2015年09月

2015年09月06日


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本盤に収録されているモーツァルトの音源は同じくプラガ・ディジタルスのSACDシリーズでも既にリリースされていたもので、それにウェーバーのクラリネット五重奏曲を加えてレギュラー盤CDとしてリイシューされた。

元々2001年から2003年にかけてのDSD方式によるスタジオ録音であるために音質が極めて良好で、SACDではないが高度な鑑賞にも充分堪え得るものだ。

フランスのクラリネッティストの第一人者でパリ管弦楽団の首席奏者としても知られ、またモラゲス木管五重奏団のメンバーでもあるパスカル・モラゲスは、それまでのフランス人管楽器奏者のオープンで官能的な音色とはやや趣を異にするドイツ系のしっかりした音作りを学んでいるが、音楽的な創意やフレーズ感には紛れもなくフランスの伝統的な奏法が滲み出ていて、この曲集でも彼の洗練されたセンスがモーツァルトやウェーバーにも活かされている。

モーツァルトのピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲変ホ長調『ケーゲルシュタット・トリオ』K.498は、当時クラリネットの名手で友人でもあったアントン・シュタットラーの演奏を前提に作曲されたようだが、作曲技法は既に完成していて、僅か1日で書き上げた作品とは信じ難い、三者が緊密に織り成すアンサンブルが聴きどころだ。

ピアノ・パートはパリ音楽院出身でモラゲスとは旧知の仲でもあるフランク・ブラレーが受け持って、トリオの要を抑えている一方で、作曲家メンデルスゾーンの末裔のヴィオラ奏者ヴラディミル・メンデルスゾーンのヴィオラがこの曲を一層精彩に富んだものにしている。

続くクラリネット五重奏曲イ長調K.581の協演はプラジャーク弦楽四重奏団で、弦の国チェコのアンサンブルに相応しく瑞々しいしなやかな音色が生き生きとした彼らの音楽に反映されている。

また弦楽部に支えられたモラゲスのソフトなソロが印象的で、やはりドイツ系の奏者とは一線を画した陰翳に富んだカラフルな表現が美しいし、イン・テンポで媚びるようなところはないが、シンプルな情緒の中に醸し出される幸福感が秀逸だ。

最後のウェーバーのクラリネット五重奏曲変ロ長調は、事実上クラリネットのための小編成の協奏曲といった書法で、非常に器用に書かれているがアンサンブルとしての妙味よりもソロの名人芸を前面に出した小気味良さが特徴で、中でも終楽章ロンド、アレグロ・ジョコーソでのモラゲスの鮮やかなフィナーレは爽快だ。

パスカル・モラゲスがこれまでに録音したレパートリーはアンサンブル作品が大半で、またそのジャンルでの能力が高く評価されているので、彼のユニークな解釈によるこうした作品集は聴き逃せないが、ソナタや協奏曲なども是非聴いてみたい興味深い演奏家の1人だ。

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2015年09月05日


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ワルターはモーツァルトの「第40番」を最も得意なレパートリーの1つにしており、レコードにも数々の名演を遺したが、その中のベストは1952年5月18日にウィーンのムジークフェラインザールで行われた演奏会の実況録音である。

従ってこれはワルターの全レコード中でも特筆すべきものと言えよう。

当日のプログラムはこの「第40番」のあとにマーラーの歌曲と「大地の歌」が組まれたわけで、よだれが出るとはこのことである。

ワルターの「40番」では、ニューヨーク盤は仕上げが完璧であるが、寂寥感に欠け、その点でかなり満足させられるベルリン国立盤とコロンビア盤には表現上の欠点がある。

ウィーン盤はこれらの短所を補うとともに、ウィーン・フィルの魅力と、実演の長所を併せ持ち、録音も当時の実況盤としては十二分に満足し得るものであり、ワルターを愛する人はもちろん、この曲に心惹かれる人にとっては絶対に聴き逃せぬ名盤である。

第1楽章はテーマにつけられた上行ポルタメントの懐かしさがすべてだ。

この美しい主題をこれ以上チャーミングに指揮した人はおらず、ワルターもウィーン・フィルだからこそ、これだけ思い切ってできたのであろう。

テンポはむしろ速めで、第2テーマ以外はテンポの動きもあまり目立たず、表情、音色とも、極めて透明に運ばれる。

しかし細部のニュアンスはほとんど即興的と思われるほど自然に生きており、例の再現部のルフトパウゼも最高だ。

この楽章全体を通じて〈美への激しい祈り〉〈より美しいものへの魂の羽ばたき〉を実感させ、漲るような憧れの情が極まって哀しさを呼んでいる。

聴いていて、どこまでがワルターで、どこまでがウィーン・フィルで、どこまでがモーツァルトなのか判然としない。

造型的にも完璧の一語に尽きよう。

第2楽章も速めで、音楽は常に弱めに、静かに、虚無感を湛えて運ばれ、それが聴いていてたまらない。

まさに〈秋の野をひとり行くモーツァルト〉である。

リズムの良さ、敏感さ、瑞々しくも寂しい漸強弱、そして第2テーマの何というピアニッシモ! その直前の何という感情の高まり!

しかもそれらはいかにも融通無碍、あたかもワルター自身がピアノを弾くような即興性をもって行われてゆく。

ワルターの到達したこの境地に深く頭を下げずにはいられない。

メヌエットは速めに、きりりと造型されており、ニューヨーク盤の豊かさ、コロンビア盤の大きさといった特徴がないので、全曲中ではやや物足りなさを感じさせるかも知れないが、その不満もトリオが解消してくれよう。

弦の三度のハーモニーは人間の心そのままを伝えている。

フィナーレは出のテンポとリズムの良さにハッとする想いで、第2テーマで遅くする呼吸もこたえられない。

まさにワルターの類稀な才能の表われと言えよう。

この部分のウィンナ・クラリネットの溶けるような柔らかさも絶品で、第1稿のオーボエ版ではこの美しさは出ない。

全体の響きに濁りのないウィーンならではで、音色だけで心をとらえられてしまうのである。

モーツァルトの世界にこんな演奏を持てたことに、われわれは心から感謝しなくてはならないだろう。

カップリングの「第25番」はザルツブルク音楽祭における実況盤であるが、会場のせいか残響に乏しく、そのためもあってワルターの表現も非常に厳しく、真剣勝負的に聴こえる。

ワルターのモーツァルトで、これほど深く内容を抉った、凄まじい迫力に満ちた演奏はごくごく少なく、第1楽章の疾風怒濤、第2楽章の弦の歌、第3楽章の慟哭の響き、第4楽章の終結の一刀入魂とも言うべき決め方、いずれも見事である。

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1974年と75年、バイロイト音楽祭に於ける、カルロス・クライバー指揮の《トリスタンとイゾルデ》上演の貴重な記録。

バイロイトは1962年からのヴィーラント・ワーグナー演出、カール・ベーム指揮による《トリスタン》が1970年に終了した後、次の《トリスタン》を準備する時期になっていた。

バイロイトの新しい《トリスタン》にふさわしい指揮者といえば、カラヤンではあったのだが、カラヤンは既にザルツブルクで復活祭音楽祭を始めていた。

これに対抗できる当時の指揮者といえば、たったひとり、バーンスタインだったのだが、条件が折り合わず、他の指揮者を探すことになったという。

結果、バイロイトが選んだのが、一部では人気が出ていたが、まだ世界的な名声とは無縁で、この時44歳、いま思えば若い指揮者だったクライバーであった。

新しい《トリスタン》の演出はアウグスト・エヴァーディングで、当時から立派な性格と卓越した話術と抜群の政治力と凡庸な演出力で知られ、めざましい舞台も期待できないと思われたが、事実その通りになった。

イゾルデはカタリーナ・リゲンツァで、これ以外はあり得ないという選択だ。

ニルソンのような輝かしい声や切れ味で勝負するソプラノとは違い、繊細な声と表現力とで、女性的な性格の濃いイゾルデを歌う。

この人としても最高の出来だったのだろう、情熱と優しさが一体となったイゾルデが現れた。

でも問題がトリスタンであった。この頃ワーグナー・テノールは全滅状態で、トリスタンやジークフリートを歌う歌手はいたが、歌える歌手はいなかった。

ヴォルフガング・ヴィントガッセンの時代はもう終わり、ルネ・コロとペーター・ホフマンの時代はまだ始まっていなかった。

結局ヘルゲ・ブリリオートが歌ったが、悲しい人選というほかなく、よく探して、コロに歌わせればよかったのに、と思うのは、後になってから生まれる感想だ。

カラヤンの《神々の黄昏》でジークフリートを歌い、全曲盤で聴けるが、これが精いっぱいだったのか表情はかなしそうで、「かなしみのトリスタン」には合っているとも考えられるのだが、声がかなしいのは困る。

しかし、トリスタンが弱くてもなお、クライバーの《トリスタン》は凄かった。

悲しみの底に沈んでゆくような精緻な美が後のセッションの全曲盤の本領であるのに対し、バイロイトのは激しい情念が渦巻くような演奏だ。

前奏曲から、かろうじて抑制しているが、その抑制が限界に達しているのが感じられる。いつ奔り出てもおかしくない。

異様な緊迫感で始まった演奏は、2人が愛の薬を飲んで、ついに抑制された感情は堰を切ってしまう。その後は手を握りしめ、衝撃に耐えるほかなくなる。

クライバーの激しくも悩ましい指揮の素晴らしさは圧倒的で、この楽劇からかび臭さを剥ぎ取った。それは実に若々しく、また初々しい感情表現に溢れた表現であり、この楽劇の演奏史を塗り替えたと言ってもよいであろう。

クライバーの指揮で聴いているとトリスタンとイゾルデは本当に若い。若者の恋愛劇に聴こえてくるし、2人は媚薬など飲まなくとも、絶対に求め合い、結ばれたはずだとの確信すら持つようになってしまう。

それほどクライバーの演奏に充満している感情は激しく、血は濃く、生命の鼓動が渦巻いている。当然のことに演奏全体に勢いと推進力があり、ドラマは前へ前へと展開、いささかも漫然とすることがない。

しかもワーグナーの本場バイロイトのオーケストラの美質を最大限に生かしたサウンドの素晴らしさも格別であり、聴き手は馥郁たる美音の饗宴に、ドラマとはもう一つ別の陶酔的興奮すら覚えてしまうほどである。

若きクライバーは音楽を瞬時も停滞させることなく、ぐいぐいと引っ張っていくエネルギッシュな演奏は、ワーグナーのヴェズリモを聴くかのようである。この革新性は誰にも真似のできない世界であった。

バイロイト音楽祭にデビューした当時のクライバーはカリスマではなかった。なったのはこの夏だったのだ。

クライバーの《トリスタン》は、確かに圧倒的だった。だが原理は過去のものだったのではないだろうか。溢れる官能、愛と死の勝利。ワーグナーが夢見たワーグナーというべきか。クライバーの強烈な個性は、失われつつある過去の美を呼び起こす。ロマン派の美学は蘇り、現代の美を圧倒してしまう。

クライバーの驚くべき高みに達した《トリスタン》上演は、74・75・76年の3回続き、その間にクライバーは神話的な指揮者になっていた。

《トリスタンとイゾルデ》が、時の美を映すだけの演奏を獲得できる作品で、その最高の例が1970年代半ばの名演に現れたのは確かだ。

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2曲の協奏曲はいずれもレギュラー盤CDで入手可能で、演奏についてもそれぞれが名盤の名に恥じないセッションだが、エロクエンス・レーベルが低価格のSACDをシリーズで提供しているところがセールス・ポイントになる。

廉価盤なのでライナー・ノーツは省略されているが、音質の向上ははっきり聴き取れるし、天井が一段高くなったような音場の拡がりと鮮明な音色が通常のCDを凌駕している。

オーケストラはどちらもウィーン・フィルで、ソロにアルフレート・プリンツを迎えたクラリネット協奏曲イ長調はカール・ベーム指揮で1973年、フリードリヒ・グルダの弾くピアノ協奏曲第21番ハ長調はクラウディオ・アバドの指揮で1974年の録音になる。

クラリネット協奏曲でベームは穏やかなテンポを設定して安らぎの中に天上的なモーツァルトの音楽を創造している。

プリンツのオープンで明るい音色と特有のフレージングは良くそれに呼応して、彼らに共通するウィーン流美学を音響化しているのは流石だ。

一方グルダのソロにはラフな快活さがあり、滞ることのない自然体の流れが美しく、アバドは一点の翳りも無い常に明快なオーケストレーションで聴き古された名曲を活性化しているのが印象的だ。

カール・ベームは彼の晩年に当たる1972年から76年にかけて、当時のウィーン・フィルの首席奏者達とモーツァルトの管楽器が加わる協奏曲を集中的に録音した。

フルートのトリップ、オーボエのトレチェク、クラリネットのプリンツ、ファゴットのツェーマン、ホルンのヘーグナーなどの名手を起用した協奏曲集は黄金期のオーケストラの実力と余裕を窺わせるだけでなく、ウィーン仲間として巨匠との友好的な関係を示している。

それに対してアバドは当時ウィーン・フィルに客演を始めた頃だったが、既にこの伝統を引っ提げた楽壇にも新風を吹き込んで、大いにその影響を波及させていた颯爽たる勢いを秘めていて、ベームの円熟の境地とは明らかに対照的だ。

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2015年09月04日


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2014年1月20日に亡くなった巨匠クラウディオ・アバドが、2013年3月にマドリードで行った演奏会から、モーツァルトのオーボエ協奏曲とハイドンの協奏交響曲がディスク化。

常に音楽に真摯に向き合い、明晰でバランスの良い演奏を目指して最善をつくすアバドの指揮は、そのどれもが素晴らしく、協奏曲では独奏者とオーケストラの演奏をコントロールするだけでなく、最良の形で音楽が表現されるように心がけおり、その姿勢は晩年も一切変わることはなかったと言える。

クラウディオ・アバドは晩年手兵のモーツァルト管弦楽団を率いて、ドイツ・グラモフォンからモーツァルトの器楽作品を体系的にリリースし始めた。

特に管楽器のための協奏曲では全曲録音を構想していたようだが、残念ながらそれは彼の死によって達成されなかった。

残された曲はフルート協奏曲第1番ト長調及びオーボエ協奏曲ハ長調の僅か2曲だったが、後者は既に同じメンバーで録音されていた。

それがここに収録された音源で、何故かスイス・クラヴェスからのリリースになる。

録音は2013年3月にスペインのサラゴサとマドリードで行われたもので、ライヴだがこれまでどおり客席からの雑音や拍手は一切なく、また音質も極めて鮮明でグラモフォン盤に優るとも劣らない。

尚カップリングはヴァイオリン、チェロ、オーボエとファゴットが加わるハイドンの協奏交響曲変ロ長調で、こちらもアバド晩年の境地を示した、シンプルな中にも繊細で豊かな音楽性に彩られた演奏が素晴らしい。

アバドは後進の育成にも余念がなかった。

ヨーロッパの各地に新しいオーケストラを創設し、優れた新人に演奏の機会を与え、彼らの才能を伸ばし演奏家として世に送り出すことを自身の仕事の一部として自覚していたようだ。

スペイン人のオーボエ奏者ルーカス・マルシアス・ナバッロもその1人で、個性派ではないがしっかりした音楽性と精緻で揺るぎないテクニックを備えている。

急速楽章で聴かせる鮮やかなヴィルトゥオジティにも幅広いダイナミズムが駆使されているし、第2楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポではモーツァルトが書いた恒久的な安らぎを感じさせるカンタービレが極めて美しい。

アバドの指揮はオーケストラから重厚な響きを避けて、軽快で透明感のある音色にきめ細かい指示を徹底させた、この時期特有の彼の哲学が反映されている。

一方ハイドンの協奏交響曲ではフレッシュで息の合ったアンサンブルが傑出している。

ソリストはナバッロの他にヴァイオリンのグレゴリー・アース、チェロのコンスタンティン・プフィッツそしてファゴットのギヨーム・サンターナが受け持っているが、彼らはそれぞれがアバドの薫陶を受けたモーツァルト管弦楽団の首席奏者であり、オーケストラの質の高さを示している。

モーツァルト管弦楽団はアバドが2004年に創設した若い演奏家を集めて創設したオーケストラ。

アバドと2011年8月よりモーツァルトの管楽協奏曲の演奏会&ライヴ録音を行ってきたが、この演奏会でもアバドが絶大なる信頼を寄せていた若手実力派をソリストに起用し、新鮮さ溌剌さをもった演奏を披露。

アバドに見出された若手演奏者たちが全身全霊をこめて演奏した、アバドの忘れ形見的な記念碑的ライヴ録音と言えるだろう。

3面折りたたみデジパック入りで、31ページほどの仏、独、英語による綴じ込みライナー・ノーツ付。

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ラファエル・クーベリックが1960年から63年にかけてケルン・フンクハウスでケルン放送交響楽団を振ったコンサート・ライヴからオルフェオ・レーベルが3枚のCDにまとめたもので、総てモノラルだが録音レベルが高く、ホールでのオーケストラの音響の広がりも良好だ。

マスター・テープの保存状態も良くノイズが殆んどなく、また客席からの雑音や拍手も全く入っていない。

放送用音源として制作されたようだが、モノラルでのライヴ録音としては理想的と言えるだろう。

ドイツ放送協会のアーカイヴにはコンサート・ライヴやラジオ放送用の良質な音源が豊富に残されていて、根強いクラシック・ファン層とその厚さを感じさせるが、また埋蔵量的にも未発掘音源再発見の可能性が期待できるのも事実だ。

オーケストラは全曲ともケルン放送交響楽団で、ヨーロッパを代表するいわゆる名門オーケストラではないにしても、クーベリック自身やギュンター・ヴァントなどの客演指揮者によって鍛えられた、良い意味で職人的な融通性と機動力を備えた楽団だ。

第1曲目のシューマンのチェロ協奏曲イ短調でもやはり音質の良さに先ず驚かされるが、シュタルケルの緊張感に満ちた輝かしく鮮烈なソロを更に引き立てるクーベリックの力強く颯爽とした指揮がシューマンの若々しい曲想を見事に再現している。

数あるチェロ協奏曲の中ではかなり屈折した性格を持っていて、表現方法も名技主義に頼るだけでは済まされない曲だが、彼らの演奏はこの作品の真価を示したサンプルと言えるのではないだろうか。

それに続くハイドンの2曲の交響曲はCD3のメンデルスゾーンの交響曲第5番と並んでクーベリックの他の録音では聴けない珍しいレパートリーで、ハイドンの聴き古された名曲から楽器間のバランスとダイナミズムを工夫して積極的に新鮮な響きを引き出し、生命力に溢れた音楽を再構築している。

CD2のメンデルスゾーンの序曲『フィンガルの洞窟』は音画的な情景描写よりもむしろ曲中でのテーマの劇的な対比の美しさを示したクーベリックらしい表現だ。

一方クラウディオ・アラウをソロに迎えたシューマンのピアノ協奏曲イ短調は、この曲集の中ではやや異なった趣を持っている。

アラウの表現にはいくらか大時代的なロマンティシズムの片鱗が残っていて、必ずしもクーベリックの音楽作りとは一致していないが、ここで彼は円熟期の巨匠のスケールの大きなピアニズムに敬意を払って忠実に支える側に回っていると言えるだろう。

交響曲第3番変ホ長調『ライン』でも彼の解釈はおよそ標題音楽という枠に囚われない、音楽的なオリジナリティーが横溢している。

第4楽章の金管楽器の荘重なコラールから第5楽章への堰を切って溢れ出るような曲想の再現と開放感が爽快だ。

このセットでは唯一クーベリックの故郷チェコの作品になるのがドヴォルザークのピアノ協奏曲ト短調で、作曲者の原典版はオーケストラの充実振りに比較して、協奏曲としてはピアノが意外に素朴でソロが大活躍する華麗な作品とは言えないが、ここでフィルクスニーが弾いているピアノ・パートは、よりヴィルトゥオーソに装飾されたクルツ版にフィルクスニー自身が手を入れた折衷版のようだ。

そのことへの賛否はともかくとして、2人のチェコ人がオリジナルとは一味違ったスペクタクルな雰囲気を創造しているのが聴きどころだ。

最後のメンデルスゾーンの交響曲第5番ニ短調『宗教改革』は、第3楽章の瑞々しい美しさと対照的に終楽章のフーガからコラールの主題が戻るコーダへの情熱的でパワフルな盛り上げがひときわ華やかな効果を上げている。

クーベリックとしては稀な演奏だが、このコンサートが催された10月はドイツのルター派教区ではリフォーメーションの祝日を控えているので、それに因んでの選曲と思われる。

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フルトヴェングラーやトスカニーニ、ワルターなど、綺羅星の如く大巨匠が活躍していた20世紀の前半であったが、これらの大巨匠は1960年代の前半には殆どが鬼籍に入ってしまった。

そうした中で、ステレオ録音の爛熟期まで生き延びた幸運な大巨匠(それは、我々クラシック音楽ファンにとっても幸運であったが)こそは、オットー・クレンペラーであった。

クレンペラーは、EMIに対して膨大な点数のスタジオ録音を行ったが、その大半はこの大巨匠の指揮芸術の素晴らしさを味わうことが可能な名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

そうした押しも押されぬ大巨匠であるクレンペラーのレパートリーの中心は独墺系の作曲家の楽曲であったことは異論のないところであるが、そのすべてが必ずしもベストの評価を得ているわけではない。

特に、本盤に収められたワーグナーの管弦楽曲集については、賛否両論があるものと言えるだろう。

当時の独墺系の巨匠指揮者に共通するものとして、クレンペラーも歌劇場からキャリアをスタートさせただけに、ワーグナーのオペラについても得意のレパートリーとしていた。

本盤には、ワーグナーの有名な管弦楽曲である歌劇「リエンツィ」序曲、歌劇「さまよえるオランダ人」序曲、歌劇「タンホイザー」序曲、歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲、第3幕への前奏曲、楽劇「マイスタージンガー」第1幕への前奏曲、楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死、そして長大な楽劇「ニーベルングの指環」からの抜粋などが収められている。

このうち楽劇「ニーベルングの指環」については、クレンペラーは若き日より何度も指揮を行ってきたところであるが、残念ながらライヴ録音も含め現時点では全曲録音が遺されていないようである。

本盤の各楽曲のアプローチは、クレンペラーならではの悠揚迫らぬゆったりとしたテンポ設定による重厚かつ剛毅とも言えるものであり、どれも強い表現意欲に突き動かされたような名演ばかりだ。

どれもクレンペラーの演奏の特徴である、動的というより静的、でも細部の隈取がクリアで、いつも巨大なあざやかな壁画を眺めているようなところが良く現れた演奏となっている。

全体に寸分の揺るぎもない重厚な演奏で、そのリズムは、巨人の足どりのようにずっしりと重いが、これが本当のワーグナーの響きというものだろう。

フルトヴェングラーのようなテンポの思い切った振幅やアッチェレランドなどを駆使したドラマティックな表現などは薬にしたくもなく、限りなくインテンポを基調したものと言える。

テンポ設定だけを採れば、同時代の巨匠で言えば、ワーグナーを十八番としていたクナッパーツブッシュの演奏に限りなく近いと言えるが、深遠かつ荘重な演奏とも言えたクナッパーツブッシュの演奏に対して、クレンペラーの演奏は、深みにおいては遜色がないものの、前述のように剛毅で武骨な性格を有していると言えよう。

これは、クレンペラーによるブルックナーの交響曲の演奏にも共通するところであるが、アクセントなどがいささかきつめに聴こえるなど、聴きようによっては、作曲家の音楽というよりは、クレンペラーの個性の方が勝った演奏になっているとも言えなくもない。

ことに、「ローエングリン」の格調の高さは特筆に値するが、そうした演奏の特徴が、前述のように、クレンペラーによるワーグナーの管弦楽曲集の演奏に対する定まらない評価に繋がっているのではないかとも考えられるところだ。

もっとも、こうした演奏は、他の作曲家、例えばベートーヴェンやマーラーの交響曲などにおける歴史的な超名演との極めて高い次元での比較の問題であり、そうした超名演との比較さえしなければ、本盤の演奏を一般的な意味における名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

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2015年09月03日


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とある影響力の大きい某評論家によって不当に貶められている演奏であるが、筆者としては、「メリー・ウィドウ」史上最高の名演と高く評価したい。

甘美な旋律を歌わせながら、豊かな表現力で生き生きと描きあげた「メリー・ウィドウ」は、魅力たっぷりで、カラヤンならではの精緻で磨き抜かれた華麗な演奏を堪能できる。

名演となった要因の第一は、やはりカラヤン&ベルリン・フィルの雰囲気満点の名演奏ということになるであろう。

歌手たちの歌いっぷりと合わせて実に堂々としていて、それでいて優美で愉悦感もあって、圧倒的に素晴らしい。

特に、第2楽章のワルツや第2楽章と第3楽章の間にある間奏曲の美しさは、ライバルであるマタチッチ盤やガーディナー盤など全く問題にならないほどの極上の美演である。

これ以外にも、随所に見られる詩情溢れる抒情豊かな旋律の歌い方も完全無欠の美しさであり、ここぞという時の力強い表現も見事の一言である。

ただ管弦楽のベルリン・フィルが個性が強すぎるのか、よりコンサート的な演奏になっている感じがするのは否めない。

歌手陣も、いかにもカラヤン盤ならではの豪華さで、全く隙を感じない絶妙な配役である。

その扇の要にいるのはダニロ役のルネ・コロということになるが、ハンナに対する心境の微妙な移ろいを絶妙の歌唱で巧みに表現しているのはさずがという他はない。

また、ハンナ役のハーウッド、ヴァランシエンヌ役のストラータス、ツェータ男爵役のケレメン、そしてカミーユ役のホルヴェークも最高のパフォーマンスを示しており、これらの五重唱の極上の美しさにはただただため息をつくのみ。

カラヤンの演奏の巧さは言うまでもないが、この録音の特徴は色々な意味で純然たるスタジオ録音のオペレッタという点にある。

巨大なスケールの演奏で、すでにこのオペレッタに馴染んでいる人には少々違和感があるかも知れない。

だが、ベルリン・フィルの途轍もない美音とルネ・コロの名唱の前に、すぐそんなことは忘れてしまう。

第2幕の二重唱「すべてパリ風に」で低弦が猛烈なアタックをかけてくるところはまさに震えがくるような、足元がポッカリ空いたような浮遊感に、カラヤンが構築した美の空間にスッポリとはまってしまった。

20世紀の開幕期に発表されたこの作品、あるいはこのどこか未来的、人工的で、どこまでも続くかのような広がりを感じさせる演奏は、意外と曲の本質を突いているのかも知れない。

ちなみにカラヤンはウィーン・フィルとJ.シュトラウス「こうもり」を、DECCA及びライヴでの音源が残しているが、その演奏と比べると、はるかに引き締まった演奏を展開している。

随所にオーストリア出身の独特な個性を感じるのは、フィルハーモニア管と録音したJ.シュトラウス「こうもり」同様である。

これを聴くと、カラヤンがベルリン・フィルと「こうもり」をDGに録音しなかったのが極めて残念でならない。

録音は、通常盤でもなかなかの高音質である。

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生粋のフランス人でありながら、ベートーヴェンやシューマンなどドイツ音楽にすこぶる付きの名演を残したイーヴ・ナット。

ナットは1956年8月31日にパリでその生涯を終えていることからもわかるように、その録音はすべてモノーラルであるが、彼ほど強烈な印象を与えられたピアニストも数少ない。

筆者がナットの録音を初めて耳にしたのは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集で、これはフランス人の手になる初めての全集であったが、彼の後にベートーヴェン全集を録音したフランスのピアニストは、ハイドシェックくらいだろう。

ベートーヴェンの音楽と言えばゲルマン的気質の最たるものと言えるところであり、古くはシュナーベルからバックハウス、ケンプ、それにグルダやブレンデルなど、ゲルマン系の演奏家による名演がしのぎを削っている中で、わざわざフランス系の演奏を聴こうとは当初は思ってはいなかった。

だがナットの演奏は、マルセル・プルーストが「彼の演奏は極めて偉大で……彼の姿は視界から消えて、作品への窓に過ぎなくなってしまう」と書いたように、非情なまでに作品に献身的であり、そのベートーヴェンやシューマンはいつまでも人類の宝である。

“ベートーヴェンを読む”ことに生涯をかけて悔いのなかったナットの演奏が、こうして聴けることは誠に喜ばしい。

その非情なほどに私情をまじえない姿勢は、バックハウスにも共通していることである。

明晰な打鍵から生み出される濁りのない音色を駆使して奏でられる透明な音像は、それだけでもゲルマン的なベートーヴェン表現とは一線を画した個性的で新鮮な魅力にあふれているが、それが楽曲の構造の隅々までをも、一切の曖昧さを残さず、実にくっきりと描き出しているのに感心することしきりであった。

特に中期から後期にかけての作品で、ナットの演奏は実に厳しく、フランス的な知性と思弁が捉えたベートーヴェンをはっきりと聴くことができる。

打鍵は明晰であるだけでなく力強く深さを持っているため、中期ベートーヴェンの覇気や推進力も見事に表現されるが、それがやみくもに猪突猛進的となるのではなく、あくまで理性によって強力に統御されているため、崇高な精神の輝きとして感じられるのも印象的であった。

ナットは作曲にも相当の才能があったと伝えられているが、それは当然、彼の説得力に満ちた作品の描き方や核心を突く演奏につながったと思われるが、後期曲集などを聴いていると、彼の解釈が優れていたのは、結局は技術や個性的な解釈に依存するのではなく、心から共鳴する作品に真摯に向き合い、余計な恣意を挟まず、作品そのものに対して自らを捧げようとする精神からきていたように思えてならない。

実に透徹した表情を持つ演奏に仕上がっており、しかも情感の豊かさや懐の深い精神性にも事欠かず、ベートーヴェンの音楽の核心を垣間見せてくれる。

またベートーヴェン全集と並ぶナット畢生の傑作であるシューマンの主だった作品がほぼ収められており、ナットのシューマン解釈の説得力の大きさを知らしめてくれる。

ナットのシューマンはまず見通しのよい構成が的確に押さえられているのが特徴で、それに重くもたれるような表現から解放された明快な表現が、逆にシューマンの微妙で繊細な情感の移ろいを見事に捉え、ロマンティシズムというものに新たな光を当てている。

そしてそれはまた、とかく演奏者の思い入れだけが先行して形を崩してしまい、果ては真のロマンティシズムも雲散霧消させてしまいがちなシューマンの作品などで、説得力に満ちた優れた成果をもたらす要因となったように思える。

ここには良い意味でのラテン的精神の粋が見られ、演奏家としてではなく、むしろ芸術家としての強い倫理感が感じられる。

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classicalmusic at 20:54コメント(0)ベートーヴェンシューマン 

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昨年惜しまれて亡くなったクラウディオ・アバドと、彼と長きに亘って親密なパートナー・シップを続けて名演を残したマルタ・アルゲリッチとの協奏曲集5枚組セットで、デビュー当時から名録音を生み出してきたアルゲリッチ&アバドによる、どれもが作品の核心を鋭く抉る永遠の名演集。

5枚とも現行で個別に入手できるが、プライス・ダウンされているので新規に購入したい方にとっては朗報に違いない。

筆者は本セットに収められた全てのディスクを既に購入しており、ショパン、リスト、チャイコフスキー、ラヴェルの演奏については本ブログでレビューを投稿済みである(それ故本セットを購入しているわけではないことを予めお断りしておきたい)。

データを見ると、初出時にカップリングされていた協奏曲以外の曲目は今回除外されている。

尚後半の3枚は総てライヴ録音になるが、音質はいずれも極めて良好。

彼らのコラボの始まりを飾っているのがプロコフィエフで、両者が得意にしていた20世紀の作品の演奏として流石に隙のない鮮やかな手腕を見せている。

ショパン、リスト、そしてチャイコフスキーと続くレパートリーではスピリットに突き動かされて疾駆するアルゲリッチを、しなやかで緻密なオーケストレーションでフォローし、充分に歌わせることも忘れないアバドの十全な采配が秀逸だ。

一方ラヴェルはベルリン・フィル及びロンドン交響楽団との2種類の音源が入っていて、古い方はより新古典主義的な整然とした形式美を感知させているが、新盤では彼女がファンタジーの翼を広げてラヴェルの妖艶な魅力を醸し出している。

ベートーヴェンでは第3番がいくらかロマンティックになり過ぎる傾向があって、作品の構造美の表現が二の次になっているのは否めないだろう。

室内楽はともかくとして、彼女がベートーヴェンのソナタに取り組まない理由はそのあたりにあるのかも知れない。

モーツァルトに関してはアバドはこの2曲を過去にグルダやゼルキンとも協演しているし、第20番ではピリスとの新しいレコーディングが話題を呼んだ、彼にとっては経験豊かなレパートリーだったが、奇しくもアルゲリッチとの演奏が最後になってしまった。

どちらも彼女のメリハリを効かせたソロが清冽で、いまだに衰えない才気煥発な奏法が印象的だ。

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2015年09月02日


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プラガ・ディジタルスがリリースしている版権切れ音源の新リイシュー・シリーズは総てがSACDなので、そのつもりで買ったが当ディスクは何故かレギュラー盤のCDだった。

全曲ともコンサートから採られたライヴ録音で、ヴァーツラフ・ノイマン、チェコ・フィルの実力がいやがうえにも示されたお国物ヤナーチェクのアルバムだが、その音質と分離状態の良さや臨場感からも今回敢えてSACD化されなかったことが納得できる。

尚後半のオペラ『死の家から』のオーケストラのための組曲は、ヤナーチェクゆかりのブルノ・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者で、この3曲をピックアップしてまとめたフランティシェク・イーレク自身の指揮になる。

ちなみにトラック1の同オペラの前奏曲はトラック9の組曲第1曲と同一曲で、ノイマンとイーレクの2人のチェコの指揮者で聴き比べることができる。

ノイマンはヤナーチェクが用いた発話旋律を強調することによって、音楽により言語的なメリハリをつけた効果を試みている。

客席及び舞台からのごく僅かな雑音が聞こえてくるが、この時代のライヴとしては稀にみる高い水準の録音で拍手も入っていない。

カンタータ『アマールス』はヤナーチェクのシュールレアリズム的なオーケストレーションとコーラスに支えられて、墓地に惹きつけられるように向かう、愛に目覚めた薄幸の孤児アマールスの死が鮮烈に描かれている。

こうした特殊なシチュエーションや心理を舞台音楽に写し取る描写能力とその音楽語法はヤナーチェクの独壇場だが、ここでもチェコ語の歌詞に密着した旋律を徹底して活かし切るノイマンのアプローチは流石に地に足が着いている。

光彩に包まれて母の墓の上に倒れるアマールス少年の最後は、第5楽章に殆んど狂気と紙一重の壮麗な葬送行進曲で締めくくられている。

アマールス役のテノールが語り手を兼ねているがカンタータとして全く違和感はなく、かえってこの作品から俗っぽい演出を避けた特異な統一感を与えている。

『アマールス』は録音自体が少なく、マッケラス、チェコ・フィルのセッションと並んで貴重な記録でもある。

ライナー・ノーツにはオリジナルのチェコ語の歌詞に英語対訳が掲載されている。

オペラ『利口な女狐の物語』からのオーケストラ用組曲は、ヴァーツラフ・ターリヒのアレンジにヴァーツラフ・スメターチェクが手を入れたもののようだ。

ヤナーチェクの音楽には前置きがなく、強引とも思われる、いきなり核心に迫ってくる凄みがあり、ここでのノイマンの指揮にも単刀直入の大胆さと確信に満ちた力強さが感じられる。

勿論モラヴィアの深い森の中での大自然の神秘な営みを髣髴とさせる情景描写も巧みだが、むしろあれこれ小技を使って音楽を脆弱にしないストレートな表現と、それを支えるチェコ・フィルの弦の瑞々しさや管打楽器の機動力は、この物語のテーマでもある宿命的な死と再生の繰り返しを感知させていて秀逸だ。

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ブレンデルの3度目のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集で、どのソナタも初めて聴くかのような感銘を与えてくれる。

一定の間隔を置いてベートーヴェンに集中することによって芸術的洞察を深めピアニズムを磨いてきたブレンデルだが、1992年から96年にかけて録音された最新のソナタ全集は、この名ピアニストが最円熟期を迎えて到達した人間的・芸術的境地を余すところなく伝えている。

ブレンデルにとって、ベートーヴェンが不可欠なレパートリーであることは、彼が、早くからソナタと協奏曲の全曲録音を完成し、その後も回を重ね、すでに協奏曲では4回、ソナタも3回、それを実現していることからも頷けるが、もちろん、それらが無為に重ねられたものではなく、それぞれに価値があるものばかりでなく、確実にそこに新たな成熟を加えてきたということは見逃せまい。

ブレンデルのベートーヴェンはドイツ=オーストリアの伝統的な演奏様式を背景に成立しているだけに、表現の普遍性と安定した構成感をそなえているが、3度目の全集録音になって初めて、極めてオリジナリティに溢れた独自な世界を開示するに至った。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタは何度演奏してもその度に新しい発見があるという彼自身の発言通り、どんなに聴き慣れたフレーズからも意外かつ魅力的な側面が引き出されている。

とは言っても決して恣意的な自己顕示などではなく、あくまでも音楽そのものから湧き出た表現なのであり、また、ドイツの伝統的な演奏様式を背景に成立しているために、ある種の普遍性さえ備えている。

ヴィルトゥオーゾ的な効果や無意味な流麗さ、スマートさ、こけおどしの迫力やパッションとは違う。

どのフレーズの表現にもぶれがなく明快で、確かな意味が込められ、意外かつ新鮮。

その上、ベートーヴェンのヒューマンな温もりと機知に富んだフモールが感じられる。

この3度目のソナタ全曲は、彼が楽譜の背面までも読みつくしながら、決してベートーヴェン以外の何ものの介入も許さぬ厳正さと謙虚さをもった姿勢を貫いていることを思わせている。

ブレンデル自身が強調するところの作品の「性格」と「心理」の重視ということに応じて32のソナタのどれひとつとして同じパターンで処理されておらず、1曲1曲に瑞々しい感性と深い洞察が行き届いて、まさに32の異なる小宇宙が形成されているのである。

そして、その32のソナタの全体が人間の性格と心理、感情と理念の総覧、あるいは人間というものの内的な在りようの集大成として大きな宇宙を構築している。

ベートーヴェンという作曲家はかくも繊細で柔軟で敏捷に動く心の持ち主だったのかと改めて驚嘆させられる。

ベートーヴェンは、決して一枚岩の強固な精神で押しまくっていたわけではない。

ブレンデルのソナタ演奏はベートーヴェンの内面の深くも多彩なカレイドスコープを見事なまでに明らかにしてくれているのである。

それはまた、シュナーベル、バックハウスから出発した20世紀のベートーヴェン演奏の1つのブレンデル流の帰結であると同時に、21世紀に向けての新しいベートーヴェン演奏の出発点とも言えよう。

こうした伝統の上に立つ演奏家が、今や希少となっていることも気づかせる。

ブレンデルの総決算であるとともに、演奏史に永く残る不滅のベートーヴェン全集である。

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1950年に33歳で夭折したリパッティには残念ながらステレオ録音は遺されていない。

その上この時代の録音技術の水準を考えれば音質の向上はそれほど期待できないと承知しつつも買った1枚。

このディスクでSACD化の効果が比較的良く出ているのはソロ・ピースの4曲で、1950年のブザンソンの告別演奏会ライヴからシューベルトの即興曲第3番と第2番、1947年のリストの『ペトラルカのソネット』及び1948年のラヴェルの『道化師の朝の歌』がそれに当たる。

ピアノの音色に若干だが艶と潤いが出て音像もよりまとまって聞こえる。

中でもラヴェルは彼の究極的なピアニズムが面目躍如たる演奏だ。

熟考されたダイナミズムを逆にコントロールして、殆んど自然発生的に噴出させるテクニックは流石で、このSACD化によってその価値を蘇生させている。

また2曲のシューベルトでも当日のリパッティの病状云々のエピソードを全く知らない人でさえ彼の音楽性と巧みな表現力には感動せずにいられないだろう。

逆に言えば彼の演奏は、あの告別演奏会がバイアスを掛けて、かえって彼本来の評価を二の次にしてしまった感は否めないし、そのことは彼自身にとっても不本意だったに違いない。

一方モーツァルトのピアノ協奏曲第21番ハ長調は、ブザンソンの演奏会に先立つ1950年8月23日のルツェルン音楽祭でのライヴ録音になり、音源自体の質は鑑賞可能といったところだ。

むしろそれより古い1948年のシューマンの協奏曲のセッションの方が聴きやすい。

前者がルツェルン祝祭管弦楽団、後者がフィルハーモニアとの協演で、どちらもカラヤンのサポートによるものだが、シューマンに関してはこのディスクとは別にもう一種類、1950年にアンセルメ、スイス・ロマンドとのライヴも遺されている。

こちらは数ヶ月前にアンセルメのデッカ・コンプリート・レコーディング集で復活していて、演奏水準から言えばむしろリパッティの音楽性が良く示されたものだが、スクラッチ・ノイズの向こう側から聞こえてくるような海賊盤的な録音状態で、殆んどSACD化の意味がないのも事実だろう。

尚音源についてはライヴ・ブロードキャスト・レコーディング及びスタジオLPからの板起こしという表示が裏面にある。

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2015年09月01日


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スイスのブッフォ・バス歌手フェルナンド・コレナ[1916-1984]は、ジュネーヴで生まれたが、父親はトルコ人、母親はイタリア人であった。

最初は神学を学んだが、地元の声楽コンテストで優勝したことを期に声楽に転向、ジュネーヴ音楽院で学び、1940年にチューリッヒで歌手デビューを果たす。

彼の名を一躍高めたのは、1955年エディンバラ音楽祭での『ファルスタッフ』での題名役。

同じ年にメトロポリタン歌劇場にもモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロ役でデビューし、その後性格的なバス歌手として一世を風靡した。

このCDでは長い間廃盤になっていたアルジェオ・クワドリ指揮、コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団とのモーツァルトのバスのための演奏会用アリア集の音源が復活しているのが注目される。

ただ、コレナの性格的な歌唱が曲によっては裏目に出て、多少くどい印象を与えているのは否めない。

例えば『この美しい手と瞳に』K.612はコントラバスの超絶技巧のオブリガートが付く美しいアリアで、この曲に関しては彼の同僚だったチェーザレ・シエピの2種類のライヴ録音がイタリア風のカンタービレの手本を示したような演奏で、現在に至るまでのベストと言えるだろう。

しかしコレナの芸の一端を偲ぶことができるCDでの復活は歓迎したい。

尚トラック10『彼に眼差しを向けたまえ』K.584は演奏会用アリアではなく、当初『コシ・ファン・トゥッテ』のグリエルモのアリアとして書かれたが、後により短いものに差し替えられた経緯を持っている。

最後にボーナス・トラックとして加えられたブルーノ・アマドゥッチ指揮、ミラノ・ポメリッジ・ムジカーリ管弦楽団とのチマローザの幕間劇『宮廷楽士長』は、CDの余白を埋めるカップリングだが全曲演奏で、コレナの表情や仕草が目に浮かぶような楽しい作品だ。

フェルナンド・コレナはそのキャリアの中で幾つかのセリオの役柄も器用にこなしているが、元来彼のブッフォ的な性格は持って生まれた資質だったようだ。

少なくともそう信じ込ませるほど彼の喜劇役者としての才能は傑出していた。

頑固でケチ、好色で間抜け、知ったかぶりの権威主義者など最も人間臭い性格の役柄で、しばしばとっちめられてひどい目に遭う。

これはイタリアの伝統芸能コンメーディア・デッラルテの登場人物から受け継がれたキャラクターだが、コレナの演技は常にドタバタ喜劇になる一歩手前で踏みとどまっている。

それは彼があくまでも主役を引き立てる脇役であることを誰よりも自覚していたからに違いない。

現在彼のような強烈な個性を持ったバッソ・ブッフォが殆んど現れないのは演出上の役柄に突出した人物が求められなくなったことや、指揮者が歌手のスタンド・プレーを許さなくなったことなどがその理由だろう。

その意味ではオペラ歌手達が自由に個性を競い合った時代の最良のサンプルと言えるのではないだろうか。

1952年から60年にかけてのセッションで、トラック9-14の6曲の演奏会用アリア集以外はモノラル録音だが音質は良好。

曲目一覧と録音データの記載されたパンフレットが付いているが歌詞対訳は省略されている。

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classicalmusic at 22:41コメント(0)トラックバック(0)モーツァルト 

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ジャン=フランソワ・パイヤールがこの協奏曲集を録音したのは1973年で、現在でこそバロック音楽の演奏形態では主導権を握っているピリオド楽器のアンサンブルは、当時はまだ古楽の再現を模索していた時代で、ごく一部の聴衆しか獲得していなかった。

その頃既に全盛期を迎えていたのがモダン楽器による演奏だった。

その草分け的な存在がパイヤール室内管弦楽団で、ジャン=フランソワ・パイヤールによって1953年に創設されたジャン=マリー・ルクレール器楽合奏団を母体として59年に結成された。

彼らの品のある大らかなサウンドはバロック・ブームの隆盛にも大きく貢献したが、中でもソリストに名手を揃えたバッハのブランデンブルク協奏曲集は一世を風靡した画期的な録音だった。

リヒター、ミュンヘン・バッハ管弦楽団のような厳格に統率された厳しさこそないが、より開放的で屈託のない表現と垢抜けた音響に惹かれたファンも多かった筈だ。

ここに彼らの演奏をお薦めするのは懐古趣味ではなく、一時代を築いた音楽家達の情熱とその洗練を極めた演奏に聴くべき価値があると思うからで、難解な理論を振りかざすことなく常に彼らの柔軟な感性に沿って平明な音楽の再現に務めた姿勢は、忘れ去られてしまうには余りにも惜しい。

その後モダン・バロックの衰退と共にパイヤールも他のレパートリーを開拓することになるが、この6曲は彼らが頂点にあった頃の演奏を刻んだ贅沢な記録でもある。

廉価盤なのでリーフレットに曲目データ、演奏者とアンサンブルについての簡易な紹介が印刷されているだけだが、幸い音質は良好な状態に保たれている。

当時の話題のひとつが第1番の第1ホルンをモーリス・アンドレが吹いていることだった。

第2番で彼はピッコロ・トランペットを演奏しているが、このあたりのキャストにも融通性があり、彼のホルンもなかなかの熱演だ。

また第3番第2楽章の即興による短いカデンツァと第5番のチェンバロ・ソロはアンネ=マリー・ベッケンシュタイナーで、彼女はパイヤールの通奏低音奏者としても個性的なモダン・チェンバロの響きを聴かせている。

その他にもフルートのランパル、オーボエのピエルロ、ヴァイオリンのジャリなど当時のフランスの名手を揃えたオール・スター・キャストのスタイリッシュな演奏を楽しむことができる。

尚第1番でバッハが指定したヴィオリーノ・ピッコロは通常のヴァイオリンで、第2番と第4番の笛のパートはリコーダーではなくベーム式フルートで、そして第6番のヴィオラ・ダ・ガンバのパートはチェロで演奏されている。

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1875年に作曲されたチャイコフスキーの第3番の交響曲は「ポーランド」という副題が付されているが、これは第5楽章の主題にポーランド舞曲である「ポラッカ」のリズムが用いられているから。

それなら第2楽章が「アッラ・テデスカ(ドイツ風)」と題されているので「ドイツ」でもいいのでは?という疑問はさておき、全体に漲る明るさと活気が愛されている作品である。

第1楽章はなぜか「葬送行進曲」風に始まるが、第1主題はニ長調の美しい音楽で、第2楽章は3拍子なのだがワルツではなくレントラー(ここがドイツ風)である。

第3楽章は落ちつきのある牧歌風の音楽で、第4楽章はチャイコフスキーらしい風が戯れるような軽やかなメロディ、そして力強く堂々とした終楽章を迎える。

キタエンコはいつものように壮大で勇壮な部分を強調しながらも、繊細さを打ち出すメリハリのある演奏で楽しませてくれる。

本演奏を聴いて思うのは、ロシア系の指揮者にとってのチャイコフスキーの交響曲は、独墺系指揮者にとってのベートーヴェンの交響曲のような、仰ぎ見るような高峰に聳える存在なのではないかということだ。

というのも、キタエンコと同様に、チャイコフスキーの交響曲全集の録音を完成したプレトニョフもそうであるが、他の作曲者による楽曲、例えば、プレトニョフであればベートーヴェンの交響曲全集やピアノ協奏曲全集による演奏におけるようないささか奇を衒った個性的な解釈を施すということはなく、少なくとも演奏全体の様相としては、オーソドックスなアプローチに徹していると言えるからである。

キタエンコと言えば、カラヤンコンクールでの入賞後、旧ソヴィエト連邦時代のモスクワ・フィルとの数々の演奏によって世に知られる存在となったが、モスクワ・フィルとの演奏は、いわゆるロシア色濃厚なアクの強い演奏が太宗を占めていたと言える。

これは、この当時、旧ソヴィエト連邦において活躍していたムラヴィンスキー以外の指揮者による演奏にも共通していた特徴とも言えるが、これには、オーケストラ、とりわけそのブラスセクションのヴィブラートを駆使した独特のロシア式の奏法が大きく起因していると思われる。

加えて、指揮者にも、そうした演奏に歯止めを効かせることなく、重厚にしてパワフルな、まさにロシアの広大な悠久の大地を思わせるような演奏を心がけるとの風潮があった。

ところが、そうした指揮者の多くが、スヴェトラーノフのような一部例外はあるが、旧ソヴィエト連邦の崩壊後、ヨーロッパの他国のオーケストラを自由に指揮するようになってからというもの、それまでとは打って変わって洗練された演奏を行うようになった。

キタエンコについても、それが言えるところであり、本演奏においても、演奏全体の外観としては、オーソドックスなアプローチ、洗練された様相が支配していると言えるだろう。

もっとも、ロシア風の民族色を欠いているかというとそのようなことはなく、ここぞという時の迫力は、ロシアの広大な悠久の大地を思わせるような力強さに満ち溢れている。

そして、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のドイツ風の重厚な音色が、演奏全体にある種の落ち着きと深さを付加させているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本盤の演奏は、キタエンコによる母国の大作曲家であるチャイコフスキーへの崇敬、そしてキタエンコ自身の円熟を十分に感じさせる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

そして、本盤の素晴らしさは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

SACDの潜在能力を十二分に発揮するマルチチャンネルは、臨場感において比類のないものであり、音質の鮮明さなども相俟って、珠玉の仕上がりである。

いずれにしても、キタエンコ&ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団による素晴らしい名演を、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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