2015年06月

2015年06月14日


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本盤には、フィンランドの歴史的な名指揮者ロベルト・カヤヌスのシベリウス録音が収められているが、カヤヌスこそは、シベリウス作品を全世界に広めたパイオニア的存在である。

いま改めて聴いてみると、いまさらのようにカヤヌスの偉大な芸術に感嘆させられてしまう。

カヤヌスはシベリウスより9歳年長であったが、シベリウスの親友であり、生涯を通じてシベリウスの作品の紹介につとめ、作曲もよくし、シベリウスがもっとも信頼する指揮者として活躍した。

しかもカヤヌスは、室内楽への創作に勤しむ若きシベリウスに管弦楽曲への作曲を奨励した人物でもある。

当時はヨーロッパの片田舎であったフィンランドから、シベリウスの作品が発信され、やがて国際的に知られることになったのは、ひとえにカヤヌスの功績である。

シベリウスは、1930年代、「誰を指揮者に推薦するか」という英コロムビアからの問い合わせに、即座に「カヤヌスを」と推薦している。

コロムビア社に異存のあるわけもなく、カヤヌスはシベリウスの7つある交響曲のうちの「第1」「第2」「第3」「第5」の4作品を、ロンドン交響楽団とともに録音している。

「第3」「第5」を録音した翌年の1933年にカヤヌスは亡くなっているので、もう少し長生きしていれば、ほかの曲も入れてくれていただろう、と思うと残念だ。

ここに集められた録音は、作曲者直伝とも考えられる、もっとも正統的な解釈の演奏であり、骨の太い演奏で、ただの歴史的な記録に終わらない、本物の演奏芸術である。

シベリウス在世中の空気を生々しく肌で感じた音楽であるとともに、同時代の精神を映した鏡である。

カヤヌスは、シベリウスの書いた何気ないフレーズや複層的な和音の積み重ねに命を吹き込む特別の才能を持っていたのだ。

現在のシベリウスの演奏は、すべてがカヤヌスの芸術の後裔といってよく、改めてシベリウスの音楽から多くを発見することになろう。

これらの演奏は、いずれも凄いほどの意欲と共感に貫かれている。

交響曲第3番は意気盛んというか冒頭から強靭な力感を秘めた表現であり、ここでもテンポとアーティキュレーションには一分の隙もなく、そのため曲が端麗に構築されている。

溌剌と躍動しながらも各主題と楽想の性格が、的確な劇性をもって示されており、そこから民族の情感が滲み出ているが、終楽章の最後のコラール風主題のテヌートのきいた表情、ひた押しに加速するテンポの様相も素晴らしく、確信にみちた高潮の軌跡が描かれている。

もちろんカヤヌスは交響曲第5番でも独自の音楽世界を開拓しており、その活力と生命力は鋭い動感にあらわされているが、第2楽章では朗々とした歌が湧き上がり、音楽の変転が内面のロマンの様相と完全に一致した感をあたえる。

すべてが計算されつくした緻密さをもちながら、そうと感じさせない流動感も見事なものである。

そして終楽章では、この作品独自の構成を鮮明にあらわし、音楽は終末の完成を目指して突進し、短い動機も旋律のように歌うが、そのアゴーギクがまた創意豊かである。

かくて最後に集約されるクライマックスは、意外にも淡泊だが、壮麗をきわめ、素晴らしい感動を呼び起こすのである。

これらの演奏を聴くと、シベリウスは何と理想的な指揮者を得たのだろうか、と思う。

いや、それよりも驚嘆するのは、カヤヌスという巨大な存在が、1930年代に、いま聴いても新鮮な音楽をつくっていたという、それこそ驚くべき事実である。

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2015年06月13日


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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音した一連のブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、ベルリン・フィル盤と同様に更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

ヴァントのブルックナーは既に神格化されているが、その芸術が至高の境地に達したのは1990年代後半である。

特に、ベルリン・フィルと組んで遺した「第5」、「第4」、「第9」、「第7」、そして最後の「第8」は、人類共通の至宝と言うべきであるが、今般、これらの至宝に、更に、ミュンヘン・フィルと組んだ至高の名演群(「第6」と「第7」が入れ替わっているが)が加わることになった。

いずれ劣らぬ名演揃いであるが、その中でも、ヴァントの自伝にも記されているが、「第5」と「第9」は、ブルックナーが妥協を許さずに作曲した作品として、特に愛着を持って接していたようで、他の指揮者の追随を許さない超名演に仕上がっている。

本盤は、この1カ月後にライヴ録音したベルリン・フィル盤と並んで、ヴァントの「第5」の総決算とも言うべき超名演である。

両盤に優劣をつけることは困難であるが、違いはオーケストラの響きぐらいのものであり、これだけの高次元のレベルに達すると、後は好みの問題ということになるであろう。

録音で聴くと少々弛緩した印象もあったチェリビダッケ盤に較べ、ここでのヴァントの勇壮なオーケストラ・ドライヴには、聴き手を興奮させずにはおかない劇的な展開の巧みさと迫力が確かに備わっており、ミュンヘン・フィルの明るく流麗で色彩的、かつ俊敏なサウンドがそうした解釈と面白いマッチングをみせて素晴らしい聴きものとなっている。

引き締まったサウンドを好んだヴァントが、チェリビダッケによって厳しく訓練され、高い適応力を備えていたオーケストラとの共同作業から手に入れたのは、美しくしかもパワフルなサウンドだったのである。

ここでのミュンヘン・フィルは本当にすばらしく、技術上の高水準はもちろん、自分たちの演奏に対する自信といういうか、何か誇らしさが聴こえてくるようでもあり、どのパートもしっかりと存在感を保ちつつ、もちろんアンサンブルとして完璧な出来を示している。

厳格なスコアリーディングに基づく剛毅にして重厚な演奏スタイルであるが、1980年代のヴァントに見られたような、凝縮しすぎるあまりスケールが矮小化されるという欠点もいささかも見られない。

リズムにも柔軟性が付加されており、硬軟併せ持つバランスのとれた名演と言うべきである。

終結部の微動だにしない圧倒的な迫力はこの超名演の締めくくりに相応しいものであり、演奏終了後の聴衆の熱狂も当然のことにように思われる。

この公演から約1ヶ月の後にはベルリン・フィルに客演して同曲を指揮するヴァントだが、リハーサル回数の問題もあったのであろうか。

ヴィルトゥオジティはともかく、指揮者の解釈がより深く楽員に浸透したのは、どうやらミュンヘン・フィルの方だったようだ。

いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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クラシック音楽をはじめ様々なジャンルの音楽を手掛けてきた稀代のミュージシャンでもあるプレヴィンが、これまでクラシック音楽のジャンルで遺した録音の中で最も偉大な業績は何かと問われれば、筆者は躊躇なく本盤に収められたラフマニノフの交響曲全集&管弦楽作品集を掲げたい。

プレヴィンは、若い頃からラフマニノフを得意としており、本盤に収められた全集のほかにも、第2番についてはロンドン交響楽団(1966年)及びロイヤル・フィル(1985年)とのスタジオ録音を行っており、ピアノ協奏曲についてもアシュケナージ及びロンドン交響楽団とともに全集(1970〜1971年)を録音している。

しかしながら、ピアノ協奏曲は別として、本盤に収められた演奏こそは、プレヴィンによるラフマニノフの交響曲(第2番)のベストの名演であるとともに、他の指揮者による様々なラフマニノフの交響曲全集&管弦楽作品集にも冠絶する至高の超名演集と高く評価したいと考える。

プレヴィンのアプローチは、ラフマニノフ特有の甘美な旋律の数々を徹底して美しく歌い上げると言うものである。

もっとも、そのような演奏は、近年、急速にその人気が高まっているラフマニノフの交響曲だけに、他にも数多く存在していると言えるが、プレヴィンの演奏の素晴らしいのは、どこをとっても陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、格調の高さをいささかも失っていないという点にあると考える。

要は、とかくラフマニノフの演奏では、旋律のあまりの甘美さ故に、厚手の衣装を身にまとったような重々しい演奏やお涙頂戴の哀嘆調の演奏などが散見されるが、プレヴィンの場合は、いささかも重々しくなることはなく、さりとて軽薄になることもなく、各種旋律を格調の高さを保ちつつ情感豊かに歌い抜くという、ある意味では難しい剛柔のバランスのとれた演奏を実現しているのである。

かかる演奏は、まさにラフマニノフ演奏の理想像の具現化と言えるところであり、それ故に、本交響曲全集&管弦楽作品集が現在においても随一の名演であり続けるとともに、その後の演奏に大きな影響力を発揮するという普遍的な価値を有している所以であると考えられるところだ。

加えて、第2番については、それまで大幅なカットを施して演奏されていたのを史上初めて完全全曲版により演奏したものであり、第2番の真の魅力を広く世に知らしめるとともに、その後広く普及することとなった完全全曲版による演奏に先鞭をつけたという意味においても、本演奏の意義は極めて大きいものであることを忘れてはならない。

なお、前述のように、プレヴィンは、ロイヤル・フィルとともに第2番を再録音しているが、当該演奏はテンポが若干遅くなるなど円熟の名演ではあると言えるものの、若干角が取れた分だけいささか甘美さに傾斜した点が見られなくもないところであり、筆者としては、若干ではあるが本演奏の方をより上位に置きたいと考える。

音質は、1973〜1976年のいわゆるアナログ録音の完成期のものであるが、EMIだけに必ずしも十分な音質とは言い難い面がある。

もっとも、あらゆるラフマニノフの交響曲全集&管弦楽作品集中の随一の超名演集であることもあり、既にHQCD化されている第2番以外の楽曲についてのHQCD化、可能であればすべての楽曲のSACD化(第2番については、今後SACD化が予定されているとのことであり、大いに歓迎したい)を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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モントゥーのドビュッシーやラヴェルは素晴らしい。

柔らかい音色感は、生粋のフランス人でなければ表現できない。

当盤の収録曲の録音時には80歳半ばだったモントゥーであるが、熱烈なラヴコールを受けて、首席指揮者に就任したロンドン響から、気品に満ちた響きと芳醇な詩情を引き出すことに成功。

どちらかというと、軽い、さわやかな響きをもったオーケストラから、こういう音を引き出したモントゥーの力量は偉大である。

オーケストラを完全に自分の楽器にしているのだ。

ここに立ちのぼってくる香りは紛う方なくフランスのもの。

自然体の魅力にあふれ、とりわけ、《映像》の「イベリア」で顕著なように、聴き手の心の皺をのばすように、音楽が豊かに息づいているのが好ましい。

「イベリア」の音の輝きと、作為のない音楽的表現は驚くべきで、「夜のかおり」の官能的な夜の空気のつくりかたなど絶妙である。

その明るい陽ざしと手応えを同時に感じさせてくれる芸風は、実に得難いものであると思う。

全体に一つ一つの音とその動き、そしてそれが生み出す響きに深い質感と温もりがあって、それが素敵な芳香を撒き散らしながら、エレガントでしかも芯の通ったドビュッシー像を作り上げている。

《牧神の午後への前奏曲》に漲る夢幻的な詩情も見事である。

ドビュッシーの音楽本来の格調の高さと自然体の魅力に再度目を向ける意味でも、また同時にこの前奏曲のもつフランス的な感性の原点に立ち帰る意味でも、モントゥーの《牧神》をここで確認しておきたい思いである。

ふくよかな官能性と静謐な香気、自然でいて気品とニュアンスに富んだこうした演奏こそが、この作品に底流する美しい夢幻的な詩情を余すところなく描きあげるものではないだろうか。

巨匠モントゥー晩年の熟成の境地が万遍なくにじみ溢れている名演であり、やはりひとつの忘れ難い記録として掲げなければならないディスクであろう。

その音楽づくりを通じて、このフランス出身の長老指揮者が、人生と音楽を愉しむことを知っていたことを、如実に感じ取ることができるディスクになっている。

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2015年06月12日


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セルが遺した録音を俯瞰してみると、やはり古典派の演奏がことに素晴らしく、本盤に収められたモーツァルトも凡百のアルバムとは一線を画す、セルの面目躍如とした好演と言えよう。

セルの芸術が、モーツァルトと実によくフィットしており、無駄のない歯切れのよい演奏で、ウィーン風ではないかもしれないが、オケのバランスが素晴らしい。

そして、実に引き締まった筋肉質の演奏であるとともに、インスピレーションに導かれたクリスタルのような名演だ。

喜びと悲しみが表裏一体となった演奏と言えるところであり、まさに、セル&クリーヴランド管弦楽団の全盛期の演奏の素晴らしさを存分に味わうことができると言えるだろう。

セルは、先輩格である同じハンガリー出身の指揮者であるライナーや、ほぼ同世代でハンガリー出身のオーマンディなどとともに、自らのオーケストラを徹底して鍛え抜いた。

セルの徹底した薫陶もあって、就任時には二流の楽団でしかなかったクリーヴランド管弦楽団もめきめきとその技量を上げ、ついにはすべての楽器セクションがあたかも1つの楽器のように奏でると言われるほどの鉄壁のアンサンブルを構築するまでに至った。

「セルの楽器」との呼称があながち言い過ぎではないような完全無欠の演奏の数々を成し遂げていたところであり、本盤の演奏においてもそれは健在である。

モーツァルトの交響曲第35番、第40番、第41番の名演としては、優美で情感豊かなワルター&コロンビア交響楽団による演奏(第40番についてはウィーン・フィルとの演奏)や、それにシンフォニックな重厚さを付加させたベーム&ベルリン・フィルによる演奏が名高いと言えるが、セルによる本演奏はそれらの演奏とは大きく性格を異にしていると言えるだろう。

3曲ともすみずみまでコントロールされた表現であり、現代的とも言える鋭い感覚がみなぎっている。

きりりと引き締まったアンサンブルがとても魅力的で、演奏の即物性において、演奏全体の造型の堅牢さにおいてはいささかも引けをとるものではない。

テンポといい表情といい、よく整っているその中にセルの情感がテンポの動きやダイナミックな変化の中に浮かび上がってくる。

「ハフナー」交響曲の冒頭、生きのいい音楽がはじまった瞬間から、巨匠セルとクリーヴランド管弦楽団が奏でる演奏に引き込まれる。

特に、ト短調シンフォニーの共感に満ちた歌と悲愴美は音楽を豊かに色どっており、説得力が強い。

いつものセルと比較してテンポの緩急の変化が大きく、時におやっと思えるほど際立った動きをみせ、メリハリのある演奏で聴きごたえがある。

圧巻は、本CD最後に収められた「ジュピター」シンフォニーの演奏で、速いテンポで率直にあっさりと表現していて、情緒というよりは感覚的で明快な表現を志向しているようだ。

両端楽章がリズミックで威風堂々としていて、フレージングや間の取り方のひとつひとつに名人芸とも言うべき味わいがあって魅了される。

全4楽章が厳しく引き締められているが、第2楽章ではほのぼのとした温かさも感じさせる。

とりわけ、第3楽章から終楽章にかけての演奏は素晴らしく、聴いていてまさに天上にいたる心地で、天からの贈り物のようなモーツァルトの音楽を堪能させてくれる。

そして、各フレーズにおける細やかな表情づけも、各旋律の端々からは汲めども尽きぬ豊かな情感が湧き出してきており、決して無慈悲で冷徹な演奏には陥っていない点に留意しておく必要がある。

いささかオーケストラの機能美が全面に出た演奏とも言えなくもないところであり、演奏の味わい深さという点では、特に第40番については、クリーヴランド管弦楽団との来日時のライヴ録音に一歩譲るが、演奏の完成度という意味においては申し分がないレベルに達しており、本盤の演奏を全盛期のこのコンビならではの名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

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メジューエワによるシューベルトのピアノ作品集の第2弾の登場だ。

前回は最晩年のピアノ・ソナタ第19番と晩年のピアノソナタ第18番を軸とした構成であったが、今回は中期の傑作であるピアノ・ソナタ第14番とさすらい人幻想曲を軸に、晩年の傑作である4つの即興曲、3つのピアノ曲などをカップリングした構成となっている。

前回の第1弾が圧倒的な名演であっただけに、大いに期待して聴いたところであるが、本盤の演奏もそうした期待をいささかも裏切ることがない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

本演奏においても、メジューエワの基本的なアプローチは前回と変わっていないと言える。

要は、1音1音を揺るがせにすることなく、旋律線を明瞭にくっきりと描き出していくというスタンスで演奏に臨んでいるが、いささかも単調に陥るということはなく、強靱な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現力の幅は桁外れに広いと言える。

全体の造型は非常に堅固であるが、音楽は滔々と流れるとともに、優美な気品の高さをいささかも失うことがないのがメジューエワの最大の美質である。

そして、細部に至るまでニュアンスは豊かであり、その内容の濃さはメジューエワの類稀なる豊かな音楽性の証左と言えるだろう。

また、本盤に収められた各楽曲は、晩年の傑作である4つの即興曲や3つのピアノ曲は別格として、その他の楽曲についても、晩年の楽曲ほどではないものの、ウィーン風の抒情に満ち溢れた名旋律の端々には寂寥感や死の影のようなものが刻印されているが、メジューエワによる本演奏は、かかる寂寥感や死の影の描出においてもいささかの不足もなく、前述のような気高くも優美なピアニズム、確固たる造型美なども相俟って、まさに珠玉の名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

重厚堅固な構築性と自発的即興性がバランスよく結びついた弾きっぷりは、メジューエワの一層の進化・深化を物語るものであると言えよう。

これほどの名演を聴くと、メジューエワの類稀なる才能をあらためて感じるとともに、今後の更なる成長・発展を大いに期待できるところだ。

今後予定されているメジューエワのシューベルトのピアノ作品集第3弾にも大いに期待したいと考える。

音質についてもメジューエワのピアノタッチが鮮明に捉えられており、素晴らしい高音質であると評価したい。

とりわけ、DSD録音がなされたさすらい人幻想曲などが収められた2枚目のCDについては極上の高音質録音であり、今後可能であればSACDで聴きたいところだ。

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本盤には、フィンランドの歴史的な名指揮者ロベルト・カヤヌスのシベリウス録音が収められているが、カヤヌスこそは、シベリウス作品を全世界に広めたパイオニア的存在である。

いま改めて聴いてみると、いまさらのようにカヤヌスの偉大な芸術に感嘆させられてしまう。

カヤヌスはシベリウスより9歳年長であったが、シベリウスの親友であり、生涯を通じてシベリウスの作品の紹介につとめ、作曲もよくし、シベリウスがもっとも信頼する指揮者として活躍した。

しかもカヤヌスは、室内楽への創作に勤しむ若きシベリウスに管弦楽曲への作曲を奨励した人物でもある。

当時はヨーロッパの片田舎であったフィンランドから、シベリウスの作品が発信され、やがて国際的に知られることになったのは、ひとえにカヤヌスの功績である。

シベリウスは、1930年代、「誰を指揮者に推薦するか」という英コロムビアからの問い合わせに、即座に「カヤヌスを」と推薦している。

コロムビア社に異存のあるわけもなく、カヤヌスはシベリウスの7つある交響曲のうちの「第1」「第2」「第3」「第5」の4作品を、ロンドン交響楽団とともに録音している。

「第3」「第5」を録音した翌年の1933年にカヤヌスは亡くなっているので、もう少し長生きしていれば、ほかの曲も入れてくれていただろう、と思うと残念だ。

ここに集められた録音は、作曲者直伝とも考えられる、もっとも正統的な解釈の演奏であり、骨の太い演奏で、ただの歴史的な記録に終わらない、本物の演奏芸術である。

シベリウス在世中の空気を生々しく肌で感じた音楽であるとともに、同時代の精神を映した鏡である。

カヤヌスは、シベリウスの書いた何気ないフレーズや複層的な和音の積み重ねに命を吹き込む特別の才能を持っていたのだ。

現在のシベリウスの演奏は、すべてがカヤヌスの芸術の後裔といってよく、改めてシベリウスの音楽から多くを発見することになろう。

これらの演奏は、いずれも凄いほどの意欲と共感に貫かれている。

交響曲第2番は端的で素直な表情とラプソディックな趣を巧みに交錯させており、音楽が軽やかな運動性にみたされているが、その底流には非常な緊張があり、第3楽章など各部に渾身の力が投入され、終楽章も気宇の大きいロマン的な表現で妥当な解釈といえる。

カヤヌスの「第2」については、SP時代に夢中になったという柴田南雄氏が『名演奏のディスコロジー』(音楽之友社、1978年)で絶賛しているので、ここに紹介しておく。

「出だしの、アタマが休みの弦のリズムのクレッシェンドを木管が受け止める呼吸の絶妙さとか、スケルツォのトリオの変ト長調のオーボエの粘り方とか、フィナーレへの移行部の、耐えに耐えた力がついに解き放たれておもむろに巨人が歩きはじめる、といった様相など、カヤヌスほど確信に迫り、本質を衝いた表現に再び出会ったことがない」

併録の管弦楽曲も名演で、《ベルシャザール王の饗宴》の各曲でのコンセプトの明快さと鮮やかさも素晴らしいの一語に尽きる。

《カレリア組曲》では「バラード」が録音されなかったのは残念だが、「間奏曲」と「行進曲風に」は、いまもこれを凌ぐ演奏はない。

これらの演奏を聴くと、シベリウスは何と理想的な指揮者を得たのだろうか、と思う。

いや、それよりも驚嘆するのは、カヤヌスという巨大な存在が、1930年代に、いま聴いても新鮮な音楽をつくっていたという、それこそ驚くべき事実である。

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2015年06月11日


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これは凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、テンシュテット&ロンドン・フィルの1990年におけるマーラーの交響曲第1番のライヴ録音が発売されたのはクラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、それ以前の演奏についても、いささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げていたが、1986年以降の演奏は、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開することになるのである。

そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

テンシュテットは、マーラーの交響曲第1番を本盤と同年の1990年にもシカゴ交響楽団とともにライヴ録音しており、当該演奏の方がオーケストラの優秀さも相俟って最高峰に君臨する名演であるというのは自明の理ではあるが、本盤に収められた交響曲第1番の演奏も圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。

遅めのテンポで、細部まで抒情的に歌い込んだ美しい演奏で、何時にも増してテンポを細かく揺らし、細部の表現にこだわり音楽に没入していくが、テンシュテットの精妙な表現と一体化するロンドンフィルが見事で、冒頭から緊張感が途切れることなく、音楽はどこまでも自然に流れ高揚する。

喉頭がんの発病による活動休止から明けてのテンシュテットは、以前にもまして独特の凄みが加わったといわれるように、このフィナーレでも異常な緊迫感と熱気をはらんだ演奏内容となっている。

オーケストラは必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

カップリングのグリンカはテンシュテット初のレパートリーで、喉頭がんを発病する以前のもの(1981年)であるが、こちらも燃焼度の高い爆演を展開している。

なお、ボーナストラックには、テンシュテットがマーラーについて語る貴重なインタビューも収められている。

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独自の奏法やその風貌、そして芸術観だけでなく生涯そのものでもオリジナリティを貫いたグレン・グールドが、わずか30年足らずのキャリアの期間にバッハだけでもディスク44枚分の録音及び録画を遺していたというのは驚異的な事実である。

それはまたグールドが如何に対位法の音楽やそのテクニックに傾倒していたかの証明でもあるだろう。

そしてグールドはその迷路のような狭間に分け入って、それぞれの声部をより効果的に感知させる怜悧で不思議なピアノ奏法を編み出した。

グールド自身が意識していたか否かに拘らず、その強烈な個性がともすれば息詰まりになっていたバッハの音楽に新しい生命を吹き込んで、その後の演奏家に幅広い解釈の扉を開いた功績は大きい。

一方で彼は演奏の一回性に疑問を持っていた。

言うならばそれぞれのコンサートごとに変化する、あるいは聴衆を満足させる演奏ではなく、逆に聴衆を介さない自己の最大限の集中力の中での再現を試みようとした。

少なくとも彼は1964年以降公衆の面前から姿を消した。

音楽家の中には録音芸術を虚構として嫌う人達も少なくないが、彼は果敢にも録音を通してのみその本領を発揮しようとした新時代のピアニストであった。

そうした意味ではこの膨大な記録に彼の直截的なメッセージが託されていると言ってもいいだろう。

とにかく現段階で入手可能なグールドのCBC、コロムビアへのバッハ録音が網羅されている。

中心になるのは曲目構成、ジャケットと共に初出時のオリジナルLPを再現した27枚のCDで、このうちにはカップリングの関係でベートーヴェンの2曲の協奏曲も含まれている。

またグールドがセンセーショナルなデビューを飾ったゴルトベルク変奏曲に関しては1954年のCBCラジオ放送盤、1955年のモノラル盤及び同録音の擬似ステレオ盤、1959年のザルツブルク・ライヴ盤と1981年のステレオ・デジタル盤、1982年のティム・ペイジとの対話での抜粋、さらには1955年のスタジオ・アウトテイク録音、そしてとどめにDVD3枚目の1964年テレビ放送用録画及び6枚目の1981年のモンサンジョン監修動画のなんと9種類が収められている。

全44枚のディスクのうち6枚はDVDで、初出のものは2枚目の「Well-Tempered Lisner」と題されたジャーナリスト、カーティス・デイヴィスとの対話が演奏の間を縫ってトラック4、7、9、11に収められている。

またこのDVDではグールドがモダン・チェンバロを弾く映像も興味深い。

それ以外の5枚は既出だが廉価盤で、しかもまとまって手に入るのが嬉しい。

また既に良く知られているブリューノ・モンサンジョン監修による彼自身との対話では、グールドの哲学がどのように実際の演奏に昇華されていくかが見どころだ。

ボックスの装丁は買うほうが気恥ずかしくなるような立派な布張りで、ディスクの枚数の割には随分大きく、ずっしり重いコレクターズ仕様。

ハード・カバー装丁で上質紙の192ページほどある横長のライナー・ノーツの巻頭に、ミヒャエル・シュテーゲマンの「グールド、21世紀のバッハ」と題されたエッセイを英、独、仏語で、全ディスクのデータ、オリジナル解説、グールドのバイオグラフィーは英語で掲載し、随所にカラー及びセピア色の写真が満載されていて殆んど単行本の外観と内容を持っている。

それぞれのジャケットは紙製だが折り返しのある丁寧な作りで、ディスクの配列が背中を向けた横向き収納なので、ボックスを縦に置くと目当ての曲目が容易に取り出せる。

コストパフォーマンス的にもグールド・ファンには見逃せない企画だ。

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classicalmusic at 20:58コメント(0)トラックバック(0)バッハグールド 

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ティタニア・パラストにおける定期演奏会の実況録音であり、場内の咳ばらいが異常に多いが、そんなことが気にならないほど演奏は素晴らしく、音も当時のものとしてはかなり良い。

フルトヴェングラーの数多いCDの中でも、特に注目すべきものであろう。

ブラームスの「第3」は、ブラームスを聴くよりはフルトヴェングラーの名人芸を味わうべき演奏だと思う。

彼は音楽を完全に自己の個性の中に同化しており、テンポの極端な流動感、ドラマティックな設定、スコアにないティンパニに追加など、さながらフルトヴェングラー作曲の交響曲を聴く想いがするほどだ。

ことに驚くべきは、フレーズとフレーズの有機的な移り変わりで、その密接な血の通わせ方は際立って見事であり、これだけ自由自在な表現なのにもかかわらず、作り物の感じが皆無で、音楽が瞬間瞬間に生まれ、湧き起こってくる。

まさにフルトヴェングラー芸術の神髄ではなかろうか。

第1楽章の冒頭からして以上のことは明らかであり、第1主題の提示から第2主題の登場にかけての細かいテンポの流動は、ワルター&ニューヨーク・フィルにも匹敵するほどで、これでこそこの部分の音楽は生きるのである。

何とも言えぬ情感に浸りきる第2主題を経て、音楽は再び冒頭に戻されるが、第1主題がいっそうの情熱を持って反復されるところ、単なる機械的な提示部の繰り返しでないことがわかるであろう。

激しい気迫で追い込んでゆく展開部の加速は雄弁なドラマであり、その終わりの部分から再現部初めにかけての、ものものしいテンポの落とし具合は、沸き立つコーダの高まりとともに、音楽自体の呼吸と完全に一致して少しも違和感もない。

スコアのフレージング指定を改変して始まる第2楽章もフルトヴェングラーの独壇場だ。

ブラームス・ファン以外にはかなり重荷なこの音楽も、彼の手にかかると思わず聴き惚れてしまう。

ピアニッシモは強調されているが、全体としては強めで豊かな音楽になっており、漸強弱の指定があると、待っていましたとばかり強調する。

これはフルトヴェングラーとしても珍しい例であり、テンポの激変といい、旋律の思い切った歌といい、ブラームスのひそやかさを愛する人にはいささかの抵抗があるかもしれない。

第3楽章は中間部の後半以後のほとばしるような憧れの情が聴きもので、中でも再現部でテーマが第1ヴァイオリンに歌われる部分はほとんど泣いているかのようだ。

第4楽章は最もフルトヴェングラー的な部分であろう。

主部だけでもテンポが4段階に激しく変わり、同じ爛▲譽哀蹲瓩涼罎妊▲鵐瀬鵐討らプレストまでの差があり、音楽的な常識からは考えられないことであり、彼だから許されるというべきであろう。

展開部の熾烈な迫力などは凄まじさのかぎりだし、部分的には見事なところも多いが、実演を直接聴いているのならともかく、CDになるとやや極端な感じが否めない。

「マンフレッド」序曲も素晴らしい名演で、何よりも歌い方の豊かさにまいってしまう。

オーケストラの響きが満ち溢れるようであり、すみずみにまでフルトヴェングラーの血が通い、感情の波が大きく拡がってゆく。

フォルトナーはドイツの前衛的な作曲家で、このヴァイオリン協奏曲は1946年の作であり、現代音楽的な理屈っぽさを持つが、ドイツの作曲家ならではの心を打つ場面にも欠けてはおらず、だからこそフルトヴェングラーも採り上げたのであろう。

この曲の初演者でもあり、献呈もされたタッシュナーのヴァイオリンは線が細いが、高音に意味と魅力があり、ポルタメントが心をそそる。

音楽を身近に感じていることがよくわかる演奏だ。

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classicalmusic at 00:36コメント(0)トラックバック(0)フルトヴェングラーブラームス 

2015年06月10日


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新ウィーン楽派とフランス印象派というグールドらしからぬ組み合わせに聴かずにはいられないアルバムである。

いずれも曲の骨格がはっきりと分かる素晴らしい演奏だ。

特に素晴らしいのが、クルシェネクのピアノ・ソナタ第3番とラヴェルの《ラ・ヴァルス》だと思う。

まず、クルシェネクのピアノ・ソナタ第3番だが、作曲者がこの演奏を評して、『プロコフィエフ作品のような「ヴィルトゥオーゾ作品」と解釈している』と非難したことで有名だ。

クルシェネクは自身の正統的な解釈を後世に残すべく、ピアニストのジェフリー・ダグラス・マッジに演奏し残させているという徹底的な否定ぶりだったが、結局マッジの演奏は埋もれ、グールドのこの演奏が光を浴びている結果となっているのが、なかなか皮肉である。

ベルクのピアノ・ソナタは、ポリー二の名演があるにも拘らず、この乾いた音が織り成すヨーロッパの危機感のようなものは、やはり尋常ではない。

バッハの世界もグールドなら、これもまたグールドの真骨頂ではないだろうか。

本来、聴きにくいはずの近代ピアノ曲ではあるが、そうした聴かず嫌いの人のためにも、こういう演奏が大切であり、凡庸な現代の演奏を聴くよりも遥かに充実感があるので、現代人にとってはもしかしたら必須の演奏かもしれない。

次に《ラ・ヴァルス》であるが、本当に筆舌につくしがたい凄い名演で、筆者としては全ピアニストの演奏の中でもトップに掲げたい。

おそらく過去に聴いてきた音楽の蓄積がある人ほど、このグールド編曲版を聴くなり、言葉を失うほどの衝撃を受けるだろう。

今後、この演奏を思い浮かべることなく「1台ピアノ版の《ラ・ヴァルス》」の演奏を聴くことは2度とできなくなる危険もある。

本来、演奏に「決定版」などありえるはずはなく、どれほど楽譜に忠実で、なおかつ音楽に奉仕するかたちでの解釈であろうと、奏者が変われば楽器から出てくる音や響きは十人十色で、だからこそ、どんな曲でも違う奏者で聴いてみる価値がある。

とはいえ、《ラ・ヴァルス》に限っては特殊な事情もあり、ストラヴィンスキーが《ペトルーシュカ》のアレンジにあたってアルトゥール・ルービンシュタインからのアドバイスを得たのに対し、ラヴェルは独力で編曲作業を進めた。

オーケストレーションの天才でも、あいにくピアニストとしてはイマイチだったので、奏者がその才能(=イマジネーション)次第でどれだけオーケストラ的な音を楽器から引き出すことができるかという点について、逆にラヴェルは頭が固かったようだ。

すべてを書法のレベルで処理しようとし、だからこそ「楽譜が真っ黒に見えるほど」の音符を全頁にちりばめ、しかも譜面上で3種類もの選択肢を残したのだ。

《夜のガルパール》の「スカルボ」を上まわる音の多さに惹かれ、近年は特に腕自慢の若いピアニストがよくこの曲を演奏する。

確かに、リズムやテンポを(たいていは)崩しながらでも、目まぐるしい指さばきと大音量だけでもそれなりに派手な演奏効果はある。

だが、原曲での「まばゆいシャンデリア、人々のざわめき、勢いを増していくワルツ、それらのすべてが渦に飲みこまれていく」をきちんした説得力で聴かせることは、編曲がまずいせいもあり不可能に近い。

グールドの《ラ・ヴァルス》は、冒頭からしてラヴェルの「音つくり」とはまったく違うが、聴いてしまうとまさに「これしかない」と思わされる。

かといって、ホロヴィッツの録音を聴いたピアニストたちがラフマニノフ協奏曲などでの「ホロヴィッツ版」を弾きたくて楽譜を探し求めたような騒ぎが、いまさらこのグールド版で起こるとも考えにくい。

編曲まで含めて、グールドだけの確固たるオリジナリティがこの演奏に息づいているからだ。

グールドを知る人はグールドのタッチが近現代音楽の曲に向かないと思う人はいないと思うが、むしろピッタリなくらいである。

にもかかわらずグールドは近現代音楽の録音をほとんど残していない。

それがグールドの意思であり、アイデンテティなのだとも思う。

にもかかわらず弾き残さずにはいられなかったこれらの曲の素晴らしさに、グールドの人間らしさを感じてしまうのだ。

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メジューエワが、ショパンやシューマンなどの数々の録音に引き続いて、シューベルトのピアノ作品集に着手した時期の録音だ。

素晴らしい活躍を続けるロシア出身の実力派メジューエワは、本盤においても、曲想を精緻に描き出していくという基本的なアプローチは変わっていない。

1音1音を揺るがせにすることなく、旋律線を明瞭にくっきりと描き出していく。

ピアノ・ソナタ第18番の第2楽章などにおける強靭な打鍵も女流ピアニスト離れした力強さが漲っているとも言える。

この演奏を聴くとシューベルトは歌の作曲家であると同時にリズムの作曲家でもあることを思い知らされる。

したがって、全体の造型は非常に堅固であるが、音楽は滔々と流れるとともに、優美な気品の高さをいささかも失うことがない。

そして、細部に至るまでニュアンスは豊かであり、その内容の濃さはメジューエワの類稀なる豊かな音楽性の証左と言えるだろう。

また、シューベルトの作品には、ウィーン風の抒情に満ち溢れた名旋律の数々が聴かれるが、その背後には寂寥感や死の影のようなものが刻印されており、これをどの程度表現できるかに演奏の成否がかかっている。

メジューエワは、繊細優美で愉悦感に溢れる音楽づくりは言うまでもなく、シューベルトの音楽のもうひとつの要素である寂寥感や死の影をそこはかとなく表出してゆく。

とりわけ、最晩年のピアノ・ソナタ(第19〜21番)の底知れぬ深みは、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタにも比肩し得るほどの高峰にあるが、これを巧みに表現し得た深みのある名演として、内田光子盤が掲げられる。

メジューエワによる第19番は、年功から言ってさすがに内田光子の域に達しているとは言えないが、それでも、寂寥感や死の影の描出にはいささかの不足もなく、前述のような気高くも優美なピアニズム、確固たる造型美などを総合的に鑑みれば、内田光子盤にも肉薄する名演と高く評価したい。

確固たる造型に支えられた線の太さと、千万変化するタッチを駆使した玄妙な表現が一体化した恐るべきシューベルトで、ここに収められているどの曲も、傑作であることを、深く納得させてくれる演奏だ。

録音もメジューエワのピアノタッチが鮮明に捉えられており、素晴らしい高音質である。

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classicalmusic at 20:43コメント(0)トラックバック(0)シューベルトメジューエワ 

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本盤には、フィンランドの歴史的な名指揮者ロベルト・カヤヌスのシベリウス録音が収められているが、カヤヌスこそは、シベリウス作品を全世界に広めたパイオニア的存在である。

いま改めて聴いてみると、いまさらのようにカヤヌスの偉大な芸術に感嘆させられてしまう。

カヤヌスはシベリウスより9歳年長であったが、シベリウスの親友であり、生涯を通じてシベリウスの作品の紹介につとめ、作曲もよくし、シベリウスがもっとも信頼する指揮者として活躍した。

しかもカヤヌスは、室内楽への創作に勤しむ若きシベリウスに管弦楽曲への作曲を奨励した人物でもある。

当時はヨーロッパの片田舎であったフィンランドから、シベリウスの作品が発信され、やがて国際的に知られることになったのは、ひとえにカヤヌスの功績である。

シベリウスは、1930年代、「誰を指揮者に推薦するか」という英コロムビアからの問い合わせに、即座に「カヤヌスを」と推薦している。

コロムビア社に異存のあるわけもなく、カヤヌスはシベリウスの7つある交響曲のうちの「第1」「第2」「第3」「第5」の4作品を、ロンドン交響楽団とともに録音している。

「第3」「第5」を録音した翌年の1933年にカヤヌスは亡くなっているので、もう少し長生きしていれば、ほかの曲も入れてくれていただろう、と思うと残念だ。

ここに集められた録音は、作曲者直伝とも考えられる、もっとも正統的な解釈の演奏であり、骨の太い演奏で、ただの歴史的な記録に終わらない、本物の演奏芸術である。

シベリウス在世中の空気を生々しく肌で感じた音楽であるとともに、同時代の精神を映した鏡である。

カヤヌスは、シベリウスの書いた何気ないフレーズや複層的な和音の積み重ねに命を吹き込む特別の才能を持っていたのだ。

現在のシベリウスの演奏は、すべてがカヤヌスの芸術の後裔といってよく、改めてシベリウスの音楽から多くを発見することになろう。

これらの演奏は、いずれも凄いほどの意欲と共感に貫かれている。

交響曲第1番は冒頭から、もう情念が迫ってくるような激しさをもち、楽員が凄まじい熱意をもって演奏していることがわかる。

そのひたむきな意欲が音楽的な推進力となって示されるさまは、爽快としかいいようがなく、第1楽章の再現部など、燃えたぎる灼熱の音楽である。

第2楽章もスケールの大きさとデュナーミクの自然さがあり、一句一節が意味深く感じられ、第3楽章のロマンの濃密なこと、独自のアゴーギクをもつことも特筆しておきたい。

クレッシェンドやディミヌエンドがテンポの緩急と見事に連動しているのも、カヤヌスの魅力である。

第1番の終楽章でもわかることだが、フレージングとアーティキュレーションが明晰で、すべてが作品を生かし切っている。

当時のオーケストラを、よくぞここまでドライヴしたともいえるが、そこにカヤヌスの不退転の決意が感じられる。

2曲の管弦楽曲もそれぞれが名演で、《ポホヨラの娘》の多様な表情と張り詰めた力感も素晴らしいの一語に尽きる。

さらに《タピオラ》の磨かれた弦の美しさ、構造的な理解の深さ、強い意力をもった表情は、当時としてはかなり前衛的な作品の適切な表現と感じられる。

これらの演奏を聴くと、シベリウスは何と理想的な指揮者を得たのだろうか、と思う。

いや、それよりも驚嘆するのは、カヤヌスという巨大な存在が、1930年代に、いま聴いても新鮮な音楽をつくっていたという、それこそ驚くべき事実である。

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2015年06月09日


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私事で恐縮であるが、海外放浪、ボランティア、そして大企業から吹けば飛ぶよな(実際に飛んでしまった)零細企業までを渡り歩いた個人的経験から、最近の一部マスコミの木を見て森を見ない、あまりに近視眼的な報道に惑わされないために、誠に僭越ながら時事に関する個人的見解をこの機会に述べておきたいと思う。

ようやく抜け出しつつあるが、日本は長い経済のスランプに苦しんできた。年間の自殺者数は3万人を越えるという痛ましいデータもある。企業倒産も高水準だ。悲観論者の評論家の中には、明日にも日本が沈没してしまうような予測をする方々もいる。

だが、どうであろうか? 悲観論者がお先真っ暗だといっても日本のGDP(国内総生産)は500兆円近くもある。2位の中国はこれから生産者人口が減少していく見込みなので、世界最強国である米国に次ぐといってよい。

なるほど、国家財政は健全とは言い難い。国債をはじめ国の抱える借金は1000兆を越える。だが、国民の預金は1400兆円もある。もちろん世界一の資産国だ。バブルに浮かれて不良債権だらけになった銀行にしても、米国国債や米国の主要株式を大量に保有している。

あり得ぬ話だが、仮に銀行がこの米国債を叩き売れば、米国経済は大混乱に陥るだろう。むやみに卑屈になるほど弱い国どころか、なお十二分に世界屈指の経済大国なのである。

生活の面でもそうであろう。特に技能もなく、高給取りではないOLが頻繁に海外旅行に行ける国、長期ローンを組まされるにせよ、20代のサラリーマンが高級外車を乗り回せるような国はほとんどない。

なるほど不安や不満はあるものの、現在の仕組みをすべて叩き壊すのには程遠い状況だ。悪事を働き捕まった中国人が「カネはあるし、(捕まっても)罪は軽く、この国は天国だ」と嘯いたそうだが、あながち的外れではない。そのような豊かな国のシステムがどんでん返しのように変わるわけがない。

今後予測されるのは世の中が自由放任よりも秩序重視へと動いていくということだ。

その象徴といえるのが、安倍晋三首相の自民党による長期政権の維持である。自民党政治家としては珍しく都会的なこの政治家の本質は選別の容認である。わかりやすく言えば、優勝劣敗、弱肉強食の方向を支持している。やむを得ないものと是認している。

一方で、自民党の中ではもの分かりの良い、共存共栄、共生がすべて、皆で一杯やろう式の田中角栄(元首相)型の勢力は日に日に衰えている。さらに先の衆議院選挙からも明らかなように、人すべて平等を唱える共産党や社民党などの左翼(特に社民党)は有権者からほどんど見限られてしまった。

この流れはしばらく変わるまい。歴史とはつまるところ緊張と弛緩の繰り返しであり、ある程度行き過ぎて、あれこれと弊害が出るまではベクトルは逆には向かないからだ。現状を見る限りでは、このベクトルが反転しそうな気配は感じられない。ごく少数の人や、ケチをつけ不平を並べることを日々の生業にしている人々を除けば、誰しも現在のシステムを根こそぎ引っ繰り返そうとするほどの不満は抱いていないからだ。

私が常々参考にしているのは、客観的でわかりやすい解説の池上彰氏による、テレビ朝日の「池上彰解説塾」である(月曜21時より)。やたらと国民の不安を煽る「たけしのTVタックル」は精神衛生上良くない(事実月曜23時15分からに繰り下げになった)。

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classicalmusic at 22:41コメント(0)トラックバック(0)筆者のこと 

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「第7」はマゼールとウィーン・フィルの美質と威力を最大限に発揮し、それをマイクが見事に捉えた名レコードである。

同曲はドヴォルザークの全交響曲の内でも、その恩師ブラームスの影響が最も大きく開花した傑作で、その後の「第8」「第9」に見られる民族的抒情性が抑制され、構築的な、よく書き込まれた作品となっている。

マゼール&ウィーン・フィル盤は、この曲のそうした側面を見事に引き出した名演。

特に第1楽章での、流麗なフレーズと、とつとつとしたブラームス的な後ろから押し上げる音型との対比は鮮やか。

冒頭からマゼールの表現は極めて繊細で、細かい部分まで磨き抜かれており、いつものマゼール調だな、と思う間もなく、分厚いホルンの強奏がすばらしいメリハリの効果を伴いつつ登場するに及んで、これがマゼールとウィーン・フィルの協同作業であることを思い知るのである。

マゼールはクリーヴランド管弦楽団を振るときとウィーン・フィルを振るときでは明らかに音楽作りが違うのだが、この「第7」の場合は特にそうで、テンポも急がず、じっくり運んでおり、全体の音色感の味の濃さはウィーン・フィル以外の何者でもない。

こくのある金管、感受性ゆたかな木管群、そしてしなやかで上品な弦楽器、このような最上等のオケを前にしたマゼールは、ちょっとしたルバートにいつもの彼からは考えられない懐かしい情感を漂わせるのだ。

緩徐楽章に入るとウィーン・フィルの音色美はいよいよ勝利を収め、マゼールのキメの細かな表情づけがウィーン・フィルののびやかな音色と相俟って美しい。

ボヘミアの森の雰囲気満点なウィンナ・ホルン、純粋なみずみずしさの限りを尽くすヴァイオリン、牧童の吹く笛のようなオーボエ、チャーミングなフルート、そのいずれもが大変な耳の御馳走となる。

そして何よりも奏者ひとりひとりが身体に持っている歌! それは指揮者マゼールを超えて聴く者の胸を打つのである。

スケルツォからフィナーレにかけては、オケの威力とマゼールの棒の冴えが一体となって、管弦楽演奏の醍醐味を満喫させてくれる。

マゼールの表現の細かさは、スケルツォ冒頭のセカンド・ヴァイオリンの生かし方ひとつ、ファースト・ヴァイオリンの敏感、強烈なクレッシェンド、デクレッシェンドひとつをとっても明らかだが、ウィーン・フィルも水を得た魚のように力を増し、フォルティッシモの鳴り切り方は天下一品だ。

最高の充実感を誇り、決してうるさくなく、そしてギクシャクした情熱を繰り返しぶつける終楽章まで、一貫してブラームスの「第3」を思わせるような濃厚な演奏に徹して成功している。

しかもフィナーレに入ると弦もティンパニも精神を燃えたぎらせて、少しも綺麗事でない迫力を鳴り響かせる。

これでこそドヴォルザークは生きるのであり、その点では往年のケルテスとの《新世界より》以来ではあるまいか。

そしてこのようなトゥッティの分厚さの中を泳ぐ木管ソロたちの魔法の魅惑、チェロやヴィオラの訴え、特にフィナーレ冒頭の何というチェロのエスプレッシーヴォ!

それらをまとめるマゼールの表現もさらに巨匠性を加え、語りかけるようなテンポの動きを与えながら全曲のクライマックスに到達するのである。

一見個性的だが、筆者に「第7」の魅力を知らしめてくれた名録音であり、この曲の本質をよく捉えた唯一無二の超名演と評しても過言ではあるまい。

併録されている「第8」については、他にもセル、カラヤン、クーベリックなどによる名演盤が競合しており、必ずしもマゼール盤が随一の名演とは言えない。

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classicalmusic at 20:42コメント(0)トラックバック(0)ドヴォルザークマゼール 

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フルトヴェングラーが録音したシューマンの交響曲は2曲だけであり、この「第1」はハイドンの「V字」やベートーヴェンの「コリオラン」序曲とともにミュンヘンのドイツ博物館ホールで行われた演奏会の実況である。

シューマンの「第1」にはクレンペラーの素晴らしいCDがあり、初めの2つの楽章はさすがのフルトヴェングラーといえども一籌を輸するが、スケルツォ以後は両雄相譲らぬ名演と言えるところであり、しかも演奏スタイルはまったく違うのである。

第1楽章の序奏部からして、フルトヴェングラーの表現は雰囲気満点だ。

ことに主部に向かって盛り上がってゆく時の猛烈な気迫は天下一品といえようし、展開部終わりのクライマックス設定も物凄いの一語に尽きるが、楽章全体として考えると、フルトヴェングラーの気持ちは、まだ充分に燃えきっていない。

したがって、コーダの収め具合など、彼の実演としては堪能しきれないものがあり、この結尾部の途中に現れる〈名残の感情〉もクレンペラーのほうがずっと美しいし、リズムの抉りや金管、木管のクリアーな表出においても、かなり緻密さを欠くようだ。

第2楽章のラルゲットは良いテンポで、弦のレガート奏法がきわめて情緒的であり、中間部の頂点における凄絶なリズムや推進力も見事であるが、前楽章同様、やや彫りの浅い部分があって、フルトヴェングラーとしては多少の物足りなさを感じさせる。

ところが、スケルツォに入るや、演奏旅行中のオーケストラと指揮者は、俄然ぴったりとした意気の投合を見せ始め、ミュンヘンの聴衆を興奮のるつぼに巻き込んでゆく。

この迫力は普通の音力ではなく、人間の発揮し得る、ぎりぎりの精神が生んだものだ。

スタッカートの音型が低弦から起こって、ヴィオラやファイオリン・パートへと進む第2トリオの、驚くべきクレッシェンドはどうだろう。

この部分の神技を聴くだけでも価値のあるCDといえないだろうか。

その後の委細構わぬ進行も痛烈で、フルトヴェングラーが先かウィーン・フィルが先か、ともかく両者の気概はこの瞬間、まったく1つになって、スコアの上を吹きすさぶのである。

第1トリオの豊かな雰囲気も最高で、途中に出現するフェルマータの後、チェロとコントラバスの弱音を思い切ったフォルテで響かせるなど、ことによったら舞台の上のインスピレーションによって行われた即興ではあるまいか。

そして最後の第4楽章ではますます脂がのってくる。

短い序奏を区切る休符をうんと長く取って、次の第1主題のアウフ・タクトをこの上なくゆっくりと始める。

考えようによっては、思わせぶりたっぷりな仕掛け芝居といえよう。

フルトヴェングラーはしばしば意識して芝居をし、聴衆もそれを喜び、かつ期待していたのだと思うが、実演だからこそ許されるというべきか。

したがって、CDを聴くわれわれも、フルトヴェングラーの呪縛の中に自らのめり込んでゆかなければならない。

提示部を反復する際の一番カッコにおける、音楽が停止してしまうようなリタルダンドは、いっそう鮮やかな大芝居であろう。

ピチカートを合の手として、2本ずつのオーボエとファゴットがスタッカートで上昇下降する第2主題は、たいていの指揮者がテンポを速めるが(クレンペラーのような、イン・テンポ主義者でさえも)、フルトヴェングラーは同じ速度で進める。

彼の流動の多い表現からして、ここで第2主題を速めることは造型の破壊につながるからだ。

それにしても、この楽章のフルトヴェングラーは自由自在であり、ネコがネズミをもてあそうぶように、シューマンが完全に彼の自家薬籠中のものと化して、音楽が大揺れに揺らされる。

しかし、地にしっかりと足がついているので、いくらやっても決して嫌味ではなく、むしろ面白い。

そして、ついにコーダの、最高のクライマックス・シーンが現出する。

デモーニッシュな金管の最強奏、アッチェレランドによる嵐の気迫はこの世のものとも思えず、手に汗握るうちに、やがてフルトヴェングラー独特の、大きく息をつく間を伴った和音によって、さしもの演奏も終わりを告げるのである。

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2015年06月08日


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フルトヴェングラーによるフランクの交響曲の名演と言えば、衆目の一致するところ1953年の英デッカ盤であると考えるが、本盤のグランドスラムによる見事なLP復刻に接して、この1945年盤も1953年盤に決して引けを取らない名演であることを思い知った。

「フランスのブラームス」とも評されたフランクの交響曲を、偉大なブラームス解釈者であり、最もドイツ的音楽性を具現したフルトヴェングラーが指揮したこの録音は、フランクの作品の中に流れるドイツ的要素を強く前面に押し出した名演奏となっている。

第1楽章の第1主題に向けてのハチャメチャなアッチェレランドはいかにもやり過ぎだとは思うが、テンポ設定の思い切った変化やダイナミックレンジの幅広さ、金管楽器の最強奏や低弦によるドスの利いた重低音のド迫力、そして情感の豊かさなどを織り交ぜつつ、自由奔放と言ってもいいくらい夢中になって荒れ狂う。

それでいて全体としての造型をいささかも損なうことがなく、スケールの雄大さを失わないのは、フルトヴェングラーだけがなし得た天才的な至芸と言えるだろう。

いちばん良いのは第2楽章で、あっさりした表情づけが、かえって寂しさを感じさせるからである。

曲の最後に美しい中間部の主題がロ長調で再現されるあたりの余情は、その最たるものであり、何でもなく奏されるので、いっそう心を打つ。

それにしても、ナチスドイツの敗色濃厚な中で、敵国であるフランス音楽(フランクはベルギー人であるが)を堂々と演奏するフルトヴェングラーの反骨精神には、ほとほと感心させられる。

他方、モーツァルトの第39番も名演で、一口に言えば、スケールの大きい、ベルリン風のモーツァルトだ。

さすがのフルトヴェングラーも、モーツァルトではフランクのように荒れ狂ったりはしない。

この点は、モーツァルトの本質をしっかりと捉えていたことの証左であろう。

オーケストラの鳴りっぷりは重々しく、暗く、厳しく、しかし弦はよく歌い、この指揮者の音楽哲学がベートーヴェンを原点としていたことを如実に証明するようなモーツァルト演奏ではある。

しかし、「それが何だ!」と、胸を張って主張できるような感動がこのCDには刻まれており、音楽とは何と複雑で、奥行きの深い芸術であることであろうか!

それにしても、この荘重たるインテンポから漂ってくる深みは、何と表現すればいいのだろうか。

まさに、天才だけに可能な至高・至純の境地と言えよう。

第1楽章の出は猛烈なエネルギーで、ここには驚くほどの歌と、まるでベートーヴェンのような響きがあり、導入部最後にはものものしいリタルダンドがかけられる。

主部もカロリー満点、強靭にリズムが刻まれ、前進力もあり、コーダの弦は熾烈とさえ言えるところであり、そして最後はアッチェレランド気味にすごい高まりを見せる。

第2楽章もピアニッシモの深刻な感情移入、フォルティッシモの心からの叫び、というように表現の幅が広い。

メヌエットにおけるフルトヴェングラー式のアインザッツ、フィナーレ最後の高揚感など、いかにもこの指揮者らしい味わいである。

グランドスラムによる復刻も最高で、この当時のものとは言えないくらい鮮明なものであり、既発売CDと、今回のグランドスラム盤の音質の差は大きいと言える。

重厚なオーケストラの低音も見事に捉えられているし、最弱音の繊細は響きもかなり鮮明に捉えられている。

それぐらい、この英HMV盤のLPから復刻された本CDの音質は素晴らしく、改めて、フルトヴェングラーの芸術の真の魅力にのめり込んだ次第である。

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鬼才ケーゲルが解き明かしてみせたシェーンベルクの奥義。

ケーゲルは、現代音楽に造詣が深く、数多くの名演を遺しているが、それらの中でも、シェーンベルクの「モーゼとアロン」は、過去のあらゆる演奏の中でも最高の出来映えを示している。

ケーゲルの演奏は、スコアに記された音符の背後にあるものに徹底してメスを入れ、楽曲の心眼とも言うべき精神的な深みに鋭く切り込んでいくとともに、それらを現代人の持つ感覚を持って、一切の情感を排して冷徹に描き出すという途轍もない凄みを有している。

ひとたびこのCDを再生するや、シェーンベルクの音楽の真剣で凄まじい気迫に圧倒され、溢れ出る豊かな音楽性と計算されつくした見事な構築美、それにこの上なく高潔な魂の存在に胸を打たれ、たちまちその虜になってしまうだろう。

「モーゼとアロン」はそのような途方もない作品であり、その偉大さを曇らせることなくわれわれに伝えてくれるのが、このケーゲルによる演奏なのである。

ケーゲルは、いわば現代音楽のプロとも呼べるような存在であったが、この難しい音の構成物を正確に技術的に処理し、再現する能力の優秀さはもちろんのこと、シェーンベルクの音楽特有の精神の高さ、厳しさ、純正さを演奏の隅々まで浸透させていく音楽家としての資質には、頭の下がるものがある。

この作品は、モーゼは神の声にしたがい、エジプトに囚われているイスラエル人たちを連れ出し、約束の地へ向かわせるというのが話の大筋だが、エジプトを出た一行はシナイ山の麓に駐留し、モーゼはひとりで神の啓示を受けに山に登って行く。

しかし40日経っても戻ってくる気配がないので、不満を抱いた民衆が反乱を起こす。

この場面は、とりわけ作曲に力が込められていて凄い。

第2幕第3場面の「金の仔牛のロンド」は有名だが、第2場の3曲の合唱のほうが、もっと音楽的に上だ。

なかでも2番目の合唱「神々が彼を殺したのだ!」は、音を扱う作曲技術の信じられないほどの巧みさ、凄まじいばかりの表出力、そして研ぎ澄まされた音感覚と比類ない音楽性の高さ、白熱的に高揚した精神状態をケーゲルは余すところなく伝えている。

この後の3番目の合唱「歓声を上げよ、イスラエル!」も力が籠り、しかも少しも俗に堕することがない。

清く、強く、熱く、そして柔軟な変化を思うままに駆使して、灼熱的な盛り上がりを形成して行くさまには、もうただただ恐れ入ってしまうほかない。

ケーゲルは、決して表面の劇的効果を作ろうとせず、対位法の妙味である線と線とが織りなす緊張とその微妙な変化を表現の中心に据え、きわめて質の高い品位ある演奏を行っている。

歌手陣も、集中力の高い歌唱で、何より徹底的にトレーニングされたことがありありとわかる合唱団の迫力たるや、聴いていてゾクゾクする。

同曲の名盤の誉れ高いブーレーズの演奏と聴き比べてみたが、フランス系の音楽家の感覚の洗練という美点を武器に迫ってみても、この大音楽は如何ともしがたいのだ。

その精神の強さ、深さにおいて、どうしても演奏に物足りなさを感じさせてしまう。

この長所あるいは短所は、作曲家としてのブーレーズについても同様であり、見る角度によって魅力ともなり弱点ともなっているのだ。

新ウィーン楽派の音楽は、長らくブーレーズによる録音が高く評価されてきたが、こうしてケーゲルの録音を聴き比べてみると、ひょっとするとブーレーズの演奏は、少なくともシェーンベルクが求めていたものとは違う音で演奏されてきたのではないかと思い始めてくる。

むしろ、ドイツ圏ではケーゲルやロスバウトのような演奏が本流であって、ブーレーズは傍流なのではないかという疑問も持ち始めているところだ。

ケーゲルは冷静時代の東独という目立たない所で活動していたので、生前ついぞ脚光を浴びることはなかったが、これから大いに再評価されて欲しいものだ。

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ワルターは80歳で現役を引退したが、その後CBSの尽力により専属のオーケストラ、コロンビア交響楽団が結成され、その死に至るまでの間に数々のステレオによる録音が行われたのは何という幸運であったのであろうか。

その中には、ベートーヴェンの交響曲全集も含まれているが、ワルターとともに3大指揮者と称されるフルトヴェングラーやトスカニーニがステレオ録音による全集を遺すことなく鬼籍に入ったことを考えると、一連の録音は演奏の良し悪しは別として貴重な遺産であるとも言える。

当該全集の中でも白眉と言えるのは「第2」と「田園」ではないかと考えられる。

とりわけ、本盤に収められた「田園」については、同じくワルター指揮によるウィーン・フィル盤(1936年)、ベーム&ウィーン・フィル盤(1971年)とともに3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

巨匠ワルターが切り開いたリリシズムの世界は、この作品を語る上で欠かせない永遠の名盤である。

本演奏は、どこをとっても優美にして豊かな情感に満ち溢れており、「田園」の魅力を抵抗なく安定した気持ちで満喫させてくれるのが素晴らしい。

ワルターの演奏には思い入れとか野心とかがなく、常に清楚な精神性のようなものが宿っている。

端正な響きと肩の力の抜けた表現で刻み込まれる晴朗にして健全なベートーヴェンであり、「田園」の原点とも言うべき演奏だ。

ワルターは、私たちの心にあるこの作品のイメージを最もスタンダードに表現したとも考えられる演奏である。

暖かい人間性を感じさせる温雅でまろやかな語り口は作品の美しさを実にナイーヴに描出する結果をもたらしている。

フルトヴェングラー、シェルヘン、カラヤン、アバド、朝比奈……誰を聴いてもワルターに比べると帯に短し、タスキに長しで、なにがしかの違和感が残る。

オーケストラは、3強の中で唯一ウィーン・フィルではなくコロンビア交響楽団であるが、ワルターの確かな統率の下、ウィーン・フィルにも匹敵するような美しさの極みとも言うべき名演奏を披露している。

スケールの大きさにおいては、ベーム盤に一歩譲ると思われるが、楽曲全体を貫く詩情の味わい深さにおいては、本演奏が随一と言っても過言ではあるまい。

もっとも、第4楽章の強靭さは相当な迫力を誇っており、必ずしも優美さ一辺倒の単調な演奏に陥っていない点も指摘しておきたい。

ワルターの資質と音楽とがぴったり一致した真の牧歌がここにあり、作品が書かれた当時の作曲者の心を、そのままうつし出したかのような、感動的な名演奏である。

なお、ワルターによる1936年盤は録音の劣悪さが問題であったが、数年前にオーパス蔵によって素晴らしい音質に復刻された。

演奏内容自体は本演奏と同格か、さらに優れているとも言える超名演であるが、現在ではオーパス盤が入手難であることに鑑みれば、本演奏をワルターによる「田園」の代表盤とすることにいささかの躊躇もするものではない。

本演奏は至高の超名演であるだけに、これまでリマスタリングを何度も繰り返すとともに、Blu-spec-CD盤も発売されたりしているが、ベストの音質は本シングルレイヤーによるSACD盤であると考える。

本SACD盤は現在でも入手可であり、テープヒスが若干気になるものの、ワルターによる超名演を弦楽奏者の弓使いや木管楽器奏者の息遣いまでが鮮明に再現されるSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月07日


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シューベルトの「未完成」は、いかにもフルトヴェングラーらしい名演である。

彼はこの曲を振る前は、そわそわと落ち着かなかったそうだが、曲想が彼の表現とぴったりと合致していないので、演奏しにくかったのだろうと思う。

しかし、このCDは、一応やりたいことをやり尽くし、フルトヴェングラーなりにきわめ尽くしている。

第1楽章は音楽が地の底から湧き起こるように開始され、フォルテの凄絶さはその比を見ない。

ホルンとバスーンによる経過句で大きくリタルダンドし、第2主題を導き出すのもフルトヴェングラーらしいが、チェロの弾く第2主題の翳の濃い表情は、ほかの指揮者からは聴けないものだ。

この主題、たいていの指揮者はピアニッシモの指定にとらわれてしまうからであろう。

つづくヴァイオリンの心のこもったレガートも美しい。

その後の漸進を伴った、しかもスムーズな進行も聴きもので、フルトヴェングラーの魂が次第に高潮し、燃焼していくさまが目に見えるようだ。

そして提示部の終わりで第2主題が現れる部分のヴィブラート奏法は、彼ならではの温かさであり、造型上にも一分の隙さえない。

展開部はフルトヴェングラーと未完成交響曲との厳しい対決であり、真剣勝負である。

これこそ時代の流行を超えた狄深造良集臭瓩任△蝓△修譴罎┐坊茲靴童鼎ならない生命力が燃えたぎっている。

大きくテンポを落とした、ものものしい終結とともに、聴く者の魂を奪うに充分なものがあろう。

第2楽章はテンポが速く、淡々とした運びの中にあふれるような歌を込めた指揮ぶりであり、テンポの微妙な変化はフルトヴェングラーの息づきのように自然だ。

フォルティッシモは相変わらず物凄いが、力づくの迫力ではないので、切れば血の出るような有機性を絶えず保っているのである。

ブラームスの「第4」も、フルトヴェングラー一流の味の濃さと、気迫に満ちたベートーヴェン的な解釈で、1つのフレーズが次のフレーズを生んでゆく自然な音楽が湧出する。

第1楽章の最初のロ音(よくもこんな音が出せるものだ!)を聴いただけで、すでにフルトヴェングラーの世界に誘われてしまう。

彼はブラームスが書いた楽想を徹底して描き分けるが、リズミカルな部分がいくぶん硬く響くきらいもある。

コーダのアッチェレランドはまさに常軌を逸しており、音楽自体から考えて、ここまでやる必要があるのかどうかは疑問だが、興奮させることは事実であり、最後のリタルダンドがいかにも効果的だ。

第2楽章の旋律の密度の濃い歌い方は、フルトヴェングラーがブラームスの交響曲において特別に見せるものである。

第3楽章は実演における一発必中の表現で、情熱の爆発と強い意志による統制が両々相俟って、凄まじい力の噴出となり、終結の決め方(あのテヌートの巧さ!)など、ほかの誰にもできることではない。

第4楽章は第1変奏のものものしい表現にすべてが尽くされており、フルトヴェングラーの演奏に接するとほかの指揮者は生ぬるくてとても聴けない。

ここではこのようにやるべき音楽なのであり、こうでなくてはならないのだ。

第16変奏以後の推進力も素晴らしいが、第3変奏のヴァイオリンに極端なヴィブラートをつけたり、コーダの加速など、ブラームスとしてはやりすぎの部分もあり、筆者自身、手放しでフルトヴェングラーの演奏を謳歌するものではない。

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本セットにはムーティがウィーン・フィルを指揮したモーツァルトの後期6大交響曲集、シューマンの交響曲全集、フィラデルフィア管弦楽団を指揮したブラームスの交響曲全集、管弦楽曲集が収められている。

1980年代終わりから1990年代半ばにかけてPHILIPSレーベルにレコーディングされたこれらの演奏では、オーケストラの持つ伝統的な奏法を尊重したムーティの端正な音楽づくりが印象的だ。

モーツァルトでは、人数を大幅に減らした編成により古典派らしい風通しの良い音を鳴らしているが、旋律の美しさは最大限に活かされており、素朴調にならないのはやはりウィーン・フィル伝統のスタイルといったところであろうか。

ムーティのモーツァルトは、主観と客観の絶妙なバランスに支えられており、現代の聴き手にとってモーツァルトの交響曲を聴くことがいかに大きな慰めとなり、また救いとなるかを、現代の言葉で証明して見せた魅力と説得力がある。

ムーティの指揮は快適なテンポと快い前進性を守りつつ、薄味にならず、モーツァルトの音楽を目いっぱい堪能できる。

モーツァルトだからということで距離をおくことなく、実にのびやかに歌い上げた爽快感あふれる演奏であり、時に見せる大胆なアプローチも、かえってモーツァルトの新しさを掘り起こしている。

そんなムーティは、指示された反復記号も原則的に忠実に守って、作品のメッセージのすべてが実に生き生きとした音となって響きわたっている。

ウィーン・フィルを得たことも大きな魅力で、このオケ特有の美感が素晴らしく、現代に聴くモーツァルト像が、こんなにも艶やかな音色とふくよかな表情で再現された例もないと言えよう。

美しく、ロマンティックな夢に誘われる現代のモーツァルト演奏だ。

シューマンの交響曲は30歳から40歳にかけて書かれているが、これはムーティが30代半ばにレコーディングした全集である。

当時颯爽とした芸風で人気を博していたムーティは、ここでもシューマンの交響曲を生き生きと演奏し、シューマンをブラームスのように重厚にではなく、軽快で明るいタッチで演奏している。

シューマンの管弦楽法の問題などを感じさせることが無く、それぞれの交響曲を表情豊かに聴かせてくれている。

オーケストレーションへの配慮も見せて見通しの良い響きを確保し、弾むリズムによってフレッシュなシューマン像を確立している。

全4曲を通じて、ムーティがウィーン・フィルから極上の豊潤な響きを引き出しており、シューマンのロマン的心情を鮮明に浮かびあがらせている。

ブラームスは、フィラデルフィア管弦楽団のしなやかでふくよかな美しさが絶品の演奏。

聴いていて、これほどまでに綺麗で良いのだろうかとも思えてくるが、この響き、特に弦楽器のセクシーなまでの魅力には抗し難い魅力が備わっており、それがムーティの美質であるカンタービレの強さ、しなやかさ、美しさに、ベルベットを思わせるサウンドで世に名高いフィラデルフィア管弦楽団の弦楽セクションが呼応して、類例のないほど豊麗な歌にみちたブラームス演奏を実現することに成功している。

この作曲家独特の「歌への憧れ」がこれほどあふれるように示された演奏は稀と言っていいだろう。

全曲高水準な仕上がりであるが、中では第2番と第4番の艶やかかつ迫力もある演奏が際立っている。

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70歳になり、名実ともに現代を代表する巨匠ピアニストとなったポリーニであるが、ポリーニの評価については現在でも二分する状況にある。

これには、とある影響力の大きい某音楽評論家がポリーニの演奏を事あるごとに酷評し続けていることに起因しているものと思われる。

確かに、ポリーニの壮年期の演奏の一部には、某音楽評論家が指摘しているように、いささか技術偏重に堕した内容が伴わない演奏が垣間見られたのは事実である。

しかしながら、他のピアニストの追随を許さないような名演も数多く成し遂げてきたところであり、ポリーニの演奏をすべて否定してしまうという某音楽評論家の偏向的な批評には賛同しかねるところだ。

本盤に収められたショパンの練習曲集は1972年のスタジオ録音であり、今から40年以上も前の、若き日のポリーニによる演奏だ。

先般、ショパン国際コンクール優勝直後の1960年に録音された練習曲集の演奏が発売(テスタメント)されたが、畳み掛けていくような気迫といい、強靭な生命力といい、申し分のない圧倒的な名演に仕上がっていたところだ。

当該演奏と比較すると、本盤の演奏は、スタジオ録音ということも多分にあると思うが、前述の演奏と比較するとやや大人し目の演奏に仕上がっていると言えるだろう。

加えて、これまで従来CD盤で聴いていた際は、卓越した技量が全面に出た、いささか内容が伴わない演奏のように思っていたところだ。

ところが、今般、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されて大変驚いた。

もちろん、ポリーニの卓越した技量を味わうことができる点においては何ら変わりがないところであるが、SACD化によって、これまで技術偏重とも思われていたポリーニの演奏が、随所に細やかな表情づけやニュアンスが込められるなど、実に内容豊かな演奏を行っていることが理解できるところだ。

本演奏を機械仕掛けの演奏として酷評してきた聴き手にとっても、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化された本盤を聴くと、本演奏の評価を改める人も多いのではないだろうか。

筆者としては、本演奏は、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって漸くその真価のベールを脱いだ圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

前述の1960年の演奏のレビューにおいて、本演奏について疑問符を付けたところであるが、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を機に、その評価を改めたいと考える。

それにしても、音質によってこれだけ演奏の印象が変わるというのは殆ど驚異的とも言うべきであり、改めてシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、ポリーニによる圧倒的な超名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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2015年06月06日


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カラヤンはロシアものも大変巧かったが、このディスクに収められた曲目はそのよい例で、カラヤン&ベルリン・フィルのコンビの実力を如実に示した卓抜な演奏だ。

本盤に収められたR・コルサコフによる交響組曲「シェエラザード」の演奏は、カラヤンによる唯一の録音である。

カラヤンは、同じロシア5人組のムソルグスキーによる組曲「展覧会の絵」やチャイコフスキーによる3大バレエ音楽の組曲を何度も録音していることに鑑みれば、実に意外なことであると言えるであろう。

その理由はいろいろと考えられるが、何よりもカラヤン自身が本演奏の出来に十分に満足していたからではないだろうか。

それくらい、本演奏は、まさにカラヤンのカラヤンによるカラヤンのための演奏になっていると言えるだろう。

この曲の交響的な性格と標題音楽的な性格の中間をいくような表現で、カラヤンは全編をシンフォニックに華麗に仕上げながらも、そこに東洋的なムードを巧みに盛り込み、音による豪華絢爛たる絵巻を繰り広げている。

第1曲の「海とシンドバッドの船」は、テンポが少し速いような気がするが、第2曲以後は余裕をもった指揮ぶりでアラビアン・ナイトの世界へ聴き手を誘ってくれるかのようだ。

本演奏は1960年代後半のスタジオ録音であるが、これはカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代に相当している。

ベルリン・フィルにとってもあまたのスタープレイヤーを擁した黄金時代であり、健康状態にも殆ど不安がなかったカラヤンによる圧倒的な統率の下、凄みのある演奏を繰り広げていた。

鉄壁のアンサンブル、金管楽器のブリリアントな響き、木管楽器の超絶的な技量、肉厚の弦楽合奏、雷鳴のようなティンパニの轟き(もっとも、この時はフルトヴェングラー派のテーリヒェンが演奏していたが)などを駆使しつつ、これに流麗なレガートを施したいわゆるカラヤンサウンドとも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していたと言える。

こうしたカラヤンサウンドは、本演奏においても健在であり、おそらくはこれ以上は求め得ないようなオーケストラの極致とも言うべき演奏に仕上がっている。

加えて、当時世界最高のコンサートマスターと称されたシュヴァルベによるヴァイオリンソロの美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れており、本演奏に華を添えていることを忘れてはならない。

また、オペラを得意としたカラヤンならではの演出巧者ぶりは同曲でも存分に発揮されており、各組曲の描き分けは心憎いばかりの巧さを誇っており、ことに劇的にまとめた終楽章は圧巻だ。

このような諸点を総合的に勘案すれば、本演奏は非の打ちどころがない名演と評価し得るところであり、カラヤンとしてもこの名演を凌駕する演奏を行うことは困難であることを十分に自覚していたのではないかとさえ考えられるところだ。

併録のイタリア奇想曲や大序曲「1812年」も、カラヤン唯一の録音であるが、これまた全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏の凄さを感じることが可能な素晴らしい名演だ。

イタリア奇想曲は、次から次へ現れる親しみ易い旋律展開は全くカラヤン向きと言えるところであり、ベルリン・フィルの演奏技術とカラヤンの劇的な演出に圧倒される。

カラヤンは、大序曲「1812年」において、冒頭にロシア正教による合唱を付加している。

さらに終結部にも付加すればより効果的であったのではないかとも思われるが(デイヴィスやマゼールなどの演奏に例あり)、十分に堪能できる名演であり文句は言えまい。

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ドイツの巨匠ピアニスト、ウィルヘルム・ケンプ(1895-1991)は1961年10月に来日し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲を7夜にわたり連続演奏を行った。

単独のピアニストがベートーヴェンのピアノ・ソナタを全曲集中して演奏することは日本初だったとされ、日本音楽界の一大イベントとして非常な話題となったということである。

当時ケンプは66歳で、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集は、1950〜56年のモノラルと1964〜65年のステレオの2種のセッション録音が存在し、いずれも屈指の名盤と高く評価されているが、その中間期、ケンプ最盛期の全集がもうひとつ存在したことは驚愕の極み。

歴史的資料としても貴重な演奏で、全盛期のケンプのピアニズムを堪能できる演奏内容となっている。

いずれの楽曲も至高の名演と高く評価したい。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の録音は現在でもかなり数多く存在しており、とりわけテクニックなどにおいては本全集よりも優れたものが多数あると言える。

ケンプによる録音に限ってみても、前述の2つのスタジオ録音の方が、演奏の完成度に関しては断然上にあると言えるが、演奏の持つ閃きやファンタジーにおいては、本演奏がダントツであると言えるのではないだろうか。

本全集におけるケンプによるピアノ演奏は、例によっていささかも奇を衒うことがない誠実そのものと言える。

ドイツ人ピアニストならではの重厚さも健在であり、全体の造型は極めて堅固である。

また、これらの楽曲を熟知していることに去来する安定感には抜群のものがあり、大胆不敵でエネルギッシュな一面を覗かせながら、緩徐部分でのケンプの穏やかな語り口は朴訥ささえ感じさせるほどだ。

しかしながら、一聴すると何でもないような演奏の各フレーズの端々から漂ってくる滋味に溢れる温かみには抗し難い魅力があると言えるところであり、これは人生の辛酸を舐め尽くした晩年の巨匠ケンプだけが成し得た圧巻の至芸と言えるだろう。

筆者としては、ケンプの滋味豊かな演奏を聴衆への媚びと決めつけ、厳しさだけが芸術を体現するという某音楽評論家の偏向的な見解には到底賛成し兼ねるところである。

ケンプによる名演もバックハウスによる名演もそれぞれに違った魅力があると言えるところであり、両者の演奏に優劣を付けること自体がナンセンスと考えるものである。

全曲を通して聴いて驚いたのは、大変エネルギッシュでしかも力強い演奏でありながら、自由自在、奔放で即興的かつ詩的な味わい深い演奏となっていることである。

ピアニストは年輪を重ねるごとにテンポを落として深みのある演奏を聴かせる人が多いが、それはまた同時にテクニックの衰えを隠す一面もあることも否めない。

しかし、ケンプの演奏は速めのテンポを崩すことなく、音楽を前進させていく。

そのため、ミスタッチも目立つ演奏になることがあるが、そのこと自体が演奏の価値を貶める結果に陥っておらず、このCDを演奏順に聴いていくことでケンプの息遣いを追体験できるのである。

ケンプはライヴで最良の面が発揮されるピアニストのため、回を重ねるごとに自由かつ雄弁となり、後期作品では人間業とは思えぬ境地に達し、まさにピアノ音楽史上の至宝の音源と言えるだろう。

要するにケンプのすべてを体験できるのが今回のNHK盤だと確信したところであり、ケンプ・ファン必聴のベートーヴェンここにありと言えよう。

すべてNHKがラジオ放送用に収録したもので、モノラル録音でありながら当時最高の技術が駆使されていて、ステレオ録音にも負けない秀逸な録音となっており、ケンプの生演奏を余すところなく楽しめる演奏となっている点において、歴史的名演であることは間違いない。

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マタチッチ&NHK交響楽団による1984年のブルックナーの交響曲第8番のライヴ録音は、歴史的な超名演とされているものの、数年前までは既発CDの音質がとても良好なものとは言い難いことから、一部の音楽ファンを除いてはなかなか愛聴盤の地位を獲得するのは困難であった。

ところが、2010年3月に先ずはBlu-spec-CD化が図られ、見違えるような良好な音質に生まれ変わったことから、本名演のグレードは大きくアップすることになった。

次いで、同年の秋には待望のXRCD化が図られ、Blu-spec-CD盤ではいささか線の細さを感じさせた音質が強靭なものとなり、筆者としては、当該XRCD盤こそが、本演奏の決定盤として長く愛聴していくべき存在であると考えていたところである。

ところが、それからあまり時間を置かずに、ついに究極の高音質化とも言うべきシングルレイヤーによるSACD化が図られることになった。

ブルックナーの交響曲のファンであれば、おそらくは、既にBlu-spec-CD盤やXRCD盤を購入していると思われることから、本SACD盤を購入するのは、財政的な面からいささか気が引けるところであるが、本演奏の歴史的な価値からすると、そのようなことを言っている訳にはいかないところだ。

確かに、音質は素晴らしい。

XRCD盤よりも更に各楽器が明瞭に分離して聴こえるなど、おそらくは現在望み得る最高の高音質に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

数年前まで、あまりのデッドで音場の拡がらなさに辟易としていたことに鑑みれば、まさに隔世の感があると言えるだろう。

ただ、このように段階的に音質の向上を図るやり方には、メーカー側の金儲け目的が色濃く出ており、そうしたメーカー側の姿勢にはこの場を借りて疑問を呈しておきたい(高音質化への不断の努力は評価するが)。

マタチッチは、偉大なブルックナー指揮者であった。

1990年代に入って、ヴァントや朝比奈が超絶的な名演の数々を生み出すようになったが、1980年代においては、まだまだブルックナーの交響曲の名演というのは数少ない時代であったのだ。

そのような時代にあって、マタチッチは、1960年代にシューリヒトが鬼籍に入った後は、ヨッフムと並ぶ最高のブルックナー指揮者であった。

しかしながら、これは我が国における評価であって、本場ヨーロッパでは、ヨッフムはブルックナーの権威として広く認知されていたが、マタチッチはきわめてマイナーな存在であったと言わざるを得ない。

それは、CD化された録音の点数を見れば一目瞭然であり、ヨッフムは2度にわたる全集のほか、ライヴ録音など数多くの演奏が発掘されている状況にある。

これに対して、マタチッチは、チェコ・フィルとの第5番(1970年)、第7番(1967年)及び第9番(1980年)、スロヴァキア・フィルとの第7番(1984年)やウィーン響との第9番(1983年)、あとはフィルハーモニア管弦楽団との第3番(1983年)及び第4番(1954年)、フランス国立管弦楽団との第5番(1979年)のライヴ録音がわずかに発売されている程度だ。

ところが、我が国においては、マタチッチはNHK交響楽団の名誉指揮者に就任して以降、ブルックナーの交響曲を何度もコンサートで取り上げ、数々の名演を成し遂げてきた。

そのうち、いくつかの名演は、アルトゥスレーベルにおいてCD化(第5番(1967年)、第7番(1969年)及び第8番(1975年))されているのは記憶に新しいところだ。

このように、マタチッチが精神的な芸術が評価される素地が未だ残っているとして我が国を深く愛して来日を繰り返し、他方、NHK交響楽団もマタチッチを崇拝し、素晴らしい名演の数々を成し遂げてくれたことが、我が国におけるマタチッチのブルックナー指揮者としての高い評価に繋がっていることは間違いあるまい。

そのようなマタチッチが、NHK交響楽団とともに成し遂げたブルックナーの交響曲の数々の名演の中でも、特に伝説的な名演と語り伝えられてきたのが本盤に収められた第8番だ。

本演奏におけるマタチッチのアプローチは、1990年代以降通説となった荘重なインテンポによる演奏ではない。

むしろ、速めのテンポであり、そのテンポも頻繁に変化させたり、アッチェレランドを駆使したりするなど、ベートーヴェン風のドラマティックな要素にも事欠かない演奏となっている。

それでいて、全体の造型はいささかも弛緩することなく、雄渾なスケールを失っていないのは、マタチッチがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。

このようなマタチッチの渾身の指揮に対して、壮絶な名演奏で応えたNHK交響楽団の好パフォーマンスも見事というほかはない。

いずれにしても、本演奏は、1980年代以前のブルックナーの交響曲第8番の演奏の中では、間違いなくトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

それは本SACD盤を聴いてもいささかも変わることはない。

いずれにしても、今般のシングルレイヤーによるSACD化を機に、更に多くの聴き手が本演奏の素晴らしさに接することに繋がることを大いに期待したい。

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classicalmusic at 00:48コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーマタチッチ 

2015年06月05日


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ゲルバーがデンオンで始め、全集に至らずに惜しくも中断した、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ集はいずれも素晴らしい名演だ。

ゲルバーは1941年アルゼンチン生まれのピアニストで、アルゲリッチやバレンボイムとは年代も出身もほぼ同じだが、玄人好みの演奏をするせいか日本での知名度はそれほど高くない。

しかし、ドイツピアニズムの正統な後継者としてベートーヴェンやブラームスでは定評ある演奏をする。

本盤は、ドイツ・ピアニズムの伝統を受け継いだゲルバーの、美しいピアノの響きを捉えた、貴重なスタジオ録音である。

まさに巨匠の芸風といえるスケールの大きさ、凝縮された感情、叙情、ファンタジー、どこを切っても濃密で熱い血がほとばしる迫真のベートーヴェンだ。

ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏の特色は、何と言ってもその美しさにある。

ゲルバーは「音楽はいつでも美しく在らねばならない」という信条をもっていると見える。

もっとも、単なる表面上の美しさにとどまっているわけではない。

その美しさは、後述のように深い内容に裏打ちされていることを忘れてはならない。

ゲルバーの奏でるピアノは音も耳につくような煌びやかさではないので、聴いていてとても気持ちがよい。

全体が派手というわけではないのだが、演奏の至る所に淡い光が見えるような演奏だ。

加えて、演奏全体の造型は堅固であり、ドイツ風の重厚さが演奏全体に満ち満ちており、独墺系のこれまでの様々な偉大なピアニストの系譜に連なる、まさにいい意味での伝統的な演奏様式に根差したものであると言えるだろう。

がっちりとした構成感、メリハリの効いた弾むようなタッチ、そして音楽の流れには自由なファンタジーの飛翔が感じられる。

きわめてオーソドックスのようでいて、さまざまな遊び心も感じられ、聴いて実に楽しく、これまで様々な偉大なピアニストたちがベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音しているが、ゲルバーのこの演奏くらい豊かな表情の変化に富んだ演奏もないのではないか。

そして、どこをとっても、眼光紙背に徹しているとも言うべき厳格なスコア・リーディングに基づいた音符の読みの深さが光っており、前述のようにいわゆる薄味な個所は皆無。

いかなる音型にも、独特の豊かなニュアンス、奥深い情感が込められていると言えるところだ。

それでいて、底流に熱い魂があり、大きな構えで、余裕をもった恰幅の良い演奏でもある。

技術的にも何らの問題がないところであり、随所に研ぎ澄まされた技巧を垣間見せるが、いささかも技術偏重には陥っておらず、常に内容の豊かさ、彫りの深さを失っていないのが見事であり、知情兼備の演奏であると言っても過言ではあるまい。

総括すれば、いい意味での剛柔のバランスのとれた演奏というのが、ゲルバーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏であると言えるところであり、ドイツ正統派の伝統的な演奏様式に、現代的なセンスをも兼ね合わせた、まさに現代におけるベートーヴェンのピアノ・ソナタ演奏の理想像の具現化と評価し得ると考えられるところだ。

いずれにしても、本盤の各楽曲の演奏は、ゲルバーならではの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

音質については、従来CD盤でも1990年前後のスタジオ録音ということもあって、比較的満足できる音質である。

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classicalmusic at 22:46コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェン 

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今は亡きアバドの提唱で1988年から始まった現代音楽祭《ウィーン・モデルン》、DGに遺した3つのライヴ録音が本盤に収められている。

モデルンという言葉はご存じのとおり、近代ないし現代を意味するドイツ語(英語のモダンと同じ)で、おそらく芸術について使われるときには「斬新な感覚を持っている」といったニュアンスが込められている。

ところが、この言葉がウィーンという名前で結びつくと、たちまち、懐かしいノスタルジックな響きにかわってしまうから不思議だ。

もっともこの10年あまり、ポスト・モダンを模索する動き、つまり近代を乗り越えて新しい時代を切り開こうとする動きが活発だったので、モデルン=近代という言葉そのものに「終わった時代」という印象があることも確かだ。

「近代は過ぎ去った良き時代」というわけである。

だが、《ウィーン・モデルン》という言葉に対する思いは、実はもっと具体的な、ある一時期への憧れと重なりあっている。

それは中世からハプスブルグ家の都市として栄えてきたウィーンが、真の意味で「現代音楽」と呼ぶことのできる最初の作品を書いた革命的な音楽家たちを擁していた時代、つまり19世紀末から20世紀にかけての、新ウィーン楽派の時代なのである。

その頃から、ウィーンには、古い伝統を守っていこうとするあまり、新奇なものに懐疑の目を向ける気質が根づいていた。

だから、シェーンベルクも現世的な成功には恵まれず、生涯、貧しく孤独な人生を送っている。

しかし、世紀末の爛熟を映したクリムトらのウィーン工房から、オスカー・ココシュカが巣立ったように、シェーンベルクは後期ロマン派のマーラーやツェムリンスキーらとの交流の中から、きたるべき時代の新しい語法を模索していった。

つまり古い伝統の中からモダンが生まれ、両者が同居しつつも火花を散らしている、そんな幅広い文化を懐に抱えていたのが、この時代のウィーンだったのである。

クラウディオ・アバドはあるインタビューの中で、ウィーンの町全体を現代の文化(モデルン)で満たそうという考えから《ウィーン・モデルン》を企画したと述べている。

そして、それが第2の故郷であり、古い音楽の伝統を持つ町だからこそ、あえてやってみたかったのだという。

とすれば、この現代音楽祭によってアバドがもくろんだのは、実はあの時代、シェーンベルクの時代のウィーンを、いまに再現することだったのではないだろうか。

そんな期待を窺わせるかのように、第2回の《ウィーン・モデルン》(1989年)では、ウィーンの若い世代の作曲家から3つの作品を紹介して「新しいウィーン」を印象づけているほか、音楽という枠を越えて、文学から絵画、演劇にも新しい作品を求め、それらの芸術に胎動している傾向を探ろうとしている。

ところで、私たちはこれまで、アバドが現代の前衛作品を指揮している演奏を聴く機会には恵まれていなかった。

アバドのレコーディングではスカラ座とのヴェルディのオペラ、ウィーン・フィル、シカゴ交響楽団とのマーラーの交響曲全集、あるいはルドルフ・ゼルキンとの数々のモーツァルトのピアノ協奏曲といった、古典派・ロマン派の作品の演奏がおなじみだろう。

また、シューベルトの自筆譜によるヨーロッパ室内管弦楽団との交響曲全集が話題になった。

アバドのディスコグラフィをたどってみると、約40人の作曲家の名前が並んでいるが、そのほとんどは18世紀から19世紀に活躍した人たちで、20世紀と言ってもせいぜい、ストラヴィンスキー、ベルク、バルトーク、プロコフィエフといったところ。

こうしたオーソドックスな作品で説得力のある演奏を聴かせることができるところに、アバドの底力があるのは言うまでもない。

ただ、その中で1枚だけ、ノーノの《力と光の波のように》をポリーニ、タスコーヴァ、そしてバイエルン放送交響楽団と録音しているのが目をひく。

その演奏を聴いてみると、アバドの柔軟な感性が前衛作品の中にもロマンティックなニュアンスを感じ取っているのがわかる。

それにしても本盤のように戦後の前衛作品を集めたディスクは画期的であり、その演奏には「現代音楽」に対する無味乾燥とした音楽をあっさりと払拭してしまう芳醇な響きと情感のうねりがある。

そして選ばれている作品もまた、ウィーンという都市の面影が浮かんでくる、どこかロマンティックで人肌のぬくもりを感じさせる音楽なのである。

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classicalmusic at 20:51コメント(0)トラックバック(0)アバド 

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ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番及び第3番を収録したCDは非常に多く出回っているが、近年の録音ではジルベルシュテインがアバドの指揮でベルリン・フィルと共演したアルバムが溌剌として爽やか、一陣の薫風が駆け抜けていったかのような演奏は、最近の筆者の嗜好に合っている。

ピアノを弾いているジルベルシュテインの、妙なけれんがなく、メロディーラインを素直に歌い上げているところが好ましく、アバド指揮ベルリン・フィルのオケとのバランスもよい。

ジルベルシュテインの演奏を聴いていつも感じるのは、ラフマニノフの曲に霊感を与えるのは弦楽器の音だということである。

ピアノは、弦楽器によって作られた霊的な音の熱狂・興奮をより高める役割を担っている。

筆者は、ジルベルシュテインのピアノに印象を受けないと言うつもりはなく、むしろ逆で、彼女は、弦楽器によって作り出された音響の世界をピアノ1台で突き破ろうとし、ピアノの限界に挑むのである。

すみずみまで感興を行き渡らせ、その力強いピアノのタッチから感じられるエネルギーは、聴き手に大きな印象を与える物凄い音楽である。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番及び第3番はメジャーな作品だけにとても思い入れのこもった演奏が多く、そのため、ピアノやオケのどちらかが前面に出すぎてしまうことが多かったりするのであるが、この演奏はピアノとオケのハーモニーやピアノの問いかけに対するオーケストラの受け答えなどバランスが絶妙である。

おそらく綿密に計算された演奏であるためであろうが、適度な緊張感や綺麗な音の響きと相俟ってとても美しい演奏になっている。

この演奏のバックを務めるアバドは、私見であるが、これまでの様々な名指揮者の中でも、最高の協奏曲指揮者と言えるのではなかろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。

そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。

それでも協奏曲の演奏に限ってみれば、ベルリン・フィルの芸術監督就任以前と寸分も変わらぬ名演を成し遂げていたと言える。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番におけるアルゲリッチとの競演(1994年)、そして、レコード・アカデミー賞を受賞したブラームスのピアノ協奏曲第2番におけるブレンデルとの競演(1991年)など、それぞれの各楽曲におけるトップの座を争う名演の指揮者は、このアバドなのである。

本盤に収められたロシア出身のピアニストであるリーリャ・ジルベルシュテインと組んで録音を行ったラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、第3番についても、こうした名演に系譜に連なるものとして高く評価したいと考える。

協奏曲の演奏に際してのアバドの基本的アプローチは、ソリストの演奏の引き立て役に徹するというものであり、本演奏においても御多分にも漏れないが、オーケストラのみの演奏箇所においては、アバドならでは歌謡性豊かな情感に満ち溢れており、格調の高さも相俟った美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れている。

ここぞという時の力感溢れる演奏は、同時期のアバドによる交響曲の演奏には聴くことができないような生命力に満ち溢れており、これぞ協奏曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。

ラフマニノフのピアノ協奏曲に特有のロシア風のメランコリックな抒情を強調した演奏にはなっておらず、両曲にロシア風の民族色豊かな味わいを求める聴き手にはいささか物足りなさを感じさせるきらいもないわけではないが、ジルベルシュテインのピアノ演奏の素晴らしさ、両曲の持つ根源的な美しさを見事に描出し得たといういわゆる音楽の完成度という意味においては、まさに非の打ちどころのない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

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2015年06月04日


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これは素晴らしい名演だ。

ウィンナ・ワルツを収めたCDは数多く存在しているが、本盤は、その中でも最も魅力的な名演の1つと言ってもいいのではないだろうか。

どの曲も大変優れた演奏で、出世街道を驀進し、欧米を股に掛けて演奏活動を行いつつあったケンペの自信に満ちた音楽作りが味わえる。

立派な演奏だし、オケがウィーン・フィルなのだから、商品価値は十分高いと考えられるが、音源を保有するEMI本体はなぜか発売していない。

おそらくはケンペという地味な指揮者では売れないと踏んでいるのだろうが、これは素晴らしいワルツで、活きの良さが素晴らしく、オケをダイナミックに響かせる指揮ぶりが堪らない。

ケンぺは、ベートーヴェンやブラームス、そしてブルックナーの交響曲などにおいて、ドイツ風の重厚な名演の数々を成し遂げていた指揮者だけに、どちらかと言えば謹厳実直で質実剛健な演奏を行うというイメージが付きまとっていると言っても過言ではないところだ。

しかしながら、本盤のような愉悦に富んだ名演を聴いていると、ケンペは必ずしも質実剛健一辺倒の演奏を行っていたわけではなく、むしろ、ケンペという指揮者の表現力の幅広さ、多彩さ、そしてその豊かな音楽性を窺い知ることが可能だ。

ケンペのウィンナ・ワルツと言えば、シュターツカペレ・ドレスデンとの録音が有名であるが、この旧盤におけるウィーン・フィルとの録音も美しい。

ケンペの手にかかると、さらに丁寧 上品さが際立ち、ドレスデンとの再録音とはまた違ったウィーン独特の音色が堪らない。

それにしても、演奏全体に漲っているリズミカルな躍動感は、ウィンナ・ワルツの演奏としては申し分がない理想的なものと言えるところであり、とりわけ喜歌劇「こうもり」序曲の畳み掛けていくような気迫や強靭さは圧倒的な迫力を誇っており、聴いて思わず度肝を抜かれるほどだ。

それでいて、ケンペならではのドイツ風の重厚さも随所に聴かれるところであり、レハールのワルツ「金と銀」やヨゼフ・シュトラウスのワルツ「天体の音楽」の重心の低い深沈たる味わいの深さには抗し難い魅力がある。

ケンペのワルツは軽やかなウィーン風ではなく、堅固ないわゆるドイツ風であるが、その極めつけがこの「金と銀」。

純ドイツ風に堅実で真面目一途、にこりともしないようなケンペだが、なぜか「金と銀」が大好きで、ステレオになってからウィーン・フィルでまずレコーディング、さらにシュターツカペレ・ドレスデンで再録音している。

どちらも曲への思いのたけをすべて吐露したような名演で、ケンペ得意の曲なのであろう、堂々と自信たっぷりに演奏しており、そのドラマティックな演奏は、これを凌駕する演奏にまだお目にかかってない。

一部オーケストレーションを変えているところさえあるが(そのセンスがまた素晴らしいのだ)、シュトラウスのワルツよりも魅力的な「金と銀」を、ケンペぐらい真正面からシンフォニックに取り組み、しかも絶品のニュアンスでロマンティックに歌わせ、燦めかせた演奏は、他に皆無と言えよう。

その他の演奏も名演であり、かかる演奏は、もはやウィンナ・ワルツという領域を超えた、ベートーヴェンやブラームスの交響曲などにも比肩し得る至高の芸術作品のレベルに達していると言っても過言ではあるまい。

そして、このようなドイツ風の重厚な演奏を行っているにもかかわらず、いわゆる野暮ったさなどはいささかも感じさせず、愉悦性を失わないというのは、大芸術家ケンペだけに可能な圧巻の至芸とも言うべきであろう。

そして、ウィンナ・ワルツを演奏させたら他の追随を許さないウィーン・フィルによる名演奏が、ケンペによる重厚な演奏に独特の潤いと温もりを付加させているのを忘れてはならない。

オケが上手いというのは当然として、現在のウィーン・フィルではなかなか聴けない当時の豊かなオケのサウンドと、ケンペのメリハリを付けた音楽による名演が連続する。

いずれにしても、本演奏は、あまた存在するウィンナ・ワルツ集の中でも、トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

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classicalmusic at 22:19コメント(0)トラックバック(0)ケンペシュトラウス 

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モントゥーによるチャイコフスキーの3大交響曲の演奏は、ほぼ同時期に録音されたムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの歴史的な超名演(1960年)と比較すると、知る人ぞ知る存在に甘んじていると言わざるを得ない。

このうち、交響曲第6番「悲愴」については、ムラヴィンスキーの演奏があまりにも凄い超絶的な名演であるために、他の演奏は不利な立場に置かれていると言わざるを得ないが、筆者としては、ムラヴィンスキーの超名演は別格として、それに次ぐ名演としては、カラヤン&ベルリン・フィルによる演奏(1971年)と本演奏(1955年)を掲げたいと考えている。

このうち、カラヤンの演奏は、ベルリン・フィルの卓越した技量を駆使したオーケストラ演奏の極致と言うべきもので、これにライヴ録音を思わせるようなドラマティックな要素が付加された圧倒的な音のドラマであったと言える。

これに対して、モントゥーによる本演奏は、同曲にこめられた、運命に翻弄される作曲者の苦悩や絶望感、そして生への憧憬などを徹底的に追求するとともに、それを音化することに成功した彫りの深い演奏に仕上がっている。

極論すれば、カラヤンの演奏が音のドラマであるのに対して、本演奏は人間のドラマといった趣きがあるとも言えるところである。

全体としては、ムラヴィンスキーの演奏と同様に、速めのテンポによる引き締まった造型が印象的であるが、かかる堅固な造型の中において、モントゥーは、細部に至るまで彫琢の限りを尽くしたドラマティックな演奏を展開している。

トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強い生命力は、圧倒的な迫力を誇っており、とてもスタジオ録音とは思えないような壮絶の極みとも言える劇的な演奏を展開している。

第2楽章のロシア風のメランコリックな抒情の歌い方にも、格調の高さが支配しており、高踏的な美しさを誇っているのは、モントゥーだけに可能な圧巻の至芸であると言えるだろう。

モントゥーは、生前、チャイコフスキーの音楽に個人的な悲痛を盛り込む演奏を好んでいなかった。

「音楽の中にすべてが存在するというのに、なぜ個人の悩みなどをひけらかそうとするのか。私はチャイコフスキーの音楽に書かれているままに演奏する。それでまさしく充分なのだ」

この言葉に、モントゥーの芸術の核心があり、チャイコフスキーをベートーヴェンやブラームスに置き換えれば、そのままあの素晴らしい演奏になるのだ。

本演奏も、「悲愴」という曲に伴いがちな感傷主義を全く破った演奏で、この曲に我々が感じているような泥臭さを全くとり去って、きれいに晒したような演奏である。

そういう意味で、非常に品のいい演奏であり、その品のよさも、オーケストラが非常にうまいので、外面的にならない。

旋律もよく歌っているし、ダイナミズムも充分にあり、劇的効果がよく出ている。

モントゥーの確かな統率の下、圧倒的な名演奏を繰り広げているボストン交響楽団にも、大きな拍手を送りたい。

録音は、従来盤が50年以上前のものということもあってややデッドで音場が広がらないという問題があったが、数年前に発売されたSHM−CD盤によって、比較的良好な音質に改善されたと言える。

しかしながら、本SACD盤はさらに鮮度の高い音質に生まれ変わっており、50年以上も前の録音とはとても思えないような高音質に大変驚かされた。

いずれにしても、モントゥーによる至高の超名演をSACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 20:23コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーモントゥー 

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20世紀後半を代表する巨匠指揮者、ゲオルグ・ショルティの生誕100周年(2012年時)記念盤。

 
フランス音楽の粋とも言うべきドビュッシーの夜想曲、交響詩「海」、牧神の午後への前奏曲が収められているが、ショルティにとっては比較的珍しいレパートリーの1つである。

本盤の各楽曲の演奏は、そうしたフランス音楽ならではのエスプリ漂う瀟洒な味わいを期待する聴き手には全くお薦めできない演奏である。

本演奏にあるのは、オーケストラの卓抜した技量と機能美であり、シカゴ交響楽団の鮮やかなサウンドが強烈な印象を与える、まさに、オーケストラ演奏の究極の魅力を兼ね備えているところである。

このような演奏は、とある影響力の大きい某音楽評論家を筆頭に、ショルティを貶す識者からは、演奏が無機的であるとか、無内容であるとの誹りは十分に予測されるところである。

しかしながら、果たしてそのような評価が本演奏において妥当と言えるのであろうか。

ショルティは20世紀後半を代表する指揮者の1人であるが、我が国の音楽評論家の間での評価は実力の割に極めて低いと言わざるを得ない。

現在では、楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。

先般、お亡くなりになった吉田秀和氏などは、数々の著作の中で、公平な観点からむしろ積極的な評価をしておられたと記憶するが、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評しているとある影響力の大きい音楽評論家をはじめ、ショルティを貶すことが一流音楽評論家の証しと言わんばかりに、偏向的な罵詈雑言を書き立てる様相ははっきり言っておぞましいと言うほかはないところだ。

かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本演奏のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ないと言える。

ニキシュは別格として、ライナーやオーマンディ、セル、ケルテス、フリッチャイなど、綺羅星の如く登場したハンガリー人指揮者の系譜にあって、ショルティの芸風は、強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするものであった。

そうした芸風でシカゴ交響楽団を鍛え抜いた力量は、先輩格のライナー、オーマンディ、セルをも凌駕するほどであったと言えよう。

もちろん、そうした芸風が、前述のような多くの音楽評論家から、無機的で冷たい演奏との酷評を賜ることになっているのはいささか残念と言わざるを得ない。

確かに、ショルティの芸風に合った楽曲とそうでない楽曲があったことについて否定するつもりは毛頭ないが、少なくともショルティの演奏の全てを凡庸で無内容の冷たい演奏として切って捨てる考え方には全く賛同できない。

本演奏は、前述のようなフランス音楽らしい瀟洒な味わいを醸し出すには全くそぐわないと言えるが、オーケストラの機能性と楽器の組み合わせによる色彩の豊かさをフルに味わえる美点がある。

そして、印象派の大御所として繊細かつ透明感溢れるオーケストレーションを随所に施したドビュッシーが作曲した各楽曲の諸楽想を明瞭に紐解き、それぞれの管弦楽曲の魅力をいささかの恣意性もなく、ダイレクトに聴き手に伝えることに成功している点は高く評価すべきではないかと考えられるところだ。

そして、一部の音楽評論家が指摘しているような無内容、無機的な演奏ではいささかもなく、むしろ、各場面毎の描き分け(特に、交響詩「海」)や表情づけの巧みさにも際立ったものがあり、筆者としては、本演奏を貶す音楽評論家は、多分にショルティへの一方的な先入観と偏見によるのではないかとさえ思われるところである。

本演奏においては、世界最高の性能を誇っていたシカゴ交響楽団の名技が遺憾なく発揮されており、ドビュッシーの精緻なテクスチュアが次々に浮き彫りにされるような快感がある。

いずれにしても、本演奏は、ショルティ&シカゴ交響楽団という20世紀後半を代表する稀代の名コンビによる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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2015年06月03日


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先般CD4枚にも及ぶヨハン・ハルヴォルセンの管弦楽作品集をスタジオ録音したネーメ・ヤルヴィであるが、同じくノルウェーの作曲家、ヨハン・スヴェンセンの管弦楽作品集の第3弾の登場だ。

さらに勢いを増すネーメ・ヤルヴィとノルウェーのベルゲン・フィルの名コンビによる「ノルディック・プロジェクト」最新巻。

同世代で盟友エドヴァルド・グリーグと共に、ノルウェー・ロマンティシズムを完成形へと導いたヨハン・スヴェンセンの管弦楽作品集第3集には、1860年代後半、ライプツィヒ音楽院を卒業したスヴェンセンが作曲し、グリーグに衝撃を与えた初期の大作『交響曲第1番』、ナッシュ・アンサンブルのヴァイオリニスト、マリアンネ・トゥーシェンが弾く1870年の『ヴァイオリン協奏曲』など、ノルウェーのシンフォニストとして名を馳せたスヴェンセンの若き日の傑作の数々が収められている。

第1弾と第2弾のレビューにも記したところであるが、ネーメ・ヤルヴィは録音当時75歳の高齢であり、近年では息子のパーヴォ・ヤルヴィの華々しい活躍の陰に隠れがちと言えなくもないが、それでも、果敢に新しいレパートリーの開拓に勤しむ飽くなき姿勢には、我々聴き手としてもただただ頭を下げざるを得ないところだ。

ネーメ・ヤルヴィに対しては、一部の評論家からは何でも屋のレッテルが貼られ、必ずしも芳しい評価がなされているとは言えないようであるが、祖国の作曲家であるトゥヴィンをはじめとして、ステンハンマルやアルヴェーン、そしてゲーゼやホルンボーなど、北欧の知られざる作曲家の傑作の数々を広く世に認知させてきた功績は高く評価しなければならないのではないかと思われるところである。

確かに、誰も録音を行っていない楽曲は別として、1つ1つの演奏に限ってみれば、より優れた演奏が他に存在している場合が多いとも言えるが、それでも水準以上の演奏には仕上がっていると言えるところであり、巷間言われているような粗製濫造にはいささかも陥っていないと言えるのではないだろうか。

本盤に収められたヨハン・スヴェンセンの管弦楽作品集の第3弾については、そもそもいずれの楽曲も輸入盤でしか手に入らないものだけに、まさにネーメ・ヤルヴィの独壇場。

それだけに比較に値する演奏が稀少という意味において本演奏について公平な評価を下すことはなかなかに困難であるが、本演奏に虚心坦懐に耳を傾ける限りにおいては、いかにもネーメ・ヤルヴィならではの聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さが光った名演奏と言うことができるところだ。

グリーグに自作の交響曲を封印させてしまったというエピソードを持つ、若きスヴェンセンの底知れぬ才能を、ネーメ・ヤルヴィの老練なタクトに統率されたベルゲン・フィルの名演奏により存分に堪能できる。

スヴェンセンは、グリーグとほぼ同時代に活躍した作曲家であるが、国外での活動が多かったこともあって、グリーグの作品ほどに民族色の濃さは感じられないと言える。

それでも、ネーメ・ヤルヴィは、各楽曲の曲想を明朗に描き出すとともに、巧みな表情づけを行うことによって、実に味わい深い演奏を行っていると言えるところであり、演奏全体に漂っている豊かな情感は、まさに北欧ノルウェーの音楽以外の何物ではないと言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、第1弾、第2弾と同様にスヴェンセンの知られざる名作の数々に光を当てることに大きく貢献した素晴らしい名演と高く評価したい。

音質は、ネット配信によるものではあるが、十分に満足できる良好なものと評価したい。

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旧東独の鬼才、ヘルベルト・ケーゲルの最晩年、1987年7月31日に演奏されたステレオ・ライヴ録音。

曲開始早々、ケーゲルの気合いの入ったと思われる床に足を踏み込む音がドンドンと響く。

旋律といい、間のとり方といい、楽器の使い方といい、今まで聴けたことのない音がとにかくいろいろと聴こえてくるのである。

ティンパニの打音が、雷鳴のごとく響いて前面に出てくることといい、他楽器のパートもメリハリの利いた歌い方をしているのもやたら耳に届くが、これが不思議と異和感もなく楽しみながら鑑賞できるのである。

その後も明暗が入れ替わり立ち替わり現れる曲想の、暗の部分を、テンポを落としてじっくりと聴かせるところは、大変に充実感があり、また、そういうところの、弱音に素晴らしい味わいがあるわけだ。

対するに明の部分は決して燦然たる白熱の演奏ではないのだが、残念ながら、それに不満を感じるほど、私たちは能天気な時代に生きてもいない。

ベートーヴェンも政治の反動のなかでこの曲を書いたのだし、安倍政権の今日を生きる私たちもしかり。

もっと驚くのは、終楽章の最初のバリトンのソロが伸びやかで長く、ストレスを感じさせず何ともおおらかに開放的に歌われ出すことである。

これは、「第9」では初めての経験で非常に新鮮な展開であり、これはいい、と即座に納得した。

その後、合唱が意表をつくスローテンポで制御され、せかせかした感じがなくて非常に聴き易い。

この終楽章の演奏を、カンタータ的と評する人もいて、確かに、従来の型に全くはまらない合唱であるが、妙に説得力を感じさせる演奏となっている。

ともかく、筆者はこのフィナーレを聴きながら随所で驚きに打たれ、巻き戻しては聴き直した。

「第9」を食傷するほど聴いた私たちに、これほどまでに不意打ちを食わせる演奏はなかなかないことは確実だ。

曲が終わって、筆者の心配をよそに聴衆にも理解された様子で、拍手は盛大だ。

ケーゲルは、「お祭り騒ぎ的な『第9』が嫌いだ」と言っていたらしいが、なるほど、この「第9」は、彼が長い間構想を暖め考え抜いたあげくの「第9」の演奏と印象する。

出来上がりすぎてしまった大堂伽藍ではなく、生身で宇宙の嵐に身をさらす趣きがあり、宮澤賢治が魔物が現れてくると表現し、ミハイル・バクーニンが、全世界が滅ぶとも第9交響曲だけは救い出さなければならないと言ったものが、ここに感じられるようだ。

そして、筆者自身も、この演奏に大いに共感を覚えるようになった。

これは、従来の「第9」が、見え透いて軽く聴えてしまうようになる恐るベきチャレンジ演奏であると言っていい。

この演奏のユニークさ、あえて言うなら奇異は、ケーゲルが作品の内容を追いつめていった結果生まれたものに他ならない。

一見奇妙な解釈には合理的な訳があり、なぜこのような演奏になったのか、それをじっくり考えれば、私たちの「第9」理解はいっそう深まるに違いない。

べートーヴェンがどういう「第9」の演奏を求めていたかについて、従来の、フルトヴェングラーを筆頭に固定観念化されたスタイルについて、深く考え直させる機会を与える意義深い内容の演奏だ。

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classicalmusic at 20:32コメント(2)ベートーヴェンケーゲル 

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本盤には、プレヴィンが当時の手兵であるロンドン交響楽団とともに1970年代にスタジオ録音したチャイコフスキーの3大バレエ音楽からのハイライトが収められている。

プレヴィンは元来ロシア音楽を得意としているだけあって、こうした作品を指揮すると卓越した手腕を発揮する。

決してバレエ風の表現ではなく、演奏会風のスタイルなのだが、リズムが抜群に弾んでいるので、実に面白く聴くことが出来る。

その語り口の巧さといい、音楽的な洗練度といい、いまだに魅力を失っておらず、文句のつけようがない見事な名演と言えると思う。

非常に完成度の高い出来ばえで、ほどよい距離を保ちながら、全体を的確に把握しており、危うさがない。

プレヴィンは、クラシック音楽の指揮者としてもきわめて有能ではあるが、それ以外のジャンルの多種多様な音楽も手掛ける万能型のミュージシャンと言える。

映画音楽で鍛えたブレヴィンだけに、そのストーリー・テラー的な巧さと絵画的な表現力にかけては、抜群の威力を発揮する。

したがって、本演奏においてもそのアプローチは明快そのものであり、楽曲を難しく解釈して峻厳なアプローチを行うなどということとは全く無縁であり、楽曲をいかにわかりやすく、そして親しみやすく聴き手に伝えることができるのかに腐心しているように思われる。

したがって、ベートーヴェンなどのように、音楽の内容の精神的な深みへの追究が求められる楽曲においては、いささか浅薄な演奏との誹りは免れないと思うが、起承転結がはっきりとした標題音楽的な楽曲では、俄然その実力を発揮することになる。

本盤に収められたチャイコフスキーの3大バレエハイライツは、そうしたプレヴィンの資質に見事に合致する楽曲と言えるところであり、加えて若さ故の力強い生命力も相俟って、素晴らしい名演に仕上がったと言っても過言ではあるまい。

プレヴィンが自家薬籠中のものとしているチャイコフスキーのバレエ音楽だけに、巧みな棒さばきで各場面を的確に描き分けながら、作品の幻想的な持ち味をあますところなく表出している。

全体にややテンポを遅めにとり、チャイコフスキー独特の抒情的な旋律をたっぷりと歌わせながら、極めてパノラミックな表現で、どの曲も表情豊かにまとめている。

聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりは心憎いばかりであり、プレヴィンの豊かな音楽性が本演奏では大いにプラスに働いている。

情緒的なものに過度にのめり込むことなく、かといって、非情につぱねるようなこともなく、知情意のバランスが無理なくとれていて、どの角度からみても、プレヴィンならではの、安定した性格の演奏と言えよう。

決してとりわけ優美であるとか、ファンタジー的であるという性格ではないが、個々のことが整然と把握されており、全体のバランスがよく、洗練されたスマートなプロポーションで、プレヴィンの力量のほどを物語るような安定した出来ばえを誇る内容だ。

ロンドン交響楽団もプレヴィンが首席指揮者時代の演奏で、呼吸もぴったりの相性の良さと言える。

クラシック音楽入門者が、チェイコフスキーのバレエ音楽を初めて聴くに際して、最も安心して推薦できる演奏と言えるところであり、本演奏を聴いて、嫌いになる聴き手など、まずはいないのではないだろうか。

いずれにしても、プレヴィンによる本演奏は、チャイコフスキーのバレエ音楽には、ロジェストヴェンスキー、ゲルギエフなどによるロシア風の民族色溢れる名演や、アンセルメやデュトワによる洗練された色彩美を誇る名演などがあまた存在しているが、安定した気持ちでチャイコフスキーのバレエ音楽を魅力を味わうことができるという意味においては、第一に掲げるべき名演と評価したい。

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classicalmusic at 00:34コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキープレヴィン 

2015年06月02日


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期待のシリーズ、キタエンコのチャイコフスキーの交響曲第2番の登場だ。

第1番、第5番、第6番でのアグレッシヴな音楽作りはここでも変わることがない。

第2番の交響曲はチャイコフスキーが1872年に作曲した曲で、初演時は大変な成功を収めたのであるが、なぜかその後にチャイコフスキー自身が大幅な改定を行ったことでも知られている。

ウクライナ民謡が効果的に使われているため、評論家ニコライ・カシュキンから「小ロシア」という愛称を付けられたと言われている。

この演奏、冒頭からメロディをたっぷりと歌わせ、大きな流れを作っていくという極めて聴き応えのあるものだ。

本演奏を聴いて思うのは、ロシア系の指揮者にとってのチャイコフスキーの交響曲は、独墺系指揮者にとってのベートーヴェンの交響曲のような、仰ぎ見るような高峰に聳える存在なのではないかということだ。

というのも、キタエンコと同様に、チャイコフスキーの交響曲全集の録音を完成したプレトニョフもそうであるが、他の作曲者による楽曲、例えば、プレトニョフであればベートーヴェンの交響曲全集やピアノ協奏曲全集による演奏におけるようないささか奇を衒った個性的な解釈を施すということはなく、少なくとも演奏全体の様相としては、オーソドックスなアプローチに徹していると言えるからである。

キタエンコと言えば、カラヤンコンクールでの入賞後、旧ソヴィエト連邦時代のモスクワ・フィルとの数々の演奏によって世に知られる存在となったが、モスクワ・フィルとの演奏は、いわゆるロシア色濃厚なアクの強い演奏が太宗を占めていたと言える。

これは、この当時、旧ソヴィエト連邦において活躍していたムラヴィンスキー以外の指揮者による演奏にも共通していた特徴とも言えるが、これには、オーケストラ、とりわけそのブラスセクションのヴィブラートを駆使した独特のロシア式の奏法が大きく起因していると思われる。

加えて、指揮者にも、そうした演奏に歯止めを効かせることなく、重厚にしてパワフルな、まさにロシアの広大な悠久の大地を思わせるような演奏を心がけるとの風潮があった。

ところが、そうした指揮者の多くが、スヴェトラーノフのような一部例外はあるが、旧ソヴィエト連邦の崩壊後、ヨーロッパの他国のオーケストラを自由に指揮するようになってからというもの、それまでとは打って変わって洗練された演奏を行うようになった。

キタエンコについても、それが言えるところであり、本演奏においても、演奏全体の外観としては、オーソドックスなアプローチ、洗練された様相が支配していると言えるだろう。

もっとも、ロシア風の民族色を欠いているかというとそのようなことはなく、ここぞという時の迫力は、ロシアの広大な悠久の大地を思わせるような力強さに満ち溢れている。

そして、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のドイツ風の重厚な音色が、演奏全体にある種の落ち着きと深さを付加させているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本盤の演奏は、キタエンコによる母国の大作曲家であるチャイコフスキーへの崇敬、そしてキタエンコ自身の円熟を十分に感じさせる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

併録の「ロココの主題による変奏曲」でチェロを弾くエルシェンブロイヒがこれまた美しい音色を持つ人で、こちらも満足できる出来映えだ。

彼はムターに認められた俊英で、来日の際も高い評価を受けているが、最後におかれたアンダンテ・カンタービレも絶妙だ。

そして、本盤の素晴らしさは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

SACDの潜在能力を十二分に発揮するマルチチャンネルは、臨場感において比類のないものであり、音質の鮮明さなども相俟って、珠玉の仕上がりである。

いずれにしても、キタエンコ&ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団による素晴らしい名演を、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 22:37コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキー 

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マーラーの交響曲第7番が凄い演奏だ。

これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。

いずれにしても、テンシュテット&ロンドン・フィルの1980年におけるマーラーの交響曲第7番のライヴ録音が発売されたのはクラシック音楽ファンにとって大朗報とも言えるところだ。

テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、交響曲第7番についても複数の録音を遺している。

最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1980年)、次いで本盤に収められたライヴ録音された演奏(1980年)、そしてその13年後にライヴ録音された演奏(1993年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。

いずれ劣らぬ名演ではあるが、随一の名演は1993年の演奏であることは論を待たないところだ。

というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。

したがって、1993年の演奏には、1つ1つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。

次いで、本盤の1980年にライヴ録音された演奏が続くのではないだろうか。

テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。

これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。

かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。

ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。

もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。

このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。

本盤の演奏は、さすがに前述のように、1993年の演奏ほどの壮絶さは存在していないが、それでもテンポの思い切った振幅を駆使したドラマティックにして濃厚な表現は大いに健在であり、まさにテンシュテットのマーラー演奏の在り様が見事に具現化された至高の超名演と言っても過言ではあるまい。

テンシュテットは明確なポリシーを持ち、決して妥協をしなかったが、ここでも燃焼度の高い、かなり切迫した表現であり、テンシュテット特有の振幅の大きい見事な演奏である。

オケが指揮者を信頼し、全身全霊をかけて音楽に没入する記録はそれほど多くないが、ロンドン・フィルも、まさに人生がこの演奏にかかっているかのようなのめりこみようだ。

カップリングのモーツァルトの交響曲第41番は名演の範疇には入ると思われるが、テンシュテットとしては普通の出来と言えよう。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)トラックバック(0)テンシュテットマーラー 

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本盤には、ノイマンが2度にわたってスタジオ録音を行ったドヴォルザークの交響曲全集のうち、最初のもの(1973年のレコード・アカデミー賞を受賞)から抜粋した交響曲第7番及び第8番が収められている。

当該盤については、数年前にBlu-spec-CD盤が発売されたところであり、筆者はその際、次のようなレビューを既に投稿済みである。

「ノイマンは、ドヴォルザークの交響曲全集を2度完成させるとともに、交響曲第7番〜第9番については、全集以外にも何度も録音している。

いずれの演奏も、ノイマンの温厚篤実な性格があらわれた情感豊かな名演と考えるが、一般的には、2度目の交響曲全集や、ポニーキャニオン(現在は、エクストンから発売)に録音した第7番〜第9番、そして、ドヴォルザーク生誕100年を記念した第9番あたりの評価が高い。

それ故に、1度目の交響曲全集の旗色が悪いが、レコード・アカデミー賞を受賞した名盤でもあり、忘れられた感があるのはいささか残念な気がする。

本盤は、その旧全集から、第7番と第8番を収めているが、筆者としては、後年の名演にも優るとも劣らない名演と高く評価したい。

全体的に格調の高い情感の豊かさを保っている点は、後年の名演と同様の傾向ではあるが、ここには、後年の名演には見られない若々しい生命力と引き締まった独特の造型美がある。

誇張を廃した純正で格調高い表現の中に、豊かな民族的情感がにじみ出ており、また後年の演奏にないきりりとした若々しさがある。

手兵のチェコ・フィルも、そうしたノイマンとともに最高のパフォーマンスを示しており、録音も非常に鮮明である。

チェコ・フィルの古雅な音色美も絶品と言えるところであり、これぞ正調ドヴォルザークの決定盤と高く評価したい。

本盤は、Blu-spec-CD盤であるが、従来盤と比較してさらに鮮明度がアップしており、ノイマンの若き日の名演を高音質で味わうことができることを大いに喜びたい」

現在でも、演奏そのものの評価については殆ど変わっていないが、あえて付け加えることがあるとすれば、「第7」を初めて聴いた時の印象は、なんて地味な曲だろうと感じたが、繰り返し聴くうちにドヴォルザークの作品の中でも最も好きな曲のひとつになっていたことだ。

「第8」の尋常ならぬ完成度の高さもまさに自家薬朧中の至芸であり、最後まで緊張が緩むことがなく、このドヴォルザークの大傑作を最も精確に堪能できる素晴らしい名演奏だ。

極めてオーソドックスな演奏なのだろう、それが噛めば噛むほど味が出る、この曲の魅力を教えくれた。

本盤では、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が行われたことから、その点について言及しておきたい。

これまで愛聴してきたBlu-spec-CD盤についても十分に満足できる素晴らしい音質であったと言えるところであるが、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によっておよそ信じ難いような次元が異なる極上の高音質に生まれ変わったと言える。

音質の鮮明さ、臨場感、音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、ノイマン&チェコ・フィルによる素晴らしい名演をシングルレイヤーによるSACD&SHM−CDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

ノイマンによるドヴォルザークの演奏は、前述のレビューにも記したようにいずれ劣らぬ名演揃いであり、今後は、他の演奏についてもシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化をして欲しいと思っている聴き手は筆者だけではあるまい。

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classicalmusic at 00:37コメント(0)トラックバック(0)ドヴォルザークノイマン 

2015年06月01日


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ルービンシュタインは、3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集をスタジオ録音している。

ルービンシュタインはポーランド出身ということもあって、稀代のショパン弾きとしても知られてはいるが、前述のように3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音したことや、生涯最後の録音がブラームスのピアノ協奏曲第1番であったことなどに鑑みれば、ルービンシュタインの広範なレパートリーの中核を占めていたのは、ベートーヴェンやブラームスなどの独墺系のピアノ曲であったと言えるのかもしれない。

本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番&第4番は、ルービンシュタインによる3度目のピアノ協奏曲全集(1975年)からの抜粋である。

最初の全集であるクリップス&シンフォニー・オブ・ジ・エアとの演奏(1956年)や、2度目の全集であるラインスドルフ&ボストン交響楽団との演奏(1963年)と比較すると、本演奏は88歳の時の演奏だけに、技量においてはこれまでの2度にわたる全集の方がより優れていると言えるのかも知れない。

しかしながら、本演奏のゆったりとしたテンポによる桁外れのスケールの大きさ、そして各フレーズの端々から滲み出してくる枯淡の境地とも言うべき奥行きの深い情感の豊かさにおいては、これまでの2度にわたる全集を大きく凌駕していると言えるだろう。

このような音楽の構えの大きさや奥行きの深さ、そして格調の高さや風格は、まさしく大人(たいじん)の至芸と言っても過言ではあるまい。

第3番は遅めのテンポで大きく深い呼吸で音楽を息づかせ、それに腰の強い明確なタッチを与えた名演。

第4番は音楽が進むにつれて調子が上がり、大柄で立体的な表現を成し遂げている。

とりわけ、両曲の緩徐楽章の深沈とした美しさには抗し難い魅力があると言えるが、その清澄とも言うべき美しさは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、自らの生涯を自省の気持ちを込めて回顧するような趣きさえ感じられる。

これほどの高みに達した崇高な音楽は、ルービンシュタインとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのかもしれない。

ルービンシュタインの堂々たるピアニズムに対して、バレンボイム&ロンドン・フィルも一歩も引けを取っていない。

バレンボイムはルービンシュタインのテンポによくつけており、少しも淀まず、厚みがあり、十二分に歌い、ときには瞑想や思索さえも実感させる。

バレンボイムは、ピアニストとしても(クレンペラーの指揮)、そして弾き振りでも(ベルリン・フィルとの演奏、シュターツカペレ・ベルリンとの演奏)ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音しているが、ここではルービンシュタインの構えの大きいピアニズムに触発されたこともあり、持ち得る実力を存分に発揮した雄渾なスケールによる重厚にして渾身の名演奏を展開しているのが素晴らしい。

いずれにしても、本盤に収められたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番及び第4番の演奏は、いずれも両曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

本盤は従来CD盤(輸入盤)でも十分に満足できるものであったが、ルービンシュタインによる超名演でもあり、今後はSACD化を図るなど更なる高音質化を望んでおきたいと考える。

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classicalmusic at 22:39コメント(0)トラックバック(0)ルービンシュタインバレンボイム 

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これは世紀の珍盤として有名なものだ。

かつて多くのスヴェトラーノフ・ファン、オーケストラ・ファンが待ち望んでいた、ヤフー・オークションで5万円で取り引きされたという恐るべき演奏である。

その後、輸入盤として異常なベストセラーを記録しただけに、本演奏は既に伝説化している感があるが、改めて聴いてみても、スヴェトラーノフならではの重厚でパワフルに押し切るという重量級の凄い演奏だ。

何しろ、多少の乱れなど気にせず突き進むエネルギー感といい、ここまでやるかという思い切って野蛮な表現といい、耳をつんざくような轟音といい、誰もが驚く強烈なライヴ録音なのである。

良くも悪くもスヴェトラーノフの強烈な体臭が最大限に押し出されており、謎の邪教徒秘密儀式といった猟奇的な雰囲気と、爆弾が次々に炸裂するような迫力は類を見ない。

《ローマの噴水》は、まず「夜明けのジュリアの谷の噴水」の繊細で情感豊かな音楽に魅了されるが、次の「昼のトレヴィの噴水」の凄まじい大音響は、あたかもあたり一面が大洪水になったかのような圧巻の迫力だ。

《ローマの松》も、「ボルジア荘の松」のゆったりとしたテンポによる粘着質の音楽からしてユニークであるが、凄いのは「アッピア街道の松」。

あたかも旧ソヴィエト軍の示威進軍のような圧巻の迫力を誇っており、アッピア街道を踊り狂いて渡っていくかのようであり、特に終結部のいつ終わるとも知れない強引さには、完全にノックアウトされてしまった。

実に13秒間(!)に及ぶ最後の和音が終わった後のブラヴォーも1980年当時のモスクワでのコンサートとしては異例の強烈さである。

《ローマの祭り》は、まさにスヴェトラーノフの独壇場で、唸る低弦といい、どろどろしたブラスの咆哮といい、スピーカーの前がお祭り騒ぎになるのは間違いない。

「チルチェンセス」はゆったりとしたテンポによる粘着質の音楽であるが、猛獣の唸り声を模した金管楽器の咆哮は凄まじいの一言であり、阿鼻叫喚の世界を構築する。

「五十年祭」のテンポはさらに遅く、トゥッティにおけるトランペットの耳をつんざくような音色は強烈そのもの。

超スローテンポと相俟って、あたかも巨大な壁画を思わせるような壮大な音響世界の構築に成功している。

「主顕祭」はスヴェトラーノフ節全開で、すべての楽器を力の限り咆哮させており、狂喜乱舞とも言うべき圧倒的な熱狂の下に全曲を締めくくっている。

いずれにせよ、作曲家の発想をここまで露わにした演奏も他になく、過去の『ローマ三部作』の名演とは一味もふた味も異なる異色の演奏とは言えるが、聴き終えた後の充足感においては、過去の名演に一歩も引けを取っていない。

『ローマ三部作』を初めて聴く人にはお薦めできないが、日常に飽き足りない人、何か強力な刺激を求めている人にはこのCDは最適と言えるだろう。

スヴェトラーノフの個性的な指揮の下、ソヴィエト国立交響楽団がロシア臭芬々たる爆演を披露している点も高く評価したい。

フランス印象派音楽の亜流と見なされがちなレスピーギをこんなふうに演奏できるのかという衝撃と同時に、なるほどスヴェトラーノフは特に晩年各地のオーケストラに客演していたが、ここまで凄まじい演奏は手兵以外とはできないであろうことは容易に推測できる。

リマスタリング・エンジニアには天才イアン・ジョーンズを迎え、万全を期しての復刻されたとのことで、その音質も鮮明、文句のつけようのない素晴らしさだ。

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classicalmusic at 20:41コメント(0)トラックバック(0)レスピーギスヴェトラーノフ 

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チェコの名指揮者であったノイマンの得意のレパートリーは、ドヴォルザークやスメタナなどのチェコの作曲家による楽曲や、ボヘミア地方で生まれたマーラー(チェコ出身の指揮者はそれを誇りとし、クーベリックや近年のマーツァルなど、チェコ出身の指揮者には、マーラーをレパートリーとした者が多い)の交響曲であった(ノイマンはドヴォルザークとマーラーについては交響曲全集を遺した)。

ノイマンはそれ以外の楽曲、意外に少ないとは言え、とりわけベートーヴェンの楽曲についてはなかなかの名演奏を遺しており、最晩年に録音された序曲集はノイマンによる遺言とも言うべき至高の名演であったことは記憶に新しいところだ。

本盤に収められたベートーヴェンの交響曲第9番は、そうしたノイマンの得意としたレパートリーの1つと言えるところであり、ベートーヴェンにも優れた解釈を示してきたノイマンの数少ない録音の1つとしても貴重である。

ノイマンは同曲を1989年に民主化の喜びに沸く「市民フォーラム」支援のためにプラハで開かれたライヴ録音も遺しているが、本盤に収められた演奏は、それから13年前の1976年に東京文化会館で行われた来日公演の記録で、非常に完成度が高く充実した演奏である。

改めて言うまでもないが、ノイマンによる本演奏は、聴き手を驚かすような奇を衒った解釈を施しているわけではない。

楽想を精緻に、そして丁寧に描き出して行くというオーソドックスなアプローチに徹していると言えるところであり、それはあたかもノイマンの温厚篤実な人柄をあらわしているかのようであるとも言える。

もちろん、ノイマンの演奏が穏健一辺倒のものではないという点についても指摘しておかなければならないところであり、ベートーヴェンの楽曲に特有の強靭にして力強い迫力においてもいささかも不足はない。

それでいて、無機的で力づくの強引な演奏など薬にしたくもなく、常に奥行きのある音が鳴っており、ベートーヴェンの楽曲を単なる威圧の対象として演奏するという愚には陥っていない。

豊かな抒情に満ち溢れた情感豊かな表現も随所に聴かれるところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた演奏に仕上がっているとも言えるところだ。

ノイマンの解釈は極めて端正・精緻であり、一点の曇りも感じさせず、しかも悠然としていて、表面的効果を狙わず、どの部分をとっても安定感があり、堅固で気品がある。

これは、あらゆる「第9」解釈の原点、というより「第9」の原像そのものと言って良く、基本的にノイマン&チェコ・フィル演奏の基本特徴である端正で透明感のある響きはそのままに、ノイマンは高揚感を抑えて端正な演奏を聴かせる。

基本的に落ち着いた堂々たる旧スタイルのベートーヴェン演奏で、すっきりとしたいつものノイマンの基本線は変らないが、やはりライヴだけあってかなり燃えているのがよくわかる。

第1楽章は堂々とした力感と重量感を表し、第2楽章はきめ細かく、軽やかなリズムの端正な表現である。

第3楽章も穏やかな淡々とした表現が美しい流動感を作り、終楽章では合唱が熱気にあふれ、自ずと音楽を盛り上げている。

響きに厚みと勢いがあり、独唱・合唱もすぐれていて、ライヴならではの迫力にも満ちている。

聴き手によっては、ベートーヴェンの「第9」だけに、よりドラマティックな表現を期待する人も多いとは思うが、聴けば聴くほどに味わい深さが滲み出てくる、いわばいぶし銀の魅力を有する本演奏は、ノイマンならではの大人の指揮芸術の粋とも言えるところであり、筆者としてはノイマン最盛期の名演の1つと高く評価したいと考える。

当時、一流の弦セクション及びブラスセクションを擁していたチェコ・フィルの演奏も秀逸であり、本演奏を名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 00:34コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンノイマン 
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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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