2022年04月

2022年04月30日


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ハイドン交響曲全集第4集は『迂闊者』というタイトルで、第60番ハ長調は当初フランスの喜劇作家が書いた『迂闊者』の劇付随音楽として作曲されたもので、その6曲を交響曲に纏めたものだ。

そのために交響曲の楽章構成からは逸脱しているが、喜劇らしいエスプリがいたるところにちりばめられている。

特に終楽章プレスティッシモではヴァイオリンがポルタメントをかけながら、調律をし直す場面が書かれている。

これは『迂闊者』の失敗を想起させる音楽的な遊びだが、カップリングされたチマローザの『宮廷楽士長』はオーケストラの奏者達が、うっかりしてミスして早く出てしまったり、混乱する演奏を楽士長がなだめすかしながらまとめていくという幕間劇として面白おかしく書かれている。

この作品はより大規模なオペラ・セリアの上演中の舞台の転換時に、観客の気分転換としての役割を果たしたものだ。

しかし既にこの時代には、古典的なオーケストレーションが完成しつつあったことが理解できる。

楽士長がそれぞれ指示していく楽器の組み合わせを聴いていると弦楽と2管編成による管楽器群の対比や音色のバランスも良く考えられた小さな傑作である。

シンプルだが管弦楽というジャンルの基本配置とサウンドを体験させてくれる。

チマローザはイタリアのモーツァルトとも言われたオペラ作曲家だが、こうした小品にもその巧妙な手腕を示している。

交響曲第70番ニ長調の第2楽章ではバッハ以降、宗教曲以外にはそれほど重要視されていなかった対位法を駆使した二重カノンが使われている。

こうした作法はモーツァルトやベートーヴェンにも取り入れられることになる。

また第12番ホ長調はメヌエットを欠いた3楽章形式で書かれていて、後に特にウィーンではメヌエットのない交響曲では通用しないほどのエレメントになっていくことも興味深い。

勿論それはベートーヴェンによって破棄されることになるのだが。

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classicalmusic at 13:38コメント(0)ハイドン 

2022年04月29日


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筆者はこれまでにバーンスタインの晩年の演奏を、テンポを落とす箇所は極限まで遅く、逆に攻め込むところは一気に…という事大主義的で常軌を逸した解釈に疑問を呈してきたが、チャイコフスキーの「第5」の演奏は何故か少しも作為的ではなく、むしろ一段と説得力と必然性を伴っている印象を受けた。

第1楽章の序奏からして、ひたすら暗い。ターラーという下降する音が執拗に強調されるため、まったく救いようがない音楽になっているのだ。

しかも、主部に入ると突如テンポが速くなるので、ギクリとさせられる。もはや落ち込んでいることも許されず、せっつかれるかのようだ。

その後もテンポを大きく動かし、振幅の大きな音楽が続く。

チャイコフスキーはペシミスティックな人間だったが、彼の作品をこれほどまでにどん底の暗さで奏でた指揮者はあまりいない。

およそ15分の地点で訪れる崩壊感も、神経の細い人なら耳を覆いたくなるくらい、凄まじい。

世界的な名声を手に入れ、経済的にも豊かな音楽家がこのような異常な演奏をしてしまうところ、まさにそこにクラシック音楽としての恐ろしさがある。

第2楽章の開始も、途轍もなく重苦しい。まるで悪夢のようだ。

やがてホルンが美しいメロディを吹き始めるが、これは暗黒の中にあって一条の光にもなりきれない希望の気配である。

およそ4分の地点で聴かれるチェロとコントラバスの不気味な力といい、まさに絶望とほんのわずかの希望の交錯する比類のない音楽であり、ひたすらもがく人間がいるばかりである。

第4楽章も、まるで刑場に引き出されるといった気分で始まるのに驚かされる。やはりテンポは極限まで遅く、その上、随所で止まりそうに減速される。

この楽章は普通に演奏すると、妙に軽々しくまた騒々しくなってしまうのだが、バーンスタイン流は違う。

遅いところは極端に遅く暗く、速いところはとびきり速くという設定だから、前から続いてきた二元論的ドラマが持続するのだ。

いよいよ、最後、勝利の行進では、演奏家が作品を信じていること、音楽を信じていることがよくわかる。

そして、これは信じないと説得力をもって演奏できない種類の音楽では確かにあるのだ(作曲家自身ですら、完成させたあとで、何か嘘くさいと告白している)。

音楽は一挙に解放され、圧倒的なクライマックスに達するが、こんな演奏は純粋さがない人間には絶対に不可能である。

ニューヨーク・フィルがバーンスタインのやりたい放題、常識から言えば滅茶苦茶にブチ切れた解釈に食らいついてくるのにも感心するほかない。

さすがのバーンスタインもこのような異常な演奏は、長年率いたニューヨーク・フィル以外とはなかなか実現できなかった。

「ロメオとジュリエット」は「第5」ほど大胆な強調は行われていないものの、ここまで曲への共感を露わにした演奏は他にはないのではないかとすら思わせる名演奏である。

第一に、楽器の表現力の雄弁なこと。弦楽器のハーモニーは実に美しく、哀切感を盛り上げる。

しばしばうるさいばかりで雑な音をたてると悪評されるニューヨーク・フィルがこんな響きを出すこともあるのだと心底感嘆せずにはいられない。

若い恋人たちの逢瀬の場においては、弦楽器が濡れそぼつような響きを立てているし、フルートやオーボエは陶酔的に歌っている。

これを聴いていると、まるで自分が物語の主人公になったかのような気がしてくる。

いざとなればこんな震え上がるような演奏ができる、これが世界のトップオーケストラたちの恐ろしい実力なのである。

音楽が破局に向かっていく最中に聴かれる、大波が打ち寄せるような弦楽器のうねりに端的に表れているように、スケールも極大で、これでこそ、ロメオとジュリエットの悲劇が生々しい事件としてわれわれの眼前に広がるのだ。

その上、最後がとても印象的だ。普通、ここは浄化されたように奏される。ロメオとジュリエットは地上では不幸だったが天国で結ばれる、また、ふたりの犠牲を目の前で見て人々も自分たちの愚かさに気づき、仲直りをするはずだからだ。

だが、バーンスタインではまったく浄化されたように聴こえない。彼はこの都合のいい救いを信じていないようだ。むしろ、いささか憤怒の様子で曲は閉じられる。

現代の世界情勢を見ても、苦しみには終わりがない。この物語のようにうまく仲直りはできない。とするなら、このバーンスタインの演奏はきわめてリアルだと言うしかないだろう。

彼は晩年において、このように、同時代に匹敵する者がいないくらい、独自の表現世界へ入っていった。

内面の吐露、いや苦しみを吐き出すという言葉がぴったりの音楽で、私小説のような業苦の世界が提示された。

バーンスタインは、最後の最後に至るまで、現世の苦痛の中でもがいていたように見える。それゆえ聴衆が彼を圧倒的に支持したのではないかとも思うのである。

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classicalmusic at 06:51コメント(0)チャイコフスキーバーンスタイン 

2022年04月28日


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カラヤンの生誕100周年を契機に、様々なライヴの名演盤が発掘されてきたが、本盤も、カラヤンがライヴの人であることを証明する素晴らしい名演だ。

近年発売された様々な伝記でも明らかにされているが、カラヤンは、スタジオ録音とコンサートを別ものと捉えていた。

そして、コンサートに足を運んでくれる聴者を特別の人と尊重しており、ライヴでこそ真価を発揮する指揮者だったことを忘れてはならない。

本ライヴ盤(1950年)の異常な緊張は、ミサ曲ロ短調の録音史上で空前のものと言え、楽員と一体になっての音楽の高揚は、時に魂が張り裂けんばかりの悲痛さを伴って、恐怖に近い感動を覚える。

カラヤンは若い頃から、バッハに情熱を燃やし続けてきた人で、彼の演奏は、バッハに対する深い敬愛の念が込められている。

この演奏も、曲の核心に鋭く切り込んだもので、ひとつひとつの音に精魂を込めながら、一分の隙もなくまとめあげている。

カラヤンは豪華歌手陣とウィーン交響楽団、ウィーン楽友協会合唱団の実力を充分に発揮させ、精緻を極めた構成力と、じっくりと腰を据え、各部を入念に仕上げている。

この戦後の音楽界に君臨した巨人は、あたかも高度成長時代の申し子のように思われがちだが、この演奏は、いまコロナ禍と戦禍に見舞われている人たちに、第二次世界大戦を生き抜いてきた時代がどれほど苦渋に満ちたものであったかを伝える貴重なドキュメントだ。

戦後やっと5年たっての演奏で、彼がまだナチの後遺症を引きずっていた時期にあたる。

そのせいか、このミサ曲ロ短調を通して自己の魂のありようを検証しようとする、きびしい自己省察が聴きとれる。

当時のカラヤンに戦争への深刻な反省と鎮魂の気持ちがあったのだろう。

このライヴ録音は奥行きの深いひびきに満ち、死と向き合い、生の意味を問うきびしい精神性をベースに、イエス・キリストに思いを馳せる敬虔な祈りとやさしい慰撫をひびかせている。

その展開が自然でスケールが大きく、しかも全体のバランスは申し分ない。

謙虚でありながら、きわめて気高い姿勢に貫かれ、入魂の業を示し、それは独唱・合唱にも感染している。

特にフェリアーの歌う〈神の子羊〉に漲る宗教的な情感の深さは稀有のものだ。

フェリアーの歌は、最初の数小節を聴いただけで、人間の素晴らしさを感じさせ、人間であることの意味を悟らせてくれる。

人の高貴さ、優しさを、このように歌い出してくる声楽家は、もう私達の前に二度と現われることはないだろう。

いくら讃えても讃え切れないこの演奏が、今後とも、人類のかけがえのない遺産として受け継がれていくよう願わずにはいられない。

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classicalmusic at 13:34コメント(0)カラヤンフェリアー 

2022年04月27日


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ジョヴァンニ・アントニーニと2つのピリオド・アンサンブル、イル・ジャルディーノ・アルモニコとバーゼル室内管弦楽団によるハイドンの交響曲全集のリリースがスタートしたのが2014年であった。

この企画が終了するのがハイドン生誕300年にあたる2032年というから、18年をかけた過去に例を見ない遠大な録音作業が続けられるわけだ。

もし首尾よく完成すればピリオド・アンサンブルによる初の快挙になるだろう。

現在までに既に11集がリリースされているが、交響曲第1番から順を追って録音するのではなく、それぞれにタイトルをつけて関連する曲が選択されている。

また交響曲に限らず声楽曲その他の管弦楽曲を含めハイドンに影響を与えた同時代の作曲家、更には逆にハイドンから影響を受けた他の作曲家の作品もカップリングしている。

したがって、完成されれば膨大な量の録音にのぼる筈だ。

この第1集のタイトルは『ラ・パッシオーネ』つまり受難で、交響曲第49番ヘ短調のニックネームから採られている。

ただしハイドンの命名ではなく、また受難曲の一部が再利用されているという証拠はない。

おそらく教会ソナタ的な構成と短調で書かれた作品であるために名付けられたものと思われる。

今回カップリングされたグルックのバレエ音楽『石像の宴、ドン・ジュアン』はハイドンに影響を与えた音楽構想を持っている。

グルックはハイドンより18歳ほど年上で、主に劇場作品で知られているが序曲などに示された充実した音楽はハイドンの交響曲に重要なインスピレーションを与えたことは確実だ。

演奏に関してはかなり時代考証も行われているらしく、例えば交響曲第1番では通奏低音にチェンバロが加わっている。

これまでに録音された交響曲の中では唯一の例で、他の交響曲ではチェンバロは使われていない。

これは最近の研究ではエステルハージ宮廷楽団には専用のチェンバリストがいなかったという事実を反映しているのだろう。

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classicalmusic at 17:07コメント(0)ハイドン 

2022年04月26日


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デクラマティオーの様式に則って、愚民の楽園と化した現世を痴愚女神モーリアがスコラ神学者の不毛な論争や王侯貴族達の生き様を鋭い風刺と揶揄を開陳しながら次々と痛快にこき下ろしていくが、その鉾先は高位聖職者やローマ教皇にまで及ぶ。

この作品が出版されたのが1511年だから、その6年後にヴィッテンブルクで掲げられたルターのカトリック教会に対する95箇条の提題がエラスムスに触発されたことは想像に難くない。

その意味でも当時としては画期的で斬新な創作だったに違いない。しかしルターの思惑に反して彼は宗教革命を望まなかった。

随所に挿入されているハンス・ホルバインの挿絵は現代人から見てもひょうきんな味わいがあり、この作品の胡散臭さを醸し出している。

ホルバインはイギリス国王ヘンリー8世の肖像でも知られた宮廷画家だが、エラスムスの肖像画も残している。

エラスムスはオランダが生んだ文学者であり、また神学者でもあったが日本では彼の名やその著作は同時代のトマス・モアやマキャベリあるいは少し後のシェークスピアなどに比べて知名度は低い。

訳者沓掛氏によれば、それは彼が生涯に亘ってラテン語で書き続けたためで、その後死語になった言語は市民に溶け込む機会を失ってしまったようだ。

確かにダンテは早くからイタリア語で『神曲』を書いていたし、シェークスピアが盛んに上演されるのは庶民にも理解できる英語だったからだろう。

当時ヨーロッパでの教養人の共通語はまだラテン語だったが、格調は高いかもしれないが込み入った文法を持ったラテン語より、一般人には当然話し言葉として地方に定着した言語を好んだ。

それゆえエラスムスを読むには原典を一度翻訳する作業が不可欠になり、取っつきにくい理由になっていることは疑いない。

沓掛氏が原典訳を決心した経緯が訳者あとがきに詳しい。

大学で『痴愚神礼讃』を講義するに当たって、当時唯一のラテン語原典訳だった大出晃訳出の同書を参考までに調べると、荒唐無稽な誤訳が露呈されていて、古典に関する知識も疑われるような無残な状態だったと書いている。

その後誰も原典訳に取り組まないので自らこの難役を買って出て、作品の誤解を解くことに余生を懸けたようだ。

それだけに沓掛訳は日本語としても非常に流暢で平易に訳されている。

筆者は以前彼の『ホメーロスの諸神讃歌』を読んで訳業に対するプロフェッショナルな姿勢に感服したが、この『痴愚神礼讃』も周到な準備のもとに訳出された作品であることが理解できる。

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classicalmusic at 14:28コメント(0)書物 

2022年04月25日


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本BOXには、田部京子が誠心誠意取り組んできた、シューベルト後期作品集が収められている。

クラシック音楽の世界には、この世のものとは思えないような至高の高みに達した名作というものが存在する。

ロマン派のピアノ作品の中では、何よりもシューベルトの最晩年に作曲された最後の3つのソナタがそれに相当するものと思われる。

その神々しいとも言うべき深みは、ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタ群やブラームスの最晩年のピアノ作品にも比肩し得るだけの崇高さを湛えていると言っても過言ではあるまい。

これだけの至高の名作であるだけに、これまで数多くの有名ピアニストによって様々な名演が成し遂げられてきたところだ。

個性的という意味では、アファナシエフによる演奏が名高いし、精神的な深みを徹底して追求した内田光子の演奏もあった。

また、千人に一人のリリシストと称されるルプーによる極上の美演も存在している。

このような海千山千のピアニストによるあまたの名演の中で存在感を発揮するのは並大抵のことではないと考えられるが、田部京子による本演奏は、ブレンデル、シフの系統に繋がる、楽譜を研究し尽くした理知的なシューベルトが楽しめる逸品であり、その存在感を如何なく発揮した素晴らしい名演を成し遂げたと言えるのではないだろうか。

1994年リリースのシューベルト:ピアノ・ソナタ第21番において「次代を担う真に傑出した才能の登場」として、極めて高い評価を得た田部京子。

その後、発表した5枚のシューベルト・アルバムは、その全てがレコード芸術誌で特選を獲得し、田部は、日本を代表する「シューベルト弾き」としての比類なきポジションを確立した。

この田部の録音したシューベルトの後期3大ソナタを含む主要なピアノ作品をCD5枚のBOXは、シューベルト最晩年の深い諦観の世界をおのずと明らかにしてゆく、田部の極めて説得力の強い演奏の全貌が明らかになっている。

田部京子による本演奏は、何か特別な個性を施したり、はたまた聴き手を驚かせるような斬新な解釈を行っているというわけではない。

むしろ、スコアに記された音符を誠実に音化しているというアプローチに徹していると言えるところであり、演奏全体としては極めてオーソドックスな演奏とも言えるだろう。

とは言っても、音符の表層をなぞっただけの浅薄な演奏には陥っておらず、没個性的で凡庸な演奏などということも決してない。

むしろ、徹底したスコアリーディングに基づいて、音符の背後にあるシューベルトの最晩年の寂寥感に満ちた心の深層などにも鋭く切り込んでいくような彫りの深さも十分に併せ持っていると言えるところであり、シューベルト後期作品に込められた奥行きの深い情感を音化するのに見事に成功していると言っても過言ではあるまい。

いずれにしても本演奏は、シューベルト後期作品のすべてを完璧に音化し得るとともに、女流ピアニストならではのいい意味での繊細さを兼ね備えた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

演奏全体に漂う格調の高さや高貴とも言うべき気品にも出色のものがあると言えるだろう。

しっとりと落ち着きのある音色と、清冽極まりないピアニズム、そして情感豊かな歌いまわしと深みを感じさせる表現等々、シューベルトのピアノ曲の妙味を引き出すのに過不足のない演奏が充溢している。

一方、「さすらい人幻想曲」は、ひとつのモチーフを中心に変奏手法を使って、ベートーヴェン的有機構造物を構築しようとした作品だが、田部は、その豊かな弱音のニュアンスを駆使して、強音がさほど強くなくてもしっかりと対比され、ダイナミズムが広く聴こえ、したがって大きなスケール感も出てくるという演奏を繰り広げていて、無理がなく、しかも美しい。

本BOXは、いつでもいつまでも聴いていたいと思わせる名演の集成と言えるだろう。

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classicalmusic at 05:44コメント(0)シューベルト 

2022年04月24日


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北フランスで建設が始まったゴシック様式の教会は、著者がプロローグで述べているようにゲルマン民族のゴート人が創り上げたものではなく、むしろその地の先住民族たるケルト人に関係が深い。

パリやシャルトルの大聖堂の地下を掘っていくと、ケルト信仰の聖所が出て来るというのも象徴的だ。

フランスの山村では中世時代になっても多くの農民達は、異教である大地母神の信仰を頑なに持ち続けていたようで、カトリックの布教者は彼らに違和感を与えることなく改宗させるべく実に老獪な策を敷いた。

彼らの信仰の場所であった森林をイメージさせる広い空間と高い天井、木々の枝が上昇していくようなリブや尖ったアーチ、そして執拗とも言える樹葉のモチーフを使った装飾、更に木漏れ日はステンドグラスに取って代わり、古代の生贄の観念は苦悩するキリスト像にオーバー・ラップさせる。

こうして大地母神信仰が鮮やかに聖母マリア信仰にすり替えられていく。

また著者はゴシック教会の装飾としてしばしば使われる魑魅魍魎の彫刻やレリーフについて、グロテスクなものを好む感性は異教の感性と断言している。

ルネサンス時代にゴシック様式は均整と調和を欠くものとしてラファエッロやヴァサーリによって糾弾された。

確かにフランス、スペイン、ドイツに比較してイタリアには純粋なゴシック様式の建築物は数えるほどしかない。

しかし著者はルネサンスでは許されなかった未完了のアンバランスな姿こそ終わることのない時間の流動性の表現であり、ゴシックの本質と結論付けている。

ゴシックの大聖堂が異種のものに身を開いているように見えるのは、異教から流用された精神的、物質的なあらゆるエレメントが今もってそこに息づいているからだろう。

この著書では酒井氏が建築学の立場に立ったゴシックの特性だけでなく、それが導かれた宗教文化や精神面から筆を起こしているところに価値があり、日本語で書かれた類書の中でも優れた内容が特筆される。

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classicalmusic at 13:26コメント(0)書物芸術に寄す 

2022年04月23日


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30代のほぼ10年間をモンテ・カルロのロシア・バレエ団の指揮者として過ごすなど、自他ともに認めるバレエのスペシャリストであったドラティがその全盛期に当時の手兵ミネアポリス管弦楽団と録音した唯一のチャイコフスキー《白鳥の湖》。

むろん、オーケストラ・ビルダーとしても手腕を発揮したドラティは、ここでいかにもヴェテランらしい、貫禄十分の名演を展開している。

入り組んだリズム処理に、抜群の手腕を発揮するドラティならではの、あざやかな指揮ぶりに驚嘆させられる全曲盤である。

この曲の交響的な性格をあますところなく生かしながら、構成的な美しさを尊んだ演奏だ。

この演奏は、細部まで的確に構成された明快でシンフォニックな表現とバレエとしてのドラマをバランス良く合わせそなえている。

ドラティの指揮は設計が綿密で、しかも演出と表情づけが実にうまく、あの夢幻的な舞台の雰囲気が手にとるようによくわかる。

こうした表現は実際の舞台の経験が豊富なこの人ならではのもので、このグランド・バレエにふさわしく、メロディー・メーカー、チャイコフスキーの旋律美を存分に堪能することができる。

全曲を通じて、各場面の変化に富んだ描き方も秀逸で、まさに"バレエの神様"ドラティの面目躍如たる会心の演奏。

ドラティという指揮者の並々ならぬ底力のほどを、あらためて思い知らされるような演奏といえよう。

それでも一般の聴き手にとって、ドラティの録音はそれほどの価値を見いだせないかもしれないが、ダンサーにとってその評価は絶大なものとなる。

メリハリの利いたリズムや踊りに最適なテンポ、そして独特の間のとり方など、実舞台のバレエの寸法に対応した演奏であることは現代でも変わらない。

一言でいえば、ドラティの演奏は爐修里泙淪戮譴覘瓩里任△襦

テンポの設定からリズムのとり方、そして間のとり方まで、見事に踊りに適合する。

この盤は、そういう意味ではバレエ音楽のまさに“普遍的”と言い得る演奏で、バイブル的存在といえるのである。

ドラティは円熟期にコンセルトヘボウ管弦楽団とチャイコフスキーの残りの2つのバレエ《眠れる森の美女》及び《くるみ割り人形》の演奏・録音ともに文句のつけようのない全曲盤を遺してくれた。

不思議とウマが合う名門オケとの《白鳥の湖》の録音が果たせなかったのはさぞかし心残りだったことだろう。

なお全曲盤とはいえ、録音当時に行なわれていた慣習的なカットが施されているのは、仕方のないところだろう。

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classicalmusic at 12:50コメント(0)チャイコフスキードラティ 

2022年04月22日


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名ピアニスト、ラドゥ・ルプーが4月17日、スイス、ローザンヌの自宅で息を引き取った。享年76歳。心よりご冥福をお祈りいたします。

ルプーの代表盤、シューベルトの即興曲集は、名旋律の宝庫である。

透明感溢れる清澄さをいささかも失うことなく、親しみやすい旋律が随所に散りばめられており、数々の傑作を遺したシューベルトの名作群の中でも、上位にランクされる傑作であると考える。

ルプーは、並みいる有名ピアニストの中でも、「千人に1人のリリシスト」とも評される美音家を自認しているだけに、このような即興曲集は、最も得意とする作品であり、ピアノの抒情詩人と言われたルプーの、代表的録音のひとつ。

即興曲は構成が不安定で、展開部が異常に長かったり、また無かったり、曲によっては変奏曲の形式をとるものもあるので、構築感を出すのが難しいと思われるが、ルプーの演奏は全体が1つの曲であるかのような見事な構築力であり、またこれほどまでに弱音をコントロールできるピアニストも珍しい。

正確にコントロールされたきらめくような粒立ちの美音に乗せて丁寧に歌われるシューベルトの調べにただ圧倒される。

弱音の美しさは言うに及ばず、フォルテも力強くしかも美しく響き、しかも決して軽くない。

繊細で濃やかなロマンが、全編を覆い、微細な陰影が、得も言われぬメランコリックな雰囲気とリリシズムを醸し出している。

晩年のシューベルトの曲に聴かれる死の影はここではその姿を潜めて、美しい自然の移り変わりを表現するかのような、さわやかな演奏である。

聴いていてあまりに自然に流れるので、テクニック面などどうでもよくなってくるが、聴き手にそうした思いを抱かせることこそ、最高のテクニックの持ち主であるという証左を示している。

この曲の代表的なディスクとしてはリリー・クラウスと内田光子のものがよく知られているが、彼女たちの鮮やかな演奏に比べると、ルプーの演奏は少し系統が違う気がする。

全体に抑えたトーンで派手さでは劣るが、細かいコントラストや全曲を貫く優美さなどでは引けを取らないし、旋律を歌い上げる際の表現も見事。

デリケートさでは内田の方が上だろうが、神経質さが耳につく彼女の演奏と比べるとルプーにはそれが皆無。

我々聴き手が、ゆったりとした気持ちで安心して即興曲集を満喫することができるという意味では、オーソドックスな名演であると高く評価したい。

音質は、従来盤でも、英デッカの録音だけに透明感溢れる十分に満足し得る音質である。

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classicalmusic at 23:06コメント(2)シューベルトルプー 

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このドキュメンタリーで扱っている音楽家達の老人ホーム『音楽家憩いの家』はキャリアを終え、身寄りのなくなったかつてのスター達を収容する施設として作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの発案と基金でミラノに設立された。

当時の音楽家の中には豪邸に生活して何の不自由もなく余生を過ごした人もいたが、引退後生活に困窮したり、身寄りのなくなった者は、それまでの華やかなステージとは裏腹の生活を強いられた。

ヴェルディは彼らへの敬意から余生の安泰を願って、決して彼らのプライドを傷つけることのないような心のこもったホームを創設したが、この映画ではダニエル・シュミット監督の温かい愛情に満ちた目によって彼らの日常が活写されている。

ここに登場するキャリアを終えた音楽家達は誰もが過去の素晴らしい思い出の中に生きているのだが、全員が驚くほどポジティヴに生き生きと生活している。

それはこの施設で暮らすことによって過去と現在が決して切り離されることがないからだろう。

登場するのは器楽奏者やオペラ歌手などさまざまで、それぞれが現役時代を忘れてしまうどころか現役さながらに演奏し語り合い、また学習さえ怠らない。

またそうすることが彼らの生き甲斐を満足させ尊厳を失わずに生きていくことに貢献しているのだろう。

ここでは戦中戦後スカラ座のプリマドンナとして活躍したソプラノ、サーラ・スクデーリ(撮影当時78歳)に焦点が当てられている。

自分の歌ったプッチーニの『トスカ』から「歌に生き、愛に生き」のレコード再生で、彼女自身が懐かしみながら一緒に口ずさむ様子といくらか憂愁を帯びた表情が感動的だ。

しかし彼女がその驚異的な声で実際に歌う時の表情は更に晴れやかで輝かしく、常に音楽に寄り添って余生を送ることの大切さが伝わってくる。

この作品に映し出された彼らの生活風景を見ていると、ヴェルディの構想が如何に高邁なものであったかが窺われる。

現に筆者の祖母を施設に入れざるを得なかった時、このドキュメンタリー映画が多くの示唆を与えてくれたことは事実である。

長年この施設の友の会会長で、かつての名メゾ・ソプラノ、ジュリエッタ・シミオナートは、短いコメントの中で音楽家の引退の時期について非常に示唆的な考えを表明している。

つまり1人の音楽家が引退する時期は聴衆から見放される時ではなく、逆にそうなる前にその人が完全なイメージを遺す形で聴衆から去っていくべきだと言っている。

それは全盛期に鮮やかな引き際を見せたシミオナートならではの名言だろう。

『音楽家憩いの家』の概要についてはシミオナートの伝記を綴った武谷なおみ著『カルメンの白いスカーフ』に詳述されている。

それによれば入所資格は60歳以上の年金受給者で、プロの音楽家であったことの証明の他に、年金の80%を施設に寄付しなければならない。

彼らは敬意を持って迎えられ入居後も自由な音楽活動を保証されていて演奏会やオペラ鑑賞などのレクリエーションも企画されている。

しかしヴェルディの楽譜の版権が切れ、印税が当てにできない現在では運営資金を寄付に頼らなければならないようだ。

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classicalmusic at 12:49コメント(0)映画ヴェルディ 

2022年04月20日


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フィリップス音源のアラウのリスト・レパートリーを6枚のCDにまとめたエロクエンスからのリイシューになり、ネット配信でも聴くことができる。

尚、CDであれば演奏曲目一覧が印刷されたリーフレットだけがついた簡易な廉価盤になる。

リスト直系の弟子を自負していた彼だけに、作曲家の芸術的高みとアラウ独自のオリジナリティーが相俟って、他のピアニストとは常に一線を画した解釈を示している。

それはリストの作品に往々にしてつきまとう内容よりも技巧誇示の音楽という印象を完全に払拭した、高い音楽性と本来のテクニックが示されているのが特徴である。

リストを敬遠する方でも是非一度は聴いて欲しい曲集だ。

ちなみにボーナス・トラックの『スペイン狂詩曲』のみがモノラルで、それ以外は総て質の良いステレオ録音になる。

ここに収められたピアノ協奏曲や超絶技巧練習曲では一にも二にも音楽が優先されている。

リストを弾きこなすには当然相当のピアニスティックな技術が要求される。

多くの演奏家は指の動く若いうちにこうしたレパートリーを録音してしまうがアラウの演奏には技巧誇示に陥らないだけの有り余るほどの音楽性の裏付けと騎士道的ロマンティシズムが感じられる。

このセットに収められた録音は彼の円熟期から晩年のセッションになる。

それは彼が80歳代までリストを演奏し得た、そして稀有なスケールを持ったサンプルとして聴き継がれている理由だろう。

このセットの中には際物的に扱われているオペラからのアレンジになるパラフレーズ集も含まれている。

薄っぺらなアンコール・ピースになりがちなこうした音楽でもアラウの表現力は卓越している。

極めて集中度の高い、しかも味わい深い曲集に仕上がっていることに驚かされる。

また彼の弾く「エステ荘の噴水」は、滾々と湧き出て絶え間なく降り注ぐ水の描写の中に、リスト自身の深い失恋の痛手を伝えた殆んど唯一の演奏ではないだろうか。

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classicalmusic at 14:09コメント(0)リストアラウ 

2022年04月19日


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クナッパーツブッシュ唯一の録音となるモーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(1940年録音)始め、モーツァルトの交響曲2作品を収録したアルバム。

何と言っても「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が楽しい。

筆者の勝手な思い込みで、クナとモーツァルトの相性は悪いと思っていたのであるが、クナの「アイネ・クライネ」の録音が存在していたというのに本当に驚かされた。

モーツァルトの「アイネ・クライネ」は余計な表情をつけなられない曲だと思っていたが、クナはまさにやりたい放題の大暴れ、しかも大成功を収めたのだ。

これを聴いて怒り出してはいけない。

最初は余りにも珍妙な演奏で腰を抜かしたが、ロココ調のセレナードという固定観念にとらわれずに聴けば、なかなかどうして愉快痛快な演奏ではないか。

フレーズごとに耽美的なディミヌエンドをかけ、各声部の動きにあざといアクセントをかけ、ロマンティックな音楽を聴かせるのは乙な趣向だ。

終曲の途轍もないスロー・テンポ! その中でクナは遊びに遊ぶ。

思い切ったポルタメントはほんの序の口、途中で2ヵ所、モーツァルトが書いた伴奏部の音の長さと表情を変え、主題の対旋律としてしまったのである。

天才モーツァルトの楽譜を変更したのだ! こんな勇気は他の指揮者には絶対にない。

これはもはやクナッパーツブッシュ編曲と言い切ってしまってよいほどで、非常に面白い。

アカデミズムを軽蔑するクナの、「してやったり」という顔が目に見えるようではないか。

彼だから許され、彼だから可能な業ではあるが、それでも、このディスクは筆者に「モーツァルトでもここまでできるのだ!」という感銘を与えてくれる。

第1楽章もセレナードとは思えぬくらい深々としており、淋しいけれど神経質に陥らないニュアンスが漂い、何よりも豊かな歌が横溢する。

その歌はメヌエット中間部にも現われるが、特筆すべきは第2楽章の美しさで、細部までこれほど丁寧に愛情をこめぬいた演奏は他に決してない。

できるところでは全部リタルダンドをかけ、息の長いクレッシェンドで盛り上げ、コーダでは何と第1ヴァイオリンをソロに変えている。

クナはワルターのように粋に運ぶことはまるで考えていないが、それでいて泥臭くなっていないのは、どこもかしこも真実だからであろう。

筆者はあえて言いたい。

「アイネ・クライネ」のディスクは、特別の興味がない人以外には、ワルター(&ウィーン・フィル)とクナッパーツブッシュの2種類だけ持っていればよい。

そして、彼らの演奏を折に触れて聴き比べれば、音楽創造というものの素晴らしさや秘密が、次々と解明されてゆくに違いない。

交響曲第39番と第40番も悠揚迫らざるスケール感と気品高い演奏で聴く者を魅了する。

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classicalmusic at 21:10コメント(0)クナッパーツブッシュモーツァルト 

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4種類存在するフルトヴェングラーのブルックナーの交響曲第8番は、どれもユニークな内容を持つ演奏として知られている。

中でも最も強烈なのが、この1949年3月15日にベルリン・フィルとおこなったコンサートのライヴ録音である。

前日の3月14日に、ダーレムのゲマインデハウスで放送用に収録された録音もTESTAMENTから発売されていた。

しかし聴衆の有無や、ホールの響き、録音状態の違いなどもあって、印象は大きく異なる。

この3月15日の演奏は、フルトヴェングラー流の動的ブルックナー解釈の極点を示すものとして有名なものだ。

第1楽章展開部後半での強烈なアッチェランドを伴うクライマックス形成や、第4楽章コーダでの激しい追い込みは、ほかの演奏からは考えられないカタルシスをもたらしてくれる。

もちろんそうしたドラマティックなダイナミズムだけが凄いのではない。

たとえば第3楽章アダージョでは、楽員の共感に満ちた濃厚な演奏が、深い情感表現に結実していて、恍惚とするばかりの美しさをもたらしてくれるのが感動的である。

そうした音楽が、紆余曲折を経ながらも次第にクライマックスに向かって盛り上がってゆくときのコントロールの巧みさ・迫真の音楽づくりは、フルトヴェングラーにしかできない非常に雄弁なものと言えるのではないだろうか。

肝心の音質は、前日の放送用録音に較べてたいへん条件が良く、当時のライヴとしては最良のクオリティで、超弩級のモンスター演奏を味わえるのが大きな魅力となっている。

アルカディア、M&A、ドイツ協会盤などで出ていたが、このデルタ盤は、いままで一番音が良かったドイツ協会盤に近いクオリティをもっているのが嬉しいところだ。

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classicalmusic at 05:42コメント(0)ブルックナーフルトヴェングラー 

2022年04月18日


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このディスクについては筆者の世代のクラシック音楽ファンには、かつて影響力のあった某音楽評論家の批評の呪縛から逃れられない思いもあって、なかなかご紹介できないでいた。

けれど、やはりあらためて聴いてみると、受け売りではなく、すばらしいことには変わりないので、自分なりの切り口で迫ってみたい。

この演奏は、クナッパーツブッシュのスタジオ録音のなかでも、最高傑作の部類に入ると筆者は確信している。

特にチャイコフスキーの組曲「くるみ割り人形」については、後年某音楽評論家がストコフスキーに寝返りをしたので、尚更そう強調したくなる。

おずおずと始まり、みるみる感興の高まってくる序曲。

スケールの大きい行進曲(後半の、低弦からヴァイオリン・フルートまで湧き上がる音の波のすばらしさ!)。

チャーミングな金平糖。

リズムが抜群に良いトレパーク。

意外とサラリとしているが、深い情感に満たされたアラビアの踊り。

あっけらかんとした表情に微笑みが見え隠れする中国の踊り。

ウィーンの上品なフルートが冴えわたるあし笛の踊り。

いずれも、聴いていてじつにたのしい演奏なのである。

しかし何よりすばらしいのが、交響詩にも匹敵するスケールで存在する花のワルツだ。

序奏からして濃い雰囲気に満たされ、他の演奏とは格が違う。

長調なのに哀歓入り混じった不思議な感情なのである。

沈み込むような味わいのワルツは、夕暮れのウィーンである(あの絶妙なテンポルバート!)。

中間部の短調のチェロがなんと訴えかけてくることだろう。

そしていよいよホルンの主題が戻ってくるときの偉容はたとえようもなく(ウィンナ・ホルンが音を割っている!)、最後はじつに堂々と締めくくっている。

「クナのくるみ割りなんて、どうせのろくって大味に違いない」と考えている貴方! まぁ聴いてみてください。

なおクナには、ベルリン・フィルとの「くるみ割り」もある(1950年2月2日)。



この演奏はライヴだけあって、感興が湧き上がる様が手に取るようにわかり、トレパークなどここまで直接燃え上がるクナは珍しいのではないかと思われる。

こちらも(クナファンには)お薦めである。

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classicalmusic at 13:00コメント(0)クナッパーツブッシュチャイコフスキー 

2022年04月17日


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本盤のような演奏を歴史的名演と言うのであろう。

アメリカのテキサス生まれのヴァン・クライバーン(1934年7月12日 - 2013年2月27日)が、旧ソヴィエト連邦の威信をかけて行われた記念すべき第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝した直後に行われたスタジオ録音ではあるが、ここでは、コンクールでの優勝の興奮が支配しているように感じられてならない。

当時のクライバーンの超絶的な技巧と、途轍もない生命力が凄まじいまでの迫力を見せ、あたかもライヴ録音であるかのような熱気に満ち溢れているからだ。

このチャイコフスキーに一貫しているのは溌剌とした太陽のような輝きである。

それは単に辣腕の名手が聴かせるドラマティックで、エネルギッシュな熱演というだけではない。

抒情的で詩的なフレーズにも太陽の恵みを受けたかのような誇らしい高揚感があり、それが聴き手をどこか晴れやかな幸福感に誘ってしまうという稀に見る演奏となっている。

停滞せずに常に前に駒を進めていく演奏、しかもそこには即興性があり、それが演奏をさらにスリリングで、緊迫感溢れるものにしていく。

それでいて決して不自然でも作為的でもない、聴き手を紛れもなくチャイコフスキーの世界に誘い、陶酔させていく奇跡的名演なのである。

当時、ソヴィエト連邦の気鋭の指揮者であったコンドラシンの指揮も圧倒的であり、数あるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の名演の中でも、トップの座を争う名演と高く評価したい。

コンクールの審査員には、リヒテルやギレリスなど錚々たる顔ぶれが揃っていたとのことであり、今から思えば政治色が審査に反映されなかったことは奇跡のような気もするが、これらの面々に絶賛されたというのも当然のことのように思われる。

残念なことであるが、クライバーンはこの時が一番凄かった。

その後は、自らの名前を冠するコンクールの名前のみで知られるピアニストに甘んじていたのは、はなはだ残念なこととは思う。

それでも、このような歴史的名演を遺したことは、後世にもクライバーンの名前は不滅であることの証左と言えよう。

録音は金管楽器などに音場の狭さを感じるが、ピアノのリアルな音など、眼前で演奏が行われるかのような鮮明さだ。

コンクールには賛否両論があるが、才能発掘の点で成果を挙げたのは事実であり、この名盤もコンクール直後に生まれたことを銘記しておきたい。

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classicalmusic at 15:21コメント(0)チャイコフスキーコンドラシン 

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エミール・ギレリスとオイゲン・ヨッフム、2人の巨匠ががっぷり四つに組んだ名演として長く語り継がれている名盤。

ギレリスのピアノもヨッフム&ベルリン・フィルも、大規模作品にふさわしい表現のスケールを獲得した、雄大かつ非常に力強い有名な演奏で、これらの作品では筆頭に挙げられ続けている名盤中の名盤。

鋼鉄のピアニストであるギレリスと穏健長老派指揮者のヨッフムという、一見すると水と油のように思える組み合わせであるが、本盤を聴くとそれが杞憂であることがよくわかる。

ヨッフムの温かくも、決して隙間風の吹かない重厚な指揮ぶりがブラームスの渋い曲想に見事にマッチしており、加えて、ブラームスの協奏曲の難曲とも言われるピアノパートを力強い打鍵で弾き抜いていくギレリスの強靭なピアニズム。

演奏が悪かろうはずがなく、ギレリスが遺した最上の録音の1つと言える。

これら両者を、当時、最高の状態にあったベルリン・フィルが好サポートしており、役者三者が揃い踏みの本盤は、両協奏曲の数々の名演の中でも、ベストを争う名演に仕上がっていると高く評価したい。

特に、ギレリスにとっての初録音というのは意外であったが、ピアノ協奏曲第1番が超名演である。

鋼鉄のピアニストと言われたギレリスの鋭いタッチによる素晴らしい演奏で、ひとつひとつの音からして芯が強く、オーケストラとの呼吸も見事である。

冒頭の雷鳴のようなテーリヒェンのティンパニのド迫力には度肝を抜かれるし、随所に見られる枯れた味わいも感動的だ。

ギレリスも、決してテクニックを誇示するのではなく、ブラームスの青雲の志を描いた楽曲への深い共感の下、めまぐるしく変化する楽想を適切に捉えた絶妙の表現を示している点を評価したい。

ギレリスとヨッフム、日本では正当に評価されているとは必ずしも言えない両横綱のぶつかり合いが生んだ、奇跡の結晶と言えるだろう。

ピアノ協奏曲第2番もギレリス晩年の境地を十分に伝える名演で、この演奏に心酔していたリヒテルはこのギレリスの演奏が有るから,私はこの曲を弾かないと言わしめた程だという。

わけても第3楽章の深い瞑想の世界は、他の演奏を大きく引き離した名演と言える。

このようなギレリスの派手さを抑え、遅めのテンポの深く、静かなピアノに、ヨッフムの指揮は素晴らしくマッチし、素晴らしい名演奏となった。

第1楽章など、確かに迫力には欠けるものの、聴き込む度に味わいの深さが感じられ、演奏のインパクトでは他の演奏に一歩譲るものの、いつまでも聴いていたいと思わせる。

幻想曲集も名演。

さらに今回のリマスタリングで音質にいっそう磨きがかかり、どこをとっても音響が充実しているという意味では、これ以上の演奏は考えられないというくらい気持ちのよい音がリスニング・ルームを埋め尽くしてくれる。

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classicalmusic at 05:33コメント(0)ギレリスヨッフム 

2022年04月16日


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ヘンスラーからリリースされたギュンター・ヴァント・エディションの1枚。

ゲルハルト・オピッツをソロに迎えたシューマンのピアノ協奏曲イ短調が1983年、モーツァルトの交響曲第40番ト短調は1990年の録音で、どちらもハンブルクのムジークハレでの収録になり音質は良好。

いずれも端正な演奏で入門者の方にもお薦めしたい。

シューマンではオピッツが堅実で真摯なピアニズムを披露しているのが特徴的で、迸るような情熱的な演奏を求める向きにはやや冷静過ぎるように聞こえるかもしれないが、作曲家の文学的、あるいは哲学的な傾向を表現した深みと味わいのある演奏だ。

サポートするヴァントの指揮もオーケストラを抑制しながら緻密な設計の中にしっかりソロを支えている。

巨匠オピッツは近年、同協奏曲の録音をリリースしたが、これはオピッツが30歳の時のライヴである。

既に巨匠の風格を漂わせ、師のヴィルヘルム・ケンプに代表されるドイツ正統派の流れを受け継いだ演奏で、はったりのない技術でシューマンのロマン的な世界を表現している。

ヴァントとの相性も抜群で、今後オピッツの80年代の代表盤となると言えるだろう。

交響曲第40番はBMG(1994年)とは別演奏であるが、モーツァルトにもヴァントの律義さが良く表れている。

テンポはやや速めで、曲想の暗さや憂愁にはそれほど拘泥せずに走り抜けるような軽快さが感じられる。

それだけに第1楽章でのバランスの取れたオーケストレーションの中で自在に動くそれぞれのパートは生き生きしていて、モーツァルトの天才性を明らかにしている。

それに続く第2楽章の神秘なまでの美しさ、第3楽章の颯爽としたメヌエット、そしてきびきびとした終楽章が密接に繋げられ彫りの深い作品に仕上がっている。

これぞまさに「疾走する悲しみ」を具現化したかのような心に染みる演奏になっている。

ヴァントは実に多く40番を取り上げたが、音のクリアーさ、ゆるみのなさ、品格の高さでは最上の演奏と思われる。

オーケストラはどちらも北ドイツ放送交響楽団。

83年のシューマンも、90年のモーツァルトもムジークハレの豊か過ぎる残響が放送録音らしく適度におさえられ、クリアーなサウンドも魅力である。

近年リヒターもののリマスタリングなどで評価を上げつつあるジードラー氏の丁寧なマスタリングも聴きものである。

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classicalmusic at 12:37コメント(0)ヴァントシューマン 

2022年04月15日


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リナルド・アレッサンドリーニはコンチェルト・イタリアーノを率いたピリオド・アンサンブルの指揮者としては、モンテヴェルディのマドリガルの体系的な録音などかなりの枚数のCDをリリースしている。

彼のチェンバリストとしての腕前は既に『ブランデンブルク協奏曲』第5番のソロで披露されている。

チェンバロ・ソロ・アルバムとしては前回のバッハの小プレリュードと小フーガ集を中心とした1枚に続く2枚目になる。

しかも大曲『平均律』ではなく際物を扱ったところに肩透かし的なアイデアが感じられる。

しかし丁寧に弾き込まれた曲集は1曲1曲がバラエティーに富んだ個性を主張している。

このディスクのように幾つかの異なった調性の前奏曲とフーガを注意深く連続させると『平均律』にも劣らない立派なクラヴィーア曲集が出来上がってしまう。

アレッサンドリーニはこうしたところにも着目していると思われる。

今回もいくらか際物的な選曲で、予備知識がないと、取り留めもないアルバムのように見える。

バッハが作曲する際に常に念頭に置いていた調性について研究した1枚であることが理解できる。

当時はそれぞれの調が独自の性格を持っていて、曲想に合った調性が人の感性により強く訴えると考えられていた。

このアルバムではイ短調、ニ短調、ハ短調の3つの調の作品をグループごとに集めているところに特徴がある。

アレッサンドリーニの解釈と演奏は個性的ではないが、普遍的な美しさがある。

ただ調性云々についての考察はいくらか専門的で、どちらかといえば玄人向けのアルバムかも知れない。

今回の使用楽器はJ.D.デュルケンが1745年に製作したオリジナルからコピーしたもので、余韻が長く深みのあるややダークな音色に魅力がある。

バッハは長男フリーデマンを始めとする生徒達のために教育用の作品を少なからず作曲している。

しかしバッハ自身が言った最高の教材は最高の芸術作品でなければならないという言葉を証明するように、こうした小曲にもそれぞれに固有の高い音楽性が備わっていることも確かだ。

a'=400Hz程度の低いピッチを採用しているために豊潤で落ち着いた響きが得られている。

2019年にローマの新アウディトリウムで録音されたもので音質は極めて良好。

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classicalmusic at 06:31コメント(0)バッハ 

2022年04月14日


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ミラノフ、カスターニャ、ビヨルリンク、キプニスと4人の名歌手たちを揃えたこの演奏は多くの点で1953年に録音されたRCA盤を凌駕しているが、《クレド》の冒頭でトロンボーンがミスをしたためにレコード化ができなかったと伝えられている。

RCA盤の鮮明だが広がりに欠ける録音と比べて、この録音は聴きずらいことはない。

トスカニーニはゆっくりとしたテンポを設定しており、それが音楽に落ち着きと厳粛さを与えている。

キプニスの印象的な暗く重いバスも聴く人に大きな感銘を与える。

トスカニーニほど、鉄のような固い意志と、赤々と燃える情熱で、この最高峰に臨んだ指揮者はなかった。

ベートーヴェンがミサのテキストと格闘したが如く、トスカニーニはスコアと激しく闘っている。

トスカニーニはいわゆるドイツ的な伝統とそこから生じる束縛などといった要素を完全に断ち切り、先入観から解放された立場で作品の絶対音楽としてのイデアを抽出している。

さらに演奏スタッフの究極的な技術の見事さをフルに活用することによって、それをこれ以上はあり得ないと想えるほどに理想に近い状態で演奏として結晶させることに偉大な成功を収めている。

そして、巨匠の壮麗無比な造型感覚と他者の追随を許すことのない高度な集中力の持続は、その明晰で隙のない楽曲の把握の完全性ともあいまって、白熱的な輝きを放つ緊迫した音楽表現を実現させている。

特筆すべきは《クレド》後半の〈エト・ヴィータム・ヴェントーリ・セークリ〉(来世の生命を待ちのぞむ)以下の猛スピード(全演奏家にとって、恐怖のテンポ)に聴く、比類なき魂の高揚感。

この厳しさを経てこそ、《サンクトゥス》以下の「魂の浄化」作用が一層際立つのである。

弦楽の瞑想による《ベネディクトゥス》の前奏、その深い精神性は、トスカニーニが決して「トゥッティとアリアだけ」(フルトヴェングラー)の芸術家でなかった何よりの証となろう。

至高の名演であり、これほどのレヴェルの演奏が存在することは驚き以外の何物でもない。

唯一の疑問は、〈ドナ・ノビス・パーチャム〉(我らに平和を与えたまえ〉。

楽聖がついに「心の平安」を確信できず、解決を未来に託した楽曲であるが、トスカニーニが振ると、実に肯定的に終わってしまうのである。

ここだけは、悠久の余韻に浸っていたかった。

トスカニーニの余りにも健全な魂を象徴する一コマではある。

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classicalmusic at 15:23コメント(0)ベートーヴェントスカニーニ 

2022年04月13日


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ルツェルン音楽祭からのライヴ録音で、ヒンデミットの『木管楽器とハープのための協奏曲』は文句なく秀逸な演奏だ。

伊Affettoからのライセンス盤でセブンシーズがリリース (廃盤) したことがあるが、この度ルツェルン音楽祭が保管しているマスター音源からの正規初出となる。

現代音楽にも興味を持っていたベームは、同時代を生きたパウル・ヒンデミット (1895-1963) の作品も大切にしてきた。

ここに収めた『木管とハープのための協奏曲』はベーム唯一の録音。

ウィーン・フィルの首席奏者の巧みな演奏はもちろんのこと、ピタリと合わせるベームのタクトにも脱帽。

この作品はメンデルスゾーンの結婚行進曲が随所に現れる実に楽しくして練りこまれた協奏曲だが、ベームと黄金時代のウィーン・フィルが奏でる演奏に改めて驚かされる。

1970年の収録で多少客席からの咳払いなどの雑音が聴こえるが、ソリスト達とオーケストラの音は鮮明に捉えられていて臨場感にも不足していない。

第一級のオーケストラは協奏曲を演奏する時でも、外部からソリストを呼ばなくても総て自前の楽団員でカバーできるものだ。

当時のウィーン・フィルにはスタープレイヤーがひしめいていて、彼らの腕前と優れた音楽性を充分に満喫できるのが嬉しい。

ベームの指揮は精緻な中にも絶妙な遊び心が感じられて、決して堅物の律義な演奏に留まらないところは流石だ。

このレパートリーに関しては公式のセッション録音が存在しないので、これだけでもこのディスクの価値は俄然高いと言えるだろう。

本演奏でも楽譜に忠実にすべてのアーティキュレーションの細部にまで気を配り、ベームとウィーン・フィルとの強い結びつきを感じさせる。

緊張感を常に持ちながらこの作品を演奏するベームの姿勢、そして絶大な信頼を寄せるウィーン・フィルが一体となりこの上なく美しい響きを生み出している。

問題はブルックナーの交響曲第7番で、ヒンデミットに比較して音質が劣っている。

データを見ると1964年の録音だが、当時既に殆どすべての大手レコード・メーカーがステレオ録音を取り入れていたにも拘らず、ルツェルンではまだモノラルから脱皮していなかった。

また音質もややデッドで潤いに欠けているのも欠点だ。

ブルックナーを鑑賞するにはせめて潤沢な残響が欲しいところだが、ライヴという制限もあって全体的に言って貧しいサウンドと言える。

ベームがライヴに懸ける情熱は伝わってくるし、第2楽章のブラス・セクションで導入される『ワーグナーのための葬送』も聴きどころなので残念だ。

幸い1976年のグラモフォンへの良好なセッション録音が残されているので、この曲に関してはそちらをお薦めしたい。

また、ブックレットには音楽祭のアーカイヴから多くの写真も掲載している。

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classicalmusic at 07:06コメント(0)ベームブルックナー 

2022年04月12日


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黛敏郎の代表作であり、大オーケストラと合唱を駆使して壮大な東洋的世界を感動的に表現した「涅槃交響曲」に、薬師寺の「薬師悔過」をカップリングした意欲的な企画で高い評価を得たアルバム。

お寺の鐘(梵鐘)の音をオシログラフにかけて波形分析し、できるだけそれに近い響きをオーケストラで出そうとした部分(第1楽章「カンパノロジー1」)から始まるこの曲は、黛敏郎の代表的な作品で、「日本人作曲家による」といった前置きを抜きにして、20世紀を代表する名曲とも言えよう。

涅槃交響曲は凄い作品だと思う。

日本の仏教の根源的な音色の1つである梵鐘の音色を徹底的に追究し、作曲後も、天下のNHK交響楽団を活用して実験を繰り返したというのだから、その拘り方は尋常ではない。

梵鐘の音色を西洋の楽器で表現するという、非常に困難な所為だけに、黛敏郎としても、作曲上、大変な苦労があったと思うが、合唱の絡み方も含め、実に良く出来た完成度の高い傑作と高く評価されるべきである。

形式的には交響曲と称しているが、かのフランスの現代を代表する作曲家、メシアンのトゥーランガリーラ交響曲を彷彿とさせるところであり、私見では、作曲技法等において一部共通するものがあるとも考えたい。

それまで前衛的な作風だった黛敏郎が、思想的な面も含めて保守回帰してゆくこととなってゆく曲で、聴きやすく分かりやすい曲でもある。

同曲は、サラウンドを前提として作曲されたというが、録音も実に臨場感のある素晴らしいものである。

本来は、SACDで聴くのが最高であると思うが、今回のBlu-spec-CD盤の登場は、費用対効果をも加味すると、同曲を高音質で味わうのに相当な成果だと考える。

この曲が含有する深遠な精神性は、やはりこのような高音質CDで聴きたい。

なお、本CDには、奈良の薬師寺の聲明が収録されている。

筆者も、このCDで初めて聴いたが、西洋のグレゴリオ聖歌に匹敵するような音楽が、我が国においても存在し、しかも今日まで脈々と受け継がれてきたことに深く感動した。

最近は日本人の作曲家による作品というと武満徹の作品がよく採り上げられるようであるが、もっともっと、この作品をはじめとする黛敏郎の曲も、演奏される機会が増えて欲しいものである。

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classicalmusic at 10:03コメント(0)現代音楽 

2022年04月11日


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マーラーの愛弟子であったワルターは必ずしもブルックナー指揮者とは言えないと思うが、それでも、最晩年に、コロンビア交響楽団との間に、「第4」、「第7」及び「第9」の3曲の録音を遺した点に留意する必要があるだろう。

先ずは「第4」であるが、これは典型的な後期ロマン派的な演奏だ。

金管群は力強さを増し、そのため終楽章などいっそう雄大な音楽と感じられる。

冒頭の力強いトレモロからして指揮者の芸格の高さが如実に表れていると思うが、テンポのめまぐるしい変化も特筆すべきだ。

特に、第3楽章の中間部の超スローテンポや、終楽章の開始部の快速のテンポなどは、他の演奏にもあまり見られない例であると言える。

こうしたテンポの変化は、ブルックナー演奏の基本からするといささか逸脱していると言えるが、それでいて恣意的な解釈を感じさせないのは、巨匠ワルターだけが成し得た至芸と言えよう。

第1楽章は壮麗で、展開部は部分的にやや緊張力が乏しいが、音楽的には常にゆとりがあり、対旋律もよく歌っている。

第2楽章も端正でありながら、情緒豊かな表現もワルター的といえる。

抒情的な箇所のヒューマ二ティ溢れる情感の豊かさは実に感動的であり、総体として、名演と評価するのにやぶさかではない。

「第7」は、ブルックナーの交響曲の中で、最も優美なものであるが、それが最晩年のワルターのヒューマニティ溢れる情感豊かな指揮と見事にマッチしていて、素晴らしい。

作品自体が抒情性を前面に表した曲なので、作品とワルターの音楽的本質が深く関わり合った演奏といえる。

特に第1楽章は響きの量感を別にすれば、非常にワルター的といえる。

第3楽章の中間部におけるスローテンポや、特に終楽章におけるテンポの変化など、ブルックナー演奏の定石とはいささか異なる後期ロマン派的解釈も散見されるが、特に第1楽章と第2楽章は他の指揮者の追随を許さないほどの美しさに満ち溢れていると言える。

ただ、ワルターの感性と作品の抒情性が重畳したためか、演奏が歌謡的に傾斜し、造形的な厳しさという意味では問題も残す。

このような弱点もあるが、やはり捨てがたい優美な演奏である。

「第4」や「第9」で見られたコロンビア交響楽団の技量の拙劣さも、この「第7」では殆ど見られない点も、本名演の価値をより一層高めていると言える。

最晩年のワルターが、ブルックナーの最も深みのある「第9」の録音を遺してくれたのは何という幸せであろうか。

「第4」や「第7」もなかなかの名演であったが、この「第9」も名演の名に相応しい出来であると考える。

演奏は、ワルターの個性を強く表しながら、極めて格調が高い。

「第4」や「第7」では、テンポの動かし方やとりわけスケルツォ楽章におけるトリオでの超スローテンポなど、ブルックナー演奏の定石からするといささか異質な後期ロマン派的解釈も散見されたが、この「第9」に限っていうと、そのような箇所は殆どなく、インテンポによる確かな足取りで、この深遠な交響曲を重厚に、そして荘重に描き出していく。

特に第3楽章は改めてワルターの深遠な芸術を感じさせるが、それと同時に人間的な情味を色濃く残しているのがユニーク。

優美な「第7」と比較すると、ワルターの芸風に必ずしもマッチする交響曲とは言えないと思うが、これほどの深みのある名演に仕立てあげた点はさすがは巨匠ワルターというほかはない。

残念なのは、コロンビア交響楽団の演奏の拙劣さ。

金管楽器は、録音のせいも多少はあるのではないかと思うが、無機的な力づくの吹奏を行っている点が散見される。

特に、最悪なのは終楽章のワーグナーテューバの品のなさ。

ここは何とかならないものであろうか。

終結部のホルンもイマイチだ。

しかしながら、演奏全体としては、名演との評価を揺るがすほどのものではないと考えておきたい。

ブルックナー以上に素晴らしいのが併録のワーグナーの『タンホイザー』より「序曲とヴェヌスベルクの音楽」。

ゆったりとしたインテンポでスケール雄大な音楽を構築しており、カレッジ・コンサート合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

「ローエングリン」第1幕への前奏曲やジークフリート牧歌はさらに超名演。

いずれもゆったりしたテンポの下、深沈たる深みのある抒情的な表現が見事。

ここでは、コロンビア交響楽団も最高のパフォーマンスを示していると言える。

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classicalmusic at 05:02コメント(0)ワルターブルックナー 

2022年04月10日


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ゆったりと流れるように始められた音楽から「この演奏はいつもとは違う、今日はどんなところに連れて行かれるのだろう」。

そんな予感のうちに自然に音楽に集中すると、時間の感覚を失い、ただひたすらにブルックナーの永遠に身をゆだね、神秘的な信仰告白を聴き、壮大なバロック時代の英雄崇拝の心地良さに浸りきった。

最初にこのレコードを聴いたときの印象は、いつものフルトヴェングラー体験とは、様相が大きく異なっていた。

演奏の凄さに度肝を抜かれたのはもちろんだが、やはり最後にこんなブルックナーに到達していたのかという思いと、これまで円熟を語られることのなかったフルトヴェングラーの、まさに晩熟を実感した。

今日この演奏が、フルトヴェングラーによるもので、そのオリジナルテープがウィーン・フィルのアルヒーフに存在する旨、トレミスが確認しているが、1982年のレコード発売以来、主にイギリスでの演奏の真偽をめぐって、多くの疑問が寄せられてきた。

それは演奏がフルトヴェングラーの「いつものスタイル」ではなかったから、つまり劇的な曲の進め方や、アゴーギクを強くきかせてアッチェレランドを辞さないというやり方で、ブルックナーになじみのない聴衆にもわかりやすいような、作品への架け橋として意図された演奏とは異なったものだったからである。

フルトヴェングラーの『音楽ノート』(白水社)によれば「正しい均衡を保ち『静力学的』に安定している楽曲は、決して法外な長さを必要としない。

法外に長い作品(ブルックナー)のシンフォニー楽章の再現部においては、自由奔放にして妥協点に欠ける造形が(・・・・・・)その欠点を暴露する。

ベートーヴェン、否ブラームスにもまだ見られた繰り返しが、ブルックナーにはもはや不可能である。(・・・・・・)

最初いくつかの楽章がしばしば再現部に見せる余白は、こうした状況から生じたものである」とかの発言が残されて、ベートーヴェンという峰を辿って、ブルックナーへと到達するというフルトヴェングラーの考え方が理解できるのではなかろうか。

この演奏会を実際に聴いたノヴァコフスキーの文章があるので、紹介させていただく(『フルトヴェングラーを語る』白水社)。

「ニコライ・コンサートでの演奏でした。(・・・・・・)年に一度の演奏会はウィーン音楽シーズンの頂点と言うべきもので、久しい以前からフルトヴェングラーの主催にゆだねられておりました。普通はベートーヴェンの『第9』を演奏するのが長い伝統になっていたしたが、(・・・・・・)ブルックナーの『第8』が選ばれることもありました(・・・・・・)このたびは、音楽の作り方が以前とは趣が変わっていました。アゴーギクに寄りかかった緊張が和らげられ、比類のない大きな瞑想のようでした。指揮者の姿はすべてを受容する献身の器としか思えませんでした。最後に到達した明澄と円熟の境地がここに忘れ難い最晩年の様式を生み出したのです。(・・・・・・)フィナーレの最後の響きがやむと、息を呑むような静寂が一瞬あたりを領します。やがて人々は席から立ち上がり、フルトヴェングラーとフィルハーモニーの楽員に喝采の嵐を送るのでした」

その後フルトヴェングラーはルツェルン音楽祭で、最後となったブルックナーの演奏(『第7番』)を行なっているが、それこそ「人々は魔法でもかけられたように、すわったっきりでした。エドウィン・フィッシャー、フルニエ、シュテフィ・ガイヤー、クーベリック、マイナルディ、ミュンヒンガー、その他多くの音楽家たちはほとんど試演のときから、もうそうでした。稀に見るほどに完璧な演奏でした。さながら冥界からの音信のようでした」。

最晩年のスタイルによる完成されたブルックナーだったのである。

その「冥界からの音信」のようなアダージョだけでも聴いてみたかったものである。

ブルックナーの受容状況は、今日大きく様変わりした。

原典への追従はやめて、ブルックナーの内面へと立ち向かおう。

きっとこの演奏にこそ、最高のブルックナーの『第8』を聴くであろう。

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classicalmusic at 11:14コメント(0)ブルックナーフルトヴェングラー 

2022年04月09日


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1960年マーラー生誕100年祭に於けるライヴ録音で、ワルターの最上のステージを伝える貴重な記録であり、この時彼は実に83歳。

体力の限界を理由に一度は断りながら、ウィーン・フィルの熱烈なラヴコールに応え、ムジークフェライン最後の指揮台に立ったものである。

ワルターの勇断は名コンサート・マスター、ボスコフスキー率いるウィーン・フィル渾身の演奏ぶりによって報われた。

指揮者、楽員双方が、最後の共演であることを意識し、お互いの最高の面を見せ合ったのだろう。

マーラーの「第4」は、全曲を通してワルターの気合は十分で、決め所での迫力にも事欠かないし、匂い立つ弦がいっそうの芳香を放ち、魅惑の花々が咲き乱れる。

ウィーン・フィルが、それこそ身も心も美の女神にゆだねながら演奏している、とてつもなく美しい場面が続く。

殊に第3楽章の深遠な叙情には、ワルターのウィーンへの、そして人生への告別の歌のようで、涙なしに聴くことはできない。

唯一残念なのは、ソプラノ独唱の人選ミスで、シュヴァルツコップの歌唱は、ドイツ語のディクションの明瞭さが仇となり、説明くさい音楽になってしまっている。

このフィナーレは純粋さ、可憐さ、素朴さが求められる至高の音楽であり、シュヴァルツコップの起用は、化粧の匂いが強すぎるのである。

マーラーの「第4」とともに演奏されたシューベルトの《未完成》は、筆者の知る限り、同曲の最美の演奏である。

ワルター&ウィーン・フィルと言えば、誰もが、懐かしい郷愁、甘美な歌などを連想したくなるものだが、ここに聴く《未完成》は、まったく違う。

あるのは、死にゆく者、去りゆく者の魂の慟哭ばかりで、これは交響曲版《冬の旅》なのである。

第1楽章は傷ついた者の凄惨な旅路だ。

《冬の旅》で言えば、裏切られた恋人の家に別れを告げ、街を去る第1曲「おやすみ」から、第5曲「菩提樹」で菩提樹のささやきを振り切り、運命の深淵に引きずり込まれる「鬼火」に相当するだろうか。

胸一杯の愛情と未練を残しながら、この世から去りゆかねばならなかったシューベルトの魂の叫びが聴こえてくるようだ。

第2楽章は、破滅した者、絶望した者が見た一場の夢であり、幸福な昔への悲痛な回想である。

《冬の旅》で言えば、束の間の甘い夢である第11曲「春の夢」、抑えていた孤独から激情が爆発する第12曲「孤独」などにも喩えられるだろう。

《未完成》を書いていた頃のシューベルトはまだ25歳、「死」の影が眼前に迫っていたわけではないが、その初期の症状をすでに感じていたのではないだろうか。

もっとも、《未完成》は断じて標題音楽ではなく、交響曲版《冬の旅》説は、あくまで音楽の本質を見極めるためのヒントに過ぎないことを申し添えておく。

ともあれ、ワルターとウィーン・フィルのライヴは、その艶やかで美しい音色と、崩れるような風情、そして肺腑を抉るティンパニの最強奏などによって、胸から心臓を取り出して、我々に見せてくれるような、恐ろしくも美しい名演となった。

音質もALTUS盤で聴く限り、大変魅力的で、マイクが楽器に近く、それでいてバランスも悪くない、聴く者を夢見心地にさせてくれる名録音である。

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classicalmusic at 23:44コメント(2)ワルターマーラー 

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2016年がアルテュール・グリュミオー没後30周年に当たり、逸早くユニヴァーサル・イタリーからリリースされたのがフィリップス音源のモーツァルト演奏集を網羅した19枚のバジェット・ボックスだ。

豊潤で艶やかな音色を駆使したグリュミオーのスタイリッシュなヴァイオリンが冴え渡る名演。

グリュミオーがレパートリーの中でも最も得意とした作曲家の一人がモーツァルトであったことは疑いないが、彼は何よりも美音家として名を馳せた。

洗練された甘美で豊潤な音色を武器に、スタイリッシュな奏法を駆使して一世を風靡した演奏は現在でもその輝きを失ってはいない。

確かに現代のヴァイオリニストの演奏に比べれば、ポルタメントを随所にかけたやや官能的でロマンティックな解釈は時としてモーツァルトらしくないかも知れない。

しかし彼の持っている洗練された音楽性が、自然にその曲想に反映するような音楽においては最良の効果を発揮する顕著な例がこのモーツァルトだ。

それは同じ世代のヴァイオリニスト、シェリングとは好対照を成していて興味深い。

後者の場合は自然発生的な音楽の発露としてではなく、むしろ構築され練り上げられていく表現だからだ。

確かにポルタメントをふんだんに取り入れた、ロマンティックなグリュミオーの歌い口は、たとえ彼が当時モーツァルトのスペシャリストであったとしても、来たるべき時代のモーツァルトの解釈とは言えないだろう。

しかしそれは独特の説得力があり、理屈抜きで彼の奏法に引き込んでしまう魅力を持っている。

特に黄金のコンビだったクララ・ハスキルとのソナタ集や2種類の協奏曲集は至高の名演として不滅の輝きを放っている。

その他にも、自らグリュミオー・トリオを率いてウィリアム・ベネットと組んだフルート四重奏曲や弦楽五重奏曲などは、音楽として先ず完璧に美しく、耽美性を排した颯爽として高貴な風格を持った彼ならではのスタイルが記録されている。

協奏曲集(新録)では、コリン・デイヴィス率いるロンドン交響楽団の潔く速めのテンポがグリュミオーのソロを極めて効果的に支えているのも特筆に値する。

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classicalmusic at 11:38コメント(0)モーツァルトグリュミオー 

2022年04月08日


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我が国の伝統文化に深い敬意を表して、そうした伝統文化に根ざした傑作の数々を世に送り出した黛敏郎には、頭が下がる思いである。

音楽のレビューと直接の関係がなくて恐縮であるが、現在における、日本の伝統文化や日本人としての誇りを蔑にするかのような嘆かわしい状況に鑑みれば、今こそ黛敏郎の音楽を深く味わうべき時にあるのではないかとさえ考える。

本盤に収められた両曲ともに素晴らしい傑作で、いずれも東洋的な精神世界をオーケストラで壮大に表現した傑作で、黛敏郎の才能の素晴らしさを実感できる。

曼荼羅交響曲は、涅槃交響曲と同様に、仏教の世界観をとり入れた作品であるが、どちらかと言えば、涅槃交響曲よりもわかりやすいと言えるかもしれない。

大乗仏教の金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅をモチーフにした2部構成の作品である。

第1部は、打楽器とオーケストラが断片的な音の交換から始まり、段々と東洋的なイメージが膨らんでいく。

第2部は、静かな仏教的な境地を思わせる雰囲気から、打楽器や金管が大きく盛り上がる展開である。

ライナーノーツによると、NHK交響楽団初の世界演奏旅行の際に、各地で演奏したとのことであるが、まさに世界に誇る現代曲の傑作と言えるのではないか。

バレエ音楽「舞楽」も、西欧音楽の楽器を活用した日本古来の音楽と言った趣きであり、バレエ音楽と言うよりは、能や歌舞伎の舞を思わせるような、独特の魅力に満ち溢れている。

雅楽の音響をオーケストラで模した2部構成の作品で、笙、しちりきのような音色が交錯しながら段々と盛り上がって、タイトルにふさわしい、東洋的なリズムの現代舞曲になっている。

そのためか全体を通して平安王朝の雰囲気に満ちた作品である。

演奏は、これらの両曲の初演者である岩城宏之&NHK交響楽団によるものになる。

黛敏郎も生前において認めていた演奏だけに、現時点においても、最も権威ある名演と評価しても過言ではあるまい。

Blu-spec-CD化による高音質化も、本盤の価値を大いに高めている。

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classicalmusic at 21:50コメント(0)現代音楽 

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リナルド・アレッサンドリーニのチェンバロ・ソロによるバッハ・アルバムとしては最初の1枚だが、彼は選曲に常に拘っている。

スタンダードな曲目を並べるのではなく、このアルバムではバッハがイタリアからどのような影響を受け、それを如何に自身の作品に反映させたかが理解できるように構成されている。

バッハの現存する最初期の作品のひとつが『最愛の兄の旅立ちに寄せるカプリッチョ』で、この曲のタイトルのオリジナルはイタリア語で記されている。

しかし曲想や様式にはそれほどイタリア的な要素はなく、むしろ当時ドイツでも注目されつつあったイタリア音楽への敬意が込められているのかも知れない。

バッハは生涯ドイツから出なかったが、アムステルダムで出版されたイタリアの作曲家の作品を殆ど総て知っていたようだ。

それはその後のヴィヴァルディ風の楽章構成、多くのイタリア作品の編曲などにその熱心さが窺える。

バッハは特に単純明快な楽章構成と効果的な和声進行、そしてヴァイオリン奏法に代表される即興的で自由な歌心を学んだ。

ここに収録されている『イタリア様式によるアリアと変奏』BWV989にその成果が顕著だ。

『半音階的幻想曲とフーガ』の演奏家にある程度解釈の自由を残したアルペッジョなどにも意外にイタリア的傾向がみられる。

使用楽器は古楽器製作者のアンソニー・サイディが1995年にパリでコピーしたものだ。

オリジナルはゴットフリート・ジルパーマン・スクールによる1740年頃のドイツのチェンバロで、5オクターヴずつの2段鍵盤を持ち気品のある音色と潤沢な余韻が特徴。

音質は極めて良好。

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classicalmusic at 09:37コメント(0)バッハ 

2022年04月07日


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モーツァルト弾きとして名を成した、ヘブラーの自信が滲み出た演奏だ。

彼女の持ち味のひとつに、見事にコントロールされた美しい響きがあるが、それはこの再録音によってますます磨きあげられている。

若いピアニストが生み出す響きのように鋭角的でなく、まろやかな中にヒューマンな感情を漂わせ、聴き手を魅了するのだ。

ひとつひとつの音符がくっきりと輝き出るような明確なタッチ、よい意味で芯のある響きが快く、少なくともモーツァルトを弾くために、磨くだけ磨きこまれた筋金入りの技巧を聴くことができる。

そして、この演奏には"気品"があり、そこが彼女の強味であろう。

ほんの少し聴いただけで気持ちが和んでくる、まろやかで、うるおいがあって、ぬくもりの感じられる演奏だ。

モーツァルトに対するヘブラーの思い入れが、弾き出されるすべてのフレーズ、すべての音に、ごく自然に反映されている。

どのソナタのどの楽章であれ、こうしたヘブラーの持ち味をたっぷりと味わわせ、楽しませてくれる。

全体に渡ってさりげない"思い入れ"が生かされており、それが容易に真似のできないこの人の個性だと知らされる。

この自然な語り口は、長いキャリアを通じてヘブラーがつかみとった奥義だろう。

ヘブラーの演奏には恣意的な表現が少しも無く、ただ自分の持ち合わせている洗練された音楽性と技巧をひたすらモーツァルトの音楽に奉仕させるという姿勢を貫いている。

その潔さとあくまでも古典派の音楽へのアプローチとしての自由自在な表現が円熟期を迎えた彼女の到達しえた解釈なのだろう。

ただここでのモーツァルトは決して枯淡の境地的なものではなく、むしろ清冽な響きで奏でた瑞々しい音楽が印象的だ。

テンポのとり方にも非常に安定感があり、それぞれのソナタに聴かれる明確なタッチによる細かなニュアンスとシンプルだが巧みな歌いまわしに彼女の確信が窺われる。

また曲想の輪郭をむやみに曖昧にすることなく、常に明晰で研ぎ澄まされた感覚を駆使した品のある表現はヘブラーならではのものだ。

どのソナタをとっても粒揃いだが、中でも白眉は第9番イ短調K.310以降の中期及び後期の作品群で、モーツァルトの自由奔放とも言える着想と深い音楽性、そして作曲技法が一つの模範的な演奏で再現されている。

1986年から91年にかけての録音で音質の素晴らしさも特筆される。

当代最上のモーツァルト演奏のひとつである。

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classicalmusic at 10:15コメント(0)モーツァルトヘブラー 

2022年04月06日


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カール・ズスケは、1962年にベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)のコンサートマスターに引き抜かれ、1965年に同僚と語らってズスケ弦楽四重奏団を結成、1966年にジュネーヴ国際コンクールに入賞した。

ズスケは多忙な国立歌劇場の仕事の合間を縫って室内楽に取り組み、やがてベルリン弦楽四重奏団と改称し、国際的にドイツ民主共和国(東ドイツ)最高の室内楽団と評価されることとなった。

それとともにズスケは室内楽の名手として名声を高め、数々の優れた室内楽のレコードを残したが、このベートーヴェンはこの団体の代表的名盤である。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集には文字通り歴史的名盤がいくつもあって、どれひとつとして聴き逃せないことは勿論であるが、筆者が比較的少数派という自覚付きながらまず真っ先に選ぶのは(旧)ベルリン弦楽四重奏団の全集である。

おそらく戦後ドイツが生み出した最高の弦楽四重奏団の1つの最善の成果が示された演奏で、極めて端正で清潔な表現と清々しい響きに彩られたベートーヴェン。

しかし単にすっきりしているというのではなく、その中に自在で柔軟性に富む表情と豊かな感興が息づいていて、ズスケの叙情性豊かな表現が、緩徐楽章だけでなく随所に効果的である。

強い自己主張を打ち出すよりも、作品に真摯に奉仕することにより、内から自然と滋味が滲み出てくるような秀演である。

旧東ドイツに属するとは言え演奏スタイルは決して古めかしくなく、むしろ優れて今日的で、どの曲、どの楽章を聴いても明確な表現をもった積極性に溢れた音楽が繰り広げられている。

つまり、これは感情のみを第一義とした旧時代的な演奏ではなく、もっと堅固にまとめられた、切れ味の鋭い音楽をつくっている。

そのためには、ベートーヴェンの与えた指定を少しもないがしろにせず、それを曖昧でなく鮮明に示して、すみずみまで迫力に満ちた演奏である。

ズスケ以下切れ込みの鋭い踏み込んだ表現が光り、しかも無用な情熱に駆られることなく、悠然たる歩みと堅固な造形感に貫かれた堂々とした演奏が展開されている。

これは極めて透明度の高い、そして古典的美しさを端正な造形で表現した演奏であるが、ズスケを中核とするメンバーは、瑞々しくも感情の潤いに満ちた音楽を歌っているのである。

全体に精神の輝きと自在な表情に満ちた生命感に溢れており、アダージョ楽章における気品を湛えた崇高な表現も出色である。

4人の奏者の均質で透明な響きが実に美しく、ズスケをはじめ、チェロのブフェンダーや内声も感興に溢れる素晴らしい演奏を展開する。

各声部の自発性豊かな表情と声部間の応答の敏感軽妙なこと、練れた柔らかい響きときめ細かな表情にも感心する。

この団体は、表情が決して粘り過ぎず、響きもいぶし銀のように底光りのする光沢と透明感があり、表現も一見淡泊であるが、実に細やかな神経が行き渡っており、各奏者の反応も敏感で清々しい。

これほど美しい造形と精神性のバランスのとれた演奏は少なく、奇を衒わない正統的な表現でここまでの深みを出せる団体は現在でも多くはない。

初期作品は、古典的で均整の取れた佇まいを、何のケレン味もなく実に落ち着いた余裕を感じさせるアンサンブルで見事に描き出している。

中期作品では、とかく熱を上げすぎバランスを崩す演奏が多いなかで、これは極めて落ち着いた盤石の安定感を示しているが、その中に込められた精神的充実ぶりも超一級。

後期作品は、ズスケの透明で柔軟性に満ちた音楽性がアンサンブル全体に行き渡り、心の奥から滲み出てくるような歌を、決して力まずに豊かに引き出しており、繊細な配慮の行き届いた緩急やデュナーミクの変化も実に自然である。

従って、演奏内容、音の鮮度、録音の自然さなど色々な条件を総合的に考慮して、これはどんな名盤にもおよそひけをとらない素晴らしいレコーディングだと確信する。

そしてリーダーのズスケがライプツィヒ・ゲヴァントハウスに移った後も、じっくり時間をかけてシリーズを完遂した制作態度にも、この全集の盤石の重みがある。

このベートーヴェンの全集完成をもって解散したこのメンバーによる品格高い音楽性が余すところなく記録されているのである。

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classicalmusic at 23:33コメント(2)ベートーヴェン 

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テンシュテットは亡命するまで東欧に籍を置いており、また指揮者としての全盛期に癌で亡くなっているため、活躍した期間は実質非常に短い。

その短期間の活動でもっとも重要なレパートリーがマーラーであったのだが、彼のマーラーには大きな問題がある。

正規録音のオーケストラがロンドン・フィルハーモニー管弦楽団なのである。

ロンドン・フィルはベルリン・フィル、ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ管弦楽団、バイエルン放送響などに比べて明らかに実力は低い。

同じイギリスのオーケストラのロンドン交響楽団やフィルハーモニア管弦楽団などと比べても劣る。

もともと北ドイツ放送交響楽団の音楽監督をしていたのに、あまりに厳格であったためごく短期間で決裂してしまう。

そしてその後は必ずしも一流とは言えないロンドン・フィルとの録音が殆どとなってしまった。

この演奏は数少ない北ドイツ放送響との演奏であり、しかも稀代の名演と謳われるものである。

正直、震撼させられるような演奏である。

マーラーに個人の苦悩の姿を見る人にとっては、いかなる手段を尽くしても聴かなければいけないディスクだろう。

特に第2番『復活』は徹底していて、緩急の変化も激しく、じつにたくましいタッチでマーラーの天国と地獄を描き出すのだ。

第2楽章は、骸骨が躍る「死の舞踏」のように不気味だ。

第4楽章の伴奏も深く、何かの拍子に音楽が途切れ、突然の沈黙が襲うのではないかという不安まで感じさせる。

そして、フィナーレでは一転、酒池肉林、否、阿鼻叫喚の白熱ぶりで、合唱はまるでミサ曲のように荘重敬虔に歌い出し、それがやがてユートピア待望の叫びに移り行く。

ロマン主義とは引き裂かれていることなのだと、これほどまでにわからせてくれる演奏は少ないだろう。

もはやこの演奏を聴かないでマーラー・ファンは名乗れないとすら言ってよいかもしれない。

北ドイツ放送響はテンシュテットを嫌って、両者の関係はたちまち途絶えたが、それもそのはず、こんな演奏を常にさせられていたら身が持たない。

頭もおかしくなるかもしれない。

人間は真実よりも自己保存選ぶというちょっと寂しい教訓を与えてくれる。

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classicalmusic at 10:57コメント(0)テンシュテットマーラー 

2022年04月05日


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2004年に逝去した伝説のカリスマ指揮者、カルロス・クライバーのドキュメンタリー映像作品で、完璧主義であったがゆえに苦悩した天才カルロス・クライバーの実像が克明に描かれている。

カルロス・クライバーは、取り上げるレパートリーを極端に絞り込み、少ない演奏会、決して多くはない録音ではあったが、ひとたび舞台に上がると聴く者すべてを魅了する演奏をした、生きながらにして伝説の指揮者であった。

このDVDの冒頭で『イゾルデの愛の死』を指揮するクライバーの殆んど神々しいまでの姿が非常に印象的で、それは狂気と紙一重のところで成り立っていた彼の芸術を図らずも暗示しているように思える。

ドキュメンタリーの中では父エーリッヒの姿もしばしば登場する。

カルロスにとって指揮者エーリッヒの存在は、永遠に解き放つことができない呪縛でもあった。

そして父とは異なったやり方を見出さなければならないという、一種の恐怖感が生涯彼を苛んでいたのも事実だろう。

また多くの人がインタビューで証言しているように、完璧主義者ゆえに自分の思い通りにならないと、一切を投げ捨ててしまう性癖があった。

ここでは彼が土壇場になってキャンセルしたオペラ公演やコンサートの逸話も少なからず語られている。

ウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲第4番のリハーサル中に楽員たちと衝突してその場を去ってしまう、いわゆる「テレーズ事件」の時の劇的な音声も幾つかのスナップ写真と共に生々しく記録されている。

「どうしてできないんだ、こんなことで長い時間議論しなければならないなんて!」と強い調子で訴えるクライバー。

しかしウィーン・フィルのような古い伝統を引っさげたオーケストラは唯でさえ指揮者の言いなりにはならない。

まして彼らがプライドを傷つけられれば尚更だ。

両者の気まずい緊張の中でクライバーは「10分間休憩」の指示を出してそのまま帰ってこなかったし、定期演奏会もキャンセルしてしまった。

この作品を制作したゲオルク・ヴュープボルトはクライバーの父エーリッヒ、そして母のルース、更にはカルロス自身の自殺説を仄めかしている。

末期の癌患者だった彼が妻を失った後、単身彼女の故郷スロベニアのコンシチャに向かい、病院ではなく彼らの別荘で扉も窓も閉ざしたまま亡くなっているところを発見されたという証言は確かにどこか謎めいている。

真相は分からないが、彼は明らかに死を待っていたし、またその時期も悟っていた。

そして故意に家族から遠ざかって孤独の死を選んだ。

偉大な指揮者の華やかで劇的な生涯の終焉は意外なほど慎ましく寂しいものだった。

インタビューを受けた人達は演出家オットー・シェンク、指揮者ヴォルフガング・サヴァリッシュ、リッカルド・ムーティ、歌手イレアナ・コトルバス等の他に当時のオーケストラの団員、マネージャー等多岐に亘っている。

全体的にみて作品の演出的要素は控えめで、彼らの証言によって視聴者自身がクライバーのバイオグラフィーをイメージできるように構成されている。

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classicalmusic at 21:05コメント(0)クライバー映画 

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本盤の演奏は、1949年12月16日(奇しくもベートーヴェンと私の誕生日)のハンブルク(オケは結成間もない北西ドイツ放送交響楽団)でのライヴ録音である。

名指揮者イッセルシュテットが最も充実した時代の演奏であると同時に、まだ戦後バイロイト音楽祭の復興もままならぬ時代の記録でもある。

イッセルシュテットは最近ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》のライヴ録音の日の目を見るなど数々の秀演を遺している。

しかしそれらのライヴ録音にも冠絶する至高の名演は、本盤に収められた楽劇《トリスタンとイゾルデ》であると考える。

それどころか、同曲の他の指揮者による名演であるフルトヴェングラー&フィルハーモニア管による演奏(1952年)やベーム&バイロイト祝祭管による演奏(1966年)、さらにクライバー&シュターツカペレ・ドレスデンによる演奏(1980〜1982年)と並んで4強の一角を占める超名演と高く評価したい。

フルトヴェングラーが深沈とした奥行きの深さ、ベームが実演ならではのドラマティックで劇的な演奏、クライバーがオーケストラのいぶし銀の音色を活かした重厚さを特色とした名演であった。

これらに対して、学者風でにこりともしない堅物の風貌のイッセルシュテットが、同曲をこれほどまでに官能的に描き出すことができるとは殆ど信じられないほどである。

イッセルシュテットは、実演でこそ本領を発揮する指揮者あることが明らかにされてきている。

本演奏でもその実力を如何なく発揮しており、冒頭の前奏曲からして官能的で熱き歌心が全開だ。

その後も、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や緊張感、そして切れば血が吹き出してくるような強靭な生命力に満ち溢れており、全盛期のイッセルシュテットならではのリズミカルな躍動感も健在だ。

テンポは若干速めであるが、隙間風が吹くような箇所は皆無であり、どこをとっても造型の堅固さと充実した響きが支配しているのが素晴らしい。

セッションにおける冷静なイッセルシュテットとは趣が異なり、実演でこそ燃え立つ真の名匠としてのイッセルシュテットの逞しい音楽が渦巻いている。

ハンブルクに集結した名歌手陣の、その感動的な歌唱の魅力は素晴らしく、現在聴いても少しも色褪せていない。

とりわけ、第2幕のイゾルデ役のパウラ・バウマンとトリスタン役のマックス・ローレンツによる愛の熱唱は、イッセルシュテットの心を込め抜いた指揮も相俟って、おそらくは同曲演奏史上でも最高峰の名演奏に仕上がっている。

その官能的な美しさといい、はたまたドラマティックな迫力といい、聴いていてただただ圧倒されるのみである。

そして、第3幕終結部のイゾルデの愛の死におけるバウマンによる絶唱は、もはや筆舌には尽くし難い感動を覚えるところだ。

これらの主役2人のほか、今となっては贅沢な脇役陣の渾身の熱唱も、本名演に大きく貢献していることを忘れてはならない。

録音は、1949年のモノラル録音にしては十分に満足できる音質であり、ワグネリアンには必聴の熱演と絶賛したい。

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classicalmusic at 10:59コメント(0)ワーグナー 

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どこまでもドイツ音楽の伝統に根をおき、ドイツ民族の美学を最良の形で示した重鎮カイルベルトが、バイロイト音楽祭で《ニーベルングの指環》を指揮した伝説の1955年ライヴ録音からの第2夜《ジークフリート》が現役盤として残っている。

最近、放送音源などによるライヴ録音の発掘が積極的に行われているが、これは英デッカによる正真正銘「正規」録音である。

上演の模様を鮮やかにとらえたオリジナル・ステレオのサウンドが素晴らしい。

そして、聴きものは、まずカイルベルトの指揮で、その生々しい迫力に満ちた演奏を聴くと、この往年のドイツの名指揮者の実力と魅力を思い知らされる。

忘れるには惜しい名匠で、特に《ジークフリート》は、カイルベルトの残したオペラの録音のなかでも、特筆すべき名盤である。

カイルベルト壮年期の熱気と覇気に満ちた筋肉質な音楽作りの力によって、この長大な作品を一気呵成に聴かせてくれる。

カイルベルトの指揮は肌触りはざらざらしているが、ジークフリートとブリュンヒルデが出逢ってからの感動は筆舌につくし難い。

歌手陣の充実も、正に「バイロイト音楽祭の黄金期の記録」と呼ぶべきもの。

1950年代から1960年代にかけてバイロイトで活躍した、ヴィントガッセンとヴァルナイという2人のワーグナー歌手の歴史的な共演盤でもある。

声のエネルギーに満ち満ちていた時代のヴィントガッセンのジークフリート、ホッターのさすらい人は、他の彼らの録音以上の若々しい声の魅力に満ちている。

ヴァルナイのブリュンヒルデも圧巻で、この名手の貴重な記録だ。

主役2人の名歌手の最盛期の貴重な記録だが、さすがにスケールの大きな味わいの深い二重唱が展開されている。

ヴァルナイの言葉の明晰さ、声の響きの逞しい力、ドラマティックな緊張の鋭さ、そして音楽の生み出す感動に聴き手の心に強く訴えかける真摯さは全く素晴らしい。

かつて、情報の限られていた日本では、レコードで活躍する演奏家ばかりが目立って、そうでない音楽家が不当に過小評価される傾向があったが、このヴァルナイなどはその代表格であろう。

後発のニルソンの華々しい録音活動にかくれてしまったが、1950年代のバイロイト音楽祭では最高のブリュンヒルデ歌いであった。

筆者には、直線的な威力で聴かせるニルソンより、黄金時代の伝統をついで、大きく深く音楽を呼吸させるヴァルナイの歌のほうが、よほど感動的に聴こえる。

このテスタメント盤は、録音機会の少なかった彼女が残した貴重なライヴ録音盤である。

地の底からわきあがって高天にのぼるような、その長大な呼吸を聴くことができる。

ヴィントガッセンにもほぼ同じことが言え、ジークフリートでの知的な解釈と若々しいヴァイタリティが聴きものだ。

かつてはベーム盤もバイロイトのライヴ録音ということで大きな話題になったし、高く評価された。

だが、その一方で、音はよくてもこの壮大なドラマを充分に表現しきれていないのは、ライヴ録音のためではないかという疑問もあったのだが、それも、カイルベルトによる1955年のライヴ録音で氷解した。

ベームを過大評価していたのである。

戦後バイロイトの1つの頂点を刻む記録として後世に語り継がれていくべき名盤で、残る3作も復活を望みたい。

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classicalmusic at 01:38コメント(0)ワーグナーカイルベルト 

2022年04月04日


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マリア=ジョアン・ピリスがエラートからドイツ・グラモフォンに移籍した後の、アンサンブルの録音をまとめた12枚組BOX。

彼女がこの頃意欲的に取り組んだ他の演奏家との多彩な能力を示した興味深い演奏になる。

このセットのうち9枚までがヴァイオリニスト、オーギュスタン・デュメイとの協演でベートーヴェン及びブラームスのヴァイオリン・ソナタ全曲を始めとするゲルマン系作曲家の作品を中心に収録している。

同時期彼らは集中的なアンサンブルを行っていて、ラテン系の演奏家2人がドイツ物にフレッシュな感性で対応したデュエットに仕上がっている。

デュメイは官能的な表現を得意としているが、ここでも彼の美しい音色を活かして流麗に歌うカンタービレは、フランコ=ベルギー派を受け継ぐ典型的なヴァイオリン奏法だ。

それ故このセットの白眉はCD11のフランク、ラヴェル、ドビュッシーを収めたフランスの作曲家の作品集である。

感性を共有するピリスの繊細かつ情熱的な伴奏に、水を得た魚のように大胆で、しかも妖艶な雰囲気を漂わせた魅惑的な演奏を披露している。

彼らの音楽作りには特有の抑揚があって、ベートーヴェンに関しては哲学的な演奏ではないにしても、より自由に解き放たれた演奏と言うことができるだろう。

ドイツ物ではむしろ憂愁に包まれた歌謡性を持ったブラームスのヴァイオリン・ソナタの方が両者には合っているかも知れない。

その意味でCD5でジャン・ワンが入るブラームスのピアノ三重奏曲のドラマティックな展開やCD9で更にヴァイオリンのルノー・カピュソン、ヴィオラのジェラール・コセが加わるシューマンのピアノ五重奏曲は、彼らの濃厚なロマンティシズムの表出で秀逸だ。

しかし一方でCD8のモーツァルトの3曲のピアノ三重奏曲も均整のとれた古典的な演奏が模範的だ。

意外にもCD6のグリーグの3曲のヴァイオリン・ソナタが、柔軟に捉えた北欧の舞曲や抒情を湛えた映像的な描写で優れている。

尚最後はチェロのアントニオ・メネセスとのウィグモア・ホールでのジョイント・コンサート・ライヴで、これも気の利いたプログラムによる捨て難い1枚だ。

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classicalmusic at 18:15コメント(0)ピリスデュメイ 

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カラヤンの生誕100周年を契機に、様々なライヴの名演盤が発掘されてきたが、本盤も、カラヤンがライヴの人であることを証明する素晴らしい名演だ。

近年発売された様々な伝記でも明らかにされているが、カラヤンは、スタジオ録音とコンサートを別ものと捉えていた。

そして、コンサートに足を運んでくれる聴者を特別の人と尊重しており、ライヴでこそ真価を発揮する指揮者だったことを忘れてはならない。

本ライヴ盤(1950年)の異常な緊張は、マタイ受難曲の録音史上で空前のものと言え、楽員と一体になっての音楽の高揚は、時に魂が張り裂けんばかりの悲痛さを伴って、恐怖に近い感動を覚える。

カラヤンは若い頃から、バッハに情熱を燃やし続けてきた人で、彼の演奏は、バッハに対する深い敬愛の念が込められている。

この演奏も、曲の核心に鋭く切り込んだもので、ひとつひとつの音に精魂を込めながら、一分の隙もなくまとめあげている。

カラヤンは豪華歌手陣とウィーン交響楽団、ウィーン楽友協会合唱団、ウィーン少年合唱団の実力を充分に発揮させ、精緻を極めた構成力と、じっくりと腰を据え、各部を入念に仕上げている。

この戦後の音楽界に君臨した巨人は、あたかも高度成長時代の申し子のように思われがちだが、この演奏は、いまコロナ禍と戦禍に見舞われている人たちに、第二次世界大戦を生き抜いてきた時代がどれほど苦渋に満ちたものであったかを伝える貴重なドキュメントだ。

戦後やっと5年たっての演奏で、彼がまだナチの後遺症を引きずっていた時期にあたる。

そのせいか、このマタイ受難曲を通して自己の魂のありようを検証しようとする、きびしい自己省察が聴きとれる。

当時のカラヤンに戦争への深刻な反省と鎮魂の気持ちがあったのだろう。

このライヴ録音は奥行きの深いひびきに満ち、死と向き合い、生の意味を問うきびしい精神性をベースに、イエス・キリストに思いを馳せる敬虔な祈りとやさしい慰撫をひびかせている。

その展開が自然でスケールが大きく、しかも全体のバランスは申し分ない。

謙虚でありながら、きわめて気高い姿勢に貫かれ、入魂の業を示し、それは独唱・合唱にも感染している。

特にフェリアーの歌う〈懺悔と悔悟は罪の心を押しつぶし〉に漲る宗教的な情感の深さは稀有のものだ。

フェリアーの歌は、最初の数小節を聴いただけで、人間の素晴らしさを感じさせ、人間であることの意味を悟らせてくれる。

人の高貴さ、優しさを、このように歌い出してくる声楽家は、もう私達の前に二度と現われることはないだろう。

いくら讃えても讃え切れないこの演奏が、今後とも、人類のかけがえのない遺産として受け継がれていくよう願わずにはいられない。

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classicalmusic at 11:39コメント(0)カラヤンフェリアー 

2022年04月03日


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このディスクに収録されたベイヌムの指揮するコンセルトヘボウ管弦楽団からはレコード録音史上、最も素晴らしい音のするオーケストラが聴ける。

最近のオーケストラだって、うまいことはうまいのだが、このように潤いがあり、艶があり、弾力もある音はしないはずだ。

別な言い方をすれば「コクと切れ」という、普通はまず均等にブレンドされない要素が、見事に両立した稀有の例なのである。

むろん、響きだけが良いのではなく、ベイヌムの棒はこのオーケストラの前シェフ、メンゲルベルクの濃厚甘美とは正反対のきっぱりした表現により、団全体に新風を吹き込んでいるのだ。

交響曲第1番は1951年の録音で、フィリップス盤よりも7年前の録音になり、一段と輝かしく、颯爽としており、聴く者を引き込まずにはおかない磁力にも似た吸引力がある。

他のどんな名指揮者も実現させ得なかった熱い興奮へと誘う気迫が充満、起伏豊かで、オーケストラを聴く醍醐味に浸らせてくれる。

ことに終楽章の設計とクライマックスへの運びの巧さは誠に心憎いばかりで、何度でも繰り返し聴きたくなるほど興奮させる。

第1楽章の冒頭は通常よりはかなり速く開始されるが、すぐにチェロやオーボエの素晴らしい音色に魅了される。

主部に入るとテンポはときに急激に加速されるが、オーケストラは全く崩れず、どんな場合も潤いを失わない。

続く第2楽章の弦のふっくらと温かい音色、第3楽章の木管楽器の豊かな音、そして第4楽章の序奏のホルン、そしてそれを支える弦のさざ波、続くアレグロの瑞々しさ、もうどこをとっても溜息の出る響きの連続である。

象徴的なのは第4楽章のコーダの途中で金管楽器のコラール風の旋律が出てくるが、ここはほとんどの指揮者がテンポを落とす。

だがベイヌムは、目の覚めるようなスピードで駆け抜けるのだ。

とくに最初聴いたときはびっくりするが、もともとスコアには「テンポを落とせ」という指示はない。

つまり、このベイヌムが正道ということ。

もちろんモノーラルだが、定評あるデッカの優秀録音のためか、不思議に不満は皆無である。

尚ベイヌムは、この曲をステレオ時代に同じオーケストラで再度録音しているが、演奏、オーケストラ自体の魅力はかなり落ちている。

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classicalmusic at 06:39コメント(0)ブラームス 

2022年04月02日


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バッハの無伴奏チェロ組曲はあらゆるチェリストにとっての聖典とも言うべき不朽の名作であり、本盤のカザルスによる演奏を嚆矢として、錚々たるチェリストが数々の演奏を遺してきている。

カザルスによる本演奏は1936〜1939年のSP期の録音であり、その後に録音された他のチェリストによる演奏と比較すると音質は極めて劣悪なものである。

そして、単に技量という観点からすれば、その後のチェリストによる演奏の方により優れたものがあるとも言えなくもない。

演奏スタイルとしても、古楽器奏法やオリジナル楽器の使用が主流とされる近年の傾向からすると、時代遅れとの批判があるかもしれない。

しかしながら、本演奏は、そもそもそのような音質面でのハンディや技量、そして演奏スタイルの古さといった面を超越した崇高さを湛えている。

カザルスのまさに全身全霊を傾けた渾身のチェロ演奏が我々聴き手の深い感動を誘うのであり、かかる演奏は技量や演奏スタイルの古さなどとは別次元の魂の音楽であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みがある。

その後、様々なチェリストが本演奏を目標として数々の演奏を行ってはきているが、現在においてもなお、本演奏を超える名演を成し遂げることができないというのは、カザルスのチェロ演奏がいかに余人の及ばない崇高な高峰に聳え立っていたのかの証左である。

ときに気まぐれな天使が頭をもたげ、「もうカザルスは忘れてはいいのでは。フルニエ、シュタルケル、マイスキーがあるじゃないか」と呟く。

だが、それは一時の気の迷いであり、満たされない心、音楽とのほんとうの対話をしたいと願う心は常にカザルスへと帰り着く。

このディスクの価値は、スタイルや技術や世代を越えて存在する音楽の普遍性を教えてくれる点にあり、聴き手と音楽との関係を原点に振り戻し、憩わせ、勇気づけてくれる。

いずれにしても、カザルスによる本演奏は、バッハの無伴奏チェロ組曲を語る時に、その規範となるべき演奏として第一に掲げられる超名演であるとともに、今後とも未来永劫、同曲演奏の代表盤としての地位を他の演奏に譲ることはなく、普遍的価値を持ち続けるのではないかとさえ考えられる。

前述のように、本演奏は音質面のハンディを超越した存在であるが、それでも我々聴き手としては可能な限り良好な音質で聴きたいというのが正直な気持ちである。

新たに行われたリマスタリング盤は、かなり聴きやすい音質に生まれ変わったところである。

いずれにしても、カザルスによる歴史的な超名演を、新リマスタリングによる比較的良好な音質で味わうことができるのを歓迎したい。

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classicalmusic at 19:45コメント(0)バッハカザルス 

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スイスの巨匠エドウィン・フィッシャーはバッハ演奏の先進的存在で、SP30枚を越す録音を遺している。

特に《平均律クラヴィーア曲集》第1巻、第2巻はレコード史上初の全曲録音ながら、名演として今日に語り継がれてきたものだ。

バッハの《平均律クラヴィーア曲集》をハンス・フォン・ビューローはピアノ音楽の旧約聖書と呼んだが、1933年から36年にかけて録音されたフィッシャーによるこの曲集の録音は、正にビューローの呼び名にふさわしい音楽の世界が記録されている。

フィッシャーが47歳から50歳にかけての、ピアニストとして最も脂が乗った時期の演奏で、いまなお「平均律」の数多い全曲盤の中でも光彩を放っている。

古武士の風格というのがフィッシャーが弾く《平均律》を聴いての第一印象であった。

奥ゆかしさをたたえたこうした演奏、今では姿を消してしまい、接したくても接せられない状態が続いている。

かのカザルスより10歳年少で、同世代に属するだけに、音楽に対する姿勢、そしてなによりバッハに対する姿勢が相似ることになったのだと思われる。

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ここでのフィッシャーはバッハの音楽世界にごく自然に没入してゆき、その自然さでバッハをわれわれに近付ける。

すべての音に彼の情愛が注がれており、それが聴き手の心を豊かにするのである。

これこそ彼の《音楽》の真骨頂を示したものだ。

この《平均律》は、聴けば聴くほどフィッシャーの人間性に触れた思いが強くなり、親しみが増してくる。

グレン・グールドやリヒテル、最近ではアファナシエフやキース・ジャレット、シフらの興味深い録音もある。

しかしこのフィッシャーの生み出す深く美しい世界こそが、ドイツ音楽の巨匠バッハの普遍的な価値を代弁している。

人間の魂を思わせる美、絶対的な高みに達した精神世界の美がここにあり、この一組は人類の宝だ。

犒伸瓩砲呂泙辰慎ヽEな演奏が多くなった現在、ハンドメイドの味でもてなしてくれる当盤の価値は高い。

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classicalmusic at 08:55コメント(0)バッハ 

2022年04月01日


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ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲レコーディングに初めて取り組み、私たちの時代に聴くことができる最も古いサンプルを遺してくれたのがアルトゥール・シュナーベル(1882-1951)である。

これらの演奏が資料として貴重なだけでなく、当時の彼のベートーヴェンのピアノ作品に対する価値観と、それを後世に問うという使命感を伝えていて興味深い。

シュナーベルの演奏は過去の批評家たちによって指摘されているほど恣意的なものではなく、むしろ新時代の解釈を告げる速めのテンポ設定をしたシンプルで、しかも作品の構造を明確にする造形性にも優れている。

現在シュナーベルに対する認識は薄くなっているが、グレン・グールドが唯一の指針としてシュナーベルの演奏を挙げているように、19世紀の伝統と20世紀の新しい息吹きとを融合させたピアノの巨匠として忘れることのできない演奏家である。

この全集を聴き終わった後、鬼才が彼に傾倒したという逸話もあながち信じられないことでもない。

1932年から35年にかけての録音なので音がいくらか痩せていて音場も狭いがノイズは意外に少なく、今回アビーロード・スタジオで新規に行われたリマスタリングによって高度な鑑賞にも堪え得るだけの良好な音質が再現されていることは確かだ。

シュナーベルも毀誉褒貶相半ばする演奏家の1人で、その主な理由はピアニスティックなテクニックが完璧でなかったということから来ているようだ。

確かに彼と同時代に活躍して鍵盤の獅子王の異名を取ったバックハウスに比べると、ヴィルトゥオーゾという観点からすれば劣っていたことは事実だろう。

しかしそうした弱点をカバーするだけの高邁なスピリットと表現力を備えていたことは、このソナタ全集を聴けば明らかである。

シュナーベルはこの録音に先立って早くも1927年にベルリンでベートーヴェン没後100年記念としてソナタ全曲のチクルス・リサイタルを開いているので、1曲1曲を手の内に入れた決して借り物でない彼の哲学を具現した演奏と言える。

ソナタ全曲演奏会を開いて一大センセーションを巻き起こし、1932年から35年にかけて完成した全集レコードは、当時の演奏家、愛好家にとっては聖書的な役割を果たしていた。

その演奏は現在聴いても決して古びたものではなく、ベートーヴェンの巨大な音楽を見事に描き出した名演として心を打つ。

世紀末的なロマンティシズムを引き摺ることなく、懐古趣味を早くから捨て去って、独創的なベートーヴェン像を提示しているところはかえって現代的で、彼がこのソナタ全曲録音に取り組んだ理由も納得できる。

また当時の録音システムでは如何なる巨匠であろうとも録り直しや修正が許されない一発録りが基本だったので、彼自身もライヴ同様の緊張感を持って臨んでいたことが想像される。

筆者はあるときには、シュナーベルはもはや大時代な演奏に聴こえるに違いないと勝手に思いこんで、遠ざかっていたこともあったが、ワーナーの手で復刻されたシュナーベルは、やはり空前にして絶後のベートーヴェン弾きであったことを肯かせてくれる。

どんな曲を弾かせても、ベートーヴェンの再来ではないかと思わせるほどの説得性を持っている。

ベートーヴェンの音楽は言うまでもなく《高貴》な音楽であり、その高貴さをシュナーベルほど高貴に弾いたピアニストはいない。

一例を挙げれば、作品109の第3楽章の変奏で、限りない高みに近づき、それが崩れ落ちて諦観のうちに終わるのだが、その高揚と崩落のあとの虚無と無言の慟哭を描かせてはシュナーベルの右に出る者はいない。

SP録音を感じさせない凄い響きに着目したい。

こうした、時代を超えた演奏が復刻されては、あとを行く者の影は薄いを言わざるを得ない。

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classicalmusic at 19:56コメント(0)ベートーヴェン 

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ヴィラ=ロボスの多岐に亘る作品を協奏曲、室内楽、管弦楽のそれぞれのジャンルから集めて2枚のCDにカップリングした20世紀クラシックス・シリーズのセット。

第1曲目のソプラノ・サクソフォンと室内オーケストラのための『ファンタジア』は実質的な協奏曲で、この楽器の特性を活かした華やかで色彩感に溢れる、サクソフォンのための数少ない協奏曲のひとつだ。

ジョン・ハールの鮮やかなソロ、ネヴィル・マリナー指揮、アカデミー室内による1990年のセッション。

この曲は作曲者が1920年にパリで出会ったサクソフォニストのマルセル・ミュルのために書いたが、ミュルの関心を惹くことはなく、彼に送られた楽譜も紛失してしまったといういわくつきの曲だ。

一方ギター協奏曲はアンドレアス・セゴビアの初演で、1951年に作曲されているので、ロドリーゴやカステル=ヌオーヴォの同協奏曲より後の作品になる。

彼自身ギタリストでもあり、ソロ・パートの手馴れた名人芸や洗練されたオーケストレーションの書法が魅力だが、新境地に踏み込むような斬新さと音響の鮮烈さではロドリーゴが優っているように思う。

演奏はロメロ・ファミリーの末っ子で、情熱的なテクニシャンのアンヘル・ロメロのソロ、へスス・ロペス=コボス指揮、ロンドン・フィルによる1984年のセッション。

その他興味深い曲として、当初ピアノ用に作曲された『ブラジルの子供のためのカーニバル』に堂々たるオーケストレーションを施して協奏曲風に仕上げたファンタジー『モモプレコチェ』がクリスティーナ・オルティスのピアノ、アシュケナージ指揮、ニュー・フィルハーモニアで聴ける。

そしてやはり民族的な印象が強い弦楽四重奏曲第6番ホ短調がハンガリアン・カルテットの演奏になる。

2枚目は彼のオーケストラル・ワークの代表作『ブラジル風バッハ』からの4曲になる。

中でも白眉はヴィラ=ロボス自身の指揮とヴィクトリア・デ・ロス・アンへレスのソプラノに8台のチェロが加わる第5番が、エキゾチックな雰囲気を満喫できるだけでなく、音楽的にも高い水準で必聴の名演。

オーケストラはフランス国立放送管弦楽団で1956年の古いセッションだが、デジタル・リマスタリングの効果もあって音質は良好。

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classicalmusic at 05:11コメント(0)現代音楽アシュケナージ 
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早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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