2016年12月

2016年12月31日


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1996年4月、本CDが初出されたときには少なからぬ衝撃を受けた。

こんな凄い名演が指揮者の許可を得られないまま、37年間もオクラになっていたというのだから…。

フェレンツ・フリッチャイは、第2次世界大戦後の混迷したヨーロッパ楽界に彗星のように登場し、モノラル録音の時代からステレオの初期に活動し、数多くのレパートリーを次々と録音してきた。

フリッチャイは1953年にベルリン・フィルと第1回目の『悲愴』をセッション録音していて、そちらでは彼のストレートな解釈と覇気が否応なく伝わってくるが、臨場感にやや乏しいモノラル録音なのが惜しまれる。

一方この演奏はその6年後に手兵ベルリン放送交響楽団(旧RIAS)を振った、極めて良好なステレオ録音で、スコアのテクスチュアを明確に描く手法とアンサンブルの手堅さ、見せ掛けの迫力や感傷性を嫌った真摯な音楽作りは変わっていないが、オーケストラのダイナミズムの多様さや柔軟なテンポの変化によって更に深みが増している。

このセッションは彼が白血病による闘病生活の後、一時的な小康状態を得て演奏活動を再開した頃のもので、病を境にその芸術が一変し、中でもこの『悲愴』は2度目の手術後の再起第1作として、またドイツ・グラモフォン初の『悲愴』ステレオ録音(ムラヴィンスキー盤より前)として意義深いものだ。

2年後には再び活動の中断を余儀なくされ1963年に49歳の若さで早世したが、晩年まで彼の演奏には病的な脆弱さは微塵もなく、バイタリティー溢れる指揮ぶりはこの『悲愴』でも決して衰えをみせていない。

最近はこんな演奏は皆無であるが、とにかく『悲愴』という音楽が最も雄弁に、劇的に、抒情的に、内容的に、かつ音楽的、芸術的に語りかけてくるのだ。

全体的に清澄な雰囲気があり、第1楽章の主部がフォルテで出るところから、フリッチャイの指揮は共感に溢れ、展開部のクライマックスでも濁りのないくっきりとしたオーケストラの総奏が印象的だ。

第2楽章の変拍子のワルツでは鮮やかな回想をイメージさせるし、最初のチェロから他の演奏とは別次元にある。

第3楽章の狂想を叫ぶようなマーチにもすべての音に意味があり、コーダの加速はフルトヴェングラーを彷彿とさせる。

一変する終楽章の雄弁な沈潜、銅鑼の音が響き、弦は全員夢中になっての体当たりで、ブラスのコラールからコーダまでは臓腑を抉るような寂寥感を残している。

この曲だけを聴いていてもフリッチャイが枯渇することのない溢れんばかりのアイデアを着々と実現していたことが理解できるし、その余りにも早過ぎた死が悔やまれてならない。

フリッチャイが1音1音を慈しみ、万感を胸に抱き演奏されたこの『悲愴』は彼の時代を明確に刻む記念碑と言えるところであり、当時のベルリン放送交響楽団の巧さも特筆される。

フリッチャイは改名以前のRIAS交響楽団の初代首席指揮者であり、彼によって鍛えられた精緻なアンサンブルや揺るぎない機動力はこの頃ほぼ全盛期に達していたと言えるだろう。

尚1993年に彼らは2度目の改称でベルリン・ドイツ交響楽団として現在まで演奏活動を続けている。

ベルリンには10団体を下らないオーケストラがひしめいていて、ヨーロッパではロンドンに優るとも劣らないオーケストラ王国だが、この1959年の『悲愴』はベルリン放送交響楽団の最も輝かしかった時代の記録としての高い価値を持っている。

当ディスクはSHM−CDで、その他にSACD及びマニアックなファンのためのLP盤の3種類のバージョンがリリースされているが、勿論フリッチャイ・グラモフォン・コンプリート・レコーディング集の第1巻にもレギュラー・フォーマットで収録されている。

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2016年12月30日


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シューマンの交響曲全集で誰のものを選ぶのかときかれると、すごく迷う。

大御所クレンペラーのものは、1960年2月の第4番から1969年2月の第3番までじつに9年間をかけた労作だが、1曲1曲を録音していったら「全集」になったと言ったほうが正しいのかもしれない。

ゆえに、年代を追うに従って指揮者やオケに変化が生じてしまっている。

サヴァリッシュのものは、当時のシュターツカペレ・ドレスデンのあまりのすばらしさ(特にティンパニのゾンダーマン!)に驚嘆するが、この世界最古の由緒ある楽団の魅力が指揮者の魅力を上回っているとも言えなくない…。

そこで今回取り上げるのは、アムステルダム生まれのハイティンクが、自ら四半世紀も統率した名門コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したものだ。

ハイティンクは、作品に真正面から向き合い、まとまりの良い端正な音楽を、柔らかみのある美しい響きでたっぷりと鳴り響かせて、その魅力をストレートに引き出してくる指揮者だ。

こうしたアプローチを「個性がなく」「平凡」と言ってしまうことも可能だろうが、彼において確実に「非凡」なのは、オーケストラの響きを練り上げ、アンサンブルを見事にまとめあげていく能力である。

この非凡さが、「平凡」な解釈を、小手先の細工を弄したり斜に構えてみたりといった幾多の一見「個性的」な解釈よりも、はるかに説得力のあるものに変えるのだ。

シューマン独特の夢見るようなオーケストレーションを流麗に再現しながら、どこをとっても奇を衒わぬストレートな解釈で、それが聴き手に強い説得力をもって迫ってくる。

ハイティンクは全集の多い指揮者の1人だが、それは時代や作曲家にかかわらず、手掛ける作品のすべてにおいて均質で高い水準の演奏を成し得る指揮者だからだろう。

そして長年の経験のもとに1980年代に入って意欲を燃やしたのがシューマンの交響曲であったが、当時のハイティンクの気宇の大きさと音楽的な成熟を反映して、シューマン特有のオーケストレーションから豊麗な音楽を引き出している。

こうして完成された全集は、4曲すべてがハイティンクらしい無理のない妥当な表現の中に濃やかで精密な表情を盛り込み、コンセルトヘボウ管の伝統的な、ほの暗い響きと渋みのある重厚な響きを生かして、それぞれの作品の持ち味を伝えており、一方で軽やかな推進力をもって、新鮮な音楽を聴かせる。

この演奏は全4曲のすべての出来映えにまったくむらがなく、作品の本質に触れており、解釈も誠実この上ない、いずれ劣らぬ名演となっている。

結果的に第1番の若々しいロマン的情緒や、第2番の深々とした叙情の変転、第3番の明るい輝きに満ちた力感の表明、第4番の内向する幻想の広がりと、それぞれの曲の性格が見事に明らかにされていて、現在の最良の全集である。

ピリオド楽器による演奏を聴き慣れた耳には、響きがやや厚くなり過ぎる傾向もあるが、基本的には柔らかく豊かな表現で落ち着いた音楽作りをしており、また、細かい動機まで、明確に聴取できる明晰さも持ち合わせていて、安心して楽しめる内容を持っている。

第1番《春》は、明るく明晰な表現でこの交響曲にある優美な快活さと若々しくフレッシュな感覚をバランス良く的確に表出し、また立体的に構成しながら、その中にシューマンの若々しいロマンティシズムが横溢しており、爽やかでありながらぬくもりのある表情が印象的である。

冒頭から抜けの良い響きで、明るく力強いが、序奏に続く第1楽章主部は速めのきびきびしたテンポで覇気を感じさせる。

一方緩徐楽章にはほの暗く物憂い雰囲気もあり、終楽章は落ち着きのあるテンポをとりながらも、生き生きとしている。

第2番は第4番とともに、最もシューマンの音楽性を鮮明に表出した曲と言えるが、その個性的な楽想と構造をハイティンクは明晰に処理しながら、作品に潜む深沈とした叙情の変転をくまなくあらわしているのが良く、流麗さにおいても際立ち、きわめて洗練された演奏である。

落ち着いて安定感があり、流れが良く、緩徐楽章にも深みのある温かい情感が漂っていて、この指揮者らしい誠実さが、こうした作品では格別の長所になっており、オーケストラの統率についても言うことがない。

第3番《ライン》は、明るく明確、そして流麗な旋律美に溢れた表現で非常に中身の濃い演奏になっていて、相変わらず堅実無比の好演である。

オーケストラを存分に鳴らしながらゆとりある美しい響きを作り出し、起伏に富んだ演奏を聴かせ、個々の部分の造型よりも全体のまとまりある構築を考えたオーソドックスな演奏で充実感がある。

この曲に必要な明るい輝きもあって、作品の特色を明らかにしており、生き生きと表現された第1楽章や壮麗な気分を格調高く歌い上げた第4楽章などに、地味ながらめきめき力をつけていった実力派の巨匠の音楽的成熟が窺われる。

第4番は、豊かな響きと明晰な声部処理でまとめあげるなど、造型的な配慮が行き届いているのが良く、幻想的な趣と劇性の配分も聴き手を納得させるのに充分で、この作品を知るためには最良の演奏である。

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2016年12月28日


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1959年にカルロ=マリア・ジュリーニが当時全盛期だったフィルハーモニア管弦楽団を振ったモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の名盤は、ウィーンのバリトン、エーベルハルト・ヴェヒターをタイトル・ロールに起用し、レポレロにも老巧なところを見せるバリトンのジュゼッペ・タデイを配しているところに特徴がある。

それ以前の全曲録音ではフルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる1954年のザルツブルク音楽祭のライヴが、バス歌手による同オペラの最高峰に値する重厚な演奏で、イタリアのバス、チェーザレ・シエピの高貴な歌唱と名演技が忘れ難いが、ジュリーニは敢えてバスは騎士長のフリックだけに留めて、より軽妙洒脱なドラマ・ジョコーサに仕上げている。

勿論女声陣もドンナ・エルヴィーラにシュヴァルツコップ、ドンナ・アンナにサザーランド、ツェルリーナにはシュッティなど芸達者な歌手が揃っているし、ドン・オッターヴィオはルイジ・アルヴァ、マゼットは若き日のカップッチッリという魅力的な顔ぶれによる超豪華キャスティングである。

ヴェヒターの若々しい情熱を持って歌い切って輝かしく、貴族然とした歌唱はスケールこそ大きくないが無難なまとめで、言ってみれば等身大の新派的なドン・ジョヴァンニを演じて好感が持てるし、演技の巧妙さも髣髴とさせる。

円熟の極にあったシュヴァルツコップは文字通りの力演で、女心の複雑な心理をよく歌い分け、流石と納得させられる。

シュッティは透明な声に加え聡明な歌いぶりで魅了し、サザーランドも素晴らしい声で豊かな音楽性を感じさせる。

またジュリー二の指導の成果と思われるイタリア語のレチタティーヴォの発音とそのニュアンスの多様な表現をキャスト全員が巧みにこなしているプロ意識も流石で、快いムードが全篇を包んでいる。

こうした番号制のオペラではストーリーの展開を手際良く進め、それぞれの役柄を明確に表出するために欠かせない唱法だが、イタリア人以外の歌手も完璧に習得して指揮者の要求に見事に応えている。

ジュリーニは1970年代に入るとオペラ界から次第に手を引いていき、メトロポリタン歌劇場からの招聘も断わり続けた。

その理由のひとつは、忙しく世界中のオペラ・ハウスを移動して歌いまくるために声が荒れて質の落ちた歌手と、短時間に制限されたやっつけ仕事で仕上げなければならない稽古では、彼の理想とする舞台を創り上げることが困難だと感じたからだ。

それは辛辣だが真摯に音楽に奉仕する指揮者としてのポリシーを曲げない信念を示した選択だった。

これだけオペラに造詣が深く経験豊かなベテラン指揮者を失ってしまったことは、オペラ界にとっても大きな損失だったに違いない。

既にCD−ROM付のリマスタリング盤がリリースされていたが、こちらはイタリア語リブレットと独、英、仏語対訳を印刷したブックレットをつけたコレクション仕様になっている。

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2016年12月26日


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カルロ=マリア・ジュリーニが彼のロンドン時代にセッション録音した3曲を収録したアルバムで、当時全盛期だったフィルハーモニア管弦楽団との協演をハイブリッドSACD化したものである。

3曲ともジュリー二の追悼盤としてリリースされたEMIの『ロンドン時代のジュリーニ』17枚組セットにも組み込まれている。

シューマンの交響曲第3番変ホ長調『ライン』は、マーラーがオーケストレーションに手を加えたスコアを使用しているのが特徴で、作曲家のオリジナリティーを尊重する現在では稀な演奏と言える。

またそれが妥当かどうかは別として、シューマンのオリジナル・スコアの音響との比較が興味深い。

シューマン自身オーケストレーションの困難さは自覚していたようだが、結果的には独自の分厚く籠ったサウンドを生み出し、曲種によってはかえってそれが効果的に機能しているのも事実だ。

例えば第1曲目の序曲『マンフレッド』は暗雲立ち込めるような重苦しい雰囲気が主人公マンフレッドの数奇な運命を暗示しているし、ジュリーニの指揮もそれを意識している。

一方交響曲『ライン』は曲想の示している解放的な雰囲気から、ジュリーニは敢えてマーラー版を採用したと思われる。

ただ彼はマーラーによってシェイプアップされたサウンドが軽佻浮薄になるのを避けるためか、冒頭は荘重なテンポで開始している。

マーラーにはその独特な音響感覚だけでなく尊大とも思える天才意識があったようで、オーケストレーションだけでなく、それに伴う発想記号まで変えているし、シューマンのみならずベートーヴェンの交響曲にさえも容赦なく手を入れている。

しかしながらこうした改竄は今日では到底許されるべきことではないだろう。

尚シューマンの2曲に関してはライナー・ノーツに1958年オリジナル・コロムビア・グラモフォン・カンパニーによるロンドンでの録音と記載されていて、序曲の方は解像度の高い完璧なステレオ録音だが、交響曲『ライン』は何故か擬似ステレオ化されたモノラル録音で、その理由については言及されていない。

音場に奥行きが出ているのはSACD化の効果だろう。

最後のチャイコフスキーの交響曲第2番ハ短調『小ロシア』は他より2年古い1956年のセッションだが、幸い歴としたステレオ録音で音質も3曲の中では最も良く、SACD化でのリイシューは朗報だ。

EMIのステレオ録音盤の正規リリースは1958年からだが、実際には既に試験録音を始めていたことを証明している。

チャイコフスキーの交響曲としては例外的に明朗な作品で、スラヴ民謡を採り入れた国民楽派的な作風から『小ロシア』のニックネームが付けられたようだ。

ジュリー二の卓越した劇場感覚がバレエ組曲を髣髴とさせる色彩感溢れる気の利いた音響を創造していて、飛びっきり軽快なスケルツォや終楽章の変奏曲でのコサック・ダンスのホーパックさながらの盛り上げが聴きどころだ。

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2016年12月25日


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クレンペラーがニュー・フィルハーモニア管弦楽団(厳密に言うと、第4番はフィルハーモニア管弦楽団)とともにスタジオ録音したシューマンの交響曲全集、序曲集はいずれも素晴らしい名演と評価したい。

クレンペラーのシューマンにおけるアプローチは、悠揚迫らぬゆったりとしたテンポで曲想を重厚に描き出していくというものだ。

ブラスセクションなども力奏させることによって、いささかも隙間風の吹かない剛毅にして壮麗な音楽が紡ぎ出されており、全体の造型も極めて堅固である。

木管楽器などを比較的強く吹奏させて際立たせるのもクレンペラーならではであるが、全体に独特の格調の高さが支配しているのが素晴らしい。

緩徐楽章等における情感の豊かさにもいささかも不足もなく、いい意味での剛柔バランスのとれた演奏に仕上がっているのがクレンペラーのシューマンの特徴と言えるだろう。

全集の中でも交響曲第1番は最も優れた超名演として、これまで多くの音楽評論家によって絶賛されてきたところであり、第1楽章の頭から魂の祭典のようだ。

ハーモニーの物凄い密度、巨大な迫力、リズムは地の底まで抉り抜かれ、じっくりとした風格と重量感に満ち、クレンペラーもよほど体調が良かったのだろう(1966年、80歳の時の録音)、実に生き生きとした新鮮な音を出している。

「春」という標題が付いているだけに、シューマンの交響曲の中では明朗で詩情に満ち溢れた楽曲であるが、クレンペラーは前述のような剛柔バランスのとれたアプローチによって、同曲に込められた豊かな詩情を実に巧みに描き出しているのが素晴らしい。

演奏のテンポは誰よりも遅いが、その遅さ故に彫りの深い濃密な味わいが滲み出していると言えるところであり、本演奏は、その奥深い味わい深さと言った点に鑑みれば、同曲の様々な演奏に冠絶する至高の超名演と評価しても過言ではあるまい。

交響曲第2番は、シューマンの精神的な疾患の影響が反映された楽曲であり、細部に至るまで彫琢の限りを尽くしたシノーポリ&ウィーン・フィルによる演奏(1983年)や、より激情的でドラマティックなバーンスタイン&ウィーン・フィルによる演奏(1985年)の方がより同曲に相応しい名演のように思えなくもないところだ。

しかしながら、前述のような剛柔バランスのとれたアプローチによって、本演奏はシューマンが同曲に込めた絶望感を鋭く抉り出していくような奥行きのある演奏に仕上がっていると言えるところであり、その演奏の彫りの深さと言った点においては、前述のシノーポリやバーンスタインによる名演にも肉薄する名演と高く評価したい。

交響曲第3番については、「ライン」という標題が付いているだけに、シューマンの交響曲の中では、第1番「春」に次いで明朗で詩情に満ち溢れた楽曲である。

クレンペラーは、本演奏においても前述のような剛柔バランスのとれたアプローチによって、同曲に込められた豊かな詩情を実に巧みに描き出しているのが素晴らしい。

演奏のテンポは誰よりも遅いが、その遅さ故に彫りの深い濃密な味わいが滲み出していると言えるところであり、本演奏は、その奥深い味わい深さと言った点に鑑みれば、同曲最高の名演とされるシューリヒト&パリ音楽院管弦楽団による名演(1953年)やジュリーニ&ロサンゼルス・フィルによる名演(1980年)にも肉薄する至高の名演と評価しても過言ではあるまい。

交響曲第4番は、まさに文句のつけようがない至高の名演だ。

クレンペラーの本演奏におけるアプローチは、意外にも速めのテンポによる演奏であるが、スケールの雄大さは相変わらずであり、重厚さにおいてもいささかの不足はない。

全体に独特の格調の高さが支配しているが、とりわけ、第2楽章は抗し難い美しさに満ち溢れているのが素晴らしい。

第4番は、独墺系の大指揮者(フルトヴェングラーを始め、ベーム、カラヤン、ヴァントなど)がその最晩年に相次いで名演を遺している楽曲である。

特に、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる超名演(1953年)の存在感があまりにも大きいものであるため、他の演奏はどうしても不利な立場にあるのは否めない。

クレンペラーは前述のような剛柔バランスのとれたアプローチによって、シューマンが同曲に込めた寂寥感や絶望感を鋭く抉り出していくような奥行きのある演奏に仕上がっていると言えるところであり、その演奏の彫りの深さと言った点においては、前述のフルトヴェングラーによる超名演にも肉薄する名演と言えるのではないか。

また、「マンフレッド」序曲、「ゲノヴェーヴァ」序曲、「ファウスト」序曲も極めて優れた名演奏である。

「マンフレッド」序曲には、フルトヴェングラーがベルリン・フィルとともに録音した超名演(1949年)が存在しており、それはいかにもフルトヴェングラーならではのドラマティックな豪演であった。

これに対して、クレンペラーは微動だにしないインテンポで曲想を描き出して行くが、その威容は余人を寄せ付けないような風格を兼ね備えていると言えるところであり、格調の高さという意味においては、前述のフルトヴェングラーによる超名演にも肉薄し得る素晴らしい名演と高く評価したい。

「ゲノヴェーヴァ」序曲、「ファウスト」序曲にはライバルともなり得る名演が存在していないことから、まさにクレンペラーの独壇場と言っても過言ではあるまい。

クレンペラーは微動だにしないインテンポで曲想を描き出して行くが、その威容は余人を寄せ付けないような風格を兼ね備えていると言えるところであり、格調の高さという意味においては、他の演奏をいささかも寄せ付けない至高の超名演と高く評価したい。

全曲を通して第1、第2ヴァイオリンの両翼配置による掛け合いが効果的であり、どうもクレンペラーは第2ヴァイオリンの数を増やすとか、実力者を揃えるなど、このパートに大きくものを言わせているような気がする。

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2016年12月23日


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決して経験がない訳ではないにも関わらず、オペラ・ハウスとは疎遠だった巨匠チェリビダッケであるが、コンサートではしばしばオペラの序曲などを好んで指揮していた。

今回のアルバムは、圧倒的な声量を誇ったビルギット・ニルソンとまさにがっぷり四つの名演集で、ワーグナー作品についてはかつてGALAという海賊盤レーベルから出ていたが、劣悪なモノラル音源で当盤とは比較にならない。

ビルギット・ニルソンはノルウェーの伝説的ワーグナー・ソプラノ、キルステン・フラグスタートの後継者たる強靭な声を持ったスウェーデン出身のソプラノだったが、決して野太い大音声の歌手ではなく、むしろ焦点の定まった輪郭の明瞭な声質を完璧にコントロールした怜悧な歌唱でスケールの大きな舞台を創り上げた。

ニルソンの歌唱芸術はスタイリッシュだが恣意的ではなかったために劇場作品のみならず歌曲や宗教曲に至る広いレパートリーを可能にしたと言えるだろう。

当然彼女のオペラ全曲盤やアリア集は多いが、指揮者がチェリビダッケというのは異例中の異例で、しかも非常に高い演奏水準で彼らの超個性的な協演を堪能することができる演奏集である。

特徴的な精緻を極めた弱音、繊細でいながら大きなうねりも生み出す巧みなオーケストラ・ドライヴ、熱い血を持つチェリビダッケが展開する官能美に余裕たっぷりのニルソンの堂々たる歌唱には深い感動とともに痺れる他ない。

特に『ヴェーゼンドンクの歌』では、曲の性格ゆえ『トリスタン』以上に室内楽的な、細やかな響きへの配慮が窺え、見通しがよい響きは、どこかラヴェルのようでもある。

とりわけ「夢」が絶品で、夜の暗闇の中で若いふたりが抱き合う『トリスタン』第2幕を先取りした音楽だが、彼の棒によってまさに夜の空気が震えるような、色がにじむような繊細な音楽が生み出されたことが、この録音からはよくわかる。

チェリビダッケの要求が曲想の官能性よりも神秘的なサウンドの表出に向けられているのが興味深い。

この翌年の再共演が、イタリア・オペラのアリア3曲で、チェリビダッケの音楽づくりはいつもの通り、ヴェルディも熟練の管弦楽作家として描き尽くしているが、ニルソンの顔を潰すような場面はなく、まさに、龍虎相打つと言ったお互いの尊敬が音楽に込められている。

トラック1−8まではストックホルムに於ける2回のライヴから収録された良好なステレオ録音で、演奏終了後に拍手が入っているが客席からの雑音は無視できる程度のごく僅かなもので、音響はややデッドだがそれだけに声楽には適したすっきりとした音像が得られている。

尚トラック9及び10には『トリスタンとイゾルデ』からのリハーサル風景がモノラル録音で入っている。

通常リハーサルに於いて歌手は声量を抑えたソットヴォーチェで歌うことが許されているが、ここでのニルソンはオーケストラのやり直しの部分でも、繰り返しフルヴォイスで応じてワーグナー・ソプラノの貫禄を示して団員からの拍手喝采を受けている。

チェリビダッケはオペラ畑でキャリアを積んだ指揮者ではなく、オペラ全曲録音はセッション、ライヴ共に全く見当たらないが、かと言って彼が劇場作品への能力を欠いていたわけではないと思われる。

彼が大規模な劇場作品に手を染めなかった理由はライナー・ノーツで許光俊氏も指摘しているように、あらゆる妥協の産物に他ならないオペラ上演は、彼にとって受け入れ難い苦痛だったに違いない。

広範囲のジャンルからのスタッフで成り立つオペラ上演では、時として指揮者は彼ら同士の意見の対立を宥め賺して八方丸く治める手腕が求められる。

相手の欠点に容赦なく斬り込んだり、明け透けに毒舌で中傷するようなことがあれば指揮者の降板か、最悪の場合公演はキャンセルに追い込まれてしまうだろう。

チェリビダッケの隠されたオペラへの情熱と指揮法をこのアルバムで垣間見ることができるのは幸いだ。

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2016年12月22日


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ケンペ&ミュンヘン・フィルによるベートーヴェン演奏はどれも既に定評あるもので、渋く底光りするような独特の音響による骨格造形も逞しいアプローチは実に魅力的である。

奇を衒ったところなど全くないが、密度の薄いところも全くないという、実にクオリティの高い全集で、何度聴いても飽きのこない内容だ。

この演奏からオーケストラの個々の奏者の名人芸や離れ技を聴き取ることは難しく、個人技による感覚上の美観は、ここでは強く抑制されている。

従ってここに見られる音楽的美しさは、表層にたなびくものではなく、内に頑固なまでにしがみついたものであり、全9曲まったくムラのない出来だが、第4番から第7番までの演奏は特に強い感銘を与える。

最近では、ベートーヴェンの交響曲の演奏にも、ピリオド楽器を用いた演奏や古楽器奏法の波が押し寄せてきているが、本全集が録音された1970年代は、まだまだ大編成のオーケストラを用いた重厚な演奏が主流であったと言える。

例えば独墺系の指揮者で言えば、カラヤンやベームといった大巨匠が交響曲全集を相次いでスタジオ録音するとともに、クーベリックやバーンスタインによる全集なども生み出されるなど、まさにベートーヴェンの交響曲全集録音の黄金時代であったと言っても過言ではあるまい。

そのような中で、決して華やかさとは無縁のケンペによるベートーヴェンの交響曲全集が、1975年のレコード・アカデミー賞を受賞するなど一世を風靡するほどの評判を得たのはなぜなのだろうか。

確かに、本全集の各交響曲の演奏は、巷間言われているように、厳しい造型の下、決して奇を衒わない剛毅で重厚なドイツ正統派の名演と評することが可能であるが、決してそれだけでないのではないだろうか。

一聴すると、オーソドックスに思われる演奏ではあるが、随所にケンペならではの個性が刻印されていると言えるだろう。

例えば、第2番では、冒頭の和音の力強さ、第2楽章のこの世のものとは思えないような美しさ、第3楽章は、他のどの演奏にも増して快速のテンポをとるなど、決して一筋縄ではいかない特徴がある。

第4番第1楽章冒頭の超スローテンポによる開始、そして第3楽章など、他のどの演奏よりも快速のテンポだが、それでいて、全体の造型にいささかの揺らぎも見られないのはさすがと言うべきであろう。

第5番の第1楽章のテンポは実にゆったりとしているが、決してもたれるということはなく、第1楽章に必要不可欠な緊迫感を決して損なうことなく、要所での音の強調やゲネラルパウゼの効果的な活用など、これこそ名匠ケンペの円熟の至芸と言うべきであろう。

終楽章のテンポはかなり速いが、決して荒っぽさはなく、終結部のアッチェレランド寸前の高揚感は、スタジオ録音とは思えないほどのド迫力と言えるところだ。

第6番の第1楽章は、かなりのスローテンポで、同じようなスローテンポで第2楽章もいくかと思いきや、第2楽章は流れるようなやや速めのテンポで駆け抜ける。

第3楽章に至ると、これまた凄まじい快速テンポをとるなど、必ずしも一筋縄ではいかない個性的な演奏を展開している。

第7番は、冒頭から実に柔和なタッチでゆったりとしたテンポをとり、主部に入っても、テンポはほとんど変わらず、剛というよりは柔のイメージで第1楽章を締めくくっている。

第2楽章は、典型的な職人芸であり、決して安っぽい抒情に流されない剛毅さが支配しており、第3楽章は雄大なスケールとダイナミックな音響に圧倒されるし、終楽章は、踏みしめるようなゆったりしたテンポと終結部の圧倒的な迫力が見事だ。

第8番は、中庸のテンポで、ベートーヴェンがスコアに記した優美にして軽快な音楽の魅力を、力強さをいささかも損なうことなく表現しているのが素晴らしい。

そして、第9番は、ケンぺ&ミュンヘン・フィルによる偉大な本全集の掉尾を飾るのに相応しい圧倒的な超名演。

ここでのケンペの指揮は堂々たるドイツ正統派で、気を衒うことは決してしない堂々たるやや遅めのインテンポで、愚直なまでに丁寧に曲想を描いているが、悠揚迫らぬ歩みによるいささかも微動だにしない風格は、巨匠ケンペだけに可能な圧巻の至芸と言えるだろう。

ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団も、ケンペによる確かな統率の下、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。

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2016年12月20日


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20世紀を代表する偉大なソプラノ歌手、エリーザベト・シュヴァルツコップ(1915-2006)がEMIに遺した総てのSP音源を集大成した5枚組で、いわゆる板起こしではなくおそらく当時のオリジナル・メタルマスターから製作したマザーからのリマスタリングと思われるが、想像していたよりも音質が良くスクラッチ・ノイズや破綻もない。

特に彼女の声は非常に鮮明でしかも芯のある響きが採音されている。

実際にSP盤を聴いたことがある方なら蓄音機から再生される人の声が驚くほど肉声に近い音響を再現できることをご存知だろう。

これは当時の録音技術とその再生手段が声の周波数をカバーするために偶然にも最適だったからかも知れない。

ただCD1−3の管弦楽伴奏の曲目の中でも初期の録音では、シュヴァルツコップの背後から聞こえてくるオーケストラは寝ぼけた酔っ払いのように再生されるものもある。

このセットではCD4及び5のピアノ伴奏による1950年代の歌曲集がSP盤の録音としては最も優れたものになっている。

シュヴァルツコップの録音記録は、SP時代からおよそ30年以上におよびレパートリーの広さは前人未到で、1979年の引退間際まで見事なトラックレコードを残した点は特筆に値しよう。

彼女のデビュー当時はコロラトゥーラ・ソプラノとしてのレパートリーが多く、若々しく澄み切った声を華やかな超絶技巧で装飾した唱法が1940年代の特徴で、時に可憐な表情に思わず引き込まれるような表現力豊かな魅力も湛えていた。

例えばモーツァルトのオペラ『後宮からの逃走』のコンスタンツェのアリアやカストラートのために作曲されたカンタータ『エクスルターテ、ユビラーテ』、ヨハン・シュトラウスのワルツ『春の声』などがその頃の彼女の典型的な歌唱である。

一般的にコロラトゥーラ・ソプラノは超高音とアジリタが失われる年齢に達すると歌手生命も尽きてしまうものだが、彼女は賢明にも喉の酷使を避けてより高い音楽性と表現のための確実なコントロールが求められる歌曲の世界を開拓していく。

奇しくも時を同じくしてハンス・ホッターやフィッシャー=ディースカウと共に戦後のドイツ・リート黄金期を築くのもこの時代から始まっている。

しかしそれは彼らのオペラ歌手としてのキャリアと並行していることも事実で、その意味で歌曲が数分間に凝縮されたドラマに喩えられるのも尤もなことだろう。

尚最後の2枚はニコライ・メトネル自身の伴奏による彼の歌曲集とジェラルド・ムーアとのドイツ・リート集で、シュヴァルツコップ30代の、しかし既に確立された多彩な歌唱芸術を堪能できるアルバムになっている。

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2016年12月18日


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チェコ・プラガからのレギュラー・フォーマットによるジェニュイン・ステレオ・ラブ・シリーズの1枚で、新規にリマスタリングされた瑞々しい音質が1960年代初期のゼルキン円熟期の至芸を甦らせている。

このシリーズに使われている音原の中でもライヴ録音には保存状態の良好で貴重なものが多く、チェコの最新のリマスタリング技術が活かされて同音源でも他のレーベルのCDと聴き比べると大概こちらの方に分がある。

このディスクでもその音質の艶やかさと臨場感に驚かされるが、これは古い音源でもまだリマスタリングによってグレード・アップの余地があることを証明している。

学者然とした風貌のピアノの大家ルドルフ・ゼルキンは1903年生まれで、同じく米国を拠点として華麗きわまる活動をしたルービンシュタインとは一回り以上も違うが、かのホロヴィッツとは1才上、同年輩である。

モーツァルトの2曲のピアノ協奏曲の演奏は全く自然体だが、一切の無駄を省いた本質的で密度の高い音楽性がモーツァルトの作品に備わっている奇跡的な幸福感を感じさせてくれる。

ゼルキンはボヘミア出身だがウィーンで正式な音楽教育を受けたことから、彼にとってモーツァルトの演奏は故郷へ帰るような親しみがあったのだろう。

このモーツァルトはひとつの典型だが、山っ気、洒落っ気といったものを少しも感じさせず、生真面目で実直な演奏スタイルを貫いている。

特に、第27番は一流ピアニストの新盤が次から次に投入される最激戦区だが、ゼルキン盤は1962年の録音ながら半世紀以上を経て、いまなお根強い支持があるのは、細部へのきちっとした目配り、全体としての整然さに加えて、愚直なまでのひた向きさを感じさせるからではないだろうか。

その高い集中度の一端は、ゼルキンの低い唸り声(グールドばかりではない!)がバックにかすかに聴き取れることからもわかる。

また第12番はマールボロ音楽祭における貴重なライヴ盤であるが、ソロと指揮者の間の打てば響くような巧みなやりとりやオーケストラとの調和と安定感も秀逸だ。

彼は若くしてヴァイオリニスト、アドルフ・ブッシュの伴奏者として、またブッシュ四重奏団の共演者として長く演奏活動を続けたアンサンブル・ピアニストでもあったことから、こうした模範的な合わせ技が鍛えられたのだろう。

バルトークのピアノ協奏曲では、その野趣溢れる曲想から演奏者が渾身の力を振り絞ったような熱演が多い中で、ゼルキンはそうした演奏とは対極的に力ではなく持続する緊張感でこの作品を再現することで、かえってバルトークの音楽から噴出されるエネルギッシュな性格の表出に成功している。

こう言っては失礼だが、ライナー・ノーツの表紙に掲載されている写真のピアニストが演奏しているとは到底想像できないパワーを秘めている。

しかしそれが本来のテクニックというものだろうし、指揮者ジョージ・セルの研ぎ澄まされた感性から導かれる精緻なオーケストラと相俟って、両者が鮮烈なサウンドを創造してこの曲に一層充実感を与えている。

セル&コロンビア響の追走はゼルキンとひたと一致しており整然さがさらに際立つ。

この見事な演奏はハンガリー出身指揮者セルによる故国の作曲家バルトークへの強い思い入れがあるからかも知れない。

ちなみに、セルとゼルキンは、作曲家シェーンベルクでの若き修行時代の相弟子である。

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2016年12月17日


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前回はバッハの『平均律クラヴィーア曲集』全2巻で柔軟な解釈とピリオド楽器の響きを大切にした趣味の良い感性を披露したショルンスハイムだが、今回彼女はバッハの『ゴールドベルク変奏曲』の2度目の録音を果たした。

聴き比べてみると解釈自体にそれほど大きな変化はなく、全体的に更に自由闊達な演奏になり、また装飾音などに繊細なセンスが表れているし、バッハが称賛したチェンバロ、ミートケ・モデルの美しい音響が活かされたゴージャスな雰囲気が醸し出されている。

ただ筆者にはむしろカップリングされているブクステフーデの創作主題による32の変奏曲『ラ・カプリッチョーザ』が意外な副産物だった。

彼女がこのふたつの作品を収録したのは決して偶然ではなく、バッハがおそらくこのリュベックの巨匠の作品を熟知していて、『ゴールドベルク』にも少なからず影響を与えているという事実だ。

彼がブクステフーデのオルガン演奏を聴くためにアルンシュタットから400キロメートルの徒歩の旅を敢行し、3カ月ほどリュベックに滞在したことは良く知られたエピソードだ。

変奏曲『ラ・カプリッチョーザ』は全曲ト長調で書かれているが、およそ思いつく限りのさまざまなヴァリエーションが滾々と湧き出る泉のように現れる、ブクステフーデのファンタジーが縦横に発揮された華麗な作品である。

今回の彼女の使用楽器だが、ミヒャエル・ミートケが1710年頃に製作したチェンバロをクリストフ・ケルンが2013年にコピーしたもので、オリジナルはスウェーデンのフディクスヴァルに保管されている一段鍵盤の楽器のようだ。

製作者ミートケは当時ベルリンに工房を構えていて、大バッハがケーテンの宮廷のために二段鍵盤のチェンバロを購入した記録も残されているために、このモデルはバッハの演奏にしばしば使われている。

ルッカースの流れを汲むダークで澄んだ音色と長い余韻が特徴で、ピッチは2曲とも現代よりほぼ半音ほど低いa'=415Hzだが、調律はブクステフーデにはミーントーン、バッハにはキルンベルガー第3法が採用されている。

ミーントーンは完全五度をごく僅か狭めることによって長三度の和音を純正に保つための調律なので、ごく単純な単一の調性での範囲内で書かれた曲では力強く美しい響きが特徴だが、転調したり変位記号が付くとスケールを形成する音の間隔がずれてしまうので調子外れに聞こえる欠点がある。

この録音でもトラック3の第12変奏でその風変わりな音程が感知されるだろう。

一方キルンベルガーは一箇所の五度を犠牲にすることによってあらゆる転調にも対応できるオールマイティーな調律法を考案している。

彼はバッハの弟子であったことから師の調律法に近いものであることが想像される。

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2016年12月15日


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第2次大戦後の現代音楽のビッグ・ネームと言えば西側諸国の双璧がフランスのメシアンとアメリカのケージであり、それに東側陣営ではロシアのショスタコーヴィチであった。

メシアンはカトリックの立場から「普遍」の美を求め、数多くの神学的で形而上的なメッセージを持った音楽の他に、時には「音価と強度のモード」のような抽象的なシステマティックな作品も書いた。

しかし最もユニークであったのは、普遍的な音楽の現象、あるいは神の音楽として鳥の歌に素材を得た一連の作品であろう。

メシアンによれば、鳥たちはわれわれの遊星上に存在するおそらく最大の音楽家ということになるが、《鳥のカタログ》はフランス各地の77種の鳥の歌をそれを取り巻く時空間とともに音楽化した約3時間にも及ぼうというメシアンの超大作である。

《幼子イエスに注ぐ20のまなざし》もそうであったが、決して耳当たりのいい作品ではなく、弾き手はもちろんのこと、聴き手にも相当な緊張を強いる難解な作品である。

ただ、《幼子イエスに注ぐ20のまなざし》が、どちらかと言うと人間の深層心理を抉っていくような峻厳な作品であるのに対して、《鳥のカタログ》は、ひたすら自然を描いて行くという温かい姿勢が窺える。

したがって、わずかな違いではあるが、《鳥のカタログ》の方が、幾分安心して聴くことができると言えるのかもしれない。

ピアノのための記念碑的な大作であり、この作品群に魅せられたウゴルスキの迫真の演奏も前人未踏の域に立つものと言えるところであり、鳥の歌を通して雄大な自然の実相に迫るようなピアノが聴けよう。

ウゴルスキはレニングラード音楽院在学中より、メシアンやウェーベルン、アイスラーなどのソ連初演を行なっていたし、卒業後の最初のリサイタルからシェーンベルクやブーレーズなど、当時としては急進的なプログラムを組むなど、意欲的な演奏活動をしていたのが災いして、当局より「破壊活動分子」のレッテルを貼られ、ドサまわりを余儀なくされた過去がある。

つまり、ウゴルスキは筋金入りの現代物好きで、この《鳥のカタログ》は、そんな彼に「これこそ私そのものだ」と直観させたのだという。

77種にも及ぶ鳥の鳴き声を素材に使ったマニアックな未曾有のピアノ音楽である本曲は、超絶的なテクニックと綿密な“読み”に裏打ちされた正確な表現力が要求されるが、ウゴルスキの演奏はそれらを鮮やかにクリアするばかりか、あたかも音楽の根源的な流れに共鳴するかのごとく、喜々として精緻かつ実にこなれた表現で肉薄している。

現代でも屈指のヴィルトゥオーゾと呼べる資質と明晰な解釈、そして何よりも完全に本曲を消化し自らも感応し得る表現の秀抜さに驚かされる。

この新たな切り口とゾクゾクさせる刺激を与えてくれるところに、彼の魅力があり、唯一無二の個性を持つピアニストと言って良いだろう。

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2016年12月13日


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プラガ・ディジタルスのムラヴィンスキー・オーケストラル・ワーク集のハイブリッドSACD化は既に9枚目になり、このディスクに収録された3曲は総てモノラル録音だが音質は概ね良好だ。

旧ソヴィエト圏でのステレオ録音が一般的に普及するのは1970年代を待たなければならなかったことを考えればやむを得ず、演奏が素晴らしいだけに惜しまれるが、SACD化によるグレードアップの価値は充分に認められる。

特にオーケストラの音色に磨きがかかり、全体のバランスも良くなったように聞こえる。

例によってプラガの録音データはあまり当てにならない。

交響曲第4番変ホ長調は1948年3月2日録音とライナー・ノーツに記載されているので、メロディア原盤で日本では以前新世界からリリースされたものらしい。

幸い高度な鑑賞に充分堪え得る良好な音質が保たれている。

第5番変ロ長調に関しては1968年9月28日と1970年6月8日東京ライヴしか音源が存在しないので、モノラルの前者で疑いの余地はないだろう。

一方バレエ音楽『四季』はライナー・ノーツでは1969年9月28日ライヴとなっているが、フランク・フォアマン/天羽健三編のディスコグラフィーには記録されていないので、おそらく同年4月20日のライヴと思われる。

この曲のみ演奏後に聴衆の拍手が入っている。

いずれもオーケストラはレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団で、新音源でないことを断わっておく。

グラズノフの作品にはしっかりした形式感とスラヴの民俗舞踏のエレメントやメルヘンチックな情緒が同居しているが、ムラヴィンスキーは感傷やメランコリーによって曲想をゆるがせにすることはなく、突き放した硬派のロマンティシズムを表現している。

そこには甘美な陶酔や遊びの要素などは微塵も感じられず、オーケストラを完璧に統率し、殆んどそのダイナミクスだけで曲を彫琢していく。

曲によっては冷淡に聞こえる時もあるが、手兵レニングラードの鍛え抜かれたアンサンブルが類稀な集中力を指揮者の下一点に結集させているためにただならぬ緊張感を感知させる。

第5番も例外なく彼の優れた構成力が示されていて、第1楽章は前奏曲のように、そしてチャイコフスキーのバレエ音楽さながらに展開する第2楽章、間奏曲風の第3楽章、更に終楽章で導く熱狂的なクライマックスというように曲想の個性をつぶさに掴み周到に起承転結が考え抜かれている。

また第4番冒頭のイングリッシュホルンが先行して奏でるテーマも決して官能的ではなく、抒情を抑えた素朴なパストラーレのように歌い上げて、続くそれぞれの楽章が絵画的に描写されるのも印象的だ。

バレエ組曲『四季』は7曲の抜粋になり、終曲「バッカナーレ」の騒然とした雰囲気もかなり厳しく統制されているが、硬直感はなくロシアの歳時記にヒューマンな温もりを与えている。

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2016年12月11日


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クレンペラーの巨大とも言える音楽を満喫することが可能な圧倒的名演と高く評価したい。

ベートーヴェンは、クレンペラーの個性が、ハイドンやモーツァルト以上に生きるレパートリーである。

ベートーヴェンが志向し続けた、より良きものへ、より高きものへの意志を、クレンペラーは、竹を割ったような率直さの中に確然と表現するすべを知っており、どれもまず、傾聴に値する演奏と言えるだろう。

本演奏において、クレンペラーは悠揚迫らぬゆったりとしたテンポで曲想を精緻に、そして格調の高さをいささかも失うことなく描き出して行く。

クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、いささかも無機的な演奏に陥ることがなく、どこをとっても彫りの深い、隙間風が全く吹かない重厚な音楽が紡ぎ出されている。

演奏全体の造型はきわめて堅固であるが、スケールは極大であり、重厚にして重量感溢れる音楽が構築されている。

テンポの振幅は必要最小限に抑えるなど、小賢しいアプローチとは無縁であるが、木管楽器をやや強めに演奏させるのはいかにもクレンペラーならではのユニークなもので、これによって演奏がウドの大木になることを避ける結果となっており、演奏のどこをとっても彫りの深さが健在である。

巧言令色などとは全く無縁であり、飾り気が全くない微笑まない音楽であるが、これはまさに質実剛健な音楽と言えるのではないだろうか。

実直そのもので、ドラマティックな要素などは薬にしたくもなく、フルトヴェングラーによる人間のドラマ、カラヤンによる音のドラマとは異なるクレンペラー独自の音楽が展開されてゆく。

近年においては、ベートーヴェンの交響曲演奏は、ピリオド楽器やピリオド奏法による演奏が一般化しているが、本演奏は、そうした近年の傾向とは真逆の伝統的な、ドイツ正統派によるものと言えるだろう。

特に交響曲第3番、第5番、第7番、第9番における悠揚迫らぬゆったりとしたテンポによる演奏は、あたりを振り払うかのような威容に満ち溢れており、あたかも巨象が進軍するかのような重量感に満ち溢れている。

それでいて前述のように木管楽器を効果的に活かして、格調の高さを損なわない範囲において随所にスパイスを効かせるなど、クレンペラー独自の解釈が聴かれる。

このような微動だにしないインテンポによる威風堂々たる重厚なベートーヴェンにはただただ頭を垂れるのみである。

また、交響曲第1番、第2番、第4番、第8番のこれまでの様々な指揮者による演奏としては、ベートーヴェンの交響曲の中でも規模の小さい交響曲だけに比較的軽快に演奏されるものが多いが、クレンペラーは、あたかも大交響曲に接するかのようなスケールの雄大な演奏を行っており、おそらくは各曲の演奏史上でも最も構えの大きい演奏ではないだろうか。

それに、ベートーヴェンの交響曲の一般的な演奏スタイルとして、偶数番の交響曲は柔和に行うとの考えも一部にあるが、クレンペラーにはそのような考えは薬にしたくもなく、奇数番などに行うようなアプローチで偶数番の演奏に臨むことによって、スケール雄大な大交響曲に構築していった点を高く評価すべきであろう。

序曲集もクレンペラーのスケール雄大な音楽づくりを味わうことができる素晴らしい名演揃いだ。

したがって、クレンペラーによるベートーヴェンは、フルトヴェングラーやカラヤンによる名演も含め、古今東西の様々な指揮者による名演の中でも、最も峻厳で剛毅な名演と高く評価したい。

クレンペラーの確かな統率の下、フィルハーモニア管弦楽団もしっかりと付いていき、ドイツ風の重厚な音色を出すなど、最高のパフォーマンスを発揮していることも高く評価すべきものと考える。

いずれにしても、本演奏は、クレンペラーの巨大な芸術の凄さを十二分に満喫することが可能な素晴らしい名演として永遠に語り継がれるべき遺産であることは疑いの余地がない。

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2016年12月09日


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ドイツの女流ヴァイオリニスト、イザベル・ファウストが挑んだモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集で、彼女の颯爽たる感性とキレの良いテクニックが冴え渡ったフレッシュで軽妙洒脱なアルバムに仕上がっている。

近年ではオーケストラを含めたメンバー全員がピリオド楽器で演奏した同全集もリリースされるようになったが、実際にはそれほど多くなくカルミニョーラ&イル・クァルテットーネやツェートマイアー&ブリュッヘン盤以来の久々の企画になる。

オーケストラはピリオド・アンサンブルの吟遊詩人とも言えるジョヴァンニ・アントニーニ率いるイル・ジャルディーノ・アルモニコだが、意外にも抑制を効かせた整然としたサポートがソロを引き立て、また第3番第2楽章やアダージョホ長調に代表されるイタリア式カンタービレも美しい。

おそらく唯一の例外は第5番終楽章のトリオ、トルコ行進曲での激しい応酬だろう。

ファウストもソロのスタンド・プレイを避け、オーケストラとの関係を緊密にすることで両者のバランスが絶妙に保たれている。

この2枚のCDには真作とされる5曲の協奏曲、変ロ長調とハ長調の2曲のロンド及びアダージョホ長調の8曲が収録されている。

モーツァルト自身によって書かれたヴァイオリン・ソロ用のカデンツァは遺されていないので、ソリストは必然的に既作のものを選択するか新しく創作することが求められる。

この演奏に採用されたそれぞれのカデンツァは、音楽学者でピリオド鍵盤楽器奏者のアンドレアス・シュタイアーが彼女のために書き下ろしたものだ。

短いながら曲中のテーマやモチーフを巧みに使ったパッセージや対位法的なもの、あるいはピチカートを効果的に取り入れるなど、彼の多様で機知に富んだセンスが凝縮された小気味良さが特徴だ。

アダージョホ長調では鳥の鳴き声さえ模倣しているが、勿論カデンツァが突出して一人歩きしないように、あくまでも古典派の音楽としての一貫したポリシーが貫かれている。

昨年2015年3月から今年の2月にかけてベルリンで収録されたもので、録音レベルがやや低いようだがボリュームを上げることで鮮明な音質を堪能できる。

3面折りたたみのデジパック入りで、ライナー・ノーツにはトラック・リスト及び英、仏、独語の解説の他にこの録音に参加したメンバー全員のリストと彼らの使用楽器が明記されている。

イザベル・ファウスト自身は1704年製のストラディヴァリウス『スリーピング・ビューティー:眠れる美女』を弾いていて、この名器はバーデン−ヴュルテンベルクL−Bankから彼女に貸与されているようだ。

明るく朗々とした音色と気品のある響きはモーツァルトの演奏には願ってもない楽器と言える。

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2016年12月07日


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バルビローリは、どちらかと言えば北欧音楽や英国音楽を得意のレパートリーとした指揮者として広く知られているが、独墺系の作曲家の演奏も比較的多く手掛けていたと言えるところだ。

そのような中でも、ブラームスは特別な存在であったようであり、本盤に収められたウィーン・フィルとの全集を含め、いくつかのライヴ録音を遺している。

また、バルビローリは、手兵のハレ管弦楽団を始め、フィルハーモニア管弦楽団、ロンドン交響楽団など、英国のオーケストラとの間で素晴らしい名演の数々を遺しているが、次いで独墺系のオーケストラではベルリン・フィルとの相性が抜群であったことがよく知られている。

何よりも、ベルリン・フィルの楽団員や芸術監督のカラヤンがバルビローリに対して敬意を有していたことが何よりも大きいとも言える。

これに対して、ウィーン・フィルとの相性は、巷間あまり良くなかったとも言われている。

確かに、バルビローリがウィーン・フィルとともに遺した録音は、筆者の知る限りでは、ブラームスの交響曲全集、管弦楽曲集のみであるところであり、こうした点にもそれが表れていると言えるのかもしれない。

しかしながら、ウィーン・フィルとの唯一のスタジオ録音となるブラームスの交響曲全集、管弦楽曲集は素晴らしい名演だ。

バルビローリは、一般的にはシベリウスやエルガー、ディーリアスなどの名演が印象的だけに、抒情的でヒューマニティ溢れる指揮をするとのイメージが先行しているが、確かに、ブラームスの各交響曲の緩徐楽章における情感豊かな演奏には、そうしたバルビローリの芸術の真骨頂が見事にあらわれている。

それ故に第2番や第4番がとりわけ名演との誉れ高いのは当然のことであるが、マーラーの交響曲を得意としていただけあって、ドラマティックな表現や強靭さを基調とする演奏も頻繁に行っていたことを忘れてはならない。

交響曲第1番も、バルビローリ=抒情的でヒューマニティ溢れる演奏をする指揮者というある種の固定観念を覆すに足る力強い演奏を行っている。

冒頭の序奏からして凄まじいまでの迫力を誇っており、主部に入ってからの堂々たる進軍は、ゆったりとしたテンポによる微動だにしない威容を誇っている。

終楽章も決して急がない音楽ではあるが、頂点に向けて畳み掛けていくような気迫と生命力は、バルビローリの指揮芸術の懐の深さを如実にあらわしていると言えるだろう。

もちろん、第2楽章の枯淡の境地とも評すべき情感豊かな表現は、バルビローリならではのヒューマニティ溢れるもので、抗し難い魅力に満ち溢れている。

交響曲第2番の演奏は、バルビローリとウィーン・フィルの相性の良くなかったとの評価が果たして正しかったのかどうか再検証が必要なほどの名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

何よりも、第2番という楽曲の性格とバルビローリの芸風が見事に符号している点が大きく、抒情的でヒューマニティ溢れる指揮をするという指揮芸術の在り様が第2番と見事に合致。

同曲の随所に聴くことが可能な枯淡の境地とも評すべき名旋律の数々を、バルビローリは、これ以上は求め得ないほど情感豊かに歌い抜いているところであり、そのヒューマニティ溢れる表現の美しさには、抗し難い魅力に満ち溢れている。

もっとも、終楽章の終結部における頂点に向けて畳み掛けていくような気迫と生命力においてもいささかも不足はなく、これはバルビローリの指揮芸術の懐の深さを如実にあらわしていると言えるだろう。

併録の悲劇的序曲も、バルビローリならではの素晴らしい名演だ。

交響曲第3番も第1番と同様、バルビローリ=抒情的でヒューマニティ溢れる演奏をする指揮者というある種の固定観念を覆すに足る力強い演奏を行っている。

第1楽章冒頭からして凄まじいまでの迫力を誇っており、主部からの堂々たる進軍は微動だにしない威容を誇っている。

終楽章の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫と生命力は、バルビローリの指揮芸術の懐の深さを如実にあらわしていると言えるだろう。

もちろん、第2楽章及び第3楽章の枯淡の境地とも評すべき情感豊かな表現は、バルビローリならではのヒューマニティ溢れるもので、抗し難い魅力に満ち溢れている。

ハイドンの主題による変奏曲は、各変奏曲の描き分けが実に巧みであり、名匠バルビローリならではの老獪な至芸を堪能することが可能な素晴らしい名演に仕上がっている。

交響曲第4番の演奏は、バルビローリ&ウィーン・フィルによるブラームスの交響曲全集の中でも白眉とも言うべき素晴らしい名演だ。

この両者の相性の良くなかったとの評価が果たして正しかったのかどうか再検証が必要なほどの名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

何よりも、第4番という楽曲の性格とバルビローリの芸風が見事に符号している点が大きく、第2番と同様に抒情的でヒューマニティ溢れる指揮芸術の在り様が第4番と見事に合致。

同曲の随所に聴くことが可能な人生の諦観を感じさせる枯淡の境地とも評すべき名旋律の数々を、バルビローリは、これ以上は求め得ないほど情感豊かに歌い抜いているところであり、そのヒューマニティ溢れる表現の美しさには、抗し難い魅力に満ち溢れている。

もっとも、第3楽章における畳み掛けていくような気迫と生命力においてもいささかも不足はなく、これはバルビローリの指揮芸術の懐の深さを如実にあらわしていると言えるだろう。

終楽章の各変奏の描き分けの巧みさは、名匠バルビローリの老獪な至芸を十分に満喫することが可能だ。

そして全体的に、ウィーン・フィルによる美しい演奏が、演奏全体に更なる潤いと温もりを付加させているのを忘れてはならない。

いずれにしても、本演奏は、バルビローリならではの懐の深さをあらためて再認識させるとともに、情感溢れる指揮芸術を堪能することが可能な素晴らしい名演集と高く評価したい。

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2016年12月05日


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HQCD化によるフルトヴェングラー・シリーズの1枚で、1953年8月12日のザルツブルク音楽祭における一晩のライヴ録音を、プロデューサーはシュヴァルツコップの夫君ウォルター・レッグが担当している。

モノラル録音で経年によるマスター・テープの劣化は否めないが、リマスタリングの効果でかなり聴きやすくなっていることは確かだ。

ヴォルフ没後50年を追悼する全曲ヴォルフのプログラムで、稀代のヴォルフ歌いシュヴァルツコップの彫りの深い歌唱を巧妙に支え、ある時は積極的に歌を先導するフルトヴェングラーのピアノも聴きどころだ。

もっとも、当時まだ38歳だった彼女が大指揮者からの薫陶を得たというのが事実かも知れない。

ジェラルド・ムーアは一流どころの指揮者やピアニストが歌曲の伴奏をすることを強く推奨していた。

それによって歌と伴奏がどういう関係にあるのか初めて体験し得るし、声楽曲の芸術性をより深く理解できるというのが彼の主張だった。

ちなみにこれに先立つ1949年のエディンバラ音楽祭でブルーノ・ワルターがシューマンの『女の愛と生涯』でキャスリーン・フェリアーの伴奏をした録音が遺されている。

彼らに共通することは、ピアノという楽器を超越したところで伴奏を成り立たせていることで、一見朴訥なようでじっくり鑑賞する人にはオーケストラを髣髴とさせる奥深さを内包しているのが聴き取れるだろう。

女声ではシュヴァルツコップ、男声ではフィッシャー=ディースカウやハンス・ホッターなどの詩に対する感性の鋭さは、ドイツ語のメカニズムや心理描写に至る声の陰翳付けなど、あらゆる発声のテクニックをコントロールして表現するところに表れている。

ドイツ・リートの中でもヴォルフの作品では、文学と音楽とが最高度に洗練された状態で結び付いているために歌手と伴奏者の芸術的レベルとその表現力が拮抗していないと、目まぐるしい転調や神経質とも言える楽想が聴くに堪えないものになってしまう。

その意味で本盤は、若々しく艶のある名花シュヴァルツコップと大指揮者フルトヴェングラーの素晴らしさを満喫できるひとつの理想的なライヴ録音と言える。

尚歌う前と小休憩ごとに拍手が入っているが、客席からの雑音は殆んど聞こえない。

この音源は過去にオルフェオやEMIから出ていたもので、昨年ワーナーからリリースされた『シュヴァルツコップ・ザ・コンプリート・リサイタルス』のCD29にも収録されている。

ヴォルフはテクストとして選択した詩を、恐ろしいほどの洞察力で汲み尽し、その言霊の抑揚ひとつひとつに人間の心理やさがを発見し、嬉々としてそれを楽譜に写し取っていった。

ピアノはもはや伴奏の範疇を抜け出して歌詞と対等な立場で、またある時はそれ以上に語りかけてくる。

その手法は森羅万象を表すだけでなく心理描写にも心血が注がれていて、それは殆んど狂気と紙一重のところで行われた作業であるために、その再現には尋常ならざる機知とアイデア、そしてそれを裏付けるだけの高度な表現力が歌手と伴奏者の双方に要求されることには疑いの余地がない。

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2016年12月03日


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ベル・エポック(1880-1914年頃を指しての良き時代)のフランスの作曲家の作品は、楽理的に追究したところで実際のサウンドに魅力が出せなければつまらない。

それには作曲家の感性が充分に反映されるような垢抜けたセンスや即興性、あるいはオーケストラから引き出される色彩感などを外部に向かって発散させるユニークな個性と手法が求められる。

1曲目のショーソンの交響曲変ロ長調も例外ではなく、瞬間瞬間に鳴り響くオーケストラの音響とその映像的な展開が感知されなければ面白くない。

ミュンシュはその辺りを誰よりも良く心得ていた指揮者で、ともすればあざとくなりがちな音楽を、あくまでも芸術的な領域で嬉々として表現している。

ショーソンが残したたった1つの交響曲は、高雅な詩情としめやかで洗練された抒情に溢れるかけがえのない傑作であるが、残念なことになかなか名演奏に恵まれない作品でもある。

しかしミュンシュが残した記念碑的な名録音の1つであるこの演奏は、この傑作の魅力をこれ以上なく味わわせてくれる格別の名演である。

弾力性のあるリズム感と引き締まった造型感覚を駆使して、この優雅でロマンティックな交響曲に臨んだミュンシュは、作品の構築性の薄さをカヴァーしながら、より磨き抜かれた純度の高い美しさを引き出しており、そこでは、豊かなポエジーと強靭な精神が輝かしい融合を果たした絶妙な表現がリアリゼされるまでに至っている。

彼はまた聴衆を自己の世界へ引き込んで感化してしまうカリスマ性にも長けていた。

言い換えれば聴き手の要求も熟知していて、ここぞという時にそれを惜しみなく出し切る老練な手腕がこのアルバムにも示されている。

1962年にボストン交響楽団を振ったものでボストン・シンフォニー・ホールで録音されている。

レギュラー・フォーマット仕様だがリマスタリングの効果は歴然としていてドビュッシーと並んで音質は極めて良好。

2曲目もショーソンの作品で、メゾ・ソプラノと管弦楽のための『愛と海の詩』だが、この演奏は1951年3月9日のBBCコンサート・ライヴからプライベート録音されたものらしく、音質は海賊盤の域を出ないし、第1曲に短い欠落もあるがコントラルトのキャスリーン・フェリアーの絶唱が聴ける貴重な音源。

これはデッカ、EMIのどちらのコンプリート・レコーディング集にも組み込まれていない。

モーリス・ブショルの詩に付けられたショーソン面目躍如の甘美な逸品だがフェリアーの歌唱は決して感傷に浸るものではなく、高踏的な美しさとこの詩の持っているドラマティックな側面を直感的に捉え、それらを浮き彫りにしているのが如何にも彼女らしい。

尚この曲のみジョン・バルビローリ指揮、ハレ管弦楽団の演奏になり、ライナー・ノーツにはフランス語の原詩が掲載されている。

アンリ・ビュッセル編ドビュッシーの交響組曲『春』はショーソンの交響曲と同様、1962年のミュンシュ指揮、ボストン交響楽団のセッション録音になる。

ルネサンスの名匠ボッティチェッリの絵画『春』から霊感を得たと言われる作品で、一見掴みどころのないような楽想の連なりをミュンシュはメリハリを効かせた光彩に溢れる魅力的な管弦楽曲に仕上げている。

曲がミュンシュの肌にぴったりと合っているということもあってか、簡明直截な表現で、この名人オーケストラを存分に駆使して、春の喜びを歌い上げている。

第2楽章後半のマーチ風のコーダでは弦楽から導き出される明るく艶やかな音色とボストン交響楽団の大胆でパワフルなブラス・セクションをミックスしたクライマックスが圧巻だ。

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2016年12月01日


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古楽界の重鎮であり、トラヴェルソ奏法のパイオニアでもあるバルトールド・クイケンがこれまでにリリースしてきたテレマンの作品を4枚のCDにまとめたアルバムである。

但しこのセットにはソニー音源になるクイケン3兄弟にグスタフ・レオンハルトが加わったパリ・カルテットは組み込まれていない。

彼の演奏はどの曲においても基本的にシンプルで、スリリングな部分こそないが流麗かつ柔軟な演奏にはトラヴェルソの機能を熟知した上でのテクニックの再構築を果たした揺るぎない安定感が感じられる。

尚アンサンブル・パルナッススは彼の兄弟でバロック・ヴァイオリンのシギスヴァルト、ガンバのヴィーラントにチェンバロのロベルト・コーエンが加わったピリオド・アンサンブルの草分けで、ネーデルランド派の手堅い演奏を聴かせている。

CD3及び4の『教則的ソナタ』全12曲ではテレマンによってトラヴェルソのパートは記譜と実際に演奏すべき趣味の良いサンプルが2段に分かれて示されているが、ここでもクイケンの装飾音に関する模範的な解釈を聴くことができる。

一言で言えば中庸をわきまえたイタリア式装飾だが、その再現に当たってはかなり高度なテクニックが隠されていることが理解できる。

またブレスの取り方も巧妙で、押し付けがましさや癖のない演奏は洗練された音楽家、そして勤勉な研究者としてのプロフィールだけでなく後進の指導者としても理想的な存在である筈だ。

ベルギーの古楽器製作者で自身トラヴェルソ奏者のアンドレアス・グラットによって創設されたアクサン・レーベルは、1970年代からピリオド楽器による本格的な古楽演奏をリリースしてきた。

古楽の故郷ネーデルランド出身の奏者を中心に、さまざまなソロ楽器やアンサンブルを高い音楽性で再現した当時としては画期的な企画だった。

当初の録音とその音質はそれほど理想的なものではなかったが、2000年以降機材を一新したことから見違えるほど鮮明な音質になり、ジャケットも気の利いたデザインのデジパックに替わった。

ここに収録されたクイケンの演奏は比較的初期のもので音質的には時代相応といったところだ。

例えば彼の秘蔵オリジナル楽器ロッテンブルクで演奏した『無伴奏トラヴェルソのための12のファンタジー』は初めてのピリオド楽器による全曲録音というだけでなく、トラヴェルソの音楽的な可能性を見事に蘇生させた演奏と言えるだろう。

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