2019年07月
2019年07月31日
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1970年代末、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリの復活というのは一つの事件という感じがした。
そしてミケランジェリのピアニズムのもつ硬質な輝きと美しさは、この録音で聴く限りいささかも損なわれていない。
ミケランジェリとコード・ガーベン、この異色の顔合わせが生み出す演奏もまた異色である。
所謂モーツァルト風の様式とはかなり違っているが、これは主としてミケランジェリのモーツァルトの音楽に対する考え方から生じたもので、その響きは恐ろしいほど緻密で強い余韻を作っている。
ガーベンもミケランジェリの解釈を全面的に支持し、北ドイツ放送交響楽団を実に美しく響かせ、ソリスト、指揮者、オーケストラの熱意をひとつの目的に凝集させ、強い緊張感に裏づけられた演奏を生み出している。
ここでミケランジェリは一歩退いてモーツァルトの音楽の敬虔な使徒たらんとしているように思える。
そしてミケランジェリが考えているモーツァルトは、ギャラントな要素や愉悦の要素といったものを剥ぎ取られたモーツァルト、すなわち音楽をできるだけ純化された「ひびき」の透明性の中に結晶化させようとしながら、一方でそうした音楽の結晶度の高さによっても掬い切れないメランコリーのたゆたいや激情をアンビヴァレントな形で(しかも音楽といささかの矛盾もなく)露呈させてしまうようなモーツァルトである。
一言で言えば、「冥いモーツァルト」である。
それは、最近のモーツァルトのイメージからすればやや古風な、刺激の乏しいモーツァルトに聴こえるかも知れないが、ここでミケランジェリが表現している世界は生半可なものではない。
ミケランジェリはよく粒の揃った硬質なタッチで、しかも「ひびき」の世界を100パーセント音化するというよりも、抑制された表現の中で余白、余韻を残しながら「冥いモーツァルト」の核心にある音楽に結晶した「感情的な」要素を、極めて格調高く表現する。
そしてそれは、このまま一歩踏み出せば途方もない「悲劇」が始まるかも知れないという予感に、かろうじて「ひびき」の均衡を通じて耐えているかのようなモーツァルトの「短調」作品に驚くほどマッチしていると言えよう。
指揮のガーベンがミケランジェリの意を挺してオーケストラの響きにミケランジェリのピアニズムとの同質性を与えている点も、コンチェルト(競争)の要素はその分減じているとは言え、見逃せない。
ミケランジェリのピアニズムは、彼に先行する世代、例えばホロヴィッツやルービンシュタインらのものとは大きく異なっている。
ピアノ技術の体系と音楽の論理の固有性の間にどのような橋を架けるのか、というところに自らの課題を見出した。
そして彼は、ピアニズムそのものの技術的純化を音楽の結晶度の高さにそのまま添加させ、ピアニズムと音楽の間の空隙を埋めるという方向を選択したのである。
この選択の意味の大きさを戦後ピアニズムの歴史の中で考えてみる必要がある。
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2019年07月30日
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カラヤンは、モーツァルトの『レクイエム』を3回録音しており、これは、1986年に録音されたもので最後のものになる。
以前の2回がオーケストラにベルリン・フィルを使用していたのに対し、この録音だけがウィーン・フィルになっているが、合唱は、いずれもウィーン楽友協会合唱団が努めている。
3回の録音の中では、やはりこの最後の録音が最も良く、モーツァルトの『レクイエム』演奏の頂点に立つ稀有な名演と言えよう。
この演奏には、真に偉大な芸術家に晩年が訪れた時のみに聴くことのできる種類の崇高な表現がある。
ジュスマイアー版によって演奏しているが、19世紀から受け継がれ20世紀が求めたモーツァルト像の一つの理想的な具現である。
冒頭の静かな祈りに満ちたpの入り、トロンボーンに導かれて、“Requiem aeterna,”(永遠の安息)と歌いだす時の突き刺すような悲しみのf、どちらも音の純粋な美しさに溢れている。
続く“kyrie”(キリエ)でのフガートの構築性、“Dies irae”(怒りの日)のエネルギッシュな緊迫感、そして、モーツァルトの筆が止まった“Lacrimosa”(涙の日)の光さす永遠の表現と、どれを取っても晩年のカラヤンが二百年余り前の同郷の天才の魂と呼応したとしか思えないような素晴らしい表現が聴ける。
特に“Lacrimosa”では一つ一つの音符を長めに取り―特に合唱の八分音符―重厚な響きで悲しみを表現して行く。
さらに、それを具現するウィーン・フィルの柔軟な表現力とウィーン楽友協会合唱団のスケールの大きい表現も忘れられない。
また、ソリストもテノールのコールに不安定な部分が見られるものの他はオーケストラと合唱が一体化した卓越した歌唱を聴かせてくれる。
最後は、冒頭の“Tedecet hymnus”(賛歌を捧げ)の音楽が回帰して、“Lux aeterna”(永遠の光り)と歌い出されるが、スコアの上では歌詞の違いしかない。
しかし、カラヤンは微妙にテンポを落とし、より静謐なニュアンスを出している。
続く“Cum Sanctis”(主の聖人と共に)でもキリエのフガートが回帰するが、カラヤンは、ここでも音の芯を太くしてより重厚な表現で単なる冒頭の再現には終わらせない解釈を行なっていて、素晴らしい説得力がある。
ここは天才の直観で流れとして自然にそうなったのかもしれないが、カラヤンの指揮者としての最高の姿がここにある。
いずれにしてもこのカラヤンとウィーン・フィルの録音は、数ある『レクイエム』の録音の中でも最も優れた演奏であることは間違いない。
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2019年07月29日
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軽妙洒脱で典雅なフランス趣味という指揮者クリュイタンスに対する評価は必ずしも的を得ていない。
彼は取り組む曲へのアプローチが柔軟である為に、ドイツ物もフランス物もそつなくこなす一方で、常に曲の核心を衝く鋭い洞察力を活かした非常にダイナミックな音楽作りに特徴がある。
特にラヴェルの作品では作曲家の緻密なオーケストレーションが織り成す綾模様や形式感を曖昧にすることなく鮮明に描き出して、そこに彼独自の情熱的な推進力を与えている。
またソロ・パートの楽器の特性を巧みに引き出して、パリ音楽院管弦楽団の魅力を充分に聴かせてくれる。
クリュイタンスとパリ音楽院管弦楽団の演奏には物理的な精緻さとは異なった特有の感性がある。
逆説的だが開放感に満ちた緊張とでも言うべきだろうか。
またそれぞれの楽器の音色の均一化は彼らのコンセプトには無い。
一つの楽器からも変化に富んだ陰影や色彩感を醸し出すことが彼らの奏法なのだ。
近年どのオーケストラでも楽員の技術向上及び均一化と、より精緻なアンサンブルを作り出す必要性から、こうしたフランス音楽に欠かすことができない要素がないがしろにされた興醒めの演奏が多い中で、彼らの表現ではまさに真似のできないフランス趣味が醍醐味と言える。
勿論それはクリュイタンスの稀に見る高貴で柔軟な音楽性と情熱に負っている。
このオーケストラ自体1967年をもって事実上解散してしまったので、往時の最盛期の音の魅力を知る上でも貴重な録音だ。
特にこれだけ熱気に包まれた表現の『ダフニスとクロエ』はクリュイタンスとパリ音楽院管弦楽団の独壇場とも言える。
それは春の夢にうなされているような極彩色の幻想と法悦にも例えられる。
一口に言ってクリュイタンスは劇場感覚に極めて敏感で、柔軟なテンポの設定や曲想の盛り上げ方、それぞれの楽器の扱いや和声の処理にオペラやバレエにおける彼の豊富な舞台音楽の経験が活かされている。
また劇場空間において一種のカリスマ性で聴衆を煽動する術を熟知していた指揮者の一人だった。
オーケストラからも幅広い表現力を引き出していて、繊細であっても決して脆弱にならず、この曲に相応しい生気に溢れる熱い情熱がいたるところで感じられる。
ちなみにこの曲は1912年6月8日に作品の依頼者でもあったディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)によって初演されたが、そのわずか10日前に彼らはニジンスキーの主演及び振り付けで、ドビュッシーの『牧神の午後』を初演しているし、1年前にはストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』、更に1年後にはパリの楽壇を大混乱に陥れた『春の祭典』を初演している。
こうしたバレエ・リュスの時として過激なまでの創作バレエの潮流を、ラヴェル自身敏感に感じ取っていたに違いない。
それだけに『ダフニスとクロエ』においてもオーケストラにコーラスを純粋な音響として混入するなど、斬新な劇場的効果を狙っているが、それはあくまで人間の感性を基準に作曲されたもので、それまでのバレエの伝統を覆そうとしたり、難解な理論やテクニックの実践を試みたものではない。
それが当時のパリの聴衆にたやすく受け入れられた理由だろう。
『マ・メール・ロワ』は2種類存在するオーケストラ版のうち間奏曲を挿入したバレー・ヴァージョンに従っているが、指揮者のリリックで、しかもそれぞれの物語を幻想的な映像のように描写する表現が極めて美しく、またオーケストラのぬくもりのある音色も印象的だ。
また『高貴で感傷的な円舞曲』は鮮やかな色彩感に満たされた管弦楽法の再現が優れている。
1960年代初期の録音状態はかなり良好で、今回のSACDシングルレイヤー化によってオリジナル・マスターの音質が蘇っている。
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2019年07月28日
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1960年マーラー生誕100年祭に於けるライヴ録音で、ワルターの最上のステージを伝える貴重な記録であり、この時彼は実に83歳。
体力の限界を理由に一度は断りながら、ウィーン・フィルの熱烈なラヴコールに応え、ムジークフェライン最後の指揮台に立ったものである。
ワルターの勇断は名コンサート・マスター、ボスコフスキー率いるウィーン・フィル渾身の演奏ぶりによって報われた。
指揮者、楽員双方が、最後の共演であることを意識し、お互いの最高の面を見せ合ったのだろう。
マーラーの「第4」は、全曲を通してワルターの気合は十分で、決め所での迫力にも事欠かないし、匂い立つ弦がいっそうの芳香を放ち、魅惑の花々が咲き乱れる。
ウィーン・フィルが、それこそ身も心も美の女神にゆだねながら演奏している、とてつもなく美しい場面が続く。
殊に第3楽章の深遠な叙情には、ワルターのウィーンへの、そして人生への告別の歌のようで、涙なしに聴くことはできない。
唯一残念なのは、ソプラノ独唱の人選ミスで、シュヴァルツコップの歌唱は、ドイツ語のディクションの明瞭さが仇となり、説明くさい音楽になってしまっている。
このフィナーレは純粋さ、可憐さ、素朴さが求められる至高の音楽であり、シュヴァルツコップの起用は、化粧の匂いが強すぎるのである。
マーラーの「第4」とともに演奏されたシューベルトの《未完成》は、筆者の知る限り、同曲の最美の演奏である。
ワルター&ウィーン・フィルと言えば、誰もが、懐かしい郷愁、甘美な歌などを連想したくなるものだが、ここに聴く《未完成》は、まったく違う。
あるのは、死にゆく者、去りゆく者の魂の慟哭ばかりで、これは交響曲版《冬の旅》なのである。
第1楽章は傷ついた者の凄惨な旅路だ。
《冬の旅》で言えば、裏切られた恋人の家に別れを告げ、街を去る第1曲「おやすみ」から、第5曲「菩提樹」で菩提樹のささやきを振り切り、運命の深淵に引きずり込まれる「鬼火」に相当するだろうか。
胸一杯の愛情と未練を残しながら、この世から去りゆかねばならなかったシューベルトの魂の叫びが聴こえてくるようだ。
第2楽章は、破滅した者、絶望した者が見た一場の夢であり、幸福な昔への悲痛な階層である。
《冬の旅》で言えば、束の間の甘い夢である第11曲「春の夢」、抑えていた孤独から激情が爆発する第12曲「孤独」などにも喩えられるだろう。
《未完成》を書いていた頃のシューベルトはまだ25歳、「死」の影が眼前に迫っていたわけではないが、その初期の症状をすでに感じていたのではないだろうか。
もっとも、《未完成》は断じて標題音楽ではなく、交響曲版《冬の旅》説は、あくまで音楽の本質を見極めるためのヒントに過ぎないことを申し添えておく。
ともあれ、ワルターとウィーン・フィルのライヴは、その艶やかで美しい音色と、崩れるような風情、そして肺腑を抉るティンパニの最強奏などによって、胸から心臓を取り出して、我々に見せてくれるような、恐ろしくも美しい名演となった。
音質もALTUS盤で聴く限り、大変魅力的で、マイクが楽器に近く、それでいてバランスも悪くない、聴く者を夢見心地にさせてくれる名録音である。
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このBlu-rayではカルロス・クライバーその人の哲学と人間性、とりわけ彼の音楽に対する創造性、そして彼自身によって編み出された体全体をフルに使った指揮法の妙技についての解析が非常に興味深い。
彼自身は公式のインタビューに殆んど応じなかったが、彼の実姉や仕事で彼と実際に関わった人達の証言はいずれも貴重だ。
この天才指揮者がどのように隣人に接し、またどのようなアプローチで楽曲を捉え、オーケストラを率いていたかに焦点を当てた構成になっている。
尚、日本語の字幕スーパーに関しては、例によっていくらかやっつけ仕事的で、かなり危なっかしい訳だが、許容範囲とすべきだろう。
クライバーは良くも悪くも生涯芸術家であり続けた。
もし仮に彼のために理想的な条件の総てを提示して指揮を依頼したとしても、それが実現するかどうかは甚だ疑わしい。
何故ならそれはひたすら彼の内面に関わる問題だからだ。
もし自分自身を満足させる演奏ができないと判断した時にはいつでも、彼は何の躊躇もなく、また誰に遠慮することなく仕事を放棄した。
周囲がそれを許さなくても彼自身が許した。
それを駄々っ子の気まぐれと言ってしまえばそれまでだが、彼にしてみればそれは自己との葛藤の結果であり、そうした選択しか彼には残されていなかった。
晩年のクライバーは壮年期に比べると、ただでさえ少なかった音楽活動がめっきり減っただけでなく、その質にも変化をきたしていたとされる。
既に末期症状と診断されていた癌の影響は免れなかっただろうし、それに伴う彼の創造力の枯渇が原因かも知れない。
いずれにしても彼が指揮棒を取るまでには、マテリアル的にも心理的にも相応の準備と充電期間が必要であったことは疑いない。
しかし最終的に生涯の音楽活動が、彼の人生にとって何であり得たかについては、死の直前に単身で赴いたスロヴェニアへの道のりのエピソードも含めて一抹の謎を秘めている。
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2019年07月27日
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オルフェオ・レーベルが始めた廉価盤シリーズの新譜になり、これまで個別売りだったシュポーアのクラリネット協奏曲全4曲を纏めた2枚組になる。
カール・ライスターのソロ、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮、南ドイツ・シュトゥットガルト放送交響楽団による1983年のセッション録音である。
音質も良くデ・ブルゴスの巧みなサポートで、ライスター全盛期のクールな超絶技巧が堪能できるセットだ。
こうしたパガニーニばりのヴィルトゥオジティを前面に出した作品は、カリスマ性を持った名人が演奏するのでなければ、これでもかというテクニック誇示の連続にうんざりしてしまう。
流石にライスターの流暢で目の醒めるようなソロには聴き手を飽きさせないだけの音楽性の裏付けがある。
ルイ・シュポーア(1784-1859)の作曲家、ヴァイオリニストとしての活動期間は、ほぼヴェーバーやシューベルトのそれと一致しているが、この2人に比べると傑出した大作に欠けているために、いわゆる大作曲家とは見做されていない。
しかしこの4曲のクラリネット協奏曲では彼の多彩な感性を名人芸の中に織り込み、クラリネットの表現力を最大限発揮できるように作曲されている。
勿論モーツァルトやヴェーバーの協奏曲に比較すれば、いくらか饒舌な面が無きにしも非ずだか、愛好家のための楽しみの音楽としては第一級の作品と言えるだろう。
また彼は室内楽のジャンルでも天性の器用さを発揮して、アンサンブルのためのレパートリーを充実させる魅力的な作品群を遺している。
カール・ライスター(1934-)は1959年にベルリン・フィルに入団して以来、カラヤンの下でオーケストラの黄金時代を築いたスター・プレイヤーの1人で、1993年の退団まで同楽団の首席クラリネット奏者として君臨した。
ウィーン・フィルのプリンツが亡くなって久しい現在では、現役クラリネッティストとしてはおそらく最長老だろう。
筆者が彼の演奏を最後に聴いたのは2014年で、ライプツィヒにあるメンデルスゾーンの家で毎週催される日曜コンサートにたまたま出演していた。
その時はベートーヴェンのピアノ・トリオ『街の歌』を演奏したが、音色にはやや翳りが出ていたにも拘らず、切れの良いテクニックは相変わらずだったことが思い出される。
ちなみにこのベートーヴェンの作品はフルニエ、ケンプとのキャスティングによるセッション録音がドイツ・グラモフォンからリリースされたベートーヴェン・エディションに組み込まれた。
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2019年07月26日
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チェコの若手指揮者ヤクブ・フルシャは2016年からバンベルク交響楽団の首席指揮者に就任して、定期コンサートだけでなく彼らとのレコーディング活動も着実に進めている。
2017年にフルシャの発案で立ち上げたチューダー・レーベルとの企画が、ブラームスとドヴォルザークの交響曲を1曲ずつ併録する2枚組のハイブリッドSACDシリーズで、第1集は両作曲家の最後の交響曲から開始された。
これは売れ筋を見込んだカップリングとも考えられるが、オーソドックスな解釈の中に彼ら独自の音楽性とテクニックを表現し得た素晴らしい仕上がりで、是非シリーズ全体を聴いてみたいという気になった。
彼らの本拠地カイルベルトザールで『新世界』を聴いた時思ったことだが、フルシャは即興性とは縁のない指揮をするし、指揮台の上でパフォーマンスするようなオーバーなジェスチャーも皆無だ。
総てがオーガナイズされていて、そこから逸脱することを許さないが、それでいて陳腐な演奏に陥らない閃きと作品の構造を丁寧に仕上げていく知性が感じられる。
第2集はブラームスの第3番及びドヴォルザークの第8番で、やはり作品番号を逆に辿っていく方法をとっている。
ドヴォルザークが2018年2月、ブラームスが同年5月のライヴ録音で音質は極めて良好。
客席からのノイズもなく、SACDのきめ細かい透明感のある音質が再生される。
フルシャはオーケストラからヴィブラートを除いてハーモニーを純正に保つ訓練をしていると思われる。
純正調の無類に力強く重厚な和音とその響きの美しさは、特にウィンド、ブラス・セクションに表れている。
ブラームス冒頭から第2楽章にちりばめられたアンサンブル、第3楽章で木管のユニゾンで繰り返されるテーマや、終楽章でのブラスが加わって静かに終わるコーダに至るまでが精緻でありながら説得力を持ったサウンドで構築され、音楽的迫力とは決して音量のダイナミズムだけではないことを証明している。
一方ドヴォルザークはフルシャのお国物だが、ここでも熱狂的なナショナリズムの噴出ではなく、あくまでもブラームスから多大な影響を受けたロマン派の作曲家の作品としての解釈がある。
スラヴ的なエレメントが剥き出しになるのではなく、何よりも交響曲の体裁がしっかり整えられ、作曲家のオーケストレーションへの創意が非常にすっきりと再現された演奏だが、終楽章のブラスの惜しみない咆哮も忘れてはいない。
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2019年07月25日
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クラシック・ギター界の新星、ミロシュ・カラダグリッチが本格的なオーケストラとの合わせものを収めた1枚。
ロドリーゴの『アランフエス協奏曲』及び『ある貴紳のための幻想曲』では、彼の研ぎ澄まされた音楽性とテクニックがヤニク・ネゼ=セガン指揮するロンドン・フィルに支えられて鮮やかに冴え渡っている。
オーケストラからも指揮者のきめ細かな指示による、ロドリーゴの気の利いたオーケストレーションがいたるところで感知される。
この曲のラテン的な熱狂とは一線を画した精緻でクールな表現かも知れないが、それは決して優等生同士の醒めた演奏ではない。
あらゆるバランスが考慮された音楽的に非の打ちどころのない仕上がりになっているのが特徴だ。
聴き手に媚びることのないミロシュの爽快なヴィルトゥオーシティも充分発揮され、如何にもニュー・ジェネレーションのギタリストの登場に相応しい内容を持っている。
その他に管弦楽を伴わないマヌエル・デ・ファリャの『ドビュッシーの墓碑銘への讃歌』、バレエ音楽『三角帽子』より粉屋の踊り「ファッルーカ」、そしてロドリーゴの『祈りと舞踏』の三つの独奏曲が収録されている。
中でも「ファッルーカ」はロンドン王立音楽院時代のミロシュの師であったマイケル・レヴィンによるギター・ソロ用のアレンジで、ミロシュの澄み切った音色がアンダルシアの幻想的な印象を鮮烈に伝える演奏が白眉だ。
ライナー・ノーツの始めのミロシュ自身の言葉「このレコーディングはクラシック・ギターの歴史の流れを変えた作曲家とその作品に対する私的なオマージュ」に示されている。
当CDはホアキン・ロドリーゴとマヌエル・デ・ファリャという革新的な発想と伝統的な民族音楽との止揚を試みたスペインの2人の作曲家の5つの作品で構成されている。
特にロドリーゴはギターに斬新な管弦楽法を交えてソルやタレガによって受け継がれたお家芸のギター・スクールに新局面を切り拓いた人でもあるし。
またデ・ファリャのギターに対するそれまでの娯楽的な大衆楽器というイメージを刷新して、その芸術性に着目した作品は注目に値する。
確かに彼らの存在が将来のギター音楽のあるべき方向を示唆したと言えるだろう。
ライナー・ノーツは26ページほどで、多数のカラー写真を挿入した英、独、仏語による解説付。
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2019年07月24日
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本書のタイトル『自分のなかに歴史をよむ』は著者阿部氏の歴史を理解する上での、自分自身の接し方を解説したもので、彼にとって歴史を理解することは事件の流れをクロノロジカルに記憶することではなく、その根底に潜んでいる自分の内面と呼応する関係を発見し、納得した時初めて理解できたと言えるとしている。
前半では自伝的な記述が多く、彼が少年時代に預けられた修道院での生活が思い出されているが、それは彼とヨーロッパを繋いだ鮮烈な体験であり、その後の彼の生涯を決定づける経験になっていることが理解できる。
しかし体験を活かすには、それを対象化する自己の意識と幼い頃の感受性を忘れないことが重要だとしている。
苦学生だった頃、優れた教師に恵まれ、借金をしながらも自分の進むべき道を模索し続けたことで、彼は35歳でドイツ留学を果たすが、ドイツでの古文書研究から想像していなかった副産物を得ることになる。
それが中世の差別意識の萌芽で、この研究は帰国してから『ハーメルンの笛吹き男』として実を結ぶ。
彼が調査の課題としたドイツ騎士修道会の古文書を読んでいる中で、偶然1284年6月26日にハーメルンの町から130人の子供達が行方不明になったという記録を見つけた時、体に電流が走るような戦慄を覚えたと書いている。
それは幼い頃に読んだ不思議なネズミ捕りのメルヘンが根拠を持つ実話だったことへの衝撃だった。
しかしこの笛吹き男が当時忌み嫌われ、差別されていた賤民だったことから彼の興味は俄然差別意識の原因とその成立の解明に向かう。
ただしこの男は実際には笛吹ではなく、当時貧困層の外部への入植を世話する斡旋人であったと考えている。
そこで阿部氏は何故彼らが賤視されるようになったかを調べるに至ったようだ。
実はそれがキリスト教の布教に大きく影響を受けていることに気付く。
中世に生きた人々の宇宙観は人間が制御し得る小宇宙とそれが不可能な大宇宙という関係にあったようだが、キリスト教はそれを否定し、総ては全能の神が創造した唯一の宇宙という教えが定着する。
それによってそれまでふたつの宇宙の狭間で生業を営んでいた死刑執行人、墓掘り、放浪職人や旅芸人などは、その神秘性を暴かれ職業的権威が失墜し、必要な職業であるにも拘らず彼らは単なる汚れ仕事に携わる人、あるいは河原乞食としての賤視が始まる。
この現象を理解することは容易ではないと著者自身書いているが、特殊な能力を持つ者が公の立場から一度排除されると、かえって周りからやっかみを買うだけでなく、彼らに抱いていた畏怖の念が歪められて差別の対象になるという説には、人間にそもそも備わっている差別意識を解明しているようで重みがある。
だからハーメルンの町では多くの子供達を連れ出した張本人として辻芸人の笛吹き男に責任転嫁したメルヘンが形成されていったというのが事実らしい。
勿論メルヘンでは約束したネズミ捕りへの支払いを拒否した町の裏切りというスパイスも巧みに加えて教訓にしているのだが。
世界宗教を標榜するキリスト教では1人でも多くの信者を獲得するために、民族、文化や言語の隔たりを超越した合理性が求められるようになる。
ヨーロッパと日本の間に存在する隔たりを説明する時、産業革命をその根拠の裏付けにする学者もいるようだが、確かに物質的あるいは時間的な合理性には頷けるとしても、より精神的な合理性は阿部氏の言うように中世を通して定着するキリスト教の影響が大であるとする考察には説得力がある。
ここからは日本の負の部分が語られている。
つまり合理性に欠けることが閉鎖性を促すという考えで、欧米では能力次第でアジア人が大学教授やオーケストラの指揮者、バレエのプリマにもなれるが、日本の伝統芸能の世界では完全に門戸が閉ざされているということだ。
近年大相撲で横綱になる外国籍の力士も出てきたが、それは相撲部屋という因習を甘んじて受け入れるという大前提があり、相撲協会でも力士不足を解決する已むに已まれぬ事情があることも事実だろう。
西洋人が能や歌舞伎役者になることは著者の言葉を借りれば絶望的だ。
阿部氏は別の著書で、日本の旧帝国大学は西洋からその制度を取り入れたものの、実際には国家のために尽くす官吏や上級役人を養成する施設で、学生が自主的な研究で成果を上げる場ではないと書いている。
こうした現状からは高度な学術の研究や発展は望むべくもないとしている。
確かに優秀な能力を持つ者が、国にへつらうことを学生時代から鍛えられているというのは耳の痛い話だ。
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2019年07月23日
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ヘンスラー・プロフィール・レーベルからのムラヴィンスキー・エディション第4集になる。
これまでにリリースされた3セット18枚に更に今回の10枚が加わって、これだけでも立派なコレクションだ。
それらはムラヴィンスキーとレニングラード・フィル及びソヴィエト国立交響楽団との長期間の音楽活動の記録であり、また歴史的なライヴからの貴重な音源に違いない。
演奏についても充実した内容であることは勿論だが、一方録音について言えば10枚全部が例外なくモノラル録音で時代相応以上の音質ではなく、お世辞にも褒められるものではない。
しかもライヴともなると客席からのマナーが疑われるような盛大な咳払いが聞こえてくるのが煩わしい。
東欧圏では旧東ドイツやチェコで逸早くステレオ録音が採用され、1959年あたりから実用化が進んだが、旧ソヴィエトではメロディアでも1960年代後半になるまで一般化されなかった。
これはステレオ再生機自体の普及が遅かったこともあるので致し方ないだろうが、録音技術的にも西側に大きく遅れをとっていたようだ。
いずれにしてもファンは別として入門者はもう少し状態の良いものから聴き始めることをお薦めしたい。
曲目の中で特に興味深かったのはCD6のショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番イ短調とCD10のババジャニアンのヴァイオリン協奏曲イ短調で、前者はソロにダヴィッド・オイストラフを迎えている。
1956年11月30日のスタジオ録音で、全員が前年に行った初演メンバーであることも特筆される。
ショスタコーヴィチの良き理解者であったムラヴィンスキーのオリジナルの解釈を聴くことができるし、オイストラフの洗練の極致のような至芸と力強さが印象的だ。
また1963年のセッション録音だけに破綻のない良好な音質が保たれている。
後者アルノ・ババジャニアンは20世紀に活躍したアルメニアの作曲家で、このヴァイオリン協奏曲には強烈な民族色というより後期ロマン派の影響が感じられる。
だからそれほど先鋭的な作品ではないのだが、ソロを弾くコーガンの剣の切っ先のような鮮烈な音色と遊びを許さない厳格な奏法が作品に良くマッチしていて独特の効果を出している。
こちらは1949年11月15日のレニングラード・ライヴでソロ・ヴァイオリンは比較的良く採音されているが、オーケストラは漠然としていてノイズもかなり含まれている。
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2019年07月22日
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作曲当時のフランス貴族趣味に応えた、現代人のBGMとしても極上品質のフルート音楽を残したジャック-マルタン・オトテールの笛の為のソロやデュエットを扱ったアンサンブル第2集には、フリュート・ア・ベク、つまりリコーダーと通奏低音の為の作品も含まれている。
当盤の選曲の特徴は、フルート作品だけでなく、更に素朴なリコーダーで演奏された曲も含まれていることだ。
と言っても作曲者自身厳密にトラヴェルシエール(横笛)とフリュート・ア・ベクを区別して作曲していたわけではない。
ここに収録された小品集も音域さえ合えば演奏者の判断で楽器を選択することになり、時として笛に替わってオーボエで演奏することも可能だ。
ここでも第2組曲と第4組曲はリコーダー用にそれぞれホ短調とニ短調に移調されているし、2本のリコーダーの為の組曲Op.4はトラヴェルソで演奏している。
1曲目の通奏低音つきプレリュードト短調は短い曲ながら高度な音楽性を持った味わい深い曲で、技術的にも熟練を必要とする典雅なフランス・バロック趣味が聴き所だ。
2曲目の組曲ト短調はオットテールの作品の中でもトラヴェルソ奏者のレパートリーとして取り上げられる機会が多い名曲で、その哀愁を帯びた華やかさとイネガルを駆使した絶妙なリズム感が魅力的だ。
また、トラック17〜22のような伴奏楽器無しの簡素なフルート・デュエットの作品を書いたのはオトテールが最初と言われている。
演奏者はトラヴェルソ奏者のフィリップ・アラン-デュプレが中心になったアンサンブルでリコーダー・ソロは女流のロランス・ポティエ。
尚このCDでは通奏低音からテオルボを省いている。
第1集と同様1995年の録音でピッチはa'=392。
ヴェルサイユの宮廷で活躍したル・ロマンの愛称でも知られるオトテールは作曲家として、また笛の演奏家、教育者としても当時から名を馳せていた。
同時に著名な楽器製作者のファミリーの一員でもあったことから彼自身の製作した木管楽器が現在でも数多くコピーされている。
彼は初心者の為の笛のメソードを書いた最初の音楽家で、その他にも笛の為の基礎練習曲集『プレリュードの芸術』も出版している。
この録音に使われた楽譜はS.P.E.S.社及びMINKOFF出版のファクシミリ版になる。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月21日
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音楽家及び楽器製造者として知られた一族オトテール家の1人、通称オトテール・ル・ロマンは、フラウト・トラヴェルソ奏者として名を馳せた。
その音楽は、当時の貴族趣味を反映した、知る人ぞ知る趣味の良さを誇る一級品である。
廉価盤ながらオトテールの笛のためのアンサンブルを2枚のCDに分けて収録した秀演で、これはその1枚目に当たる。
オトテールの室内楽曲のまとまった録音としてはフランス・ブリュッヘンに続く草分け的なもので、1996年のリリースだがその演奏水準の高さは現在でも最も優れたセッションのひとつと言えるだろう。
フランスのトラヴェルソ奏者で、また自身ピリオド楽器製作者としても知られるフィリップ・アラン=デュプレは、イタリアのアッシジにある聖フランチェスコ修道院の図書館に保管されている作者不詳の3ピース・タイプのトラヴェルソ(a'=392Hz)をコピーしてこの演奏に使っている。
コピーは拓殖材と黒檀の2種類が用いられていて、深みのある豊かな音量とおおらかで優雅な音色は、サンティッポーリト教会の潤沢な残響と相俟って18世紀のヴェルサイユの宮廷音楽を髣髴とさせてくれる。
一方通奏低音を担当するヤスコ・ウヤマ=ブヴァールの弾くチェンバロは1741年製のオリジナルのエムシュになる。
通奏低音には他にヴィオラ・ダ・ガンバとテオルボが加わった4人編成で、当時の演奏習慣を再現している。
この第1集では組曲の第1番ニ長調、第2番ト長調、第3番ト長調及び第4番ホ短調の4曲と2曲の2本のトラヴェルソのための小品が収録されていて、デュエットではジャン=フランソワ・ブジェが相手方を務めている。
さらにトラック22には録音されることが少ない短い作品だが、トラヴェルソ・ソロのための『エコー』が加わっている。
この小ピースは狩の情景を横笛一本でイメージさせる、言ってみれば一種のファンタジーで、フォルテとピアノの指示が交互に繰り返される森の中のエコー効果を狙ったユニークな曲だ。
続く第2集と共に古楽ファン、並びにトラヴェルソ・ファンには是非お薦めしたい1枚だ。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月20日
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最初の出会いが運命を決定づけることがある。
筆者が大学1年の時に中古CDショップで見つけたのがこのメシアンの《トゥーランガリラ交響曲》だった。
2枚組のCDで、メシアンの大作に、残りの1曲が今から思えば絶妙なるカップリングであるが、《ノヴェンバー・ステップス》を始めとする武満徹作品集だった。
武満作品は1967年11月9日に小澤征爾指揮ニューヨーク・フィルの定期演奏会で世界初演され、小澤征爾は引き続き自らが音楽ポストにあったカナダのトロントでもカナダ初演を行ない、さらに《トゥーランガリラ交響曲》のカナダ初演も行なっている。
こうした事情から、これら2つの20世紀の名作が同時にレコーディングされることになったらしい。
明らかに作品の規模としてはメシアンが大きく、演奏時間も80分近いが、ライナーノーツの解説の大半が武満徹の話題作に費やされていたのも今から振り返ると懐かしい。
当時としては、作品も演奏も、それだけの歴史的快挙だったのである。
当然に《ノヴェンバー・ステップス》も衝撃的だったが、《トゥーランガリラ交響曲》はその型破りな音響と色彩感、錯綜するリズムと旋律が織りなす迷宮のような神秘性、気怠るくなるような流れの美しさ、そして金属的な響きが作り出す喧噪的陶酔感に打ちのめされてしまった。
否、度肝を抜かれたと言った方が正しいのかもしれない。
トゥーランガリラとは梵語であり、トゥーランガは流れる時、リラとは遊びを意味し、それは究極のところ愛の歌、生と死の賛歌に通じるとのことだが、1949年バーンスタインの指揮で初演された20世紀の交響曲の大作であることは論を俟たない。
小澤征爾の指揮は触発する美しさと前進してやまないエネルギー感に満ち溢れており、百花繚乱の音響の坩堝を嬉々として泳ぎ回り、走り、飛び跳ねて爽快この上ない。
全体は10の楽章からなるが、作品は音楽だけが持ち得る呪術的力に満ち溢れており、求心力と遠心力が同時に作用し合ったかのような境地に誘われ、不安なのか、安心してよいのかわからなくなってくるほどである。
音楽は媚薬、否、それ以上に魔物であることを教えられた瞬間である。
CDの解説書は黛敏郎氏のエッセイが添えられていたが、それには、メシアンの音楽には展開というものがなく、旋律の断片と音型とをこれでもかこれでもかと積み上げ、積み上げてはガラガラッと崩し、また組み立て直す、そんな音楽であるとあった。
さらに氏は、そんなメシアン作品は手の内を知ると辟易してくるが、はまると大変で、たまらなく魅力的になる、とも記されていた。
しかもそのエッセイにはタイトルがあり、「天国的退屈さ」とあって、さすがに作曲者が看破する作品の本質か、と恐れ入った記憶がある。
音楽はどこまで進化していくのか、オーケストラはどこまで巨大になっていくのか、その成果に浸らせる今なお鮮度溢れる演奏であり、また素晴らしい交響曲である。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月19日
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1968年に催されたスイス・ルガーノ音楽祭からのライヴで、当日はモーツァルトの弦楽四重奏曲第15番ニ短調KV.421、ドヴォルザークの同第12番ヘ長調Op.96『アメリカ』、それにラヴェルの同ヘ長調で締めくくっている。
このコスモポリタン的なプログラミングが彼らの演奏の特質を良く表している。
イタリア弦楽四重奏団はモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス及びヴェーベルンの弦楽四重奏曲全曲をレパートリーにしていたので、全員イタリア人でありながらドイツ系の曲目に関してはスペシャリストだった。
中でもモーツァルトは彼らの明るい響きとカンタービレの魅力を縦横に発揮した演奏が聴き所だし、またこの曲では終楽章のドラマティックな表現も堂に入っている。
一方ドヴォルザークではテンポをかなり自由自在に変化させながら、メリハリを効かせた軽快なアプローチが彼らのオリジナリティーで、中でも終楽章の一気呵成に盛り上げるコーダは爽快だ。
確かにドヴォルザークらしいかといえば、決してそうではない。
第2楽章のレントもひたすら明朗快活に歌っていて、この曲の持つ特有の湿度や寂寥感などはさっぱり感じられないが、そうしたローカル色を抜きにすればこれはこれで充分美しい演奏だ。
ラヴェルでは彼らの明晰な解釈がメリットになって、整然として調和のとれたアンサンブルが、まさに練達の技と言うに相応しい。
第2楽章のピチカートや終楽章はいかにもラヴェルらしい色彩を感じさせる。
ちなみにイタリア弦楽四重奏団はスメタナ弦楽四重奏団と同様に、総てのレパートリーを暗譜で演奏したが、更に楽章間での調律を一切避けていた。
そのために曲によってはインターバルが非常に短く、緊張感を保ったまま即座に次の楽章に進むことも可能にしていた。
また彼らは旋律を歌わせるためにはテンポを動かすことも意に介さないし、時にはオーケストラを髣髴とさせる豪快なダイナミクスの変化も得意とした。
曲の仕上げ方が一見単純明快のようでいて、常にそうした意外性や驚きを体験させてくれる。
全体的な評価を少し控えめにしたのは音源のためで、おそらくマスター・テープの保存状態の悪さが原因と思われる、小さな音跳びや揺れが数箇所に聞かれる。
ステレオ録音で音質自体も決して悪くないので残念だ。
尚拍手の部分はカットされている。
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2019年07月18日
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『展覧会の絵』でムーティがフィラデルフィア管弦楽団から引き出す音色は色彩に富んでいるうえにテンポの設定も軽快だ。
ちなみにシノーポリ、ニューヨーク・フィルの演奏時間が36分30秒であるのに対してムーティはほぼ33分で、それぞれの曲の間に殆んど間隔を置かないのも特徴的だ。
彼の解釈には屈託がなく開放感に満ちていて、気前良くオーケストラを鳴り響かせた絢爛たる音の絵画館を披露している。
確かにムソルグスキーの精神性を意識した表現とは言えないが、この曲は殆んどラヴェルのオーケストレーションを聴く為の曲と言ってもいいほど洗練された華麗な音楽に仕上がっていることを思えばこうした演奏も可能だろう。
何よりもフィラデルフィアの持ち味を活かしきっていて、聴いた後に独特の爽快感を残してくれる。
彼は濃淡をつけ彫りの深いサウンドで勝負していて、美しき清き部分と暗く幻惑的な部分がクリアに交錯する。
『カタコンベ』や『死せる言葉による死者への呼びかけ』などでは、まがまがしさ、おどろおどしさのスパイスも程よく効かせている。
一方、線条的なスピード感は基本におきながらも、これは曲によって大胆に可変的、局所局所で炸裂するようなサウンドの迫力も抜群で、その爆発力は圧倒的である。
だからといって決して大味で軽薄な音楽作りではなく、例えば『古城』で聴かせるシルキーなカンタービレの美しさや『牛車』での、軋みながら通り過ぎる荷車の映像的な描写、そして超スペクタクルな『ババヤーガの小屋』と終曲『キエフの大門』にはムーティとフィラデルフィアの面目躍如たるものがある。
尚もう1曲の『禿山の一夜』も速めのテンポで統率した軽快な演奏で、しかもこの曲でもオーケストラの色調は明るく、不気味な雰囲気よりもむしろカラフルでアニメーション的なファンタジーの世界が展開されている。
こちらもムソルグスキー特有のロシア風土の薫りは希薄だが、ムーティのインターナショナルな演出の傑出した例だろう。
廉価盤だが、音質の良さも特筆される。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月17日
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ソニー・クラシカル・マスター初回限定生産廉価盤シリーズのひとつで、ルービンシュタインのブラームスが9枚のCDに収められている。
ただし2曲のピアノ協奏曲を含むソロ用の作品は最初の3枚のみで、残りの6枚は総て他の協演者とのアンサンブルになる。
ブラームスの大規模な管弦楽作品の数はそれほど多くないが、室内楽に関しては曲数もさることながら、その種類の豊富さと質の高さでも驚くほど充実している。
この内省的な作曲家が、それだけ精力を傾けて開拓した分野が室内楽だったとも言えるだろう。
ルービンシュタイン自身も全盛期の頃から積極的にアンサンブルに取り組んで、幸い多くの録音を残してくれた。
ここでは彼がリーダーシップをとった、しかし巧みな調和とバランスを保った秀演の数々を鑑賞できる。
いずれもステレオ録音だが、ピアノ協奏曲第1番はフリッツ・ライナー指揮、シカゴ交響楽団による1954年の収録で、一方第2番はヨゼフ・クリップス指揮、RCAビクターとの1958年の旧録音になる。
この頃、既に円熟期にあった巨匠のダイナミックで奔放とも言える演奏が聴きどころだ。
また晩年に採られたソロのための小品では、角のとれた淡々とした情緒の中にも、秘めた情熱が込み上げてくるような表現は彼の解釈のひとつの境地を感じさせずにはおかない。
尚ピアノ・ソナタは第3番ヘ短調のみを入れている。
このセットの後半は、シェリングとの3曲のヴァイオリン・ソナタ、ピアティゴルスキーとの2曲のチェロ・ソナタ、そしてシェリングにチェロのフルニエが加わった3曲のピアノ・トリオ、グァルネリ四重奏団のメンバーと組んだ3曲のピアノ・カルテット、更には同四重奏団のフル・メンバーによる作曲家唯一のピアノ・クインテットなど、室内楽の代表作が目白押しだ。
確かにルービンシュタインがクラリネットとのアンサンブルを残さなかったのは惜しまれるが、このボックス・セットは彼の充実した室内楽の記録として充分な価値を持っている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月16日
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あたかも指揮者カール・リヒターのスピリットが演奏者全員に乗り移ったかのような気迫に満ちた、バッハの最高傑作の名に恥じない《マタイ受難曲》だ。
この曲をより器用に、それらしく表現した演奏は他にも存在するが、キリスト受難のエピソードを単なる絵空事に終わらせず、のっぴきならない生きたドラマとして描き出した例は非常に少ない。
リヒターのバッハ、特に《マタイ》はバネのきいたリズムを特徴としている。
ともすると、懶惰に陥りがちなわたしたちを励起させるリズムだが、決して押し付けがましくはない。
どうしても、そのリズムの勢いに突き動かされ、ついて行きたいと思わずにはいられぬ躍動感に満ちている。
そして、それはあるひとつの目標に向かって、ともに心を合わせて前進してゆくときの一体感を掻き立ててくる。
この目標は、神との出会いを目指しているのは言うまでもなく、神の存在をフィジカルに体得するリズムとでも言おうか。
その時、わたしたちは人間が霊的な存在だと知り、この霊的なリズムに乗ると、誰もが超越的な空気に触れ、物質的な欲望がいかに卑小で、ともに同胞であることが、すべてに優るよろこびだとわかる。
それが神とともにあるという意味だが、その意味が今日忘れられている。
というよりもすでに経済の高度成長期の1970年代に、わたしたちはリヒターが望んだのとは別の生き方に引かれはじめた。
彼はその離反に深く悩み苦しんだのだろう、彼の2度目の《マタイ》の録音は、それを食い止めようとする絶望的な努力と挫折感を響かせている。
株価の変動に一喜一憂し、金勘定に忙しいわたしたちは、リヒターの《マタイ》にもう一度立ち返って、心を問い直す必要があるのではないか。
ソリスト陣にも作品の核心を突くことのできる歌手たちを起用しているのも聴き所だ。
たとえばエヴァンゲリストを演じるエルンスト・へフリガーの迫真の絶唱は他に類を見ない。
それはこの受難を書き記したマタイ自身が直接この物語の中に入り込んで、聴き手に切々と訴えかけてくるような説得力がある。
少年合唱を含むコーラスにおいても洗練された和声的な美しさよりも、むしろ劇的な感情の表出と状況描写に最重点が置かれているのも特徴的だ。
リヒターのバッハはオリジナル楽器や当時の歌唱法を用いたいわゆる古楽としての再現ではないが、あらゆる様式を超越してしかも作品の本質に触れることのできる稀に見る演奏として高く評価したい。
1958年の録音自体かなり質の良いものだが今回のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、より明瞭な音像を体験できるようになった。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月15日
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フィッシャー=ディースカウが録音した作品は、シューベルト、シューマン、ヴォルフなどの歌曲全集をはじめ膨大な数にのぼるし、また第一線での活動時期が長かったこともあって、何回も録音している曲もある。
そうした中にあっても、この演奏は彼の最高の演奏の1つに数えられる。
1曲めの『さすらう若人の歌』では、マーラー特有のデカダンス的な雰囲気とただならぬ緊張感が漂っているという意味では1951年のウィーン・フィルとのライヴが優っているが、音質の面ではスタジオ録音の当1952年盤をお薦めする。
どちらも20代だったフィッシャー=ディースカウの絶唱が堪能できる演奏で、51年の破綻寸前のはげしい慟哭の迸るライヴに対して、このスタジオ録音は内容と形式、声とオケとが完璧なバランスを得て模範的な演奏を示し、歌曲録音史上の金字塔の1つに数えられる。
フィッシャー=ディースカウなんと27歳の時に、青春の溌剌とした息吹きや、言い知れぬ深い挫折の詠唱が他の誰にも増して秀逸だ。
フィッシャー=ディースカウとフルトヴェングラーは、1951年のザルツブルク音楽祭で『さすらう若人の歌』で共演した。
フルトヴェングラーは、フィッシャー=ディースカウの自己投入のはげしい歌いぶりに触発され、敬遠気味のマーラーを見直すきっかけを得たほどだった。
フルトヴェングラーがフィッシャー=ディースカウに「君のおかげでマーラーをようやく理解できるようになった」と言ったのは有名だが、優れた演奏家が互いに触発されて生まれた稀有の名演の記録であり、今なお最高の演奏でもある。
翌年フィッシャー=ディースカウとともに『トリスタンとイゾルデ』を録音した折、セッションが余ったので、それを利用して『さすらう若人の歌』を録音しようと指揮者自ら申し出た。
フルトヴェングラー指揮するフィルハーモニア管弦楽団は、後の時代のより洗練された緻密な響きではないにしても、指揮者のロマン性とマーラーの病的なまでに凝った音楽性を恐ろしいほど反映させている。
フィッシャー=ディースカウはフルトヴェングラーの薫陶を受けた後、この曲を彼の最も得意とするレパートリーに加えて、その後もライヴやセッションでしばしば採り上げ、そうした録音も少なからず残されている。
それぞれに優れた演奏であると同時に、年齢とともに表現の移り変わりも感じられるが、中でも1969年のラファエル・クーベリック指揮、バイエルン放送交響楽団との協演が彼の壮年期の頂点をなすものだろう。
しかしその中にあっても、これは単に若かりし頃のフィッシャー=ディースカウの歴史的名盤の域をはるかに越えた芸術品だし、フルトヴェングラー指揮の管弦楽部の表現と見事に一体化している。
2曲めの『亡き子を偲ぶ歌』は当初からバリトン・ソロとオーケストラを想定して書かれた作品だが『さすらう若人の歌』と同様音域が非常に広く、歌唱技術的にも困難であるばかりでなく、幼い娘を失った父親の内面的な屈折した悲しみという特殊な表現を要求されることからバリトン歌手による録音はそれほど多くない。
ここでのルドルフ・ケンペ指揮、ベルリン・フィルとのセッションは、フィッシャー=ディースカウが極めた精緻な心理描写が面目躍如たる演奏で、この曲の代表盤と言ってもいいだろう。
尚女声で歌われたものとしてはコントラルトのキャスリーン・フェリアーを迎えたブルーノ・ワルター指揮、ウィーン・フィルの1949年盤が質の高い演奏としてお薦めできる。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月14日
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1985年の5月17日に催されたスイス・ルガーノ音楽祭のコンサートからのテレビ放送用録画で、ライヴの映像としては良くできているし、画質、音質ともに良好だ。
この日はミレッラ・フレーニとチェーザレ・シエピのジョイント・リサイタルで、指揮はブルーノ・アマドゥッチ、スイス・イタリア語圏放送管弦楽団の協演になる。
コンサート開始と後半にそれぞれ置かれた2曲の序曲を含めて正味1時間程度のプログラムが組まれている。
2人の歌う曲目は一晩のコンサートとしては物凄いオペラ・アリアばかりが並んでいて、改めて彼らの実力を窺わせる内容になっている。
フレーニは当時キャリアの真っ只中にあり、押しも押されもしないプリマ・ドンナだけあって、その美声と声の輝かしさはまさにイタリア・オペラの醍醐味だ。
ただし、筆者は彼女の舞台を何度も観たが、劇場内に響き渡る声は、残念ながらこうした録音ではその真価が分かりにくいというのが実感だ。
一方当時62歳だったシエピはその4年後に公の舞台から引退しているので全盛期の力強さはやや後退したものの、全くフォームを崩さない、揺るぎないカンタービレと深々とした低音、そしてフレージングの巧みさなどはまさに往年のシエピだ。
またエレガントな舞台マナーは流石にフルトヴェングラーに認められたドン・ジョヴァンニ歌いで敬服させられる。
オットー・ニコライの『ウィンザーの陽気な女房達』序曲に続く、グノーの『フィレモンとボーシス』からの「ジュピターの子守唄」は、この頃のシエピほど巧く歌える歌手はいないのではないかと思えるほど気品と慈愛に満ちているし、最後に長く引き伸ばされる低いEの音の素晴らしさも特筆される。
モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』からは彼の十八番だったタイトル・ロールではなく、レポレッロの「カタログの歌」を取り上げているが、この役にしてはあまりに高貴で立派過ぎる歌唱だ。
尚最後には同オペラからのデュエット「手を取り合って」が歌われるが、このコンサート唯一の二重唱になっている。
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2019年07月13日
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昨年2018年がアメリカの軽音楽作曲家ルロイ・アンダーソン生誕110周年ということもあって、既にふたつのレーベルから自作自演集がリリースされた。
スクリベンダムと英リアル・ゴーン・ミュージックでどちらも4枚組リマスタリング盤だが収録曲目が若干異なっていて、こちらのスクリベンダム盤は最後に自作ミュージカル『ゴルディロックス』からのセリフを除いた序曲、アリア、重唱及びコーラスのステレオ録音を組み入れているのが特徴だ。
演奏者ではソリストの名前はある程度記載されているがオーケストラについては一切明らかにされていない。
過去にリリースされたCDにはルロイ・アンダーソン・アンド・ヒズ・ポップス・コンサート・オーケストラと表記されていた。
かなり高度な機動力を持っていてリズム感も良くアンサンブルも上手いので決して機会のための寄せ集めではなく、おそらくゴールドマン・バンドやボストン・ポップス・オーケストラのピックアップ・メンバーによって構成された楽団と思われる。
ルロイ・アンダーソンを世に出したアーサー・フィードラー指揮する当時のボストン・ポップスはRCAビクターと契約していたので、版権の異なるデッカやコロムビアでの演奏では名称を伏せたのかもしれない。
ちなみにフィードラー、ボストン響もほぼ時を同じくしてルロイ・アンダーソン作品集を録音しているが曲数はずっと少ない。
その他マーキュリーのリヴィング・プレゼンスからのフェネル、イースター=ロチェスター盤、ヴァンガードのアブラヴァネル、ユタ交響楽団、ナクソスのスラットキン、BBC盤などの選択肢がある。
ここでは目の醒めるような速いテンポで颯爽と演奏するアンダーソンのオリジナリティーが全開で、当時のパワフルで屈託のないアメリカを反映しているところが象徴的だ。
尚最後のミュージカルだけは指揮がリーマン・エンジェルに代わっているが監修は常にアンダーソン自身で、作曲者の意図が忠実に実現されたオリジナル・キャスティングによる貴重なセッションになる。
彼らしい軽快な曲の連続するロバウト・サウジー原作の童話から脚色された作品だが、短い曲に機知とユーモアを集中的に盛り込んだアンダーソンにとって、実力を発揮できるジャンルではなかったらしくミュージカルの定番としては残らなかった。
音質については録音と再生技術でそれぞれのメーカーが鎬を削っていた当時のアメリカだけに、1958年から62年にかけてのステレオ録音の状態はすこぶる良く、パートごとの分離状態にも優れていて、半世紀前の録音とは思えないほど生き生きした音楽の息吹きを伝えている。
尚CD1の前半及びCD3はモノラル録音でやや音質も落ちるが時代相応以上の音質が確保されている。
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2019年07月12日
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テルデックに録音されたセルゲイ・ナカリャコフがテルデックに入れた初期の録音集9枚を2巻に分けたボックス・セットを紹介したい。
第1集は、バロックから現代までのトランペット協奏曲を中心に、他の楽器のために書かれた作品の編曲物やオーケストラを伴った小品が、初出時のカップリング6枚でクロノロジカルに収録されている。
それぞれのジャケットもオリジナル・デザインが印刷されていて、さながら彼のブロマイド集といったところだ。
尚トランペット用アレンジの殆んどは彼の父親ミハイル・ナカリャコフが手掛けている。
ナカリャコフは15歳でテルデックと契約して以来、コンサート活動と並行して録音にも積極的に取り組んできたが、この頃は現在の彼の音楽性の深みに比べると、その非凡なテクニックに任せて閃きのままに屈託のない軽快な演奏をしているように聴こえる。
しかし彼の早熟さには天性の才能を感じさせずにはおかないセンスのあるカンタービレや節度を持ったクールな解釈、そしてキレの良い超絶技巧など総てが含まれている。
中でもジョリベやトマジなどの20世紀の作品のスピリットを直感的に捉えた機知は聴きどころのひとつだ。
ボックスの写真にも掲載されているように、ナカリャコフはトランペットだけでなくフリューゲルホーンの名手でもある。
高音はトランペットほど輝かしくない代わりに豊かな低音やメロウで陰翳に富んだ音色の魅力と高い表現力に早くから着目して、現在に至るまで彼は頻繁に演奏しているが、それは彼の音楽性を反映させるには理想的な楽器と言えるだろう。
このセットでも後半のCDでフリューゲルホーンの魅力を堪能できる。
ボックス・セット第2集はピアノ伴奏による小品集で、第1集よりもずっと砕けた親しみ易いレパートリーを集めたものだが、こちらも初出盤のジャケットに収納された3枚組になる。
このセットではトランペットのパガニーニと言わしめた天衣無縫の超絶技巧がこれでもかと満載されていて、ここまでやられるといくらか食傷気味になるが、彼にしてみれば若き日のキャリアの一里塚といったところだろう。
むしろ彼のフレッシュな音楽性と繊細な歌心が充分に発揮されているのは『エレジー』と題された3枚目で、このCDは伴奏者でナカリャコフの姉ヴェラ・ナカリャコワの夫でオペラ歌手だったヴラディミール・ムコフニコフのメモリーに捧げられている。
ナカリャコフは1990年にわずか13歳でフィンランド・コルショルム音楽祭でデビューを飾り、翌年にはザルツブルク音楽祭に登場した早熟のトランペッターだが、才能ある少年少女にとってミュージック産業界もある意味で残酷な世界と言わざるを得ない。
契約当初は高収入を約束されても、彼らが本来の自分の方向性に気付いた時には、その才能も気力も消耗し尽くされてしまっていることがままあるからだ。
しかしナカリャコフの場合自己のコントロールを怠らなかったためか幸いコンサートや録音活動を続けながら、近年更に豊かで味のある演奏を開拓している。
この第2集でもフリューゲルホーンによる高い音楽性の表出は、将来の円熟期を予感させてくれる。
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2019年07月11日
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アタウルフォ・アルヘンタは1913年生まれのスペインの指揮者で、若い頃から欧米で修行し32歳でマドリード国立管弦楽団の常任指揮者に就任して将来を嘱望されたが、44歳で事故死したため録音された彼のレパートリーはごく限られている。
この2枚組のCDには彼が精力的に取り組んだ20世紀のスペインの作曲家の作品と、庶民性の高いサルスエラから管弦楽と歌物をピックアップした選曲になる。
2枚目は音楽的にごく高尚なものとは言えないが、スペイン特有の強烈な光彩や民族的リズムに溢れていて、その意味ではお国物の圧倒的な強みを持っている演奏には違いない。
しかしオーケストラは1枚目に比べると非力で指揮者の要求する音楽について行けない部分が聞かれるし、またアンサンブルも肌理がやや粗い。
録音状態は決して悪くはないが、曲によっては残響が多過ぎたり、ミキシングのバランスもクラシック向きではない。
確かにここに採り上げられたロマンティック・サルスエラという曲種自体芸術的な題材を扱った音楽劇とは言い難い。
どちらかと言えば地方色豊かな歌と舞踏を交錯させた、どこにでもありがちな大衆の恋愛話が殆んどなのである。
勿論実際の舞台を観るのであれば別だが、そこから音楽だけをピックアップしたCD2枚は多少食傷をきたす曲数というのが実感だ。
むろんBGMやダンスなどの実用のために使うのなら贅沢なくらい立派な選択肢と言える。
純粋な管弦楽として鑑賞されたい方には同じくアルヘンタの指揮した『エスパーニャ』と題された英デッカ盤か、もしくはデ・ブルゴス指揮、ニュー・フィルハーモニア及びロンドン・フィルハーモニーとの新しい録音の方をお勧めしたい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月10日
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20世紀ドイツを代表するメゾ・ソプラノ歌手、ブリギッテ・ファスベンダーの歌曲、宗教音楽、オペラ、オペレッタの録音からのベスト・セレクション。
この8枚組のセットでは今月3日に80歳になったファスベンダーの1960年代初頭から90年代まで幅広い年代の歌を楽しめるもので、彼女の歌唱芸術を一通り鑑賞できるのが魅力だ。
ブリギッテはドイツの往年の名バリトン、ヴィリ・ドムグラーフ=ファスベンダーの娘で、父親譲りの美声と彼自身の指導によって声楽の基礎を習得した。
彼女の声質は輪郭のはっきりした、やや暗めの音色を持つメゾ・ソプラノで、その響きから言えば先輩クリスタ・ルートヴィヒより開放的で、時に羽目を外したパッショネイトな歌唱は特に舞台芸術、つまりオペラやミュージカルの世界でも高い人気を博した。
また声だけでなく彼女はボーイッシュなスタイルと性格を持っていたことから、『薔薇の騎士』のオクタヴィアンや『こうもり』のオルロフスキー侯爵などで当たり役を取っていた。
ドイツ・リートでもシューベルトの『冬の旅』、シューマンの『詩人の恋』やマーラーの『さすらう若人の歌』など、男声により適しているとされる歌曲集にも挑戦し、絶唱を聴かせている。
尚オペラのシーンについては全曲盤からのピックアップだが、実際の舞台の映像をご覧になりたい方は、グラモフォンからリリースされたカルロス・クライバーのDVDセットで彼女の抜きん出た演技を堪能できる。
彼女は現代音楽にも造詣が深く、このセットでもシェーンベルク、ミヨー、ベルクの作品で独自の強い感性と声楽的に高度なテクニックを駆使した斬新な解釈を披露している。
特に7枚目に抜粋で収められたベルクのオペラ『ルル』での同性愛者ゲシュヴィッツ伯爵令嬢は強烈な個性が炸裂した役柄だ。
この録音は1991年にパリのテアトル・デュ・シャトレで上演された、ジェフリー・テイト指揮、フランス国立管弦楽団によるチェルハ校訂3幕版のデジタル・ライヴだが、ファスベンダーは主役ルルを演じるパトリシア・ワイズ以上の凄みを聴かせている。
この公演ではまた、老シゴルヒを最晩年のハンス・ホッターが演じているのも興味深い。
性格的な表現を得意とし、数々の名唱を聴かせてきたファスベンダーの歌は、どれも表情が豊かである。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年07月09日
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以前ショパン生誕200周年記念に合わせてリリースされたRCAレッド・シール5枚組のライヴ及びセッション録音が、今回ソニー・クラシックスからより簡易な廉価盤ボックス・セットで復活した。
しかも前回には入っていなかった1990年のカーネギー・ホール・デビュー時の『ワルツ第7番』嬰ハ短調Op.64-2及び1987年のサントリー・ホール・ライヴの『ノクターン第10番』変イ長調Op.32-2と『ポロネーズ第5番』嬰へ短調Op.44の3曲が最後のCDに新しく加わっているのがセールス・ポイントだ。
このセットは15歳でサントリー・ホールに登場してから、30代前半までのキーシン青年期のショパン演奏の記録である。
それはまた繰り返し録音をしない彼のポリシーからすれば、貴重なショパンの集大成と言っても良いだろう。
ここでも彼は自然に溢れ出るような格調高い音楽性を歌い上げながら、時として突き進むような集中力と華麗なテクニックで圧倒的な表現力の広さを披露している。
確かに彼の『エチュード』が存在しないのは残念だが、『ノクターン』や『マズルカ』あるいは静謐な『子守唄』で聴かせる洗練された感性とエスプリは、メカニック的な技巧のみに溺れないキーシンの音楽に対するフレキシブルな姿勢を良く示している。
更に5枚のうち3枚がライヴ録音であることを考えれば彼の完璧主義が面目躍如たる演奏だ。
このセットも限定生産のバジェット盤なので、例によってジャケットは総てボックスと同じ写真で統一されている。
ライナー・ノーツ等は一切省略されているが、それぞれのジャケットの裏面の録音データを参考にすることができる。
録音年代は1987年から2004年で、ライヴとセッションではいくらか音質にばらつきがあるがいずれも良好だ。
2011年リスト・イヤーに同じくソニーからリリースされたフランツ・リスト・アルバムの2枚組と合わせてロマン派2大ピアニストのキーシン・コレクションが手頃な価格で揃ったことになる。
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2019年07月08日
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フランスの威信をかけて創設されたパリ管弦楽団の旗揚げ公演として1967年11月にパリのシャンゼリゼ劇場で催されたライヴの録音がSACDシングルレイヤー化され再登場した。
ミュンシュはその初代音楽監督を務めたが、巨匠76歳、死の1年前の演奏にも拘らず、その凄絶な指揮ぶりには並大抵でない気迫が満ちている。
オーケストラにもフランスの誇りというものが感じられ、ただ単に力任せの演奏とは次元を異にする風格と気品がある点も素晴らしい。
ただこうした表現は演奏家にとっても、また聴衆にとっても一期一会的なライヴが命であり、当日その場に居合わせた人だけが本当の感動を分かち合えたのだろうと思う。
テンポを著しく変化させ、楽団を煽り立てるように時折叫びながら指揮するミュンシュの『幻想』交響曲は、この曲の常識から逸脱した悪魔的な側面を極限まで追求している。
狂気に最も近いというのか、ベルリオーズがなぜこの作品を書かずにはいられなかったか、その情熱の軌跡をあくまでも熱く、そして迸り出るような勢いで再現、熱風にも似た音のドラマを作り出している。
パリ管弦楽団も彼の指揮に必死について行こうとする熱意と一体感があり、楽章を追って増幅する曲想の渦に聴衆を巻き込んでいく推進力は尋常なものではない。
このラテンの血で聴く『幻想』は、感動を超えて冒険にも似た経験に浸らせる。
ドビュッシーの交響詩『海』でもテンポの即興的な抑揚は、何かに取り憑かれたようなところがあり、通常では考えられないような世界が描き出されている。
彼はこの曲を陰影深く茫洋とした印象派の作品として仕上げるよりも、むしろ奔放で放射的なエネルギーの発散の中に表わして、オーケストラから一種のドラマ性を引き出している。
こうしたアプローチもやはり彼独自の解釈だが、聴き手に有無を言わせず説得してしまうような隙の無いパワーにも溢れている。
録音状態は当時のライヴとしては非常に良いものだ。
欲を言えばもう少し低音の伸びが欲しいところだが、シャンゼリゼ劇場は主としてオペラやバレエ公演のための典型的なドライな響きが身上の演奏会場であり、それがかえって各パートの楽器の響きを良く捉えて、生々しい臨場感が伝わってくるのも事実だ。
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2019年07月07日
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前にも書いたことだが、このプラガ・ディジタルスのSACDシリーズは玉石混交で、リリースされている総てのディスクを手放しでお薦めするわけにはいかない。
勿論リヒテルの演奏自体については溢れるほどの音楽性とヴィルトゥオジティのバランスが絶妙だった1950年代壮年期のライヴでもあり、彼のかけがえのない記録であることに異論を挟むつもりはない。
しかし録音自体の質とブロードキャスト・マスターテープの保存状態が悪く、細かい音の揺れやフォルテで演奏する時には再生し切れない音割れが生じている。
それ故この音源をあえてSACD化する必然性があったかどうかというと首を傾げざるを得ない。
幸い最後の『ウィーンの謝肉祭の道化』が唯一まともな音質を保っているが、結局いくら歴史的な名演奏でもオリジナルの音源自体に問題があれば、たとえSACDとしてリニューアルしても、驚くような奇跡の蘇生を期待することはできない。
むしろより安価なレギュラーのリマスターCDで充分という気がする。
『交響的練習曲』は1953年12月12日のプラハ於けるライヴのようで、リヒテルの集中力とダイナミズムの多様さ、そして途切れることのない緊張感の持続が素晴らしい。
この演奏で彼は遺作のヴァリエーション5曲を第4変奏と第5変奏の間に挿入している。
哲学的とも言える抒情の表出も秀逸だ。
ただし何故かエチュード8,9,10番が抜けている。
理由は不明だが、この作品の出版に由来する曲の構成上の問題から、本人が当日演奏しなかったことが予想される。
また1959年11月2日のプラハ・ライヴの『幻想曲ハ長調』は、覇気に貫かれた名人芸が聴きどころだが、音質の劣悪さが惜しまれてならない。
この曲も数種類の異なったソースが残されていて、中でもデッカのザ・マスター・シリーズ第7巻には1979年のフィリップスへの良質なライヴ音源が収録されている。
3曲目の録音データ不詳『ウィーンの謝肉祭の道化』で、リヒテルはこの曲のタイトルからイメージされる諧謔的な表現には目もくれず、むしろピアノのためのソナタとしての構成をしっかりと捉え、シューマン特有の凝縮されたピアノ音楽のエッセンスを抜き出したような普遍的な価値を強調しているように思う。
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2019年07月06日
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レナート・ブルゾンが40代にヴェローナのフィラルモニコ劇場で録音したガエターノ・ドニゼッティのオペラ・アリア集を中心に、更に『レクイエム』から2曲、そしてボーナス・トラックとしてヴェルディのアリア3曲が収録されている。
ブルゾンはカップッチッリ以降のイタリア・オペラ界を担った名バリトンで、幾つかの演目を観る機会に恵まれた。
カップッチッリの声は劇場の隅々まで響き渡る大音声で、声自体の魅力を最大限に発揮した大歌手時代の最後の一人だったのに対して、ブルゾンは高貴な雰囲気の漂う美声を知的な演技に活かした全く別のタイプのバリトンだった。
それは丁度その頃からアバドやムーティによって台頭した原典主義の演奏と無関係ではない。
彼らはイタリア・オペラのレパートリーで歌手が習慣的なカデンツァや高音を付け加えたり、テンポを気ままに動かすことを許さず、スコアに書かれたままの音楽を再現することによって作曲の原典を探ろうとした。
ブルゾンもこうした芸術的な傾向に賛同した歌手だった。
だから彼は作曲者が書き入れなかった装飾音や高音は歌わない。
その意味で彼の歌唱はシンプルだが、それだけにドラマ全体の筋を見極めた精緻な表現に重きを置いた新しい時代のオペラの担い手だった。
ドニゼッティはオペラ・セリアでもバリトンに重要な役柄を託したために多くのバリトン用のアリアを書いたが、ここに選ばれたオペラには『愛の妙薬』もなければ『ルチア』も含まれていない。
メジャーな作品は『ファヴォリータ』と『シャモニーのリンダ』くらいでその他は本家ベルガモのドニゼッティ劇場での上演も稀だ。
また特に英雄的な唱法も求められてはいないが、その代わりにこれでもかというカンタービレの基本が総て示されている。
こうしたアリアを歌いこなすことによって、ヴェルディのよりドラマティックな表現へ発展させることができる一種の通り道でもあり、歌手にとっても更に多様な歌唱力を養う重要な足掛かりになる作品群に違いない。
バリトン歌手がドニゼッティのアリア集のみを録音したという前例もないが、ブルゾン自身は若い頃から多くの舞台経験を積んでいて、ドニゼッティのオペラのレパートリーだけでも13の役をものしていたが、そうした経験がこのアリア集に独自の価値を与えている。
ドニゼッティの『レクイエム』は、友人ベッリーニの夭折を悼んで作曲されたもので、ここではパヴァロッティとのデュエットになる「ユデクス・エルゴ」とバリトン・ソロの「ドミネ・イエース・クリステ」の2曲のみの抜粋なのが惜しまれる隠された名曲のひとつだ。
尚ボーナス・トラックの3曲のヴェルディは、流石に当代のヴェルディ歌いとしての貫禄をみせている。
この3曲だけはライヴ録音で、ブルゾンはそれぞれのアリアでヴェローナの聴衆から大喝采を受けている。
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2019年07月05日
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ハンス・クナッパーツブッシュがステレオの初期に英デッカに録音した2枚の小品集は、クナのファンの間では定評のある名盤で、『ウィーンの休日』と題された本CDはその中の1枚。
クナッパーツブッシュがウィーン・フィルを指揮してウィンナ・ワルツを演奏した好選曲ディスクである。
ただ、彼の個性が強く出ているため、全体にリズムがややきついのだが、大指揮者クナッパーツブッシュの余技を知る意味では意義があり、彼のファンには聴き逃せない。
クナはワーグナーやブルックナー、ブラームスを得意としていたが、その録音を、じっくり分析的に聴いてみると、天才的なリズム感の良さが明らかになる。
テンポ設定が遅いケースが多いために、それが表面に出て来ないだけなのだ。
さすがにウィーン・フィルの楽員はそれを見抜いていて、巨匠にプロポーズの手紙を出し、記念舞踏会の指揮を頼んだという。
これはステレオ録音に間に合った晩年の録音の1つ(カルショウのプロデュースとされ、資料によれば1956年ゾフィエンザール録音)で、音質も良く、クナの芸格の大きさを楽しむには絶好だ。
レコーディングだというのに、ほとんどリハーサルなしのぶっつけ本番で、これだけオーケストラを掌中に収め、小品とは思えぬほどの迫力と内容をスケール豊かに描き上げてゆく巨人ぶりには、ただただ圧倒され、頭を下げるしか方法がない。
ウィンナ・ワルツだからといって矮小にしないところが素晴らしいが、それでいて随所にニュアンスの花が咲き乱れている。
《アンネン・ポルカ》《ウィーンの森の物語》などが良い例だが、ベスト演奏は疑いもなく十八番中の十八番にしていた《バーデン娘》、次いで《ウィーンの市民》であろう。
まさにワーグナーやブルックナーと変わらぬ巨大さで、このド迫力は作品を完全に超えてしまっているが、決してうるさくもなくわずらわしさもない。
ハイドンやベートーヴェンのような古典でさえ聴衆を驚かせるクナのこと、《バーデン娘》のクライマックスは楽しくて仕方がなかったに違いない。
トロンボーンのグリッサンドは、ギャグが至芸の域に達したケースの典型で、何度聴いても笑いを堪え切れない。
《ウィーンの森の物語》の味の濃さも同じだし、《アンネン・ポルカ》の節回しも無類で、ニュアンスの豊かさも別格、《浮気心》と《トリッチ・トラッチ・ポルカ》は爽やかな演奏で楽しめる。
そしていずれの曲にもウィーン・フィル黄金時代の濃厚な音色感が溢れているのである。
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2019年07月04日
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同じ古楽器によるハイドン演奏でも、ブリュッヘンによるものと、その僚友(というより弟子に近い)S・クイケンのものとでは、ハイドンの音楽に対する考え方がそもそも違うようだ。
これだけ異なれば、互いに別のレコード会社にハイドンの交響曲を録音し分けることは意義がある。
どこが違うかというと、まず演奏人数で、このクイケン盤は親切にも、解説書に、曲別に全演奏者名が表記してあり、人数が少ないので、そういうことが可能なのだろう。
基本的には7/7/4/4/2の弦(プルト数ではなく人数)に2本ずつの管、それにチェンバロという編成で、わざわざ数字を書き出したのは「作曲当時の楽器と編成による再現」という誤解を防ぐためだ。
良く知られているように、ハイドンは《パリ交響曲》を、パリの大オーケストラのために作曲した。
そのオーケストラは、ヴァイオリンだけでも20名という現在でも通用する大きさを誇っていた。
もし「作曲当時」を標榜するのであれば、このクイケン盤の人数では明らかに足りない。
ブリュッヘンと18世紀オーケストラが日本でハイドンを演奏した時には、8/8/6/4/3にチェンバロなし、という、もうひと回り大きい数を要していた(それでも当時のパリの楽団には及ばない)。
それで、どういうことになったかというと、このCDに聴く《パリ交響曲》は、恐らくハイドンが意図した響きよりも小ぢんまりしたロココ風のものに変わった。
一概には比較出来ないものの、ブリュッヘンのハイドンから聴くことのできる豪奢な風格や、ユーモアのセンスも影を潜めてしまった。
しかもこれは単に人数の問題ではなく、ブリュッヘンなら、同じオーケストラを指揮してももっと大きな音楽を作るだろう。
ここでは第82番ハ長調〈熊〉の評価が難しい。
これを聴くと、慣用版にあるトランペット・パートを生かしているにもかかわらず、音楽があまり盛り上がらず、まるでマンハイム楽派か何かの出来のいいシンフォニーを聴いている気分になってくる。
《パリ交響曲》には〈熊〉〈牝鶏〉そして第85番〈王妃〉(このニックネームは作曲者のあずかり知らぬことではあるが)という動物三部作(!?)が含まれているのだから、そのようなユーモアもいくらか欲しい。
冗談はさておき、ともかく、この演奏は妥協の産物ではないかと筆者は考えている。
使われている楽譜や繰り返しの省略等は、やや慣用に傾いているのに、オーケストラの人数は作曲者が考えていた以上の緊縮型、どうも少し中途半端だ。
短調をとる〈牝鶏〉交響曲でも、再三の長・短調の交替部分も、あまり色調が変化しない。
尤も美しい部分も少なくなく、〈牝鶏〉の開始部分での奏でるオルガンのような響きや、同じ曲の第1楽章でオーボエがスタッカートで出す〈牝鶏〉主題の面白さは、現代楽器を使ったマリナー、C・デイヴィス盤からは味わえない。
古楽器を使っていることと、名演奏か否かということは当然ながら一致しないが、ただ、ハイドンの交響曲の再現には、古楽器使用が有利なので、このあたりが音楽の難しいところだ。
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2019年07月03日
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ドヴォルザークの弦楽四重奏曲第12番『アメリカ』とスメタナの弦楽四重奏曲第1番『わが生涯より』の2曲は、さすがにスメタナ弦楽四重奏団を筆頭にチェコの四重奏団の優れた演奏が多いが、アルバン・ベルク弦楽四重奏団のライヴ録音も素晴らしい。
ウィーンの音楽家たちがその出自をボヘミアに持つことは珍しくないが、それだけに彼らはチェコの音楽に対して、まるで自分たちの音楽であるかのような親近感を持ち、非常にこなれた演奏を展開する。
ウィーンを本拠としたアルバン・ベルク弦楽四重奏団も例外ではなく、都会的でスマートな要素はあっても味わいは濃い。
そして実に剛毅な造形を持ち、スケールも大きく、楽想の描き分けも良く考えられており、ライヴの熱気も孕んで最高にホットな演奏になっている。
演奏の特徴としては両曲ともアルバン・ベルク弦楽四重奏団特有の鋭利で彫りの深い表現が良く出ていて、しかも4人が多くのソロ部分を縦横に奏でながら全く隙の無い精緻なアンサンブルを聴かせてくれる。
深い感情移入の感じられる懐かしさのこもった旋律の歌い回し、今この瞬間に音楽が生まれ出てきたかのような即興性溢れる自在な緩急、鋭く切れ込んでくる厳しい表情によって造形される隈取りの明確な輪郭など、ライヴの美点が集約された素晴らしい演奏だ。
第1ヴァイオリンのピヒラーの歌いぶりには、例によって蠱惑的と形容したくなる得も言われぬ美しい音色を駆使した、ある意味チェコの団体以上にノスタルジックな味わいが色濃く漂っている。
アンサンブルもいつものように高度の緻密さを保ちつつ、より即興的で自在感に溢れており、聴き古された作品から、驚くような新鮮な表情を引き出している。
どちらもウィーン・コンツェルトハウスのコンサートからデジタル録音されたもので、各パートの明瞭な音色を堪能できる。
1989年録音の『アメリカ』にはドヴォルザークが織り込んだ土の薫りは期待できないが、独特の洗練されたスマートさと大胆かつ快活な解釈が魅力的だ。
第1楽章冒頭、第1主題を提示するヴィオラをはじめ、全員の心からの共感が感じられる歌心としなやかな表情、精妙なアンサンブルなど、結成以来、弦楽四重奏の新しい可能性を追求してきたアルバン・ベルク弦楽四重奏団ならではの新鮮な魅力溢れる演奏である。
一方ドヴォルザークと同様、チェコの音楽の語法や特徴を巧みに用いた1990年のスメタナの『わが生涯より』はよりドラマティックで語り口調の楽想が絶妙に表現されていて秀逸だ。
ライヴでの自由で即興的な味が曲想と見事に合致した、手に汗握るスリリングな演奏で、民俗的な要素と悲劇的な内容を見事なバランスで表現していて、熱い共感が伝わってくる。
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2019年07月02日
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第8回ショパン・コンクールの覇者、ギャリック・オールソンが1987年から88年にかけて米アラベスクに録音した、ウェーバーの4曲のピアノ・ソナタを中心としたアルバムが今回ハイペリオンのライセンス・リイシューによって2枚組のCDで復活した。
コンクール優勝後は各国でコンサートを開き、EMIと契約してレコーディングでも活躍していたが、その後はメジャー・レーベルでの録音に恵まれず、日本での知名度がいまひとつなのは残念なところだ。
オールソンの演奏は、ショパンのほか、ベートーヴェンやウェーバー、ブラームス、リスト、ラフマニノフ、チャイコフスキー、スクリャービン、ショスタコーヴィチ、ウェーベルンなどを録音で聴ける。
それらに一貫するのは高度な技巧と美しい音色で仕上げられた立派な演奏であるということで、作品表現に求められる諸要素を十分に満たす実力の高さが窺える。
本盤は、オールソンの明快なピアニズムが作曲家のロマンティックだが古典的な起承転結をわきまえた、巧みな作曲法を良く捉えた秀演だ。
彼はショパン弾きだけあって、高度な技術と完成度の高い表現力を駆使しつつ、リリカルなドラマ性の表現に優れている。
録音されることが少ないレパートリーだが、ベートーヴェンとシューベルトの間を繋ぐピアノ・ソナタのサンプルとしても興味深い。
録音状態も極めて良好で、オールソンの潤いのある美しい音色を良く再現している。
カール・マリア・フォン・ウェーバーは『魔弾の射手』に代表されるドイツ・ロマン派オペラのパイオニアだが、その短い生涯に交響曲、協奏曲や多くのピアノ作品も遺している。
ここに収録されている作品はピアノ・ソナタとは名付けられてはいるものの、ひとつのテーマを創意工夫して展開するのではない。
むしろオペラの序曲や間奏曲、あるいはアリアや重唱の類いをソナタの様式に則ってピアニスティックにまとめ上げた一種のパラフレーズで、その意味ではフランツ・リストの先駆者とも言える。
それほど深刻な音楽ではないが、情景描写的なメロディーと、対照的な疾駆するパッセージを効果的に組み合わせた即興的な手法に優れ、オペラ作曲家としての面目躍如たるものがある。
尚このセットではソナタの他に華麗な3つのピース、『舞踏への勧誘』変ニ長調、『モメント・カプリッチォーソ』そして『ロンド・ブリッランテ』が収められている。
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2019年07月01日
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学生時代、東京の神田にあった行きつけのレコード店の主人の助言で買ったモーツァルトのクラリネット五重奏曲のCDは、レオポルト・ウラッハとウィーン・コンツェルトハウス四重奏団のものだった。
いくらか大時代的な響きのする録音から聞こえてきた彼らのモーツァルトは、限りなくしっとりとしたレガート奏法による、天上の音楽のようだった。
後にアルフレート・プリンツとウィーン室内合奏団の演奏を聴き、あの時の記憶が蘇ってきて、彼がウラッハの高弟だったこともその時に知った。
プリンツのテクニックは師匠のそれよりモダンで精緻ではあるが、紛れも無くウラッハ流であり、脈々と受け継がれているウィーン奏者の伝統に深い感慨を覚えた。
彼の柔らかく、練り上げられた滑らかなクラリネットの音質は、決して押し付けがましいものでなく、モーツァルトのこの名作を飽くまでもウィーン風にこだわった演奏で満喫することができる。
2曲目のブラームスでもウィーン室内合奏団の演奏は、作曲者晩年の室内楽に漂う寂寥感やある種の諦観をないまぜにしながらも、あからさまに感情を吐露するのでなく、それをあくまでも洗練されたウィーン趣味に昇華させ、幽玄とも言える印象的な音楽作りで魅了する。
プリンツのクラリネットは弦楽と一体になって溶け合い、ある時は谷間から立ち昇る霧のように現れ、またある時は影のように消えていく。
UHQCD化された同録音の音質の変化については、先ず音量のボリューム自体が大きくなっているが、これはリマスタリングによる結果かもしれない。
このシリーズは先ず音源のリマスター処理から行われるようだ。
ただ音量の違いだけでなく、それぞれの楽器の音質が一層クリアーになっているのもはっきり聴き取ることができる。
その結果、演奏者が一歩前に出たような臨場感が得られ、ここでは特にプリンツのクラリネットとヘッツェルのヴァイオリンの音色がこれまでになく艶やかに再現されている。
1曲目のモーツァルトでは第2楽章のヴァイオリン・ソロによって繰り返される下降音形を聴き比べると旧盤より明らかに音質が潤っている。
また第3楽章のメヌエットのトリオ部分と終楽章でのクラリネット・ソロは、芯のある立体的な音像がイメージできる。
2曲目のブラームスについては廉価盤で若干感じられた曖昧模糊とした雰囲気が払拭されて、より明瞭で繊細な音質に変わった。
特にヴァイオリン・パートの鮮明さは旧盤では聴くことのできなかったものだ。
全体的にみて今回のUHQCD化には肯定的な印象を持つことができたというのが正直な感想だ。
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