2022年03月

2022年03月13日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



1957年の録音だが、逸早くステレオ・レコーディングを取り入れたデッカのオペラ全曲盤シリーズのひとつで、かなりクリアーな音質が得られている。

キャスティングは当時デッカと契約していた歌唱力、人気共に絶頂にあったオールスター・キャストで、絢爛たる声の饗宴という意味でも現在では望めないようなセッションになっている。

ラ・ジョコンダは当時の新星ドラマティック・ソプラノ、アニタ・チェルクェッティで、しかも彼女が参加した唯一のセッション録音だ。

チェルクェッティはその翌年、マリア・カラスがローマ歌劇場で歌った『ノルマ』で第1幕を終えたところで突然キャンセルしたために、第2幕以降を歌い継いで実力を認められている。

レパートリーは16曲ほど持っていて、ライヴ録音全曲盤は13セットがリリースされているが、彼女自身はわずか29歳で健康上の理由で引退してしまった。

やや硬質だが輪郭のくっきりした声質は、ドラマティックな役柄に相応しい。

『ラ・ジョコンダ』の名盤と言えば、やはりマリア・カラス、ジャンニ・ポッジ、パオロ・シルヴェーリ、ジュリオ・ネーリがヴォットーの指揮で録音した1952年のEMI盤が捨てがたい魅力を持っている。

但しモノラル録音で今一つこのオペラの色彩感や舞台を髣髴とさせる臨場感に欠けている。

またエンツォ・グリマルドを歌うポッジは、確かにライヴで聴けばその大音声に驚いただろうが、CDで鑑賞すると緊張感に欠けて聞こえる。

そうした点で、こちらはデル・モナコのいやがうえにも白熱した緊張感を創り上げる劇的な歌唱に加えて、バスティアニーニの狡猾で性格的なバルナバ、重厚なシエピの演じる悪役アルヴィーゼ、更に熟練のシミオナートのラウラが加わって、暗いストーリーに豪華な花を添えている。

フィレンツェ五月祭管弦楽団を指揮するジャナンドレア・ガヴァッツェーニも流石にイタリア・オペラを知り尽くした人だけに、要所要所を効果的に表現しながら、歌手たちを思いきり歌わせている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 18:01コメント(0)現代音楽 

2022年03月12日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ダヴィッド・フレーはデビュー当時からバッハの鍵盤楽器のための作品を手掛けていて、協奏曲集はこのディスクで2枚目になる。

第1集では独奏用の協奏曲でDVDで映像化もされているが、今回は複数のチェンバロのために書かれたものを収録している。

これらは総て編曲作品で、それぞれバッハ自身かヴィヴァルディの作曲した他の楽器のための協奏曲のソロ部分を2台から4台のチェンバロに移し替えている。

勿論彼らが現代のピアノで演奏したモダンな解釈が特徴だが、フレーや彼の師でもあるジャック・ルヴィエの歌心はバッハに新鮮でありながら特有のロマンティックな感性を見出していて美しい。

特にどの作品でも緩徐楽章におけるカンタービレは、フレーがここ10年ほどの間にさまざまなドイツ系の作品で実践してきた、明らかにラテン系の歌い口だが意外にも強い説得力を持っている。

今まで知られていなかったバッハのプロフィールを垣間見るようで興味深い。

難点があるとすればそれは演奏内容ではなく、伴奏のオーケストラが貧弱に聞こえることだ。

ライナー・ノーツの写真で見る限りは、本格的なバロック・オーケストラだが、録音の状態があとからシンセサイザーでミキシングしたような音質で臨場感に乏しい。

第1集の時にはソロと弦楽合奏がほぼ対等に収録されていただけに惜しまれる。

確かに主役は4人のソリストに違いないのだが、ピアノのような豊かな音量の楽器が2台以上で競う協奏曲では、かえって残響が小編成の弦楽部を覆ってしまう。

バッハの巧妙なアレンジのテクニックはオーケストラにも顕著なので、もう少し前面に出して聞かせても良いと思う。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 10:38コメント(0)バッハ 

2022年03月11日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



旧盤から21年ぶりの再録音で、バッハ演奏においてかけがえのない存在であったリヒターのさまざまな変貌が示されている。

峻厳なバッハ演奏の頂点として威厳に満ちて聳え立つ旧盤に比して、この演奏では人間リヒターとしての心情を吐露している。

テンポも大幅に遅くなり、その中で登場人物の心情やドラマの劇的展開を、振幅の大きな表現で重厚に描いている。

リヒターのバッハ、とくに《マタイ受難曲》はバネのきいたリズムを特徴としている。

ともすると、懶惰に陥りがちなわたしたちを励起させるリズムだ。

だが、けっして押しつけがましくなくはない。

どうしても、そのリズムの勢いに突き動かされ、ついて行きたいと思わずにはいられぬ躍動感に満ちている。

そして、それはあるひとつの目標に向かって、ともに心を合わせて前進してゆくときの一体感をかき立ててくる。

この目標は、神との出会いを目指しているのは言うまでもない。

神の存在をフィジカルに体得するリズムとでも言おうか。

そのとき、わたしたちは人間が霊的な存在だと知る。

この霊的なリズムに乗ると、わたしたちは誰も超越的な空気にふれ、物質的な欲望がいかに卑小で、ともに同胞であることが、すべてに優るよろこびだとわかる。

それが神とともにあるという意味だ。

その意味が今日忘れられている、というよりもすでに経済の高度成長期の1970年代に、わたしたちはリヒターの望んだのとは別の生き方に引かれはじめた。

彼はその離反に深く悩み苦しんだのだろう、彼の2度目の《マタイ受難曲》の録音は、それを食い止めようとする絶望的な努力と挫折感をひびかせている。

株価の変動に一喜一憂し、金勘定に忙しいわたしたちは、リヒターの《マタイ》にもう一度立ち返って、心を問い直す必要があるのではないか。

リヒターは1979年に本演奏を録音、その1年後に急逝した。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 17:03コメント(2)バッハリヒター 

2022年03月10日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



クラシック音楽の愛好家で、もし《マタイ》を聴かずに一生を過ごすとしたら、これほどもったいないことはない。

しかし《マタイ》はとっつきにくいことも事実なので、このメンゲルベルク盤とリヒター盤を両方備え、まず第1曲だけを繰り返し比較試聴し、バッハのスタイルに馴染んだら、今度はアリアをすべてカットして第1部だけを何度も聴くとか、それなりの努力を惜しむべきではない。

メンゲルベルクはバッハのスタイルを完全に無視、ロマンティックなスタイルで劇的に演奏しているので、かえってわかりやすいかもしれない。

本盤は1939年4月2日に行われた演奏会の実況録音だが、当時のアムステルダムでは毎年復活祭の前の日曜日にメンゲルベルクが《マタイ》を振るのが常で、世界中からファンが集まったという。

SP時代の実況録音(もちろんモノーラル)ということで音は古いが、音響の良いコンセルトヘボウ・ホール、更にオーパス蔵による名復刻のため、聴きずらくはなく、演奏自体は最も感動的である。

スタイルは19世紀のコンサート風で、すなわち大人数のオケ、大人数のコーラスによる極めてドラマティックな表情たっぷりの演奏であり、大会場で多数の聴衆を前に指揮棒を振るメンゲルベルクの姿が眼に浮かぶ。

メンゲルベルクは主情的で、よくもここまで、と驚嘆するほど音楽を自分自身に引き寄せている。

その“自分自身”とは19世紀風、後期ロマン派のドラマの世界であるが、こんなことを《ロ短調ミサ》でやったら、音楽は完全に破壊してしまうだろう。

そこに《マタイ》の特殊性があり、懐が深いので、どのようなスタイルをも受け入れてしまう。

しかし同じ旧スタイルでもワルターやフルトヴェングラーは中途半端で煮え切らない。

メンゲルベルクは振る舞い切って成功したわけだが、こんなことが可能なのは彼一人だけだ。

メンゲルベルクの《マタイ》を大時代的なバッハとして嫌う人は少なくないことは、古楽演奏によるバッハが主流の現代にあっては仕方のないことかもしれない。

オリジナル楽器全盛の現在、最も時代錯誤的バッハという声も聴こえてきそうだ。

しかしメンゲルベルクの《マタイ》にはそういう古臭いスタイルを越えて人間の根源的な祈りや叫びが絞り出されているではないか。

音楽芸術は学問ではなく、現代の古楽演奏を裏打ちする音楽学の研究結果はあくまで表現の手段に過ぎないはずだ。

だとすれば古楽とモダンの違いは形ばかり、音楽家の表現すべきは心の底からの祈りの他に一体何があると言うのだろうか。

その響きがバロックであれ、ロマンであれ、現代であれ、大切なことは「バッハの心」だ。

メンゲルベルクの表現の、例えば各アリアに頻出する強烈なルバートなどは私たちの感覚からはあまりにも遠く離れてしまったことも厳然たる事実だが、血の涙を流さんばかりの魂の叫びと祈りが満ちているのだ。

この演奏が表情過多であるとか、バッハのスタイルにそぐわない、などと思っている人も、聴き終えた後には、そんな疑問が極めて些細な、芸術というものの本質に少しも関係のないことと気づき、音のドラマの奔流に身も心も押し流される自分を発見するはずである。

いずれにせよ《マタイ》を語る上に絶対に欠かせぬ歴史的大演奏であり、様式を超えたこの《マタイ》は人間の精神の営みの豊穣を語り続けよう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:06コメント(0)バッハメンゲルベルク 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



カラヤンは、DVD作品を除くと、4度にわたってベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しており、1977年の普門館でのライヴによる全集もあるが、本全集はそれらいずれの全集をも大きく凌駕していると言っても過言ではあるまい。

1966年と言えば、まさにカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代で、心身ともにベストコンディションであり、精緻さと重厚さを兼ね備えた20世紀最高のベートーヴェン演奏と言える。

ベルリン・フィルも、名うてのスタープレーヤーがあまた在籍した楽団史上でも特筆すべき技量を誇った時代であり、それぞれ最高の状態にあったカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏は、おそらくはオーケストラ演奏史上でも空前にして絶後の高水準を誇っていたと言ってもいいのではないだろうか。

弦楽合奏の鉄壁のアンサンブル、唸るような低弦の重量感のある響き、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器群の美しい響き、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニの響きなどが見事に融合するとともに、カラヤン一流の流麗なレガートが施された、いわゆるカラヤン・サウンドに満ち溢れたまさに圧倒的な音のドラマの構築に成功していたと言える。

カラヤンの前任者であるフルトヴェングラーのような音楽の精神的な深みの徹底した追求などは薬にしたくもないが、音楽の持つ根源的な力強さにおいては、フルトヴェングラーの数々の名演にいささかも劣っているものではないと言えるところだ。

フルトヴェングラーの目指した音楽とカラヤンの目指した音楽は、このようにそもそも方向性の異なるものであり、その優劣を論ずること自体がナンセンスであると考えられるところである。

かつて影響力の大きかった某音楽評論家の偏向的な批評などを鵜呑みにして、本全集のような圧倒的な名演に接する機会すら放棄してしまうクラシック音楽ファンが少なからず存在すると想定されるのは大変残念なことであると言えるだろう。

カラヤンの個性が全面的に発揮されたベートーヴェンの交響曲全集の演奏としては、1970年代にスタジオ録音された3度目の全集を掲げる者も多くいると思われるが、本全集は、実演でこそ真価を発揮するカラヤンならではの途轍もない生命力溢れる力感が随所に漲っているなど、音のドラマとしての根源的な迫力においてはかかるスタジオ録音による全集を大きく凌駕していると言えるところであり、まさにカラヤン&ベルリン・フィルという稀代の黄金コンビによる全盛時代の演奏の凄さを大いに堪能させてくれる究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。

音質は、従来CD盤においても音響がイマイチとされる東京文化会館でのライヴ録音と思えないような生々しさであった。

本全集の演奏のうち、「第3」については1982年のベルリン・フィル創立100周年記念ライヴ盤(ソニークラシカルのDVD作品)、「第7」は、同時期の1978年のベルリンでのライヴ盤(パレクサレーベル)に一歩譲るが、それ以外は、カラヤン自身にとって最高の超名演で構成されている圧倒的な名全集と高く評価したいと考える。

このような中で、今般、待望のハイブリッドSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためて本全集の各演奏の凄さとSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な超名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 18:59コメント(0)ベートーヴェンカラヤン 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ブライデン・トムソン&ロンドン交響楽団によるヴォーン=ウィリアムズの交響曲全集は、定評あるボールトやプレヴィンの全集をも凌駕する出来映えを誇っていると言っても過言ではない。

「第1」は雄渾・壮大、非常な力演である。

合唱の比重が大きい作品で、その処理が何よりも重要だが、トムソンは素晴らしく鋭敏な、そして声とコーラスに対する見事な手腕をもって難関を切り抜けており、構成力も強い。

練りに練られた表現と、その中に明滅する抒情性の美しさ、劇性の確かさは彼の力量を示している。

オケが熱演を展開し、独唱にも気迫があり、表情豊かな音楽だ。

「第2」は標題音楽的な内容だが、純音楽的にすぐれた表現で演奏も緻密、第1楽章では多くの素材に対するトムソンの愛着が伝わってくるし、第2楽章は弦合奏の幻想的な響きが印象派風の音構造を着実に描き出す。

第3楽章もドビュッシーのような感覚美を浮かび上がらせ、終楽章の力感に満ちた接続曲風に変転する楽想の自然さも見事というほかはない。

「田園」というタイトルのついた「第3」の穏やかな抒情感は、イギリス近代音楽の精髄と言えよう。

それはトムソンのようなイギリスの指揮者だからこそ表現できるものかもしれないが、第1楽章の大自然の時の流れのように悠揚とした進行を聴けば、この曲がベートーヴェンとは違った「田園」であることを痛感する。

第4楽章ではケニーが透明度の高い声で、絶妙な表情と雰囲気を表している。

「第4」は戦争への不安と波乱の予感が背景にあり、この作曲家にしては珍しく、危機をはらんだ多くの不協和音が全曲を支配している。

第1楽章でトムソンはロンドン響から緊迫感に富んだサウンドを引き出し、第2楽章でも指揮の確かさと合奏力の優秀さが光る。

フィナーレは軍隊調でかなりの迫力だ。

「第5」の第1楽章はホルンの呼び声に始まる牧歌的な音楽で、第2楽章は民俗舞踊風のテンポの速いものだが、このコンビはこういう音楽の演奏をさせると他の追随を許さぬものがある。

第3楽章のロマンスをトムソンは心からの共感をこめて内面の歌を歌い、フィナーレでは乗りに乗って魅力的な旋律をつぎつぎに繰り出してくる。

「第6」は闘争的な楽想で開始する第1楽章の、自由だが考え抜かれた書法は作曲者のキャリアの証で、その緊張感の表現が素晴らしい。

第3楽章もフーガ的な構成をとる緊密な音楽で、その旋律とリズムのポリフォニーの明快な表現が快い。モデラートの静かな第4楽章は、延々と漂うような音楽が続く不思議な終曲だ。

「第7」はこの曲の最高の秀演である。

第1楽章は実に豊かな共感を表した演奏で、第2楽章は急速な弦のうねりと共に現れる管の詩情、ハープとピアノの色彩の美しさ等が聴き手を魅了してやまない。

第3楽章での悲しみの抒情は作品の本質に触れたもので、終楽章は壮大なトゥッティのバランスが巧みに整えられ、ソロと合唱は晴朗そのものだ。

コーダの表現もこれ以上は望めないだろう。

「第8」の演奏は、トムソンの作品に対する激しい共感をよく伝えている。

第1楽章は情熱的で内的緊張感が強く、各変奏の変転が明快に表出される。

また、アンダンテ・ノン・トロッポの部分では弦の内声の厚みと柔らかさがよく、見えかくれする主題を巧みに追求している。

第2楽章の管もうまい。

第3楽章は作曲者得意の手法を的確に表し、第4楽章も隙のない表現である。

「第9」は作曲者の最晩年、85歳の時に書かれた作品で、全体を老巨匠のペシミズムが支配している。

第1楽章は不気味な序奏に始まり、クラリネット独奏が示す第1主題も不思議なイメージだ。

第2楽章はフリューゲルホルンの静かな導入と、粗野な行進曲の楽想の対比が狙いだ。

第3楽章はシニカルなスケルツォ、終楽章は静かな導入部からホルンによる主題へと移る。

以上、演奏全体から受ける印象は無骨ではあるが、それ故に味わいがあり、この無骨さがヴォーン=ウィリアムズの音楽にマッチして、聴く者に圧倒的な力で訴えてくるのである。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 09:20コメント(0)ヴォーン・ウィリアムズ 

2022年03月08日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



バルトークの《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》は、数年後にやってくる2度目の世界大戦突入への不安感に蔽われていた1936年に作曲された。

この〈緊張の時代〉を背負った作品の気分を正当に表現し得た演奏として、ナチの時代をしたたかに生き抜き、戦後十余年を経てベルリン・フィルを手中に収め気力の充実し切っていたカラヤンの、1960年の旧録音がまず挙げられる。

カラヤン盤の異常な緊張は、この曲の録音史上で空前のものと言え、楽員と一体になっての音楽の高揚は、時に魂が張り裂けんばかりの悲痛さを伴って、恐怖に近い感動を覚える。

カラヤンは若い頃から、バルトークの研究と演奏に情熱を燃やし続けてきた人で、彼の演奏は、バルトークに対する深い敬愛の念が込められている。

この演奏も、曲の核心に鋭く切り込んだ完成度の高いもので、ひとつひとつの音に精魂を込めながら、一分の隙もなくまとめあげている。

カラヤンはベルリン・フィルの威力を充分に発揮させ、精緻を極めた構成力と、じっくりと腰を据えた演出で、各部を入念に仕上げていて、色彩豊かで、スケールの大きい演奏だ。

全体にわたる緻密な構成と、ディテールの磨きのかかった切り込みの鋭さがクールでホットなバルトークの両面性を彷彿とさせ、この曲の内面性と外面性とのバランスが最もよくとれている。

この戦後の音楽界に君臨した巨人は、あたかも高度成長時代の申し子のように思われがちだが、この演奏は、戦争を知らない筆者のような世代の人間に、彼等が生き抜いてきた時代がどれほど苦渋に満ちたものであったかを伝える貴重なドキュメントだ。

カラヤンの手にかかると、あらゆる音楽が艶美な世界に結びつけられてゆくといった感がないではない。

このヒンデミットの交響曲《画家マティス》にしても、一方では極めて機能的な表現をみせながら、一方ではカラヤンならではの艶やかな語法もまじえながらその演奏が進められていることは否めない。

しかも、その録音は、ベルリン・フィルが彼と初来日した1957年になされているだけに、オーケストラそのものにも、ヒンデミットの強力な擁護者であったフルトヴェングラーの時代の影が確かに残されており、それがカラヤンの演奏に特質を生かしながら呼応しているようにもみえる。

第1楽章「天使の合奏」の天国的な響き、第2楽章「埋葬」の哀しみの場面の感動、そして第3楽章「聖アントニウスの試練」での聖俗あいまみえた魂のドラマが、カラヤンの多彩な棒で十全に描かれてゆく。

確かに素晴らしい演奏であることは疑いの余地はなく、この作品に親しむためには、好適な1枚ということはできよう。

カラヤンはバロックから現代まで、そのときの作品に適応するようにベルリン・フィルの自発性をひきだしてゆく指揮者だったし、楽員はそうしたことをはっきりとおこなってみせた。

バルトークやヒンデミットでの管や打楽器奏者は、カラヤンがいたからこそ自発性を持って卓越した技量を発揮できたのだろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:31コメント(0)カラヤンバルトーク 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



フランスのベテラン・ピアニスト、パスカル・ロジェによる何とも瀟洒なアルバムだ。

「Crystal Dream」とのタイトルで、サティと吉松隆のピアノ・ソロ曲を集めている。

曲の配列がまた一興である。

サティのジムノペティでも1番、2番、3番と順に収録しているわけではなく、それどころか、吉松の作品とほぼ交互に配列されている。

この順番もロジェが考案したものだが、トータルの収録は73分超、ジャケットデザインもイージー・リスニング風だ。

アイデアとしてはやや無理があるのではと思ったが、聴いてみると、これが意外にもフィットしているのに驚いた。

何よりも、ロジェの肩の凝らない演奏が素晴らしいし、それでいて、2大作曲家の楽曲の特徴を巧みに描き分け、CD全体を一大芸術作品にしてしまった。

このような意表をつくアイデアと、アイデア負けしない名演を成し遂げたロジェに大拍手!

ロジェは透明感のあるピアニズムがことに印象的なピアニストで、例えばデュトワと録音したラヴェルのピアノ協奏曲集は、オーケストラのライトな響きと、見事な録音によって、現代的な色彩感に満ちたもので、筆者の愛聴盤になっている。

当盤でのロジェのピアノもまったく同様な美観に満ちている。

録音は、レーベルがエクストンになったこともあり、ピアノがぐっと近いような印象であるが、ホールトーンも適度にキープされていて、まずは良好。

冒頭のジムノペティ第1番から落ち着いた足取りで、かつしなやかなで透明な音色が繰り広げられる。

これほど静物画的なサティも、実はなかなか聴けないもので、また、ちょっとおどけた様な曲でも、ロジェの音色は高貴な佇まいを示す。

吉松のピアノ作品はプレイアデス舞曲集からの抜粋ということだが、サティのように曲毎の個性があるわけではない。

しかし、たいへん正直な感じの曲たちで、坂本龍一や加古隆のピアノ曲のように映像や環境を補完することで一層引き立つような雰囲気の曲たちだ。

もちろんただ聴いても悪くはないし、ロジェのようなピアニストに奏でられることによって、これらの曲たちの魅力も倍加しているように思われることは、このアルバムの大きな成果と言っていいだろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 06:04コメント(0)現代音楽 

2022年03月07日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



このご時世だけに戦争の話題に踏み込まざるを得ないが、筆者としてもまさか自分が生きている間にショスタコーヴィチの時代が来るなど夢想だにしなかったところだ。

ショスタコーヴィチの「第7」はトスカニーニによるアメリカでの初演の歴史的記録である。

トスカニーニのショスタコーヴィチは、今では偽書であるとされているものの、一時は一世を風靡したヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』によって、ボロカスに酷評されている。

ショスタコーヴィチ曰く、テンポといいリズムといいすべてが間違っていると評しており、これによって、証言をバイブルのように信奉する人など、本演奏を歯牙にもかけていなかったところである。

しかし、証言が偽書であるか否かにかかわりなく、いかなる楽曲も作曲者の手を離れると単なるスコアに過ぎず、絶対的に正しい演奏など存在しないのではないか。

例えば、多くの聴き手に感動を与えるフルトヴェングラーのベートーヴェンも、果たしてベートーヴェンが評価したかどうかはわからないのである。

筆者は、本演奏を、ファシズムに対して一切の妥協を排して批判し、公と正義を明らかに堅持し続けたトスカニーニならではの鬼気迫る歴史的名演と評価したい。

初演でありながら、これほどまでに説得力のある演奏を成し遂げるトスカニーニの類稀なる才能と情熱には感服するほかはない。

ショスタコーヴィチの「第7」は、バーンスタインの演奏がやたら世評高いが、筆者としては、あのような外面的な効果をねらった演奏では、この交響曲の持つ真の意味を表現できないのではないかと考えている。

その点ではトスカニーニの表現にいささかの抜かりはなく、この交響曲の持つ意味を深く抉り出そうという彫りの深い表現を行っている。

バーバーの「弦楽のためのアダージョ」編曲版の初演者であるトスカニーニの演奏は、やはり聴き逃せないだろう。

強く引き締まり、大きくうねる演奏は、しなやかに澄んだ抒情をたたえており、その深々とした表現は、作品に対する巨匠の愛着を真摯に示している。

音の状態は決して良くないが、戦時中の録音ということを考えると、信じられないようなオーケストラの圧倒的な力感を感じさせてくれるのが見事である。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:34コメント(0)ショスタコーヴィチトスカニーニ 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



イタリアの名指揮者クラウディオ・アバド(1933-2014)は21世紀に入って大病を患い、生死の狭間をさまよった。

だが、奇跡的復活を遂げ、ベルリン・フィルの音楽監督としての職務も2002年には完全に全うし、晩年はフリーな立場で自身の音楽活動をさらに掘り下げ、その成果を披露していた。

本セットには、アバドによるマーラーの新交響曲全集(第8番を除き再録音)が収録されているが、その内容からすると、果たして交響曲全集と称することが可能か疑問である。

アバドは、若き頃からマーラーを得意としており、DVD作品を含め数多くの演奏・録音を行ってきている。

ところが、その録音の経緯をつぶさに見てみると、必ずしも全集の完成を目的として行われたものではないことがよく理解できるところだ。

収録されたのは、アバドが大病にかかる前後のベルリン・フィルとの演奏(第2番のみルツェルン祝祭管弦楽団)であるが、アバドも、そしてベルリン・フィルもともに渾身の力を発揮した圧倒的な超名演に仕上がっている。

アバドによるベルリン・フィルの様々な改革の成果がはっきりと出てきた頃の充実ぶりを実感できる、新たな境地に到達した演奏と言えるだろう。

ライヴ録音ということもあって、アバドの、そしてベルリン・フィルのコンディションもかなり良かったのではないかとも思われる。

そして本セットに収録されたアバドのマーラー新交響曲全集は確かに21世紀を象徴する意味を持つ演奏としてその姿を顕したと言ってよいだろう。

そこには若き日から機会あるごとにこれらの交響曲を採り上げてきたアバドの熟成の歩みが凝縮されると同時に、演奏家がまるで1人の無垢な聴き手となって音楽に奉仕する、そんな新次元の演奏を作り出したように思われてならない。

演奏家が聴き手になってしまったのでは演奏は成立しない。

それは百も承知だが、そうではなく、感動的作品を前にしたときの想いには聴き手も演奏家も区別はないということである。

つまり演奏家も感動する原点に立ち戻って作品の最良の再現に努める、そんな演奏なのである。

「19世紀は作曲家の時代」「20世紀は名演奏家の時代」と仮に考えると、「21世紀は聴き手の時代」ということになろうか。

だがそれは聴き手が主役になるといった意味ではないだろう。

音楽家も含めて、聴き手が本来持つべき作品への無垢な姿勢と謙虚さとを持ちながら作品に立ち向かう時代ということではないか。

アバドの新しいマーラーの交響曲全集が与える感動は、演奏家もまた聴き手の精神を持つべき時代が来つつあることを予感させる。

指揮者道を歩み続けてきたアバドが見せ始めた未来の演奏の時代、この演奏から何かが変わっていく予感がする。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 19:59コメント(0)マーラーアバド 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ドイツの名匠ルドルフ・ケンペ(1910-76)が世を去る直前、1976年1月に録音されたもので、曲目としてもケンペにとってかなり珍しいレパートリーのもの。

両曲ともに構成のしっかりとした堅実な演奏で、いっさいの粉飾を排し、1つ1つの音を大切にしながら、それぞれの曲の内面を深く掘り下げている。

ブリテンはストラヴィンスキー以上にすぐれた表現で、この曲のレクイエム的な雰囲気を渋く落ち着いたシュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色を活かし、あますところなく表出している。

「ケンペの「鎮魂行進曲」はブリテンの自演盤を大きく上廻り、それどころか、われわれにこの曲のすばらしさを初めて伝えるものといっても過言ではあるまい。それは彼がドイツ音楽に接するのとまったく同じ態度で、内容と構成感を何よりも大切にし、厳しい迫力とともに全曲を振り抜いているからである。」 宇野功芳 ライナーノーツより

・・・「鎮魂交響曲」なのに何度確認しても「行進曲」と褒め殺し的に故宇野功芳氏は述べておられる(失笑)。

改めて、《シンフォニア・ダ・レクイエム》は1940年の皇紀2600年にあたり日本政府がブリテンに作曲を委嘱した作品である。

ブリテンには反戦の思いや亡くなった自分の父母の追悼の思いがあった。

しかし、国をあげて大祝典行事をしようとしている政府にとっては、気を悪くするのも、怒るのも、むしろ当然だっただろう。

レクイエムという内容に日本政府は拒絶反応を示し、結局はアメリカでバルビローリによって初演された。

ブリテンの反戦主義の面目躍如とする曲で、後の《戦争レクイエム》につながる。

この作品「鎮魂交響曲」という邦題があるが、レクイエムという語の訳として「魂を鎮める」というのは違和感がある。

というのも、最近は「シンフォニア・ダ・レクイエム」とそのままのタイトルで呼ばれることの方が多いからだ。

尚、レクイエムとはついているが声楽は伴わず、3つの楽章からなる管弦楽曲である。

第1楽章は「ラクリモサ(Lacrymosa)」、第2楽章は「ディエス・イレ(Dies Irae)」、第3楽章は「レクイエム・エテルナム(Requiem aeternam)」。

それぞれを日本語にすると、「涙の日」「怒りの日」「永遠の安息を」である。

レクイエムということをまったく意識から除外して聴くと、しかしながらこの曲、カオス的な世の中から国が築きあげられていくという、苦悩と闘いそして平安をイメージした音楽に聴こえなくもない。

録音については、激情的なラトルや流麗なプレヴィン、さらに作曲者自身のすぐれた演奏があるにせよ、ケンペの音楽的遺言に耳を傾けたい。

第1楽章ははげしい憤怒を抑制した表情を見せる。

全体に張り詰めた緊迫感に富み、器楽のわずかな合図が想像力をそそり効果的だ。

第2楽章は痛切な悲しみと慰めのコンプレックスで進行し、終楽章での心の澱を洗い流す清冽な浄化感に比類はない。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 09:49コメント(0)ケンペブリテン 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ルイジ・ノーノ(1924〜1990)は、イタリアの代表的な現代音楽作曲家だが、一族も芸術的才能に恵まれていたようで、祖父は著名な画家だったようだ。

15歳で音楽を学び始め、ルネサンスの音楽も学んだのだが、大学では法律を専攻した。

一方、シェルヘンと知り合い、ノーノは影響を受け、当初はシェーンベルクの12音技法に基づいて作曲したようだ。

そして1950年代には、ブーレーズやシュトックハウゼンと並ぶ現代音楽の作曲家としての基礎を築いた。

またドイツ語の詩に作曲した「愛の歌」は、シェーンベルクの娘で、ノーノの妻に捧げられた。

またこの時期彼は、イタリア共産党員となっている。

この「力と光と波のように」は、現代音楽の中でも名曲と言えるだろう。

作曲者自身がケーゲルに録音を依頼したと言われる作品集は、演奏も力強く、作曲者の意思を反映している。

すでにアバドとポリーニによる録音が存在したが、作曲家自身の強い要望により実現したいきさつがある。

旧東ドイツ崩壊とともに自ら命を絶った巨匠の鋭角的で緻密な指揮が堪能できる。

この指揮者がよく言われる「手堅くオーソドックスだがつまらない」という中傷をこのアルバムは払拭してくれるだろう。

「力と光の波のように」は常にポリティカルな主張を内容としている。

ノーノ屈指の傑作にもかかわらず、現在の評価は芳しくない。

この演奏にしてもしかり。

ケーゲルという凄腕の指揮者がかつて存在したことさえ、今は忘れられつつある。

しからば、あえてこの演奏を後世に伝えなければならぬ。

当時の前衛手法(クラスター及びテープ)を駆使した硬派なつくりである(ピアノとオーケストラにソプラノと電子音が加わる)。

ケーゲルのいささか表現主義的な彫りの深い表現と強い推進力を得て、きわめて表出性の高い音楽に練り上げている。

ノーノの作品は政治的な問題をテーマとしたものが多い。

「墓碑銘」はスペイン内戦と関わっており、スペインの抵抗詩人ロルカの詩をテクストとしている。

また「力と光の波のように」は、チリの人民連合によるアジェンデ政権の誕生と関わっている。

政権はこの曲の完成した翌年に崩壊したが、これらの作品は、今日でも強い表出力をもって聴き手に迫ってくる。

ノーノ・ファンのみならず、現代音楽ファン必聴の名曲である。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 06:27コメント(2)ケーゲル 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



活動の拠点をヨーロッパに移したバーンスタインが定期的に指揮台に立ったオーケストラのひとつであるアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との初顔合わせ録音だった。

個人的なことだが、ウィーンを中心にヨーロッパで活躍するようになったバーンスタインの円熟を最初に教えてくれたのが、この1978年にライヴ録音された《ミサ・ソレムニス》だった。

このオーケストラやウィーン・フィルといった確固とした個性を持つ楽団との共演を通して、バーンスタイン最円熟期の芸風は確立されていた。

このベートーヴェンでも、それ以前の彼と大きく印象が異なることが実感される。

バーンスタインによる《ミサ・ソレムニス》は、ニューヨーク・フィルとの1960年録音もあるが、当曲がベートーヴェンの最高傑作であることを実感させてくれる稀有の名演である。

この曲はヒマラヤ高峰のような至高かつ峻厳な趣をたたえている。

しかしバーンスタインの演奏はニューヨーク・フィル時代の彼には珍しく柔和な表情を示し、ヒューマンなあたたかみに満ちている。

何の理屈もなく、ただひたすら聴き込まされてしまうような熱演を行なっているのがバーンスタインである。

作品に対する深い共感はオーケストラの伝統的な表現イディオムと一体になり、真に感動的な瞬間を生み出している。

劇的に高揚した場面でも決して上滑りになることなく、宗教的な感動に根差した深い表現が実現される。

演奏会の雰囲気をそのまま収めているだけに、その緊張感には独特のものがあり、バーンスタインの率直でひたむきな情熱といったものが、聴き手にひしひしと伝わってくる。

いかにもバーンスタインらしい作品への共感度が、ライヴ録音によって一段と強く表出され、きわめて劇的で集中力の高い演奏となっている。

バーンスタインらしい、そしてライヴならではの集中力や熱気とともに、作品への共感が少しも力づくになることなく、しなやかに懐深く歌われている。

白熱した昂揚と真摯な沈潜がつくる劇的な表現の幅も驚くほど大きいが、それが決して作為的なものにならず、オーケストラと合唱、独唱者たちが渾然一体となって、ベートーヴェンがこの大作にこめた感動を高らかに歌い上げている。

まさに合唱、オーケストラ、独唱が、聴衆を含めて一体となって、ベートーヴェンの音楽に没入しているかのような感じを受ける。

それら全てが友愛の精神に貫かれ、しかも格調の高さを失っていない。

繊細な神経が隅々にまで行き渡りながらも、調和の理念がスケール大きく展望され、真摯な祈りがこもり、最後は充実した和音感でしめくくられて感動的だ。

アムステルダム・コンセルトヘボウの柔軟な反応力は見事である。

無心なバーンスタインの心から投影されてくるベートーヴェンの音楽は、民族国境をこえて、まさしく世界をひとつに結ぶ力をもっている。

この求心力、緊張力の持続はライヴ独特の強味でもあり、バーンスタインの人となりが明らかになった名演と言える。

カラヤンのよく計算された、完璧ともいえる演出の巧みさこそないが、ここには素晴らしい集中力と、爆発的な熱狂がある。

独唱はベテラン揃いで、なかでもモーザーのスケールの大きな歌いぶりや、シュヴァルツの端正な歌唱は見事だ。

声楽陣も、この指揮者の真摯な姿勢に感化されたような、スケールの大きい充実した歌唱を展開しており、すべての演奏家が最大の力を出しきった、全く自然に音楽を作っていく様は感動的である。

録音もコンセルトヘボウ独特の豊麗でコクのある非常に好ましいものだ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 00:02コメント(0)ベートーヴェンバーンスタイン 

2022年03月06日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



常に世界のベストセラーを保ち続けている聖書全篇の映像化となると、新旧合わせて69書に及ぶ大作であるために時間的な制約もある。

また難解な部分も少なからずあるので総てのシーンをつぶさに再現することは不可能だ。

またそれほど意味があるとも思えないが、視覚的にドラマティックな部分のみが突出すると、安っぽい見世物に成り下がってしまい本来の教書としての宗教観との関連性が稀薄になってしまう。

そのあたりの文学性と劇的な場面とのバランスを比較的巧妙に保ったのが本作品である。

瑣末的と思われる枝葉の部分は一切省き、聖書の本質に関わるエピソードを10話に分けてそれぞれを45分程度に纏めたコンパクトなミニ・シリーズに仕上げているのも秀逸だ。

4枚のブルーレイ・ディスクの視覚的特徴は、この作品に頻繁に映し出される大自然の風景が非常に鮮明に再生されることで、肌理の細かい画像による臨場感が効果的である。

一方で映像化するからにはある程度万人向けに制作しなければならないことが必須になる。

その点でもロマンティックなシーンは最小限に留めて見かけ上の派手な演出を控えている。

キャスティングでも実力派の役者を多く抜擢して地味だが聖書そのものの精神を伝えることを心掛けている。

その意味では一昔前のハリウッド映画とは一線を画している。

この作品を観ていると、信者でなくても聖書に書かれている万物の創造主である神が如何に恐るべき存在であるかが理解できるだろう。

そして神への畏怖が形骸化する度に人々は途方もない災難を自ら招くことになる。

しかしキリストの登場と共にその畏怖が愛に取って代わることを鮮やかに示しているのである。

シリーズの長さから言っても簡潔で要点を掴んでいるので信者以外の人が聖書を理解するための、良い意味での安直な入門編としても佳作だろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:26コメント(0)映画書物 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ベルリンの壁開放を祝って1989年12月25日に東ベルリンのシャウシュピール・ハウスにおいて行われたバーンスタイン指揮の「第9」演奏会の実況録音。

バイエルン放送響と同合唱団を中心に、東西ドイツと米英仏ソ連のオケと東西ドイツの合唱団のメンバーが参加し、独唱者もアメリカ(ソプラノ)、イギリス(メゾ・ソプラノ)、東ドイツ(テノール)、西ドイツ(バス)と国際色豊かな演奏である。

バイエルン放送協会による録音で、西側だけでなく東側でも同時に発売されたという。

《壁》が崩壊した年のクリスマス・コンサートとして記念碑的企画であり、混成メンバーによる演奏そのものが「第9」の理念を実践したものといえよう。

急遽集まったオケのアンサンブルは最上のものとはいえないが、そうしたことよりもあらゆる思いをこめたその内容を聴き取るべきだ。

第4楽章は、バーンスタインの堂々とした風格豊かな音楽が聴きもので、作品の祝祭的な性格を最大限に発揮させている。

なお、合唱部分では歌詞を「歓喜(Freude)」から「自由(Freiheit)」に変更して歌っている。

危機に取り囲まれたバーンスタインの生きる指標がヒューマニズムなのだった。

かなり際どい言い方になるが、ソロ歌手の人選も、黒人もいればレズもいるというモノスゴイものだ。

こんな企画をキワモノ扱いする向きもあるけれど、キッチュと偽善の危険と隣り合わせのヒューマニズムをここまで貫徹させるエネルギーを持つ音楽家が他にいなかったのは紛れもない事実。

いったい、ヒューマニズムを否定したら何があるのかと問いたげな自信満々のパフォーマンスなのである。

ひたすら高揚するこのフィナーレを聴いて、単に好き嫌いを言っていても仕方がない。

感動しっぱなしでも意味がない。

あなたにとってコレは何なのか、それが問題なのだ。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 14:30コメント(0)ベートーヴェンバーンスタイン 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ルドルフ・コーリッシュは、オタカール・シェフチークの下でヴァイオリンの修練を積んだオーストリア出身のヴァイオリニスト。

シェーンベルクから作曲の指導を受けたのが縁となって、シェーンベルクの私的演奏協会にプレイヤーとして参加するようになった。

彼が弦楽四重奏団を結成したのは、シェーンベルクの助言あってのことだった。

はじめウィーン弦楽四重奏団と名乗って演奏活動をしていたが、1927年に人事を一新し、コーリッシュ弦楽四重奏団として活動を継続する。

コーリッシュ弦楽四重奏団は、シェーンベルクの縁から、新ウィーン楽派の作曲家の作品を数多く手がけ、中でもアルバン・ベルクの『抒情組曲』の初演は、コーリッシュ弦楽四重奏団の大手柄だった。

新ウィーン楽派の作曲家の作品を多数手がけた業績から、コーリッシュ弦楽四重奏団は、現代音楽のスペシャリストと見做され、バルトークから弦楽四重奏曲の初演を依頼されるまでになった。

この「ルドルフ・コーリッシュを称えて」というセットは、そうした現代音楽のスペシャリストとしてのコーリッシュに焦点を当てた選曲になっている。

なお、この曲集では、プロ・アルテ弦楽四重奏団という名義の使われた録音が存在するが、この弦楽四重奏団は、アルフォンス・オンヌーらの団体の衣鉢を継いだものである。

オンヌーが1940年に戦死してしまったため、この団体は一旦解散を余儀なくされている。

一方、アメリカに渡ってきたコーリッシュは、自分の弦楽四重奏団を維持できなくなり、1942年頃に解散してしまっていた。

師匠のシェーンベルクの肝入りで1943年にウィスコンシン大学に就職したコーリッシュは、かつての自分の弦楽四重奏団の第2ヴァイオリニストや、ウィスコンシンに在住していた旧プロ・アルテ弦楽四重奏団のヴィオラ奏者らに声をかけ、プロ・アルテ弦楽四重奏団を再結成したのだった。

その後、コーリッシュの努力によって、このプロ・アルテ弦楽四重奏団はウィスコンシン大学の常設団体となり、メンバーを変えながら、今日も演奏活動を続けている。

この曲集には、シェーンベルクの弦楽四重奏曲の全曲がコーリッシュ弦楽四重奏団のメンバーで演奏されている。

まさに彼の演奏こそシェーンベルクの精神そのものと言ってよく、その感じはギーレン等に継承され、ひとつの伝統を築いている。

そのうちの弦楽四重奏曲第3番では、上述のプロ・アルテ弦楽四重奏団のメンバーとの録音が収録されており、コーリッシュ弦楽四重奏団とプロ・アルテ弦楽四重奏団の演奏スタイルの違いを比較できるようになっている。

コーリッシュ弦楽四重奏団での演奏は、活動の本拠だったウィーンの文化の影響があり、プロ・アルテ弦楽四重奏団のものと比べると、幾分もっちりとした演奏のように聴こえるだろう。

プロ・アルテ弦楽四重奏団の演奏は、コーリッシュ四重奏団のものと比べて機能面でスタイリッシュになり、より明晰な演奏ができるようになっている。

ベルクの『抒情組曲』は、そうした機能面での恩恵にあずかり、非常に見通しのよい演奏が実現している。

バルトークの弦楽四重奏曲第5番など、プロ・アルテ弦楽四重奏団の確信に満ちた解釈で、大変聴き栄えがする。

ほとんどのディスクは、室内楽奏者としてのコーリッシュに光が当てられているが、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲やヴァイオリンとピアノのための幻想曲、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタなど、独奏者としてのコーリッシュの演奏も多少含まれている。

情感に溺れない理知的なアプローチは、バルトークのヴァイオリン・ソナタに込められた激情を掬い取っていないと言われるかもしれない。

ひたすらクールに弾き込むその演奏は、シェーンベルク譲りの楽曲分析の成果であり、激情に身を任せることを許さない、コーリッシュの強い意志の表れである。

シェーンベルクの協奏曲でも、盟友のルネ・レイボヴィッツのサポートを受け、ひたすら冷静にソロ・パートを弾き抜き、曲のフォルムを鮮明に描き出している。

グンナー・ヨハンセンと共演した幻想曲は、シェーンベルクの音楽をしっかりと咀嚼し、明快に聴き手に伝えようという使命感を感じる。

ヨハンセンはフェルッチョ・ブゾーニ門下のエゴン・ペトリや、フランツ・リスト門下のフレデリック・ラモンド、エトヴィン・フィッシャーらの薫陶を受けたデンマーク出身のピアニスト兼作曲家。

演奏家としてのヨハンセンは、1920年代からアメリカに遠征して、バロック時代の作品から同時代の作品までを広く紹介し、1940年代からは、アメリカの大学を回って、ベートーヴェンやブラームスといった、ドイツの音楽を積極的に演奏していた。

ウィスコンシン大学でもしばしばリサイタルや教授活動を行っていたヨハンセンにとって、コーリッシュは親しい同僚であった。

お互い知り尽くしたもの同士ならではの親密さを持ちながら、演奏解釈に一家言を持つもの同士ならではの丁々発止の仕掛け合いが面白く、シェーンベルクの音楽に生命の息吹をしっかりと吹き込んでいる。

本CD集の最後にシューベルトの八重奏曲を収録しているが、コーリッシュは現代音楽を重視するあまり、過去の作品を軽んじるようなことをしなかったということを示している。

コーリッシュ弦楽四重奏団の時代には、シェーンベルクから、モーツァルトやシューベルトといった、過去の名作もしっかり演奏するようにと助言されていたのである。

過去の作品を演奏するコーリッシュの至芸が申し訳程度にしか収録されていないのは、「コーリッシュを称えて」と銘打つには、いささかアイテム不足な気もする。

しかし、現代音楽の積極的紹介者としての側面を強く打ち出すことによって、コーリッシュの一側面を鮮やかに描き出した点は、高く評価したい。

録音は古いが、新ウィーン楽派やその周辺の音楽の受容を知る上では、貴重かつ重要な資料であろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 10:49コメント(0)シェーンベルクベルク 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



バッハを「雲上に君臨する聖者」と称え、「神の子の苦しみ、キリストの救済史を自己の魂において深く体験し、最後の、最大の受難曲《マタイ受難曲》において一つの巨大な創造的事業を成し遂げた人物」と語ったのは、一世を風靡した巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)である。

フルトヴェングラーは時代的には後期ロマン派の出であると共に、すぐれた学者・教育者の家系に生まれ、音楽好きでブラームスやシューベルトを尊敬していた父の専門の考古学を始め、さまざまな学問分野に関心を寄せた、近代ドイツの典型的な知識人であった。

そうした幅広い教養を土台としたフルトヴェングラーの芸術家としての生い立ちには、少年時代にバッハのマタイ受難曲を聴いたことと、16歳の時にフィレンツェに滞在してミケランジェロの彫刻に出会ったことが、その成長に本質的な影響力を及ぼした二つの原体験であったといわれる。

カーライルの『英雄と英雄崇拝』やロマン・ロランの『ミケランジェロ』などから知られるように、それは彼の世代の中で心ある人々が共通の体験としてもっていた、あの創造する英雄的人間への強い憧れの目覚めであり、そしてまたその英雄的悲劇性への開眼であった、といえるのではなかろうか。

少なくともバッハの受難曲の解釈に関しては、19世紀後半から第一次世界大戦までのこの時期では、偉大な「神人イエス」を主人公とする受難の悲劇という視点が主流を占めていたから、こうした視点での演奏によるマタイ体験が、あのダビデ像やピエタに象徴されるように偉大な人間の悲劇性とそれをめぐる悲壮美と悲哀感の無比な表現を「冷たく客観的な」石材から呼び起こしたミケランジェロ芸術への共感へとつながって行った必然性が、筆者にはよくうなずけるように思われる。

後年フルトヴェングラー自身がバッハのこの大作について語った次のことばも、そのことを裏付ける。

「神の子の苦しみ、キリストの救済史(のドラマ)を自己の魂において深く体験し、最後の、最大の受難曲においてあの巨大な作品を創造することのできた人間、これがバッハなのだ。この大曲は、少なくとも第一音から最終音に至るまで作品に一貫するあの印象深く巨大な情念の統一性に関する限り、ロマン派時代の記念碑的作品であるヴァーグナーのトリスタンにのみ比せられるべきものであろう」(1948年、『音と言葉』芦津丈夫邦訳により一部改訂)。

そして彼の哲学的音楽観は、そのマタイの音楽の中に客観的、叙事的平静さと主観的、激情の両素が「模倣しがたい独自な仕方で結合している」ことを認識した。

その認識に立脚しつつ、神人イエスの受難と死の救済史に一貫するオラトリオ的・ドラマ的情念の統一性(いまかりにこれを「神的英雄の受難と死をめぐる悲劇性のパトス」と呼んでおく)を表出しようとした真摯な試みが、教会外の場で上演されたフルトヴェングラーのこのマタイ受難曲のユニークな特色ではなかろうか。

バッハ自身はすべて赤インクで記入した福音書聖句の一部省略を始め、アリア、コラールなどの省略も、単に時間上の制約というよりは、そうした悲劇的パトスの一貫性をより明確に打ち出そうとするこの指揮者の天才的直覚と曲全体のドラマ的把握から必然的に生じた行為だったといえよう。

しかし時代は二つの大戦の惨禍を経て、福音書をイエスという一人の宗教的天才の言行録と見る後期ロマン派的自由主義的神学(そこでは聖書の抜萃とその宗教史的、哲学的釈義が重視された!)が、神の主導権とキリストにおける福音の啓示の絶対性を主張する弁証法神学に、そしてまた様式史的、編集史的聖書教義の登場に席を譲らざるをえない情況となった。

そこからバッハを見直すとき、「原始キリスト教の信仰の本質こそが、バッハ自身にとって、未だに完全に自覚された生の基盤であり、魂の糧であった。そこでもし神学の語が、真のキリスト教信仰が自己自身によって立つ実質への自覚と反省への営みを意味するとすれば、バッハは神学の人であったといわねばならない。彼はベートーヴェンのような宗教性の音楽家たるにとどまらず、またブルックナーのようにナイーヴな教会的信仰の人でもなかった。バッハの神学的思考と洞察の枠外れのエネルギーは(カントやヘーゲルなどの思想よりももっと深く人の心を震撼し(シュヴァイツァーの言)、彼の音楽活動の全領域に充溢していて、そのどんな片隅に触れても純粋な生命力として吹き出して来るのである(ハンス・ベッシュ「バッハと終末論」1950年より)。

ルターの説いた十字架の神学をその神学的思考の核心に据えたバッハ音楽。

かくしていぜん大きな未開拓の世界を内蔵したマタイ受難曲は、その後の歴史的主義的復古演奏の試行錯誤を経て、たぶんその基盤の再発掘を含めて、また作品全体の新たな統一的構造の把握に(例えば礒山雅氏はこれを「慈愛の構造」として把えようとする(『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』173項以下)到達するように、現代の私たちに呼びかけ、さし招いているのである。

そして巨匠フルトヴェングラーは、その生涯の最後に、この人独自の全体的統一性の把握に基づくマタイ受難曲のライヴ録音(1954年4月14/17日。同年11月30日に68歳で逝去)を後世へのよき励ましとして、また時には反面教師の意味でも何よりも貴重な精神的教訓として残していってくれたのである。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 07:08コメント(0)バッハフルトヴェングラー 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



『世の終わりのための四重奏曲』はメシアン唯一の室内楽曲で、第2次大戦中の捕虜となった彼は収容所内でこの曲を書きあげた。

ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノという変わった編成は、たまたまそれらの楽器の演奏者達が同じ収容所内にいたからであり、初演は1941年に収容所内で行われ、ピアノパートを受け持ったのはメシアン自身である。

作品の内容については様々な解釈がなされているが、黙示録に題材を得た8楽章からなる大曲は、全篇平和への強い希求に貫かれ、信仰によって浄化された無類に美しい音の粒が聴く者の胸を打つ。

すべての音は限定された時空の枠を越え、無限の広がりの中で永遠の生へと昇華するが、戦争という極限状態が生み出した異常なまでの精神の緊張がキリストの死と復活のドラマにこれほどの普遍性を与えることに成功したのだろう。

本盤は、1970年代前半に、このメシアンの20世紀室内楽の最高傑作を演奏するために、ピーター・ゼルキンを中心とする当時のアメリカの新進気鋭の名手4人によって結成された「タッシ」が1975年に録音した不朽の名盤。

タッシの実質的なデビュー盤で、武満徹の『カトレーン』初演のために来日した折、柏市とニューヨークで録音されたもの。

この曲の録音はおそらく現代作品の中では最も多く、40前後はあるはずで、その中でタッシの盤はごく初期の方の録音に属するのだが、演奏の上ではいまだに第一級の地位にあるのは驚くべきことだ。

4人の演奏家はそれぞれ独立しても演奏しており、特にピアノのピーター・ゼルキン、クラリネットのリチャード・ストルツマンは有名であろう。

当時30代だったアメリカの気鋭の奏者による演奏は、いずれも清新かつ鋭敏な表現に貫かれており、まことに印象鮮烈で、しかも爽やかである。

最近は音楽も音楽家も言ってることのわりに非常に保守的なので、とりあえず違うものを求める雰囲気に満ちているこれは魅力的。

いくらか神経質に思われるほど俊敏なピーター・ゼルキンのピアノ、精細な感性が光るカヴァフィアンのヴァイオリン、ほのぼのとした響きをもつシェリーのチェロ、そして弱音から強音まで柔らかい響きを奏でるストルツマンのクラリネットと、名うての名手が揃ったアンサンブルは絶妙である。

この作品は楽章によって独奏や二重奏になる部分も多く、第3楽章でのストルツマンの独奏や第8楽章でゼルキンに伴われたカヴァフィアンの息の長い独奏は忘れ難い。

この録音は、1970年代半ばという時代そのものの記録であることから、ジャケットや、メンバーたちのポートレートを眺めるまでもなく、その音楽には、当時のアメリカの文化状況の刻印は明らか。

現在は活動を停止してしまっているこのユニークなアンサンブルの超絶的な名演として忘れることのできない貴重な記録と言うべきだろう。

演奏の完成度と合わせ、メシアンの受容史という観点からも重要な1枚である。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 04:06コメント(2)メシアンゼルキン 

2022年03月05日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



演奏家の世代交代は常に行なわれていて、しかもそのテンポは速く、激しいが、ヒラリー・ハーンは選り抜きの一人であることを決定的に印象付けた録音。

本盤はハーンが得意とする現代作曲家二人の作品を取り上げたもので、特にバーバーのむせかえるようなカンタービレの特徴を巧みに捉えて奏でるハーンのソロが秀逸。

しかしそれは恣意的で濃厚な表現と言うよりは、むしろ普遍的で考え抜かれた歌心の表出で、そこに彼女の現代音楽に対する洗練された感性が感じられる。

また終楽章での切れ味の良いテクニックを披露する部分も実に鮮やかに再現している。

一方エドガー・メイヤーの協奏曲は民族音楽と映像的な描写を取り入れた、如何にもアメリカの作曲家らしい作品だ。

ハーンの解釈は決して表面的な効果を狙ったものではなく、新しい時代のヴァイオリン音楽のひとつの優れたサンプルとして真摯に表現したところに好感が持てる。

勿論この曲の持つ喜遊的な要素を聴かせるという意味では、更にこれからの彼女の演奏に期待したい。

ヒュー・ウルフ指揮のセント・ポール室内管弦楽団の生命感に溢れる生き生きとした伴奏もソロをよく支えて好演。

どちらも1999年の録音で、音質は極めて良好。

ソニーは新人には冒険をさせずに売れ筋の曲を録音させる傾向が無きにしも非ずで、その辺りのポリシーがハーンとの齟齬を招いたのかも知れない。

2003年以降彼女との契約を更新できなかったことはソニーにとっても芸術的な損失であったに違いない。

しかし流石にキレの良い鮮明な音質はハーンの清々しいヴァイオリンの音色を良く伝えている。

その如何にもフレッシュな音楽性とテクニックの調和は、ヴァイオリン界の新星という形容詞に相応しいものだったが、ハーンのその後の成長を見れば単なる器用な美少女ではなかったことは明らかだ。

感性主導型が多い女流ヴァイオリニストとは一線を画した一種謎めいた冷やかさがあって、その辺りにとっつきにくさを感じる人もいるかも知れない。

当時のハーンの年齢からすれば当然だが、確かにこの時期の彼女には完成されたヴァイオリニストとしての資質は備わっていたとしても、余裕というか遊びの部分が欲しかった。

それはこのエドガー・メイヤーの協奏曲を聴けば明らかだろう。

しかし彼女の演奏には耽美的な要素は微塵もなく、常に知的な雰囲気が漂っていて、即興的な面白みやスリルはないかも知れない。

感性と知性のバランスを真摯に探る姿勢が今後のハーンの演奏にも反映されることは確実だろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 23:49コメント(0)ヒラリー・ハーン 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ダヴィッド・オイストラフとレオニード・コーガンは1950年代に相次いでアメリカ・デビューを飾ったが、このCDには彼らが丁度その時期にボストン交響楽団のサポートで録音した4曲が収められている。

東西冷戦当初、旧ソヴィエト連邦の芸術家たちは国外での活動が著しく制限されていたが、いわゆる「雪溶け」の時代になると、少しずつ世界に紹介されるようになってゆく。

この録音は、そうした時代におけるレオニード・コーガンとダヴィッド・オイストラフというソ連の2大ヴァイオリニストの、初のアメリカ・ツアーの際に収められたものである。

コーガンの驚異のテクニック、オイストラフの懐の深い演奏が聴きものだ。

ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲ニ短調とサン=サーンスの『ハバネラ』はコーガンのソロ、ピエール・モントゥーの指揮で、1958年のヒス・ノイズも殆んどない鮮明なステレオ録音だ。

ハチャトゥリアンの協奏曲ではモントゥーの創り出す色彩豊かな音響の中に、コーガンのヴァイオリンが冷徹とも言えるリズム感で鋭利に切り込んでいく鮮やかなテクニックが冴え渡っている。

第2楽章アンダンテ・ソステヌートの幻想的なカンタービレの美しさにもコーガンらしい媚びのないしめやかさが感じられる。

対照的に終楽章で彼は血の騒ぐような無窮動的な民族舞踏の曲想を漸進的なテンションを維持しながら息をもつかせず弾き切っている。

頻繁に聴かれる変則的なリズムをものともせずに一糸乱れずオーケストラを率いるモントゥーの棒さばきも爽快だ。

サン=サーンスの『ハバネラ』は、ソロにも管弦楽に呼応したエキゾチックな甘美さがもう少しあっても良いと思うが、コーガンの隙を見せないフラジオレットや重音奏法などの妙技が心地良い1曲だ。

一方後半の2曲、ショーソンの『詩曲』及びサン=サーンスの『序奏とロンド・カプリッチョーソ』はオイストラフののソロで、指揮はシャルル・ミュンシュだが、こちらは1955年のモノラル録音になる。

ただ幸いにも録音状態、音質ともに極めて良好な状態で残されていて、今回同シリーズで初CD化されたソナタ集と並んでオイストラフの貴重なアメリカ・デビュー・アルバムが復活したことになる。

またここではミュンシュの得意にしていたフランスのレパートリーということもあって、シカゴ交響楽団から巧みに情緒と陰翳を引き出して、これらの小品にある種の刹那的な魅力を与えている。

オイストラフのソロは磐石で、ショーソンの妖艶さからサン=サーンスの快活さまでを、全く無理のない自然体の奏法と大らかなリリシズムで表現している。

彼としては際物になる曲種だが、こうした作品でも彼の音楽性の豊かさ、優れた表現力とそれを支える万全のテクニックが充分示されている。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 19:30コメント(0)コーガンオイストラフ 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



破滅的な世界大戦が終結して6年の歳月が流れた1951年7月、フルトヴェングラーが指揮する「第9」により、ナチス・ドイツ時代の呪縛にあえいでいたバイロイト音楽祭が劇的に再開された。

フルトヴェングラーに代わって楽劇の指揮を取ったのは、共にバイロイトは初めてとなるカラヤン[マイスタージンガー、リング(CDは『ラインの黄金』と『ワルキューレ』第3幕、『ジークフリート』のみ)を指揮]とクナッパーツブッシュ[(リング(CDは『神々のたそがれ』のみ)、『パルジファル』、『マイスタージンガー』を指揮]であった。

新時代の旗手としてスターへの階段を駆け上りつつあったカラヤンと、音楽を志して以来一貫してワーグナーを熱烈に賛美し、彼の作品上演のために身を捧げてきたクナッパーツブッシュは鮮やかな対照を示している。

そして、両者の創り出した音楽は、聖地に巡礼してきた、音に飢えたワグネリアンの胸裏に終生忘れることのない深い感銘を刻印した。

1930年代の終わりに彗星の如く桧舞台に登場し、瞬く間にドイツ楽壇の寵児となり、「奇蹟のカラヤン」と賞賛されたヘルベルト・フォン・カラヤン。

終戦直後一時的に不遇を託つが、持ち前の意志力でEMIの花形指揮者の地位を勝取るなどし、栄光への階段を駆け上がった。

その最中の1951年には、指揮者陣の柱石となることを期待され、戦後初めて開催された記念すべきバイロイト音楽祭に華々しく登場した。

この年、『ニーベルングの指環』チクルスと『マイスタージンガー』を指揮する重責を担い、精緻な構成力、流麗な造形力を駆使し、明晰かつ情熱的な音楽で聴衆を圧倒、新時代の到来を鮮やかに印象付けた。

しかし、好事魔多しの諺通り、翌年の『トリスタン』を最後に、バイロイトとは袂を分かつことになる。

この後カラヤンは、ウィーン、ベルリン、スカラ座に君臨し、「帝王」の名をほしいままにしたが、再びバイロイトのピットに入ることはなかった。

この『マイスタージンガー』は、黄金の翼を羽ばたいて天へと飛翔するかのようなカラヤン壮年期一世一代の晴れ舞台の貴重な記録である。

この楽劇にまとわりつくナチス時代の不幸な埃を払い落とし、作品に内在するヒューマンな感情と祝祭的な高揚感を余すところ無く表現している真に傑出した演奏である。

後年の有名なドレスデン国立歌劇場管弦楽団での再録音と比べても、一気呵成に畳み込む推進力の鮮烈さや積極果敢な覇気に富んだ表現意欲の鋭気など、演奏内容ではこちらの旧録を推す人が多いのむべなるかなと頷ける。

1970年代のドレスデンとのステレオ盤よリ素直な表現で、戦後のバイロイト再開の記念碑的な名演の興奮が伝わってくる。

エーデルマン、シュヴァルツコップ、ホップ、クンツなど、当時最高の歌手を揃えた布陣で望み、声楽面での瑕瑾も見当たらない。

当時のベスト水準のキャストを擁し、冷静なカラヤンの指揮にもライヴらしい高揚感が漂い、まさに至高の音楽が現出されている。

カラヤンのプロデューサーとして有名なEMIのウォルター・レッグが自身バイロイトに乗り込んで収録した甲斐があり、デッカ録音とはまた趣の異なった、暖気に満ちた気品のある精妙な音づくりも魅力をいや増している。

カラヤンがバイロイトで公式録音したワーグナーの作品は、この全曲盤と『ワルキューレ』第3幕のみだった。

今回のNAXOS盤では、保存状態のよい初期LPレコードを基にして、クナッパーツブッシュの『パルシファル』で大評判を取った令名高い覆刻エンジニア、マーク・オバート=ソーンが丁寧にCD蘇生を施している。

現代人の耳をも充分満足させ得る第一級の仕上がりを誇るものと言えるだろう。

この『マイスタージンガー』の古典的名盤は、1951年7、8月にバイロイト音楽祭で演奏された5回の公演と1回のリハーサルに基づいて制作されたものである。

この録音は最初から磁気テープに収録され、最初は、当時よく見られたように、LP(今回の復刻CDのソース)とSPセットの両方が同時に発売された。

オリジナルのEMIコロンビア録音は、様々な側面で論議を呼んでいる。

異なった演奏の継ぎ合わせがしばしばあからさまに目立ち、時折音ゆれや音量の変動が発生する。

声楽は近接録音されており、大声量の楽節では耳障りな傾向がある。

第3幕の式典開始の場面のような大規模アンサンブルの部分を除けば、この録音では、デッカのエンジニアによって同時に収録されたクナの『パルジファル』におけるほどには、バイロイト祝祭劇場の独特のアコースティックな音響特性の雰囲気を伝えていない。

マーク・オバート=ソーンの復刻作業では、オリジナルのLPレコードから聴き取れた暖かさを現出するように努めてみたという。

高音域の増強よりも、偉大な存在感や瞬間をイメージできるように創造しようと試みたそうだ。

また、この方法に沿い、正統的なワーグナー・サウンドにふさわしい豊かな低音の響きに留意している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 14:25コメント(0)ワーグナーカラヤン 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



フルトヴェングラーの戦時中の行動は、抵抗する「国内亡命」といえるか、それとも政治的無知として断罪されるべきかは、高度な政治問題である。

この点について、リースの本の中でフルトヴェングラーが戦争勃発寸前の1937年の夏、ザルツブルグ音楽祭でトスカニーニとであったくだりにお互いの思想をぶつけあった記述がある。

リースによれば、この時二人が対面して交わした話には、幾通りかの記述があるのだが、その中で筆者に最も真実らしく考えられる一節が次に述べる通りである。

「フルトヴェングラーが数回の客演演奏会のためにザルツブルグにやって来た時、彼は同僚たちから暖かく迎えられた。ただトスカニーニのみは、彼がナチ政府の代表者であることに我慢ができず会うことを避けた。この二人が、よぎない事情で顔を合わせることになった時、フルトヴェングラーがトスカニーニに、彼の『ニュルンベルクの名歌手』の素晴らしい演奏を心からほめたたえた。」

「これに対し、トスカニーニはまったく冷たい返答をかえした。『御挨拶をそっくりおかえし申したいところです。私は、自由な考えをもつすべての人間を迫害する恐ろしいシステムに甘んじられるような者が、ベートーヴェンをまっとうに演奏できるものではないとつねづね考えています。あなた方ナチスの人びとは、精神の自由な表明を全部おさえつけ、許したものといえば、力のゆがめられたリズムと、これ見よがしのお芝居だったではありませんか。「第9」は同胞愛のシンフォニーであることを考えてください。「百万の友よ、相抱いて」の言葉を書きおろしたのも、この言葉を音楽にしたのもドイツ人であったことを忘れないで下さい。この人類に向かっての力強い呼びかけを本当に指揮した人なら、どうしてナチスであることに甘んじておられましょうか。今日の情勢下で、奴隷化された国と自由な国の両方で同時にタクトをとることは芸術家にとり許されません。』と言ったというのである。

これに対しフルトヴェングラーは『もしそうすることによってあなたがザルツブルグ音楽祭のための活動を続けて下さるなら、私は喜んでもう二度とここへ来ないつもりです。しかし私自身は、音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もないと考えています。ヴァーグナーやベートーヴェンが演奏される場所では、人間はいたるところで自由です。もしそうでないとしても、これらの音楽を聴くことによって自由な人間になれるでしょう。音楽はゲシュタポも何ら手出しできない広野へと人間を連れ出してくれるのですから。偉大な音楽は、ナチの無思慮と非情とに対し、真向から対立するものですから、むしろ私はそれによってヒトラーの敵になるのではないでしょうか。』

トスカニーニは頭をふって、『第三帝国で指揮するものはすべてナチです!』」

リースはこれに続けて、自分の見解をこう付け加えている。

「大切なのは、ここでは主観的見解の違いだけが問題なのであって、どちらが実際に正しかったかは別問題だということは忘れないことだ。実際において正しかったのは、もちろん、トスカニーニであった。そしてそののち数年間にわたり、彼の正しさを証明することとなった。なぜなら、独裁政治の内部には現実を超越した自由などありえないのだから。しかし、より高い意味で、いや最高の意味でどちらが正しかったかということについて、果たして疑問の余地があっただろうか?フルトヴェングラーは、実際に自由でいることのできなかった独裁の中にあってさえ、自己の自由を感じることができたのである。なぜなら、彼の真実の世界、内面の世界には、ヒトラーもいなければ、ムッソリーニもいなかったのだから。」

このようにリースの言葉をたどってみて、まず、どうやらリースは最初に述べたことを後段になって忘れてしまっているようである。

さらに筆者が思い起こすのは、前述したドイツ的内面性の神話である。

それは「精神」「内面性」といったフラーゼをつらねながら一個の自足した文化空間をつくり上げる一方で、近代文明やそれに帰属する実証的、実践的運営のための統治技術といったものを程度の低いものとして斥け、自らの世界の「崇高さ」を誇る、というドイツ的内面性の神話である。

ドイツ人は文明と文化を厳格に区別することをはじめた人種である。

文明、すなわち経済も政治も便益の手段にすぎず、リースが「真実の世界、内面の世界」とつづけて書いているように、真実の世界は内面の世界であり、内面の世界は真実の世界なのである。

それはまた、さらに芸術が実現しようとしている自由の世界でもある。それゆえ、ドイツ人にとっては政治、つまり便益の世界で自分たちの意にそぐわないことが起こっていても、それが自らの精神、文化の世界に侵入し、冒してきさえしなければ、それを見逃すか、政治的不可避の悪として許容される。

だから世界に誇る頭脳と教養の士、知識人と芸術家のいたドイツで短期間に、しかもきわめて低級で野蛮な手段でナチスが政権を奪取できたのである。

フルトヴェングラーもドイツ人の例にもれず、政治がどれほどデモーニッシュな権力を持ちうるかということに対して全く気がつかなかったのである。

これに対し、イタリアのルネサンスとヒューマニズムの伝統のもとに育ったトスカニーニは、それをいちはやく見通した。それだけでなく、全力をつくして抵抗し、自らの行動がファッショのもとでは許されないとなると即座にアメリカに出て行った。

フルトヴェングラーの二重で、他者からみると理解に苦しむ曖昧な態度は、連合国すなわち、イギリス、フランス、オランダなどでなら、許される余地があったのかもしれない。

だが現実的にはナチス・ドイツには、トスカニーニがフルトヴェングラーに言った通り、精神の自由などあるはずもなく、権力の奴隷にされた国民の塊しかなかった。

フルトヴェングラーは世界の多くの人々がナチに奴隷化された国で指揮棒をとるものは許されないと考えていて、友人の多くでさえ、なぜ彼がドイツに留まるのかを理解できないでいることを承知していた。

「『個人的利益のためだと真向から非難する人々も少なくなかった。もちろん、それが事実無根であることは、私自身が誰よりもよく知っていた。しかし、私がドイツにあくまでも踏みとどまらなければならぬということは、あらゆる理由をこえ、あらゆる有罪無罪の問題をこえて、揺るがぬ私の信条であった。かつては、キリスト教がわれわれの共通の故郷であった。だが、この信仰の問題が背後に退いた後、あとに残るのは国家だけである。なぜといって、音楽家にとっては、やはり一つの故郷は必要なのだ。たとえヒトラーに共感するところがどんなに少なかろうと、私は、ドイツと最後まで運命を共にしようと思ったのだ。世界における、または世界に対しての私の立場などは、決して、そして最も決定的な問題ではなかった。』

したがって、フルトヴェングラーは『音楽家にとって故郷は必要であり、亡命などは逃避にすぎない。』と考え、行動した。」とリースは記述している。

「芸術と政治とは何の関係もないと、人びとは口癖のように言う。何と間違った考えだろう。芸術も政治も、真空では存在できないということがわかっていないのです。双方とも働きかける人間が必要です。公衆が必要です。音楽は何よりも共有体験でなければならない。公衆のない音楽とは、存在不能でしょう。音楽は、聴衆と芸術家との間にある流動体です。音楽は、構築物でも、抽象的発展でもなく、生きた人間の間に浮動する要素です。そしてこの運動により意味をもつのです。」

とフルトヴェングラーはリースに語っている。

この彼の言葉と、彼のトスカニーニに対する返事とが矛盾するのかしないのか、トスカニーニは矛盾していると考え、フルトヴェングラーは矛盾しないと考えていた。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 04:18コメント(0)フルトヴェングラー書物 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ユニバーサルやワーナーが揃ってSACD盤の発売に積極的になってからというもの、一時は瀕死の状態にあったSACDが急速に脚光を浴びるようになったというのは、パッケージメディアの良さをあらためて認識させるという意味において、大変喜ばしいことである。

そうしたSACD復活の流れの中で、大指揮者による数々の来日公演のCD化で定評のあるアルトゥスレーベルが、ムラヴィンスキーの来日公演(1973年)のCD2点を皮切りとして、シングルレイヤーによるSACD盤の発売に踏み切ったのは、何という素晴らしいことであろうか。

アルトゥスレーベルによるSACD化第2弾として、何を発売するのか筆者としても非常に興味を抱いていたところであるが、選ばれた音源は、いずれも文句のない歴史的な名演揃いである。

第2弾の2点のSACD盤のうち、もう一つのSACD盤に収められた、ヨッフムの死の半年前の来日公演のブルックナーの交響曲第7番及びモーツァルトの交響曲第33番も、歴史的とも言うべき超名演であるが、本盤に収められたケーゲルによるベートーヴェンの交響曲第5番及び第6番についても素晴らしい名演であり、その価値においてはいささかも引けを取るものではない。

そして、本演奏もケーゲルの死の1年前の来日公演の貴重な記録であり、アルトゥスレーベルによる第2弾の音源の選び方にも、なかなかの工夫がなされているという好印象を受けたところだ。

ケーゲルは、独カプリッチョレーベル(現在は解散)に、手兵ドレスデン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音(1982〜1983年)しており、それもケーゲルの名を辱めることのない名演であると言えるが、本盤の演奏とは比べ物にならないと言えるだろう。

それにしても、本盤の演奏はとてつもなく凄い演奏だ。

筆舌には尽くし難い演奏というのは、本演奏のようなことを言うのであろう。

本演奏には、生きるための希望も、そして絶望も、人間が持ち得るすべての感情が込められていると思われる。

「田園」の第1楽章の超スローテンポや、第5番の終楽章の大見得を切った表現など、個性的な解釈が随所に聴くことができるものの、全体としては、表向きは淡々と音楽が流れており、加えて平静ささえ漂っているだけに、嵐の前の静けさのような不気味さを感じさせる演奏とも言えるところだ。

翌年には自殺を図るケーゲルが、どのような気持ちで本演奏を行ったのかは不明であるが、そうしたケーゲルの悲劇的な死を我々聴き手が知っているだけに、余計に本演奏にとてつもない凄みを感じさせるのかもしれない。

併録の「エグモント」序曲やバッハのG線上のアリアも名演であるが、特に、凄いのはG線上のアリアであろう。

一聴すると淡々と流れていく各旋律の端々には、ケーゲルの救いようのない絶望感を聴き取る(というか感じ取る)ことが可能であり、まさに我々聴き手の心胆を寒かしめる演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本盤は、演奏の素晴らしさ(というよりも凄さ)、そして極上の高音質という、望み得る要素をすべて併せ持った至高の名SACDと高く評価したい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 01:13コメント(0)ケーゲルベートーヴェン 

2022年03月04日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



我が国においては、故吉田秀和氏のように好き嫌いを別にして公平に指揮者を評価できる音楽評論家は数少なかった。

本著には、1954年のパリ・オペラ座でのフルトヴェングラー指揮の演奏を聴いた感動を語る「荘厳な熱狂」、ベートーヴェン「エロイカ」のフルトヴェングラー指揮の演奏を徹底分析したその名も「フルトヴェングラーの『エロイカ』」、ナチス・ドイツに残ったフルトヴェングラーの芸術観(たとえドイツがナチスに牛耳られていようと故郷、祖国に踏みとどまり、民衆を見捨てなかった)を考察する「フルトヴェングラーのケース」、トスカニーニとの1937年、ザルツブルク音楽祭での対面と短い会話が紹介されていて興味深い。

吉田氏はフルトヴェングラー生前中から既に彼の指揮が時代遅れのスタイルであることを指摘していた批評家が少なからずいたことを書いているが、筆者自身そう感じたことがあった。

それは26歳のフィッシャー=ディースカウが抜擢された1951年ザルツブルクでのマーラーの『さすらう若人の歌』のライヴ録音を初めて聴いた時で、ウィーン・フィルから官能と陶酔、そして破滅の予感さえも描き出した演奏が世紀末のウィーンの空気感をイメージさせて素晴らしかったが、それが一種の懐古趣味に思えたからだ。

だが吉田氏が力説しているフルトヴェングラーの優れたところは、彼が生きた時代の音楽的趣味や傾向を演奏に反映させていることを認めながら、なおかつより普遍的な楽理的要素を深く読み取って精神的に昇華させ、聴き手に感知させる術を知っていた稀な指揮者だったと回想している。

例を挙げれば作曲家が曲想を変化させる時、それが前後に何の脈絡もなく起こるのではなく、変化に至る必然性を曲の中で刻々と予告しているのだと主張する。

実際ベートーヴェンを始めとするドイツ系の作曲家の作品ではそうした変化の兆しが周到に用意されている場合が多い。

こうした手法によってたとえテンポをかなり自由に動かしていても、聴衆にはその有機的な繋がりが効果的に聴き取れることになる。

これについてはベートーヴェンの交響曲第3番及びブラームス同第4番におけるアナリーゼに詳しい。

ここ数十年のクラシック演奏の傾向として、先ず楽譜に忠実であることが求められる。

しかし楽譜は音楽を伝えるための媒体に過ぎないので、こう書いてあるからそのように演奏するというのは如何にも短絡的な発想であり、聴き手を説得することはできないだろう。

むしろ演奏家は音符に表すことができなかった作曲家のメッセージがどこに、どのようにして存在するかを解明し、それを実際に音にして伝達しなければならない。

その意味でフルトヴェングラーは多くの人が誤解しているように、恣意的な解釈、あるいは即興で人々を熱狂させたカリスマ的指揮者とは一線を画している。

逆説的だが彼の手法は現代の指揮者が目指すべき方向にも相通じる課題の示唆的な解決策を含んではいないだろうか。

最後の章は政治学者、丸山眞男氏との対談で、クルト・リース著『フルトヴェングラー、音楽と政治』をベースにフルトヴェングラーとトスカニーニを対峙させて、両者を育んだ異なったふたつの文化や思想基盤を根拠に彼らの言動の究明を試みている。

フルトヴェングラーが政治に関して意外に無知だったこと、政治が芸術に及ぼす影響力を見くびっていたことなども考察されているが、彼は芸術が政治によって関与されるべきものでないという信念を貫いていたことは確かだろう。

ここではトスカニーニによるニューヨーク招聘を断わって、ナチス政権真っ只中のドイツに留まった理由を、彼の芸術の真の理解者は先ずドイツ人達である筈だと信じていたことなどが論じられていて興味深い。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 21:45コメント(0)フルトヴェングラー書物 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



これは全盛期のカラヤンだけに可能な圧巻の至芸を味わうことができる名CDと言えるのではないだろうか。

カラヤンは幅広いレパートリーを誇ったが、その中でもオペラについては得意中の得意としていた。

カラヤンによるオペラ演奏については、いわゆるアンチ・カラヤン派の識者の中にも評価する者が多く存在しているところであり、カラヤンが遺したオペラ演奏の中でも相当数の演奏については、オペラ演奏史上でも歴史に残る超名演と言っても過言ではあるまい。

そのようなオペラを得意とするカラヤンにとってみれば、本盤におさめられたオペラのバレエ曲は自家薬籠中の楽曲とも言えるところであり、どの演奏も正に水を得た魚のように、生き生きとした躍動感と切れば血が噴き出てくるような圧倒的な生命力に満ち溢れた名演奏を成し遂げている。

演奏は、1970〜1971年というカラヤンが心身ともに充実していた時代のものであり、加えて、手兵ベルリン・フィルも名うてのスタープレイヤーが数多く在籍する黄金時代にあった。

そして、カラヤン&ベルリン・フィルは、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの咆哮、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルのもとに融合し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。

そして、カラヤンは流麗なレガートを施すことによって、重厚さと華麗さ、そして流麗な美しさを誇るいわゆるカラヤン・サウンドの醸成に成功していた。

本盤の各楽曲の演奏においてもそれは健在であり、どこをとってもいわゆるカラヤン・サウンドに満たされた、豪華絢爛にして豪奢な演奏に仕上がっている。

オペラのバレエ音楽には、かかる演奏は見事に功を奏しており、加えて、オペラを得意とするカラヤンならではの聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりも相まって、これ以上は望み得ないような完全無欠の圧倒的な超名演を成し遂げていると言っても過言ではあるまい。

現在では、クラシック音楽界も長期不況にあり、このようなオペラのバレエ曲のみを収録したCDを作成すること自体が困難なご時世ではあるが、カラヤンのような大指揮者がかようなオペラのバレエ曲集のスタジオ録音を行ったという、クラシック音楽界にいまだ活気があった古き良き時代を懐かしく思い出す聴き手は筆者だけではあるまい。

本盤については、長らく廃盤の状態にあったが(一部の楽曲については、別の楽曲との組み合わせで発売されている)、今般、久しぶりに再発売の運びになったことは慶賀に耐えないところだ。

加えて、従来CD盤での発売ではなく、SHM−CD盤での発売となったことは、全盛時代のカラヤンを代表する圧倒的な超名演であることに鑑みても極めて意義が大きい。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 11:11コメント(0)カラヤン 

2022年03月02日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



クーベリックの『わが祖国』と言えば、ボストン交響楽団とスタジオ録音した1971年盤や、手兵のバイエルン放送交響楽団とライヴ録音した1984年盤の世評が非常に高い。

近年では、来日時にチェコ・フィルとライヴ録音した1991年盤の感動も忘れ難い。

特に、バランスや解釈の普遍性に鑑みれば、1971年盤こそ随一の名演と評価すべきであるが、本盤の演奏は格別の感動がある。

それは、ビロード革命によりチェコが自由化された後の初の「プラハの春」音楽祭のオープニングコンサート、しかも、クーベリックが祖国を離れてから(冷戦時代を西ドイツで過ごした)42年ぶりに、再び祖国に戻っての演奏会という、特別な事情があるからである。

民主化した祖国の土を再び踏むこととなった1990年の「プラハの春」音楽祭での演奏は、同曲の演奏史に記念すべき1章を刻む名演となった。

まさに、歴史的な演奏会の記録と言うべきであり、ここには、自由を謳歌し、演奏する喜びに満ち溢れたクーベリック&チェコ・フィル、そして聴衆の熱気が大きく支配している。

クーベリックも楽団員も聴衆もチェコの物悲しい伝統的旋律に必ずしも幸福ばかりでなかったチェコの歴史を思い出しながら、やっと訪れた自由の味を噛み締めているのに違いない。

ここに立ち昇る並々ならぬ熱い空間は、完璧な集中力に研ぎ澄まされた演奏と情感を、聴衆と一体となって映し出しているようで、祖国への熱い想いはとても言葉では表せないに違いない。

最初の「ヴィシェフラト」のハープから、ノスタルジアが一杯という雰囲気がある。

特に、馴染み深い「モルダウ」は、祖国に対する深い愛情が感じられる至極の名演奏で、「ターボル」の力強いド迫力なども出色であり、「ブラニーク」冒頭の重量感は初めて耳にするような力強さだ。

終曲部の「ヴィシェラフト」の主題が再現される箇所は、あまりの迫力にただただ圧倒されるのみであり、演奏終了後の聴衆の熱狂も当然のことのように思われる。

世にライヴ録音のCDは数多くあろうけれど、この作品のように真に歴史のページに金字塔を建てた演奏はほとんどないだろうし、今後ともなかなかありえないだろう。

冷静になってクーベリックの指揮する『わが祖国』を今聴いてみると、基本的にアメリカのオケを振った録音が優れていると思う。

だがこの1990年のライヴは42年ぶりに、かつての手兵チェコ・フィルに復帰した、いわば一種の祝祭的イヴェントなのだ。

確かに演奏の完成度はシカゴやボストンを指揮したものの方が高いが、ここにはあらゆる恩讐を越え、無心の境地に達した巨匠の心境が、聴く者の心にひしひしと伝わってくる。

あらゆる欲得から解き放たれ、澄み切った心の晩年の巨匠の芸術を味わってほしい。

もはや平和にどっぷりと浸かり切っていられない世情になり、人々の思いが散りばめられた1枚とも言えるだろう。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 11:44コメント(0)スメタナクーベリック 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ロシア人の作曲家ショスタコーヴィチ(1906-75)はソ連時代という過酷な時代に生きた音楽家であった。

芸術家といえども社会主義国家建設に寄与することが求められたし、戦争の現実も作曲家の運命を翻弄した。

またスターリンや党との関係も常に緊張したものであり、眉目に皺を作らないでは一日たりとも過ごせない生涯を送ったと言えよう。

ショスタコーヴィチが残した弦楽四重奏曲は全部で15曲で、ほぼ生涯の全域にわたって作られている。

もっとも《第1番》は1935年、《第2番》は1944年に作られているから、スタートは遅かったと言えよう。

だがそれだけにショスタコーヴィチは成熟した技法と人間としての明確な自覚を綴った作品ばかりとなっている。

しかもそれらの中にはしかめっ面のイメージとは対照的とも言える陽気さ、快活さすら刻印した作品も見られるから、弦楽四重奏の世界はショスタコーヴィチはが公的な顔という以上に彼の素顔を装うことなく、率直に記した肖像画であると言ってもよいであろう。

《第3番》は第二次世界大戦が終結した翌年の1946年に作曲されたもので、全5楽章構成の規模の大きな作品である。

5楽章構成という点はこれ以前に書かれた《交響曲第8番》《同第9番》も同じだが、この弦楽四重奏曲もまた交響曲を思わせる表現の密度と劇的表情を誇っている。

第1楽章はまるでディヴェルティメントのように楽しいのだが、これはどうやらカモフラージュのようで、続く楽章からはムードは一変、深刻かつ激越な感情をむき出しになった音楽が続く。

楽想のコントラスト、すさまじいばかりのエネルギーの対照が聴き手を当惑させるほどである。

消え入るように終わる終楽章まで聴いていると、生きることは決してなまやさしいものではない、と諭されるかのようである。

ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲はベートーヴェンのそれとともに弦楽四重奏団にとっては踏破、征服すべき目標としてそびえ立っている。

作曲者自身と弦楽四重奏曲の大半を初演したベートーヴェン四重奏団も、北の工作員のように鍛え上げられた厳しい外面と暖かな情愛を秘めた内面の稀有のもの。

そうだ、これらの作品は他者を圧倒する音楽ではなかったのだ!

圧政下に人間らしく生きようとする近代人の魂の苦悩抜きにショスタコーヴィチ作品は語れない。

国内現役盤への復活を切に願う。

ショスタコーヴィチの音楽は聴き手の胸を鋭く突く。

痛いほどだが、忘れられない教訓を残してくれる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 07:25コメント(0)ショスタコーヴィチ 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。

 

ワルターはマーラーの交響曲第9番の初演者である。

もっとも、初演者であるからと言って演奏が素晴らしいというわけではなく、晩年のコロンビア交響楽団とのスタジオ録音(1961年)は決して凡演とは言えないものの、バーンスタインなどの他の指揮者による名演に比肩し得る演奏とは言い難いものであった。

しかしながら、本盤に収められた1938年のウィーン・フィルとのライヴ録音は素晴らしい名演だ。

それどころか、古今東西の様々な指揮者による同曲の名演の中でも、バーンスタイン&コンセルトヘボウ盤(1985年)とともにトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。

筆者としては、もちろんワルターの実力について疑うつもりは毛頭ないが、本演奏が超名演になった要因は、多分に当時の時代背景によるところが大きいのではないかと考えている。

ワルターがウィーンの不穏な情勢の中で振った美しくも凄まじいマーラー演奏。

本演奏が行われたのは第二次大戦前夜、まさにナチスドイツによるウィーン侵攻が開始される直前のものである。

ユダヤ人であることからドイツを追われ、ウィーンに拠点を移して活動をしていたワルターとしても、身近に忍び寄りつつあるナチスの脅威を十分に感じていたはずであり、おそらくは同曲演奏史上最速のテンポが、そうしたワルターの心底に潜む焦燥感をあらわしているとも言える。

同曲の本質は死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬であるが、当時の死と隣り合わせであった世相や、その中でのワルター、そしてウィーン・フィル、更には当日のコンサート会場における聴衆までもが同曲の本質を敏感に感じ取り、我々聴き手の肺腑を打つ至高の超名演を成し遂げることに繋がったのではないかとも考えられる。

ワルターならではのロマンティックな情感もさることながら、特に第3楽章を中心としてきわめて激しい気迫、鋭角的なアゴーギク、尖鋭な推進力が目立ち、それはほとんど聴く側に一種の危機感すら覚えさせる。

まさに、本演奏は時代の象徴とさえ言える唯一的な歴史的演奏のひとつであり、そこには言うなればこの交響曲の一種死を予感させる音の錯綜を通じて、社会的情勢の一触即発的な空気までも見事にリアライズしたものと評することもできそうである。

また、当時のウィーン・フィルの音色の美しさには抗し難い魅力があり、本名演に大きく貢献していることを忘れてはならない。

もしかするとこれはある種別格の録音なのかも知れない。

録音の古さは否定しがたいけれども、その折の無比の熱気は現在でもストレートに伝わってくる。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 06:41コメント(0)マーラーワルター 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



ディミトリ・ミトロプーロス(1896-60)のことを、クラシック界の高僧(モンク)と呼ぶ人がいる。

有名な指揮者でありながら、彼の私生活を知る人は非常に少ないこと、彼の演奏は死後20年余り経って初めて録音で世界で知られるようになったなど、指揮していた事実を除けばほとんど隠遁っぽい生活を送っていたという。

快楽を忌み嫌う、生活が質素である、芸術に厳しい、生涯独身である、純粋に音楽的に冷静で完璧な演奏といった点で、彼に太刀打ちできるのは、グレン・グールドぐらいだろうか。

「私はギリシャ人なので、何でも参考になる」という謙虚さなど、ギリシャ正教が音楽に対してもっと寛容であったなら聖職者になっていたに違いない。

ミトロプーロスの実演に接した人たちは、ときおり「神のようなミトロプーロス」という言葉を発していたと聞いたことがあるし、とにかく人間的に魅力的な素晴らしい人だったらしい。

そしてむろん音楽家としても、周知のように20世紀を代表する指揮者の一人に数えられる傑出した存在だった。

コンサート、オペラ、そして現代音楽の演奏に、第2次世界大戦前から戦中、戦後にかけて、大きな業績を残したミトロプーロスだが、残念ながら録音が少ない。

アルバン・ベルクの『ヴォツェック』は、その数少ないCBSの正規録音だが、もともとコンサート形式で行なわれた上演のライヴで、ニューヨーク・フィルの団員たちの年金の基金を得るためのものだったが、ミトロプーロスは全幕暗譜で演奏し、その恐るべき記憶力で語り草になっている。

この『ヴォツェック』の全曲演奏は、すぐに録音レコード化され、一番早い商業録音(LP盤)となった。

『ヴォツェック』は、1930年にベルリンでエーリヒ・クライバーの指揮により初演が行なわれた5年後にアメリカで同じくクライバーの指揮により「ヴォツェックの3つの断章」と題されて部分的に初演されたが、このアメリカ初演をしたのもニューヨーク・フィルであった。

ミトロプーロスの現代音楽の演奏にはいくらかの演奏家や指揮者にありがちな「私は、今難しい現代音楽を演奏している」といったしゃちほこばった構えが全くない。

この自然さは確かに彼がモーツァルトのスコアと同じように現代音楽を振れる(=暗譜できる)こともあるが、それ以上に彼の演奏はその現代作品の内包する(流行であった演奏スタイルではなく)時代の雰囲気を正確に映し出していることにある。

指揮者のアプローチから言えば、このオペラ最初の全曲盤であるミトロプーロス盤の方が、定評あるベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ盤より遥かに共感は深い。

なぜならベームによる『ヴォツェック』解釈は、基本的には彼が成功したシュトラウスの『サロメ』や『エレクトラ』のドイツ象徴主義ないしは新ロマン派風の青白いペシミズムと沈鬱さの表出に似ていて、ミトロプーロスが生み出す音楽のような途轍もない迫真さ、肝心要の赤裸々な悲しい人間の性(さが)の注視や、社会の汚点を怒りをもって凝視するような人間性に発する眼差しを欠いているからである。

それにアプローチだけでなくミトロプーロスとベームとを比べた場合、20世紀を語るにあたってのその存在の歴史的意義には、雲泥の差があると筆者は思っている。

ミトロプーロスは最後のヴォツェックの死よりもマリーの死の部分を強調する。

第3幕第2場で、血のついたナイフのような赤い月が上り、h音のティンパニの連打の中ヴォツェックがマリーを刺すシーンは、ハインリッヒ・ホルライザー指揮による1963年日本公演のライヴ録音の比ではなく、その後のh音による長いクレッシェンドもブーレーズの1966年の録音以上の緊張感である。

ヴォツェックが「死んだ!」と言う後の最初のh音によるクレッシェンドで一端音楽を切り捨て、2度目のh音の強奏からなだれ込むように居酒屋のシーンにもっていくことで、ミトロプーロスは、作品の大きな盛り上がりをここに作り出している。

前述のように『ヴォツェック』の最初の全曲録音(1951年)だが、同曲演奏史に残る貴重な演奏記録、感動的名演である。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 05:37コメント(0)ベルクミトロプーロス 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



旧ソ連の指導者にして20世紀最大の虐殺者とされるスターリン(1879-1953)の本当の怖さは私たちには推し量れないものだろう。

芸術家たちといえどもスターリンの意向を敏感に感じ取りながら筆を進めざるを得ず、不興をかえば強制労働やシベリア送り、悪くすれば命を奪われる状況だったのだから、これは怖ろしい。

子供が親を密告して表彰される世の中だったのである。

もちろんショスタコーヴィチもスターリンに悩まされた一人であった。

芸術家は自分のためではなく、革命によって獲得されたソ連邦の現実社会の発展と人民の幸福のためになる作品を書かなくてはならないという社会主義的リアリズムの規制が綿密に張り巡らされた時代であり、才能ある芸術家ほど壁にぶちあたった。

成功作と認められても安心できない、評価は政治情勢で変わってくるのだから、自ずと創作姿勢はカメレオン的にならざるを得なかった。

だがそんなスターリンも1953年3月5日に亡くなる。

ショスタコーヴィチがその年の夏から予定を繰り上げて書き上げたのが、この《第10番》であった。

足枷が取れたのだからさぞかし明るい作品かと期待されたが、スターリンの死をもってしても事態は何も変わらないことを見抜いていたのか、ショスタコーヴィチの筆はさらにペシミスティックになり、悲劇の深度を高めている。

地の底をはうような哀しみと阿鼻叫喚の叫びをコントラストも鮮やかに作品は展開、出口なしの人生交響曲とでもいうべき姿を形作っている。

第3楽章には愛する人へのメッセージを込めるなどショスタコーヴィチは過酷な時代にあっても愛を忘れなかった作曲家ではあるが、全体的には自分のための正と負のレクイエムといった雰囲気がある。

その結果、聴衆のことなど一切意識していないかのような暗鬱さが全曲を覆うという異例の交響曲となっている。

初演を行なったのはロシアの指揮界の巨人ムラヴィンスキーであった。

ショスタコーヴィチがもっとも信頼していた指揮者とも、嫌悪していた指揮者とも言われるが、さすがにロシア指揮界の巨人の演奏は作品を見事なる緊迫感とヴィルトゥオジティとで再現、歴史的名作にふさわしいドラマで聴き手に圧倒的感銘に浸らせる。

虚飾とは無縁の真実の人間の声を追求した演奏と言ってもよいであろう。

それと分かる笑顔もないし、幸福感の誇示もない。

高らかに鳴りわたる凱歌もないが、寡黙に生きる人間の内なる世界とは案外こういうものかもしれない。

声にならない悲劇を余すところなく描き出した名作であり、現代に生きる聴き手が避け難く持つ孤独感と不思議に呼応する真実の声のように思われる。

自分の心の城を守り抜くことすら危なかった時代の悲劇を映し出している。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 02:00コメント(0)ショスタコーヴィチムラヴィンスキー 

2022年03月01日


この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



フルトヴェングラーの一生は俗世界から超越した、音楽だけの生活であったが、舞台人である以上、俗世間との交渉は不可避のものであった。

不器用で処世術に疎く、謙虚で控え目な性格を持つ彼は、議論好きではあったが、世間のことには無知だった。

ソプラノ歌手のマリア・シュターダーは、フルトヴェングラーを「世事に疎い愚人」と呼んでいるが、そんな愚人がナチスと渡り合ったのだから、そもそも結果は見えている。

彼は政治などというものを頭から馬鹿にしていたが、実はそれがどれほどデモーニッシュな権力を持ち得るか、ということに対しては全く気がつかなかったのである。

このフルトヴェングラーの第二次世界大戦中の行動は、抵抗する「国内亡命」といえるか、それとも政治的無知として断罪されるべきかは高度な政治問題である。

そしていま、我々が改めて認識されなければならないのは、こうしたフルトヴェングラーのナチスへの加担が、本人の意識如何にかかわらず、彼の保持し続けようとしたドイツ教養市民文化の反啓蒙的な精神伝統に、そしてその核をなしている「内面性の神話」に由来しているということである。

1945年5月7日、ナチス・ドイツは崩壊し、46年、フルトヴェングラーはナチスに協力した罪で国民裁判の法廷に立たされた。

純粋な芸術家である彼にとって、この間の精神的苦痛はいかばかりであったろう。

初め周囲の証言は彼に不利であったが、次第にその正しさが立証され、彼を尊敬するメニューインなどの力もあって無罪が宣せられたのである。

ここに残念なことが一つある。

それは戦後初めてシカゴ交響楽団が彼をアメリカに招こうと試みた時、トスカニーニを始めとして、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ブライロフスキー、ハイフェッツ、ミルシテイン、ピアティゴルスキーなどの大音楽家がこぞって反対したことである。

すでに裁判でナチスに反対こそすれ、協力した罪はないということになっていたフルトヴェングラーに対するこの仕打ちは、芸術家としてはなはだ心の狭いことと言わねばならない。

彼らの潔癖さもわからぬではない。

しかしナチスとフルトヴェングラーの音楽に何の関係があるというのだろう。

それではフルトヴェングラーの言う通り「ドイツが共産主義になれば自分も共産主義となり、デモクラシーの下では民主主義者となってしまうのか」ということになる。

フルトヴェングラーへのアメリカの招請に対して、一言も反対しなかったたった一人の愛の音楽家ブルーノ・ワルターと、積極的に彼を迎えるべく努力した正義派のメニューインに、トスカニーニやホロヴィッツを始めとする反対者たちには見られない温かい人間味を発見するのである。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 19:37コメント(4)フルトヴェングラー書物 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



20世紀のバッハ表現を象徴したカール・リヒターの最高傑作で、真摯この上ない演奏だ。

来日時のライヴを含め、我々はほぼ10年の間隔で録音された3種類のリヒター指揮による《マタイ受難曲》演奏を持っている。

しかし初回のこの演奏はあらゆる録音の中の金字塔をなすもので、多くの人にとって、他の2つの録音はこの最初の録音からの変化か展開でしかない。

そればかりか他の指揮者による演奏も、「リヒターとくらべ云々」というように比較の基準としてきた。

それほどまでにこの演奏は、ある年代以上のファンにとって「マタイ体験」の原点にある。

1958年、ナチの悪夢が覚めやらないのにハンガリー動乱、東西冷戦と、明日の命がどうなるかわからない状況のなかに演奏家たちはいた。

リヒターが学んだドレスデンやライプツィヒは戦禍から回復する状況ではなかった。

牧師を父にもつ彼が、時代に対して語る言葉は説教ではなく演奏である。

キリストの受難に対するリヒターの自己投入のはげしさは、彼自身がキリストになったかとみまがうほど。

その底には信仰を失った現世への深い絶望がひそんでいる。

この世の不条理にいかに打ち克ち、それを乗り越え、神のもとに達するかがテーマとなっている。

ユダの裏切り、ピラトの心の動揺、ペテロの弱さ、それらが人間の生き方のアポリアとして聴き手に突きつけられる。

すべては霊的な生き方のための総力に還元され、キリストの生涯そのものへの同化として意識される。

鋭い劇的な造形はもちろんリヒターの解釈であるが、それとともに演奏全体の異様な昂揚は、たとえば曲中で「イエスを十字架に」と唱和する民衆に、ひと昔まえに狂信的独裁者を賛美した人々を重ねあわせられる状況があってこそもたらされたのではないか。

その熱さが、人の罪とか愛の根元的な思いが、聴く者の心を貫通する。

その意味でまさに希有な、再びは登場し得ない種類の演奏である。

リヒターは1979年に再録音、その1年後に急逝した。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 12:01コメント(2)バッハリヒター 

この記事をお読みになる前に、人気ブログランキングへワンクリックお願いします。



《ボリス・ゴドノフ》はムソルグスキーのオペラの最高傑作であるとともに、最もロシア的であるという点においては、ロシア・オペラの頂点にある作品と呼べるかもしれない。

ムソルグスキーの原典版以外にも、R=コルサコフによるふたつの版、イッポリトフ=イワーノフ版、ショスタコーヴィチ版などの異版も多く存在する。

かつては批判的に見られていたムソルグスキーのオリジナル版であったが、近年は、その評価が始まっている。

ロストロポーヴィチ盤は、作曲者の初稿と決定稿を集成したロイド・ジョーンズ校訂版による初録音(1987年)であり、原典に近づいたということで、オリジナルの姿を理解できるエディションとして、《ボリス・ゴドノフ》の標準版となった。

ロストロポーヴィチは鷹揚でありながら、細部まで目配りの効いた指揮で、この版の良さを伝えている。

ロストロポーヴィチ/ライモンディの《ボリス・ゴドノフ》はとても力強く、ほとんどライヴではこれほどの緊張感が持続できないのではないかというくらいに、その感触は最後まで変わらない。

ライモンディが熱演で、従来のバス歌手に比べて声も歌唱も断然明るく、一皮剥けた新鮮さがあり、ヴィシネフスカヤの1人2役も予想以上の好調ぶりだし、ゲッダの苦行僧もいい。

それでいて、ボリスという複雑なパーソナリティをライモンディはよく理解していて、この主人公は決して単純な暴君ではなく、英雄であり暴君、そして弱さと後ろめたさがぴったりとその裏に張り付いている。

カラヤンが振ったときの《ボリス》はあくまで英雄=暴君の悲劇を主軸に据えたものだったが、一方、クリュイタンスのはどうも今一つ全体的に覇気のない英雄=暴君であることによって、カラヤンにはない苦悩する人間ボリスを表わすのに、かえって、成功していた。

とはいえ、色々と「内面的」に葛藤している人間があくまで「君主」として人民の前では英雄=暴君を演じなければならない事態を、更に「演劇」として、オペラとしてここでは再現=表象しなくてはならないという難題が生じてくる。

そしてそれば見せ場=クライマックスを虚構するアリアでではなく、演劇=音楽的持続のなかでこそ表わさなければならない。

それは必ずしも歌手だけが引き受けることではなく、優れて指揮者がオーケストラに演じさせる役割をもつものだ。

ロストロポーヴィチもライモンディもどちらかと言えば淡々として音楽的持続を生み出しているのだが、そこには先にも述べたような力強さが終始あるのであり、それが秘められている、故意に噴出を抑えているところでこそ、ボリスのどうしようもなさ、幾重にも折りたたまれたパーソナリティの複雑さがひとつのかたちとなっているのだと言える。

ロストロポーヴィチ盤は、ポーランド出身の映画監督ズラウスキの同名の映画に使われており、ここでボリスを演じているのはライモンディそのひとである。

この映画=オペラにおける政治的・演劇的のコノテーションについては言及を差し控えるが、ロストロポーヴィチの淡々とした、しかしまた時としてロシア正教会の鐘の響きを思わせる華やかなオーケストラの響かせ方は、この映画にとってはなくてはならないものに思えるのだった。

ところで、クラシック音楽情報ならこちらがオススメです。
人気ブログランキング



フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室



classicalmusic at 08:38コメント(0)ムソルグスキーロストロポーヴィチ 
メルマガ登録・解除
 

Profile

classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

Categories
Archives
Recent Comments
記事検索
  • ライブドアブログ