2015年08月

2015年08月15日


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録音データを見るとヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.61が1962年で、フランツ・コンヴィチュニー指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、そしてロマンス第1番ト長調Op.40が1970年、同第2番ヘ長調Op.50が1977年で、この2曲はヴァーツラフ・スメターチェク指揮、プラハ交響楽団との協演になる。

協奏曲の方ではコンヴィチュニーはオーケストラにも良く歌わせて、チェコ・フィルの持ち味を活かしていると同時に手堅くまとめているという印象だ。

スークにしても決して大曲を聴かせようという野心的な意気込みは感じられず、強烈なインパクトやスリルはないにしても、美音を駆使したどこまでも無理のない伸びやかで端麗な奏法が既に完成されている。

特に第2楽章ヴァリエーションでの様式をわきまえたカンタービレの美しさは比類ない。

ベートーヴェンがソロヴァイオリンに託した役割が超絶技巧の披露ではなく歌であることを思い知らせてくれる演奏だ。

おそらく第3楽章ではもう少し毅然とした輪郭があってもいいと思う。

尚カデンツァはスークの先輩に当たる同郷のヴァイオリニスト、ヴァーシャ・プシホダの簡潔だが情緒豊かなものが採用されている。

このCDではまたふたつのロマンスが秀逸だ。

こうした小品で聴かせるスークの巧さは他の追随を許さないものがある。

彼のような美音家は勢い耽美的な表現に陥りやすいが、充分に歌いながらも楽想をしっかり押さえて抑制を効かせた演奏には全く嫌味がなく、颯爽とした魅力を引き出している。

この2曲でもヴァイオリンが特殊な技巧を誇示するわけではないので、演奏家の音楽性が直に表れる意外に難しい小品だが、指揮者スメターチェクの隙のない巧みな采配による音楽作りがされているところも聴き逃せない。

新しくリマスタリングされた音質はどちらも良好で、当時からスプラフォンの技術水準が高かったことを証明しているが、比較するとやはり協奏曲よりロマンスの方がより鮮明で音の分離状態も良い。

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2015年08月14日


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2013年にヴェルディとワーグナーという、どちらも劇音楽の大家でありながら一方は人間の喜怒哀楽を、そして他方は神々の世界を執拗に描いた音楽史上対照的な2人の作曲家の生誕200周年記念を迎えたことで、既に複数のレーベルからオペラ全集を始めとするセット物がリリースされている。

既に60歳を越えたリッカルド・シャイーがヴェルディ・イヤーに因んでスカラ座フィルハーモニー管弦楽団を振ったこのセッションはその先鞭をつけたものだ。

様式化された番号性オペラに則って、ひたすら声を響かせることによって究極の人間ドラマをものしたヴェルディの作品では、序曲や前奏曲はあくまでも劇的な雰囲気を演出する手段であって、ライトモティーフを始めとするワーグナーの複雑な心理手法とは異なる、より視覚に訴えた劇場空間でこそ効果を発揮するものだ。

だからこのようなアンソロジーは下手にいじるより、彼の指揮のようにストレートに表現するのが理想的だ。

そのあたりはさすがにイタリアのマエストロの面目躍如で、オーケストラを人が呼吸するように歌わせながら、流れを止めない推進力と屈託のない明るい音色を極力活かしている。

リリカルなものとしては『椿姫』第1幕への前奏曲、ドラマティックな表現としては『運命の力』序曲が聴きどころだが、このCDには普段あまり聴くことのない『海賊』や『ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)』そして『イェルサレム』などからもピックアップされているところにシャイーの一工夫が見られる。

名門スカラ座フィルハーモニー管弦楽団はアバドによって1982年に正式に組織されたオーケストラだが、その母体は1778年に劇場と同時に設立された専属のミラノ・スカラ座管弦楽団としての伝統を持っていて、トスカニーニやデ・サーバタなどの指揮者による名演も数多く残している。

彼らの演奏の白眉は何と言ってもオペラやバレエを始めとする舞台芸術作品だが、アバド以来国際的なトゥルネーに出てベートーヴェンやマーラーなどのシンフォニック・レパートリーも披露している。

リッカルド・シャイーとは既に1995年のセッションでロッシーニ序曲集をやはりデッカからリリースしていて彼らの久々の協演になる。

今回のアルバムでも言えることだが、オーケストラはいくらか線の細い明るい音色を持っていて、決して重苦しくならない柔軟で解放的な響きが特徴だ。

2012年の録音で音質、臨場感共に極めて良好。

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昨年2014年はカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの生誕300周年に当たり、彼にちなんだコンサートの開催や作品集のリリースも盛んに行われた。

オランダのブリリアント・レーベルからはCD30枚のエディションも刊行されたが、このフルート・ソロと通奏低音のためのソナタ全曲集も同エディションに組み込まれた2枚をピックアップしたもので、2012年及び翌13年に収録されたヴェンツとしては久々のCDになる。

彼の若い頃の演奏はロカテッリのソナタ集に代表されるような、名技主義を前面に出したおよそ古楽とは思えないような疾走するテンポが特徴で、クイケン門下の異端児的な存在だったが、ここ数年超絶技巧は残しながらも様式に則ったよりスタイリッシュな演奏をするようになったと思う。

この曲集も流石に大バッハの次男の作品だけあって、豊かな音楽性の中にかなり高度な演奏上のテクニックが要求される。

ヴェンツを強力に支えているのがチェンバロのミハエル・ボルフステーデで、ムジカ・アド・レーヌムの長い間のパートナーとして絶妙なサポートをしている。

2枚目後半での彼のフォルテ・ピアノのダイナミズムも聴きどころのひとつだ。

今回ヴェンツの使用したトラヴェルソは最後の3曲がタッシ・モデル、それ以外はノーストの4ジョイント・モデルで、どちらもシモン・ポラックの手になるコピーだ。

ピッチはa'=400Hzの低いヴェルサイユ・ピッチを採用している。

これはそれぞれの宮廷や地方によって統一されていなかった当時の、ベルリン宮廷で好まれたピッチで、ムジカ・アド・レーヌムもこの習慣を踏襲している。

またボルフステーデは2枚目のWq131、133及び134の3曲には漸進的クレッシェンドが可能なフォルテピアノを使って、来るべき新しい表現を予感させているが、この試みは既にヒュンテラーの同曲集でも効果を上げている。

尚このソナタ集には無伴奏ソナタイ短調が入っていない。

ヴェンツは大バッハの無伴奏フルート・パルティータは既に録音済みだが、この曲もやはり非常に高い音楽性を要求されるレパートリーだけに将来に期待したい。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、27年間に亘ってプロイセンのフリードリッヒ大王の宮廷チェンバリストとして奉職したために、大王のフルート教師クヴァンツや大王自身の演奏に常に参加して彼らの影響を少なからず受ける立場にあった。

しかし作曲家としては彼の革新的な試みが不当に評価されていて、俸給はクヴァンツの年2000タラーに対して若かったとは言え彼は300タラーに甘んじなければならなかった。

当時のプロイセンでは2部屋食事付ペンションの家賃が年100タラー、下級兵士の年俸が45タラーだったので決して低い額とは言えないが、クヴァンツが如何に破格の待遇を受けていたか想像に難くない。

カール・フィリップ・エマヌエルが作曲したフルート・ソナタには他にもオブリガート・チェンバロ付のものが10曲ほど残されているが、さまざまな試みが盛り込まれた音楽的に最も充実していて深みのある曲趣を持っているのはここに収められた11曲の通奏低音付ソナタだろう。

ソロと低音の2声部で書かれたオールド・ファッションの書法で、通常チェロとチェンバロの左手が通奏低音を重ねて右手が和声補充と即興的なアレンジを施すことになるが、このCDでも彼らはそのオーソドックスなスタイルを遵守している。

最後の第11番を除いて緩急のふたつの楽章に舞曲を加えた3楽章形式で、終楽章は通常ヴァリエーションで曲を閉じている。

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リヒテルのプラハにおけるライヴからのベートーヴェンの作品集の第1巻にあたる。

ただし順不同で刊行しているために、既に第3巻の『ディアベッリ変奏曲』がリリースされていて、このCDにやや遅れて第2巻も出された。

今回はいずれも後期のソナタで、第27番ホ短調Op.90が1965年、第28番イ長調Op.101が86年、そして最後に置かれた第29番変ロ長調Op.106『ハンマークラヴィーア』が75年のそれぞれのライヴから録音されている。

これらは生前リヒテル自身からリリースの承認を受けたそれほど多くない音源で、このシリーズのベートーヴェン以外の曲目も含めて総てDSDリマスタリングを施したSACD盤のリミテッド・エディションになる

このCDを聴いての第一印象は、先ず音質の瑞々しいことだ。

ピアノの音色に特有の透明感と光沢が備わっていて、一昔前のリヒテルのライヴのイメージを完全に払拭してくれたことを評価したい。

ライヴでその本領を発揮したリヒテルを聴くためには欠かせないコレクションのひとつになるだろう。

一流どころのピアニストの中でもリヒテルは、同じ曲目を弾いてもコンサートごとに曲の解釈が大きく変化する可能性を持った人だった。

それは彼が自分のレパートリーに対して、決して固定的な観念を抱いていた訳ではなく、その都度リフレッシュさせて常に装い新たな形で演奏に臨んでいたためだと思われるが、このあたりにも彼の音楽的に柔軟な創造性が感じられる。

例えば第27番の冒頭のテンポを落とした武骨な開始は、第2楽章の慈しむような美しいカンタービレを心憎いほど活かしている。

しかしこの曲集の中での白眉は第29番『ハンマークラヴィーア』だ。

この稀有な構想を持った作品を前にして、彼は虚心坦懐に臨んでおり、それは一途でひたむきな情熱が天翔るような演奏だ。

クライマックスは第1楽章から丹念に準備され、終楽章の迸り出るような二重フーガに見事に結実している。

その壮大な旅のような音楽は、リヒテルがベートーヴェンの楽譜から読み取ったメッセージであるに違いない。

ライナー・ノーツは英、仏の2ヶ国語で11ページほどの簡易なものだが、録音データに関しては他のリヒテルのライヴ音源と違って充分信頼できるものだ。

このシリーズではこれから新音源が発見されることは期待できないが、リニューアルの形でこれまでに都合9枚がリリースされていて、今後他の曲のSACD化も期待される。

勿論SACD用のプレーヤーで鑑賞するのが理想的だが、ハイブリッド仕様なので互換機がなくても再生可能。

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2015年08月13日


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リヒャルト・シュトラウス、ワーグナーに続くプラガのフルトヴェングラーSACDシリーズ第3集は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番変ホ長調『皇帝』及び交響曲第5番ハ短調『運命』の2曲である。

前者がエドヴィン・フィッシャーのソロ、フィルハーモニア管弦楽団による1951年ロンドンEMIスタジオでの収録、後者がウィーン・フィルとの54年ウィーン・ムジークフェラインにおけるいずれもセッション録音になる。

初めてのSACD化ではないが、妥当な価格のハイブリッド盤でどれだけの音響が再生されるか興味があったので聴いてみることにした。

ジュエル・ケース裏面にHMVのLPからのリマスタリングと表記されているが、板起こし特有のスクラッチ・ノイズは一切聞こえない。

レコーディング技術に疎い筆者にはレーザーで読み取らせたものなのか、あるいはノイズが処理されているのか分からないが、かなり鮮明な音質が得られていることは確かで、また全く破綻がないのも古い音源の鑑賞にとっては好都合だ。

音場の拡がりから元になったLPが擬似ステレオ盤だったことが想像されるが、SACD化によって平面的な音響が回避され、いくらか奥行きも感じられるようになっている。

前回のワーグナーの音質がやや期待外れだったが、今回はかなり肯定的な印象を持つことができた。

それぞれの演奏については既に語り尽くされた名盤なので今更云々するつもりもないが、『皇帝』ではエドヴィン・フィッシャーのピアノの響きにクリスタリックな透明感が加わって演奏にそれほど古臭さを感じさせない。

確かに両者のテンポはかなり流動的で、部分的に聴くと大時代的ロマンティシズムのように思えるが、全体を通して鑑賞するのであれば彼らの音楽の普遍的な価値を見出せるだろう。

『運命』に関しては10種類以上の異なった演奏が存在するが、このウィーン・フィルとのセッションは、彼としては比較的冷静でテンポの変化もそれほど目立たない。

しかし音楽設計はさすがに見事で、テーマやモチーフの有機的な繋がりやその再現、楽章ごとの対比と全楽章を結束させる大詰めへの手腕は鮮やかだ。

派手なアピールはないが晩年のフルトヴェングラーの解釈を示した重厚なベートーヴェンと言える。

音質的には弦楽器群の音色が瑞々しく、時折聞こえる生々しい擦弦音も臨場感を高めている。

英、仏語による11ページの簡易なライナー・ノーツ付。

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ショルティのワーグナー・オペラ総集編が、廉価BOXで再発される運びになったことをまずは大いに歓迎したい。

《さまよえるオランダ人》は、シカゴ交響楽団の音の豊麗な威力と、一糸乱れぬアンサンブルが実に壮観で、ショルティの意図が100%体現されて余すところがない。

こうした完全な管理システムのもとに統御されたシカゴの強靭な音は、あるいは「オランダ人」のまだいくぶん平板な音楽にはかえって適しているのかもしれない。

歌手たちはとくにとび抜けた魅力はないがまずまずの出来である。

《タンホイザー》はパリ版による全曲録音で、序曲の途中から豊麗なバッカナールに流れ込む形をとっている。

このことにより、初めてヴェーヌスは類型的な異教的官能の女神としてではなく、純愛の象徴エリーザベトのアンチテーゼとしての劇的実体が得られた。

タンホイザーを歌うコロが初々しいのをはじめ、主役2人の女声がともに魅力的であり、ショルティの指揮もこれ以前の「指環」全曲よりもふくらみを持っている。

《ローエングリン》は、あらゆる点に周到な目配りと配慮の行き届いた表現で、音楽とドラマのデリケートな色調や陰影や情感の明暗を表出し、以前のショルティのようなゴリ押しはなく、音楽は自然に、豊かに流れ出ていく。

主役2人にドミンゴとノーマンを選んでいるのも素晴らしく、その声の豊麗さと肉感的なほどの美しさはとび抜けている。

もちろん、ワーグナー独特の朗唱法をきちんと守りながら、見事な歌唱を聴かせている。

《トリスタンとイゾルデ》は、1960年当時のショルティの、鋭角的な音作りと猪突猛進的な音楽運びが、残念ながら「トリスタン」の壮大な官能の世界を描ききるほどには成熟していなかった。

しかし合奏力の精緻さや音楽の推進力に不足はなく、和声的というより、あまりに構築的な演奏といえよう。

歌手陣は、ニルソン、ウールをはじめとして高水準の歌唱を展開している。

《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は、このオペラの成否を決める重要な2つの要素である、明快さとふくよかさを併せ持った演奏だ。

ヴァルターを歌うコロが、若々しく伸びの良い声で力演、ベックメッサーのヴァイクルも、甘美な声と確かな技巧で聴かせ、またハンス・ザックスのベイリーが、淡々としているが必要なものは過不足なく備えた好演だ。

そしてウィーン・フィルの味わい深い演奏が、このオペラに豊かな肉付けをしていることを忘れてはならない。

《ニーベルングの指環》は、1958〜65年にかけて録音された壮大な全集。

ショルティの指揮は、一言でいうと明快強靭なダイナミズムやスリリングな緊張に貫かれており、実に活気に溢れたデュナーミクと、清潔で的確な表現によって、ワーグナーの音楽を生き生きと歌い上げている。

音楽の豊麗さという点でも傑出しており、ここにはショルティの力ずくのダイナミズムや直截さだけでなく、ふくよかなロマンティシズムやたくましい流麗さ、そして壮大な詩とドラマがある。

その精緻で雄弁な音の繰り広げられる壮大なドラマのおもしろさと感動はまったく底知れないものだ。

キャストの面では、全作を通じて同一の歌手で歌われていない配役があるなど、統一感のうえではやや弱い点もあるが、そうした面を越えて不朽の名演であることに変わりはない。

とりわけ、第2次大戦後の最もすぐれたワーグナー歌いの名手がズラリと並んださまは壮観というほかない。

《パルジファル》におけるショルティは、自信に満ちた態度でテンポを悠然と運び、豊かできびしい音の流れを作りだしており、ウィーン・フィルも、他に類がないほど豊麗で、しかも清純な美しい響きを聴かせている。

それに加えて練達の歌手たちが素晴らしく、威厳に満ちたホッター、明晰な歌を聴かせるフリック、そして敬虔さ、妖艶さともに最高の名唱ルートヴィヒなど、まさに最上のキャスティングといえるだろう。

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アバドお気に入りのルツェルン祝祭管弦楽団やモーツァルト管弦楽団のメンバーも兼任するソリストたちとの愉悦に満ちた、現代最高と評されるモーツァルト演奏である。

本盤に収められたアバド&モーツァルト管弦楽団のメンバーによるクラリネット協奏曲、ファゴット協奏曲、フルート協奏曲第2番は、第1弾のホルン協奏曲全集、第2弾の協奏交響曲、フルートとハープのための協奏曲に続くモーツァルトの管楽器のための協奏曲集の第3弾である。

アバドは、今般の管楽器のための協奏曲集の録音開始以前にも、若手の才能ある音楽家で構成されているモーツァルト管弦楽団とともに、モーツァルトの主要な交響曲集やヴァイオリン協奏曲全集などの録音を行っており、お互いに気心の知れた関係であるとも言える。

それだけに、本演奏においても息の合った名コンビぶりを如何なく発揮していると言えるところであり、名演であった第1弾や第2弾に優るとも劣らない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

3曲とも速めのテンポでのびのびとした爽快な演奏で、アバドとモーツァルト管弦楽団のメンバーがモーツァルトの名曲を演奏する喜びが伝わってくる。

本演奏でソロをつとめたのは、いずれもモーツァルト管弦楽団の首席奏者をつとめるなど、アバドの芸風を最も理解している気鋭の若手奏者であり、アバドとともにこれらの協奏曲を演奏するには申し分のない逸材である。

クラリネットのアレッサンドロ・カルボナーレ、ファゴットのギヨーム・サンタナ、 フルートのジャック・ズーンは、来日公演や指導を重ね、木管好きの人々や、若い音楽学生にはおなじみの面々で、妙な癖も強い灰汁もなく、技術的には折り紙付きだ。

いずれの演奏も、卓越した技量をベースとしつつ、アバドによる薫陶の成果も多分にあると思われるところであるが、あたかも南国イタリアを思わせるような明朗で解放感に溢れたナチュラルな音色が持ち味である。

そして、その表現は意外にも濃密で、歌謡性豊かでロマンティシズムの香りさえ漂っているところであり、いわゆる古楽器奏法を旨とする演奏としては異例と思われるほどの豊かな情感に満ち溢れていると言っても過言ではあるまい。

また、アバドの指揮についても指摘しておかなければならないだろう。

アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督の退任間近に大病を患い、その大病を克服した後は彫りの深い凄みのある表現をするようになり、晩年は現代を代表する大指揮者であったと言えるが、気心の知れたモーツァルト管弦楽団を指揮する時は、若き才能のある各奏者を慈しむような滋味豊かな指揮に徹している。

本演奏でも、かかるアバドによる滋味豊かな指揮ぶりは健在であり、これらの気鋭の各若手奏者の演奏をしっかりと下支えするとともに、演奏全体に適度の潤いと温もり、そして清新さを付加するのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

これらの演奏には、自分よりずっと若い演奏家たちと音楽を楽しむアバドの晩年の心境が伝わってくる。

筆者が最も感銘を受けたのはクラリネット協奏曲で、晩年のアバドの一連のモーツァルト録音で、一際印象的なものに思える。

第1,3楽章は、速めのテンポで一切の感傷と無縁、むしろ急ぎ過ぎるのではと思える程に音楽が流れて行き、時折現れる劇的な部分も作為的な強調が全くなく、すべてが心からの明るい日差しの中に解決して行く。

しかしながら、おそらくこの世で一番、何らかの思惑から解き放たれた音楽は、故吉田秀和氏が「あまりにも美しく明るい故に、その背後にある悲しみを感じさせないではいられない」という言葉を実感させる、本当に数少ない瞬間にまで自分たちを連れて行く。

ことに第3楽章の天上を走っているとしか思えない音楽は、それが故に知らず知らず抑えきれないものがこみ上がってくる。

そして第2楽章のアダージョは、誰が演奏しても美しいけれど、ここに聴かれる程に(決してもたれたり感傷的でないのに)生との別れ、を実感させることは稀ではないだろうか。

これは、ソリスト、オーケストラ、指揮者が結び合った名演であり、他の2曲も、最上の美しさを湛えており、あまり目立たないけれど、心からお薦め出来る盤ではないかと思われる。

音質も、特にSHM−CD仕様などが施されているわけではないが、十分に満足できる鮮明な高音質であると高く評価したい。

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2015年08月12日


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本盤は、「音譚詩」とも称され深遠な難曲であるショパンのバラードを中心に据えた、河村尚子のショパン作品への強い親和性を継承する作品であるが、途轍もなく素晴らしい超名演だ。

超名演の前に超をいくつかつけてもいいのかもしれない。

さらに成長を重ね、深まりを見せる河村尚子の現在の音楽性を投影した3枚目のアルバムということであるが、録音に慎重な彼女であればこその久々のアルバムの登場であり、まさに満を持してと言った言葉が見事に当てはまると言っても過言ではあるまい。

本盤には、ショパンの傑作であるバラード全集、リストの編曲集が収められているが、出来不出来に差はなく、いずれ劣らぬ至高の超名演に仕上がっていると高く評価したい。

河村尚子は、既にデビューアルバムでショパンの夜想曲集を録音しているが、本盤のバラード全集の演奏においては、更にその芸風が深化していると言えるだろう。

何よりも、河村尚子のピアノタッチが実に美しい。

1つ1つの音が宝石のように煌めいているとも言えるところであり、それは女流ピアニストならではの美質とも言えるが、河村尚子の場合には一部の女流ピアニストにありがちな線の細さは微塵も感じさせず、一本の芯が通ったような力強さを感じさせるのが素晴らしい。

もっとも、いわゆる武骨さとは無縁であり、どこをとっても格調の高い優美さを失わないのが河村尚子のピアニズムの偉大さと言えるだろう。

バラードの演奏に必要不可欠な文字通り「音」で物語を「語る」ストーリーテリングの技量も確かであり、とかく旋律の美しさに傾斜した焦点の甘い演奏とは一線を画しているのも本演奏の大きな強みである。

また、心の込め方にも尋常ならざるものがあると思うが、陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても前述のような格調の高さを失うことなく、演奏全体が常に高踏的な美しさに貫かれているのが見事であると言えるところだ。

このような素晴らしい超名演を聴いていると、河村尚子にはバラードや前作のピアノ・ソナタ第3番のみならず、他のショパンのピアノ作品の演奏を聴きたいと思う聴き手は筆者だけではあるまい。

他方、リストが編曲したショパン、シューベルト、ワーグナー諸曲も素晴らしい名演だ。

リストのピアノ曲の演奏はなかなかに難しく、卓越したテクニックと楽曲の持つファンタジーの飛翔のようなものをいかに的確に表現するのかが問われている。

そして、リストが編曲した作品は、更に演奏のハードルが高い難曲と言えるが、河村尚子は、持ち前の卓越した表現力を駆使して、各作品の持つファンタジックな要素を含有するとともに、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを湛えた見事な名演奏を展開していると評価したい。

いずれも演奏されること自体が珍しい作品であるが、ここでも河村尚子は、格調の高さを有した見事な名演を成し遂げている。

そして、何と言っても素晴らしいのはSACDによる極上の高音質録音である。

カラヤン&ベルリン・フィルの録音で馴染み深く、しかもその優れた音響で知られるベルリン・イエス・キリスト教会の豊かな残響を活かした録音は素晴らしいという他はない。

そして、河村尚子のピアノタッチが鮮明に再現されるのはSACDの潜在能力の高さの証左と言えるところであり、本名演の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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アバドによるマーラーの交響曲第2番と言えば、いの一番にルツェルン祝祭管弦楽団との超名演(2003年ライヴ)が思い浮かぶ。

当該演奏は、大病を克服したアバドならではの深みと凄みを増した指揮とアバドと深い関係にあるルツェルン祝祭管弦楽団が、ともに音楽を創造していくことの楽しみを共有し合いつつ渾身の力を発揮した稀有の超名演に仕上がっていた。

したがって、このルツェルン盤の存在があまりにも大きいために、そしてウィーン・フィルとのライヴ録音(1992年)も存在しているため、更に約20年も前のスタジオ録音である本盤の演奏の影はいささか薄いと言わざるを得ないが、筆者としては、若き日のアバドならではの独特の魅力がある素晴らしい名演と高く評価したい。

本演奏におけるアバドのエネルギッシュな指揮ぶりは実に凄まじい。

とりわけ第1楽章や終楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っていると言えるところであり、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後、借りてきた猫のように大人しくなってしまったアバドとは別人のような力強い生命力に満ち溢れた熱い指揮ぶりである(アバドは芸術監督退任間近に胃がんにかかるが、胃がん克服後は、彫りの深い名演を成し遂げるようになったことを忘れてはならない。)。

それでいて、とりわけ第2楽章や第3楽章などにおいて顕著であるが、アバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある。

終楽章の終結部の壮麗さも、雄渾なスケールと圧巻の迫力に満ち溢れており、圧倒的な感動のうちに全曲を締めくくっている。

シカゴ交響楽団も持ち前の超絶的な技量を如何なく発揮しており、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

また、キャロル・ネブレットとマリリン・ホーンによる独唱、そしてシカゴ交響合唱団による壮麗な合唱も最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

他方、マーラーの交響曲第4番は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうちの最初のもの(スタジオ録音)に該当する。

2度目の録音は、本演奏の約30年後にベルリン・フィルを指揮したライヴ録音(2005年)であり、それはベルリン・フィルの卓越した技量と、大病を克服したことによって音楽に深みと凄みを増したアバドによる彫りの深い表現、そしてルネ・フレミングによる名唱も相俟って、至高の超名演に仕上がっていたと言える。

したがって、ベルリン・フィル盤が燦然と輝いているために本演奏の旗色は若干悪いと言わざるを得ないが、それでも、本盤には若き日のアバドならではの独特の魅力があり、名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではないと考える。

交響曲第4番は、他の重厚長大な交響曲とは異なり、オーケストラの編成も小さく、むしろ軽妙な美しさが際立った作品であるが、このような作品になるとアバドの歌謡性豊かな指揮は、俄然その実力を発揮することになる。

本演奏は、どこをとっても歌心に満ち溢れた柔和な美しさに満ち溢れており、汲めども尽きぬ流麗で、なおかつ淀みのない情感の豊かさには抗し難い魅力がある。

それでいて、ここぞという時の力奏には気迫と強靭な生命力が漲っており、この当時のアバドならではのいい意味での剛柔バランスのとれた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。

オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、アバドの歌謡性の豊かな演奏に、更なる潤いと温もりを与えている点を忘れてはならない。

ゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンソロも極上の美しさを誇っており、終楽章におけるフレデリカ・フォン・シュターデによる独唱も、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2013年夏のルツェルン音楽祭で撮影された、アバドが亡くなる数ヶ月前の貴重な映像である。

さすがに指揮台に登場する彼の姿はやつれて痛々しいものがあるが、派手なジェスチャーのないゆるやかなタクトから生み出される音楽は驚くほど瑞々しく流麗で、オーケストラの自主性を尊重しながらも幅広いダイナミズムを駆使した、全くツボを外さない的確な指示が見どころだ。

プログラムの第1曲目はブラームスの『悲劇的序曲』で、音楽的なバランスが絶妙にとれた抒情性が特筆される。

2曲目はアバドが得意とする歌が入ったシェーンベルクの『グレの歌』から間奏曲と「山鳩の歌」で、彼がオーケストラから導き出すカンタービレが極めて美しく、「山鳩の歌」に入るとメゾ・ソプラノ藤村実穂子の堅実で真摯な歌唱が、この作品の緊張感を緩めることなくクライマックスへと向かう。

その高まりへの持続は図らずも死の告知で、余命いくばくも残されていなかったアバドの姿がオーバーラップして印象的だ。

最後に置かれたベートーヴェンの『英雄』にしても、これは彼の若い頃からのポリシーだろうが、スコアを忠実に追いながら重厚でもなければ構築的でもない、音響としての美しさと迸り出るような自然発生的な音楽美学が冴え渡っていて、それはここに収録された他の2曲にも共通している。

音楽を鑑賞するものに常に喜びを与えてくれた指揮者がまた一人去ってしまったことへの追悼と、アバドへの感謝の気持ちを改めて表したい。

ルツェルン祝祭管弦楽団はアバドが芸術監督に就任して以来、主要ポストに彼と親しかった奏者を置いて流動的なメンバーの編成と音楽的な高い水準を保っているが、この映像でもフルートのジャック・ズーンやクラリネットのザビーネ・マイヤーの姿が見られる。

演奏会当日のカラー写真入りの15ページほどのライナー・ノーツが付いていて、彼のルツェルンでのラスト・オープニング・コンサートについてのコメントが英、独、仏語で掲載され、オーケストラ全員の編成リストが明記されている。

またシェーンベルクに関しては歌詞対訳は付いていないが、サブ・タイトルに日本語が選択できるのは親切な配慮だ。

尚このコンサートの映像はブルーレイ・ヴァージョンでもリリースされている。

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2015年08月11日


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今から半世紀以上も前の音源なので初CD化された時にはシェリングのヴァイオリンの貧弱な音質に不満が残ったが、今回ソニー・クラシカル・オリジナルスの1枚として新しいマスタリングが施されて、音質に艶やかな広がりとスケール感が加わり、それまでの精緻だがこじんまりとした演奏のイメージが払拭され、本来あるべき音響空間に改善されたことを評価したい。

ケース裏面には22UV SUPER CDの表示があり、マスタリングのテクニックに疎い筆者には技術的な説明をする能力がないのだが、耳に聴こえてくる音質は明らかに違う。

平たく言えばSACDに一歩近付いたという印象がある。

一方彼らの演奏の質の高さでは当時から言い尽くされているとおりだ。

シェリングは巨匠ルービンシュタインの胸を借りる立場だっただろうし、実際このデュエットの主導権を握っているのはルービンシュタインの方だが、シェリングの極めて柔軟な、しかも絶妙なコントロールを効かせたボウイングは模範的だ。

この2人の演奏にはアンサンブルの喜びとともに厳格なまでの合わせ技が感じられ、その中に音楽的な洗練を極めたベートーヴェンが聴こえてくる。

例えば大曲『クロイツェル』では決してあでやかな演奏ではないにしても、内部から彼らの音楽性が湧き上がってくるような明快さと強い説得力がある。

ルービンシュタインはこの頃既に新即物主義的なスタイルを示していて、名人芸を前面に出すような伴奏はしていないが、それがここでは功を奏している。

確かにこの作品はどちらにとっても高度なテクニックを要求される難曲には違いないが、それはヴァイオリンとピアノの対決ではなく、あくまでも2つの楽器の協調性から生まれる、隙のない彫琢されたアンサンブルの究極の姿である筈だ。

ソナタ第5番『春』の第3楽章のシンコペーションを活かしたとびっきり快活でリズミカルな表現や、第8番終楽章の無窮動的な躍動感などは、彼らが如何に音楽の基本をわきまえているかの証明だろう。

ルービンシュタインはメキシコの大学でヴァイオリン教師をしていた同郷のシェリングを再び楽壇に復帰させることを強く望み、またそのための援助を惜しまなかった。

その後のシェリングのキャリアを見れば、巨匠の目に狂いはなかったわけだが、そのきっかけとなったのはルービンシュタインが彼の弾くバッハの『無伴奏』を聴いた時だったようだ。

シェリングはその後イングリット・ヘブラーとベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集を完成させているが、より引き締まった楽想を練り上げているルービンシュタインとのセッションが、この選集のみに終わってしまったのは如何にも残念だ。

尚第9番『クロイツェル』及び第5番『春』が1958年、第8番が61年の録音で、カバー・ジャケットは初出時LPのオリジナル・デザインを採用している。

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classicalmusic at 22:36コメント(0)トラックバック(0)シェリングルービンシュタイン 

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アバドによるマーラーの交響曲第3番には、ウィーン・フィルとのスタジオ録音(1980年)もあり、それは若き日のアバドならではの魅力のある素晴らしい名演と今でも高く評価したい。

しかしながら、1999年ベルリン・フィルとのロンドン公演に於けるライヴ録音が、旧盤と比べてもより緻密で精巧に仕上がっていると言えるところであり、筆者としては、新盤の方を至高の超名演として更なる上位に置きたい。

それどころか、バーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1987年ライヴ録音)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1986年ライヴ録音)などと並んで、数ある同曲の録音の中でも最高の名盤と絶賛したい。

本演奏は、アバドが大病にかかる直前のベルリン・フィルとの演奏であるが、アバドも、そしてベルリン・フィルもともに渾身の力を発揮した圧倒的な超名演に仕上がっている。

アバドによるベルリン・フィルの様々な改革の成果がはっきりと出てきた頃の充実ぶりを実感できる、新たな境地に到達した演奏と言えるだろう。

ライヴ録音ということもあって、アバドの、そしてベルリン・フィルのコンディションもかなり良かったのではないかとも思われる。

ベルリン・フィルとの他のマーラー録音もそうであったが、「第3」においても、アバドのエネルギッシュな指揮ぶりは実に凄まじい。

大胆でダイナミックな表現の演奏で、ライヴゆえのオーヴァー・アクションもあるだろうが、そうしたうわべだけに終わらず見通しの良いガッシリとした構成力やオケの性能の高さは一目瞭然であり、品のいいマーラーだ。

とりわけ、第1楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っている。

また、第2楽章以降におけるアバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある。

このアバド&ベルリン・フィルの演奏には温かみがあり、ウィーン・フィルとの演奏とは違う柔らかみのある響きが特徴で、約20年を経てアバドが余裕でオーケストラをコントロールしている様子が窺える。

もっとも、全体にバランスを重視するあまりピアニッシモがいささか弱過ぎるきらいがあるが、壮麗な美しさは非常に魅力的であり、第1楽章や終楽章終結部で強靭な迫力が漲っているところなど、旧盤を遥かに凌駕している。

そして何よりも特筆すべきはベルリン・フィルによる極上の美しい音色であり、弦も管も音色が美しく透明感があり、アンサンブルも見事。

とりわけ第1楽章におけるジャーマン・ホルンやトロンボーンソロの朗々たる響きや、第1楽章及び第4楽章におけるヴァイオリンソロ、そして第3楽章におけるポストホルンソロは圧巻の美しさを誇っており、本名演に大きく貢献している点を忘れてはならない。

全編を通じて柔らかい小春日和を思わせる、こけおどしのマーラーとは真反対の正統派マーラーと言えよう。

若き日のアンナ・ラーションによる歌唱も、本名演に華を添えていると評価したい。

ロンドン交響合唱団やバーミンガム市交響ユース合唱団も最高のパフォーマンスを発揮している。

録音については、従来盤では全体としてやや雲がかかったような雰囲気とやや音圧レベルが低くマイクが遠い感じがあり、録音が楽器の微細なニュアンスを拾いきれていないようなもどかしさがあった。

しかしながら、今般、SHM−CD化による高音質化が図られたというのは、本演奏の価値を高めることに貢献しており、大いに歓迎したいと考える。

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このCDの音源はリヒテル・アメリカ・デビュー盤のひとつとしてLP時代から評価の高いものだった。

過去にはラインスドルフ&シカゴ響とリヒテルの爆演のように言われたこともあるが、良く聴いてみるとシカゴ響はラインスドルフによって非常に良くコントロールされていて、力強いが野放図な音を出しているわけではなく、リヒテルも決して力に任せて対決するような姿勢ではない。

そこには極めてスケールの大きい音楽的な構想を持ったピアニズムが展開されていて、両者の張り詰めた緊張感の中に溢れるほどのリリシズムを湛えた演奏が感動的だ。

またリヒテル壮年期の水も漏らさぬテクニックの冴えもさることながら、第3楽章を頂点として随所にあらわれる抒情の美しさが如何にもリヒテルらしい。

一方ここにカップリングされたベートーヴェンのピアノ・ソナタ『熱情』は同年にニューヨークのカーネギー・ホールで録音されたもので、当初はもう1曲の『葬送』と共にリリースされた。

この2曲のソナタは2004年にXRCD化もされているが、リヒテルの凄まじい集中力と緊張感の持続が恐ろしいほど伝わってくる。

彼自身はこの演奏を嫌って失敗作のように言っていたが、音楽的な造形からも、またその表現力の幅広さと強烈なダイナミズムからもベートーヴェンに相応しい曲作りで、本人ならともかく、あらを探すような次元の演奏ではないと思う。

1960年にリヒテルはアメリカにおいて一連のセッション及びライヴから当地でのファースト・レコーディングを行っているが、このCDに収められている2曲もその時の音源で、リヴィング・ステレオの良質なマスターが今回のDSDリマスタリングによって更に洗練された音質で蘇っている。

ソニー・クラシカル・オリジナルスは古い音源を最新の技術でリマスターして、それまでのCDとは異なった音響体験を提案している興味深いシリーズだが、何故か音源によってリマスタリングの方法が違う。

このCDではSACD用のDSD方式が採用されているが、同シリーズの総てのCDと同様レギュラーのCDに収めてあり、ミドル・プライスで提供しているのがメリットだ。

音質は鮮明で協奏曲ではシカゴ・オーケストラ・ホールの音響空間もよく再現されている。

またピアノも潤いのある自然で艶やかな音色が特徴で、オーケストラとのバランスも理想的だ。

尚ライナー・ノーツは10ページほどでLP初出時のオリジナルの解説が英、独、仏語で掲載されている。

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2015年08月10日


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プラガ・ディジタルスでは初登場のフルトヴェングラーの第2集はワーグナーの劇場作品からのオーケストラル・ワーク集で、前回と同様ウィーン・フィルを振ったHMV音源からのSACD化になる。

第1集のリヒャルト・シュトラウス作品集が思いのほか良かったので今回も期待したが、音質的にはいくらか劣っていることは否めない。

その理由はマスター・テープの経年劣化で、さすがに1940年代のものはヒス・ノイズも少なからず聞こえるが、広めの空間で再生するのであればそれほど煩わしくはない。

むしろこの時代の録音としては良好で、LPで聴いていた時より音場の広がりと奥行きが加わり、モノラルながらしっかりした音像が得られているのはひとつの成果だろう。

またレギュラー・フォーマットのCDでは、こうした古い音源は往々にして痩せて乾涸びた響きになりがちだが、このSACDではある程度の潤いと光沢も蘇生している。

収録曲のデータを見ると『さまよえるオランダ人』序曲(1949年)、『ローエングリン』第1幕への前奏曲(54年)、『タンホイザー』序曲(52年)、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲及び「徒弟たちの踊り」(49年)、『ワルキューレ』より「ワルキューレの騎行」(54年)、『神々の黄昏』より「ジークフリートのライン騎行」及び「ジークフリートの葬送の音楽」(54年)となっているので、「ワルキューレの騎行」に関しては同じメンバーによる旧録音ではなく、全曲盤からピックアップされたものと思われるが、残念ながら『トリスタン』が選曲から漏れている。

フルトヴェングラーはこの時期ウィーン・フィルの実質上の首席指揮者だったこともあり、彼らとのコンサートや録音活動を集中的に行っていてオーケストラも彼の要求に良く呼応している。

フルトヴェングラーは幸いワーグナーの楽劇のいくつかを全曲録音しているので、彼の音楽的な構想を理解するには全曲を通して鑑賞することが理想的だが、こうした部分的な管弦楽曲集でも充分にその片鱗が窺える。

例えば『オランダ人』序曲の冒頭はたいがい嵐の海の情景描写に終始してしまうが、彼のように神の怒りに触れた者の絶望感を表現し得た指揮者は数少ない。

『タンホイザー』で繰り返される巡礼のコーラスのテーマでは、筆者はかつて何故この旋律をカラヤンのようにもっとレガートに演奏しないのか疑問に思ったことがあった。

しかし後になってそれが赦されることのない罪を背負った巡礼者タンホイザーの喘ぎであり、途切れがちな息遣いと足取りを表していることに気付いて愕然とした思い出がある。

一方『マイスタージンガー』の意気揚々とした幸福感に満ちた前奏曲はこの作品の喜劇性とその晴れやかな終幕を予告しているかのようだ。

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classicalmusic at 22:45コメント(0)トラックバック(0)ワーグナーフルトヴェングラー 

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古今東西の名指揮者の中で、誰が最もモーツァルティアンかときかれた時、筆者はためらわずに最初にカラヤンに指を屈するであろう。

特に1960年代以降の円熟したカラヤンに。

1つにはカラヤンの天性が、モーツァルトの“歌”を歌うことができることである。

指揮者のタイプの中には、リズムに秀でた人、バランス感覚にすぐれた人、統率力のある人、個性的な音楽を作る人など、いろいろの特徴があるわけであるが(もちろんそれらを集成したのが大指揮者なのだが)モーツァルト演奏する場合は、特にこの作曲家の、こんこんと湧いて尽きぬ歌の泉とその千変万化の流れとを、直感的に本能的に捉えられる指揮者でないと、モーツァルトの美しさのエッセンシャルな部分を表現できないことになってしまう。

モーツァルトの音楽を精妙に造型する指揮者がいても、それだけではもうひとつ足りないのである。

ほとんどドミソでできたようなテーマでも、モーツァルトの場合は、不思議なことには“歌”なのだから。

その意味では現在に至るまで、カラヤンの右に出る指揮者はいないであろう。

さらには(当然のことだが)カラヤンはモーツァルトを良く研究し、正確に把握している。

その一例は、彼の後期シンフォニーの録音に際して、かなり大きな編成のオーケストラを使ったということである。

その理由は、彼自身の言葉によれば、「モーツァルトはいつでも60人、70人という当時としては大きなオーケストラの響きが好きだった、ということが手紙を読めばわかる」というのである。

事実その通り、モーツァルトはパリやウィーンの大きなオーケストラの響きを好んでいた。

カラヤン&ベルリン・フィルは、スケール大きな堂々たる演奏で、独自の自己主張を表した表情がときに牛刀をもって鶏を割く感も与えるが、いっぽうで磨き上げた音彩と柔らかいニュアンスが特色と言える。

ここに収められた9曲では、特に第32、33番が端麗な美感で聴き手を説得する。

また第29番は輪郭をぼかしたような響きとレガートの用法がカラヤン風であり、彼が独自のモーツァルト観を持っていたことを示している。

有名なト短調シンフォニー(K.550)は、どこでいつ演奏されたのか(あるいは何のために書いたのか)もわからない3曲の1つであるが、この曲には2つの版があり、あとの版ではクラリネットを加えて木管の響きを変えると同時に音を厚くしている。

その理由はいくつか推測できるとして、その中には、モーツァルトが大きな弦編成を考えていたということも挙げられよう。

この曲をひどく感傷的な理由で、原形のまま演奏することも行われるようだが、モーツァルトが自分の意志でわざわざ改作したものを、ことさらに原形に演奏するのは愚かなことではあるまいか。

カラヤンは? カラヤンはもちろんクラリネットを入れた形で演奏している。

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classicalmusic at 20:49コメント(0)トラックバック(0)モーツァルトカラヤン 

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このDVDは以前レーザー・ディスクでリリースされた1988年の東京カザルス・ホールでのライヴ映像で、バッハの『無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調』、カサドの『無伴奏組曲』そしてコダーイの『無伴奏ソナタ』の3曲を収録している。

シュタルケルはこの時64歳だったが、その演奏はかくしゃくとして剛毅で正確無比、また一方で高度な遊び心をもみせる余裕に驚かされる。

演奏中、目は殆んど半眼に閉じて楽器も指も見ていないし、顔も無表情に近く、あたかも無我の境地にあるかのようだが、そこに燃えるような集中力が宿っていて、一人の芸術家が到達した峻厳の高みを垣間見る思いがする。

これらの作品にはチェロのあらゆるテクニックが使われていて、素人目に見ても弦を左手の親指で押さえたり、複雑な運弓など技術的な完璧さが求められることが理解できるが、総ての曲が無伴奏であるために、音楽の内側へと凝縮していく彼の凄まじいばかりの精神力を感じずにはいられない。

シュタルケルはバッハの『無伴奏チェロ組曲』全曲を生涯に4回ほど録音していて、このライヴの4年後に彼の最後の全曲録音を行っている。

勿論その度ごとに彼の解釈も変化しているので、この曲集に託したシュタルケル自身の研鑽が生涯を通して続けられたと言えるだろう。

バロック音楽にも造詣の深い彼が、それぞれの舞曲に洗練された表現を聴かせてくれるが、決して恣意的にならないところにもバッハへの確固たるポリシーが貫かれている。

3曲目はハンガリー出身の彼が、コダーイ自身から薫陶を受けた秘曲だけに独壇場の凄みと迫力を持っている。

確かにマジャール人としての誇りを持つ真に迫った演奏には違いないが、この作品もカサドの組曲も彼によって民族性を超越した普遍的な価値を持つ音楽に昇華されているところに意義があるのではないだろうか。

このコンサートが催されたカザルス・ホールは1987年にオープンした日本でも本格的な室内楽専用のコンサート・ホールで、ユルゲン・アーレントによって製作されたバロック・オルガンは世界に誇るべき楽器であるにも拘らず、2010年4月以降会場は閉鎖されて宝の持ち腐れになっている。

カザルス夫人の意志を継いだ命名だけに文化大国日本の名誉に賭けてもコンサートの再開に向けての努力が望まれる。

尚DVDはパルナッススからのリイシューになり、ライナー・ノーツもなければ録音データにも乏しいところがアメリカのレーベルらしいが、リージョン・フリーでこのライヴが復活したことは評価したい。

画像に若干の揺れが見られるが概ね良好で音質も鮮明だ。

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2015年08月09日


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チェコ・フィルを振ったドヴォルザークの交響曲第8番が1969年、ルツェルン祝祭管弦楽団とのブラームスの交響曲第1番が1962年のそれぞれルツェルン音楽祭でのライヴ録音で、どちらもオリジナル・テープからのリマスタリングによる良好な音質が再現されている。

前者は楽章の切れ目ごとの聴衆の雑音や演奏終了後の歓声が入っていなければセッションと思えるほどの完璧さと、演奏中一音も聴き逃すまいとする会場に水を打ったような静けさが印象的だ。

オン・マイクで採音されているために音響がややデッドだが、それだけに細部も明瞭に聴き取ることができる。

一方後者は擬似ステレオで音場がいくらか狭く、音像も多少平面的だが当時のライヴとしては決して悪い音質ではない。

2曲ともセルの非常に厳格な指揮法によってオーケストラが統率されているが、そこから熱く迸るような音楽が流出している。

ドヴォルザークでは一音符たりとも疎かにしない誠実さと、アンサンブルの徹底した合わせの上に築いていくセルの潔癖とも言える音楽作りにチェコ・フィルがその機動力を駆使して演奏に臨んでいるのがひしひしと伝わってくる。

第2楽章ではセル一流の筋を通した抒情と牧歌的な幻想が美しく、ここではブルーノ・ベルチクのソロ・ヴァイオリンも雰囲気を盛り上げている。

終楽章の変奏でのバランスを保ちながら金管楽器を際立たせる手法は模範的で、テンポを巧みに動かして息もつかせずたたみかけるフィナーレに、応える会場のどよめきが一層感動的だ。

ブラームスに関してはこれだけ激情的な解釈もあったかと思えるほど張り詰めた緊張感と鋭い感性が漲った演奏で、第4楽章のテーマに入る前に思い切ってホルンを咆哮させている。

この部分は例えて言うならば、ベームの演奏では雲間から差し込んでくる陽光のようだが、セルのそれは今にも堰を切って一斉に流れ込む大河のようだ。

この頃のルツェルン祝祭管弦楽団は個人的な演奏技術から言えばそれほど高いレベルではなかったにしても、セルによって鍛え上げられた彼らの演奏に賭けたハイ・テンションの意気込みが感じられる。

デジパック入りでファースト・マスター・リリースのシールが貼ってあるアウディーテ・レーベルからの初出音源のひとつになる。

数葉の写真入31ページの独、英、仏語によるライナー・ノーツが挿入されている。

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classicalmusic at 23:01コメント(0)トラックバック(0)セルドヴォルザーク 

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1914年生まれで生誕100周年を迎えた指揮者はフリッチャイを筆頭にジュリーニ、クーベリック、コンドラシンなどの巨匠が揃っていて、彼らは既に全員他界しているが多くの優れた録音も残してくれた。

フリッチャイは4人の中では最も若くして48歳で世を去ったが、その精力的な演奏活動はグラモフォンへの集中的なレコーディングという形で彼の芸術のエッセンスが記録されている。

今回の45枚組コンプリート・エディションは第1巻で、今年リリースが予定されている第2巻にはオペラ及び声楽曲が編集されるようだ。

これらの音源には既に廃盤の憂き目に遭ったものが少なからずあり、今回のバジェット価格での復活を歓迎したい。

とりわけ自国ハンガリーの作曲家の作品の解釈において、フリッチャイは現在でもオールド・ファンには殆んど究極的なサンプルとして聴き継がれている。

こうしたレパートリーで彼は洗練と原初的なパワーを両立させ、1曲1曲を珠玉のように磨き抜いてその力量を示した。

その鋭利な感性はこのセットに含まれる他の20世紀の音楽にも良く表れている。

一方でまたオーケストラを鍛え上げる優れた手腕を発揮した点でも彼の楽壇への貢献は無視できない。

例えば後のベルリン放送交響楽団の原形になるRIAS交響楽団は、戦後の混乱期にあって非常に高い技術水準と指揮者の要求に応える柔軟な機動力を備えていたが、それはフリッチャイの修錬の賜物でもあるだろう。

ちなみにブダペスト音楽院時代のフリッチャイの師であったバルトークとコダーイには計6枚のCDが当てられている。

この集大成に先駆けてプラガ盤においても、フリッチャイによって綿密に考慮された音楽設計と聴き手を呪縛するような恐ろしいほどの緊迫感の持続は尋常ならざるものがあったが、それだけにフリッチャイの余りにも早過ぎた死が今更ながら惜しまれる。

ベルリン・フィルを振ったベートーヴェンの交響曲集では、第1及び第8番のみがモノラルでその他は良好なステレオ録音で残されているが、第2、第4、第6番を欠いている。

音楽の造形を明確に表現し、むやみにスケールを大きくしようとしたり尊大になったりしない真摯で丁寧な音響作りによってそれぞれの作品の持ち味をダイレクトに伝えているのが特徴だ。

個人的にはゼーフリート、フォレスター、へフリガー、フィッシャー=ディースカウをソリストに配した第9番がLP時代に聴き古した名演で、簡潔な中に充分な歌心を織り込んだ密度の濃い仕上がりになっている。

ベートーヴェンでは他にアニー・フィッシャーとのピアノ協奏曲第3番、アンダ、シュナイダーハン、フルニエが加わる『トリプル・コンチェルト』、また『エグモント序曲』などでも音楽性豊かで個性的な演奏を聴かせている。

新しいリマスタリングの記載はなく、古いモノラル録音も多く含まれているので、これまで以上の音質は期待していなかったが、流石に本家ドイツ・グラモフォンのオリジナル・マスターからの復刻だけあって鑑賞には全く不都合のない極めて良好な状態だ。

ライナー・ノーツは107ページほどあり、71ページまでがディスク別の曲目一覧と録音データに費やされていて、続いて英、独、仏語によるトゥリー・ポッター、エルザ・シラー、ユーディ・メニューインのエッセイが掲載されている。

最後の数ページにこのセットに収録された総ての曲のアルファベット順作曲家別の索引が付いているのも親切な配慮だ。

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classicalmusic at 20:59コメント(0)トラックバック(0)フリッチャイ 

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アイザック・スターンをソロ・ヴァイオリンに迎えた20世紀の作曲家の作品3曲を収めたSACDで、総てバーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルハーモニックとの協演になる。

ベルクの『ヴァイオリン協奏曲』が1959年、バルトークの2曲、『ラプソディー第2番』が1962年、『ヴァイオリン協奏曲第2番』が1958年のそれぞれがセッション録音だ。

プラガは版権の切れた古い音源を続々とSACD化しているが、演奏の質はともかくとして音源自体が劣化している場合もあるので、その出来栄えとなると玉石混交だが、この3曲に関しては初期ステレオ録音であるにも拘らず、DSDリマスタリングの効果が発揮され、音場の広がりや高音の鮮明さも時代を超越した生々しい音響が再現された成功例と言えるだろう。

スターン、バーンスタインの両者も30代後半から40代前半の若々しい覇気に満ちた演奏が何よりも魅力で、彼らの新時代のクラシック音楽に賭けた情熱と意気込みが伝わってくる。

ベルクの『ヴァイオリン協奏曲』では、その精緻な作曲技法の理論は別にしても曲中に仄かな官能性が潜んでいる。

バーンスタインはそうした隠された官能美を意識的に引き出しているように思える。

第1楽章ではウィンナ・ワルツの断片さえ聞こえてくるが、それが如何にもバーンスタインらしく妖艶に響いてくるし、第2楽章のコラールも彼のフィルターを通すと全く斬新なエレメントとなって浮かび上がってくる。

そこにはバーンスタインの作曲家としてのベルクへの強い共感があるに違いない。

また張り詰めた緊張感の中で、あたかも走馬燈のように揺れ動くスターンのソロは、ベルクの鮮烈な回想を見事に音像化している。

この作品はアルマ・マーラーの娘マノンの夭折を追悼するために作曲されたが、奇しくもベルク自身の白鳥の歌になってしまったようだ。

バルトークの『ラプソディー第2番』ではスターンの大地から湧き上がるようなヴァイタリティーに漲るソロが、この曲のエスニカルなイメージを決定的にしているが、『ヴァイオリン協奏曲第2番』では、作曲家によってそうした原初的なパワーがより普遍化され、いわゆる民族主義から昇華された洗練の域に踏み込んでいる。

スターン自身もまた20世紀の作品を多く初演しているだけあって、時代の動向に敏感に反応しながらも独自の新しい演奏スタイルを追求していたことが理解できる。

最後にニューヨーク・フィルのアンサンブルの正確さとパワフルで完全燃焼しているサポートにも注目したい。

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2015年08月08日


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リヒテルはその晩年までヨーロッパ各地の音楽祭に招かれて盛んな演奏活動を行ったが、会場には殆んど例外なく録音機材が持ち込まれ、彼が望むか否かに拘らずメディア化されることになった。

この音源は1994年5月15日の南ドイツ・シュヴェツィンゲン音楽祭での一晩のリサイタルを収録したもので、ロココ劇場のライヴだが客席の雑音や拍手は一切なく、当初から放送用に使う計画があったようだ。

この頃のリヒテルは聴覚に変調をきたし、コンサートでは照明を落とし楽譜を前にしながらピアノを弾くようになった。

リヒテルは聴衆の注意が演奏者ではなく、音楽そのものに向けられるように仕向けたと語っている。

当日のプログラムはグリーグの『抒情小曲集』から「感謝」「スケルツォ」「小さな妖精」「森の静けさ」の4曲、フランクの『プレリュード、コラールとフーガ』、ラヴェルの『優雅で感傷的なワルツ』及び『鏡』で、リヒテル79歳の枯淡の境地と特有の神秘的な翳に包まれた演奏を披露しているのが興味深い。

さすがにかつての覇気はなくなり表現はより静謐だが、リヒテルが円熟期になってレパートリーに取り入れたグリーグの『抒情小曲集』は大自然の営みやぬくもりを感じさせるロマンティシズムが印象的だし、フランクは沈潜した内省的な音楽に仕上がっている。

確かにラヴェルの『鏡』から「道化師の朝の歌」では往年のめくるめくようなピアニズムは望めないしテクニックの衰えも否定できないが、「蛾」や「鐘の谷」で聴かせるファンタジーは巧みなものだし『優雅で感傷的なワルツ』での哲学的とも言える骨太な構成力はリヒテルならではの仕上がりだ。

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コントラルトという低い声質にはソプラノやメゾ・ソプラノのような華やいだ響きはないにしても、フェリアーはかえってそのナイーヴな声で飾り気のない表現を得意として、本来歌唱芸術が持っているもうひとつの要素、つまり音楽と文学との結び付きという側面を、より深い洞察と同時に鋭いインスピレーションで捉えた演奏を数多く遺している。

フェリアーは基本的に舞台の上で大音声で演じるオペラの世界の人ではなく、むしろ人間の喜怒哀楽や人生観が数分間に凝縮された形で表現される歌曲にその本領を発揮した。

美声ではあっても外面的にあでやかな響きを持たない暗い声質ゆえに、聴く人の注意がその音楽の内面に向けられるのは、ある意味では当然かも知れないが、声の深みがそのまま表現の深みに昇華され、強い説得力を持ち得ているのはフェリアーの類い稀な才能の証しだろう。

特に死をテーマにしたブラームスやマーラーの曲では早世したフェリアーの宿命的な直感さえ窺わせている。

この14枚のCDに収められた曲の中でも、特に印象に残るものを幾つか拾ってみると、先ず1949年のエディンバラ音楽祭からのライヴで、ブルーノ・ワルターのピアノ伴奏によるシューマンの『女の愛と生涯』が筆頭に挙げられる。

お世辞にも良い音質とは言えないが、個人的に言えば筆者がこの曲集の真価を知ったのは、フェリアー&ワルターの演奏を聴いてからであった。

というのもフェリアーの歌には芝居めいた虚飾を感じさせるところが皆無で、一人の女性のドラマが忽然と浮かび上がってくるからだ。

勿論大指揮者ワルターからの薫陶を無視できないにしても、フェリアーの歌唱はそれまでになかったほどの高い音楽性に達し得たと言えないだろうか。

またイギリス民謡集も素朴だが機知に富んでいて限りない愛着がもてるものだ。

無伴奏で歌われる『吹けよ南の風』はボーナスDVDの中でも使われている小曲だが、そのシンプルさゆえに少女の想いが大自然を駆け抜けていくような、メルヘンの世界に誘ってくれる。

その他にも大曲では、クレメンス・クラウス指揮、ロンドン・フィルとのブラームスの『アルト・ラプソディ』、オットー・クレンペラー指揮、コンセルトヘボウとのマーラーの『亡き子を偲ぶ歌』及び『復活』、ベイヌムとのブリテンの『春の交響曲』そしてワルター指揮、ウィーン・フィルによるマーラーの『大地の歌』などは聴き逃せない。

このボックスセットはキャスリーン・フェリアーの生誕百周年記念として、彼女が生前デッカに遺した録音総てを網羅したもので、モノラル録音のCD14枚とDVD1枚で構成されている。

これまでにこれに準ずる全集は既にLP時代からリリースされていたが、完全にひとつのセットに組み込まれたのは初めてで、おそらくこうした企画は将来においても当分期待できないだろう。

ブックレットは170ページで、全曲歌詞英語対訳付の親切な配慮がされている。

DVDは既出のBBC制作のテレビ放送番組で、フェリアーの生涯を約1時間で綴っている。

フェリアー自身の動画はごく限られたものだが、ベンジャミン・ブリテンを始めとして、家族や知人そして音楽仲間や医師へのインタビューが興味深い。

学校を卒業した後、電話交換手として働いていたことやピアノの才能にも恵まれていたこと、輝かしいキャリアと41歳で癌によって亡くなるエピソードなどが語られている。

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classicalmusic at 20:55コメント(0)トラックバック(0)フェリアー 

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1986年8月28日、ロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ録音で、ハイティンクが得意とするショスタコーヴィチの交響曲の待望の再録音の登場だ。

ハイティンクは、本盤に収められた交響曲第10番を約10年前にも同じロンドン・フィルとともに、ショスタコーヴィチの交響曲全集の一環としてスタジオ録音(1977年)していることから、本演奏はハイティンクによる同曲の2度目の録音ということになる。

ところで、ハイティンクほど評価が分かれる指揮者はいないのではないか。

長年に渡ってコンセルトへボウ・アムステルダムの音楽監督をつとめ、ポストカラヤン争いでも後継者の候補の一人と目されベルリン・フィルの団員にも愛された指揮者であり、そして現在ではシカゴ交響楽団の音楽監督をつとめるという輝かしい経歴の持ち主であるにもかかわらず、ハイティンクの名声が揺るぎないものとは言い難い状況にある。

ハイティンクは全集マニアとして知られ、数多くの作曲家の交響曲全集を録音している。

いずれも決して凡演というわけではなく、むしろいい演奏ではあるが、他の指揮者による演奏にも優るベストの名演を成し遂げているとは言い難いのではないだろうか。

このように、ベターな演奏を成し遂げることが出来てもベストの名演を成し遂げることができないところに、ハイティンクという指揮者の今日における前述のような定まらない評価という現実があるのかもしれない。

もっとも、ハイティンクが録音した数ある交響曲全集の中でも、唯一ベストに近い評価を勝ち得ている名全集がある。

それは、完成当時はいまだ旧ソヴィエト連邦が存在していたということで、西側初とも謳われた前述のショスタコーヴィチの交響曲全集(1977〜1984年)である。

これは、ハイティンクに辛口のとある影響力の大きい有名音楽評論家さえもが高く評価している全集だ。

もっとも、当該全集については、すべての演奏がベストの名演というわけではないところが、いかにもハイティンクらしいと言える。

ハイティンクは、ロンドン・フィルとコンセルトへボウ・アムステルダムの両オーケストラを使い分けて全集の録音を行ったが、どちらかと言えば、コンセルトへボウ・アムステルダムを起用した演奏の方がより優れていた。

したがって、当該全集に収められた交響曲第10番の演奏は、いささか不満の残る内容であったことは否めないところだ。

ところが、本盤に収められた約10年ぶりの本演奏は、当該全集に収められた演奏とは段違いの素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。

本演奏におけるハイティンクのアプローチは直球勝負。

いずれの演奏においても、いかにもハイティンクならではの曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、ショスタコーヴィチがスコアに記した音符の数々が明瞭に表現されているというのが特徴である。

したがって、ショスタコーヴィチの交響曲の魅力を安定した気持ちで味わうことができるというのが素晴らしい言えるところだ。

加えて、本演奏には、晩年を迎えたハイティンクならではの奥行きの深さが感じられるところであり、さすがにムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる超名演(1976年)ほどの凄みはないが、同曲に込められた作曲者の絶望感などが、淡々と進行していく曲想の中の各フレーズから滲み出してくるのが見事である。

このような彫りの深い名演を聴いていると、ハイティンクが今や真の大指揮者になったことを痛感せざるを得ないところだ。

ハイティンクの確かな統率の下、旧盤でも演奏したロンドン・フィルが持ち得る実力を最大限に発揮した入魂の名演奏を繰り広げているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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2015年08月07日


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バーンスタインとウィーン・フィルの共同作業は、売り物のマーラーやベートーヴェンばかりでなく、ハイドンでも見事な成果を上げている。

バーンスタインのハイドンのよさはもっと知られてよい。

ハイドンというと、わが国ではあまり人気がないが、それは杓子定規の堅苦しい演奏が多いせいではないか。

しかし、バーンスタインのハイドンを聴いて、音楽の楽しさを感じない人はおそらくいないだろう。

まず音の響きが感覚的に洗練され、もうそれだけで聴き手の心を奪い、すぐれた作曲家でもあるバーンスタインらしく各部の構成が見事に分析・総合され、しかもそうした構造を描くだけでなく、旋律の流れが実に流麗である。

ここでも、バーンスタインは、ワルターのように、細やかな表情づけにこだわることなく、おおらかにあたたかく表現していて、魅了される。

いかにもユーモリストのバーンスタインらしい、明るく健康的なウィットにとんだ演奏で、新鮮な味わいをもったすがすがしい表現だ。

“パパ・ハイドン”と呼ばれたなごやかなハイドンの音楽が、そのままバーンスタインの人柄に乗り移ったように聴こえてきて、気持ちがよい。

ウィーン・フィルを起用したのも成功で、このオーケストラ独自の典雅な音色を駆使して、生き生きとした音楽を展開している。

しなやかな弦の歌、まろやかな管のアンサンブル、溌剌としたリズムの躍動感、そのいずれもがハイドンの純音楽的な美しさと魅力を際立たせる。

ウィーン・フィルというオーケストラのすばらしさを、これほどわからせてくれる演奏も少ない。

第88番「V字」は立体感に富む弦と管のバランスが実に自然で、それが、ウィーン・フィル特有のいぶし銀の響きとバーンスタイン特有の生命力を端的にあらわしている。

精密さを求めるより、楽しさに重点をおくバーンスタインが、ニューヨーク・フィル時代には成し得なかったオーケストラとの阿吽(あうん)の呼吸を実現し、メヌエット楽章のスフォルツァンドや強弱の対照を面白く聴かせてくれる。

第92番「オックスフォード」もそうだが、ウィーン・フィルの美しい響きをいかしながら、バーンスタインは、ハイドンの音楽のもつ明るく、楽天的な味わいをうまく表現している。

その一方で、底抜けの明るさの中にも時としてかげりが生じ悲しみがよぎるのを豊かな感情をこめて演奏している。

バーンスタインの表現はウィーン・フィルの芳醇な音色をいかしながら溌剌とした自然な歌に満ち溢れて、ハイドンの最もハイドンらしい面を聴かせる。

第94番「驚愕」は、音そのものが形容を絶する美しさで、プルトを減らしたためか透明度も高く、素晴らしく魅惑的な演奏だ。

その豊麗な響きと流麗さは、他のオーケストラからは求められないものだ。

もちろんバーンスタインの表現も音楽に共感した演奏にのみあらわされるような生命力があり、各部がくっきりと表出されていて、ハイドンの真髄が端的に伝わってくる。

第2楽章の驚かしばかりではなく、全曲のあちこちにハイドンらしい機知やウィットがちりばめられ、ライヴの熱気と高揚と力の爆発が加わって、まさに鬼に金棒。

まさにハイドンの豊かな生命力の理想の表現であり、これほど溌剌として率直、歌にみちた古典の演奏は滅多に聴くことができない。

晩年のバーンスタインは、音楽の奥行きをより深めていったけれど、同時にウィーン・フィルを振ると、決まってこのオーケストラの個性を最大限に発揮させていた。

この演奏もそのひとつで、濃厚な隈取りのなかに、優美でしなやかな感性がうまくいかされている。

筆者はハイドンのような音楽が認められないのは、つねづね音楽受容の後進性を表わしているのではないかと考えているが、このような演奏を聴けばハイドンの熱烈な愛好家が激増することになろう。

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サヴァリッシュの《リング》は、この『EMI/Wagner:THE GREAT OPERAS』に収録され、値下げ再発となっているので、本BOXを入手する方が、他のワーグナーのオペラの名演も聴くことができ、お買い得と言える。

とりわけ《リング》ビギナーの方でチョイスに迷われてるなら、是非、購入検討リストの最上位に加えて、よりビッグ・ネームの指揮者を擁する他盤とも同列に比較して頂きたいのが本盤であり、リブレットこそ付随しないが、買って失敗のない内容、と保証出来得る。

海外Amazonで、単なる盤コレクターでなく、劇場に通い慣れ目と耳が肥えた猛者たちのレビューを読んで、「種々、複数の《リング》を所有しているが、何だかんだ云って、聴きやすくて楽しめる、また、実際プレイヤーにかける機会が多いのが案外このサヴァリッシュ=バイエルン盤なんじゃないか」みたいな意見を目にしては、「やっぱり、みんな考えること、感じてることは変わらないな」と思ったりもする。

手許にある《リング》にはいずれも長短思い入れがあり、オケ/合唱、歌手陣、音質、使用言語、(映像なら)演出…と各面のケチをつけ始めればキリがなくなるが、「ツィクルス全体と捉えたときの、失点、瑕疵の少なさ故の満足度の意外な高さ」が、このCD版《サヴァリッシュ・リング》の魅力のように感じている。

このレーンホフ演出のサヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場の《リング》はNHK-BSで放送され、DVDになっている。

演出、カメラワークなどの映像製作面における失望感は、優れた歌手、指揮者らによる演奏の印象も薄くしてしまっていた。

最近のオペラは舞台をみるよりも音だけを聴いたほうがいい場合も多いが、15年近く前のこのCDを購入して聴いてまさにそう思った。

DVDの音はわからないが、CDでの音はBS放送のときよりもオーケストラが前面に出ており、リマスタリングされたため音が美しく、バイエルン国立歌劇場管弦楽団の澄み切った音色の美しさが堪能できる。

全体的に叙情的なサヴァリッシュの指揮もCDで聴いたほうが引き締まっており、このコンビによるオルフェオのブルックナーの交響曲の名演を彷彿とさせる。

目の前で展開するレーンホフの演出に疑問を感じ、反感を覚える理性と自身の内なる「荒ぶるドイツ性」との間に相当の葛藤を抱えながら、さらに、あろうことか、ベルリンでは『壁崩壊』がまさに進行中という非常事態の最中、「一時代の終焉」を劇場にいる全員が意識する中で振っていたことが「災い転じて福となった」のかどうかは知らない。

しかし、ここでのサヴァリッシュの指揮は、ひたすら高燃焼で畳み掛け「聴き手のアドレナリンの血中放出を過度に促進させる」類いの音作りではないにせよ、祝祭の華やぎの中で謙虚にスコア自体に語らせ、実に自然な呼吸で豪華歌手陣を存分に歌わせており、「老カペルマイスター」らしい貫禄、威厳ある落ち着きを強く感じさせる。

筆者としては、年々丸くなっていった感のある後期のサヴァリッシュのスタイルの特段の贔屓筋でもないが、ここでは、手練れではあっても露骨に武骨/タカ派的な方向には極力走るまいと自重する、良識派戦後西ドイツ人=サヴァリッシュらしい抑制の効いたリリカルなアプローチに、往年の奥義もバイロイトの実地で身に付けた経験豊富な正統派ワーグナー指揮者であればこそのスケールの大きさと本能的に抗い難い「暴走への欲望」を時折覗かせてくれたりもして、彼としては、1950-60年代のバイロイトやイタリアでのライヴ各種名演と並んで後世に遺る出色の名盤だと思う。

さらに1990年頃の名歌手を総動員した歌手陣は最高で、ヴィントガッセンを上回るジークフリートであるコロ、「黄昏」で邪悪なハーゲンを歌うサルミネンは特に印象深い。

おそらく歌手陣では、ショルティ、ベームの時代以降で最高であり、映像を見ないで聴けばデジタル時代でこれを超えるものがなく、もっと評価されるべきディスクであろう。

筆者にとっては、《リング》を難しく考えたくないとき、敢えて気軽に流したいときの最右翼盤となっている。

なお拍手は一部カットされており、オーディエンスノイズから推測するとゲネプロや本番の上演から編集されているようだ。

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このSACDのライナー・ノーツ表紙の右側にパリ・シャンゼリゼ劇場、1952年5月25日という表示があり、あたかもフリッチャイがパリ・デビューを飾ったセンセーショナルな凱旋コンサートのライヴ音源がリリースされたかと一瞬思わせる。

しかしケースの裏面を良く読むと、実はその夜のプログラムを同時期の同じメンバーによるセッション録音を集めて再構成したものであることが書かれている。

フリッチャイ・ファン達が早とちりをしてこのディスクを購入し、プラガにクレームをつけたためと思われるが、このサイトのページにはファンの誤解を招かないように日本語で擬似再現と大きく断り書きがしてある。

確かに擬似再現のジャケットとしては随分凝った演出だが、プラガは過去にもこの種の問題で徹底的に叩かれたレーベルなので、珍しい音源については一応疑ってみる必要がある。

しかしながらここに収録された演奏については決して羊頭狗肉的なものではなく、むしろSACD化に相応しい充実した内容を誇っていることを保証したい。

プログラムはバルトークの作品で統一されていて、新しい潮流の芸術の牙城であったパリに乗り込んでお国ものを披露したフリッチャイの自負とその実力のほどは想像に難くないが、そうしたエピソードを全く無視したとしても、この演奏は不滅の価値を持っている。

選曲とその配列にもパフォーマンス的に非の打ちどころがないほど頭脳的な配慮がなされているし、次第に収斂していくアンサンブルの一体感と、フリッチャイの高度な音響構想による眩しいほどの色彩感が刺激的だ。

『舞踏組曲』や最後の『弦楽のためのディヴェルティメント』ではスパイシーなアクセントをつけたエスニカルな躍動感が炸裂して聴き手を完全に自分達の世界に引き込んでしまう。

特に後者は弦楽合奏だけでこれだけのパワーを創造した作曲家の力量にも感嘆するが、それを凄絶を極めた集中力と音響のダイナミズムで描き出したフリッチャイには脱帽せざるを得ない。

『ピアノ協奏曲第2番』でソロを弾くゲザ・アンダもやはりハンガリーの出身で、彼のテクニックは精緻であるにも拘らず、現在ではなかなか聴けない土の薫りが立ち昇るような演奏が興味深い。

彼のブダペスト音楽院時代の師はドホナーニとコダーイで、如何に彼が同時代の自国の俊英作曲家の影響を自己の演奏に色濃く反映させていたかが納得できる。

尚オーケストラのRIAS放送交響楽団は当時としては信じられないほどの腕前を示していて、フリッチャイに鍛え抜かれた先鋭的で触れれば切れるような音色とアンサンブルの連係プレーが縦横無尽に駆使されている。

全曲モノラル録音だが、SACD化による音質向上と解像度の良さも特筆される。

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2015年08月06日


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昨年プラガ・ディジタルスからSACD化されたフルトヴェングラーの演奏集が2枚ほどリリースされた。

そのひとつがこのリヒャルト・シュトラウスの作品集で、交響詩『ドン・ファン』(1954年)『死と変容』(1950年)『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(1954年)の3曲のそれぞれがフルトヴェングラーがウィーン・フィルと共演したHMV音源になる。

これらは録音及びオリジナル・マスターの保存状態が良好で、モノラルながら音場の広がりと立体感のある音響の再現に成功している。

音域ごとの分離状態も良く、各楽器の音色も明瞭に捉えられている。

例えば曲中でソロを受け持つヴァイオリン、オーボエ、ホルンなどの音像も鮮明で、録音会場になったウィーン・ムジークフェライン・グローサー・ザールの潤沢な残響によって音色に生々しさが加わり、パーカッション群の超高音からティンパニやコントラバスの低音に至るまでの広い音域が無理なく伸展している。

演奏に関しては既に語り尽くされているので、今更その価値について云々するつもりはないが、それぞれの曲でクライマックスへ向かう渦巻くような情念の高揚と、高踏的な音楽美学の止揚はまさにフルトヴェングラーの独壇場だろう。

ディスクの表面にバイ・チャンネル・ステレオの表示があるが、おそらくこの曲集のいくつかは電気的に音場を広げた擬似ステレオと思われる。

後半に収められているオットー・アッカーマン指揮、フィルハーモニア管弦楽団のサポートによるシュヴァルツコップの『四つの最後の歌』(1953年)がまた秀逸だ。

シュヴァルツコップはオーケストラを従えたこの曲の録音を3回行っていて、1965年のジョージ・セル、ベルリン放送交響楽団との演奏が円熟期の名盤として高い評価を受けているが、このセッションはシュヴァルツコップ38歳の最初のもので、その若々しい声と張り詰めた緊張感には替え難い魅力がある。

シュヴァルツコップの声質はソプラノとしては決して重い方ではないが、声の威力ではなく、その歌詞を語り尽くすような表現力の彫りの深さと陰影の変化で驚くほどドラマティックな効果を上げて、失われていくものへの不安や憧憬を見事に歌い切っている。

またアッカーマンの指揮も憂いと期待が交錯するオーケストレーションの綾を絶妙に辿ってソロの背景を描き出したところが素晴らしい。

尚ライナー・ノーツにはドイツ語の歌詞が掲載されているが対訳はない。

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classicalmusic at 22:47コメント(0)トラックバック(0)R・シュトラウスフルトヴェングラー 

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クレンペラーはモーツァルトが大好きだったようで、交響曲を筆頭に、オペラから協奏曲、セレナーデなど数多くのレパートリーを演奏していた。

本セットに収められたモーツァルトの後期6大交響曲集の名演としては、ワルター&コロンビア交響楽団、ベーム&ベルリン・フィル、クーベリック&バイエルン放送響などによる名演がいの一番に思い浮かぶ。

これらの名演と比較すると、本盤に収められたクレンペラーによる演奏は、一部の熱心なファンを除き、必ずしもこれらのベストの名演との評価がなされてきたとは言い難いと言っても過言ではあるまい。

確かに本演奏は、前述の名演が基調としていた流麗な優美さなどは薬にしたくなく、むしろ、武骨なまでに剛直とさえ言えるところだ。

クレンペラーは悠揚迫らぬインテンポで、1音1音を蔑ろにせず、各楽器を分厚く鳴らして、いささかも隙間風の吹かない重厚な演奏を展開している。

まさにクレンペラーは、ベートーヴェンの交響曲を指揮する時と同様のアプローチで、モーツァルトの交響曲にも接していると言えるだろう。

しかしながら、一聴すると武骨ささえ感じさせる様々なフレーズの端々から漂ってくる深沈たる情感の豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、このような演奏の彫りの深さと言った面においては、前述の名演をも凌駕しているとさえ思われるところである。

巧言令色とは程遠い本演奏の特徴を一言で言えば、噛めば噛むほど味が出てくる味わい深い演奏ということになる。

いずれにしても本演奏は、巨匠クレンペラーだけに可能な質実剛健を絵に描いたような剛毅な名演と高く評価したい。

その、武骨な中にも共感に満ちた演奏の数々は、現在聴いても存在感たっぷりで、意外にも快速なテンポで飛ばす『リンツ』から、巨大なスケールで対位法の面白さを印象づける『ジュピター』に至るまで、聴きごたえある演奏が揃っている。

近年では、モーツァルトの交響曲の演奏は、古楽器奏法やピリオド楽器を使用した演奏が主流となりつつあるが、そのような軽妙な演奏に慣れた耳からすると、クレンペラーによる重厚にしてシンフォニックな本演奏は実に芸術的かつ立派に聴こえるところであり、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

音質は今から約50年ほど前の録音であるが、従来CD盤でも比較的満足できる音質であったと言える。

このような中で、数年前にHQCD化されたことにより、音質は更に鮮明になるとともに音場が幅広くなったように感じられるところであり、筆者も当該HQCD盤を愛聴してきたところだ。

しかしながら、先般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。

従来CD盤やHQCD盤とは次元が異なる見違えるような、そして約50年前のスタジオ録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

いずれにしても、クレンペラーによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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ダヴィッド・フレーはこれまで既に2枚のアルバムでシューベルトの作品集をリリースしている。

彼が最初に手がけたのがカナダのアトマ・レーベルから出た『さすらい人幻想曲』で、リストのロ短調ソナタとのカップリングだったが、それはどちらかというと彼のヴィルトゥオジティが発揮された1枚だった。

その後の彼はあえてメカニカルな技巧誇示を避けるような選曲で、自身のリリカルな感性を思いのままに表出させることに成功している。

エラートからの『楽興の時』ではこの小品集に独自のスタイルで幅広い表現の可能性を示したが、今回のソナタ第18番ト長調D.894でもシューベルトのウェットな歌心と音楽への愉悦に溢れている。

リヒテルの同曲の演奏を聴くと寂寥感が滲み出ていて作曲家の諦観を感じさせずにはおかないが、フレーは同じようにゆったりとしたテンポを取りながら、天上的な長さを持つ第1楽章を深い陰翳が交錯するような詩的な美学で弾き切っている。

シューベルトが数百曲ものリートをものした歌曲作曲家であったことを考えれば、こうした解釈にも説得力がある。

またもうひとつの愛らしいピース『ハンガリー風メロディー』D.817でもニュアンスの豊かさと殆んど映像的でセンチメンタルな描写が極めて美しい。

後半ではフレーのパリ音楽院時代の師、ジャック・ルヴィエを迎えてシューベルトの4手のための作品2曲を演奏している。

曲目は『幻想曲へ短調』D.940及びアレグロイ短調『人生の嵐』D.947で、彼らの連弾には聞こえよがしのアピールはないが、かえって抑制されたインティメイトな雰囲気の中に、変化に富んだタッチのテクニックを使い分けて彫りの深い音楽を浮かび上がらせている。

低音部を受け持つルヴィエも流石に巧妙で、フレーの構想するシューベルトの物語性をセンシブルにサポートしているのが聴き取れる。

フレーはコンサートはともかくとして録音に関しては目下のところフランス物には目もくれず、ドイツ系の作曲家の作品ばかりを取り上げている。

それは彼のラテン的な感性が図らずもゲルマンの伝統を受け継ぐ音楽にも対応可能なことを実証しているように思える。

ちなみに彼がこれまで録音したベートーヴェンのソナタは1曲のみだが、シューベルトの作品集への研鑽が来たるべきベートーヴェンへの足がかりになっているような気がしてならないし、またそう期待したい。

潤いのあるピアノの音色が効果的に採音された録音も充分満足のいくものだ。

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2015年08月05日


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英国を代表する女流トラヴェルソ奏者、レイチェル・ブラウンが1996年に録音したクヴァンツの7曲のソナタとフリュート・ダムールのためのメヌエットが収録されている。

選曲を見るとフラット系の調性のソナタが前半を占めているが、この手の曲は当時のトラヴェルソでは指使いが複雑になリ、音質も息漏れの多い弱いものになってしまう。

しかしブラウンは楽器の弱点をカバーして余りある恐るべきテクニックを披露している。

彼女の使用楽器は1740年製2キー・タイプ・クヴァンツ・モデルからのルドルフ・トゥッツの手になるコピーで、調性に対してもオールマイティーな性能が示されている。

材質はライナー・ノーツの写真から判断すると拓殖材でa'=415Hzのスタンダード・バロック・ピッチを採用している。

彼女が2009年に録音した2集目のクヴァンツ・ソナタ集『プライベート・パッション』でベルリン宮廷で好まれた低いピッチを採用しているのと対照的だ。

一方通奏低音を受け持つチェロのマーク・コードルは1770年製のシャピイのオリジナル、チェンバロのジェームズ・ジョンストンは1704年製のミートケ・モデルのコピーを演奏している。

尚メヌエットのみに使われているフリュート・ダムール(愛のフルート)と呼ばれる低音トラヴェルソは1720年製デンナー・モデルのコピーで、当時の人々のフルートの音色への好みが後の時代の主流になる、かろやかな高音を活かしたパッセージよりも、むしろ低音のしっとりした情緒が好まれたことを示唆していて興味深い。

この通奏低音付のメヌエットはフリードリッヒ大王の練習帳に含まれるテーマとヴァリエーションからなる小品だ。

ブラウンのトラヴェルソには文学的なレトリックやそれぞれの曲の調性の持つ特質を演奏に活かした知的なアプローチと、男性顔負けのエネルギッシュな推進力が両立している。

私達が現在それほど気に留めない調性の特質から醸し出される雰囲気や、心理的な影響はバッハやマッテゾンによっても伝えられているが、ブラウン自身の著書『初期フルートのプラティカル・ガイド』でも明らかにされているように、彼女自らの演奏で実践していたストラテジーでもある。

このCDでもひとつひとつの作品が極めて個性的な特徴を持って表現され、音楽的な質の高さから言えば二流止まりのクヴァンツの音楽が、実はトラヴェルソの機能を駆使した、当時の宮廷人にとっては最も魅力的な音楽であったことが想像される。

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シュタルケルがEMIに遺した音源とエラートに録音したブラームスとベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集をまとめたセット。

録音時期は、EMIはシカゴ交響楽団在籍中だった1956年から、退団の翌年である1959年までの3年間で、エラートは1959年となっている。

これらの録音は、マーキュリー・レーベルへの一連の録音よりもさらに若い頃におこなわれただけあって、パリでソリストとして名をあげた時代に近い、フレッシュで自由な意気込みのようなものも感じられる。

若い頃の録音とは言っても、このボックスにはステレオ音源も多く、シェベックとのベートーヴェンとブラームス、ジュリーニと共演したシューマン:チェロ協奏曲、ボッケリーニ:チェロ協奏曲G.482、ハイドン:チェロ協奏曲第2番、サン=サーンス:チェロ協奏曲第1番に、ジュスキント共演したドヴォルザーク:チェロ協奏曲とフォーレ:エレジー、そしてジェラルド・ムーアの伴奏で録音したチェロ小品集などをステレオで堪能することができる。

最初のCD2枚では直線的に弾き切る飾り気のない堅牢なバッハと、何かに憑かれたように猛進するコダーイの両無伴奏に改めて驚かされる。

そこにはシュタルケルの生涯の課題となったバッハの『無伴奏チェロ組曲』の原点が記録されているし、また他の追随を許さなかったコダーイの『無伴奏チェロ・ソナタ』では、既に非の打ちどころのない完璧な表現が示されていると言えないだろうか。

どちらの曲もシュタルケルらしい鍛え抜かれた精緻なテクニックと覇気に支えられているが、音楽に対する自身の強い情熱を個性としてぶつけるのではなく、冷徹とも言える頭脳的ストラテジーの際立った真似のできないスタイルが確立された演奏集で、他の協奏曲や室内楽と合わせてシュタルケル・ファンには聴き逃せない音源である筈だ。

ここでは、比類ないテクニックに裏打ちされた豊かな音楽性が、凛と張りつめた緊張感の中に端正に表現されている。

またハンガリーの朋友シェベックとのブラームスとベートーヴェンのソナタ集での、剛毅かつ柔軟な演奏も卓越したアンサンブルの例だろう。

シュタルケルはブラームスを数年後にやはりシェベックと組んでマーキュリーにも入れているし、ベートーヴェンの方もブッフビンダーとの再録音もあり、こちらは音質ではやや劣っているが、大家の風格を備える前の演奏として興味深い。

一方協奏曲についてはボッケリーニ、ハイドン、シューマン、サン=サーンスが最近ジュリー二のボックス・セットで復活したが、ジュスキントとのドヴォルザーク、ドホナーニ、ミヨー、プロコフィエフの作品がここにまとめられているのは幸いだ。

ワーナーのイコン・シリーズとして当初の触れ込みでは9枚組で数ヶ月間の発売延期になっていたが、結局1959年のジェラルド・ムーアとの小品集を加えて10枚でリリースされた。

シュタルケル壮年期の演奏は、1960年代のマーキュリー・リヴィング・プレゼンスへの一連の録音が幸いその驚異的な音質で全曲復活しているが、その前の初期のセッションは入手困難になっていたし、最後のムーアとの小品集は初出音源で、シュタルケルとしてはあくまでも際物的なアンコール・ピースであったにせよ、魅力的で貴重なサンプルには違いない。

総てが1950年代後半の録音なので音質の面ではそれほど期待していなかったが、リマスタリングの効果もあって比較的良好な音質が蘇っている。

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classicalmusic at 20:52コメント(0)トラックバック(0)シュタルケル 

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当時のFM東京の音源は2002年に初出の際、レギュラー・フォーマットのCD2枚組でリリースされた。

これは本当に凄いバッハで、初めて聴いた時、筆者はシェリングの傑出した表現力とそれを支える万全なテクニック、そしてその鮮烈な音質に驚いたものだが、その後リイシュー盤を出しながらもこれらのCDは既に廃盤の憂き目に遭っている。

今回のSACD化では音場の広がりとそこから醸し出される空気感がより立体的な音像を提供しているのが特徴と言えるだろう。

尚前回余白に収められていたシェリング自身の語りによるバッハ演奏のためのヴァイオリン奏法や解釈についてのコメントは省略されている。

本番に強かったシェリングはスタジオ録音の他にも多くのライヴで名演を残しているが、中でも最も音質に恵まれているのは間違いなくこのSACDだろう。

当日のプログラムは彼の生涯の課題とも言うべきバッハの作品のみを取り上げた興味深いもので、完璧主義者のシェリングらしく演奏は精緻でバッハの音楽構成と様式感を明瞭に再現しながらも、ライヴ特有の高揚感と熱気が間近に感じられる。

実演に接した人の話のよると、シェリングのヴァイオリンの美音が冴え、バッハにしては甘美すぎるのではないかという印象があったらしいが、この録音ではそういう感じはまったくなく、しなやかで明るく、洗練された雰囲気を漂わせた親しみやすいバッハになっている。

スケールも一段と大きく、シェリング得意の美音で、実に厳しく清澄で、豊麗、流麗なバッハを聴かせてくれる。

厳格一点ばりのバッハではなく、厳格さのなかにヒューマンな感情があり、そこが人々が支持するゆえんであろう。

シェリング気迫と円熟の至芸であり、その一点一画もゆるがせにしない音楽の作り方は、一貫した力に満ちた真に辛口の音楽とでも言えるところであり、レコード並みの完璧さでありながらライヴならではの感興の盛り上がりに聴き手は息もつくことができない。

無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番も冒頭から終曲まで異常な求心力で演奏される。

中でも終曲シャコンヌは、音楽的に全く隙のない構成力とそれを余すところなく聴かせる表現の巧みさ、そして緊張感の持続が最後の一音まで貫かれていて、最後の一音が消えると、この世ならざる感動に満たされ、演奏が終わった時に聴衆が息を呑む一瞬が印象的だ。

このシャコンヌを聴くと、シェリングが作品のひとつひとつの音のもつ意味というものを、いかに考えているかがよくわかる。

2曲のソナタのピアノ・パートは彼としばしば共演したマイケル・イサドーアで、控えめながら端正で確実な演奏が好ましい。

このようなライヴが、かつて日本で存在したことにも感謝したい。

また、シングルレイヤーによるSACD化により音質も大変良くなり、従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。

シェリングのヴァイオリンの弓使いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、まるでシェリングが顔前にいるかのようなリアリティさえ感じられ、あらためてSACDの潜在能力を思い知った次第だ。

いずれにしても、1976年の日本での偉大なコンサートがこのような最上の音質で聴けることを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 00:45コメント(0)トラックバック(0)バッハシェリング 

2015年08月04日


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アンドレ・クリュイタンスが1962年にトリノのRAI放送用ライヴとして録音したドビュッシーのカンタータ『放蕩息子』及びオネゲルの交響曲第3番『典礼風』の2曲を収録したCDで、当時のライヴとしては優れたステレオ録音で鑑賞できるのが嬉しい。

オーケストラはどちらもトリノRAI交響楽団で、この頃イタリア国営放送局RAIではトリノ、ローマ、ナポリのそれぞれの都市に専用のオーケストラを抱えていて一流どころの指揮者の客演によって高水準のコンサートや放送用演奏を行っていた。

現在ひとつに統合されたこのオーケストラは、サンタ・チェチーリア以外にはオペラ劇場から独立した楽団がなかったイタリアで、純粋なオーケストラル・ワークも器用にこなす機動力を備えていた。

クリュイタンスはかなりの量のラヴェルの作品をセッションで遺してくれたが、ドビュッシーに関してはオペラ『ペレアスとメリザンド』以下数えるほどしかなく、いずれもが素晴らしい仕上がりだけにその早過ぎた死が惜しまれてならない。

この『放蕩息子』は、ルカ福音書にあるキリストの喩え話からエドゥアール・ギニャンが脚色した抒情詩を22歳のドビュッシーが簡潔なカンタータ風に仕上げた作品で、和声的にも後の『ペレアス』の萌芽とも考えられている。

リア役にソプラノのジャニーヌ・ミショー、アザエルにテノールのミシェル・セネシャル、シメオンにバリトンのピエール・モレのベテラン・フランス系歌手を起用したことも成功の要因だろう。

劇場作品でキャリアを始めたクリュイタンスならではの自然にドラマを引き出して情景をイメージさせる指揮法の巧みさと、家族との再会によって救われる息子と母の安堵、父の寛大な赦しと神への感謝と続くリリカルな高揚感は官能的でさえある。

一方オネゲルについても他にクリュイタンスのサンプルがなくそれだけでも貴重なコレクションになり得るものだが、戦争の傷跡から立ち直りつつあった状況下で収録されただけに、この曲に賭けた平和への切実な願望と熱意が伝わって来る演奏だ。

しかしオーケストラの色調はむしろ明るく、未来に希望を託して平穏のうちに終了するフィナーレも生命感に漲っていて神々しいものがある。

客席からの拍手の他に咳払いや雑音が若干入っているが、鑑賞に煩わしくない程度のもので音質は鮮明。

12ページほどのライナー・ノーツにはクリュイタンスのキャリアとごく簡単な曲目解説が英、独、仏、伊語で、『放蕩息子』のリブレットはオリジナルの仏語で掲載されている。

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classicalmusic at 22:40コメント(0)トラックバック(0)クリュイタンスドビュッシー 

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洗練を極めたジュリー二の『ドン・ジョヴァンニ』である。

バス歌手によって歌われたタイトル・ロールとしては1954年のフルトヴェングラー、シエピによるザルツブルク・ライヴが個人的には圧倒的な名演として思い出されるが、一方バリトンが歌ったものではこの1959年のセッションを最も優れた『ドン・ジョヴァンニ』として挙げたい。

それは主役のヴェヒターだけではなく、タッデイ、シュヴァルツコップ、サザーランド、シュッティ、アルヴァ、カプッチッリのキャスティングが万全で、全体的に見通しの良い、また重厚になり過ぎないイタリア趣味の音楽に仕上げてあるのが特徴だ。

歌手もオーケストラもインターナショナルな混成メンバーであるにも拘らず、ジュリー二の統率が素晴らしくモーツァルト特有の瑞々しさ、シンプルな美しさ、そして終幕のデモーニッシュな翳りはやや控えめにして、むしろ作品の快活さを前面に出している。

エヴァーハルト・ヴェヒターの颯爽たるドン・ジョヴァンニは、若々しく品のある貴族然とした歌唱で、この役柄を劇中で突出させることのない等身大の人物に描いてみせている。

ヴェヒターだけではないが、ジュリー二の指導の成果と思われるイタリア語のレチタティーヴォの発音とそのニュアンスの多様な表現を誰もが巧妙にこなしていることにも感心した。

こうした番号制のオペラではストーリーの展開を手際良く進め、それぞれの役柄を明確にするために欠かせない唱法だが、イタリア人以外の歌手達も流石に巧い。

またこの演奏でジュリーニは狂言回し的なレポレッロ役にもバスではなく、バリトンのタッデイを配して軽妙なドラマ・ジョコーソの味を出している。

バスとバリトンの明確な区別がなかった時代の作品なので、ここでも声質の特徴を見極めた歌手の抜擢が功を奏している。

ジュリーニはオペラ指揮者としての手腕を高く評価された人だが、現在では彼の振ったオペラは管弦楽に比べるとそれほど話題に上らないのが残念だ。

確かにジュリーニは1970年代に入るとオペラ界から次第に手を引いていき、メトロポリタンからの招聘も断わり続けた。

その理由は忙しく世界中の劇場を移動して歌いまくる質の落ちた歌手と、短時間のやっつけ仕事で仕上げなければならない制限された稽古では、ジュリーニの理想とする舞台作品を創造することが困難だと考えたからだ。

辛辣だが真摯に音楽に奉仕する指揮者としてのポリシーを貫いた見解で、ジュリーニの芸術家としての固い信念が窺える。

これだけオペラに造詣が深く、経験豊富なベテラン指揮者を失ってしまったことは、オペラ界にとっても大きな損失だったに違いない。

尚4枚目はボーナスCD−ROMになっていて、CD初出時のライナー・ノーツ及びイタリア語の全歌詞と独、英、仏の三ヶ国語の対訳が掲載されており、バジェット価格盤にしては親切な配慮だ。

1959年の録音だが、リマスタリングされた音質は極めて良好。

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classicalmusic at 20:44コメント(0)トラックバック(0)モーツァルトジュリーニ 

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着実に録音活動をこなしている成長著しいキーシンのモーツァルトとシューマンの協奏曲であるが、キーシンの確かな円熟を感じさせる名演だ。

モーツァルトにもシューマンにも言えることであるが、キーシンは、実に精緻で丁寧な表現を心がけているようである。

リリースされてみると、なるほど、と思うほどにキーシンの個性が引き出された演奏であり、それに適した楽曲だったのだと思う。

キーシンの演奏は、例えば、以前弾いていたシューベルトのソナタなどは幾分型にはまりすぎて、単調な物憂さが残ったけれど、このモーツァルトとシューマンは実に素晴らしい。

実際、キーシンのピアニズムはモーツァルトによく符合するのであろう。

きわめて平衡感覚の強い音感と、ピアニスティックな美しさ、そしておそらく常にその音楽性を支えている古典的な教養があると思う。

そうして引き出されるモーツァルトの世界は、なかなかいい意味で辛口で、「大人のモーツァルト」になっている。

ため息がでるような、硬質で粒揃いの音、甘さを抑えたモーツァルトならではの音、その音で弾くスケールの美しさは鳥肌が立ち、端正な中にも優しく、柔らかい旋律が心地よい。

いわゆる「遊戯性」のようなものはほとんど感じられないが、純粋に突き詰められた音楽で、高貴な香りと崇高な気品がある。

ひそやかな中に秘めた情熱を感じるモーツァルトで、音楽に携わっている長いキャリアと超人的なテクニックがあってこそ、ピアノの音に語らせることができるのだろう。

時折見せる力強い打鍵や、モーツァルトの音楽特有の高貴にして優美かつ繊細な抒情の表現にもいささかの不足はなく、要は、いい意味での剛柔バランスのとれた演奏を行っているのである。

デイヴィスの指揮もそのようなキーシンのピアニズムをサポートしたのだろうか、かつての彼に比べると、いくぶんシックな色合いで、落ち着いた、部分的に固めなサウンドである。

ロマン派の代表的なピアノ協奏曲といえるシューマンでも、キーシンとデイヴィスのアプローチはモーツァルトと共通しており、そこでは自由な華やかさより、拘束のもたらす規律正しい気品に満ちている。

キーシンが体当たりしてくるような若いころのシューマンの演奏もそのけなげさに切なく胸を打たれたが、今回のシューマンは、一流のピアニストの余裕がすみずみに感じられ安心して演奏に浸れる。

特に曲の始めの部分の弾き方に今回の違いが物語られていると感じた。

人をそらさない拍子の確かさや、七色に変化する音は従来通りだが、音の厚み、迫力が増し聴く者の心に絡んでくる。

あたかも曲の途中で席を立つことができないほどの緊張感を持っていて、畏怖を感じるくらいだ。

そして全般を通してライヴ録音とは思えないほどの客観視を感じるのもこの演奏の特徴だろう。

オーケストラのサウンドもそれぞれの楽器がその役割に徹した感があり、禁欲的とも言える響きであるが、それゆえの内省的な美しさが隅々まで満ちている。

キーシンも、40歳を越えて、神童と言われ、どのような弾き方も許される時代はとうに過ぎ去ったと言えるが、本名演を耳にして、キーシンも、更なる芸術家としての高みに向けて、確かな一歩を踏み出していることを大いに確信した次第である。

筆者にとっては、類稀な才能を持つキーシンの新しい領域を感じる1枚となった。

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classicalmusic at 00:40コメント(0)トラックバック(0)キーシンデイヴィス 

2015年08月03日


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凄い演奏だ。

このような凄い演奏が遺されていたということは、ザンデルリンクのファンのみならず、クラシック音楽ファンにとっても大朗報と言えるのではないだろうか。

東独出身のザンデルリンクは、旧ソヴィエト連邦においてムラヴィンスキーにも師事し、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチの交響曲を得意としていた。

すべての交響曲を演奏・録音したわけではないが、第1番、第5番、第6番、第8番、第10番、第15番の6曲についてはスタジオ録音を行っており、いずれ劣らぬ名演に仕上がっている。

ショスタコーヴィチの15ある交響曲の中で、どれを最高傑作とするのかは諸説あると思われるが、盟友であったムラヴィンスキーに献呈された第8番を最高傑作と評価する者も多いのではないかとも思われるところだ。

ザンデルリンクも、前述のようにムラヴィンスキーに師事していたこともあり、同曲にも特別な気持ちを持って演奏に臨んでいたのではないか。

前述のベルリン交響楽団とのスタジオ録音(1976年)もそうしたことを窺い知ることが可能な名演に仕上がっていたが、本盤の演奏は、当該演奏をはるかに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっていると高く評価したい。

ザンデルリンクによる本演奏は、師匠であるムラヴィンスキーの演奏とはかなり様相が異なるものとなっている。

ムラヴィンスキーによる同曲最高の名演とされる1982年のライヴ録音と比較すればその違いは顕著であり、そもそもテンポ設定が随分とゆったりとしたものとなっている(ザンデルリンクによる1976年のスタジオ録音よりもさらに遅いテンポをとっている)。

もっとも、スコア・リーディングの厳正さ、演奏全体の堅牢な造型美、そして楽想の彫りの深い描き方などは、ムラヴィンスキーの演奏に通底するものと言えるところだ。

その意味では、ショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにした演奏とも言えるだろう。

ムラヴィンスキーの演奏がダイレクトに演奏の凄みが伝わってくるのに対して、ザンデルリンクによる本演奏は、じわじわと凄みが伝わってくるようなタイプの演奏と言えるのかもしれない。

ショスタコーヴィチの交響曲は、最近では数多くの指揮者が演奏を行うようになってきているが、その本質を的確に描き出している演奏はあまりにも少ないと言えるのではないだろうか。

ショスタコーヴィチは、旧ソヴィエト連邦という、今で言えば北朝鮮のような独裁者が支配する政治体制の中で、絶えず死と隣り合わせの粛清の恐怖などにさらされながらしたたかに生き抜いてきたところだ。

かつて一世を風靡した「ショスタコーヴィチの証言」は現在では偽書とされているが、それでも、ショスタコーヴィチの交響曲(とりわけ第4番以降の交響曲)には、死への恐怖や独裁者への怒り、そして、粛清された者への鎮魂の気持ちが込められていると言っても過言ではあるまい。

したがって、ショスタコーヴィチと親交があるとともに、同時代を生き抜いてきたムラヴィンスキーの演奏が感動的な名演であるのは当然のことであり、かかる恐怖などと無縁に平和裏に生きてきた指揮者には、ショスタコーヴィチの交響曲の本質を的確に捉えて演奏することなど到底不可能とも言えるだろう。

一般に評判の高いバーンスタインによる演奏など、雄弁ではあるが内容は空虚で能天気な演奏であり、かかる大言壮語だけが取り柄の演奏のどこがいいのかよくわからないところだ。

かつてマーラー・ブームが訪れた際に、次はショスタコーヴィチの時代などと言われたところであるが、ショスタコーヴィチ・ブームなどは現在でもなお一向に訪れていないと言える。

マーラーの交響曲は、それなりの統率力のある指揮者と、スコアを完璧に音化し得る優秀なオーケストラが揃っていれば、それだけでも十分に名演を成し遂げることが可能とも言えるが、ショスタコーヴィチの交響曲の場合は、それだけでは到底不十分であり、楽曲の本質への深い理解や内容への徹底した追求が必要不可欠である。

こうした点が、ショスタコーヴィチ・ブームが一向に訪れない要因と言えるのかもしれない。

旧ソヴィエト連邦と同様の警察国家であった東独出身であるだけに、ザンデルリンクの演奏も、前述のようにショスタコーヴィチの本質をしっかりと鷲掴みにしたものであり、とりわけ最晩年にも相当する本演奏は、数あるザンデルリンクによるショスタコーヴィチの交響曲の名演の中でも最高峰の名演であり、同曲の数ある名演の中でも、ムラヴィンスキーによる1982年の名演と並び立つ至高の超名演と高く評価したいと考える。

音質についても、1994年のライヴ録音であるが、文句の付けようのない見事な音質に仕上がっていると評価したい。

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classicalmusic at 22:47コメント(0)トラックバック(0)ショスタコーヴィチザンデルリンク 

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アラウはデジタルで12曲録音した所で世を去り、2度目の全集は未完に終わったので、本セット(1962年から66年にかけてのセッション)が彼の唯一のベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集となった。

曲目はソナタ全32曲の他に1968年録音の『エロイカの主題による15の変奏曲とフーガ』Op.35、『主題と32の変奏曲ハ短調』WoO.80、『主題と6つの変奏曲ヘ長調』Op.34及び『ディアベッリの主題による33の変奏曲ハ長調』Op.120で、この曲のみ1952年のモノラル録音になる。

最も正統的なドイツ・ピアノ音楽の後継者と言われたアラウは、詩的ロマンを湛えた堅牢な造形美で、ベートーヴェンやブラームスに多くの名演を残しているが、彼はまたフランツ・リストの直系としての誇りを持ったヴィルトゥオーゾでもあった。

この録音が行われた当時彼は60代半ばで、音楽的にも技術的にもバランスのとれた円熟期を迎えていただけに、今回の復活はベートーヴェン・ファンにとっても朗報に違いない。

バックハウスやケンプの時代が過ぎた20世紀後半にあって、ベートーヴェン弾きとして世界の実質的な頂点に立ったのが、同時にシューマンやショパンをもレパートリーに中核に置くアラウだった。

仮に正統的なベートーヴェン演奏という言い方があり得るとすれば、チリ出身のアラウはドイツ系のどのピアニストよりも、その言葉に近いところにいた人ではなかったろうか。

チリ出身であるが、ピアノを勉強したのがドイツであったので、我々がドイツに持っているイメージ、つまり勤勉、実直、頑固、哲学的といった概念をそのままピアノ音楽にしたような、グルダともブレンデルとも全く違うベートーヴェンが聞こえてくる。

軽く薄っぺらなベートーヴェンが横行する時代にあって、アラウのそれは素朴だがどっしりとした手応えがあり、聴き手の心にじわじわしみ込んでくる独特の説得力がある。

悠揚迫らぬテンポで格調高く歌い続けてゆくアラウの強靭な精神が、聴き手を捉え、耳を傾けさせる。

アラウにとっては1980年代の再録音も名演の名に恥じない演奏だが、多少のテクニックの衰えは否めない。

しかしここでの彼は押しも押されもしない堂々たる風格を持った表現で、また華麗な技巧を縦横に駆使して、極めてスケールの大きな演奏になっている。

同時代に録音された同ソナタ全集ではケンプのものが飄々として何物にも囚われない特有の哲学的な味わいを漂わせているのに対して、アラウのそれはピアノという楽器独自の音響を追究し、またその多様性を充分に活かした骨太な演奏でケンプと共に双璧を成していると言えるだろう。

この12枚のセットには幸い1952年の『ディアベッリ』が組み込まれ、古いモノラル録音でいくらかヒス・ノイズが気になるが、その滔々と流れる大河のような壮大なピアニズムは、聴き終えた後に無類の感動をもたらしてくれる。

デッカ・コレクターズ・エディション・シリーズのクラム・シェル・ボックス・セットで曲目紹介、録音データの他に簡単なライナー・ノーツが英、仏、独語で掲載されている26ページのブックレット付。

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スイスのリコーダー奏者モーリス・シュテーガーのニュー・アルバムはヴィヴァルディの笛のための協奏曲集で、あたかも作曲家の霊感に取り憑かれたかのような彼が、殆んど曲の様式を崩壊させてしまう一歩手前までテンポを速め、多彩なアーティキュレーションと悪魔的なテクニックを駆使して吹きまくるスリルに満ちた演奏集だ。

それは伝説として語り継がれているヴィヴァルディ自身の、あらゆる技巧を盛り込んだカリスマ的ヴァイオリン奏法を意識したパフォーマンスに違いないが、一方でそれぞれの緩徐楽章で聴かせる歌心の表出は美しく、彼が決してゆったりしたメロディーを持て余す人ではないことを証明している。

また随所を飾るイタリア式装飾の華麗なアドリブも手馴れたものだ。

特にトラック18-20の『フルートとオーボエ、ファゴットと通奏低音のための協奏曲ト短調』RV103がソロの独りよがりではなく精緻なアンサンブルで特有のメランコリーを醸し出していて秀逸。

それにしても最後の『ごしきひわ』の鳥の鳴き声の模倣は愉快そのもので、バロックの合奏の楽しみを満喫させてくれる。

スイスのオルガニスト、ディエゴ・ファソーリス指揮するピリオド・アンサンブル、イ・バロッキスティの演奏は打てば響くような反応が見事で、かえってシュテーガーを煽るような挑発的なサポートでソロに拮抗していて息もつかせない緊張感を持続させている。

メンバーひとりひとりがソリストとしての技量を持っているが、アンサンブルとしての結束も固く、全体として統一のとれた協奏曲集に仕上がっている。

スイス、ルガーノにおける今年2014年1月から3月にかけてのセッションで、彼らのアグレッシヴとも言える音響を良く捉えた鮮やかな音質と豊かな臨場感が特徴的だ。

CD版のライナー・ノーツによると今回のシュテーガーの使用楽器はRV443ではデンナー・モデルの3本のC管ディスカントを使い分けている。

RV439、566、103にはブレッサン・モデルの2本のF管トレブル、RV95及び90にデンナー・モデルのG管トレブル、更にRV375にデンナー・モデルB管デスカントと多様な音色を披露しているが、その他にもこの曲集では『ラ・パストレッラ』でファソーリス自身が弾く珍しいハーディーガーディー(手廻し式ヴァイオリン)や前回ナポリのアルバムで登場したプサルテリウムも加わっている。

尚ピッチはa'=416Hzで、ミーントーンを調整した調律が採用されている。

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2015年08月02日


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ヴィヴァルディ、テレマン、ボワモルティエの室内協奏曲7曲を収録したCDで、演奏者のピリオド・アンサンブル、フィオリトゥーラは1995年にニューヨークで結成された。

ちなみにフィオリトゥーラは開花を意味するイタリア語だが、音楽用語としても華やかな装飾を指している。

彼らもアメリカでの盛んなバロック音楽嗜好を支えているアンサンブルで、中庸なテンポを設定したごく正統的な演奏が奇をてらったような印象を全く与えない。

また彼らの音楽はいたって快活で、古楽奏者としての気負いや野心的なところのない和やかな雰囲気が好ましい。

ヴィヴァルディの作品集の中にはフルートと弦楽合奏及び通奏低音の楽器編成で知られる『ごしきひわ』や『海の嵐』なども含まれている。

当時の演奏習慣では使用楽器の選択はソロ楽器の音域さえ一致するのであれば演奏者に任され、作曲家が厳密に指定した例はむしろ少ない。

またソロに通奏低音楽器をひとつ加えることによって大概の器楽曲の演奏が成立するという、バロック特有の融通性と広い可能性を示したサンプルだ。

この演奏では娯楽のための集いというリラックス感があるが、アンサンブルとしても良く修錬されていて、また個人的なテクニックも高水準にあるので、トリオ・ソナタなども聴いてみたい気がする。

基本的にソロ楽器のリコーダー、トラヴェルソ、オーボエ、ヴァイオリン及びファゴットに通奏低音としてチェロ、テオルボ、チェンバロが加わる8人が構成メンバーの総てで、曲によって適宜演奏者が交替している。

2003年の録音で教会内での豊かな残響を捉えた音質は良好だが録音レベルがいくらか低めで、音像が中央にまとまっているのでアンサンブルとしては良い響きが得られているが、臨場感はそれほどでもない。

ピッチは現在より半音ほど低いスタンダード・バロック・ピッチで、演奏者紹介と全員の使用楽器の明細が書かれたライナー・ノーツ付。

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名匠オスカー・シュムスキー(1917-2000)の本邦初のソロ・アルバム(国内盤は既に廃盤)が本盤に収められたバッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ》であった。

シュムスキーは1917年フィラデルフィア生まれ。8歳のときストコフスキーの招きで、フィラデルフィア管弦楽団とモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番を弾いてデビュー、神童と騒がれた。

その後アウアー、ジンバリストに師事し、NBC交響楽団団員、プリムローズ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリンなどを経て、1959年には指揮者としてもデビュー。当録音の行われた1975年からイェール大付属音楽学校で教鞭を執っている。

バッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ》は、作曲されてから約300年が経っているにもかかわらず、今なお世界のヴァイオリニストが弾きこなすのを究極の目標とするというのは殆ど驚異である。

しかも、無伴奏のヴァイオリン曲という分野でも、このバッハの曲を超える作品は未だに存在しておらず、おそらくは、今後とも未来永劫、無伴奏のヴァイオリン曲の最高峰に君臨する至高の作品であり続けるものと思われる。

1つの楽器に可能な限り有効な音を詰め込み、表現の極限に挑戦したバッハの意欲的な創作と、調性による曲の性格の違いを明確に描かなければならない難曲でもある。

そのような超名曲だけに、古今東西の著名なヴァイオリニストによって、これまで数多くの名演が生み出されてきた。

そのような千軍万馬の兵たちの中で、シュムスキー盤はどのような特徴があるのだろうか。

本演奏でシュムスキーが奏でる1715年製のストラディヴァリウス“エクス=ピエール・ロード”の瑞々しい響きは実に豊かだ。

そしてその美しい響きが織り成すバッハの音楽が、いかに若々しく精神的に充実していることか。

シュムスキーの年季の入ったテクニックは見事で、いかなるパッセージも苦もなく弾き進む。

しかも、そこにはいわゆる難曲を克服するといった観はみじんもなく、聴き手のイマジネーションを大きくふくらませてくれる、スケールの大きなバッハだ。

これは言葉のもっともよい意味での「模範演奏」と言えるものとして高く評価されてしかるべきである。

たとえば〈シャコンヌ〉では、ヨーロッパで19世紀以来培われてきた「伝統的」な演奏法のエッセンスがこのなかに結実している。

逆に「古楽器派」の人にはそこが癪にさわるのも、まあわからなくもない。

世評の高いミルシテイン盤と比較してみると、ミルシテインのバッハを大理石の彫像とするなら、シュムスキーの演奏は木彫りのイエス像である。

前者の音はどこまでも磨き抜かれ、ボウイングに一切の淀みはなく、造型は限りなく気高い。

一方、後者は、ノミの一打ち一打ちに「祈り」が深く刻まれた音で、鮮やかな刃跡の何という力強さ、自在さ。

これぞ、名匠中の名匠の技と言えるところであり、瞼を閉じて聴こえてくるは、百万会衆の祈りの歌。

愛称「ケンブリッジの公爵」から紡ぎだされる悠久のフレージングは、遥かな歴史をも語っている。

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ポリーニ&ティーレマンのブラームス第2弾で、ポリーニによる3度目のブラームスのピアノ協奏曲第2番の登場だ。

ポリーニは完全主義者として知られているだけに、レコーディングには慎重を期して臨むのが常であるが、そのようなポリーニが同じ曲を3度も録音するというのは異例のことであり、これはポリーニが同曲にいかに深い愛着を有しているのかの証左であると言えるだろう。

最初の録音は、アバド&ウィーン・フィルとともに行ったスタジオ録音(1976年)であり、ポリーニとアバドの激しいぶつかり合いが眼前に浮かぶほどの熱のこもった迫力ある演奏を展開していた。

これに対して2度目の録音は、アバド&ベルリン・フィルとともに行ったライヴ録音(1995年)であり、これはポリーニの個性が全面的に発揮された演奏と言えるところだ。

アバドは、協奏曲の録音を行う際にはソリストの演奏を下支えする役割に徹するのが常であり、そうしたアバド、そしてベルリン・フィルという望み得る当時最高の豪華コンビをバックとして、ポリーニがその個性と実力を十二分に発揮した演奏を展開していると言えるだろう。

もっとも、アバド&ベルリン・フィルによる演奏が無色透明であるだけに、当時のポリーニのピアノ演奏の欠点でもあるいささか無機的な技術偏重ぶりがあらわになっていると言えるところであり、同曲の味わい深さが必ずしも的確に表現し得ていないとも思われるところである。

したがって、一部には高く評価されている当該演奏ではあるが、筆者としてはあまり評価をしていないところだ。

そして、本盤に収められた演奏は、2度目の演奏から18年を経た後のものであるが、これは素晴らしい名演と評価したい。

そもそもポリーニのピアノ演奏が、1995年盤とは段違いの素晴らしさであると言えよう。

1995年盤に顕著であった技巧臭さえ感じさせる無機的な演奏など薬にしたくもなく、もちろん超絶的な技量は健在ではあるが、どこをとっても懐の深い豊かな情感が満ち溢れているのが素晴らしい。

これは、ポリーニの円熟によることは間違いがないところであり、ポリーニが演奏の技術的な正確さ、緻密さを追求するのではなく、このような情感豊かな演奏を行うようになったことに深い感慨を覚えるところだ。

このような演奏を聴いていると、ポリーニこそは名実ともに現代を代表する偉大なピアニストの1人であることを痛感せざるを得ない。

ポリーニとしては3度目の同曲の演奏ということになるが、3度目の正直との諺のとおり、漸く自他ともに満足できる名演を成し遂げることが出来たと言えるだろう。

かかる偉大なポリーニのピアノ演奏を下支えするティーレマン&シュターツカペレ・ドレスデンについては、このコンビならばもう少しハイレベルの演奏を望みたい気もしないでもないところだ。

同曲は、ピアノ伴奏つき交響曲との異名をとるだけに、同曲の分厚いオーケストレーションを活かしたより重厚かつ雄渾なスケールの演奏を望みたいと思った聴き手は筆者だけではあるまい。

ティーレマンは、将来を嘱望されている期待の独墺系の指揮者だけに、今後の更なる研鑽を大いに望んでおきたいと考える。

音質は、2013年のライヴ録音であるが、SHM−CD化によっても、特にオーケストラの音が必ずしも鮮明とは言えず、ポリーニのピアノタッチは比較的鮮明に再現されているだけに、実に惜しい気がする。

いずれにしても、本盤全体の評価としては、ポリーニの素晴らしい円熟のピアノ演奏とティーレマンの今後の更なる成長に期待して、本盤を推薦との評価をするのにいささかの躊躇をするものではない。

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2015年08月01日


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このCDではハンガリーの中堅古楽奏者2人、トラヴェルソのチャーログと鍵盤楽器奏者のシュパーニが、バッハの真作と認められている4曲のフルート・ソナタを採り上げている。

また音響の点でも現代の音楽ホールなどの広い空間で行うセッションとは全く異なった、宮廷でのプライベートなコンサートや友人達や音楽仲間の集いで演奏されたであろう、ごくインティメイトで奥ゆかしい音楽が再現されているところに特徴がある。

潤沢な響きに慣れた耳にはその素朴さにもの足りなさを感じるかも知れないが、ピリオド楽器とその奏法で綴ったデリケートな音楽語法と古風な音色は、バッハが作曲していた時代の音響感覚を探るためのサンプルとして興味深いものがある。

このセッションで特に彼らの工夫がみられるのは使用楽器の選択で、現在バッハのフルート・ソナタをピリオド楽器で演奏したCDは枚挙に暇がないが、当時の演奏習慣や可能性を考慮して、この録音では双方が2種類の楽器を使い分けている。

先ずホ長調BWV1035とホ短調BWV1034の2曲には、18世紀初頭の製作者不明のトラヴェルソのコピー及び1770年製のサクソン・モデルのクラヴィコードが用いられピッチはa'=408Hz。

一方イ長調BWV1032と大曲ロ短調BWV1030では、トラヴェルソが1740年製のクヴァンツ・モデルと1749年製のゴットフリート・ジルバーマン・モデルのフォルテピアノが使われていてこちらのピッチはa'=415Hzと微妙に異なっている。

古楽器コレクターとしても知られるシュパーニはこれらの楽器をライナー・ノーツに写真掲載している。

ラメーは古楽専門のドイツの新レーベルで、ここ数年間にレベルの高いユニークな演奏のCDを多くリリースしているが、ジャケットの装丁にも凝っていて、このCDではデジパックの前面に18世紀に使用されたダイヤル式マイクロ・メーターの写真が印刷されている。

3面の折りたたみで綴じ込みのライナー・ノーツには2人の演奏者それぞれによる、楽器とその響きへの考察が書かれていて、彼らがふたつの楽器の間にどのような音響とバランスを考えてこの録音に臨んだかが理解できるが、入門者向けとは言えないだろう。

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オトマール・スウィトナーは長くNHK交響楽団を指揮をしていたので日本になじみが深かった指揮者である。

この5枚組CDでは、スウィトナーが最も得意としてきたモーツァルトのオペラ演奏の最良の録音を聴くことができる。

スウィトナーは当然ながら自国の作曲家モーツァルトを重要なレパートリーにしていたが、この5枚組の作品集はベルリン・レーベルから2セットほどリリースされているうちの劇場用作品を集めたものでオペラ序曲集、『コシ・ファン・トゥッテ』全曲、そしてバリトンのヘルマン・プライ及びテノールのペーター・シュライアーとのアリア集がそれぞれ1枚ずつ加わっている。

ちなみにもうひとつの方は交響曲を始めとする6枚組のオーケストラル・ワーク集になる。

いずれもスウィトナーの生気に満ちて機知に富んだモーツァルトが鑑賞できる理想的なアルバムとしてお薦めしたい。

オーケストラは後半の2枚のアリア集がシュターツカペレ・ドレスデンで、それ以外は総てシュターツカペレ・ベルリンとの共演になる。

序曲集での疾走感と共に気前良く引き出す音響は彼の才気を感じさせるオリジナリティーに溢れたモーツァルトだ。

スウィトナーの仕事の中でもその基礎固めになったのがドレスデンとベルリンの国立歌劇場でのカペルマイスター、つまり楽長としてシーズン中のオペラやバレエの上演と定期的なコンサートの公演をすることだった。

純粋な器楽曲に比較すれば劇場用作品は歌手やコーラス、バレエとの下稽古、演出家との打ち合わせや舞台美術を伴ったリハーサルなど、煩雑な準備を経なければ実現できない。

それゆえカペルマイスターは高い音楽性の持ち主だが厳格であるよりはむしろ融通の利く、また制作に携わる人々や出演者から信頼を得る人柄が要求される。

実際スウィトナーの音楽を聴いていると八方を見極めて俯瞰しながら音楽をまとめていく稀有な才能を感じさせるし、作品のディティールは疎かにしないが細部に凝り過ぎず、全体に一貫する大らかなトーンを生み出す手腕はモーツァルトとも極めて相性が良い。

こうした声楽を含む曲種では歌唱だけでなく感情の機微を良く心得ていたスウィトナーの人柄が滲み出たサポートを聴くことができる。

またヘルマン・プライのアリア集は手に入りにくい状態だったので、ペーター・シュライアーの1枚と共にここに収録されたことを歓迎したい。

スウィトナーの柔らかなバックでプライが自由自在に歌う、その伝説的録音があざやかな音で蘇っている。

尚スウィトナーの80歳記念にリリースされた11枚組にはシルヴィア・ゲスティのソプラノによる、やはりドレスデンとの演奏会用コロラトゥーラ・アリア集が組み込まれているが、どちらにもバス用のアリア集が欠けている。

スウィトナーはバスのテオ・アダムともモーツァルト・アリア集を録音しているが総てバリトンのレパートリーで、『後宮』のオスミンや『魔笛』のザラストロなどの本格的なバスのためのアリアをオペラ全曲盤でしか聴けないのが残念だ。

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本盤にはチョン・ミュンフンがウィーン・フィルを指揮して演奏したドヴォルザークの弦楽セレナード及び管楽セレナード(2001年)が収められている。

ここでチョン・ミョンフンは、ウィーン・フィルという最高の楽器を用いて奏でた至芸を披露している。

チェコの民謡をほとんど感じさせず、ドヴォルザークの作品としては異色の2作品であるが、民俗的な表情に寄り掛からず、どっしりと遅めのテンポでオーケストラをたっぷりと歌わせた純音楽的な表現が新鮮な感動を呼ぶ。

何事にも全力投球で取り組み、完全燃焼するチョン・ミュンフンは、ウィーン・フィルとともに既にドヴォルザークの交響曲第3番及び第7番の録音(1995年)及び交響曲第6番及び第8番の録音(1999年)を行っており、見事な成果をもたらした。

本盤は同コンビによるドヴォルザーク作品集第3弾ということになるが、今回も美しい旋律を持つこの2作品を強い説得力をもって語りかけ、情感豊かな歌に満ちた名演に仕上がっている。

最近では、その芸風に円熟味が加わると同時にやや元気がなくなり、いささか影が薄い存在になりつつあるチョン・ミュンフンであるが、1980年代後半から2000年代前半にかけてのチョン・ミュンフンの演奏は実に魅力的であった。

本演奏でもそれが顕著にあらわれているが、この当時のチョン・ミュンフンの演奏に共通していたのは、ひたすら曲想を前に進めていこうとする気迫と、切れば血が噴き出てくるような生命力溢れる力強さであったと言える。

それ故に、テンポは若干速めであると言えるが、それでいていわゆる上滑りをしたり、薄味の演奏に陥ることはいささかもなく、どこをとっても豊かな情感に満ち溢れているのが素晴らしいと言える。

ドヴォルザークの弦楽セレナードは比較的ゆっくりとしたテンポで演奏されることが多いが、チョン・ミュンフンのテンポは軽快で、フレージングの仕方もさすがと言わざるを得ない。

また、チョン・ミュンフンは必ずしもインテンポに固執しているわけではない。

一聴すると、音楽がやや速めのテンポでごく自然に滔々と流れていくように聴こえるところであるが、随所にテンポの微妙な変化を加えたり、はたまた格調の高さをいささかも失うことなく個性的な表情づけを付加するなど、実に内容の濃い演奏を行っているのがわかるところである。

そして、本演奏をさらに魅力的なものにしているのは、ウィーン・フィルによる美しさの極みとも言うべき名演奏であると言えるところであり、演奏全体に適度の潤いとあたたかみを付加しているのを忘れてはならない。

チョン・ミュンフンの音楽性豊かな指揮の下、極上の美演を展開したウィーン・フィルに対しても大きな拍手を送りたいと考える。

特に弦楽セレナードでは、さすがウィーン・フィルと思わせる高音部の音のきらめき、粒の均一さを感じることができる。

中でも第1楽章の最後では、テンポが動きやすく、しかもトリルが連続する難しい場面の音の揃え方は、見事の一言に尽きる。

ウィーン・フィルの美質を見事に生かしきったチョン・ミュンフンによる演奏は、数々の名盤にも決して引けをとらない名演と言えるだろう。

本演奏の素晴らしい出来具合などに鑑みれば、チョン・ミュンフンには是非ともウィーン・フィルとともに、ドヴォルザークの交響曲全集を完成させて欲しいと思っている聴き手は筆者だけではあるまい。

録音は、従来盤でも十分に満足できる音質ではあるが、チョン・ミュンフンによる素晴らしい名演でもあり、今後はSHM−CD化、そして可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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