだ。力よりは愛情、厳しさよりは優美を思わせるワルターの芸風にもっとも相応しいと、誰もが思うところであろう。

確かにそれは間違いではないのだが、今回、改めて聴き直してみて大きく感じたことは、ワルターの圧倒的な力強さである。それゆえ、一般の評価とは裏腹に奇数番の聴き応えが十分なのである。そして、その充足感は、もちろん偶数番においても変わらない。

「第1」は第1楽章は歩みを速めたり遅めたり、というワルター独特のテンポ感が生きた名演。堂々たるコーダも見事。第2楽章では、得意のカンタービレはもちろん、固めの音色を活かしたティンパニの妙やホルンやトランペットのアクセントが聴きものである。第3楽章は主部の抉りの深さとトリオにおける木管の詩情の対比が美しい。フィナーレも、弦の瑞々しさ、木管群のアクセントやティンパニの雄弁さが一体となった名演である。

「第2」は、まさに心技体がひとつになった文句なしの名演で、全曲に颯爽とした覇気が漲り、荒れ狂い、悶え苦しむよりは、瑞々しい若さを謳歌する青春の歌となっている。迫力がありながら踏み外しのないバランス感覚の良さでも随一である。

「英雄」では、シンフォニー・オブ・ジ・エア(元NBC響)とのトスカニーニ追悼ライヴが素晴らしいが、コロンビア響とのスタジオ盤も特筆に値する名演だ。「コロンビア響は小編成で音が薄い」という欠点の微塵も感じられない圧倒的なパワーが充溢しており、衰え知らぬワルターの気合いが凄まじい。第3楽章トリオにおけるホルンの超レガートも美しさの限り。

「第4」も、バランスの良さでは引けをとらない。音楽の勢いはそのままに、「第2」をさらに大人にしたような落ち着きが良い。

「第5」。以前は「均整の取れた古典的演奏」と思っていたが、大変な間違いであることに気づいた。晩年のワルターのどこにこんな凄まじい情熱が隠されていたのだろう。第1楽章では、ゴリゴリとなる低音が聴く者を興奮させる。コーダでの高揚感もただ事でない。フィナーレでは、冒頭こそ肩の力の抜けたフォルテだが、演奏が進行するにつれて内的なパッションが高まるのが手に取るように分かる。

「田園」は、「ワルターの全集中最高の名演」という評価の高い演奏である。第1楽章はまったく無理のない自然な表現に明け暮れる。優しい外見に囚われて聴き逃してならないのは、低音の充実であろう。ことさら目立たぬように、しかし、しっかりと土台となって演奏を支えているのが良い。

「第7」は、全集中もっとも大人しい演奏である。表だった迫力や推進力よりも、ご飯をゆっくり噛んで味わうような趣があり、それはそれで美しい価値がある。第2楽章での、前打音を拍の前に出す扱いが珍しい。

「第8」は、この作品に寄せる「優美」「軽妙」といった一般のイメージとは異なる剛毅な演奏。シェルヘンのライヴも同様に凄まじいものだったが、ワルターはどんなに激しくても、最後まで気品と風格を失わない。

「第9」は、第4楽章のみ、実態はニューヨーク・フィルという変則的な録音である。ウエストミンスター合唱団をビヴァリーヒルズまで呼ぶことが不可能だったためらしい。

第1楽章は気迫に満ち、終結部の気合いなど大したもので、トランペットの派手なミスを録り直さなかったのも、この「気合い」を優先させてのことだろう。第2楽章に入ると、グッと集中力が増し、サウンドそのものも活き活きしてくる。副主題の木管のリズム感など秀逸であるし、トリオにおける歌心もワルターならではだ。歌心といえば、続く第3楽章は夢のカンタービレである。終盤の2度にわたる「目覚めの呼びかけ」も、微睡みの中で聴くようなドラマが内包されていて美しい。

フィナーレは評価の分かれるところだ。オーケストラがニューヨーク・フィルに交代し、サウンドも一変する。冒頭のレチタティーヴォなど、フォルテがヤンキー風になってしまう難点があるが、音色、充実度は前3楽章の比ではない。声楽陣は不調であるが、それを差し引いてもなお、この演奏から受ける印象は圧倒的である。久々に表現力たっぷりのオーケストラを前にして、ワルターの中に燃え立つものがあったのであろう。「優れているのはコーラスが入るまで」という評判もあるが、ここではこのフィナーレを特に高く評価しておきたい。

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ロリン・マゼールは、まさしく音楽の才人であった。

全身これ音楽というか、簡単なものから複雑なものにいたるまで、ありとあらゆる音符が彼の体内に入り、完全に消化されている状態というか、とにかく音楽のことならいくところ可ならざるはなかった。

バレンボイムも同様だ。

マゼールといい、バレンボイムといい、この種の才人は日本には存在しない。

クラシック音楽の伝統の長い西欧だけに生まれるタイプで、単なる小器用な職人とはまるで違うのである。

彼らがリハーサルをしたり、ピアノを弾いたり、楽譜を読んだりしている現場を見たら、おそらく人間業とは思えないだろう。

イタリアの教会の門外不出の秘曲を、ただ1度聴いただけで暗譜してしまったモーツァルトに近い才能が、彼らにはあるような気がする。

もっともマゼールはあまりにも才能がありすぎるため、他の音楽家がまったく信用できなかったという噂もまことしやかに伝えられている。

名門ウィーン・フィルでさえ、マゼールにとっては子供同然で、4拍子のやさしい曲でさえ、きちんと4つに振ってから音を出させていたという。

それでは、彼らの音楽が感動的かというと、必ずしもそうではなかった。マゼールはとくにそうだ。

マゼールは、いつの時代においても先端に位置するような「売れっ子」だったので、当然のことながらレコードの数も多い。

1950年代に始まった彼の録音歴は、60年代、70年代、80年代、90年代、そして2000年代へと、旺盛に持続されてきている。

その量的な意味でのムラのようなものは、ほとんどといっていいほど、ない。

しかしながら、マゼールの夥しい数のディスコグラフィを、その内容面からみると、ずいぶんムラのようなものがあることに気がつく。

すぐれた演奏、注目すべきものが、ほとんど初期の録音に偏ってしまっているのだ。

同曲異演盤をいくつか比較しても、それらは例外なく初期のもののほうがすぐれている。しかもかなりの差をつけて…。

特に、マゼールが得意としたチャイコフスキーの交響曲に関しては、後年のクリーヴランド管弦楽団との録音よりも、キャリア初期のウィーン・フィルとの録音の方が断然聴き応えがある。

ここには独特の表現で物議を醸すこともあった、曲想の核心へと大胆に踏み込むキャリア初期のマゼールの特徴が深く刻まれている。

演奏というひとつの再現行為に烈しく燃焼している若き日のマゼールの姿がここにある。

音楽と真正面から対峙することを望むリスナーには必聴の録音であるとさえ言えるであろう。

ところで、マゼールにとっての指揮者人生最大の挫折は、ポストカラヤン争いの本命を自負していたベルリン・フィルの後継者に選ばれなかったことであった。

運命はマゼールに味方をしなかった。

芸術監督の選に漏れたマゼールは、衝撃のあまりベルリン・フィルとの決別を決意。

ドイツ国内での指揮さえも当初は拒否したが、その後数年で、バイエルン放送交響楽団の音楽監督に就任。

さらに、1999年になって漸くベルリン・フィルの指揮台にも復帰したが、その後強烈に印象に残る演奏・録音を筆者は記憶していない。

こうしたことは、マゼールという指揮者を考えるうえでの興味深い点であり、同時に、彼の悲劇的な点でもあったのだ。

改めて、心より哀悼の念を表したい。

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2015年06月22日


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本盤は、現在ではあまり演奏される機会に恵まれないオネゲルの交響曲第2、3番とストラヴィンスキーの協奏曲(弦楽合奏のための)を収録したアルバム。

いずれもカラヤン唯一の録音で、手兵ベルリン・フィルと1960年代末に編み出した豊饒な音空間、深刻で神秘的な響きに酔いしれる1枚。

カラヤンは新ウィーン楽派やバルトークあたりを除いてさほど20世紀音楽を録音していないので、彼が録音したストラヴィンスキーの《春の祭典》とかショスタコーヴィチの交響曲第10番やプロコフィエフの交響曲第5番、そしてこのオネゲルの交響曲第2、3番あたりは例外的な珍品に属するのかも知れない。

しかし、第2次世界大戦の苦渋を純楽器交響曲に昇華させたオネゲルの名作2曲を、カラヤンは手兵ベルリン・フィルの緊張感溢れる弦のサウンドも相俟って、きわめて高純度な演奏で聴かせる。

とりわけこのCDは、カラヤンの現代音楽への取り組みの初期の録音だけあって貴重なもので、戦争中・戦争直後の時代が色濃く反映された作品を、高い集中力と緊張感で表現している。

一般的にはそれほど馴染みのないオネゲルの交響曲も、カラヤンの手にかかると実に説得力のある演奏になる。

2曲とも実に鮮やかなアンサンブルで、音楽の輪郭が明快だ。

第2番は弦楽合奏の表現がとても多彩で、しかも劇的な彫りが深く、音楽をおもしろく、しかもわかりやすく聴かせる演奏と言える。

第3番ではカラヤンの読みが常に鋭く、抒情と劇性の配分とその音楽的な効果が見事に表現されており、終楽章が特に傑出した演奏だ。

オネゲルの交響曲第2、3番は第2次世界大戦前後に書かれただけあって、重苦しい曲だが、カラヤンはそれだけで終始せず、この両曲の美しさと悲しみを巧みに表現している。

弦楽オーケストラの張り詰めたドラマの最後にかすかな救いのようにトランペットが聞こえる第2番、「怒りの日」や「深き淵より」が呼応する第3番、いずれも素晴らしい。

とりわけ弦楽器の緊密なアンサンブルが生み出す濃厚な官能性と輝きは、R.シュトラウスやマーラーの場合と同じで、地中海風というよりむしろウィーン世紀末風なオネゲル像が聴かれる。

この演奏は他の演奏に比べて粘着性が高く、演奏速度もかなり遅い部類に入り、まさにデュトワの演奏とは対極にあるようだ。

ヴェルディやチャイコフスキーばりに歌われる旋律については賛否もあろうが、交響曲第2番終楽章のくすんだトランペットや、交響曲第3番の中間楽章では、ゴールウェイのふくよかなフルートの音色を楽しむことができ、そうした色彩感だけでも至福の気分を味わうことができる。

特に第3番では、全体がきわめて劇的に表現されているだけでなく、その中に何時になく深い悲しみの表情が宿っているのが強く印象に残る。

カラヤンは「怒りの日」では重厚かつ凶暴に荒れ狂い、「深き淵より」では地の底で深く苦悩・思索し、「我らに平和を」では絶望に打ちひしがれ、救いを求めてのたうち回り、すべてに疲弊し果てた後に、ソロヴァイオリンによって奏でられる「天からの一筋の光」にかすかな救いを感じるという静謐さを高度な精神性を持って描いていて、聴き手の胸を抉る。

第2次世界大戦の悲惨な経験した1人として、カラヤンにとっても共感の持てる作品だったのだろう、同曲をこれほどまでに深く表現し、聴くたびに何かを考えさせられる深淵な演奏は珍しい。

それにしてもオーケストラの旨さ、ふくよかさ、きめの細かさはどうだろう。

当時のベルリン・フィルの弦楽器の粘ったテクスチュア感も凄い。

音響美だけに終わらず、カラヤンとしては珍しく曲への深い共感が感じられる1枚で、作品のツボを心得たカラヤンの流麗な解釈も改めて聴き手をひきつける。

ストラヴィンスキーの協奏曲(弦楽合奏のための)も傑出した演奏で、これらはカラヤン&ベルリン・フィル最盛期の名演と高く評価したい。

カラヤンも戦争体験者、懺悔の1枚であろうか。

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メンゲルベルクの名を聞いただけで、顔をしかめる人がいる。

「あんな時代錯誤の音楽。妖怪のようなデフォルメについていけない」というわけだが、そういう先入観から、この素晴らしい芸術を享受できないとすればまことに残念なことである。

徹底したパート練習、全体練習を繰り返し、作品の襞の襞まで自分の意志を徹底させるやり方は、僅か2、3回の稽古で要領よく仕上げる現代のシステムからは生まれ得ない、超個性的な芸術を生み出した。

今では、アマチュアだけに許された贅沢である。

頻出するテンポの動きから、艶めかしいポルタメントまで、すべてが様式的に練り上げられている。

これを現在の流行ではないからといって「時代錯誤」のレッテルを貼ることを戒めたい。

問題は、この様式美が演奏芸術の本質に迫っているか、ということなのである。

さて、メンゲルベルクの音楽作りは、緻密を極めながらも神経質さのない点が素晴らしい。

とても男性的に力強く、大らかで、さらに決して不健康にならない色香すらある。

こうした特質が、人類愛を歌うベートーヴェンにたいへんマッチして、いずれも古い録音であることを超えて圧倒的な感銘を与えてくれる。

「第1」は、SP発売当時、トスカニーニ&BBC響とワインガルトナー&ウィーン・フィルとてい立した。

剛直なトスカニーニ、無造作だが自然なワインガルトナーと比較すると、メンゲルベルクはこの曲を手際よくまとめ、円満な解釈でベートーヴェンらしさを誇張なく表出した。

「英雄」は昔からメンゲルベルクのお家芸で、1930年1月にニューヨーク・フィルを率いて録音したレコードは今でも人気がある。

1940年11月の再録音盤も基本的にはロマンティシズムの円熟性を保持した旧盤とは変わっていないが、その円熟性に加えて、新盤には逞しい迫力があり、テンポも速くなり、率直で荒々しいほどの男性的特徴も顕著になった。

「第4」はゆっくりしたテンポではあるが、メンゲルベルクとしては、情緒に満ちてはいても、あまり誇張なく歌わせた古典的演奏で、終始円満に演奏を進める。

メンゲルベルクがいかに表情を立派につかんでそれをうまく表現するかに感心する。

「第5」はメンゲルベルクが最高。

SP時代でも、フルトヴェングラーとトスカニーニの両盤の評判が高かったが、この曲には、円満で、強壮な威圧感もありながら、全体に悲劇性が薄く、健康な芸術性に満ちたメンゲルベルクの解釈が最適。

「田園」はあたかもオランダの絵のように重い色調で、時に流麗さを失うこともあるが、自然の雰囲気が実に豊かであり、メンゲルベルクのレコードの中でも特徴が最もよく出ている個性的な演奏である。

「第8」では、クリスタル細工のように精緻な彫琢をほどこしたアポロ的なワインガルトナー&ウィーン・フィルと競合、メンゲルベルクは情緒と熱情で統一し、特に第4楽章は血湧き肉躍る。

そして何より「オーケストラのストラディヴァリウス」と謳われた当時のコンセルトヘボウ管の豊穣な響きを堪能したい。

少なくとも技術的にはウィーン・フィルさえ問題にならない程の高みにあったと認めるべきであろう。

マーラーが信頼を寄せ、R.シュトラウスが愛した本物の音楽がここにある。

惜しむらくは、これがあと10年後だったら、こんなに凄まじいまでに美しい音が、英デッカにステレオ録音されていたら、どんな音に聴こえるだろうと想像するだけで、息が止まりそうになる。

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本盤には、デュメイがピリスと組んで1997〜2002年にかけてスタジオ録音を行ったベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集のうち、爽やかな明るさやロマン的な幸福感に溢れる第5番「春」と劇的緊張感と圧倒的な迫力が充実した世界を形作る第9番「クロイツェル」という最も有名な2曲が収められている。

デュメイとピリスという息の合った名コンビが全10曲の録音に5年もの長期間を要したということは、デュメイ、そしてピリスがいかに慎重を期してベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの演奏・録音に望んだのかを窺い知ることが可能だ。

デュメイとピリスの音楽的出会いから、その後の12年にわたる2人の歩みが結実したベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ集。

ふたりが1990年代の初頭に初めて共演して意気投合した作品がベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタであったことを裏付けるような、深い味わいを湛えた演奏を繰り広げている。

ところで、常々のデュメイのヴァイオリン演奏は超個性的である。

持ち前の超絶的な技量をベースに、緩急自在のテンポ設定、思い切った強弱の変化、思い入れたっぷりの濃厚な表情づけや、時としてアッチェレランドなども駆使するなど、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした演奏を展開しており、その躍動感溢れるとともに伸びやかで情感豊かな表現は、即興的で自由奔放と言ってもいいくらいのものだ。

しかしながら、本演奏では、楽曲がベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタだけに、その片鱗を感じさせる箇所は散見されるものの、どちらかと言えば他の楽曲の演奏のような奔放さは影を潜めていると言えるのではないだろうか。

むしろ、演奏全体の基本的なスタンスとしては、真摯に、そして精緻に楽想を描いていくのに徹しているようにさえ感じられる。

しかしながら、スコアの音符の表層をなぞっただけの薄味な演奏にいささかも陥っておらず、各フレーズの端々にはフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいが満ち溢れており、このような演奏全体を支配している気品と格調の高さは、フランス人ヴァイオリニストでもあるデュメイの真骨頂であると言えるだろう。

そして、かかるセンス満点のデュメイのヴァイオリン演奏の魅力を、より一層引き立てているのがピリスによる名演奏である。

常々のピリスのピアノ演奏は、瑞々しささえ感じさせるような透明感溢れるタッチで曲想を美しく描き出していくというものであり、シューベルトやショパンなどの楽曲においてその実力を十二分に発揮しているが、本盤のベートーヴェンの演奏においては、そうした繊細な美しさにとどまらず、強靱さや重厚さも垣間見られるところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた堂々たるピアニズムを展開していると言えるだろう。

そして、ピリスの場合は、いかなるフォルティッシモに差し掛かっても、1音1音に独特のニュアンスが込められるとともに、格調の高さをいささかも失うことがないのが素晴らしい。

この素晴らしい名コンビの演奏は、常に聴き手の心をあたたかくし、深い感動を呼び起こす。

いずれにしても、本演奏は、様々な同曲の演奏の中でも、フランス風のエスプリ漂う洒落た味わいや格調の高い美しさを湛えた素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は、従来盤でも十分に満足できるものであったが、今般のSHM−CD化によって、デュメイのヴァイオリンの弓使いやピリスのピアノタッチがより鮮明に再現されるとともに、音場がより一層幅広くなったように思われる。

いずれにしても、デュメイ、そしてピリスによる至高の名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月21日


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アシュケナージの体質に最も合うラフマニノフの、それも名盤中の名盤で、現代最高のラフマニノフ弾きを象徴する最高の録音である。

ホロヴィッツ以降ラフマニノフをこれだけ聴かせる人は彼ぐらいだろう。

もちろんリヒテルの豪快で弾き跳ばすような演奏も、捨て難く素晴らしいが、繊細で表現豊かなアシュケナージの演奏は、優るとも劣らない。

ラフマニノフの前奏曲集はアシュケナージの最も得意なレパートリーの1つであり、ロシア出身の名ピアニストであったラフマニノフのピアニズムを生かしきった、アシュケナージの共感あふれる名演。

スラヴの体臭を消さず、その上に知的にコントロールされた音楽をブレンドした名人ならではの芸が聴ける。

アシュケナージについては、一部評論家の間では、厳しさがないとか甘口であるとか芳しくない批評がなされている。

確かに、最近、エクストンに録音したシベリウスやエルガーの交響曲などを聴いていると、そのような批評もあながち不当なものとは言い切れない気もする。

しかし、ラフマニノフの交響曲やピアノ協奏曲を指揮したり、ピアノ協奏曲やピアノ独奏曲を演奏する限りにおいては、アシュケナージは堂々たる大芸術家に変貌する。

本盤の前奏曲集も、卓越した技量の下、力強い打鍵からラフマニノフ特有の憂愁に満ち溢れた繊細な抒情に至るまで、緩急自在のテンポを駆使した圧倒的な名演を成し遂げている。

アシュケナージは、多彩な響きと表現、高度な技巧が要求されるラフマニノフの前奏曲集を完璧に再現している。

ただ陰鬱なのとも、叙情的なのとも違う、伝えたいけれど言葉にならないような叫びを音に綴ったラフマニノフ。

亡命し、死ぬまで故国ロシアへの望郷の念を抱き続けたラフマニノフの音楽に、時代背景は異なるものの、同じく亡命を経験したアシュケナージは深く共感を覚えるのだろう。

逆に言えば、作品への深い共感と愛着がないと、本盤のような血の通った超名演を成し遂げることは出来なかったと言うべきだろう。

その柔らかなタッチは至福の極地であり、さまざまな苦難を乗り越えてきたアシュケナージだからこそ出せる「味」が感じられる。

色彩と陰影の織り成す、アシュケナージの真骨頂と言える演奏で、ひとつひとつの音が微妙に絡み合って心に染み入ってくる感覚は最上のものである。

当盤は発売時、吉田秀和氏が「ここ最近聴いた中でもっとも美しいアルバム」と語ったもので、前奏曲集のなかでももっともスタンダードに相応しい演奏と言えよう。

ラフマニノフに特に大きな尊敬の念を抱いているアシュケナージにとって、ラフマニノフのピアノ作品を録音することには、とりわけ意味があると思われる。

哲学的な細部にこだわりすぎず、曲全体の有機的統一感を重んじるアシュケナージの演奏は、聴く者がどれだけ幸せになれるかを熟慮しながら弾いていると感じられる。

近年リサイタルを開かないのも、そのためであろう。

酷使された手は、もしかすると、リサイタルにはきびしいのかもしれない。

わずかなミスで聴く者に満足感を与えられないのだとしたら、リサイタルを開かないことは、アシュケナージ自身のプロ意識なのかもしれない。

しかし、こうしてディスクを通して彼の演奏に触れることができるのは、ファンにとってはうれしい限りである。

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音楽の偉大な革命家シェーンベルク。

しかし革命以前の彼には、後期ロマン派の手法による名作がある。

1つが《浄められた夜》、もう1つが《グレの歌》。

3部から成る《グレの歌》は、演奏に2時間を要する大作で、後期ロマン派の最大傑作といわれるだけあって、スケールの大きさと濃厚な内容を兼ね備えている。

男声四部合唱三組、混声八部合唱、それに大編成のオーケストラを使ったこの曲は、音楽における1つの時代の終わりを告げているが、同時に、シュプレヒゲザングの手法の導入などにより、新しい世界に向かっての出発点にもなっている。

シェーンベルクは死の翳りにどっぷり浸かったマーラーの《嘆きの歌》の強い影響と、世紀末的な耽美趣味のなかでこの曲を生み落とした。

一方、爛熟し肥大化したロマン主義を脱皮して、知的で新鮮な音楽の創造に向かう道も模索していた。

この曲はまさにダンテの「暗い森」のなかの彷徨をあらわしており、死への惑溺から抜け出し、生への道を模索する願望を濃厚に映している。

演奏はその過程をどうとらえるか、アバドの録音は死への気だるい耽美に浸るよりは、その冷たい感触のなかに生の新鮮な息吹を見出そうとしている。

腐った果実の芯に宿る固く冷たい種から新しい芽が吹くような、そんな「新生」の期待のこもった清々しさがここに聴きとれる。

マーラーの録音が一段落すると、指揮者たちは次の階梯とも言える《グレの歌》に取り組み始めた。

しかも心のロマンをかき立てられるような内容だから、これを見事に振れば指揮者冥利につきるだろう。

やりがいのある作品だけに録音は多く、知的なもの、パワフルなもの、野心的なものなど大指揮者たちのさまざまなアプローチがある。

1980年代後半から2000年代に立て続けにリリースされたインバル、シャイー、メータ、ラトルといった同曲の録音のなかでも、アバドのものは、大編成にもかかわらず、全体のバランスと声部の輻輳を多元的に整理しながら、シェーンベルクの膨大なスコアをくまなくクリアに立ち上げた点で特筆すべきであろう。

アバドは持てる力のすべてを投入して立ち向かい、ロマン的要素を浮かび上がらせて、親しみのもてる豊かな音楽として再現していて見事だ。

複雑なスコアから無類に明快で美しい音の流れを浮かび上がらせるアバドの手腕はここで最高度に発揮され、音々が細部まで息づき、個々に色彩を得、いとも見通しのよい超ロマンティックな織物へと姿を変えている。

埋もれがちな声部を前に出した、わかりやすい演奏なので、さぞかしこまやかなミキシング操作が施されたのだろうと思っていたら、実演でもそれが達成されていて驚いた経験がある。

印象派の洗練を全身に受けた後期ロマン主義といった感さえある《グレの歌》の世界。

この演奏を聴いていると、この曲の中にひそむ「トリスタン」的ないし「パルジファル」的な要素とは別の、さらに実り豊かな美質がみえてくるような気がしてくる。

配役も強力な布陣で、王の苦悩を表現するイェルザレム、王が魅了されたトーヴェを美しく歌うスウィート、人気のある山鳩の曲を深みのある声で歌い上げたリポヴシェク、道化クラウスのきわどい歌を性格表現に長けたラングリッジが雰囲気豊かに表現するなど、その歌唱は高水準な仕上がりとなっている。

ウィーン国立歌劇場合唱団の他、響きの純度の高さでは定評のあるアルノルト・シェーンベルク合唱団とスロヴァキア・フィルハーモニー合唱団を起用した合唱パートも秀逸で、場面に応じた巧みな表現力で演奏の大きな牽引力ともなっている。

《グレの歌》演奏の現在の到達点を示した録音だ。

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凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、交響曲第5番についても複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1978年)、次いで来日時にライヴ録音された演奏(1984年)、そしてその4年後にライヴ録音された演奏(1988年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

これらの中で1978年盤と1984年盤はシングルレイヤーによるSACD化がなされたこともあって、極上の音質に仕上がっているが、それでも随一の名演は本盤に収められた1988年盤であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、1988年の演奏には、1つ1つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)のに対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

本盤の演奏は、壮絶でテンポの思い切った振幅を駆使したドラマティックにして濃厚な表現は大いに健在であり、まさにテンシュテットのマーラー演奏の在り様が見事に具現化された至高の超名演と言っても過言ではあるまい。

溢れんばかりの熱気と雄大なスケールを持った名演が繰り広げられており、生き物のように息づく各フレーズや独特な熱気が、マーラーの体臭を伝え、この曲を語る上で欠かすことのできない録音だ。

音質は、1988年のライヴ録音ではあるが、数年前にリマスタリングがなされたこともあり、比較的良好な音質であると言えるところだ。

もっとも、テンシュテット晩年の渾身の超名演だけに、メーカー側の段階的な高音質化という悪質な金儲け主義を助長するわけではないが、今後はシングルレイヤーによるSACD盤で発売していただくことをこの場を借りて強く要望しておきたい。

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2015年06月20日


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ジュリーニは、イタリア人指揮者であるが、独墺系の作曲家による楽曲も数多く演奏した大指揮者であった。

ブラームスの交響曲全集は2度も録音しているのに対して、意外にもベートーヴェンの交響曲全集は1度も録音していないところだ。

これほどの大指揮者にしては実に不思議と言わざるを得ないと言えるだろう。

ジュリーニは、最晩年に、ミラノ・スカラ座歌劇場フィルとともに、ベートーヴェンの交響曲第1番〜第8番を1991〜1993年にかけてスタジオ録音を行った(ソニー・クラシカル)ところであり、残すは第9番のみとなったところであるが、1989年にベルリン・フィルとともに同曲を既にスタジオ録音していた(DG)ことから、かつて在籍していたDGへの義理立てもあって、同曲の録音を行わなかったとのことである。

このあたりは、いかにもジュリーニの誠実さを物語る事実であると言えるが、我々クラシック音楽ファンとしては、いささか残念と言わざるを得ないところだ。

それはさておき、本盤に収められているのは、1972年にロンドン交響楽団他とともにスタジオ録音を行った交響曲第9番である。

他にライヴ録音が遺されているのかもしれないが、前述のようにベルリン・フィル(1989年)と録音することになることから、その演奏の約20年前のものとなる。

1972年と言えば、ジュリーニの全盛期であるだけに、演奏は、諸説はあると思うが、後年の演奏よりも数段優れた素晴らしい名演と高く評価したい。

1976年にDGに移籍したジュリーニがマーラーの「第9」で一気にスターダムにのし上がる4年前の録音であるが、指揮者の円熟は誰の耳にも明らかで、余裕をもったテンポで内声部をおろそかにせず全ての楽器が伸びやかに歌う流麗な音楽は名前を伏せてもジュリーニだと確信させられる。

ジュリーニの演奏スタイルはテンポを遅めにとり、ズッシリとスケール感のあるベートーヴェンが魅力的で、この最初のEMI録音はその原点とも言えるだろう。

何よりも、テンポ設定が、後年の演奏ではかなり遅めとなっており、演奏自体に往年のキレが失われているきらいがあることから、筆者としては、ジュリーニによる「第9」の代表盤としては、本盤を掲げたいと考えているところだ。

演奏の様相はオーソドックスなもので、後年の演奏とは異なり、ノーマルなテンポで風格豊かな楽想を紡ぎ出している。

細部にまで行き届いた眼力、明確な構成力と美しい音色、ゆっくりとしたテンポによる、あくまで音の明晰さを追求した、ジュリーニならではの「第9」で、音の運びにも停滞感がなく、明確な構成力がきっちりと聴き手に伝わってくる。

落ち着いたテンポ設定によるスケールの大きなアプローチをベースに、ノーブルなカンタービレと、ジュリーニならではのこだわりをみせている点がとても印象的で、重量感に富むフレージング、細部まで考え抜かれた凝った演奏は、ファンにはたまらないところだ。

そして、ジュリーニならではいささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な響きも健在であるが、いささかの重苦しさを感じさせることはなく、歌謡性溢れる豊かな情感が随所に漂っているのは、イタリア人指揮者ならではの面目躍如たるものと言えるだろう。

いわゆる押しつけがましさがどこにも感じられず、まさにいい意味での剛柔のバランスがとれた演奏と言えるところであり、これは、ジュリーニの指揮芸術の懐の深さの証左と言っても過言ではあるまい。

ロンドン交響楽団もジュリーニの統率の下、名演奏を展開しており、シーラ・アームストロング(ソプラノ)、アンナ・レイノルズ(アルト)、ロバート・ティアー(テノール)、ジョン・シャーリー=カーク(バス)といった独唱陣やロンドン交響合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

いずれにしても、本演奏は、ジュリーニならではの素晴らしい名演であるとともに、ジュリーニによる同曲の演奏の代表的な名演と高く評価したいと考える。

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ケンぺ&シュターツカペレ・ドレスデンによるR.シュトラウスの管弦楽曲全集は、録音史上でも最高の名全集とも評される歴史的な名盤である。

ルドルフ・ケンぺは、ほぼ同世代の指揮者であった帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンが、ベルリン・フィルなどとともに豪壮華麗な演奏を繰り広げたことや、膨大な数のレコーディングを行うなど、華々しい活躍をしていたこと、そして指揮者としては、これから円熟の境地を迎えるという時に急逝したこともあって、現在においても比較的地味な存在に甘んじているのではないだろうか。

芸風は異なるものの、職人肌という点においては共通している先輩格のカール・ベームが、当時隆盛期にあったイエローレーベル(DG)に、ウィーン・フィルとともにかなりの点数の録音を行ったこと、そしてケンペよりも長生きしたことも、そうしたケンペの地味な存在に甘んじているという状況に更なる拍車をかけているとも言えるだろう。

しかしながら、ケンペの存命中は、帝王カラヤンの豪壮華麗な演奏に対置する、いわゆるドイツ正統派の質実剛健な演奏をする指揮者として、ケンペはベームとともに多くのクラシック音楽ファンに支持された指揮者であった。

そのようなケンペの偉大さは、ミュンヘン・フィルとのベートーヴェンの交響曲全集や、ミュンヘン・フィルとのブラームスの交響曲全集、ブルックナーの交響曲第4番及び第5番などといった名演にもあらわれているところである。

しかしながら、これらの名演を大きく凌駕するケンペの最高の遺産が存在する。

それこそは今般、本セットに収められたR.シュトラウスの管弦楽曲全集であると言うのは、おそらくは衆目の一致するところではないだろうか。

本管弦楽曲全集には、2つの交響曲はもちろんのこと、主要オペラからの抜粋なども収められており、まさに空前にして絶後のスケールを誇っていると言っても過言ではあるまい。

ケンペによるR.シュトラウスの各楽曲へのアプローチは、例えば同じくR.シュトラウスの楽曲を十八番としていたカラヤンのように、豪華絢爛にして豪奢なものではない(かかる演奏も、筆者としては、あり得るべきアプローチの1つとして高く評価している)。

むしろ、演奏の様相は、質実剛健そのものであり、いかにもドイツ正統派と称された指揮者だけに、堅牢な造型美と重厚さを持ち合わせたものと言える。

かかる演奏は、R.シュトラウスと親交があり、その管弦楽曲を十八番としていたベームによる演奏と共通しているとも言えるが、ベームがいい意味においては剛毅、悪い意味ではあまり遊びの要素がない四角四面な演奏とも言えるのに対して、ケンぺの演奏には、カラヤンの演奏にようにドラマティックとは言えないものの、より柔軟性に富んだ劇的な迫力を有している言えるところであり、いい意味での剛柔のバランスのとれた演奏ということができるだろう。

いずれの楽曲も前述のようなケンぺの芸風が如実にあらわれた剛柔のバランスのとれた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

このセットのために使用された音源は、ロンドンのEMIアビー・ロード・スタジオに眠っていた旧東ドイツ制作のオリジナル・マスター・テープで、日本では既に2012年に全3巻計10枚のシングル・レイヤーSACD化が実現している。

今回はこれにR.シュトラウスの協奏曲全曲を追加してレギュラー・フォーマット用にリマスタリングし、9枚のCDに収めてしまったところにセールス・ポイントがある。

いずれのCDも殆んど収録時間目一杯に隙間無く曲目を密集させているが、1999年にリリースされ、またブリリアント・レーベルからもリイシューされた9枚組とは同一セッションでありながら、マスター及びリマスタリングが異なっていることもあって、音場の広がりと音像の生々しさには驚かされる。

また、旧盤には組み込まれていなかったオペラ『カプリッチョ』から、ペーター・ダムのホルン・ソロによる間奏曲「月光の音楽」が加わって、よりコンプリートな作品集に仕上がっている。

EMIのSACD盤では含まれてなかった協奏曲集も総て前述の東独音源からの新リマスタリング盤で、際立った音質改善を高く評価したい。

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フランソワというピアニストは、天性のラヴェル弾きではないかと思う。

ラヴェルのピアノ独奏曲を決して理詰めで演奏するのではなく、これほどまでに詩情豊かに弾いた例は他にあったであろうか。

それくらい、ラヴェルの音楽を自らの血や肉として、それこそ天性の赴くまま、自らの感性の赴くままに弾いているような感じがする。

そういった意味では、自由奔放とも言えるが、アルゲリッチのようにドラマティックというわけでもない。

そこはフランス人ピアニストの真骨頂とも言うべきであるが、自由奔放に弾きつつも、フランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいを失うことがないのだ。

思い切った強弱やテンポの変化など、あくの強ささえ感じさせるほど相当に崩して弾いているのに、そこから生み出される音楽の何と言う味わい深さ。

これはフランソワというピアニストの類まれなる芸術性の高さの証左であると考える。

ここには理詰めと言った概念は薬にしたくもなく、即興性といった言葉がぴったりくるような思い切った強弱やテンポの変化が連続している。

いわゆる崩して弾いているというものであり、思い切ったテンポ設定や強弱の変化など、下手をすれば、楽曲の全体像を崩してしまいかねないような即興的な表現を垣間見せている。

ところが、出てきた音楽のフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいが、そのような危険に陥ることを回避し、それこそ、前述のような詩情豊かな音楽が構築されているのだ。

これは、まさにフランソワの天賦の才能と言うべきであり、天性のラヴェル弾きと評しても過言ではあるまい。

これほどまでに崩して弾いているのに、やり過ぎの印象をいささかも与えることなく、随所にフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいに満ち溢れているというのは驚異的ですらあり、フランソワの芸術性の高さを窺い知ることが可能だ。

どの曲をとっても詩情の塊のような素晴らしい名演揃いであるが、特に、夜のガスパールは、そうしたフランソワの芸風がてきめんに表われた名演である。

夜のガスパールを得意としたピアニストとしてはアルゲリッチがおり、アルゲリッチも自由奔放な、ドラマティックな名演を成し遂げたが、フランソワの場合は、加えて、前述のようなセンス満点の瀟洒な味わいがプラスされているという点に大きな違いがある。

優雅で感傷的な円舞曲やクープランの墓も、その即興性豊かな演奏によって、他のピアニストによる演奏とは全く異なる表情が随所に聴かれるなど、実に新鮮味溢れる名演に仕上がっている。

亡き王女のためのパヴァーヌも、センス満点に弾いているが、それでいて情感の豊かさにいささかの不足もないのは、殆ど至芸の領域に達している。

そして、特に感動的なのは鏡の5曲であろう。

ラヴェルの華麗なオーケストレーションを思わせるような色彩感溢れる各曲を、フランソワは、詩情豊かな絶妙なピアニズムで弾き抜いて行く。

各曲の描き分けも完璧であり、ピアノ独奏版としては、最高の名演と言ってもいいのではないか。

4手のためのマ・メール・ロワも、バルビゼとの相性が抜群であり、その優美で繊細な抒情美には出色のものがある。

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2015年06月19日


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カラヤンは、特にお気に入りの楽曲については何度も録音を繰り返したが、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」についてもその例外ではない。

DVD作品を除けば、ベルリン・フィルとともに本演奏を含め4度にわたって録音(1940、1957、1964、1977年)を行うとともに、ウィーン・フィルとともに最晩年に録音(1985年)を行っている。

いずれ劣らぬ名演であるが、カラヤンの個性が全面的に発揮された演奏ということになれば、カラヤン&ベルリン・フィルが全盛期にあった頃の本演奏と言えるのではないだろうか。

カラヤン&ベルリン・フィルは、クラシック音楽史上でも最高の黄金コンビであったと言えるが、特に全盛期でもあった1960年代から1970年代にかけての演奏は凄かった。

この当時のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていたと言える。

カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

本演奏においてもいわゆる豪壮華麗なカラヤンサウンドを駆使した圧倒的な音のドラマは健在で、カラヤン得意の曲でもあるだけに、演奏には寸分の隙もなく、ベルリン・フィルの優秀な機能を駆使して、鮮やかな音楽に仕上げている。

艶やかな美感がカラヤン的であるが、全体に彼としては押しつけがましくない解釈が好ましく、しかも情熱的な緊張にあふれ、溌剌とした生命力を感じさせる。

均衡感が強い造形で、交響的様相を濃厚に表した好演で、この作品がドイツ・ロマン派の延長線上にあることを示しており、この曲に対する先入観も満足させる演奏で、そこにカラヤンの自己主張があることは言うまでもない。

反面、民族性の表出や古典的な造形を打ち出すことよりも、中庸の安定と演奏の洗練が重視されているようで、そのため快適な音の魅力と流暢な表情が耳に快く、それが一種の楽天性を感じさせるのもカラヤンらしさと言えるのだろう。

冒頭のダイナミックレンジを幅広くとった凄みのある表現など、ドヴォルザークの作品に顕著なボヘミア風の民族色豊かな味わい深さは希薄であり、いわゆるカラヤンのカラヤンによるカラヤンのための演奏とも言えなくもないが、これだけの圧倒的な音のドラマの構築によって絢爛豪華に同曲を満喫させてくれれば文句は言えまい。

後年のカラヤンの演奏ほど個性的ではないが、デュナーミクの幅広い処理や独自のルバートなど、カラヤンらしい表情を随所で味わうことができる。

1985年代のウィーン・フィルとの録音も確かにすばらしいのだけれど、カラヤンのドヴォルザーク演奏の典型的な表現はその前のベルリン・フィルとの録音の方がはっきりしている。

あるがままに、という姿勢が全然なく、すべてをつくり込んだ、ある意味ではとても強引な演奏だ。

もしも、この曲にボヘミアの作曲家のどこか牧歌的な味わいを求めようとするなら、当てが外れることになる。

しかし、先入観を捨て、指揮者の美学、時代の美学の反映をそこに聴きとろうとするなら、このカラヤンとベルリン・フィルの演奏は理想的ではないだろうか。

ドヴォルザークは田舎の作曲家なんぞじゃなく、交響曲第9番は巧みに効果を組み込んだ名曲……でもあった。

筆者としては、カラヤンの晩年の清澄な境地を味わうことが可能なウィーン・フィルとの1985年盤の方をより上位の名演に掲げたいが、カラヤンの個性の発揮という意味においては、本演奏を随一の名演とするのにいささかの躊躇をするものではない。

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classicalmusic at 22:36コメント(0)トラックバック(0)ドヴォルザークカラヤン 

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世界各地での全曲演奏と並行して行われたこの全集は、のびやかで豊麗な音色で描き出された東京クヮルテットならではのベートーヴェン像を確立した名盤。

東京クヮルテットは、弦楽四重奏団の名称に「東京」の名を冠していても、日本人の奏者は2人しかおらず、しかも、結成してから40年が経って、その間にメンバーの入れ替わりがあり、一時は音色の調和に苦労した時期があったようでもある。

しかしながら、本盤に収められた演奏においては、そのような苦難を克服し、息の合った絶妙のアンサンブルを披露してくれており、今や、この団体が円熟の境地にあることを感じさせてくれるのが素晴らしい。

すべての奏者の音色が見事に融合した、息の合った絶妙なアンサンブルを披露しており、この楽団の近年における充実ぶりを味わうことが可能だ。

もちろん、円熟と言っても穏健一辺倒ではなく、第10番の第3楽章や第11番の第1楽章及び第3楽章における気迫溢れる演奏は、凄みさえ感じさせる圧巻の迫力を誇っている。

世界に6セットしか存在していないとされているパガニーニ選定によるストラディバリウスを使用しているというのも、本団体、そして本演奏における最大の魅力でもあり、4人の奏者が奏でる音色の美しさには出色のものがある。

それによって醸し出される独特の美しい音色は、そうした豊かな音楽性に満ち溢れた優美さをさらに助長するものであると考える。

本演奏には、例えば、先般、惜しまれる中で解散したアルバン・ベルク弦楽四重奏団や、今を時めくカルミナ弦楽四重奏団のように聴き手を驚かすような特別な個性があるわけではないが、かつてのスメタナ弦楽四重奏団と同様に、楽想を精緻に、そして情感豊かに描き出して行くというものであり、音楽そのものの美しさを聴き手にダイレクトに伝えてくれている。

初期の弦楽四重奏曲では、むしろ、このような自然体のオーソドックスな演奏の方がより適していると言えるのかもしれない。

中期の弦楽四重奏曲の演奏ももちろん素晴らしいが、ことに後期の弦楽四重奏曲は、弾きこなすのに卓越した技量を要するとともに、その内容の精神的な深みにおいても突出した存在である。

交響曲で言えば第9番、ピアノ・ソナタで言えば第30〜32番、合唱曲で言えばミサ・ソレムニスに匹敵する奥深い内容を有した至高の名作であり、その深遠な世界を表現するには、生半可な演奏では到底かなわないと言える。

このような高峰に聳える名作だけに、これまで様々な弦楽四重奏団によって、多種多様な名演が繰り広げられてきた。

したがって、並大抵の演奏では、海千山千の名演の中で、とてもその存在価値を発揮することは困難である。

そこで、この東京クヮルテットによる演奏であるが、そのアプローチは、これまでの他の弦楽四重奏曲とは何ら変わるところがない。

曲想を精緻に、そして情感豊かに描き出して行くというものだ。

したがって、聴き手を驚かすような特別な個性などは薬にしたくもなく、楽曲の本質に鋭く切り込んでいくような凄みにも欠けている。

しかしながら、いささかも奇を衒わない真摯な姿勢は、かつてのスメタナ四重奏団による名演奏を彷彿とさせるような、豊かな音楽性に満ち溢れた優美さを兼ね備えていると言えるのではないか。

このように、ベートーヴェンの名作群を、ゆったりとした気持ちで満喫させてくれるという意味においては、過去の様々な名演にも決して引けを取らない素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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classicalmusic at 20:49コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェン東京SQ 

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フィッシャー=ディースカウが1951年にEMIとレコーディング契約をして以来の伴奏者だったピアニスト、ジェラルド・ムーアとのコラボレーションによるシューベルトの歌曲集。

先般のEMIによる過去の名盤のSACD化シリーズにおいては、若き日のフィッシャー=ディースカウによる一連のシューベルトの歌曲集も採り上げられることになった。

フィッシャー=ディースカウは、紛れもなく独墺系歌曲の最高の歌い手の1人であると言えるが、その最高の名唱とされているのは、何と言っても1970年代にジェラルド・ムーアと組んでスタジオ録音(DG)したシューベルトの3大歌曲集と言えるのではないだろうか。

本盤に収められたシューベルトの歌曲の演奏は、それよりも約20年ほど前の若き日の歌唱ということになるが、モノラル録音という音質面でのハンディはあるものの、1970年代の名唱とは違った意味で、素晴らしい名唱と評価したいと考える。

というのも、フィッシャー=ディースカウの歌唱は、あまりにも巧いために、後年の歌唱においては、その巧さが鼻につくケースも散見されるところであるが、本演奏においては、若さ故の気迫や熱き生命力が全体に漲っており、いささかも技巧臭を感じさせないのが素晴らしいと言えるからだ。

そして、勢い一辺倒の内容のない歌唱には陥っておらず、どこをとっても、シューベルトの音楽の素晴らしさ、美しさを心行くまで堪能させてくれるのが見事である。

解釈の完成度において後年の諸録音に引けをとらず、かつ若き日のフィッシャー=ディースカウの美声を堪能できる点が嬉しい。

本盤に収められた歌曲は、いずれもシューベルトの歌曲の中では必ずしも有名なものとは言い難いものであると言えるが、それでも各歌曲の聴かせどころのツボを心得たいい意味での演出巧者ぶりは、本演奏当時の若き日より健在であると言えるところであり、まさに非の打ちどころのない名唱に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

ジェラルド・ムーアのピアノ演奏も、シューベルトの楽曲に特有の寂寥感に満ち溢れた美しい旋律の数々を情感豊かに描き出しており、フィッシャー=ディースカウによる名唱をより引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音が歪んだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。

ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1957年のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

フィッシャー=ディースカウの息遣いやジェラルド・ムーアのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、フィッシャー=ディースカウ、そしてジェラルド・ムーアによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

なお、当たり前のことではあるが、前述の3大歌曲集のSACD化に際して、扱いにくい紙パッケージに封入したことや対訳を省略したユニバーサルに対して、本盤では通常パッケージで、なおかつ対訳が付いていることについても、この場を借りて評価をしておきたい。

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2015年06月18日


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フルトヴェングラーの死の年、ベルリン・フィルとの最後の演奏旅行中、ルガーノのテアトロ・アポロにおける実演を録音したものだが、フルトヴェングラーのすべてのディスクの中でも特別の意義を持つ、屈指の名盤と言えよう。

フルトヴェングラーはモーツァルトにあまり深い愛着を持っていなかったらしく、「魔笛」の序曲を犇擬蕊の音楽瓩覆匹噺討鵑任い燭修Δ如遺されたCDもフルトヴェングラーの実力から考えると、信じられないくらいつまらない。

ところが、フルトヴェングラーはやはり天才であった。

死の6ヵ月前に至って、ついにモーツァルトを自分のものにしてしまったのである。

こんな調子で「ジュピター」や「レクイエム」などを遺しておいてくれたら、という愚痴も出るが、今となっては仕方がない。

当時のフルトヴェングラーはかなり耳が遠くなっていたそうで、カール・ベームによればフルトヴェングラーの死は自殺同然だったという。

それが本当ならば、フルトヴェングラーの時代が終わったという認識も大きな原因の1つだろうが、耳が聞こえなくなったことも絶望感も深めたのであろう。

しかし、この「K.466」において、フルトヴェングラーはそんなことは到底信じられないほど強力にオーケストラを統率し、ルフェビュールのピアノと有機的に絡み合ってゆく。

この曲の他のディスクと聴き比べてもフルトヴェングラー盤だけはまったくの別世界なのである。

犁澆い茲Δ發覆へ嶝瓩噺世辰燭蕕茲い里世蹐Δ、他の演奏ではそこここに感じられる爛癲璽張.襯箸量悦瓩まるでないが、音楽として結晶され尽くしているせいか、少しも嫌ではなく、演奏者とともに嘆きつつ、モーツァルトの本質(人生の本質)を垣間見る想いがする。

第1楽章の冒頭からして、フルトヴェングラー自身の声のような、切れば血の出るひびき(あのホルンの強奏!)が聴かれ、まぎれもないフルトヴェングラーのモーツァルトであるが、それが音楽を傷つけるよりはいっそう生かす結果となっている。

フルトヴェングラーにはもはや聴衆など眼中にないように思われてくる。

あれほどの舞台芸術家で、実演において初めて燃えるタイプのフルトヴェングラーが、今は自分のために演奏する。

まことにこれは、爐海寮い悗侶輅未琉篏餃瓩任△蝓堕落を続ける20世紀の音楽界にたった1人で立つ猗犲身へのレクイエム瓩紡召覆蕕覆ぁ

音楽はこの上もなく孤独であり、厳しさのかぎりを尽くし、ヴィブラートは内心の慄きを示してやまない。

いかなる細部もフルトヴェングラー独特の感受性によって映し出され、わけても再現部における弦の伴奏部が、これほど生き物のようにピアノを支えた例は他に決してなかった。

第2楽章も痛ましくはあるが、音楽美として純化され、凛々しさを獲得した倏鯆擦硫劉瓩任△蝓▲侫ナーレももちろん見事だが、筆者にはやはり第1楽章が忘れられない。

晩年のフルトヴェングラーは次のように述べている。

「形式は明確でなければならない。すっきりとして枯れていて、決して余分なものがあってはならない。しかし炎が、炎の核があって、この形式をくまなく照らし出さなければならない」(カルラ・ヘッカー著、薗田宗人訳、『フルトヴェングラーとの対話』)。

まことに「K.466」はこの言葉への理想的な実証である。

イヴォンヌ・ルフェビュールは、1904年生まれのフランスの女流で、日本ではまったく知られていないが、さすがにフルトヴェングラーが選んだだけあって、見事なモーツァルトを聴かせてくれる。

デモーニッシュな大きさには欠けるが、巨匠の造型の中にぴったりと入り込み、指揮者との魂の触れ合いが芸術的感興に聴く者を誘うのだ。

やや冷たい、小味な音は澄み切ってモーツァルトの心を伝え、多用されるルバートも決してべたつきはせず、時には劇的なフォルテも見せるのである。

第2楽章の中間部やフィナーレあたり、女流らしい弱さがあるが、その代わり感じ切ったピアニッシモの美しさは絶品というべく、フルトヴェングラーとともに、肺腑を抉るような哀しさが、しかも超俗の雰囲気を湛えて、比類もない高みに到達している。

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広範なレパートリーを誇ったカラヤンであるが、カラヤンは必ずしもシューベルトを得意とはしていなかったようである。

カラヤン自身は、シューベルトをむしろ好んでおり、若き頃より理想の演奏を行うべく尽力したようであるが、難渋を繰り返し、特に、交響曲第9番「ザ・グレイト」に関してはフルトヴェングラーに任せるなどとの発言を行ったということもまことしやかに伝えられているところだ。

実際に、レコード芸術誌の「名曲名盤300選」などにおいても、シューベルトの交響曲第8番「未完成」や交響曲第9番「ザ・グレイト」の名演として、カラヤン盤を掲げた著名な音楽評論家が皆無であるというのも、いかにカラヤンのシューベルトの評価が芳しいものでないかがよく理解できるところだ。

しかしながら、それほどまでにカラヤンのシューベルトの演奏は出来が悪いと言えるのであろうか。

本盤に収められているのは、カラヤンによる唯一のシューベルトの交響曲全集からセレクトされた2枚組である。

そして、カラヤンはシューベルトをその後一度も録音しなかった。

したがって、本演奏は、いずれもカラヤンによるこれらの交響曲の究極の演奏と言っても過言ではあるまい。

そしてその演奏内容は、他の指揮者による名演とは一味もふた味も異なる演奏に仕上がっている。

円熟のきわみにあった帝王とベルリン・フィルの名コンビぶりは、若書きの交響曲から、ゴージャスなサウンドを引き出して、比類のない魅力を引き出すことに成功。

ともに、3回ずつ、セッション録音を残している《未完成》と《ザ・グレイト》は、当ディスク所収の演奏が3回目のものであり、すみずみまでカラヤンの美学に貫かれているのが特徴だ。

本演奏に存在しているのは、徹頭徹尾、流麗なレガートが施されたいわゆるカラヤンサウンドに彩られた絶対美の世界であると言えるだろう。

シューベルトの交響曲は、音符の数が極めて少ないだけに、特にこのようないわゆるカラヤンサウンドが際立つことになると言えるのかもしれない。

したがって、シューベルトらしさといった観点からすれば、その範疇からは大きく外れた演奏とは言えるが、同曲が持つ音楽の美しさを極限にまで表現し得たという意味においては、全盛期のカラヤンだけに可能な名演と言えるのではないかと考えられる。

また、シューベルトの心眼に鋭く切り込んでいくような奥の深さとは無縁の演奏ではあると言えるが、これだけの究極の美を表現してくれたカラヤンの演奏に対しては文句は言えまい。

なお、カラヤンは当録音の以前にもシューベルトの楽曲を録音しているが、本演奏のような美の世界への追求の徹底度がやや弱いきらいがあり、筆者としては本演奏の方をより上位に掲げたい(カラヤンを好まない聴き手には、他の録音の方がより好ましい演奏に聴こえることも十分に考えられるところである)。

いずれにしても、本演奏は、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルが醸成した究極の美の世界、そしてカラヤン流の美学が具現化された究極の絶対美の世界を堪能することが可能な極上の美を誇る名演と高く評価したい。

併録の劇音楽「ロザムンデ」序曲も、カラヤンの美学に貫かれた素晴らしい名演だ。

音質は、従来CD盤でも比較的満足できる音質であったと言える。

数年前にリマスタリングも施されたことによって、音質は更に鮮明になるとともに音場が幅広くなったように感じられるところであり、筆者も当該リマスタリングCD盤を愛聴している。

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classicalmusic at 20:48コメント(0)トラックバック(0)シューベルトカラヤン 

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これは、チョン・ミュンフンがパリ・バスティーユ管弦楽団と残した最高の録音の1つである。

近年ではやや低調気味であるチョン・ミュンフンであるが、1990年代の演奏はどれも凄かった。

まさに飛ぶ鳥落とす勢いというものであったところであり、ドヴォルザークの交響曲第7番やショスタコーヴィチの交響曲第4番など、現在でもそれぞれの楽曲の演奏史上でもトップの座を争う圧倒的な名演を成し遂げていたと言えるところだ。

本盤に収められたベルリオーズの幻想交響曲も、絶好調のチョン・ミュンフンによる圧倒的な超名演である。

それどころか、同曲の他の指揮者による超名演、例えばミュンシュ&パリ管弦楽団による演奏(1967年ライヴ)やクリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団による演奏(1965年ライヴ)、クレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団による演奏(1963年)などに肉薄する至高の超名演と高く評価したい。

いまや巨匠指揮者への階段を確実に歩み続けているチョン・ミュンフンがオーケストラから引き出す並々ならぬ色彩感や圧倒的な迫力はこのアルバムでこそ威力を最大限に発揮している。

チョン・ミュンフンは、同時期の他の録音でもそうであったが、オーケストラから色彩感溢れる響きを引き出すのに長けている。

管弦楽法の大家でもあったベルリオーズの幻想交響曲は、その光彩陸離たる華麗なオーケストレーションで知られているが、チョン・ミュンフンのアプローチとの相性は抜群であり、本演奏では、同曲のオーケストレーションの魅力を最大限に表現し尽くすのに成功しており、後述のような強靭な迫力一辺倒の演奏には陥っておらず、精緻さや繊細ささえ感じさせる箇所もあるほどだ。

そして、チョン・ミュンフンは、スタジオ録音であっても実演と変わらないような生命力に満ち溢れた大熱演を展開するのが常々であるが、本演奏でもその熱演ぶりは健在であり、切れば血が噴き出てくるような熱き生命力に満ち溢れている。

第4楽章が大人し目なのがいささか不満ではあるが、第1楽章や終楽章におけるトゥッティに向けて、アッチェレランドなどを駆使しつつ猛烈に畳み掛けていくような気迫や強靭さは圧倒的な迫力を誇っていると言えるだろう。

とりわけ、終楽章終結部の圧倒的な高揚感は、聴き手の度肝を抜くのに十分な圧巻の凄みを湛えている。

チョン・ミュンフンは、第1楽章の提示部の繰り返しを行っているが、いささかも冗長さを感じさせないのは、それだけ本演奏の内容が充実しているからに他ならないと言えるだろう。

併録の歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」序曲や序曲「ローマの謝肉祭」も、エネルギッシュな力感と色彩感溢れる華麗さ、そして繊細さをも兼ね備えた圧倒的な超名演だ。

チョン・ミュンフンの圧倒的な指揮に、一糸乱れぬアンサンブルで精緻さと力強さを兼ね備えた見事な名演奏を繰り広げたパリ・バスティーユ管弦楽団にも大きな拍手を送りたい。

音質は従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、先般のSHM−CD化によって、音質がより鮮明に再現されるとともに、若干ではあるが音場が幅広くなったように思われる。

いずれにしても、チョン・ミュンフンによる超名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月17日


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これは全盛期のミュンシュ&ボストン交響楽団という黄金コンビによる類い稀なる音の饗宴である。

演奏は闊達にして生命力に溢れ、同時にフランス的な上品さも醸し出しており、こんな名演を何度でも行うことができるというのが、まずもって驚きである。

先ず、「ダフニスとクロエ」についてであるが、本盤は、ミュンシュ&ボストン交響楽団にとって第2回目の録音で、第1回目の録音から6年後の再録音となったものであるが、何というゴージャスな響きだろう。

基本的なコンセプトは同じものの、円熟味を増しスケールが大きくなったミュンシュの解釈が、より鮮明なステレオ録音によって克明に記録され、微弱なピアニッシモによる冒頭から圧倒的なクライマックスを築く「全員の踊り」まで、息もつかせぬ緊張感が持続する。

合唱も実に巧く、オーケストラともども、ミュンシュの圧倒的な統率力の下、実に巧みな情景描写を行っている。

あたかも、眼前で劇的なドラマが進行するかのようであり、Blu-spec-CD化による鮮明な音質が、その演出効果をより一層際立たせてくれている。

同コンビには1955年に収録した同じ曲の初期ステレオでの名盤があるのだが、そのときの録音と比べると、現在聴くことができる通常のステレオ録音のイメージに近くなっている。

またホールの残響音も取り入れられており、左側で打楽器が打ち鳴らされると、右チャンネルから豊かな響きが返ってくるのを聴くことができる。

解釈そのものや、各奏者の素晴らしいテクニシャンぶりは1955年盤をほぼ踏襲しており、劣ったところはみじんもない。

LP時代にミュンシュの「ダフニスとクロエ」と言えばこちらの演奏だったのだが、CD時代になって1955年盤が復刻され、そちらが主流になってしまっていた。

第2幕終盤の「クローエの嘆願」から第3幕の「夜明け」に至る部分は、繊細で美しい表現が聴かれ、1955年盤よりこちらの方を好まれる方もおられるだろう。

1958年録音のピアノ協奏曲は、ニコレ・アンリオ=シュヴァイツァーとの共演。

アンリオはシュヴァイツァーの甥と結婚したフランスのピアニストで、第2次大戦中レジスタンス活動に参加し、その頃からミュンシュとは旧知の仲。

演奏会でも録音でも共演は多く、ラヴェルのピアノ協奏曲も3種類残されている。

当盤は2度目の録音で、テンポはやや速めであるが、その中でのミュンシュの重心のいささか低めの重厚な演奏と、シュヴァイツァーのセンス満点の演奏が、我々聴き手を深い感動を誘う。

特に、ラヴェルの作品の中でも最も美しい第2楽章の味わい深さは格別である。

それにしても、両曲ともに、ミュンシュのスタジオ録音とは思えないほどの情熱的かつ熱狂的な指揮ぶりが際立っており、聴き終えた後の充足感という点からすれば、いずれの曲も随一の名演の1つと言っても過言ではあるまい。

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広範なレパートリーを誇ったショルティであるが、英国王室から「サー」の称号を得ただけに、英国音楽、特にエルガーの楽曲を得意としていたことについては意外にもあまり知られていない。

そのレパートリーは、2つの交響曲や行進曲「威風堂々」、チェロ協奏曲、エニグマ変奏曲、その他の管弦楽曲など多岐に渡っている。

ショルティと同様に数多くのレコーディングを遺した先輩格のカラヤンは、エルガーの楽曲を殆ど録音しなかったし、後輩のバーンスタインもエニグマ変奏曲と行進曲「威風堂々」の一部のみの録音にとどまっている。

そして、ハンガリー系の指揮者のライナーやオーマンディ、セルなどの録音歴などを考慮に入れても、ショルティのエルガーへの傾倒ぶりがよく理解できるところだ。

本盤には、エルガーの交響曲第1番及び第2番などが収められているが、いずれもエルガーを得意としたショルティならではの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

オーケストラは、他のエルガーの楽曲の場合と同様に、シカゴ交響楽団ではなく、ロンドン・フィルを起用しているが、楽曲によってオーケストラを使い分けるというショルティなりの考え方によるものではないかとも思われる。

エルガーの交響曲第1番は、英国の作曲家の手による交響曲の最高峰である。

にもかかわらず、英国出身の指揮者による演奏は頻繁に行われているものの、それ以外の国の指揮者による演奏は驚くほど少ない。

作品の質の高さを考えると、実に惜しい気がする。

そんな数少ない指揮者の中で、ショルティがエルガーの交響曲第1番と第2番の録音を遺してくれたことは、何と素晴らしいことか。

ショルティは、この録音に先立って、エルガーによる自作自演を繰り返し聴いて臨んだということであるが、この点に照らしても、ショルティが単なる余興ではなく、真摯にこの傑作交響曲に取り組んだことがよくわかる。

演奏の性格を大観すると、英国の指揮者による演奏に顕著な哀切漂うイギリスの詩情を全面に打ち出したものではない。

むしろ、ドイツの正統派交響曲を指揮する時と同様のアプローチにより、古典的とも言える解釈を示している。

それでいて決してこじんまりとまとまっているのではなく、いかにもショルティらしいスケールの雄大さを兼ね備えている。

第1楽章冒頭からスコアをよく考究した表現で、非常にこまやかな陰影をもち、中庸なテンポによる造形と洗練された音彩が美しく、4つの楽章の性格も的確に示されている。

もちろん、ショルティの欠点として巷間指摘されている、ヘビーなアクセントや力づくの強奏などもみられないわけではないが、例えば第3楽章など、歌うべきところは心を込めて歌い抜くなど、決して無機的な演奏には陥っていない。

交響曲第2番においてもショルティのアプローチは、例によって強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。

したがって、同曲に、英国の詩情に満ち溢れた美しさを期待する聴き手にはいささか不満が残る演奏と言えるかもしれない。

しかし、絶対音楽としての交響曲ならでは堅牢な造型美、そして広範なダイナミックレンジを駆使したスケールの雄大さにおいては、他の英国系の指揮者による演奏においては決して味わうことができない独特の魅力を有している。

他の演奏とは異なったアプローチにより、同曲の知られざる魅力を引き出すことに成功した名演と評価してもいいのではないだろうか。

特に、一部のトゥッティの箇所において、これはロンドン・フィルの必ずしも一流とは言い難い技量にも起因しているとは思われ、いささか力づくの強引さが感じられるきらいもないわけではないが、緩徐楽章においては、ショルティなりに情感豊かに歌い抜いており、演奏全体としては十分に剛柔のバランスがとれているのではないかと考えられる。

ショルティの統率の下、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルも、随所に粗さは感じさせられるが、演奏全体としては十分に健闘していると言えるところであり、持ち得る実力を存分に発揮した好パフォーマンスを発揮していると評価したい。

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世界的な指揮者として活躍したロリン・マゼールが、肺炎の合併症のため、米バージニア州の自宅で7月13日に84歳で死去した。

筆者にとってマゼールと言えば、1987年にウィーン・フィルとの来日公演で受けた感銘がとても大きく脳裏に刻みこまれている。

百戦錬磨のウィーン・フィルの楽団員を子供のように扱うかのごとく統率し、圧倒的な才能を示していたマゼール。

マゼールの業績と録音については、筆者もレビューを書いているので、そちらを参考にしていただきたい。

ご冥福を心よりお祈り致します。

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2015年06月16日


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本盤に収められているのは、カルミニョーラが、同じイタリア人の大指揮者アバドと組んでスタジオ録音を行ったモーツァルトのヴァイオリンのための協奏曲全集からの有名な楽曲の抜粋である。

因襲的なスタイルから脱皮し交響的協奏曲へ一歩踏み出した第3番、青年期の最高傑作のひとつである洗練度と深みを増した第5番、中間楽章での憂いを帯びた感情の表出が印象的な協奏交響曲といったモーツァルトのヴァイオリンのための協奏曲集。

独奏はモダンとバロック両方のヴァイオリン演奏法を修得し、きわめて幅広いレパートリーを擁するカルミニョーラ。

指揮のアバドが若い演奏家を集めて創設したモーツァルト管弦楽団との共演であるが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。

本演奏の特徴を一言で言えば、ソロ奏者、指揮者、オーケストラの全員が実に楽しげに音楽を奏でているということではないかと考えられる。

カルミニョーラのヴァイオリンは、モーツァルトの若い時代の作品であるということもあってもともと卓越した技量を要するような楽曲ではないという側面もあるが、自らの技量をいささかも誇示することなく、あたかも南国イタリアの燦々と降り注ぐ陽光のような明瞭で伸びやかな演奏を披露してくれているのが素晴らしい。

カルミニョーラは既に1997年にイル・クァルテットーネとの弾き振りでこの曲集をリリースしているが、この新録音の方がテンポの設定が速めで、10年前の方がかえって落ち着いた古典的な優雅さを保っている。

例えば第5番の名高いテンポ・ディ・メヌエットでの目の覚めるようなダイナミックな対比が以前より一層徹底されている。

こうした劇的な生命力に漲ったシュトゥルム・ウント・ドラング的な曲作りはカルミニョーラ自身がアバドに要求した意向のようで、全曲ともピッチはやや低めのa'=430を採用している。

カデンツァは彼の師になるフランコ・グッリの手になるもので、音楽的にも技巧的にもかなり充実した内容を持っている。

またソロ・ヴィオラが加わる協奏交響曲では若手の女流ヴィオラ奏者、ダニューシャ・ヴァスキエヴィチが起用されている。

カルミニョーラの使用楽器はストラディヴァリウス(BAILLOT,1732年)で数年前にボローニャ貯蓄銀行財団から貸与された名器だ。

彼は1951年生まれだから、この録音があった2007年は55歳の円熟期にあり、現在でもイタリアのヴァイオリニストの中では最も充実した演奏活動を行っている。

彼のレパートリーはバロックから古典派にかけてが中心で、ピリオド奏法を駆使したメリハリのある表現と凝り過ぎないストレートなカンタービレ、それに名器ストラディヴァリウスの明るく艶やかな響きが特徴だ。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督退任の少し前に大病を患ったが、大病克服後は音楽に深みと鋭さを増すことになり、現代を代表する大指揮者と言える偉大な存在であったが、本演奏においては、親交あるカルミニューラやヴィオラのヴァスキエヴィチ、そしてモーツァルト管弦楽団などの若い音楽家たちを温かく包み込むような滋味溢れる指揮ぶりが見事である。

若手の才能ある演奏家で構成されているモーツァルト管弦楽団も、いわゆる古楽器奏法を駆使した演奏ではあるがいささかも薄味には陥っておらず、フレッシュな息吹を感じさせるような躍動感溢れる名演奏を展開しており、演奏全体に清新さを与えるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

ヴィブラートを最小限に抑えた歯切れの良いリズム感や軽快なテンポの運び方は晩年のアバドの音楽観の変化とモーツァルトの作品に対する新しい解釈を試みているようで、老いて益々意欲的な活動が頼もしい。

録音については、従来盤でも十分に満足し得る高音質であったが、今般のSHM−CD化によって若干ではあるが音質がより鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように感じられるところだ。

このような新鮮味溢れる名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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生前は原則として一切の録音を拒否し、幻の指揮者と言われていたチェリビダッケであるが、没後、相当数の録音が発売されることになり、その独特の芸風が多くのクラシック音楽ファンにも知られることになった。

チェリビダッケの演奏は、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではなく、むしろ音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

チェリビダッケは、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであるが、この東京公演盤に関しては、いずれもチェリビダッケならではの名演揃いであると評価したい。

アプローチとしてはEMI盤と基本的に変わりがないものの、チェリビダッケが愛した日本での公演であること、当日の聴衆の熱気、そして何よりも極上の高音質録音によって、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえることなどが相俟って、スローテンポであってもいささかも間延びがしない充実した音楽になっているのではないかと思われるところだ。

ブルックナーの「第5」と「第8」は、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左である。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであった。

確かに、この演奏をブルックナーの交響曲演奏の理想像と評価するには躊躇するが、いわゆる音のドラマとしては究極のものと言えるところであり、良くも悪くもチェリビダッケの指揮芸術の全てが如実にあらわれた演奏と言うことができるだろう。

いずれにしても、聴き手によって好き嫌いが明確に分かれる演奏であり、前述のように、ブルックナーらしさという意味では疑問符が付くが、少なくともEMIに録音された演奏よりは格段に優れており、筆者としては、チェリビダッケの指揮芸術の全てがあらわれた素晴らしい名演と高く評価したい。

シューマンの交響曲第4番やムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」もテンポは遅い。

例えば、組曲「展覧会の絵」について言うと、約42分もかけた演奏は他にも皆無であろうし、シューマンの交響曲第4番についてもきわめてゆったりとしたテンポをとっている。

しかしながら、本盤の両曲の演奏には、こうしたテンポの遅さをものともしない、圧倒的な音のドラマが構築されている。

とりわけ、組曲「展覧会の絵」は、ラヴェルの光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが魅力の楽曲であるが、これをチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

ブラームスの交響曲第4番やR.シュトラウスの交響詩「死と変容」についても同様のことが言えるだろう。

その他の小品も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。

いずれにしても、これらの演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

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ベートーヴェンを演奏して最高の巨匠であったウィルヘルム・バックハウスは、また、ブラームスでも比類のないピアニズムを示して、技巧は豪快、深い精神美とストイックな抒情性で、独特の威厳を感じさせる名演を聴かせた。

ことにブラームスの2曲のピアノ協奏曲は、バックハウスが生涯を通じて愛奏した作品であった。

とりわけピアノ協奏曲第2番は1903年という19歳の時、ハンス・リヒターの指揮で初の公開演奏して以来お得意の曲で、1954年春、初めて(そして最後の)来日した時にも東京交響楽団の定期演奏会(1954年4月12日)に上田仁の指揮により弾いている。

さらに、最後のザルツブルク音楽祭となった1968年夏のベーム指揮、ウィーン・フィル演奏会(1968年8月18日)と、同じ顔合わせによるバックハウス最後の協奏曲録音(1967年4月、ウィーン・ゾフィエンザール)でも、ブラームスの第2番がとりあげられた。

そしてこのベームとは、遥かSPレコード時代の昔にも、ザクセン国立管弦楽団の共演で《第2》をレコーディングしているのである。

いわば、ブラームスのピアノ協奏曲第2番こそ、大ピアニスト、バックハウスの名刺代わりの名曲に他ならなかった。

バックハウスを古くから聴いてきたファンの1人として思うのだが、SPとモノーラル録音のLP、そしてステレオと、前後3回にわたるブラームスの《第2》のバックハウスを聴くと、どれもベストの出来とは言えないところであり、やはり1953年にウィーンのムジークフェラインザールでライヴ録音された、クレメンス・クラウスと共演した本盤が最上の出来映えである。

歳をとっても技巧の衰えや造型力の弱まりを見せなかったバックハウスだけに、1953年という69歳の時点は全盛期のさなかと言って良かったし、指揮のクラウスもまた、端正で気品と格調の高さを感じさせる表現が円熟の極みに達して、ウィーン・フィルから至高のブラームスの響きを導き出している。

当時のウィーン・フィルに、戦後の立ち直りの早さを聴きとり、第1ヴァイオリンにボスコフスキーとバリリが並び、木管にカメッシュ(Ob)、ウラッハ(Cl)、エールベルガー(Fg)、ホルンにフライベルクといった名人級の奏者が健在だったことを想像するのも、この《第2》でのオーケストラの出来映えが、ウィーン・フィルとしても最高の水準を聴かせてくれることによる。

第1楽章、柔らかいホルンの呼び声に応じて出現するピアノの、穏やかだが精神力の込められた含蓄の深い演奏の何という雰囲気か。

木管につづくピアノのカデンツァで、次第に力感を凝集させる左手の低音、ブラームスの音楽のファンダメンタルは、この低音の雄弁さによって支えられる。

管弦楽の第1、第2主題提示の、どこか明るい響きの陰翳こそ、クラウスの表現のすばらしい聴きどころだろう。

管弦楽のシンフォニックな構成に包まれて、バックハウスのピアノは曲が進むにつれて光彩と迫力を増し、情感のふくよかさ、技巧の切れ味で圧倒的なクライマックスを作り出す。

第2楽章スケルツォをリードするピアノの厳しい表情と弦の優美な主題の見事な対比、スタッカート主題で始まる中間部の管弦楽の彫りの深さに、オクターヴをppで奏するピアノが反応する個所のバックハウス。

第3楽章でチェロ独奏が歌って行くロマンティックな旋律は、ブラームス・ファンの愛惜してやまぬ情緒の美しさだが、それを装飾するかのごとく弾くピアノの控えめな表情、軽やかなタッチ、内省的で、まさに絶妙なピアノとウィーン・フィルの弦が呼応する。

第4楽章では、バックハウスの力量と音楽性がさらに圧倒的な凝集力を見せ、クラウス指揮のきりりと引き締まったリズム感と厳しいダイナミックスは、いっそうの直截さでピアノと手を結ぶ。

1953年という録音年代にしては、管弦楽の自然な響きで捉えられ、バックハウスのピアノも力強さと柔らかいニュアンスももって再生され、古いけれど良好な音質である。

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2015年06月15日


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ベートーヴェンを演奏して最高の巨匠であったウィルヘルム・バックハウスは、同時に、ブラームスのピアノ作品においても、比類のないピアニズムを示し、技巧は豪快、深い精神美とストイックな抒情性で、独特の威厳を感じさせる名演をもって有名だった。

ことにブラームスの青春の情熱と円熟の沈潜を代表する力作という2つのピアノ協奏曲にかけては、バックハウスの右に出るピアニストはなかった、と言っても過言ではない。

そのうちの《第2》はシューリヒト指揮のウィーン・フィル(1952年録音、モノーラル)と、ベーム指揮のウィーン・フィル(1967年録音、ステレオ)という新旧2種のスタジオ録音の名演が残されている(他に1930年代のSP録音も存在する)が、《第1》のほうは、1953年にウィーンで録音されたこのCD復刻盤が唯一のものとなった。

同曲は、作品が書かれた当時はもちろんのこと、現代のシンフォニックな作品のレパートリーとしても、管弦楽のパートの激烈で緻密過剰なことで知られる難曲である。

したがってこの曲は、独奏者がよほど力量のあるピアニストでないと、ただでも圧倒的で分厚い管弦楽の響きの中に埋没してしまうだろう。

ピアノがむしろ管弦楽を伴奏しているようなところさえある。

それでいて、これはピアニストにとって物凄く厄介な技巧を要求される難曲でありながら、ほんのいくつかの印象的なソロ以外は、それほどピアニスティックな演奏効果があがらない作品である。

この協奏曲を弾いて聴衆に強烈な印象を与えるのは、並大抵のことではない。

それに加えて、オーケストラの出来も問題となってくるのであって、巨匠的なピアニストに対抗できる大指揮者と名オーケストラが絶対必要なのである。

その点で、バックハウスがカール・ベームの指揮するウィーン・フィルという最高の協演者とともに録音したこの演奏こそ、録音がモノーラル時代のものであることを除けば、あらゆる意味で、この曲の理想的な演奏が聴ける1つの典型と言って良いだろう。

1953年6月という時点でウィルヘルム・バックハウスは69歳、歳をとっても技巧の衰えや造型力の弱まりを見せなかった彼だけに、69歳はまだまだ全盛期のさなかであった。

巨人的スケールの大きさと切れの冴えた技巧、ストイックだが、こまやかな情感のぬくもりを表現の陰翳に隠したバックハウスのピアノは、この曲のピアノ・パートが示す息の長い情感の底流を見事に捉えて、圧倒的な演奏を構築して行く。

筆者がこの演奏でとりわけ好んでいるところを、いくつか書き出してみよう。

まず第1楽章では、長い管弦楽提示部がppで結ばれ、待ちに待ったピアノが、柔らかいタッチに内面の芯の強さを隠して、pでエスプレッシーヴォと指定されたフレーズを奏し始めるところ。

表情をぐっと抑えて、しかも荘重な響きを持続し、次第に表現と響きにふくらみを持たせる、あの出だしである。

だがバックハウスのすばらしさがもっと直接に理解できるのは、ポコ・ピウ・モデラートの第2主題を弾き出す独奏部であり、さらにショッキングなダブル・オクターヴで颯爽と出る展開部の入りの劇的パッセージであろう。

第2主題では再現部のほうがより美しく、提示部では左手のバスの動きに意味を持たせたのに、今度は和声全体の響きを磨くのに耳を吸い寄せられる。

そして、これこそ圧巻と言いたいのは、ポコ・ピウ・アニマートのコーダに入ってからのピアノの威容である。

まだ50代だったベームが全力でウィーン・フィルから絞り出すffの和弦の林立する中を、揺るぎなき大地に両足をしっかりと踏みしめたような安定感を示しながら、あの両手のダブル・オクターヴによるffの音階的パッセージを連続させつつ猛烈なクライマックスにひた走るバックハウスの弾きっぷり!

全軍の先頭に立って堂々進軍する王者の風格といいたい豪壮無類のピアニズムである。

この楽章の再現部からコーダの演奏は、筆者がこれまで聴いてきた数多いこの曲の演奏のどれよりもすばらしい。

バックハウスも偉大なのだが、ベームとウィーン・フィルも凄い。

コーダは全く息もつかさず、結びのffの4つの和音の圧倒的な気力充実ぶりは、ピアノの両手の主和音ともに最後の音が十分に引き伸ばされて終わった瞬間、聴いていて思わず立ち上がって叫びたくなった程の強烈さだった。

第2楽章のバックハウスらしい武骨さの感じられる抒情のたゆたい、ウィーン・フィルの憧れにむせぶような弦、中間部のクラリネットのひとくさり! きっと、これはウラッハが吹いているに相違ない。

そして豪放な終楽章。

録音が、もう少し新しければと思うが、これでも十分だ。

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classicalmusic at 22:36コメント(0)トラックバック(0)バックハウスベーム 

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初出の時は、新ウィーン楽派の3人の作曲家の弦楽四重奏作品を集成、世界各国のレコード賞を総なめにしたアルバムであったが、本セットは、これらの作曲家の作風の先輩格にあたるツェムリンスキーの作品も併録し、集大成した画期的な全集。

シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、ツェムリンスキーの楽譜を謙虚に見つめ、その本質を明快なアプローチでクリアーに描き切った、ラサール弦楽四重奏団一世一代の記念碑的名演。

弦楽四重奏といえばドイツ、オーストリアが中心といった通念を壊し、弦楽四重奏演奏に新たな地平を開いたのがアメリカの四重奏団であった。

中でもラサール四重奏団は、メンバーのうち3人がヨーロッパに出自をもちながらジュリアードで学び、その緻密なアンサンブルと幅広い音楽性によって、ヨーロッパの若い弦楽四重奏団にも大きな影響を与えた。

そうしたヨーロッパから持ち込まれた音楽伝統が、アメリカの現代的感覚で磨きをかけられることによって生まれたユニークな音楽性こそ、このクヮルテットの持つ際立った特色である。

豊かで正確な見識と、目を見張るばかりの高度なテクニックに支えられた、音楽に対するあの積極的で誠実な姿勢が生み出されてきたものと想像される。

彼らはベートーヴェンやロマン派の音楽にも大きな成果を挙げたが、最も得意としたのは20世紀音楽であり、新ウィーン楽派の弦楽四重奏曲全曲を収めたこの集成盤は、彼らの精密な合奏能力や音楽性の高さが集約されたものとして、20世紀弦楽四重奏演奏の金字塔の1つとなっている。

ラサール四重奏団は、これらの作品を謙虚に受け止め、それを余裕のあるテクニックで的確に表現し尽している。

そして、客観的にそれぞれの作品の性格を描くことにより、4人の作曲家の作風の違いを明らかにするとともに、シェーンベルクの場合など作風の変遷も明確に演奏に反映することに成功している。

また、どの曲をとってもきわめて音楽的であるところが素晴らしい。

この演奏を通して、新ウィーン楽派の作品が決して頭で聴くものではなく、耳と身体全体に喜びを与えてくれることを教えられた人も少なくないだろう。

こういう共感ができるのも、このラサール四重奏団の演奏に「血の流れ」が感じられるからかもしれない。

もちろん演奏の密度はきわめて高く、適度の緊張感が聴き手の注意をそらさない。

なんでも、メンバーの各人が楽譜を筆写して演奏に臨んだらしく、なるほど、一聴すると無機的にも見える音の並びを見事に生き生きと、つややかに表現できている。

これらの作品解釈のひとつの規範となる演奏だ。

また、ここでは、マーラーとベルクの狭間に位置し、新ウィーン楽派に大きな影響を与えた作曲家、ツェムリンスキーの弦楽四重奏曲全集について指摘しておかねばならない。

新ウィーン楽派の音楽に傾倒していたラサール四重奏団にとって、その栄光を称えるためには、その楽派の先駆的存在であったツェムリンスキーは、必然的にとりあげなければならない作曲家だったに違いない。

このラサールによってひき起こされたツェムリンスキー再発見運動は、新ウィーン楽派の音楽をより深く理解するうえで極めて意義深い材料を提供してくれたことになる。

演奏は、ツェムリンスキーのもつ表現主義的緊迫感を明晰に表現し、そのルネッサンスに先駆をつけた名録音。

このツェムリンスキーを演じても、ラサール本来の曖昧さのない美意識はますます冴え渡っており、彼らが弦楽四重奏の世界で実践した演奏美学は、1980年代の演奏史に大きな足跡を残すこととなった。

新ウィーン楽派の音楽に心から共鳴し、それに暖かい血を通わせた名演として、演奏史に永遠に輝く記念碑となろう。

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本盤に収められたマーラーの交響曲第8番は、ブーレーズによるマーラーチクルスが第6番の録音(1994年)を皮切りに開始されてからちょうど13年目(2007年)の録音である。

このように13年が経過しているにもかかわらず、ブーレーズのアプローチは殆ど変っていないように思われる。

かつては、作曲家も兼ねる前衛的な指揮者として、聴き手を驚かすような怪演・豪演の数々を成し遂げていたブーレーズであるが、1990年代に入ってDGに録音を開始するとすっかりと好々爺になり、オーソドックスな演奏を行うようになったと言える。

もっとも、これは表面上のこと。

楽曲のスコアに対する追求の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在である。

本演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることができないような旋律や音型を聴き取ることが可能なのも、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の1つと言えるだろう。

今まで約25年間この曲を聴き続けてきたが、これほど鮮明でバランスのとれた演奏は初めてである。

俗物的な見世物の感が強い「第8」をこれだけ冷静に構築したブーレーズの手腕に拍手を贈りたい。

決して音楽に耽溺しない比類ないコントロールでまとめられた演奏に関しては否定する諸氏もおられようが、筆者は大いに評価したい。

音楽による生と宇宙の肯定を企図した「第8」は、第1部が(マーラーから見て)1000年前に中世マインツの大司教ラバヌス・マウルスが作ったラテン語賛歌、第2部がゲーテ「ファウスト」からの引用により構成されるが、第2部最後の「永遠に女性的なものがわれらを引いて昇り行く」という高揚した境地に至るまでの壮大なドラマが、ブーレーズ特有の緻密な音の積み上げにより巨大な峰にまで積み上がっていく様は「圧巻」である。

聴いてるだけでも大仕事だったろうということが想像されるが、この音の積み上げの「圧巻」が巨大なこの曲のボリュームと相俟ってこの作品を名盤としているように思う。

もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。

したがって、「第8」で言えば、ドラマティックなバーンスタイン&ウィーン・フィル(1975年ライヴ)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1991年ライヴ)の名演などとはあらゆる意味で対照的な演奏と言えるところである。

もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。

過去と同時に未来を眺めていた作曲家、というのがブーレーズが各所で繰り返したマーラー評だが、そのような視点に立って、ロマン派的要素の濃厚なこの大作をブーレーズの緻密なフィルターを通して演奏してみたこの作品は、やはり「現代的」なのだと思う。

さらに、シュターツカペレ・ベルリンの落ち着いた演奏が、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることも忘れてはならない。

ブーレーズは同曲をシュターツカペレ・ベルリンと録音したのは意外だったが、聴いてみてなるほどブーレーズの頭の中には全曲のきちんとした設計図があったのだな、と感心した次第である。

8人のソリスト、2つの混成合唱団と児童合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

そして優秀な録音が、ブーレーズの緻密な隅々まで神経の行き届いた演奏を、見事に浮かび上がらせている。

最近のDGのオーケストラ録音は、目の覚めるようなものが多いが、巨大な管弦楽と合唱を伴ったこの交響曲では、セッション録音でなければ細部の音まで良く聴き分けられるのは無理だったと思う。

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classicalmusic at 01:02コメント(0)トラックバック(0)マーラーブーレーズ 

2015年06月14日


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前奏曲第1巻は、1978年に録音されているが、豊かな音楽センスで表現においてもタッチと音色においても徹底的に磨き上げられたような演奏を聴くことができる。

ミケランジェリの粒だちのよい音色と、消えようとする響きの美しさを万全に引き出した、透明感のあるピアニズムが魅力的だ。

ミケランジェリは、楽器から出しうる限りのヴァラエティに富んだ音色と、磨き抜かれた感覚によって、独自のピアニスティックな世界を築いている。

研ぎ澄まされた表現と精妙な色彩を湛えた響きによって、1曲1曲を実に克明に描き切っている。

1音1音が徹底的に磨き上げられており、実に美しく、しかもテクニックは冴えわたっており、非の打ちどころがない。

曖昧な雰囲気や気分の移ろいといったものを削ぎ落とした演奏は、必ずしも気楽に楽しめるものではないが、厳しい造形と彫りの深い表現をもつ演奏は、各曲の個性と魅力を絶妙な感覚で描き分け、まことにデリケートなニュアンスと透徹した詩情を湛えている。

まさに寸分の隙もなく、完璧に仕上げられた演奏と言えるところであり、聴くたびに徹底した表現上の工夫、幅の広さに感心させられてきた。

表現においても、タッチと音色においても、これほど、デリケートでかつ多彩きわまりなく、徹底的に磨き抜かれた演奏はないだろう。

ことに、抒情的な曲では、前の音の余韻を受けながら、次の音が精妙に絡み合っているのがよくわかる。

また、リズミカルな曲は高音の美麗さがすばらしく、色彩的で明るい音は見事だ。

全体に、思い入れたっぷりの表現となっているところが、いかにもこの人らしい。

細部の細部に至るまで、デリケートで、複雑なニュアンスが込められたミケランジェリのピアノから生まれているのは、まさしく貴族主義的であり、かつまた神秘主義的なドビュッシーと言えるだろう。

その演奏は、たとえば〈亜麻色の髪の乙女〉のような曲でも、決してムードに流れることはない。

特に、〈デルフィの舞姫〉に聴くデリカシー、ゆったりとした呼吸で幻想的に描いた〈沈める寺〉に聴くダイナミズムの凄さなど、どれをとっても素晴らしい。

前奏曲第1巻の、そして、この鬼才ならではのピアノ芸術の最高の成果がここにあると言ってよいだろう。

また、《映像》第1集の〈水の反映〉を、これほど繊細に表現できる人というのも少ない。

また生き物のように息づく三連音符を、絶妙なタッチで演奏した〈動き〉や、東洋風の絵画を思わせる第2集の〈荒れた寺にかかる月〉も、響きの多彩さと余韻に魅せられる。

そして情緒的表現を切り詰め、精妙にして透徹した、ミケランジェリならではのイマージュ《映像》を作りあげている。

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classicalmusic at 22:39コメント(0)トラックバック(0)ドビュッシーミケランジェリ 

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これまで多くの聴者によって支持を集めているメジューエワによるシューベルトのピアノ作品集もついに第3弾の登場となった。

曲目も、最後の3つのピアノ・ソナタのうちの第20番、そして同じイ長調のピアノ・ソナタとして有名な逸品である第13番、そして楽興の時などの有名な小品集も収められており、まさに第3弾の名に相応しいラインナップを誇っていると言えるだろう。

それにしても、演奏は素晴らしい。

いや、それどころか期待以上の見事さと言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏においても、メジューエワの基本的なアプローチは、第1弾や第2弾の演奏と基本的には変わっていないと言える。

メジューエワは、スコアに記されたすべての音符の1つ1つをいささかも揺るがせにすることなく、旋律線を明瞭にくっきりと描き出していくというスタンスで演奏に臨んでいる。

それでいて、いささかも単調に陥るということはなく、強靱な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現力の幅は桁外れに広い。

全体の造型は非常に堅固であるが、音楽は滔々と流れるとともに、優美な気品の高さ、格調の高さをいささかも失うことがないのがメジューエワの最大の美質である。

そして、細部に至るまでニュアンスは豊かであり、その内容の濃さはメジューエワの類稀なる豊かな音楽性の証左と言えるだろう。

シューベルトのピアノ曲は、もちろん最後の3つのソナタの一角を構成する第20番はもちろんのことであるが、その他の楽曲についても、ウィーン風の抒情に満ち溢れた名旋律の端々には寂寥感や死の影のようなものが刻印されているが、メジューエワによる本演奏は、かかる寂寥感や死の影の描出においてもいささかの不足もなく、前述のような気高くも優美なピアニズム、確固たる造型美なども相俟って、まさに珠玉の名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

第1弾及び第2弾の際のレビューにおいても記したところであるが、これほどの名演を聴くと、メジューエワの類稀なる才能をあらためて感じるとともに、今後の更なる成長・発展を大いに期待できるところだ。

今後、メジューエワがどのようなスケジュールでシューベルトのピアノ作品集の録音を進めていくのかはよくわからないが、第4弾以降にも大いに期待したいと考える。

特に、シューベルトのみならず、あらゆるピアノ・ソナタの中でも最高峰の傑作とされる最後の3つのソナタのうち、本盤の登場によって第19番及び第20番の2曲の録音が揃ったことになるが、第21番において、メジューエワがどのような演奏を成し遂げるのか、実に興味深いと言えるところだ。

音質についてもメジューエワのピアノタッチが鮮明に捉えられており、素晴らしい高音質であると評価したい。

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