2019年05月

2019年05月31日


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2008年に解散したアルバン・ベルク四重奏団の演奏活動が円熟期を迎えていた時期の、ハイドン作品集をまとめた3枚で、颯爽とした美しい響きの中に精緻で緊密なアンサンブルが冴え渡っている。

アルバン・ベルク四重奏団のこれらの曲に対する解釈は緻密で理性的だが、それでいて決して深刻にならないクールな表現と適度な快活さを併せ持っている。

彼ららしいモダンなアプローチだが、それぞれの急速楽章では爽快でアグレッシブなアタックも聞かれ、ハイドンの音楽語法の輪郭を鮮やかに示した演奏と言えるだろう。

20世紀の音楽を得意としたアルバン・ベルク四重奏団だが、彼らは活動当初からハイドンやモーツァルトも演奏しており、例えばハイドンの《騎士》と《皇帝》は、ベルクの《抒情組曲》と同じ年、1973年に早くも録音していた。

つまり、弦楽四重奏曲の本源に対する思いは、深くて熱かったのである。

彼らのハイドンは、以前のウィーンの弦楽四重奏団に比べると、はるかに強靭になっていた。

ひ弱さは全く感じられず、現代的というのか、きびきびしている上、技術的にも隙がなかった。

またウィーンの音楽家らしく作曲家の古典的な価値をウィットに溢れる独自のオリジナリティーで再現しているのも聴きどころだ。

結成から20年の年輪から、表情は一層深く、より熟し、表現はさらに厚みを加えたと言えるだろう。

特にCD1−2の『エルデーディ四重奏曲』全6曲は現在入手困難になっていた演奏なので、バジェット価格でのリイシュー盤を歓迎したい。

尚このセットでのヴィオラ・パートは総てトマス・カクシュカの演奏になる。

ハイドンは当時娯楽目的が支配的だった複数の弦楽器を組み合わせたジャンルの音楽を、よりシンプルかつ堅固な4つの楽器編成に定着させた。

その可能性や高度な音楽性の追究によって殆んど小宇宙的な音楽形態の次元にまでその価値を高め、彼に続いたモーツァルトやベートーヴェンの創作活動に道を拓いた貢献者だ。

これらの曲集でも円熟期のハイドンならではの職人技とも言うべき手馴れた楽器法と、対位法による巧みな曲想の処理や随所で天才的な閃きをみせる機知に富んだ楽想の豊かさが魅力的だ。

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classicalmusic at 18:41コメント(0)ハイドンアルバン・ベルクSQ 

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ルドルフ・ゼルキン(1903-91)が彼の円熟期の至芸を披露した4曲のピアノ協奏曲を収録した2枚で、ブラームスの2曲はゼルキンがそれまでに4回行ったセッションの最後の録音になる。

それだけに虚勢や名技主義からは一線を画した、あくまでもブラームスの音楽の懐に深く入り込むような真摯な演奏が、彼の到達した境地を感じさせる。

華麗ではないかも知れないが、元来朴訥であり高揚と沈潜を繰り返す作曲家の複雑な心理状態を反映し得る高みに達している。

勿論聴かせどころでは思い切ったピアニズムを謳歌しているが全体的にオーケストラとも良く溶け合い、そのシンフォニックな魅力では他に類を見ないほど調和に富んだ協奏曲に仕上がっている。

オーケストレーションに心血を注いだブラームスの協奏曲では願ってもない再現だが、それはゼルキンが若い頃からブッシュ・トリオの一員としてアンサンブル・ピアニストのキャリアを積んで、常に他の奏者とのコラボで音楽を創り上げていく姿勢があったからだろう。

ゼルキンは20世紀の音楽も得意にしていたが、その素晴らしいサンプルがプロコフィエフとバルトークの2曲で、前者はヴィトゲンシュタインのために書かれた左手のための協奏曲になる。

このセッションで彼が右手を補助的に使ったかどうかは知る由もないが、老獪なテクニックと若々しさもさることながら、一貫して熱い情熱と集中力を感じさせる演奏だ。

一方バルトークは4曲中の白眉で、近年シャープに洗練されているがドライな解釈が多い中で、骨太な野趣が強力な推進力になっている稀な演奏で、終楽章クライマックスでのゼルキンの冴え渡った超絶技巧は圧倒的だ。

ハンガリー出身のセルが本領を発揮した手堅いサポートも聴きどころだろう。

プロコフィエフの音質はやや時代がかっているが、その他は1960年代の初期ステレオ録音としては及第点で、マスターの保存状態から考えれば妥当なリマスタリングだろう。

ブラームス第2番では、第3楽章のチェロとオーボエのソロは音像が近過ぎてオーケストラから自然に聞こえてくるサウンドではないが、こうしたバランスのとり方とミキシングは当時一般的だったので致し方ない。

バルトークはヒス・ノイズが聞こえるがバランス的にはむしろ良好で、コロンビア交響楽団のパーカッション・セクションが大活躍するピアノとの掛け合いも鮮明に収録されていて、本来の意味での臨場感が得られている。

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classicalmusic at 13:23コメント(0)ゼルキンバルトーク 

2019年05月30日


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バロック音楽の再現法は20世紀後半、激変した。

アーノンクールを筆頭に、ホグウッド、クイケン、ピノック、コープマンらが古楽演奏の考え方と質と方法を問い直し、それまでの19世紀的慣習的演奏がきわめて根拠と説得力の薄いものであることを証明してきたからだ。

バロック音楽は決して情緒的なバックグラウンド・ミュージックではない、驚きと発見に満ちた、生きて、輝く音楽であり、そのためには新しい眼と考え方が必要なのだということを、彼らの演奏で証明してきたのである。

レコード界は渾然一体の乱戦模様となった。

片やイ・ムジチのベストセラー盤があるかと思えば、アーノンクールやホグウッドらによるショッキングな演奏も飛び出してきた。

またカラヤンやバーンスタインのような大家によるオーソドックスな演奏もリリースされ、《四季》はアルバムの数だけ異なる版が存在すると言ってもよい状況すら呈したほどである。

だがそんな中、イギリスの名ヴァイオリン奏者で、アカデミー室内管弦楽団の創設者ネヴィル・マリナーが打ち出した《四季》は新鮮この上ないものであった。

それは古楽を標榜したものでも、巨匠風を吹かせたものでも、特定の名ヴァイオリン奏者の至芸をアピールしたものでもない。

一見、セールス・ポイントに欠けるかと思わせたが、作品に寄せる愛情の豊かさと、聴衆を喜ばせようとするサービス精神が従来盤とは全く異なった。

アイディアが新鮮で、よい意味で、作品をもっと楽しく、もっとイメージ豊かに、もっと面白く、しかしその精神はきわめて真面目に再現しようとした意欲があり、それが演奏全体を浮き浮きと、また溌剌としたものに変えたのである。

ハープシコードに加えてオルガンを加えた程度のアイディアは今ではなんの新しさも感じさせないが、目に見える変化以上に、この演奏には夢がある。

いやより正確に言えば夢見ようとした心意気があり、それが《四季》をただ単に料理するのではなく、楽しく、作品の世界を遊ぶかのような演奏を作り出しているのである。

こうした仕掛けはマリナーの独壇場であることはもちろんだが、どうやらソロ・ヴァイオリン奏者を務めたアラン・ラヴデイと通奏低音を受け持ったサイモン・プレストンの貢献が大きいようだ。

何よりも真面目で、正確で、巧さもとびきりなのだが、それがいささかも学究臭さに傾くことなく、みずみずしい表情の美しさと躍動感に満ち溢れている。

演奏家がもつ楽しみの心を全開させた《四季》は、その押し付けではなく、誘い、誘われる演奏である。

特長で語らせる演奏ではなく、奇を衒う演奏でもない、内なる演奏の喜びの豊かさで尽きせぬ魅力を提供してくれる古くて新しい、そして永遠の価値を持つ《四季》である。

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classicalmusic at 19:30コメント(0)ヴィヴァルディ 

2019年05月29日


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原典主義者ムーティがウィーン・フィルを得て、現代の言葉でモーツァルトを語った演奏だ。

ムーティのモーツァルトは、主観と客観の絶妙なバランスに支えられており、現代の聴き手にとってモーツァルトの交響曲を聴くことがいかに大きな慰めとなり、また救いとなるかを、現代の言葉で証明して見せた魅力と説得力がある。

モーツァルトだからということで距離をおくことなく、実にのびやかに歌い上げた爽快感あふれる演奏であり、時に見せる大胆なアプローチも、かえってモーツァルトの新しさを掘り起こしている。

また時としてモーツァルトの緩徐楽章は精神的な永遠性を感じさせる。

その一つの例が交響曲第29番イ長調のアンダンテだ。

この曲は彼が19歳の時の作品で、全曲を通してオーケストレーションの完成度の高さと爽やかで淀み無く流れる曲想の美しさは、モーツァルトの天性の閃きを示している。

楽器編成は弦と木管及びホルンだけの小編成だが、特に全楽章中で最も長くひときわ抒情的な第2楽章は、ムーティの棒によってウィーン・フィルから限りない安らぎとも言える音楽が引き出されている。

このCDには他に第33番変ロ長調と第34番ハ長調が収められている。

尚ムーティは1991年から98年にかけてウィーン・フィルと11曲のモーツァルトの交響曲を録音した。

人数を大幅に減らした編成により古典派らしい風通しの良い音を鳴らしているが、旋律の美しさは最大限に活かされており、素朴調にならないのはやはりウィーン・フィル伝統のスタイルといったところであろうか。

録音場所は総てウィーンの黄金ホールと呼ばれるムジーク・フェラインのグローサー・ザールで1870年オープンの歴史的な演奏会場だ。

このホールは内部装飾の豪華さもさることながら、特に残響音の潤沢なことで知られている。

5枚のCDのどれを聴いてもすぐに気が付くが、オーケストラの瑞々しい余韻がホール全体に広がっている。

残響時間は1680人満席時で2秒だから、当然聴衆のいない録音時には更に長くなる。

曲種によってはそれがいくらか煩わしいこともあるが、このモーツァルトに関しては指揮者ムーティの音楽的な意図を明確に伝えることができていると思う。

今般この豊かな音響がSHM−CD化によって明瞭に再生されたことは幸いだ。

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classicalmusic at 21:09コメント(0)モーツァルトムーティ 

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1992年に不慮の事故のために52歳で急逝したウィーン・フィルのコンサートマスター、ゲアハルト・ヘッツェルの最初で最後のソロ・アルバム。

同フィルの来日公演でも要となって活躍し、わが国でも敬愛されたこのヴァイオリニストの今となっては貴重な形見だ。

しかし、ただ単にそうした意味ばかりではなく、演奏そのものがブラームスのヴァイオリン・ソナタの音楽の特質を余すところなく引き出した味わい深い名演だ。

長年アンサンブルで活躍していた人らしく、ヴァイオリンとピアノが主従関係にならず、あくまでもデュオとしての音楽が奏され、自然で抑制された室内楽本来の楽しみがここにはある。

演奏家の個性や主張を前面に出した表現ではなく、ブラームスの書いた音楽の流れに沿った、ごく自然体のアプローチと弦のしなやかな響きが身上だろう。

だから強烈な個性や濃厚な演奏を期待する人にはもの足りなく感じるかもしれない。

だが控えめでさりげない表現の中にも、どこからかウィーン・フィルの音が聞こえてくるような演奏で、そのあたりにウィーンで活動を続けたヘッツェルならではの音色と歌心の魅力がある。

純粋で瑞々しいロマン性が慎ましく形式の枠に収められているブラームスの音楽の在りようが、清らかな美音と様式感を大切にした節度ある歌い込みによって見事なまでに表出し尽くしているのである。

決して押し付けがましい趣味ではなく、あくまでも洗練された奥ゆかしい、彼自身の人柄から滲み出てくるような音楽で、過剰でない抒情と抑えた静かな情熱とが心を打つ。

ピアノはウィーン出身のヘルムート・ドイチュで、抑制の効いた品のある表情豊かな音楽作りと、潤いのある音色でソロを巧みに支えて秀逸。

ヘッツェルはオーケストラの一員としてのコンサート活動の他に、気の置けないウィーン仲間と組んだウィーン室内合奏団とのアンサンブルの録音を数多く遺している。

但し、純粋なソリストとしてCD化されたセッションは、このブラームスとナクソスから出ているバルトークの2曲のヴァイオリン協奏曲くらいだ。

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classicalmusic at 13:05コメント(0)ブラームス 

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このディスクは、ワーグナー演奏の最も貴重な記録のひとつであるだけに、最新録音のような音質で聴くことができるのに感謝したい。

20世紀最高のワーグナー指揮者と言われるクナッパーツブッシュが指揮し、フラグスタート、スヴァンホルムという2大ワーグナー歌手の協演を聴くことができるからである。

冒頭の弦楽器の生々しさからしてこれまで聴いてきたデッカの正規盤をはるかに上回る音質で、とても70年以上も前の録音とは思えない。

2トラック、3センチ、オープンリール・テープからの復刻ということだが、オリジナル・マスターテープに限りなく近いものではないだろうか。

ダイナミックレンジが広く、楽器の分離も明瞭で、これまでのヴェールを被ったようなモヤモヤがきれいに取り払われ、クナッパーツブッシュの深い呼吸が生み出すスケールの大きさに改めて驚かされる。

『ワルキューレ』は『指環』四部作中でも最も優れた作品とされるもので、上演回数も多く、レコードも名指揮者たちの名演が多数出ている。

しかしクナッパーツブッシュの解釈はそれらに対して言わば別格的な存在である。

前奏曲だけを比較しても判る通り、ここには骨の髄までワーグナーを理解し、楽劇の美を極め尽くした指揮者の表現がある。

表情の幅も大きく、内面的な美しさを雄大に表現して行く解釈は、まったくワーグナーにその生涯を打ち込んだ人でなければ実現不可能であろう。

デッカは1950年代半ばからフラグスタートと専属契約し、彼女をブリュンヒルデ役に起用して『ワルキューレ』をレコーディングしようとした。

フラグスタートは第3幕と第2幕の一部を録音したが、それだけでなくジークリンデを歌うことを強く希望し、そこで行なわれたのがこの録音である。

第3幕などの録音とは区別するために、あえて指揮者はショルティからクナッパーツブッシュに交代した。

クナッパーツブッシュはデッカのプロデューサー、カルショウたちによるステレオの特性を活かした演出などには興味を示さず非協力的だったが、ウィーン・フィルからは篤く信頼されていたそうで、ここでも美しい音色を引き出している。

またこのディスクは『ワルキューレ』第1幕だけであるが、これをもって中途半端なレコードと難ずるのは不当である。

なぜならこの第1幕はジークムントとジークリンデの愛の主題として、内容は最高度に充実しており、全体にもよくまとまり、これだけ引き離しても充分に聴き応えがあるからである。

それどころか評家によってはこの第1幕こそワーグナー全作品を通じて最も美しい音楽であるとする人もある位で、密度の濃い、手法の円熟した傑作である。

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classicalmusic at 08:50コメント(0)ワーグナークナッパーツブッシュ 

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膨大なレパートリーを持ち、そのすべてを徹底的に解釈し尽くし、完璧な発声で克明に歌いあげたフィッシャー=ディースカウは、ドイツ歌曲史上に巨大な足跡を残した歌い手として有名な存在だった。

精力的に行われたリサイタルのほか、大量のレコーディングも残しており、さらに声楽大作やオペラ、古楽でも大活躍し、一時は指揮まで手掛けていたので、その才能はまさに偉大というほかない。

この11枚組のボックス・セットは、彼の若き日のEMIへのドイツ・リートの録音が網羅されている。

特にドイツ歌曲レコーディングから名唱として評価の高いものがCD10枚に渡って選りすぐられており、シューベルト、シューマン、ブラームス、マーラー、ヴォルフ、R.シュトラウス、レーヴェ、メンデルスゾーン、ワーグナー、リスト、コルネリウスの作品を味わうことができる。

この当セットと並んでドイツ・グラモフォンからもフィッシャー=ディースカウのシューベルト歌曲全集が21枚組のセットでリリースされ、彼の広範囲に及ぶ歌唱芸術のエッセンスを廉価盤でより身近に親しめるようになったことは評価したい。

しかも伴奏の殆どは、ジェラルド・ムーアが息の合った巧妙なサポートを聴かせてくれる。

それは伴奏を芸術の領域に引き上げたとされるムーア自身の至芸でもある。

一方『さすらう若人の歌』をはじめとするマーラーの曲集では、ダニエル・バレンボイムの斬新かつ華麗なピアノも聴き逃せない。

これらの録音は1951年から78年にかけて行われ、リリースされた当初から既に評価の高かったものだ。

何と言ってもフィッシャー=ディースカウの精緻で自由闊達な表現力と若々しい声の魅力が身上だろう。

シューベルトの3大歌曲集の中でも『美しき水車小屋の娘』は彼自身のナレーションによるプロローグとエピローグが付いていて、語り手としての絶妙なエンターテイメントも披露している。

最後のCDでの彼の85歳の誕生記念として公開された2つのインタビューも興味深い。

またこのCDにはPDFファイルによる、セットに収められた総ての曲の歌詞を見る事もできるし、ごく一部を除いて英語対訳が付いているのも良心的だ。

尚このセットにはおそらく流通経路が原因と思われる店舗による大幅な価格差があることも指摘しておく。

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classicalmusic at 00:14コメント(0)F=ディースカウ 

2019年05月28日


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独プロフィールの発掘音源シリーズにアンドレ・ナヴァラ(1911-88)が加わった。

フランスの往年のチェリストの中でもとりわけそのパッショネイトな演奏が魅力的なアンドレ・ナヴァラのオーケストラとの協演を中心に選曲されていて、どの曲も芯のある力強い奏法から大胆不敵で豪快なメッセージが伝わってくる。

1941年から84年までのかなり広範囲に亘る時代のの録音で、彼のパッショネイトで力強い演奏が堪能できる10枚だが、CD7-9のエリカ・キルヒャー伴奏による小品集以外は総てモノラル音源で音質も時代相応といったところだ。

せめてバッハの無伴奏を入れて欲しかったが、版権の関係からか収録されていない。

アンドレ・ナヴァラは、フルニエ、ジャンドロンと並び、フランス3大チェリストと称されている。

若い頃、カール・フレッシュにヴァイオリンを師事したこともあるというナヴァラは、一方でミドル級のボクサー、水泳選手としても活躍したことのある本格的なスポーツマンでもあり、その豊かな経験からくる抜群の運動性を備えた情熱的で深い味わいを持つ演奏は、独特の魅力を放っている。

ロマンティックで詩的な表現力を持ちながらも、スケール大きなボウイングで豊かな音楽をたっぷりと聴かせるその演奏はまさに巨匠芸の極み。

そんなフランス風の洗練にあふれながらも骨太で力強い芸風に、日本でも人気が衰えることのない巨匠だ。

ナヴァラの十八番だったハイドンやドヴォルザークの協奏曲はもちろん見事ながら、バルビローリ&ハレ管と共演したエルガーの情念はデュ・プレに匹敵する。

またシューマンはクリュイタンス、ハチャトゥリヤンとブルッフはデルヴォー、ラロはフルネという往年のフランスの大指揮者がバックを務めているのも魅力だ。

最後の小品集が白眉で、満身の感情を込めて歌い、心打たれるし、名ピアニスト、ジャン・ユボーとの味わい深い演奏を楽しめる。

このように2019年現在流通されていない音源が目白押しだが、入門者には先ずフォンダメンタからのオフィシャル盤6枚組かスプラフォンの5枚組をお薦めしたい。

 

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classicalmusic at 13:56コメント(0)エルガーハイドン 

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ソリスト、指揮者、オーケストラすべてが初顔合わせながら、驚くほど雰囲気豊かで白熱した演奏だ。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の第1楽章からガヴリーロフの音は明快、爽快で若々しく、鮮やかなテクニックは現代的ピアニズムの極致をみせる。

アシュケナージはひとつひとつのフレーズに細やかな表情を与え、ベルリン・フィルもその解釈に見事に対応している。

ある楽器のヴィルトゥオーゾがいつの間にか指揮にも手をそめ、そのうちには指揮者としての名声が不動のものとなった例を我々はすぐにいくつか思い浮かべることができる。

ヴラディーミル・アシュケナージもそのうちのひとりだ。

指揮者としてのキャリアは、はじめのうちから必ずしも芳しいものではなかったと記憶しているが、このごろはそれほどでもない。

そう、ピアノとオーケストラの作品を、あるいはかつてソリストとして演奏したこともあるかもしれない作品を、今度はソロの側でなく、あくまでそれと競演する立場から指揮をする、というのはアシュケナージの場合、どんな気分でいるのだろうか。

それもここでとりあげるのは、泰西名曲の最たるチャイコフスキーのピアノ協奏曲なのだ。

ソリストとして、一体それだけ演奏しているかわからない作品を今度は違う側からアプローチをする、ということ。

だからこのCDを聴く面白さは、ソリストのガヴリーロフのことよりも、全体としてアシュケナージがどう全体をまとめているかにある。

自分がソリストとしてこの作品を演奏したときに技術的・心理的にオーケストラがここでこういう風になってくれたらよかったのに、ということも多々あったと思うのだ。

それを、実際に自分が指揮台に立ったとき、自らの体験を踏まえてやってみる、というのがアシュケナージの意図としてはあったのではなかったか。

もちろん、この曲のイメージというのはかなりはっきりとかたまっているから一瞬一瞬が新鮮に響くなどということは期待できないし、事実ない。

だが、部分的にこんなところをこんなテンポでやってみる、とか、ほかにもいろいろなニュアンスなどにも気をつかっているのがときとして耳新しくないこともないが、それ以上にここでのオーケストラの扱いはアシュケナージがソリストにとってのすべてを知ったうえで「指揮」をしている。

かつてソリストとして期待していたものが果たされずそれを「いま=ここ」にいるソリストに対して報いているように響くのだ。

ガヴリーロフはこの大曲にちりばめてある甘美なメロディを歌うことにこそ専念しており、また、カデンツァでも音の大きさや速弾きよりは音色のコントロールに重きを置いている。

だから、チャイコフスキーのピアノ協奏曲のもっている、作品そのもののもっている良さを聴き取るためならば、ためらわずにガヴリーロフ/アシュケナージ盤を択ぶべきである。

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classicalmusic at 03:01コメント(0)チャイコフスキーアシュケナージ 

2019年05月27日


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2011年のマーラー生誕150周年、そして没後100年を記念した限定ボックス・セットで、現存する彼の真作を網羅した18枚のCDで構成されている。

こうした全集物では、その会社と契約しているアーティストしか登場しないために、いきおい演奏者が偏向的になりがちだが、このセットで特徴的なのは総ての交響曲に異なった指揮者とオーケストラを配分して、各曲の代表的な演奏が鑑賞できるという趣向だ。

また今回もグラモフォンだけでなく、傘下のフィリップスやデッカの音源も採用されている。

勿論録音時期も方式も若干違うので、その点では統一性を欠いているのも事実だが、マーラーのようにそれぞれの曲に多彩な個性を与えた作曲家の作品には、むしろこうした八方美人的な企画が功を奏している。

これからマーラーを聴き始める人にとってはコスト・パフォーマンスが高いことも手伝って格好のサンプルになるだろう。

また一部には既に生産中止になっているCDも含まれているので、一家言あるマーラー・ファンにも充分支持されるべき内容だろう。

ちなみにワーナーからリリースされている16枚組のコンプリート・ワークスと比べてみると、演奏者の違いは言うに及ばないが、演奏水準の高さにおいては当セットに勝るとも劣らない内容を持っている。

ただワーナーのほうはどちらかというと歴史的名録音が多く、そのせいで音源も1940年代から70年代のものが中核をなしている。

一方こちらでは一番古いもので1966年のハイティンク、コンセルトヘボウによる第3番で、当然ステレオ録音。

更にはワーナーには欠けているピエール・ブーレーズとシカゴ交響楽団による交響曲第2番の初稿に当たる交響詩『葬礼』、及びウェーバーのオペラ『3人のピント』からマーラーが補完した間奏曲をプレトニョフ指揮のロシア・ナショナル管弦楽団の演奏で聴くことができる。

ワーナーでは歌詞対訳が総てCDに収録されているのに対し、グラモフォンのブックレットには写真と曲目紹介があるだけで、対訳その他は省略されている。

どちらも一長一短あるので、どれを選択するかは鑑賞する方のコンセプト次第ということになるだろう。

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classicalmusic at 15:05コメント(0)マーラー 

2019年05月26日


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ハインツ・レーグナーが1982年から翌83年にかけてベルリン放送交響楽団を指揮したベートーヴェン序曲全集のリイシュー盤で、当時のドイツ・シャルプラッテン音源を2枚のCDに纏めたものだ。

西側のオーケストラのような垢抜けたスマートでスペクタクルな演奏とは言えないが、彼の堅実な音楽の構築と愚直とも思えるテンポ設定や楽器法から鳴り響くパワフルなオーケストラが、本来の極めてドイツ的で質実剛健な音響を創り上げていることは確かだ。

この時代の旧東ドイツのオーケストラ特有のサウンドは団員のグローバル化と共に現在次第に失われつつあるが、このCDを聴いていると、まだこの時期には彼らの伝統が健在であったことが証明されている。

アバドがほぼ同時期にウィーン・フィルを振った同序曲集と聴き比べると、その鮮やかな違いに驚かされるが、レーグナーの演奏にはベートーヴェン気質の力強さとある種の朴訥さを髣髴とさせるものがある。

ベートーヴェンは生涯にたった1曲のオペラしか作曲しなかったが、改訂版や異なった劇場での初演のために都合4曲の序曲を用意している。

またその他の劇場作品の付随音楽や特別の機会のための序曲を合わせると11曲になり、その総てがここに収録されている。

この2枚組は2011年に初めてCD化された時のリマスタリング盤だが、録音会場となったベルリン放送局SRKホールの残響がやや過剰という印象があり、これはオリジナル・マスターに由来するものと思われる。

ただし音質は良好で、左右へのワイドな音場が感知され臨場感にも不足していない。

10ページほどのライナー・ノーツにそれぞれの曲についての簡易な日本語解説付。

ところで筆者はレーグナーが読売日本交響楽団を指揮してベートーヴェンの「第9」の実演に接したことがあるが、彼のスタイルは、このCDとは異なり、大いに戸惑った覚えがある。

彼は「第9」を振りながら少しも力まず、最強音は中強音、弱音は最弱音というように音量を抑え、きれいな音色で、さながらモーツァルトのようなベートーヴェンを描き出してみせたのである。

しかも、ユニークなのは全曲にいくつかの山があり、そのクライマックスでは余力を十二分に残した指揮者とオーケストラが、肌に粟粒を生じさせるほどの凄絶なフォルティッシモを轟かせたことである。

レーグナーのオーケストラに対する統率力には抜群のものがあり、読売日本交響楽団がいかにしなやかで緻密な音色とアンサンブルを獲得したのは周知の通りだ。

やがて彼は、乞われて同楽団の常任指揮者となり、やっとその芸風の全貌が示されるようになった。

すなわち、彼は前述の「第9」にみられるように、スケールの小さい、短距離のフレージングを持った、軽やかな音楽を奏でる人で、舞台姿や指揮ぶりもそのことを如実に物語っていたのである。

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classicalmusic at 20:07コメント(0)ベートーヴェン 

2019年05月25日


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2016年亡くなったカナダのテノール、ジョン・ヴィッカーズのワーナーからの追悼盤になる。

彼がそのキャリアの晩年1983年にパリのサル・ワグラムでセッション録音したシューベルトの『冬の旅』全曲と、CD2には1998年にロンドン・バービカン・センター・シネマで催されたジョン・トランスキーとの聴衆を前にしたトークショー・ライヴが収録されている。

『冬の旅』は、以前発売されていたシューベルト50枚組ボックスには収められていたものの、単独発売は無かっただけに、今回、ジョン・トランスキーによるインタビューも含めた形での追悼企画は歓迎されるところだ。

シューベルトはジェフリー・パーソンズの伴奏でヴィッカーズの声には合った選曲だと思えるし、まだ衰えていなかった巧みなコントロールを効かせて孤高の境地を演出しているが、表現やテンポの変化にやや大時代的な趣味が感じられる。

その点ではむしろVAiミュージックからリリースされているシューマンの『詩人の恋』の方が彼らしいロマンティシズムの表出と自由闊達な演奏に好感が持てる。

やはりヴィッカーズはオペラの舞台でこそ本領を発揮した歌手なのだろう。

しかしパーソンズのピアノは流石にそつなく歌唱を支えるだけでなく、彼の感性に寄り添った伴奏で全体的には質の高いセッションに仕上がっている。

ヴィッカーズの『冬の旅』と言えば、この3か月後に録音されたライヴ盤がかつて知られていたが、そちらは観客ノイズが大きすぎるなどの問題もあったので、音の良いセッション録音の方に分があると思われる。

2枚目のトークショーではヴィッカースのキャリアと彼が取り組んだ作品への解釈などがユーモアを交えて語られている。

インタビュアー、ジョン・トランスキーの質問に答える形でトラック3ではクレンペラーの指揮したベートーヴェンの『フィデリオ』について、5ではワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』、更に6ではブリテンの『ピーター・グライムス』など折に触れて実際の演奏を挟みながらヴィッカースの歌唱のテクニックを探ることができる興味深い構成になっている。

彼はテノール歌手としては決して華やかな存在ではなかったが、クレンペラーやカラヤンからも一目置かれ、母国語以外の作品も自在にこなしたオールマイティーな才能を持った実力派の歌手であったことに異論を挟む余地はないだろう。

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classicalmusic at 21:21コメント(0)シューベルト 

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このアルバムを鑑賞して先ず印象に残るのは音質に優れている点で、教会内の潤沢な残響を含んだ広い音場の中にそれぞれの楽器の定位、楽器同士の独立性やバランス、そして奥行きまでが手に取るように感知できる。

あたかも奏者達が目の前で演奏しているような生々しい臨場感が得られているが、あくまでも自然なサウンドが保たれているのが特徴だ。

またピリオド・アンサンブルでは古楽器特有の繊細で個性的な音色を明瞭に捉えることが課題になるが、レギュラー・フォーマットのCDでもこれだけの音質の再生が可能であることを示したアルファ・クラシックスの録音技術に拘った企画が注目される。

このCDにはジョヴァンニ・アントニーニのリコーダー・ソロによるオットテールの短いプレリュードからアタッカで導かれるテレマンの組曲イ短調を中心にクラリネットの先祖シャリュモーのためのソナタなど5曲が収録されている。

笛のためのバロック組曲と言えば、当時のフランスやドイツの宮廷でもてはやされたトラヴェルソをソロに取り入れた、バッハの管弦楽組曲第2番ロ短調が良く知られたところだが、テレマンの組曲イ短調はその調性と音域から通常リコーダーで演奏されている。

ジェド・ヴェンツがムジカ・アド・レーヌムとトラヴェルソで演奏したのはむしろ稀なサンプルだろう。

アントニーニのリコーダーはテレマンの音楽の本質的な要素、つまり演奏することとそれを聴くことの楽しみを理屈抜きで堪能させてくれる。

屈託のない娯楽性と言ってしまえばそれまでだが、そのためには作曲家の楽器の特性を熟知して最大限に活かすアイデアと創意工夫がある。

演奏者にはそれを実現する巧みな表現力とテクニックが要求されるので、作品の品位を保ちながらも良い意味でのパフォーマンスが欠かせない。

こうした曲集を聴いていると、当時テレマンが作曲家として大バッハよりも庶民的な高い人気を誇っていたことも想像に難くない。

アンサンブルはイル・ジャルディーノ・アルモニコのメンバー7人で、このうち通奏低音にはヴィオローネのほかにチェンバロと大型のリュート、テオルボが加わって彼らの手馴れた即興演奏もテレマンの音楽をより活性化している。

尚メンバー全員の使用楽器はライナー・ノーツに明記されている。ピッチは現代よりほぼ半音ほど低いa'=415Hzのいわゆるスタンダード・バロック・ピッチ。

アントニーニとイル・ジャルディーノ・アルモニコは2014年からハイドンの交響曲全集の制作を企画して目下のところ既に同アルファ・クラシックスから続々リリースされ、録音作業は順調にはかどっているように見える。

完成はハイドン生誕300周年に当たる2032年だが、このCDはその大事業が開始される直前に録音されている。

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classicalmusic at 00:00コメント(0)テレマンヴェンツ 

2019年05月23日


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ヴェンツの1回目のフルート・ソナタ全曲録音が1991年で、それから18年後、彼が48歳になった2008年にこのソナタ集の再録音が行われた。

前回は偽作を含むソナタ7曲が勢揃いしていたが、今回は真作4曲と無伴奏パルティータ、それにトリオ・ソナタとして知られているBWV1038、1039及び『音楽の捧げ物』を加えてバッハの作品により忠実なプログラムになっている。

前回と異なる点は先ず使用楽器がパランカではなく、ブレッサン、オーバーレンダー、ウェイネの3種類のモデルを使い分けていることだ。

パランカはかなり機能的なトラヴェルソだが、むしろバッハ以降の音楽に適しているので今回の楽器の選択は時代の要求に適ったものと言える。

次にテンポの設定についてはテクニックに任せて吹きまくっていた30代の頃よりやや遅めになって音楽に余裕を持って取り組んでいる姿勢が窺われる。

バッハはいわゆる名人芸が聴衆の心を強く捉えることを充分に心得ていて、それを自分の作品に効果的に取り入れる一方で彼はその弊害も熟知していた。

つまり技巧を優先させると往々にして音楽性が二の次になるという明らかな現象であり、彼はそれを完璧に避けた。

当時カストラートの超絶技巧歌唱が全盛を極めていたイタリア・オペラにバッハが手を染めなかったのは偶然ではない。

トラヴェルソ奏者としてのヴェンツの豊かな音楽性や優れた表現力は、ヘンデルやブラヴェのソナタ集で顕著だが、前回に限って言えば速すぎるテンポ設定のために技巧が前面に出て、バッハ特有の深い音楽的な味わいが薄らいでしまっていた。

これを正当化するために彼は前回のCDの解説書とアメリカのニュースレター誌トラヴェルソに小論文を掲載している。

今回も大曲ロ短調ソナタの終曲ジーグは相変わず誰よりも速く、曲の始めから既に速いテンポを採っていて、殆どアクロバット的な超絶技巧曲のようだ。

つまりヴェンツはバッハが記した拍子記号と当時の習慣的な記譜法から曲の速度を割り出したようなのだ。

またこの時代の作曲家たちが絶対的な速度感ではなく、相対的にテンポを考えていたことを認めながら、メルツェルに先立って1696年に既にエチエンヌ・ルリエがメトロノームを製作していたことも指摘している。

彼はやはりヴィルトゥオジティを通した高い音楽性の実現を試みているのだろう。

彼の師クイケンの演奏をクラシックでアポロン的な表現とするなら、ヴェンツのそれはデュオニュソス的であり、様々な楽器を繰り出して聴かせる音色の変化に加え、アーティキュレーションも自在かつ多彩だ。

尚前回より楽譜には忠実で、リピートも省略していないため無伴奏パルティータ、アルマンドの最後の超高音aも2回吹いているし、サラバンドの反復部分の任意装飾も興味深い。

ピッチはa=415に統一されている。

このCDはブリリアント・レーベルの廉価盤だが勿論オリジナル・リリースで音質は非常に良く、トラヴェルソ特有の暖かみのある陰影を含んだ音色や、ボルフステーデの弾くルッカース・モデルのチェンバロの芯のあるふくよかな音質が良く再現されている。

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classicalmusic at 19:37コメント(0)バッハヴェンツ 

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テレマンが1737年のパリ旅行中にブラヴェやギニヨンら当時の名手によって演奏され、出版された『新四重奏曲』及び以前ハンブルクで出版されたものの、1736年になってパリで再版された《クヮドリ》の12曲が収録されている。

俗にパリに因むためにパリ四重奏曲集と呼ばれる傑作であるが、ここではクイケン兄弟の揃い踏みにグスタフ・レオンハルトの通奏低音が加わった古楽の重鎮によるアンサンブルの妙味で愉しむことができる。

かつてレオンハルトにはブリュッヘン、ビルスマらが共演した録音があったが、それから30数年を経てクイケン兄弟とともに新たに録音し直したディスクがこれである。

個々の奏者の練達の技と心と優れた趣味による稀にみる名演である。

明快かつ雄弁な音楽的アイディアと互いに交わしあう音楽的対話の生き生きとしたスピリットは本当に素晴らしい。

チェンバロのレオンハルトがアンサンブルの要を押さえているのは確実だが、ソリスト3人のそれぞれのパートの演奏の巧みさと自在な掛け合いが絶妙なバランスを保っている美しさは他の追随を許さない。

またa=396に調律されたバロック室内楽特有の典雅な響きも、この曲集を一層深みのあるものにしている。

落ち着いた渋い音色を基調に繰り広げられる可憐な音楽世界はあくまで自然体で、力んだり奇を衒うことは全くないのだが、その圧倒的な音楽の力に心を奪われてしまう。

三男バルトールドが使用しているトラヴェルソはI.H.ロッテンブルク・モデルで高貴で華やかな音色が弦楽にも良く馴染んでいて秀逸。

一般的にテレマンの音楽では喜遊性が支配的だが、パリ・カルテットのような高度なアンサンブル作品では、作曲技法も非常に凝っていて、音楽性の充実がひときわ抜きん出ている。

通奏低音からガンバを独立させているのもその一例だ。

彼らのように細かな感情の機微も疎かにしない自由闊達な演奏はそうざらには聴けないし、このメンバーで全曲録音をしたことに感謝したい。

鮮明な音質でかつ楽器ごとの分離状態の理想的なソニーの録音技術の良さも特筆される。

テレマンには、この楽器の組み合わせ以外にも、様々なな編成の楽曲を残しているが、このアルバムさえあれば、テレマンの清々しい曲想やバロックの愉しさを体験できるだろう。

それは、ここに集ったレオンハルトとクイケン兄弟という古楽の重鎮たちの息の合った演奏によるところが大きい。

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classicalmusic at 01:45コメント(0)レオンハルトクイケン 

2019年05月22日


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シューベルトのピアノ五重奏曲『ます』の演奏では、大概弦楽四重奏団のメンバーに著名なピアニストを配してエキストラのコントラバス奏者を加えるのが一般的だ。

ここではヴァイオリン・パートをグリュミオーが弾き、ヘブラーのピアノと相俟ってこの作品にひときわ薫り高い音楽性を聴かせてくれる。

グリュミオーは流石に巧く、またその甘美な音色でシューベルトの抒情の世界を具現しているのが魅力だが、他のメンバーと競い合うというアプローチではなく、ヘブラーと共にかなり抑制を効かせてアンサンブルの醍醐味を堪能させてくれる。

特に第4楽章のヴァリエーションでそれぞれが華やかなソロを弾く時も、決してスタンドプレイにならない細やかな合わせ技が絶妙だ。

ちなみにヴィオラがジョルジュ・ヤンツェル、チェロがエヴァ・ツァコ、そしてコントラバスがジャック・カゾランという顔ぶれだ。

イングリット・ヘブラーは、幾つかの録音でアンサンブル・ピアニストとしても非凡な腕を披露していて、ヴァイオリニストではシェリングとのベートーヴェンのソナタ全曲集とモーツァルトのソナタ選集はCD化されてそれぞれ4枚組でリリースされているが、グリュミオーとはこのディスクに収録された『ます』が唯一の共演になる。

いずれもモーツァルトのスペシャリストで、しかも彼らがフィリップスと契約していたことを考えると僅かに1曲だけ録音したのがシューベルトだったことは象徴的だ。

グリュミオーと組んだ替え難いピアニストはクララ・ハスキルだったことは疑いの余地もないが、ヘブラーとは演奏スタイルの相違があったことは確かだろう。

しかしこの演奏ではそうした違いを超えた音楽家同士の息の合った一期一会の共演が聴きどころだ。

カップリングのイタリア弦楽四重奏団のシューベルト『死と乙女』は1965年の旧盤(ヴィオラがファルテッリ)で、1976年の新盤よりも開放的なカンタービレが輝かしい。

音色は明るいが、強い表現意志の漲った重量感に富んだ演奏を聴いていると、運命の重圧にあえぐ巨人の熱い吐息を浴びるような思いがする。

第1楽章第2主題冒頭の動機や、第2楽章のコーダにみられる、憧れのムードとの対比のさせ方も、まさにベテランの芸だ。

彼らの引き締まったアンサンブルと円熟した語り口が曲のドラマティックな性格をじわじわと紡ぎだしてゆく名演だ。

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classicalmusic at 19:10コメント(0)ヘブラーグリュミオー 

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1980年代に入ってシェリングは録音活動から距離を取るようになったが、この81年の録音は、そんな活動晩期のシェリングの芸風を伝えている。

ヴァイオリンの第一声から、その引き込まれるような音色の美しさに魅了されるが,フレーズの微妙なニュアンスを掘り起こすというよりは、並べられている音を一音ずつはっきり演奏するスタイルになっている。

シェリング晩年特有の精緻でありながら、余裕たっぷりの歌いまわしと、ユゲット・ドレフュスの格調の高いチェンバロに支えられた気品に満ちた表現が、このソナタ集をひときわ価値の高いものにしている。

最後に置かれたコレッリのヴァイオリン・ソナタ『ラ・フォッリーア』は、それぞれのヴァリエーションの華やかさだけでなく、この曲の持つ可憐さをも表出し切っている。

また後半にはシェリング自身による長大で効果的なカデンツァが挿入されているが、バッハの無伴奏を聴いているかのような勢いで演奏されていて、聴いているとその迫力ある音の響きに圧倒されてしまう。

使用楽器はシェリングがストラディヴァリウス、ドレフュスがエムシュのコピーと思われるが、いずれも特有のコクのある、しかも明るい響きでヘンデルの演奏には相応しいものだろう。

録音は1981年11月にパリのエヴァンジェリク教会で行われ、豊かな残響を含んでいてアンサンブルがひときわ瑞々しく聴こえる。

録音及びマスターの保存状態が非常に良好でバロック音楽に造詣の深い2人ならではの演奏は、ヘンデルのヴァイオリン・ソナタ集の優れたサンプルのひとつとしてお薦めしたい。

オリジナル音源はドイツ・グラモフォンのマスター・テープだが、日本では当初学研のヴェリタス『ヴァイオリン教則大全集』附属の10枚組LP盤でしか市販されていなかった。

本盤はユニヴァーサル・ミュージックとタワー・レコードが2005年にユニヴァーサル・ヴィンテージ・コレクションとして初CD化してリリースしたもので、これはレギュラー・フォーマットだが限定盤SHM−CDも出ている。

シェリングについての伝記を読むと、謹厳、実直、規範的などという堅苦しい評価が並んでいることが多く、教科書的で面白味のない演奏をイメージしがちである。

しかし、このCDに記録されている演奏は、シェリングにしては珍しく、かなり自由に振舞っていると言えるだろう。

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classicalmusic at 14:54コメント(0)ヘンデルシェリング 

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ゆったりと流れるように始められた音楽から「この演奏はいつもとは違う、今日はどんなところに連れて行かれるのだろう」と、そんな予感のうちに自然に音楽に集中すると、時間の感覚を失い、ただひたすらにブルックナーの永遠に身をゆだね、神秘的な信仰告白を聴き、壮大なバロック時代の英雄崇拝の心地良さに浸りきった。

最初にこのレコードを聴いたときの印象は、いつものフルトヴェングラー体験とは、様相が大きく異なっていた。

演奏の凄さに度肝を抜かれたのはもちろんだが、やはり最後にこんなブルックナーに到達していたのかという思いと、これまで円熟を語られることのなかったフルトヴェングラーの、まさに晩熟を実感した。

今日この演奏が、フルトヴェングラーによるもので、そのオリジナルテープがウィーン・フィルのアルヒーフに存在する旨、トレミスが確認しているが、1982年のレコード発売以来、主にイギリスでの演奏の真偽をめぐって、多くの疑問が寄せられてきた。

それは演奏がフルトヴェングラーの「いつものスタイル」ではなかったから、つまり劇的な曲の進め方や、アゴーギクを強くきかせてアッチェレランドを辞さないというやり方で、ブルックナーになじみのない聴衆にもわかりやすいような、作品への架け橋として意図された演奏とは異なったものだったからである。

フルトヴェングラーの『音楽ノート』(白水社)によれば「正しい均衡を保ち『静力学的』に安定している楽曲は、決して法外な長さを必要としない。

法外に長い作品(ブルックナー)のシンフォニー楽章の再現部においては、自由奔放にして妥協点に欠ける造形が(・・・・・・)その欠点を暴露する。

ベートーヴェン、否ブラームスにもまだ見られた繰り返しが、ブルックナーにはもはや不可能である。(・・・・・・)

最初いくつかの楽章がしばしば再現部に見せる余白は、こうした状況から生じたものである」とかの発言が残されて、ベートーヴェンという峰を辿って、ブルックナーへと到達するというフルトヴェングラーの考え方が理解できるのではなかろうか。

この演奏会を実際に聴いたノヴァコフスキーの文章があるので、紹介させていただく(『フルトヴェングラーを語る』白水社)。

「ニコライ・コンサートでの演奏でした。(・・・・・・)年に一度の演奏会はウィーン音楽シーズンの頂点と言うべきもので、久しい以前からフルトヴェングラーの主催にゆだねられておりました。普通はベートーヴェンの『第9』を演奏するのが長い伝統になっていたしたが、(・・・・・・)ブルックナーの『第8』が選ばれることもありました(・・・・・・)このたびは、音楽の作り方が以前とは趣が変わっていました。アゴーギクに寄りかかった緊張が和らげられ、比類のない大きな瞑想のようでした。指揮者の姿はすべてを受容する献身の器としか思えませんでした。最後に到達した明澄と円熟の境地がここに忘れ難い最晩年の様式を生み出したのです。(・・・・・・)フィナーレの最後の響きがやむと、息を呑むような静寂が一瞬あたりを領します。やがて人々は席から立ち上がり、フルトヴェングラーとフィルハーモニーの楽員に喝采の嵐を送るのでした」

その後フルトヴェングラーはルツェルン音楽祭で、最後となったブルックナーの演奏(『第7番』)を行なっているが、それこそ「人々は魔法でもかけられたように、すわったっきりでしが。

エドウィン・フィッシャー、フルニエ、シュテフィ・ガイヤー、クーベリック、マイナルディ、ミュンヒンガー、その他多くの音楽家たちはほとんど試演のときから、もうそうでした。稀に見るほどに完璧な演奏でした。さながら冥界からの音信のようでした」。

最晩年のスタイルによる完成されたブルックナーだったのである。

その「冥界からの音信」のようなアダージョだけでも聴いてみたかったものである。

ブルックナーの受容状況は、今日大きく様変わりした。

原典への追従はやめて、ブルックナーの内面へと立ち向かおう。

きっとこの演奏にこそ、最高のブルックナーの『第8』を聴くであろう。

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classicalmusic at 03:04コメント(0)ブルックナーフルトヴェングラー 

2019年05月21日


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阿部謹也氏が他の著書でも繰り返して説明しているヨーロッパ賤民の成立とその経緯が、かなり詳しくまた広範囲の研究によって述べられている。

ヨーロッパという地域の文化にもう一歩深入りしたい方にお薦めしたい一冊だ。

八回に亘るレクチャーから起こされた文章なので、分かり易く丁寧に進められているのが特長で、彼の到達した結論とも言うべきヨーロッパに住む人々の根底にある宗教観や人間観が詳らかにされている。

著者はドイツから帰国した後『ハーメルンの笛吹き男』を発表したが、その時にはまだ賤民について充分な観察が為されていなかったと書いている。

留学中の古文書の閲覧の中で偶然見つけた1284年6月26日にハーメルンの町から130人の子供達が忽然といなくなったという記録自体ショッキングなものだったが、この記録には派手な衣装を纏った笛吹き男の姿は全く出てこない。

それは後の時代のメルヘン作家達によって作り上げられた象徴的な主人公だった。

ここでも繰り返し説明されているが、中世の人々の宇宙観は家や集落を中心として人間が制御できる小宇宙と大自然や森羅万象、病や死など人間が介入できない大宇宙のふたつだった。

その中間で生業を営む死刑執行人、墓掘り、定住しない放浪芸人などは特殊な能力を持った人として当初畏怖の念を持って見られていたが、キリスト教の徹底した布教によって、宇宙は全能の神が創造した唯一のものだという教えが広められ、これによって彼らの職業の権威が失墜してしまう。

その時彼らの仕事はただの汚れ仕事やうらぶれた旅芸人として畏怖が蔑みに変わり、差別の対象となったとしている。

だからこの時代には放浪芸人や辻音楽師などは賤視された差別民で、多くの子供達を連れ去った犯人を魔法を使う笛吹き男として表すのは都合の良いことだったに違いない。

ただし童話には教訓が必要なので、ハーメルンの町が鼠退治に雇った男に約束した謝礼を拒否したために、今度は子供達が笛の音につられて着いて行ってしまったという筋立てになっているのだが。

シャルル・マーニュ大帝はローマ法王から戴冠を受けた後、最も崇高な音楽は単旋律で斉唱されるグレゴリオ聖歌だとしてその他の庶民の間で演奏される、いわゆる世俗の音楽を退けた。

これも辻音楽師の差別に一役買っている。

村落の人々が祭りや宴会の時に呼ぶ放浪芸人の奏でる歌や踊りのため音楽は、魂を掻き立て興奮をもたらす悪魔の音楽だということになったからだ。

これはヒエロニムス・ボスの描いた幾つかの絵画にも表されていて、彼の大作『悦楽の園』の地獄ではハープやリュート、太鼓やクランクなどの周りで責め苛まれる群集が描かれている。

彼が後半でアルブレヒト・デューラーの項を設けて解説しているのも、阿部氏のこれまでの社会学的な視点で得られた成果と見做すことができるし、絵画の解釈にも新しい側面を拓いていると言えるだろう。

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classicalmusic at 00:00コメント(0)筆者のこと芸術に寄す 

2019年05月19日


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ショスタコーヴィチの15曲の交響曲の中で、最も数多く演奏され、幅広いファンを獲得しているのが第5番であるということは、それなりの理由があることも事実であろう。

楽譜には今もって疑問を残すところがあるとしても、こうした位置に置かれる作品には、当然のことながら数多くのレコーディングも生まれているし、その中に心ひかれるものがいくつかあっても不思議ではない。

バーンスタインが1959年に、音楽監督に就任したばかりのニューヨーク・フィルと録音したこの演奏もそのひとつと言えるし、その後1979年にも、この顔合わせが来日した際の東京文化会館でのライヴがあるが、その双方が今もって高い評価を得続けている。

そのいずれをとるかは、その条件の違いをどう受け止めるかによって異なろうが、バーンスタインにとって、このベートーヴェンの第5交響曲にも相通ずるような“苦悩を突き抜けて歓喜へ”の理念を思わせるような作品への共感が、より率直に表出されていたのは、この最初の録音であるかも知れない。

ただ今回SACDハイブリッド盤で改めて聴いてみると、この演奏のインパクトの強さ、とりわけフィナーレの異様なまでの激しさは、バーンスタインが直感的に、この曲が単純な勝利の音楽ではないことをいち早く見抜いていた証ともとれるし、彼は時代を先取りしていたのだとも思える。

41歳という年齢的な若さもさることながら、演奏には覇気の迸りや気迫のこもった英気が滲み出ているのが容易に見てとれる。

それは、彼が実質的にまだ若かったということなのであろうが、オーケストラとの間の緊張感も含めて、その演奏にはライヴに匹敵するような強い気迫が感じられる。

この第5番はその代表的なものだが、彼の得意演目であったこともあって、冒頭から高いテンションの演奏が展開されている。

時として粗削りな表現がむき出しになってしまうところもあるが、表現力はかえって増すようにさえ思える。

その響きは、そうした面を反映してか、多少粗野なところもないではないが、そこに自己の音楽を自在に飛翔させ、新たな未来を見据えたようなその演奏は、聴く者に新鮮な感動と希望をもたらしてくれる。

ムラヴィンスキーの峻厳なイメージとは異なり、解釈は自在で溌剌とした気風に満ちており、いつ聴いても新鮮な感動と興奮を覚えさせる名演である。

まだショスタコーヴィチのもろもろの真実についてとやかく言われていなかったあの時代に、いち早くただならぬ問題提起をした、バーンスタインの本能的な洞察力に脱帽する。

カップリングされているコープランドの《ビリー・ザ・キッド》はニューヨークで生まれたが、育ったのはニューメキシコで、どちらの風土が彼により影響しているかはわかりにくいが、コープランドの創造したキッドは、凶悪な行状描写よりは、詩人が草原で夢想しているといった風貌に近い。

「ガン・バトル」のシーンも命がけで闘っているというよりは、バレエ音楽を意識し、ユーモラスなダンスを楽しんでいるといった印象だ。

おそらく彼はキッドに芸術家的なテンペラメントを見て、そんな要素を拡大しようとしたのだろう。

バーンスタインはそれを洞察し、抑制の効いたポエジー溢れる演奏を示している。

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classicalmusic at 14:03コメント(0)バーンスタインショスタコーヴィチ 

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ブルガリアからは伝統的に多くの名歌手が輩出しているが、とりわけバス歌手には逸材が多い。

ボリス・クリストフの後を継いでニコライ・ギャウロフが出ているし、更にニコラ・ギュゼレフが続いている。

ボリス・クリストフは実際に舞台を観ることができなかった歌手の1人だが、多くの録音を通して彼の歌唱に触れ、感動したことが思い出される。

彼は若い頃からオペラだけでなく、ムソルグスキーを始めとする広いロシア歌曲のレパートリーを持っていて、過去にEMIからリリースされたLP盤のセット物をコレクションとして持っていたが、先般それらの音源がイコン・シリーズのひとつとして11枚のCDにまとめられ廉価盤化された。

活動の時期はモノーラルからステレオの移行期にあたり、20世紀を代表する大歌手の芸術を偲ぶアルバムとして評価したい。

クリストフの声はどちらかと言うとアクの強い、特有のスラヴ臭さがあって、イタリア・オペラに関しては演目によっては適さない役柄もあったが、声楽的なテクニックの面では非常に巧みでしかも芸達者だったために、はまり役では絶大な威力を発揮した。

彼が参加したオペラの全曲盤も数多く出ていて、その中には勿論イタリアやフランス・オペラにおいても優れた演技で魅了した役が少なくないが、バスが主役になるのは圧倒的にロシア物が多く、このセットでもいきおいそうした演目やロシア歌曲が中心となっている。

9枚目以降にその代表的なシーンがピックアップされていて、中でもクリュイタンスの振ったグノーの『ファウスト』やムソルグスキーの『ボリス・ゴドノフ』は圧巻だ。

前者ではメフィストフェレスの鬼気迫るデモーニッシュな声の演技が秀逸だし、後者では名高い『時計の場』で、かつてのシャリアピンを髣髴とさせる狂乱の場から、更に『ボリスの死』に至る迫真の歌唱が聴き所だ。

歌曲についてもやはりロシア物が大半を占めているが、当時としては1人のバス歌手が作曲家ごとにこれだけまとまったセッション録音を残すこと自体稀であり、改めて彼の実力に驚かざるを得ない。

その人気と実力がいかに絶大なものであったか、それはキュイやボロディン、リムスキー=コルサコフ、バラキレフ、グリンカなどの珍しい歌曲を録音していることによってもわかるが、ムソルグスキーの歌曲を演奏しては右に出るものはなく、例えば『蚤の歌』は絶品だ。

ロシア的な情念に纏綿と溺れることなく、それを明晰な形として提出しえた解釈の的確さ、集中力の深さは今日でもまだ模範とするに足る。

それは後にフィッシャー=ディースカウが、ドイツ・リート制覇に乗り出す前哨戦になったと言えるほどだ。

クリストフは生涯を通じて舞台芸術に生命を賭けた歌手なので、曲によってはその歌唱がくどく感じられることもあるが、低い声の持ち主にしては恐ろしく多彩な表現力を縦横に駆使している。

特に映像的な印象を与える『ヴォルガの舟歌』を始めとする黒光りのするようなロシア民謡は一聴に値する。

1949年から67年にかけての録音で音質に多少ばらつきがあるが、いずれもクリストフの声は良好に捉えられている。

ただし廉価盤の宿命でライナー・ノーツに歌詞対訳が付いていないのが残念だ。

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classicalmusic at 00:06コメント(0)ムソルグスキークリュイタンス 

2019年05月18日


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どのようなジャンルの曲を歌わせても、常に一流の芸を披露せずにはいなかったチェーザレ・シエピのプロフェッショナルな器用さを示した1枚で、先般復活したコール・ポーター・ミュージカル集に続いてリニューアルされた1961年の懐かしい音源だ。

しかし彼の声の深い響きと品の良い趣味には特有の味わいと説得力があり、またその表現力の幅広さに改めて驚かされる。

シエピがオペラで聴かせた登場人物の威厳や苦悩などはすっかり忘れさせてしまうくらい彼自身もリラックスして歌っているのが感じられる。

それは彼が巷の歌を見下したり侮っていたわけではなく、むしろオペラや芸術歌曲にも通じる共通の歌心を見出して、ひとつひとつの小品に愛情を込めて歌ったからではないだろうか。

それだけにこの音源は貴重で、際物的なレパートリーではあってもシエピを知る世代としてCDでの復活を喜びたい。

当時30代後半のシエピは既に20年の輝かしいキャリアを築いていたが、オペラの全曲演奏でも度々共演していたレナータ・テバルディも回想しているように、愛煙家であったためであろうか、この時点で高音域における僅かな翳りが聴き取れる。

しかし、その声の魅力と歌の巧さは他の誰からも聴く事の出来ないもので、冒頭の2曲から、イタリアの粋な香りに魅了されてしまう。

本当に持ち声の低い人(彼は低いCを豊かに響かせることが出来た)が高く甘い声でこのように歌えると、惚れ惚れとさせられる。

有名な「フニクリ・フニクラ」を、この人は何と色気たっぷりに鮮やかに料理してしまうのだろう。

囁きかけるように、そして情熱的に歌われる「I' te vurria vasa`(あなたのくちづけを)」。

しかしながら、「Nun me sceta`(起こさないで)」の鼻歌の如く消え入る結びはまさに、現代の舞台から消えてしまった漆黒のバスの響きである。

ロシア民謡であればバス歌手独壇場の世界が展開されるが、イタリアのカンツォーネは輝かしいテノールをイメージして作曲されたものが圧倒的に多く、こうしたレパートリーを低い声の歌手に歌わせるという企画自体かなり稀なことだ。

カンツォーネの指揮はディーノ・ディ・ステファノだが、オーケストラ及びコーラスの名称は記載されていない。

歴としたステレオ録音で、12曲目の『ティリトンバ』ではステレオ効果を使った遊びが入っているが、当時はこうしたテクニックが物珍しく、鑑賞者を楽しませたに違いない。

尚このCDの余白を埋めるボーナス・トラックは、前回のミュージカル・ソング集の後半に収めた同モノラル音源のアリア集から、入りきらなかった4曲をカップリングしたもので、この2枚のCDで更にLP1枚分のアリア集をカバーしたことになる。

それらとは別に1955年のエレーデ指揮、サンタ・チェチーリアとのセッションになるモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』からの「カタログの歌」が花を添えていて、持ち役ではなかったレポレロのアリアを、優雅な中にもユーモアを込めて見事に歌っている。

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classicalmusic at 15:25コメント(0)シエピ 

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ルドルフ・ケンペのオーケストラル・ワーク集は、ワーナーからのイコン・シリーズ11枚組もリリースされているが、中途半端にオペラ全曲盤からの抜粋をカップリングしたために統一感のないものになってしまった。

オペラに関してはケンペの振った多くの全曲盤が入手可能なので、そちらを鑑賞するに越したことはないだろう。

一方こちらの12枚にはオリジナリティーに富んだ彼のレパートリーが幅広く収録されているだけでなく、総ての音源は2002年にテスタメントが独自に新規リマスタリングしたものだ。

リマスターはクリュイタンス・ボックス同様、EMIのARTリマスタリングでもお馴染みのポール・ベイリーが担当している。

ベルリン・フィルとの『エロイカ』や『幻想交響曲』『新世界より』、ロイヤル・フィルとのブラームス第4番や『シェエラザード』、ウィーン・フィルとのワーグナーやJ.シュトラウス等々、ステレオ音源中心のラインナップは実に魅力的で、ケンペの音楽をより深く知るのに最適なセットと言えるだろう。

初CD化音源もモーツァルトやシューマン、ドヴォルザーク、コダーイ、メンデルスゾーンと総計14曲に及ぶヴォリューム感が嬉しいところだ。

1955年のフィルハーモニアとのモーツァルト『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』及び1957年のベルリン・フィルとのドヴォルザーク『スケルツォ・カプリッチョーソ』の2曲は、これまでモノラル盤でしか出ていなかった音源で、ステレオ・テイクを採用した初リリースであることが記載されている。

EMIの正規ステレオLP盤販売は1958年からだが、既に試験的な録音が開始されていた時のサンプルだろう。

共演のオーケストラもベルリン・フィル、ウィーン・フィル、バンベルクなど当時の西側のメジャー・オーケストラで、J.シュトラウスなどの小品やオペレッタの序曲集でも大胆なダイナミズムの中にも軽妙な味わいを出しているのが如何にもケンペらしい。

この12枚は個別売りでも購入できるが、テスタメント盤はミドル・プライス以上の価格なので箱物でのバジェット価格は評価できる(但し、この記事を書いている時点では価格が高騰しているのが残念)。

22ページのライナー・ノーツの殆んどが収録曲目のトラックリストと録音データに費やされているが、後半にケンペのキャリアと当時のHMVとのコラボが英文でかなり詳細に記載されている。

ちなみにケンペのオーケストラル・ワークを集めたセットでは最近スクリベンダムからブラームスやブルックナーの交響曲を収録した10枚組がリリースされたが、これは彼のコレクションとしては欠かせない素晴らしい演奏と良好な音質でお薦めしたい。

当テスタメント盤との収録曲目を比較してみると、曲目のだぶりはブラームスの第4番とドヴォルザークの『新世界より』の2曲だが、いずれも異なったオーケストラによる演奏なので実質的なだぶりはない。

その他特筆すべきセットは、シュターツカペレ・ドレスデンとのリヒャルト・シュトラウスの交響詩全集で、こちらも数年前に発見された保存状態の極めて良好なマスターからリマスタリングされた9枚組になる。

また同様のEMI音源のミュンヘン・フィルとのベートーヴェン交響曲全集の5枚組だが、こちらは既に廃盤になり、ばら売りでのリマスタリング盤が入手できる。

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classicalmusic at 07:08コメント(0)ケンペ 

2019年05月17日


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メロス弦楽四重奏団盤は1989年に結成25周年を記念として行われた録音で、『死と乙女』『ロザムンデ』いずれも2度目の録音になる。

前回の録音はドイツ・グラモフォンで1972−74年に全集として完成させたものに含まれていた。

ここに聴く再録音は、前回の全集と比較するとより柔軟性のある表現の上に構築された完成度の高いもので、メロス四重奏団のグループとしての成熟を物語っている。

メロス四重奏団の本領はリズム感とシャープな音の切れ味にあるが、その演奏がこの2曲に不可欠であることを証明したような演奏だ。

このカルテットの特徴は、内声の充実した厚い響きによる4人の均質なバランスと積極的な表現意欲の上に築かれる劇的な表現スタイルと言えよう。

この特色はベートーヴェンなどの場合に良く生きてくるが、シューベルトのような旋律の流れが重視される様式を持つ作曲家の場合は必ずしも良い結果を生むとは限らない。

実際、前回の全集の初期の作品群などでは、劇性を追求する余り、シューベルト独自の親しみやすい旋律の魅力が失われていた。

今回の録音では、厳しい集中力からもたらされる緊迫した表現という点では旧録音とも共通しているが、全体としては全4楽章をストレートに突き進む表現が重視されている。

特に『死と乙女』第1楽章の切れ味の良いエネルギッシュな表現は、この楽章にかつてないドラマ性を与えている。

精気に満ち、4人の響きが力強いエネルギーとなって作品のスケールを一段と大きく表現している。

第2楽章では、リート「死と乙女」の素材が増幅されて情念が爆発するのを見事に捉えているが、一方で静謐さと敬虔さを窺わせるような精神の深さも示す。

第3、第4楽章もドラマティックな勢いを失うことなく突き進むが、第4楽章は、勢い余ってアンサンブルが荒い部分があるのが唯一の欠点と言うべきか。

ここは、テンポを少し抑えてより精緻なアンサンブルを心がけてほしかったし、そうすれば、全曲を聴き終わった後の征服感がさらに大きかったと思う。

しかし、時にはバランスを崩しかけてまで一途でストレートなドラマを追求するメロス四重奏団の演奏は素晴らしい。

そして、今回は抒情的な歌謡旋律の魅力も余すことなく表出し全体を見事にまとめるのに成功しているのが旧録音と比べての大きな進歩と言えよう。

カップリングされている『ロザムンデ』四重奏曲も同じように見事な演奏だが、こちらは親しみやすさ、温かさといったリラックスしたニュアンスに不足しているのが気になる。

もちろん歌心は素晴らしく、第1楽章冒頭の美しさと微妙なデュナーミクを操ったニュアンスは見事の一言。

メロス四重奏団もこの2曲の曲想の違いを弾き分けようとしているが、あと一歩及ばない部分が残されている。

それでも全体としては名演と言うに相応しい高いレベルの演奏ではある。

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classicalmusic at 00:17コメント(0)シューベルト 

2019年05月15日


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カラヤンが1970年代前半に録音した『新ヴィーン楽派管弦楽曲集』は、全てカラヤンによる唯一のセッションで、各作品のイメージを一挙に刷新した演奏は、センセーショナルな趣があった。

これを機に、それまで現代音楽という枠の中に閉じ込められていた同作品群が、一般のコンサートやレコードのプログラムとして市民権を得、普及していったように思われる。

一種の市場開放の原動力となった、いわくつきのアルバムと言っても過言ではないだろう。

カラヤンにとってやや異色のレパートリーとも言えるこのアルバムは、彼が60歳代の半ばに、ベルリン・フィルの超高性能を総動員してレコーディングしたもの。

1972年から1974年にかけて行なわれた録音は、カラヤンにとっても絶好の時期を選んでのものと考えられる。

シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの不協和音や楽想をどのように処理するのかという疑念など杞憂であるかのように、演奏の完成度は高く、しかも美しい。

ある意味でポピュラー名曲とは対極にある20世紀(主として)作品を前に、こういうものだって完璧にできるのだという得意顔が目に浮かびそうだ。

ともあれ彼の演奏リストに、最高の完成度をもって加わることで、新ヴィーン楽派の音楽をにわかに古典のごとく錯覚させてしまうあたりがカラヤンの凄いところ。

何と言っても、カラヤンの美学がここでも徹頭徹尾貫かれているのが魅力で、ベルリン・フィルの潜在的な能力を導き出し、尚且つ今まで聴いたことのないような音響世界を創造していく。

アンサンブルは一糸の乱れもなく精緻に整えられ、細部まで透けて見えるがごとく鮮明な造型で描出される。

そして音楽の底流に流れるリリシズムを表層まで吸い上げ、満面に行き渡らせる。

こうしたカラヤンの完璧主義と美意識によって、同作品群のイメージはリフレッシュされたのである。

単に分析的に演奏するのではなく、個々の音楽のもつ、時代の香りをも明らかにして、陰影に富んだ演奏をきかせている。

濃厚なロマンティシズムを湛えた後期ロマン派風のシェーンベルクの《ペレアスとメリザンド》や《浄夜》など、甘美なリリシズムのしたたり落ちるような場面がことのほか美しい。

これらの作品でシェーンベルクを身近に引き寄せたかと思うと、ベルクのドラマティックな大作《管弦楽のための3つの小品》や《抒情組曲からの3つの楽章》では、白熱した演奏で有無を言わせず固有の世界に引きずり込んでしまう。

圧巻はヴェーベルンで、これほど美しく鳴り響くヴェーベルンは未だになく、《パッサカリア》の情熱、そして《交響曲》の深淵さ等々、筆舌に尽くし難い。

その中でも、本格的な十二音技法によるヴェーベルンの《交響曲》は、カラヤンの真価を見極める恰好の試金石と目されよう。

彼は、いわゆる現代音楽を専門とする演奏家とは全く違ったイメージに同作品を塗り替えてしまったからだ。

音色を艶やかに磨き、テクスチュアを清廉に立ち上がらせ、叙情的な雰囲気さえ漂わせる。

この演奏によって同作品が身近な存在になったことは疑いない。

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classicalmusic at 23:47コメント(0)カラヤンベルク 

2019年05月14日


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「交響曲ごとに作風が変わり新しい境地を拓いていった」という評価は、朝比奈隆がベートーヴェンの偉大さを語る決まり文句のようになっていた。

このことは、ベートーヴェンの9つの交響曲を1人の指揮者と1つのオーケストラのコンビで完璧に演奏することがいかに難しいかを物語っている。

事実、朝比奈だけでなく多くの指揮者がこの交響曲全集を手掛けてきたが、決定盤は未だ現われていないと言っても過言ではない。

現在のところ、全集録音の最多記録を誇る朝比奈が手兵大阪フィルと組んでDVD化された『最後のベートーヴェン交響曲全集』を視聴し、ますますこの感を強くした。

朝比奈は、永年にわたり関西を中心に指揮活動を行なう傍ら、壮年時代から度々ヨーロッパに足を運んで現地のオーケストラを指揮する活動を続けており、ベートーヴェンの解釈では本場のヨーロッパでも高い評価を受けていて、このDVDからも、その成果は十分窺い知ることができる。

しっかりした曲の構成、重要なパッセージでのテンポの運び、強弱を含めた1つ1つの音符の処理など、どれをとっても立派でさすがであり、それが最も遺憾なく発揮されているのが、第5番である。

オーケストラの演奏はベストではないのだが、盤を通じて指揮者の気魄がジーンと胸に迫ってくる名演奏である。

遅めに設定したテンポは、大阪フィルの音に質量感を与えることに成功しているが、その反面、一部のマッチングの悪い場所では、遅めのテンポが仇になって、間延びした感じになってしまっている(3番『英雄』1・4楽章、4番4楽章など)。

オーケストラの音色に注目すると、大阪フィルの各パートの音色は、どれをとっても華麗である。

比較的種類が少ない初期の交響曲においては、この音色がベートーヴェンの音楽美を引き出すのにプラスの作用をしている。

しかし4番以降、多くの楽器が重なるパッセージにおいては、旋律を受け持つ楽器の音色が不鮮明で、ベートーヴェンの特徴である各楽器がそれぞれに語りかけてくるような箇所では、旋律の説得力が弱められている。

さて、このDVDはライヴであるが、ライヴ収録には、指揮者の意図を忠実に実現したいという狙いを出せる反面、録り直しは利かないというリスクがあり、ここでは演奏者のスタミナの問題も小さくない。

朝比奈の遅めのテンポ、完全なリピート実施、生演奏という状況下で、演奏者は力を使い果たしてしまうのか、最後の盛り上がりに十分な力が出せていない。

7番終楽章のコーダには音抜けがあり、9番最後のプレスティッシモ以降のコーラスには疲れが目立つ。

これがもし指揮者の意図にそぐわないものならば、この部分の音を録り直した方がずっと良い演奏になったことだろう。

日本人の体位は近年向上しているが、まだまだ欧米人の域には達しておらず、特に息を使う管楽器や声楽の人にとって、このハンディは大きい。

また9番のような場合、1人や2人のスーパーマンを連れて来て解決する問題ではないのである。

最近では、バックアップ・テープで、ライヴの趣旨を損なうことなく音の部分修正ができる技術も進んできているので、企画段階からの音の録り直しについての配慮が必要だったように思われる。

以上、問題点ばかり書いたが、この全集の中には滋味溢れる好演が多く、特に1番、2番、5番は、ベスト・ワン級の名演奏であり、また、6番『田園』と7番もなかなか良い演奏である。

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classicalmusic at 01:59コメント(0)ベートーヴェン朝比奈 隆 

2019年05月12日


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第1、4番が1958年、第2番が1954年、第3番が1956年に録音されたベイヌム畢生の名演。

ベイヌムは1901年アルンヘム(アーネム)に生まれ、1959年アムステルダムでブラームスの《交響曲第1番》をリハーサル中に亡くなったオランダの名指揮者である。

長らくオランダの名門コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者として活躍してきたが、ステレオ録音が本格化した矢先に、しかも指揮者としてはこれからが円熟期という58歳の若さで急逝した本当に惜しまれる指揮者であった。

コンセルトヘボウ管弦楽団はメンゲルベルク一代で世界屈指の名門オーケストラに育て上げられたが、第2次大戦中のナチスとの関係によりメンゲルベルクは戦後、楽壇から追放されてしまった。

そこで名門オーケストラの再建という重い課題が44歳のベイヌムの肩にのしかかってきたわけだが、彼はただ単にオーケストラを立て直しただけでなく、コンセルトヘボウ管弦楽団を近代的な機能美と柔軟で英雄的な表現力を併せ持つオーケストラへと脱皮させ、新たなる名演の時代を作り出した。

バッハ、ヘンデルからドビュッシー、シベリウス、バルトークさらにはストラヴィンスキー、ブリテンに至る幅広い作品で名演を聴かせたベイヌムだが、オーソドックスなブラームスの交響曲は最も定評が高かったもので、今なお輝きを失ってはいない。

作品を正面からとらえた恰幅豊かな演奏ながら、リズムの切れがよく、フレーズも実に明快に歌われており、鮮度高く、フォーカスもシャープで全く色褪せていない。

骨格がしっかりと据えられた骨のある演奏で、洒落っ気はないが、真の誠実さ、謙虚なる客観性に火がつくとどんなに凄いことが起きるかをまざまざと体験させてくれる。

ベイヌムは目立たない指揮者、とちらかと言えば職人肌の指揮者だったが、第1番終楽章に聴かせるバロック的壮麗さなど、他のどんな名指揮者も実現させ得なかった熱い興奮へと誘う気迫が充満、往時の名声のほどをしのばせる。

定評ある第1、4番はもとより、他の2曲も充実し、最晩年の録音となるが、この時期のベイヌムの演奏には死の淵を垣間見せるようになっており、音楽性の上でさらに奥行きを見せ始めたことを実感させる。

さらに特筆されるべきは1950年代のコンセルトヘボウ管弦楽団の優秀さであろう。

オーケストラが充実、安定感溢れる力強いサウンドの魅力に加えて演奏全体に漲る積極性と躍動感に魅せられる。

響き全体に風格があり、アンサンブルは格調高く、しかも折り目正しく、ソロには威厳があって、オーケストラそれ自体が一つの芸術品であることがよく分かってくる。

またオーケストラ・サウンドに豊かなブレンド感がありながら、各セクションそれぞれに独自の色と香りがあり、それらが混濁することなく見通しのよいアンサンブルを編み上げていくあたりも出色である。

もちろん世界最高の音響特性を誇るコンセルトヘボウでの収録だが、半世紀以上前の録音からもホールの優秀さが感じ取れるというのは、考えてみれば奇跡のような事件であり、なるほどホールも楽器だと再確認させられる。

名演奏家の数だけ名盤が存在するが、不幸にして聴き手が出会える数は限られているので、このセットは大切だ。

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classicalmusic at 08:39コメント(0)ブラームス 

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キリル・コンドラシンはショスタコーヴィチの交響曲第13番『バビ・ヤール』を生涯に5回録音しているので、このライヴが最後のものになる。

1962年の初演時には降板したムラヴィンスキーに替わってその重責を果たして大成功を勝ち得たのだが、それ以降ショスタコーヴィチの作品の最良の理解者として交響曲全集を始めとするオーケストラル・ワークやオラトリオの名演を遺してくれた。

ちょうどコンドラシンが『バビ・ヤール』を初演してから18年後となる1980年12月18&19日のバイエルン放送交響楽団との伝説的なライヴは、偶然と言われているが、全く同日の18年後であるこの演奏は翌年3月にアムステルダムで急逝したコンドラシンの遺言とも言うべき録音であり、『バビ・ヤール』の西側での録音としては、未だ並ぶものがないほどの超絶的な名盤である。

原作になるエフトゥシェンコの詩『バビ・ヤール』には旧ソヴィエト体制化のユダヤ人迫害を仄めかす部分が当局の検閲にかかって、初演の前から演奏家にも圧力が加えられ、ソロを歌うバス歌手も降板が相次いだといういわくつきの作品だ。

初演と2日後の再演はオリジナル版で演奏されたが、それ以降は歌詞を変えない限り上演禁止という措置が強制された。

実際メロディアからリリースされたコンドラシンのショスタコーヴィチ交響曲全集には改訂版が収録されているが、このディスクは幸い初演時に戻されたスコアが採用されている。

初演時のエフトゥシェンコの歌詞は、後のメロディアへの録音時には改訂版の使用を余儀なくされたため、ここで使用されているオリジナルの歌詞による演奏は一層価値がある。

この演奏は5種類の中ではライヴながら最も音質に恵まれ、ショスタコーヴィチによって緻密に仕上げられたオーケストレーションを細部まで聴き取ることが可能だ。

コンドラシンに率いられたバイエルン放送交響楽団も非常に精緻かつドラマティックで、一朝一夕のやっつけ仕事でないことは明らかだ。

彼はどのオーケストラとも徹底的に稽古をする指揮者としても知られていたが、そうした音楽的な厳しさもひしひしと感じられる。

またソロを歌う英国のバス歌手ジョン・シャーリー=カークとコーラスもロシア語に挑戦した原語上演であることも好ましい。

1962年ののっぴきならない逼迫した緊張感には及ばないとしても、作曲家の意志を貫いた鮮烈でスペクタクルな再現であることに違いない。

重々しく始まる冒頭から一貫してコンドラシンの強い主張と一種独特なテンションが持続されており、聴く者の心を鷲掴みにせずにはおかない驚異的な演奏だ。

ライナー・ノーツにはアルファベット表記のロシア語に日本語対訳が掲載されている。

尚リリース元のタワーレコードからはこのレギュラー・フォーマット盤の他にSACDバージョンでも入手可能だ。

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classicalmusic at 00:01コメント(0)ショスタコーヴィチコンドラシン 

2019年05月11日


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ドイツの巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)が聴かせる演奏は深い精神性と哲学的瞑想性とでも形容すべき深遠さを誇っている。

それは聴き手をただ単に音楽的感動に浸らせるだけではなく、長い歴史的脈絡の中でその感動を聴き手一人一人が育てていく旅へと誘う、一種、創造的な営みを促す演奏である。

確かに鳴り響く音とともに私たち聴き手は作品を聴き、演奏という再現芸術が誘う熱気と臨場感に陶酔的興奮を覚えるが、フルトヴェングラーの演奏が与える感動は感覚的なレベルをはるかに超えて魂の奥底へと響きわたる力を持ち、それは尊い人生経験にも似た感動領域へと聴き手を誘うのである。

フルトヴェングラーの指揮は基本的にはロマンティックであるが、ただそのロマンの次元と、美しさ、そして発展の形、姿はとても尋常なレベルではなく、聴き手は予想もしない出来事に直面して戸惑いにも似た経験をすることになる。

だがそれは、抗し難い力で聴き手を魅了し、陶酔させるものであり、曲が終わったときの聴き手は、人間が変わってしまったかのような感慨にすら浸るのである。

演奏で奮い立たせるのがトスカニーニ、思索の人にしてしまうのがフルトヴェングラー、どちらも罪作りなほど素晴らしい。

そんなフルトヴェングラーの名演は数知れないが、シューベルトの最後の交響曲《ザ・グレート》で聴かせてくれる演奏の奥深さは格別である。

シューベルトならではの抒情性もなめらかな歌の世界も、もちろん余すところなく描き出されてはいるが、それ以上に聴き手を魅了するのはフルトヴェングラーというロマンティックな詩人が聴き手を旅の随行者にしてしまう事実であり、聴き始めるともう後には戻れなくなってしまう。

ここに聴く演奏は、1953年8月30日ザルツブルク音楽祭に於けるウィーン・フィルとのライヴ録音である。

そのためか表情の劇的変化、興奮のテンションの激しさは壮絶で、1951年のスタジオ録音よりは1942年のライヴ録音の表現に限りなく近いが、むしろ十数年前よりも過激な部分さえあり、時には不自然な感じを与えるほどである。

しかし、オーケストラの響きの密度の濃さ、カロリーの高さは異常なくらいで、現今ではこんなに夢中になって弾くオーケストラ演奏を聴くことは稀である。

しかも巨匠晩年の心境を反映してか、フルトヴェングラーという詩人が秘め持つ瞑想性が豊かな翼を持った広がりを見せており、落とされる影も一段と長く、また美しい。

ただ問題がないわけではない。

フルトヴェングラーの演奏は吸引力が圧倒的であるだけに、視線が釘付けになったままとなり、聴き手の他への興味・関心を奪い取ってしまうからである。

注意しないと病気になってしまう怖い演奏であるが、名演というのは本来はそれぐらいインパクトの強い、強烈な刺激物なのであろう。

とても毎日なんて聴けない、それほど感銘が持続する歴史的名演である。

この実況盤は名演として評されながら、これまで音質の悪いCDしかなかったが、このデルタ・クラシックスによるLP復刻の音質は素晴らしく、解像度が高いので細部まで良く聴き取れる。

管楽器の美しさ、弦を含めた緻密なアンサンブル、豊かな低音、オリジナルの録音技術もドイツでは相当進んでいた事が想像される。

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classicalmusic at 11:13コメント(0)シューベルトフルトヴェングラー 

2019年05月09日


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夕焼けに魅せられるのは何も日本人だけではない。

荘重なる夕焼けを目前にしたとき、しばし感慨に浸るのは人類共通の心の営みであり、洋の東西を問わず人は郷愁とも瞑想ともつかぬ気分に我を忘れてしまうようである。

イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913-76)が1943年に作曲した《セレナード》はこの夕焼けに魅せられた詩人の想いを音楽に移し替えた名作と言ってよいだろう。

《セレナード》は、ブリテンの心の友であったテノール、ピーター・ピアーズと、イギリス屈指の名ホルン奏者デニス・ブレインを想定して書かれ、初演もブリテンの指揮で行なわれている。

1963年にブリテンは独唱者はそのままに、ホルン奏者をブレイン亡き後の後継者バリー・タックウェルを迎えて録音しているので、この曲のスタンダードとして聴き続けていって欲しい演奏だ。

《セレナード》は同時に英詩のアンソロジーでもあり、連作歌曲のよきお手本になった作品でもある。

ホルンの巧妙なテクニックが何の気なしに使われているのは名手ブレインへの信頼の証だと思うが、弦楽は各曲に使われた詩の世界を演出する「効果係」のような役割。

エルガーもパート・ソングにしているテニスンの詩をはじめ、ブレイク、コットン、ジョンソン、キーツといった詩人たちの想いが歌われ、《春の交響曲》と並ぶとても英国的な歌曲集である。

作曲者と運命的な絆で結ばれていたとされるピアーズの歌声は、自らの運命と人生を誇るようにも聞こえれば、どこか運命を嘆く哀しい響きにも感じられる。

そこにはブリテンの心の息づかいと同化した親密さがあり、2人の詩人が交わす相聞歌のような姿がある。

ある意味で完全孤独を確認することで、より強い連帯感を意識していく、そんな営みのように聞こえなくもない。

調べはやがて無限の時間と空間とに重なり合い、消えていくのである。

2つとないセレナードがもたらす冷気を吸い取った聴き手もまた、孤独に浸ることとなる。

運命を嘆くかどうかは別だが、神秘的な夜の帳に魅せられる物言わぬ旅人となっていくことは間違いないだろう。

ブリテンの音楽はどこか孤高の匂いがするし、とても洗練されていて、どこか寂しいが、それがまたいい。

カップリングされた《イリュミナシオン》と《夜想曲》はショスタコーヴィチとの関連もあるが、本盤に収められたブリテンの楽曲は幻想を味わう通向きの名曲である。

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classicalmusic at 20:27コメント(0)ブリテン 

2019年05月08日


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《ボリス・ゴドノフ》はムソルグスキーのオペラの最高傑作であるとともに、最もロシア的であるという点においては、ロシア・オペラの頂点にある作品と呼べるかもしれない。

ムソルグスキーの原典版以外にも、R=コルサコフによるふたつの版、イッポリトフ=イワーノフ版、ショスタコーヴィチ版などの異版も多く存在する。

かつては批判的に見られていたムソルグスキーのオリジナル版であったが、近年は、その評価が始まっている。

ロストロポーヴィチ盤は、作曲者の初稿と決定稿を集成したロイド・ジョーンズ校訂版による初録音(1987年)であり、原典に近づいたということで、オリジナルの姿を理解できるエディションとして、《ボリス・ゴドノフ》の標準版となった。

ロストロポーヴィチは鷹揚でありながら、細部まで目配りの効いた指揮で、この版の良さを伝えている。

ロストロポーヴィチ/ライモンディの《ボリス・ゴドノフ》はとても力強く、ほとんどライヴではこれほどの緊張感が持続できないのではないかというくらいに、その感触は最後まで変わらない。

ライモンディが熱演で、従来のバス歌手に比べて声も歌唱も断然明るく、一皮剥けた新鮮さがあり、ヴィシネフスカヤの1人2役も予想以上の好調ぶりだし、ゲッダの苦行僧もいい。

それでいて、ボリスという複雑なパーソナリティをライモンディはよく理解していて、この主人公は決して単純な暴君ではなく、英雄であり暴君、そして弱さと後ろめたさがぴったりとその裏に張り付いている。

カラヤンが振ったときの《ボリス》はあくまで英雄=暴君の悲劇を主軸に据えたものだったが、一方、クリュイタンスのはどうも今一つ全体的に覇気のない英雄=暴君であることによって、カラヤンにはない苦悩する人間ボリスを表わすのに、かえって、成功していた。

とはいえ、色々と「内面的」に葛藤している人間があくまで「君主」として人民の前では英雄=暴君を演じなければならない事態を、更に「演劇」として、オペラとしてここでは再現=表象しなくてはならないという難題が生じてくる。

そしてそれば見せ場=クライマックスを虚構するアリアでではなく、演劇=音楽的持続のなかでこそ表わさなければならない。

それは必ずしも歌手だけが引き受けることではなく、優れて指揮者がオーケストラに演じさせる役割をもつものだ。

ロストロポーヴィチもライモンディもどちらかと言えば淡々として音楽的持続を生み出しているのだが、そこには先にも述べたような力強さが終始あるのであり、それが秘められている、故意に噴出を抑えているところでこそ、ボリスのどうしようもなさ、幾重にも折りたたまれたパーソナリティの複雑さがひとつのかたちとなっているのだと言える。

ロストロポーヴィチ盤は、ポーランド出身の映画監督ズラウスキの同名の映画に使われており、ここでボリスを演じているのはライモンディそのひとである。

この映画=オペラにおける政治的・演劇的のコノテーションについては言及を差し控えるが、ロストロポーヴィチの淡々とした、しかしまた時としてロシア正教会の鐘の響きを思わせる華やかなオーケストラの響かせ方は、この映画にとってはなくてはならないものに思えるのだった。

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classicalmusic at 20:05コメント(0)ムソルグスキーロストロポーヴィチ 

2019年05月06日


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ラフマニノフの交響曲第2番は大曲で、クルト・ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管弦楽団(1990年)盤は67分を超えるが、圧倒的に素晴らしく、掛け値なしに偉大な演奏である。

他盤では60分以内に収まってしまうので、ザンデルリンクは多分にゆっくりと演奏していると思って差し支えないが、その共感と生命力の強さは驚くべきものである。

ラフマニノフは交響曲の理念に実に忠実に作曲していて、それは形式的な問題だけでは決してなく、西欧的弁証法とでも言うべきか、ともかく色々なことが時間に推移のうちに起こって、最後には或る何らかの境地に至るといった「物語」が大枠としてある。

山あり谷ありの大曲を最後までおよそ1時間に亘って演奏してゆくのは大変なことだ。

もちろんこれよりずっと長い作品は数多いが、ラフマニノフのこの曲には、マーラーの狂気や破綻などなく、もっとずっと単純に「物語」としての交響曲を壮大に作曲しているので、かえって演奏するのはしんどいものがあるだろう。

ザンデルリンクの演奏は、以前のもの(30年前のレニングラード・フィル盤)とは比べものにならないほど円熟しており、しかも個性的である。

叙情と劇性が雄大なスケールで濃厚に表出され、第1楽章冒頭から極めて充実した音楽を聴かせているが、各楽章とも完全に曲を手中に収めた表現で、全てが歌に満ち、アゴーギクとルバートの多用も内奥から溢れ出る感興を表している。

長大な第1楽章をザンデルリンクは25分かけて、殆ど苛々させるくらいにゆったりとしたテンポをとることで、逆に物語のダイナミズムを聴き手に味あわせてくれる。

とりわけ弦楽器群のうねり方が凄く、催眠術にかけられたがごとく、ザンデルリンクの大きな指揮棒の動きに合わせて陶酔の波の上を漂っている。

音楽の収縮は堂に入り、旋律線はぐんぐん彼方へ延びていって果てしがなく、これほど雄大かつ恍惚とした音楽は、他盤からは聴けない。

第2楽章もまたゆっくりめのテンポをとっているが、今度はホルンの咆哮するテーマの後ろで刻まれる弦の、速すぎるとただ粗雑にしか響かない弦のリズムをうまく聴かせている。

また、録音のせいもあるのかもしれないが、他盤ではよくわからなかったグロッケンシュピールの響きも明瞭に聴こえる。

第3、4楽章は前の2楽章ほど他盤とのテンポなどに違いはみられず、全体のなかでは第3楽章の前半が幾分醒めているのが不可解だが、後半は幸いなことに復活し、弦楽器だけでなく、オーケストラ全体の気の入り方が尋常ではない。

第4楽章冒頭など、バレエのエンディングを思わせる華麗な響きを聴かせているが、さすがにここに至って叙情的な部分では多少気のダレがみられないこともない。

もっともそれは聴き手の緊張が緩んできたというのもあるのだろうけれど、これだけ長い作品を聴くためには物理的な時間もさることながら、じっくりと物語に付き合うだけの気構えと余裕も必要だ。

ザンデルリンクはあまり録音に熱心な指揮者ではなかったが、このCDは彼の疑いなく最良のセッションだと思うし、こんな演奏が記録されたことに感謝の念を禁じ得ない。

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classicalmusic at 20:42コメント(0)ラフマニノフザンデルリンク 

2019年05月05日


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レナード・バーンスタイン(1918-90)を初めて聴いた時ほど衝撃的なものはなかった。

筆者の実家にあるCBSソニーのLPでバーンスタインを聴き始めたのは中学生の頃だったが、クラシックが弾み、跳び、うねっている現実に驚かされた。

それは、折り目正しく、格調高く、品格と威厳をもって鳴り響いてこそのクラシックが、楽しそうにステップを踏み、ラインダンスでも踊るかのように華やかで、開放的な気分を漲らせていた。

フルトヴェングラーのとも違うじゃない、ベームのブラームスとも違うじゃない、カラヤンのベートーヴェンとも違うじゃないと言っても始まらない。

バーンスタインはそんな声には見向きもせず、笑顔で颯爽と走っていたのであり、しかもそれが実に粋で、格好良かったのである。

このアメリカ生まれの指揮者は明らかに時代感覚と美学を武器にクラシックの世界に乗り込み、演奏新時代を切り開いていたのである。

そんなバーンスタインの素晴らしさを理屈抜きに体感させてくれたのがドヴォルザークの《新世界より》だった。

1962年の録音だから、既に名盤はトスカニーニ、ターリヒ、クーベリック、ライナー盤などいくつもあったが、バーンスタインの演奏は最もモダンかつスマートであった。

バーンスタイン44歳の時の録音されたこの演奏は作品をかつてないダイナミックな躍動感と作品をかつてない現代的なアングルから歌い上げた点で値千金の価値と魅力をもっている。

それはアメリカ滞在中のドヴォルザークが書き上げた作品を輝けるアメリカの名指揮者が堂々たる自信と情熱をもって歌い上げたストレートな演奏であり、作品全体にバーンスタイン自身の自画像を写し込んだ演奏となっている。

リズムは小気味よく、前へ前へと前進し、カンタービレは胸を膨らませた憧れに満ち、表現はのびやかこの上なく、音楽が時間の経過とともにますます豊かさを増す、そんな爽快感を与えてくれた。

それはクラシックからアカデミックなイメージと厳めしい門構えを取り払い、「皆さんどうぞ!」とばかりに演奏者が両手を差し伸べて聴き手を招き入れる、過去には存在しなかったオープンな名演であった。

殊にジャズのビートを思わせるようなリズムの処理は絶妙で、バーンスタインはこの演奏を通して、音楽にはジャンルの垣根もない、形態が違っていても喜びの鼓動は底辺でつながっている事実を教えてくれたのである。

自らは成長してもオーケストラをレベルアップさせることはなかったと時に指摘されるバーンスタインではあるが、この時期のニューヨーク・フィルはアメリカ最良のオーケストラであることを納得させる表現の鋭さとダイナミックな鳴りっぷりの良さで抜きん出ている。

殊に立体的なサウンドの見事さは破格で、理屈抜きにオーケストラ音楽の醍醐味を満喫させてくれたし、耳を傾けているだけで勇気づけられる、元気になってくる演奏と言いたくなる感銘を与えられた。

確かに《新世界より》には名盤は数多いが、バーンスタインのこの録音は作品と絆が熱く、演奏が清々しくそして逞しく、今なお初々しい。

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classicalmusic at 13:38コメント(0)ドヴォルザークバーンスタイン 

2019年05月04日


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ヴォーン・ウィリアムズは20世紀前半のイギリス音楽ルネサンスを推進した重要な作曲家で、イギリスの民謡とチューダー王朝教会音楽に着目し、その再評価を通じて自作に反映させた。

作曲家デビューは遅く35歳で、最晩年の85歳まで作曲し、作品は、交響曲からオペラまであらゆる分野にわたっている。

現代の作曲家の中でもヴォーン・ウィリアムズは、後期ロマン派の感性を色濃く受け継いでいて、同時代のドイツやロシアの作曲家が無調性や十二音技法などの理論を実践に移していたのに対して、しばしば彼はケルティック・スケールを用いた、古いスコットランドやアイルランドの旋律を取り入れたリリカルなメロディー・ラインを独特の和声法で包んだ、涼やかな郷愁を喚起させる効果を好んだ。

筆者はイギリス音楽に大いに惹かれるが、日本ではなんといってもドイツ音楽が主流で、そのことは当然ともいえるが、イタリア、フランス、ロシアなどの作品が広く聴かれているのに比べると、イギリス音楽は地味な存在として、ほんの一部のファンを獲得しているに過ぎず、これは大変残念なことだ。

エルガー、ブリテン、ディーリアスなどももちろんよいが、筆者が日常とくに哀惜しているのはヴォーン・ウィリアムズなのである。

ヴォーン・ウィリアムズの魅力は、何と言ってもその多彩な表現力にあり、繊細な曲調の作品もあれば、豪快かつ勇壮な音の饗宴もあるし、ユーモラスな音の遊戯を楽しむことができる作品もある。

彼は多種多様な楽器等の組合せによって、非常にバラエティに富んだ曲作りを行っている。

また彼は大自然の描写を得意とし、標題音楽にも傑出した才能を示していることから、現代音楽を難解なものとして敬遠している方にも違和感無く受け入れられる作曲家の一人だろう。

1枚目のCDは比較的規模の小さな管弦楽曲を集めたもので、2枚目は主として歌曲集となっているが、演奏はそれぞれ高水準で特に入門者にお勧めできる選曲だ。

CD1では、バルビローリが『グリーンスリーヴズ』の旋律をチャーミングに愛らしく歌い上げて、この作品の親しみやすい魅力を余すところなく伝えてくれる。

バルビローリがこのような作品を指揮すると不思議な奥行きが出て独特の魅力があり、その弦楽のテクスチュアの温かいリアリズムは彼独特のもので、他の比肩を許さない。

『タリス・ファンタジー』は豊饒な黄金色のアンサンブルで、オーケストラ全体がバルビローリとともに音楽に没入し、息の長い歌が幾恵にも重なり合っていく。

繊細を極めるピアニッシモであっても音そのものは肉厚で温かく、フォルテにいたるフレージングは、あたかも空気中から音が満ち溢れてくるようだ。

CD2では、『ウェンロック・エッジにて』の若さと純粋さを併せ持つポストリッジの歌は、詩の精神に寄り添った理想的なものだ。

ただ歌ものを入れるなら彼の短いオペラ『Riders to the sea(海に乗り出す人々)』を入れて欲しかった。

ワーナー20世紀クラシックス・シリーズは過去にリリースされた録音からのリカップリングになるので、演奏者や録音時期とそれに伴う音質の若干の不均一は否めない。

尚このシリーズのライナー・ノーツには歌詞は付いていない。

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classicalmusic at 00:11コメント(0)バルビローリ 

2019年05月02日


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ルドルフ・コーリッシュは、オタカール・シェフチークの下でヴァイオリンの修練を積んだオーストリア出身のヴァイオリニスト。

シェーンベルクから作曲の指導を受けたのが縁となって、シェーンベルクの私的演奏協会にプレイヤーとして参加するようになった。

彼が弦楽四重奏団を結成したのは、シェーンベルクの助言あってのことだった。

はじめウィーン弦楽四重奏団と名乗って演奏活動をしていたが、1927年に人事を一新し、コーリッシュ弦楽四重奏団として活動を継続する。

コーリッシュ弦楽四重奏団は、シェーンベルクの縁から、新ウィーン楽派の作曲家の作品を数多く手がけ、中でもアルバン・ベルクの『抒情組曲』の初演は、コーリッシュ弦楽四重奏団の大手柄だった。

新ウィーン楽派の作曲家の作品を多数手がけた業績から、コーリッシュ弦楽四重奏団は、現代音楽のスペシャリストと見做され、バルトークから弦楽四重奏曲の初演を依頼されるまでになった。

この「ルドルフ・コーリッシュを称えて」というCD6枚組は、そうした現代音楽のスペシャリストとしてのコーリッシュに焦点を当てた選曲になっている。

なお、このCD集では、プロ・アルテ弦楽四重奏団という名義の使われた録音が存在するが、この弦楽四重奏団は、アルフォンス・オンヌーらの団体の衣鉢を継いだものである。

オンヌーが1940年に戦死してしまったため、この団体は一旦解散を余儀なくされている。

一方、アメリカに渡ってきたコーリッシュは、自分の弦楽四重奏団を維持できなくなり、1942年頃に解散してしまっていた。

師匠のシェーンベルクの肝入りで1943年にウィスコンシン大学に就職したコーリッシュは、かつての自分の弦楽四重奏団の第2ヴァイオリニストや、ウィスコンシンに在住していた旧プロ・アルテ弦楽四重奏団のヴィオラ奏者らに声をかけ、プロ・アルテ弦楽四重奏団を再結成したのだった。

その後、コーリッシュの努力によって、このプロ・アルテ弦楽四重奏団はウィスコンシン大学の常設団体となり、メンバーを変えながら、今日も演奏活動を続けている。

このCD集には、シェーンベルクの弦楽四重奏曲の全曲がコーリッシュ弦楽四重奏団のメンバーで演奏されている。

まさに彼の演奏こそシェーンベルクの精神そのものと言ってよく、その感じはギーレン等に継承され、ひとつの伝統を築いている。

そのうちの弦楽四重奏曲第3番では、上述のプロ・アルテ弦楽四重奏団のメンバーとの録音が収録されており、コーリッシュ弦楽四重奏団とプロ・アルテ弦楽四重奏団の演奏スタイルの違いを比較できるようになっている。

コーリッシュ弦楽四重奏団での演奏は、活動の本拠だったウィーンの文化の影響があり、プロ・アルテ弦楽四重奏団のものと比べると、幾分もっちりとした演奏のように聴こえるだろう。

プロ・アルテ弦楽四重奏団の演奏は、コーリッシュ四重奏団のものと比べて機能面でスタイリッシュになり、より明晰な演奏ができるようになっている。

ベルクの『抒情組曲』は、そうした機能面での恩恵にあずかり、非常に見通しのよい演奏が実現している。

バルトークの弦楽四重奏曲第5番など、プロ・アルテ弦楽四重奏団の確信に満ちた解釈で、大変聴き栄えがする。

ほとんどのCDは、室内楽奏者としてのコーリッシュに光が当てられているが、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲やヴァイオリンとピアノのための幻想曲、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタなど、独奏者としてのコーリッシュの演奏も多少含まれている。

情感に溺れない理知的なアプローチは、バルトークのヴァイオリン・ソナタに込められた激情を掬い取っていないと言われるかもしれない。

ひたすらクールに弾き込むその演奏は、シェーンベルク譲りの楽曲分析の成果であり、激情に身を任せることを許さない、コーリッシュの強い意志の表れである。

シェーンベルクの協奏曲でも、盟友のルネ・レイボヴィッツのサポートを受け、ひたすら冷静にソロ・パートを弾き抜き、曲のフォルムを鮮明に描き出している。

グンナー・ヨハンセンと共演した幻想曲は、シェーンベルクの音楽をしっかりと咀嚼し、明快に聴き手に伝えようという使命感を感じる。

ヨハンセンはフェルッチョ・ブゾーニ門下のエゴン・ペトリや、フランツ・リスト門下のフレデリック・ラモンド、エトヴィン・フィッシャーらの薫陶を受けたデンマーク出身のピアニスト兼作曲家。

演奏家としてのヨハンセンは、1920年代からアメリカに遠征して、バロック時代の作品から同時代の作品までを広く紹介し、1940年代からは、アメリカの大学を回って、ベートーヴェンやブラームスといった、ドイツの音楽を積極的に演奏していた。

ウィスコンシン大学でもしばしばリサイタルや教授活動を行っていたヨハンセンにとって、コーリッシュは親しい同僚であった。

お互い知り尽くしたもの同士ならではの親密さを持ちながら、演奏解釈に一家言を持つもの同士ならではの丁々発止の仕掛け合いが面白く、シェーンベルクの音楽に生命の息吹をしっかりと吹き込んでいる。

本CD集の最後にシューベルトの八重奏曲を収録しているが、コーリッシュは現代音楽を重視するあまり、過去の作品を軽んじるようなことをしなかったということを示している。

コーリッシュ弦楽四重奏団の時代には、シェーンベルクから、モーツァルトやシューベルトといった、過去の名作もしっかり演奏するようにと助言されていたのである。

過去の作品を演奏するコーリッシュの至芸が申し訳程度にしか収録されていないのは、「コーリッシュを称えて」と銘打つには、いささかアイテム不足な気もする。

しかし、現代音楽の積極的紹介者としての側面を強く打ち出すことによって、コーリッシュの一側面を鮮やかに描き出した点は、高く評価したい。

録音は古いが、新ウィーン楽派やその周辺の音楽の受容を知る上では、貴重かつ重要な資料であろう。

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classicalmusic at 20:02コメント(0)シェーンベルクベルク 

2019年05月01日


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1902年のパリのオペラ・コミック座で初演され、20世紀のオペラ革新のさきがけとなったドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》は、オペラ史上、あるいは音楽史上に占める重要性については誰もが認めても、さて、これが本当に好きかと聞かれれば、実は退屈でという人も結構いそうである。

何しろアリアのようなものは全くなく、普通の意味での叙情的な部分も限られているし、絶え間なく続いてゆくのはフランス語の会話のパターンに合わせた歌手たちの朗誦で、オーケストラの扱いも控えめで、繊細を極めている。

ドビュッシーは沈黙もまた有効な表現の一手段となり得ることを主張したが、その実践のいい例も見ることができる。

だがオペラというものへの先入観を捨てて、優れた上演に接すれば、終始薄明かりの下での紗幕越しに見るようなドラマの展開と、シンボリックだがムード豊かな音楽の美しさの虜になるはずだ。

2004年チューリヒ歌劇場に於けるライヴ映像(ウェルザー=メスト指揮)は、ベヒトルフによる摩訶不思議な演出の個性の強さゆえに顔をそむける人もあろうが、筆者のツボに嵌り、とても気に入っているDVDだ。

そもそもこのオペラは、時代設定も場所も曖昧で、主役のひとりであるメリザンドの素性も不明、何から何まで神秘に覆われた作品なのだが、巷間で評判のブーレーズ指揮ウェールズ・ナショナル・オペラのライヴ映像(1992年)のように、舞台装置、人物設定が具体的になればなるほど、作品の本質から遠ざかってしまうように思える。

その点、ウェルザー=メストと組んだベヒトルフの演出は、登場人物の背負う得体の知れない苦悩、トラウマ、悲しみなどについて、聴衆の想像力を掻き立てて見事なものである。

舞台や衣装の色彩の美しさもさることながら、登場人物それぞれに化身である人形を介在させることで、ドラマにリアリティが増すというのも不思議な現象だ。

例えば、第1幕の冒頭、ゴローは小舟に乗るメリザンドの化身=人形に話しかければ、実像であるメリザンドは、ゴローが自分の化身に語りかける情景を背後から眺めつつ歌うのだが、それによってメリザンドの深層心理が語られていくような凄絶な効果が生まれているのである。

第3幕第4場、ゴローが息子イニョルド(ペレアスとメリザンドの関係を監視させられていた)の腕を痛めつけてしまう場面で、激高したゴローは人形の腕を付け根から荒々しく引き抜き地面に落とすのだが、イニョルドはそのちぎれた分身の腕を両手に持ちながら「お父さんが僕を痛い目に合わせたんだ!」と訴える。

グロテスクではあるが、腕をもぎ取られたに等しいイニョルドの心の痛みが切々と伝わってくる。

そんなベヒトルフ演出の象徴とも言えるのは第3幕の第1場、メリザンドが塔の上から長い髪を垂らし、その髪をペレアスが愛撫するという官能的な場面だ。

何とメリザンドが立つのは塔の上ではなく、自動車の屋根の上で、いかにも旧東側の国産といった風情の大きめの自家用車が雪化粧の中に寒々と置かれている。

あまりの意外さに客席にどよめきが起こるほどだが、筆者は全く違和感を覚えなかったどころか、陳腐な紛い物の塔であるよりは、よほど真実を伝えていると思った。

眼前の光景をはじめから壮大な虚構として受け止め、その背後に渦巻く真実を想像できるような気がするからである。

美しきは第4幕第4場の逢瀬の場面で、はじめて「愛している」という言葉を交し合うペレアスとメリザンドは、その抑制された演技ゆえに、2人の思いの切なさが伝わってくる。

そこに『トリスタン』の肉欲を超えた凄まじいエロスがあり、これこそドビュッシーの狙いだったのだろう。

そして、ゴローによるペレアスの静かなる刺殺、「ああ、星が落ちてくる」と叫び絶命する瞬間にこそ、ペレアスの歓喜の頂点はあったに違いない。

ウェルザー=メストの指揮も恣意性はなく、ドビュッシーの音楽をありのままに表現してくれているし、透明な綾を織りなすオーケストラも優秀だ。

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classicalmusic at 06:33コメント(0)ドビュッシー 
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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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