2020年01月
2020年01月30日
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イタリア四重奏団(1945年結成、1980年解散)のドイツにおける初期の放送用音源を3枚のCDに纏めたアウディーテ盤で、1951年から63年にかけての総てがモノラル録音だが、当時の西ベルリンRIAS制作のオリジナル・アナログ・テープは音質に優れ保存状態も良好だ。
また新規のリマスタリングによって、イタリア四重奏団の持つ明るい音色、しなやかだが芯のある毅然とした音質と、どんなに小さなモチーフでも歌い出さずにはいられない宿命的とも言える彼らのDNAを感じさせる演奏が甦っている。
メンバーはヴィオラ・パートを除いて35年に及ぶ全活動期間を通じて不動だった第1ヴァイオリンのパオロ・ボルチャーニ、第2ヴァイオリンで後にボルチャーニ夫人になったエリーザ・ペグレッフィ、チェロのフランコ・ロッシに、ヴィオラには1947年から77年迄の全盛期を支えたピエロ・ファルッリが加わっている。
イタリア四重奏団は北イタリアのカルピで戦後逸早く結成されたカルテットで、彼らの活動期はイタリア・オペラ黄金期と重なっていながらインターナショナルな演奏活動を展開した、イタリアでは殆んど唯一の弦楽四重奏団だった。
レコーディングではベートーヴェンとモーツァルトの弦楽四重奏曲全曲が骨子になっているが、また彼らのポリシーに現代音楽の演奏と聴衆の啓発があり、当初は批判の声を浴びながらもコンサートのプログラムには絶えず20世紀の作品が採り上げられた。
ここではマリピエロとショスタコーヴィチでその片鱗を窺うことができるが、ラヴェルでもその表現力は斬新かつ鮮烈だ。
ちなみにライナー・ノーツにはケルビーニ、ドニゼッティ及びショスタコーヴィチの3曲は初CD化の記載がある。
テクニカル・ポリシーとして彼らは全員が金属弦を使用していたこと、セッション、ライヴを問わず全曲暗譜で演奏に臨んだことが挙げられる。
前者はガット弦では演奏中に弦の弛みが生じて楽章間の再調弦が必要になり、曲によっては緊張感の弛緩が避けられないからで、後者はアンサンブルの緊密化を図るためだ。
楽譜を追うことに囚われず、メンバー1人1人がお互いに聴き合い、譜面台のスペースからも開放されることによって、練り上げられたアンサンブルの妙味が醸し出される。
この方法は他にスメタナ四重奏団にしかみられない革新的な演奏形態だった。
しかしプログラム全曲を暗譜するには個人的な練習はともかくとしてそれに見合った合わせ稽古の時間を捻出しなければならなかった。
ペグレッフィの回想では午前中に稽古を始め、昼食、夕食を挟んで深夜まで続くことが日課だったとしている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年01月27日
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このセットには正規音源からの初のCD化による1960年秋のリヒテル・カーネギー・ホール・ライヴ全曲がCD2から10に収録されている。
モノラル録音だがドレミ・レーベルの低音域ノイズとスクラッチ・ノイズが煩わしいCDに較べると全く別物だし、それに続く同年12月のステレオ・ライヴCD13から16の4枚をあわせた13枚だけでもリヒテル・ファンにとっては垂涎の的になるコレクションだろう。
これらは彼が45歳でアメリカ・デビューを飾った時の都合7晩のアンコールも含めた全リサイタルの記録で、会場に集まった聴衆の熱気が曲を追うごとに次第に高揚していく生々しいライヴだ。
当時のアメリカではまだ伝説的にしか伝えられていなかったリヒテルへの期待感が嫌が上にも高まっていたことは想像に難くない。
そうした期待に応えるかのように、この年の10月から始まった演奏旅行で彼は瞬く間に大陸を席巻し、堂々たる凱旋を飾ってそれまで西側諸国では幻のピアニストだったリヒテルの評価を決定的なものにした。
リヒテル壮年期の類い稀な覇気と、ややデッドだがオン・マイクで採音されたピアノの臨場感溢れる音響が直に伝わって来て、その後の彼が常に目指したライヴの理想的な姿を具現しているかのようだ。
プログラムの特徴は、20世紀ロシアのピアノ曲を多く採り入れていることで、それは自国の作曲家の作品に対する彼の自負でもあった筈だ。
たとえばプロコフィエフのピアノ・ソナタ第6番第1楽章では鉄杭を大地に打ち込むような強靭な打鍵に貫かれたパワフルなテーマが象徴的だ。
欲を言えばこのセットには5年後にリヒテルがカーネギー・ホールに戻って来た65年のライヴが欠けていることだろう。
版権が異なるためか現在入手できるCDは、4月15日のシューベルト、ブラームス、ショパン・リサイタルがドレミ・レーベルから、5月18日のリストのソナタロ短調がプラガ・ディジタルスからSACDで、それぞれリリースされているものの、聴衆の雑音は致し方ないとしても音源の質自体は海賊盤の域を出ていないのが残念だ。
勿論セッション録音の方も決して劣るものではなく、CD1の1曲目を飾るブラームスのピアノ協奏曲第2番は鮮烈なリマスタリングでこの演奏の価値を再び問い直している。
シカゴ交響楽団はラインスドルフによって緻密にコントロールされ、リヒテルは雄渾なスケールで力強いピアニズムを展開しているが、両者の張り詰めた緊張感の中に溢れんばかりのリリシズムを湛えている。
18枚の内訳は幸いこのページに総て掲載されているが、12月26日カーネギー・ホール・ライヴ全曲と28日のモスク・シアターでのアンコールを収録した既出のリヒテル・リディスカヴァード2枚組との曲名表記の違いがある。
既出盤のハイドンのピアノ・ソナタ第60番ハ長調はランドン版番号で、ホーボーケン第50番と表記されている同一曲だ。
尚バジェット価格盤にしては焼き直しではない英、独、仏語による写真入54ページの充実したライナー・ノーツが付いている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年01月25日
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2014年のリヒャルト・シュトラウス生誕150周年記念に合わせてワーナーから3セット計34枚のCDがバジェット価格でリリースされた。
そのうちの9枚組がこの交響詩、協奏曲集で、ちなみに22枚組が10曲のオペラ全曲録音、残りの3枚がカンタータやレアな作品を集めたセットになっている。
使用音源はロンドンのEMIアビ−・ロ−ド・スタジオに眠っていた旧東ドイツ制作のオリジナル・マスターテープで、日本では既に2012年に10枚のシングル・レイヤーSACD化が実現されている。
このボックスでは協奏曲全曲を追加してレギュラー・フォ−マット用にリマスタリングして9枚のCDに収めている。
1999年にも一度リリースされているし、またオランダ・ブリリアント・レ−ベルからもバジェット盤が出ていた。
マスター自体とリマスタリングが異なっていることもあって、音場の広がりと音像の生々しさにかなりの向上が認められる。
また旧盤には組み込まれていなかったオペラ『カプリッチョ』から、ペ−タ−・ダムのホルン・ソロによる間奏曲「月光の音楽」が加わって、よりコンプリートな作品集に仕上がっている。
交響詩集はカラヤン、ベルリン・フィルも全曲集を録音しているが、カラヤンは作品の音響を極限まで洗練させて、非の打ちどころのないような華麗でスペクタクルな一大音像絵巻を聴かせてくれる。
当時のベルリン・フィルに犇めいていたスタ−・プレイヤー達がそれを可能にしていたと言っても過言ではないだろう。
一方ケンペのそれは本来の意味でロマンティックな解釈で、オ−ケストレ−ションの華美な効果を狙ったというより、むしろ内側からの高揚が渦巻くような幻想性を追った文学的な懐の深さと黒光りするような熟練度が感じられる。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年01月23日
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ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは、彼が優れたピアニストであっただけに、ピアノ・パートの比重が高く、演奏の成否はピアニストによって左右されることが多い。
その点で、ハスキルを得たことはグリュミオーにとっても幸福であった。
彼女が亡くなる直前まで2人はしばしば共演しており、アンサンブルは緊密というよりその枠を超えた魅力を持っている。
2人とも音色は美しいし、表情は豊かで、それが演奏に奥行きと広がりを与えている。
1956年から57年にかけてのモノラル録音時代末期のセッションだが、比較的芯の太い明瞭な音質のためにグリュミオーのソロ・ヴァイオリンとハスキルのピアノ・パートがどちらもかなり良い状態で鑑賞できる。
グリュミオーの弾くソロは、特に第9番イ長調『クロイツェル』で聴かれるように、潤沢で高貴な音色と甘美で艶やかな表現に魅力がある。
確かにポルタメントを随所にかけたスタイリッシュなカンタービレや惚れ惚れするようなヴィブラートは客観的な演奏とは言いがたいが、彼の一世を風靡した豊かな音楽性と聴き手の感性に訴える巧みな表現は、理屈抜きに強い説得力を持っている。
勿論彼のような奏法は、もはや現代の如何なるヴァイオリニストからも聴くことができない。
一方クララ・ハスキルのドラマティックで奔放とも言えるピアノが、このベートーヴェンのソナタ集を生命力と緊張感に溢れるものにしているのが印象的だ。
彼女のこの作品に対する積極的なアプローチはグリュミオーのソロを引き立てるだけでなく、ベートーヴェン自身が試みた本来の意味でのデュエット、つまり両者の対等な立場の協演を実現しているように思える。
闊達で高く飛翔するハスキルのピアノ、端正な様式と優美な情感が結びついたグリュミオーのヴァイオリンは、ベートーヴェンのソナタが示す変化に富んだ世界を生き生きと再現している。
いずれにしても彼らのコンビ全盛期の記録としても大いに価値のあるセットとして評価したい。
こちらはデッカからのオリジナル・イシューだが、ブリリアント・レーベルのライセンス・リイシュー廉価盤もリリースされている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年01月19日
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先頃、引退を発表したヴラディーミル・アシュケナージは世界でも屈指の名ピアニストであった。
レパートリーの広さでも群を抜いた存在だが、ピアニストはいくら頑張っても管弦楽曲を演奏できない。
いや、ピアノでしか演奏できないと言うべきだろう。
かりにリストの編曲したベートーヴェンの交響曲を、いくら巧みに演奏したところで、それはオリジナルには及ばない。
そこで音楽家アシュケナージが、ピアノを越える音楽を演奏したいと考えたのは不思議ではなく、それを越える手段は指揮であり、こうして指揮者アシュケナージが誕生した。
しかし、その道は彼ほどの才能をもってしても容易なことではなかった。
もちろん、あらゆる指揮者もはじめは素人だが、アシュケナージと言えども、1974年頃指揮をはじめた当座は、その例外ではなかった。
当時の音楽愛好家は、名ピアニストが何を今更、という感を受けたに違いない。
ところがしばらくすると、それがピアニストの余技などではないということがわかってきた。
アシュケナージは各地で精力的に指揮の仕事をこなし、わずか数年間で長足の進歩を見せたのである。
ピアニストが指揮者に転向した例は昔から無数にあるが、そのなかでアシュケナージほどの成功を示した例は少ない。
そもそも彼は指揮者としても天賦の才能に恵まれていたのだろう。
その彼が指揮者としてまず集中的に録音したのが、チャイコフスキーとシベリウスの交響曲であることを知ると、指揮に手を出したのは、やはりピアノで弾けない音楽をやってみようという理由からであったことがわかる。
指揮者としてのアシュケナージは、当時の録音は統率力という点でまだ満足すべき演奏とは言えなかった。
むろん音楽的には充分に聴くべき内容があったが、まだオーケストラをうまく鳴らすことに追われている憾みも残り、オーケストラ自体が固有の合奏力をもっている場合、彼の美質が燦然と輝いたのは当然であった。
しかし1980年代後半になるともはや指揮者が本業という状態で、統率力の不安などもなくなり、高度な技術を要求されるリヒャルト・シュトラウスの交響詩を連続的に録音して、見事な成果を収めた。
こうなると、もはや完全にプロの仕事で、初期の素人芸のような粗さは薬にしたくもなく、アシュケナージの指揮者としての成熟は、誰の眼にも明らかであった。
彼は最早、知・情・意の三拍子揃った音楽と演奏様式を確実に築き上げた名演奏家であったと言わねばなるまい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年01月17日
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2014年はC.Ph.E.バッハの生誕300周年に当たり、彼にちなんだコンサートの開催や作品集のリリースも盛んに行われた。
オランダのブリリアント・レーベルからはCD30枚のエディションも刊行されたが、このフルート・ソロと通奏低音のためのソナタ全曲集も同エディションに組み込まれた2枚をピックアップしたもので、2012年及び翌13年に収録されたヴェンツとしては久々のCDになる。
彼の若い頃の演奏はロカテッリのソナタ集に代表されるような、名技主義を前面に出したおよそ古楽とは思えないような疾走するテンポが特徴で、クイケン門下の異端児的な存在だったが、ここ数年超絶技巧は残しながらも様式に則ったよりスタイリッシュな演奏をするようになったと思う。
この曲集も流石に大バッハの次男の作品だけあって、豊かな音楽性の中にかなり高度な演奏上のテクニックが要求される。
ヴェンツを強力に支えているのがチェンバロのミハエル・ボルフステーデで、ムジカ・アド・レーヌムの長い間のパートナーとして絶妙なサポートをしている。
2枚目後半での彼のフォルテピアノのダイナミズムも聴きどころのひとつだ。
今回ヴェンツの使用したトラヴェルソは最後の3曲がタッシ・モデル、それ以外はノーストの4ジョイント・モデルで、どちらもシモン・ポラックの手になるコピーだ。
ピッチはa'=400Hzの低いヴェルサイユ・ピッチを採用している。
これはそれぞれの宮廷や地方によって統一されていなかった当時の、ベルリン宮廷で好まれたピッチで、ムジカ・アド・レーヌムもこの習慣を踏襲している。
またボルフステーデは2枚目のWq131、133及び134の3曲には漸進的クレッシェンドが可能なフォルテピアノを使って、来るべき新しい表現を予感させているが、この試みは既にヒュンテラーの同曲集でも効果を上げている。
尚このソナタ集には無伴奏ソナタイ短調が入っていない。
ヴェンツは大バッハの無伴奏フルート・パルティータは既に録音済みだが、この曲もやはり非常に高い音楽性を要求されるレパートリーだけに将来に期待したい。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、27年間に亘ってプロイセンのフリードリッヒ大王の宮廷チェンバリストとして奉職したために、大王のフルート教師クヴァンツや大王自身の演奏に常に参加して彼らの影響を少なからず受ける立場にあった。
しかし作曲家としては彼の革新的な試みが不当に評価されていて、俸給はクヴァンツの年2000タラーに対して若かったとは言え彼は300タラーに甘んじなければならなかった。
当時のプロイセンでは2部屋食事付ペンションの家賃が年100タラー、下級兵士の年俸が45タラーだったので決して低い額とは言えないが、クヴァンツが如何に破格の待遇を受けていたか想像に難くない。
カール・フィリップ・エマヌエルが作曲したフルート・ソナタには他にもオブリガート・チェンバロ付のものが10曲ほど残されているが、さまざまな試みが盛り込まれた音楽的に最も充実していて深みのある曲趣を持っているのはここに収められた11曲の通奏低音付ソナタだろう。
ソロと低音の2声部で書かれたオールド・ファッションの書法で、通常チェロとチェンバロの左手が通奏低音を重ねて右手が和声補充と即興的なアレンジを施すことになるが、このCDでも彼らはそのオーソドックスなスタイルを遵守している。
最後の第11番を除いて緩急のふたつの楽章に舞曲を加えた3楽章形式で、終楽章は通常ヴァリエーションで曲を閉じている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年01月15日
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著者ハンス=マルティン・リンデはリコ−ダ−の名手として、また古楽器を現代音楽に生かした作曲家としても知られている。
彼のリコ−ダ−奏者としての活動期間は、友人でもあるフランス・ブリュッヘンと重なっていて、70年代から80年代にかけて互いにその技を競った仲だが、また一方で音楽学者としての仕事も見逃せない。
ショット社から出版された古楽の装飾に関する小ガイドは、古楽器演奏を志す学習者はもとより、アマチュアの愛好家にも、また古楽をより高度に鑑賞したい方にとっても、基礎的な一通りの内容を最低限網羅していて、簡易なだけでなく演奏にもすぐ役立つ実用性にも配慮されている。
本書は大きく分けて二部分から構成されている。
前半が解説で古楽の装飾、本質的、あるいはフランス風マニュアル、任意的、イタリア風マニュアル、通奏低音における即興演奏、緩徐楽章でのアドリブ、そして後半部が実際の演奏例になる。
解説はドイツ人らしく理路整然として無駄なく簡潔にまとまっていて、演奏譜例もコレッリ、オットテ−ル、テレマン、バッハ、ヘンデルなどの作品から広くサンプルが採られている。
参考までにドイツの古楽器メ−カ−、メック社から出版されている木管楽器のための季刊誌『TIBIA』2013年第一号の付録としてリンデのドキュメンタリーがDVDで付いている。
彼は1957年以来スイスのバ−ゼルに本拠を置いて演奏活動をし、現在でもスコラ・カントルムで後進の指導に当たっている。
彼のこれまでの音楽家としての活動や趣味の絵画についてインタビューに答える形で約一時間二十分に亘る映像とそれに因んだ音楽が収録されている。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2020年01月13日
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1983年にイスラエルのテル・アビブで開催されたフーベルマン・フェスティバルのライヴ録音を集めたもので、以前紹介したDVDのCD化になる。
現在のイスラエル・フィルハーモニーの母体になるパレスチナ管弦楽団の生みの親であるブロニスワフ・フーベルマンを記念したコンサートに参加した顔ぶれは、音楽監督のズービン・メータを筆頭にアイザック・スターン、ヘンリク・シェリング、イヴリー・ギトリス、イダ・ヘンデル、イツァーク・パールマン、ピンカス・ズッカーマン、シュロモ・ミンツなどまさにユダヤ系名ヴァイオリニスト全員集合といった感じだが、それだけに演奏水準も非常に高く充実した演奏会になっている。
また、各ヴァイオリニストがソロをつとめた演目ではソリストの得意中の得意のレパートリーを披露しており、パールマン(ベートーヴェン)、シェリング(チャイコフスキー)、ズッカーマン(エルガー)、ヘンデル(シベリウス)、ギトリス(バルトーク第2番)と名演揃いなのも嬉しい限りだ。
特に、堂々たる風格のシェリングによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲では円熟期の彼の芸風を堪能できる。
さらに爽やかな美音の冴えるミンツのメンデルスゾーン、師弟の共演になるミンツとスターンのバッハの二つのヴァイオリンのための協奏曲など興味の尽きないプログラムが続く。
ヴィヴァルディの四つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調ではソロの一番手にスターン、二番手ギトリス、三番手ヘンデル、四番手がミンツという豪華キャストも聴き逃せない。
パールマンとズッカーマンが共演するモ−ツァルトの協奏交響曲ではヴァイオリンとヴィオラが息の合ったデュエットを聴かせる。
DVDバ−ジョンを観ると内省的で殆ど無表情のズッカーマンと表情豊かなパールマンが好対照をなしているのが興味深い。
したがって視覚に直接訴える二枚組DVDの鑑賞もお薦めしたい。
これだけのメンバーの演奏を1週間の間に聴くことができたのは後にも先にもないほど充実した演奏会であったことは言うまでもない。
音楽週間最終日(1982年12月19日)はフーベルマン生誕100周年に当たり、この偉大なヴァイオリストの功績を称えた歴史的な演奏会となった。
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2020年01月09日
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世界の名立たるオペラ・ハウスとレコード会社が贅を尽くしてスター歌手の競演やそのスタイリッシュな歌唱の録音をオーガナイズした時代の、言ってみれば最後を飾った一人がブルガリアのバス、ニコライ・ギャウロフだった。
彼以降オペラ歌手の権限は良くも悪しくも制限を余儀なくされ、ジュリーニが痛烈に批判した、劇場間を掛け持ちして疲れた歌手達が短時間でオペラを粗製濫造する時代になってしまう。
その議論はともかくとして、ここにギャウロフ全盛期のふたつのライヴからのオーケストラ伴奏によるアリア集が収録されている。
実は最近エロクエンスから彼のアリアと歌曲を集めた1枚がリリースされたが、聴き比べると音質的にもこちらの方がお薦めできるのでレビューを書くことにした。
音源はどちらもミュンヘンで開かれた放送用日曜コンサートのライヴから採られたもので、アンコールと思われる最後の2曲は客席からの拍手喝采は入っているが、それ以外の雑音は皆無で放送用だけに良質のステレオ録音で鑑賞できる。
アマゾンのページに収録曲目一覧が掲載されているので照らし合わせて戴ければ幸いだが、トラック1、7、8、9が1966年、それ以外が69年の録音になる。
ただし全曲とも原語による歌唱で、トラック4から7迄の4曲は記載ではドイツ語になっているが実際にはオリジナル・テクストのロシア語で歌っている。
指揮者は1、2、7、8がジョルジュ・プレートル、その他がアルフレード・アントニーニでオーケストラは総てバイエルン放送交響楽団が担当している。
いずれもギャウロフがオペラの舞台で経験を積んだ十八番ばかりで、それぞれのシーンでの彼の舞台姿が目に浮かぶような臨場感がある。
彼の声には特有のスラヴ臭さがあったにも拘らず、その並外れた演技力、圧倒的に豊かな声量と広い音域で殆んど総てのバスのタイトルを歌うことができた。
筆者もオペラでギャウロフの勇姿を見ることができた年代だが、晩年でもスタイルを崩すことなく常に彼らしい存在感を示したスケールの大きな舞台を創り上げていた。
最後に置かれたフレンニコフの『酔っ払いの歌』は彼がしばしばリサイタルのアンコールで歌って大喝采を浴びた歌曲で、泥酔した男の滑稽さを活写した表現が実に愉快だ。
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2020年01月07日
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本書ではスヴャトスラフ・リヒテルと友人達との交流を中心に彼のキャリアの後半に焦点を当てて、ユ−リ−・ボリソフが回想した対話形式の作品になるが、話しているのは大部分リヒテルで、ユニ−クなリヒテル語録といった印象がある。
日常的な会話の中に彼の演奏に対する哲学や、一種謎めいたファンタジーを垣間見ることができる魅力的な会話録だ。
リヒテルは少年時代からオペラや演劇の出前伴奏をすることで家計を助けていたが、その影響もあって早くから文学や絵画の素養も身につけていたので、本書に表れる文学的、あるいは美術的な幅広い教養と実践で鍛えた即興性が彼の演奏に深みを与えていたと言えるだろう。
自身述べているが、リヒテルは円熟期に絶対音感を失っただけでなく、音が1全音ずれて聞こえる現象に悩まされた。
それは音楽家にとってかなり致命的で、頭で考えている音と実際ピアノから鳴り響く音にずれが生じると、暗譜での演奏が困難になる。
彼が後年楽譜を見ながらコンサートに臨むようになったのはこうした事情だ。
本書ではリヒテルが演奏する作品1曲1曲に音楽の範疇を超えるかなり強烈なイメージを抱いて弾いていたことが明らかにされている。
それが純粋にスピリチュアルなものであろうと、具体的な視覚に訴えるものであろうと彼の演奏上のほぼ決定的な解釈になったようだ。
逆にそうしたイメージが枯渇したり、全く湧かない場合は演奏しない。
彼が全集物の体系的な演奏や録音にそれほど興味を示さなかったのも、それぞれの曲に通り一遍の性格を与えることを拒んだからだろう。
また演奏にはム−サ(ギリシャの芸術を司る女神)の降臨が欠かせなかったらしく、ボリソフに「君にはム−サの女神がついているかね?必ず手に入れたまえ、、、はっきりと思い描くことだ、力を込めて。守ってもらえるように」と言い、「私のム−サはもう疲れ果てているよ。かなりの年だな。息をするのもやっとで」などと自嘲的な冗談にも事欠かない。
リヒテルの会話にはボリソフもたじろぐほどの多くの比喩や他の分野からの引用が溢れていて、読み進めるには章ごとの訳注が欠かせないが、慣れてくると非常に面白く、思わず吹き出したり、苦笑せずにいられないような部分も多々ある。
それはコンサートで笑顔ひとつ見せなかった彼の意外なプロフィールを窺わせていてなおさら滑稽だ。
カラヤンとのべ−ト−ヴェンのトリプル・コンチェルトのセッションはよほど根に持っていたらしく、演奏内容よりも写真撮影を優先したカラヤンを至るところで槍玉に挙げているが、ここでもリヒテルは明け透けに批判している。
同業者でもホロヴィッツ、グ−ルド、ガブリ−ロフ、ギレリス、ポリ−二などが引き合いに出されているが、感動した演奏には称賛を惜しまない姿勢は流石だ。
指揮者ではムラヴィンスキーとコンドラシンが彼にとっては別格的な存在だったようだが、基本的に彼の判断は曲目に関する演奏者の解釈と表現力に集中していて、名演奏家でも往々にして失敗があることを示唆している。勿論自分の演奏にも手厳しく、録音したレコードは10枚くらい残して後は全部廃棄できたらどんなに幸せかとも言っている。
周期的な鬱状態に苦しんだリヒテルの精神状態がそれに特有のアクセントを与えている。
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2020年01月05日
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2020年はベートーヴェンの生誕250年であるが、コンヴィチュニー&ゲヴァントハウス管弦楽団のベートーヴェン演奏は過去のものとはいえ自然体の表現が今あらたに普遍性を得ている。
コンヴィチュニーは古いドイツの楽長タイプの指揮者を連想させるが、オーケストラも同様で、第1、第2ヴァイオリンが左右に分かれ、コントラバスは左手奥に位置するという配置がさらに古めかしい印象を強める。
しかし、この配置では完璧なアンサンブルを求めるのは容易なことではないが、ベートーヴェンの場合、左右の掛け合いが実に効果的で、演奏に独自の立体感をもたらしたのは収穫である。
また管楽器の独特の音色が印象的で、いまと違って当時はすべて古い年代の楽器であったのだろうが、なかでも木管の原色的な色調とヴィブラートを抑制した奏法は、彼らの演奏にすばらしく古雅な趣をそえている。
むろん管弦のバランスが、確かにドイツ風といえる独自の重量感をもっていることは付け加えるまでもない。
したがって古典的、理性的なベートーヴェンであるが、それは情念の解放とか、情熱の外部への高揚を求めるより、伝統の枠組のなかにぴたりとはまり込んだような音楽をつくっている。
彼らの演奏はすべてが保守的であり、自由でしなやかな流動感や現代的な感覚美とは無縁のように感じられる。
しかし、それで音楽が形式的かというとそうではなく、楽想の発展が建築的に表出されながらも、その内部には素朴に内燃する感興が示されているのである。
確かに、この指揮者の音楽へのアプローチは、常に実直・誠実であった。
現代の指揮者のように外面的な効果や恰好のよさを求めず、ひたすら純粋に音楽の再現に徹していた。
むろん、いま、このような指揮者はもはや存在しないとさえいえるが、それが、現在再びコンヴィチュニーの再評価をうながす大きな理由となっているのだろう。
あえていえば、すべての演奏はコンヴィチュニーの表現を土台としてはじまる。
その客観的な妥当性と安定感の高さは、稀有のような大きな普遍性をつくり出していると考えてよいのである。
ベートーヴェンはその意味で現在も高く評価されてしかるべき演奏である。
この演奏は、かつてわが国に紹介された頃、伝統の響きと形容されたが、現在ではロマン派をくぐり抜けたところの古典主義への再帰と見るべきであろう。
ベートーヴェン演奏の様式が、オリジナル楽器の再興で大きく変化した現在、既にコンヴィチュニーの演奏のスタイルが過去のものになったといえるが、しかしながらコンヴィチュニーがゲヴァントハウス管弦楽団を駆使した芸術は、彼らの時代の証言であり、それとともにそれなりの普遍性を獲得している。
それは現在も無視し得ないもので、時代を越えて音楽そのものの本質を語ってくれるのである。
コンヴィチュニーの『ベートーヴェン交響曲・序曲全集』は、いま、その意味でかえって新鮮であるかも知れない。
これらの演奏のほとんど一分の隙もない構築性、必要最小限の表情があらゆる虚飾と添加物を取り去って、その本質を無理なく、ほとんど自然体のように表出するからである。
それはコンヴィチュニーの演奏が一見、没個性的に見えながら、実はそうではなく、確固とした音楽観を身に付けていることを証明しているとも思えるほどである。
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2020年01月03日
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尊敬すべきシベリウスの交響曲全集であり、これだけ各曲のコンセプトがしっかりとした全集録音は偉大な成果と称賛すべきだろう。
1981年、日本フィル創立25周年企画「シベリウス連続演奏会」直後に行われたセッションであり、渡邉にとっては、全曲ステレオ録音が世界初となった1962年の全集(アメリカでも発売された)に続く2回目である。
渡邉の円熟の芸術をくまなく表した新全集は、旧全集と比べると総じて穏やかさを増し、緩徐楽章での春風駘蕩たる風情、ふと吹き抜ける寂しさは何とも言えない。
晩年「フィンランドの自然は厳しいだけではないのです」と語っていたのを思い出すが、穏やか一方ではないこの指揮者が刻まれた印象的な録音でもある。
フィンランド人の声楽家を母親に持つ渡邉にとって、フィンランドの民謡は子守歌であり、シベリウスは学ぶべき外国音楽ではなく、半ば自分の音楽なのだろう。
ゆえに、日本のオーケストラを指揮しても、どこにも無理のない自然な演奏に仕上がってしまう。
渡邉と長年辛苦をともにした日本フィルは、まことに献身的な演奏でその棒に応えており、聴きながら清々しい気持ちになる。
これらの演奏は非常に説得力が強く、聴き手に深い感銘を与えるが、それは何より渡邉が作品の本質を、深く静かに見つめ、それを論理的な構成力と全人的な共感を持って表現しているからだろう。
もうひとつ嬉しいのが、これが手間暇かけたスタジオ録音であるということである。
最近では、「演奏は生が勝負」ということでライヴ録音が流行しているが、貴重な音源のCD化は別として、最近企画されるライヴ録音の中には、予算や手間を節約したお手軽な企画も多いのではないだろうか。
ライヴの熱狂も良いが、音響最優先のマイクセッティングによる、本格的なセッションも必要だと思う。
そこには、ライヴなら許されるミスやピッチの狂いは許されない、大変な集中力と高度な音楽的実力が問われる場なのである。
聴衆抜きの張り詰めた空間で、作品と向き合うスタジオ録音はもっと見直されるべきだと思う。
全曲ともに、渡邉の人柄の滲み出た心優しい演奏で、特に第4番の透明な叙情性が光っており、大言壮語しない第1番、第2番にも好感が持てる。
もっとも、全般的に、仕上げが丁寧なわりに平板さが目立ってしまうのが残念で、さらに結晶化されたハーモニーや魂の底から湧き上がるリズム感が求められる。
まだまだ上半身の音楽なのだ。
これは日本出身の西洋音楽に携わる指揮者に共通する永遠の課題であろう。
ともあれこれは渡邉暁雄の追悼盤であると同時に、我が国の音楽史の一時期を記録した貴重なディスクとして永く伝えたい。
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2020年01月01日
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スメタナ四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲の名演としては、1976〜1985年という約10年の歳月をかけてスタジオ録音したベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が名高い。
さすがに、個性的という意味では、アルバン・ベルク四重奏団による全集(1978〜1983年)や、近年のタカーチ四重奏団による全集(2002年)などに敵わないと言えなくもないが、スメタナ四重奏団の息のあった絶妙のアンサンブル、そして、いささかもあざとさを感じさせない自然体のアプローチは、ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力をダイレクトに聴き手に伝えることに大きく貢献していた。
もちろん、自然体といっても、ここぞという時の重量感溢れる力強さにもいささかの不足はないところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた美しい演奏というのが、スメタナ四重奏団による演奏の最大の美質と言っても過言ではあるまい。
ベートーヴェンの楽曲というだけで、やたら肩に力が入ったり、はたまた威圧の対象とするような居丈高な演奏も散見されるところであるが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏にはそのような力みや尊大さは皆無。
ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力を真摯かつダイレクトに聴き手に伝えることに腐心しているとも言えるところであり、まさに音楽そのものを語らせる演奏に徹していると言っても過言ではあるまい。
今回マスターとして使用されたのは、総て前述の名盤の誉れ高い全集に収められた演奏の約20年前の旧録音で、彼らの活力に漲っていた時期の代表的な演奏だ。
全集があまりにも名高いことから、本盤の演奏はいささか影が薄い存在になりつつあるとも言えるが、メンバーが壮年期を迎えた頃のスメタナ四重奏団を代表する素晴らしい名演と高く評価したい。
演奏の基本的なアプローチについては、後年の全集の演奏とさしたる違いはない。
しかしながら、各メンバーが壮年期の心身ともに充実していた時期であったこともあり、後年の演奏にはない、畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出してくるような強靭な生命力が演奏全体に漲っていると言えるところだ。
例えば大作第13番の大フーガでは鍛え上げられた緊密なアンサンブルによって、一瞬たりとも緊張感を失うことなく一気呵成に聴かせてしまう。
したがって、後年の円熟の名演よりも本盤の演奏の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないとも言える。
このセットに収められたベートーヴェンの6曲の後期弦楽四重奏曲は、彼の聴覚が完全に失われた後の作品で、音の世界から全く隔絶された彼の頭脳の中だけで思索され、生み出された。
その内容の深遠さには尋常ならざるものがあることから、前述のアルバン・ベルク四重奏団などによる名演などと比較すると、今一つ内容の踏み込み不足を感じさせないわけではないが、これだけ楽曲の魅力を安定した気持ちで堪能することができる本演奏に文句は言えまい。
スメタナ四重奏団は、こうした孤高の境地にあったベートーヴェンの作品が実は紙に書かれただけのものでない、実際に私達の心を強く打つ音楽であることを彼らのアンサンブルを通して証明した、稀にみる四重奏団だった。
いずれにしても、本盤の演奏は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の魅力を安定した気持ちで味わうことが可能な演奏としては最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したい。
尚第11番(1962年録音)と第12番(1961年)は、これまでのCDリストから消えていたもので、スプラフォン独自のリマスタリングで復活した。
音質は極めて良好で、クレスト1000シリーズの廉価盤に比較してやや中低音に厚みのある、奥行きを感じさせるリマスターだ。
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