2017年02月

2017年02月28日


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ダヴィッド・オイストラフがユニヴァーサル傘下のレーベルに遺した音源を集大成した企画で、ドイツ・グラモフォン、デッカ、フィリップス及びウェストミンスターへの録音がCD22枚に纏められている。

このうちブルッフの協奏曲では彼が指揮に回ってソロは息子のイーゴリが弾き、モーツァルトの協奏交響曲ではイーゴリがヴァイオリン、彼はヴィオラを担当しているが、いずれにしても20世紀が生んだ最も優れたヴァイオリニストの遺産がバジェット・ボックス化されたことはファンにとって朗報に違いない。

既出のEMI『ザ・グレイト・レコーディングス』17枚組と合わせると彼の代表的なレパートリーをカバーする重要なコレクションになることは疑いないだろう。

協奏曲集ではEMIのセットが凌駕しているが、オイストラフ・トリオを組んだクヌシェヴィツキー、オボーリンとのアンサンブルやソナタなどの室内楽はこちらに貴重な音源が数多く収録されている。

中でもCD17−20のベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲はオイストラフとオボーリンによる記念碑的な遺産であり、彼らの音楽性が典型的に示された、20世紀の演奏芸術の最高峰と言えるレコーディングとして高く評価したい。

それは音の美しさや技術の練磨とともに、2人が厳しい客観性を持って楽譜を見つめ、あらゆる余剰を切り捨てた上に自分たちの音楽的活動を注ぎ込んだためだ。

そこに高貴なほど格調の正しさを持ち、あらゆる音符に意志と感情を通わせた稀有の名演が成立し、深い精神性をもって聴き手を押し包み、現代の最も普遍的なベートーヴェン像がここに屹立している。

オイストラフとオボーリンの最盛期の録音だけに、音色も美しく、音楽の作り方も、ふっくらとした中に、作品の神髄に迫る迫力のある演奏となっている。

オイストラフとオボーリンは全体にやや遅めのテンポをとり、それによって豊かな表情を付け、脂の乗り切った2人の、ベートーヴェンの音楽への深い共感が伝わってくるかのようだ。

例えば《クロイツェル》がその良い例で、ロマン的香気に溢れ、音楽的にも大変充実しており、気迫のこもった熱っぽい演奏を行っている。

両者ともに絶頂期にあった演奏で、しっかりとしたテクニックに裏づけられ、表現意欲に燃えていて、特にオイストラフの豊麗な音色と滑らかなボウイングで辿る骨太な構成力と揺るぎない安定感は特筆される。

第1回ショパン・コンクールの覇者でもあったレフ・オボーリンの正確だがいくらか杓子定規で融通性のないピアノに不満がないでもなく、現代となってはそのスタイルに古めかしさを感じないでもないが、完成度の高さは認めざるを得ず、ベートーヴェンのソナタ演奏を代表する名演と言える。

その他にもCD8のラヴェルの『ツィガーヌ』やCD9のアンコール・ピース集など彼が後年レパートリーから外してしまった曲目が聴けるのも幸いだ。

またチェンバロのハンス・ピシュナーとのバッハのヴァイオリンとオブリガート・チェンバロのためのソナタ全曲は廃盤になって久しかったアルバムだ。

彼が何故バッハの無伴奏ソナタとパルティータを弾かなかったのかは分からないが、もし全曲録音を果たしていればさぞ魅力的な演奏であっただろうと想像される。

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2017年02月26日


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20世紀ロシアの頂点に立った器楽奏者の巨匠を語るとき、チェロのロストロポーヴィチ、ヴァイオリンのオイストラフ、そしてピアノのリヒテルの存在は欠かせない。

彼らは既に他界して久しいが、遺された録音はその音楽的価値から言っても将来のクラシック音楽界にとって無視できないサンプルになり得るに違いない。

最近のバジェット価格による限定箱物ラッシュに乗じて、大手メーカーからそれぞれの全集がリリースされている。

ロストロポーヴィチの場合EMIからのコンプリート・エディションが法外なプレミアム価格で販売されている現在、今回のユニヴァーサルのセットは待望されていた企画だし、俄然その価値を高める結果になっている。

ただしワーナーからは3月末にEMI音源を核にした3枚のDVD付CD40枚組コレクション仕様のセットがリリース予定だ。

尚CD25からは彼の指揮者及びピアニストとしての演奏が収録されていて、彼の指揮した2曲のオペラ、プッチーニの『トスカ』及びチャイコフスキーの『スペードの女王』全曲と夫人のソプラノ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤの歌ったロシア歌曲集2枚が組み込まれ、総合的な音楽活動を記録したインテグラルなコレクションになっている。

72ページのブックレットには収録曲目及び録音データ一覧とダヴィッド・ゲリンガスによるエッセイが掲載されている。

アンサンブルではリヒテルと協演した1960年代初期のベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲が白眉で、2人の巨匠の顔合わせだけあって、大変スケールの大きな演奏である。

朗々と高鳴るチェロ、それを支える芯の強いピアノ、両者の間に、目に見えない火花の散っているかのような迫真的な名演だ。

2人の名手が火花を散らすようにぶつかり合い、自分の音楽を主張しながら、そこに絶妙な調和を生み出しているこの演奏は、二重奏の最も高度な境地をうかがわせる。

骨格のたくましい、正攻法的な演奏で、実にみずみずしい音楽を作り、また感興豊かで細部まで深く練り込んでいて、それぞれの作品の性格を明快に表わしていることでも、これに優る演奏はないだろう。

最も聴き応えがあるのは第3番で、第1楽章の冒頭の部分を聴いただけでも、2人の名人の物凄い気迫と緊張した呼吸が、聴き手にも伝わってくる。

ロストロポーヴィチとリヒテルが火花を散らしつつ繰り広げてゆく二重奏の中から、ベートーヴェンの威容がくっきりと姿を見せ、聴き手を圧倒する。

この魅力に抗し得ない人が音楽ファンのなかに果たして存在するだろうか?

当時の旧ソヴィエトには個性を主張できた伴奏者は極めて少なく、精緻だが機知や精彩を欠いたピアノに冷たさを感じた演奏も多かった。

流石にリヒテルとのベートーヴェンやゼルキンと組んだブラームスの2曲のチェロ・ソナタ、ベンジャミン・ブリテンのピアノ伴奏によるアルバム、あるいはCD19から21にかけてコーガン、ギレリスが加わるピアノ・トリオ集などは演奏水準の高さもさることながら、表現力の多様さでもそれぞれが互角の立場で作品に臨んでいるところが聴き逃せない。

ロストロポーヴィチは晩年表現がやや厚化粧になる傾向があったが、彼の確信に満ちた解釈は常に明白な説得力を持っている。

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2017年02月24日


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筆者の実家には両親が買い集めたマーキュリー・リヴィング・プレゼンスのLP盤が少なからずある。

それらの中には当時から入手困難だったものも多く、また、気安くコレクションできるような価格でもなかった。

しかし再生した時の音質の良さは、部屋があたかもコンサート・ホールに変わったかのような、劇的なものだったことを今でも良く覚えている。

そしてその後のあらゆる録音に対する筆者の音質評価はリヴィング・プレゼンスが基準になっていると言っても過言ではないだろう。

それは音の鮮明さ、臨場感、そして自然な音響空間などで、オーディオ機器を買い揃える時の目安としても、試聴サンプルとして聴いていたのがこれらだった。

勿論演奏そのものも名演の名に恥じないセッションがきら星の如くあり、その後CDになってから買い換えたものもあって、今回の廉価盤化による大挙放出には複雑な思いだったが、未購入のものも多く、また廃盤の憂き目に遭っているCDもあって結局買ってしまった。

過去にレコーディングされたタイトルは350にも上るが、CD化に伴って曲目は適宜リカップリングされているようだ。

内容は1950〜60年代に制作された米マーキュリー・レーベルのクラシック録音から、代表的な作品をCD50枚に収容。

このシリーズは全部で250種ほどになるが、その3分の1弱がこのボックスに入っていることになる(アナログLPとCDの容量差を活かし、多くの盤で関連作品の楽曲が追加されているため)。

ただし今回の50枚のセットからは除外されている録音も多数あるので、購入されたい方は希望する曲目が含まれているかどうか確認する必要がある。

ちなみに楽曲の構成では近代曲が主体であり、特にソ連やハンガリーなど「旧東側陣営」の作家作品を多く収めているところに特徴がある。

これはマーキュリーレーベルの個性でもあり、RCAやコロムビアがロマン派楽曲を重視したことと好対照だ。

1951年から始まった無指向性1本吊りのモノ・マイクロフォンでスタートしたリヴィング・プレゼンスの録音は、やがて1959年には3本吊りのマイクによる採音と35mm映画用音声テープを使った3トラック・レコーダーへの録音という、決定的な手法を編み出した。

半世紀も前の稚拙な機材とミキシング技術と言ってしまえばそれまでだが、この方法によって現在の録音技術にも匹敵し、ある意味ではそれを凌駕するほどの音質が得られている事も多くの人が指摘している事実だ。

このマーキュリー流儀の録音はシンプルだが空間の再現性に優れ、しかも音に強靭な厚みがある。

これは優秀なマイク(ノイマンU47に代表される管球式コンデンサーマイク)と贅沢な録音機材、そして記録メディアの余裕がなせる技であり、より後年の録音に比べて記録幅のマージン(=ダイナミックレンジ)はむしろ広く取れている。

もちろんテープヒスなどのノイズは多めで、弱音部ではかなり目立つのだが、それよりも強奏部の立ち上がりと歪みの無さが圧倒的。

あのドラティの《火の鳥》から「カスチェイの凶暴な踊り」の冒頭で、打楽器の一撃と金管がサウンドステージを振るわせる部分などは、明らかに実演を超える凄まじさがあり、こういう誇張した表現に説得力を与える巧みさは、現代のハリウッド映画にも通じるものだろう。

彼らのレコーディングは1967年で事実上終了したが、プロデューサーを始め、この仕事に携わったエンジニア達の音に賭けたこだわりと、熱い意気込みがこれらのCDを通じて再び蘇ってくるようだ。

ライナー・ノーツは64ページで、録音時のエピソードと演奏者紹介が写真入りで掲載されている。

ボーナスCDには当時のプロデューサー故ウィルマ・コザート・ファイン女史へのインタビューが収められている。

単に録音が優れたクラシック作品なら、洋の古今で枚挙に暇(いとま)が無いが、マーキュリーの諸作には音楽と録音芸術が見事に一体化した「筋の通った価値」があり、それを創り出していたのが、女性ディレクターとして辣腕を振るったコザートである。

コザートは1953年にマーキュリーの副社長に迎えられ、以後10年にわたってエンジニアのロバート・ファイン(後に彼女の夫となる)らとともにレコードの制作にあたった。

実はこのボックスに収められた50枚は、1990年代にデジタル化された音源を使っている(2000年代のSACD化に使われたDSDマスターとは別音源)。

そのデジタル化に際しては、わざわざ録音当時の機材をレストアして送り出し側に使い、さらにコザート本人を招いて3ch→2chのダウンミックスを行うという念の入れよう。

その作業は必ずしも完璧なものではなかった(ごく一部でレベル調整の瑕疵がある)にせよ、ディレクターの意図を尊重する姿勢を評価すべきだろう。

コザートは2009年にこの世を去り、当時の関係者も残り少なくなってきたが、ここに収められた音楽が色褪せることは無いだろう。

クラシック音楽とオーディオ再生を愛する者にとって、これは必携といえる素晴らしいボックスである。

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2017年02月22日


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このドキュメンタリーで扱っている音楽家達の老人ホーム『音楽家憩いの家』はキャリアを終え、身寄りのなくなったかつてのスター達を収容する施設として作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの発案と基金でミラノに設立された。

当時の音楽家の中には豪邸に生活して何の不自由もなく余生を過ごした人もいたが、引退後生活に困窮したり、身寄りのなくなった者は、それまでの華やかなステージとは裏腹の生活を強いられた。

ヴェルディは彼らへの敬意から余生の安泰を願って、決して彼らのプライドを傷つけることのないような心のこもったホームを創設したが、この映画ではダニエル・シュミット監督の温かい愛情に満ちた目によって彼らの日常が活写されている。

ここに登場するキャリアを終えた音楽家達は誰もが過去の素晴らしい思い出の中に生きているのだが、全員が驚くほどポジティヴに生き生きと生活している。

それはこの施設で暮らすことによって過去と現在が決して切り離されることがないからだろう。

登場するのは器楽奏者やオペラ歌手などさまざまで、それぞれが現役時代を忘れてしまうどころか現役さながらに演奏し語り合い、また学習さえ怠らない。

またそうすることが彼らの生き甲斐を満足させ尊厳を失わずに生きていくことに貢献しているのだろう。

ここでは戦中戦後スカラ座のプリマドンナとして活躍したソプラノ、サーラ・スクデーリ(撮影当時78歳)に焦点が当てられている。

自分の歌ったプッチーニの『トスカ』から「歌に生き、愛に生き」のレコード再生で、彼女自身が懐かしみながら一緒に口ずさむ様子といくらか憂愁を帯びた表情が感動的だ。

しかし彼女がその驚異的な声で実際に歌う時の表情は更に晴れやかで輝かしく、常に音楽に寄り添って余生を送ることの大切さが伝わってくる。

この作品に映し出された彼らの生活風景を見ていると、ヴェルディの構想が如何に高邁なものであったかが窺われる。

現に筆者の祖母を施設に入れざるを得なかった時、このドキュメンタリー映画が多くの示唆を与えてくれたことは事実である。

長年この施設の友の会会長で、かつての名メゾ・ソプラノ、ジュリエッタ・シミオナートは、短いコメントの中で音楽家の引退の時期について非情に示唆的な考えを表明している。

つまり1人の音楽家が引退する時期は聴衆から見放される時ではなく、逆にそうなる前にその人が完全なイメージを遺す形で聴衆から去っていくべきだと言っている。

それは全盛期に鮮やかな引き際を見せたシミオナートならではの名言だろう。

『音楽家憩いの家』の概要についてはシミオナートの伝記を綴った武谷なおみ著『カルメンの白いスカーフ』に詳述されているが、それによれば入所資格は60歳以上の年金受給者で、プロの音楽家であったことの証明の他に、年金の80%を施設に寄付しなければならない。

彼らは敬意を持って迎えられ入居後も自由な音楽活動を保証されていて演奏会やオペラ鑑賞などのレクリエーションも企画されている。

しかしヴェルディの楽譜の版権が切れ、印税が当てにできない現在では運営資金を寄付に頼らなければならないようだ。

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2017年02月20日


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小澤征爾&ボストン交響楽団が1980〜1993年、13年をかけて完成したマーラー交響曲全集で、両者の厚い信頼関係が成し遂げた金字塔と言えるBOXだ。

そして、この録音が数多くの演奏の中でもひときわ優れ、独自の音楽的な地位を保っていることは誰もが認めるところである。

1980年代と言えば小澤の評価が世界的に急上昇し、ついには1990年代の頂点に至る過程でもあったが、その原動力として、この全集が果たした役割は大きい。

当時の小澤は世界的な巨匠という責任と期待の前に立って、最終的なジレンマにあったのではないか。

それは、結局音楽における内面性、精神性と言われてきた奥義のようなものを異文化から来た人間がどう獲得するかという問題になり、これは小澤が独自のスタイルを保ちながら、しかもどれだけ燃焼度を高く確保していけるかという問題でもあった。

そういう意味において、小澤のマーラー録音の展開を追っていけたことは、また文化史的に極めてスリリングな体験と言うべきであったのかも知れない。

小澤はマーラーの「第9」を、ボストン交響楽団の音楽監督としての最後の演奏会で取り上げたほどであり、マーラーのスペシャリストとしての呼び声も高い。

小澤のマーラー演奏は東洋的諦念観の理解に裏打ちされていると特徴付けられるが、作曲者と完全に一体化した師バーンスタインの情緒的スタンスから一歩踏み出したオリジナルの強さがここにはある。

ポスト・バーンスタイン=ユダヤ的身振りを模索する客観的でセンシティヴなマーラー像、すなわちバーンスタインのマーラー以後、一体どんなマーラーがあり得るのか、その小澤なりの回答、なのであろう。

小澤のアプローチは全体を通していわゆる純音楽的なものであるが、マーラーの荘重な世界を、熱い魂がほとばしるような演奏で表現している。

小澤のマーラーには、こってりとした民族的な味付けや濃厚な感情移入は感じられず、むしろ絶対音楽として客観視された主旨で統一されている。

バーンスタインやテンシュテットの劇的で主観的なアプローチとはあらゆる意味において対照的であるが、だからと言って物足りなさは皆無。

明晰な響きと自在なリズム、カンタービレのしなやかな美しさ…しかし、何といっても小澤の音楽には絶対的な優しさがあり、この美質が小澤のマーラーを価値あるものにしている要因なのだろう。

バーンスタインほどオケを振り回さず、しかし客観的になりすぎず、音を丁寧に積み重ねながらぐいぐいと聴く者を引き込んでゆく。

一方、小澤のマーラーは非常にセンシティヴな響きを持っており、フランスの印象派や、武満やメシアンを思い出させるような、あるいは小澤があるエッセイでマーラーと比較していたアイヴスも連想させるような繊細さを感じさせる。

このように小澤のマーラー観とは、外部からくる様々な感覚を綜合した、ある種アール・ヌーヴォー的な作曲家というところにあり、そのアプローチは主観主義的であるよりもむしろ客観的・知的・純音楽的である。

また小澤独自のリズムの切れの良さと旋律の歌わせ方の明快さもよく出ており、そういう特質が最も良く生かされているのが、小澤向きの「第8」や「第2」「第1」だろう。

小澤の、楽曲の深みに切り込んでいこうとする鋭角的な指揮ぶりが、演奏に緊張感といい意味でのメリハリを加味することに繋がり、切れば血が出るような熱き魂が込められた入魂の仕上がりとなっている。

録音も優秀で、ボストン交響楽団の洗練された弦や木管、輝かしいブラスを、フィリップス・クオリティのサウンドで堪能できる高水準でシンフォニックな全集である。

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2017年02月18日


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ドイツの長老指揮者ミヒャエル・ギーレン(Michael Gielen 1927-)が、1988年から2003年にかけて、南西ドイツ放送響と録音したモダニズムに徹した鋭利な知の切れ味を堪能させる新解釈の高品質かつ均質性の高いマーラー(Gustav Mahler 1860-1911)の交響曲全集。

交響曲第10番は第1楽章のみ(2005年にクック版の全曲を録音、別売)で、「大地の歌」は含まれない(1992年に第1,3,5楽章、2002年に第2,4,6楽章を録音したが、当アイテムには含まれなかった)。

ギーレンのマーラー演奏は、細部まで見通しのよい堅牢な造形、緊密に練り上げられたテクスチュア構築など膨大な情報処理に秀でている点が特徴的で、素材間の緊張関係や声部の重なり合いの面白さには実に見事なものがある。

オーケストラの楽器配置が第2ヴァイオリン右側の両翼型である点も見逃せない重要なポイントで、マーラーが意図したであろうパースペクティヴの中に各素材が配されることによって生ずる響きや動きの妙味に説得力があり、多用される対位法や、素材引用への聴き手の関心が無理なく高められるのも嬉しいところだ。

どの交響曲も、指揮者のスタイルをしっかりと投影し、解析的で、情緒を抑制しながらも、自然で音楽的な起伏に満たされている。

この全集は、特にマーラーの音楽に存在する構造的な秘密を解明し、そこから導かれる「力」の存在に意識的でありたいと思う聴き手には、絶好のものだ。

ギーレンは、明らかにこれらのマーラーの音楽から、「情」ではなく、「知」に働きかけるものに焦点を当てている。

明瞭にされる声部、音型の変換、構造上の楽器の役割、そういったものを厳密に定義付け、細部を突き詰めることにより、音像を作り上げ、音楽を構築していく、建築学的な音楽と言っても良い。

しかし、音色は決して冷たくはなく、むしろ不思議な暖かさを宿し、的確な起伏により、新鮮な高揚感を得て、鮮烈な興奮を聴き手に与えてくれる。

ごく簡単に、筆者が当演奏から受けた印象を、各曲ごとにまとめると、以下の様な感じになる。

第1番;1つ1つの楽器の明朗な響きと、そして、濁りのない合奏音によって、瑞々しく描かれている。

第2番;細かいモチーフを繋いだダイナミクスへの動線、さらに休符の意味まで厳密に突き詰めた演奏。この曲の劇場的な一面と一線を画している。第5楽章の冷静極まりない進行から、前半部の巨大なコラール、そして合唱を交え、コーダに向かう一連の流れは非常に美しく、ルネサンス・ポリフォニーを聴いているかのよう。

第3番;アダージョまで徹底したインテンポの表現で、鋭く線的に描かれたシャープなスタイル。シャイーに近いが、ギーレンの方がやや即物的な味わい。

第4番;厳密性がややシニカルな味わいを見せる。天国の音楽と言うより、瞬間瞬間の音色を追求。

第5番;引き締まったテンポで、クールに徹したモダニズムの極致的美演。動物のように激しく叫び、のた打ち回るだけが主張なのではないことを教えてくれる。

第6番;全体の中では古典的なアプローチ。だが新ウィーン楽派に連なる表現主義的な面をよく伝える。

第7番;従来のロマンティックな解釈とは完全に一線を画した演奏。第4楽章の各モチーフの扱いに卓越した冴えを見せる。

第8番;オペラ的なショルティとは対極をなす名演。テクスチャーの織り込みが細かく、驚かされる。終幕近くのソプラノがマジカルな効果を放つ。

第9番;オーケストラの技術を駆使した演奏。この曲の場合その成果が暖かみではなく、不安や恐怖の感情へと誘導されるのを感じる。独奏ヴァイオリンの深いニュアンス。

第10番;第9番に近いがより暗黒的、虚無的なものを意識させる。

以上、当然の事ながら、それぞれの感想がその曲固有のものというわけでなく、全集を通じて重複するものもあるが、筆者の素直な感想を曲毎に書くと、このようになる。

ギーレンは、テンシュテット(Klaus Tennstedt 1926-1998)のように、音の1つ1つの表現力は強いわけではなく、シャープで、冷酷なまでに素っ気ないが、ただ、その素っ気ない音が同時に鳴らされたとき、その組み合わせ方がドラマティックで、ロマンティックで、エロティックなのだ。

マーラーの音楽の多面性を見事にあぶり出した稀代の名演、名全集で、情感、知性、さらに哲学と、マーラーの音楽を深く追求した実にずっしりと重みのある全集に仕上がっている。

いずれにしても、現代最高のマーラー指揮者による素晴らしい全集だと思うので、是非推奨したいが、ギーレンのマーラー・シリーズは、単品で揃えると、併録してある楽曲がなかなか興味深いので、経済的に余裕のある人は、そちらの方がいいかもしれない。

バーンスタイン(Leonard Bernstein 1918-1990)やショルティ(Georg Solti 1912-1997)とは大いに聴き味を異にするマーラーではあるが、彼らの演奏を支持する人であっても、もっと多層的で新たな感興を呼び覚ましてくれるギーレンのマーラーだと思うので、広く推薦したい。

すぐれた演奏は本当の自分を映し出す鏡となるが、この演奏は鏡にふさわしく、よく磨かれているはずだ。

また、録音状態も自然な質感をもった優秀なもので、ヘンスラー・レーベルで行われた録音だけでなく、第4番、第7番、第10番アダージョというINTERCORD時代にリリースされていた音源まで大幅な音質改善が図られているのも良心的である。

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2017年02月16日


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ダヴィッド・フレーは成長著しい現在最も注目すべき若手有望株のピアニストの1人である。

フレーはフランス生まれの最もフランス的なピアニストでありながら、これまでフランス物には殆んど目もくれずドイツ系の作曲家の作品ばかりを録音してきたが、どうやら鉾先を転じつつあるようだ。

今回のショパン・アルバムは少なくともセッション録音では初挑戦で、予想はしていたがこのCDでもやはり彼らしい滴るような抒情に包まれたウェットなサウンドを駆使しながら甘美かつスケール感にも不足しない演奏が繰り広げられている。

彼はそれぞれの作品を自分の領域に容赦なく引き込んで敢然と手を加えるが、それほど耽美的に感じられないのはむやみにリズムを崩したり、音価を引き摺るのではなく、あくまでも鍵盤へのタッチと、それによって生み出されるディナーミクの千変万化で聴かせることに注意が払われているからだろう。

その深い瞑想に支配された感性の繊細さには尽きない魅力があり、さながら現代のピアノの詩人といったところだ。

彼はもともと超絶技巧で聴衆を唸らせるタイプの演奏家ではなく、彼自身そのことを誰よりも自覚しているので、通常若手ピアニストが取り組む派手なテクニックを誇示するような曲目には一切手を染めていない。

それとは対照的にピアノという楽器を通して如何に心情の機微を歌い上げるかというところに早くから嬉々として勤しんでいるように見える。

その成果がこれまでにリリースされてきたドイツ系の作品にも着実に応用されていると言えるだろう。

今回のショパンの選曲を見れば自ずと理解できるように、ノクターンやマズルカの詩的な魅力が究極的に追求されている。

通常このような選曲のアルバムは大家の演奏でもない限り売れ筋ではないのだが、洗練された個性的な解釈の美しさだけでなく充分な説得力を持った堂々たる演奏に驚かされる。

2016年9月パリのノートルダム・デュ・リバン教会における録音で、収録曲目に関しては上記のアマゾンのページのイメージ欄にケース・カバー裏面の写真が掲載されているので参照されたい。

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2017年02月14日


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2032年がハイドン生誕300周年に当たり、それに向けて現在ふたつのイタリアの古楽グループが世界初のピリオド・アンサンブルによる交響曲107曲の全集の制作に向けて着手している。

既にCD3枚計9曲の録音を終えているのがジョヴァンニ・アントニーニ率いるイル・ジャルディーノ・アルモニコで、この遠大な構想を着実に遂行しつつあるように見える。

一方こちらは同じくイタリア古楽界のベテラン・チェンバリスト、オッターヴィオ・ダントーネがアカデミア・ビザンティーナとの全曲レコーディングを完成させる企画を立ち上げている。

その第1弾として昨年2016年にリリースされたのがこの2枚組4曲で、そのうち第79番及び第81番はピリオド・アンサンブルの録音では初めての試みのようだ。

古楽奏者によるハイドンの交響曲全集は唯一ホグウッド、ブリュッヘン、ダントーネの三者混成ボックスがデッカから出ているが、いくらかご都合主義の寄せ集めの感は否めない。

またロイ・グッドマン&ハノーヴァー・バンドもかなりの曲数を録音しているが、いずれも単独では全曲録音にまで至っていないのが現状で、この機会にダントーネ、アントニーニの両者が最新の録音で全集を完成させることを期待したい。

この膨大な作品群を現代の大編成のオーケストラを使った分厚いサウンドで演奏するのもひとつの解釈だが、彼のように当時の宮廷楽団のアンサンブルをイメージさせるインティメイトな再現も重要な選択肢のひとつだろう。

彼らから引き出される音色は少人数編成ということもあって、古典派特有のジオメトリックなスコアのテクスチュアが見えてくるような精緻さと独特の透明感があり、かえってそれがフレッシュな音響を創造しているのは事実だ。

その意味ではむしろアントニーニの起伏に富んだ情熱的な演奏を凌駕していて、ダントーネのクールとも言える知的な解釈が反映されている。

また今回はメジャーな作品を敢えて避けた、肩透かしを食わせるような4曲を並べたところもユニークだが、ダントーネによる来たるべきハイドン交響曲全集のサンプラー盤として聴く価値があるもので、それぞれが味のある個性を持っていて音楽的にも他の標題付の交響曲に決して劣るものでないことが証明されている。

セッションの会場となったラヴェンナのゴルドーニ劇場は豊かな残響を持っているが、古楽器の音質を忠実に捉えた録音状態も秀逸。

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2017年02月12日


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バーンスタインのニューヨーク・フィル時代のハイドンがまとめられて格安で再発売された。

バーンスタインのハイドンのよさはもっと知られてよく、シンフォニックな厚みのある演奏は、いかにも巨匠風の大芸術だ。

バーンスタインのハイドンは、精緻なアンサンブルや古典主義的な美を求めるよりは、解放的な愉悦感で一貫している。

特に《時計》は作品とぎりぎりのところで、そのバランスが美しく保たれた演奏になっている。

カラヤン盤がオーケストラの威力によって聴かせるならば、この演奏は全体にみなぎる熱気が魅力である。

指揮台の上で飛び跳ねるというバーンスタインのエネルギッシュなスタイルは、なにも激しい曲ばかりではなく、このような作品にまでもあらわれている。

一糸乱れぬ完璧な合奏力でひきあげたカラヤン盤に対し、バーンスタインの表現は、もっと開放的である。

こうしたハイドンの演奏は、バーンスタインの独壇場と言えよう。

《驚愕》は1970年代のものにしては珍しく大編成によっているが、いかにもユーモリストのバーンスタインらしい、明るく健康的なウィットに富んだ演奏で、新鮮な味わいをもったすがすがしい表現だ。

爛僖僉Ε魯ぅ疋鶚瓩噺討个譴燭覆瓦笋なハイドンの音楽がそのままバーンスタインの人柄に乗り移ったように聴こえてきて、気持ちがよい。

《V字》では、子供らしい活気あふれる無邪気さと、慈父のようなあたたかみのある気配りの対話が生き生きと浮かび出て、ハイドンの本質にふれている。

第3楽章でのユーモア感はさまざまな表情を見せ、そのこまやかさとゆたかさは他に例を見ない。

終楽章は遊びまわる子供の疲れを知らぬ活気にあふれている。

人間に対する親愛感に満ちた演奏だ。

第102番では、オラトリオ《天地創造》に通ずる気宇壮大な世界が展開され、清新な空気を胸いっぱいに吸い、心が広々とし、この世に生きるよろこびが感じ取れる。

ミサ曲第9番《ネルソン・ミサ》では、バーンスタインの切れのよいリズムの中に刻まれるハイドンの抒情が、なんとも現代的である。

と同時にハイドンの本質である完成された古典主義の造型が、この特質を明らかにしていく快さも兼ねている。

独唱者ではソプラノのジュディス・ブレゲンが抜群で、テクニックといい音楽性といい、その仕上がりは他の3人を引きはなしている。

ミサ曲第12番《ハルモニー・ミサ》では、古典的均整に行儀よく収まらず、力と行動性を持ったこのバーンスタインのハイドンは、それ故に現代の生存不安に対するヒューマニスティックな訴えを前面に押し出し、作曲者の〈健康さ〉が、病に冒された現代の人々に確かな〈救い〉を与える。

オラトリオ《天地創造》にも真の人間讃歌がみなぎっていて、この上なく感動的で、オケもコーラスもこの熱に押しまくられ素晴らしい力感をみせる。

バーンスタインの古典は、一般に見逃されているようだが、彼のハイドンやモーツァルトは、構成のしっかりした実に立派なもので、ぜひ再認識してほしいと思う。

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classicalmusic at 00:21コメント(2)トラックバック(0)ハイドンバーンスタイン 

2017年02月10日


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ヴァント&ベルリン・フィルによるブルックナーの交響曲の中でも最高峰の超名演は、紛れもなく「第7」であると考える。ヴァントは、同時期にミュンヘン・フィルとともにブルックナーの数々の交響曲を演奏しており、それらの演奏もベルリン・フィル盤と同様にいずれも至高の超名演であるが、「第7」についてはミュンヘン・フィル盤がないだけに、なおさら本演奏の価値が際立っている。ブルックナーの「第7」には、シューリヒト&ハーグ・フィル(1964年)、マタチッチ&チェコ・フィル(1967年)、朝比奈&大阪フィル(1975年、聖フローリアンライヴ)、ヨッフム&コンセルトヘボウ(1986年、来日公演盤)マゼール&ベルリン・フィル(1988年)、カラヤン&ウィーン・フィル(1989年)、スクロヴァチェフスキ&読売日響(2010年)など、多種多様な名演が目白押しであるが、本ヴァント&ベルリン・フィル盤は、それら古今東西のあまたの名演に冠絶する史上最高の超名演と高く評価したい。ヴァントのアプローチは、例によって厳格なスコアリーディングに基づく計算し尽くされたものであり、凝縮化された堅固な造型が持ち味だ。ただ、1980年代のヴァントは、こうしたアプローチがあまりにも整理し尽くされ過ぎていることもあって神経質な面があり、いささかスケールの小ささを感じさせるという欠点があった。しかしながら、1990年代に入ってからは、そのような欠点が散見されることは殆どなくなったところであり、本盤の演奏でもスケールは雄渾の極みであり、神々しささえ感じさせるほどだ。音楽はやや速めのテンポで淡々と流れていくが、素っ気なさなど薬にしたくも無く、どこをとってもニュアンス豊かな情感溢れる音楽に満たされているのが素晴らしい。ヴァントは、決してインテンポには固執せず、例えば第1楽章終結部や第3楽章のトリオ、そして終楽章などにおいて微妙にテンポを変化させているが、いささかもロマンティシズムに陥らず、高踏的な優美さを保っている点は見事というほかはない。金管楽器などは常に最強奏させているが、いささかも無機的な音を出しておらず、常に奥行きのある深みのある音色を出しているのは、ヴァントの類稀なる統率力もさることながら、ベルリン・フィルの圧倒的な技量の賜物と言えるだろう。

ブルックナーが完成させた最高傑作「第8」が、この黄金コンビによるラストレコーディングになったというのは、ブルックナー演奏にその生涯を捧げてきたヴァントに相応しいとも言えるが、次のコンサートとして「第6」が予定されていたとのことであり、それを実現できずに鬼籍に入ってしまったのは大変残念というほかはない。そこで、この「第8」であるが、ヴァントが遺した数々の「第8」の中では、同時期のミュンヘン・フィル盤(2000年)と並んで、至高の超名演と高く評価したい。本盤の前の録音ということになると、手兵北ドイツ放送交響楽団とスタジオ録音した1993年盤ということになるが、これは後述のように、演奏自体は立派なものではあるものの、面白みに欠ける面があり、本盤とはそもそも比較の対象にはならないと考える。ただ、本盤に収められた演奏は、ヴァントが指揮した「第8」としてはダントツの名演ではあるが、後述の朝比奈による名演と比較した場合、「第4」、「第5」、「第7」及び「第9」のように、本演奏の方がはるかに凌駕していると言えるのかというと、かなり議論の余地があるのではないだろうか。というのも、私見ではあるが、「第8は」、必ずしもヴァントの芸風に符号した作品とは言えないと考えるからである。ヴァントのブルックナーの交響曲へのアプローチは、厳格なスコアリーディングに基づく堅固な造型と緻密さが持ち味だ。また、金管楽器を最強奏させるなどのオーケストラの凝縮化された響きも特徴であるが、1980年代のヴァントの演奏は、全体の造型美を重視するあまり凝縮化の度が過ぎたり、細部への異常な拘りが際立ったこともあって、スケールが小さいという欠点があったことは否めない。そうしたヴァントの弱点は、1990年代後半には完全に解消され、演奏全体のスケールも雄渾なものになっていったのだが、前述の1993年盤では、スケールはやや大きくなった反面、ヴァントの長所である凝縮化された濃密さがいささか犠牲になった嫌いがあり、峻厳さや造型美だけが際立つという「第8」としてはいわゆる面白みのない演奏になってしまっている。むしろ、来日時の手兵北ドイツ放送交響楽団とのライヴ盤(1990年アルトゥス)の方が、ライヴ特有の熱気も付加されたこともあって、より面白みのある素晴らしい名演と言えるのではないだろうか。いずれにしても、ヴァントの持ち味である厳格なスコアリーディングに基づく堅固な造型や緻密さと、スケールの雄大さを兼ね備えるというのは、非常に難しい究極の指揮芸術と言えるところであるが、ヴァントは、ベルリン・フィルとともに、「第5」、「第4」、「第9」、「第7」と順を追って、そうした驚異的な至芸を成し遂げてきたのである。ところが、この「第8」は、スケールは雄大であるが、堅固な造型美や緻密さにおいては、ヴァントとしてはその残滓は感じられるものの、いささか徹底し切れていないと言えるのではないだろうか。これは、ヴァントが意図してこのようなアプローチを行ったのか、それとも肉体的な衰えによるものかは定かではないが、いずれにしても、ヴァントらしからぬ演奏と言うことができるだろう。したがって、本盤に収められた演奏については、細部には拘泥せず曲想を愚直に描き出して行くことによって他に類を見ないスケールの雄大な名演の数々を成し遂げた朝比奈のいくつかの名演(大阪フィルとの1994年盤(ポニーキャニオン)、N響との1997年盤(フォンテック)、大阪フィルとの2001年盤(エクストン))に並ばれる結果となってしまっているのは致し方がないところではないかと考える。もちろん、これはきわめて高い次元での比較の問題であり、本盤に収められた演奏が、「第8」の演奏史上に燦然と輝く至高の超名演であるとの評価にはいささかも揺らぎはない。

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classicalmusic at 00:06コメント(0)トラックバック(0)ブルックナーヴァント 

2017年02月09日


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ヴァントがその最晩年にベルリン・フィルと成し遂げたブルックナーの交響曲の演奏の数々は、いずれも至高の超名演であるが、「第5」は、一連の演奏の中でのトップバッターとなったものである。ヴァントの伝記などを紐解くと、ヴァントは、ブルックナーの交響曲の中でも特に「第5」と「第9」を、妥協を許すことなく作曲した楽曲として特に高く評価していたことが記されている。それだけに、ヴァントとしても相当に自信を有していたと考えられるところであり、ベルリン・フィルを指揮した演奏の中でも「第5」と「第9」は、他の指揮者による名演をはるかに引き離す名演を成し遂げていると言えるのではないだろうか。辛うじて比較し得る「第5」の他の名演としては、ヨッフム&コンセルトへボウ・アムステルダム盤(1964年)、朝比奈&東京交響楽団盤(1995年)が掲げられるが、前者はいささかロマンティシズムに傾斜する傾向、後者はオーケストラの力量に難点があり、ヴァント&ベルリン・フィル盤には遠く及ばないと考える。唯一対抗し得るのは、同じヴァントによるミュンヘン・フィル盤(1995年)であると考えるが、剛毅な性格を有する「第5」には、ベルリン・フィルの音色の方がより適しているのではないかと考える。現在、DVDでしか発売されていない朝比奈&シカゴ交響楽団による演奏(1996年)が今後CD化されるとすれば、本盤を脅かす存在になる可能性はあるが、そのようなことがない限りは、本名演の優位性は半永久的に安泰と言っても過言ではあるまい。本演奏におけるヴァントのアプローチは、眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングに基づく峻厳たるものだ。やや速めのインテンポによる演奏は、巧言令色とは正反対の質実剛健そのものと言える。全体の造型はきわめて堅固であり、それによる凝縮化された造型美はあたかも頑健な建造物を思わせるほどであるが、それでいて雄渾なスケール感を失っていないのは、ヴァントが1990年代半ば、80歳を超えて漸く達成し得た圧巻の至芸と高く評価したい。金管楽器なども常に最強奏しているが、いささかも無機的な響きになることなく、常に奥深い崇高な音色を出しているというのは、ベルリン・フィルのブラスセクションの卓越した技量もさることながら、ヴァントの圧倒的な統率力の賜物と言うべきであろう。また、峻厳な装いのブルックナーの「第5」においても、第2楽章などを筆頭として、聖フローリアンの自然を彷彿とさせるような抒情的な音楽が随所に散見されるが、ヴァントは、このような箇所に差し掛かっても、いささかも感傷的には陥らず、常に高踏的とも言うべき気高い崇高さを失っていない点が素晴らしい。このように、非の打ちどころのない名演であるのだが、その中でも白眉は終楽章である。ヴァントは、同楽章の壮大で輻輳したフーガを巧みに整理してわかりやすく紐解きつつ、音楽がごく自然に滔々と進行するように仕向けるという、ほとんど神業的な至芸を披露しており、終楽章は、ヴァントの本超名演によってはじめてその真価のベールを脱いだと言っても過言ではあるまい。

ブルックナーの11ある交響曲の中でも「第4」は、ブルックナーの交響曲の演奏が現在のようにごく普通に行われるようになる以前の時代から一貫して、最も人気があるポピュラリティを獲得した作品と言える。ブルックナーの交響曲全集を録音しなかった指揮者でも、この「第4」の録音だけを遺している例が多いのは特筆すべき事実であると言えるのではないか(ジュリーニなどを除く)。そして、そのようなブルックナー指揮者とは必ずしも言い難い指揮者による名演が数多く遺されているのも、この「第4」の特殊性と考えられる。例えば、ベーム&ウィーン・フィル盤(1973年)、ムーティ&ベルリン・フィル盤(1985年)などはその最たる例と言えるところである。近年では、初稿による名演も、インバルを皮切りとして、ケント・ナガノ、シモーネ・ヤングなどによって成し遂げられており、「第4」の演奏様式も今後大きく変化していく可能性があるのかもしれない。ただ、この「第4」は、いわゆるブルックナー指揮者と評される指揮者にとっては、なかなかに難物であるようで、ヨッフムなどは、2度にわたる全集を成し遂げているにもかかわらず、いずれの「第4」の演奏も、他の交響曲と比較すると必ずしも出来がいいとは言い難い。それは、朝比奈やヴァントにも当てはまるところであり、少なくとも1980年代までは、両雄ともに、「第4」には悪戦苦闘を繰り返していたと言えるだろう。しかしながら、この両雄も1990年代に入ってから、漸く素晴らしい名演を成し遂げるようになった。朝比奈の場合は、大阪フィルとの1993年盤(ポニーキャニオン)と2000年盤(エクストン)盤が超名演であり、これにN響との2000年盤(フォンテック)、新日本フィルとの1992年盤(フォンテック)が続くという構図である。これに対して、ヴァントの場合は、本盤に収められたベルリン・フィル盤(1998年)、ミュンヘン・フィル盤(2001年)、北ドイツ放送響とのラストレコーディング(2001年)の3点が同格の超名演と高く評価したい。本演奏におけるヴァントは、必ずしもインテンポに固執しておらず、第3楽章などにおけるテンポの変化など、これまでのヴァントには見られなかった表現であるが、それでいてブルックナーの本質を逸脱しないのは、ヴァントが最晩年になって漸く成し得た圧巻の至芸と言えるだろう。また、眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングを行っており、全体の造型はきわめて堅固ではあるが、細部に至るまで表現が緻密でニュアンスが豊かであり、どこをとっても深みのある音色に満たされているのが素晴らしい。金管楽器なども完璧に鳴りきっており、どんなに最強奏してもいささかも無機的には陥っていない。これは、ベルリン・フィルの卓越した技量によるところも大きいが、ヴァントによる圧倒的な統率力にも起因していると考えられる。第2楽章は、聖フローリアンを吹く一陣のそよ風のようにソフトに開始されるが、その筆舌には尽くし難い繊細さは崇高な高みに達している。その後は、ブルックナーならではの情感豊かな音楽が続いていくが、ヴァントはいささかも感傷的には決して陥らず、高踏的な美しさを保っているのが素晴らしい。いずれにしても、本演奏は、ヴァントが80代半ばにして漸く成し遂げることが出来た「第4」の至高の超名演であり、これぞまさしく大器晩成の最たるものと評価したい。

ヴァントがブルックナーの交響曲の中でも特に高く評価していたのが、前述の「第5」と「第9」であったというのは、ヴァントの伝記などを紐解くとよく記述されている公然の事実だ。実際に、ブルックナーの「第9」は、ヴァントの芸風に見事に符号する交響曲と言えるのではないか。最後の来日時(2000年)に、シューベルトの「未完成」とともに同曲の素晴らしい名演を聴かせてくれたことは、あれから17年経った現在においても鮮明に記憶している。いずれにしても、至高の超名演で、同時期にミュンヘン・フィルと行った演奏(1998年)もあり、ほぼ同格の名演とも言えるが、同曲の峻厳とも言える性格から、オーケストラの音色としてはベルリン・フィルの方が同曲により適していると考えられるところであり、筆者としては、本盤の方をより上位に置きたいと考える。なお、前述の来日時の2000年盤との比較については、なかなか難しい面があるが、オーケストラの安定性(ホームグラウンドで演奏しているかどうかの違いであり、北ドイツ放送交響楽団との技量差はさほどではないと考える)において、本盤の方がわずかに上回っていると言えるのではないか。本名演に匹敵すると考えられる同曲の他の名演としては、シューリヒト&ウィーン・フィル盤(1961年)、朝比奈&大阪フィル盤(1995年)が掲げられるが、前者は特に終楽章のスケールがやや小さいこともありそもそも対象外。後者については、演奏内容はほぼ同格であるが、オーケストラの力量においては、大阪フィルはさすがにベルリン・フィルと比較すると一歩譲っていると言えるだろう。今後、本名演を脅かすとすれば、未だDVDも含め製品化されていない、朝比奈&シカゴ交響楽団による演奏(1996年)がCD化された場合であると考えるが、権利関係もあって容易には事が運ばないと考えられるところであり、おそらくは、本名演の天下は、半永久的に揺るぎがないものと考える。本名演でのヴァントのアプローチは、いつものように眼光紙背に徹した厳格なスコアリーディングによって、実に緻密に音楽を組み立てていくが、造型の堅固さにも際立ったものがある。金管楽器なども最強奏させているが、無機的な音はいささかも出しておらず、常に深みのある壮麗な音色が鳴っている。スケールも雄渾の極みであり、前述の堅固な造型美や金管楽器の深みのある音色と相俟って、神々しささえ感じさせるような崇高な名演に仕上がっている。特に、終楽章のこの世のものとは思えないような美しさは、ヴァントとしても、80代の半ばになって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるだろう。いずれにしても、前述のように、本名演が古今東西の様々な名演に冠絶する至高の超名演であるということに鑑みれば、ヴァントは、本超名演を持って、ブルックナーの「第9」の演奏史上において、未踏の境地を切り開いたとさえ言えるだろう。

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2017年02月07日


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本盤には《ペトルーシュカ》《春の祭典》という、ストラヴィンスキーの3大バレエ音楽を構成する人気曲が収められているが、小澤は、ストラヴィンスキーを得意中の得意としていることもあり、いずれも驚くべき超名演だ。

両演奏ともに、小澤がボストン交響楽団の音楽監督に就任する前の録音であり、いまだ30代の若き小澤としてもこれから世界に羽ばたいて行こうとする熱き情熱に満ち溢れていた時期である。

この当時の小澤の演奏は、豊かな音楽性を生かしつつ、軽快で躍動感溢れるアプローチに加えて、エネルギッシュで力強い生命力に満ち溢れていた。

トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力強さは圧倒的な迫力を誇っており、切れば血が噴き出てくるような熱い情感に満ち溢れている。

バレエ音楽《ペトルーシュカ》の随所で聴かれるロシア風の抒情的な旋律の歌い方もいささかも重々しくなることはなく、瑞々しさを感じさせてくれるのが素晴らしい。

ボストン交響楽団も、この当時は音楽監督に就任することなど夢想だにはしなかったであろうが、若き才能溢れる指揮者の統率に導かれて、力感溢れる大熱演を披露している。

後に現代を代表する指揮者に成長するティルソン・トーマス(MTT)によるピアノ演奏も、小澤の指揮ともどもノリノリの爽快さが素晴らしい。

バレエ音楽《ペトルーシュカ》は、現在までにこれが小澤にとっての唯一の貴重な録音であり、若き小澤の才気が爆発した稀有の超名演と高く評価したい。

小澤は、バレエ音楽《春の祭典》を十八番としており、本盤に収められた録音のほかにもボストン交響楽団とともに再録音(1979年)を行っているほか、コンサートでもたびたび採り上げているところだ。

冒頭からテンションは著しく高くパワー全開であり、若き小澤ならではの凄まじいまでの燃焼度の高い演奏を展開している。

快速のテンポやスローテンポなどの変幻自在のテンポ設定や猛烈なアッチェレランド、部屋がぶっ飛ぶのかと思うほどの大音響を炸裂させるなど、ありとあらゆる大胆な表現を駆使して才気溢れる圧倒的な爆演を展開しており、これこそまさに切れば血が噴き出てくるような渾身の大熱演と言えるのではないだろうか。

本演奏はスタジオ録音であるが、とてもスタジオ録音とは思えないような灼熱のような燃焼度を誇っており、第2部の終結部ではあまりのド迫力に完全にノックアウトされてしまった。

このように終始ハイテンションの小澤の凄まじい指揮に、一糸乱れぬアンサンブルで最高の演奏を展開したシカゴ交響楽団のとてつもない超絶的な技量にも大いに拍手を送りたい。

音量といい、技量といい、シカゴ交響楽団はこの当時からスーパー軍団であったことがよく理解できるところだ。

本盤最後に収められた併録の幻想曲《花火》も、若き小澤ならではの素晴らしい名演だ。

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classicalmusic at 00:04コメント(0)トラックバック(0)ストラヴィンスキー小澤 征爾 

2017年02月05日


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円熟の極みにあったベームの指揮と、ウィーン・フィルの伝統のある響きと卓越した表現力が一体化した名盤。

男性的ともいえる雄渾な楽想とともに、限りない憧憬を秘めた第3楽章が映画音楽に使われた交響曲第3番と、哀愁感や情感を存分に湛え内省的で諦観に満ちた、作曲家晩年の枯淡の境地を示す交響曲第4番を収録。

ベームのブラームスと言えば、「第1」にはベルリン・フィルとの旧盤(1959年スタジオ録音)、ウィーン・フィルとの来日公演のライヴ録音(1975年)があり、「第2」にもベルリン・フィルとの旧盤(1956年スタジオ録音)、ウィーン・フィルとの来日公演のライヴ(1977年)が存在する。

しかし「第3」と「第4」にはそのような競合盤が存在せず、本盤がそれぞれのベームの代表盤と言うことができる。

遅いテンポで悠然と進むなかにも緊張感がみなぎっていて、ベームの録音のなかでも高い評価を得ているもののひとつ。

ブラームスとベームの相性は抜群だと思う。

ブラームスの渋い芸風が、これまたベームの華やかさと無縁の芸風と見事に符合し、ブラームス演奏のひとつの規範とも言えるオーソドックスな演奏に仕上がっている。

近年のブラームスの交響曲で、最も規範とされているに違いない充実の名演と言えるところであり、月並みな言い方だが、まさに両曲とも最高の意味でのオーソドックスという言葉が相応しい。

十分に力強くありながら、同時に柔軟でもあり、情に流されることがなく、構造美への志向が高い。

それは、ただ見事というだけでなく、ここに暖かな人間の血が通っているのであり、晩年のベームと伝統のウィーン・フィルの美質がしっかり刻まれていて、全体としてブラームスの交響曲の魅力を大いに味わわせてくれる。

ベームには、この曲をこのように料理してやろうと言う恣意的な解釈は皆無であり、こうしたベームの自然体のアプローチが、ブラームスの芸術の真の魅力を存分に満喫させてくれるのである。

特に「第4」は、この曲の真髄を突いた最高級の表現であり、そのようなベームとブラームスの相性の良さを感じさせる名演だと思う。

こうした構造の精緻な音楽はベームも最も得意とするところだが、録音当時80歳、寂寥感とか哀愁を感じさせるところが少なくない。

中庸のテンポで、決して奇を衒うことなくオーソドックスな演奏をしているが、平板さや冗長さは皆無であり、ブラームスの音楽の素晴らしさ、美しさ、更には、晩年のブラームスならではの人生のわびしさ、諦観などがダイレクトに伝わってくる。

ベームは、その自伝に著しているように、造型を大切にする指揮者であるが、凝縮度は壮年期に比して衰えは見られるものの、全体の造型にはいささかの揺るぎもみられない。

一方、「第3」は、まとめるのがなかなか難しい曲だけに、「第4」ほどの名演ではないと思うが、全篇ゆったりと恰幅の良いテンポに、中身がぎっしり詰まっている。

第2楽章の濃厚な歌はまるで夢うつつの天国的気分、第3楽章には枯れた味わいなど、いかにも晩年のベームならではの至芸を味わうことができるが、それでいて、両端楽章の地を抉るような深いリズムなど一瞬たりとも集中の途切れることがない。

それにしても、この頃(1970年半ば)のウィーン・フィルは音の厚みとともに合奏が途轍もなく強力だ。

1950年代後半から1960年代初頭にかけての絶頂期以来、もうひとつの頂点にあったのではないだろうか。

セッションだけあって盛り上がりはいまひとつとも言えるかもしれないし、ライヴなら全体として、もっと燃え立った表現になっていると思われるが、それを補って余りある緻密で味の濃い演奏は、LP時代から未だに離れられないでいる。

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classicalmusic at 01:33コメント(0)トラックバック(0)ブラームスベーム 

2017年02月03日


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チャイコフスキーの音楽の魅力を洗練された響きと色彩で楽しむなら、デュトワ盤は最も魅力的で、かつバランスのよい演奏と言うべきだろう。

チャイコフスキーのいわゆる“3大バレエ”の中でも、とりわけデリケートなファンタジーを感じさせる《くるみ割り人形》をデュトワ指揮によるモントリオール交響楽団は実によく洗練された感性で、スマートに再現していく。

明るい色彩は豊かだし、各表現は的確に描き分けられ、間然としたところがなく、必要以上に重々しくならずに快い流動感を保ち続けているのは、デュトワの力量に負うところが大と言えよう。

ことさらバレエ的な雰囲気をかき立てるような演奏ではないが、洗練された響きと表現で細部まで生き生きと、すっきりした仕上げで、各ナンバーの特色や美しさを過不足なく味わわせてくれる。

かつてはラヴェルのスペシャリストとして注目を集めたデュトワは、確かに無機的な要素を含んだ近代の作品などに独特の卓越した手腕を発揮する指揮者であるが、ザッハリヒな一面をも含んだ彼のそうした持ち味は、対極にあるロマンティックな作品にも、彼ならではの価値ある成果を見せてくれるケースも少なくない。

そしてこのバレエ音楽《くるみ割り人形》は、その代表的な一例と考えてよい演奏であり、全体に爽やかで、テキパキと、チャイコフスキーの色彩的なオーケストレーションを再現した演奏である。

デュトワは、このバレエ音楽のロマンやファンタジーに溺れることなく、厳しくコントロールされた視点をもって作品に臨み、楽譜に秘められた作品の絶対音楽としての純粋な美しさに目を向け、誇張や個人的な思い入れを排して、それをくっきりと描出した演奏を展開している。

この種のロマンティックな作品は、演奏者によって演出が過剰になり、それが演奏を下品なものにしてしまう場合も多い。

しかし、個人的な感情の表出を抑え、禁欲的といえる姿勢で作品を再現しているデュトワは、それによってこの名作の無垢な美しさを引き出しているといってよいだろう。

舞踏音楽としての呪縛から開放して、純音楽的な妙味のみを追求していったような演奏で、比較的小さな編成で、きめ細やかな楽想を丹念に整い上げ、色彩的なオーケストレーションを瀟洒なサウンドで響かせる。

この演奏は、見方によっては常識的で差し障りのない内容であり、いわゆる個性や特徴は希薄である。

しかし、デュトワの醒めた情熱は、ひと昔前の名盤を生んだアンセルメがそうであったように、そのスマートで洗練された表現は、清潔で好感の持たれるものであり、結果的に歪みのない作品の美しさを浮き彫りにすることになったのであった。

特に「こんぺい糖の踊り」と「アラビアの踊り」は傑出していて、いわば純度の高いメルヘンの世界をみせつけられたような印象があり、私たちは、ここでデュトワの美学の意味を認識するべきである。

《オーロラ姫の結婚》は、《眠りの森の美女》の第3幕をベースに縮小改訂したディアギレフ版(全26曲)による演奏で大変貴重で価値が高い。

これは1922年にディアギレフのバレエ・リュスがパリ・オペラ座で上演した演目で、《眠りの森の美女》最大の見せ場である第3幕を中心に1幕ものに仕立て上げたもので、26曲から構成され、婚礼の宴で披露されるディヴェルティスマン風な内容としてまとめられている。

デュトワはこの音楽の持つ華麗な曲想、そして色彩的なオーケストレーションをフランス音楽でも手がけるかのごとく軽妙洒脱なタッチで描き上げ、くだんのチャイコフスキーとは感触が異なった、現実から遊離したメルヘンの世界に徹底してこだわるかのような極めて上品質な美演である。

モントリオール交響楽団の柔らかい響きも素敵で、演奏を細部まで鮮明に、しかもスケール感豊かに捉えた録音の優秀なことも大きな魅力だ。

まさに、指揮者、オーケストラ、録音と3拍子条件のそろった名盤と言えるだろう。

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classicalmusic at 00:47コメント(0)トラックバック(0)チャイコフスキーデュトワ 

2017年02月01日


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アレクシス・ワイセンベルク演奏集のセット物はEMIに続いて昨年ユニヴァーサル・イタリーからグラモフォン盤がリリースされたばかりだが、こちらはRCAのコンプリート・レコーディング集で7枚組のバジェット・ボックスになり、彼のそれぞれのメーカーへの正規録音が出揃った感がある。

ワイセンベルクは1929年にブルガリアの首都ソフィアに生まれ、同地の音楽院で教育を受けた後、アメリカに渡り、1946年にはジュリアード音楽院で学んだ。

1947年のリーヴェントリット国際コンクールで優勝し、その後、活発な演奏活動を開始したが、考えるところあって、1956年から10年間演奏活動を中断、その時期は自省と自己研鑽にあてていたという。

やがて、1966年パリでの再デビューが成功し、大いなる話題となって、それ以降は、コンサートに、レコーディングにと、冴えたテクニックと、洗練された音楽性を兼ね備えたピアニストとして第一線で活動を続けた。

CD1は唯一彼が演奏活動から一度退く前の1949年の録音で、勿論モノラルだがこの時期の彼のロシア物へのフレッシュな解釈が聴ける貴重な1枚だ。

その他はカムバック以降の総てが1960年代後半のステレオ録音で、リマスタリングの効果もあって音質は鮮明で、フォルテがやや再現し切れない箇所があるにせよ概ね良好だ。

1枚ごとに初出時LPの曲目をそのままカップリングしているので、枚数の割には収録時間が少ないがオリジナル・ジャケットがプリントされたコレクション仕様になっている。

ライナー・ノーツは35ページあり、前半にニューヨークの作曲家ジェド・ディストラーによるスナップ写真入りワイセンベルクのキャリアが英、独、仏語で掲載され、後半では総てのジャケット写真付トラックリストが参照できる。

7枚のうち2枚がオーケストラとの協演になる協奏曲集で、CD3はジョルジュ・プレートル指揮、シカゴ交響楽団によるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番、CD6がユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団とのバルトークの第2番で、前者が1967年、後者が69年の録音だが、ラフマニノフは第1楽章から速めのテンポでワイセンベルクの研ぎ澄まされた感性とピアニスティックなテクニックがひときわ冴えた演奏だ。

プレートルの指揮も気が利いていてシカゴ響から鮮烈なサウンドとスケールの大きいロマンティシズムを引き出している。

一方バルトークではオーマンディ&フィラデルフィア管のサポートによる、大地の叫びとも言える野趣に溢れた力強いソロが圧巻だ。

ソロ・ピースでは個性的なショパンやドビュッシーだけでなく、機知に富んだ疾駆するハイドンのソナタ集も魅力だし、彼自身の迸る情熱と拭い去ることのできない憂愁をぶつけたラフマニノフの前奏曲集も感動的だ。

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classicalmusic at 00:01コメント(0)トラックバック(0)ワイセンベルク 
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