2015年07月

2015年07月15日


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筆者の記憶では1989年から始まったニンバスのプリマ・ヴォーチェは、既に135枚のCDをリリースしているが、このシリーズの刊行に当たってニンバスの企画には当初から明確なポリシーがあった。

それは78回転盤から実際に再生されていた音の再現であり、それまでにハイテクを駆使したリマスタリングによってCD化されたものの音質への疑問に対するひとつの解決案でもあった。

それ以前のSP盤CD化で得られた音質は往々にして余韻のない干乾びたもので、歌手の声はもとよりオーケストラに至っては聴くに堪えない惨めな音でしか再現できなかったのが実情だ。

こうした演奏を聴いてカルーソを始めとする過去の大歌手への評価を下すこと自体ナンセンスだった。

だが筆者はこのプリマ・ヴォーチェ・シリーズを聴くようになって、初めて彼らの偉大さが理解できるようになったと言っても過言ではない。

CD化のプロセスは至って単純で、保存状態の良いSP盤を当時の手廻し式蓄音機グラモフォンにかけて再生した音を再生空間の音響と共に録音するというもので、逆説的だがそうすることによってSP本来の特質が余すところなく再現されるからだ。

当然ノイズ処理も一切していない。

何故ならノイズをカットすれば可聴域の再生音まである程度除去されてしまうからだ。

レコード産業の黎明期にSP盤の製造販売が隆盛を極めたのにはそれなりの理由がある。

それは肉声に逼迫するほどの再現が可能だったからに他ならない。

特に人間の声域は、当時の録音技術と再生機器のダイナミック・レンジに最も適していたのだろう。

だからこの時代のレコード産業を支えたのは他ならない歌手達だった。

このサンプラー盤に収録されている14人のオペラ歌手達の唱法は伝統的なベル・カントの見本でもあり、彼らの技術が綿々と今日の歌手に受け継がれていることは無視できない。

確かに現代の歌手は指揮者の持ち駒として活用され、往年の人達のような勝手気ままは許されなくなったが、当時の歌い手の天衣無縫とも言える歌声を聴くことによって、本来の歌唱芸術を探ることになるのではないだろうか。

第1曲目がユッシ・ビョルリンクの『誰も寝てはならぬ』で、録音は1944年なので当時33歳の彼の輝かしい歌声を堪能できる。

また5曲目のカルーソがマントヴァ公爵を歌う『リゴレット』の四重唱は1908年の録音でカルーソ最良の記録のひとつだろう。

更に10曲目に入っているマスカーニ自身の指揮する『カヴァレリア・ルスティカーナ』では「おお、ローラ!」を歌うジーリの熱唱を聴くことができる。

これはオペラ初演50周年を記念して行われた全曲録音から採られたもので、マスカーニのスピーチも含まれている。

当時ジーリは既に50歳だったが、その歌唱はドラマティックで、しかも歌い崩しのない端正なものだ。

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2015年07月14日


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ドヴォルザークの交響曲は、ドイツ=オーストリア系の音楽を得意とした巨匠ワルターとしては珍しいレパートリーである。

同時代の巨匠フルトヴェングラーにとってのチャイコフスキーの交響曲のような存在と言えるかもしれない。

しかしながら、本盤に収められた「第8」は、そのようなことは感じさせないような老獪な名演に仕上がっている。

同曲に特有のボヘミア風の自然を彷彿とさせるような抒情的な演奏ではなく、むしろ、ドイツ風の厳しい造型を基本とした交響的なアプローチだ。

それでいて、いわゆるドイツ的な野暮ったさは皆無であり、ワルター特有のヒューマニティ溢れる情感の豊かさが、造型を意識するあまり、とかく四角四面になりがちな演奏傾向を緩和するのに大きく貢献している。

とりわけ感心したのは終楽章で、たいていの指揮者は、この変奏曲をハイスピードで疾風のように駆け抜けていくが、ワルターは、誰よりもゆったりとした踏みしめるような重い足取りで演奏であり、そのコクのある深みは尋常ではなく、この曲を初めて聴くような新鮮さを感じさせる。

まさに、老巨匠ならではの老獪な至芸と言えるだろう。

「新世界より」もいわゆるボヘミアの民族的な抒情性を全面に打ち出した演奏ではなく、ワルターが得意としたドイツロマン派的なアプローチによる演奏ということが言える。

同時代の巨匠クレンペラーも、「新世界より」の名演を遺したが、同じドイツ風の演奏でありながら、クレンペラーの名演は、インテンポによる荘重さを旨とした演奏であった。

それに対して、ワルターの演奏は荘重といったイメージはなく、いつものワルターならではのヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏である。

例えば、第1楽章冒頭の導入部など、テンポや強弱において絶妙な変化を加えており、第2楽章の中間部のスローテンポと、その後主部に戻る際のテンポや、第3楽章のリズムの刻み方も大変ユニークだ。

したがって、ドイツ風の演奏でありながら、野暮ったさは皆無であり、そうした点は巨匠ワルターならではの老獪な至芸と言うべきであろう。

ただ、楽曲の性格に鑑みると、「第8」の方がワルターのアプローチに符合すると言えるところであり、「第8」と比較すると、もちろん高い次元での比較であるが、名演のレベルが一段下のような気がした。

しかしながら、いずれも歌心にあふれたドヴォルザークで、恰幅の良い堂々たる構えながら、細部まで目の詰んだ演奏は聴くたびに新しい発見をもたらしてくれる。

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アルバン・ベルク四重奏団(ABQ)は、1970年に、ウィーン音楽アカデミーの4人の教授たちによって結成された。

アルバン・ベルクの未亡人から、正式にその名前をもらったという。

そうしたことからでもわかるように、この団体の演奏は、ウィーン風のきわめて洗練された表情をもち、しかも、高い技巧と、シャープな切り口で、現代的な表現を行っているのが特徴である。

数年前に惜しまれつつ解散をしてしまったABQであるが、ABQはベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集を2度に渡って録音している。

最初の全集が本盤に収められた1978年〜1983年のスタジオ録音、そして2度目の全集が1989年に集中的に行われたライヴ録音だ。

このうち、2度目の録音についてはライヴ録音ならではの熱気と迫力が感じられる優れた名演であるとも言えるが、演奏の安定性や普遍性に鑑みれば、筆者としては最初の全集の方をABQによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の代表盤と評価したいと考える。

それどころか、あらゆる弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の中でも、ひとつの規範になり得るトップの座を争う至高の名全集と高く評価したい。

特筆すべきは、個々の奏者が全体に埋没することなど一切なく、かといって個々バラバラの主張では決してなく、曲の解釈、表現の統一感は徹底しており、究極のアンサンブルとしか言いようがない点だ。

この全集では、作曲年代に応じて表現を変化させ、情感豊かにひきあげているが、音楽的に深く掘り下げた演奏となっているところが素晴らしい。

本演奏におけるABQのアプローチは、卓越した技量をベースとした実にシャープと言えるものだ。

全体的に速めのテンポで展開されるが、決して中身が薄くなることはなく、むしろ濃厚である。

鬼気迫るような演奏もあって、隙がなく、ゆったりと聴くには少々疲れるかと思いきや、軽やかに音楽が流れ、十分リラックスして聴ける。

楽想を徹底して精緻に描き出して行くが、どこをとっても研ぎ澄まされたリズム感と緊張感が漂っており、その気迫溢れる演奏には凄みさえ感じさせるところである。

シャープで明快、緊迫度の高い、迫力に満ちた名演奏に聴き手はグイグイ引き込まれ、その自由で大胆、説得力あるアプローチに脱帽しまう。

それでいて、ABQがウィーン出身の音楽家で構成されていることに起因する独特の美しい音色が演奏全体を支配しており、とりわけ各楽曲の緩徐楽章における情感の豊かさには若々しい魅力と抗し難い美しさが満ち溢れている。

すべての楽曲がムラのない素晴らしい名演で、安心して聴いていられるが、とりわけABQのアプローチが功を奏しているのは第12番以降の後期の弦楽四重奏曲であると言えるのではないだろうか。

ここでのABQの演奏は、楽曲の心眼を鋭く抉り出すような奥深い情感に満ち溢れていると言えるところであり、技術的な完成度の高さとシャープさ、そして気宇壮大さをも併せ持つこれらの演奏は、まさに完全無欠の名に相応しい至高の超名演に仕上がっていると高く評価したい。

交響曲に匹敵する世界観や壮大さが、たった4人のアンサンブルの中に凝縮されている。

録音は、初期盤でもEMIにしては比較的良好な音質であったが、これほどの名演であるにもかかわらず、いまだにHQCD化すらなされていないのは実に不思議な気がする。

今後は、とりわけ第12番以降の後期の弦楽四重奏曲だけでもいいので、HQCD化、可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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これまた素晴らしい名演だ。

本盤の2年後録音されたピアノ協奏曲第1番、第2番、第4番も、録音の素晴らしさもあって、至高の名演であったが、本盤もそれに優るとも劣らない名演揃いである。

パーヴォ・ヤルヴィは、手兵ドイツ・カンマーフィルとともにベートーヴェンの交響曲全集の名演を成し遂げているし、仲道郁代は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の名演を成し遂げている。

その意味では、両者ともにベートーヴェン演奏に多大なる実績を有するとともに、相当なる自信と確信を持ち合わせて臨んだ録音でもあり、演奏全体にも、そうした自信・確信に裏打ちされたある種の風格が漂っているのを大いに感じさせる。

オーケストラは、いわゆる一部にピリオド楽器を使用した古楽器奏法であり、随所における思い切ったアクセントや強弱の変化にその片鱗を感じさせるが、あざとさを感じさせないのは、ヤルヴィの指揮者としてのセンスの良さや才能、そして芸格の高さの証左と言える。

第3番は、第1楽章冒頭をソフトに開始。

しかしながら、すぐに強靭な力奏に変転するが、この変わり身の俊敏さは、いかにもヤルヴィならではの抜群のセンスの良さと言える。

仲道のピアノも、透明感溢れる美音で応え、オーケストラともどもこれ以上は求め得ない優美さを湛えている。

それでいて、力強さにおいてもいささかも不足もなく、ヤルヴィも無機的になる寸前に至るまでオーケストラを最強奏させているが、力みはいささかも感じさせることはない。

第2楽章は、とにかく美しい情感豊かな音楽が連続するが、ヤルヴィも仲道も、音楽を奏でることの平安な喜びに満ち溢れているかのようだ。

終楽章は一転して、仲道の強靭な打鍵で開始され、ヤルヴィもオーケストラの最強奏で応え、大団円に向かってしゃにむに突き進んでいく。

後半の雷鳴のようなティンパニや終結部の力奏などは圧巻の迫力だ。

それでいて、軽快なリズム感や優美さを損なうことはなく、センス満点のコクのある音楽はここでも健在である。

第5番の第1楽章は、実に巨匠風の重々しさで開始され、冒頭のカデンツァの格調高く雄渾で堂々としたピアニズムは、仲道のベートーヴェン弾きとしての円熟の表れとして高く評価したい。

それでいて、時折聴くことができる仲道の透明感溢れる繊細で美しいピアノタッチが、そうした重々しさをいささかでも緩和し、いい意味でのバランスのとれた演奏に止揚している点も見過ごしてはならない。

そして、ヤルヴィと仲道の息の合った絶妙なコンビネーションが、至高・至純の音楽を作り出している。

第2楽章は、第3番の第2楽章と同様に、とにかく美しいとしか言いようがない情感豊かな音楽が連続し、仲道の落ち着き払ったピアノの透明感溢れる美しい響きには、身も心もとろけてしまいそうだ。

終楽章は、疾風の如きハイスピードだ。

それでいて、オーケストラのアンサンブルにいささかの乱れもなく、仲道の天馬空を行く軽快にして典雅なピアノとの相性も抜群だ。

そして、これまで演奏した諸曲を凌駕するような圧倒的なダイナミズムと熱狂のうちに、全曲を締めくくるのである。

録音についても触れておきたい。

次作の第1番、第2番、第4番も同様であったが、本盤は、他のSACDでもなかなか聴くことができないような鮮明な極上の超高音質録音である。

しかも、マルチチャンネルが付いているので、音場の拡がりには圧倒的なものがあり、ピアノやオーケストラの位置関係さえもがわかるほどだ。

ピアノの透明感溢れる美麗さといい、オーケストラの美しい響きといい、本盤の価値をきわめて高いレベルに押し上げるのに大きく貢献していると評価したい。

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2015年07月13日


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素晴らしい名演だ。

記念すべき2004年9月4日首席指揮者就任記念コンサートの「英雄の生涯」以来となる、ヤンソンス&コンセルトヘボウ・アムステルダム(ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)によるシュトラウス第2弾。

R.シュトラウスもまた、長い伝統を誇るコンセルトヘボウ・アムステルダムとはたいへんゆかりの深い作曲家。

1897年から翌98年にかけて作曲された「英雄の生涯」がコンセルトヘボウ・アムステルダム第2代首席指揮者メンゲルベルクと当楽団に捧げられたことも少なからず関係してのことであろう。

1915年10月の作曲者指揮による世界初演の翌年には、早くもメンゲルベルクの指揮で当コンセルトヘボウ・アムステルダムによるオランダ初演が行なわれた「アルプス交響曲」。

さらにこの成功を受けて、1週間後には作曲者の指揮でもコンセルトヘボウ・アムステルダム再演が果たされていた。

ヤンソンス自身は「アルプス交響曲」をウィーン・フィルとの実演などでも幾度となく取り上げてはいるが、こと録音に関して、他ならぬコンセルトヘボウ・アムステルダムを起用したことは演奏の伝統を踏まえての納得の選択と言えるだろう。

R.シュトラウスの「アルプス交響曲」は、今では演奏機会が多い人気曲になっているが、1970年代までは、ベーム(モノラル)、ケンぺ、メータ、ショルティといったごく限られた指揮者による録音しか存在しなかった。

LP時代でもあり、50分にも及ぶ楽曲を両面に分けなければならないというハンディも大きかったものと考える。

ところが、1981年にカラヤン盤がCDとともに登場するのを契機として、今日の隆盛を築くことになった。

この曲には、優秀なオーケストラと録音が必要であり、あとは、指揮者の各場面を描き分ける演出の巧さを要求されると言える。

それ故に、カラヤン盤が今もなお圧倒的な評価を得ているということになるのだが、本盤も、そうした要素をすべて兼ね備えている。

コンセルトヘボウ・アムステルダムは、全盛期のベルリン・フィルにも優るとも劣らない圧倒的な技量を誇っていると言えるし、録音も、マルチチャンネル付きのSACDであり、全く文句のつけようがない。

音質が良いというのは、生々しい、あるいは臨場感がある、というだけでなく、再生したときの奥行きの立体性、楽器のバランスなどが巧みに仕上がっているということである。

録音のダイナミックレンジは広いが、弱音も克明に捉えられているし、楽器と楽器の距離感も的確だ。

ヤンソンスも、聴かせどころのツボを心得た素晴らしい指揮を行っており、まさに耳の御馳走とも言うべき至福のひとときを味わうことが可能だ。

併録の「ドンファン」も、「アルプス交響曲」と同様、録音も含め最高の名演の1つと高く評価したい。

こちらも巧みなドラマづくりでライセンス・トゥー・スリルの異名をとるヤンソンスの独壇場。

匂い立つような弦に、甘美なオーボエ・ソロ、ホルンによって力強く歌われるテーマ。

その魅力を挙げてゆけばきりがないが、どんな場面においても磨き抜かれたコンセルトヘボウ・アムステルダムの響きは雄弁このうえなく、たっぷりと酔わせてくれる。

ヤンソンス&コンセルトヘボウ・アムステルダムは、前述のように首席指揮者としてのデビューの演奏会の演目として、「英雄の生涯」を採り上げたが、本盤には、その当時からの両者の関係の深まりを大いに感じることができる。

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スヴャトスラフ・リヒテルこそはまさしく巨星であった。

豪快なピアニズムと本物のデリカシーを持ったリヒテルは真の音楽家であったし、変に指揮などに色気を出さなかったところも賢明だった。

このセットで改めてその凄さに圧倒された。

この大ピアニストの演奏は「上手い」とか感じる前に「素晴らしい音楽」だと思わせるものがある。

数々の「伝説」による虚像もあるかも知れないが、そのような雑音を振り払って虚心に聴けば、その凄さはまっすぐ心に飛び込んでくる。

リヒテルはそのキャリアをライヴ演奏に賭けたピアニストだったこともあり、正式なセッションはそれほど多くなく、この33枚のCDセットでもかなりの割合がライヴ・レコーディングで占められている。

それでもさすがに録音技術で鎬を削っていたかつてのヨーロッパの御三家だけあって、いずれも概ね鮮明で良好な音質が再現されているのは幸いだ。

内容はフィリップスの『ザ・オーソライズド・レコーディングス』、デッカの『ザ・マスター』『ハイドン・ソナタ集』そしてドイツ・グラモフォンのリヒテルの総てのアルバムからピアノ・ソロのための作品をピックアップしたもので、協奏曲や連弾または他の楽器とのアンサンブル、あるいは歌曲の伴奏などは含まれていない。

初出の音源はひとつもないが、この3社のレーベルのCDの中にはリミテッド・エディションなどの理由で既に入手しにくいものや、プレミアム価格で取引されているものもあるので、今回のユニヴァーサル・イタリーによる集大成廉価盤化の企画は歓迎したい。

リヒテルは1人の作曲家の作品を系統的に網羅することや、売れ筋の曲目を弾くことになんら興味を示さなかったために、このセットには入っていないバッハの『平均律』全曲を例外にして、同一曲種の全曲録音は殆んど皆無に近い。

ライヴを重視したのは演奏の一回性への尊重と、採り直しによる集中力の散漫や技術的な編集による一貫性の欠如を嫌ったからで、ここにもリヒテルの芸術家としての確固たるポリシーが表れている。

しかしそのレパートリーは意外に広く、円熟期に入ってからも常に新しい曲目を開拓していたために彼のコンサートのプログラムはバラエティーに富んだものだった。

またこれまでに彼の演奏をリリースしたレーベルの数とそのメディアの量はプライベート的なものも含めると、全く収拾がつかなくなるほど氾濫している。

それは彼の演奏会には本人が望むか否かに拘らず、必ずと言っていいほど録音機材が持ち込まれていたからだ。

勿論ここに含まれないチャイコフスキーの小品集やグリーグの『抒情小曲集』などにもリヒテルがその名を馳せた超絶技巧とは対照的なリリカルな感性が聴き逃せないが、巨匠リヒテルを象徴するようなピアノの独奏曲はこの33枚に集約されていると言っても良いだろう。

新しいリマスタリングの表示はないので、これまで以上の音質の向上は期待していなかったが、例えばこの中では最も古い1956年のシューマン作品集(CD25)では、モノラル録音によるセッションではあるが、極めて良好な音質が得られている。

それに反して1958年に行われたブルガリアでのソフィア・リサイタル(CD33)は、客席の雑音とは別に、マスター・テープの劣化と思われるノイズが全体に聞こえる。

いずれにしても鑑賞にはそれほど煩わしさがないことも付け加えておく。

ライナー・ノーツは33ページで曲目一覧の他に英、伊語によるコメントと録音データが掲載されている。

データに関してはやや混乱をきたしていて正確さを欠いているが、リヒテルの場合膨大な数に上るライヴ音源に関してはどのレーベルにも起きていることで大目に見る必要がある。

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R.シュトラウスの楽曲というと、筆者としてはどうしてもカラヤンの呪縛から逃れられないが、カラヤンの演奏だけが正解ではないはずで、別のアプローチの仕方もあってしかるべきである。

カラヤンとは正反対のオーソドックスなアプローチで、R.シュトラウスの名演を成し遂げたのはケンぺだと考えている。

本盤のブロムシュテット盤も、ベースはケンぺのオーソドックスなアプローチを踏襲するものではないだろうか。

オーケストラも同じシュターツカペレ・ドレスデンで、いぶし銀のような渋いサウンドが、演奏に落ち着きと潤いをもたらすのに大いに貢献している。

作曲家とも縁の深い名門オーケストラによる質実剛健で緻密なサウンドメイクと言えるところであり、このまろやかさと繊細な表情の魅力は、他のオーケストラには求められない。

ブロムシュテットは、1927年アメリカ生まれのスウェーデン人で、ドイツ人でない彼がシュターツカペレ・ドレスデンの音楽監督を10年間(1975〜85年)にわたって務めた事は注目に値する。

菜食主義者として知られ、その贅肉を削ぎ落とした透明感の高いオーケストレーションは彼の人格をそのまま映し出している。

シュターツカペレ・ドレスデンのいともコクのある音響を得て、スケール大きく徹頭徹尾正攻法で展開されたR.シュトラウス演奏であり、ブロムシュテットは、この名門オーケストラの美しさを最大限に発揮させたスケール大きな名演を繰り広げている。

ブロムシュテットの円熟のタクトは、R.シュトラウスを知り尽くしたシュターツカペレ・ドレスデンの重厚緻密な響きを駆使して、巧みに聴く者を高揚へと導く。

解釈も品がよく、大人の風格を感じさせるものであり、流麗で端正、まったく一分の隙もない表現である。

非常にズシリと手ごたえのある、巨匠の風格を持った演奏であり、音色はどちらかと言えば渋い方で、玄人好みと言っても良いだろう。

個人的に筆者がR.シュトラウスのオペラの世界に接する機会が多いためだろうか、およそダイナミズムや尖鋭さを主軸として余りにエネルギッシュに繰り広げられてゆく演奏よりも、当ディスクのごとく、緻密なアンサンブルを聴かせつつ、じっくり味わい尽くさせてくれるような彫りの深い落ち着いた演奏に好感がもてる。

ブロムシュテットの構想はまさに堅実で精緻、あくまで純音楽的な観点からこの作品の普遍的な魅力をさぐりあてている感があり、複雑な対位法の織りなしも十全に描出しきっている。

ただ、いかにもブロムシュテットらしいのは、随所に大仰とも言えるような劇的な表現もしているということで、この点ではカラヤン風の劇的な要素も多分にある。

その意味では、洗練と濃密さが一体となった硬軟併せ持つバランスのとれた美演という表現が適切かもしれない。

あまり文学的で深刻なアプローチをとらずに淡々と進む「死と変容」や、オーケストラ団員に自由に演奏させている伸び伸びした「ティル」も好演だが、作曲者最晩年の「メタモルフォーゼン」が特に美しく、やや暗くくすんだ響きと共に、挽歌が静かに奏でられている。

流麗な美しさの中に、R.シュトラウスの音楽の本質が立ち現れる薫り高い名演と言えるだろう。

いぶし銀のようなシュターツカペレ・ドレステンのサウンドとケレン味のないブロムシュテットの音楽づくりで醸成されたR.シュトラウスの素晴らしさを是非多くの方に堪能していただきたい。

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2015年07月12日


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ザルツブルク音楽祭での収録年の異なるふたつのコンサートより、キャリア駆け出しのムーティがウィーン・フィルを指揮した演奏内容を編んだアルバム。

リッカルド・ムーティのザルツブルク音楽祭でのライヴから3曲を収めたCDで、前半の2曲が1972年8月17日に同地のグローセス・フェストシュピールハウスで演奏されたロッシーニのオペラ『セミラーミデ』序曲及びシューマンの『ピアノ協奏曲イ短調』で、ソリストにはスヴャトスラフ・リヒテルを迎えている。

後半は1974年7月27日にクライネス・フェストシュピールハウスでのモーツァルトの『協奏交響曲変ホ長調』で、ソロ・ヴァイオリンに当時のウィーン・フィルのコンサート・マスターだったゲルハルト・ヘッツェル、ソロ・ヴィオラには同首席奏者ルドルフ・シュトレングをそれぞれ配している。

ムーティのザルツブルク・デビューは1971年にカラヤンから招待された時で弱冠30歳だった。

このライヴはその翌年のもので、プログラミングの上でも既にムーティのストラテジーが良く表れている。

ムーティはコンサートの冒頭にしばしばイタリア・オペラの序曲を持ってくる。

しかもウィーン・フィルのようなオーケストラでロッシーニのクレッシェンドを思う存分聴かされた聴衆の精神状態は、いやがうえにも高揚してくる。

こうしたオーケストラのウォーミング・アップと聴き手の感覚を呼び覚ますファンファーレを兼ねた効果的な選曲がここでも功を奏している。

シューマンでは鉄拳のように振り下ろされるリヒテルの打鍵が、ムーティの指揮する毅然としたウィーン・フィルの上に冬の月光さながらに冴えた演奏で、リヒテルのソロは時として近寄り難い孤高の峻厳ささえ感じさせるが、ムーティはそれを包み込むだけの熱い情熱と巧みな采配で、リヒテル自身も次第に勢いに乗ってくる様子が興味深い。

第2楽章での弦楽器を引き立たせるカンタービレや、終楽章のソロとの堂々たる受け応えは若かったムーティの奮闘振りを示している。

かたや巨匠リヒテル、また一方ではうるさ型のプレーヤーが揃っているウィーン・フィルという二者をまとめあげ、両者の能力を活かしてみせた力量は流石だ。

モーツァルトでソリストを務めるヘッツェルは少年時代からヴォルフガング・シュナイダーハンに師事してウィーン流の奏法を会得した、まさにウィーン・フィルの顔だったが、先輩のシュトレングと組んだ『協奏交響曲』での線は細いが軽やかで典雅なロココ風の趣は、替え難い美しさを持っている。

ここではムーティ得意のイタリア風の明るく伸びやかなモーツァルトを心掛けていて穏やかな幸福感を感じさせてくれる。

尚ライナー・ノーツは29ページで独、英語による比較的充実したエピソードが掲載されているが、後半部はオルフェオ・レーベルのザルツブルク音楽祭ライヴCDのカタログになっている。

録音状態はこの手のライヴとしては良好なステレオ録音で、いくらかこもった感じの音質はボリュームを上げることによってかなり改善される。

またテープの劣化が原因と思われる若干の音揺れが聞かれるが大勢には影響ない。

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この6枚組のセットはソニー・ヴィヴァルテからのリイシュー物で、既に入手困難になっているCDをまとめてプライス・ダウンしているのがセールス・ポイントだ。

最初の1枚はマンハイム楽派を中心とした4曲のフルート協奏曲とグルックの『精霊の踊り』を収めている。

トラヴェルソの持つ木質特有のソフトで温かく、しかも色彩感溢れる音色を活かしたバルトルド・クイケンの名人芸を堪能できる理想的なセッションだ。

使用楽器はカール・シュターミッツの作品のみアウグスト・グレンザーの8キー・モデル、その他は同ワンキー・モデルで、最後のグルックのソロ・パートは彼の弟子でカナダの女流トラヴェルソ奏者クレール・ギモンに替わっている。

オーケストラはカナダのピリオド楽器使用のバロック・アンサンブル、ターフェル・ムジークで、いずれも1991年の録音。ピッチは全曲ともa'=430。

CD2−3はC.Ph.エマヌエル・バッハのオブリガート・チェンバロ付の10曲のフルート・ソナタ集で、このうち変ホ長調及びト短調はBWV番号の付いた、かつては父大バッハの作として考えられていたものになる。

エマヌエル・バッハにはこの他にチェンバロのパートを記していない通奏低音付のソナタを更に11曲残しているが、クイケンはそれらをアクサン・レーベルからリリースしている。

1993年のセッションで使用楽器はクイケンのトラヴェルソがアウグスト・グレンザーのワン・キー・モデル、一方ヴァン・アスペレンの弾くチェンバロは二段鍵盤のミートケ・モデルでピッチはa'=415。

CD4は、18世紀に北ヨーロッパの芸術の都となったベルリン宮廷で演奏された作品集で、当時フリードリヒ大王のもとで活躍した作曲家の7曲のソナタが選ばれている。

奏法の異なるさまざまなトラヴェルソを使い分けるクイケンの巧みなテクニックは言うまでもないが、ここでは1750年製作のクヴァンツ・2キー・モデルを使っている。

通奏低音のチェロは兄のヴィーラント・クイケンで、彼は1570年製のアンドレア・アマーティのオリジナル、そしてヴァン・アスペレンのチェンバロはミートケ・モデルになる。1995年の録音でピッチはa'=415。

CD5−6はJ.S.バッハのソナタ集で、トラヴェルソはフランス・ブリュッヘンに替わる。

ブリュッヘンは横笛の演奏に関しては友人でもあるクイケンの実力を充分に認めていたようで、トラヴェルソ演奏のサンプルはそれほど多くないが1973年及び75年に録音されたこのソナタ集と『無伴奏パルティータイ短調』はその代表的なセッションだ。

改めて聴き直してみるとクイケンほど精緻ではないにしても、なかなか味のある高い音楽性を持ったパフォーマンスとしての魅力がある。

当時ブリュッヘンは古楽の新星と言われただけあって、そのフレッシュな解釈と意欲的な試みは古楽器奏者としてパイオニア的な意義を持っていただけに歴史的にも貴重な演奏だ。

因みにクイケンが第1回目のバッハのフルート・ソナタ全集を録音したのは1988年のことなので、ブリュッヘンの挑戦が如何に画期的なものであったか想像に難くない。

使用楽器は1773年にシェーラーが象牙で製作したオリジナルで、筆者の記憶に間違いがなければ、現在このトラヴェルソは有田正広氏の所蔵になっている筈だ。ピッチはa'=415。

尚その他のいくつかのトラックは『無伴奏パルティータ』を5種類の異なった楽器で演奏した例で、原曲のオールマイティー的な性格を象徴している。

最後はロ短調ソナタの第1楽章をバロック・アンサンブル用に編曲した興味深い演奏だ。

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自らをモデルに作曲したと言われる《英雄の生涯》は、R.シュトラウスの交響詩の中でも屈指のスケールを誇る名作。

《英雄の生涯》のみならず、R.シュトラウスの楽曲というと、筆者としてはどうしてもカラヤンの呪縛から逃れられない。

3種のスタジオ録音の名演に加えて、最近ではこれまた優れたライヴ録音がいくつか発掘され、そのいずれもが、自らの人生を重ね合わせるかの如く劇的な名演である。

しかし、他の楽曲と同じく、カラヤンの演奏だけが正解ではないはずで、別のアプローチの仕方もあってしかるべきである。

カラヤンとは正反対のオーソドックスなアプローチで、《英雄の生涯》の名演を成し遂げたのはケンぺだと考えている。

本盤のブロムシュテット盤も、ベースはケンぺのオーソドックスなアプローチを踏襲するものではないだろうか。

オーケストラも同じシュターツカペレ・ドレスデンで、いぶし銀のような渋いサウンドが、演奏に落ち着きと潤いをもたらすのに大いに貢献している。

作曲家とも縁の深い名門オーケストラによる質実剛健で緻密なサウンドメイクと言えるところであり、このまろやかさと繊細な表情の魅力は、他のオーケストラには求められない。

ブロムシュテットは、1927年アメリカ生まれのスウェーデン人で、ドイツ人でない彼がシュターツカペレ・ドレスデンの音楽監督を10年間(1975〜85年)にわたって務めた事は注目に値する。

菜食主義者として知られ、その贅肉を削ぎ落とした透明感の高いオーケストレーションは彼の人格をそのまま映し出している。

シュターツカペレ・ドレスデンのいともコクのある音響を得て、スケール大きく徹頭徹尾正攻法で展開されたR.シュトラウス演奏であり、ブロムシュテットは、この名門オーケストラの美しさを最大限に発揮させたスケール大きな名演を繰り広げている。

ブロムシュテットの円熟のタクトは、R.シュトラウスを知り尽くしたシュターツカペレ・ドレスデンの重厚緻密な響きを駆使して、巧みに聴く者を高揚へと導く。

解釈も品がよく、大人の風格を感じさせるものであり、流麗で端正、まったく一分の隙もない表現である。

非常にズシリと手ごたえのある、巨匠の風格を持った演奏であり、音色はどちらかと言えば渋い方で、玄人好みと言っても良いだろう。

個人的に筆者がR.シュトラウスのオペラの世界に接する機会が多いためだろうか、およそダイナミズムや尖鋭さを主軸として余りにエネルギッシュに繰り広げられてゆく演奏よりも、当ディスクのごとく、緻密なアンサンブルを聴かせつつ、じっくり味わい尽くさせてくれるような彫りの深い落ち着いた演奏に好感がもてる。

ブロムシュテットの構想はまさに堅実で精緻、あくまで純音楽的な観点からこの作品の普遍的な魅力をさぐりあてている感があり、複雑な対位法の織りなしも十全に描出しきっている。

ただ、いかにもブロムシュテットらしいのは、随所に大仰とも言えるような劇的な表現もしているということで、この点ではカラヤン風の劇的な要素も多分にある。

その意味では、洗練と濃密さが一体となった硬軟併せ持つバランスのとれた美演という表現が適切かもしれない。

流麗な美しさの中に、R.シュトラウスの音楽の本質が立ち現れる薫り高い名演と言えるだろう。

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classicalmusic at 00:35コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスブロムシュテット 

2015年07月11日


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パーヴォ・ヤルヴィの勢いは今や誰もとどめることができない。

彼は、シンシナティ交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、ドイツ・カンマーフィル、パリ管弦楽団を手中に収めており、これらのオーケストラを作曲家毎に振り分けるという何とも贅沢なことをやってのけている。

そして、そのレパートリーの幅広さたるや、父親であるネーメ・ヤルヴィも顔負けであり、今や、人気面において指揮界のリーダー格とされるラトル、ゲルギエフ、ヤンソンスの3強の一角に喰い込むだけの華々しい活躍をしている。

パーヴォ・ヤルヴィがドイツ・カンマーフィルを起用する際には、当然のことながら、いわゆるピリオド奏法に適した楽曲を演奏しており、既に完成させたベートーヴェンの交響曲全集やピアノ協奏曲全集に次いで、現在では、シューマンの交響曲全集の録音に取り組んでいるところだ。

シューマンを文字通り「愛している」と公言してはばからないパーヴォ・ヤルヴィは、「作品に込められた感情の起伏や途方もないエネルギーを恥ずかしがることなくさらけ出すべき」と、シューマンのオーケストレーションの機微を繊細に表現しきることのできるドイツ・カンマーフィルと濃密なシューマン・ワールドを繰り広げている。

第1番及び第3番、第2番及び「マンフレッド」序曲が既発売であり、それはピリオド奏法を十分に生かした斬新とも言えるアプローチが特徴の演奏であり、パーヴォ・ヤルヴィの底知れぬ才能と現代的な感覚、センスの鋭さが光る素晴らしい名演であった。

その完結編となる当アルバムには、フルトヴェングラーやワルターなど20世紀前半の巨匠が好んで演奏し、ロマン派の香りが濃厚な交響曲第4番、シューマンのエッセンスが詰まった知られざる傑作「序曲、スケルツォとフィナーレ」、4つのホルンのための協奏曲「コンツェルトシュトックヘ長調」が収められている。

いずれも、既発売のシューマン演奏に優るとも劣らぬ素晴らしい名演であると高く評価したい。

本演奏でも、ピリオド奏法は相変わらずであるが、それを十全に活かし切ったパーヴォ・ヤルヴィの個性的なアプローチが実に芸術的とも言える光彩を放っており、これまで交響曲第4番を様々な指揮者による演奏で聴いてきたコアはクラシック音楽ファンにも、新鮮さを感じさせる演奏に仕上がっている。

ピリオド奏法やピリオド楽器を使用した演奏の中には、学究的には見るべきものがあったとしても、芸術性をどこかに置き忘れたような軽妙浮薄な演奏も散見されるが、パーヴォ・ヤルヴィの個性的なアプローチには、常に芸術性に裏打ちがなされており、そうした軽妙浮薄な演奏とは一線を画しているとさえ言えるだろう。

思い切ったテンポの振幅、アッチェレランドの駆使、ダイナミックレンジの極端な取り方など、その仕掛けの多さは尋常ならざるものがあると言えるが、これだけ同曲の魅力を堪能させてくれれば文句は言えまい。

いずれにしても、本盤の各曲の演奏は、近年のパーヴォ・ヤルヴィの充実ぶりを如実に反映させた素晴らしい名演であり、加えて、いわゆるピリオド奏法による演奏としては、最高峰に掲げてもあながち言い過ぎとは言えない圧倒的な名演と高く評価したいと考える。

音質は、これまた素晴らしい。

特に、最近では珍しくなったマルチチャンネル付のSACDは、臨場感溢れるものであり、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえることによって、ピリオド奏法の面白さが倍加するという効用もあると言えるところだ。

いずれにしても、パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマーフィルによる素晴らしい名演をマルチチャンネル付のSACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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リヒテルが45歳でアメリカ・デビューを飾った1960年のニューヨーク・カーネギー・ホールでのリサイタルで、会場に集まった聴衆の熱気が曲を追うごとに次第に高まってくる生々しいライヴだ。

特にプロコフィエフのソナタ以降アンコールにかけては、リヒテルのピアニズムが完全に聴衆の心を捉えて離さない状況をまのあたりに伝えている。

当時のアメリカではまだ伝説的にしか伝えられていなかったリヒテルの演奏に対する期待がいやがうえにも高まっていたことは想像に難くない。

その期待に応えるかのように同年10月から始まった演奏旅行でリヒテルはたちまち大陸を席巻し、堂々たる凱旋を飾っている。

カーネギー・ホールでは10月と12月に都合7晩のコンサートを開いていて、そのうち最初の5日間の全容を収めた6枚のCDセットがドレミ・レーベルからリリースされているが、音質がいまひとつのモノラル録音であるのに対して、このRCAの2枚組は12月26日の全プログラムと2日後のニュー・ジャージー州、ニュー・アークのモスク・シアターでのアンコールの数曲を加えたもので、想像以上に音が良く、しかもれっきとしたステレオ録音で臨場感にも不足していない。

欲を言えば、かなり至近距離から採音したためかピアノの響きがデッドでホールの残響が殆んど感じられないことと、高音のフォルテが再生しきれない弱点がなきにしもあらずだ。

例えばラフマニノフやラヴェルにはもう少し瑞々しい余韻があれば理想的なのだが、音質自体は俄然鮮明でこの時代のライヴ物としては優秀なサンプルのひとつだろう。

当日のプログラムはハイドンのソナタから始まるが、半分は現代ロシアのピアノ曲で組んでいるところが特徴的だ。

それはリヒテルにとって自国の作曲家の作品に対する自負でもあった筈だ。

プロコフィエフとも個人的に親交を持っていた彼は、ピアノ・ソナタ第7番を初演しているが、この日に演奏された第6番の鉄杭を大地に打ち込むような強靭な打鍵に貫かれた第1楽章冒頭のテーマがこの曲に強烈なイメージを与えている。

尚トラック16からはモスク・シアターでのアンコール集で、ここでもプロコフィエフの『束の間の幻影』からの抜粋を中心にコンサートを締めくくっている。

リヒテルは5年後の1965年に再びカーネギー・ホールに戻っているが、こちらもドレミ・レーベルから2枚組でS.RICHTER Archives no.15として市販されている。

ドイツ人だった父親がソヴィエト当局に対する命令不服従の罪で銃殺されてから、母親がドイツに去っていたために、リヒテルの亡命を危惧した当局によって彼の西側への渡航が妨げられていた。

戦後、特にアメリカの興行主からの強い招聘があったにも拘らず、病気を理由に彼の渡米は1960年まで実現しなかった。

しかしリヒテル自身の証言によれば、彼はアメリカ行きには消極的で、決して満を持した公演ではなかったようだ。

また当地では常に当局の諜報員に尾行されていたという。

しかしこの2ヵ月の大陸横断旅行が大成功に終わり、翌年からはロンドンやパリでのコンサート活動が始まって、それまで西側諸国では幻のピアニストだったリヒテルへの評価が絶対的なものになったのも事実だ。

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アントン・デルモータ(1910-1989)は40年の長きにわたってウィーン国立歌劇場の専属として活躍したので、ウィーンの歌手と言って差し支えないだろう。

全盛期は1940年代から60年代の初めまでと言えるが、その後もリートなどでは活動を続けていた。

ただ、メジャー・レーベルに録音が少ないために日本ではほとんど発売されなかったように記憶する。

しかし1970年代になってからプライザー・レーベルに多くの録音を残してくれたのは有難い。

「冬の旅」もその中の1枚で、「冬の旅」の数ある録音の中でも独特の魅力を持っている。

いわゆる突き詰めた演奏ではなく、多少歌い崩し的な部分などもあり、全体としては技術、解釈ともに万全ではない。

それでも全盛期の甘い声と格調高い表現は十分に健在で、シューベルトの〈歌〉の本質を見事に突いた歌唱を聴かせてくれる。

とりわけ第1曲の「おやすみ」や第5曲の「菩提樹」などの素朴な歌謡旋律が曲の性格を決定付ける楽曲でのリリカルな情感は他に代えがたい魅力がある。

これほど〈歌うこと〉に重点が置かれた「冬の旅」は他に聴くことができない。

伴奏をしているのは夫人のヒルダ・デルモータで、やはり技術的には問題が残るが、歌と心の通った温かい表現が良い。

この演奏を聴いていると、シューベルティアーデで歌われていた「冬の旅」は、こんな感じだったのではと思えてくる。

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2015年07月10日


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筆者は、ウィーンに行くと、必ずウィーン国立歌劇場と、ムジークフェライン・ザールに行くことにしている。

ムジークフェライン・ザールは、コンサート専用のホールで、「黄金大ホール」といわれているように、ホールの内装は金ピカで、古き良き時代のオーストリアが、いかに音楽に対して贅をつくしていたかがよくわかる。

このホールは、音響効果の優れていることでも有名で、ホール全体が、あたかも楽器そのもののようである。

このロシアの巨匠ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によるディスクは、1978年の6月、ウィーン芸術週間に、このホールで行われた演奏会のライヴ録音である。

このコンビによるチャイコフスキーの交響曲第5番の録音は、いままでに何枚も出ているが、今回のは、それらのものを遥かに凌ぐ名演奏で、この曲を完全に手中に収めた、悠然たる構えの表現である。

ロシア人の体臭を強く感じさせる素晴らしい演奏で、明暗の度合いをくっきりとつけながら、丹念に彫琢していくこの巨匠の棒さばきは、あたかも名匠の振るうノミのように正確で、しかも生き生きとしている。

この演奏の緊張した凝集力と迫力は凄まじく、しかも感性の豊かさ、精妙をきわめたアンサンブルの見事さは比類がない。

もちろん、一分の隙もないきびしさをもっているが、それが作品のシリアスな側面を否応なく表現している。

ムラヴィンスキーの解釈は常に有無を言わさぬ説得力をもっており、聴衆に媚びるところは皆無である。

ムラヴィンスキーは個性的な表情を作っているが、それはまさに老巧ともいうべきものであり、一見そっけないようだが、音楽には常に血が通っている。

そうした彼のロシア流のチャイコフスキーは、カラヤンに代表される西欧の聴かせ上手な指揮者の解釈とはまったく対照的といってよい。

デュナーミクも精緻そのもので、曲の冒頭から短い動機のひとつひとつにも絶妙な表情が与えられ、それらが強靭な織物のように組みあげられている。

第2楽章ではやや速めと感じられるテンポをとり、息の長いフレーズを情熱的に高揚させるのは、やはり聴きものである。

第3楽章はいくぶん恣意的だが、その洗練された味わいは独特であり、フィナーレも流動感が強い。

そこに鮮やかな立体感があるのも、この演奏の大きな特色で、チャイコフスキーが記した音符のすべてに意味があり、存在理由があることを、ムラヴィンスキーの演奏からは、誰もが理解することが可能である。

しかも、あらゆる部分に瑞々しい創意が息づき、それが新鮮さの原動力といえるが、それは音量に依存しているのではなく、内面の凄絶な緊張感から生み出されたものである。

そのうえ、巨匠的風格が曲のすみずみまでに滲み出ており、ライヴ独特のきりりと引き締まった緊張感が何とも素晴らしく、激しく心を揺さぶられる。

オーケストラも、艶のある弦楽器と底力のある金管楽器が特に見事で、これこそロシアの音といってよく、レニングラードに特有の西欧的洗練を実感させる表現が、チャイコフスキーの折衷的作風を描いている。

そのどこをとってもまったく隙がなく、そこにソヴィエト体制の影響をみることも可能かもしれないが、その鉄の規律はここでは壮大な記念碑を打ち建てる方向に作用しており、こうした演奏はもう現れることはないだろう。

録音はムジークフェラインの響きとしてはやや乾いた印象を与えるとはいえ、一連の旧ソヴィエト録音よりはるかに条件は整っており、ムラヴィンスキーによる同曲の録音といえば、まずこの演奏を聴く必要があろう。

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ラファエル・クーベリックが1963年から76年にかけて精力的にドイツ・グラモフォンへ録音したベートーヴェン、シューマン、ドヴォルザーク及びマーラーの交響曲全曲を23枚のCDに集大成したバジェット盤。

既に当レビューで各々の演奏の批評を述べたところであるが、未だこれらの録音をお持ちでない方には、廉価盤BOXとしてまとめて聴かれることを望みたい。

メインの交響曲の他にシューマンの序曲『ゲノフェーファ』『マンフレッド』、ドヴォルザークでは『スケルツォ・カプリッチョーソ』、序曲『謝肉祭』、交響詩『野鳩』が加わっているが『スラヴ舞曲集』は除外されている。

クーベリックはそのほかにも多くの交響詩、協奏曲や序曲集、あるいはフィッシャー=ディースカウとのマーラーの『さすらう若人の歌』などの優れたセッションをグラモフォンに残しているので、更に第2集が出ることを期待したい。

また近々ライバルのワーナーからは同じく彼の生誕100周年の記念企画としてHMV音源全曲のリリースも予定されているようだ。

クーベリックの常に明快でパッショネイトな音楽への取り組み方はどの曲を聴いても明らかだが、それは決して感情に任せた即興的なものではなく、ダイナミズムの配分が良く計算された強い説得力を持ったオリジナリティーに溢れている。

クーベリックは沈潜した内省的な表現よりも外に向かって発散する光彩のような音楽を作り上げることを得意とした、言ってみれば理論を感性に完全に移し換える術を知っていた指揮者だったと思う。

ベートーヴェンでは9つの名門オーケストラを彼が1曲ずつ振り分けるという奇抜な企画だったが、それが決して散漫な交響曲集に終わらず、それぞれのオーケストラの個性を発揮させながら、クーベリックの音楽的ポリシーを十全に表現し得たところに価値があるだろう。

例えばベルリン・フィルとの第3番『英雄』の第2楽章ではそのドラマティックな手法に驚かされる。

シューマンはこのセットの中では最も古い1963年及び64年のセッションで、やはりベルリン・フィルとの旧録音だが、その若々しさと爽快感が如何にもクーベリックらしい。

一方彼の故郷チェコの音楽に関しては熱狂的な愛国心を鼓舞するような強い情熱が漲っているが、このベルリン・フィルとのドヴォルザークではむしろ洗練の境地が示されて、スケールの大きな独自の完璧な世界を創造している。

最後のマーラーはクーベリックの手兵バイエルン放送交響楽団の鍛え抜かれた柔軟なアンサンブルと千変万化のカラフルな音色を駆使した、起伏に富んだメリハリのある表現が魅力だ。

特に新しいリマスタリングの記載はないが、音質はきわめて良好。

ライナー・ノーツは51ページで、収録曲目一覧とクーベリックのキャリアについてのコメントが英、独、仏語で掲載されている。

声楽が入る曲に関しては英語対訳が付けられ、最後に録音データがまとめられている。

クラムシェル・スタイルではなく縦型のボックス全体を覆う蓋を上に取り外すタイプ。

ボックス・サイズは枚数のわりには大きめの縦13X横13,5X厚み7,5cmのしっかりした装丁で好感が持てる。

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本著は、不世出の音楽評論家吉田秀和が、世界の名演奏家に光をあて、その芸術の特質とあふれる魅力を明晰に語った作品。

この評論集には23人の器楽奏者、7つの弦楽四重奏団及び17人の声楽家について彼らの演奏への評価とその特質や印象などがまとめてある。

特に、入門者が鑑賞する際に聴くべきポイントは何処にあるか、そしてCDその他のメディアを選択する時、先ず誰の演奏が妥当かなど実用的なガイド・ブックの側面と、一方ではクラシック音楽の将来への展望を示した吉田哲学が随所に滲み出た貴重なエッセイ集としての価値がある。

それは吉田氏の鋭い洞察力と圧倒的な経験や知識が、対象となる演奏家のスピリチュアルな領域にまで踏み込んだ全体像を見抜いているからで、私自身著者と意見を共有できる部分が非常に多く、クラシック鑑賞のための心強い指針となってくれる。

吉田氏の文章はいつもながら平易かつ穏当な口調で、楽譜を掲載して解説することは最小限に抑えている。

そして吉田氏の考察はあくまでも提案という形で提示され、決して読者に強制するものではないが、それには確たる根拠があり充分な説得力を持っている。

私達が批評家に求めるものは啓蒙であって、演奏家への毀誉褒貶ではない筈だ。

音楽家への好みや巧い下手だけをあげつらうことは安易な行為であるにも拘らず、それだけを書いて批評家を名乗る人も往々にして見かけるが大切なのはその理由で、楽曲を分析して分かり易く説明して演奏のあるべき姿をより多くの人に伝える努力が望まれる。

その点についても吉田氏は一点の曇りもなく冷静沈着に書いており、特に我が国においては、吉田氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる音楽評論家は数少なかった。

ただ筆者にとって惜しむらくは、声楽家はドイツ系あるいはドイツ物をレパートリーにする歌手が多く、イタリア・オペラやフランス、スペイン物で活躍する人達がほとんど取り上げられていないことで、それは吉田氏の音楽鑑賞に対する嗜好である可能性が強いが、あえて彼が書くことをためらったジャンルなのかも知れない。

本文中では吉田氏は自分より巧く表現できる人や批評家をためらいもなく挙げているのも潔いが、それは彼が音楽を理知的な基盤の上に展開する感性の昇華として受け止めていたからではないだろうか。

ともすればそれとは対極的な情動的で感性が一人歩きするようなラテン的な音楽は、かえって彼にとってアナリーゼやその評価を下すことが困難だったのかも知れない。

本文は書下ろしではなく、著者生前中に音楽誌への連載やLPやCDのライナー・ノーツ用に執筆されたもので、下記のアーティストが含まれている。

弦楽器奏者ではミルシテイン、シェリング、ヴァルガ、スーク、ヘッツェル、パールマン、クレーメル、ミンツ、ムター、ヴェンゲーロフ、メニューイン、スターン、バシュメット、今井信子、カザルス、シュタルケル、ロストロポーヴィチ、ビルスマ、マイスキー、ヨーヨー・マ、デュ・プレ、鈴木秀美、ケラス。

弦楽四重奏団はジュリアード、メロス、リンゼイ、東京、ドーマス、ハーゲン、フォークラー。

声楽家はキリ・テ・カナワ、フォン・シュターデ、バトル、ヘンドリックス、オッター、シェーファー、コジェナー、ホッター、へフリガー、フィッシャー=ディースカウ、プライ、シュライアー、ベーア、アライサ、ターフェル、マティス、フェリアー。

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classicalmusic at 00:58コメント(0)トラックバック(0)クラシック音楽用語解説筆者のこと 

2015年07月09日


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全身全霊を傾け作品そのものを根本から揺さぶる、永遠の生命を持った迫真のライヴ盤で、2曲ともが、孤高の境地を示すデュ・プレの芸術の頂点を伝える感動的な名演であり、演奏・録音ともに第一級の価値を持っている。

「遠き山に日は落ちて」「ユモレスク」などで親しまれているように、ドヴォルザークほど、人々の心を一発で魅惑するメロディをたくさん書き残した作曲家はいないかもしれない。

古今のチェロ協奏曲のなかでも筆頭に位置するこの名作には、自然の美しい風景、やるせない望郷の念を想起させる選りすぐりの素晴らしいメロディがいっぱい詰まっている。

デュ・プレの全身全霊を込めた音楽への没入は、このライヴでも素晴らしい。

ここで彼女が使用しているのは、ストラディヴァリウスの名器ダヴィドフ(現在はヨーヨー・マが譲り受けて愛用)だろう。

松やにを飛び散らせながらダイナミックな軋みをたて、痛切に歌うチェロは、凄いの一言に尽きる。

デュ・プレは、きれいごとでない、凄まじいばかりに体を張った大熱演だが、人間の生命力のすべてを具現した朗々たる音色が眼前に激しく飛び出してくる。

冒頭から情熱が迸るような迫力のある表現で圧倒されるところであり、音色の変化、リズムの間、ひそやかな弱音など、その多様な表現力に舌を巻く。

切々たる思いを劇的に語るかのようで、この演奏こそ狷魂の瓩箸いΨ鼠討ふさわしく思える。

聴き手をエキサイティングに熱くさせる演奏はそうザラにはないが、このデュ・プレのドヴォルザークはその筆頭格にあげられる。

グイと鷲づかみにするような発音、どこをとっても熱気のこもった歌いまわし、心憎いまでの剛柔のニュアンスなど、全身全霊を傾け同作品を揺さぶる。

ひとりのチェリストと言うよりも、表現者としての原点を見る思いのする比類のない演奏である。

天真爛漫で、バリバリと弾き進むデュ・プレの圧倒的なチェロに一歩もひるまず、いたずらにわめかずに響きに抑制を効かせながらも気宇壮大な音楽を造形していくチェリビダッケもさすがである。

第3楽章など、むしろデュ・プレがチェリビダッケが木管に託した深遠な歌に同化する瞬間すらある。

2人はまったく別なタイプだが、魂を音楽に必ず込めることのできる数少ない音楽家という点では共通している。

この共演は、指揮者とソリストがお互い刺激し尊重しあう"協奏曲の醍醐味"という点でも、大変おもしろくエキサイティングである。

夫の指揮者バレンボイムと共演した前半のサン=サーンスは、むしろ音楽の天才肌のタイプがぴったりと一致した熱演ぶりが対照的。

サン=サーンスの濃厚と繊細と蠱惑、悩ましいほどの表情の豊かさも見事だ。

どこまでもヴィヴィッドに魅惑的に仕上げられたデュ・プレのチェロであり、聴き手をいつの間にか虜にしてしまうような一種魔力に似た息づきがある。

彼女の曲作りはすべからく流麗と形容すべきものではあるが、そこには常に前向きな初々しい躍動感が息づいており、言い知れぬ魅力を湛えた独特の推進力がある。

ひたむきに歌い、まるで祈り訴えかけてくるかのように純粋な美を織り出してゆくその姿勢が我々の胸を打ってやまない。

表現はきわめてフレキシブル、サン=サーンスのスコアの欲するところに誠に濃やかに対応し、鮮やかに広がった音空間を醸し出している。

彼女全盛期の美質がこのコンパクトな作品の中に余すところなく盛り込まれている観。

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classicalmusic at 22:56コメント(0)トラックバック(0)デュ・プレチェリビダッケ 

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2012年にユニヴァーサル・イタリーからリリースされた『カルロ・マリア・ジュリー二の芸術』16枚組とはグラモフォンの同音源であるために、ブラームスとブルックナーの交響曲に関してはだぶっているが、彼の音楽的な構想を実現し得た充実した時期の録音だけにファンには欠かせないコレクションになるだろう。

ジュリーニがヨゼフ・クリップスの後を継いでウィーン交響楽団の首席指揮者の地位に留まったのはわずか3年間だったが、その後も同交響楽団とウィーン・フィルには客演を続けて常に良好な関係を保っていた。

彼らの演奏の魅力のひとつにオーケストラの音色の瑞々しさが挙げられる。

特にウィーンはヨーロッパのどの都市とも異なった頑固なまでの流儀を持っていて、それが音楽の表現や音色に濃厚に反映されているからだ。

ジュリーニは緻密な音楽設計の上にウィーン流のしなやかな弦の響きとマイルドな管楽器のアンサンブルを活かしながら、明快でシンプルなイタリア趣味の新風を随所に感じさせている。

ベートーヴェンの3曲のピアノ協奏曲では、クリスタリックな響きを駆使したスタイリッシュなミケランジェリのソロを抱擁するようなおおらかさがあり、中でも第5番『皇帝』第2楽章のリリカルな美しさは特筆される。

またベルマンと組んだリストでは両者の豪快なダイナミズムの応酬と、ロマンティックな幻想性が秀逸だ。

声楽陣に豪華メンバーを抜擢した『ドイツレクイエム』『リゴレット』及び『後から生まれ来る人々に』は、ジュリーニの得意とする歌物だけに卓越した棒さばきが聴きどころだ。

このセットではヴェルディの『リゴレット』を除く他の総てのレパートリーがゲルマン系の作曲家の作品で占められていることを考えれば、ジュリー二のドイツ物への造詣の深さとそれに賭けた情熱は想像に難くない。

『ドイツレクイエム』ではブラームスの作品にまとわりつく諦観は払拭され、重苦しさを解放すべく明るい光りが差し込んでくるような希望を感じさせる数少ない演奏で、そこにオペラティックな手法が発揮されているのも事実だろう。

フォン・アイネムのカンタータの白眉は第5曲で、ここには劇作家ブレヒトが未来の人々に贈る痛烈な反戦歌が挿入されている。

自身共産主義者でユダヤ系の妻を持ったブレヒト一家の逃避行は戦中戦後を含めて15年に及んだ。

ジュリー二の解釈は精緻でありながら平明で、鮮烈な色彩感の中に作品への深い理解を示した厳しさと、一方で慈愛に満ちた温もりも感じられる。

ジュリーニは後年やっつけ仕事的な稽古事情を嫌ってオペラ界から手を引いてしまう。

それはスカラ座出身のイタリア人指揮者としては異例のことだが、演奏に対する自身のポリシーを曲げなかった彼の信念を証明している。

ここでの『リゴレット』も声の饗宴という意味では既に大歌手時代の終焉を告げる演奏記録であり、歌手達の力量を認めながらもスコアに忠実で、それぞれが良くコントロールされた等身大の役柄を演じさせている。

ジュリーニが歌い手の勝手気ままを許容しなかった新しいタイプのマエストロだったことを改めて実感する演奏だ。

尚CD1-2のベートーヴェンのピアノ協奏曲集、CD6ブラームスの交響曲第4番並びに『悲劇的序曲』、CD7同『ドイツレクイエム』及びCD11ブルックナーの交響曲第9番はライヴ・レコーディングだが音質は極めて良好。

『リゴレット』についてはシノプシスのみの紹介でリブレットは省略されているが、他の2曲はライナー・ノーツに全歌詞の英語対訳が掲載されている。

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オーストリア生まれのカラヤンによるシュトラウス・ファミリーの名曲集。

カラヤンが元旦恒例の「ニュー・イヤー・コンサート」に登場したのはその最晩年であったが、録音においては、既に50代の頃にこの素敵な名盤を遺していた。

何れもウィーン・フィルの伝統的な演奏スタイルと、カラヤン独特の美学が融合した名演に仕上がっている。

シュトラウス一家に代表されるウィンナ・ワルツは、あの3拍子の第2拍の後にごくわずかな間が入る独特のリズムが特徴であり、それはウィーンの人によれば、「学べるものではなく、感じなければならない」ということになる。

実際、ウィンナ・ワルツの微妙なリズムばかりでなく、そのリズムにのって歌われる流麗な旋律なども、すぐれた指揮者の演奏によると、とても粋な、ウィンナ・ワルツ特有の魅力が生まれることになる。

だが、だからといって、ウィーンの音楽家しかウィンナ・ワルツの独特の魅力は伝えられないかというと、そんなことはなく、また、例えばこの数年のウィーン・フィルの「ニュー・イヤー・コンサート」を聴いてもわかるように、同じウィーン・フィルでも指揮者によって、それぞれの個性が演奏に微妙に反映されている。

カラヤンも、周知のようにウィーンとは関係が深く、彼はザルツブルク生まれだが、父はウィンナ・ワルツの全盛期にウィーンに生まれているし、カラヤンも幼少期からしばしばウィーンを訪れ、また音楽の勉強の総仕上げをしたのもウィーンである。

そしてカラヤンがシュトラウスの音楽を知ったのは、まだ作曲家とそのテンポを知っている演奏家が活躍していた時代であった。

指揮者になってからも、その最初のオーケストラであるドイツのウルム時代から、《こうもり》をはじめシュトラウスの音楽をしばしば演奏した。

録音もカラヤンの初期から晩年まで、かなり頻繁に行い、それぞれの時期を代表する名演を遺していることは、改めて言うまでもないだろうが、このウィーン国立歌劇場の総監督時代のウィーン・フィル(1959年)との録音は忘れることができない。

カラヤンのシュトラウス・ファミリーの作品の演奏は、実際に踊るためのものではない聴くためのコンサート・スタイルの最右翼と言える。

殊に、このカラヤン全盛時代に演奏されたウィーン・フィルとの録音は、きわめてシンフォニックで豪華な響きに満たされており、ワルツ、ポルカといった軽い作品の中に新たな魅力を発見することができる。

モノゴトは“全力投球”をすると、優美さとか優雅な雰囲気、洒落た気分などという要素は、なかなかに出し難いものだ。

全力投球をすると、モノゴトはつい体に力が入り過ぎてしまい、柔軟性を失ってしまいがちであるが、ここにおけるカラヤンはそうではなく、シュトラウスの作品に対し、カラヤンはまさに全力投球をしており、手をゆるめるようなところは少しもない。

それでいて、ここに聴く演奏には、曲が強く要求してやまない優美な、洒落た雰囲気に満ち満ちていて、体に力が入り過ぎるような傾向がない。

なるほど、カラヤンという指揮者は、ややもすると通俗的なポピュラー曲と扱われかねないシュトラウスの作品でさえ、少しも力を抜くことなく、他の曲と同じような姿勢で取り組み、しかも作品が要求するものは的確に表現し得たのだと、改めて感服してしまう。

ここで注目されるのは、ほとんどの指揮者があまり取り上げないヨーゼフの《うわごと》である。

これはおそらくカラヤンの好みなのだと思うが、またウィーン・フィルのような大編成のシンフォニー・オーケストラの演奏ということも関係している。

「ワルツ王」も弟の《うわごと》をとりわけ愛していたそうだが、カラヤンもまた非常に好きだったに違いない。

このダンス音楽の枠を越えた幻想的な音楽の美しさをカラヤンほど素晴らしく表現した指揮者はいないし、ことにこのウィーン・フィルとの演奏は見事である。

他の曲もすべて洗練の極にある演奏であり、シュトラウスの音楽の魅力を堪能させてくれるのである。

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2015年07月08日


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ブロムシュテット初のブルックナー録音で、シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者を務めていた時期(1975〜85年)に残された最良の演奏のひとつ。

同じコンビによる「第4」も極上の名演であったが、本盤もそれに優るとも劣らない出来を誇っている。

「第7」は、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色を十分に生かしたブロムシュテット壮年期の素晴らしい稀有の名演として高く評価したい。

ブロムシュテットは、北欧の出身でありながら、ドイツ音楽を得意とするとともに、オードソックスなアプローチをする指揮者であると考えているが、本演奏でも、そうしたブロムシュテットの渋い芸風が曲想に見事にマッチングしていると言えるだろう。

いささかも奇を衒うことなく、インテンポによる自然体のアプローチが、「第7」の魅力を聴き手にダイレクトに伝えることに大きく貢献している。

指揮者もオーケストラも作品に奉仕した演奏と言えば良いのか、ここには作為めいたもの、過剰なもの、演出めいたものは一切なく、ただブルックナーの豊かな音楽が滔々と、淀みなく、しかも温かい温度感をもって流れている。

カンタービレの心が優しく、音楽の表情がふくよかであり、そうした幸福感が自然に聴き手を包み込んでくれる。

ブロムシュテットの指揮は敬虔な信仰家といった趣があり、過剰さはないが、人間の音楽としてのふくらみがあり、不足感はまったく感じさせない。

オーケストラのサウンドがまた素晴らしい。

ウィーン風のふくよかで雄大ながら愚純な趣のブルックナーともドイツ風のどこか無骨な巨人のようなブルックナーとも違う、引き締まってガッチリした壮大かつ精緻なブルックナーが聴ける。

これは、神と対話するオルガン的な宗教サウンドのブルックナーではなく、コンサート・ホールで交響曲としてサウンドさせるシンフォニック・ブルックナーの理想形のひとつかも知れない。

第1楽章の展開部や第2楽章のモデラートの進ませ方は丁寧すぎるとも言えるが、スケルツォの躍動とフィナーレにおける高揚により、すべてが明るく解決している。

特に終楽章の大聖堂のような充実した構築性は素晴らしい。

加えて、前述のように、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀のジャーマンサウンドが、演奏に潤いを与えている点も見過ごしてはならない。

深みのある弦と金管とのブレンドが美しく、落ち着いた佇まいをもった、端然とした演奏である。

ドレスデン・ルカ教会の豊かな残響も、同オーケストラの音色をより豊穣なものとしている点も大きなプラスだ。

音質は今回のBlu-spec-CD化によって、長年の渇きが漸く癒されたと言えるところであり、さすがにSACDにはかなわないが、従来盤と比較すると鮮明さが相当に増しており、本演奏の価値は大いに高まったと考える。

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本BOXには、田部京子が誠心誠意取り組んできた、シューベルト後期作品集が収められている。

クラシック音楽の世界には、この世のものとは思えないような至高の高みに達した名作というものが存在する。

ロマン派のピアノ作品の中では、何よりもシューベルトの最晩年に作曲された最後の3つのソナタがそれに相当するものと思われる。

その神々しいとも言うべき深みは、ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタ群やブラームスの最晩年のピアノ作品にも比肩し得るだけの崇高さを湛えていると言っても過言ではあるまい。

これだけの至高の名作であるだけに、これまで数多くの有名ピアニストによって様々な名演が成し遂げられてきたところだ。

個性的という意味では、アファナシエフによる演奏が名高いし、精神的な深みを徹底して追求した内田光子の演奏もあった。

また、千人に一人のリリシストと称されるルプーによる極上の美演も存在している。

このような海千山千のピアニストによるあまたの名演の中で存在感を発揮するのは並大抵のことではないと考えられるが、田部京子による本演奏は、ブレンデル、シフの系統に繋がる、楽譜を研究し尽くした理知的なシューベルトが楽しめる逸品であり、その存在感を如何なく発揮した素晴らしい名演を成し遂げたと言えるのではないだろうか。

1994年リリースのシューベルト:ピアノ・ソナタ第21番において「次代を担う真に傑出した才能の登場」として、極めて高い評価を得た田部京子。

その後、発表した5枚のシューベルト・アルバムは、その全てがレコード芸術誌で特選を獲得し、田部は、日本を代表する「シューベルト弾き」としての比類なきポジションを確立した。

この田部の録音したシューベルトの後期3大ソナタを含む主要なピアノ作品をCD5枚のBOXは、シューベルト最晩年の深い諦観の世界をおのずと明らかにしてゆく、田部の極めて説得力の強い演奏の全貌が明らかになっている。

田部京子による本演奏は、何か特別な個性を施したり、はたまた聴き手を驚かせるような斬新な解釈を行っているというわけではない。

むしろ、スコアに記された音符を誠実に音化しているというアプローチに徹していると言えるところであり、演奏全体としては極めてオーソドックスな演奏とも言えるだろう。

とは言っても、音符の表層をなぞっただけの浅薄な演奏には陥っておらず、没個性的で凡庸な演奏などということも決してない。

むしろ、徹底したスコアリーディングに基づいて、音符の背後にあるシューベルトの最晩年の寂寥感に満ちた心の深層などにも鋭く切り込んでいくような彫りの深さも十分に併せ持っていると言えるところであり、シューベルト後期作品に込められた奥行きの深い情感を音化するのに見事に成功していると言っても過言ではあるまい。

いずれにしても本演奏は、シューベルト後期作品のすべてを完璧に音化し得るとともに、女流ピアニストならではのいい意味での繊細さを兼ね備えた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

演奏全体に漂う格調の高さや高貴とも言うべき気品にも出色のものがあると言えるだろう。

しっとりと落ち着きのある音色と、清冽極まりないピアニズム、そして情感豊かな歌いまわしと深みを感じさせる表現等々、シューベルトのピアノ曲の妙味を引き出すのに過不足のない演奏が充溢している。

一方、「さすらい人幻想曲」は、ひとつのモチーフを中心に変奏手法を使って、ベートーヴェン的有機構造物を構築しようとした作品だが、田部は、その豊かな弱音のニュアンスを駆使して、強音がさほど強くなくてもしっかりと対比され、ダイナミズムが広く聴こえ、したがって大きなスケール感も出てくるという演奏を繰り広げていて、無理がなく、しかも美しい。

本BOXは、いつでもいつまでも聴いていたいと思わせる名演の集成と言えるだろう。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)シューベルト 

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シュターツカペレ・ドレスデンを中心に活躍したペーター・ダムは既に現役を退いて久しいが、現代の名ホルン奏者の中でも最もヒューマンな感覚に溢れた演奏を残してくれた人ではないだろうか。

世界最古の歴史を誇る名門オーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデンは、現在でも伝統ある独特の音色において一目置かれる存在であるが、とりわけ東西ドイツが統一される前の1980年代頃までは、いぶし銀の重心の低い独特の潤いのある音色がさらに際立っていた。

そうした、名奏者で構成されていたシュターツカペレ・ドレスデンの中でも、首席ホルン奏者であったペーター・ダムは、かかるシュターツカペレ・ドレスデンの魅力ある独特の音色を醸し出す代表的な存在であったとも言えるだろう。

ペーター・ダムのホルンの音色は、同時代に活躍したジャーマンホルンを体現するベルリン・フィルの首席ホルン奏者であったゲルト・ザイフェルトによる、ドイツ風の重厚さを持ちつつも現代的なシャープさをも兼ね備えたホルンの音色とは違った、独特の潤いと温もりを有していたとも言えるところだ。

ペーター・ダムの奏法は息づくような自然なヴィブラートのかかった滑らかなカンタービレが魅力で、本盤に収められたフランスの作品集には彼のそうしたリリカルな面が縦横に発揮されている。

その一方で現代の作曲家の作品ではホルンのあらゆる技巧が披露され、テクニシャンとしても面目躍如たるものがある。

穏やかな曲ではクリアーな音色とソフトな歌心でメロディーに微妙な陰影を与え、オペラのアリアさながらに流麗だし、時として快活なエスプリを利かせた軽快さが生粋のドイツ人であってもこうしたのラテン系の作品に野暮な印象を残さない。

そこにペーター・ダムのすこぶる柔軟で洗練された感性が窺える。

ここではまたソロ・ピアニストとして活躍しているペーター・レーゼルの気の利いた、しかも手堅い伴奏が花を添えている。

冒頭に置かれたフランセの『ディヴェルティメント』ではユーモアたっぷりの表現が秀逸で、ファゴットを髣髴とさせる軽妙でおどけた急速楽章とそれに挟まれたアリアの対比も巧妙だ。

またビュセールの『サンテュベールの狩』は特有の色彩感の表出がこの小品に神秘的な趣きを醸し出しているし、いまやホルンのための古典的名曲になったデュカスの『ヴィラネル』には、どのフレーズにも楽器の特性を知り尽くしたペーター・ダムの機智が反映されていて、その変化に富んだ多彩な奏法には驚かされる。

最後の『プレリュード、主題と変奏』の作曲者ロッシーニは晩年パリに居を構えていたので、フランス趣味の作品として取り入れられているが、タイトルも『老いぼれのしでかした罪』という意味のフランス語で書かれた全14巻からなる作品集の第9巻に収められている。

カンタービレを思う存分歌ったテーマと、軽やかな高音部と豊かだが決して重苦しくならない中低音が交錯するヴァリエーションがホルンの持ち味を満喫させてくれる。

この音源はペーター・ダムが首席奏者だったシュターツカペレ・ドレスデンのレコーディング・スタジオとして使われているルカ教会で1985年に収録され、ドイツ・シャルプラッテンのクラシック部門ベルリン・クラシックスからリリースされた。

適度な残響を伴った音質は極めて良好。

なお、ペーター・ダムの魅力的なホルンの音色は、モーツァルトのホルン協奏曲集や、ホルンが大活躍するブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」においても聴くことが可能であるということを付記しておきたい。

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classicalmusic at 00:38コメント(0)トラックバック(0)サン=サーンスロッシーニ 

2015年07月07日


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本盤にはショルティがシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して初めて録音した、ベートーヴェンの交響曲全集の中でも傑作に数えられる《英雄》他が収められている。

ショルティのこの《英雄》を聴くと、既にシカゴ交響楽団がショルティの意志のままに音を出す楽器になった、という感じを強く受けた。

この録音時において、ショルティはシカゴ交響楽団の音楽監督に就任して、10年もたってない筈である。

しかし、ショルティは、このオーケストラの音質を、おそらく自分の思う通りのものに仕上げたと感じていたに違いない。

ヨーロッパで活躍を続けてきたショルティにとっては、オーケストラの響きというものは、やはりヨーロッパ的なものであってほしいということになろう。

ここでのシカゴ交響楽団の響きは、いわばアメリカ的な響きとされるニューヨーク・フィルハーモニックや、フィラデルフィア管弦楽団のものとは違ってきていて、もっとヨーロッパ的なものに傾斜した、深みのあるものになっている。

こうした音質の点について、ショルティは、音楽監督就任以来意図していたことを、見事に果たしたというべきだろう。

シカゴ交響楽団が、ショルティの意のままの楽器になっているということは、単にこのような音質だけのことによるのではない。

つまり、ショルティの要求したものを一糸乱れずに音として表現しているばかりでなく、ショルティの楽器のように各声部の強弱のバランスが自在になっているのである。

しかし、ショルティが、いわば抑えつけて、無理強いにそのようにしているのではなく、楽員に自発性をもたせ、演奏する楽しみを与えていることも事実である。

その証拠に、ここでの演奏には、楽員の気張ったところや固くなったところがない。

このショルティの《英雄》は、そうしたヨーロッパ風のオーケストラの響きをもっていながら、ヨーロッパのある特定の指揮者のものを模範としているわけではない。

これはまさにショルティ独特の解釈の《英雄》である。

ただし、独特だからといって、《英雄》の伝統から離れたものではないし、ショルティが無謀勝手なことをしているわけでもない。

どういう点で独特かというと、もったいぶったところをおかず、爽快なテンポで明快に音楽を進め、率直な表現をしていることにその大きな特色がある。

たとえばセルよりも、スフォルツァンドやスタッカートを強調しておらず、そうしたことは、ほどほどに行われている(たとえば、第1楽章や第3楽章でそのようなことがはっきりと認められるだろう)。

そして、このような柔軟性も併せ持っていることで、音楽は、固く角ばったものにはならない。

ショルティの《英雄》は、決して大袈裟な演奏になっておらず、スケールの大きさは失われていないのだが、必要以上の大きな身振りをみせないのである。

力性の変化にしても、フォルティッシモにしてもそうで、また旋律に過度の表情もつけていないが、神経の行き届いた陰影に満ちていることは驚くほどである。

このために、この《英雄》は、あっさりと、あるいはぼんやりと聴いてしまうと、意外に淡々とした演奏と受けとられてしまいがちであるが、よく聴き込んでみると、高い質の演奏になっていることが知られよう。

ここに、指揮者としていろいろな体験を重ねてきた人のひとつの姿があるのである。

若い指揮者には、到底このような演奏は望めないだろう。

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classicalmusic at 22:40コメント(0)トラックバック(0)ベートーヴェンショルティ 

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本盤の演奏内容については、既にレビューを投稿済みだが、当該盤はHQCD化によっても、大音量の際に音が歪むということで、特に、『レクイエム』ではそうした欠点が著しく、「怒りの日」でオケと合唱の怒濤の場面ではダイナミックレンジを若干割ってしまっていたのが残念であった。

それに対し、ジュリーニの生誕100周年にあやかって買い直したOriginal recording remastered盤は、リマスタリングの効果は明らかで、大音響でも歪みのない鮮烈な音質が蘇っているのが嬉しい。

セッション録音としてはジュリーニ第1回目の『レクイエム』だが、彼は既に1960年に同じフィルハーモニア管弦楽団を振ったこの曲のライヴで賞賛を得ていて、同管弦楽団とは更に1964年の映像も残されているので、ジュリーニの同曲に賭けた情熱のほどが窺われる。

このCDの音源は1963年及び64年のもので、当時の実力派4人のソリストを従えた演奏はその演奏の水準の高さと音響の生々しさでグラン・プリ・デュ・ディスクやエディソン・プライスを受賞している。

特に「怒りの日」総奏部分の爆発的な音量と最後の審判を体現するような激情的な表現は、ジュリーニが行ったあらゆるセッションの中でも最もラテン的な情熱を発散させたもので、勿論ここでは彼の創造した音響効果だけではなく、一方で緻密に計算された弛むことのない緊張感とそれを維持する凄まじい集中力が聴きどころだ。

ソロ歌手のキャスティングでは、この曲を歌うのに最も相応しいと思われる実力重視の抜擢が功を奏している。

それは4人の歌唱力に限ったことではなく、重唱部分では和声の微妙なモジュレーションの連続があり、正確な音程の維持と移行という高度なアンサンブルのテクニックが要求されるが、その意味でもこのメンバーは万全だったと言えるだろう。

シュヴァルツコップは1952年のデ・サーバタ盤でもその驚異的な歌唱を聴かせてくれたが、ここではやや翳りが出てきた声質を巧みな表現力でカバーして、よりドラマティックな名唱を残すことになった。

クリスタ・ルートヴィヒとのオクターヴのユニゾンで、しかもア・カペラで始まる「アニュス・デイ」の天上的な美しさや、最後のコーラス「リベラ・メ」に入る前の「レクイエム・エテルナム」の神々しさは唯一無二のものだ。

ヴェルディの『レクイエム』はミラノ出身の文豪アレッサンドロ・マンゾーニ追悼のために作曲されたもので、現在では宗教曲として実際に教会で演奏されることはそれほど多くない。

それはこの作品が如何にもヴェルディらしい劇場空間に相応しい華麗なオーケストレーションの音響と共に、ベルカントの泣き節的な曲想を持った声楽部分があたかも1曲のオペラのように展開するからで、それだけにオペラ劇場の演奏者によるセッションも少なくない。

このジュリーニの旧盤は古いデ・サーバタ&ミラノ・スカラ座盤と並んで個人的に最も気に入っている演奏で、その理由はオーケストラが厳格に統制されているにも拘らず、外側に向かって放出される解放的なエネルギーに満ちていて、異例のカタルシスを体験できるからだ。

フィルハーモニア管弦楽団はロンドン時代のジュリーニが最も高く評価していたオーケストラで、この演奏にも彼らの信頼関係が良く表れている。

このCDには同じくヴェルディの『聖歌四篇』が1962年の録音で同メンバーとジャネット・ベイカーのメゾ・ソプラノでカップリングされている。

フィルハーモニア合唱団も流石にコーラス王国イギリスの合唱団だけあって、その表現力と機動性でも卓越している。

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classicalmusic at 20:44コメント(0)トラックバック(0)ヴェルディジュリーニ 

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本作は、ジュリーニが1978年から1984年まで音楽監督を務めたロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団との名演揃いの録音の中から、このオーケストラを見事に統率した密度の濃い演奏を展開するベートーヴェンの「第5」とシューマンの「第3」を収めたアルバム。

ジュリーニの溢れんばかりの歌心とロサンゼルス・フィルの力強さが相俟った、いずれ劣らぬ素晴らしい名演だ。

先ず、ベートーヴェンの「第5」であるが、ジュリーニは、後年にもミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団とともに同曲を再録音しているが、断然、本盤の方が骨太な名演である。

演奏はドラマティックさは、さほどなく、あくまでも正攻法な演奏であり、カンタービレが効き歌心があるのが特色だ。

いかにもジュリーニならではの粘着質とも言うべき重厚さと厳しい造形美を兼ね備えた演奏ではあるが、情感の豊かさにおいてもいささかも不足はない。

その意味では硬軟併せ持つ、いい意味でのバランスのとれた名演に仕上がっている。

極めて密度の濃い、真正な精神性を持ち得る人間のみが到達することのできる素晴らしい演奏だ。

ポピュラーな「第5」をこれ程までに磨き上げられた音楽に造り上げたジュリーニの功績にただただ脱帽するのみある。

他方、シューマンの「第3」も名演で、LPで聴いて以来、ジュリーニの指揮の素晴らしさに、深く感銘を受けた。

シューリヒトの名演もあるが、録音の良さを含めると、本盤のジュリーニによる2度目の録音の方を随一の名演と高く評価したい。

出だしからして重厚壮大で、冒頭から芯があり、高貴なるカンタービレが響きわたり、豊饒にして雄渾な音色に引き込まれる。

そして奇を衒わず、ひたすらに音楽に奉仕するジュリーニの敬謙で清々しい姿が浮き上がる。

メータ時代、よく鳴るがちょっと粗いと感じたロサンゼルス・フィルも、精度の高い密度の濃い演奏を展開している。

明朗で雄大な演奏であり、所々に同曲のマーラー編曲版のアイディアが生かされている。

確かに、本盤以外の演奏を聴くと、楽器全体の響きが聴き取りにくく、どこかにアンバランスが生じているように感じる。

筆者には、ジュリーニの才覚をもって、ようやくシューマンのオーケストラ曲の全体構造が見渡された感がする。

マーラー版の使用により、全体としては、ベートーヴェンの「第5」と同様に重厚で粘着質の演奏とも言えるが、それでいて、ジュリーニ特有の優美なフレージングが随所に効果的に聴かれるなど、いい意味でのバランスのとれた温かみのある演奏に仕上がっている。

美しいライン川周辺の自然が眼前に飛び込んでくるかのような光景を彷彿とさせるような悠然とした趣と優美な抒情や、シューマンの最晩年の絶望感に苛まれた心象風景の描出にもいささかの不足はない。

両曲ともに、ロサンゼルス・フィルは見事な演奏を行っているが、必ずしも一流とは言えない同楽団に、これだけの名演奏をさせたジュリーニの類稀なる統率力にも大いに拍手を送りたい。

この2曲を癖を感じさせず、しかも、ジュリーニの解釈が良い方向に向いており、それぞれの曲の価値を高めているという点で、大いに推薦したいディスクである。

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2015年07月06日


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我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる音楽評論家は数少なかった。

本著には、1954年のパリ・オペラ座でのフルトヴェングラー指揮の演奏を聴いた感動を語る「荘厳な熱狂」、ベートーヴェン「エロイカ」のフルトヴェングラー指揮の演奏を徹底分析したその名も「フルトヴェングラーの『エロイカ』」、ナチス・ドイツに残ったフルトヴェングラーの芸術観(たとえドイツがナチスに牛耳られていようと故郷、祖国に踏みとどまり、民衆を見捨てなかった)を考察する「フルトヴェングラーのケース」、トスカニーニとの1937年、ザルツブルク音楽祭での対面と短い会話が紹介されていて興味深い。

吉田氏はフルトヴェングラー生前中から既に彼の指揮が時代遅れのスタイルであることを指摘していた批評家が少なからずいたことを書いているが、筆者自身そう感じたことがあった。

それは26歳のフィッシャー=ディースカウが抜擢された1951年ザルツブルクでのマーラーの『さすらう若人の歌』のライヴ録音を初めて聴いた時で、ウィーン・フィルから官能と陶酔、そして破滅の予感さえも描き出した演奏が世紀末のウィーンの空気感をイメージさせて素晴らしかったが、それが一種の懐古趣味に思えたからだ。

だが吉田氏が力説しているフルトヴェングラーの優れたところは、彼が生きた時代の音楽的趣味や傾向を演奏に反映させていることを認めながら、なおかつより普遍的な楽理的要素を深く読み取って精神的に昇華させ、聴き手に感知させる術を知っていた稀な指揮者だったと回想している。

例を挙げれば作曲家が曲想を変化させる時、それが前後に何の脈絡もなく起こるのではなく、変化に至る必然性を曲の中で刻々と予告しているのだと主張する。

実際ベートーヴェンを始めとするドイツ系の作曲家の作品ではそうした変化の兆しが周到に用意されている場合が多い。

こうした手法によってたとえテンポをかなり自由に動かしていても、聴衆にはその有機的な繋がりが効果的に聴き取れることになる。

これについてはベートーヴェンの交響曲第3番及びブラームス同第4番におけるアナリーゼに詳しい。

ここ数十年のクラシック演奏の傾向として、先ず楽譜に忠実であることが求められる。

しかし楽譜は音楽を伝えるための媒体に過ぎないので、こう書いてあるからそのように演奏するというのは如何にも短絡的な発想であり、聴き手を説得することはできないだろう。

むしろ演奏家は音符に表すことができなかった作曲家のメッセージがどこに、どのようにして存在するかを解明し、それを実際に音にして伝達しなければならない。

その意味でフルトヴェングラーは多くの人が誤解しているように、恣意的な解釈、あるいは即興で人々を熱狂させたカリスマ的指揮者とは一線を画している。

逆説的だが彼の手法は現代の指揮者が目指すべき方向にも相通じる課題の示唆的な解決策を含んではいないだろうか。

最後の章は政治学者、丸山眞男氏との対談で、クルト・リース著『フルトヴェングラー、音楽と政治』をベースにフルトヴェングラーとトスカニーニを対峙させて、両者を育んだ異なったふたつの文化や思想基盤を根拠に彼らの言動の究明を試みている。

フルトヴェングラーが政治に関して意外に無知だったこと、政治が芸術に及ぼす影響力を見くびっていたことなども考察されているが、彼は芸術が政治によって関与されるべきものでないという信念を貫いていたことは確かだろう。

ここではトスカニーニによるニューヨーク招聘を断わって、ナチス政権真っ只中のドイツに留まった理由を、彼の芸術の真の理解者は先ずドイツ人達である筈だと信じていたことなどが論じられていて興味深い。

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「第2」は、バーンスタインやテンシュテットなどの激情的な名演、小澤やインバルなどの純音楽的な名演など、数多くの名演が目白押しであるが、そのような中で、マーラーの直弟子であるクレンペラーの名演はどのような位置づけになるのであろうか。

同じくマーラーの直弟子であったワルターが、「第2」に関しては録音のせいも多分にあるとは思うが、名演を遺していないだけに、俄然、クレンペラーの演奏の意義は高いとも言える。

クレンペラーは、ゆったりとしたインテンポによる威風堂々たる演奏だ。

バーンスタインのように、燃え上がるような激情が表に出ることはなく、かと言って、小澤などのように純音楽に徹しているわけでもない。

あくまでも、微動だにしないインテンポで、マーラーがスコアに記したあまたの旋律を荘重に歌いあげていく。

特に感心させられるのは終楽章で、ここの中間部は、名演と称されるものでもいささか冗長さを感じさせる箇所であるが、クレンペラーは、ここを幾分テンポを落として、終結部の復活の合唱への布石のように崇高に心をこめて旋律を歌いあげていく。

第4楽章のシュヴァルツコップの独唱も実に巧く、この「第2」は、楽曲の本質を個性的な見地で捉えるなど奥深い内容をそなえた重厚な名演と高く評価したい。

「第4」は、マーラーの交響曲の中でも最も柔和なニュアンスが漂う楽曲であり、それ故に、同曲には、ワルターやバーンスタインなど、どちらかというと柔らかいロマンの香り漂う名演が多いと言える。

これに対して、クレンペラーは剛毅にして重厚な演奏だ。

同じくマーラーの弟子ではあるが、演奏の性格は正反対で、ワルターの柔に対して、クレンペラーの剛と言えるだろう。

曲が柔和な「第4」だけに、クレンペラーの演奏については世評は必ずしも高いとは言えないが、筆者としては、クレンペラーならではの個性的な名演と評価したい。

前述のように、演奏全体の性格は剛毅にして重厚、冒頭からテンポは実にゆったりとしており、あたかも巨象の行進のように微動だにしないインテンポだ。

それ故に、ワルターなどの名演と比較すると、愉悦性にはいささか欠ける側面もなくはないが、深沈たる深みにおいては、ワルターと言えども一歩譲るだろう。

テンポの遅さ故に、他の演奏では聴くことができないような楽器の音色が聴こえてきたりするが、これを逆説的に言えば、「第4」の知られざる側面に光を当てたということであり、そうした点も高く評価したい。

シュヴァルツコップの歌唱は実に巧く、この異色の名演に華を添えている。

「第7」は、クレンペラーのマーラー演奏の、そして更にはクレンペラーのあらゆる演奏の頂点に君臨する不朽の超名演である。

第1楽章の冒頭から、この世のものとは思えないような重量感溢れる巨大な音塊が迫ってきて、その勢いたるや、誰も押しとどめることはできない。

まさに、巨象の堂々たる進軍であり、ゆったりとしたテンポによる微動だにしない重厚な歩みであるが、それでいて決してもたれるということはない。

それどころか、次はどのように展開していくのだろうかというわくわくした気持ちになるのだから、クレンペラーの芸格がいかに優れた高踏的なものであるのかがわかるというものだろう。

中間部のこの世のものとは思えないような至高・至純の美しさや、終結部のド迫力は、もはや筆舌には尽くしがたい素晴らしさだ。

第2楽章や第4楽章の夜曲も、同様に遅いテンポであるが、実に情感溢れる指揮ぶりで、そのスケールの大きな雄弁さにはただただ舌を巻くのみ。

終楽章は、下手な指揮だと単なるばか騒ぎに陥りかねない危険性をはらんでいるが、クレンペラーは、踏みしめるような重量感溢れるアプローチによって、実に内容のあるコクのある演奏を成し遂げている。

そして、終結部の圧倒的なド迫力。聴き終えて、完全にノックアウトされてしまったという聴き手は筆者だけではないだろう。

「大地の歌」は、ワルター&ウィーン・フィルの1952年盤と並ぶ2大名演である。

マーラーの直弟子であるワルターとクレンペラーは、マーラーの交響曲をすべて録音したわけではないが、両者が揃って録音し、なおかつ超名演となったのはこの「大地の歌」であると言えるのではないか。

クレンペラーの演奏は、ワルターのように、ウィーン・フィルの独特の美しさや、各楽章毎の描き分けを明確に行い、随所に耽美的とも言うべき色合いを出した演奏ではなく、微動だにしないゆったりとしたインテンポによる演奏だ。

しかし、随所に見られる深沈たる深みは、ワルターと言えども一歩譲ることになるのではなかろうか。

特に、「大地の歌」の白眉である第6楽章の『告別』の彫りの深さは秀逸であり、終結部の「永遠に」のあたりに漂うこの世のものとは思えないような抜け切ったような清澄な抒情は、クレンペラーという大巨匠が、晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地とも言うべき高みに達している。

歌手を比較すると、ワルター盤のフェリアーとクレンペラー盤のルートヴィヒは同格、他方、ワルター盤のパツァークはやや癖があり、ここは、クレンペラー盤のヴンダーリヒの畢生の熱唱の方を高く評価したい。

それにしても、現代においてもなお、この2大名演を凌駕する名演が表れていないのは何とも寂しい気がする。

「第9」は、間違いなくマーラーの最高傑作であるが、それだけに古今東西の様々な大指揮者によって数々の名演がなされてきた。

これらの名演には、それぞれ特徴があるが、どちらかと言えば、楽曲の性格に準じた劇的な演奏が主流のような気がする。

特に、ワルター&ウィーン・フィルや、バーンスタイン&コンセルトヘボウ、テンシュテット&ロンドン・フィルなどが超名演とされているのもその証左と言えるだろう。

そのような数々の名演の中で、クレンペラーの演奏は異色の名演と言える。

これほどの劇的な交響曲なのに、殆ど微動だにしない、ゆったりとしたインテンポで通した演奏は、純音楽的な同曲の名演を成し遂げたカラヤンやバルビローリなどにも見られない特異な性格のものと言える。

それでいて、マーラーが同曲に込めた死との闘いや、生への妄執や憧憬などが、我々聴き手にしっかりと伝わってくるというのは、クレンペラーの至高の指揮芸術を示すものと言えるだろう。

あまりのスローテンポのため、例えば、第3楽章の後半や終楽章の頂点において、アンサンブルに多少の乱れが生じるが、演奏全体から滲み出てくる同曲への深い愛着と情念を考慮すれば、殆ど気にならない演奏上の瑕疵と言える。

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本盤に収められたドヴォルザークの交響曲第8番及び第9番「新世界より」は、クーベリック&ベルリン・フィルのコンビによる交響曲全集からの抜粋である。

交響曲第8番及び第9番「新世界より」については、既にリマスタリングCDが発売された際に、次のようなレビューを既に投稿済みである。

「クーベリックは、ドヴォルザークの交響曲、とりわけ「第8」及び「第9」については何度も録音しているが、その中でも最も優れた演奏は、本盤に収められたベルリン・フィル盤であると考える。

「第8」については、その後、バイエルン放送交響楽団とともにライヴ録音(1976年)、「第9」については、バイエルン放送交響楽団(1980年)、次いでチェコ・フィル(1991年)とともにライヴ録音しているが、バイエルン放送交響楽団との演奏は、いずれも演奏自体は優れた名演に値するものであるが、ノイズの除去のために低音域を絞ったオルフェオレーベルの音質が演奏のグレードを著しく貶めていることになっており、筆者としてはあまり採りたくない。

「第9」のチェコ・フィル盤は、ビロード革命後のチェコへの復帰コンサートの歴史的な記録であり、演奏全体に熱気は感じられるが、統率力にはいささか綻びが見られるのは否めない事実である。

こうした点からすれば、クーベリックによるドヴォルザークの「第8」及び「第9」の決定盤は、本盤に収められた演奏ということになる。

それどころか、他の指揮者による名演と比較しても、トップの座を争う名演と高く評価し得るのではないだろうか。

このうち「第8」は、1966年と録音年がいささか古いが、それだけにベルリン・フィルが完全にカラヤン色に染まっていない時期の録音であり、チェコの大自然を彷彿とさせるような情感の豊かさや瑞々しさが演奏全体に漲っているのが特徴だ。

テンポなども随所で変化させており、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫が漲っているが、音楽の自然な流れをいささかも損なっていないのが素晴らしい。

本盤の4年後に、セル&クリーヴランド管弦楽団による同曲最高の超名演(1970年)が生まれているが、本演奏はそれに肉薄する超名演と高く評価したい。

これに対して、「第9」は1972年の録音で、ベルリン・フィルがほぼカラヤン色に染まった時期の録音だ。

それだけに、全体的にはチェコ風の民族色がやや薄まり、より華麗で明瞭な音色が支配しているように感じるが、それでも情感の豊かさにおいてはいささかの不足もなく、「第9」の様々な名演の中でもトップの座を争う名演であることには変わりはない。

ただ、名演としての評価は揺るぎがないものの、クーベリックらしさと言う意味においては、「第8」と比較するとややその個性が弱まっていると言えるところであり、このあたりは好き嫌いが分かれるのかもしれない。

ベルリン・フィルも、両演奏ともにクーベリックの指揮の下、素晴らしい演奏を繰り広げており、各管楽器奏者の卓越した技量には惚れ惚れするほどだ。」

音質については、リマスタリングがなされるなどかなり良好なものであるが、先般、ユニバーサルがシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が図られることになった。

これは、当該演奏が至高の超名演であることに鑑みても、歴史的な快挙と言えるだろう。

当該シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、これまでの既発のリマスタリングCDとは次元が異なる極上の高音質であり、音質の鮮明さ、音圧、音場の広さのどれをとっても一級品の仕上がりである。

クーベリックによる歴史的な超名演、そしてドヴォルザークの交響曲の第8番及び第9番の演奏史上トップの座を争う至高の超名演を、このような極上の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。

また、可能であれば、それ以外の交響曲についても、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を望む聴き手は筆者だけではあるまい。

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2015年07月05日


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テンシュテットと言えば、近年発掘された様々な壮絶な名演によって、ますますその人気が高まっているが、いわゆるマーラー指揮者のイメージが強いと言えるのではないだろうか。

確かに、これまでに発売されたマーラーの交響曲の圧倒的な超名演の数々を考えてみれば、それは致し方がないことと言えるのかもしれない。

しかしながら、テンシュテットが西側に亡命した頃は、先ずブルックナーで評価されていた指揮者であったことを忘れてはなるまい。

事実テンシュテットは、ブルックナーの交響曲の録音をかなりの点数を遺しており、いずれも注目に値する演奏ばかりである。

すべての交響曲を録音しているわけではないが、第3番、第4番、第7番、第8番については、自らのレパートリーとしてコンサートでもたびたび採り上げていたと言えるところだ。

そうした4曲の交響曲の中でも、テンシュテットが最も採り上げた交響曲は第4番であったと言える。

最初及び2度目の録音はベルリン・フィルとのスタジオ録音及びライヴ録音(1981年)、3度目の録音は、ロンドン・フィルとの来日時のライヴ録音(1984年)、そして4度目の録音が本盤に収められたロンドン・フィルとのライヴ録音(1989年)となっている。

これから新たなライヴ録音が発掘されない限りにおいては、交響曲第4番は、テンシュテットが最も録音したブルックナーの交響曲と言えるであろう。

テンシュテットによる同曲へのアプローチは、朝比奈やヴァントなどによって1990年代にほぼ確立された、いわゆるインテンポを基調とするものではない。

むしろ、テンシュテットのブルックナー解釈は実にはっきりしていて、ブルックナーを後期ロマン派の作曲家の1人として割り切ったものである。

それ故、テンポの振幅や思い切った強弱の変化を施すなどドラマティックな要素にも事欠かないところであり、テンシュテットが得意としたマーラーの交響曲におけるアプローチに比較的近いものと言える。

したがって、こうしたテンシュテットによるアプローチは、交響曲第7番や第8番においては若干そぐわないような気がしないでもないが、第4番の場合は、相性がいいのではないかと思われるところだ。

4つの演奏のいずれも名演であるが、やはり演奏の持つ根源的な迫力という意味においては、第1に本盤(1989年盤)を掲げるべきであろう。

本盤の演奏におけるテンシュテットのアプローチも、比較的ゆったりとした曲想の進行の中に、前述のようなドラマティックな要素(とりわけ第3楽章)を織り交ぜたものとなっている。

他盤よりテンポは若干遅めで、力みがまったく感じられず、どこまでも自然体ながら終楽章に向かってジワジワと高揚するテンシュテットらしい名演。

テンシュテットの指揮は、生命力にあふれ、美しい旋律の歌いまわしも陶酔的で、特に躍動感あふれるスケルツォ、重厚なオケの響きが印象的なフィナーレはベーム、カラヤン、ブロムシュテット等の名盤にも決して劣らない素晴らしい名演と言えるだろう。

もっとも、スケールが小さくなることなど薬にしたくもなく、ブルックナーの本質をいささかも逸脱することがないというのは、テンシュテットの同曲への深い理解と愛着の賜物と言えるところだ。

オーケストラは、必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルではあるが、テンシュテットの圧倒的な統率の下、ベルリン・フィルにも比肩し得るような見事な名演奏を展開しているのが素晴らしい。

艶やかな弦、輝かしい金管、テンシュテットのブルックナーの微細な要求まで描き尽くす演奏力が見事である。

いずれにしても、本盤の演奏は、テンシュテットならではの圧倒的な名演と高く評価したいと考える。

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アーノンクールは1953年、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを組織し、今日のオリジナル楽器による演奏のブームの火付け役となった。

しかし、アーノンクールはさまざまな顔をもち、それらが彼の中で統一した1つの世界を作っているところに、ほかの音楽家とは異なった側面をもっている。

つまり、アーノンクールは一時、ブレンデルと組んで話題を呼んだこともあるが、むしろ重要なのはヨーロッパ室内管弦楽団とロイヤル・コンセルトヘボウとの共演である。

それぞれアンサンブルの個性が異なることもあり、そこから生まれてくる音楽が全く異なるのには驚かずにはいられない。

アーノンクールはこの老練なコンセルトヘボウとの共演によって、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのそれとは別の世界を切り開いてきたように思う。

このモダン楽器の、しかもシューベルトはこれまで幾度となくさまざまな指揮者のもとで演奏してきた楽団では、オリジナル楽器の演奏がアーノンクールが求めた奏法、とくに語りかけるようなフレージングやアーティキュレーション、そこから作りだされる非常に弾力感のあるアンサンブルをそのまま求めることはしないかもしれない。

事実、この録音はかなりストレートで、全体に張り詰めたような力動感が漲っている。

演奏でとくに印象的なのはやはり第8番である。

アーノンクールの手にかかるとすべての音が柔和な相貌を得、とくに楽器1つ1つがそれぞれの表情をもちだす。

アーノンクールはさまざまな解釈によって作品の表面に蓄積した分厚い化粧を削ぎ落として、作品の地膚の美しさを引き出そうとしているかのようでもある。

しかし、同時にアーノンクールはモダン楽器を用いたときの演奏の利点と楽しさと魅力も同時に引き出そうとしているようだ。

同様のフレーズで、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスなら行なわないだろうと思われる解釈を、むしろ楽しみながら実践している。

ダイナミックなクレッシェンドや、たたみ掛けるようなクライマックス効果などはそうした一例である。

アーノンクールの指揮では常にそうであるが、さまざまな、これまで聞こえなかった、あるいは聞き落していた旋律や動機がくっきりと聞こえてくるが、この演奏でもそうである。

演奏の透明度が非常に高く、対旋律や背後に隠れている旋律が、それぞれきれいに聞こえてくるが、この大編成の近代的なオーケストラでも同様である。

メリハリのある音の運びと爽快なテンポ感と独特なフレーズの構成は、これが大管弦楽団であることを忘れさせるほどにしなやかな音楽を作り上げている。

それに第5番も忘れ難い。

これは作品の編成そのものが小さいこともあり、より駆動性のある演奏が実現されている。

柔和に語りかけるようなフレーズと、独特ないわば語尾の表現はこの第5番でよく発揮されている。

アーノンクールはどうして聴く者をこれほどまでに期待感を抱かせ、引っ張っていくのであろうか。

アーノンクールの演奏を聴くとどうしてもその先が聴きたくてたまらなくなるのである。

その劇的なダイナミックスや駆動性は、この楽団との共演で見事に醸し出されている。

そして第7番《未完成》も感動的である。

語りかけるようなその演奏は、それぞれの旋律をまさしくディアローグのように仕上げている。

全体がドラマ仕立てになっているということも可能であろう。

アーノンクールとロイヤル・コンセルトヘボウによるシューベルトの交響曲全集は、これまでのシューベルト解釈に一石を投じ、全く新しい世界を開いたものとして画期的なものとなろう。

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本作は、ロリン・マゼールがディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとユリア・ヴァラディ夫妻を迎えてベルリン・フィルと録音したアルバムで、アレクサンダー・ツェムリンスキーの代表作、《叙情交響曲》を一躍有名にしたデジタル初期(1981年録音)の名盤。

《叙情交響曲》は、シェーンベルクの師で、マーラーとも親交のあったツェムリンスキーの傑作である。

ツェムリンスキーに対する関心と認識は、かなり最近のことと言ってもよいであろう。

それは、後期ロマン派やシェーンベルクをはじめとする新ウィーン楽派への関心の副産物というのは言い過ぎであろうが、シェーンベルクの師であり義兄であるという認識は大きい。

そのツェムリンスキーの1923年の《叙情交響曲》は、その代表作でもあり、最近はいくつかの録音もあるが、これは世界初録音であった。

インドの詩人タゴールの独語訳テキストに、男女2名の独唱、大編成のオーケストラ。

明らかにマーラーの《大地の歌》を意識した内容であるが、生と死をモチーフとした《大地の歌》に比べ、こちらは男女の愛欲を濃厚に歌い上げている。

このツェムリンスキーの《叙情交響曲》は、1922年から23年という「新音楽」の誕生の時期にあえて《大地の歌》へのオマージュとして書かれたわけで、明らかに時代の潮流に逆らっていた。

官能を主題とした点では、スクリャービンの《法悦の詩》に通じるところがあり、全般に暗く濃厚なロマン派の音楽で、時には甘美に、または激しく愛を歌っている。

しかし、エロティシズムと神秘主義の間を揺れ動くその官能的な内容と壮大な交響楽的構成には、耽美的な後期ロマン派の遅れた成果という以上の魅力が備わっている。

特に調性語法の幅や、アリオーゾからシュプレッヒゲザングまでの声楽様式の幅など、実にドラマティックだ。

マゼールとベルリン・フィル、ヴァラディとフィッシャー=ディースカウという最上の顔合わせが得られた結果、その登場はツェムリンスキーへの理解を急速に強めたとさえ言える。

マゼールは決して音楽に溺れることなく、この大曲をまとめあげ、フィッシャー=ディースカウ、ヴァラディの独唱陣とベルリン・フィルもマゼールと息の合ったところを見せている。

豪奢で官能的な前奏曲の響きは、まごうことないベルリン・フィルの響きであり、この冒頭の歴史絵巻を思わせるような雰囲気が見事に全体に一貫しており、この雰囲気の持続はツェムリンスキーの要求通りと言えよう。

流麗なマゼールの解釈もすぐれているが、特に生と死を幻想的に気品をもって歌い上げた王子役のフィッシャー=ディースカウの歌唱は、タゴールの原詩の精神をよく伝えていて、バリトンの「英雄」的力感、ドラマティックな表現力と知的解釈の深さも印象的だ。

フィッシャー=ディースカウの薫陶を受けたであろうユリア・ヴァラディの旨さも特筆できるものである。

《大地の歌》との関連はともかくとしても、このロマン的な美しく魅惑的な世界は一聴に値しよう。

ウイーンの楽壇で指揮者、作曲家として高く評価されていましたツェムリンスキーは、ユダヤ系の出自のためにナチスの台頭後、シェーンベルクとともにアメリカに逃れた。

しかし、シェーンベルクが富と名声に包まれてロスで暮らしたのに対し、ツェムリンスキーは注目されることなく病気と貧苦に苦しんだ挙句、ニューヨークで斃死してしまった。

1980年代にようやく注目され、これはその一環として録音されたもので、時代の波に巻き込まれ、不当に評価された音楽家を発掘した意味でも貴重な1枚である。

この演奏を通して、いよいよツェムリンスキーの夢と現実の世界に魅せられていく人も多いはずだ。

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2015年07月04日


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プレトニョフ&ロシア・ナショナル管弦楽団によるチャイコフスキーの交響曲チクルスも、今般のマンフレッド交響曲の登場でついに第7弾。

かつては不人気だったこの作品も、現在ではチャイコフスキーらしさ満載の魅力作として広く受け入れられており、特にオケ好きの評価は高いものがあるだけに、今回の新録音は歓迎されるところである。

これによって、死後補筆の第7番を除けば、チャイコフスキーの自筆で完成された交響曲のすべてがすべて出揃い、これでこのコンビによる2度目の全集が完結したのは慶賀に堪えない。

本盤の演奏を聴いて感じられるのは、そしてそれはこれまでの他の交響曲の演奏においても共通しているとも言えるが、プレトニョフのチャイコフスキーへの深い崇敬の念である。

2度にわたって交響曲全集を録音するという所為もさることながら、演奏におけるアプローチが、他の楽曲とは次に述べるように大きく異なっているからである。

プレトニョフは、数年前に、ロシア・ナショナル管弦楽団とともにベートーヴェンの交響曲全集を録音しており、それは聴き手を驚かすような奇抜とも言える超個性的な演奏を繰り広げていた。

それだけに、賛否両論が渦巻いていたが、それに対して、今般のチャイコフスキーの交響曲全集においては、ある意味では正統派の演奏。

物議を醸したベートーヴェン全集の場合とは大きく異なり、チャイコフスキーの音楽では、真正面から音楽に向かい合った堂々たる円熟の演奏を展開してきたプレトニョフ&ロシア・ナショナル管弦楽団。

1990年の創設からすでに20年以上、同コンビによる新全集は、旧ソ連の崩壊やロシアのオーケストラの乱立など、多くの混乱を乗り越えてきた彼らの実績を代表する力作として、高度な水準を維持しながら着々と進行してきた。

演奏の総体としては、いささかも奇を衒うことがないオーソドックスな演奏を展開していると言えるところである。

もちろん、オーソドックスとは言っても、そこはプレトニョフ。

個性が皆無というわけではない。

本盤に収められたマンフレッド交響曲においても、テンポの振幅を効果的に活用したり、ここぞという時にはアッチェレランドを駆使するなど、プレトニョフならではのスパイスが随所に効いていると言えるだろう。

にもかかわらず、演奏全体としては、あざとさをいささかも感じさせず、前述のように、オーソドックスな装いとなっているのは、プレトニョフがチャイコフスキーの交響曲を深く理解するとともに、心底からの畏敬の念を有しているからに他ならないのはないかとも考えられるところだ。

プレトニョフにとっては、本盤のマンフレッド交響曲の演奏は、約15年ぶりの録音ということになるが、この間のプレトニョフの指揮芸術の円熟を感じさせるものであり、音楽の構えの大きさ、楽曲への追求度、細部への目配りなど、どの点をとっても、本演奏は数段優れた名演に仕上がっていると言えるだろう。

それにしても、ペンタトーンレーベルによる本チクルスの音質は例によって、高音、重低音ともよく捉らえており、実に優秀で素晴らしい。

何と言っても、マルチチャンネル付きのSACDであるということは、本チクルスの大きなアドバンテージの1つであると言えるところであり、プレトニョフの精緻にして緻密さを基調とするアプローチを音化するのには、極めて理想的なものと言えるのではないだろうか。

いずれにしても、プレトニョフ&ロシア・ナショナル管弦楽団による素晴らしい名演を、マルチチャンネル付きの極上の高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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ショルティは、ワーグナーの主要なオペラを全て録音し、あの1958年から65年にかけての《ニーベルングの指環》の全曲録音ひとつによっても、他に比肩するもののない業績の豊かさを思わせている。

そこにある完璧ともいえる音楽分析と深い理念に裏付けられたワーグナー観は、ショルティが常に最も信頼し得るワーグナー指揮者のひとりであったことを疑わせる余地はない。

しかし、ショルティのワーグナーの中でも、多くのワグネリアンや評論家に評価の芳しくないのが《トリスタンとイゾルデ》(1960年スタジオ録音)である。

同時期の《ニーベルングの指環》がそのスペクタクルな録音も含めていまだに「最高」評価が多いの比べ、また、《トリスタンとイゾルデ》のディスクの中でもフルトヴェングラー、ベーム、クライバーが常に名盤の上位に置かれるのに比べ、ショルティの《トリスタンとイゾルデ》は高く評価されることがなかった。

それ故、ショルティの残したワーグナー・オペラの中では最も「マイナー」な扱いをされているディスクである。

確かに同オペラの官能美の極致をゆく音楽が、ショルティの直情径行的な芸風とマッチするとは思えず、筆者としてもこの全曲録音を長い間無視してきたことを否定するつもりはない。

しかし、その後ショルティが手兵シカゴ交響楽団と《トリスタンとイゾルデ》の「前奏曲と愛の死」を振ったディスクを聴いてみたら、これが非常な名演なのである。

冒頭の哀切なピアニッシモからして心惹かれるが、木管の透明さと弦の粘着力を両方併せ持ち、この曲の世界を的確に描き出していた。

筆者はこれを機会にショルティの《トリスタンとイゾルデ》の全曲盤を入手するに至ったのである。

今回初めて聴いてみて、従来のそういう評価がいかに不当であるかを痛感した次第であり、これは大変良い出来のディスクである。

まず、ショルティの指揮が、《ニーベルングの指環》では正直言って耳をつんざくような響きが随所にあって、デリカシーのなさに辟易することもあり、そういう調子で《トリスタンとイゾルデ》を演奏されたら辟易するのかと思っていたが、さすがにこの作品でショルティはそんな演奏はしていない。

落ち着いたリリシズムが全編を支配し、無駄な煽りもなく、この美しくも哀しいドラマをしっかりと表現している。

そしてウィーン・フィルも若きショルティによって迫力あるサウンドを聴かせており、この作品のオーケストラ・パートとしては異例と言って差し支えない起伏の激しい音楽が今聴くと実に新鮮で、カルショウによる半世紀前の録音とは思えないリアルな録音も冴え渡っている。

それにウィーン・フィルの濃厚な音色も個性的であり魅力十分で、音色の美しさと豊かな表現力は特筆ものであり、合奏力の精緻さや音楽の推進力にも不足はない。

強いて難点を挙げれば、1960年当時のショルティの、鋭角的な音作りと猪突猛進な音楽運びは、残念ながら《トリスタンとイゾルデ》の壮大な官能の世界を描き切るほどに成熟していなかった。

和声的というより、あまりにも構築的な演奏と言えよう。

歌手陣は、意外にも唯一のセッション録音となった希代のドラマティック・ソプラノ、ニルソンをはじめとして高水準の歌唱を展開しており、ニルソンはベーム盤では結構絶叫部分が多かったのだが、ここではセッションということもあり、繊細な表現が際立つとても良い出来栄え。

ウールはさすがにセッションにおいても声の不足が感じられてしまうのだが、もともと難役であるし、十分水準には達している。

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アバドはマーラーの交響曲第7番を2度録音しているが、1984年のシカゴ響とのスタジオ録音に続き、本盤には、2001年のベルリン・フィルとのライヴ録音が収められている。

1984年盤も、アバドがある意味では最も輝いていた時期の演奏でもあり、強靱な気迫と力強い生命力、そして豊かな歌謡性がマッチングした、いい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていたと言える。

1970年代から1980年代にかけてのアバドの演奏には、このような名演が数多く成し遂げられていたと言えるが、1990年にベルリン・フィルの芸術監督に就任して以降は、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

もちろん、メンデルスゾーンの交響曲第4番やヤナーチェクのシンフォニエッタなど、例外的な名演もいくつか存在しているが、その殆どは大物揃いのベルリン・フィルに気後れしたかのような今一つ覇気のない演奏が多かったと言わざるを得ない。

その後アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督の任が重すぎたせいか、ベルリン・フィルの芸術監督を退任する少し前の2000年には癌に倒れることになってしまった。

そして、アバドはその癌を克服するのであるが、それは皮肉にもベルリン・フィルの芸術監督の退任直前。

そして、アバドはその大病を見事に克服するのであるが、死と隣り合わせの苛烈な体験を経たことによって、アバドの芸風には、それまでの演奏にはなかった凄みと底知れぬ彫りの深さが加わったと言えるのではないだろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任して以降は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始していただけに、その変貌ぶりには驚くべきものがあったとも言える。

その意味では、2000年以降のアバドは真の大指揮者となったと言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏も、真の大指揮者アバドによるものであり、ベルリン・フィルの卓越した名技を活かしつつ、胃癌を発表した後の明鏡止水にも似たような境地が漂う何とも言えない深い味わいがあり、至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

本演奏の最大の優位点は、演奏全体を支配する奥行きの深さであり、アバドの音楽が表現する内容も凄絶な変貌を遂げており、そんな時期の情熱あふれる名演と言えるのではないか。

それだけに、本演奏においては、この時期のアバドとしては劇的な迫力を有するとともに、雄大なスケールを誇る名演に仕上がっていると言えるのではないかと考えられる。

したがって、本演奏には、シカゴ響との演奏には存在しなかった楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫りの深さが存在しているというのはある意味では当然であり、まさにアバドによる円熟の名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

もっとも、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力という意味においては、シカゴ響との録音と比較するといささか見劣りするとも言えなくもないが、むしろ、このように決して喚いたり叫んだりしない、そして奥行きの深い演奏の中にも持ち前の豊かな歌謡性をより一層際立たせたいい意味での剛柔バランスのとれた演奏こそが、アバドが目指す究極のマーラー演奏の理想像とも言えるのかもしれない。

各楽器セクションのバランスを重要視した精緻な美しさにも出色のものがあるが、ここぞという時の力奏にも強靭な迫力が漲っており、各フレーズの歌心溢れる徹底した歌い抜きにおいてもいささかも不足はない。

ベルリン・フィルも、このような深みと凄みを増したアバドによる確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した最高のパフォーマンスを示していると評価したい。

音質は、本従来CD盤でも十分に満足できる高音質であると評価したい。

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classicalmusic at 00:58コメント(0)トラックバック(0)マーラーアバド 

2015年07月03日


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ブロムシュテット&シュターツカペレ・ドレスデンによるブルックナーの交響曲の録音は、何故か「第4」と「第7」にとどまったが、いずれも名演だ。

旧東ドイツの名門オーケストラと新しい世代のドイツ系指揮者ががっぷり組み、精緻さと質感を十二分に備えたこのコンビならではの素晴らしい構築あふれる名演である。

影響力の大きい某評論家は、ブルックナーの「第4」には冗長な箇所が多いので、あまり味付けをせずにインテンポで演奏してしまうと、のっぺりとした味気のない薄味の演奏になるとして、特に、ベーム&ウィーン・フィルの名演を酷評している。

そして、ヴァントや朝比奈の最晩年の名演を絶賛している。

確かに、ヴァントや朝比奈の最晩年の演奏はいずれも、ブルックナー演奏史上に冠たる至高の名演だ。

そのことを否定するものではないが、しかしながら、ヴァントや朝比奈の演奏だけが正しいわけではない。

ベーム&ウィーン・フィルのような、ある意味では、愚直な演奏も、同曲の魅力を知らしめるに足る素晴らしい名演と評価してもいいのではないか。

本盤も、アプローチの仕方はベームにきわめて近い。

比較的ゆったりとしたインテンポで、愚直に曲想を描いていくというものであるが、ベーム盤と同様に、オーケストラの音色の魅力が素晴らしい。

ベーム盤では、ウィーン・フィルの極上の響きが演奏に潤いとコクを与えていたが、本ブロムシュテット盤も決して負けていない。

シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色は、演奏に重心の低い渋みと内容の濃さをもたらしている。

ブロムシュテット時代のこの楽団は、彼らのひとつのピークを示したと言えるところであり、この演奏も比類なく精緻であり、威容と叙情を兼ね備えている。

アンサンブルそれ自体が自発的に有機的な音楽を歌っているが、指揮者も豊かな感興で音楽を起伏させている。

すこぶる格調高いブルックナーであり、精緻な構図の中ですべてが自然体でまとめ上げられ、味わいとこくに満ちた世界が展開している。

豊かな叙情を第一の特色とした演奏と言って良いと思うが、同時に金管のフォルティッシモも実に重厚で強烈、この交響曲の魅力を過不足なく引き出す要因となっている。

加えてテンポ設定にも説得力があり、全曲を通じきわめて適確な曲運びを示し、最良の意味での普遍的な演奏と評するべきか。

オーケストラの美しい響きとブロムシュテットの棒の精彩とが、高次元で合体している印象が素晴らしい。

このコンビのブルックナーでは「第4」と「第7」の録音のみ残されているが、このレベルでぜひ「第8」と「第9」も録音して欲しかった。

こうした自然体のブルックナーは、探してみるとその実なかなか見当たらない。

そして、何といっても素晴らしいのは、ペーター・ダムのホルンであろう。

当時のドイツにおけるザイフェルトと並ぶ2大ホルン奏者であるが、ダムの深みのあるホルンの音色を聴くだけでも、一聴の価値がある。

音質は今回のBlu-spec-CD化によって、長年の渇きが漸く癒されたと言えるところであり、さすがにSACDにはかなわないが、従来盤と比較すると鮮明さが相当に増しており、本演奏の価値は大いに高まったと考える。

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classicalmusic at 22:49コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーブロムシュテット 

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お薦めの全集である。

オリジナル楽器によるベートーヴェンでは、後発のガーディナー盤、ノリントン盤、ブリュッヘン盤などがあるが、ガーディナーほど軽くなく、ノリントン(旧盤)ほど楽天的でなく、ブリュッヘンほど神妙でないホグウッド盤が、もっとも魅力がある。

特徴がないようでいて味わい深く、聴きながら「ベートーヴェンの音楽はなんて美しいのだろう」と思わせてくれるからである。

ホグウッド盤については、方々で「モダン全盛から古楽器台頭への過渡期の演奏」という評価がなされているようだが、万事を進化論という物差しで測るのに、少なくとも筆者は抵抗がある。

たとえば、ホグウッドの師であり、盟友であったデイヴィッド・マンロウの存在が「ホグウッドへの過渡期」と言えるだろうか?

そんな馬鹿な話はないのであって、スタイルの変遷はあっても、個人の才能・資質は各人唯一のものだ。

いついかなる状況で演奏されようとも、ここでは「演奏家の資質」「良い演奏か否か」を問題にしたい。

ここからは一般論だが、オリジナル楽器の最大の長所は、楽器間の音量のバランスの良いところである。

モダン・オーケストラでは、どんな名指揮者が巧みにバランスを考慮しても、分厚い弦に木管が埋もれがちであるし、逆に金管が強すぎて他のセクションを潰してしまったりする。

また、楽器が違えば音色や奏法も違ってくるわけで、同じフレーズを弾いても印象が異なるものなのである。

木管楽器の素朴さやティンパニなどの原始性に触れただけで、気分が落ち着いたり、和んだり、童心に帰ったようにワクワクしたりする。

古楽器オーケストラを木造家屋とするなら、カラヤン時代のベルリン・フィルなど近代的な超高層ビルであり、「ここまで立派な必要があるだろうか?」という疑問すら湧いてくる(もっとも、機能性を極限まで究めたという、もうひとつの価値は常々のレビューで述べており認めているところである)。

オリジナル派の短所は、長所と背中合わせに、ときに響きの薄さが気になることである。

誤解のないように付け加えるとそれは、たんにモダンより弱い音量に苦情を言っているのではない。

オリジナル楽器が巨大なNHKホールで役に立たないと非難するのは的外れなことは分かっている。

筆者が問題にしているのは、楽器の年齢である。

オリジナル楽器とはいえ、18世紀以前に製作された楽器が、それほど多くは残されておらず、また、大半はモダン楽器風に改造されてしまっているため、オーケストラで使われる楽器の多くは数年から数十年の「復元楽器」なのである。

つまり楽器としては、成熟に遠い、幼児から若者クラスが多いことになる。

それゆえ、どうしても、響きが薄い、若い、安っぽい感じに聴こえてしまうときがあるのだ。

もちろん、演奏自体のエネルギーによって、これが気にならないことも多々あるわけだが、ホグウッドのベートーヴェンは、上述した長所ばかりが印象に残る名演と言って良いだろう。

決して穏健に終わらず、リズム、フレーズといった音楽の根元を見つめた演奏が素晴らしいアプローチは、師マンロウ譲りと言って良い。

聴き手は、「過渡期」という世間の評価に惑わされず、むしろ「事始め」の新鮮な息吹こそ感じるべきであろう。

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1970年代後半に、ドホナーニがウィーン・フィルと録音したメンデルスゾーンの作品集からの抜粋盤。

指揮者の緻密な音作り、鋭敏な感覚と棒のテクニック、そしてウィーン・フィルの無類の美しさがうまくマッチして極めて高水準の出来映えである。

ドホナーニは、かつてのニキシュにはじまり、その後、多くの大指揮者を生み出したハンガリー人指揮者の系譜に連なる指揮者である。

マゼールの後任として、かつてセルが世界一流のオーケストラに育て上げたクリーヴランド管弦楽団の首席指揮者に就任し、数々の名演を生み出したことは、今なお記憶に新しいところだ。

もちろん、ドホナーニほどの指揮者だけに、ドホナーニはクリーヴランド管弦楽団以外のオーケストラとともに名演を残している。

本盤に収められたウィーン・フィルとのスタジオ録音も、そうしたドホナーニによる貴重な名演である。

巷間、ドホナーニとウィーン・フィルの相性は必ずしも良くなかったと言われている。

その理由は定かではないが、特に、ドイツ系の音楽を指揮する際には、ウィーン・フィルの楽員の反応が芳しくなかったようだ。

さすがにショルティほどではないものの、ドホナーニの知的とも言うべきアプローチが、ウィーン・フィルの演奏志向と必ずしも一致しなかったということは容易に推測できるところである。

しかしながら、メンデルスゾーンのようにウィーン・フィルとしては何故か滅多に演奏しない楽曲においては、ドホナーニの知的なアプローチが、演奏全体を引き締まったものとするとともに、ウィーン・フィルの美質でもある美しい響きが演奏を冷徹なものに陥ることを避け、いい意味での潤いや温もりを付加するのに貢献するなど、まさに、指揮者とオーケストラがそれぞれ足りないものを補い合った見事な名演を成し遂げるのに成功していると言えるのではないだろうか。

いずれも秀演で、メンデルスゾーンの初期ロマン的な作風を的確に表現している。

緻密で鋭敏なタクトが織りなす絶妙なテンポとバランスに、ウィーン・フィルの極上のオルガントーンが見事にマッチした、極めて高水準の仕上がりになっている。

ドホナーニの軽やかなリズムとしなやかな旋律線、バランスのよい造形のすべてがメンデルスゾーンにふさわしい。

ウィーン・フィルの演奏も極上で、とくに弦の美しさはたとえようもない。

ドホナーニの表現はみずみずしく、清潔な音楽に応えたものと言えるだろう。

もちろん、これらの楽曲には、他にも優れた名演はあまた存在しているが、少なくとも、相性が今一つであったドホナーニとウィーン・フィルの息が統合した数少ない演奏の1つとして、本盤の演奏は稀少な存在とも言えるところだ。

さすがのプライドの高いウィーン・フィルの楽員も、メンデルスゾーンの楽曲の演奏に際しては、ドホナーニに余計な注文も付けなかったであろうし、逆に、ドホナーニも自信を持って演奏に臨んだことが窺い知れるところだ。

いずれにしても、筆者としては、本盤に収められた楽曲の演奏は、ドホナーニがウィーン・フィルと行った数少ない録音の中でも優れた名演として、高く評価したいと考える。

この他、ドホナーニ&ウィーン・フィルは、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」のような、オーケストレーションの華麗さを売りにした楽曲や、いわゆるお国ものとも言うべきバルトークのパントマイム「中国の不思議な役人」のような楽曲においても名演を残していることを付記しておきたい。

本盤の演奏は、アナログからデジタルへ変わる移行期の録音ではあるが、音質にムラはなく充分に新鮮で、さすがは英デッカとも言うべき極めて鮮明で極上の高音質を誇っている。

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2015年07月02日


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ショルティは偉大なマーラー指揮者の1人であると考えているが、ショルティが録音したマーラーの交響曲の中で、3種類もの録音が遺されているのは、現時点では第1番と第5番しか存在していない。

第5番は、ラスト・レコーディングも同曲であったこともあり、ショルティにとって特別な曲であったことが理解できるが、第1番に対しても、ショルティは第5番に比肩するような愛着を有していたのでないかと考えられるところだ。

3種類の録音のうち、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音(1964年)が最初のもの、そして同年のウィーン・フィルとのライヴ録音(オルフェオレーベル)、そして本盤に収められたシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1983年)がこれに続くことになる。

いずれ劣らぬ名演と思うが、シカゴ交響楽団との演奏は、1964年の2種の演奏とはかなり性格が異なっている。

ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。

かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると、演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。

したがって、1983年の演奏は、1964年の2つの演奏とはかなり様相が異なり、鋭角的な指揮振りは健在であるとは言うものの、聴き手を包み込んでいくような包容力、そして懐の深さのようなものが存在し、聴き手にあまり抵抗感を与えないような演奏になっており、仕上がりの美しさと内容の豊かさにおいて、旧盤とは格段の違いを示している。

マーラー独特の憂愁の表現や、この名作特有のテーマである「さすらい」の不安定さ、若者の不安などの文学的要素を多分に蔵したこの曲の、あちこちにちりばめられた突発的に介入するエピソード的素材のすべてを、ショルティはものの見事にとらえ、変幻自在の対応で表現して、素晴らしく面白い。

シカゴ交響楽団の光彩陸離たる華麗な演奏ぶりが際立っていることから、このような演奏を内容空虚と批判する音楽評論家も多いようであるが、聴き終えた後の充足感が、例えばワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)やバーンスタイン&コンセルトへボウ・アムステルダム盤(1987年)などの名演に必ずしも引けを取っているわけでもない。

ショルティは、バーンスタインやクーベリックなど、一部の限られた指揮者によってしか演奏されていなかったマーラーの交響曲にいち早く注目し、その後のマーラー・ブーム到来の礎を作り上げたという意味では、多大なる功績を遺したと言えるのではないだろうか。

我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる数少ない音楽評論家は別として、とある著名な某音楽評論家を筆頭に、ショルティに厳しい視線を送る音楽評論家があまりにも多いが、そうした批評を鵜呑みにして、ショルティの指揮する演奏を全く聴かないクラシック音楽ファンがあまりにも多いというのは極めて嘆かわしいことである。

ショルティとシカゴ交響楽団の美しく、力強く、そして精密な演奏は、マーラーの音楽の持つ耽美的な色彩感と美しさと力強さ、迫力と爽やかさが見事に調和している演奏である。

ワルターやバーンスタインのような厭世観から来る、病的な暗さや思いつめたような絶望感や情熱とは無縁の世界のものであるが、作品の持つ耽美的なまでの美しさと爽やかさ、軍隊的な統制力と力強さが万全に発揮された名演と言えるだろう。

シカゴ交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っている。

特に弦楽器の合奏は素晴らしく、まるで春のそよ風が気持ちよく、爽やかに吹き抜けてゆくようだし、トランペットなどの金管楽器の閃光のような輝きは驚く程だ。

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ブロムシュテット&ゲヴァントハウス管弦楽団のブルックナー・チクルスが漸く完成した。

演奏はいずれも実際のコンサートでの演奏をライヴ録音したもので、曲により多少のムラはあるものの、ライヴという条件を考慮すると、全体の水準は十分に高いレベルに達していると考えられる。

今回のシリーズでは、ブロムシュテットの円熟の境地と、ドイツ経済の繁栄と共に実力もレベル・アップしたかのようなゲヴァントハウス管弦楽団の充実した演奏を楽しむことができる。

ブロムシュテット&ゲヴァントハウス管弦楽団という稀代の名コンビは、様々な名演を成し遂げてきたが、何と言ってもそのレパートリーの中心にあったのは、ブロムシュテットが最も得意とする独墺系の音楽、中でもブルックナーの交響曲であったことは論を待たないところだ。

何よりも、これまでブルックナーの交響曲を自らの中核と位置づけてきたブロムシュテットであるだけに、本演奏には、ブロムシュテットの確固たる信念を感じ取ることが可能な、仰ぎ見るような威容を湛えた堂々たる演奏に仕上がっているのが素晴らしい。

本演奏においても、基本的なアプローチは、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、これは近年のブルックナーの交響曲演奏の王道を行くものである。

そして、かかるアプローチは、誠実とも言えるこの指揮者の美質そのものであると言えるが、例えば、かつてシュターツカペレ・ドレスデンとともにスタジオ録音を行った交響曲第4番や第7番の定評ある名演などと比較すると、彫りの深さ、懐の深さにおいて、遥かに凌駕している。

近年のブロムシュテットの好調ぶりを伝える見事なもので、どの作品でも細部まで丁寧に誠実にリハーサルしたと思われる着実なアプローチを土台に、作品それぞれの個性がきちんと伝わってくるのが嬉しいところだ。

この指揮者ならではの全体の造型の堅固さは健在であるが、スケールも雄渾の極みであり、各楽想の描き出すに際しての彫りも深い。

全体としてはゆったりとしたインテンポを基調としているが、ここぞという箇所では微妙にテンポを動かしており、それが演奏全体を四角四面にしないことに大きく貢献している。

ブラスセクションなども最強奏させているが、無機的になることはいささかもなく、どこをとっても奥行きの深さを損なっていないのが素晴らしい。

シャイー時代になってオーケストラの音色に色彩感を増したと言われているゲヴァントハウス管弦楽団ではあるが、本演奏ではブロムシュテットの確かな統率の下、かつてのシュターツカペレ・ドレスデンのような独特の魅力的な音色を湛えているとは言い難いが、それでもドイツ風の重心の低い音色で重厚な演奏を繰り広げているのが素晴らしく、さすがは伝統のあるドイツのオーケストラと言うべきである。

ブロムシュテットは、厳しいトレーニングで機能性と音色にさらに磨きをかけ、引き締まった力強いサウンドにゲヴァントハウス管弦楽団を鍛えなおし、コンヴィチュニー時代の再来を思わせる第2ヴァイオリン右側の対向配置も効果的だ。

そして音楽自体に何とも言えない深みがあり、これはブロムシュテットの円熟であるのみならず、ブロムシュテットが晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地の表れと評しても過言ではあるまい。

このような名演奏を聴いていると、ヴァントや朝比奈なき現在においては、ブロムシュテットこそは、スクロヴァチェフスキと並んで、現代を代表するブルックナー指揮者と評しても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、あまた存在するブルックナーの交響曲全集の中でも、最も優れた名演の1つに掲げられる至高の名演と高く評価したいと考える。

そして、本盤でさらに素晴らしいのはマルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

コンサート会場の豊かな残響を取り入れた臨場感溢れる鮮明な高音質は、本名演の価値をさらに高めることに大きく貢献している点を忘れてはならない。

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筆者は、ウィーンに行くと、必ずウィーン国立歌劇場と、ムジークフェライン・ザールに行くことにしている。

ムジークフェライン・ザールは、コンサート専用のホールで、「黄金大ホール」といわれているように、ホールの内装は金ピカで、古き良き時代のオーストリアが、いかに音楽に対して贅をつくしていたかがよくわかる。

このホールは、音響効果の優れていることでも有名で、ホール全体が、あたかも楽器そのもののようである。

このロシアの巨匠ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によるディスクは、1978年の6月、ウィーン芸術週間に、このホールで行われた演奏会のライヴ録音である。

このコンビによるブラームスの交響曲第2番の録音は、いままでに何枚か出ているが、今回のは、それらのものを遥かに凌ぐ名演奏で、この曲を完全に手中に収めた、悠然たる構えの表現である。

ムラヴィンスキーはドイツ古典派、ロマン派の音楽に深い造詣を持っていたことはよく知られている。

ムラヴィンスキーが来日公演で「ベト4」に聴かせたあの揺るぎなく格調の高い指揮ぶりは、優秀録音からもよく伝わってきて、深い感銘を残さずにはおかなかった。

この「ブラ2」でも堅固で明快な構成感を打ち出しながら、しかもその内側にブラームスのロマンをはっきりととらえた、力強く集中度の高い演奏を聴かせてくれる。

それはよく言われるようにこの交響曲の田園風の味わいというよりは、強靭で意志的なものを感じさせるが、そんなところがこの指揮者の厳しい格調に通じるものにも他ならないだろう。

眼光紙背に徹したスコアの読み方は人工的なほどだが、音として出てきたものはきわめて自然でしなやかで、純音楽的である。

淡々とした運びの中の自在な表情と無限の息づき、強弱のたゆたいや寂しさ、魔法のようなテンポの動きなど、センス満点の名演だ。

驚かさせられるのは、驚異的なダイナミックレンジの広さであり、フィナーレ冒頭の弱音とコーダにおける想像を絶する巨大さとの対比、それも先へ行くに従いどんどん熱を帯びて調子があがっていく様を当時の観客と共有できる。

さらに第2楽章の中間部から終わりまでの恐ろしいまでの充実度、ムラヴィンスキーの神業に震えがくる思いがする。

興味深いのが、まぎれもないブラームスの音楽でありながら、チャイコフスキーを思わせる部分が多々あることだ。

第1楽章終結部の弾むようなリズム感、また第3楽章中間部の木管の軽やかなアンサンブルなど、バレエ指揮で鍛えたムラヴィンスキーならではの独特な解釈にうならされる。

また、全体に音色が透明で、ことに弦楽の冷たい響きはロシア音楽のように聴こえる。

ただしロシア物を指揮するムラヴィンスキーと、ブラームスを指揮する彼では、微妙な相違があったような気がする。

ブラームスの場合には、どこか醒めていて、陶酔に陥るのを避けるべく自らをコントロールしているような演奏ぶりだ。

例えば第4楽章は、なんとも情熱的な演奏ぶりで聴き手を圧倒するものがあるが、ムラヴィンスキーその人は、仕掛人として終始冷静にことを運び、熱狂の渦の外に立っているようだった。

その姿は、まさしく「謹厳で冷徹な指揮者」というにふさわしいものであり、まさに「ロシアの大指揮者の目を通したブラームス」として目から鱗が落ちる思いがした。

そのうえ、巨匠的風格が曲のすみずみまでに滲み出ており、ライヴ独特のきりりと引き締まった緊張感が何とも素晴らしく、激しく心を揺さぶられる。

ウェーバーの「オベロン」序曲の演奏にも同様のことがいえ、ムラヴィンスキーはオーケストラをきりりと引き締め、一分の隙もない厳しい表現を行っている。

録音はムジークフェラインの響きとしてはやや乾いた印象を与えるとはいえ、一連の旧ソヴィエト録音よりはるかに条件は整っており、ムラヴィンスキーによる同曲の録音といえば、まずこの演奏を聴く必要があろう。

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2015年07月01日


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指揮者アントニオ・パッパーノ&サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の2014年来日記念盤。

パッパーノ指揮するサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の演奏はムーティ&フィラデルフィア管弦楽団の同曲のような分厚いサウンドと白熱のセッションとは異なった、イタリアのオーケストラらしい、いくらか線は細めですっきりした明るい音響に満たされている。

だが、勿論迫力にも不足しない充分に余裕のあるテクニックとボリュームも持ち合わせている。

弦はどこまでも明るく伸びやか、木管楽器の微妙なニュアンス、バランス感覚に優れた金管の咆哮、期待をはるかに凌駕する演奏内容だ。

このオケはチョン・ミュンフンとの各種チクルスで有名になってきたが、実に奔放で綺麗な音を出す楽団だと感心した。

それでいて解釈が写実的で色彩感が著しく濃くて鮮烈で、特に『松』の描写力は素晴らしく前例のない程の密度感だ。

やはりイタリア人の血によって指揮されるイタリア・オケならではと言うことで、大陸的なエレガントさや気品のようなものよりどことなく猥雑な気配も漂うネーティブ・タッチのレスピーギ。

シンフォニー・オーケストラの絢爛たるサウンドが最大限に発揮される管弦楽作品の傑作を、重厚なサウンドで名高い名コンビの演奏と言えよう。

またイタリア系指揮者のお家芸カンタービレではパッパーノも引けを取らない流麗な歌心が随所で発揮されているが、ローマの風物詩を一大音像絵巻で綴ったこの作品を彼はセンチメンタリズムではなく、冷静に計算されたダイナミズムの振幅を巧みにコントロールして曲を構成する手腕と、音響効果による鮮烈な情景描写は流石だ。

例えば「アッピア街道の松」のクライマックスでは放射状に拡散させるような輝かしい音響によって次第に近付いてくるローマ軍の凱旋を表現しているし、『祭』のフィナーレではナヴォーナ広場で繰り広げられる主顕祭前夜の、矢継ぎ早に入れ替わる登場人物の姿態と騒然とした雰囲気の映像的描写に成功している。

この音源は2枚組のSACDでもリリースされているが、通常盤では『松』と『祭』の間に、レスピーギがシェリーの詩のイタリア語訳をメゾ・ソプラノと弦楽合奏のために作曲した『夕暮れ』が挿入されている。

ここでもパッパーノの鋭い感性と歌物に強いサンタ・チェチーリアの巧妙さが発揮されているが、ソロを歌うクリスティン・ライスのイタリア語がいまひとつ曖昧なのが惜しまれる。

このCDの特徴のひとつは音質に優れていることで、レギュラー・フォーマット盤でもこれだけ臨場感に溢れた、しかもオーケストラの分離状態の良さを再現できることを示したEMIの意地が感じられる。

『ローマ三部作』のような大編成のオーケストラを駆使して鳴り響く大音響が求められる曲では、音量だけでなく各楽器間の独立した音色が聴き分けられることが重要なポイントだ。

録音は2007年にローマの新アウディトリウムで行われたが、2,2秒の豊かな残響も決して邪魔にならない鮮明な音質が保たれている。

このホールが建つパルコ・デッラ・ムージカはレンツォ・ピアノのプロジェクトで実現した音楽ホールや劇場施設の集合体だが、サンタ・チェチーリアはヴァチカンにある旧アウディトリウムからこちらに本拠地を移して活動を続けている。

まもなくリリースされる予定の同メンバーによるロッシーニ序曲集にも期待したい。

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classicalmusic at 22:57コメント(0)トラックバック(0)レスピーギ 

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このボックスは、EMIからすでにリリースされている音源を集めたバジェット・ボックスである。

1曲のミサ曲、5曲のレクイエム、そしてオペラ序曲集と管弦楽曲集で構成されている。

また、「フィンガルの洞窟」や「ジークフリート牧歌」など、オペラではない作品も収められている。

それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左であったと言える。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであったと言える。

また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

Sacred Music & operaというタイトルだが、オペラについては序曲、前奏曲や、管弦楽曲の抜粋があるだけで、全曲が収録されているわけではない。

しかしながら、本ボックスに収められた宗教音楽の演奏については、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。

確かに、テンポは遅い。

しかしながら、これらの宗教音楽をチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

宗教音楽では、チェリビダッケのゆっくりとしたテンポ設定が、真摯な祈りとなって昇華している。

いずれにしても、これら宗教音楽の演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。

いずれの楽曲も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

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classicalmusic at 20:54コメント(0)トラックバック(0)チェリビダッケ 

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小林研一郎は必ずしもレパートリーが広い指揮者とは言い難いが、その数少ないレパートリーの中でもチャイコフスキーの交響曲は枢要な地位を占めている。

とりわけ、交響曲第5番は十八番としており、相当数の録音を行っているところである。

エクストンレーベル(オクタヴィア)に録音したものだけでも、チェコ・フィルとの演奏(1999年)をはじめとして、日本フィルとの演奏(2004年)、本盤のアーネム・フィルとの演奏(2005年)、アーネム・フィル&日本フィルの合同演奏(2007年)の4種の録音が存在している。

小林研一郎は、同曲を得意中の得意としているだけにこれらの演奏はいずれ劣らぬ名演であり、優劣を付けることは困難を極め、どの演奏もそれぞれに思い入れがあって優劣つけがたい。

演奏という行為が一期一会の芸術だということがよくわかるところであるが、筆者としてはエクストンレーベルの記念すべきCD第1弾でもあった、チェコ・フィルとの演奏と本盤に収められたアーネム・フィルを双璧の名演に掲げたいと考えている。

小林研一郎の本演奏におけるアプローチは、熱気と理性のバランスがとれた豊穣な表現が見事であり、例によってやりたいことを全てやり尽くした自由奔放とも言うべき即興的なものだ。

同じく同曲を十八番としたムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによるやや速めの引き締まったテンポを基調する峻厳な名演とは、あらゆる意味で対極にある演奏と言えるだろう。

緩急自在のテンポ設定、思い切った強弱の変化、アッチェレランドやディミヌンドの大胆な駆使、そして時にはポルタメントを使用したり、情感を込めて思い入れたっぷりの濃厚な表情づけを行うなど、ありとあらゆる表現を駆使してドラマティックに曲想を描き出している。

それを支えているのが、コンセルトヘボウに匹敵する由緒ある伝統(1889年創立)を誇り、かつてはベイヌムもヴィオラ奏者として在籍したというアーネム・フィルの暖かい音色で、内声が充実した弦楽セクションの豊かさは特筆ものである。

感情移入の度合いがあまりにも大きいこともあって、小林研一郎の唸り声も聴こえてくるほどであるが、これだけやりたい放題の自由奔放な演奏を行っているにもかかわらず、演奏全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、まさに圧巻の驚異的な至芸とも言えるところだ。

これは、小林研一郎が同曲のスコアを完全に体得するとともに、深い理解と愛着を抱いているからに他ならない。

小林研一郎の自由奔放とも言うべき指揮にしっかりと付いていき、圧倒的な名演奏を繰り広げたアーネム・フィルにも大きな拍手を送りたい。

オランダの名門、アーネム・フィルはあまり知られていないオーケストラであるが、管楽器の音色も優しく陶酔的で、隅から隅までこの曲を手中に収めた炎のコバケンの指揮ぶりに、アーネム・フィルが新鮮な思いで触発されたのだろう。

オランダ各地での演奏会を経た上の充分なセッション録音で、存分に細部も磨かれている。

いずれにしても、本演奏は、小林研一郎のドラマティックな大熱演とアーネム・フィルによる豊穣な音色をベースとした名演奏が見事に融合した圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

なお、併録の「くるみ割り人形」組曲は、どちらかと言うと一気呵成に聴かせる直球勝負の演奏と言えるが、語り口の巧さにおいても申し分がないと言えるところであり、名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

音質は、SACD盤ということもあって、マルチチャンネルが付いているというのが、いわゆる臨場感において、群を抜いた存在と言えるだろう。

いずれにしても、小林研一郎&アーネム・フィルによる圧倒的な超名演を心行くまで満喫するためには、是非とも本SACD盤で聴かれることをおすすめしておきたい。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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