2019年10月
2019年10月31日
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フルートの近代的な奏法に重要な貢献をした作曲家で、フリードリッヒ大王の教師でもあったクヴァンツの7曲のソナタ集になる。
女流トラヴェルソ奏者としては既に中堅として活躍しているマリー・オレスキェヴィチの、楽器の機能を最大限に活かした流麗な演奏が美しい。
良い意味で女性的な演奏で、彼女の大先輩レイチェル・ブラウンのような強い個性や表現力ではなく、あくまでもトラヴェルソの音色の多様性とその変化を巧みに使ったデリケートな解釈を示している。
その点いくらかおとなしい印象が無きにしも非ずだ。
使用楽器はクヴァンツ自身が製作したツー・キー・モデルのコピーで、その太く艶やかな典型的なバロック盛期のトラヴェルソの音色が特徴だ。
通奏低音はチェンバロがデイヴィッド・シューレンバーグ、チェロがステファニー・ヴィアルでピッチの低さにも拘らず、速めのテンポと明確なリズムによって曲想の軽快さや名人芸の切れの良さは失われていない。
オレスキェヴィチは既にバロック時代の作曲家の作品集を5枚のCDでリリースしているが、そのうち4枚はクヴァンツの協奏曲や室内楽を集めたもので、彼女のクヴァンツへの傾倒とその情熱を窺わせている。
ライナー・ノーツの表紙にファースト・レコーディングの表示があるが、ここで使われた楽譜は作曲家の手稿譜からプリントしたものらしく、その意味では確かに初録音で、その10年ほど前にナクソスに入れたソナタ集と曲目を照らし合わせると1曲のだぶりもない。
しかし実際にはレイチェル・ブラウンが2009年2月にやはり同ソナタ集を新録音していて、その中でソナタイ長調no.274を演奏しているので、この1曲に関しては僅かに先を越されている。
尚ピッチはa'=385Hzという現代からすれば長二度以上低い、当時ベルリンの宮廷で好まれた室内楽ピッチを採用している。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年10月30日
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合唱と独唱、大規模オーケストラによるダイナミックな躍動感と生命力の噴出が衝撃的なオルフの人気曲『カルミナ・ブラーナ』。
オーケストラにソロと混声合唱が加わる大編成の作品の音像を精緻に採音し、またそれをオーディオとして忠実に再生することは容易ではない。
ヨッフム、ベルリン・ドイツ・オペラによる❲カルミナ・ブラーナ❳は1967年の古い録音なので、高音質盤用にリマスタリングするには確かにある程度限界があるのは否めない。
ただこれ迄にリリースされたさまざまなメディアの中では、このSACDバージョンが最も優れた音質であることは間違いないだろう。
少なくともSHM-CD盤よりも更にディティールの再生がきめ細かく、終楽章クライマックスの総奏でも分離状態が良好に保たれている。
また伸びの良い高音だけでなく、銅鑼やグランカッサの響きにも一層の深みと迫力が感じられる。
声楽でも第23曲❲ドルチッシマ❳でのヤノヴィッツの最高音d'''を聴かせるメロディーにも瑞々しさが加わっている。
演奏は言わずもがな指揮者オイゲン・ヨッフム以下ソリスト、コーラス、オーケストラを総てドイツ勢で固めた稀代の名演。
この曲を初録音し、ポピュラリティを得るのに貢献したヨッフムによる再録音であり、作曲者オルフが監修した録音としても名高い決定盤だ。
ヨッフムの指揮の下に非常に几帳面な音楽創りがなされていながら、結果的にはこの曲が持つ神秘的な静寂と、大地の底から湧き上がる叫び声のような奔放で、しかも驚異的な音響効果の双方を表現することに成功している。
ソリスト陣ではフィッシャー=ディースカウの秀でた性格創り、ヤノヴィッツの清楚、シュトルツェの風刺がこの作品を生命力に溢れた多彩な人間劇に仕上げていて、中世の絢爛たる絵巻物といった趣きがある。
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2019年10月29日
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これまでイーゴリ・マルケヴィッチ(1912-1983)演奏集の箱物はEMIやヴェニアスからかなりの枚数のCDが放出されている。
このセットはメンブランがロシア、フランスの作曲家の作品集として10枚に纏めたもので、シリーズにゲルマン系その他のレパートリーが追加されることを期待したい。
いずれにせよこの孤高の大指揮者の演奏を廉価版で気軽に鑑賞できるのは幸いで、特にマルケヴィッチ入門者にお薦めしたい。
ただし廉価版の宿命でライナー・ノーツはなく、それぞれのジャケットに曲目及び録音データがかなりアバウトにプリントされている。
また選曲でも聴きたかったプロコフィエフの『スキタイ組曲』が組み込まれていないのも残念だ。
音質の方はモノラル時代からステレオ音源まで玉石混淆だが、曲によっては最近SACDやブルーレイ・オーディオ化されたものもある。
したがってファンであればサンプラー的な試聴盤として一通り聴いた後に、高音質盤を買い直す選択肢もある。
マルケヴィッチの演奏の特色は20世紀の新作への先鋭的な解釈とその再現の厳格さ、彫琢するような彫りの深い表現にあるが、意外にフランスの舞台作品でも多くのレパートリーを持っていた。
それは彼が若い頃、パリを本拠地にしていたディアギレフ率いるバレエ・リュスとの豊富なコラボで培ったドビュッシーやラヴェルなどのラテン的感性が活かされているからだろう。
またベルリオーズでも流石にそのオーケストレーションの妙味を体験させてくれる。
肩の凝らない曲種としてはCD9にサン=サーンスの『動物の謝肉祭』がゲサ・アンダのピアノ、フィルハーモニアとの演奏で収録されている。
またマルケヴィッチの作曲家としてのプロフィールを窺わせる『イカルスの飛翔』がCD10に1938年の自演で加わっている。
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2019年10月28日
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ヘンリク・シェリングの最初の無伴奏全曲録音であるが、音楽的には既に完成していて、1967年の2回目のステレオ盤に全く遜色の無い出来栄えだと思う。
バッハの無伴奏ヴァイオリンの全曲録音の歴史を辿ると、メニューインが34-35年、エネスコ40年、ハイフェッツ52年、シェリング55年、シゲッティ55-56年、グリュミオー60-61年、シェリングの再録音67年そしてミルシテインの再録音74年となる。
なかでもシェリングのそれは他の誰よりも精緻で客観的であることを認めざるを得ない。
まだバロック音楽自体が再認識され始めたあの時期に、彼は既にバッハ演奏に対する芸術的信念とも言うべき哲学を、自身の演奏に実践していたのだ。
それはそれまでの無伴奏に対する概念を覆すほど鮮烈なものだった。
何故ならこの曲を歪曲することなく、誠実にしかもあるがままに再現することに成功したからだ。
とりわけ55年のモノ録音は、あの時代にあって冷徹なほど曲の構造を分析し、それを忠実に再現するために彼独自の奏法を開拓した革新的な表現が聴ける。
バッハの楽譜を克明に読み、作品の意思を汲み取ろうとする姿勢が演奏に直接反映されており、それが無伴奏ながら本質的にポリフォニックなこの音楽の構造を、はっきりと際立たせる表現を生む。
また若いからこその純粋で考えすぎない潔さに魅力があり、深謀遠慮も手練手管もなければ迷いもなく、シェリングの積極的な意欲が強烈に訴えかけてくる演奏だ。
ロマンティシズムに溢れたハイフェッツの演奏と比べれば、シェリングが全く新しい時代の解釈を先取りしていたことが明瞭に理解できるはずだ。
その後も彼は自分のコンサートのプログラムに盛んにこの曲集を採り上げた。
まさに彼が生涯の課題として取り組み、弾き込んだレパートリーのひとつだった。
細部では67年盤の方が自由闊達な躍動感を持っているのに対して、こちらでは一途な、そして静かな情熱の迸りを感じさせる。
確信をもって、しかも力強い説得力を伴って聴かせるシェリングの演奏には、人間の計り知れない力をみる思いがする。
更にこの55年のモノ録音ではヴァイオリンのまろやかで、しかもくっきりとした輪郭を持った美しい音色を堪能できる。
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2019年10月27日
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パールマンのごく若い頃の録音(1971年から78年まで)を集めた『ツィゴイネルワイゼン/カルメン幻想曲』というアルバムを久し振りに聴いてみた。
後年のパールマンからは想像できないことだが、デビュー当時の彼は、切れ味鋭く、極めて緊張度の他界音楽を聴かせていた。
パールマンの弾いたショスタコーヴィチとグラズノフのヴァイオリン協奏曲(1989年)を聴いていると、音楽の作りもアバウトになった気がする。
ショスタコーヴィチ第1番の全曲の中心は、重々しいバスの響きと警鐘のように鳴るホルンの信号音で始まる第3楽章パッサカリアだ。
この楽章の最後には4分以上も続く胃の痛くなるようなカデンツァが控えていて、作曲者の名前をドイツ語に読み替えた例のD-Es-C-Hの暗号も顔を出す。
つまりこれは伝統的なヴィルトゥオーゾ・コンチェルトとは違うのだが、例えばコーガンのヴァイオリン、ショスタコーヴィチ最高の理解者コンドラシンによる演奏は、そういう音楽をやっていた。
ところがこのパールマン盤からきこえてくるのは、思わず「あっ、グラズノフだ」と叫んでしまいそうな、屈託のない、陽気な音楽だ。
ショスタコーヴィチの作品は、スターリニズムと闘った芸術家の魂の慟哭の音楽として再現しなければならない、などという野暮なことは筆者はなるべく言わないようにはしたい。
だいいち『証言』出現以前は、全く同じ曲とその楽譜に接していたにもかかわわらず、多くの人が彼のことを別の偏見と共に理解していた。
しかしそれにしても、この曲を弾くパールマンのこだわりのなさは一体何だろう。
例えば第3楽章、彼はここを、時代がかったポルタメントを頻出させて、まるでロマンスか何かにように甘く、ハッピーに弾き進む。
しかし作曲者は、これを1948年に完成後、スターリンが世を去る1953年まで発表を控えていた曲なのだ。
音楽は楽しく聴ければそれでいいではないか、という意見は尊重するが、「楽しくなければ音楽ではない」という論にくみすることはできない。
なぜなら世の中には胃の痛くなるような音楽もあるからだ。
パールマンの演奏は、全体があまりに楽天的なため、終楽章の強制された解放感が、ただの踊りの曲にきこえる。
このコンチェルトが終わると、そのままグラズノフが続いて鳴り出すというのは、ここではほとんどブラックユーモアと化している。
実はこの演奏はテルアビブでのライヴなのだが、そのためパールマンはそのような演奏を心掛けたのだろう、と思えるようなサービス精神にあふれている。
ただ、生演奏もレコードも、以前の彼はもう少しテンションの高いヴァイオリンを弾いていた。
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2019年10月26日
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イタリアやフランスのオペラ・ブッファに必ず登場するのがバス歌手が演じるコミカルな役柄で、こうした役を演じさせたら天才的な能力を発揮したのがフェルナンド・コレナだった。
彼の受け持った役柄は頑固でケチ、好色だが間抜け、ひょうきんでお人好し、知ったかぶりの権威主義者など、劇中でも最も人間臭い性格を持っていて、しばしばとっちめられてひどい目に遭わされる人達だ。
これはイタリアの伝統芸能コンメーディア・デッラルテの登場人物から受け継がれたキャラクターだが、イタリア・オペラの中ではペルゴレージからロッシーニ、そしてドニゼッティからヴェルディ、プッチーニに至るまで出番に事欠かない役柄でもある。
彼はおそらくメトの先輩であるイタリア人のサルヴァトーレ・バッカローニから多くを学んだに違いない。
しかし役柄は定型にはまっていても、彼はバッカローニとはまた異なった、ユニークなおかしさを持っていて実に魅力のあるバスだった。
残念ながら筆者はコレナの舞台を実際に観ることはなかったが、この録音を聴いても彼の演じた『チェネレントラ』のドン・マニーフィコや『アルジェのイタリア人』のタッデーオ、そして『秘密の結婚』のジェロニモなどは抱腹絶倒ものだ。
しかし彼の芸はドタバタになりかねない一歩手前で、芸術的な芝居の領域にしっかり踏みとどまっている。
それは往々にしてこうした人物が主役を引き立てる脇役であって、その領分を充分にわきまえていたからに他ならない。
実際オペラでも脇役として活躍する歌手は頭脳プレイが巧みであることが多いものだ。
こうした役柄に徹した彼の本領は、このアリア集の中でも充分に堪能できるが、特に最後に置かれたオッフェンバック作曲『ジェロルスタン大公妃』からの「我輩はブン大将閣下」は絶品のひとつだ。
全曲とも1956年のモノラル録音で、音質についてはオケの部分に時代相応の貧弱さが無きにしも非ずだが、幸い声については良く採られていて鑑賞に全く不都合はない。
初出時のLPの曲目とデザインをそのままCDに移したもので、収録時間は短いが、デッカ・リサイタル・シリーズのオリジナル・コレクション仕様ということになる。
内側だけがプラスティックの紙ジャケットで見返しに当時のライナー・ノーツが小さく印刷されているが歌詞対訳は付いていない。
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2019年10月25日
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レオニード・コーガン(1924-82)はその類い稀な才能にも拘らず、57歳で亡くなったためにセッション録音はそれほど多いとは言えない。
しかも彼の活動期間はオーディオ黎明期に当たっていて録音技術も旧ソヴィエトと西側ではまだかなりの開きがあったことも事実だろう。
このCD5枚分のメロディアに遺された音源もモノラルとステレオ録音が半々で音質的にも玉石混淆だ。
幸い彼の夫人エリザヴェータ・ギレリスとのデュエット集やムイトニクのピアノ伴奏によるソナタ及び小品集、コンドラシン指揮、モスクワ・フィルのサポートによるショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番、ヴァインベルクのヴァイオリン協奏曲ト短調などはリマスタリングされた良好なステレオ録音で鑑賞できる。
中でもイザイのふたつのヴァイオリンのためのソナタイ短調は採り上げられることが少ない曲目と言うだけでなく、緊張感に溢れる両者のアンサンブルが聴きどころだ。
コーガンのヴァイオリン演奏は、鉄壁のテクニックをベースにしつつ、内容の豊かさを失うことがない申し分のないものと評しても過言ではあるまい。
彼は、テクニックと音楽表現の両面において、筆者個人はハイフェッツやミルシテインにも匹敵する名ヴァイオリニストと考えているが、色々な意味で悲劇的と言える生涯を送った彼は、その真価がなかなか正当には認識されていない傾向があるようだ。
特に日本では、大家と認められながらも、どちらかというと技巧派としての面ばかりに目を向けられてきたきらいがあるが、彼は音楽的な表現力も実に豊かで、もっと高く評価されるべき偉大なヴァイオリニストである。
突然死した彼の死因については、暗殺説もささやかれているが、ここに示された厳しくも彫りの深い表現と輝かしく格調の高い表現の素晴らしさには、この孤高の名手の芸の高さもが如実に映し出されている。
また、理想的なほどに自在で滑らかなボウイングのテクニックも、注目に値するものである。
31ページのライナー・ノーツにはロシア語と英語による彼のキャリアと演奏に関するエピソード、全収録曲目及び録音データが掲載されている。
メロディアでは最近商売気を出してこのセットと同時にやはり5枚組のオイストラフ生誕110周年のアニヴァーサリー・エディションもリリースしている。
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2019年10月23日
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ヨハン・ゴットリープ・ヤーニチュの木管楽器をソロに取り入れた四重奏曲15曲を3枚のCDに分けてリリースした最終巻に当たる。
クリストファー・パラメータ率いるアンサンブル・ノットゥルナのごく中庸を心得た演奏が、ピリオド楽器の奥ゆかしい響きと相俟ってひときわ美しい演奏集に仕上がっている。
このディスクでは室内ソナタ5曲を収録しているが、中でも2曲目のオーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラと通奏低音のためのソナタ変ロ長調は世界初録音になり、ヤーニチュの得意とした流麗な書法と当時をイメージさせるインティメイトな音響が注目される。
音色的にも弦楽器と相性の良いバロック・オーボエやトラヴェルソを取り入れたこれらのカルテットが、単なる宮廷での娯楽作品から次第に高度な作曲技法によって高尚な室内楽に練り上げられていく過程も興味深い。
また最後に収められた『エコー』は他のピリオド・アンサンブルの演奏でも聴くことができる名曲だが、彼らは新奇な試みを避けて古典的かつ堅実なアプローチでこの曲の牧歌的なのどかさを満喫させてくれる。
ライナー・ノーツの最後にメンバー全員の使用楽器が明示されている。
オーボエはアイヒェントプフ・モデル、2本のトラヴェルソはいずれもI.H.ロッテンブルグ・モデルで、それらはまさにヤーニチュがフリードリヒ大王の宮廷を中心に音楽活動を行っていた時代に製作されたもののコピーになる。
こうした楽器の選択からもオリジナルな響きに対する彼らのこだわりが感じられる。
録音は2009年2月にケベック州ミラベルのサン・トギュスト教会で行われ、それぞれの古楽器の音色を鮮明に捉えた音質が素晴らしい。
因みにアンサンブルのリーダーでこの3枚のディスクのセッションでは指揮も務めた、モントリオール出身の若手バロック・オーボエ奏者、クリストファー・パラメータは、2015年になってマレン・マレのオーボエ組曲集をリリースしている。
カナダでは古楽の研究や演奏が意外にも盛んで、このヤーニチュの四重奏曲集を企画したアトマ・レーベルは知られざる名曲の発掘はもとより、自国のアーティストを起用した質の高い演奏と録音で充実したアルバムを発表している。
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2019年10月22日
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ヨハン・ゴットリープ・ヤーニチュの四重奏曲集の第2集に当たり、今回は室内ソナタの形式による3曲及び教会ソナタ2曲が収録されている。
特に後者の2曲はバロック盛期の様式に則った二重フーガがそれぞれの第2楽章に置かれていて、彼がこうした古い手法にも熟達していた作曲家だったことも興味深い。
アンサンブル・ノットゥルナの演奏は作曲家の生きた時代を反映させた、宮廷風の雅やかな趣と同時に長い戦乱によって荒んだ現実から逃避するような刹那的な美学をも感知させている。
それはまた終焉期を迎えたバロックへの郷愁のようでもあり印象的だ。
こうした四重奏の楽器編成は既にテレマンのパリ・カルテットにも先例が見られるように、後のハイドンの弦楽四重奏曲やモーツァルトのフルート四重奏曲などの萌芽とも考えられる、過渡的な貴重なサンプルと言えるだろう。
尚このディスクは第3集より後の2010年に録音されている。
カナダ・アトマ・レーベルのディスクの音質の素晴らしさは既に第1集のレビューにも書いたが、それぞれのピリオド楽器特有のカラフルな音色が織り成す合奏の醍醐味が堪能できるシリーズとして、古楽の入門者にも是非お薦めしたい。
因みにヤーニチュの作品はここ数年間で幾つかのピリオド・アンサンブルが彼らのレパートリーに取り入れるようになった。
その先駆けとなったのがベルギー・アクサン・レーベルからリリースされたバルトールド・クイケン率いる古楽アンサンブル、パルナッススによるソナタヘ長調で、1979年の演奏だがこの曲に関しては最も優れたセッションと言えるだろう。
アルバムとしてまとめた曲集は、当シリーズの他にやはりアクサンからイル・ガルデッリーノが5曲、ドイツCPOからはエポカ・バロッカによる同様のソナタ集6曲を、またベルギー・シプレからは殆んど唯一のダルムシュタット・シンフォニア集をアンティーキ・ストゥルメンティの演奏で、それぞれ単独のディスクをリリースしている。
アンサンブル・ノットゥルナによる世界初録音4曲を含む16曲まとめたのは、バロックの比較的マイナーな作曲家の作品集としては稀な企画だ。
彼らの意欲的な試みが感じられるし、またヤーニチュの力量とその真価を伝えた演奏集として高く評価したい。
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2019年10月21日
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カナダのピリオド・アンサンブル、ノットゥルナが2008年から2010年にかけて手がけたヤーニチュの四重奏曲集の第1集で、このディスクではファースト・レコーディング3曲を含む5曲が収録されている。
ノットゥルナのリーダーでカナダのバロック・オーボエ奏者クリストファー・パラメータのごくクラシックな解釈が手堅いアンサンブルと相俟って、古風な響きの中に作曲家の精緻な書法を美しく再現している。
曲のスタイルはバロック後期特有のギャラントになびいていて曲想の劇的な展開や荘重さから解放された流麗なメロディー・ラインと平明な和声を自在な対位法で綴り、バロックの終焉を予感させるような哀愁を湛えている。
とりわけ第1曲目のト短調ソナタは第3楽章にコラール『こうべは血潮と涙にまみれ』をオーボエ・ソロで浮かび上がらせるメランコリックな曲趣が典型的なヤーニチュの作風を示している。
曲によって若干楽器編成が異なっていて、演奏者はオーボエとオーボエ・ダモーレのパラメータ、第2オーボエにステファン・バード、トラヴェルソのミカ・パターマン、ヴァイオリン及びヴィオラのエレーヌ・プルーフ、ヴィオラのカスリーン梶岡、チェロのカレン・カデラヴェクが交替するクァルテットの編成だが、通奏低音にチェンバロのエレン・エリヤールが加わり演奏者は常に5人になる。
ピッチはa'=415Hzのスタンダード・バロック・ピッチを採用している。
録音は2008年にケベックのサン・トギュスト教会で行われたが、潤沢な残響が全く煩わしくない音響空間と古楽器の音色を鮮明に捉えた臨場感は特筆される。
プロイセンのフリードリッヒ大王の宮廷楽団は、北ヨーロッパを代表する17名の音楽家によって構成されていたが、コントラバス奏者としてメンバーに加わったヨハン・ゴットリープ・ヤーニチュは大王即位以前から作曲家としても信頼されていたようだ。
彼は1740年から年俸350タラーで雇われているので、同僚のチェンバリストで大バッハの次男、C.Ph.E.バッハの300タラーと比較しても厚遇されていたことが想像される。
ヤーニチュの作品は室内楽だけでなくカンタータやオーケストラル・ワークに至る幅広いジャンルに亘っていたとされるが、残念ながら先の大戦で多くは焼失したようだ。
このディスクに収録された三つのソロ・パートと通奏低音の4声部で書かれたソナタは合計28曲に上るらしいが、ノットゥルナはこの内15曲を採り上げて収録している。
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2019年10月20日
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「甘美な響きの調和」と題されたこのディスクにはリーザ・べズノシュークのトラヴェルソとナイジェル・ノースのバロック・リュート及びギター演奏で、バロックからロマン派までの心和む7曲のデュエットが収められている。
入門者あるいは古楽に全くなじみのない方にも理屈なく楽しめるアルバムだが、演奏は古楽ファンも充分満足させるだけの質と内容を持っている。
金属管のフルートでは出すことのできない柔らかでぬくもりのあるトラヴェルソの音色とリュートやギターの古雅な響きが溶け合った穏やかで優しい音楽は、リラックス・タイムのBGMとしても最適だ。
ちなみにべズノシュークのトラヴェルソは、ロカテッリとC.Ph.E.バッハのソナタには1745年製のG.A.ロッテンブルグのワン・キー・モデル、その他の曲には1790年製H.グレンザーの8キー・モデルを使用している。
ノースは同じく最初の2曲にモデル名の明記されていない13弦リュート、その他には1815年製J.パヘス・モデルの6弦ギターをそれぞれ用いている。
リーザ・べズノシュークはトレヴァー・ピノック時代のイングリッシュ・コンサートを始めとする英国の主要なピリオド楽器使用のバロック・アンサンブルのメンバーでもある。
夫はバロック・チェリストのリチャード・タニクリフ、弟パヴロはバロック・ヴァイオリニストという古楽ファミリーのメンバー。
彼女自身既にバッハやヘンデルのフルート・ソナタ全集をリリースしていて、ロンドンではレイチェル・ブラウンと並ぶベテラン女流トラヴェルソ奏者だ。
一方リュートとギターを弾くナイジェル・ノースはグスタフ・レオンハルトの下で古楽を修めたイギリスを代表するリュート奏者。
リン・レーベルからバッハの『無伴奏チェロ組曲』のリュート編曲版などの優れたディスクを出している。
このセッションは1986年に英ブリストルのアーモンズバリー・パリシュ・チャーチという12世紀のゴシック教会で行われた。
古楽には欠かせない雰囲気と適度な残響が活かされていて音質も鮮明だ。
アモン・ラー・レコーズは、オリジナル楽器やピリオド楽器を使った珍しい曲目のセッションをリリースしている英国のマイナー・レーベルだが、演奏者はその道では名の通った人ばかりで、通常殆んど聴くことがないレアな作品を質の良い演奏で鑑賞できるのが特徴だ。
ただ最近の新録音はないようで、過去の音源をコレクター向けに細々と再生産しているのは残念だ。
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2019年10月19日
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ジョン・ヴィッカーズ(1926-2015)が亡くなる前年に墺プライザーからリリースされた全盛期のオペラ・アリア集で、奇しくも追悼盤になってしまった。
本盤には、1961年のトゥッリオ・セラフィン指揮、ローマ・オペラ座管弦楽団とのイタリア・オペラ・アリアを中心に17曲が収録されている。
この頃のヴィッカーズは同メンバーで第1回目のヴェルディの『オテッロ』をセッション録音していて、そちらの全曲盤もRCAから最近復活した。
彼はやや暗く太い声を持っていて、一般的に明るく輪郭のはっきりした声が求められるイタリア・オペラにはそれほど向いているとは言えないが、良くコントロールされた頭脳的な歌唱は、こうしたアリア集でもその力量が充分に発揮されている。
彼を強力にサポートしているのが指揮者セラフィンで、イタリア式カンタービレの唱法を伝授したのもセラフィン自身と思われる。
また後半のイタリアもの以外の作品でも、美声を駆使するタイプではないにしても、知的でスケールの大きい骨太な表現は舞台上での彼の演技を髣髴とさせるものがある。
前半の12曲は以前RCAからLP盤で出ていた音源をプライザーがCD化したもので、同曲集はVAiミュージックからもリリースされていたが、更に5曲が追加されたこちらのCDをお薦めしたい。
尚トラック13から17はビーチャム、クレンペラー、プレートル、ショルティ及びラインスドルフがそれぞれサポートした1959年から62年にかけての全曲録音からピックアップされたもので総てが良質なステレオ録音になる。
カナダ生まれのテノール、ジョン・ヴィッカーズは1950年代から60年代に全盛期を築いてマリア・カラスの共演者にも抜擢され、国際的な演奏活動を展開した。
筆者は以前当ブログでコリン・デイヴィスがコヴェントガーデンを振ったブリテンの『ピーター・グライムス』について評価したことがある。
朗々と響く声だけでなく演技力も真に迫ったものだったことが記憶に残っていて、また何よりもコヴェントガーデンの底力に圧倒された。
BBC制作による同メンバーでのDVDは現在でも入手可能だ。
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2019年10月18日
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20世紀後半に登場し、大きな注目を集めた作曲家は数多いが、筆者にとってアルフレド・シュニトケ(1934-98)の衝撃度ほど大きく、理屈を超えた訴求力をもつ音楽は聴かずにはいられない。
1977年に完成された《合奏協奏曲第1番》はシュニトケの作風を象徴する作品で、合奏協奏曲という曲名がまずバロック的だし、事実この作品は「2つのヴァイオリンとハープシコード、ピリペアード・ピアノと弦楽オーケストラのため」に書かれている。
といっても、単なるバロック期の合奏協奏曲のスタイルの模倣やコラージュではなく、合奏協奏曲の精神あるいは方法論を用いて新たに開拓・創造された20世紀の音楽としての主張と個性を持つ作品である。
全6楽章構成で、第2楽章はバロック的装いを見せるが、それも甘美な回想などではなく、現代の聴き手の経験と記憶とを一度振り出しに戻して、歴史の諸相を再体験していくかのような感慨に浸らせるものとなっている。
美しい憩い、対照的な熱狂、ペーソス、孤独といった感情が螺旋的に聴き手を襲い、逃れられなくしてしまう吸引力の強い音楽である。
クレーメルとグリンデンコはこの作品の初演者だが、クレーメルはシュニトケ作品の紹介と普及とを彼の使命としたかのような演奏活動を続けてきた背景を誇っている。
クレーメルには現代の作曲家との交流と、その結果による作品、作曲家の紹介・復活という重要な仕事がある。
しかもそれは演奏家としてのクレーメルの抜群の再創造性や、音楽家としての力量と結びつくことで初めて可能になっている。
クレーメルが今度何を弾くか、あのクレーメルが今こんなものを演奏している、そのことがすなわち世界の音楽シーンの小さな事件となって積み重なっていった。
そこでは再現者=創造者としてのクレーメルの力が恐ろしいまでに発揮され、また、その成果が、やがて私たちの新しい音楽体験のひとつに変わった。
とくにシュニトケの場合、その作品の演奏者・紹介者としてギドン・クレーメルの名を落とすことは絶対にできない。
ここでの演奏も自ら積極的にラビリンスに分け入り、感動の種子を発掘しては聴き手に新しい音楽の未来を指し示そうとしている。
甘えや装飾など不要なものは一切削ぎ落していく演奏を聴いていると、楽器が闘うための武器となったかのような感銘すら与えられる。
シュニトケの登場によって、音楽は音楽であることを一度停止し、新たな意味と価値を深された表現行為に変質したと言いたくなるほどである。
第5楽章で懐かしいロンドが響いてくると、それだけで泣けてしまうから、シュニトケの技は老獪である。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2019年10月17日
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ベルギーのピリオド・アンサンブル、イル・ガルデッリーノは古楽の故郷ネーデルランドの古い伝統を受け継ぎながら、インターナショナルなメンバーが情熱的な演奏を繰り広げる、もはや古楽の老舗的グループである。
基本的に各パート1人に通奏低音の補充にヴィオローネが加わる編成だが、後半の2曲ではソロ楽器としてもチェンバロが大活躍する。
このアンサンブルの創設者の1人でトラヴェルソ奏者、ヤン・デ・ウィンネは古楽器製作者でもある。
当然このディスクに収録された3曲は彼の製作したピリオド楽器、2キー・タイプのクヴァンツ・モデルを使ったソロになる。
写真を見る限りではオリジナルと同じ黒檀材を使っているが、ピッチは現代よりほぼ半音低いa'=415Hzの替え管のようだ。
クヴァンツ・モデルの特長は転調に強く、低音から高音まで音量が豊かで協奏曲でも他の楽器に埋もれることなく華やかな効果を上げることができる。
バロック・ヴァイオリンはポーランドの若手ヨアンナ・フシュチャで、使用楽器はヘンドリック・ヤコブスの手になる17世紀のオリジナル。
一方チェンバロはモスクワ生まれのイスラエル人ベテラン・チェンバリスト、ツヴィ・メニケルで1738年製クリスティアン・ファーターのコピーを演奏している。
2017年ベルギー、ボランドのサンタポリネール教会での録音は極めて良好。
バッハは横吹きの笛、つまりフラウト・トラヴェルソのための珠玉の名曲を生み出している。
無伴奏パルティータイ短調、チェンバロ付のソナタロ短調や、ここで演奏されている弦楽合奏を従えた管弦楽組曲第2番ロ短調、ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調及び三重協奏曲イ短調だが、他にもカンタータや受難曲でもトラヴェルソがオブリガートで演奏される場面が随所にみられる。
縦笛に比較して陰翳に富み表現力豊かな横笛が、ヴェルサイユ宮廷からヨーロッパ諸国へ熱狂的に波及することに一役かったのが、フリュート・トラヴェルシェールの名手だったオトテールだ。
後のロンドンではジャーマン・フルートと呼ばれたほどドイツの宮廷で持て囃され、楽器の改良も進んで4ピース、ワンキーの標準型が開発された。
中でもプロイセンのフリードリヒ大王の玄人裸足の演奏と彼の作品は当時のヨーロッパの宮廷趣味を象徴している。
大王のフルート教師クヴァンツが、同じ宮廷のチェンバリストだった大バッハの次男、カール・フィリップ・エマヌエルの7倍の俸給を受けていたことも事実だ。
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2019年10月16日
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1979年にミュンヘンのヘラクレス・ザールで行われたセッションで、イタリア弦楽四重奏団の屈託のない明るい音色にポリーニの輝かしいピアノが加わった異色のブラームスだ。
しかしアンサンブルとして高度に鍛え抜かれたある種の厳しさを持ち合わせていて、音楽的に非常に充実していることは勿論だし、ポリーニ初の、そしてともすると最後になるかも知れない室内楽の貴重なサンプルとも言える。
彼のアンサンブルの一員としての存在感は圧倒的で、さながらピアノ協奏曲の様相を呈しているが、それがこの曲への決定的なアプローチになっている。
また第2楽章での奥の深いカンタービレの美しさも彼らならではの表現だろう。
全体的な印象は色彩感に充たされた開放的な、しかしピアノ・パートを恐ろしく精緻に再現したブラームスと言える。
尚この録音の時にはヴィオラ奏者のピエロ・ファルッリは病気のため、ディーノ・アショッラに代わっている。
音質は極めて良好。
イタリア弦楽四重奏団が、この曲に本格的に取り組み始めたのは1951年のザルツブルク音楽祭への参加がきっかけとなっている。
この時ヴェルディの『オテロ』を指揮したフルトヴェングラーは自分の宿泊していたホテルに彼らを招待し、自らピアノを弾きながら助言を与え2回に亘って通し稽古を行った。
その夜は更にベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲についてもレッスンが続いたようだ。
それはこうした作曲家の作品の解釈にも、また彼らの将来の演奏活動にとっても多大な影響を及ぼした経験だった。
一方ポリーニがイタリア弦楽四重奏団の演奏を初めて聴いたのは1954年で、ボルツァーノのブゾーニ・フェスティヴァルでの出会いだった。
ポリーニは当時まだ12歳だったが、この時彼らが演奏したドビュッシーの弦楽四重奏曲を、殆んど奇跡のような体験だったとインタビューで語っている。
そして彼らのアンサンブルが実現したのは1974年のことになる。
このドイツ・グラモフォンへの録音の1年後に彼らは解散してしまうので、まさに飛ぶ鳥も落とす勢いだったポリーニと、イタリア弦楽四重奏団が最後の輝きを放った歴史的なセッションでもある。
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2019年10月15日
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2007年頃に解散したピリオド楽器を使った合奏団ムジカ・アンティークァ・ケルンの最後の1枚になったディスクで、2004年にケルンで録音されている。
またこの企画のもうひとつのセールス・ポイントは、現在では自ら率いるバロック・アンサンブルと演奏したディスクをリリースしているスイスのリコーダー奏者、モーリス・シュテーガーをゲストに迎えていることで、テレマンのスペシャリストでもある両者の協演がこの曲集を一層楽しく、快活なものにしている。
8曲の四重奏曲が選ばれているが、ここでは客演のシュテーガーが加わる3曲がとりわけ華やいだ雰囲気を持っている。
彼は独特の節回しと自由な装飾音をちりばめて奏するアドリブ精神豊かな演奏家だが、それはリコーダーという楽器の庶民的な性質を活かして、高度な音楽作品にも最大限応用しているからだろう。
指揮とバロック・ヴァイオリン及びヴィオラを兼ねたゲーベルは、生き生きとした喜びの表現の中にテレマンの巧みな作曲技法を明快に伝えている。
この曲集の中ではトラヴェルソとヴァイオリン及びチェロと通奏低音のためのニ短調がテレマンの曲として扱われているが、この曲はヘンデル作としても伝えられている。
実際アクサン・レーベルからリリースされているパルナッスス・アンサンブル、クイケン盤ではヘンデルの『4声のコンチェルトニ短調』と表記されているが、曲想からしてテレマンの真作という古楽学者の見解のようだ。
トラヴェルソはフェレナ・フィッシャーが受け持っている。
残念ながらそれぞれの演奏家の使用楽器については明記されていない。
尚ピッチについてはa'=415のスタンダード・バロック・ピッチを採用している。
録音状態は極めて良好で、鮮明な音質、楽器間のバランスや分離状態も申し分ない。
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2019年10月14日
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既にライバルのワーナーからベートーヴェンとブラームスの交響曲全集が廉価盤でリリースされていたためか、先を越されたユニヴァーサルも遅れ馳せながらグラモフォン及びデッカ音源をようやく纏めてくれた。
35枚というディスクの数からすればこのセットもバジェット価格だが、コレクション仕様のしっかりした箱物で、ライナー・ノーツも76ページと充実している。
巻頭にはふたつの興味深い書き下ろしエッセイ、ノルマン・レブレヒトの『フルトヴェングラーの失脚と栄達』とロブ・コワンの『あどけないディオニュソス』を英、独文で掲載している。
収録曲目、トラック・リスト及び録音データの他に対訳こそないが、巻末には作曲家別の曲目索引が付いているので、ディスクを検索する時に、何年にどのオーケストラを振ったものかが一目で判別できるようになっているのも親切な配慮だ。
フルトヴェングラーの演奏集は既にLP、CD、SACDなどあらゆるメディアで出尽くしているので目新しい音源は期待していなかった。
全体が4部分に分けられていて、CD1-3は1929年から37年までの早期録音集、CD4-16が1942年から45年までの戦時下の録音、CD17-33が1947年から54年までの戦後の録音集で、残りの2枚はボーナス・ディスクになる。
CD34が1926年のベルリン・フィルとのベートーヴェンの交響曲第 5番と51年のベルリン音楽大学での講演、そして最後のディスクは1954年ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮したモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』全曲のDVDという内訳になっている。
尚戦後の録音は更にピリオド別に初期7枚と後期4枚のラジオ・レコーディング、3枚ずつのドイツ・グラモフォン及びデッカからのリリース盤に別れている。
『ドン・ジョヴァンニ』は比較的良い状態の映像で残されていて、音質も歌手陣の声を良く捉えていて秀逸。
解釈はごくクラシックで平明な勧善懲悪的な演出で統一されていて、現代においては幾らかありきたりかも知れないが、、それを補う実力派キャストの歌唱は当時としてはおそらく最高峰と言って良いだろう。
チェーザレ・シエピのタイトルロールはイタリアのバスの典型でもある、深く凛とした美声を駆使したカンタービレが特徴的だが、また舞台映えのする容姿とおおらかな演技にも説得力がある。
3人の女声、ドラマティックなグリュンマーのドンナ・アンナ、表情豊かなデッラ・カーザのドンナ・エルヴィーラ、軽快なベルガーのツェルリーナもそれぞれ対照的な性格を巧みに描き出している。
男声もコミカルなエーデルマンのレポレッロ、またここでは高貴で真面目な青年に徹するデルモータのドン・オッターヴィオや田舎者マゼットを好演する若き日のヴァルター・ベリーが充実した舞台を創り上げている。
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2019年10月13日
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トラヴェルソ奏者イェド・ヴェンツと創設以来長期間に亘って演奏活動を続けているオランダのピリオド・アンサンブル、ムジカ・アド・レーヌムの2人のメンバー、チェロのヨブ・テル・ハール及びチェンバロのミヒャエル・ボルクシュテーデによるユーハン・ヘルミク・ルーマン(1694-1758)作曲の12曲のフルート・ソナタ集で、ブリリアントからの2枚組の新譜になる。
ルーマンはストックホルムの宮廷楽壇で活躍したスウェーデン人の作曲家だが、作風は彼のロンドンを始めとするヨーロッパ諸国での研鑽を活かした、当時のインターナショナルな音楽観が反映されていて、こうした室内楽ではイタリア趣味とその様式を踏襲している。
トラヴェルソと低音の2声部で書かれ、このディスクではチェロとチェンバロの左手で低音部を重複させ、右手が和声を補う即興演奏になる。
ルーマンのロンドン留学時代にはアルカンジェロ・コレッリのリバイバル旋風が吹き荒れていて、イタリア風のシンプルなスタイルと華やかな演奏効果を狙った作品が持て囃された。
この曲集でもヴァイオリン・ソナタを髣髴とさせる技巧的なパッセージが随所に使われていて、ワン・キー・トラヴェルソでの演奏にはかなり高度なテクニックが求められる。
ヴェンツはかつてロカテッリのフルート・ソナタ集でその悪魔的な超絶技巧を披露したが、ここでは低いピッチを使用していることもあって、三者の息の合った流麗で屈託のないアンサンブルが秀逸だ。
当初ライセンス・リイシュー音源の廉価盤販売が専門だったオランダのブリリアント・レーベルは、ここ数年独自の企画によるオリジナル録音を次々にリリースするようになった。
その自由な選曲や演奏のレベルの高さ、音質の良さでも大手メーカーに迫るものがある。
彼らが力を入れている部門のひとつがバロック音楽で、このCDセットの録音は2014年暮れから2015年の初頭にかけて収録されている。
ルーマンの全12曲のフルート・ソナタ集の非常に優れた演奏集というだけでなく、数少ない選択肢のひとつとして古楽ファンには貴重なサンプルだ。
今回のヴェンツの使用楽器はオランダの名匠シモン・ポラックの手になる4ピース・ワン・キー・タイプのノースト・モデルでピッチはa'=398Hz。
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2019年10月12日
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専門的なチェック機器やメーターを使うことなく、家庭のオーディオ空間や機器をある程度本格的にチェックできる簡易なディスクであることを評価したい。
SACDバージョンに関しては、音質を聴き比べるためのサンプラー盤は幾つかのメーカーからリリースされているが、細かい検証ができて鑑賞のための基本的な改善が可能なディスクは今のところこれが唯一だろう。
先ず左右片側ずつ及び両側同時チャンネルでスピーカーの接続エラーがないか確認後に、中央からブレのない信号音が聞こえてくるか位相をチェックし、スピーカーの位置関係を矯正することによって正しい音場が得られる。
部屋の形がシンメトリーでなくても、ある程度はユニットを的確に移動させることでコンサート・ホールの音響に近づけることができる。
それからピンク・ノイズを使った音色調整をしてから、音域ごとの帯域バランスをチェックするのが最も基本的な事項だろう。
更にリファレンス信号と周波数スイーブ・セクションが続くが、ここでは自分自身の聴覚の検証を行うことにもなる。
サラウンドを装備している方には同様に5,1chのそれぞれと全チャンネルからの信号を正確にキャッチするための調整が可能だ。
パイプ・オルガンの低音部の響きにはサブ・ウーファーの位相の確認も重要だろう。
一通り基礎的なチェックを終えてオーディオ環境を改善した後は、後半のデモンストレーション音源で、どの程度音場やバランスが改善されたかを鑑賞しながら確認できる趣向になっているが、この音源も勿論2チャンネル用とサラウンド用の2種類が収録されている。
サンプルはクラシック音楽が殆んどだが、さまざまな楽器によって編成されているオーケストラやソロの音源で音場や定位、音色などを調節することは他のジャンルにも応用できる。
1曲だけがカーティス・フラー・クインテットによるモノラル録音も含まれているので、中心が定まっているかどうかこの演奏で検証できる。
またこのディスクはハイブリッド仕様なので、レギュラー・フォーマットCDとSACDの音質の差や音色の滑らかさの違いも1枚で試聴可能だ。
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2019年10月11日
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単なる名演、名人芸という次元ではなく、演奏の概念を変えてしまう画期的な表現活動に出くわすときがある。
聴き慣れた作品であれ、未知の作品であれ、目の前で繰り広げられる演奏が予想もしないインパクトと吸引力をもって展開され、聴いている自分が感動しているのか、それとも唖然としているのか分からなくなってしまうが、しかし前例のない感動体験であると断言できる、そんな演奏との出会いである。
マルタ・アルゲリッチ(1941年生まれ)の登場ほどショッキングだったことはなかったというが、それは感動刷新であり、演奏新時代の幕開けであった。
アルゼンチンに生まれたアルゲリッチは、1957年に行なわれたブゾーニ国際コンクール、スイスのジュネーヴ国際コンクールを16歳の若さで制覇、1960年にはドイツ・グラモフォンへのデビューも飾って、その天才ぶりを披露した。
そのデビュー盤の冒頭に収められたショパンの《スケルツォ第3番》からアルゲリッチはその天才ぶりと男まさりの表現意欲を見せつけたが、協奏曲の録音は1967年にようやく訪れた。
この間の1965年、24歳になっていたアルゲリッチはショパン国際コンクールに優勝し、その名声を確立したわけだが、高まる期待感を背景に録音されたのが、このプロコフィエフの《第3番》だったのである。
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルという豪華この上ない組み合わせによる演奏だが(実はアバドがベルリン・フィルと録音した最初の機会でもあった)、アルゲリッチはインスピレーションの塊というべきか、プロコフィエフの手になる迷宮の城を易々と、そして軽々と、さらに自ら楽しむかのように泳ぎ回った演奏で聴き手の度肝を抜いてしまう。
生まれたばかりと評したくなる音色の冴えと輝き、リズムの圧倒的推進力とその瑞々しさ、火照りにも似たカンタービレの熱さとしなやかさ、そして演奏全体をぐいぐいと引っ張り、指揮者やオーケストラすらも牛耳ってしまう女王のような存在感に、聴き手は完全に魔法にかけられてしまったものである。
しかもそれは決してショウなどではなく、実に味わい深い、演奏という名の無垢なる表現活動だったのであり、たとえようもない幸福感と高揚感に包まれた聴き手は演奏の時代が確実に一歩先へ進んだことを実感したのである。
録音から半世紀以上が過ぎたが、今なおこの演奏が与える感銘は色褪せない。
否、このプロコフィエフに心奪われた聴き手はその後、訪れた世代交替、演奏スタイルの激変、技術革新を前にしても何ら驚くことなく達観できる視野と座標軸を与えられたと言ってもよいであろう。
それほど感動の新基準となった演奏なのである。
聴き手を変えてしまう名演というものもあるのである。
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2019年10月10日
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ハンス・ホッターが歌ったシューマンの『詩人の恋』全曲の唯一存在する音源で、ハンス・アルトマンの伴奏による1954年のセッション録音になる。
ただホッターは1962年の初来日の時のコンサート・プログラムにもこの曲集を加えているので、彼が既に歌い込んで手の内に入れていたレパートリーだったことが想像される。
音質は時代相応と言うべきで決して悪い状態ではなく、ピアノの音量レベルがやや低く響きに古めかしさが感じられるが、ホッターの声はかなり良く捉えられている。
『詩人の恋』の第1曲「美しい五月に」はフィッシャー=ディースカウの歌唱を聴くと、待ち焦がれていた春の青空を連想させて、そこにはまだ希望があり、甘やかな憧憬と淡い期待感とが交錯しているが、ホッターの場合は既に灰色の空で来るべき失恋の痛手を早くも予感させ、諦観すら感じさせている。
あるいは過ぎ去った苦い日々を反芻する詩人という解釈も成り立つだろう。
第5曲「ライン、聖なる流れに」は殆んど祈りのようだし、第13曲「僕は夢の中で泣きぬれた」では主人公の悲痛な叫びが聞こえてくる。
そして終曲「昔の忌まわしい歌」は巨大な棺を運んでいく巨人達の行進をイメージさせる堂々たる歌唱で飾っている。
過去には確かアレクサンダー・キプニスの例があったにしてもホッターのような低く重い声を持った歌手がこの歌曲集を採り上げることは稀だ。
しかし彼には聴き手をすっかり納得させてしまうだけの表現力がある。
むしろ歌曲においてこのような異色の解釈が可能であることに驚かざるを得ない。
アルトマンのピアノがもう少し積極的であれば、更にホッターの歌唱に精彩が加わったに違いない。
前半のシューベルト歌曲集は1952年から54年にかけてのセッションで、伴奏は総てアルトマンになる。
曲によってホッターはかなり声量を抑えて密やかな表現を試みている。
それは稀代のワーグナー歌いとしての姿からは意外なくらい軽やかだ。
しかしやはり彼の本領が発揮されているのは『無限なる者に』や『プロメテウス』『タルタロスの群れ』などのスケールの大きいドラマティックな作品だろう。
尚音源は総てモノラル録音で、バイエルン放送局用のテープからオーストリア・プライザー・レコーズが当初LP盤でリリースしていたものだが、1987年のディジタル・リマスタリングによってCD化された。
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2019年10月09日
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ハンガリーのトラヴェルソ奏者、ベネデク・チャーログが1999年に録音した4曲のクヴァンツのトラヴェルソ協奏曲集で、いずれの曲もピリオド楽器による演奏としては世界初録音になる。
彼はこの時期クヴァンツの作品を集中的に研究していて、2001年には7曲のソナタ集も同様にハンガリー・フンガロトンからリリースしている。
演奏の全体的な特徴は、ピッチがa'=397,5Hzという当時のベルリンの宮廷で好まれた低いものであるために、オーケストラの音色はやや暗いが、速めのテンポが曲集全体を生き生きとさせている。
アウラ・ムジカーレは通奏低音のタンジェント・ピアノを含めて10名の室内楽編成で、コントラバスを一挺加えることによって低音の増強を図り、しっかりした和音進行とドラマティックな曲想を聴かせることに成功している。
ライナー・ノーツによれば、これはポツダムのサン・スーシー宮殿でフリードリッヒ大王が抱えていた宮廷楽団の人数及び楽器編成と一致していて、当時コントラバスはヤーニチュの担当だったことが想像される。
尚チェンバロの替わりにタンジェント・ピアノを使用しているのは、大王が初期のピアノを好んでいたためだろう。
ここで演奏されているピアノはハンガリーの鍵盤楽器奏者、ミクロス・シュパンニの所有になる。
ブダペスト出身でクイケン門下のチャーログは、既にトラヴェルソ用のソナタや室内楽を数多くリリースしていて、その情熱と意気込みはどの録音にも感じられるが、勿論目の醒めるような鮮やかなテクニックはこの協奏曲集でも面目躍如だ。
また緩徐楽章でのピリオド楽器の機能を活かした節度ある音楽性の表出には好感が持てる。
彼がこの録音に使った楽器は1750年にクヴァンツ自身が製作したベルリン・モデルをフィリップ・アラン=デュプレがコピーしたもので、写真は掲載されていないがEs音とDis音を区別する2キー・タイプと思われる。
オーケストラに対抗できる豊かな音量と線の太いクリアーな音色に特色がある。
ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツが作曲したトラヴェルソのための膨大な作品は、大王によって保管されていたために、古楽研究の隆盛と共に近年それらの楽譜校訂と共にその出版が盛んに行われるようになった。
ここに収められた4曲の協奏曲はヴィヴァルディ様式の3楽章から構成されていて、それぞれが後期バロック特有の激しい曲想や、トラヴェルソにとって効果的な華やかなパッセージがちりばめられた、捨て難い魅力を持っている。
収録曲目はト短調No.262、ニ長調No.70、ハ長調No.188及びト長調No.161で、鮮烈な音質が楽しめる優秀な録音であることも付け加えておく。
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2019年10月08日
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日本人によって書かれた殆ど唯一のマニエリスムに関する本格的な論述である。
マニエリスムとは危機の時代の文化である。
世界調和と秩序の理念が支配した15世紀は、黄金のルネサンスを生み出した。
だが、その根本を支えてきたキリスト教的世界像が崩れ、古き中世が解体する16世紀は、秩序と均衡の美学を喪失する。
不安と葛藤と矛盾の中で16世紀人は「危機の芸術様式」を創造する。
古典主義的価値をもつ美術史により退廃と衰退のレッテルを貼られてきたこの時代の芸術の創造に光を当て、現代におけるマニエリスムの復権を試みた先駆的な書である。
ルネサンスとバロックの狭間に咲いたあだ花のように蔑視されてきた芸術が開花した歴史的背景とその再評価が若桑氏の深い洞察と広範囲に渡る研究によって明らかにされていく。
プラトンによって唱えられた現世における人間の姿、つまり肉体という牢獄に閉じ込められた精神の苦悶とそこから解き放たれる自由への渇望をこの危機の時代にミケランジェロは身を持って体験し、それを自分の作品に具現化させようと試みた。
それはもはや現実的な実態とはかけ離れた精神的な実在に迫る表現であり、ルネサンスの物理的に精緻な物差しを使って彼の作品を計り、理解しようとすることは無謀だろう。
更にブロンヅィーノに至ってはミケランジェロの三次元的な形態は受け継がれたものの、その精神は寓意によってすり替えられた。
彼は自分の作品を病的なまでに寓意で満たし、後の時代の人々が解読不可能になるほどの技巧を凝らせた。
一方パルミジャニーノは既成の空間を反故にして見る者の視線から焦点を逸らし、なかば強制的に思考の迂回を図った。
そうした方法がヴァサーリの言うマニエーラ、つまり作品の背後にある作者の思索を感知させる手段として追求されたのがこの時代の芸術だろう。
そうした意味で本書はミケランジェロとその時代を画したアーティスト達の作品を理解するうえで非常に有益な示唆を与えてくれる。
また後半部に置かれたマニエリスト達の作品の宝庫、フランチェスコ・デイ・メディチのストゥディオーロについての詳述も圧巻だ。
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2019年10月07日
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イシュトヴァン・ケルテス(1929-1973)がウィーン・フィルと共演した1961年から73年までのデッカ音源を纏めた21枚セット。
最後の1枚はブルーレイ・オーディオ盤のシューベルトの8曲の交響曲及び序曲集になる。
カルロス・クライバー演奏集では、全曲ブルーレイ・オーディオ・バージョンで収録されていたので、名演の誉れ高いドヴォルザークの『新世界』の高音質化を期待していたが、ここでは結局レギュラー・フォーマット盤で収録されている。
1961年の古い音源なのでマスターの経年劣化でリマスタリングができなかった可能性もある。
若干32歳だったケルテスが、したたかなウィーン・フィルの信頼を勝ち得て、彼らの美感を思う存分発揮させながら、独自の世界を描く演奏には替え難いものがある。
いずれにしてもブルーレイ・オーディオ化されたシューベルトの音質が素晴らしいだけに残念だ。
ブラームスの4曲の交響曲及び『ハイドンの主題による変奏曲』に関しては、1964年に録音された第2番の後、シリーズとしての企画が立ち上げられたのが8年後の72年である。
そのため他の3曲とは隔たりがあるものの一応全曲収録の体裁を整えているが、ケルテスの急死で第2番の再録音は果たせなかった。
また『ハイドンの主題による変奏曲』もセッションが続いていた最中に同様の理由で中断されたため、ウィーン・フィルのメンバーが残された部分を指揮者なしで追悼演奏して完結させたものが収録されている。
声楽曲ではモーツァルトの『レクイエム』、オペラではモーツァルト・オペラ・フェスティバルと題された序曲及びアリア集2枚、『皇帝ティトの慈悲』全曲とドニゼッティの『ドン・パスクワーレ』全曲が収録されている。
中でもドニゼッティはケルテスのコミカルな表現が炸裂した秀演だ。
歌手陣にもタイトルロールがコレナ、ノリーナにシュッティ、エルネストにはオンシーナ、マラテスタがトム・クラウゼという芸達者が揃っている。
ドタバタ劇に陥りかねない作品を芸術の範疇に踏み留めた演奏が面白く爽快だ。
中でも第2幕で歌われるノリーナとエルネストの二重唱は、かつてのダル・モンティ、スキーパのデュエットを髣髴とさせるベル・カントのお手本のような美しさが特筆される。
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2019年10月06日
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指揮者/ピアニスト、また作曲家としても活躍したクラシック界の重鎮、アンドレ・プレヴィン(1929-2019)。
若い頃にはMGMの音楽監督としてミュージカルの作曲/編曲/指揮に、またアメリカ・ウエストコーストではジャズ・ピアニストとして多大な人気を博していた。
ここに聴く、プレヴィン壮年期に手兵ピッツバーグ交響楽団と録音した粋で躍動感あふれるガーシュウィンの弾き振りは、まさに彼のお家芸といえるものだ。
アメリカ移民時代のパワフルな社会をイメージさせる演奏が秀逸で、ガーシュウィンの楽しさを満喫させてくれる。
ガーシュウィンの音楽には、自身名も無いユダヤ系の移民として自らの才能ひとつで幸運を掴んでいったしたたかさのようなものがある。
このCDに収められたプレヴィン(奇しくも彼自身ユダヤ系移民の1人だが)の弾き振りによるピッツバーグ交響楽団の演奏にはいくらか荒削りだが、どこか天真爛漫なパワーが漲っていて、それがかえってガーシュウィンのスピリットを効果的に伝えているように思う。
『ラプソディー・イン・ブルー』は当初ピアノとジャズ・バンドのために作曲されたが、この録音ではファーディ・グローフェの編曲によるフル・オーケストラ版が採用されている。
一方ピアノ協奏曲ヘ長調は『ラプソディー・イン・ブルー』が即興的で自由奔放な展開をするのに対して、遥かに手の込んだ書法で作曲されている。
第2楽章のトランペット・ソロによるタバコの煙に咽ぶような気だるいメロディーを充分に聴かせているのも印象的だ。
オーケストレーションはガーシュウィンのオリジナルだが、確かにモーリス・ラヴェルの影響があったに違いない。
1928年の3月8日に53歳を迎えたこのフランスの大作曲家の誕生祝賀パーティーがニューヨークで開かれた時、教えを請うたガーシュウィンに「二流のラヴェルより一流のガーシュウィンでいたまえ」と応じたラヴェルの逸話は伝説的に伝えられている。
ここに収録された3曲はいずれもプレヴィンにとっては2度目のセッションで、1984年録音の音質は極めて良好。
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2019年10月05日
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2013年はヴェルディとワーグナーという、どちらも劇音楽の大家でありながら一方は人間の喜怒哀楽を、そして他方は神々の世界を執拗に描いた音楽史上対照的な2人の作曲家の生誕200周年記念だった。
既に複数のレーベルからオペラ全集を始めとするセット物がリリースされているが、2月に60歳を迎えるリッカルド・シャイーがヴェルディ・イヤーに因んでスカラ座フィルハーモニー管弦楽団を振ったこのセッションはその先鞭をつけたものだ。
様式化された番号性オペラに則って、ひたすら声を響かせることによって究極の人間ドラマをものしたヴェルディの作品では、序曲や前奏曲はあくまでも劇的な雰囲気を演出する手段であって、ライトモティーフを始めとするワーグナーの複雑な心理手法とは異なる、より視覚に訴えた劇場空間でこそ効果を発揮するものだ。
だからこのようなアンソロジーは下手にいじるより、彼の指揮のようにストレートに表現するのが理想的だ。
そのあたりはさすがにイタリアのマエストロの面目躍如で、オーケストラを人が呼吸するように歌わせながら、流れを止めない推進力と屈託のない明るい音色を極力活かしている。
リリカルなものとしては『椿姫』第1幕への前奏曲、ドラマティックな表現としては『運命の力』序曲が聴きどころだが、このCDには普段あまり聴くことのない『海賊』や『ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)』そして『イェルサレム』などからもピックアップされているところにシャイーの一工夫が見られる。
名門スカラ座フィルハーモニー管弦楽団はアバドによって1982年に正式に組織されたオーケストラだが、その母体は1778年に劇場と同時に設立された専属のミラノ・スカラ座管弦楽団としての伝統を持っていて、トスカニーニやデ・サーバタなどの指揮者による名演も数多く残している。
彼らの演奏の白眉は何と言ってもオペラやバレエを始めとする舞台芸術作品だが、アバド以来国際的なトゥルネーに出てベートーヴェンやマーラーなどのシンフォニック・レパートリーも披露している。
リッカルド・シャイーとは既に1995年のセッションでロッシーニ序曲集をやはりデッカからリリースしていて彼らの久々の協演になる。
今回のアルバムでも言えることだが、オーケストラはいくらか線の細い明るい音色を持っていて、決して重苦しくならない柔軟で解放的な響きが特徴だ。
2012年の録音で音質、臨場感共に極めて良好。
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2019年10月04日
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シュポア以来の伝統を誇るドイツのヴァイオリン界だが、20世紀前半を彩った名手は、アドルフ・ブッシュとゲオルグ・クーレンカンプの2人に尽きると言っても決して過言ではないだろう。
ドイツの演奏家は、ヴァイオリンに詩人の歌を聴くのか、感覚的に熱狂するのとは対照的に、しばし甘美な思索にふけるような演奏を聴かせて聴衆を魅了するが、クーレンカンプの芸術もまさにこうしたドイツ的幻想のヴァイオリンを堪能させてくれるものと言える。
ナチス政権下にあって、ブッシュ、フーベルマンたちは次々と祖国を離れたが、クーレンカンプはヒットラーに気に入られたこともありドイツに留まった。
ヒットラーは「私の愛好するアーリア人の名手」と呼んでクーレンカンプを大事に扱った。
1937年には、シューマンのヴァイオリン協奏曲蘇演をめぐって、メニューイン、ジェリー・ダラーニ、そしてクーレンカンプの間で初演権の争奪戦が繰り広げられるが、もちろんクーレンカンプにファースト・チョイスの権利が与えられたことは言うまでもない。
もっとも、クーレンカンプはナチスの忠実な下僕だったわけではなく、ナチス政権下でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏することも主張したほか、レコーディングまで行っている。
彼は50歳の短い生涯であったが、クーレンカンプについてはエドウィン・フィッシャーが次のように綴った言葉が印象的だ。
「クーレンカンプは、およそ明快でないもの、曖昧なもの、真摯さに欠けるものを嫌った。真実を求めてやまない彼の生き方こそ、人間的にも、芸術的にも、最も素晴らしい」と。
この言葉からうかがわれるように、真摯さと謙虚さこそがクーレンカンプの本質なのであり、彼は作品を修行僧にも似た目でとらえ、1つ1つの音符を最大限の誠実さと磨き抜かれた技術と音色をもって音に変える演奏家と言ってよいであろう。
聴衆を熱狂させる華やかさも、ショウマンシップらしい演出からも遠い演奏家だが、作品をじっくりと見つめ、真実の言葉を捜し出すような、素朴で、力強い面をもつ音楽家なのであり、あくまでも内面的な潤いに溢れた演奏を聴かせてくれる名手であったように思われる。
しかも演奏の背後には、暖かいロマンティシズムの息づかいがあふれており、そのゆったりと水をたたえた流れの豊かさと言葉の優しさが、現代の聴き手すらも充分に感動させる。
ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、チャイコフスキーの協奏曲をはじめ、ソナタなどの録音も数多くが残されており、伝統的な様式感を支えに、実に安定感溢れる巨匠ならではの至芸を聴かせてくれる。
中でもフルトヴェングラーと共演したシベリウスはクーレンカンプを代表する名演の1つで、いやがうえにも1943年という時代背景を感じさせる重さと暗さをたたえた演奏で、深く沈潜していく情感のうねりに圧倒される。
協奏曲であることを忘れて、作品の素晴らしさ、演奏全体が醸し出す気迫におし潰されるかのようだ。
クーレンカンプのシベリウスへの想いは熱く、作曲家に自らの演奏についての指導も仰いでいる。
その高潔な精神性と演奏に漂う潤いは、現代の名手たちにはない奥深さと人間的な暖かさを感じさせるものであり、ヴァイオリン音楽の世界を一段と詩的に感じさせる名手と言ってもよいであろう。
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2019年10月03日
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彼女の日本語の実践ぶりには何かと不快感を禁じ得ないこともあろうが、彼女の音楽は決して不快ではない。
確かに、ショパンコンクール凱旋当時は、内田光子の演奏に技術と才能の顕揚ぶりと同時に、不快というより退屈と言うべき瞬間が限りなくめぐってくるのを人はしばしば実感し、席を立ちたくなったこともあった。
そして、たまたま回したテレビのチャンネルで日本人のインタビューを受ける彼女を見、その返答ぶりの意図的とも思えるぞんざいさと無償の攻撃性に、何という人間だろうとつい呟いてしまったこともあった。
しかし、彼女が実践する不快さは、むしろ、いかにもデマコジーに満ち迎合的に展開される日本式テレビインタビューの常識をあっけらかんと無視し、何か見てはならないはずのものを見せられてしまった時のあの感覚、隠された真実が荒々しく露顕する時のほとんど快感と言ってもよい不快感に過ぎず、取り立てて特権的な出来事ではないことは言うまでもない。
内田光子は長らくロンドンに定住し、ミツコ・ウチダとして活躍してきたが、彼女にとって問題があろうとかつて人が考えたのは、その存在の不快さではなく、むしろその音楽の退屈さだった。
疑問の余地のないその技術がありながら、なぜそんなにまで律気に譜面をなぞらなければならないのだろうと人は自問したものだった。
自動車やコンピュータを輸出しつづける国が音楽家の輸出国でもあることは言うまでもないが、保守的とは言え音楽とは何かということを他のどの国の人々よりも心得ていると言いたくなる女王陛下の英国に限らず、ヨーロッパの音楽家たちは、お世辞抜きに、日本の音楽家はオーケストラには向いているが、ソリストには向いていないというほとんど神格化した言説を信じていて、優秀だが個性がないという日本製品全般に向けられた視線をミツコ・ウチダも体験することになったであろうことは想像に難くない。
例えば、ジョン・シュレジンジャーの映画『マダム・スザーツカ』でも、その視線は、ショパンもバルトークも同じように弾くピアニストはロンドンでは売り出せないが、東京に連れていけば大丈夫だという台詞に翻訳され、日本の聴衆にさえ向けられているし、世界的なブランドになりつつあるヤマハやカワイのピアノについても、家に置いておくのには良いが、コンサート用には不足だという具合の視線がつきまとっている。
もちろん、こうした日本神話はヨーロッパやアメリカの偏見だけで出来上がっているわけではなく、他者が選択するものは選択するが自分では選択しない、という相変わらずの日本の無責任ぶりに一因があるのは言うまでもない。
同じショパンコンクールで選ばれたとは言え、カレーライスの宣伝にでも出演して国内的な安定を図るに甘んじようというのとは違い、ミツコ・ウチダは、東京ではなくロンドンを選択し、選ばれたことに責任をとろうと努めてきたピアニストだと言うべきだろう。
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2019年10月02日
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予備知識を全く持たずに演奏(録音)を聴いて、驚かされる芸術家がある。
筆者にとって、ジョコンダ・デ・ヴィートはそのような芸術家の1人だった。
それは、彼女がエドウィン・フィッシャーと共演したブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ第1番」と「第3番」の録音で、筆者の興味はフィッシャーのブラームスを聴くことにあり、ヴァイオリニストについてそれほど関心を持っていなかった。
あったとしても、イタリアのヴァイオリニストがブラームスを演奏するのは珍しい……ぐらいのものであったろう。
ところが、デ・ヴィートの演奏は、悲壮な先入観を打ち砕くほど素晴らしかった。
フィッシャーの自発性に溢れた闊達な演奏は、筆者の期待を充分に満たしてくれたが、デ・ヴィートはフィッシャーと世代も個性も異にしながら、豊かな自発性とブラームスの音楽に対する深い共感に基づく解釈で、フィッシャーと全く対等に演奏していた。
加えて、ブラームスの抒情性と落ち着いた情感を暖かい雰囲気の中で生かしブラームスの人間性を実感させてくれた。
デ・ヴィートがフィッシャーとブラームスのソナタを録音したのは1954年、彼女は47歳であった。
デ・ヴィートは1961年に引退したから、彼女の演奏活動が頂点にあるときにこの2曲が録音されたことは、彼女にとっても、われわれにとっても幸福であった。
イタリアのヴァイオリニストであるデ・ヴィートは、イタリアのヴァイオリンとヴァイオリン音楽に強い愛情を持っていたが、官能的な音色の魅力や華麗な技巧に優先権を与えず、常に音楽が内蔵する真の精神を表現することを目標にしていた。
したがって、彼女がドイツやオーストリアの音楽を演奏する時にも、解釈の基礎にはイタリアのヴァイオリンとその音楽があった。
そこから彼女の演奏は、独特の輝きが生まれたのである。
それは、デ・ヴィートの人間性に基づくものであろう。
デ・ヴィートはスタンダードなヴァイオリニストのレパートリーを演奏したが、特にバッハ、メンデルスゾーン、ブラームスの音楽では、熟達したテクニックと詩的な想像力がほとんど理想的な状態で溶け合っていた。
演奏を支配していたのは明晰な様式感だが、それは内面的な精神と豊かな情熱に結びついていた。
また、彼女がイタリアの古典ヴァイオリン音楽を高く評価していたことが、彼女の演奏様式に晴れやかな魅力を加えた。
イタリアのヴァイオリニストで、ドイツ・オーストリア音楽をレパートリーに入れる人は多いが、彼らの演奏でまず印象づけられるのは美しい音であり、鮮やかなカンタービレである。
デ・ヴィートの演奏では、そのような感覚に訴える魅力よりも、豊かな自発性と熟成した解釈から生まれる内面的な精神、暖かい感情が聴き手を捉える。
彼女が演奏を通じて作曲家の人間性を感じさせることが、彼女を偉大なヴァイオリニストと呼ばせるのである。
デ・ヴィートの音の美しさ、響きの豊かさは、同時に優れた楽器の威力を示している。
彼女は1953年以前、1762年のガリアーノを弾いていたが、その後1690年のストラディヴァリ“トスカ”を使った。
それは、イタリア政府が聖チェチーリア音楽院のために購入した名器で、同校の終身教授であった彼女に貸与された。
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2019年10月01日
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ニューヨーク・フィルが放送録音を集め、自主製作盤で出したマーラーの交響曲全集が、1998年秋、日本に入ってきた時は、思わず色めき立った。
NYPではマーラー自身が指揮台に立っており、それ以来、脈々とマーラー演奏の伝統が受け継がれている。
ワルター、バルビローリからブーレーズ、メータまで、様々な指揮者による、音で聴ける「マーラー演奏史」のなかで、筆者が最も深い感銘を受けたのが、ミトロプーロスによる第6番である。
彼は20世紀の音楽を得意とし、マーラーも好んで演奏し、1947年にはNYPと、第6番の米国初演を行っている。
1960年にミラノで急逝したのも、交響曲第3番の練習中に起きた心臓発作が原因だったから、文字通りマーラー作品に殉じたと言えなくもない。
問題は、彼のそうしたマーラーに示した強い共感を追体験できる良質の録音が、思ったほど多くないことだ。
セッションでは、1940年に当時の手兵・ミネアポリス響と行った第1番の世界初録音(ソニーからCD復刻済み)があるぐらいで、あとは時折り世に出るライヴ盤で、至芸をしのぶしかない。
この第6番でまず強烈な印象を残すのは、異常なまでの高い燃焼度だ。
切迫した気分で低弦がリズムを刻み出す第1楽章冒頭から、指揮者、オケともにテンションの高さは明白。
概してテンポは速めで、「悲劇的」な曲想を深く抉った苛烈なまでの劇的盛り上げや、心の底からの痛切な歌い込みに、ぐいぐい引き込まれる。
渾身の力を振るったフィナーレでは、ライヴならではの凄まじいクライマックスを築き上げる。
もちろん現代音楽の名手らしく、見通しの良い造形にも欠けていない。
最後までパワフルな合奏を聴かせるNYPの威力もさすがで、マーラー作品に潜む独特な音色を見事に表出している。
愛好家がエアチェックしてテープを基に復刻したモノーラル録音ながら、音質も聴きやすい。
ただし反復に一部省略があるうえ、第2、3楽章が通常と入れ替わり、2楽章がアンダンテ、3楽章がスケルツォとなっている。
演奏当時の文献や資料によると、第6番の本番は、聴衆の入りは今ひとつだったものの、演奏が終わると、当時では極めて珍しいことに、楽員までが観客の熱烈な拍手に同調して、ミトロプーロスを称えたという。
また彼は、長大なマーラー作品に慣れていない聴衆のために、第2楽章と第3楽章の間で休憩時間を設け、当時の評論家も新聞記事でそれを支持しているが、マーラーが一般にも浸透した現代では信じがたいことだ。
この曲のオンエアに向けた彼の執念などを読むにつけ、一世一代の熱演の陰には、作品を聴衆に何とか広めたいという真摯な使命感があったと推察され、胸が熱くなる。
弟子のバーンスタインに連なっていく現代のマーラー演奏を考える上でも、まことに忘れ難いドキュメントである。
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