2015年07月
2015年07月31日
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ベームは終生に渡ってモーツァルトを深く敬愛していた。
ベルリン・フィルと成し遂げた交響曲全集(1959〜1968年)や、バックハウスやポリーニと組んで演奏したピアノ協奏曲の数々、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者との各種協奏曲、そして様々なオペラなど、その膨大な録音は、ベームのディスコグラフィの枢要を占めるものであると言っても過言ではあるまい。
そのようなベームも晩年になって、ウィーン・フィルとの2度目の交響曲全集の録音を開始することになった。
しかしながら、有名な6曲(第29、35、38〜41番)を録音したところで、この世を去ることになってしまい、結局は2度目の全集完成を果たすことができなかったところである。
ところで、このウィーン・フィルとの演奏の評価が不当に低いというか、今や殆ど顧みられない存在となりつつあるのはいかがなものであろうか。
ベルリン・フィルとの全集、特に主要な6曲(第35、36、38〜41番)については、リマスタリングが何度も繰り返されるとともに、とりわけ第40番及び第41番についてはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化もされているにもかかわらず、ウィーン・フィルとの録音は、リマスタリングされるどころか、国内盤は現在では廃盤の憂き目に陥いろうという極めて嘆かわしい現状にある。
確かに、本盤に収められた第38番及び第39番の演奏については、ベルリン・フィルとの演奏と比較すると、ベームならではの躍動感溢れるリズムが硬直化し、ひどく重々しい演奏になっている。
これによって、モーツァルトの交響曲に存在している高貴にして優美な愉悦性が著しく損なわれているのは事実である。
しかしながら、一聴すると武骨とも言えるような各フレーズから滲み出してくる奥行きのある情感は、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが描出し得る諦観や枯淡の味わいに満たされていると言えるところであり、その神々しいまでの崇高さにおいては、ベルリン・フィルとの演奏をはるかに凌駕していると言えるところである。
モーツァルト指揮者としてのベームは、「どんな相談にものってくれる博学の愛すべき哲学者」といった雰囲気をたたえており、彼の前に立っているだけで嬉しい気分になってしまう。
ウィーン・フィルとの録音は確かに多数残されたが、このモーツァルトはベームが亡くなる前のほぼ5年間に録音されたものである。
絶妙なるテンポを背景とする自然な音の流れ、磨き抜かれているが決して優しさを失わないフレージング、引き締まったアンサンブルを背景に繰り広げられる演奏はまさに生きた至芸と言いたい。
聴き手それぞれに思い入れのある名演であるが、筆者の座右宝はまずは第38番だ。
いずれにしても、総体としてはベルリン・フィル盤の方がより優れた名演と言えるが、本演奏の前述のような奥行きのある味わい深さ、崇高さにも抗し難い魅力があり、本演奏をベームの最晩年を代表する名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
音質については、従来盤でも十分に満足できる音質であるが、今後は、リマスタリングを施すとともにSHM−CD化、更にはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなどによって、本名演のより広い認知に繋げていただくことを大いに期待しておきたい。
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『世界初のデジタル《リング》』で名高く、30年経った今日の基準でも全く古びれていないばかりか、優秀なエンジニアの技量と感性が今より冴え渡る高音質。
東ドイツが国家と社会主義の威信を賭け、矜持と執念、嫉妬と羨望も滲ませて「西側、西ドイツ、バイロイトへの殴り込み」的に、また、「ドレスデン大空襲の無差別大量殺戮への恨み、鎮魂と祈り」も込めて制作しただけあって、ズラリと並べた国宝級の名歌手たちの歌声は誇り高く、自ら民衆蜂起を主導しながらも革命に挫折したワーグナーの怨念の地、古巣シュターツカペレ・ドレスデンの響きは、どこまでも精密で美しく、今や失われた「様式美」を感じる。
折しもデタントが崩れ東西対立が激化した1980年代初期の「時代の熱気」も仄かに漂っており、結局、東独がこの後10年と保たずに“滅亡”し、これに参加した人々の人生も一変したことを想い起こせば、それが何か「壮大で華々しい最後の大攻勢」めいた雰囲気に感じられて、この《リング》に一層意味深で悲劇的な奥行きを与えているようにも思われてくる。
「結局は転向して王侯貴族と結託したナチズムの始祖」である前に「ドイツ左翼革命の先駆者」でもある彼らなりのワーグナー観で再定義を試み、精密丁寧爽やかな風通しの良い音作りで脱構築することで東独の国是「反ナチ」色を野心的に追求した結果、「非慣例的・非ワーグナー的」「軽薄」「薄味淡白」と散々叩かれ、実際そうではあるのだが、であっても、これはこれで、信念を貫いていて面白いところもあるし、いまだに頑張ってるのが嬉しくて、ついつい応援したくなってしまうヤノフスキの指揮。
まだ30代だった若いサルミネンの〈ハーゲン〉、声は物足りないが是非映像版で観てみたかった美貌の演技派アルトマイヤーの〈ブリュンヒルデ〉…。
誉めるところは色々あるけれど、筆者にとって、本盤を愛聴し続ける意義は、何といってもペーター・シュライアーの強烈な〈ミーメ〉に尽きる。
日本でも多くの名演名唱を楽しませてくれた稀代の名モーツァルト・テノールで美声の持ち主の彼が、シュプレヒゲザングの権化と化し、技巧を総動員して繰り広げる絶唱は、「舌を巻く」どころか、まさに、文字通り「テノールの鬼」そのもの。
バッハからクルト・ヴァイルやベリオまで、何を歌わせても俄然巧く解釈は鋭く深い。
若い頃の録音から既にずば抜けた存在感で、この人の声楽家としての幅、能力の高さには心底呆れるばかり。
それでいて、例えばフィッシャー=ディースカウの全く色気のない声が醸していたような、ある種の「名状し難い退屈さ」「説教臭さ」とは一切無縁、「オペラ快楽主義者」たちを魅了し続けたところが、これまた、シュライアーの素晴らしさ、偉さ。
悪漢謀略家の力強さも内に秘めたキューン、「狂気」や「凶気」をはっきり感じさせるほどに凄まじいシュトルツェやヴォールファールト、どこまでも憎めない滑稽で愛嬌あるツェドニクといった本職の性格テノールの達人とは一味もふた味も異なる、本盤のシュライアーの知的に狡猾で鬼気迫り哀れな分裂症的〈ミーメ〉、その驚異的な芸達者ぶり、「尋常ならざる声の演技力」にも、是非、注目して頂きたい。
ここでは〈ローゲ〉も歌い分けており、これも当然、巧過ぎに巧く、しばしば《ライン》の共演陣を霞ませてしまう…。
〈ローゲ〉や〈ミーメ〉は、《リング》に深遠さを与える重要なキー・ロールだが、傑出したグレアム・クラーク辺りを除いて、最近の公演や録音ではすっかり平均値が落ちてしまった感が否めず、現役の脇の歌手たちにこの「凄味ある巧さや旨み、陰険邪悪な怪優ぶり」を望むべくもないから、主役級の人材不足も相俟って、余計に「ドラマ」がシラけ興醒めしてしまうのだ。
リヒャルト・ワーグナーその人の後輩にあたる聖十字架合唱団の一員として少年時代から歌っていた地元ドレスデンでの国家的大プロジェクト参加で、国定「宮廷歌手」の誇りも胸に余計意気に感じていたであろう、“やり過ぎ”なほどノリノリのペーター・シュライアー、そして、脂が乗り切っていたリリックな美声のルネ・コロ、さらに、テオ・アダム(彼もクロイツシューレが母校の生粋のドレスナー)も軽量なりにもまだまだ頑張っている。
その3人が各自持ち味を発揮している《ジークフリート》第1幕は、文句なしに輝かしい名録音だと思う。
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2003年10月にオープンしたロサンゼルス・フィルハーモニーの本拠地であり、音響に定評のあるウォルト・ディズニー・コンサート・ホールにて2006年1月に行われたライヴを収録したアルバム。
素晴らしい音質のSACDの登場だ。
本演奏については、既にSACDハイブリッド盤が発売されており、マルチチャンネルも付いていたこともあって、魅力的なものであった。
ユニバーサルは、一度SACDから撤退したが、撤退前の最後のCDということもあり、本盤さえ聴かなければ、素晴らしい音質のSACDと高く評価できるものであった。
しかしながら、本盤の音質は、そもそも次元が異なる。
マルチチャンネルが付いていないのに、ここまで臨場感溢れる音場を構築することが可能とは、大変恐れ入った次第だ。
ムソルグスキーの雷鳴のようなティンパニは、少なくとも通常CDでは表現し得ないような、ズシリと響いてくるような重量感であるし、バルトークに至っては、複雑怪奇なオーケストレーションが明晰に聴こえるのが素晴らしい。
そして、何よりも、今回の超高音質化に相応しいのはストラヴィンスキーの《春の祭典》であろう。
各管楽器の音の分離は驚異的であり、弦楽器の弓使いさえ聴こえてくるような鮮明さには、戦壊ささえ感じるほどだ。
どんなに最強奏に差し掛かっても、各楽器の分離が鮮明に鳴り切るのは、まさに空前絶後の高音質化の成果と言えよう。
演奏は、サロネンならではの若武者の快演である。
劇的な緊張感を孕んだリズム処理や、細部まで明晰に響く洗練された音色の重なり合いから新鮮な作品像が浮かび上がる楽曲が並ぶ1枚。
メインのストラヴィンスキー《春の祭典》は、新鮮な感覚で、この曲の持つ野性味をダイナミックに表現した演奏だ。
サロネンは、若々しさで押した感があり、それが快い。
サロネンの演奏は、十分に野性的でダイナミックなのだが、それでいてその響きを含めクールな感触があり、それが新鮮である。
しかもタクトの切れは鋭く、その精緻なリズム構築を見事に解きほぐし、明快な運びで作品のエネルギーを放射させていく。
「春の兆し」のあの猛烈なスピード! それは現代的なツービート感覚であろうか。
軽やかな「ハルサイ」の幕開けかもしれない。
第1部はややゆっくりとしたテンポで始めるが、途中からから激しく熱っぽく運び、しかもきりりと引き締まっている。
第2部もサロネンの棒は鋭く、しかもミステリアスな気分をよく描出している。
「選ばれた処女への讃美」から始まる原始的なリズム処理は素晴らしく、その熱気と迫力には圧倒される。
最早、何も堰き止めるもののない颯爽としたプロポーションの、駆け抜ける音楽と化している。
ここでは、大地に眠る神もいなくなったかのようだ。
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2015年07月30日
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哀愁を帯びた旋律が古典美の極致を示す、悲愴なパトスを湛えた劇的緊張に満ち溢れる第40番。
晴朗さが横溢し、雄渾な曲想によって記念碑的な高みに立つ、雄大で力強い曲想の『ジュピター』。
モーツァルトの最後の傑作交響曲2曲を収録した1枚で、ショルティとヨーロッパ室内管弦楽団の初共演となった、両曲とも彼にとって初録音にあたる貴重な演奏を収録したアルバムである。
ところで我が国におけるショルティの評価は不当に低いと言わざるを得ない。
現在では、歴史的な名盤と評されているワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」以外の録音は殆ど忘れられた存在になりつつある。
これには、我が国の音楽評論家、とりわけとある影響力の大きい某音楽評論家が自著においてショルティを、ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評していることに大きく起因していると思われるが、かかる酷評を鵜呑みにして、例えば本盤の演奏のような名演を一度も聴かないのはあまりにも勿体ないと言える。
ショルティの様々な楽曲の演奏に際しての基本的アプローチは、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さを全面に打ち出したものであり、その鋭角的な指揮ぶりからも明らかなように、どこをとっても曖昧な箇所がなく、明瞭で光彩陸離たる音響に満たされていると言えるところだ。
こうしたショルティのアプローチは、様相の変化はあっても終生にわたって殆ど変わりがなかった。
したがって、楽曲によっては、力づくの強引さが際立った無機的な演奏も散見され、それがいわゆるアンチ・ショルティの音楽評論家を多く生み出す要因となったことについて否定はできないと思われるが、それでも、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。
本盤の両曲の演奏においても、そうした聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さには大なるものが存在していると言えるところである。
ショルティは、その芸風との相性があまり良くなかったということもあって、モーツァルトのオペラについては、主要4大オペラのすべてをスタジオ録音するなど、確固たる実績を遺しているが、交響曲については、わずかしか演奏・録音を行っていない。
しかしながら、1980年代に入ると、芸風に円熟味や奥行きの深さが加わってきたとも言えるところであり、その意味においては、本盤の演奏は、ショルティによるモーツァルトの交響曲演奏の1つの到達点とも言うべき名演と言えるのかもしれない。
本盤の演奏は、若者たちのオーケストラと巨匠指揮者の組み合わせの魅力が十分に発揮された演奏である。
こねくりかえした部分が全くない、自然で、率直な、若々しいモーツァルトが実にフレッシュ。
もちろん、本演奏においても、楽想を明晰に描き出していくというショルティならではのアプローチは健在であり、他の指揮者による両曲のいかなる演奏よりも、メリハリのある明瞭な演奏に仕上がっていると言えることは言うまでもないところだ。
第40番は第2版を用いているが、第1楽章冒頭から1つ1つのフレーズに意味があり、感情の陰影も極めて豊か。
第41番も、溌剌とした中にもデリカシーに欠けておらず、数多いこの2曲の録音の中でも注目すべきものとなっている。
もちろん、これら両曲には他に優れた演奏が数多く成し遂げられており、本演奏をベストの演奏と評価することはなかなかに困難であると言わざるを得ないが、一般的な意味における名演と評価するにはいささかも躊躇するものではない。
また、若者たちで構成されているヨーロッパ室内管弦楽団も、ショルティの確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮し、清新な名演奏を展開している点も高く評価したい。
音質も、英デッカによる見事な高音質録音であり、1984年のスタジオ録音とは思えないような鮮度を誇っているのも素晴らしい。
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1970年代半ばのカラヤンは、耽美的表現が完成した時期であり、カラヤンの切れ味鋭い棒の魔術をたっぷりと堪能できる。
演奏は文句のつけようがないほど素晴らしく、カラヤンはチャイコフスキーを十八番にして、得意中の得意としていたが、豪壮華麗な演奏で、チャイコフスキーらしいチャイコフスキーであることは間違いない。
ベルリン・フィルとの関係が最も良好であったこと、オーケストラの機能とカラヤンの表現意欲がピークにあったことをこのディスクは示す。
交響曲第4番はこれが6度目の録音。
「第4」はライヴ的な迫力が魅力の1971年盤と、最晩年の荘重な巨匠風の名演を聴かせてくれる1984年盤の間にあって、若干影が薄い感があるが、全盛期のカラヤンとベルリン・フィルの黄金コンビが成し遂げた最も完成度の高い名演は、この1976年盤ではなかろうか。
カラヤンは、優美なレガートを軸としつつ、どんなに金管を力奏させても派手すぎることなく、内声部たる弦楽器にも重量感溢れるパワフルな演奏を求め、ティンパニなどの打楽器群も含めて重厚な演奏を繰り広げたが、こうした演奏は、華麗で分厚いオーケストレーションを追求し続けたチャイコフスキーの楽曲との抜群の相性を感じる。
同時代の巨匠ムラヴィンスキーは、チャイコフスキーの「第5」を得意とし、インテンポによる荘重な名演を成し遂げたが、これに対してカラヤンの演奏は、テンポを目まぐるしく変えるなど劇的で華麗なもの。
交響曲第5番は、これが4度目の録音。
ムラヴィンスキーの「第5」は確かに普遍的な名演に違いないが、カラヤンの「第5」も、チャイコフスキーの音楽の本質を的確に捉えた名演だと思う。
まさに両者による名演は、東西の両横綱と言っても過言あるまい。
重厚でうなるような低弦、雷鳴のように轟くティンパニ、天国から声が響いてくるような甘いホルンソロなど、ベルリン・フィルの演奏はいつもながら完璧であり、そうした個性派の猛者たちを巧みに統率する全盛期のカラヤン。
この黄金コンビの究極の名演の1つと言ってもいいだろう。
生涯に何度も「悲愴」を録音したカラヤンであるが、これが6度目の録音。
先般、死の前年の来日時の録音が発売されて話題となったが、それを除けば、ベルリン・フィルとの最後の録音が本盤ということになる。
1988年の来日盤は、ライヴならではの熱気と死の前年とは思えないような勢いのある演奏に仕上がっているが、ベルリン・フィルの状態が必ずしもベストフォームとは言えない。
その意味で、カラヤンとベルリン・フィルという黄金コンビが成し遂げた最も優れた名演ということになれば、やはり本盤を第一にあげるべきであろう。
第1楽章の第1主題の展開部や第3楽章の終結部の戦慄を覚える程の激烈さ、第1楽章の第2主題のこの世のものとも思えないような美しさ、そして第4楽章の深沈とした趣き、いずれをとっても最高だ。
この黄金時代の録音は、録音の良さもさることながら、完全無欠なものに仕上がっていて、見事にカラヤン色に染められてしまったオーケストラの音色を味わう事が出来る最上の輸入廉価盤である。
カラヤンの録音は往々にしてホールの比較的後方から聴いているような柔らかい音色と、包み込まれる様なふくよかな中低域がその特色であり魅力でもあるかと思う。
全体的にこの上なく美しいチャイコフスキーで、いかにもカラヤンらしい表現ではあるけれども、ファーストチョイスで問題ないだろう。
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2013年2月17&21日、ロンドン、バービカンセンターに於けるライヴ録音。
2011年にリリースされた交響曲第4番「ロマンティック」が、近年の充実ぶりを示す演奏内容との高評価を得ていたハイティンク&ロンドン交響楽団が、今度はブルックナーの交響曲第9番をレコーディング。
ハイティンクの円熟を感じさせる素晴らしい名演の登場だ。
ハイティンクは、全集マニアとして知られ、さすがにハイドンやモーツァルトの交響曲全集は録音していないが、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなど、数多くの作曲家の交響曲全集のスタジオ録音を行ってきているところだ。
ブルックナーについても、ハイティンクは早くも40代前半にコンセルトヘボウ・アムステルダムと交響曲全集録音を完成させ、今日に至る豊富なディスコグラフィからも、当代有数のブルックナー指揮者としてのハイティンクの業績にはやはり目を瞠るものがある。
そのなかでも近年のハイティンクが、良好な関係にある世界有数の楽団を指揮したライヴ演奏の数々は内容的にも一際優れた出来栄えをみせているのは熱心なファンの間ではよく知られるところで、このたびのロンドン交響楽団の第9番もまたこうした流れのなかに位置づけられるものと言えるだろう。
既に、80歳を超えた大指揮者であり、近年では全集のスタジオ録音に取り組むことはなくなったが、発売されるライヴ録音は、一部を除いてさすがは大指揮者と思わせるような円熟の名演揃いであると言っても過言ではあるまい。
本盤に収められたブルックナーの交響曲第9番も、そうした列に連なる素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。
ハイティンクは、同曲をコンセルトヘボウ・アムステルダム(1965年)(1981年)とともに2度スタジオ録音を行っており、オーケストラの名演奏もあって捨てがたい魅力があるが、演奏全体の持つスケールの雄大さや後述の音質面に鑑みれば、本演奏には敵し得ないと言えるのではないだろうか。
ベートーヴェンやマーラーの交響曲の演奏では、今一つ踏み込み不足の感が否めないハイティンクではあるが、ブルックナーの交響曲の演奏では何らの不満を感じさせない。
本演奏においても、ハイティンクは例によって曲想を精緻に、そして丁寧に描き出しているが、スケールは雄渾の極み。
重厚さにおいてもいささかも不足はないが、ブラスセクションなどがいささかも無機的な音を出すことなく、常に奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。
これぞブルックナー演奏の理想像の具現化と言っても過言ではあるまい。
悠揚迫らぬインテンポを基調としているが、時として効果的なテンポの振幅なども織り交ぜるなど、その指揮ぶりはまさに名人芸の域に達していると言ってもいいのではないか。
ハイティンク自身によるものとしては過去最長の演奏時間を更新しているが、実演特有の有機的な音楽の流れに、持ち前のひたむきなアプローチでじっくりと神秘的で崇高なるブルックナーの世界を聴かせてくれる。
ハイティンクの確かな統率の下、ロンドン交響楽団も圧倒的な名演奏を展開しており、とりわけホルンをはじめとしたブラスセクションの優秀さには出色のものがあると言えるだろう。
いずれにしても、本演奏は、現代を代表する大指揮者の1人であるハイティンクによる円熟の名演と高く評価したい。
そして、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。
音質の鮮明さに加えて、臨場感溢れる音場の広さは見事というほかはなく、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。
マルチチャンネルで再生すると、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的であるとすら言えるだろう。
ハイティンクによる素晴らしい名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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2015年07月29日
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スメタナ弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲の名演としては、1976〜1985年という約10年の歳月をかけてスタジオ録音したベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が名高い。
さすがに、個性的という意味では、アルバン・ベルク弦楽四重奏団による全集(1978〜1983年)や、近年のタカーチ弦楽四重奏団による全集(2002年)などに敵わないと言えなくもないが、スメタナ四重奏団の息のあった絶妙のアンサンブル、そして、いささかもあざとさを感じさせない自然体のアプローチは、ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力をダイレクトに聴き手に伝えることに大きく貢献している。
もちろん、自然体といっても、ここぞという時の重量感溢れる力強さにもいささかの不足はないところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた美しい演奏というのが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏の最大の美質と言っても過言ではあるまい。
ベートーヴェンの楽曲というだけで、やたら肩に力が入ったり、はたまた威圧の対象とするような居丈高な演奏も散見されるところであるが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏にはそのような力みや尊大さは皆無。
ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力を真摯かつダイレクトに聴き手に伝えることに腐心しているとも言えるところであり、まさに音楽そのものを語らせる演奏に徹していると言っても過言ではあるまい。
本盤に収められたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番と第14番は、前述の名盤の誉れ高い全集に収められた弦楽四重奏曲第12番と第14番の約20年前の演奏だ。
全集があまりにも名高いことから、本盤の演奏はいささか影が薄い存在になりつつあるとも言えるが、レコード・アカデミー賞受賞盤でもあり、メンバーが壮年期を迎えた頃のスメタナ弦楽四重奏団を代表する素晴らしい名演と高く評価したい。
演奏の基本的なアプローチについては、後年の全集の演奏とさしたる違いはないと言える。
しかしながら、各メンバーが壮年期の心身ともに充実していた時期であったこともあり、後年の演奏にはない、畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出してくるような強靭な生命力が演奏全体に漲っていると言えるところだ。
したがって、後年の円熟の名演よりも本盤の演奏の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないとも言える。
第12番と第14番は、ベートーヴェンが最晩年に作曲した弦楽四重奏曲でもあり、その内容の深遠さには尋常ならざるものがあることから、前述のアルバン・ベルク弦楽四重奏団などによる名演などと比較すると、今一つ内容の踏み込み不足を感じさせないわけではないが、これだけ楽曲の魅力を安定した気持ちで堪能することができる本演奏に文句は言えまい。
いずれにしても、本盤の演奏は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の魅力を安定した気持ちで味わうことが可能な演奏としては最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。
音質は、1970、71年のスタジオ録音ではあるが、比較的満足できるものであった。
しかしながら、先般、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤がなされ、圧倒的な高音質に生まれ変わったところだ。
したがって、SACD再生機を有している聴き手は、多少高額であっても当該シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤をお薦めしたいが、SACD再生機を有していない聴き手や、低価格で鑑賞したい聴き手には、本Blu-spec-CD盤をお薦めしたい。
第13番及び大フーガ、第15番、第16番についても今般Blu-spec-CD化がなされたが、従来CD盤との音質の違いは明らかであり、できるだけ低廉な価格で、よりよい音質で演奏を味わいたいという聴き手にはBlu-spec-CD盤の購入をお薦めしておきたいと考える。
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このセットはモーツァルト没後200周年記念として1990年にフィリップスから刊行された全180枚のCDからなる『ザ・コンプリート・モーツァルト・エディション』の第8巻「ヴァイオリン協奏曲集」及び第9巻「管楽器のための協奏曲集」として組み込まれていたもので、後に割り当てられていたCD9枚を合体させた形で再販されたが、これは更にそのリイシュー盤として独立させたものになる。
多少古いセッションだが、それぞれが既に評判の高かった名演集で録音状態も極めて良好なので、入門者や新しいモーツァルト・ファンにも充分受け入れられる優れたサンプルとしてお薦めしたい。
またオリジナルのコンプリート・エディションの方は限定盤だったために現在プレミアム価格が付いており、入手困難な状況なのでコレクションとしての価値も持ち合わせている。
シェリングのソロによるヴァイオリン協奏曲は独奏用が6曲、ジェラール・プレとの『2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネハ長調』及び2曲の『ロンド』と『アダージョホ長調』がアレクサンダー・ギブソン指揮、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の協演で収められている。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲は偽作も含めると都合7曲存在するが、ここでは完全な偽作とされている第6番変ホ長調は除外して、偽作の疑いのある第7番ニ長調は採り上げている。
シェリングの清澄で潔癖とも言える音楽作りが真摯にモーツァルトの美感を伝えてくれる演奏だ。
またCD4にはアカデミア室内のコンサート・ミストレスだったアイオナ・ブラウンと今井信子のソロ、アカデミア室内との『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調』及び『ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための協奏交響曲イ長調』の復元版も収録されている。
CD5からの管楽器奏者達は当時一世を風靡したスター・プレイヤーが名を連ねている。
2曲の『フルート協奏曲』と『アンダンテハ長調』はいずれもイレーナ・グラフェナウアーのソロ、そして彼女にマリア・グラーフのハープが加わる『フルートとハープのための協奏曲ハ長調』、カール・ライスターによる『クラリネット協奏曲イ長調』、クラウス・トゥーネマンの『ファゴット協奏曲変ロ長調』、ペーター・ダムによる4曲の『ホルン協奏曲』と『ロンド変ホ長調』、ハインツ・ホリガーの『オーボエ協奏曲ハ長調』で、オーケストラは総てネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内管弦楽団がサポートしている。
中でもライスターのクラリネットは白眉で、精緻で全く隙のないテクニックに彼特有の清冽な音楽性が冴え渡る演奏だ。
尚ペーター・ダムは『ホルン協奏曲』全曲を1974年にブロムシュテット&シュターツカペレ・ドレスデンとも録音しているが、こちらは1988年の2回目のセッションで、より古典的で室内楽的なスタイルを持っている。
最後の2枚に入っている4つの管楽器のための協奏交響曲については、オーレル・ニコレのフルートとヘルマン・バウマンのホルンが加わる復元版と、現在残されているオーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンのソロ楽器群による従来版の2種類が演奏されている。
パリ滞在中のモーツァルトによって作曲されたと推定されるソロ楽器はフルート、オーボエ、ファゴット、ホルンで、ここではアメリカの音楽学者ロバート・レヴィンがオーボエの替わりにフルートを入れ、クラリネットのパートをオーボエに移した復元版を採用している。
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ドイツのバス・バリトン、ハンス・ホッターの十八番を集めたリサイタル盤で、1973年ウィーンでのセッションになりホッター64歳の至芸がジェフリー・パーソンズのピアノ伴奏で収録されている。
筆者自身LP盤で聴き古した名演でもあり、またホッターの歌曲集としては数少ないステレオ録音なので新しいリマスタリングによって良好な音質でリニューアルされたことを評価したい。
ワーグナー歌手としても一世を風靡した名バス・バリトン、ホッターのもう一方の極めつけがシューベルトを始めとするドイツ・リートであった。
理知的で洗練された歌手であったホッターは持ち前の声量をコントロールして、ドイツ・リートでも抜きん出た存在で、フィッシャー=ディースカウの知的な歌唱とは対極にある、しみじみとした深い味わいは絶品だ。
ここに収められたヴォルフとシューベルトのアンソロジーはホッターが生涯に亘って歌い込んだ、いわば完全に手の内に入れた黒光りするようなレパートリーだけにその表現の深みと共に、時には呟き、時には咆哮する低く太い声が無類の説得力を持って語りかけてくる。
ホッターのステレオ録音によるリサイタル盤にはリヒャルト・シュトラウスの歌曲集を歌ったLPもあったので、できればそちらの方の復活も期待したい。
ホッターは稀代のワーグナー歌いとして名を留めているが、そのスケールの大きい、しかも内面的にも優れた表現ではシューベルトの『タルタロスの群れ』が素晴らしいサンプルで、この曲の不気味な嘆きをスタイルを崩さずに表現しきっている。
また『春に』はジェラルド・ムーアとの1957年の朗々たる名唱が残されているが、ここに収められた新録音ではホッターがこの年齢になって表出し得たある種の諦観がつきまとっていて、その高踏的な感傷が魅力だし、『鳩の使い』は彼の低い声がかえって純朴で内気な青年の憧れを感じさせる。
一方ヴォルフでは『鼓手』の朴訥とした呟きがフィッシャー=ディースカウの技巧を凝らした洗練と好対照をなしていて面白いが、ホッターは田舎出の少年の奇妙な空想を絶妙に歌い込んでいる。
欲を言えば『アナクレオンの墓』も聴きたいところだがこのCDには選曲されていない。
ここではまたジェフリー・パーソンズの巧みな伴奏も聴きどころのひとつで、ホッターのような低い調性で歌う歌手の場合、声の響きとのバランスを保つことと声楽パートを引き立てながら効果的な伴奏をすること自体かなりのテクニックが要求されるが、パーソンズはその点でも万全なピアニストだった。
廉価盤のため歌詞対訳は一切省略されていて、ごく簡単な曲目一覧と録音データ及びLP初出時のジャケット写真が掲載されている4ページのパンフレット付。
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2015年07月28日
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スイスのブッフォ・バス歌手フェルナンド・コレナ[1916-1984]は、ジュネーヴで生まれたが、父親はトルコ人、母親はイタリア人であった。
最初は神学を学んだが、地元の声楽コンテストで優勝したことを期に声楽に転向、ジュネーヴ音楽院で学び、1940年にチューリッヒで歌手デビューを果たす。
コレナの名を一躍高めたのは、1955年エディンバラ音楽祭での『ファルスタッフ』での題名役。
同じ年にメトロポリタン歌劇場にもモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロ役でデビューし、その後性格的なバス歌手として一世を風靡した。
さて、本盤のオリジナルLPのタイトル『CORENA IN ORBIT』はコレナ十八番集とでも言ったらいいだろうか。
この軽音楽集も長い間廃盤になっていた音源で、一代のバッソ・ブッフォとして欧米のオペラ劇場を席巻したフェルナンド・コレナの一捻りした選曲が興味をそそるCDだ。
コレナ本来のコミカルな役柄はボーナス・トラックにカップリングされた4曲のアリアで堪能できるが、それらは彼のレパートリーの中でもまさに至芸と言えるもので、滑稽な舞台姿を髣髴とさせる表現力は他の歌手の追随を許さない。
しかしここではまたトラック4の『ベゾアン・ドゥ・ヴー』で聴かせる愛の囁きや、トラック17のヨハン・シュトラウスのオペレッタ『こうもり』に挿入されたガラ・パフォーマンスからのシャンソン『ドミノ』のフランス語の巧みな歌いまわしと哀愁を漂わせた表情が低い声の歌手が持っている意外な可能性を披露している。
またトラック21の『プレチェネッラ』でもコレナのキャラクターのひとつ、つまり道化は人を笑わせるのとは裏腹に、常に心に悲しみを隠しているという性格役者の巧みさは一聴の価値がある。
コレナはそのキャリアの中で幾つかのセリオの役柄も器用にこなしているが、元来彼のブッフォ的な性格は持って生まれた資質だったようだ。
少なくともそう信じ込ませるほど彼の喜劇役者としての才能は傑出していた。
頑固でケチ、好色で間抜け、知ったかぶりの権威主義者など最も人間臭い性格の役柄で、しばしばとっちめられてひどい目に遭う。
これはイタリアの伝統芸能コンメーディア・デッラルテの登場人物から受け継がれたキャラクターだが、コレナの演技は常にドタバタ喜劇になる一歩手前で踏みとどまっている。
それは彼があくまでも主役を引き立てる脇役であることを誰よりも自覚していたからに違いない。
現在彼のような強烈な個性を持ったバッソ・ブッフォが殆んど現れないのは演出上の役柄に突出した人物が求められなくなったことや、指揮者が歌手のスタンド・プレーを許さなくなったことなどがその理由だろう。
その意味ではオペラ歌手達が自由に個性を競い合った時代の最良のサンプルと言えるのではないだろうか。
前半の16曲は総て1962年にロンドンのデッカ・スタジオで収録されたステレオ録音で、オーケストラは明記されていないが音質、分離状態とも極めて良好。
一方後半のボーナス・トラックのうち18から23までは『イタリアン・ソングス』と題されたもう1枚のLPからのカップリングで1954年のモノラル録音、最後のオペラ・アリア集が1950年及び54年のモノラル録音で、アルベルト・エレーデ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団とジュネーヴのヴィクトリア・ホールで行ったセッションになる。
尚トラック17についてはステレオ録音だがデータ不詳と記載されている。
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2013年亡くなったコーラスの権威、エリック・エリクソンへの追悼としてワーナーからリリースされた6枚組のバジェット・ボックスで、まさに合唱の最高峰、エリクソン畢生の名演がここに蘇った。
CD1−3が『5世紀に亘るヨーロッパの合唱音楽』そしてCD4−6が『華麗な合唱音楽』というタイトルが付けられた1968年から75年に録音されたふたつの曲集をまとめてある。
ルネサンスから現代までのナンバーを網羅し、とくに近・現代曲については難曲揃いで実際に音になっているものも少ないだけに、資料的価値のある曲集であるとも言える。
エリクソンは生涯をコーラスに捧げた合唱界の大御所というべき指揮者だけに、いずれも彼のスピリットとテクニックの真髄を感じさせる演奏が圧巻だ。
コーラス・グループはエリクソンによって鍛えられたストックホルム放送合唱団及びストックホルム室内合唱団で、彼らは一流どころの指揮者やオーケストラとも多く協演しているが、実際音楽の精緻さと表現力の多彩さは混声合唱の魅力を満喫させてくれる。
尚、この作品集では殆んどの曲がア・カペラ、つまり器楽伴奏なしで歌われている。
エリクソンはバーゼル・スコラ・カントールムで古楽を修めた指揮者でもあり、バード、ダウランド、タリスなどでも機智と抒情に富んだ豊かなファンタジーが聴き逃せないが、このセットの中でも20世紀の合唱曲は難易度から言えば最高度のアンサンブルの技術を問われる作品ばかりで、シェーンベルク、バルトーク、ピッツェッティ、メシアン、ジョリヴェ、ペンデレツキなどの創造した斬新な音響に耳を奪われる。
透明感を醸し出す和声とその思いがけない進行、微分音やグリッサンド、そして要所要所で響かせる純正調和音の深みなどはコーラスならではの味わいを持っている。
また楽音だけでなく叫び声や呟き、巻き舌や音程のない息の音など、あらゆる歌唱法の試みが駆使されているのも興味深いところだ。
まさしくエリクソンとその手兵によるこれらの演奏は、すべての合唱団の規範となるべきものであろう。
合唱音楽について何か言おうと思うなら、これを聴いていなければ発言も憚られるだろうし、どの1曲を取り上げても、その美しさだけではない、得も言われぬ説得力を強く感じる。
ライナー・ノーツは15ページで演奏曲目と録音データ、独、英語による簡易な解説付で、いくらか古いセッションになるが、リマスタリングの効果もあって音質は極めて良好。
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プレヴィンはオルフのカルミナ・ブラーナを2度ににわたってスタジオ録音を行っている。
最初の録音が本盤に収められたロンドン交響楽団ほかとの演奏(1974年)、そして2度目の録音がウィーン・フィルほかとの演奏(1993年)である。
いずれ劣らぬ名演と評価したいが、筆者としては、プレヴィンの全盛期はロンドン交響楽団とともに数々の名演を成し遂げていた1970年代前半であると考えており、本盤に収められた演奏の方を僅かに上位に掲げたいと考えている。
それにしても、本演奏は素晴らしい。
何が素晴らしいかと言うと、とにかく奇を衒ったところがなく、カルミナ・ブラーナの魅力を指揮者の恣意的な解釈に邪魔されることなく、聴き手がダイレクトに味わうことが可能であるという点である。
同曲はあまりにもポピュラーであるため、個性的な解釈を施す指揮者も多く存在しているが、本演奏に接すると、あたかも故郷に帰省してきたような安定した気分になるとも言えるところだ。
プレヴィンは、クラシック音楽の指揮者としてもきわめて有能ではあるが、それ以外のジャンルの多種多様な音楽も手掛ける万能型のミュージシャンである。
それ故にこそ、本演奏のようなオーソドックスなアプローチをすることに繋がっていると言えるだろう。
楽曲を難しく解釈して峻厳なアプローチを行うなどということとは全く無縁であり、楽曲をいかにわかりやすく、そして親しみやすく聴き手に伝えることができるのかに腐心しているように思われる。
プレヴィンは、ポピュラー音楽の世界からクラシック音楽界に進出してきた経歴を持っているだけに、楽曲の聴かせどころのツボをしっかりとおさえた明瞭なアプローチを行うのが特徴と言える。
本演奏においてもそれは健在で、特に、楽曲がカルミナ・ブラーナという世俗カンタータだけに、かかるプレヴィンの明瞭なアプローチ、演出巧者ぶりが見事に功を奏している。
本演奏のどの箇所をとっても曖昧模糊には陥らず、各フレーズをくっきりと明快に描くのに腐心しているとさえ感じられるところである。
かかるアプローチは、ベートーヴェンやブラームスの交響曲などのような陰影に富む楽曲の場合、スコアに記された音符の表層だけをなぞった浅薄な演奏に陥る危険性を孕んでいるが、前述のように、楽曲が当該アプローチとの相性が抜群のカルミナ・ブラーナであったということが、本演奏を名演にした最大の要因であるとも考えられるところだ。
聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりは心憎いばかりであり、プレヴィンの豊かな音楽性が本演奏では大いにプラスに働いている。
特筆すべきはロンドン交響楽団、そして同合唱団及び聖クレメント・デインズ小学校少年合唱団の見事な好演であり、シーラ・アームストロング(ソプラノ)、ジェラルド・イングリッシュ(テノール)、トーマス・アレン(バリトン)による名唱も相俟って、本名演をより一層魅力のあるものにするのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。
クラシック音楽入門者が、カルミナ・ブラーナを初めて聴くに際して、最も安心して推薦できる演奏と言えるところであり、本演奏を聴いて、同曲が嫌いになる聴き手など、まずはいないのではないだろうか。
いずれにしても、本演奏は、プレヴィンによる素晴らしい名演であり、同曲を初めて聴く入門者には、第一に推薦したい名演であると評価したい。
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2015年07月27日
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ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけてマーラーの交響曲全集を録音したが、本盤に収められたマーラーの「第1」は、その初期の録音(1998年)である。
ひと昔前のブーレーズと言えば「冷徹なスコア解析者」といったイメージの名演が多かったが、最近はそれに「人間味」が加わって、良くも悪くも万人向けのスタンスにシフトしてきたと考えられる。
1990年代後半から始まったこのマーラー・チクルスもその流れを汲んでおり、「聴きやすく」「わかりやすい」マーラー像をわれわれに提示してくれているような新たな名演がリリースされている。
演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。
ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。
ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃にはすっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜め、オーソドックスな演奏を行うようになった。
もっとも、これは表面上のことで、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。
楽曲のスコアに対する追求の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在である。
本演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴であり、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の1つと言えるだろう。
もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追求した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。
本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、マーラーの「第1」のスコアを明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるようにつとめているように感じられる。
もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。
黙っていても大編成のスコア1音1音に、目に見えてくるような透徹さが保たれている。
なおかつそれら各部が有機的に結合されつつ前進していくため、感情移入的演奏を耳にすると初心者には雑多に聴こえてしまいがちなマーラーの濃厚なロマンティシズムが、知らず知らずのうちにすっと聴く者に入ってくるのだ。
さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能である。
これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。
いずれにしても本演奏は、バーンスタイン&コンセルトヘボウ・アムステルダム(1987年ライヴ)やテンシュテット&シカゴ交響楽団(1990年ライヴ)とあらゆる意味で対極にあるとともに、ワルター&コロンビア交響楽団(1961年)の名演から一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。
もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。
このようなブーレーズの徹底した純音楽的なアプローチに対して、最高のパフォーマンスで応えたシカゴ交響楽団の卓越した演奏にも大きな拍手を送りたい。
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クラウディオ・アバドが1985年から90年にかけてウィーン・フィルと録音したベートーヴェン序曲集は、当初2枚組のCDで91年にリリースされたが、その後製造中止になっていた。
2011年にリイシューされた日本盤では、このうち『アテネの廃墟』『シュテファン王』『聖名祝日』を除いた8曲を1枚のSHM−CDにまとめていたが、今年になってようやく全曲が2枚のSHM−CDで復活した。
いずれの演奏も当時から評判の高かったセッション録音で、このうち『コリオラン』及び『聖名祝日』は既に廃盤になったグラモフォンのベートーヴェン・コンプリート・エディション第3巻オーケストラル・ワークスにも加えられていた。
ちなみにアバドはベルリン・フィルとも一連の劇音楽集『エグモント』『アテネの廃墟』『献堂式』『レオノーレ・プロハスカ』の全曲版を録音していて、それらはコンプリート・エディションの方に組み込まれている。
アバドの演奏は、ややイタリア的な熱狂と明るさが強く出すぎている面もあるが、オケがウィーン・フィルのためもあってか響きがなめらかで流麗だ。
ウィーン・フィルの持ち味でもあるシックで瑞々しい響きを最大限に活かし、しかもそれに決して溺れることなく堂々とした自己主張を行っている。
流れるようなカンタービレでベートーヴェンに対する新たな美学を描いてみせた秀演で、音楽の内部から湧き出るような歌心を表出させることによって、滞ることのない奔流のような推進力でそれぞれの曲に生命感が与えられている。
また音楽の設計も緻密で、説得力があり、この指揮者の豊かなオペラ経験がベートーヴェンの作品に内在する生命力を解き放つのに大きく役立っているようである。
それはかつての質実剛健で重厚なベートーヴェンのイメージからすれば、意外なくらい明るく軽快な趣を持っているが、かえってスケールの大きさと劇音楽としてのドラマ性の獲得にも成功している。
かなり個人的な解釈が強く、表情にややオーヴァーなところが無くはないが、序曲であるがゆえにドラマティックな音楽に仕立てあげるということも一理ある。
その成否はともかく、少なくともアバドに微塵の迷いも曖昧さもなく、エネルギッシュな音楽の推進力とウィーン・フィルの厚みと奥行きのある響きがひとつの象徴的なベートーヴェンらしさを醸し出している。
特に堂々として骨格の太い『献堂式』、悲劇色を強く打ち出した『コリオラン』『エグモント』、生き生きとして力強い『フィデリオ』、演出のうまさが光る『レオノーレ』第1番、壮大で最後に激情的に盛り上げる『レオノーレ』第3番では、アバドの長所が遺憾なく発揮されている。
録音会場となったウィーン・ムジークフェライン・グローサーザールの潤沢な残響も決して煩わしいものではない。
ベートーヴェンの交響曲全集と同様、ウィーン・フィルがアバドによってイタリア趣味の洗礼を受けた時期のセッションとして興味深い。
序曲集にはカラヤン&ベルリン・フィルのものもあるが、ウィーン・フィルの響きのほうが序曲の表情としては生彩がある。
音質確認のために古い1991年盤と今回のSHM−CDルビジウム・カッティング仕様を改めて聴き比べてみたが、やはり後者が俄然優っている。
楽器の定位がより明瞭で、雑味が払拭され磨きをかけたような音質が得られている。
ただし1曲目の『プロメテウスの創造物』冒頭アダージョの導入部でのごく小さな傷のような音飛びは改善されていないが、これはおそらくオリジナル・マスターに由来するものと思われる。
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ニューイヤー・コンサートが最も輝いた時(1987年1月1日)の歴史的なライヴ録音である。
惜しくも、たった1度しか実現しなかったカラヤン指揮ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートのライヴ録音が音源だ。
思えば今から四半世紀以上前のものだが、おそらく歴代ニューイヤー・コンサートの録音の中でも随一の出来だと思われる。
これは、ウィーン・フィルの楽団長が、最も思い出に残るニューイヤー・コンサートとして、この演奏会をあげていたことでも分かる通り、カラヤンの下、ウィーン・フィルが溢れんばかりの美音を提供し、カラヤンの意図を十全に汲み出していて、オーケストラとしても会心の演奏と言える。
1曲目、「こうもり」序曲の冒頭を聴いただけで、他の演奏との格の違いが実感される。
しかも、ニューイヤーというと、毎年曲が変わるので、どうしても初めて聴くような、あえて繰り返し聴かなくても……という曲が混じってしまうのだが、ここでは曲目を見て頂ければ分かるように、1曲残らず名曲がきら星のごとく並んでおり、シュトラウス・ウィンナ・ワルツ・ベストと何ら変わらない選曲であり、これも、カラヤンだけが許されたウィーン・フィルからの特別な計らいなのである。
したがって、これを、全てのクラシックファン、ことに初めてワルツ・ポルカを聴かれる方に、強く推薦したい。
リチャード・オズボーンの伝記によると、カラヤンは、この指揮の直前は、健康状態も最悪で、気力も相当に萎えていたというが、本盤を聴くと、どの楽曲とも生命力に満ち溢れた演奏を行っており、老いの影など微塵も感じさせない。
充分でない体調を押してなのだが、馥郁たるウィーン・フィルのサウンドを重厚に引き出して、しかもシュトラウス・ワルツの極意というか独特の呼吸が伴っているのは流石同国オーストリア人同士の阿吽なのかも知れない。
それにしても、カラヤンの指揮するウィンナ・ワルツは、実に豪華絢爛にして豪奢。
それでいて、高貴な優美さを湛えており、ウィーン・フィルも水を得た魚の如く、実に楽しげに演奏をしている。
ウィンナ・ワルツが持つ独特の『間』と『アクセント』を見事に体現しており、その1音1音に命を吹き込んだこの演奏は、どの楽曲にも生命力が満ち溢れている。
そして何よりも、ウィーン・フィルとカラヤン自身が音楽することを楽しんでいることが伝わってくる演奏である。
カルロス・クライバーもこんな演奏がしたくて、2回もニューイヤー・コンサートを引き受けたのかもしれない。
バトルの「春の声」での独唱も見事であり、このように役者が揃ったニューイヤー・コンサートは、まさに空前にして絶後であり、今後ももはや決して聴くことはできないだろう。
残念なのは、当時演奏されたはずの「皇帝円舞曲」が収録されていないことであるが、それを除けば、あまた市場に溢れている各種のニューイヤー・コンサートのCDの中でも、随一の名盤と言うべきであろう。
幸運にも筆者はこのライヴをテレビ中継で見ることができたのだが、その緊迫感ある演奏は以後(例えばクライバーやムーティが登場した折にも)お目にかかれなかったと記憶している。
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2015年07月26日
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最近プラガ・ディジタルスからリリースされたSACDの1枚で、若き日のフリードリヒ・グルダが弾くモーツァルトのピアノ協奏曲第9番変ホ長調『ジュノーム』、ウェーバーのピアノ小協奏曲へ短調及びR.シュトラウスの『ブルレスケ』の3曲が収録されている。
モーツァルトはカール・ベーム指揮、バイエルン放送交響楽団による1969年9月のステレオ・ライヴで、ウェーバーがフォルクマー・アンドレーエ指揮、ウィーン・フィルとの1956年7月のウィーン・ゾフィエンザールでのモノラル・セッションになり、これは米ロンドン音源らしい。
そして最後のR.シュトラウスがベーム&ウィーン・フィルで1957年8月ザルツブルクにおけるモノラル・ライヴということになる。
このうちベームの指揮する2曲は、オルフェオ・レーベルからもレギュラー盤で手に入るが、いずれもSACD化によって更に高音の伸びと艶やかな響きが再現され、音場に奥行きが出ている。
どの曲でもグルダの軽やかで水面に映えて揺らめく光りのような音色が瑞々しい。
モーツァルトでは第2楽章でのウィーン流の屈託のない抒情が、ベームの巧妙なサポートによって可憐に浮かび上がっているし、またそれぞれの楽章の小気味良いカデンツァもいたってフレッシュで、当時39歳だったグルダの柔軟な感性を示している。
一方華麗なソロが展開されるウェーバーでは高踏的でリリカルな歌心とコーダに向かって邁進する推進力がコンパクトに表現されていて心地良い演奏だ。
またR.シュトラウスの『ブルレスケ』ではグルダらしい余裕を見せたパフォーマンスが特徴的で、こうした曲趣には彼のような高度な遊び心も効果的だ。
この時代のライヴとしては比較的音質に恵まれていて、ベーム&ウィーン・フィルの軽妙洒脱なオーケストラに乗ったグルダのウィットに富んだヴィルトゥオジティが聴きどころだろう。
このシリーズではグルダのSACDは1枚のみで、他のレパートリーも聴き比べてみたい気がするが、こうした古い音源のSACD化については、先ずオリジナル・マスターの質自体が問われる。
いくらDSDリマスタリングをしても録音自体の質やその保存状態が悪ければ奇跡的な蘇生は望めない。
プラガは過去にデータや音源の改竄で物議を醸したレーベルなので注意が必要だが、この曲集に関しては充分その価値が認められる。
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ここに収められたCD26枚のバッハの教会カンタータ集は以前アルヒーフから同内容でリリースされ、既に法外なプレミアム価格で扱われているもので、今回のユニヴァーサル・イタリーによる全歌詞付126ページのブックレットを伴ったバジェット盤企画の快挙を評価したい。
尚BWV26及びBWV51でのソプラノは前者がウルズラ・ブッケル(1966年)、後者がマリア・シュターダー(1959年)が歌った旧録音の方が採用されている。
カール・リヒターは1959年からこのカンタータ集の録音に取り組み、その精力的な活動は78年まで続けられたが、彼が54歳の若さで他界しなければ、更に多くのセッションを遺してくれたであろうことが惜しまれる。
このセットには教会歴に従いながら75曲の作品が収録されていて、どの曲を聴いても生命力に漲るリヒターの強い個性が発揮された鮮烈な音楽が蘇ってくる。
それはリヒターの一途でひたむきな宗教観とバッハの音楽への斬新な解釈が、音源の古さを通り越してひとつのドラマとして響き渡るからだろう。
勿論リヒターの名を不動にした『マタイ』、『ヨハネ』の両受難曲や『ロ短調ミサ』などの大曲も彼の最も輝かしい演奏の記録には違いないが、彼はプロテスタントの教会で日常的に歌われるカンタータの研究の積み重ねによって、初めてバッハの宗教曲の本質が理解できるようになると考えていた。
確かにバッハが生涯に250曲もの教会カンタータを作曲したとすれば、それはバッハの全作品中最も高い割合で書かれたジャンルになり、如何に心血が注がれた作品群であるかが納得できる。
リヒターが指揮棒を握る時にはソリストやコーラスだけでなく、オーケストラにも彼の熱いスピリットが乗り移ったような統一感が生まれる。
この時代はまだ古楽の黎明期で、モダン楽器とピリオド楽器を混交させながらの奏法も折衷様式をとっているが、そうした条件を補って余りあるほどリヒターの演奏には不思議な普遍性がある。
リヒターの高い精神性に導かれた隙のない、そして全く弛まない緊張感が時代を超越して聴き手に迫る驚くべき手腕は流石だ。
リヒターはルター派の牧師の父を持ち、最初に音楽教育を受けた学校が宗教色の強い環境だったことも彼のその後の活動に色濃く影を落としている。
当然リヒターの少年時代にとって聖書講読や教会歴に沿った行事での演奏は、切り離すことができない生活の一部だったことは想像に難くないし、後のライプツィヒ聖トマス教会のオルガニストを始めとする教会でのキャリアは、バッハの研究者として彼に課された宿命的な仕事だったに違いない。
このカンタータ集は彼のバッハへの哲学が集約された音楽の森とも言うべき優れた内容を持っていて、将来に聴き継がれるべき演奏である筈だ。
特に新しいリマスタリングの表示はなく、足掛け20年に亘る音源なので、時代によって音質に若干のばらつきがあるのは致し方ないが、幸い全体的に鮮明で良質な音響空間が得られていて鑑賞に全く不都合はない。
ブックレットには詳細な曲目、演奏者及び録音データと、リヒターとバッハのカンタータについての英語解説、そしてオリジナルのドイツ語による全歌詞が掲載されている。
ボックス・サイズは13x13x6,5cmでシンプルなクラムシェル・タイプの装丁だが、品の良いコレクション仕様に好感が持てる。
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プラガ・ディジタルスの新リリースになり、ベートーヴェンのトリプル・コンチェルト及びヴァイオリン協奏曲の2曲が収録されている。
クリュイタンス指揮、フランス国立放送管弦楽団との後者の演奏は日本盤のSACDも出ているので全く新しい企画とは言えないが、既にプレミアム価格で取り引きされている入手困難なディスクなので今回の再発を歓迎したい。
一方このメンバーによるトリプル・コンチェルトのSACD化は筆者の知る限りでは初めてで、両者とも保存状態の良好なステレオ音源であることも幸いしてDSDリマスタリングの効果も明瞭だ。
1974年に66歳で亡くなったオイストラフの、もっとも脂ののったころの録音である。
1958年パリにおけるセッションになるヴァイオリン協奏曲では、クリュイタンスの流麗な表現に呼応した色彩感豊かなオーケストラが特徴的で、決して重厚な演奏ではないがベートーヴェンのリリカルな歌心を最大限引き出したサポートが注目される。
オイストラフのヴァイオリンは、本演奏でもその持ち前の卓越した技量を聴き取ることは可能であるが、技量一辺倒にはいささかも陥っておらず、どこをとっても情感豊かで気品に満ち溢れているのが素晴らしい。
オイストラフのソロは自由闊達そのもので、その柔軟な奏法と艶やかな音色から紡ぎだされる旋律には高邁な美しさが感じられる。
ベートーヴェンがこの曲をヴァイオリンの超絶技巧誇示ではなく、あくまでも旋律楽器としての能力を存分に発揮させるメロディーを主眼に置いた曲想で書いたことを証明している。
オイストラフらしい押し出しの良い第1楽章、それに続く第2楽章のヴァリエーションは秩序の中にちりばめられた宝石のようだし、終楽章はさながら歓喜を湛えた舞踏だ。
ドイツらしくないと言われれば否定できないが、こうしたベートーヴェンにも強い説得力がある。
スタイルとしては、やや古めかしさを感じるものの、これほど曲の内面を深く掘り下げた演奏というのも少ない。
いずれにしても、本演奏は、同曲演奏史上でも最も気高い優美さに満ち溢れた名演と高く評価したい。
トリプル・コンチェルトの他のメンバーは、チェロがスヴャトスラフ・クヌシェヴィツキ、ピアノがレフ・オボーリンで、マルコム・サージェント指揮、フィルハーモニア管弦楽団との協演になり同じく1958年のロンドンでのセッションで、音質、分離状態とも極めて良好。
こちらはカラヤン盤のようなスケールはないとしても、しっかりまとめられた造形美とダイナミズムがあり、ソロ同士のアンサンブルも堅牢だ。
1人1人がスタンド・プレイで名人芸を披露するというより、お互いにバランスを尊重した合わせが聴きどころだろう。
この曲も多くの選択肢が存在する名曲のひとつだが、飾り気のない真摯な演奏としてお薦めしたい。
SACD化によって両曲とも高音の輝かしさと音場に奥行きが出て、ノイズも殆んど気にならないくらい低レベルだ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2015年07月25日
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近年では、その活動も低調なチョン・キョンファであるが、本盤に収められたチャイコフスキー&シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏は、22歳という若き日のもの。
次代を担う気鋭の女流ヴァイオリニストとして、これから世界に羽ばたいて行こうとしていた時期のものだ。
チョン・キョンファは、シベリウスのヴァイオリン協奏曲については本演奏の後は1度も録音を行っておらず、他方、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲については、ジュリーニ&ベルリン・フィルとの演奏(1973年ライヴ録音)、デュトワ&モントリオール交響楽団との演奏(1981年スタジオ録音)の2種の録音が存在している。
両曲のうち、ダントツの名演は何と言ってもシベリウスのヴァイオリン協奏曲であろう。
とある影響力のある某音楽評論家が激賞している演奏でもあるが、氏の偏向的な見解に疑問を感じることが多い筆者としても、本演奏に関しては氏の見解に異論なく賛同したい。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏は、なかなかに難しいと言える。
というのも、濃厚な表情づけを行うと、楽曲の持つ北欧風の清涼な雰囲気を大きく損なってしまうことになり兼ねないからだ。
さりとて、あまりにも繊細な表情づけに固執すると、音が痩せると言うか、薄味の演奏に陥ってしまう危険性もあり、この両要素をいかにバランスを保って演奏するのかが鍵になると言えるだろう。
チョン・キョンファによる本ヴァイオリン演奏は、この難しいバランスを見事に保った稀代の名演奏を成し遂げるのに成功していると言っても過言ではあるまい。
北欧の大自然を彷彿とさせるような繊細な抒情の表現など、まさに申し分のない名演奏を展開しているが、それでいていかなる繊細な箇所においても、その演奏には独特のニュアンスが込められているなど内容の濃さをいささかも失っておらず、薄味な箇所は1つとして存在していない。
チョン・キョンファとしても、22歳というこの時だけに可能な演奏であったとも言えるところであり、その後は2度と同曲を録音しようとしていないことに鑑みても、本演奏は会心の出来と考えていたのではないだろうか。
こうしたチョン・キョンファによる至高のヴァイオリン演奏を下支えするとともに、北欧の抒情に満ち溢れた見事な名演奏を展開したプレヴィン&ロンドン交響楽団にも大きな拍手を送りたい。
いずれにしても、本演奏は、チョン・キョンファが時宜を得て行った稀代の名演奏であるとも言えるところであり、プレヴィン&ロンドン交響楽団の好パフォーマンスも相俟って、シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。
他方、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲については、ヴィルトゥオーゾ性の発揮と表現力の幅の広さを問われる楽曲であることから、人生経験を積んでより表現力の幅が増した1981年盤や、ライヴ録音ならではの演奏全体に漲る気迫や熱き生命力において1973年盤の方を上位に掲げたいが、本演奏もチョン・キョンファの卓越した技量と音楽性の高さを窺い知ることが可能な名演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。
音質は、従来CD盤では、LPで聴いていた時に比べ、チョン・キョンファのヴァイオリンの透明感がやや損なわれている印象を受けたが、今般、ついに待望のSACD化がなされるに及んで大変驚いた。
従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。
チョン・キョンファのヴァイオリンの弓使いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力を思い知った次第だ。
いずれにしても、とりわけシベリウスについて、チョン・キョンファとプレヴィン&ロンドン交響楽団による至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができることを大いに歓迎したい。
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イタリア・ヴァイオリン界の双璧といえばウト・ウーギとサルヴァトーレ・アッカルドで、イタリア国内でも彼らは根強い人気を二分している。
幸いどちらも同世代の現役として演奏活動を行っていて、イタリアお家芸の看板ヴァイオリニストといった存在だ。
ウーギは3歳年上のアッカルドと共に、コレッリ以来の伝統芸術を継承する典型的なヴァイオリニストであり、幼い頃から英才教育を受けることができた恵まれた環境に育った。
10歳の時パリに留学してエネスコが亡くなるまでの2年間彼に師事しているので、グリュミオーやメニューインとも同門下とも言えるが、その後に形成されたウーギのスタイルからはイタリアの音楽から切り離すことができない血統のようなものさえ感じられる。
ウーギの磨きぬかれた光沢のある滑らかな弦の響きと屈託のないロマンティシズムから導き出される仄かな官能性には比類がない。
このCDの音源は1979年のアナログ・セッションで、ピアノはマリア・ティーポが弾いている。
モーツァルトのようなシンプルな構造の音楽を完璧に演奏するのは難しい。
曲中に音楽的な表現や奏法の基礎が総て含まれている上に、ごまかしが利かないので演奏者の持ち合わせている長所も欠点もあらわになってしまうからだが、彼らの演奏は一点の曇りもないほど晴朗で、またアンサンブルの合わせでも古典的な均衡を崩さない第一級の手腕を示している。
ウーギの演奏の特徴は楽器が持つ総ての特性を引き出しながら、ムラのない美音を縦横に駆使するカンタービレにある。
ウーギのあざとさのないカンタービレと淀みのない開放的で自然なフレージングがことのほか美しい。
名器ストラディヴァリウスから奏でられる音色も極めて魅力的だが、耽美的でないことも好ましい。
あらゆるフレーズに歌が息づいているがそれが耽美的にならず、古臭さを感じさせないのはウーギがモーツァルトの様式感を決して崩さないからだろう。
一方ナポリ出身のティーポはイタリアでは数少ない女流ピアニストだが、彼女の母親がブゾーニの弟子だったということから名人芸だけでなく、楽理的にも造詣が深いことが想像されるが、ここでは意外にも抑制を効かせた歌心が発揮されていて伴奏者としても秀でた側面を聴かせてくれる。
ちなみにソニーからリリースされたウーギの録音集大成18枚組には何故かこのリコルディ盤のモーツァルト・ソナタ集は含まれていない。
当時のLP1枚分をそのままCD化したものなので収録時間が42分と短く、見開き1枚のイタリア語のリーフレットしか付いていないが、ここでウーギが使用しているヴァイオリンは1701年製のストラディヴァリウスで、かつてベートーヴェンの友人でもあったルドルフ・クロイツァーの所有していた楽器との説明がある。
ストラディヴァリウス特有の明るく伸びやかで、しかも深みのある音色が特徴で、録音状態の良さと相俟ってウーギの至芸が理想的な音質で鑑賞できる1枚だ。
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2015年07月24日
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1950年代〜60年代に活躍した北イタリア、ピアチェンツァ出身のテノール歌手ジャンニ・ポッジ。
1948年にミラノ・スカラ座での『仮面舞踏会』でビョルリンクの代役として出演し絶賛を浴びて以降、スカラ座の常連として活躍。
その後ウィーン国立歌劇場やベルリン国立歌劇場などに定期的に出演するなど、海外では非常に評価の高い歌手で、1961年には「NHKイタリア歌劇団」公演で来日している。
明るく澄んだ歌声で一世を風靡したジャンニ・ポッジはテノールでオペラの全曲盤も相当数残しているが、1969年には引退しているので筆者自身実際の舞台でポッジの声を聴く機会はなかった。
またその当時イタリアにひしめいていた錚々たるテノール歌手達の中にあってポッジは個性的な声質ではなく、また容姿でアピールするタイプでもなかったので、来日しているにも拘らず日本ではその実力に比較してそれほど知名度は高くないが、天性の美声と楽々と聴かせる高音や豊かな声量で歌われるこうしたレパートリーでも舞台での響きを彷彿とさせる。
このイタリアン・ソング集はポッジの全盛期に当たる1953年のモノラル録音だが、リマスタリングの効果もあって音質は極めて良好だ。
イタリアのテノール歌手は本業のオペラ以外に必ずと言っていいほどナポリ民謡を始めとするカンツォーネ集を録音するが、この時代にはポッジの先輩に当たるタリアヴィーニやデル・モナコ、また同世代のディ・ステファノもいわゆる際物を集めたLPを少なからずリリースしている。
ディ・ステファノはシチリア出身のテノールらしく紺碧の空のように明朗でパッショネイトな歌唱を売り物にしていたが、ポッジはその点ではいくらか個性に欠けていることは否めない。
これは他の録音にも共通して言えることだが、ポッジはライヴでその本領を発揮し得た歌手のようで、こうしたセッションではやや大味な印象を受ける。
しかしこのCDに耳を傾けていると、声に総てを賭けていた時代のベル・カントの伝統を担った歌手としての存在感と熱いイタリア気質が伝わってくる演唱で、その歌唱法とスケールの大きさに往年のオペラ歌手の姿が映し出されている。
このCDは過去にリリースされた2枚のLPを合体させたもので、どちらもローマ・サンタ・チェチーリア音楽院での録音だが、オーケストラについては明記されていない。
指揮はどちらもエルネスト・ニチェッリが振ったもので、ふたつのオリジナル・ジャケットの写真を掲載しているが、例によってパンフレットには収録曲目一覧及び録音データのみが印刷されている。
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シュターツカペレ・ドレスデンを中心に活躍したペーター・ダムは既に現役を退いて久しいが、現代の名ホルン奏者の中でも最もヒューマンな感覚に溢れた演奏を残してくれた人ではないだろうか。
世界最古の歴史を誇る名門オーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデンは、現在でも伝統ある独特の音色において一目置かれる存在であるが、とりわけ東西ドイツが統一される前の1980年代頃までは、いぶし銀の重心の低い独特の潤いのある音色がさらに際立っていた。
そうした、名奏者で構成されていたシュターツカペレ・ドレスデンの中でも、首席ホルン奏者であったペーター・ダムは、かかるシュターツカペレ・ドレスデンの魅力ある独特の音色を醸し出す代表的な存在であったとも言えるだろう。
ペーター・ダムのホルンの音色は、同時代に活躍したジャーマンホルンを体現するベルリン・フィルの首席ホルン奏者であったゲルト・ザイフェルトによる、ドイツ風の重厚さを持ちつつも現代的なシャープさをも兼ね備えたホルンの音色とは違った、独特の潤いと温もりを有していたとも言えるところだ。
本盤には、ペーター・ダムが1966年から90年までにドイツ・シャルプラッテンに蓄積した音源からピックアップされたもので、アンサンブル、ホルンとオーケストラ、そしてピアノ伴奏によるソロ・ピースなどバラエティーに富んだジャンルの曲目が集められている。
歌心に溢れたリリカルな表現では他の追随を許さなかったダムの感性を堪能できるセットとして、ホルン・ファンは勿論クラシックの入門者にもお薦めしたい。
協奏曲以外でもここには日頃それほど鑑賞する機会がないホルンとオーケストラのためのサン=サーンスとシューマンの作品がそれぞれ1曲ずつ、更にロッシーニのホルン四重奏版『狩での出会い』や難曲として知られるシューマンの『アダージョとアレグロ』などでも、ダムのクリヤーでソフトな音色とその名人芸が冴えている。
またウェーバーはホルンの重音奏法を取り入れた最初の作曲家と言われているが、その『小協奏曲ホ短調』のなかで実際に2声部の短いカデンツを聴くことができる。
選曲は既に個別にリリースされていたアルバムからの再編集で、「ロマン派ホルン協奏曲集」をベースに「フランス・ホルン作品集」から4曲、その他にサン=サーンスの『ホルンとオーケストラのための小品へ短調』Op.94、シューマンの『4本のホルンと第オーケストラのためのコンツェルトシュトゥックヘ長調』Op.86、ハイドン『ホルン協奏曲ニ長調』、ハイニヒェン『2本のホルン、2本のフルート、2本のオーボエ、弦楽と通奏低音のための協奏曲ニ長調』、テレマン『2本のホルンと2本のオーボエ、弦楽と通奏低音のための協奏曲ニ長調』、ロッシーニ『狩での出会い』、メンデルスゾーン『男声合唱のための六つのリーダー』から第2番及び第3番のホルン用アレンジ、そしてシューマンの『ホルンとピアノのための『アダージョとアレグロ変イ長調』Op.70、ブラームスの『ホルン三重奏曲変ホ長調』Op.40が収められていて、一応バロックから現代までのホルンの名曲をカバーしているが、ペーター・ダムのソロによるモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスの協奏曲集は現行の別のアルバムに譲っている。
ベルリン・クラシックスの企画による器楽のためのグレーテスト・ワーク・シリーズは、ピアノ、チェンバロ、オルガンも含めると既に17セットがリリースされていて、それぞれが2枚組のデジパック入りで簡易なライナー・ノーツも挿入されている。
音源は旧東独のドイツ・シャルプラッテン社の所有であるために、演奏者もドレスデンやゲヴァントハウスのオーケストラの首席クラスの名手達が勢揃いしているのが特徴である。
ネームバリューに拘らなければ実力派のセッションを良質な音質で、しかも廉価盤で鑑賞できるのがメリットだ。
なお、ペーター・ダムの魅力的なホルンの音色は、モーツァルトのホルン協奏曲集や、ホルンが大活躍するブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」においても聴くことが可能であるということを付記しておきたい。
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2013年4月に亡くなった名チェリスト、ヤーノシュ・シュタルケルが1970年代に南西ドイツ放送局のために録音した音源で、このCDにはシュタルケルが最も得意とした20世紀作品のヒンデミット、プロコフィエフ、ラウタヴァーラの3曲のチェロ協奏曲が収録されている。
少なくとも筆者の知る限りでは、協奏曲3曲はすべて正規盤初出の内容で、ヒンデミットを除いた2曲はシュタルケルのレパートリーとしても初めてのCD化である。
特にラウタヴァーラはシュタルケルに他の録音が無く、指揮者もブロムシュテットということで注目される。
プロコフィエフに関しては1956年のワルター・ジュスキント&フィルハーモニア管弦楽団とのセッションがワーナーから復活しているが、ここに収められているのは同曲からの改作op.125で、交響的協奏曲と改題され、音楽もより充実した内容に仕上がっている。
演奏はヒンデミットがフォン・ルカーチ指揮、SWRシュトゥットガルト放送交響楽団(1971年)、プロコフィエフはエルネスト・ブール指揮、ラウタヴァーラがブロムシュテット指揮になり、この2曲はバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団(1975年)との協演になる。
音楽的な質の高さは言うまでもないが、当時の音源としては音質的にも極めて良好な状態が保たれている。
3曲ともシュタルケルが得意とした20世紀の作品で、今もって彼の演奏がその解釈の面でも、またテクニックにおいても最高峰にあると思えるのは、近年こうした新しい時代の作品を一流どころのチェリストが余り積極的に採り上げないからかも知れない。
ヒンデミットでは色彩的でスペクタクルな堂々たるオーケストレーションに支えられたソロ・パートを、一瞬の隙をも見せない緊張感に貫かれた奏法で弾き切る彼の美学が面目躍如たるセッションだ。
またフィンランドの現役の作曲家、エイノユハニ・ラウタヴァーラのチェロ協奏曲は規模は小さいが、チェロの音響的可能性を追究している点で注目される。
神秘的なフラジオレットによるアルペッジョがソロの重要なモチーフになっていて、重音奏法とフラジオレットを駆使したパッセージが、シュタルケルの精緻な技巧によって超然と響いてくるのに唖然とさせられる。
ドイツ・ヘンスラー・クラシックスからの新譜で、このヒストリック・シリーズは南西ドイツ放送局SWRで制作された歴史的ラジオ放送用音源を独自のリマスタリングでCD化していて、既にジノ・フランチェスカッティやイダ・ヘンデルの演奏集もリリースされている。
独、英語による簡易な解説と詳細な録音データが掲載されたライナー・ノーツ付。
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2015年07月23日
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本盤には、ビゼーが作曲した南フランスの牧歌的な風景の中で繰り広げられる劇音楽から編纂した馴染み深いメロディが次々に登場する「アルルの女」組曲と情熱的なスペイン情緒を背景にした歌劇の名旋律を独立したオーケストラに再編した「カルメン」組曲などが収められている。
本盤に収められた演奏は、カラヤンがこれらビゼーの2大有名管弦楽曲を手兵ベルリン・フィルとともに行った演奏としては、1度目の1970年盤のスタジオ録音ということになる。
1980年代にスタジオ録音された新盤も、一般的な意味においては、十分に名演の名に値すると言えるであろう。
しかしながら、本盤に収められた1970年の演奏があまりにも素晴らしい超名演であったため、本演奏と比較すると新盤の演奏はいささか落ちるということについて先ずは指摘をしておかなければならない。
カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代は1960年代、そして1970年代というのが一般的な見方であると考えられるところだ。
この黄金コンビによる同時期の演奏は、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器の美しい響き、そして雷鳴のようなティンパニの轟きなどが鉄壁のアンサンブルの下に一体化した完全無欠の凄みのある演奏を繰り広げていた。
そして、カラヤンは、ベルリン・フィルのかかる豪演に流麗なレガートが施すことによって、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していたと言える。
しかしながら、1982年にザビーネ・マイヤー事件が勃発すると、両者の関係には修復不可能なまでの亀裂が生じ、この黄金コンビによる演奏にもかつてのような輝きが一部の演奏を除いて殆ど聴くことができなくなってしまった。
新盤に収められた演奏は1982〜1984年にかけてのものであり、これは両者の関係が最悪の一途を辿っていた時期でもあると言える。
加えてカラヤン自身の健康悪化もあって、新盤の演奏においては、いささか不自然なテンポ設定や重々しさを感じさせるなど、統率力の低下が顕著にあらわれていると言えなくもないところだ。
したがって、カラヤンによるこれらの楽曲の演奏を聴くのであれば、前述のようにダントツの超名演である1970年盤の方を採るべきであると考える。
演奏は、カラヤン一流の緻密な設計と巧妙な演出の光るもので、その豊かな表現力には舌を巻く。
カラヤンの指揮した舞台の付随音楽は天下一品といってよく、この「カルメン」組曲の前奏曲など、まさに幕開きの音楽にふさわしい劇場風の華やかな気分にあふれている。
「アルルの女」も文句のつけようのない卓越した演奏で、カラヤンの卓抜な棒がそれぞれの曲の性格をくっきりと浮き彫りにしている。
本演奏でカラヤンがみせる執念と集中力はたいへんなもので、手になれた作品を扱いながら、手を抜いたところは少しもなく、南欧特有の陽光に包まれた情緒を豊かに匂わせている。
ベルリン・フィルの木管セクションの軽妙洒脱な歌いまわしも絶妙といっていいほど冴え渡っており、愉悦感に満ち溢れた規範的な演奏を繰り広げている。
音質については、これまでリマスタリングが行われたこともあって、本従来盤でも十分に良好な音質である。
もっとも、新盤の演奏においては、とりわけ緩徐箇所における情感豊かな旋律の歌わせ方などにおいて、晩年のカラヤンならではの味わい深さがあると言えるところだ。
そして、管弦楽曲の小品の演奏におけるカラヤンの聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さにおいては、新盤の演奏においてもいささかも衰えが見られないところであり、総じて新盤の演奏も名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
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最近独自のリマスタリング技術を駆使したレギュラー・フォーマットのリニューアルCDで話題を呼んでいるドイツのレーベル、プロフィールから分売されていたギュンター・ヴァントのラジオ放送用音源を20枚のセットにまとめたもの。
1951年から92年の40年間に亘って集積された古典から現代までの幅広いレパートリーからは、彼の律儀で堅実な音楽に秘められた多彩を極めた表現力とオーケストラ統率の力量に改めて驚かされる。
また当時の録音技術もさることながら、リマスタリング後の音質が非常にクリアーであることも特筆される。
ヴァントが指揮するオーケストラはバイエルン、ケルン、北ドイツ、シュトゥットガルトの放送交響楽団及びケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団で、彼が最晩年に共演した超一流の楽団ではないにしても、稽古熱心だった彼によって修錬された機動力と柔軟性を兼ね備えていて、どの演奏ひとつをとっても期待外れには終わらない。
それは取りも直さずドイツのオーケストラの水準の高さとその裾野の広さを物語っている。
それぞれの放送局によってオーガナイズされたセッションや放送用ライヴだけに、ヴァントの実力が手堅く示された質の高いアルバムとしてお薦めしたい。
ヴァントのモーツァルトはどの曲を聴いても整然とした秩序の中に溢れるような情熱と喜びが託されているが、この録音集の中では最も古い1951年のデニス・ブレインを迎えたホルン協奏曲第3番がセールス・ポイントのひとつで、モノラルながらブレインの切れの良いストレートな演奏を聴くことができる。
2年後のカラヤン&フィルハーモニア盤に比べればケルン放送交響楽団にやや乱れがあるのが残念だが、ヴァントが熱っぽくサポートしているのが特徴だ。
その他の作曲家の協奏曲でのソリストも充実していて、例えばCD4ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番をギレリス、CD16では同第4番をカサドシュが弾いているし、CD7サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番をリッチが、そしてCD9ストラヴィンスキーの『ピアノ、管楽器、コントラバスとティンパニのための協奏曲』及びCD12ハイドンのピアノ協奏曲ニ長調ではニキタ・マガロフ、同オーボエ協奏曲ハ長調を当時ベルリン・フィルの首席になったばかりのシェレンベルガーが、CD15R.シュトラウスのホルン協奏曲第1番ではヘルマン・バウマンのそれぞれが協演している。
またCD5オルフの『カルミナ・ブラーナ』ではヨッフム&ベルリン・ドイツ・オペラ盤に比較すればソリストではいくらか引けを取っているとしても、全体的にはこの曲の解放的な野趣や輝かしい力強さと、一方で確実に統制された形式美を両立させていることは注目に値する。
ドイツの公共放送では現代音楽も多く採り上げていて、彼らの新しい音楽作品に対する嗜好を示していて興味深いが、20世紀の作品群としては他にメシアン、ヴェーベルン、フォルトナー、ツィンマーマン、リゲティ、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、ベイルド、ブラウンフェルスなどの作品を冷徹な楽曲分析によって、しかし一方で決して醒めた即物的な音楽にしないヴァントの手腕には恐るべきものがある。
ライナー・ノーツに歌詞対訳は付いていない。
またジャケットが何故かひとつひとつ封印してあり、開封が少し煩わしい。
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LP時代初期、ヴィヴァルディの《四季》と並ぶ大ヒットを記録したバッハの《管弦楽組曲》。
ミュンヒンガーは、後発のレコードメーカーながらいち早くLPレコード製作に着手したデッカに成功をもたらした。
埋もれていた名曲《パッヘルベルのカノン》を世に出したのもミュンヒンガーで、バロック音楽ブームの火つけ役も担い、ローマ教皇やイギリス女王の御前でも演奏した。
ミュンヒンガーにとって3度目の当録音は、前2作よりも遅めのテンポで骨組みのしっかりした純ドイツ風の演奏になっている。
近年のバロック研究の成果として生まれた新たな解釈ではなく、オーソドックスなスタイルを根底においたバッハである。
ミュンヒンガーはバロック音楽作品を小編成のオーケストラで忠実に再現することにより、作品が持つテクスチュアそのものを浮き上がらせることに成功した指揮者だった。
だが、バロック音楽に飽き足らずフルオーケストラを志向し、シュトゥットガルト・クラシック・フィルを結成、そこでモーツァルトやベートーヴェンの交響曲を録音し、また、彼とシュトゥットガルト放送交響楽団との録音もある。
だが、ミュンヒンガーの名盤となるとバロック音楽を取り上げていたシュトゥットガルト室内管弦楽団のものになるだろう。
本盤に収められたバッハ《管弦楽組曲》、それに《ブランデンブルク協奏曲》《パッヘルベルのカノンーバロック音楽の楽しみ》は気品あるバロック音楽のスタンダードである。
ミュンヒンガーのバッハの演奏は、骨組みがドイツ的にがっしりしており、流麗で、しかも色調が渋く、古典的な香りをたたえているのが特色である。
この演奏も解釈そのものは、前2回の録音とほとんど変わりはないのだが、全体にややテンポを遅めにとり、丹念に仕上げており、音楽の内容がいちだんと円熟味と深みを増しているのが素晴らしい。
さらに今回は、今までの2回の録音よりも、響きと表情に丸みが加わり、柔らかくコクのある演奏になっている。
フルートにジャン=ピエール・ランパルではなくウィーン・フィルの首席フルート奏者、ヴォルフガング・シュルツを起用。
第2番のソロ・パートでウィーン風の洒脱な演奏が楽しめ、シュルツのテクニックも大変見事だ。
また、デッカから彼らのバッハの《管弦楽組曲第2番、第3番》と《ブランデンブルク協奏曲第2番、第6番》を1枚に収めたタイトルもリリースされている。
こちらは廉価盤シリーズでの発売なので比較的入手しやすく、ミュンヒンガー入門盤としてはお手ごろである。
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素晴らしい名演だ。
小澤征爾は、かつて1980年代に手兵のボストン交響楽団とともにマーラーの交響曲全集を録音しているが、問題にならない。
小澤のマーラーの最高の演奏は、手兵サイトウ・キネン・オーケストラとの「第2」(2000年)及び「第9」(2001年)であり、それ以降チクルスが中断されてしまったが、これら両曲については、古今東西の様々な名演の中でも十分に存在価値のある名演と高く評価したい。
小澤はマーラーの「第9」を、ボストン交響楽団の音楽監督としての最後の演奏会で取り上げたほどであり、マーラーのスペシャリストとしての呼び声も高い。
小澤のアプローチは両曲ともにいわゆる純音楽的なものであるが、マーラーの荘重な世界を、熱い魂がほとばしるような演奏で表現している。
小澤のマーラー演奏は東洋的諦念観の理解に裏打ちされていると特徴付けられるが、作曲者と完全に一体化した師バーンスタインの情緒的スタンスから一歩踏み出したオリジナルの強さがここにはある。
小澤のマーラーには、こってりとした民族的な味付けや濃厚な感情移入は感じられず、むしろ絶対音楽として客観視された主旨で統一されている。
バーンスタインやテンシュテットの劇的で主観的なアプローチとはあらゆる意味において対照的であるが、だからと言って物足りなさは皆無。
明晰な響きと自在なリズム、カンタービレのしなやかな美しさ…しかし、何といっても小澤の音楽には絶対的な優しさがあり、この美質が小澤のマーラーを価値あるものにしている要因だろう。
バーンスタインほどオケを振り回さず、しかし客観的になりすぎず、音を丁寧に積み重ねながらぐいぐいと聴く者を引き込んでゆく。
小澤の、楽曲の深みに切り込んでいこうとする鋭角的な指揮ぶりが、演奏に緊張感といい意味でのメリハリを加味することに繋がり、切れば血が出るような熱き魂が込められた入魂の仕上がりとなっている。
サイトウ・キネン・オーケストラも、小澤の確かな統率の下、ライヴとは思えない完成度の高い演奏で指揮者の熱意に応えて、最高のパフォーマンスを示している。
世界中の名手を集めたサイトウ・キネン・オーケストラは、弦も金管も木管もパーカッションも世界で活躍しているソリスト集団なのがわかる豪華なラインナップ。
随所で素晴らしいソロが繰り広げられ、またアンサンブルも臨時編成とは思えない高い完成度を感じさせる。
オーケストラが小澤征爾のバトンのもとで自由自在に歌うさまは、まさに圧巻と言えるだろう。
サイトウ・キネン・オーケストラの持つ緻密なアンサンブル、広いダイナミクスの幅が小澤の棒によって見事にコントロールされ、プレーヤー個々の豊かな表現力と融合し、マーラーの世界を見事に表現している。
録音は、両曲ともに通常盤でも高音質であったが、特に、「第9」については今回はじめてSACD化され、更に鮮明さを増した点が素晴らしい。
他方、「第2」については、かつてSACDのシングルレイヤーディスクとして発売されており、今回のハイブリッドディスクはわずかであるが音質は落ちる。
今回の発売にあたっての不満点はまさにこの点であり、なぜ、「第9」だけの単独発売にしなかったのか、メーカー側の邪な金儲け思想に、この場を借りて大いに疑問を呈しておきたい。
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フレーのバッハ演奏は、千変万化のディナーミクと絶妙なバランスが際立った名演である。
バッハの『パルティータ』特有の自由闊達な作曲技法と、それまでの様式に必ずしも囚われないエレメントの挿入をフレーの感性が個性的に捉えた、優美でリリカルな表現が特徴だ。
フレーのバッハは彼のデビュー・アルバムで『パルティータ第4番ニ長調』をすこぶる柔軟な感性で弾いたものが印象に残っているが、ここに収められた2曲でも彼のこの曲集への音楽的構想とアイデアが明瞭に反映されている。
フレーのディナーミクから創り出される音色の変化はチェンバロやオルガンのレジスターの使い分け以上に千変万化で微妙な陰影に富んでいる。
例えばフレーは対位法の各声部を決して対等に扱おうとはしない。
第2番のアルマンドに聴かれるように、左手の声部は影のように従わせ、サラバンドにおいても夢幻的とも言えるリリシズムを醸し出している。
ある声部を霧で包むようなピアニスティックなテクニックは2曲目の『トッカータハ短調』にも充分に活かされているし、それはフーガにも敢然として現れる。
こうした表現方法は大曲になると冗長になって取り留めのないものになりがちだが、第6番のような後の『フーガの技法』に通じるスケールの大きな曲でも、彼はその構成感に絶妙なバランスを保って違和感を与えていないのは流石だ。
この録音は2012年にパリのノートルダム・デュ・リバン教会で行われた。堂内の潤沢な残響に包まれているが、ピアノの音質は極めて明瞭に採られている。
またここに選ばれた3曲は総て短調で書かれているが、フレーの豊かな音楽性が光彩に満たされた幸福感を醸し出していて決して陰気な印象を与えていない。
この方法はリヒテルがクレスハイム城で録音した『平均律』と同様の効果を上げていると言えるだろう。
このあたりにもフレーのバッハを再現するための、より具体的な音響的構想と手段が窺える。
フレーにとってバッハは特に重要なレパートリーで、既にブレーメンドイツ室内管弦楽団との協奏曲集のCD及びDVDもリリースされている。
『パルティータ』に関してはこれで第2、第4、そして第6番の偶数番号が揃ったことになる。
この曲集の内包する殆んど無限とも言える音楽的可能性からして、またフレーの好みから考えても残りの奇数番号3曲に挑戦することが充分予想されるし、またそれに期待したい。
フレーは生粋のフランス人でありながら目下のところ自国の作品にはそれほど興味を示さず、主としてドイツ圏のピアノ作品を集中的に録音している。
自分の感性を全く趣味の異なるドイツ物で磨きをかけながら更に洗練しているのかも知れない。
それは逆説的で風変わりな発想にも見えるが、今までにそれらの作品に与えられていたイメージを拡張し、新たな可能性を示しているという点でも現代の優れた若手ピアニストの1人に数えられるだろう。
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2015年07月21日
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シュヴェツィンゲン音楽祭での優れた音源を発掘しているドイツ・ヘンスラー・クラシックスから2014年の4月にリリースされたCDで、1973年の同音楽祭で演奏されたベートーヴェンのピアノ三重奏曲第3番ハ短調及びメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番ニ短調の2曲を収録している。
これは、スーク、シュタルケル、ブッフビンダーによる室内楽の醍醐味を味わうことのできる名演奏である。
スークとシュタルケルは既にカッチェンとの協演でブラームスをデッカに録音していたが、カッチェン亡き後当時27歳だった新人ブッフビンダーがこのコンサートにキャスティングされたところに特徴がある。
実際スークとシュタルケルという2人のベテランをサポートするブッフビンダーのコントロールの行き届いた軽やかなタッチのピアニズムが如何にも瑞々しい印象を与えている一方で、彼はピアノ・パートの突出を巧妙に避け、抑制を効かせて常にトリオとしてのバランスを保つことをわきまえている。
それは後のアンサンブル・ピアニストとしてのキャリアにも通じる彼の確固としたポリシーだったに違いない。
プログラムの2曲はどちらもスーク・トリオのセッションが存在するが、この3人の顔合わせはもとよりシュタルケルのレパートリーとしてはまったく初めて耳にするもので、室内楽の愉悦を堪能できる1枚としてお薦めしたい。
ベートーヴェンではスークのリードする豊かな抒情性が活かされているが、それぞれが細部まで克明に合わせた見事なアンサンブルと、シュタルケルのチェロが扇のかなめのように構えて作品の音楽的構造を浮き彫りにした再現が秀逸だ。
メンデルスゾーンの方は作曲家特有のヴィルトゥオジティを発揮したフレッシュで屈託のない曲想が、三者の美しい音色と鮮やかな演奏によって更に爽快な印象を残している。
1973年5月16日のライヴのようだが、客席の雑音や拍手は一切入っていない良質のステレオ録音で、その音質の良さも特筆される。
ライナー・ノーツは11ページほどで、演奏曲目、録音データの他に独、英語による簡易な演奏者紹介と曲目解説付。
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2012年はドビュッシーの生誕150年であったが、それを記念した素晴らしい名盤が登場した。
我が国を拠点として活動し、現在、最も輝いているピアニストの1人でもあるイリーナ・メジューエワは、2010年のショパン・イヤー、そして2011年のリスト・イヤーにおいても、極めて優れた名盤の数々を世に送り出したところであるが、今般のドビュッシーのピアノ作品集も、新たなレパートリーに挑戦した意欲作で、我々クラシック音楽ファンの期待をいささかも裏切ることがない高水準の名演であると言えるだろう。
本盤には、ドビュッシーのピアノ曲中の最高傑作との誉れ高い前奏曲集を軸として、ベルガマスク組曲、2つのアラベスク、版画、喜びの島など、著名な作品の全てが収められており、ドビュッシーのピアノ作品集として必要十分な内容となっている点も評価し得るところだ。
それにしても、メジューエワの演奏は素晴らしい。
ショパンのピアノ曲の一連の演奏やリストのピアノ作品集も名演であったが、本盤のドビュッシーのピアノ作品集の演奏は、更にグレードアップした見事な名演奏を聴かせてくれている。
透明感に満ちた音色、明瞭なフレージング、巧みなペダリングによる色彩の変化など、細部のモチーフに新しい意味を見いだしながら重層的に楽曲を構築してゆく手法は、まさにメジューエワならではの卓抜さと言えるところであり、斬新であると同時にどこか懐かしさを感じさせる不思議なドビュッシーに仕上がっている。
1音1音をいささかも揺るがせにしない骨太のピアノタッチは健在であるが、ゴツゴツした印象を聴き手に与えることは全くなく、音楽はあくまでも自然体で優雅に流れていくというのがメジューエワのピアノ演奏の真骨頂であり最大の美質。
もちろん、優雅に流れていくからと言って内容空虚であるということはなく、透明感に満ちた音色、明瞭なフレージング、巧みなペダリングによる色彩の変化などを駆使した細部に至るまでの入念な表情づけも過不足なく行われており、スコア・リーディングの確かさ、そして厳正さを大いに感じさせるのもいい。
技量においても卓越したものがあるが、技巧臭などは薬にしたくもなく、ドビュッシーの音楽の魅力を聴き手に伝えることのみに腐心している真摯な姿勢が素晴らしい。
フランス系のピアニストのように、フランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいで勝負する演奏ではないが、演奏全体に漂う風格と格調の高さは、女流ピアニストの範疇を超えた威容さえ感じさせると言っても過言ではあるまい。
いずれにしても、本盤のメジューエワによる演奏は、2012年に発売された、ドビュッシーの生誕150年を記念して発売されたピアノ作品集の中でも最右翼に掲げられるべき名演であると同時に、これまでの古今東西のピアニストによるドビュッシーのピアノ作品集の中でもトップの座を争う至高の名演と高く評価したい。
そして、本盤も音質が素晴らしい。
富山県魚津市の新川文化ホールの豊かな残響を生かした高音質録音は、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。
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バロック期やウィーン古典派のヴァイオリン音楽の泰斗であるカルミニョーラが、ついにバッハのヴァイオリン協奏曲をリリースしてくれた。
カルミニョーラから迸り出るようなドラマティックな表現が特徴的な協奏曲集だ。
それぞれの曲のテンポも快速で、彼らの演奏は時としてアグレッシヴになりがちだが、それはライナー・ノーツにも書かれているようにこうした協奏曲の持つイタリアン・バロックの曲趣を強調したもののようだ。
協奏曲やソナタの分野でバッハは同時代のヴィヴァルディの様式を好んで取り入れた。
それは当時のイタリアの音楽が簡潔な構成の中に名人芸を取り入れて特有の劇的な効果を上げていることに注目したからにほかならない。
このCDに収められた協奏曲は、いずれもバッハがイタリア趣味に開眼し、その音楽語法を完全に会得したケーテン宮廷楽長時代の作品とされている。
それゆえこの曲集の演奏では、彼の対位法的な手法の巧妙さよりもむしろ音響的な斬新さやスリルに満ちた再現が聴きどころだろう。
バロックの劇的な音楽性を再現したイタリア風バッハであり、バッハの音楽の多様な可能性を試みたひとつの優れたサンプルに違いない。
特に、他の追随を許さない非常に美しい音色と、随所に光る即興の妙は、まさにカルミニョーラの熟練の技のなせる所と言えよう。
カルミニョーラをサポートするのはピリオド・アンサンブル、コンチェルト・ケルンで、楽器編成を見ると第1ヴァイオリンがコンサート・ミストレスの平崎真弓を含めて4名、第2が3名、ヴィオラ及びチェロが各2名ずつに通奏低音のコントラバスとチェンバロが加わる計13名で、a'=415Hzのスタンダード・バロック・ピッチを採用している。
『2挺のヴァイオリンのための協奏曲ニ短調』では平崎がソロの第1ヴァイオリンを担当している。
彼女はライプツィヒ国際バッハ・コンクール2位の受賞者で日本人の若手バロック・ヴァイオリニストとしてはこれからが期待される存在だが、演奏もカルミニョーラに引けをとらないほどの高い音楽性と気迫で互角に競っているところが頼もしい。
毎回カルミニョーラが録音に使うヴァイオリンはそれぞれが名器と言われているものだが、今回も前回のヴィヴァルディ協奏曲集と同様、ボローニャの名匠ヨハネス・フロレーヌス・グィダントゥスの手になる1739年製のオリジナル楽器を使用している。
2013年にケルンで録音されたセッションで、コントラバスの低音からチェンバロの響きに至る高音までがバランス良く採音された臨場感溢れる鮮烈な音質。
カルミニョーラファンのみならずバッハの愛好家を始めとする幅広い層に心からお薦めしたい稀有な録音である。
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2015年07月20日
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20世紀中盤を代表する名バス・バリトン、ハンス・ホッター全盛期のドイツ・リート集で、以前エンジェルからLP盤でリリースされていたジェラルド・ムーアとのセッション録音を集めた英テスタメント・リマスター盤。
その後に出されたEMIイコン・シリーズ6枚組とは曲目がかなりだぶってはいるが、シューベルトとブラームスでは同一曲でも録音年の異なるセッションから選択されているのがセールス・ポイント。
特に『音楽に寄す』『セレナード』『別れ』『春に』『菩提樹』『さすらい人の夜の歌』の6曲はホッター48歳の堂々たる風格で独自の境地を示した歌唱が堪能できるだけでなく、良好な音質でイコンの1949年盤に優っている。
既に廃盤の憂き目に遭っている音源なので、これだけでもリマスタリングされたこのCDを鑑賞する価値はある。
その1年前に録音されたブラームスを除いて残りの全曲が1957年収録で、この中の数曲は試験的なステレオ録音で残されている。
ワーグナー歌手としても一世を風靡した名バス・バリトン、ホッターのもう一方の極めつけがシューベルトを始めとするドイツ・リートであった。
理知的で洗練された歌手であったホッターは持ち前の声量をコントロールして、ドイツ・リートでも抜きん出た存在で、フィッシャー=ディースカウの知的な歌唱とは対極にある、しみじみとした深い味わいは絶品だ。
ピアノは総てジェラルド・ムーアが弾いていて、ここでも彼の伴奏に関するさまざまな理論が実践に移されているセッションでもある。
ホッターのような低い声で歌う歌手は、当然楽譜も自分の声に合わせた移調楽譜を使うわけだが、そのために伴奏者は音量の調節だけでなく、歌曲全体の雰囲気が暗く沈んでしまわないように注意を払わなければならない。
また作曲家が書いた、いわゆる原調とは全く異なった運指で歌手の声や表現を引き立てる奏法を編み出さなければならなかったムーアのテクニックの秘訣は、彼の著作『歌手と伴奏者』や『お耳障りですか-ある伴奏者の回想』などに自身の苦労話と共にユーモアたっぷりに紹介されている。
ライナー・ノーツは30ページほどで曲目一覧、録音データ、英、独、仏語による解説と全歌詞の英語対訳が掲載されている。
尚英テスタメントからはもう1枚、やはりムーアの伴奏によるホッターのヴォルフ歌曲集が独自のリマスタリングでのライセンス・リイシュー盤でリリースされている。
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ヘンスラー・クラシックスからリリースされているシュヴェツィンゲン音楽祭の一連のライヴ音源のひとつで、リヒテルが1993年5月30日に同邸内のロココ劇場で演奏した一晩のコンサートのプログラムが収録されている。
曲目はサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番ヘ長調『エジプト風』及びガーシュウィンのピアノ協奏曲ヘ長調で、後者は初出ではないがリヒテルの演目としては唯一の音源のようだ。
ライナー・ノーツにも書かれているが、旧ソヴィエト時代には自国でこうした曲目を演奏する可能性はまだ閉ざされていたにも拘らず、リヒテル自身は気に入って秘かにレパートリーに加えていたことが想像される。
どちらもクリストフ・エッシェンバッハ指揮、シュトゥットガルト放送管弦楽団のサポートによる、リヒテル最晩年の演奏活動を知る上でも貴重なライヴで、当時彼が78歳だったことを考えれば、その衰えない情熱と意欲には敬服せざるを得ない。
しかもリヒテルはセッションではなく、あくまでもライヴで勝負するというポリシーを生涯貫いたピアニストでもあった。
サン=サーンスでは色彩感豊かな音響作りに工夫が凝らしてあって、中でも第2楽章のオリエンタルで神秘的な表現は巨匠リヒテルとしても異色な趣きを醸し出している。
また随所に使われている超テクニカルなパッセージも曲想の中に自然に処理されていて、技巧誇示にならないのは流石だ。
エッシェンバッハのきめ細かい指示も活かされているが、一方ガーシュウィンの方はそれがかえって裏目に出て、オーケストラがいくらか杓子定規で乗りの悪いものになっているのも事実だ。
例えば第2楽章でのミュート・トランペットのソロは抑え過ぎで、もう少し開放感があっても良いと思う。
リヒテルも全体的にテンポをかなり落としているが、マイペースで演奏を楽しんでいる雰囲気が伝わってくるのが微笑ましい。
どちらもライヴ特有の雑音や拍手はなく音質は極めて良好。
ちなみにサン=サーンスの同曲については、リヒテルが1950年代初めにキリル・コンドラシンと協演した覇気に満ちた演奏もメロディアからの5枚組で入手可能だが、音質に関しては多くを望めない。
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2015年07月19日
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本盤に収められたシベリウスの交響曲第2番の演奏は、サー・ジョン・バルビローリがケルン放送交響楽団に客演した際に、1969年2月7日に行われたコンサートのライヴ録音。
バルビローリは、現時点で確認できるものだけでも4種もの同曲のレコーディングを行っている。
それらを録音年代順に列挙すると、ハレ管弦楽団との演奏(1952年スタジオ録音(EMI))、ロイヤル・フィルとの演奏(1962年スタジオ録音(テスタメント(chesky)))、ハレ管弦楽団との演奏(1966年スタジオ録音(EMI))、そして本盤に収められたケルン放送交響楽団との演奏(1969年ライヴ録音(ica CLASSICS))となっている。
したがって、本盤の演奏は、現時点で確認できるバルビローリによる同曲の最後のレコーディングということになる。
4種の演奏は、いずれ劣らぬ名演ではあるが、一般に最も完成度の高い名演として名高いのは、1966年の演奏である。
当該演奏は、ヒューマニティ溢れる温かさを有した名演であったが、本演奏は、実演ということもあって、1966年の演奏とは対照的な豪演に仕上がっていると言えるところだ(1952年の演奏に近い性格を有していると言えるのかもしれない)。
第1楽章冒頭からして濃厚な表情付けの演奏が展開されている。
その後も、凄まじいまでの粘着質かつハイテンションの音楽が連続しており、あまりのテンションの高さに、随所に熱くなったバルビローリの唸り声が聴こえてくるほどである。
とても死を1年後に控えた老指揮者による演奏とは思えないほどの強靭な迫力と切れば血が噴き出してくるような熱き生命力に満ち溢れていると言っても過言ではあるまい。
第2楽章は、速めのテンポで開始されるが、その後はアゴーギクを駆使したうねるような表現や、猛烈なアッチェレランドを駆使した壮絶な演奏が展開されている。
第3楽章は、本演奏の中で一服の清涼剤と言ったところであろうか。
北欧風の旋律を人間味溢れる温かみのあるアプローチによって情感豊かに歌い抜いているのが素晴らしい。
ところが、終楽章の移行部に差し掛かると途轍もないアッチェレランドを駆使しているのに度肝を抜かれる。
そして、終楽章の主旋律は壮麗にしてなおかつ濃厚な味わいの演奏であるが、その後のデュナーミクの幅広さ、大胆なアッチェレランドなど、ありとあらゆる多種多様な表現を駆使して、ドラマティックの極みとも言うべき演奏を展開。
終結部はテンポを大きく落として、威容に満ちた壮大なクライマックスを築き上げて全曲を締め括っている。
ケルン放送交響楽団は、バルビローリの燃えるような指揮に、アンサンブルの縦の線が合わないなど、若干の戸惑いを感じているきらいもなくはないが、それでもバルビローリの指揮に必死で喰らいつき、渾身の大熱演を展開しているのが素晴らしい。
いずれにしても、本演奏は、ヒューマニティ溢れる温かさを有した演奏をする指揮者と思われがちなバルビローリの知られざる一面である、熱き情熱に持ち溢れた指揮芸術を十二分に堪能することが可能な圧倒的な超名演と高く評価したい。
バルビローリによるハレ管弦楽団との1966年の演奏を愛好するクラシック音楽ファンには、是非とも本演奏を聴いていただきたい。
バルビローリという指揮者の凄さをあらためて再認識することになることは必定であると思われるところだ。
カップリングのシューベルトの交響曲第4番やブリテンのテノール、ホルンと弦楽のためのセレナーデの演奏も、実演のバルビローリの凄さを堪能することが可能な濃厚な味わい深さを有した素晴らしい名演だ。
音質も、1969年のライヴ録音であるが、十分に満足できるものと評価したい。
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ここ数年チェチリア・バルトリはバロック期を中心とする作曲家の隠れた名曲の発掘に余念がないが、今回の舞台はヨーロッパを離れてサンクトペテルブルグの宮廷劇場で上演されたオペラからのアリア集。
1770年代中盤から終盤にかけてのバロック期に、ロシア帝国の当時の帝都サンクトペテルブルグで活躍したオペラ作曲家たちに光を当てた画期的な作品である。
現在48歳のバルトリの円熟した声と音楽性に表現力が結集された歌唱が面目躍如のファースト・レコーディング曲集だ。
このCDに収められた18世紀後半の声楽曲はイタリア・オペラがヨーロッパ全土にペストのように大流行していた時代で、カストラート歌手達の人間技とは思えない歌唱テクニックが猛威を振るって、多くの若い女性を失神させたエピソードも残されているが、また女性歌手達の進出が始まり最終的にカストラートに取って代わる時期でもあった。
これらの曲も基本的には抒情的なカンタービレとアジリタの敏捷性を織り交ぜた単純明快なイタリア趣味で作曲されている。
勿論こうした作品を音楽的にも文学的にも内容のない白痴美として退けた作曲家や知識人も多く、実際大方は今日忘れ去られてしまったわけが、バルトリの選曲では特有の気品と音楽性に溢れたものや、目覚しいテクニックを伴った劇的な曲を集めて、効果的で優れた作品も少なくなかったことを証明している。
また当時イタリア・オペラ上演の成功には、他の何を犠牲にしても先ず洗練された美しい声を持ったスター歌手の起用が不可欠で、彼らのために作曲家達が腕を競ったとも言えるだろう。
バルトリと言えば、楽曲に対する深い洞察を随所に感じさせながら、こぶしを効かせた魂のこもった熱い歌を聴かせてくれる稀有な存在で、彼女としては初となるロシア語での美しい歌唱も披露してくれている。
バルトリのメゾ・ソプラノ特有のやや翳りのある滑らかな声には、若い頃からの超絶技巧に加えて、更に官能的な魅力が備わって絶妙な表現力を発揮している。
中でもトラック1「私は死に向かう」はリリカルな哀愁で、トラック7のオーボエ・オブリガート付の「暗い夜に迷った羊飼い」は牧歌的な雰囲気で、またトラヴェルソ助奏とのトラック9「その麗しい眼差しを曇らせないでくれ」が慈愛に満ちた美しさでこの曲集の白眉だ。
バルトリをサポートするのは今回もディエゴ・ファソーリス率いるピリオド・アンサンブル、イ・バロッキスティ及びスイス・イタリア語圏放送合唱団で、かなり野心的な創意工夫が見られる共演にも面白さがある。
昨年から今年にかけてルガーノで行われた録音は適度な臨場感があり極めて良好な音質だ。
尚このCDにはデラックス・ヴァージョンとレギュラー盤の2種類がリリースされている。
英、仏、独語による解説とイタリア語とロシア語(第2曲及び第3曲)の歌詞に3か国語の対訳が掲載されているが、特に前者はハード・カバーのカラー写真入120ページほどのライナー・ノーツが綴じ込みになっていて資料的な価値も高いコレクション仕様だ。
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2015年07月18日
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1950年代から60年代にかけてイタリア・オペラ界はソプラノからバスに至るまで、あらゆるキャラクターを演じることができた豊富な人材に恵まれていた。
奇しくもそれは2人のプリマ・ドンナ、マリア・カラスとレナータ・テバルディがライヴァル意識に火花を散らした時代でもあったが、一方テノールでもタリアヴィーニ、デル・モナコ、ディ・ステファノの黄金時代に重なっていた。
勿論彼らの背後には二軍とも言える個性的な歌手達が星の数ほど控えていて、このアリア集では4人のテノール、ジュゼッペ・カンポラ、ジャンニ・ポッジ、ジーノ・ペンノ及びジャチント・プランデッリが往年の声を披露している。
4人とも上記の2人のプリマ・ドンナとも共演しているし、それぞれがオペラ全曲録音も残しているが、3人の花形テノールの圧倒的なイメージの影に隠れてしまったのが彼らにとっては不運だったと言えるだろう。
この4人には弱点もあったが立派なはまり役もあって、本人もその当たり役に賭けて舞台に上がったので絶大な支持と喝采を得ることができたし、またそれが許される時代でもあった。
声の質や総合的な表現力ではカンポラが優れているし、超高音を楽に出すことができたポッジは『トロヴァトーレ』の「あの炎を」でハイCを2回歌っているが、ペンノは同アリアを半音下げてごまかしているところが面白い。
現在の歌手に求められる条件は馬鹿の一つ覚えではなく、自分の声質をある程度無視してでも、どの役も起用にこなすオールマイティなそつのなさだ。
ジュリーニがかつて指摘したように昨今の人気歌手は欧米のオペラ劇場を掛け持ちで回るため、常に声帯が疲労した状態で声が荒れてしまっている。
スケジュールが詰まっているのでオーケストラとの練習時間や舞台稽古も満足にできず、以前のような行き届いた上演が不可能になってしまった。
ジュリーニがオペラから手を引いたのは、まさにそうした理由からだった。
このCDに収められた1950年代の歌手達は我儘が通った時代だけにベスト・コンディションで舞台に立とうとしたし、また非常に広い層の歌手がイタリア・オペラ界を支えていたことの証しでもある。
彼らが二軍として片付けられない魅力を持っていたことは確かだ。
1951年から55年にかけての全曲モノラル録音ながら、当時ロンドン・レコードが誇ったffrr(Full Frequency Range Recording)の音質はノイズも極めて少なく鮮明な状態で再現されている。
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ラファエル・クーベリック生誕100周年の記念企画盤になり、1946年から83年にかけて彼がHMVに残した音源が13枚のCDにまとめられてイコン・シリーズに加わった。
何故か発売が数ヶ月間延期されていたが、決して同レーベルへの総ての音源を網羅した集大成ではない。
クーベリックが1983年にデンマーク放送交響楽団を振ったニールセンの交響曲第5番を除けば、1960年及び61年のウィーン・フィルとのモーツァルト、シューベルト、ボロディンそしてチャイコフスキーなどの交響曲集の良好なステレオ録音がCDほぼ5枚分を占めている。
一方フィルハーモニア管弦楽団とのモノラル録音は、いくらか素描的なところがあり英国時代の過渡的な演奏と言えなくもない。
その意味ではロイヤル・フィルとのベートーヴェンの『田園』やシューベルトの『ザ・グレート』、ブラームスの『ハンガリー舞曲集』などがクーベリックのより徹底した統率と音楽性を示している。
特に『田園』は自然の包容力やその恩恵を表出し得た優れた演奏だ。
またこれらの録音では第2ヴァイオリンを上手に並べ替えた両翼型の音響効果も至るところで感知できる。
このセットの中では最も古いチェコ・フィルとの1946年の音源では、ワックス原盤からのものと思われるスクラッチ・ノイズが聞こえるが、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』は当時のクーベリックの熱っぽい音楽を伝えて余りあるものがある。
1948年に英国に亡命したクーベリックだが、祖国チェコの作曲家の作品の解釈にはやはり借り物でない、筋の通った力強さと血の騒ぐような情熱が感じられる。
ここではドヴォルザークの交響曲第7番、第8番(フィルハーモニア管、1948年及び51年)を始め、ヤナーチェクの『タラス・ブーリバ』、マルティヌーの『ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画』(ロイヤル・フィル、1958年)、『ふたつの弦楽オーケストラ、ティンパニとピアノのための複協奏曲』(フィルハーモニア管、1950年)などで、のっぴきならない緊張感と共にクーベリックの生命力に溢れる表現力を堪能できる。
またクーベリックはモーツァルトを得意としたが、このセットでも交響曲集の他に殆んどCD1枚分に当たるオペラ序曲集などの充実したレパートリーが記録されている。
とりわけ4曲の交響曲をウィーン・フィルとのステレオ録音で鑑賞できるのは幸いだ。
クーベリックは1980年代に入ってから手兵バイエルン放送交響楽団とソニーに再録音して、高踏的な均衡でその円熟期の境地を示したが、更に20年遡るこのセッションは今や話題に上らなくなっている。
しかし曲想の流れに沿った、ごく自然な響きの美しさを開拓している点では捨て難い魅力を持っているのも事実だ。
クーベリックの常に明快でパッショネイトな音楽への取り組み方はどの曲を聴いても明らかだが、それは決して感情に任せた即興的なものではなく、ダイナミズムの配分が良く計算された強い説得力を持ったオリジナリティーに溢れている。
クーベリックは沈潜した内省的な表現よりも外に向かって発散する光彩のような音楽を作り上げることを得意とした、言ってみれば理論を感性に完全に移し換える術を知っていた指揮者だったと思う。
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シューベルトの抒情的特質が最も純粋な形で発揮されたD.899、シューマンが曲集全体をひとつのソナタとみなしたこともあるD.935。
霊感溢れる楽想が凝縮した即興曲集は、シューベルトのピアノ曲のなかでも最も人気の高い清冽な詩情と孤独な心情を美しく謳い上げたピアノ芸術のエッセンスとも言える作品。
マリア・ジョアン・ピリスによる新鮮で瑞々しい表現による演奏解釈は従来から高く評価されており、聴き手をシューベルトの詩的な世界に誘う素晴らしい名演だ。
即興曲集は、楽興の時と並んでシューベルトのピアノ作品の中でも最も人気の高いものであるが、楽興の時とは異なり、一聴すると詩情に満ち溢れた各フレーズの奥底には作曲者の行き場のない孤独感や寂寥感が込められており、最晩年の最後の3つのピアノ・ソナタにも比肩し得る奥深い内容を有する崇高な作品とも言える。
したがって、かかる楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいく彫りの深いアプローチを行うことは、同曲の演奏様式としての理想の具現化と言えるところであり、かかるアプローチによる演奏としては内田光子による彫りの深い超名演(1996年)が掲げられるところだ。
これに対して、ピリスのアプローチは、内田光子のように必ずしも直接的に楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫りの深い表現を行っているわけではない。
むしろ、同曲の詩情に満ち溢れた旋律の数々を、瑞々しささえ感じさせるような透明感溢れるタッチで美しく描き出していくというものだ。
その演奏は純真無垢とさえ言えるものであり穢れなどはいささかもなく、あたかも純白のキャンバスに水彩画を描いていくような趣きさえ感じさせると言えるだろう。
ペダルコントロールも絶妙の巧さで、1音1音丁寧な指運から紡ぎ出されるピリスの音はどこまでも透明で柔らかく、心に優しく響きわたる。
もっとも、ピリスのピアノは各旋律の表層をなぞっただけの美しさにとどまっているわけではない。
表面上は清澄なまでの繊細な美しさに満ち溢れてはいるが、その各旋律の端々からは、同曲に込められた寂寥感が滲み出してきている。
ピリスは、音の1つ1つ、音型の1つ1つ、フレーズの1つ1つ、など、とても緻密に徹底した解釈をし、練り上げていくのだろう。
彼女の作り上げるそれらは、“自分はここをこう弾きたい”というメッセージを目一杯含み、聴き手に投げかけてくる。
型通り弾く人たちが多いなか、たとえばモーツァルトにしても、ショパンにしても、ピリスは雰囲気中心で弾くことは決してないし、かといってクールで理詰めな演奏をするわけでもない。
さて、今回のシューベルトも、基本的にはそうしたピリスの特質が色濃く表われた演奏で、よく考え抜かれ、それが演奏者の頭だけでなく、耳と体を通して発せられている、ということがよく分かる。
ピリスがシューベルトの音楽に対してどのような思い入れを持ち、どのように好んでいるかが、1つ1つの音から、フレーズから、全体から、よく伝わってくる、密渡の濃い演奏になっていると思う。
このようなピリスによる本演奏は、まさにかつてのリリー・クラウスの名演(1967年)に連なる名演と評価し得るところであり、即興曲集の演奏史上でも、内田光子の名演は別格として、リリー・クラウスによる名演とともに上位を争う至高の超名演と高く評価したいと考える。
録音は従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、ピリスのピアノタッチがより鮮明に再現されるとともに、音場が幅広くなったように思われる。
いずれにしても、ピリスによる至高の超名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2015年07月17日
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マーラーの音楽は少年時代から好きだったが、これまで彼とその時代の芸術観についてそれほど深く知ることもなく聴いてきた。
しかしこの著書を読み進めていくと、マーラーという天才作曲家が育つべき下地が世紀末のウィーンを中心にすっかり準備されていたという印象を持つ。
言い換えれば、マーラーはこの時代に出るべくして出てきた時代の申し子なのだろう。
マーラーの人となりや作品がニーチェやワーグナーの哲学、フロイトの精神分析、そしてクリムトの芸術やオットー・ワーグナーの都市計画などと如何に密接に関わっていたか、また如何に彼がその時代の空気を敏感に反映させた音楽を創造していたかが理解できる。
勿論そうした作品が当時の人々から諸手を挙げて受け入れられたかといえば、必ずしもそうではなかった。
マーラーはウィーンを代表する優秀な指揮者として君臨していたが、本人の意志とは裏腹に作曲家としては名を成していなかった。
こうした事情を知ることによってマーラーの鑑賞が一層興味深いものになる筈で、またその作品の必然性を暗示する著者の構想は成功している。
一方でマーラーの虚像はルキーノ・ヴィスコンティの映画『ヴェニスの死』に負うところが大きいと著者は指摘する。
この作品はトーマス・マンの同名の小説からの映画化だが、マンが主人公である小説家アッシェンバッハにマーラーの姿を匂わせたのに対してヴィスコンティは彼を完全に作曲家マーラーに限定した。
そして「滅びの中で美しきものの幻影を執拗に追い求めながら自ら滅びていった」音楽家のイメージを創造する。
マーラーの音楽にはそうした芸術至上主義的で、かつ世紀末特有の退廃的な雰囲気が感じられるのは確かだろう。
しかし事実は小説よりも奇なりの例えに相応しく、実際の彼自身は抜け目のない実利的な合理主義者だったようだ。
だがその間の葛藤が音楽にも映し出されていることは真実であるに違いない。
この時代は来るべき時代の新しい潮流とロマン派の名残を残した潮流とが渦巻いていた。
そうした中でマーラーも生きていたし、作品には双方の影響が表れている。
面白い逸話としては、マーラーが自分の演奏する曲のオーケストレーションを、それがどれほど偉大な作曲家のものであろうと敢然と改竄したことが挙げられる。
当人は作曲家のイメージした音響の再現という大義名分を掲げてその行為を正当化していたようだが、これはマーラーよりも少し前の時代の音楽観のあり方だ。
ヴァイオリニストのヨアヒムがメンデルスゾーンのピアノ伴奏で演奏したバッハの無伴奏をシューマンが賞賛していることからも理解できるように、ロマン派の時代は現代よりも音楽が主観的であり、その普遍性はそれほど顧みられなかったのかも知れない。
それは決して作曲家への冒涜には繋がらなかった。
マーラーがモーツァルトやベートーヴェンのスコアに熱心に書き足した音符や曲想記号はひとつの時代の終わりを告げる証しでもあるだろう。
それはまた最終章「ワルター神話を超えて」に詳しく分析されてマーラーの後の時代の指揮者の解釈について突っ込んだ研究結果が述べられている。
マーラーの直弟子であり、師匠の作品の正当な再現者と思われているブルーノ・ワルターが、実は作曲者のイメージとはかなり異なった解釈による演奏をしていたというのは、あながち根拠のないこととは言えない。
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若くして「巨匠の風格を備えつつある」と、ここ数年の演奏がきわめて高い評価を獲得しているロシア出身の実力派メジューエワ。
メジューエワと言えば、最近ではシューベルトのピアノ・ソナタ全集の録音に取り組んでいるところであり、タイミング的にもそろそろその第4弾の登場と思っていたところであるが、2011年のリスト生誕200年を記念してのリストのピアノ作品集の登場とは、メジューエワの芸風やこれまでのレパートリーからしても大変意外であったと言わざるを得ない。
というのも、2010年のショパンイヤーでは、ショパンの作品の数々の名演を聴かせてくれたこともあって、メジューエワにリスト弾きのイメージを見出すことがいささか困難であると言えるからである。
したがって、本盤を聴く前は、一抹の不安を抱かずにはいられなかったところであるが、聴き終えて深い感銘を覚えたところだ。
メジューエワによる本演奏は、一聴すると地味な装いをしているところであるが、聴き進めていくうちに、じわじわと感動が深まっていくような趣きのある演奏と言えるのではないだろうか。
派手さや華麗さなどとは無縁であるが、どこをとっても豊かな情感と独特のニュアンスに満ち溢れており、いわゆるヴィルトゥオーゾ性を全面に打ち出した一般的なリストのピアノ曲の演奏様式とは、一味もふた味も異なった性格を有していると言っても過言ではあるまい。
各楽曲の造型、とりわけ大曲でもあるピアノ・ソナタロ短調の造型の堅固さは、女流ピアニスト離れした重厚さを兼ね備えていると言えるところであり、強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで、持ち前の桁外れの表現力を駆使して、同曲の魅力を完璧に音化し尽くしているとさえ言えるだろう。
古今の大ピアニストたちが個性豊かな名演を刻んできたこの傑作ソナタに真っ向から挑み、正攻法の解釈で作品の素晴らしさを伝えてくれる。
例によって、1音1音を蔑ろにすることなく、曲想を精緻に、そして情感豊かに描き出して行くという正攻法のアプローチを軸としてはいるが、メジューエワの詩情に満ちた卓越した芸術性が付加されることによって、リストのピアノ曲が、単なる卓越した技量の品評会的な浅薄な作品ではなく、むしろロマン派を代表する偉大な芸術作品であることをあらためて認知させることに成功したと言ってもいいのではないだろうか。
「悲しみのゴンドラ」第2番や「暗い雲」の底知れぬ深みは、メジューエワの芸術家としての偉大さの証左と言っても過言ではあるまい。
いずれにしても、本盤の演奏は、メジューエワの卓越した芸術性を証明するとともに、今後の更なる発展を大いに予見させるのに十分な素晴らしい超名演であると高く評価したい。
音質は、「愛の夢」及び「カンツォーネとタランテラ」を除くすべての楽曲がDSDレコーディングとなっており、メジューエワの透徹したピアノタッチが鮮明に再現される申し分のないものとなっている。
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2015年07月16日
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バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は鍵盤楽器だけではなく、音楽全体にとっての聖典であると言われている。
「平均律」は1オクターブを構成する12音の周波数の差を均等に調律する方法であるが、バッハはその12音それぞれを基音とし、さらに長調と短調の両方を作ることで全24の調性による練習曲を作った。
それが「平均律クラヴィーア曲集」全2巻である。
そんなバッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、ピアノ音楽の旧約聖書とも言われているだけに、古今東西の多くのピアニストにとっては、新約聖書たるベートーヴェンのピアノ・ソナタと並んで、弾きこなすのは大いなる目標とされてきた。
かつては、グールドの超個性的な名演もあったが、グールドと並んで「鬼才」と称されるアファナシエフが、同曲に対してどのようなアプローチをしているのか、聴く前は大変興味津々であった。
同じロシアのピアニストであるリヒテルも、同曲に素晴らしい名演を遺しているが、アファナシエフのアプローチは、リヒテルの研ぎ澄まされた鋭利なピアニズムとは対照的で、ゆったりとしたテンポをベースとしたきわめて静的で精緻なものだ。
シューベルトの後期3大ピアノ・ソナタで見せたような、超スローテンポのやり過ぎとも言えるアプローチはここではいささかも見られない。
その分、肩すかしを喰わされたきらいがないわけではないが、バッハがスコアに記した音符を透徹した表現で完璧に描き出したという点においては、さすがは「鬼才」アファナシエフならではの個性的アプローチと言える。
第1巻では、最後のフーガを2バージョン収めているのも、アファナシエフの同曲への深い愛着とこだわりを感じさせる。
第2巻は、第1巻よりもさらに技巧的にも内容においても高度な内容を内包しているが、アファナシエフのアプローチは、第1巻の演奏といささかの変化もない。
シューベルトの後期3大ピアノソナタで見せたような極端なスローテンポによるあくの強いアプローチはとらず、ピアノ曲の旧約聖書とも称される同曲への深い畏敬の念を胸に抱きつつ、構成される全24曲(前奏曲とフーガを別の曲と考えると48曲)を1曲1曲、あたかも骨董品を扱うような丁寧さで、精緻に描き出していく。
全体として静けささえ感じられるほどであり、これぞバッハの音楽とも言うべき底知れぬ深みを湛えた演奏と言うべきである。
「鬼才」とも言われたアファナシエフにしては、少々物足りないとも思われるが、それだけ同曲集に対しての強い愛着とこだわりを感じさせる。
また、全体的に音楽を構成する個々の音が際立っていて、隙間の無いロジックパズルのように理路整然と整っている。
同じロシアの先輩ピアニストであるリヒテルの鋭角的なアプローチとは対照的であると考えるが、演奏から受ける感動においては、いささかの不足もなく、リヒテルの名演とは別次元の名演と高く評価したい。
技巧的にバリバリと弾く人も多い曲集だが、むしろこうやってじっくりと構えてもらった方が、ひとつひとつの音が際立って曲集全体の構造(つまり音楽の最も初歩的な理論)が理解しやすいと思う。
しばしば「鬼才」と評されるアファナシエフだが、ここで彼はその演奏によって、音楽理論の真髄へ迫る手がかりを与えてくれるのであり、音楽を勉強する人なら、聴いてみて損はないはずだ。
また、アファナシエフの透徹したピアノのタッチが鮮明な音質で味わえる点も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献している。
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ヴァントが晩年にミュンヘン・フィルと録音した一連のブルックナーの至高の超名演は、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにシングルレイヤーによるSACD化されたというのは何という素晴らしいことであろうか。
音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のシングルレイヤーによるSACD化が行われることによって、ベルリン・フィル盤と同様に更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。
音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。
長年に渡ってチェリビダッケに鍛え抜かれたミュンヘン・フィルを指揮していることもあって、演奏全体に滑らかで繊細な美感が加わっていることが特徴。
ブルックナーの「第8」は、まぎれもなくブルックナーの最高傑作であると思うが、それだけに、ヴァントも、ライヴ録音も含め、何度も録音を行ってきた。
しかしながら、ヴァントの厳格なスコアリーディングによる眼光紙背に徹した凝縮型のアプローチとの相性はイマイチであり、1993年の北ドイツ放送交響楽団までの録音については、立派な演奏ではあるものの、やや面白みに欠けるきらいがあった。
しかしながら、本盤のミュンヘン・フィルとの演奏と、この数カ月後のベルリン・フィルとの演奏の何という素晴らしさであろうか。
神々しいばかりの超名演と言っても過言ではあるまい。
ヴァントは、これまでの凝縮型のアプローチではなく、むしろ朝比奈隆のように、より柔軟でスケール雄大な演奏を行っている。
本盤は、ベルリン・フィル盤に比べると音質にやや柔和さが見られるが、このあたりは好みの問題と言えるだろう。
これまで発売された他のオーケストラとの共演盤に較べて、艶の乗った響きの官能的なまでに美しい感触、多彩に変化する色彩の妙に驚かされる。
もちろん、ヴァントの持ち味である彫りの深い音楽造りは健在なのであるが、そこに明るく柔軟な表情が加わることで、他盤とは大きく異なる魅力を発散しているのである。
微動だにしないゆったりとしたインテンポを貫いているが、同じミュンヘン・フィルを指揮したチェリビダッケの演奏のようにもたれるということもなく、随所で見せるゲネラルパウゼも実に効果的だ。
音質が良いせいか、ヴァントの演奏としては思いのほか木管楽器の主張が強いことも、演奏全体により多彩な表情を与えているようだ。
ヴァント自身もここではテンポの動きを幅広く取って、非常に息の長い旋律形成を試みており、それぞれのブロックの締め括りに置かれたパウゼが深い呼吸を印象付けている。
深く沈み込んでいくような美しさと、そそり立つ岩の壁を思わせる壮大な高揚とが交錯する終楽章は中でも素晴らしい出来栄えである。
最後の音が消えてから約10秒後、それまで圧倒されたようにかたずを飲んでいた会場が、やがて嵐のようなブラヴォーに包まれていく様子がそのまま収録されていることも印象的で、当日の聴衆の本名演に対する深い感動が伝わってくる名シーンだ。
いずれにしても、ヴァント&ミュンヘン・フィルによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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2015年07月15日
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ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、古今のチェロ協奏曲の中でも最高峰に聳え、最も愛聴される作品として知られている。
ヨーヨー・マはこれまでこの大作を2度録音しており、本作は、1986年にマゼール指揮ベルリン・フィルと共演した第1回目の録音で(第2回目は1996年、マズア指揮ニューヨーク・フィルと録音)、みずみずしいチェロ、強靭な響きの管弦楽が織りなす充実のハーモニーが絶賛された名盤である。
同曲の代表盤としては、今もなおロストロポーヴィチのチェロ、カラヤン指揮ベルリン・フィルの1968年盤を掲げる人も多いであろう。
しかし1度聴くとその無類の迫力に圧倒されるが、まさにこれはライヴ的な名演なのであり、繰り返し聴くCDとしては、聴くたびに段々と飽きてしまうのも事実だろう。
その点ヨーヨー・マのチェロ、マゼール指揮ベルリン・フィルは、マのソロが実にリラックスしていて、しかもスケールも大きく、この難曲を少しも難しくなく聴かせるのは、さすがというかいかにも現代人らしい実力であり、脱帽である。
マは、既に大家としての名声を博しているが、1955年生まれと意外なほど若い。
マのドヴォルザークは、彼の抜群のテクニックと楽譜の深い読みによって、他のチェリストでは到底到達できないような高みに達している。
マは、驚異的なテクニックを発揮しながらも音楽の品格を失わず、完璧なまでのドヴォルザークを描き出している。
リズム処理の素晴らしい演奏で、マは、どんなに複雑に入り組んだ曲想になっても、驚嘆すべきテクニックで楽々とひきあげており、全体に遅めのテンポでゆったりと流し、スケールの大きな表現となっていて見事だ。
マゼールの指揮も巧みで、全体に遅めのテンポでオーケストラをフルに鳴らし、充分に響かせ、力強く演奏している。
凝りに凝った語り口の巧みなマゼール指揮のオケが、冒頭の長い序奏部から存在感があり、これでは独奏者の影が薄くなってしまわないのか?と心配になるが、マが負けずと多彩多弁なチェロを繰り広げ、表情の豊かさでは、おもしろさ随一の快演だ。
マの演奏はフレージングが滑らかで、技術の限界をまったく感じさせず、のびやかな情感が明るい雰囲気を生み出している。
第1楽章の冒頭からして、マは、実にきっぱりとしたフレージング、テンポ、リズムで音楽を開始しながら、3小節目のfzで急に粘るようなテヌート奏法となり、多彩な表現力を示す。
気持ちを十分に込めながらそれでいて品格を失っておらず、たとえば、第1楽章の第2主題(6分11秒から)や第2楽章の出だし(0分40秒から)、さらには10分56秒からは、すべてppかpの指示があるが、マは、弱音を保ちながらも高らかに歌い上げる。
弱音に気持ちを込めていきながらも、音を解放していくなどということは、超絶的なテクニックに裏打ちされた深い音楽理解によってはじめて可能となる。
第3楽章のラスト(12分25秒から41秒)において、マは信じられないようなスケールの大きなクレッシェンドを、他のチェリストの倍の時間をかけて行なうが、こんな芸当はマにしかできない。
小品の2曲も好演で、「ロンド」の洒落たリズムと節まわしが素晴らしく、「森の静けさ」では厚いカンタービレと音楽が楽しめる。
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ベームの音楽は厳格さの中に暖かな眼差しを感じさせ、押し付けがましいところがなく、いわゆるヴィルトゥオーゾとは違ったタイプの人間味豊かな巨匠であった。
ベームは独墺系の作曲家を中心とした様々な楽曲をレパートリーとしていたが、その中でも中核を成していたのがモーツァルトの楽曲であるということは論を待たないところだ。
ベームが録音したモーツァルトの楽曲は、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、声楽曲そしてオペラに至るまで多岐に渡っているが、その中でも1959年から1960年代後半にかけてベルリン・フィルを指揮してスタジオ録音を行うことにより完成させた交響曲全集は、他に同格の演奏内容の全集が存在しないことに鑑みても、今なお燦然と輝くベームの至高の業績であると考えられる。
現在においてもモーツァルトの交響曲全集の最高峰であり、おそらくは今後とも当該全集を凌駕する全集は出て来ないのではないかとさえ考えられるところだ。
本盤に収められた後期交響曲集は当該全集から抜粋されたものであるが、それぞれの楽曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。
ベームは、モーツァルトを得意とし、生涯にわたって様々なジャンルの楽曲の演奏・録音を行い、そのいずれも名演の誉れが高いが、その中でもこれらは金字塔と言っても過言ではない存在である。
近年では、モーツァルトの交響曲演奏は、小編成の室内オーケストラによる古楽器奏法や、はたまたピリオド楽器の使用による演奏が主流であり、本演奏のようないわゆる古典的なスタイルによる全集は、今後とも2度とあらわれないのではないかとも考えられるところだ。
同様の古典的スタイルの演奏としても、ベーム以外にはウィーン・フィルを指揮してスタジオ録音を行ったレヴァインによる全集しか存在しておらず、演奏内容の観点からしても、本ベーム盤の牙城はいささかも揺らぎがないものと考える。
本全集におけるベームのアプローチは、まさに質実剛健そのものであり、重厚かつシンフォニックな、そして堅牢な造型の下でいささかも隙間風の吹かない充実した演奏を聴かせてくれていると言えるだろう。
この録音の頃のベームには、まだ最晩年ほどテンポの遅さからくる重苦しさがなく、本演奏においてはいまだ全盛期のベームならではの躍動的なリズム感が支配しており、テンポも中庸でいささかも違和感を感じさせないのが素晴らしい。
モーツァルトの音楽のもつ、しなやかな表情や、甘美な情緒よりも、構成的な美しさや、内容的な芯の強さをあらわした演奏で、感傷的な流れに陥らず、きわめて硬質な、しっかりとした表現である。
作品のもつ愉悦的な明るさは、いまひとつ直接的に伝わってこないが、老大家ベーム特有の深い味が滲み出ている。
ベルリン・フィルも、この当時はいまだカラヤン色に染まり切っておらず、フルトヴェングラー時代の名うての奏者が数多く在籍していたこともあって、ドイツ風の音色の残滓が存在した時代でもある。
したがって、ベームの統率の下、ドイツ風の重心の低い名演奏を展開しているというのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。
このような充実した重厚でシンフォニックな演奏を聴いていると、現代の古楽器奏法やピリオド楽器を使用したこじんまりとした軽妙なモーツァルトの交響曲の演奏が何と小賢しく聴こえることであろうか。
本演奏を、昨今のモーツァルトの交響曲の演奏様式から外れるとして、大時代的で時代遅れの演奏などと批判する音楽評論家もいるようであるが、我々聴き手は芸術的な感動さえ得られればそれでいいのであり、むしろ、軽佻浮薄な演奏がとかくもてはやされる現代においてこそ、本演奏のような真に芸術的な重厚な演奏は十分に存在価値があると言えるのではないだろうか。
いずれにしても、本盤は、モダン・オーケストラによるスタンダードな超名演と言えるだけの質を持っており、今後とも未来永劫、その存在価値をいささかも失うことがない歴史的な遺産であると高く評価したい。
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筆者の記憶では1989年から始まったニンバスのプリマ・ヴォーチェは、既に135枚のCDをリリースしているが、このシリーズの刊行に当たってニンバスの企画には当初から明確なポリシーがあった。
それは78回転盤から実際に再生されていた音の再現であり、それまでにハイテクを駆使したリマスタリングによってCD化されたものの音質への疑問に対するひとつの解決案でもあった。
それ以前のSP盤CD化で得られた音質は往々にして余韻のない干乾びたもので、歌手の声はもとよりオーケストラに至っては聴くに堪えない惨めな音でしか再現できなかったのが実情だ。
こうした演奏を聴いてカルーソを始めとする過去の大歌手への評価を下すこと自体ナンセンスだった。
だが筆者はこのプリマ・ヴォーチェ・シリーズを聴くようになって、初めて彼らの偉大さが理解できるようになったと言っても過言ではない。
CD化のプロセスは至って単純で、保存状態の良いSP盤を当時の手廻し式蓄音機グラモフォンにかけて再生した音を再生空間の音響と共に録音するというもので、逆説的だがそうすることによってSP本来の特質が余すところなく再現されるからだ。
当然ノイズ処理も一切していない。
何故ならノイズをカットすれば可聴域の再生音まである程度除去されてしまうからだ。
レコード産業の黎明期にSP盤の製造販売が隆盛を極めたのにはそれなりの理由がある。
それは肉声に逼迫するほどの再現が可能だったからに他ならない。
特に人間の声域は、当時の録音技術と再生機器のダイナミック・レンジに最も適していたのだろう。
だからこの時代のレコード産業を支えたのは他ならない歌手達だった。
このサンプラー盤に収録されている14人のオペラ歌手達の唱法は伝統的なベル・カントの見本でもあり、彼らの技術が綿々と今日の歌手に受け継がれていることは無視できない。
確かに現代の歌手は指揮者の持ち駒として活用され、往年の人達のような勝手気ままは許されなくなったが、当時の歌い手の天衣無縫とも言える歌声を聴くことによって、本来の歌唱芸術を探ることになるのではないだろうか。
第1曲目がユッシ・ビョルリンクの『誰も寝てはならぬ』で、録音は1944年なので当時33歳の彼の輝かしい歌声を堪能できる。
また5曲目のカルーソがマントヴァ公爵を歌う『リゴレット』の四重唱は1908年の録音でカルーソ最良の記録のひとつだろう。
更に10曲目に入っているマスカーニ自身の指揮する『カヴァレリア・ルスティカーナ』では「おお、ローラ!」を歌うジーリの熱唱を聴くことができる。
これはオペラ初演50周年を記念して行われた全曲録音から採られたもので、マスカーニのスピーチも含まれている。
当時ジーリは既に50歳だったが、その歌唱はドラマティックで、しかも歌い崩しのない端正なものだ。
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2015年07月14日
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ドヴォルザークの交響曲は、ドイツ=オーストリア系の音楽を得意とした巨匠ワルターとしては珍しいレパートリーである。
同時代の巨匠フルトヴェングラーにとってのチャイコフスキーの交響曲のような存在と言えるかもしれない。
しかしながら、本盤に収められた「第8」は、そのようなことは感じさせないような老獪な名演に仕上がっている。
同曲に特有のボヘミア風の自然を彷彿とさせるような抒情的な演奏ではなく、むしろ、ドイツ風の厳しい造型を基本とした交響的なアプローチだ。
それでいて、いわゆるドイツ的な野暮ったさは皆無であり、ワルター特有のヒューマニティ溢れる情感の豊かさが、造型を意識するあまり、とかく四角四面になりがちな演奏傾向を緩和するのに大きく貢献している。
とりわけ感心したのは終楽章で、たいていの指揮者は、この変奏曲をハイスピードで疾風のように駆け抜けていくが、ワルターは、誰よりもゆったりとした踏みしめるような重い足取りで演奏であり、そのコクのある深みは尋常ではなく、この曲を初めて聴くような新鮮さを感じさせる。
まさに、老巨匠ならではの老獪な至芸と言えるだろう。
「新世界より」もいわゆるボヘミアの民族的な抒情性を全面に打ち出した演奏ではなく、ワルターが得意としたドイツロマン派的なアプローチによる演奏ということが言える。
同時代の巨匠クレンペラーも、「新世界より」の名演を遺したが、同じドイツ風の演奏でありながら、クレンペラーの名演は、インテンポによる荘重さを旨とした演奏であった。
それに対して、ワルターの演奏は荘重といったイメージはなく、いつものワルターならではのヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏である。
例えば、第1楽章冒頭の導入部など、テンポや強弱において絶妙な変化を加えており、第2楽章の中間部のスローテンポと、その後主部に戻る際のテンポや、第3楽章のリズムの刻み方も大変ユニークだ。
したがって、ドイツ風の演奏でありながら、野暮ったさは皆無であり、そうした点は巨匠ワルターならではの老獪な至芸と言うべきであろう。
ただ、楽曲の性格に鑑みると、「第8」の方がワルターのアプローチに符合すると言えるところであり、「第8」と比較すると、もちろん高い次元での比較であるが、名演のレベルが一段下のような気がした。
しかしながら、いずれも歌心にあふれたドヴォルザークで、恰幅の良い堂々たる構えながら、細部まで目の詰んだ演奏は聴くたびに新しい発見をもたらしてくれる。
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アルバン・ベルク四重奏団(ABQ)は、1970年に、ウィーン音楽アカデミーの4人の教授たちによって結成された。
アルバン・ベルクの未亡人から、正式にその名前をもらったという。
そうしたことからでもわかるように、この団体の演奏は、ウィーン風のきわめて洗練された表情をもち、しかも、高い技巧と、シャープな切り口で、現代的な表現を行っているのが特徴である。
数年前に惜しまれつつ解散をしてしまったABQであるが、ABQはベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集を2度に渡って録音している。
最初の全集が本盤に収められた1978年〜1983年のスタジオ録音、そして2度目の全集が1989年に集中的に行われたライヴ録音だ。
このうち、2度目の録音についてはライヴ録音ならではの熱気と迫力が感じられる優れた名演であるとも言えるが、演奏の安定性や普遍性に鑑みれば、筆者としては最初の全集の方をABQによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の代表盤と評価したいと考える。
それどころか、あらゆる弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の中でも、ひとつの規範になり得るトップの座を争う至高の名全集と高く評価したい。
特筆すべきは、個々の奏者が全体に埋没することなど一切なく、かといって個々バラバラの主張では決してなく、曲の解釈、表現の統一感は徹底しており、究極のアンサンブルとしか言いようがない点だ。
この全集では、作曲年代に応じて表現を変化させ、情感豊かにひきあげているが、音楽的に深く掘り下げた演奏となっているところが素晴らしい。
本演奏におけるABQのアプローチは、卓越した技量をベースとした実にシャープと言えるものだ。
全体的に速めのテンポで展開されるが、決して中身が薄くなることはなく、むしろ濃厚である。
鬼気迫るような演奏もあって、隙がなく、ゆったりと聴くには少々疲れるかと思いきや、軽やかに音楽が流れ、十分リラックスして聴ける。
楽想を徹底して精緻に描き出して行くが、どこをとっても研ぎ澄まされたリズム感と緊張感が漂っており、その気迫溢れる演奏には凄みさえ感じさせるところである。
シャープで明快、緊迫度の高い、迫力に満ちた名演奏に聴き手はグイグイ引き込まれ、その自由で大胆、説得力あるアプローチに脱帽しまう。
それでいて、ABQがウィーン出身の音楽家で構成されていることに起因する独特の美しい音色が演奏全体を支配しており、とりわけ各楽曲の緩徐楽章における情感の豊かさには若々しい魅力と抗し難い美しさが満ち溢れている。
すべての楽曲がムラのない素晴らしい名演で、安心して聴いていられるが、とりわけABQのアプローチが功を奏しているのは第12番以降の後期の弦楽四重奏曲であると言えるのではないだろうか。
ここでのABQの演奏は、楽曲の心眼を鋭く抉り出すような奥深い情感に満ち溢れていると言えるところであり、技術的な完成度の高さとシャープさ、そして気宇壮大さをも併せ持つこれらの演奏は、まさに完全無欠の名に相応しい至高の超名演に仕上がっていると高く評価したい。
交響曲に匹敵する世界観や壮大さが、たった4人のアンサンブルの中に凝縮されている。
録音は、初期盤でもEMIにしては比較的良好な音質であったが、これほどの名演であるにもかかわらず、いまだにHQCD化すらなされていないのは実に不思議な気がする。
今後は、とりわけ第12番以降の後期の弦楽四重奏曲だけでもいいので、HQCD化、可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
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これまた素晴らしい名演だ。
本盤の2年後録音されたピアノ協奏曲第1番、第2番、第4番も、録音の素晴らしさもあって、至高の名演であったが、本盤もそれに優るとも劣らない名演揃いである。
パーヴォ・ヤルヴィは、手兵ドイツ・カンマーフィルとともにベートーヴェンの交響曲全集の名演を成し遂げているし、仲道郁代は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の名演を成し遂げている。
その意味では、両者ともにベートーヴェン演奏に多大なる実績を有するとともに、相当なる自信と確信を持ち合わせて臨んだ録音でもあり、演奏全体にも、そうした自信・確信に裏打ちされたある種の風格が漂っているのを大いに感じさせる。
オーケストラは、いわゆる一部にピリオド楽器を使用した古楽器奏法であり、随所における思い切ったアクセントや強弱の変化にその片鱗を感じさせるが、あざとさを感じさせないのは、ヤルヴィの指揮者としてのセンスの良さや才能、そして芸格の高さの証左と言える。
第3番は、第1楽章冒頭をソフトに開始。
しかしながら、すぐに強靭な力奏に変転するが、この変わり身の俊敏さは、いかにもヤルヴィならではの抜群のセンスの良さと言える。
仲道のピアノも、透明感溢れる美音で応え、オーケストラともどもこれ以上は求め得ない優美さを湛えている。
それでいて、力強さにおいてもいささかも不足もなく、ヤルヴィも無機的になる寸前に至るまでオーケストラを最強奏させているが、力みはいささかも感じさせることはない。
第2楽章は、とにかく美しい情感豊かな音楽が連続するが、ヤルヴィも仲道も、音楽を奏でることの平安な喜びに満ち溢れているかのようだ。
終楽章は一転して、仲道の強靭な打鍵で開始され、ヤルヴィもオーケストラの最強奏で応え、大団円に向かってしゃにむに突き進んでいく。
後半の雷鳴のようなティンパニや終結部の力奏などは圧巻の迫力だ。
それでいて、軽快なリズム感や優美さを損なうことはなく、センス満点のコクのある音楽はここでも健在である。
第5番の第1楽章は、実に巨匠風の重々しさで開始され、冒頭のカデンツァの格調高く雄渾で堂々としたピアニズムは、仲道のベートーヴェン弾きとしての円熟の表れとして高く評価したい。
それでいて、時折聴くことができる仲道の透明感溢れる繊細で美しいピアノタッチが、そうした重々しさをいささかでも緩和し、いい意味でのバランスのとれた演奏に止揚している点も見過ごしてはならない。
そして、ヤルヴィと仲道の息の合った絶妙なコンビネーションが、至高・至純の音楽を作り出している。
第2楽章は、第3番の第2楽章と同様に、とにかく美しいとしか言いようがない情感豊かな音楽が連続し、仲道の落ち着き払ったピアノの透明感溢れる美しい響きには、身も心もとろけてしまいそうだ。
終楽章は、疾風の如きハイスピードだ。
それでいて、オーケストラのアンサンブルにいささかの乱れもなく、仲道の天馬空を行く軽快にして典雅なピアノとの相性も抜群だ。
そして、これまで演奏した諸曲を凌駕するような圧倒的なダイナミズムと熱狂のうちに、全曲を締めくくるのである。
録音についても触れておきたい。
次作の第1番、第2番、第4番も同様であったが、本盤は、他のSACDでもなかなか聴くことができないような鮮明な極上の超高音質録音である。
しかも、マルチチャンネルが付いているので、音場の拡がりには圧倒的なものがあり、ピアノやオーケストラの位置関係さえもがわかるほどだ。
ピアノの透明感溢れる美麗さといい、オーケストラの美しい響きといい、本盤の価値をきわめて高いレベルに押し上げるのに大きく貢献していると評価したい。
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2015年07月13日
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素晴らしい名演だ。
記念すべき2004年9月4日首席指揮者就任記念コンサートの「英雄の生涯」以来となる、ヤンソンス&コンセルトヘボウ・アムステルダム(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)によるシュトラウス第2弾。
R.シュトラウスもまた、長い伝統を誇るコンセルトヘボウ・アムステルダムとはたいへんゆかりの深い作曲家。
1897年から翌98年にかけて作曲された「英雄の生涯」がコンセルトヘボウ・アムステルダム第2代首席指揮者メンゲルベルクと当楽団に捧げられたことも少なからず関係してのことであろう。
1915年10月の作曲者指揮による世界初演の翌年には、早くもメンゲルベルクの指揮で当コンセルトヘボウ・アムステルダムによるオランダ初演が行なわれた「アルプス交響曲」。
さらにこの成功を受けて、1週間後には作曲者の指揮でもコンセルトヘボウ・アムステルダム再演が果たされていた。
ヤンソンス自身は「アルプス交響曲」をウィーン・フィルとの実演などでも幾度となく取り上げてはいるが、こと録音に関して、他ならぬコンセルトヘボウ・アムステルダムを起用したことは演奏の伝統を踏まえての納得の選択と言えるだろう。
R.シュトラウスの「アルプス交響曲」は、今では演奏機会が多い人気曲になっているが、1970年代までは、ベーム(モノラル)、ケンぺ、メータ、ショルティといったごく限られた指揮者による録音しか存在しなかった。
LP時代でもあり、50分にも及ぶ楽曲を両面に分けなければならないというハンディも大きかったものと考える。
ところが、1981年にカラヤン盤がCDとともに登場するのを契機として、今日の隆盛を築くことになった。
この曲には、優秀なオーケストラと録音が必要であり、あとは、指揮者の各場面を描き分ける演出の巧さを要求されると言える。
それ故に、カラヤン盤が今もなお圧倒的な評価を得ているということになるのだが、本盤も、そうした要素をすべて兼ね備えている。
コンセルトヘボウ・アムステルダムは、全盛期のベルリン・フィルにも優るとも劣らない圧倒的な技量を誇っていると言えるし、録音も、マルチチャンネル付きのSACDであり、全く文句のつけようがない。
音質が良いというのは、生々しい、あるいは臨場感がある、というだけでなく、再生したときの奥行きの立体性、楽器のバランスなどが巧みに仕上がっているということである。
録音のダイナミックレンジは広いが、弱音も克明に捉えられているし、楽器と楽器の距離感も的確だ。
ヤンソンスも、聴かせどころのツボを心得た素晴らしい指揮を行っており、まさに耳の御馳走とも言うべき至福のひとときを味わうことが可能だ。
併録の「ドンファン」も、「アルプス交響曲」と同様、録音も含め最高の名演の1つと高く評価したい。
こちらも巧みなドラマづくりでライセンス・トゥー・スリルの異名をとるヤンソンスの独壇場。
匂い立つような弦に、甘美なオーボエ・ソロ、ホルンによって力強く歌われるテーマ。
その魅力を挙げてゆけばきりがないが、どんな場面においても磨き抜かれたコンセルトヘボウ・アムステルダムの響きは雄弁このうえなく、たっぷりと酔わせてくれる。
ヤンソンス&コンセルトヘボウ・アムステルダムは、前述のように首席指揮者としてのデビューの演奏会の演目として、「英雄の生涯」を採り上げたが、本盤には、その当時からの両者の関係の深まりを大いに感じることができる。
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スヴャトスラフ・リヒテルこそはまさしく巨星であった。
豪快なピアニズムと本物のデリカシーを持ったリヒテルは真の音楽家であったし、変に指揮などに色気を出さなかったところも賢明だった。
このセットで改めてその凄さに圧倒された。
この大ピアニストの演奏は「上手い」とか感じる前に「素晴らしい音楽」だと思わせるものがある。
数々の「伝説」による虚像もあるかも知れないが、そのような雑音を振り払って虚心に聴けば、その凄さはまっすぐ心に飛び込んでくる。
リヒテルはそのキャリアをライヴ演奏に賭けたピアニストだったこともあり、正式なセッションはそれほど多くなく、この33枚のCDセットでもかなりの割合がライヴ・レコーディングで占められている。
それでもさすがに録音技術で鎬を削っていたかつてのヨーロッパの御三家だけあって、いずれも概ね鮮明で良好な音質が再現されているのは幸いだ。
内容はフィリップスの『ザ・オーソライズド・レコーディングス』、デッカの『ザ・マスター』『ハイドン・ソナタ集』そしてドイツ・グラモフォンのリヒテルの総てのアルバムからピアノ・ソロのための作品をピックアップしたもので、協奏曲や連弾または他の楽器とのアンサンブル、あるいは歌曲の伴奏などは含まれていない。
初出の音源はひとつもないが、この3社のレーベルのCDの中にはリミテッド・エディションなどの理由で既に入手しにくいものや、プレミアム価格で取引されているものもあるので、今回のユニヴァーサル・イタリーによる集大成廉価盤化の企画は歓迎したい。
リヒテルは1人の作曲家の作品を系統的に網羅することや、売れ筋の曲目を弾くことになんら興味を示さなかったために、このセットには入っていないバッハの『平均律』全曲を例外にして、同一曲種の全曲録音は殆んど皆無に近い。
ライヴを重視したのは演奏の一回性への尊重と、採り直しによる集中力の散漫や技術的な編集による一貫性の欠如を嫌ったからで、ここにもリヒテルの芸術家としての確固たるポリシーが表れている。
しかしそのレパートリーは意外に広く、円熟期に入ってからも常に新しい曲目を開拓していたために彼のコンサートのプログラムはバラエティーに富んだものだった。
またこれまでに彼の演奏をリリースしたレーベルの数とそのメディアの量はプライベート的なものも含めると、全く収拾がつかなくなるほど氾濫している。
それは彼の演奏会には本人が望むか否かに拘らず、必ずと言っていいほど録音機材が持ち込まれていたからだ。
勿論ここに含まれないチャイコフスキーの小品集やグリーグの『抒情小曲集』などにもリヒテルがその名を馳せた超絶技巧とは対照的なリリカルな感性が聴き逃せないが、巨匠リヒテルを象徴するようなピアノの独奏曲はこの33枚に集約されていると言っても良いだろう。
新しいリマスタリングの表示はないので、これまで以上の音質の向上は期待していなかったが、例えばこの中では最も古い1956年のシューマン作品集(CD25)では、モノラル録音によるセッションではあるが、極めて良好な音質が得られている。
それに反して1958年に行われたブルガリアでのソフィア・リサイタル(CD33)は、客席の雑音とは別に、マスター・テープの劣化と思われるノイズが全体に聞こえる。
いずれにしても鑑賞にはそれほど煩わしさがないことも付け加えておく。
ライナー・ノーツは33ページで曲目一覧の他に英、伊語によるコメントと録音データが掲載されている。
データに関してはやや混乱をきたしていて正確さを欠いているが、リヒテルの場合膨大な数に上るライヴ音源に関してはどのレーベルにも起きていることで大目に見る必要がある。
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