2016年11月

2016年11月29日


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メシアン(Olivier Messiaen 1908-1992)はフランスの作曲家で、最近まで現代音楽の代名詞のような作曲家であった。

現代では、もう少しロマン派よりの立ち位置を与えられることもあるが、ブーレーズ(Pierre Boulez 1925-)、シュトゥックハウゼン(Karlheinz Stockhausen 1928-2007)とともに第2次大戦後の現代音楽の潮流を作った象徴的音楽家。

本盤は、メシアンの代表作の1つであり、20世紀の記念碑と言うべきトゥーランガリラ交響曲(フランス語: La Turangal'la-Symphonie)を収録している。

リッカルド・シャイー(Riccardo Chailly 1953 -)指揮、コンセルトヘボウ管弦楽団によるメシアンが亡くなった年の録音で、ピアノにティボーデ(Jean-Yves Thibaudet 1961-)、オンド・マルトノ奏者を原田節が担当している。

インドの異教的世界観にインスピレーションを得た作曲家は、主として鳥のさえずりのモティーフを奏でるピアノと艶っぽい響きが特徴のオンド・マルトノを独奏楽器として扱い、打楽器と金管を増強した3管編成のオーケストラで、「忘我の喜悦をもたらす愛」を歌い上げる極彩色の音絵巻を作り上げた。

メシアン自身の解説によれば、トゥーランガリラは仏典などに用いられるサンスクリット語(梵語)で、愛の歌を意味すると同時に、歓び・時・リズム・生と死への賛歌でもあるという。

複雑極まるポリ・リズムと想像を絶する多くの音を駆使して書き上げられた全10楽章から成るこの大作は、1980年代半ばから録音される機会が増え、サロネン(85年)、チョン(90年)、ヤノフスキ(92年)、シャイー(同)の各盤が続いていて、若手の優れた指揮者がこの大作に挑んできた。

この曲もついにオーケストラのレパートリーに加えられるときを迎えて、初演の独奏者であるロリオ姉妹以外の演奏家による録音も増え、作品の普遍性を裏付けている。

楽器の中では特にピアノとオンド・マルトノ(Ondes Martenot)が重要な役割を担っていて、ガムラン的な奏法を求められるピアノは、同時にメシアンの諸作品で暗示的に登場する「小鳥のさえずり」を表現している。

また電気楽器の一種であるオンド・マルトノが独特の音色により、全曲に不可思議な効果を与えている。

さて、このディスクを聴いて第一に思うのが、シャイーのこの音楽への素晴らしい「適性」である。

このメシアンも、例えばこの録音以前で評判の高かった小澤の録音と比べると、ややテンポは速めをとることが多いのだが、そうであって、初めて何か音楽を俯瞰できるような感触を得るように思えて、その印象を、一言で「適性」と表現してみた。

シャイーはコンセルトヘボウ管弦楽団のバランスのいい響きによって、ドラマティックな、振幅の大きい音楽づくりをみせている。

ベリオの《シンフォニア》などで現代作品にも快演を聴かせたシャイーだが、ここでも持ち前の研ぎ澄まされた音への執着をあらわにしながら、同時に恰幅のよい音楽を作っている。

オーケストラの個々の楽器が際立ち、雄弁に歌っているのが特徴で、ことに木管の表情の豊かさは古今の演奏のなかでピカ一である。

前半、第1〜5楽章の高揚、第6楽章「愛の眠りの園」で静まるものの、第7〜10楽章で再び盛り上がってゆく。

その間ずっと緊張を持続させたシャイーの力量、そしてこの曲をいわゆる狷饅造文渋絏山抬瓩ら解放した彼の力量は、並外れて大きく、この曲に必要な神秘感も不足していない。

ティボーデと原田の好演もポイントで、演奏至難なピアノであるが、オーケストラの打楽器陣と調和して、適切なスケーリングを維持しており、技巧的にも問題がない。

原田はこの交響曲に欠かせないスペシャリストであり、オンド・マルトノは適度な下品にならない不気味さ、そこにやや悲しい感情が宿されているのが美しい印象につながる。

ソリストが若返って、音の変化がより鋭角になった感があり、特にオンド・マルトノの膨らみのある音色が、かなり明瞭に感じられる。

シャイーの演奏からは情熱の要素は多く感じられないだろうし、韜晦や晦渋とは無縁で、熱狂的な陶酔からはやや距離があるかもしれないが、そのバランス感覚こそ、この人の最大の美点に他ならない。

この作品で、これだけオーケストラの客観的な美しさを確立できる人というのは、そうはいないはずだ。

デッカの素晴らしい録音技術と相俟って、いまなお同曲の代表的録音として推すのをためらわないアルバムだ。

特筆すべきは、ピアノと打楽器系の抜けの良い音質で、ガムラン的効果を狙った複雑な打楽器のテクスチャーが、見事に立体的に浮かび上がってくる。

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classicalmusic at 22:06コメント(1)メシアンシャイー 

2016年11月28日


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『世の終わりのための四重奏曲』はメシアン唯一の室内楽曲で、第2次大戦中の捕虜となった彼は収容所内でこの曲を書きあげた。

ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノという変わった編成は、たまたまそれらの楽器の演奏者達が同じ収容所内にいたからであり、初演は1941年に収容所内で行われ、ピアノパートを受け持ったのはメシアン自身である。

作品の内容については様々な解釈がなされているが、黙示録に題材を得た8楽章からなる大曲は、全篇平和への強い希求に貫かれ、信仰によって浄化された無類に美しい音の粒が聴く者の胸を打つ。

すべての音は限定された時空の枠を越え、無限の広がりの中で永遠の生へと昇華するが、戦争という極限状態が生み出した異常なまでの精神の緊張がキリストの死と復活のドラマにこれほどの普遍性を与えることに成功したのだろう。

本盤は、1970年代前半に、このメシアンの20世紀室内楽の最高傑作を演奏するために、ピーター・ゼルキンを中心とする当時のアメリカの新進気鋭の名手4人によって結成された「タッシ」が1975年に録音した不朽の名盤。

タッシの実質的なデビュー盤で、武満徹の『カトレーン』初演のために来日した折、柏市とニューヨークで録音されたもの。

この曲の録音はおそらく現代作品の中では最も多く、40前後はあるはずで、その中でタッシの盤はごく初期の方の録音に属するのだが、演奏の上ではいまだに第一級の地位にあるのは驚くべきことだ。

4人の演奏家はそれぞれ独立しても演奏しており、特にピアノのピーター・ゼルキン、クラリネットのリチャード・ストルツマンは有名であろう。

当時30代だったアメリカの気鋭の奏者による演奏は、いずれも清新かつ鋭敏な表現に貫かれており、まことに印象鮮烈で、しかも爽やかである。

最近は音楽も音楽家も言ってることのわりに非常に保守的なので、とりあえず違うものを求める雰囲気に満ちているこれは魅力的。

いくらか神経質に思われるほど俊敏なピーター・ゼルキンのピアノ、精細な感性が光るカヴァフィアンのヴァイオリン、ほのぼのとした響きをもつシェリーのチェロ、そして弱音から強音まで柔らかい響きを奏でるストルツマンのクラリネットと、名うての名手が揃ったアンサンブルは絶妙である。

この作品は楽章によって独奏や二重奏になる部分も多く、第3楽章でのストルツマンの独奏や第8楽章でゼルキンに伴われたカヴァフィアンの息の長い独奏は忘れ難い。

『カトレーン供戮魯織奪靴琉兢によって書かれ、それは武満徹が狎こΔ離織吋潺牒瓩箸覆辰浸期を映した作品で、全曲のカギとなる四行詩(カトレーン)の部分がほのかに芳香が漂うような響きを持ち、心の奥まで浄化されているような気分になれる。

作曲者が「日本の絵巻のように音楽が流れていく」と語るこの曲には、その後の作品に聴けるような猊靄流のロマン瓩あふれており、現代における類稀なメロディ・メーカーとしての実力を発揮しつつあったのではないかと思えるのだ。

タッシというグループが存在したからこそ、武満は自己の中に眠っていたメシアンへの憧憬(オマージュ)を確認し、彼らのために作曲するという行為で「信仰告白」したのではないか、と思える。

これらの録音は、1970年代半ばという時代そのものの記録であることから、ジャケットや、メンバーたちのポートレートを眺めるまでもなく、その音楽には、当時のアメリカの文化状況の刻印は明らか。

現在は活動を停止してしまっているこのユニークなアンサンブルの超絶的な名演として忘れることのできない貴重な記録と言うべきだろう。

演奏の完成度と合わせ、メシアンと武満の作品の受容史という観点からも重要な1枚である。

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classicalmusic at 22:26コメント(1)メシアン 

2016年11月27日


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本盤は30代の小澤征爾がRCAへ録音した最も初期の、実質的には小澤のデビュー・レコードであるが、その清新な演奏は今も魅力を失っておらず、80歳を超えた現時点においても、これまでの数多い小澤のディスコグラフィの中でも、トップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

とにかく、この当時の小澤の途轍もない力強い生命力と、作品の本質にぐいぐいと切り込んで行く鋭いアプローチは、凄いの一言であり、若き日の小澤のダイナミックで官能的でしかも精緻な音楽的特質がよくあらわれている。

メシアンのトゥーランガリラ交響曲にしても、武満のノヴェンバーステップス等にしても、いずれも難曲であるとともに、本盤の録音当時は、他にも録音が非常に少ないということもあり、演奏をすること自体に大変な困難を伴ったことが大いに予想されるところだ。

そのような厳しい状況の中で、30代の若き小澤が、これほどの自信と確信に満ち溢れた堂々たる名演を繰り広げたというのは、小澤の類稀なる才能とともに、現代の大指揮者小澤を予見させるのに十分な豊かな将来性を感じさせられる。

メシアンにしても、武満にしても、若き小澤を高く評価したのも十分に理解できるところであり、奇を衒うことのない非常にオーソドックスで、しかも優れたこれらの名録音は、いずれもLP発売以来一度もカタログから消えたことがない名盤である。

小澤はトゥーランガリラ交響曲の日本初演を行ったことからもわかるとおり、曲の隅々まで精通して作曲家メシアンの厚い信頼を得ての録音であり、メシアンの官能的な色彩をこれだけ、あられもなく表現した例は他になく、メシアンと小澤の信頼関係が晩年まで続いた事も大いに頷けるところだ。

トロント交響楽団のアンサンブルも優れたもので、実力を出し切っており、第5楽章の〈星の血の歓喜〉の困難なパッセージや、第6楽章の〈愛と眠りの園〉における天国的な旋律の歌い方なども大変秀逸である。

イヴォンヌ・ロリオのピアノが大変瑞々しく、またジャンヌ・ロリオのオンド・マルトゥノの音も存在感が溢れるよう録音されている。

ノヴェンバー・ステップスは、武満徹の名を世界に知らしめ、不動のものとした日本のクラシック音楽界にとって歴史的な録音で、小澤32歳の、初演後まもなくの熱気を感じさせる。

伝統音楽にはなかった琵琶と尺八の出会い、和楽器とオーケストラの出会いを演出した戦後の名作で、たっぷりと余韻を楽しみながら演奏されている。

琵琶と尺八をオーケストラと対峙させるというアイディア(これは委嘱してきたニューヨーク・フィルからの注文だったらしいが)もさることながら、ヨーロッパの追従に偏っていた日本の音楽界にわが国の古典音楽を突き付けたショックは今聴いても強烈で、フレーズ1つ1つに力がこもり、音の運動性と存在感が作品に命を与えている。

鶴田錦史(琵琶)・横山勝也(尺八)の両ソリストの名技に全面依存した作品でもあり、その最初の出会いを記録した本演奏はまさに歴史的名盤と呼ぶにふさわしい。

近年の演奏に比べれば粗削りだが、音に生気が漲っているせいか、不思議と、新しいものに出会った演奏家たちの驚きや喜びが伝わってくる。

武満本来の静謐の美学とは少しズレもあるが、特に彼の作風に含まれる西欧的な性質を強調したことによって、海外での受容が促進されたのかもしれない。

図形楽譜による琵琶と尺八だけの長大なカデンツァの部分は、楽譜にいくつかの断片が与えられているだけなので、本来は自由な順に演奏できるのだが、この時期にはまだ、鶴田も横山も試行錯誤で、後のように順番を固定してはいなかった。

トゥーランガリラ交響曲やノヴェンバー・ステップス等には、本盤の後、様々な指揮者の手により相当数の録音が行われたが、未だに本盤を凌駕する名演が登場していないというのは、本盤の演奏の水準の高さに鑑みれば、当然のような気がする。

そしてこの若き日の小澤を永遠に記録する名録音は、新たなリマスタリングとBlu-spec-CD化によって、驚異の高音質に生まれ変わった。

本当は、SACDで発売して欲しいところであるが、それでもこれだけの高音質でこの歴史的な「音の世界遺産」とも言うべき若き小澤の素晴らしい超名演を味わうことができるのだから、文句は言えまい。

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classicalmusic at 21:50コメント(0)トラックバック(0)小澤 征爾メシアン 

2016年11月25日


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《椿姫》ぐらい憂愁、甘美なメロディの数々に彩られたオペラも例がなく、筋もわかりやすいので、ポピュラーになるのは当然だ。

様々なとらえ方のCDがあるが、何と言ってもヒロインの歌手が問題になるので、自分のお気に入りのソプラノがいれば、その人のディスクを選ぶのが一番良く、もちろん録音は新しいに越したことはない。

筆者はクライバー盤を選ぶが、彼のオペラ全曲録音の中でも最も出来が良く、このオペラを近代劇としてとらえ、鋭い個性的な表現を行っていて、クライバーの代表盤と言っても差し支えないだろう。

《椿姫》はこの指揮者の数少ないレパートリーの1つであり、速めのテンポできりりと流しつつ、メリハリが立ち、曲想の抉りが深く、音楽とドラマが直結しており、全3幕、起承転結が実に鮮やかで、生気に富み、魅力的で、息もつかせぬ名演と言えるところであり、本当の舞台人の芸を存分に楽しませる。

クライバーの音楽特性のよく表れた演奏で、彼は、ヴェルディの音楽に現代的な感覚を盛り込み、彼独自の音楽の世界をつくりあげていて、イタリア・オペラにしては、造形が厳しすぎる気もするが、大変精度の高い演奏だ。

クライバーという指揮者の才能が何より際立つ録音で、イタリアの歌手主導の演奏に慣れた人には当初違和感を与えるかもしれないが、それも束の間、その旋律を豊かに歌わせた躍動感に溢れる音楽はオペラ・ハウスの上演を超越した感動をもたらす。

クライバーのヴェルディ演奏としては必ずしも100点満点の出来映えではないかもしれず、《椿姫》の演奏としては異端であるかもしれないが、何と素晴らしい異端だろう。

華麗な大オペラに背を向け、暗い影に息づく異端の《椿姫》で、クライバーの魔術的な音楽づくりの魅惑に思わず呪縛されてしまう。

薄幸の主人公を慈しむように、繊細な響きで始まる音楽は、第1幕の引き締まったものへと急転するが、オーケストラが先行する場面でも、歌が先行する場面でも、常に独特の弾みや絶妙の間合いが音楽を支配している。

スタイリッシュで、なおかつ非常にドラマティック、クライバーの指揮は常に生き生きと躍動し、表情豊かに歌い、ささやきのエロティシズムと切ない悲劇性が際立つ。

これが彼の生命線であって、表現の振幅が広いばかりではなく、それによって抒情性に溺れることを速いテンポと猛烈な推進力によって回避しているし、同時に最高に劇的な表現を実現しているのである。

クライバーならではのまことに生彩溢れる演奏であると同時に彼は、第1幕の前奏曲から、このオペラの悲劇性を精妙極まりない表現によって明らかにし、常に生き生きとした流れと劇的で鮮やかな変化をそなえた演奏によって、音楽の最深部にまで的確な光を当てつくしている。

クライバーが本拠にしていたバイエルン国立歌劇場管弦楽団からこのように精緻で陰翳に富んだ響きと表現を引き出した手腕も、まさに至芸と言うべきだろう。

ここにあるのは、単に流麗で感傷的なメロドラマではなく、切実な感情によって動かされ、生きてゆく人間たちのドラマであり、ヴェルディの真の意図が感じ取れる。

歌手陣は必ずしも最強力とは言えず、コトルバスのヴィオレッタはやや独特の癖があるが、その幾分暗い声と非常に細やかな感情表現によって悲劇のヒロインを繊細に演じていて、役柄にふさわしい見事な存在感を示し、クライバーの敏捷だが小振りな音楽によく合っている。

雄弁この上ないオーケストラに支えられた第1幕の長大な歌で、聴く者をうならせたりしないかわりに、線の細いセンチメンタルな歌唱で、肺を患った若く悲しい娼婦ヴィオレッタが同情され涙を誘い胸を打つ。

本来ならミミなどにぴったりのコトルバスを起用して(実演でも歌ってはいるが)、繊細な声の持ち主に重めの役を歌わせるのは1970年代から80年代にかけてのグラモフォンが、特に好んだキャスティングだった。

またドミンゴのアルフレードが素晴らしく、凛々しい声で一本気な青年を好演、ミルンズのジェルモンはややドスが利き過ぎだが、父親の貫禄充分な歌唱を聴かせ、他の歌手もクライバーの指揮に応えてそれぞれベストの歌唱を聴かせてくれる。

これは、クライバーが正規に完成させた商業録音の数少ないオペラ全曲盤の1つで、そのレパートリーでは《ボエーム》も《オテロ》も結局は完成されなかったから、これが唯一のイタリア・オペラのセッション録音による全曲盤ということになり、その意味でも貴重である。

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classicalmusic at 22:14コメント(0)トラックバック(0)ヴェルディクライバー 

2016年11月23日


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クラウディオ・アラウはピアノという楽器が持っている機能や特性を知り尽くしていた。

曖昧なタッチや衝撃的な打鍵は注意深く避け楽器を完全に響かせる術を熟知していて、ひたすら明確な響きによるダイナミズムで音楽性を表現する奏法は彼の哲学だったと言っても良いだろう。

2曲ともにかなり難解なテクニックが要求され、アラウ自身もまた稀代のヴィルトゥオーゾとしてリストの作品の演奏でも名を馳せたが、むしろ超絶技巧に聴き手の注意が逸らされることを回避できた数少ないピアニストだったのではないだろうか。

逆に言えばそれだけの確固とした解釈の裏付けと表現力に支えられた、まさに巨匠と呼ぶに相応しい演奏家だった。

ブラームスはアラウのロマン派レパートリーの中でも中核となる作曲家の1人であったが、ブラームス特有の書法と重厚な響きを、アラウは雄大なスケールと微細を極めた表現で美しく歌い上げている。

アラウのピアノにはあざとさやスリリングな要素がない代わりに、常に正面切った雄弁な語り口と正々堂々たる構成力で聴かせる本来の意味でのロマンティシズムが横溢し、ブラームスらしい味わいをじっくりと追究した演奏になっている。

どっしりとしたリズム、ゆったりとしたテンポにアラウの主張がはっきり示されており、ブラームスの重厚な味わいが雄渾に再現されている。

ルバートを多用し、スコアに書かれたすべての音を生かそうとするかのようで、腰の強いタッチや心からの歌も大変美しく、内にこもってしまう作曲者の性格が他の誰よりも表出されており、おそらくブラームスが一番喜ぶ演奏ではないか。

衝撃的な音質を一切避けた潤いに満ちたおおらかで悠然と奏でる音楽のスケールは大きく、良い意味での古き良き時代を髣髴とさせるロマンティックな演奏だが、それは時代を超えた魅力に溢れている。

ただし外面的な演奏効果より内面の秩序を重んじているため、演奏全体の印象は地味で、音色自体の魅力に欠けるため、アラウの求めるコクがいまひとつ表に出て来ず、地味すぎる音楽になってしまった。

それに時として、テンポの動きやハーモニーの生かし方に硬さが伴うのが残念ではあるが、独特の充足感を誇っている。

ハイティンクの指揮もコンセルトヘボウ管弦楽団の渋い音色と厚みを生かしつつ、ブラームスを内面から表現しており、アラウにぴったりの共演ぶりだ。

2曲ともオーケストラ・パートが非常に充実したシンフォニックな書法で作曲されているために、ここでは、ハイティンク&コンセルトヘボウ管弦楽団の強力なサポートが、アラウのソロを引き立てながらも鮮烈なオーケストレーションを主張していて、ロマン派を代表するピアノ協奏曲としての華麗さと風格を備えている。

コンセルトヘボウ管弦楽団はヨーロッパでは最高水準を誇るオーケストラだけに、彼らの品の良い知性的な機動力が充分に発揮されている。

確かに張り詰めた緊張感ではクーベリック&バイエルン放送交響楽団との第1番が優っているが、ハイティンクはブラームスのリリシズムを活かし、一方で弦楽部とブラス・セクションのバランスを巧みに采配してオーケストラに独自の精彩を与え、輝かしくスペクタクルな効果を引き出している。

第2番冒頭のホルンの導入にも聴かれるように鷹揚なテンポ設定の中にも弛緩のない精神的な高揚を伴った演奏が、音楽に身を委ねることへの幸福感をもたらしてくれる。

いずれにしても、本演奏は、アラウ、ハイティンクともに、後年の演奏のようにその芸術性が完熟しているとは言い難いが、後年の円熟の至芸を彷彿とさせるような演奏は十分に行っている。

この両者が、例えば1980年代の前半に両曲を再録音すれば、更に素晴らしい名演に仕上がったのではないかとも考えられるが、それは残念ながら叶えられることはなかったのはいささか残念とも言える。

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2016年11月21日


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ミシェル・ベロフが19歳でメシアン・コンクールに優勝した直後のデビュー録音で、ベロフの才能を世界の音楽ファンに知らしめ、彼の資質が如実に示された記念すべき名盤。

ベロフのかつての名声が、メシアンによって、特にこの《幼児イエズスに注ぐ20のまなざし》の全曲演奏とレコーディングによって高まったことは間違いない。

1969年に録音されたこの演奏には、もちろん、そのことが当然であったということを裏づけるものがあるし、新しいベロフが、もしもそれを再録音したとしても、同じような感興は得られないであろうということは考えられる。

ベロフの天才は一連のドビュッシーなどで明らかだが、その方法論が最も素直に十全に表われたのがこのメシアンであった。

メシアン初期の傑作で、極めて幾何学的な作で20世紀半ばのピアノ音楽の名品であるが、「移調の限られた施法」やら、「音=色」への執着やら、カトリック神秘主義的内容やら、メシアン固有の世界が2時間以上にもわたって展開される(全20曲)。

人類の救済者として生まれた幼児キリストは、父なる神や天使、星、聖母、あるいは時や沈黙、喜悦の精霊などに見守られ、期待をかけられ、最後に〈愛の教会のまなざし〉に到って神の愛が実現する。

曲はメシアン特有のカトリック的な神秘感に満ちた音楽で、極めて深遠かつ晦渋、カトリックに通じていないとわかりにくいところもあるが、おそらく、これしか残さなかったとしても、メシアンは歴史に名を刻んだだろう。

夫人のイヴォンヌ・ロリオを想定して書かれているため、鋭敏な感覚と技術的にも斬新な奏法を含む超絶的テクニックと色彩が千変万化する音色がこの曲では要求されるが、ベロフは見事にそれに対応しシャープなリズム感と音色を披露している。

その切れ味鋭いピアニズムは現在もなお鮮烈で、その鋭敏なリズムの感覚や、独自のタッチがもたらす類稀なサウンドなど、このピアニストの比類ない独自性を明らかにしている。

もっともこの曲集は同時に、途轍もない水準の統合力と同時に強靭な体力も要求するので、これを完璧なバランスで弾き切るのは、本当にわずかのピアニストのそれもある年代に限られるのではないかという気がする。

その意味でこの20歳を前にしたベロフの金字塔的な録音は、音楽という一回性の芸術が残し得た奇跡的な記録として、繰り返し聴かれるべきものであることには間違いない。

大音量の〈全能の言葉〉と妙なる響きの〈聖母の初聖体拝受〉のコントラストが示しているように、ダイナミックスの幅も広い。

こまやかに変化するタッチから生まれる多彩なソノリティが、曲の明暗や層構造を刻銘に描いていく。

〈悦びの精霊のまなざし〉で、土俗的な舞踏から神秘的な部分をへて輝かしい楽想にいたるあたりは圧巻だ。

クライマックスとなる〈愛の教会のまなざし〉も堂々たる風格で、聴き手を圧倒せずにはおかない。

鋭敏なリズム感と音色のヴァラエティも天才的で、ここに聴けるのは極めて硬質な叙情であるが、それがある種の解毒剤として作用し、様々な意味で「過剰」なこの作品に、スッキリとしたたたずまいを与えてくれているように思われる。

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2016年11月19日


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これまでにリリースされたこの曲集の録音の中でも最もシンプルな響きで格調が高く、逆説的な言い方をすれば、演奏者ではなく純粋に音楽そのものを聴きたい人を強く惹きつけて止まない魅力を持っている。

既に製造中止になって久しかったCDなので今回の復活を大いに歓迎したい。

シェリングとヴァルヒャという一期一会の協演の中で、彼ら自身もその緊張感を感じ取っていたに違いない。

ヴァルヒャが他の演奏家と共演している珍しいディスクとして注目すべき全集で、事実ヴァルヒャにとってシェリングが唯一無二の協演者になった。

これは、伴奏者にヴァルヒャを起用しているだけあって、シェリングの流麗な美音が際立っていて、ロマン的な傾向の強いものになっており、実に熱っぽく、まるで2人の奏者の間に火花の飛び交うような、気迫のこもった演奏を繰り広げている。

総体的に速めのテンポだが、ヴァイオリンの音色は、艶やかさとふくらみがあり、チェンバロも実に落ち着いている。

速い楽章では、シェリングがリードしているかのようにも思えるが、緩徐楽章は柔軟でロマンティック、2人の呼吸はぴったりと合っている。

厳格なバッハを好む人には反発を感じるかもしれないが、胸にもたれることがないので、目くじらをたてることもあるまい。

ここでのヴァルヒャはシェリングを立て、彼との協調を重んじた演奏ぶりで、ヴァルヒャにこんな一面があろうとは思わなかった。

この2人はバッハの音楽の再現に忠実に奉仕するために不必要と思われるあらゆる要素を省いている。

演奏に全く隙がなく、お互いの響きを音価の最後まで聴き逃さず、全身全霊を込めてバッハの対位法を紡ぎ出していく演奏は、ある意味では聴き手を選んでしまうかも知れないが、その真摯な姿勢に心を打たれるのも事実だ。

ヴァルヒャはバッハの総ての鍵盤楽器のための作品と、鍵盤楽器が加わる曲目をくまなく暗譜していたにも拘らず、この曲集以外のアンサンブルや協奏曲などの録音は一切遺していない。

それは全く残念なことだが、唯一のデュエットに示した彼の取り組みは驚くべき厳格さを示している。

端的に言えばシェリングがヴァルヒャに妥協したのでもなければ、またその逆でもない。

互いに全神経を集中して、張り詰めた琴線を奏でるような稀に見る協調と緊張感の持続で全曲が貫かれていて、そこには汲めども尽きないほどの深遠なバッハの世界が開けている。

この組み合わせでの演奏は本盤でしか聴くことができないが、この2人の巨匠の演奏には、しみじみとした精神的な深さがあり、バッハの音楽の本質をよくつかんでいる。

尚現在廃盤の憂き目に遭っている、ヴァルヒャがヒストリカル・チェンバロを弾いたもうひとつのサンプルになる1974年の2回目の『平均律』全曲も是非復活して欲しい音源だ。

1969年の録音で、2人の使用楽器については明記されていないが、シェリングがこの時期に弾いていたのはグァルネリ・デル・ジェズで、この演奏も例外ではないだろう。

一方ヴァルヒャは楽器の響きからして、彼がそれ以前の多くの録音に用いたユルゲン・アンマーのモダン・チェンバロではなく、おそらくルッカース系のヒストリカル・チェンバロを修復したオリジナル楽器と思われる。

演奏形態からすればシェリングのそれは当然モダン奏法で、またピッチもa'=440Hzが採用されているので、その点では2人の奏法に隔たりがあるのは事実だが、バッハを生涯の課題とした彼らがそうした領域を遥かに超越したところで堅牢無比なデュエットを成り立たせたと言えないだろうか。

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2016年11月17日


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プラガ・ディジタルスのハイブリッドSACDシリーズでは初のトスカニーニ演奏集で、メンデルスゾーンの交響曲第4番《イタリア》及び第5番《宗教改革》とワーグナーの《パルジファル》から第1幕への前奏曲、「聖金曜日の音楽」の4曲が収録されている。

オーケストラはメンデルスゾーンの2曲の交響曲がNBC交響楽団で、これは日本では既にXRCDとしてリリースされた音源になる。

ライナー・ノーツによれば第4番は1954年2月28日のカーネギー・ホール・ライヴと26日及び27日のリハーサルからリミックスしたマスターのようだ。

第5番はその前年1953年12月13日の同ホールでのライヴでいずれもモノラル録音だが、臨場感に溢れた良好なサウンドにSACD化によってさらに高音部の潤いと艶やかさが加わっている。

むろん、もっと新しいレコーディングで聴きたいという人は多いだろうが、トスカニーニという往年の名指揮者の実力を知る意味においても、これは1,2を争うものになるはずだ。

一方ワーグナーは1935年6月5日ロンドン・クィーンズ・ホールでのライヴでロンドン交響楽団との協演になる。

音質はやや劣るが時代相応以上で鑑賞に充分堪えられる破綻のない音源である。

ナチによって一時は抹殺された状況にさえおかれたことがあるメンデルスゾーンの音楽は、歴史的に不幸な状態におかれたばかりでなく、その明快さや幸福感を理由に、現在でも不当にその真価が否定されているところもある。

そうした中で、トスカニーニとNBC交響楽団によるこの1枚は、かつては頂点の評価さえ得ていた《イタリア》交響曲ばかりでなく、ポピュラリティにおいてはるかに劣る《宗教改革》においてすら、その音楽の真価を再認識させてくれる。

交響曲第4番イ長調《イタリア》は、トスカニーニの素晴らしさが凝縮された名演で、颯爽として走り抜けるような躍動感と輝かしい歌の魅力はたとえようもなく、彼のラテン気質の音楽性が良く表れている。

ドイツ人であるメンデルスゾーンの手になる《イタリア》に対し、イタリア人のトスカニーニは異を唱えたい部分もあったようだが、《イタリア》とあっては一段とやる気も触発されたようで、一点たりとも曖昧さを残さない完成度の高い演奏で作品の魅力を余すところなく引き出している。

それは第1楽章冒頭の弾け飛ぶピツィカートから明らかで、瞬時に異次元の旅へと聴き手を誘うマジックであり、再現者としての使命感、責任感を音に聴かせた熱演と言えようか。

古典的形式をくっきりと保ちながら、優雅なリリスズムや、またスケルツォ的な性格をすっきりした線やリズムで何の付加物もなく、すぱっと表した行き方は、《イタリア》の特徴をすべて尽くしたものである。

音楽の勢いと緊張力、生きたリズム、完璧なまでに結晶化したアンサンブルと響き、それらを駆使した灼熱の迫力はほんの僅かな隙もなく、しかも弦のメロディはめくるめくばかりの艶やかさを持って歌いぬかれるのである。

第2楽章の軽快かつ流麗なリリシズム、それに続く優雅だが起承転結をわきまえた可憐なメヌエット等が魅力的だ。

終楽章「タランテッラ」の何という逞しさ!遅めのテンポからリズムが地の底まで届けとばかり刻み込まれ、各声部の動きの美しさは他に比較するものとてなく、ついにティンパニがスコア指定のトレモロではなく、コントラバスと同じ音型を激しく強打するクライマックスに到達するのだ。

このティンパニはトスカニーニの加筆版らしいが、作曲家自身が聴いたら卒倒するくらいの連打を加えた熱狂的なサウンドは、メンデルスゾーンらしいか否かはこの際問わないこととして、如何にも彼らしい表現と言えないだろうか。

第5番ニ短調《宗教改革》も圧倒的な名演で、さらにオーケストラの表現力が傑出、ドラマティックだが屈託がなく、クリーンなメロディー・ラインを浮かび上がらせた手法にトスカニーニの面目躍如たるものがある。

その明晰さ、歌のしなやかな流動感、立体的な構築は、この作品の求めるすべてを具現しており、この演奏を聴くことで作品の真価を改めて知らされることになろう。

第4楽章のコラールの旋律が現われてからの盛り上げ方はさながらオペラのフィナーレを聴いているような印象を受けるし、終楽章に聴く壮麗なるエンディングが見事で、トスカニーニの怖さすら知らしめる。

緊張感に満ちた古典的とも言える構成感をみせながら、明快なテンポとリズムとをもって、それらは実に美しく輝かしい歌を聴かせているが、特にその風格の高さは無比のものがあり、荘重な趣を力強く表現して、宗教的素材をもって壮麗な記念祭の歓喜を示した立派な演奏である。

最後のワーグナーは余白を埋めるために収録したと思われるが、溢れんばかりの光彩の中に神々しさを湛えた超一流の美しい表現であることには違いない。

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2016年11月15日


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マレイ・ペライアのショパン演奏集を6枚のCDにまとめた廉価盤で、類稀な美音と優れた音楽性で知られ、「ピアノのプリンス」と呼ばれるペライアの魅力を堪能することができるショパンである。

晩年のホロヴィッツとの親交によりヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして新境地をひらき、音楽家としての充実ぶりが伝わってくるペライアの記念碑的アルバムとして人気の名盤。

瑞々しい息吹きをたたえた詩的な感覚は、新世代のショパン表現と高い評価を得て、磨き抜かれたペライアのピアニズムが美しく結晶化している。

彼の40年に亘るキャリアを記念した全集を既に持っている熱心なペライア・ファンは別としても、気軽に親しめる第一級のショパン作品集として入門者にもお薦めできる優れたセットである。

尚ピアノ協奏曲第1番ホ短調の音源に関してはズービン・メータとのニューヨーク・フィル及びイスラエル・フィルの2種類が存在するが、ここでは後者1989年の再録音の方が採用されている。

ペライアのショパンは強烈な個性を放っているわけではないが、オーソドックスな解釈の中にもクリアーなタッチから引き出されるマイルドで美しい音色を一瞬たりとも失うことのない知的なコントロールが貫かれている。

それは決して小ぢんまりとした大人しい奏法ではなく、きめ細かな表情から全力を注ぎ込むスケールの大きな表現までが矛盾をきたさずに自然に統合される音楽設計も見事だ。

ペライアのタッチは美しい響きをもち、特に弱音で旋律を歌わせるときの余韻が実に清楚で、レガートの美しさを十分に生かし、滑らかなフレージングが細かな表情の変化を伴って豊かなニュアンスを生み出している。

ペライアは実に入念に考え抜いた表現を生み出すが、その点では極めて今日的なショパンであり、技術的にも見事である。

変に突出せず十全な形でショパンの作品を聴かせており、端的に言えばその演奏は没個性に向かいかねない兆候ともとられるが、この演奏はそのぎりぎりの瀬戸際で成り立っている。

解釈は極めてオーソドックスで少しの気負いもなく、こまやかな感情の動きを率直に表現しており、こうしたところにも彼の頭脳的プレーと筋の通ったポリシーを窺わせている。

ペライアは、リリカルとかピアノの詩人とか形容されているが、音楽から受ける印象はスポーティで、情緒も音楽も停滞がない。

何より素晴らしいのは、この演奏にはまさしく“華”があることで、表現の起伏は大きく、ドラマは十全に演出されてゆき、しかも細部の語り口も極めて入念、これを聴いていると、しばしの間、至福の状態を味わうことができる。

ペライア28歳の時の『24の前奏曲集』ではショパンの音楽自体が持っている冷徹さや翳りのようなものはそれほど感じられない。

現在の彼と比べると、自らの音楽を迷うことなく確信し、演奏を繰り広げていく感が強く、ショパンの楽譜に向かって真正面から自分をぶつけている。

表現の力強さとテクニックの大きさでぐいぐいと引っ張っていく力は充分に感じられるが、表現のデリカシーや抒情性の点でやや荒さがあるのは、年齢を考えると致し方あるまい。

むしろ、その一貫して真摯な演奏が絶賛されているペライアが21世紀に発表した鮮烈なショパンとして注目を集めた『エチュード』でのより円熟した多彩な表現力が優っているだろう。

また2曲のピアノ協奏曲では溢れんばかりの情熱的な表現とコントラストをなす緩徐楽章の洗練を極めた抒情が例えようもなく美しく、メロディの羅列になりやすいショパンの2曲を細心さをもって弾き切っている。

各主題の美しさはもちろんだが、経過部での表情付けはショパン演奏のひとつの手本となり得るものであり、メータの指揮も自信に満ちて若々しく、充実感満点だ。

更に、有名な「幻想即興曲」を含む4曲の『即興曲』では抜群に冴えわたる指さばきが、エネルギッシュに展開され、『舟歌』のリズムには活気が、『子守歌』には明るさがあり、この後何度かの故障からカムバックして大輪の花を咲かせるペライアの特質が十分に披露されている。

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2016年11月13日


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21世紀のピアノの巨匠として高い評価と人気を誇るエフゲニー・キーシン得意のショパンの人気主要作品をほぼ網羅したアルバム。

キーシンがその名を世界にとどろかせたのは1984年、12歳で弾いたショパンのピアノ協奏曲2曲のソ連メロディアレーベルのレコードであった。

それ以来、ショパン作品はキーシンにとって最重要のレパートリーとして繰り返し演奏し、新しいレパートリーが増える毎に、RCAにその足跡をレコーディングという形で残してきた。

1993年にカーネギー・ホールで行われた「オール・ショパン・リサイタル」のライヴCD2枚を皮切りに、1998年、1999年にスタジオ録音のショパン・アルバムをリリースし、2004年のヴェルビエ音楽祭での伝説的なライヴ演奏も2006年に発売された。

本BOXはピアノ協奏曲を除き、それら5枚を集成し、1994年スタジオ録音と2004年ライヴ録音の2種類の『英雄ポロネーズ』も収録して、ショパン・イヤーに合わせて発売されたものだ。

すなわち、このセットは15歳でサントリー・ホールに登場してから、30代前半までのキーシン青年期のショパン演奏の記録であり、それはまた繰り返し録音をしない彼のポリシーからすれば、貴重なショパンの集大成と言っても良いだろう。

ここでもキーシンは自然に溢れ出るような格調高い音楽性を歌い上げながら、時として突き進むような集中力と華麗なテクニックで圧倒的な表現力の広さを披露している。

爛襦璽咼鵐轡絅織ぅ鵑慮綏兌圻瓩噺討个譴襯ーシンが、鮮やかな技巧と、輝きに満ちた鮮明なタッチ、格調高い音楽性によって、爽やかな情緒を湛えた美しいショパン像を描き出して、楽しませてくれる。

確かに彼の『エチュード』が存在しないのは残念だが、『ノクターン』や『マズルカ』あるいは静謐な『子守唄』で聴かせる洗練された感性とエスプリは、メカニック的な技巧のみに溺れないキーシンの音楽に対するフレキシブルな姿勢を良く示しているし、5枚のうち3枚がライヴ録音であることを考えれば彼の完璧主義が面目躍如たる演奏だ。

特に1997年秋にはサバティカルに身を休め、20代半ばまでの人生をおそらく振り返ったであろうキーシンが、1998年夏に録音した待望の『バラード』全集は、完璧としか言いようのない技術、惚れ惚れとするばかりに美しく、また輝かしい音色を武器に繰り広げられる壮絶なショパンであり、以前にも増して高みへと至ったキーシンの真価を満喫させる。

ショパンへの想い、バラードに対する共感のすべてが音の結晶体となって聴き手に降り注がれる演奏であり、1つ1つの作品の素晴らしさに打ちのめされると同時に、真摯なる演奏家としての道を突き進むキーシンの生き方そのものの足音を聴くかのような感銘を与えられる。

また、成長したキーシンが巨匠への道を歩み始めた証明と言える『プレリュード』は、1音1音のタッチに曲の解釈とその表現(技術的、精神的意味すべてにおいて)への自信が感じられる快心の演奏で、実際、曲によってはこれまでの演奏よりも譜面の読みがいっそう深いと感じさせる部分も多い。

ショパンのピアノ音楽のミクロコスモスであるこの曲集から、キーシンが自らの新たな可能性を切り開いた、唯一無二の至芸と言いたい。

録音年代は1987年から2004年で、ライヴとセッションではいくらか音質にばらつきがあるがいずれも良好だ。

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2016年11月11日


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アレクザンダー・ブライロフスキーと言えば、SP時代からLP、そして1960年代のステレオ初期の頃まで一世を風靡したピアニストだが、彼が引退してその名が聞かれなくなった頃から、彼の残した多くの録音が、特に日本では次々に廃盤になっていった。

そしてブライロフスキーの死から40年近くなった現在、過去の名演奏家の古い録音のCD化が流行しているにもかかわらず、彼の演奏のCDはわずかに数枚を数えるに過ぎない。

これをみると、ブライロフスキーは日本ではあまり評価されず、好まれないピアニストなのかもしれない。

確かにブライロフスキーの演奏には独特の癖とも言える個性があった。

これは若い頃にはもっと前面に出ていたというが、彼が長い間パリとニューヨークという国際都市の檜舞台を中心に活動しているうちに、磨き上げられ、洗練されて、独自の演奏スタイルを作り上げたと言える。

だから現在彼の演奏を聴いても決して古い、時代遅れのスタイルではなく、逆に没個性的で平均化した現代の多くの演奏家の中にあっては、新たな魅力を感じさせるように思う。

ブライロフスキーが爛轡腑僖鷄藾娉鉢瓩噺世錣譴襪茲Δ砲覆辰燭里蓮▲僖蠅離廛譽ぅ┘襦Ε曄璽襪韮尭間にわたるショパン・チクルスを行ない、全172曲の作品を演奏したことがその始まりである。

「当時は第1次大戦前後で、ようやく念願の独立を勝ち得たポーランドに対する関心が、世界的に高まっていた時でした。そこで私もポーランドの偉大なショパンに自分の全精神を投入する企画を立てたのです。」

ブライロフスキーがショパン・チクルスを行なうことを思い立ったのは、もちろんこのような考えからであったことは確かだが、その直接的なきっかけは、師とも言うべきモーリッツ・モシュコフスキーに負うところも大きいように思われる。

モシュコフスキーはポーランド出身の名ピアニストで、作曲家としても知られているが、1897年からパリに住んでいた。

当時既に60歳も半ばの年齢であったが、全盛期はたいへんな技巧家として知られ、またショパン演奏のスペシャリストでもあった。

ブライロフスキーがモシュコフスキーから直接教えを受けたという記録はないが、ことにショパンの演奏に関しては色々と助言を受けたことは充分に考えられる。

それともう一つは、これは筆者の単なる憶測に過ぎないが、当時のパリにはモシュコフスキーをはじめ、アルフレッド・コルトーやラザール・レヴィなど優れた演奏家がたくさん居たから、よほど話題性のある演奏会を行なわないと注目されない、と考えたこともあるのではなかろうか。

そしてこの「ショパン作品連続演奏会」は、その後ブライロフスキーのトレード・マークのようなものになり、1938年にニューヨークでも試みて大成功をおさめている。

また1960年、ショパン生誕150年の記念の年にも、ニューヨークとブリュッセルで連続演奏会を開き、同時に全作品のレコーディングを新たに行なっている。

このようにブライロフスキーは、その生涯に何回となくショパン・チクルスを行ない、また彼の残した録音でもショパンの作品が圧倒的多数を占めているから、ショパンのスペシャリストの一人に数えられている。

生前のブライロフスキーは、アメリカで最も人気のあるピアニストの一人に数えられていたが、特にこのピアニストのショパン弾きとしての名声には目を見張るものがあったと言っても過言ではないだろう。

それではブライロフスキーがなぜ初期の頃から、特別にショパンの作品を選んだのであろうか、その理由については、既に二つの事柄を挙げておいた。

その一つはモシュコフスキーの影響であり、もう一つは彼自身の言葉を引用したように、時代的な要請とそれに対する彼の対応の仕方である。

しかしそれ以外にもう一つ、彼がロシア人で、ポーランドと同じスラヴ系の出身であったことにもよるのではないかと思われる。

なぜそのような点を挙げるかというと、ブライロフスキーはパリで活動するにあたって、自分の演奏するショパンはフランス人の演奏するラテン的な表現とは異なるということを主張したかったように思われるからである。

しかも実はそこにブライロフスキーのショパンの演奏の真の特色があるように思うのである。

最初にも述べたように、ブライロフスキーはパリやニューヨークという国際都市で活動しているうちに、より洗練された感覚を演奏の中に加えていったが、しかし完全にフランス風の洗練さや洒落た感覚の域に達することはできなかった。

その根底にはやや無骨とも言えるスラヴ的なヴァイタリティがあり、それが無意識のうちに表出しているから、彼の演奏を聴いていると、ショパンの音楽の持っているそうした側面も感じることができるように思う。

だからたいへん大胆な言い方をすれば、ブライロフスキーのショパンの演奏はフランス流派とポーランド流派の中間をいくものと言えるかもしれない。

本セットに収められたCDに聴くブライロフスキーのショパンは、この巨匠の芸風の醍醐味を伝える名演集であり、力強くダイナミックで、華やかであると同時にブリリアントでもある。

そして、ある種の爽快感さえも感じさせる彼のショパンでは、明快でメリハリの効いた表現がとても快いものになっており、それは、このピアニストならではの聴かせどころのツボを巧みに心得たショパンの再現を実現させる結果を生んでいたのである。

ブライロフスキーに言わせると、「ショパンの演奏家で他の作曲家の作品が不得意な人というのは考えられない。なぜならば、ショパンの音楽はたいへん豊かなスタイルを持っており、その中には他の作曲家の色々な要素が入っているからだ」という。

稀にみる説得力を生んでいるこれらの演奏では、未だに演奏様式的な古さが感じられないことも、特筆される必要があるだろう。

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2016年11月09日


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ユニヴァーサル・イタリーの新譜で、昨年12月に亡くなったシレジア出身の指揮者クルト・マズアと彼の手兵ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による2回目のベートーヴェンの交響曲全曲及び三重協奏曲ハ長調、ピアノ、合唱と管弦楽のための『ファンタジア』ハ短調、ヴァイオリン協奏曲ニ長調、そして11曲の序曲を収録したオール・ベートーヴェン・プログラムの充実した内容を持つセットである。

録音は1972年から93年にかけて行われたもので、それはマズアが43歳でゲヴァントハウスの音楽監督就任以来20年以上に亘る彼らのコラボの集積でもある。

アナログからデジタルへの移行期だったために双方のシステムが使われているが、総てがフィリップス音源で音質は極めて良好だ。

グローバル化の進んだ当節のオーケストラのサウンドの変化はゲヴァントハウスでも同様で、近年では非常に洗練された垢抜けた響きを持っていて、昨年聴いた時には旧東ドイツのオーケストラではむしろシュターツカペレ・ドレスデンの方が渋みのあるドイツらしい音色を保っているように思えたが、ゲヴァントハウスには伝統的な文化の厚みを担った重厚さと気迫が残っていて、現在でもそれがこのオーケストラのカラーになっているのだろう。

ある意味では融通性は少ないが質実剛健でベートーヴェンの原点を感じさせるような力強くダイナミックな表現が聴きどころで、それを更に引き出すようなマズアの手法が象徴的だ。

彼にはこれらの作品を小器用にまとめることよりも、もっと大掴みだが骨太な音楽性を感じさせるといった趣があり、媚びや洒落っ気のない直線的で頑固とも言える音響力学が彼らの醍醐味だろう。

マズアの指揮には個性的な面白みやスリルに欠けるという評価があるが、彼はカリスマ性で惹きつけたり個性を前面に出す指揮者ではなく作曲家の音楽語法を手に取るように明らかにするという意味で彼がここに示しているベートーヴェン像は、筆者自身には納得のいくものだ。

シンプルでテンポも速めだが、明確な構想があり整然としたオーケストレーションと混濁のない響きは決して軽佻浮薄な音楽に陥ることがなく、黒光りするような職人的な練達の技を感じるというのが正直な印象だ。

マズアとゲヴァントハウスの対立するイディオムが、背反することなくひとつの語法へと収斂したのが成功の一因と言えるところであり、音楽の起伏も豊かで、骨格が太く強い芯のある演奏になっている。

交響曲は熟成した柔らかく質朴な美しさと、滔々とした音楽の流動感があり、ライプツィヒの街と伝統にふさわしい色が音楽にも表れている。

ヴァイオリン協奏曲ではアッカルドの楽観的なイタリア式カンタービレが意外に良く調和して、ヨアヒムの長大なカデンツァも朗々とした自然な美しさがある。

三重協奏曲のボザール・トリオはソリストとしての主張は控えめながら、粒の揃ったアンサンブルをマズアが几帳面に支えている。

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2016年11月07日


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ベルギー出身でレオンハルト亡き後のバロック音楽のネーデルラント派としての再現を研究し牽引してきたのがクイケン3兄弟だが、ここ数年では新録音はめっきり減って後進の指導に当たっていることが想像される。

三男のバルトールド・クイケンも現在66歳で、ここにまとめられた11枚のCDは彼がこれまでアクサン・レーベルからリリースしてきた音源のうちフランスの作曲家の作品を集めたものになり、新しい録音ではないことを断っておく必要があるだろう。

また同時にテレマンの作品をまとめた4枚組も企画されている。

クイケンがその奏法の復元を試みたトラヴェルソは、昨年亡くなったブリュッヘンのリコーダーと並ぶ古楽復興には欠かせない重要な木管楽器だったことは言うまでないが、このふたつの楽器の蘇生によって古楽黎明期を力強く支え発展させた彼らの功績は計り知れないものがある。

クイケンはトラヴェルソの欠点であった不安定な音程や少なからず混乱をきたしていた気まぐれとも言えるピッチの問題をひとまず解決に導き、ソロ楽器として充分活用できるだけの基本的なテクニックを開拓した。

そうした彼の研究と実践がこのアルバムに最良のサンプルとして示されていると言えるだろう。

クイケンのフランス物への解釈は、オットテールの演奏に代表されるように装飾音やイネガルを注意深く取り入れて誇張を避けたあくまでも軽妙洒脱な音楽を再現していることだ。

但し、ルイ王朝の奢侈や宮廷生活の思いがけない倦怠感までも描き出したバーゼルゼットの、より濃密な演奏に比べると、ややあっさりし過ぎているように感じられる。

むしろ彼の実力は2枚のルクレール・ソナタ集と最後のドゥヴィエンヌのフルート四重奏に示されている。

前者ではロマン派以降のフルーティストによって歪められてしまったバロック音楽としてのルクレールのオリジナリティーを復活させた模範的な演奏だし、後者はピリオド楽器アウグスト・グレンザーの機能を駆使した華麗なアンサンブルが聴きどころだ。

ここではまた自由闊達にバロック・ヴァイオリンを弾く寺神戸亮のリーダーシップも特筆される。

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2016年11月05日


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ロシア出身の名ピアニスト、ニキタ・マガロフ(1912-1992)によるショパンのピアノ・ソロ作品全集。

1974〜78年にかけ5年間で録音されており、2pと4手(ダルベルト)作品も含めて全205曲を収めている。

マガロフ60歳代の脂の乗っていて、精神的に極めて充実していた時代のアルバムである。

マガロフは、近代音楽に造詣が深いが、ロマン派にも傾倒し、自分のレパートリーのすべてに、その持ち味を発揮した演奏を聴かせるピアニストであった。

無論、ショパン弾きとしても定評のある人で、彼が最も多く好んで取り上げてきたレパートリーは、ショパンであったと考えてよいだろう。

そうした彼は、ショパンの作品を完全に自己の芸風の中に同化させ、ここでこのピアニストならではの巨匠的なスタイルの演奏を聴かせているのである。

全体にわたって、表向きはきらびやかではないとしても、自らの信じるピアニズムを究めつくした感のある練達の技巧、そして特に微妙な音彩変化の豊かさをうかがわせる演奏だ。

端麗な虚飾を排した表現をとっているが、だからといって教授タイプのそっけない演奏ではない。

こまやかな気配りがしっかりとしたヴィジョンのもとで、真に生命をもって息づいているのが感じられる。

マガロフはさまざまな理由で時流に乗ることができなかったため、わが国ではポピュラーなピアニストとは言い難い存在だった。

しかしマガロフの演奏は、現在の色々なショパン演奏の流れの中で、しっかりとした本物があったということを教えてくれるのだ。

決して恣意的に自分の領土に引っ張り込むことなく、作品が持つドラマティックな表現の世界を切り開いてみせる、実にバランスのよい演奏だ。

このショパンを聴いて一番強く感じるのは、彼がこの作曲家に対する理解がどのようなものであるかが、聴き手に率直に伝わってくる点だ。

これは当たり前のことのようだが、古典作品の解釈として今日なかなか困難になっていることなのだ。

マガロフの演奏で一番強く共感するのは、ショパンのピアニズムのグランディオーソ的な特色を生かしつつも現代的な知的なアプローチをしており、この作曲家の魅力である、ある種の誘惑に決して引き込まれ過ぎていない点にある。

実にヴィルトゥオーゾ的豊かな響きを持つが、決してテクニックだけで弾き抜くことなく、節度があり、客観的観賞に十分に耐えうる音楽を生み出している。

マガロフは大きなテクニックの持ち主であり、ショパンの音楽をいかようにも料理できる。

しかし彼は伝統的なショパン理解の線をはっきりと継承しつつ、その了解の"枠"の中で彼なりのショパンを聴かせる。

そして聴き手もその"枠"を理解することができるから、そこに共感が成立するのである。

確かな技巧を土台としつつも、メカニック的な面が前面に出ることなく、微妙な表情や変化で味付けを行いながらも、過剰な情熱表現や余分な濃厚さに陥ることはない。

過度の感傷に溺れることなく骨太に、しかも必要な情感を力強く表現していて見事であり、そこからは仄かな詩的味わいが立ち昇ってくる。

生涯を通してショパンを弾き続けながら自らのショパン解釈を究めてきた人ならではの深い含蓄が、ごく自然なニュアンスとなって現れ出たような演奏だ。

滋味深い、マガロフの真価を知るのにまたとないアルバムであり、こうした情趣あるショパンは、最近のピアニストからはほとんど聴けなくなってしまった。

底力に支えられた、まさにその実力を聴かせるショパンといってよく、現在もう一度深く考えて評価すべきは、このようなショパンの演奏ではないかとも思われる。

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2016年11月04日


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ヘンリク・ヴィエニャフスキ(1835-1880)とカロル・シマノフスキ(1882-1937)はどちらもポーランドの作曲家で、オーケストラはバンベルク交響楽団だが、実質的には同郷のヴァイオリニスト、ヘンリク・シェリングと指揮者ヤン・クレンツが祖国の作曲家に捧げたヴァイオリン協奏曲集という趣向になっている。

とは言っても双方が早くからインターナショナルな感覚を身に付けた音楽家であるために、他に引けを取らない情熱的な演奏には違いないが、偏狭な意味でのナショナリズムの高揚というよりは、むしろ2人の作曲家の普遍的な価値を洗練された様式で示したサンプルとしての意義があると思う。

特にシェリングは欧米のあらゆる音楽的な趣味を習得した上で、そのどれにも囚われない独自の奏法を確立していて、そのために時折個性に乏しいヴァイオリニストのように言われることがあるが、スタイルに逃げ道を探さない真摯な姿勢が彼らしいところではないだろうか。

筆者は所謂「本場の演奏」という表現が嫌いだけれども、こと固有のリズム感に関しては認めざるを得ない時がある。

ポーランド出身のシェリングが自国の2人の作曲家のコンチェルトを演奏したこのアルバムなどはまさにそれで、もうリズムだけでも酔わされる。

ヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第2番ニ短調は後期ロマン派特有の耽美的な抒情性を持った曲想と名技主義を披露する華麗なテクニックが駆使されているために、古今の名立たるヴァイオリニストのレパートリーとして欠かせない曲目になっている。

殊に第2楽章『ロマンス』でシェリングは恣意的なポルタメントをかけたりテンポを必要以上に動かすことなく、怜悧なボウイングのコントロールによって歌いきっていて、またメランコリーの表出にも不足していない。

終楽章『ジプシー風』には民俗的なテーマが挿入されているが、クレンツが支えるオーケストラに乗ったシェリングの緊張感に満ちたソロがやはりポーランド人の血を感じさせる。

一方シマノフスキの方は曲の最後の和音がイ長調のトニックだが曲中では殆んど調性から離れた作品になっていて、20世紀の新しい作品にも果敢に挑戦したシェリングの知性的な演奏が際立っている。

無伴奏の曲では他の追随を許さなかった彼らしい中間部の決然としたカデンツァやクレンツ&バンベルク響の創り上げる斬新な音響も聴きどころだろう。

音源はフィリップスで、いずれも1972年のセッション録音になりキレの良い音質が特徴だ。

尚このCDはリイシューされた日本盤で、見開きのみのリーフレット式のライナー・ノーツが付いているが、既に製造中止の憂き目に遭っているのが残念だ。

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classicalmusic at 01:16コメント(0)トラックバック(0)シェリング 

2016年11月02日


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筆者が最初にルージィチコヴァの録音を聴いたのはブランデンブルク協奏曲第5番と三重協奏曲のカップリングでエラートから高品質LP盤としてリリースされたランパル、スーク、プラハ合奏団のものだった。

その典雅な美しさは現在でもモダン楽器によるアンサンブルでは最も魅力的な演奏だと思う。

その後同シリーズから彼女のゴールトベルク変奏曲が出て、その才気煥発な表現にバッハへの新しい解釈を感じ取ることができた思い出がある。

古楽復興の黎明期にあって、彼女の演奏はネーデルランド派の楽理的な研究やドイツの伝統的なオルガン音楽に基礎を置く演奏家達とも一線を画した、聴いて心地よく溌剌とした演奏がバッハの音楽を理屈抜きに楽しませてくれた。

この20枚には平均律クラヴィーア曲集全2巻、パルティータ、イギリス、フランス組曲それぞれの全曲、ゴールトベルク変奏曲、イタリア協奏曲、半音階的幻想曲とフーガ、フランス風序曲などをメインに、普段聴くことができないヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲からのアレンジになるチェンバロ独奏用協奏曲集などバッハのチェンバロ用主要作品が網羅されている。

ソロ以外では上記した2曲の協奏曲の他にフルニエとの3曲のチェロ・ソナタ及びスークとのヴァイオリン・ソナタ6曲を収録している。

ピリオド楽器が主流の現在のバロック音楽演奏では、モダン・チェンバロはもはやソロだけでなくアンサンブルからも追いやられてしまったが、選択肢に乏しかった1970年代初期までは一流どころのチェンバリストも便宜上モダン楽器を使っていた。

しかしノイペルトに代表されるように鋳鉄の大型フレームから響く音量は厚かましいほど大きく、人工的でキンキンした音色はいかにも代用品といった代物だった。

一方ヒストリカル・チェンバロは言うまでもなく大量生産された規格品ではないので、それぞれに個性があり響きも奥ゆかしく繊細で美しいが、製作台数が少ないだけでなく専門職人による修復が必須で、それに伴う特注部品による楽器のメンテナンスや所有者との貸借交渉などを考慮すればモダン・チェンバロ一台を購入するより遥かに高いコストがかかってしまっただろう。

またヒストリカルには独自の奏法が求められるので、チェンバリストにもテクニックのさらい直しという負担が生じた筈だ。

ルージィチコヴァの全盛期には、メカニズムとマテリアルは合理的に改変されているが、音色の欠点をカバーした改良型も登場している。

彼女がこの録音で弾いているヒストリカルはエムシュのみで他はアンマー、シュペルハーケ、ノイペルトのモダン楽器になる。

ヒストリカルの忠実なコピーの製作が一般的になるのは更に数年を待たなければならなかった。

しっかりした装丁の引き出し式ボックスにデザインなしのカラフルなジャケットで収納され、22ページほどのライナー・ノーツには演奏曲目一覧と英、仏、独語による簡易なコメントが掲載されているが、録音データ及び使用楽器はそれぞれのジャケットのみに記載している。

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classicalmusic at 00:06コメント(0)トラックバック(0)バッハ 

2016年11月01日


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ドイツ・グラモフォンからブラームス・エディション全8巻が刊行されたのは、確か作曲家の没後100周年を前にした1996年だったと思う。

しかしその全集と更に翌年のベートーヴェン全集に組み入れられた交響曲全集はカラヤン&ベルリン・フィルのものだった。

確かに人気、実力ともに彼らの演奏は圧倒的な強みを持っていたので、当然と言えば当然の選択だったのかも知れない。

だがベーム&ウィーン・フィルによる交響曲全集はあくまでもウィーン流美学にこだわったブラームスで、他の指揮者やオーケストラでは替え難い魅力を持っており、このコンビのスタイル全開の演奏を堪能できるものだ。

また随所に聴かれるソロ・パートやアンサンブルの巧みさ、弦の響きの瑞々しさとウィンナ・ホルンの渋い音色などがベーム晩年の鷹揚かつ洗練された手法で絶妙に統合されている。

交響曲第1番の冒頭や終楽章の追い込みでもベームの指揮はことさら個性を強調したものではないし、迫力を誇示するようなハッタリもない自然体が基調だ。

それは音楽自体が内包するエネルギーの開放であり、オーケストラをこれだけ美しく響かせながら律儀に構築されたブラームスも珍しいのではないだろうか。

緩徐部分では秋の日の静かな森の中を散策しているような木の葉のざわめきや木漏れ日をイメージさせる。

第2楽章での官能的なソロ・ヴァイオリンは当時のコンサート・マスター、ゲルハルト・へッツェルが弾いている。

交響曲第2番は第1番の張り詰めた緊張感から開放された、安らぎと機知に富んだ作曲家のアイデアが面目躍如だ。

冒頭のテーマがウィンナ・ホルンの牧歌的な響きを充分に醸し出していて、この曲全体の雰囲気を決定しているのも印象的だ。

また終楽章でも決して羽目を外さない厳格さには、流石にブラームスを知り尽くしているベームの頑固なまでに堅実な指揮ぶりが健在である。

第3番冒頭のブラス・パートの荘厳な響きは決してスペクタクルな効果を狙ったものではないが、このオーケストラの伝統を背負うような重厚なハーモニーだ。

またしばしば現れる管楽器のソロも弦楽器のたゆとうようなメロディーも、ベームの采配によって雄弁にまとめられている。

第3楽章ポコ・アレグレットのひたひたと忍び寄るような諦観も彼ら独自の表現である。

当時のウィーン・フィルはコンサート・マスターのへッツェルを始めとしてフルートのトリップ、クラリネットのプリンツ、ファゴットのツェーマンやホルンのヘーグナーなどの首席奏者達の全盛期で、彼らがウィーン・フィルの音色やウィーンの演奏スタイルを決定していたと言っても過言ではないだろう。

また第4番冒頭の瑞々しい哀愁も、カラヤン&ベルリン・フィルとは全く異なった枯淡の味わいを持っている。

しかしそれは脆弱さとは無縁で、第2楽章の静謐だが溢れんばかりの幸福感に満たされたオーケストレーションの処理や終楽章パッサカリアの造形美の鮮やかさもベームの卓越した指揮法に負っている。

カップリングには、『ハイドンの主題による変奏曲』、クリスタ・ルートヴィヒのメゾ・ソプラノとウィーン楽友協会の男声コーラスが加わる『アルト・ラプソディー』、そして『悲劇的序曲』の3曲が収録されている。

彼らが『大学祝典序曲』を残してくれなかったのは残念だが、これらの作品にもウィーンの演奏者ならではの情緒が滲み出ている。

それは後半生を同地で過ごしたブラームスの作品の解釈において、ひとつの流儀として受け継がれているのではないだろうか。

『ハイドンの主題による変奏曲』は、端正な音楽作りと上品な佇まいで、数多いこの曲の演奏の中では傑出したセッションと言える。

『アルト・ラプソディー』で歌われるゲーテの『冬のハルツ紀行』は、まさに当時のブラームスの心境を反映させた内面的な独白をアルト・ソロに託している。

クリスタ・ルートヴィヒはウィーン出身ではないが、ベームの薫陶を受けた歌手だけあって指揮者のこだわりをわきまえた理知的で、しかもリリカルになり過ぎない手堅い表現が秀逸だ。

『悲劇的序曲』では、ベームはこの作品のタイトルを額面通りに受け止めるのではなく、むしろ古典派的な様式感を感知させることに注意を払っているようで、それだけにドラマティックな表現はいくらか控えめに留めている。

録音場所は総てウィーンの黄金ホールと呼ばれるムジークフェラインのグローサー・ザールで、1870年オープンの歴史的コンサート・ホールだ。

この演奏会場は内部装飾の豪華さもさることながら、残響の潤沢なことでも良く知られている。

因みに残響時間は1680人の満席時で2秒なので、当然聴衆のいないセッションでは更に長くなる。

曲種によってはそれがいくらか煩わしいこともあるが、こうした純粋なオーケストラル・ワークでは最良の効果を発揮できる。

録音は1975年から77年にかけてのベーム最晩年のセッションになるが、音楽的な高揚と充実感は全く衰えておらず、音質はこの時代のものとしては極めて良好で、楽器間の分離状態、高音の伸びや潤いも時代を感じさせず、臨場感にも不足していない。

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