2022年03月

2022年03月31日


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ピリオド楽器を使った演奏では第一線に位置するグスタフ・レオンハルトのマタイ受難曲は、新バッハ全集によっているが、期待を裏切らぬ名盤である。

レオンハルトのバッハへの永年の傾倒ぶりを如実に感じさせる演奏で、バッハ自身がライプツィヒのトーマス教会で演奏した最終稿をイメージさせるに充分な説得力と、手作りの魅力がある。

表現は常に地に着いており、広い奥行きを感じさせ、穏やかで落ち着きのある運びから「マタイ」の充実した内容がしみじみと伝わってくる。

カール・リヒターのマタイが起こりつつある悲劇的なドラマに深く食い入った表現とするならば、レオンハルトのそれは楽譜から総てを読み取った、バッハその人の宗教観を反映した解釈とでも言うべきだろうか。

それだけに作曲者の書法をガラス張りにして見せた誠実かつ素朴な再現は高く評価したい。

プレガルディエンのエヴァンゲリストは思い入れの無い、淡々とした中に、真摯な語り部としての役割を果たしている。

それは決して無味乾燥な徐唱ではなく、歌詞の意味合いを正確に辿った非常に知的で、しかも完璧なレガート唱法だ。

また2人のソプラノ・ソロをテルツ少年合唱団員から抜擢したことで、この受難曲でのより繊細で崇高な表現を可能にしている。

俗世の欲得から離れた、たおやかなボーイ・ソプラノの歌唱は理屈抜きに新鮮な感動をもたらしてくれる。

更にレオンハルトはコラールにおいてドイツ語のアクセントを強調した波打つような歌唱法を採用している。

これは既に親しまれていた、バッハ以前の古い旋律に新しい歌詞があてがわれる場合のアーティキュレーションを補う手段だが、またこの方法によってバッハが充当した絶妙な和声進行を聴き手に明瞭に感知させる。

クイケン、アンタイ両兄弟がかなめを押さえた器楽を担当するラ・プティット・バンドもこの曲の特質に忠実な再現を心がけたチームワークが秀逸。

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classicalmusic at 19:47コメント(0)バッハレオンハルト 

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マタイ受難曲はJ.S.バッハの最高傑作、そして磯山雅(いそやま ただし、1946年4月30日 - 2018年2月22日)氏は日本におけるJ.S.バッハ研究の第一人者であった。

その磯山氏がマタイ受難曲と真っ正面から取り組んで、長大な受難曲のテキストを新しく訳出し、ひとつひとつの場面、ことば、フレーズに解説を付した成果が本書になる。

礒山氏のライフワークに相応しい高度な研究書であり、バッハのマタイ受難曲鑑賞の為のガイドブックとしても計り知れない理解と助言を与えてくれる。

文章は難解な術語もなく、一般向けに理解しやすく読みやすいものになっており、理解に難渋することのないのが特徴でもある。

しかも平易そのものの文章に盛り込まれた高度な内容は、愛好家から専門家まで幅広い読者を満足させるものだ。

礒山氏はマタイを構成する全68曲に自らの訳と解説、そして可能な限りの解釈を示し、参照楽譜の断片も多数掲載している。

本書を読み進めていくとバッハが如何に心血を注いでこの曲を作曲していったかという事を思い知らされる。

著者がバッハの最高傑作と言ってはばからない理由がそこにあり、またその説明にも説得力がある。

特に残された自筆譜から読み取る各場面の心理描写における調性の選択、そして形象や表象、数象徴については作曲家の天才的な、あるいは殆ど病的なまでの技巧が凝らされている事実には感動を禁じえない。

何故なら私達が実際の音楽を聴いてそれを総て感知できる為には相当の学習が必要だからだ。

つまりバッハは聴衆はともかくとして自分自身の為にこの曲を書いていたのではないか、という疑問さえ生じてくる。

興味深い逸話としては、当時のパート譜から判断される楽器奏者の持ち替え演奏だ。

経済的にオーケストラの人員を増やすことがままならなかった事情から、彼らもフルに活用されていた。

第1ヴァイオリンの奏者は持ち替えでブロックフレーテも吹いていたのだ。

尚最後に置かれた同曲のCD批評には、彼の正直で忌憚の無い意見が述べられていて、どの演奏を聴くべきか迷っている方には最良の手引きとなるだろう。

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classicalmusic at 13:25コメント(0)バッハ書物 

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第174番もアーノンクールが最初のシンフォニアから積極的な指揮で、生気に満ちた演奏を行っている。

第175番には最初のレチタティーヴォと第2曲のアルトのアリアに3本の堅型フルートが付されており、その鄙びた響きがレオンハルトの素朴な表現と合致して快い。

第177、178、179番はアーノンクールが前進性に富んだテンポや各楽器の動きの線の明確化を目指しており、第178番冒頭のコラール合唱が力強く劇的な表現だ。

第180番はボーイ・ソプラノが力及ばず、発声も柔軟さを欠く。

第181番はエグモントのバスがしっかり歌って安心させる。

第182番はコーラスもソロも緊張感に満たされ、充実した演奏。

第183番はエクヴィルツがしっかり歌っており、どんなパッセージも空白な箇所を残さない。

第184番はカウンター・テナーとボーイ・ソプラノがぴったり合っているし、コーラスもよく、リズムのさばきも見事。

第185番はアーノンクールが性急なテンポで、いまひとつの余裕がほしいが、ハンプソンのバスは説得力のある歌を聴かせる。

第186番は古楽器奏法に合わせた合唱の様式的唱法がやや煩わしいが、ホル、ヴィテクが見事に歌っている。

第187番ではレオンハルトがおっとりと暖かいバッハを作り出している。

第188番はアーノンクールらしいパワフルな演奏で、エスウッドも素晴らしい歌唱を聴かせる。

第192番でアーノンクールは2つの合唱曲を、溌剌としたリズムと明るい響きによって極めて生き生きと再現しており、合唱団・合奏団の音の動きも明快で優れた演奏だ。

第194番では舞曲調のリズムを軽やかに生かし、よくまとめあげている。独唱ではハンプソンの整った美しい歌唱が光る。

第195番ではレオンハルトが華やかさを抑え、どっしりとしたリズムで滋味溢れた演奏を展開している。

アーノンクールは第196番の優美な曲調をよく生かしているし、テルツ少年合唱団もしっかりと歌っており充実した演奏が聴かれる。

第197番ではレオンハルトが落ち着きのあるしみじみとした演奏を展開し、ヤーコプスのアリアが心に残る。

第198番は感動的な演奏でいぶし銀のような響きと、穏やかな音の中から死を悼む切実な心が伝わってくる。

第199番でのボニーは美しい歌唱だが、甘く流れ過ぎている。

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classicalmusic at 08:31コメント(0)アーノンクールレオンハルト 

2022年03月30日


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レオンハルトの第143番、第144番の2曲は、美しいバランスのとれたアンサンブルと合唱を展開している。

アーノンクールは第146番で素晴らしいエネルギーを噴出させている。

開始のシンフォニアでの沸騰する情熱に、オリジナル楽器が巧みにフィルターをかけていく呼吸は見事だし、続く第2曲への対比も鮮やかだ。

アーノンクール会心の演奏であり、エスウッドがこれまた最高といってよいほどの名唱。

バッハの全カンタータ中、最も人気のある第147番には音楽の生命の自然な営みが示され、アーノンクールの進境と円熟がみられる。

第151番での信じがたいほどの美しいボーイ・ソプラノを始め、全曲を通して独唱陣が極めて充実している。

第152番はクリスマス後日曜日用のもので、第6曲のソプラノとバスの二重唱が印象深い。

第153番は新年後の日曜日用で、第8曲のアルトのアリアが美しい。

第154番はM.ヤーンのイエス思慕のコラールによる合唱曲がなんとも優しい気分を描き出す。

ハイライトは第7曲のアルトとテノールの二重唱。

第155番は第2曲が印象的。第156番の導入部分のシンフォニアは名旋律だ。

第157,158,159番でレオンハルトは落ち着いた展開の中にバッハのよさを自然に表しており、テノールのエクヴィルツも安定したテクニックで危なげがなく、バスのエグモントも好演している。

なかでも第157番が作品、演奏ともに素晴らしい。

第161,162,163番は、アーノンクールの歌詞の内容に則した表現の変化と、劇的な音楽の扱いや音符の扱いなどに細やかな配慮が感じられる。

第167番でのアーノンクールの指揮は聴きもので、キビキビした音の運びの中に優しさが加わっているのがよく、歌手も好調。

第169番も冒頭のシンフォニアから活気が溢れている。

この曲はアルトのソロ・カンタータでもあるが、エスウッドがいい。

第170番は各曲の性格をレオンハルトが穏健な表現でよくまとめており、第172番も飾り気のない素朴な表現だが力強い。

アーノンクールによる第173番は出色で、エクヴィルツが最初から引き締まった歌いぶりを示し、コンツェントゥス・ムジクスも瑞々しい表現を展開している。

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classicalmusic at 17:13コメント(0)アーノンクールレオンハルト 

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第121番はエクヴィルツ、エスウッド、フッテンロッハーともどもよく歌っている。

第123番は冒頭の合唱が充実していて、生き生きとした生命を漲らせている。

バスのホルは音楽的表出力が豊かだ。

第124番はテルツ少年合唱団が健闘し、ソプラノとアルトの二重唱の2少年がよく歌っている。

第125番は冒頭のコラール合唱が規模の大きな作り方をみせている。

第126番は動きの激しい戦闘を表す音型をアーノンクールが独特の鋭角的表現で劇的に展開する。

第127番はレオンハルトが“死と永遠”“受難と復活”を慎み深く描き出し、エグモントの深い歌いぶりも印象的。

第128番は冒頭のホルンが、古雅な音色と華麗なテクニックで見事な演奏を聴かせる。

第129番はレオンハルトらしい穏健なまとめぶりで、オーボエ・ダモーレとヤーコプスの声の音色がぴったり合って美しい。

第130番はアーノンクール好みのティンパニが雄弁だが、弦を消しがちなのが気になる。

第131番の導入のシンフォニアと合唱は伸びやかで美しい出だしだ。

第132番は第1曲からソプラノの長大なメリスマを含むアリアだが、この難技巧のアリアをボーイ・ソプラノが見事に歌い切っている。

第133番はコラール・カンタータの形をとっているが、合唱の占めるウェイトはそれほどでなく、むしろ独唱陣と器楽陣が充実した音楽を展開していて、レオンハルトの腕の見せどころでもある。

レオンハルトの中庸をゆく表現はいつも通り。

第138番は優れた出来で、第1曲の合唱ではアーノンクールの引きずるような重い運びが、テキストの意味をよく反映している。

波打つような癖のある強弱の扱いも、曲の性格のせいか気にならない。

また第9曲のアリアでのホルの歌唱が素晴らしく、バッハの書いた旋律を美しく生かしている。

作品としても最も充実したもののひとつだ。

第139番もよいまとまりを示し、ホルの歌唱も光る。

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classicalmusic at 10:22コメント(0)アーノンクールレオンハルト 

2022年03月29日


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第101番冒頭の合唱は、アーノンクールの思い切った表現が効を奏し、緊張に満ちた表現を築いている。

第102番では第4曲のバスのアリオーソはよいが、テノールのアリアは劇的になり過ぎている。

このカンタータではエスウッドの声の美しさが印象に残る。

第103番はまず冒頭の合唱が素晴らしい。音程に甘さはあるが、実にきっちりと揃っているし、リズムの切れもよい。

エスウッドのアリアもしみじみした表情を宿している。

第104番ではアーノンクールのアクセントの強調が気になるが、独唱者たちがそれを補っている。

第105番は全体的にあまりよい演奏ではないが、第106番では独唱者、合唱、合奏団ともに立派な演奏を示しているし、作品そのものも素晴らしい。

第107番はボーイ・ソプラノがしっかり歌えており、エグモントのバスも軽やかなリズムを快く歌い出しなかなかの好演。

第108番および第109番のテルツ少年合唱団は、歌い込みの行き届いた見事な歌いぶりだし、第109番のエスウッド、エクヴィルツも見事だ。

第110番ではアーノンクールらしい現代的なリズム処理をみせ、一気に演奏している。

少年達の独唱も印象深く、合唱も生気に溢れていて気持ちがよい。

第111番のテルツ少年合唱団は好演。エスウッドの叙唱も冴えている。

第112番もエスウッドのアリアが見事だ。

第113番のレオンハルトではアーノンクールと別な伸びやかなバッハが聴かれる。

第114番はコーラスが充実し、アリアをエクヴィルツが実に美しく歌っており、フラウト・トラヴェルソとの見事な絡み合いを聴かせてくれる。

第115番はアーノンクールらしい緊張と弾力に満ちた音楽を作り、第2曲のエスウッドの流麗な歌唱が美しく、第4曲のボーイ・ソプラノも懸命な歌唱ぶりを聴かせる。

第116番はコラール合唱の多彩な表現の中に、大きな音楽のうねりを聴く者の心の中に押し寄せてくる。

第117番は華麗な色彩に溢れ、レオンハルトらしく伸びやかな表現である。

第119番はエスウッドの成熟した歌唱が聴きものだ。

第120番はエスウッドが最初から円熟した歌いぶりで見事。

テルツ少年合唱団もなかなかしっかりした合唱を聴かせている。

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classicalmusic at 23:25コメント(0)アーノンクールレオンハルト 

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第69番から第72番にかけてはテルツ少年合唱団は引き締まった音色と音楽を作り出している。

殊にボーイ・ソプラノのヴィードツが健闘して、感動的な歌を聴かせてくれる。

音楽的な成熟が感じられ、大人も及ばないような立派なアリアだ。

アーノンクールは全編に漲る劇的な世界をリアルに表現するように心がけている。

なかでも第2部のバスのアリアは見事な歌い込みだ。

第73番冒頭からレオンハルトはアクセントのはっきりした音色設定を試み、合唱もマルカート唱法で進められ、各フレーズの相関的遠近感覚がくっきり浮かび上がってくる。

合唱は、子供ながら感情のこもった表現と言葉に対する鋭敏な反応を示している。

第74番第4曲のバスのアリアにおけるエグモントは極めて好調。

第75番のクラウスのレチタティーヴォとアリアが技巧的にも余裕があっていい。

第76番は、冒頭の合唱からテルツ少年合唱団の声の不透明さとリズムの切れの悪さが気になる。

アーノンクールはそれを是正しようとかなり無理なドライヴをしている。

第77番のハノーファー少年合唱団は、テルツ少年合唱団に比べると引き締まった演奏を聴かせる。

第78番はソプラノもよく歌えていて、音色もリズムもぴったりと合っていて見事。

リズムの処理は全体的に鋭い。

第80番から第83番は4曲すべてアーノンクールのチームによる演奏で、鮮烈な響きの感覚と躍動感に溢れている。

第80番と第82番が名作として知られ、特に前者でのエスウッドとエクヴィルツが充実しており歌唱も美しい。

その他の男声はボーイ・ソプラノを含めて少しばらつきがあり、合唱も表情が淡泊だが全集としての安定感には欠けていない。

第83番は今となっては表現がいささか古めかしくなった。

第84番は冒頭から全曲にわたりオーボエの美しい音色とフレージングの豊かさが強い印象を与える。

ヴィードルも立派に歌っていて見事だ。

第86番はオーボエ・ダモーレが印象的。

第87番はソリスト達が冴え、白眉とも言うべき名演。第88,89番ではエグモントが余裕たっぷりに歌い、第90番は無弁トランペットが強烈な印象を残す。

第95番はエクヴィルツが印象深い歌唱を展開する。

第96番はフッテンロッハーが名演で、清潔な音楽作りの中にバッハをゆったりと実感させてくれる。

第97番は冒頭の合唱に珍しくフランス風序曲の形式がとられ、合唱と器楽の輝かしい協奏が繰り広げられる。

それぞれのソリスト達も力演している。

第98番はエスウッドのレチタティーヴォが深い表現を聴かせている。

第99番は第3曲のテノールのアリアが曲として美しく、第100番は第2曲のテノールとアルトの二重唱が2人がよく和して美しい。

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classicalmusic at 13:53コメント(0)アーノンクールレオンハルト 

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第43番は第7曲のバスのアリアにおけるC管無弁トランペットの至難なパッセージでも、この超絶技巧を見事に克服し、歌ともども名演の極致を聴かせる。

第44番では第3曲のアルトとオーボエのかけ合いが美しく、第4曲のコラールを支えるファゴットの慰めに満ちた音色とエクヴィルツの緊張感が感動的に対照を作っている。

第45,46番はヤーコプスがまだ若い故の気負いがあるが、美しい声質だ。

第47番から第50番にかけては、アーノンクールの強力な統率力がうかがわれる。

ウィーン少年合唱団のイェーロジツがなかなかの名唱で、明るく澄んだ声と正確なパッセージの歌唱はなかなかのもの。

第49番の新郎と新婦の対話など微笑ましい。

第51番のボーイ・ソプラノのクヴェックジルバーは、なまじ生活感情の入り込まぬ子供の無垢な心で全く見事に歌い切っており、子供というものの可能性の無限への広がりに驚嘆の念を禁じ得ない。

レオンハルトは第54番で、このテキストの熱烈なムードがそのまま反映した音楽を生々しく描き出しており、第55番においても非常に緊張力に富んだ演奏を展開している。

第57番でアーノンクールは、テキストと音楽を突き詰めてのアゴーギクやフレージング、アーティキュレーションを効果的に用いながら曲を進めている。

この第5曲目のアリアの至難なパッセージを、バスのデル・メールが驚くべき正確さと音楽性をもって歌い切っているのも驚嘆させられる。

第58番のボーイ・ソプラノも不完全な部分はあるが、健気で一途な歌いぶりには不思議な感動に誘われる。

第61番から第64番にかけては喜ばしい気分の曲が並んでおり、古楽器を使いながらも現代的感覚を生かそうと付点音符の扱いをやや鋭くしたり表情を細分化したりして、待降節のふくらむ気持ちを描き出そうと試みているが、テルツ少年合唱団が実力不足で、アーノンクールの意図に沿いきれていない。

総じて、緻密な仕上げが感じられず、何とも不満足な出来。

第65番はデル・メールの朗々たる歌いぶり、エクヴィルツの音楽的充実が快い興奮を誘う。

第66番はエスウッドとエクヴィルツの音色が実によくマッチして名唱。

第67番はテンポの変化の難しい曲だが、指揮のレオンハルトが自然な流れの中にこれを捉え、成功している。

ハノーヴァー少年合唱団の素直な歌いぶりもよい。

第68番はイェーロジツが見事な歌唱を聴かせる。

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classicalmusic at 05:14コメント(0)アーノンクールレオンハルト 

2022年03月28日


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第21番は、バッハの青年時代のカンタータの総決算とも言うべき最も壮大な記念碑である。

アーノンクールを始め、メンバーの呼吸の合った演奏は見事で、深い敬意を払わずにはいられない。

第22,23番は、共に1723年2月7日の聖日のために作曲されたものだが、第23番の方が作品としては強い説得力に溢れ、深い感動を聴く者に呼び起こす。

レオンハルトの指揮も熱っぽい演奏で生き生きと描いている。

第24番は“三位一体祭”後第4日曜日用のカンタータで、ノイマイスターの台詞によっている。

第25番も第14日曜日のためのもので、冒頭第1曲の合唱におけるコラールの扱い方が見事。

第16日曜日のための第27番は優れた内容と技法を持っており、充実した演奏でアンサンブルもよい。

第28番は第1曲のソプラノのアリアの音楽的表現力の確かさが優れており、第29番では第3曲のテノールのアリアが、エクヴィルツの数多いバッハの中でも特にその音楽性の豊かさで抜きん出ている。

第30番でも独唱者がよく歌い、舞曲のリズムや切分音の特徴あるリズムを生き生きと描き出している。

第31番は、初演当時の演奏様式の再現として短三度も上の調性で演奏されており、多少無理押しした感じもあるがそう気にならない。

第32,33番では、レオンハルトが緊張感に満ちた好演をみせ、エグモント、ヤーコプスがそれぞれ美しい歌唱を聴かせる。

第34番でのエスウッドの円熟したアリアも素晴らしい。

ここではアーノンクールが目立たないようにテンポを効かせながら、曲にニュアンスを添えている。

第35番は、アルトのためのソロ・カンタータとしての性格に多彩な変化を与えており、エスウッドの円熟した歌唱が聴きもの。

第36番は2本のオーボエ・ダモーレが雅びた音色の中に美しく演奏され、ウィーン少年合唱団員が清澄な歌唱を聴かせてくれる。

第37番では、デル・メールによるアリアが美しい。

レオンハルトが指揮した第39、40番では、デビュー当時のルネ・ヤーコプスの若々しいカウンター・テノールが、エスウッドとは一味違った色彩感いっぱいの歌唱を繰り広げる。

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classicalmusic at 22:51コメント(0)アーノンクールレオンハルト 

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アーノンクールとレオンハルトというバッハの権威を2つの柱に据え、オリジナル楽器を使って原典に忠実な再現を目指したシリーズ。

アーノンクールのリズムを強調した先鋭に加え、現代におけるバッハへのアプローチの新視点に対し、かたやレオンハルトの穏やかな自然体の暖かさの中で、これも新しいバッハ像の確立と、それぞれの受け持ちナンバーから様々なバッハが見えてくるのも楽しい。

精密な考証で現代にあるバッハの命をふくよかに伝え、学問的リゴリズムに陥らず、バッハ当時の音楽再現と共にひとつのスタンダードな演奏法を確立しているカンタータ大全集である。

10年以上もかけて完成した労作だけに、入念な考証、演奏法、テキスト・クリティックが素晴らしい。

目の覚めるような新鮮な演奏で、合唱、独唱、楽器陣、いずれも神への賛美と感謝の心が漲っている。

一桁のナンバーでは少年たちが何という美しい声をきかせてくれることだろう!

合唱指揮者ギレスベルガーの徹底した指揮もあってのことだろうが、信じがたいほどの充実ぶりで、ソロも素晴らしい。

教会の中で聴く場合は別にして、この手の録音には少年たちの受け持つソプラノやアルトの音程が定まらないことや、ヴィブラートのない直線的な声と男声パートの間に隙間が感じられたりするが、ここにはそういう心配がまるでない。

第10番は「マニフィカト」のドイツ語版。

レオンハルトの演奏は、合唱(テノール、バス)がやや暴走気味なのが惜しい。

第11番は、カンタータというよりむしろ“昇天祭オラトリオ”とでも称すべき作品だが、ここでのアーノンクールの指揮はまろやかな音を前面に押し出して堅実な構成を見せている。

歌い込みも充分で、各曲の対比感がうまく捉えられている。

第12番は細やかな配慮が随所に感じられ、この曲の持っているロマン的性格をエクヴィルツ以下の歌手が恐れずに表出している。

第13番は曲が第12番と比べて難しく、バスのアリアも妙なアクセントがついている。

第16番は冒頭のコラールを歌う少年合唱の発声がウィーンのものと違ってひどくローカルなのが残念。

アーノンクールはできる限りの原典考証を学究的研究で突き詰め、不備な書法を補いながら優れた演奏を刻んでいる。

特に第18番の第3曲は難曲だが、ここでの完璧なメリスマ唱法と通奏低音の気魄のこもった応答には頭が下がる。

ソプラノ、テノール、合唱共に名演である。第19番の合唱も熱の入ったもので、1音符ともゆるがせにしない。

第20番も全篇を通じて楽器の選び方に細心の注意が払われている。

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classicalmusic at 14:20コメント(0)アーノンクールレオンハルト 

2022年03月27日


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ブルックナーの作品は現在でこそさかんに取り上げられて演奏されているが、そうした傾向は比較的最近のことで、日本ばかりでなく国際的にも50年ほど前まではあまり取り上げられる機会は多くなかった。

そうした中にあってオイゲン・ヨッフムは、早くからブルックナーの作品を積極的に演奏していた指揮者の1人で、そのために国際ブルックナー協会からブルックナー・メダルを贈られている。

ヨッフムはブルックナーのミサ曲をはじめとする宗教音楽の多くを録音に残しており、そのいずれもが優れた演奏。

これらの声楽作品(合唱曲)は、ブルックナーの音楽をより良く理解するうえで欠かせないと思われるカトリシズムについて考えさせるだけでなく、交響曲への直接的な旋律の引用や雰囲気の再現といった観点からも非常に興味深いものとなっており、純粋に声楽作品として味わうだけでなく、交響曲と合わせて楽しめるのがポイントとなっている。

ミサ曲第1番の独唱では、エディット・マティス(S)、カール・リーダーブッシュ(B)、また第3番ではエルンスト・ヘフリガー(T)など当時の第一級の歌い手が登壇、メンバーの質の高さが第一に特筆されよう。 

ヨッフムの解釈は、おそらく敬虔なミサ曲を扱う配慮は忘れないながら、むしろポリフォニックな構築力をより強く感じさせる。

緊張感と迫力に富み作品に内在する熱く強いパッションを前面に押し出して聴き手を圧倒する。 

第2番に顕著だが、厳しい合唱の統率力ゆえか、混声が完全に融合しひとつの統一された「音の束」のように響いてくる。

その統一感が規律を旨とするミサ曲の緊張感を否応なく醸成する一方、管楽器のみの伴奏が効果的にこれと掛け合い、合唱の美しさとダイナミズムに見事なアクセントを付けている。

テ・デウムを別格とし、1864ー68年にかけて集中的に作曲されたブルックナーの宗教曲の最高傑作の3曲を続けて聴くと、これらの作品の音楽的な連続性にも思いはいたる。

宗教曲はいつも聴くわけではないが、ブルックナーを愛するリスナーにとって、ときに深夜、光も音量も落として、交響曲以外のもうひとつのブルックナーの世界に浸るも良し。

ヨッフム会心のこの名盤は、その際の最高の贈り物であり、交響曲以外の「もうひとつのブルックナーの世界」に浸るうえで必携の名盤と言えよう。

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classicalmusic at 19:30コメント(0)ブルックナーヨッフム 

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ボストリッジの歌唱は伝統的なドイツの歌唱法から一歩距離をおいた立場で、そうした伝統にとらわれない比較的自由で新鮮な解釈と表現に特徴がある。

その自然発生的で繊細な歌心を天性の優美で軽やかな美声に乗せて歌い上げるところが最大の魅力だろう。

ドイツ系テノールには往々にして不足しがちな声質の柔らかさと、明るく軽やかな歌唱が実に爽やかな印象を残してくれるシューベルトの歌曲集だ。

また彼の歌には特有の気品が漂っていて、ゲーテやフォン・コリンなどのオリジナルの詩が持つ高邁さも遺憾なく再現している。

この2組はピアニスト、ジュリアス・ドレイクの伴奏による歌曲集で、リリカルでいくらか感傷的な愛の歌を中心に集められている。

決してまとまった曲集ではないし、またごくポピュラーな曲も少ないが、ひとつのチクルスを聴いているような統一感がある。

例えば18曲めの『リーゼンコッペの頂で』の最後のフレーズはsei mir gegruesst(私からの挨拶を)で、次の19曲は同じ歌詞が繰り返されるといった曲順配置への配慮がある。

とりわけリリカルでいてしかも物語性を持った曲、例えば『鱒』、『ガニュメード』、『春に』そして『小人』などの歌詞への鋭敏な洞察力を反映させた、語り口調の巧さも特筆される。

またジュリアス・ドレイクの肌理の細かい表情豊かな伴奏も聴き所のひとつで、彼が作り出すカラフルな音色の美しさで、歌の背景を浮かび上がらせる奏法は流石だ。

ドレイクの伴奏は比較的控えめだが、それがかえってそれぞれの曲の特徴を明確に捉えた無駄のない表現になってボストリッジの持ち味を最大限活かしているのが好ましい。

録音は1996年及び2000年で余韻のあるふくよかな音質はARTリマスターの中でも成功したもののひとつだろう。

歌詞の日本語対訳が欲しい方は『対訳J.S.バッハ声楽全集』の著者、若林敦盛氏のサイトの対訳の項を訪れると、このディスクに含まれる殆どの曲を見つけることができる。

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classicalmusic at 13:45コメント(0)シューベルト 

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エルンスト・ペッピング(1901-81)は現代における教会音楽の復興を目指し、多くの合唱曲を書いたドイツの作曲家で、交響曲も3曲ある。

第2番は1942年の作であり、1943年のフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの定期公演のライヴが初演である。

4つの楽章から成り、調性のはっきりしたわかりやすい音楽だが、第1楽章は楽想が目まぐるしく変わり、接続曲風だ。

演奏は共感に富み、ひびき(特に弦の)がいつも真実性にあふれ、内容的である。

第2楽章のうねるように高まる情感や歌、第3楽章の愉しいオーケストレーションを冴えた筆致で生かしてゆくあたりは聴きものだが、録音は歪みが多く、弱音部のくっきりしないのがマイナスといえよう。

ハインツ・シューベルト(1908-45)は世界的にも無名の存在だが、1939年作の「讃歌的交響曲」は非常な感動作であり、もっと演奏されてもよい曲だと思う。

このフルトヴェングラーのディスクは初演(1942年)の記録で、定期公演に採り上げられたわけだが、録音は驚異的にすばらしく、豊かな上に歪みもない。

協奏曲といっても二人の独唱者がラテン語のサンクトゥスやテ・デウムなどの言葉を自由に扱って加わる。

オラトリオのような部分も多いが、常套的なコーラスを使わないのが心にくく、オルガンやオーケストラの各楽器、それに独唱が時に華やかな技巧の動きを示す。

そういう部分は確かにコンチェルト風で、ハインツ・シューベルトという作曲家の卓越した技法の冴えを伝えるが、そのような場面でも音楽の本質を見失わないところが見事なのだ。

この曲の本質とは、文字通り、神の讃歌である。

宗教的な雰囲気は、最初おごそかに、ついには恍惚たる神への讃美を感動的に歌い上げ、そこにウソのものはまったく含まれていない。

ハイトマンの決して外面的に陥らないオルガン・ソロも最高だが、このディスクは旧ベルリン・フィルハーモニーホールのパイプ・オルガンを聴ける唯一のディスクでもあるのだ。

二人のソリストも名唱で、とりわけ全盛期のベルガーの美声は魅力的のきわみといえよう。

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classicalmusic at 07:45コメント(0)フルトヴェングラー 

2022年03月26日


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32曲あるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏を世界中で60回以上行い、60年以上にもわたって作品を研究し続けるベートーヴェンのスペシャリスト、巨匠ブッフビンダー3回目のピアノ・ソナタ全集(第1回はテルデック 1980/82、第2回はRCA 2010)。

2014年のザルツブルク音楽祭における、ひと夏で行った全曲演奏会の貴重な記録で、同音楽祭の歴史の中でも初の全曲演奏会だった。

実力派のベートーヴェン弾きとしての長い演奏経験を踏まえた、しっかりした音楽構成と迷いの無い確信に満ちたタッチ、そして堂々たるダイナミズムで大家の風格を感じさせる価値の高いソナタ全曲集だ。

ブッフビンダーは若い頃からソロだけでなく、アンサンブルや伴奏の分野でも幅広く活動を続けてきたが、そうした活動がより客観的な、しかし一方では豊かで自在なニュアンスを含んだ独自のベートーヴェン像を実現させたのかもしれない。

この全集の妙味は、まずその音のクオリティの高さにあろう。

いっさいの混濁を省き、クリアな音像のなかで、デュナーミクの指示が原典に忠実に、そして目一杯に生かされ、そのなかから重厚かつ繊細きわまりないベートーヴェンが立ち現れる。

全体にペダルを控えめにした演奏であるが、その使用を巧妙に隠していると思われるフシもあり、ペダルの超絶技巧とも言える。

ことに初期作品ではそれはすばらしい成果を上げているし、中期作品以降でのペダルの実験的な使用も、作曲年代に鑑みた解釈の点で、納得のいく処理を常に見せている。

そして、特にソナタ演奏における現代的なスタイルとは何かといろいろ聴いたうち、楽譜=テクストへの批判的態度と演奏密度が、もっとも理想的に結び合っているのが、ブッフビンダーの演奏なのである。

とりわけ手稿譜のファクシミリからフランツ・リスト校訂版などに至る、現存する様々なソナタの楽譜に対する奏者の熱心な研究は周到で興味深い。

現代のピアノで演奏するという前提をあくまでも認識した上で行われた演奏で、その楽器の特質を充分に生かしつつ、例えば、デュナーミクの対照性や打鍵の機能性、果ては「ワルトシュタイン」第3楽章の冒頭などにおけるソステヌート・ペダルの使用という点に到るまで、初期作品にはけっしてダンパー・ペダルを意識させることなく、絶妙にカムフラージュしながら用いる技術のすばらしさなど、これこそドイツ=オーストリアの伝統を今日に継承した類稀な演奏である。

ブッフビンダーは若い頃からソロだけでなく、アンサンブルや伴奏の分野でも幅広く活動を続けてきたが、そうした活動がより客観的な、しかし一方では豊かで自在なニュアンスを含んだ独自のベートーヴェン像を実現させたのかもしれない。

奇を衒った表現ではなく、音楽的にも技術的にも安定した深みのある演奏が秀逸だ。

収録曲順はそのままソナタの番号順になるので聴き手には有難い。

音質は瑞々しく、ライヴとしては例外的と言えるほど極めて良好。

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classicalmusic at 12:44コメント(0)ベートーヴェン 

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この『道化師』『カヴァレリア・ルスティカーナ』のオペラ全曲録音の一番の特色は、大歌手時代の名だたるオペラ歌達が、とびっきりの美声とそのスタイリッシュな歌唱で歌い切った記録であり、指揮者は彼らの能力をどれだけ発揮させるかに重点を置いていて、現代のように指揮者が前面に出て、歌手を持ち駒のように扱う手法とは対照的だ。

少なくとも1980年代までは、声自体で芸ができるオペラ歌手が存在した。

指揮者ジュリーニは後年オペラから手を引いた理由に、歌手の質の劣化を忌憚なく語っている。

このディスクで異なる性質の2人の主役を歌っているジーリは、元来リリック・テナーだが、その表現力によってドラマティックな『道化師』のカニオも巧みに歌っている。

しかも『カヴァレリア・ルスティカーナ』の録音された1940年には既に50歳だったが、声の張りと瑞々しさ、コントロールされたパワフルな声量には驚くべきものがある。

それはサントゥッツァ役のソプラノ、リーナ・ブルーナ・ラーザも同様で、指揮者の存在が霞んでしまうほどの名唱と言える。

また興味深いのはシミオナートが端役のマンマ・ルチアを歌っていることで、当時30歳だった彼女がまだ主役を与えられていなかった。

彼女が主役サントゥッツァを歌うのは更に10年ほど後のことだ。

マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』は初演から熱狂的に受け入れられたが、ストーリー的には下世話な怨恨による犯罪物語で、後にトスカニーニをしてつまらない作品と言わしめた。

そうした欠点を救っていたのは、まさにその時代の大歌手達だったと言えるだろう。

作曲者マスカーニの指揮ぶりも、それほど上手いとは言えないが、ジーリなどの声の栄光によって救われた作品であることが、このCDを聴くことで理解できる筈だ。

『カヴァレリア・ルスティカーナ』の冒頭にマスカーニ自身の口上が録音されている。

彼はこの作品が作曲から50年を迎えたこと、HMVの全曲録音の勧めには、自分の音楽が生きたものとして残されることを望んで引き受けたとなどを述べている。

おりしもイタリアはファシズムの時代に突入していて、彼の口調はいくらかムッソリーニ調であることも面白い。

尚ディスクの数は2枚だが、ライナーノーツに全曲のリブレットが掲載されているので、カートン・ボックスに収納されている。

ニンバスのプリマ・ヴォーチェ・シリーズの殆どがSPレコードからの板起こし盤だが、再生機のグラモフォン(蓄音機)の音響だけでなく、再生された室内の残響も一緒に拾って録音するという方法で、かなり肉声に近いサウンドが得られている。

オーケストラはいくらか寝ぼけたような音だが、人の声域は当時の録音機器に適していたようで、他社のCD化された物より潤いがあって臨場感も得られている。

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classicalmusic at 09:49コメント(0)マスカーニ 

2022年03月25日


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全曲を通して溌溂とした覇気を伴った演奏が特徴的で、生命誕生の喜びを歓喜の中に描き出したアントニーニの腕が冴え渡っている。

時にユーモアたっぷりに、そして時にはアグレッシブなイル・ジャルディーノ・アルモニコの演奏は、彼らの本領とするところである。

ごく古典的な『天地創造』とはかなり印象が異なるが不思議な説得力を持っている。

こうした解釈を邪道とする人もいるかもしれないが、個人的には充分納得のいくものだ。

また歌手陣が充実しているのも評価できる。

ソプラノのアンナ・ルツィア・リヒターはリリックな歌い回しも上手いが、コロラトゥーラのテクニックにも優れている。

さらにこの曲にちりばめられた速いアジリタのパッセージも小気味良く歌い切っている。

バスのフロリアン・ベシュはバリトンの快活さを持った声質だが、低声の声域も広く表現力に富んでいる。

テノールのマクシミリアン・シュミットも軽快で無理がない。

彼らの重唱も聴きどころで、コーラスが加わる第26曲及び終曲はオペラの華麗な幕切れのように心地良い。

アルファ・クラシクスのHAYDN2032の企画のひとつとして、ハイドン生誕300周年記念する交響曲全集と並んでリリースされた。

10年以上の歳月を見越した遠大な企画だけに、おそらくこの『天地創造』の他にも『四季』や『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』のオラトリオ版などのレコーディングも期待したいところだ。

実際交響曲全集の中にはハイドンの他のジャンルの作品も併録されているので可能性は高いだろう。

このディスクは2019年にミュンヘンのヘラクレスザールで収録されたものだが、潤沢な残響と解像度に優れた音質は極めて良好だ。

尚CDであればライナーノーツにはドイツ語の歌詞に仏、英語の対訳リブレットが掲載されている。

またイル・ジャルディーノ・アルモニコの全メンバーと使用しているピリオド楽器も明記されている。

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classicalmusic at 17:22コメント(0)ハイドン 

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ターラ・レーベルの名盤を最新リマスタリングで復刻したディスクで、シュライヤーはじめ名歌手を揃えた《ミサ・ソレムニス》のライヴ録音になる。

《ミサ・ソレムニス》は、長くスランプに陥っていたベートーヴェンが、4年間に及ぶ創作を通じて、自らを再生させた音と声による壮大な記念碑である。

それはまた、カトリックの教義と自らの内面の真実との闘争を綴った偉大な魂の記録とも言える。

この作品なしに、晩年の聖なる弦楽四重奏曲群は生まれ得なかったし、カトリック・ミサの範疇では描き切れなかった人類愛、真の自由の究極の理想は《第9交響曲》で実現されたのである。

巨大な声楽と管弦楽が緻密かつ豪快にうねり積み上げられていくベートーヴェンの大曲《ミサ・ソレムニス》を相手に、イッセルシュテットの硬派な美質が存分に発揮された名演だ。

的確に立派に鳴り響く、申し分のない音楽造りは、さすがドイツの伝統を体現する名匠といった演奏である。

この曲は、モノラル録音のトスカニーニ盤を別格とすれば、長らくクレンペラー盤が最高とされてきた。

実際、カラヤンも、ベームも、バーンスタインもショルティもクレンペラーを超えることはできなかったと考えている。

しかし、クレンペラーと近い時期にライヴ録音されたこの演奏はクレンペラーに匹敵するか、あるいはこれを超えた名演奏である。

以下、クレンペラー盤と比較すると独唱者は女声陣は互角であるが、男声陣はシュライヤーとエンゲンでこちらの方が上だ。

オーケストラとコーラスの技量は筆者の聴いたところではこの演奏の方がわずかながら上のように思う。

指揮は、「キリエ」は互角で、「グローリア」と「クレド」はクレンペラーのスケール雄大な指揮に一日の長があるように思うが、「サンクトゥス」以下はこの方が上だと思う。

特に終曲の「アニュス・デイ」はこの方が劇的な迫力があって、暗から明への穏やかにしてゆるぎない移り変わりがことのほか素晴らしい。

多様な精神の流れがひとつに収斂していき、ベートーヴェンの神髄とも言える天上の世界に到達するラストは感動的だ。

オーケストラはイッセルシュテット自ら大戦直後にあちこちの捕虜収容所を回り演奏家を集めて創設した北ドイツ放送交響楽団。

彼は1945年から26年間にわたり初代首席指揮者を務めこのオーケストラを鍛え、世界有数のオーケストラに育て上げた。

その信頼関係が生む悠然とした演奏に注目したい。

また、1966年のライヴ録音ながら非常に明晰でバランスが良く聴きやすいのも特筆されるべきである。

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classicalmusic at 11:54コメント(0)ベートーヴェン 

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ワルター・バリリ(1921.6.16〜)はウィーン生まれのヴァイオリニストで、ウィーン音楽院に学んだ後、1936年ミュンヘンでデビューした。

1938年にウィーン・フィルに入団し、1940年にはコンサートマスターに就任、1943年には自らの名を冠した四重奏団を組織した。

当時、ウィーンにはコンツェルトハウス協会に所属するウィーン・コンツェルトハウス四重奏団、ムジークフェラインで定期演奏会を行ったシュナイダーハン四重奏団、と同じウィーン・フィルを母体とする2つの名団体が演奏活動を行っていた。

しかし、バリリ四重奏団は結成以来、なぜかメンバーの離脱や急死などの不運が重なり、1951年6月に一時活動の停止を余儀なくされた。

ところが、同じ年にシュナイダーハン四重奏団を主宰するヴォルフガング・シュナイダーハンがソリストに転身することになり、リーダーを失ったシュナイダーハン四重奏団の他の3人にバリリが加わる形で、1951年8月新たなバリリ四重奏団が生まれた。

バリリ氏は1996年の来日時のインタビューでこの時の運命的とも言えるタイミングの良さについて「なるようになるものだ」と語っていた。

ちょうど同じ頃、レコード界ではLPレコードの開発という革命が起き、戦後景気に湧くアメリカではレコード会社が次々に設立された。

1949年、ニューヨークで設立されたクラシック音楽専門レーベル「ウエストミンスター」もその一つ。

ウエストミンスターは米ドルの強さを背景に、ウィーンに出張録音を行い、バリリ四重奏団やウィーン・コンツェルトハウス四重奏団と数多くのLPレコードを制作した。

ウエストミンスター・レーベルは1954年に日本盤も発売されるようになり、彼らの室内楽演奏は日本でも多くのファンを獲得して、1957年12月、バリリ四重奏団の初来日公演は熱狂的に迎えられた。

ところが1959年、バリリは右ひじを故障し、カルテットの活動を断念、新生バリリ四重奏団も約9年でその幕を下ろすこととなった。

このセットには、バリリ四重奏団の米ウエストミンスターへの録音がまとめられており、LPレコード初期に彗星のように現れては消えて行った、名団体の芸術の粋をじっくりと楽しむことができる。

中でも、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集は、LP初期に、ブダペストSQのそれと人気を二分したバリリSQの名盤である。

精密な機能的側面を追求するブダペストに対し、バリリはヒューマンな情緒性を大切にする点で一線を画した。

ベートーヴェンの特に後期の弦楽四重奏曲は、特に専門家でなくても至難であることはある程度想像できる。

しかし、だからといってひたすら苦行のように、あるいはいたずらに精密さばかりを求められても聴く方にとってはちょっと困るが、その点、このバリリSQの演奏は非常に楽しくて、ほっとする。

奥行きのある内容を多くの言葉を費やして語ることなら、できなくはないかもしれないが、それを優しい表情で、それとはなしに語るのは必ずしも簡単ではない。

また、スケールの大きさとデリカシーとを雄弁の限りを尽して語ることなら、できなくはないかもしれないが、それを柔軟性をもって簡潔に語るのは必ずしも簡単ではない。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集におけるバリリSQの演奏は、そのような難事を立派にやり遂げた内容と言えよう。

ここにおけるバリリSQの4人は、強い緊張感を貫きながらも身のこなしは軽やか、決して肩をいからせぬ優美な輪郭で、ベートーヴェンの各曲の全体像をスムーズに描き出していく。

もちろん、ウィーン風の優雅なスタイルであり、味付けはかなり濃厚な方なので続けて飲用するとやや飽きるかもしれないが、折に触れて取り出せばその都度に新たな感動に浸ることが出来る。

同じウィーンのスタイルとはいっても、コンツェルトハウスSQとはまた違うし、アルバン・ベルクSQとはもっと違いが顕著である。

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classicalmusic at 08:47コメント(2)ベートーヴェンモーツァルト 

2022年03月24日


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作曲当時のフランス貴族趣味に応えた、現代人のBGMとしても極上品質のフルート音楽を残したジャック-マルタン・オトテールの笛の為のソロやデュエットを扱ったアンサンブル第2集には、フリュート・ア・ベク、つまりリコーダーと通奏低音の為の作品も含まれている。

当盤の選曲の特徴は、フルート作品だけでなく、更に素朴なリコーダーで演奏された曲も含まれていることだ。

と言っても作曲者自身厳密にトラヴェルシエール(横笛)とフリュート・ア・ベクを区別して作曲していたわけではない。

ここに収録された小品集も音域さえ合えば演奏者の判断で楽器を選択することになり、時として笛に替わってオーボエで演奏することも可能だ。

ここでも第2組曲と第4組曲はリコーダー用にそれぞれホ短調とニ短調に移調されているし、2本のリコーダーの為の組曲Op.4はトラヴェルソで演奏している。

1曲目の通奏低音つきプレリュードト短調は短い曲ながら高度な音楽性を持った味わい深い曲で、技術的にも熟練を必要とする典雅なフランス・バロック趣味が聴き所だ。

2曲目の組曲ト短調はオットテールの作品の中でもトラヴェルソ奏者のレパートリーとして取り上げられる機会が多い名曲で、その哀愁を帯びた華やかさとイネガルを駆使した絶妙なリズム感が魅力的だ。

また、トラック17〜22のような伴奏楽器無しの簡素なフルート・デュエットの作品を書いたのはオトテールが最初と言われている。

演奏者はトラヴェルソ奏者のフィリップ・アラン-デュプレが中心になったアンサンブルでリコーダー・ソロは女流のロランス・ポティエ。

尚このCDでは通奏低音からテオルボを省いている。

第1集と同様1995年の録音でピッチはa'=392。

ヴェルサイユの宮廷で活躍したル・ロマンの愛称でも知られるオトテールは作曲家として、また笛の演奏家、教育者としても当時から名を馳せていた。

同時に著名な楽器製作者のファミリーの一員でもあったことから彼自身の製作した木管楽器が現在でも数多くコピーされている。

彼は初心者の為の笛のメソードを書いた最初の音楽家で、その他にも笛の為の基礎練習曲集『プレリュードの芸術』も出版している。

この録音に使われた楽譜はS.P.E.S.社及びMINKOFF出版のファクシミリ版になる。

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classicalmusic at 22:54コメント(0)音楽史 

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オペラ指揮者アーノンクールの出発点ともなった名盤。

アーノンクールが頭角をあらわした1960年代から70年代にかけては、古楽をとりまく状況は、現在とはまったく異なっていた。

特にモンテヴェルディの作品は、多くが編曲ヴァージョンの分厚い響きで演奏されていたが、アーノンクールは大胆な時代考証により、作曲当時、現代とはまったく異なる社会や文化環境の中で上演されていたそれらの作品がもたらしたであろう人々の興奮と感動を呼び起こすべく、ここでも大いに奮闘しているのである。

1968年から74年にかけておこなわれたこれらオペラ三部作のレコーディングは、録音開始の4年前にすでに始められていたアーノンクールの研究と実践によって、徹底的に音楽表現の可能性が追究されているのが特徴。

オリジナル楽器による初の録音であり、その後に続く一連のオリジナル楽器によるディスクの嚆矢となった記念碑的存在。

古楽器を使用し躍動感に富むオケのサウンドと共に、アーノンクールの意図に沿った歌唱を聴かせる歌手たちが生き生きとしたドラマを表現している。

より一層の原点研究に加えて、独自の考察を試みた画期的な演奏は、多くの音楽家たちに多大な影響を与えた。

そして楽器の象徴的な用法など初演時の形態を模索しながらも、オリジナル楽器による演奏に十分に親しんでいない聴衆にも容易に受け入れられるような工夫をして、モンテヴェルディのオペラの魅力を多くの聴衆に知らしめた、劇的にも音楽的にもコントラストを強調させた演奏はいかにもアーノンクールらしい。

その後、チューリッヒ歌劇場と制作したオペラ映画を経て、四半世紀ののち、21世紀を迎えたアーノンクールは、再びモンテヴェルディ・シリーズに取り組み、今度は人間のダークサイドを浮かび上がらせるような上演をおこなって、かつての演奏とはずいぶん違う傾向のものとなっていた。

そうした演奏を踏まえて改めてこれら最初の録音での自信と活気に満ちた演奏を聴くと、社会全体の雰囲気の差のようなものすら窺えるようで、ずいぶんと率直な魅力に満ちていた時代の音楽の雄弁さを思わずにいられない。

そういえばアーノンクールの名を一躍有名にした過激な『四季』が録音されたのは1977年のことだった。

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classicalmusic at 18:30コメント(0)アーノンクール音楽史 

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カラヤンにとってのコンサートにおける「ブル8」は勝負曲であった(オペラ・ハウスでは《トリスタンとイゾルデ》)。

フルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィル戦後初のアメリカ・ツアーを率いた1955年も、ベルリン・フィルとの不協和音が囁かれる中で敢行した生涯最後のウィーン・フィル、ニューヨーク公演もこの曲を轟かせて批判の声を封じ込めたのだ。

当演奏は伝説の1966年日本公演の直後に行われたヨーロッパ・ツアーから、名ホール、アムステルダムのコンセルトヘボウで行われた凄絶なライヴ。

名門ホールのコンセルトヘボウの豊かな残響を伴った好条件の会場で、壮年期における気力十分なカラヤンとベルリン・フィルの劇的なブルックナー演奏が残ったことは、まさに僥倖だ。

その演奏は、弦が柔らかに歌う最弱音から、金管が荒々しく咆哮する最強音まで、振れ幅の大きい表現で聴く者を圧倒する。

カラヤンのライヴはスタジオ録音の印象とは異なり、非常にアグレッシブかつ即興的であり、彼の実演がいつも大喝采に終わるのは、それなりの理由があるのである。

縦の線を揃えることにはあまり注意が払われていないので、時折、おやと思うようなズレも散見されるが、それはそれで、より音楽の生々しさ、一回性を伝えて余りある。

また、ブルックナーの作品は、後期に近づけば近づくほど扱われる和声も複雑になってきていて、「今鳴っているのは何調で、次は何調に転調する」といったプログラム的な聴き方では間に合わない部分が頻出する。

この曲でも所々で短調と長調の旋律が同時に鳴っていて、音と音がぶつかり合うことで極めて深い響きを生んでいる。

そうした入り組んだ曲を扱った時のカラヤンは、まさに音楽のすべてを一手に束ねる「大司祭」というべき高みに達する。

指揮者のリッカルド・ムーティがカラヤンのブルックナー演奏を「神の声をきくよう」と評したと伝わっているが、この演奏の前では、それもあながち誇張には聞こえない。

一方で、第3楽章のアダージョでは、各楽器を思いのままに歌わせながら、流麗な音楽の流れを作り出している。

曲尾近くでは大伽藍のような壮大なクライマックスが築き上げられるが、それが少しの誇張もなく自然に達成されているのは、まさにカラヤンならでは。

このあたり、彼特有の流れるような柔らかい腕の動きが目に見えるようでもある。

まさに知情意のバランスの取れたブルックナーとして、長く語り継いでゆくべき演奏だろう。

壮麗な音響、荒々しいまでの推進力、絶望に至るほどのカタルシス、他国客演時では常日頃より燃え上がるのがカラヤンだった。

スタイリッシュなだけでない汗をかくカラヤンを味わいたいならこれも聴かねばなるまい。

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classicalmusic at 14:31コメント(0)ブルックナーカラヤン 

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カラヤンとベルリン・フィル1966年来日公演のうち、ベートーヴェンの交響曲全曲シリーズとならんでクラシック・ファンの関心を集めたのがブルックナーの交響曲第8番。

まだ日本でブルックナー・ブームが起こる以前、聴衆の強い集中力と熱気が伝わる壮絶なライヴで、ベートーヴェンがカラヤンとベルリン・フィル芸術の精神的な骨格を示してくれたとすれば、ブルックナーは血と肉づけを体験させてくれたと評された。

1966年と言えば、まさにカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代で、心身ともにベストコンディションであり、精緻さと重厚さを兼ね備えた最高のブルックナー演奏と言える。

ベルリン・フィルも、名うてのスタープレーヤーがあまた在籍した楽団史上でも特筆すべき技量を誇った時代である。

それぞれ最高の状態にあったカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏は、おそらくはオーケストラ演奏史上でも空前にして絶後の高水準を誇っていたと言ってもいいのではないだろうか。

弦楽合奏の鉄壁のアンサンブル、唸るような低弦の重量感のある響き、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器群の美しい響き、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニの響きなどが見事に融合するとともに、カラヤン一流の流麗なレガートが施された、いわゆるカラヤン・サウンドに満ち溢れたまさに圧倒的な音のドラマの構築に成功していたと言える。

カラヤンの前任者であるフルトヴェングラーのような音楽の精神的な深みの徹底した追求などは薬にしたくもないが、音楽の持つ根源的な力強さにおいては、フルトヴェングラーの数々の名演にいささかも劣っているものではないと言えるところだ。

フルトヴェングラーの目指した音楽とカラヤンの目指した音楽は、このようにそもそも方向性の異なるものであり、その優劣を論ずること自体がナンセンスであると考えられるところである。

特にブルックナーの演奏において、かつて影響力の大きかった某音楽評論家の偏向的な批評などを鵜呑みにして、本演奏のような圧倒的な名演に接する機会すら放棄してしまうクラシック音楽ファンが少なからず存在すると想定されるのは大変残念なことであると言えるだろう。

カラヤンの個性が全面的に発揮されたブルックナーの交響曲第8番の演奏としては、1975年のスタジオ録音を掲げる者も多くいると思われる。

しかし来日公演盤は、実演でこそ真価を発揮するカラヤンならではの途轍もない生命力溢れる力感が随所に漲っているなど、音のドラマとしての根源的な迫力においてはかかるスタジオ録音を大きく凌駕している。

シンフォニックな充実度も満点で、終演後の熱狂ぶりが当時の日本の音楽ファンの真摯さとして伝わってくるのが嬉しい。

まさにカラヤン&ベルリン・フィルという稀代の黄金コンビによる全盛時代の演奏の凄さを大いに堪能させてくれる究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

音質は、従来CD盤においても音響がイマイチとされる東京文化会館でのライヴ録音と思えないような生々しさであったが、待望のハイブリッドSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためて本全集の各演奏の凄さとSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な超名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

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音楽家及び楽器製造者として知られた一族オトテール家の1人、通称オトテール・ル・ロマンは、フラウト・トラヴェルソ奏者として名を馳せた。

その音楽は、当時の貴族趣味を反映した、知る人ぞ知る趣味の良さを誇る一級品である。

廉価盤ながらオトテールの笛のためのアンサンブルを2枚のCDに分けて収録した秀演で、これはその1枚目に当たる。

オトテールの室内楽曲のまとまった録音としてはフランス・ブリュッヘンに続く草分け的なもので、1996年のリリースだがその演奏水準の高さは現在でも最も優れたセッションのひとつと言えるだろう。

フランスのトラヴェルソ奏者で、また自身ピリオド楽器製作者としても知られるフィリップ・アラン=デュプレは、イタリアのアッシジにある聖フランチェスコ修道院の図書館に保管されている作者不詳の3ピース・タイプのトラヴェルソ(a'=392Hz)をコピーしてこの演奏に使っている。

コピーは拓殖材と黒檀の2種類が用いられていて、深みのある豊かな音量とおおらかで優雅な音色は、サンティッポーリト教会の潤沢な残響と相俟って18世紀のヴェルサイユの宮廷音楽を髣髴とさせてくれる。

一方通奏低音を担当するヤスコ・ウヤマ=ブヴァールの弾くチェンバロは1741年製のオリジナルのエムシュになる。

通奏低音には他にヴィオラ・ダ・ガンバとテオルボが加わった4人編成で、当時の演奏習慣を再現している。

この第1集では組曲の第1番ニ長調、第2番ト長調、第3番ト長調及び第4番ホ短調の4曲と2曲の2本のトラヴェルソのための小品が収録されていて、デュエットではジャン=フランソワ・ブジェが相手方を務めている。

さらにトラック22には録音されることが少ない短い作品だが、トラヴェルソ・ソロのための『エコー』が加わっている。

この小ピースは狩の情景を横笛一本でイメージさせる、言ってみれば一種のファンタジーで、フォルテとピアノの指示が交互に繰り返される森の中のエコー効果を狙ったユニークな曲だ。

続く第2集と共に古楽ファン、並びにトラヴェルソ・ファンには是非お薦めしたい1枚だ。

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classicalmusic at 07:38コメント(0)音楽史 

2022年03月23日


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ギュンター・ヴァント・エディションの第20集になり、ホルヘ・ボレットとの共演のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番及びムソルグスキー/ラヴェル編曲の『展覧会の絵』を収録している。

前者が1985年、後者が1982年のそれぞれハンブルガー・ムジークハレで録音された。

オーケストラはヴァントが首席指揮者時代の北ドイツ放送交響楽団で、音質は極めて良好。

ヴァント&北ドイツといえば、BMGによる重厚な雰囲気たっぷりの名演の数々が思い浮かぶが、今回正規初CD化の2曲はNDRのオリジ ナル・テープからCD化されたもので、その音質のあまりのクリアさに驚かされた。

音が残響で曇ることなく、細部まではっきり聴き取れるため、いままでの同コンビの印象も新たになるようで、ヴァント首席指揮者就任時の覇気あふれる『展覧会の絵』も「バーバ・ヤガー」から「キエフの大門」に至る崇高な盛り上がりなど無類である(ちなみにBMGは1999年録音)。

チャイコフスキーでのボレットとの共演は圧巻の一語で、こちらも音質抜群。

緊迫感ただならぬものがあり、当レーベル社主のギュンター・ヘンスラー氏の自薦する録音のひとつである。

チャイコフスキーでは両者の知性が滲み出た演奏で、爆演的なはったりは一切なく整然とした秩序を保ちながら、スケール感よりも細部まで音楽だけで訴える手腕に驚かされる。

それだけにしっかりとした構成感を示す手堅さが聴きどころだろう。

ボレットのソロもテクニックを誇示するような表現はなく、また大げさな抒情性を引き摺るようなこともない。

しかしさりげないロマンティシズムが、かえってこの作品の良さを引き出している稀なサンプルだ。

『展覧会の絵』はオーケストラの多様性が華やかに表現されている演奏で、その意味ではムソルグスキーの泥臭さは影を潜め、洗練されたラヴェルの趣味が横溢している。

それぞれのソロ楽器の奏者も手兵だけに指揮者の要求に良く呼応しながら、主張すべき部分は思い切って歌い、全体として骨太で緻密なサウンドを醸し出している点はやはりドイツのオーケストラである。

よりゴージャスな演奏は他にもあるが、まとまりの良さでもこの作品の録音の中でも特にお薦めしたい演奏のひとつだ。

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classicalmusic at 17:09コメント(0)ヴァントボレット 

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国際的バッハ研究家として著名なヘルムート・リリング自ら校訂に参加したベーレンライター新バッハ・エディションに基づく『バッハ大全集』は、ひたむきで誠実なアプローチと普遍的な演奏内容により、バッハ演奏の王道として高い評価を獲得してきた。

今日、「音楽の父」として、燦然と輝きを放ち続けるJ.S.バッハであるが、器楽作品の録音とは事情が異なる。

何しろ現存する200を超えるカンタータすべてを網羅したお手頃なセットとなると、選択肢が極端に限られてしまうので、このセットは広く重宝されるものと思われる。

バッハは教会カンタータを300曲近く作曲したと見なされているが、現存しているのは200曲ほど。

カンタータはプロテスタント教会での日曜日や祝日の礼拝式のなかに組み込まれ、演奏された。

リリングはバッハの教会カンタータの真作、計194曲を、作曲年代順に収めている。

LPの段階では100枚近い巨大なアルバムだったのが、CD化されたことでスリムになった。

それでもさらに世俗カンタータを加え71枚、手応えは並のものではない。

バッハの第一人者の一人リリングの、前半生の総決算と言えるだろうか(録音は1970〜80年代半ば)。

リリングの、隅々まで暖かさにつつまれた演奏は、15年にわたって録音されたバッハの教会カンタータ全集に代表されよう。

ラディカルでスタイリッシュな古楽器演奏に慣れた耳にとって、従来のリリングには微温的な印象があった。

しかし、あらためて聴いてみると、決して押し付けがましくない、安心して身を委ねることのできる音楽づくりは、彼の確立されたスタイルなのだと気が付いた。

手兵シュトゥットガルト・バッハ合奏団、ゲヒンゲン聖歌隊をはじめ、あまたの演奏家たちが共演しており、歌手のソロ・パートはベテランを主体に実力派ががっちり固めている。

全体に強い個性を発散する演奏ではないが、その分、ムラのない高水準の仕上がり。

現時点(2022年)で現代楽器によるバッハのカンタータ全集としては唯一のもので、今後もう現代楽器による演奏は考えにくいことから、買っておいて損はないだろう。

バッハ・イヤー(2000年)を迎えて22年、さらにぐんと値下げして再発売された。

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classicalmusic at 10:24コメント(0)バッハ 

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ミラノ出身の大ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音完結作。

クラシック音楽全体の中でも中核をなす重要なレパートリーであり、ベートーヴェン自身の芸術や作曲様式の発展を辿る32の傑作の録音が、39年の歳月をかけて完結された。

ポリーニのマイペースぶりにはほとほと恐れ入るが、殆んど諦めていたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を、彼がまさに半生を賭けて完成させたことを率直に喜びたい。

この曲集についてはとにかく1度全曲を聴き通すことが望ましい。

そうすればポリーニが如何に自分に誠実な演奏を心掛けてきたかが理解できるだろう。

39年という歳月は、当然のようにポリーニに芸風の変化をもたらしているが、それでも、一貫して深い陰影のある彫像性が刻まれた、コクのあるベートーヴェンとなっている。

ポリーニは完全無欠のテクニックを誇っていた時代でも、決して聴き手に媚びるようなピアニストではなかったし、しばしば指摘されるような無味乾燥の機械屋でもなかった。

中でも彼が壮年期に録音したベートーヴェン中期から後期にかけての作品群が堅牢な音楽的造形美と洗練で、さながら名刀を鍛える刀匠のような素晴らしさがある。

確かにここ数年ポリーニの技巧的な衰えは否めない。

以前のような強靭なタッチも影を潜めたが、あえてそれを別の表現や解釈にすり替えようとはせず、不器用ともいえるくらい真っ正直に自己のポリシーを貫き通しているのが彼らしいところではないだろうか。

最近のセッションでは、初期のソナタでの若き日のベートーヴェンの斬新な創意や、性急で苛立つようなリズム、不安や焦燥の中から希望を見出そうとするひたむきな情熱が感じられる。

そこには尽きることのない目標に向かって突き進むような意志があり、また逆にそれを制御しようとする極めて冷静な知性とのせめぎ合いもあり、巨匠としての風格はむしろ稀薄だ。

その意味ではポリーニに円熟期というのは存在しないのかも知れない。

いずれにしても誰にも真似のできない超一流の美学に輝いたベートーヴェン・ソナタ全集のひとつとして聴くべき価値を持っていることは確かだ。

録音状態はさすがに総て均等というわけにはいかない。

過去40年間の録音技術の進歩も無視できないし、会場によって音響が異なり、またセッションとライヴが入り乱れているので、客席の雑音や拍手が入るのは勿論、ポリーニの癖でもある演奏中のハミングも聞こえてくるが、音楽鑑賞としては全く不都合はない。

同一曲で2種類以上の音源が存在する場合は新録音の方が採用されている。

例えばCD5の『テンペスト』を含む第16番から第20番までの5曲は、2013年と2014年にかけて行われたセッションで初出盤になる。

クラムシェル・ボックスに収納されたごくシンプルな紙ジャケットに色違いの8枚のCDが入っている。

曲順はソナタの番号順に再編集されていて録音年代順ではないが、録音データはジャケットの裏面とライナー・ノーツで参照できる。

なお国内盤は、SHM−CD仕様により、音質は従来盤に比べきわめて鮮明になるとともに、音場が非常に幅広くなった。

ピアノ曲との相性抜群のSHM−CDだけに今般のSHM−CD化は大いに歓迎すべきであり、ポリーニによる至高の名演をこのような高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 05:43コメント(0)ベートーヴェンポリーニ 

2022年03月22日


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ドイツ・ロマン派オペラ最初の傑作として有名な《魔弾の射手》だが、このオペラにあふれるロマンティックな情感を最もみずみずしく表現しているのは、キャストも素晴らしいクーベリック盤である。

正統派の解釈による堂々たる名演にもかかわらず、長年国内盤、輸入盤ともに廃盤、しかもネット配信もハイライト盤に限られるという嘆かわしい現状であるが、C・クライバー盤と並ぶ《魔弾の射手》の代表盤(しかもデッカの名録音)なのでご紹介せずにはいられない。

ドイツ・ロマン派オペラの故郷とも呼ぶべきこの作品の多くの録音の中でも、このクーベリックほどにけれん味が無く、しかも繊細さとダイナミズムの両面を満たした演奏は少ない。

クーベリックは、ウェーバーのスコアに真摯に向かい合い、何のはったりもけれん味もなく、その音楽の深々とした味わいを具現している。

また巨匠は隅々まで神経を行き渡らせ、音楽的にすっきりと美しくまとめあげている。

この巨匠ならではの折り目正しい演奏を通して、神秘的な森とそこに生きる人たちの葛藤を自然に浮かび上がらせている。

表現力も豊かで、整った演奏のなかからドラマがくっきりと浮かび上がってくる。

繊細・緻密にして、気宇雄大なクーベリックの音楽性は、生気に満ちた息づかいと細やかな情感表出によって、ウェーバーのロマンティシズムを十全に描き上げる。

狼谷などのドラマティックでデモーニッシュな表現も見事だが、同時に抒情的な精妙な表現によって、各場面をとても奥行きと陰翳深く描き上げているので、まっすぐにこの作品のよさが伝わってくる。

クーベリックは、《オベロン》のすぐれた全曲盤を遺しているが、この《魔弾の射手》は一段と充実している。

1979年、65歳という円熟期の録音だけに、あくまで堂々とスケールゆたかであるとともにバイエルン放送交響楽団ならではの精度良く柔軟な響きと表現力を生かして、ドイツ・ロマン派オペラにふさわしい手厚い演奏をつくっている。

クーベリックの音楽的要求と、ウェーバーの音楽語法を自家薬籠中のものとしているバイエルン放送交響楽団の高い音楽性も素晴らしい。

クーベリック時代のバイエルン放送交響楽団は、旧西ドイツで最も音楽的なオーケストラと呼ばれていた。

クーベリックの薫陶を受けたこの名オーケストラとの集大成とも呼ぶべき名演である。

ともかくオーケストラ、合唱団を含め、当時のバイエルンの高度な実力を明示した演奏と思う。

ソリストに目を向けると、ベーレンスのアガーテ、ドナートのエンヒェン、コロのマックス、メーヴェンのカスパールといった主要な配役も、このCDの価値を高めている。

中でも、ベーレンスのアガーテは、ドラマティックな声の力と、リリカルな音楽性を併せ持つ稀有の名唱となっている。

コロのマックスも、《魔笛》のタミーノとヘルデン・テノールの中間にあるこの役にふさわしい。

派手さはないがこのクーベリックの録音は犖漆佑Δ鵜瓩垢襪い屬袈笋量庄蕕噺世┐襪世蹐Α

なお、クーベリックだけでなく、当時の一流歌手陣のすべてが初録音だったことも付記しておく。

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classicalmusic at 17:56コメント(0)ウェーバークーベリック 

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《ファルスタッフ》《ばらの騎士》に続くバーンスタイン&ウィーン・フィルによるオペラ第3作で、バーンスタインがウィーンでセンセーショナルな成功を収めていた1970年代に録音された名盤中の名盤。

バーンスタインはウィーンでベートーヴェン生誕200年記念の1970年にもこのオペラを指揮、「最も感動的な音楽的事件」と絶賛されたが、この録音はそれから8年後の新演出上演に基づくキャストによって行なわれた。

彼のこの「このオペラに生命を与えているのはただただベートーヴェンの音楽なのです」という主張によりセリフはかなりカットされているが、当時ベートーヴェンの交響曲全集も録音中だったウィーン・フィルを見事に統率して展開する演奏には独特の劇的迫力が満ちている。

この特異な理想主義的傾向をもつオペラに対し、バーンスタインは少しもケレン味なく、ホットに取り組んでいっている。

そのひたむきな姿勢は説得力が強く、バーンスタイン自身の生きかたとオーヴァーラップするものを、彼はここに見出しているのだろう。

バーンスタインはウィーン・フィルと新時代のベートーヴェン像を打ち立てたが、オペラもまったく同じである。

とくに本盤に収められた《フィデリオ》では、バーンスタインの音楽に彫りの深さを感じることが可能である。

バーンスタインはこのオペラに得意の同化を行なったが、それが成功し、輝きと躍動感に満ちた《フィデリオ》になった。

大胆といえるテンポやディナーミクの設定、弾むように柔軟で若々しいリズム、のびやかでなめらかなフレージング、立体的なふくらみを誇る明るいサウンドで全曲を再現、どこをとっても初々しい。

ベームが聴かせた劇的求心力と緊迫感には乏しいが、先入観を払拭、ゼロから組み立てて再現したすがすがしさは値千金の価値をもつ。

歌い手の水準が高いのも嬉しく、レオノーレにはリリックな声の優しいヤノヴィッツのレオノーレををはじめ、切実なコロのフロレスタンも聴ける。

他の歌唱もバーンスタインの意図に沿ったもので、とくにフィナーレの感動的な表現は圧巻である。

さらにウィーン・フィルによる極上の美演が付加されることにより、演奏全体に潤いと適度な奥行き、そして重厚さを付加することに成功している点を忘れてはならない。

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classicalmusic at 14:50コメント(0)ベートーヴェンバーンスタイン 

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「第9」に比べて演奏頻度が極端に低く、ポピュラリティに欠ける《ミサ・ソレムニス》だが、芸術的な感動の深さはむしろ「第9」を上回る。

それだけに演奏はむずかしく、フルトヴェングラーでさえ演奏がうまくいかなかったということで録音もないのが実情だ。

同曲随一の名演と評されるクレンペラー盤(ワーナー)は遅いテンポを一貫させた静的な表現だが、もっと速いテンポを基本にしながら自在な緩急を駆使したドラマティックな演奏があっても良い。

いや、むしろその方がベートーヴェン的なのだが、その要求にぴったり適ったワルター/ニューヨーク・フィル(伊ウラニア)はあまりにも音が悪く、聴くに耐えなかった。

これ以上残念なことはなかったわけだが、この度M&A盤が出て積年の不満が解消したのである。

もっとも、元来が音の良くないディスクで、当時(1948年)の他のライヴに比すると明晰度が不足するが、ひどい歪みや音の割れがなくなったので、十分にワルターの表現を享受できる。

とくにウラニア盤のピッチが半音高かったのを正常に戻したのは何といっても大きい。

それにしても凄まじいベートーヴェンで、ワルターの最高傑作と評しても過言ではない。

第1曲の「キリエ」から彼の気迫と情熱は際立っており、ひびきが実に立派だ。

中間部のテンポがかなり遅く、スケールの大きさと風格を感じさせるのが独特である。

つづく「グローリア」はたいへんなスピードだが、決して上滑りせず、とくに最後のプレストの手に汗を握るような速さと、その直前のアッチェレランドはまさに最高。

録音の分離が悪く、細部を聴きとれないのがかえすがえすも惜しまれるが、決めどころにおけるティンパニのとどろきと金管の最強奏が絶妙のアクセントとなり、テンポも曲想の移りや言葉の意味にしたがって微妙に変化してゆく。

クレンペラーに比して、少なくとも筆者にとっては理想の「グローリア」だが、前記の特徴はワルターの《ミサ・ソレムニス》全体にいえることであり、わけてもオーケストラの雄弁さはその比を見ない。

「クレド」は一転して遅いテンポで開始される。

構えが大きく、まことに壮麗だが、音楽の局面に応じて無限に変化する。

たとえばキリストの受難の場面で、オーケストラの音を一つ一つはっきり切って、異常な苦しみを表出したり、とくに復活の後“天に昇りて御父の右に座し”のコーラスの途中に現われる最後の審判のトロンボーンで、大きくテンポを落としつつ最強奏させるなど、ワルターならではといえよう。

というより、ここはこうなくてはならぬ!と長年の鬱憤が晴らされた思いで、なぜ他の指揮者が簡単に通り過ぎてしまうのか筆者にはまるで理解できない。

つぎの「サンクトゥス」では“オザンナ”のフーガをクレンペラー同様ソロの四重奏にしているが、ここはコーラスの方が良いと思う。

最後の「アニュス・デイ」はワルターらしくよく歌った名演で、聴いていて音楽のみを感じさせ、なんの抵抗もない。

後半の“ドナ・ノービス”の部分は速めだが、終結はちょっとあっさりしすぎるようだ。

ベートーヴェンの書き方はたしかにこの通りだし、その方がミサの儀式の途中なので正しいのかも知れないが、コンサート形式による大曲の結びとしては物足りなさが残る。

ワルターの《ミサ・ソレムニス》で気になったことといえば、この終わり方だけであった。

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classicalmusic at 11:20コメント(0)ベートーヴェンワルター 

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演奏時間約100分(2部14曲)、五管編成の巨大オーケストラ、100人の合唱団、7人のソリストに打楽器部隊を要するという超大作を優秀録音で聴けるようになった。

《われらの主イエス・キリストの変容》は、グルベンキアン財団の委嘱によって書かれたもので、1965年から1969年までの4年をかけたたいへんな力作。

世界初演は1969年6月7日、リスボンの第13回グルベンキアン・フェスティヴァルで、セルジュ・ボド指揮パリ管弦楽団、グルベンキアン合唱団、イヴォンヌ・ロリオ、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチほかの演奏でおこなわれ大成功と高評を獲得。

日本では、1978年にロリン・マゼールが作曲者と共に来日して初演、テレビでも放送されて大きな話題となっていた。

なお、テキスト(ラテン語)には、聖書、ミサ典礼文、《神学大全》からキリストの変容が描かれた部分を用いている。

そうした「変容」を扱った題材から、この作品はメシアンの《キリストの生涯》三部作の最後を飾るものとされ、1935年に書かれたオルガン作品《主の降誕》を第1部、1939年に書かれたオルガン作品《栄光の御体》を第2部とし、約30年後に書かれたこの《キリストの変容》が第3部と捉えられている。

作風はメシアン最大規模の作品にふさわしい凝りに凝った見事なもので、メシアンが愛した「鳥の声」の概念が多面的に取り込まれるほか、ギリシャやインドといった異国趣味、複雑極まりないリズム、対位法、過激なまでの大音響、美しいチェロのソロや、合唱による崇高なコラールなど、数多くの要素がモザイク的にせめぎあって、圧倒的な感銘を与えてくれる。

なお、フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団は、総勢140人の大所帯ということもあって、エキストラなしでメシアンが求めた演奏編成をもクリアできるのが有利なところ。

このレコーディングは2001年9月のコンサートとほぼ同時期におこなわれたもので、フランス放送のホール“サル・オリヴィエ・メシアン”でデジタル収録されている。

重要な役割を果たすピアノは、イヴォンヌ・ロリオの弟子で、現在ではメシアン作品のエキスパートとしても知られるイタリア系フランス人ピアニスト、ロジェ・ミュラロ(ムラロ)が担当。

指揮のチョン・ミョンフンは言うまでもなくメシアンのお気に入りともいうべき存在で、これまでにも数々の優れたレコーディングやコンサートをおこなってきているのは誰もが知るとおり。

演奏至難なこの巨大作品では、かつてアンタル・ドラティの指揮したDECCA盤が有名だったものの、さすがに現在となっては少々音質が古くなってしまった。

その後、ラインベルト・デ・レーウ盤がリリースされたが、演奏面での評判はいまひとつ。

続いてKOCHから登場したリッケンバッハー盤は、作曲者の知己を得てロリオのピアノまで獲得したにもかかわらず、録音のコンディションがあまり良くなく、色彩感が少々物足りない演奏だったという事情もあり、余裕を持って作品の隅々まで見通したチョン・ミュンフンの演奏が代表盤であろう。

オリヴィエ・メシアン没後10周年にふさわしい傑作アルバムとなった。

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classicalmusic at 09:25コメント(0)メシアン 

2022年03月21日


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ベートーヴェンが作曲した唯一のオペラである《フィデリオ》は、様式的な不統一も目立つし、見る者をオペラの鑑賞というよりも、宗教的な儀式に参列したような思いにさせて終わるオペラ史上特異な名作である。

というのは、オペラ・ブッファとジングシュピールとを混ぜ合わせたような始まり方からシーリアスなオペラへと移行し、最後の場ではオラトリオに近い性格なものになるからだ。

その間の男女間の愛情の描き方も他の多くのオペラとは違っていて、形而下的な官能性を排除して形而上的な愛の追究に終始している。

だが、それでいてすぐれた上演に接したときの感動は他に比べるものがないほど大きいと思われる。

ここにご紹介する1963年10月、東京・日比谷の日生劇場のこけら落としに初来日したベルリン・ドイツ・オペラの《フィデリオ》がそうであろう。

ベルリン・ドイツ・オペラの4つの演目の中でも、最高の凝集度と説得力を発揮していたゼルナーの演出を伝えられないのは、音だけのCDゆえしかたない。

それでも、当時まだ69歳で、老け込む前のベームの指揮、ときの総監督ゼルナーの象徴主義的名演出による熱気をはらんだこの公演のライヴが、予想を上回るいい音でCDに収められているのは幸いだ。

指揮者として全盛期の絶頂にあった指揮の下で、名歌手たちがオケ・合唱と一丸となって盛り上げるアンサンブルの素晴らしさに圧倒される。

レオノーレとフロレスタンには当時30代で声の充実度が絶頂に達していたルートヴィヒとキング、また、ロッコとピツァロにはともにオペラ役者として円熟境に達したところだったグラインドルとナイトリンガーを起用した配役も理想に近い。

これらの名歌手を、絶頂期にあったベームが強い統率力と推進力に溢れた指揮で、力強くまとめ上げている。

ベートーヴェンが真に求めたであろうその本来の姿が堂々と浮かび上がってくる感動的な名演である。

ホールは残響が皆無なので、序曲はこちこちに固まった色気のない音で、全盛期のベームの凝縮し切った迫力が強調されて表われる。

幕が上がってからも演奏の緊張力は半端ではない。

速いテンポの「囚人の合唱」など、ときに乱暴、ときに下手くそに思われるほど表情が強調されており、迫真のドラマとはこのことだ。

第14番の四重唱ではオケが怒り、凄いスピードで猛烈にたたみこむ。

「レオノーレ序曲第3番」もなりふり構わぬ怒濤の迫力で、テンポの動きが激しい。

ベームはこの序曲を第2幕のフィナーレの直前に演奏しているが、最初の和音が鳴ったとき、本当に鳥肌が立った。

前述の歌手はレオノーレ役のルートヴィヒ、フロレスタン役のキング、いずれも感情移入がすごく、スタイルの古さを感じさせるが、ドラマが比類なく生きていることは確かであり、とくにピサロ役のナイトリンガーの邪悪さは格別だ。

指揮も申し分なく、歌の出来もこれだけムラのない全曲盤は他にあるまい。

人間にとっての自由の尊さを訴えたこの祭儀的な音楽劇のCDのまず筆頭にこれを挙げたい。

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classicalmusic at 20:43コメント(0)ベートーヴェンベーム 

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本ベーム盤は1963年に初来日したベルリン・ドイツ・オペラの日生劇場で上演されたもののライヴで、68年盤とは違う。

舞台の雑音が入るとはいえ、音質は鮮明、なによりも純音楽的なスタジオ録音に対し、きわめてドラマティックな超名演なのだ。

《フィガロの結婚》の数多い名演盤の中で、クレンペラー盤と同じく指揮者(オーケストラ)を中心に聴くことができるただ2つのディスクである。

当時69歳のベームもテンポが速く、モーツァルトの生き生きした世界を見事に再現、全体に燃焼度の高い、一期一会の公演の貴重な記録となっている。

序曲から腰の強いカロリー満点のフォルテに驚かされ、そのきれいごとでないひびきやたたきつけるようなアタックに嬉しくなる。

迫力も最高、前進性も最高である。

幕が上がってもオーケストラの厚みと緊張感は変わらない。

典雅さ、優雅さ、デリカシーなどはクレンペラー盤にやや譲るが、それは劣るというよりもベームの音楽の特徴であり、むしろそのことが愉しい。

しかも第2幕の伯爵夫人のアリアなどに見せる優しい共感や心の震えはさすがベームといえよう。

同じくケルビーノが部屋の窓からとび下りるときのスザンナとの二重唱の絶妙な最弱音もこれがベストだと思う。

しかし彼の真骨頂は人間味たっぷりで雄弁をきわめたドラマの進行であろう。

どの一部をとっても今まさにそこで劇が行なわれている、その醍醐味がこのライヴにはある。

第2幕フィナーレのアッチェレランドがかかった終結の高揚感など、ベームならではだ。

歌手ではデビュー当時のマティスが聴きものである。

まだ25歳の彼女の初々しいケルビーノは場内の全聴衆をとりこにしたそうだが、第1幕のアリアはクライバー盤のダンコと並んでベストといえよう。

他の歌手もみな芸達者だが、グリュンマーの伯爵夫人は声も表現も重すぎ、ベリーのフィガロはいかにも庶民的で、気品や立派さに欠ける。

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classicalmusic at 13:37コメント(0)モーツァルトベーム 

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トスカニーニが創設2年目のNBC響と1939年に行ったベートーヴェン・チクルスをまとめてCD化したもの。

NBC交響楽団はニューヨーク・フィルを退いたトスカニーニのために結成されたオーケストラで、NBC放送が当時の最高レヴェルのプレイヤーを集めて、トスカニーニの指揮芸術をラジオ放送を通じて世に広めようとしたものである。

トスカニーニは1950年代に同じNBC響を振って、ベートーヴェンの交響曲全曲を再録音しているので、その方が代表盤になってしまったが、演奏自体は問題にならぬくらい1939年盤の方が良い。

オーケストラは創立されたばかり、トスカニーニも70代に入ったばかり、その極度に結晶化された響きと気迫は「凄まじい」の一語に尽き、フルトヴェングラー盤に唯一匹敵し得るCDといえよう。

極めて力強い音楽がひしひしと伝わってくる。

徹頭徹尾トスカニーニの強靭な意志に貫かれ、すべての音に渾身の力が注がれた、激しく熱い音楽である。

ダイナミクスの幅は大きく、フォルテやアクセントが強調され、急速な楽章のクライマックスなどはまさに息をのむほどの迫力だ。

ここにはヨーロッパの伝統、ドイツ風の含みや暗さなど皆無で、すべてむき出しの音だけで勝負している。

金管とティンパニは最強奏されるが少しも粗さを見せず、時にはかなり大きなテンポの動きもあって、決して機械的な演奏ではない。

このベートーヴェン交響曲全集は後年のそれと比べて、トスカニーニのアクレッシヴで毅然としたベートーヴェンをたっぷりと聴き取ることができる。

かつてトスカニーニの指揮は、アメリカを中心に現代の演奏様式に非常な影響を及ぼしたが、ベートーヴェンの交響曲全集は、彼の芸術を代表する名演揃いである。

しかしトスカニーニの演奏は、現代の音楽学的な研究の観点から眺めると、もはや過ぎ去った時代の表現という感がないわけではない。

かつて楽譜に忠実といわれた解釈も、現在の眼で見るとそうではなく、かなりロマン的で主観的な表情や解釈をまじえている。

しかし彼の場合は、音楽が凄いほどの生命力をもっていることを、いまも高く評価せねばなるまい。

現在、トスカニーニの演奏は楽譜に忠実という意味ではなく、視点を変えて受容されることが必要な時代といえる。

これらの演奏にみなぎる極度の緊張力とカンタービレの魅力、ドイツの伝統にしばられない率直な表情などが、改めて評価されてよいのである。

ここには明快な歌と灼熱の生命力をもった音楽があるが、現在の演奏では、ベートーヴェンに必要な意志的な力が、トスカニーニほど端的に示されることが、なくなってしまった。

したがってトスカニーニの演奏は、現在では新しい意味を感じさせる。

特に奇数番の曲にトスカニーニの真骨頂があると言えるだろう。

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classicalmusic at 10:05コメント(0)ベートーヴェントスカニーニ 

2022年03月20日


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ロマン・ロランは実に数多くの作品を書いたが、世界に広く読まれているものは、なんといっても『ジャン・クリストフ』であろう。

ロマン・ロランは当作品でノーベル文学賞を受賞したが、まさに彼の代表作であり、世界文学史上の不滅の傑作である。

この作品は、どんな逆境にあってもひるまずに、人間完成を目指して苦闘する一つの魂の生成史である。

主人公ジャン・クリストフの幼少時代は、ロマン・ロランが終生私淑してやまなかったベートーヴェンがモデルになっていることは周知の通りであるが、彼自身の現実の思い出も少なからず取り入れられている。

また、成人後のジャン・クリストフにも、作者自身の生活体験が豊富に取り入れられている。

しかしジャン・クリストフは、あくまでも、作者が理想の人間像として描き出した人物である。

もちろん、ジャン・クリストフの人生観、社会観、また芸術観などは、作者のそれであることに間違いはないが、ジャン・クリストフの個性なり気質なりは、作者のそれとはかなりかけ離れたものと考えなければなるまい。

むしろ、オリヴィエ・ジャナンの中にこそ、作者の面影が多く射し言っているといっても差し支えないであろう。

ロマン・ロランは、ベートーヴェンこそは一生を通じて彼の魂の師であった。

彼がいく度か生の虚無感におそわれた危機に、彼の心の内部に無限の生の火をともしてくれたものは、実にベートーヴェンの音楽であった。

ロマン・ロランのベートーヴェンに対する尊敬と傾倒とは、また、中年及び晩年において、大規模なベートーヴェン研究となって結実している。

これは音楽研究家としてのロマン・ロランの、専門的な学究的著作ではあるが、ここに分析されたベートーヴェンの自然観、宗教観、女性観は、ロマン・ロラン自身のそれらと非常に似かよったところがある。

われわれはここに、相寄る魂の実に美しい一つの実例を見ることができる。

ロマン・ロランは、19世紀の末から20世紀の前半を誠実に生き抜いた一人の偉大なヒューマニストの、信仰の告白であり、人間信頼の賛歌であり、時代の生きた良心的な証言である。

晩年ロマン・ロランは「私はずいぶん読まれているが理解されていない」と嘆いているが、果たしてそうであろうか?

多くの人々は、彼の幾多の作品を通して、彼の魂の奥深い深淵をのぞきこんで、そこから彼の魂の秘密をくみとろうと努力している。

特に『ジャン・クリストフ』を読むことは、われわれにそうした努力を強いるのである。

そうしたところに、彼の作品のはかり知れぬ魅力と偉大さがあるといえるであろう。

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classicalmusic at 23:21コメント(0)ベートーヴェン書物 

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黒澤明監督の映画は、一部の例外を除いて「侍の映画」と言えるのではないか。

「侍」が直接的な表題となった映画は、黒澤映画の最高傑作との呼び声の高い『七人の侍』のみである。

黒澤映画における「侍」とは、我欲には見向きもせず、一定の信念の下に生き、その信念を曲げなければならない時には死をも厭わない者を指すことが多い。

『七人の侍』に登場する「侍」も、もちろん食事にありつけたと言う面もあるが、自分とは全く関わりのない村人たちを守るために命を懸けるという者である。

『七人の侍』が、30本存在している黒澤映画の中でも世界的に最も賞賛されている映画である。

それが故に、「侍」のイメージについては、死をものともせずに信念のために生きる者を指すということが今や国際的にも定着していると言える。

そして、黒澤映画の「侍」は、いわゆる時代劇に登場する武士の範疇にはとどまらない。

時には、現代劇における一般市民すら「侍」となり得る。

その最たる例が 『生きる』の主人公である市役所の市民課長、渡邊勘治である。

長男を男手一つで育てあげ、退職間近まで無遅刻無欠勤で市役所の職員を務めていたある日、胃癌を患っていることを知る。

絶望感に苛まれた渡邊市民課長は、死までの短い間に何をすべきか思い悩む。

その過程の中で、健康な時には、市民課長として歯牙にもかけなかった公園の整備に余命を捧げることを決意。

様々な障害を乗り越えて公園を完成した後、雪の降りしきる中、新公園のブランコで「ゴンドラの唄」を口ずさみながら従容と死んでいく。

この渡邊市民課長こそ、「侍」と言わずして何であろうか。

『生きる』には、かかるゴンドラのシーンの他にも、胃癌を患っていることがわかり、病院を後にした時の一時的な無音化(渡邊市民課長の絶望感を絶妙に表現)、誕生日のパーティをバックに渡邊市民課長が公園の整備に命を捧げることを決意するシーンなど、映画史上にも残る名シーンが満載である。

かかる決意の後は、渡邊市民課長の通夜の場面に移り、そこから過去の回想シーンを巧みに織り交ぜながらストーリーが展開していくという脚本の巧みさは殆ど神業の領域。

諸説はあると思うが、筆者は、『生きる』こそは、いわゆる「侍の映画」たる黒澤映画の真骨頂であり、最高傑作と高く評価したいと考えている。

少年オプーの成長を描いた大河ドラマ、『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』の3部作で世界的にも著名なインドの映画監督の巨匠、サタジット・レイが、最も好きな黒澤映画として『生きる』を掲げたのも十分に頷ける話だ。

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classicalmusic at 19:04コメント(0)映画 

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モスクワ出身の名指揮者キリル・コンドラシンの生誕100周年に当たる2014年にプラガから発売されたディスク。

コンドラシンは1978年のコンセルトヘボウ客演の際にオランダに政治亡命して西側での音楽活動を本格的に始めた矢先の1981年3月8日に突然他界した。

その死には当局がらみの暗殺説も浮上している。

コンドラシンは既に1958年のチャイコフスキー・コンクールで優勝したヴァン・クライバーンの凱旋公演にも随伴していて、冷戦時代の旧ソヴィエトの指揮者の中ではいち早く西側での演奏を実現した人だ。

本盤に収められた音源はいずれも今回が初めてのリリースではないが録音も保存状態も極めて良好で、リマスタリングによって奥行きと立体感の感じられる音響が蘇っている。

『バビ・ヤール』はモノラル・ライヴ、カンタータ『10月』の方はステレオ・セッション録音になる。

交響曲第13番『バビ・ヤール』はユダヤ人虐殺が行われたウクライナの地名をタイトルに持ち、ロシアに受けつがれる反ユダヤ主義を非難する内容となっている。

旧ソ連ではタブーのテーマだったゆえ反体制的とみなされ、1962年12月の初演の際にも演奏者に当局から圧力がかかったとされている。

この録音は世界初演の2日後の再演時のライヴであるが、出演者もほぼ同じで、ショスタコーヴィチも臨席、緊張が生々しく伝わってくる。

当初はショスタコーヴィチの多くの作品の初演を手がけていたムラヴィンスキーが指揮する予定だったらしいが、ソヴィエトのユダヤ人差別政策を仄めかす詩の内容が検閲に引っかかり、ムラヴィンスキー降板の後もこのコンサート以降の音楽活動への影響を恐れて土壇場まで歌手の入れ替わりが続いたようだ。

当時のコンドラシンは当局からの執拗な妨害にあって苦境に立たされていた筈だが、逆に言えばそうした状況にあってこの凄まじいまでの集中力に支えられた初演が可能だったのかも知れない。

コンドラシンは作曲家の抉り出した心理描写と映像のように浮かび上がる情景を音像として驚くほど冷静に、しかしまた劇的に表現し切っているし、モスクワ・フィルも流石に巧い。

バス・ソロを歌うグロマツキーは朴訥として器用な歌手ではないが、詩の表す陰鬱で悲愴な情感は良く出していて、この危険な役回りを引き受けたことを潔しとしたい。

ショスタコーヴィチ本人を始めとする初演遂行側の表現の自由に賭けた熱意と圧迫を受けていた人道的思想の発露が漕ぎ着けた初演は大成功を収めたと伝えられているが、結果的に考えるならば後の政治亡命も起こるべくして起こったと言わざるを得ない。

コンドラシンはこの作品初演成功後、交響曲第4番やオラトリオ『ステンカ・ラージンの処刑』の初演も飾っている。

一方プロコフィエフのカンタータ『10月』は、帝政ロシア崩壊に至る一連の事件から10月革命20周年を記念した曲で、ここでもコンドラシンは冷徹に音楽的バランスを熟慮してそれぞれの部分の強烈な個性を的確に捉えているが、何故かここでは第1、2、4、7、9部のみの尻切れトンボで収録されているのが残念だ。

一般に風変わりなオーケストレーションと合唱、モノローグによるグロテスクな奇曲という評価だが、プロコフィエフの作曲技法はかえって洗練された鋭利さを感じさせる作品だと思う。

プラガのデータについては鵜呑みにできない怪しげなところが無きにしも非ずだが、交響曲第13番については1962年12月18日に初演が行われ、この音源は同年12月20日の同一メンバーによる再演ライヴから収録されたものらしい。

プロコフィエフの方は1966年5月5日のセッションと記載されている。

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classicalmusic at 10:52コメント(0)コンドラシンショスタコーヴィチ 

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トスカニーニのスタジオ録音による唯一のドイツ・オペラである。

厳しく切り詰められた造形のなかに、トスカニーニ独特の豊かなカンタービレがあふれ、強烈な説得力を持っている。

その雄渾な気迫に満ちた音楽作りは、ベートーヴェンがこのオペラに込めた精神を見事に描き出して、余すところがない。

録音の古さ、歌手に水準の低さ、管弦楽に粗さは残るあるものの、トスカニーニ芸術の厳然たる美しさは時代を超えて生き続けている。

いろんな《フィデリオ》の演奏にふれたあと、トスカニーニの録音を聴くと、一瞬「ああ、これは志を持った音楽だ」という思いに胸が熱くなる。

トスカニーニの思想は死後一人歩きを始める。

「楽譜に忠実な演奏」は、いつの間にやら「音符を正確に弾くだけの演奏」に堕してしまった。

創造者には、旧勢力との間の生死を賭けた闘いが待っていたが、後を継ぐ者にはそれがなかった。

「ベートーヴェンは史上初めて、音楽に理想と力を持ち込んだ音楽家です」と語った碩学がいらっしゃった(丸山眞男氏)が、それ以来、筆者のベートーヴェンの聴き方が変わった。

天の啓示を受けた思いであったが、トスカニーニのベートーヴェンは筆者にあの時の衝撃を思い出させる。

対立した巨匠フルトヴェングラーは一人の後継者も産むことが出来なかったが、トスカニーニは指揮法と芸術思想の後継者としてカラヤンを持つことができ、演奏スタイルは時代の規範となった。

20世紀楽壇の帝王カラヤンは、トスカニーニに私淑していると公言して憚らなかった。

実際、カラヤンの音楽はトスカニーニ同様、フルトヴェングラーの重厚さ、神秘性、哲学的かつ文学的なねっちりした表現とは無縁だった。

巨匠二人の優劣の問題ではなく、一方は伝統の完成者であり、もう一方は伝統の創始者であった。

トスカニーニが、スコアから一切の文学性を追放したのはファッションのためではない。

作曲者と作品への熱烈な崇拝が、演奏家の愚かなる解釈を拒んだ。

つまり、「自分は偉大な作曲家の僕(しもべ)である」という最大級の謙虚さを、トスカニーニは持ち合わせていた。

オペラ・ハウスにオーケストラ・ピットを設け、客席の照明を落とす習慣を定着させたのもトスカニーニの功績のひとつだ。

これとて、劇場と聴衆の怠慢を許さない、という強い使命感の表れであったに違いない。

トスカニーニの正義は、大は「ナチスやムッソリーニ政権への痛烈な反逆」から、小は「離婚歴のある人物とは口もきかない(浮気は構わない)」まで、政治、プライヴェートの別なく、止まることを知らなかった。

そんなトスカニーニの演奏を、「冷たい」「厳しい」と敬遠するのは簡単だ。

しかし、甘く心地よいばかりが「愛」ではないことを、私たちは知るべきではないのか。

耳当たりのよい音楽は、耳の感度を下げ、魂を怠惰にする。

時代の激動に身を置かざるを得ない今こそ、トスカニーニの《フィデリオ》を聴いて、辛口の「愛」をすすんで享受し、燃えたぎる業火の情熱に、身も心も焼き尽くせと志願するときなのだ。

異論は百も承知の上で「21世紀もこの人を忘れてはならない」と声を大にして言いたい。

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classicalmusic at 05:28コメント(0)ベートーヴェントスカニーニ 

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クナッパーツブッシュのブルックナーとワーグナーは、まさに巨匠の真骨頂で、重厚で巨大な音楽づくりは誰にも真似のできない大芸術だ。

クナッパーツブッシュは残念ながら、ブルックナーの「第9」をスタジオ録音せずに鬼籍に入ってしまった。

それでもやはりブルックナー作品の奥の院である「第9」だけは、一度はクナッパーツブッシュで聴くべきだと信ずるひとりであり、今回、[CD3]のベルリン・フィルを指揮した1950年1月30日のライヴ録音によるターラ盤を聴くに及んで、それは筆者にとって、まさしく確信に近いものとなった。

実際、ブルックナーについて、何かを考え、また、何かを語ろうとする場合、この1950年1月30日のベルリン・フィルを振ったクナッパーツブッシュのブルックナー「第9」を聴いて、その演奏の凄さに波長が合わない人がいるとしたら、それはもう(ブルックナー・ファンとしての話だが)ダメなんじゃないか、とさえ思いたい位の演奏の巨大さである。

クナッパーツブッシュの指揮するブルックナーには、一見無造作で八方破れのような、開き直った演奏と思わせながら、改訂版の譜面の長所を完璧にわがものとした演奏は、細部まで鋭い目配りが届いていることを常に示している。

練習嫌いで、ぶっつけ本番に近いやり方によるオーケストラ全員の緊張感を演奏の上に反映させることを得意としたクナッパーツブッシュの指揮術は、ブルックナーの交響曲の壮大な造型に実に良くマッチしていた。

そして、ブルックナーの交響曲の演奏が進むにしたがって、クナッパーツブッシュという指揮者の心の内なる音楽感興が、曲想の振幅と共に高潮し、たちまち壮麗をきわめたビジョンの展開となって聴き手の魂を奮い立たせる時、それは圧倒的な姿となって現実化する。

クナッパーツブッシュのブルックナーやワーグナーに傾倒させられ、畏怖を感じるのは、まさにその時である。

この1950年1月30日のブルックナー「第9」がそれであり、クナッパーツブッシュの指揮のもと、ベルリン・フィルの精鋭たちも、このときこそとばかりに全員が奮い立ってブルックナーを奏でているのが聴きとれる。

繰り返すようだが、ハンス・クナッパーツブッシュとは、なんという巨大な指揮者だったのだろう、と思わずにはいられない。

そして、ブルックナーの「第9」だったら、一度は、この演奏を聴いてみなければなるまいと思うのである。

ブルックナーの交響曲とクナッパーツブッシュという指揮者の本質を知るために、である。

[CD6]は75歳のクナッパーツブッシュが北ドイツ放送響に客演した際のオール・ワーグナー・コンサートの貴重な記録である。

プログラムは《マイスタージンガー》第1幕と第3幕への前奏曲、ジークフリート牧歌、《トリスタンとイゾルデ》前奏曲と愛の死であった。

クナのワーグナー録音は、プライヴェート盤も含めて数々あるが、1963年3月24日の演奏はどれもじつにすばらしく、とくにこの《自己犠牲》は、クナの最高傑作のひとつと言い切れるほどの超名演である。

遅いテンポと暗い音色で曲が始まると、誰もがそのただならぬ雰囲気に圧倒されるに違いない。

若き日のルートヴィヒはソプラノの声域まで楽々とこなし、そのドラマティックで美しい声での渾身の感情移入はじつにみごとだが、オケも個々の楽器の存在を感じさせず、ひとつの有機体となってブリュンヒルデと絶妙にからむ。

ブリュンヒルデが薪の山に火をかけるところから、いよいよ猛火の中へ躍りこむまでの緊張感の高まりには凄まじいものがあるが、その後のオケのみの部分は、もはや神業である。

業火が燃え盛り、ライン河が氾濫するそのカタルシスの頂点は、とてもオーケストラの出す音とは思えない。

そして愛の救済の動機がなんと高貴にヴァイオリンで歌われ、さらに神々の城が崩壊していく場面で、ワルハラの動機がなんと雄大に奏されることだろう。

終わりに、ジークフリートの動機が最後の力を振り絞るように奏され、一瞬の間の後にふたたび万感のこもった愛の救済の動機で全曲が閉じられるとき、筆者はいつも目頭が熱くなってしまうのである。

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classicalmusic at 01:32コメント(0)ブルックナークナッパーツブッシュ 

2022年03月19日


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ブルックナーの交響曲は版の問題も重要だが、それも指揮者の解釈の結果と考えれば、演奏に備わった説得力のほうがより大きな問題となる。

流動的フォルムの時代錯誤バレンボイム、ブロック的フォルムの朝比奈を両端として、ヴァントやここに採り上げるチェリビダッケの名演には使用楽譜の枠組みを超えた工夫があり、その他、シャルク版使用のクナッパーツブッシュの昔からギーレンの現在まで、指揮者の多様な作品観が構造表出にストレートに反映するさまが実に面白い。

使用楽譜や規模の問題を抱えながらも、その難度の高さが演奏家の意識を鼓舞するのか、これまでに数多くの名盤がつくられた幸運な作品、ブルックナーの交響曲第8番。

CDの発売点数もすでに60種を超え、各演奏の傾向、スタイルには相当な違いが認められる。

合計演奏時間60分を切るクーセヴィツキー盤(カット版)から、ほぼ100分かかるチェリビダッケ盤まで、視野狭搾的な偏狭鑑賞に陥らない限り、さまざまな解釈・主張がたっぷり楽しめる好条件が整ったソフト環境だ。

筆頭に採り上げるべきは、チェリビダッケがミュンヘン・フィルを指揮したもの。

DVDを含めればほかに少なくとも5種の異演盤があるが、内容は1994年盤が最高だ。

解釈に変化があるわけではないが、シュトゥットガルト放送響時代の動的な音楽が激しい身振りによってひきだされたものならば、ミュンヘン・フィルとの静的な音楽は着座しての冷静な指揮から生み出されたものだろう。

実際第3楽章アダージョにおける、地に足のついた見通しのよいフォルムのなかで、極度に純化された美音により各素材がそれぞれの役割を果たしてゆく光景は、形容の言葉もないほど美しい。

「美は餌にすぎない」とはチェリビダッケ自身の言葉だが、終楽章再現部第3主題部から結尾までの表現は、まさにそうした思惟の具現とも呼ぶべきものである。

遅いテンポと張りつめた緊迫感、拡大されたデュナーミクがもたらす異様なクライマックスには、戦慄を覚えるほどの「畏怖」の気配が確かにある。

もちろん、それはブルックナーの音楽に本来存在するものなのだろうが、チェリビダッケ以外の演奏からは、ついぞ聴いたことのない響きの表情・気配であることもまた事実(クレンペラーに至っては、再現部第3主題部をカットしてしまっている)。

改めて「観照と形象」ということについて、考えさせられる偉大な演奏だ。

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classicalmusic at 19:16コメント(4)チェリビダッケブルックナー 

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1991年6月22日、ナチスのソ連進攻50周年記念日にライプツィヒで開かれた反戦記念演奏会でのライヴ録音。

オーケストラはユンゲ・ドイチェ・フィルハーモニー及びモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団員という独露の合同メンバーで結成されている。

ドイツの若者とモスクワのヴェテラン奏者が、互いのこだわりを捨てて共演したこの演奏には、深い感動が込められている。

決して声高になることなく、静かに悲劇性を描くのはこの作品の本質と触れ合っているためだろう、この長大な作品を短く感じさせる。

第1楽章の「戦争の主題」ひとつとっても、威圧的だけでないアイロニーが込められているし、同じ主題のしつこい反復を短く感じさせるほど音楽的だ。

第2楽章も清澄・純粋な美感にあふれている。

しかし圧巻は第3楽章で、作曲者の室内楽的な本質を知りつくした詩的とさえいえる表現で、作品の悲劇的な性格を抉る。

終楽章のクライマックスも感動的で、特殊な状況も含め感動を誘う名演である。

この演奏会を実現させた、ルドルフ・バルシャイはショスタコーヴィチに作曲を師事し、交響曲第14番『死者の歌』の初演をした、旧ソ連ラビンスク出身のヴィオラの名手にして名指揮者である。

演奏スタイルは、バーンスタインのような華やかさ・流麗さではなく、むしろ重厚さ・深さに比重を置いたものとなっている。

ある意味、奇を衒わない、基本に忠実なショスタコーヴィチと言えるだろう。

ショスタコーヴィチの語法を知り尽くしたバルシャイならではの意味深いアプローチは聴き応え十分だ。

バルシャイのアプローチも機知に富み、機敏さを決して失わないところなどは作品にまさにぴったり。

天才ショスタコーヴィチの交響曲を深く知ってみたいと思うのであれば、この作曲家にとことんこだわったバルシャイの情熱的な演奏を理解できるようにしておきたい。

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classicalmusic at 10:57コメント(0)ショスタコーヴィチ 

2022年03月18日


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数あるホロヴィッツのチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番の録音の中でも、断トツにスリリングな演奏で、ホロヴィッツの豪快な打鍵と冴え渡るテクニックには、ただただ唖然として聴き入るのみだ。

確かに音質はあまり良くないが、演奏内容がとにかく素晴らしく、聴いていると感動が音質を超越してくるので、音の悪さは気にならなくなってしまい、心底満足感が得られた。

ホロヴィッツのチャイコフスキーは一般にはトスカニーニとの演奏が評価が高いが、筆者にとっては、あの2人の組み合わせは、マジソン・スクウエアー・ガーデンでプロレスの試合でも見ているような趣がして(ファンの方々には申し訳ないが)音楽としての潤いに欠けるように感じられる。

それに対してこのワルターとの演奏は、同じ超絶技巧を誇示しながらの演奏だが、大きくうねる音楽、全曲を通じてのロシアの憂愁がある。

この演奏を生で聴けたら、一体どんな感動を覚えるのであろう…、同曲の演奏でホロヴィッツを超えるピアニストはいないのだから。

驚嘆したのは、ワルターの荒れ狂った、熱い指揮で、トスカニーニにも迫る大迫力である。

当時全盛期だったワルターは、 晩年の穏やかな芸風とは全く異なる指揮で、ホロヴィッツを強力にサポートしている。

録音がどうのこうのというのはこの演奏の前にどうでもよいことだと思うが、トスカニーニ盤よりピアノの音色がはっきり聴こえる。

筆者としてはホロヴィッツの同曲異演盤では、この演奏を第一にお奨めしたい。

ホロヴィッツ&ワルターのブラームス:ピアノ協奏曲第1番も驚くべき名演奏である。

1936年、アムステルダムに於ける実況録音で、若き31歳のホロヴィッツと、59歳のワルターががっぷり四つに組み、火花を散らして闘っているのだ。

それにしてもワルターの気迫は物凄く、凄まじい緊迫感にあふれたリズム、アクセント、速いテンポによる推進力、ティンパニの最強打、特に第1楽章のコーダは阿修羅のようだ。

しかもむきになって造型を崩すことがなく、アンサンブルもぴったりと決まっている。

ワルターはレコード録音と実演との差があまりなかった指揮者らしいが、このブラームスは特別な例なのだろうか。

新鋭の天才ピアニスト、ホロヴィッツとの協演、メンゲルベルクが君臨するアムステルダム・コンセルトヘボウへの客演など、種々の要素が絡み合って、このように火と燃えた演奏が可能になったのであろう。

このブラームスはあたかも鬼神が乗り移ったかのように、エネルギーを完全に音化し切っているのだ。

終楽章の歯切れの良いリズムや、興奮の極と言いたい加速の効果も見事だが、そうした迫力と共に、憧れにせつなく燃えつきる歌や、フルトヴェングラーを思わせるような聴こえないくらいのピアニッシモや、あえかな木管のデリカシーにおいても、ワルターは別人のように思い切った表情を見せるのである。

彼は客演のとき、そのオーケストラの特質を充分に生かす指揮者であった。

全曲にわたって、あのメンゲルベルク節とも言える、濃厚で脂切ったポルタメントやヴィブラートが頻出するのはその表れだが、もちろんワルターには様式ぶった人工的なテンポの動きは見られない。

ホロヴィッツの演奏もまさに言語を絶するすばらしさで、何よりも人間業を超えたテクニックの冴えに舌を巻くし、魔術的とさえ言えよう。

しかも技術に溺れず、音楽を最大限に生かし抜くのだ。

感じ切ったピアニッシモから超人的なフォルティッシモまで、表現の幅は著しく広く、自然なルバートが多用されて音楽を息づかせ、表情の強い歌や情感も決してワルターに負けてはいない。

そしてカデンツァでは猛然たるアクセントと共に、奔放な即興性さえ見せるのである。

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classicalmusic at 19:57コメント(0)ホロヴィッツワルター 

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ジョヴァンニ・アントニーニとイル・ジャルディーノ・アルモニコによるハイドンの交響曲全集には、このディスクにも示されているように古典的な交響曲の形成に至る時代の作品も多くカップリングされている。

バッハの息子たちの短い期間はいわゆる疾風怒濤の時代で、ここに収録されたフリーデマン・バッハのシンフォニア『不協和音』も良いサンプルだろう。

疾風怒涛の音楽の特徴は目まぐるしい転調、思いがけない展開や不協和音などがあげられるが、この『不協和音』の編成は弦楽器と通奏低音のみであることも、まだ交響曲の黎明期だったと理解できる。

バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハにもそうした傾向がみられるが、末っ子ヨハン・クリスティアンの作品には既にこうした不安定な曲想は消え去って、モーツァルトの出現を予感させるシンプルな安定感が感じられる。

1曲目の交響曲第46番ロ長調の終楽章は弦楽四重奏を髣髴とさせる軽快なパッセージが印象的で、ハイドンはそのジャンルでも重要な仕事を完成させている。

彼の交響曲と弦楽四重奏曲とは相関関係にあると言えるだろう。

また第22番変ホ長調『哲学者』にはイングリッシュホルンが使われている。

こうした試みにもハイドンの試行錯誤と音響的な実験があるようだ。

全曲に亘って激しいアクセントがつけられ、これまでになく鋭い強弱がつけられている。

テンポも速く強い推進力で音楽が生き生きと躍動しているのが感じられる。

明るく晴れやかな第1楽章は当然だが、各曲の第2楽章でも響きが研ぎ澄まされ、線的なメロディが強調されている。

空間の中にポツンと音が存在しているイメージで、密やかな孤独感があった。

そうしたやり方なので第2楽章や第3楽章では深刻な印象が強い。

第4楽章では密やかながら緊張感の高い弱音で始まり、存在感抜群だ。

強いコントラストとメリハリの効いた演奏はすべてがハッキリして気持ちいい。

繰り返しを忠実に実行していて、随所にいろんな仕掛けが見つけられて、アントニーニの遊び心も感じられる演奏である。

1曲だけ入っているフリーデマン・バッハの演奏だけ趣が違っている。

悲劇性が高く深刻な雰囲気が迫ってくる音楽は、陽気なハイドンからは感じられない印象だ。

どちらかと言えばモーツァルトに繋がっていく気がするが、この悲劇性が突き詰められて盛り上がっていくところまでは到達しておらず、それは時代がもっと進まないと得られない感覚なのだろう。

各楽章とも深刻なフレーズと穏やかなフレーズが交互に現れ、感情がの移ろいが感じられる。

終楽章がメヌエットになっていて、穏やかな雰囲気の中で終わる。

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classicalmusic at 14:17コメント(0)ハイドンバッハ 

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この歴史的著作はアッシジのフランシスとローマ法王イノセント3世の会見で始められ、最終章で再びこの2人の出会いの場面に戻って閉じられている。

それだけにこの機会が著者堀米氏の研究テーマであったカトリック教会の正統と異端のせめぎあいを象徴する事件として描き出されている。

ここで言う正統と異端には私達の通常のイメージを一新するほどかなり異なった実情があったことが明らかにされている。

著者は正統とは宗教的客観主義であり、異端は主観主義であると定義している。

平たく言えばカトリック教会では聖書に権威による解釈というクッションを置いて布教に努めるが、異端はより近視眼的に聖書に書かれた通りの生活を人々に強要し、それ以外の行為を認めない。

しかし実際には世捨て人にでもならない限りその実行は不可能で、教会側としてはいくら聖書に忠実であっても教会の権威や社会構造を根本的に揺るがしかねない主観主義は退けた。

しかしながら時の権力者と常にギブアンドテイクの関係で繁栄を享受してきた教会内部には腐敗が蔓延っていたことも厳然とした事実だったために、グレゴリウス改革を頂点とした異端追放と同時に彼らとの折り合いを見出さなければならず、その一大軌道修正であり、歴史的決断が法王イノセントと異端である筈のフランシスへの布教の承認だったと言えるだろう。

カトリック教会が常に世俗の権力と離れ難く結び付いていたことは王権神授を実行してみせたカール大帝以来紛れもない事実だが、それにはまた権力側からの教会への土地の寄進や財産の喜捨も大きく影響している。

これについて阿部謹也氏が何冊かの中世シリーズで述べているのは、伝統的なゲルマンの主従関係を支えていた贈答関係を、教会は来世を保証する精神的な担保に巧妙にすり替えることに成功したとしているが、ここではまた修道院への土地の寄進は、国王や豪族達が最も効果的な一種の投資として行っていたことも理解できる。

何故なら農業生産向上を支えた技術の進歩は修道院からおこり、人が唯一学業に専念できる文化の中心でもあったからだ。

つまり世俗からの教会への寄進、喜捨はひとつの重要な政治的ストラテジーという解釈にも説得力がある。

こうした事実からも教会は世俗との縁を切ることは不可能だった。

一方この著作の佳境は第4章『グレゴリウス改革と秘蹟論争』の部分で、堀米氏はカノッサの屈辱の立役者グレゴリウス7世による、教会からの堕落した聖職者の徹底追放に至るまでに、こうした動向がカトリック教会内部で進み、それが着実に準備されていたことを詳細に説明している。

それは厳格な宗教観を持っていた神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ3世下のローマ法王レオ世に始まる。

しかしこの急進的改革は伝統的なアウグスティヌス、グレゴリウス一世の客観路線を踏み外すことになる。

第5章以降ではカタリ派やワルド派などの異端が生まれた必然性と、それらがこうした動向に連動した背景が解説されている。

1184年のヴェロナ公会議では教会の明示付託によらない一切の説教や秘蹟論への批判は異端と決定し、正式な異端審問が制度化された。

これによって惹き起こされた正統と異端の妥協の余地のない対立、教会分裂の危機をイノセント三世は驚異的な洞察力と、寛大と慎重さを持って彼らの一部を吸収することで巧みに回避することになる。

先ずフミリアーティに、そしてワルドには条件付和解という形で承認を与えるが、その最後の試みであり総仕上げがフランシスを取り込むことだったようだ。

それは決して映画で再現されたようなフランシスの福音書への忠誠や清貧への情熱だけから認可されたものではなく、イノセントによって綿密に青写真化されたポリシーに基くものとしている。

しかし堀米氏はイノセント自身、フランシスコ修道会がカトリック教会の屋台骨になるような大組織に成長するとは夢想だにしていなかっただろうと書いている。

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classicalmusic at 10:26コメント(0)書物 

2022年03月17日


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ハンス・ロスバウトは、現代音楽に造詣が深く、数多くの名演を遺しているが、それらの中でも、シェーンベルクの《モーゼとアロン》は、過去のあらゆる演奏の中でも最高の出来映えを示している。

ロスバウトの演奏は、スコアに記された音符の背後にあるものに徹底してメスを入れ、楽曲の心眼とも言うべき精神的な深みに鋭く切り込んでいくとともに、それらを現代人の持つ感覚を持って、一切の情感を排して冷徹に描き出すという途轍もない凄みを有している。

ひとたびこのディスクを再生するや、シェーンベルクの音楽の真剣で凄まじい気迫に圧倒され、溢れ出る豊かな音楽性と計算されつくした見事な構築美、それにこの上なく高潔な魂の存在に胸を打たれ、たちまちその虜になってしまうだろう。

《モーゼとアロン》はそのような途方もない作品であり、その偉大さを曇らせることなくわれわれに伝えてくれるのが、この演奏なのである。

ロスバウトは、いわば現代音楽のプロとも呼べるような存在であったが、この難しい音の構成物を正確に技術的に処理し、再現する能力の優秀さはもちろんのこと、シェーンベルクの音楽特有の精神の高さ、厳しさ、純正さを演奏の隅々まで浸透させていく音楽家としての資質には、頭の下がるものがある。

この作品は、モーゼは神の声にしたがい、エジプトに囚われているイスラエル人たちを連れ出し、約束の地へ向かわせるというのが話の大筋だが、エジプトを出た一行はシナイ山の麓に駐留し、モーゼはひとりで神の啓示を受けに山に登って行く。

しかし40日経っても戻ってくる気配がないので、不満を抱いた民衆が反乱を起こす。

この場面は、とりわけ作曲に力が込められていて凄い。

第2幕第3場面の「金の仔牛のロンド」は有名だが、第2場の3曲の合唱のほうが、もっと音楽的に上だ。

なかでも2番目の合唱「神々が彼を殺したのだ!」は、音を扱う作曲技術の信じられないほどの巧みさ、凄まじいばかりの表出力、そして研ぎ澄まされた音感覚と比類ない音楽性の高さ、白熱的に高揚した精神状態をロスバウトは余すところなく伝えている。

この後の3番目の合唱「歓声を上げよ、イスラエル!」も力が籠り、しかも少しも俗に堕することがない。

清く、強く、熱く、そして柔軟な変化を思うままに駆使して、灼熱的な盛り上がりを形成して行くさまには、もうただただ恐れ入ってしまうほかない。

ロスバウトは、決して表面の劇的効果を作ろうとせず、対位法の妙味である線と線とが織りなす緊張とその微妙な変化を表現の中心に据え、きわめて質の高い品位ある演奏を行っている。

歌手陣も、集中力の高い歌唱で、何より徹底的にトレーニングされたことがありありとわかる合唱団の迫力たるや、聴いていてゾクゾクする。

同曲の名盤の誉れ高いブーレーズの演奏と聴き比べてみたが、フランス系の音楽家の感覚の洗練という美点を武器に迫ってみても、この大音楽は如何ともしがたいのだ。

その精神の強さ、深さにおいて、どうしても演奏に物足りなさを感じさせてしまう。

この長所あるいは短所は、作曲家としてのブーレーズについても同様であり、見る角度によって魅力ともなり弱点ともなっているのだ。

新ウィーン楽派の音楽は、長らくブーレーズによる録音が高く評価されてきたが、こうしてロスバウトの録音を聴き比べてみると、ひょっとするとブーレーズの演奏は、少なくともシェーンベルクが求めていたものとは違う音で演奏されてきたのではないかと思い始めてくる。

むしろ、ドイツ圏ではロスバウトやケーゲルのような演奏が本流であって、ブーレーズは傍流なのではないかという疑問も持ち始めているところだ。

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classicalmusic at 21:07コメント(0)シェーンベルク 

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始めの部分では聖書の『たとえ』話法について詳述されているが、中でも『ぶどう園の悪しき農夫たち』の解説は秀逸だ。

また最後の晩餐に象徴されるユダヤ人の晩餐の意味合いと形態についての説明から、意外にも私達がイメージする夕食とはかなり異なっていたことが理解できる。

古い慣習では、彼らはあらゆる契約を結ぶ時に自分自身の体の一部を傷つけて血を滲ませることで、その契約履行をお互いに確認し合った。

契約の際に流される血が最後の晩餐でイエスが弟子達に注ぐ赤ワインであることも頷ける。

ちなみに本書では扱っていないが、ユダヤ教においての神との契約が割礼という形で信者に遵守されているのは象徴的だ。

また彼らにとって一緒に食事をすることが、契約成立に伴う締めくくりの儀式だとすれば、最後の晩餐は自ずと重要な意味を持ってくる筈だ。

136ページに示されているようにユダヤ教外典には殉教者が死後復活することや、『ソロモンの知恵』のようにプラトンに由来する魂の不死性について言及した部分もあるようだ。

こうした思想はキリスト教では後に失われる輪廻の考え方にも相通じるものがあって興味深い。

しかし一方でこれを否定したコヘレト書も紹介されている。

つまり創世記に綴られているように、神は地上の塵芥から人を創造されたので、総ては塵芥に帰するというサドカイ派に支持された思想だが、イエスは最後の審判という終末思想と、その後の義人の復活を唱えている。

そこには明らかに天上と冥府のふたつの世界が識別されている。

このラジオ講座は抹香臭くないのが特長で、福音書も冷静に読み解かれているので信者でなくても抵抗なくユダヤ教やキリスト教の哲学に触れることができる。

註は同ページの下欄に設けられているが、また要所要所に簡潔に整理された図表が理解を助けてくれる。

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classicalmusic at 15:27コメント(0)書物 

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NHKラジオ講座『宗教の時間』で2018年放送された旧約聖書の世界に引き続いて、2019年は新約が取り上げられた。

本書は同様に纏められた2巻のうち4月から9月分放送用のテキスト上巻になる。

口絵としてカラー写真及び簡単な図解、また本文の同ページ下欄に注釈が設けられているので、音声を通して聴く時の参考になるが、勿論テキストを読むだけでも講座の内容は充分理解できるだろう。

講師でもある著者の廣石氏は、自身プロテスタントの宗教者でありながら、教義化された現在のキリスト教やイエス像を信仰という名の下に鵜呑みにするのではない。

彼の出生から福音書の成り立ちを広範な歴史的資料に基いて検証し、その真実の姿を探り出すことを試みている。

だから彼の文章にはいわゆる宗教臭さは皆無で一般教養としてもかなり高度な内容を持っている。

それだけに聖書に書かれた創造主の技や奇跡を文字通り信じて疑わない熱心な信者にとってはむしろやっかいな、あるいは受け入れ難い考察もあるかも知れない。

先ずキリストの実在性についてだが、これはキリスト教側だけでなくローマ側の証言、つまり元老院議員であったタキトゥスの『年代記』にクリストゥスがティベリウス皇帝治世下にユダヤ長官ピラトゥスによって処刑されたという記述があることで、その蓋然性を主張している。

一方でイエスに関するキリスト教側の記録は処刑から少なくとも20年経過してから書かれたもので、最も古いマルコ福音書と語録資料Q文書からマタイ、ルカの両福音書が成立したとしている。

その中で洗礼者ヨハネによって洗礼を受けたイエスの姿も動かし難い事実として浮かび上がってくるが、後の布教者はヨハネをイエスの上に置かないための矯正作業も行っているのが興味深い。

イエス自身は何一つ書いたものを残さなかった。

福音は総て彼から口述され、それを聞いた人が解釈を施しながら4つの福音書として成り立つ。

それは丁度ソクラテスの言行をプラトンを始めとする弟子達が書き記したことに類似している。

そのあたりにも彼のカリスマ性が感じられるのも当然だろう。

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classicalmusic at 11:13コメント(0)書物 

2022年03月16日


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NHKラジオ講座で放送された『物語としての旧約聖書』シリーズの下巻になり、本書は2018年10月から2019年3月までのテキストでもある。

聖書に全く縁のない人でもラジオを聞きながら読み進めることによって、象徴的に書かれている事柄やその元になった歴史的な事件の意味合いを平易に理解できるだろう。

ただし旧約はヘブライ語で記された39書に及ぶ一種の歴史書で筆者も複数であるため、お互いの間での齟齬や異なった解釈も少なからずある。

そうした問題を簡潔に説明するのは決して容易なことではないが、著者の月本氏は要点を注意深く検証して、歴史的事実や発掘調査などによる最新のデータを精査しその精神性を引き出し、イスラエルの民族が悲願し継承してきたものの根底を探っている。

この下巻では奴隷に身を窶していたイスラエルの民がモーセに率いられて、約束の地カナンへ向かう『出エジプト』から始まる。

彼らの土地所有に関する興味深い指摘が本文中にある。

大地は神の所有物であって、人は寄留者という観念だ。

つまり生活の場である土地は神からの賜り物なので、人々の共有の財産として個人的に利用し尽くすことは許されない。

それは彼らが本来遊牧民だったことに由来しているようだ。

貸借関係が一切ご破算になり土地が開放される50年に一度のヨベルの年の制定も、それまでに得たもの総てを神に返すという象徴的な年だ。

ちなみにカトリック教会では期間を半減させた巡礼年ユビレウムをここから採り入れている。

イスラエルが王国になってからの神との契約について著者は、王を神から選ばれた存在として、その支配権を宗教的に正当化することは権力を手中に収めた者の常套手段であり、王権神授説だとしている。

確かに後の時代にフランク王国のシャルル大帝が神の代理人たるローマ法王から戴冠を受けたことが、神からの権威の承認としてその後長く続くことになるし、日本においては将軍が常に天皇を後ろ盾にしていた事実も同様の理由だろう。

後半のイスラエルの預言者についての、その特殊性の分析も非常に示唆的だ。

聖書は世界のベストセラーに君臨し続ける書物だが、それは読者がユダヤ教やキリスト教信者の数に比例していることは否定し難いとしても、現代の私達が窮地に立たされたり困難な状況に遭遇した時の、人としての生き方の選択肢や指針が示されているためだろう。

あるいは政治やビジネスのためのストラテジー的な利用方法もあるかも知れない。

何故なら旧約は美談をちりばめた自画自賛の書ではなく、数千年に亘ってイスラエルが失態を繰り返してきた赤裸々な告白録でもあるからだ。

著者も述べているように、バトシェバ事件に始まるダビデ王朝での出来事は、イスラエルの民族にとっては『不都合な真実』ばかりだが、サムエル記から列王記まではその『不都合な真実』を改竄することなく、むしろ詳らかに記している。

旧約聖書の創世記から9書が、彼らのバビロニア捕囚期に纏められた理由について、月本氏は民族存亡の危機にあった彼らの過去に対する徹底した反省によって自分達の未来を展望せざるを得なかったからだとしている。

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classicalmusic at 21:02コメント(0)書物 

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本書はラジオ放送用の講義を纏めたもので、2018年の4月から9月に放送された部分がテキストの上巻として出版された。

勿論クリスチャンに限定された読本ではなく、それ以外の宗教を信仰している人、あるいは全く信仰する宗教のない人にとっても興味深く読める一般教養書としての価値が高い。

39書のヘブライ語による旧約聖書にはそれが成り立つ以前の時代の人々の宗教観や彼らが暮らしていた地方の慣習などが色濃く反映されていて、それだけに字面だけで解釈することには無理があるし、今もって解き明かされていない謎めいたストーリーの展開も少なくない。

著者は古代の資料に基いた理路整然とした考察でむやみな帰結を避け、聖書が沈黙している部分にも多様な解釈の可能性を認めながら、数々の教義的逸話に説得力のある見解を示しているところが秀逸。

先ず神の手になる世界の創造が記された創世記にかなりの比重が置かれている。

そこでは創造主と人間、そして人間と自然の関係が問われていて、自然や他のあらゆる動物達を支配する側と逆に自然に従うべき存在としての相対する人間の立場が読み取れる。

この矛盾は神とは違う人という存在自体が抱えている宿命なのかも知れない。

名詞のエティモロジーを簡潔に示した説明も理解を深めてくれる。

例えば大地の塵から創られた最初の人間アダムはヘブライ語のアダマー(大地)に由来しているようだ。

エデンの園で禁断の果実を蛇にそそのかされて最初に食べるのは女性のエバだが、アダムが神から問いただされた時、彼がエバに責任転嫁するところも象徴的だ。

旧約に登場する人物にはこの2人を始めとしてカイン、ノア、アブラハム、ヤコブやダビデなど、誰一人としてキリストのような完璧な者はいない。

そればかりか彼らイスラエル人の先祖の不完全性を臆面もなく暴いている。

最初の夫婦となったアダムとエバの子、カインによる弟アベルの殺害は2人が神に捧げた供物、つまりカインの農作物ではなくアベルの子羊を神が好んだことによる嫉妬から起きた事件だが、聖書には神が子羊を選んだ理由が書かれていない。

著者はこれを定住民族と遊牧民の比較で捉えている。

それはその後の旧約に綴られるイスラエルの王の系譜が羊飼いなどの流浪をイメージさせる民族だからで、良い牧草を求めて移動を繰り返す彼らはある特定の場所に定住することは全く念頭にない。

そこに大地は神の所有であり、人はそれを一時的に借りて生きているのであって所有者ではないという意味合いが取れる。

新約の時代に移ってからもキリストが降誕したのは旅先の家畜小屋で、先ず最初に祝福にやって来るのも牧夫達だ。

創造を逞しくすれば現在までのユダヤ民族の永遠に定住先を得ることができない放浪の宿命を暗示しているとも考えられる。

バビロンの遺跡から発見された巨塔ジックラトゥが大都市文明と中央集権国家の驕りの象徴でもあり、諸民族の強制的な統一をも意味しているところから、聖書のバベルの塔譚では逆に神によって言葉を乱された人々は八方に散逸して諸国民になるという旧約の喩えも納得のいくものだ。

ノアの箱舟の逸話も古いメソポタミア伝承をベースにイスラエル民族によってリメイクされたものであることが理解できるが、神による世界のリセットという作業は人類の堕落からもたらされるカタストロフィの浄化であり、それが新約での最後の審判に繰り返されているのではないだろうか。

また食事を共にするという行為が彼らの慣習だった契約確認のための象徴的儀式だったことも興味深い。

これも後のイエスと十二使徒の最後の晩餐やエマオの晩餐に再現されている。

尚この講座の上巻はイスラエル十二部族の祖ヤコブの息子ヨセフと兄弟達の感動的な和解で終わる。

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classicalmusic at 15:05コメント(0)書物 

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バロック期における最も重要な作曲家の一人、アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)は新しいヴァイオリン奏法を生み出し、彼の器楽作品は室内楽の歴史に大きな影響力を及ぼした。

これは本当に想像を絶するものであり、彼の作品の写譜はイタリアだけでなくサンクトペテルブルク、ストックホルムなど遠方でも発見されている。

J.S.バッハも彼の作品を研究し、ヴィヴァルディも彼から強く影響を受けている。

彼の作品の中で最も良く知られているのがヴァイオリン・ソナタ「ラ・フォリア」だろう。

これは15世紀末のポルトガル、もしくはスペインを起源にする音楽の形式で、もともとは言葉の意味「狂気」の通り、激しい音楽であったものが、少しずつ憂いを帯びた曲調に変化し、次第に変奏曲形式で演奏することが広まったとされている。

ミカラ・ペトリはこのヴァイオリンのための曲を見事にリコーダーに移し替え、巧みに演奏している。

SACD仕様なのでミカラ・ペトリのクリアーで美しい音色を忠実に捉えたサウンドが魅力の1枚。

伴奏者エスファハーニの軽快なチェンバロも心地良い印象を残している。

彼女はデビュー当時から、いわゆる古楽器奏者とは一線を画した独自の演奏活動を続けたが、勿論古楽を学んだだけあってその解釈はスマートで真っ当なものだ。

コレッリの作品5は12曲ヴァイオリン・ソナタ集だが、18世紀に6曲がトラヴェルソ用に編曲されている。

このアルバムは後半の6曲をリコーダー用に編曲したもので、最後の第12番は華麗なテクニックを披露する『ラ・フォッリーア』のヴァリエーションになる。

ミカラ・ペトリと言えばリコーダーの魅力をクラシック・ファン以外の人達にも広めた奏者である。

フランス・ブリュッヘンがネーデルランドの伝統的な古楽のジャンルでその奏法を開拓したのに対して、彼女はよりモダンなアプローチによって古楽器としてだけでなく、リコーダーの可能性を探った功績が大きいだろう。

日本において幅広い層の人々にリコーダー・ブームを惹き起こしたのがブリュッヘンやリンデなら、そのブームを再燃させたのがデンマークの女流奏者ミカラ・ペトリだろう。

彼女の演奏には特有の華があり、古楽という一種の呪縛からリコーダーを解き放った、自由闊達でかろやかな表現と相俟った洗練された音楽性は、いわゆる古楽器奏者とは常に一線を画してきた。

それだけにジャズ・ピアニスト、キース・ジャレットとの共演や、現代の新作も手掛けている。

彼女の全盛期はフィリップスにレコーディングしていた1970年代後半から1980年代頃までだが、いまだ健在で頼もしい演奏を聴かせてくれるのは有り難い。

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classicalmusic at 12:25コメント(0)コレッリ 

2022年03月15日


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バッハの最高傑作と言えば、やはりその劇的で雄大なスケールから「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」を掲げるかも知れない。

また謎の多さが、イマジネーションを掻き立てるという意味から、「フーガの技法」こそ至上であると主張する人もいるだろう。

筆者もかつては、そのような1人だったかも知れないが、最近、エネスコ指揮による本盤を聴くに及んで、そんな主張は吹っ飛んだ。

本来演奏こそが、作品への評価を決定するのだという思いを改めて強くしたからである。

全4部から構成された長大なこのミサ曲が全曲通して演奏される必然性を意識したことなど、それまで決してなかった。

むしろ「クリスマス・オラトリオ」のように、ミサに応じて各部が演奏される、言わばミサ曲を集成した作品として、これまで聴いてきたように思う。

だが、エネスコの演奏は、作品各部の完成度の高さと、各部が築き上げる全体の普遍性によって、あたかも、ファン・アイクによるあのゲントの祭壇画を仰ぎ見るような作品の多様性と全体の統一、そして何よりも絶対的な偉大さをもって聴かせているようにも思う。

さて、その秘密とは一体どこにあるのか、まず第1は、そのテンポではないだろうか。

エネスコ自身、最晩年のフランス・デッカに録音した一連のバッハのピアノ協奏曲集のライナー・ノートで、テンポについての秘密を解き明かしている。

「できうる限り、不動のテンポを維持すること、和音の継起に付き従えるように急ぎ過ぎないこと、そして、曲の進行に応じて、曲と曲の間に常に確固たる均衡をできる限り維持することが肝要であろう」というのである。

そして第2の点、それは「バッハの旋律を演奏する場合、できるだけ明晰で論理的な表現法を探すこと、つまり旋律が対位法にあてはまる複雑な箇所を参照すること、そうすれば、対位法が道を開いてくれる」(エネスコ『回想録』 白水社刊)とエネスコ自身述べている。

そこには17歳の誕生日に、ルーマニア王妃カルメン・シルヴァから「バッハ全集」をプレゼントされ、「私は休暇を利用して没頭しました。それでもなおわずか150曲のカンタータしか読み終わることができませんでした」と、あまりにも控えめな回顧をしてエネスコが、独学の末にたどり着いたバッハの演奏法こそ、確固たるバックボーンとして存在したのである。

エネスコは、自身天職と考えた作曲家と、生活の自立のためのヴァイオリニストとの二重生活を送ったが、音楽の神の求めのためなら、指揮台にも上がり、ピアニストとしても活躍している。

幅広い活動で音楽に捧げ尽くしたその人生こそ、オルガニストであり、楽師長も務め、カントールに就いたバッハと、普遍的な活動において完璧な一致をみてとれないだろうか。

エネスコこそ20世紀最高のヴァイオリニストであることに、今日異議を唱える者はあるまい。

「ベネディクトス」のアリアでのヴァイオリン・ソロに、エネスコのヴァイオリンを聴くのは筆者だけだろうか。

「ミサ曲ロ短調」は、今日バッハの最後の作品であることが確認されている。

「かくしてバッハはひとつの終焉であり、バッハからは何も生ずることがなく、すべてがひとりバッハへと導かれていくのだった」と述べたのはシュヴァイツァーだったが、この曲こそ、すべてが導かれていくその終焉にあたる作品であり、演奏によって合点がいくのは、エネスコの演奏をおいて他にはない。

今後もこのような演奏が生まれることは決してないだろう。

古楽器によるバッハ以外バッハではなく、音楽史の成果のみ最優先では、音楽家がじっくりと作品に取り組むことなどできようはずもない。

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classicalmusic at 04:22コメント(0)バッハ 
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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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