2022年05月

2022年05月31日


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フランス系カナダ人の名チェリストであるジャン=ギアン・ケラスが、世界最高の女流ヴィオリストとも評されるタベア・ツィンマーマンや、古楽器演奏にも通暁したダニエル・セペックなど、各種ソロ活動でも実績のある3名のドイツ人弦楽器奏者とともに結成したアルカント弦楽四重奏団。

前述のように、メンバー全員が世界的な若手一流弦楽器奏者で構成されており、ソロ活動に繁忙なこともあって、常にともに活動している団体ではないが、結成されてからの今日までにリリースされたアルバムは途轍もない超名演揃いであると言っても過言ではあるまい。

それらの楽曲からも窺い知ることができるように、そのレパートリーは極めて広範なものがあり、アルバン・ベルク弦楽四重奏団が解散した今日においては、準常設団体ながら、カルミナ弦楽四重奏団などと並んで、最も注目すべき弦楽四重奏団であろう。

シューベルトの最晩年の傑作、弦楽五重奏曲ハ長調は、第2チェロを、この団体のリーダー格のジャン=ギアン・ケラスの高弟、オリヴィエ・マロンがつとめている。

同曲には、ウィーン風の抒情に満ち溢れた情感の豊かさに加えて、その後の新ウィーン派の音楽にも繋がっていくような現代的な感覚を付加させたアルバン・ベルク弦楽四重奏団による名演もあるが、本盤の演奏もその系譜に連なる演奏と言っても過言ではあるまい。

第1楽章冒頭からして、切れ味鋭いシャープな表現に驚かされる。

その後も、効果的なテンポの振幅や強弱の変化を駆使して、寂寥感に溢れたシューベルトの音楽の本質を鋭く描き出しているのが素晴らしい。

細部における表情づけも過不足なく行われており、この団体のスコア・リーディングの確かさ、厳正さを感じることが大いに可能である。

第2楽章は一転して両端部において情感豊かな表現を行っているが、耽溺し過ぎるということはなく、常に格調の高さを失っていない。

中間部は、同団体ならではの切れ味鋭いシャープな表現が際立っているが、同楽章全体の剛柔のバランスの取り方が見事であり、各奏者の類稀な音楽性を感じることが可能だ。

第3楽章は、非常に速いテンポによる躍動感が見事であるが、畳み掛けていくような気迫と切れ味鋭いリズム感は、この団体の真骨頂とも言うべき圧倒的な迫力を誇っている。

終楽章は、シューベルトの最晩年の心底に潜む闇のようなものを徹底して抉り出すような凄い演奏。

終結部の謎めいた終わり方も、この団体にかかると、歌曲集「冬の旅」の作曲などを通して、「死」というものと人一倍向き合ってきたシューベルトの「死」に対する強烈なアンチテーゼのように聴こえるから実に不思議なものであると言えるところだ。

いずれにしても、本演奏は、アルカント弦楽四重奏団の実力が如何なく発揮されるとともに、今後のこの団体のますますの発展を予見させる超名演であると高く評価したい。

音質についても、ハルモニア・ムンディならではの鮮明で良好なものであり、各奏者の弓使いが鮮明に再現されるとともに、その演奏が明瞭に分離して聴こえるのは、まさに室内楽曲を聴く醍醐味であり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 21:50コメント(0)シューベルト 

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本作は、ロリン・マゼールがディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとユリア・ヴァラディ夫妻を迎えてベルリン・フィルと録音したアルバムで、アレクサンダー・ツェムリンスキーの代表作、《叙情交響曲》を一躍有名にしたデジタル初期(1981年録音)の名盤。

《叙情交響曲》は、シェーンベルクの師で、マーラーとも親交のあったツェムリンスキーの傑作である。

ツェムリンスキーに対する関心と認識は、かなり最近のことと言ってもよいであろう。

それは、後期ロマン派やシェーンベルクをはじめとする新ウィーン楽派への関心の副産物というのは言い過ぎであろうが、シェーンベルクの師であり義兄であるという認識は大きい。

そのツェムリンスキーの1923年の《叙情交響曲》は、その代表作でもあり、最近はいくつかの録音もあるが、これは世界初録音であった。

インドの詩人タゴールの独語訳テキストに、男女2名の独唱、大編成のオーケストラ。

明らかにマーラーの《大地の歌》を意識した内容であるが、生と死をモチーフとした《大地の歌》に比べ、こちらは男女の愛欲を濃厚に歌い上げている。

このツェムリンスキーの《叙情交響曲》は、1922年から23年という「新音楽」の誕生の時期にあえて《大地の歌》へのオマージュとして書かれたわけで、明らかに時代の潮流に逆らっていた。

官能を主題とした点では、スクリャービンの《法悦の詩》に通じるところがあり、全般に暗く濃厚なロマン派の音楽で、時には甘美に、または激しく愛を歌っている。

しかし、エロティシズムと神秘主義の間を揺れ動くその官能的な内容と壮大な交響楽的構成には、耽美的な後期ロマン派の遅れた成果という以上の魅力が備わっている。

特に調性語法の幅や、アリオーゾからシュプレッヒゲザングまでの声楽様式の幅など、実にドラマティックだ。

マゼールとベルリン・フィル、ヴァラディとフィッシャー=ディースカウという最上の顔合わせが得られた結果、その登場はツェムリンスキーへの理解を急速に強めたとさえ言える。

マゼールは決して音楽に溺れることなく、この大曲をまとめあげ、フィッシャー=ディースカウ、ヴァラディの独唱陣とベルリン・フィルもマゼールと息の合ったところを見せている。

豪奢で官能的な前奏曲の響きは、まごうことないベルリン・フィルの響きであり、この冒頭の歴史絵巻を思わせるような雰囲気が見事に全体に一貫しており、この雰囲気の持続はツェムリンスキーの要求通りと言えよう。

流麗なマゼールの解釈もすぐれているが、特に生と死を幻想的に気品をもって歌い上げた王子役のフィッシャー=ディースカウの歌唱は、タゴールの原詩の精神をよく伝えていて、バリトンの「英雄」的力感、ドラマティックな表現力と知的解釈の深さも印象的だ。

フィッシャー=ディースカウの薫陶を受けたであろうユリア・ヴァラディの旨さも特筆できるものである。

《大地の歌》との関連はともかくとしても、このロマン的な美しく魅惑的な世界は一聴に値しよう。

ウイーンの楽壇で指揮者、作曲家として高く評価されていましたツェムリンスキーは、ユダヤ系の出自のためにナチスの台頭後、シェーンベルクとともにアメリカに逃れた。

しかし、シェーンベルクが富と名声に包まれてロスで暮らしたのに対し、ツェムリンスキーは注目されることなく病気と貧苦に苦しんだ挙句、ニューヨークで斃死してしまった。

1980年代にようやく注目され、これはその一環として録音されたもので、時代の波に巻き込まれ、不当に評価された音楽家を発掘した意味でも貴重な1枚である。

この演奏を通して、いよいよツェムリンスキーの夢と現実の世界に魅せられていく人も多いはずだ。

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classicalmusic at 18:20コメント(0)マゼールF=ディースカウ 

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1990年、第12回ショパン国際ピアノコンクールで第5位に入賞して以来、実力派ピアニストとして活躍している高橋多佳子。

かつて発売されていた「ショパンの旅路」からエチュード集を抜粋したものであるが、演奏内容、音質ともに高水準の録音と高く評価したい。

高橋自身が「自分が成長していくためには欠かせない存在」というショパンの作品。

なかでも演奏技術、音楽的内容の観点からも最高峰の傑作とされているエチュード集を、高橋は麗しく艶やかな音で弾き上げている。

2010年は、ショパンの生誕200年ということもあって、数々の新録音が発売されるとともに、既発盤の再発売も数多く行われた。

その秋には、ポリーニなどのショパン弾きの高音質盤も発売された。

それだけに、振り返ってみればショパンの数々の演奏を聴き比べる環境が整った恵まれた1年であったのではないか。

当時はネット配信を知る由もなかった筆者も、予算とのにらみ合いの中で、できるだけ数多くの録音を拝聴してきたつもりである。

本盤の高橋のエチュード集も、それらの数多くの名盤の中でも、十分に存在感を発揮しているように思う。

エチュード集は、単なる練習曲ではなく、弾きこなすには相当な技量が必要であるが、高橋の演奏は、技術偏重の演奏ではない。

もちろん、ショパン国際コンクール入賞者ならではの技量はベースにあるのだが、むしろ内容重視。

どの曲をとっても、高橋の同曲にかける愛情と、女流ピアニストならではの繊細さに満ち溢れている。

それでいて、一本芯の透った、何者にも揺るがされることにない力強さが漲っている。

いい意味でバランスの取れた名演と言えるのではないだろうか。

ここからはあくまで筆者自身の持論であるが、ピアニスティックな作品に取り組むのはあくまで通過点に過ぎないのではないか。

ショパン弾きを目指すのは結構なことであるが、コンクールを通過した後に伸び悩んだ先人を嫌というほど見せつけられてきたからだ。

将来性のある彼女に限って、ベートーヴェン、モーツァルト、バッハを弾いて化けの皮が剝がれることはないとは思うが、少し気になっている。

DSDリマスタリングによる高音質も、本盤の価値を大いに高めることに貢献している。

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classicalmusic at 12:54コメント(0)ショパン 

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生粋のフランス人でありながら、ベートーヴェンやシューマンなどドイツ音楽にすこぶる付きの名演を残したイーヴ・ナット。

ナットは1956年8月31日にパリでその生涯を終えていることからもわかるように、その録音はすべてモノーラルであるが、彼ほど強烈な印象を与えられたピアニストも数少ない。

筆者がナットの録音を初めて耳にしたのは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集で、これはフランス人の手になる初めての全集であったが、彼の後にベートーヴェン全集を録音したフランスのピアニストは、ハイドシェック、ポミエ、レヴィナスくらいだろう。

ベートーヴェンの音楽と言えばゲルマン的気質の最たるものであり、古くはシュナーベルからバックハウス、ケンプ、それにグルダやブレンデルなど、ゲルマン系の演奏家による名演がしのぎを削っている中で、わざわざフランス系の演奏を聴こうとは当初は思ってはいなかった。

だがナットの演奏は、マルセル・プルーストが「彼の演奏は極めて偉大で……彼の姿は視界から消えて、作品への窓に過ぎなくなってしまう」と書いたように、非情なまでに作品に献身的であり、そのベートーヴェンやシューマンはいつまでも人類の宝である。

“ベートーヴェンを読む”ことに生涯をかけて悔いのなかったナットの演奏が、こうして聴けることは誠に喜ばしい。

その非情なほどに私情をまじえない姿勢は、バックハウスにも共通していることである。

明晰な打鍵から生み出される濁りのない音色を駆使して奏でられる透明な音像は、それだけでもゲルマン的なベートーヴェン表現とは一線を画した個性的で新鮮な魅力にあふれているが、それが楽曲の構造の隅々までをも、一切の曖昧さを残さず、実にくっきりと描き出しているのに感心することしきりであった。

特に中期から後期にかけての作品で、ナットの演奏は実に厳しく、フランス的な知性と思弁が捉えたベートーヴェンをはっきりと聴くことができる。

打鍵は明晰であるだけでなく力強く深さを持っているため、中期ベートーヴェンの覇気や推進力も見事に表現されるが、それがやみくもに猪突猛進的となるのではなく、あくまで理性によって強力に統御されているため、崇高な精神の輝きとして感じられるのも印象的であった。

ナットは作曲にも相当の才能があったと伝えられているが、それは当然、彼の説得力に満ちた作品の描き方や核心を突く演奏につながったと思われるが、後期曲集などを聴いていると、彼の解釈が優れていたのは、結局は技術や個性的な解釈に依存するのではなく、心から共鳴する作品に真摯に向き合い、余計な恣意を挟まず、作品そのものに対して自らを捧げようとする精神からきていたように思えてならない。

実に透徹した表情を持つ演奏に仕上がっており、しかも情感の豊かさや懐の深い精神性にも事欠かず、ベートーヴェンの音楽の核心を垣間見せてくれる。

またベートーヴェン全集と並ぶナット畢生の傑作であるシューマンの主だった作品がほぼ収められており、ナットのシューマン解釈の説得力の大きさを知らしめてくれる。

ナットのシューマンはまず見通しのよい構成が的確に押さえられているのが特徴で、それに重くもたれるような表現から解放された明快な表現が、逆にシューマンの微妙で繊細な情感の移ろいを見事に捉え、ロマンティシズムというものに新たな光を当てている。

そしてそれはまた、とかく演奏者の思い入れだけが先行して形を崩してしまい、果ては真のロマンティシズムも雲散霧消させてしまいがちなシューマンの作品などで、説得力に満ちた優れた成果をもたらす要因となったように思える。

ここには良い意味でのラテン的精神の粋が見られ、演奏家としてではなく、むしろ芸術家としての強い倫理感が感じられる。

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classicalmusic at 09:28コメント(0)ベートーヴェンシューマン 

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アバドとユジャ・ワンの組み合わせで、彼女を世の中に有名にしたディスクである。

ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、パガニーニの主題による狂詩曲ともに素晴らしい名演だ。

特に、パガニーニの主題による変奏曲については、同曲演奏史上ベストワンを争う名演と言ってもいいのではなかろうか。

それは、ユジャ・ワンの気高いピアノと若き才能ある奏者が集まったマーラー室内管弦楽団によるフレッシュな演奏によるところが大きい。

同曲は変奏曲だけに、目まぐるしく変転する各変奏曲の表情づけをいかに巧みに行うのかが鍵となる。

ユジャ・ワン、そしてマーラー室内管弦楽団は、変幻自在のテンポ設定や幅の広いダイナミックレンジを大胆に駆使しつつ、曲想を心を込めて精緻に描き出していく。

それ故に、ラフマニノフ特有のメランコリックなロシア的抒情の描出にはいささかも抜かりはない。

若き音楽家たちによる演奏だけに、ラフマニノフの演奏に時として聴かれる大仰さがなく、全体に力強い生命力とフレッシュな息吹が漲っているのが素晴らしい。

厚手の外套を身にまとったような重々しい演奏が主流の同曲の演奏に、新風を吹き込んだこのコンビによる清新な名演に大いに拍手を送りたい。

他方、ピアノ協奏曲第2番は、海千山千の名演が目白押しだけに、本盤をベストワンを争う名演とするのはさすがに困難だ。

とはいえ変奏曲と同様のアプローチによる新鮮味溢れる名演と評価するのにいささかの躊躇もしない。

アバドは、大病を克服した後は音楽に凄みと深みが加わり、現代における最高峰の指揮者の一人と言える偉大な存在であった。

本盤では、若き音楽家たちを慈しむような滋味溢れる指揮ぶりが見事である。

録音も鮮明で文句なし。

ちなみに「ライヴ」と銘打っているが、音質、ノイズ面などから、部分的にはスタジオ収録であると思われる。

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classicalmusic at 05:38コメント(0)ラフマニノフアバド 

2022年05月30日


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充実の活動を続けるフランスの中堅ピアニスト、エレーヌ・グリモーが、そのキャリアの初めにDENONに残した協奏曲集。

グリモーのレパートリーは、当初から出身地のフランスもの(たとえばラヴェルなど)の枠を超えて、ドイツ(シューマン、ブラームス)、ロシア(ラフマニノフ)などの演目を積極的にとりあげ、コスモポリタニズムを目指してきた。

その後、所属レーベルが代わり、新盤が出たので、旧盤扱いながら、天才ピアニストとして登場し自身のピアニズムを模索していく過程を知る意味で採り上げた次第である。

詩情溢れるラフマニノフと切れ味の良いラヴェル、若きグリモーの才気が横溢する協奏曲集である。

若さよりもむしろ内向的で音楽そのものを優先する演奏姿勢が、その後の彼女の活躍を約束するかのようだ。

グリモーは超絶的な技巧を全面に打ち出すピアニストではない。

もちろん、高度な技量は持ち合わせているのだろうが、むしろ、女流ピアニストならではの繊細さとか、フランス人のピアニストならではの瀟洒なエスプリに満ち溢れているだとか、高貴な優美さと言った表現がふさわしいピアニストであると考えている。

本盤は、グリモーの23歳の時の録音で、現在のグリモーのような円熟からはほど遠いとは思う。

しかしながら若さ故の勢いで演奏するのではなく、前述のようなグリモーならではの個性の萌芽が垣間見られるのが素晴らしいと思う。

後年の再録音盤(ラヴェルはジンマン&ボルチモア響、ラフマニノフはアシュケナージ&フィルハーモニア管)も所持しているが未だに何故か当盤の方を手に取ってしまう。

確かに当盤では「途上まだしも」の感は否めないが、多少の瑕疵を理由に捨て置くにはあまりに惜しいのではないか。

ソツ無く御行儀の良い演奏もそれなりに良いとは思うが、許容範囲のキズであれば少々荒削りであっても清々しくてイキのいい演奏を筆者は好む。

見方をかえて、卓抜なテクニックはどこから聴いても驚くばかりだが、この煌くような感性は「若手」という一般的な属性ではなく、もっと別の名状しがたい才能を直観させる。

共演者と程良い距離感を保ちながら、自身の感性を自然体で表現している2曲の協奏曲でそれはよく感知できるような気がする。

ロペス=コボスの指揮は、音質によるのかもしれないが、グリモーのピアノとは正反対の荒削りで激しいものである。

しかし、このアンバランスさが、かえってグリモーの演奏の性格を浮き彫りにするのに大きく貢献しているという点については、特筆すべきであろう。

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classicalmusic at 21:17コメント(0)ラフマニノフラヴェル 

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ピアニストのアリス=紗良・オットが、これからサントリー・ホールでピアノ・リサイタルを開催する。

今回は、すでにヨーロッパ各地で行われ大きな話題を呼んでいる『Echoes Of Life』(映像作品とのコラボレーション)を日本で披露する。

会場のスクリーンに映し出される建築家ハカン・デミレル氏の映像演出、そこへ、ショパン「24の前奏曲」にリゲティや武満徹らによる作品を間奏曲として加えた斬新な作品群がアリス=紗良・オットによって紡ぎ出され、聴衆はまるで「ひとつの旅」をしているような感覚を体験できる。

「音楽が始まった瞬間からは、個々に自分自身の印象と感覚でその音楽を発見して欲しい」というアリス=紗良・オットの願いが込められたコンサートとなる。

我々は何十年に一人しか出てこない名ピアニストの時代に運良く居合わせているのかも知れないのだ。

勿論コンサートに行けない読者の皆様には、アリス=紗良・オットの初の協奏曲録音をご紹介する。

とても20歳のピアニストとは思えないような威風堂々たる名演だ。

アリスとヘンゲルブロックはこの手垢にまみれた2曲を洗い流し、ヴィルトゥオーゾ性よりも音楽としての魅力を引き出す。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲は情熱と、ロシアの情念、ドイツの剛直さを兼ね備えた名演であり、ミュンヘン・フィルの重厚なサウンドとも相まって理想的な仕上がりで、満足できる出来映えだ。

特に、第1楽章冒頭のホルンの朗々たる旋律の後に続く、女流ピアニストとは思えないような強靭な打鍵は、聴き手を圧倒するのに十分な迫力を有している。

特に、低音の残響の響かせ方など、はじめて耳にするような新鮮さだ。

それでいて、チャイコフスキーならではの抒情豊かな旋律も、繊細であたたかなタッチで弾いており、その硬軟併せ持つバランス感覚が見事である。

カデンツァにおける、卓越した技量に裏打ちされたゆったりとしたテンポによる重厚な演奏は実に感動的で、アリスのピアニストとしてのスケールの大きさを感じさせる。

第2楽章の繊細な抒情も美しさの極みであり、終楽章も、例えばアルゲリッチのようにアッチェレランドをかけたりすることはしていないが、強靭な打鍵にはいささかも不足はない。

それでいて、どんなに力奏しても気品を失うことがないのは、アリスの最大の長所と言えるのかもしれない。

リストのピアノ協奏曲も、重厚さと繊細さのコントラストが見事な秀演と評価したい。

特筆すべきは録音の素晴らしさであり、ピアノの音が実に鮮明な音質で捉えられているのは大変嬉しい限りだ。

これからの活躍が楽しみなピアニストの一人と期待していたところに難病を知ることになる。

アリスという美貌の若きピアニストをファンの一人としてあたたかく見守っていきたい。

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classicalmusic at 17:26コメント(0)チャイコフスキーリスト 

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1978年の録音で、G.レオンハルトやブリュッヘンなどと共に早くから古楽の復興とその再現に取り組んでいたクイケン三兄弟の末っ子バルトルドのトラヴェルソ・ソロによるテレマンの12曲のファンタジー。

この作品には名演奏盤が多いが、このクイケン盤もそのひとつに数えられよう。

古楽の黎明期にあって、これだけ鮮烈な解釈でしかも驚くべき正確さと集中力を持ってこの曲集を演奏した例も珍しい。

クイケンの演奏は厳しく、一切不要なものを絶ち切った強靭なもので、テレマンの音楽につきまといがちだった甘さは切り捨てられているが、リズムの歯切れのよさと構成感の確かさがあり、作品の姿を透明に映し出している。

ピリオド楽器を用いる場合、近年では少し低めのピッチa'=390からa'=405くらいで演奏するのが一般的な傾向だ。

この録音ではクイケン秘蔵のオリジナル楽器、1740年頃の製作と言われるG.A.ロッテンブルグ(a'=415)を使用しているのも特徴のひとつで、好ましい音色をもっている。

この為に全体的に軽やかで流麗な曲趣に仕上がっているが、テレマンの織り込んだ対位法の面白みも巧みに聴かせている。

この録音で使われたA.G.ロッテンブルグが製作した使用楽器の写真がそのままジャケットに印刷されている。

拓殖材で作られたワンキー・タイプで、保存状態さえ良ければ二百年以上の歴史に耐えて演奏可能であることを証明していて興味深い。

トーン・ホールの間隔が比較的狭く、大きな手を必要としないことや、音程が明確に取れることなどから名器として現在でも多くの古楽器製作者によってコピーされている、バロック・トラヴェルソのスタンダード・モデルといったところだ。

尚同曲集をオリジナル楽器で演奏したケースとしては、他にコンラート・ヒュンテラーが1720年製のデンナー(a'=402)を使ったものがある。

G.Ph.テレマンは笛の為に膨大な作品を残している。

その中でも横笛用の練習曲的な価値と芸術性を兼ね備えた曲集が、この無伴奏ファンタジーや同じく12の異なる調性で書かれたメトーディッシェ・ゾナーテンで、これらは初心者から上級者までの実際の教材として活用できるように考案されている。

同時代のJ.S.バッハのトラヴェルソ用の曲が初学習者にとっては余りにも難解で演奏が困難であることを考えれば、より実用的な目的の為に配慮された曲集と言えるだろう。

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classicalmusic at 08:14コメント(0)テレマンクイケン 

2022年05月29日


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およそあらゆる伝説と言われるものには何がしかの原体験や史実があり、それを核にした多くの人々の心理的な昇華がその形成に深く関わっているということが本書によって理解できる。

それは著者の言葉「庶民は苦難を無意識のうちに濾過させ、突き放した形でひとつの伝説の中に凝縮させる」に要約されていると思う。

更に伝説の非合理性を暴いてこれを大衆の無知がゆえに信じられた虚構とする啓蒙主義者達に対して、「民衆にとって長い年月の辛苦の中から滴り落ちるようにして生み出されてきた虚構の方が、無味乾燥な史実よりも重い意味を持っている」と述べている。

伝説はまた口述という形で伝えられていく宿命を持っている。

それが筆記され、不特定多数の人に読まれる時点で既に伝説本来の姿は変容せざるを得ない。

何故ならそれによって語り手のスピリットは失われ、往々にして読者は物語の展開にのみ興味をそそられてしまうからだ。

それゆえ研究者も伝説を育んだ社会とその時代の庶民の心情を無視して厳密な事実関係だけを合理的なデータで調査しようとすると、その姿はごく稚拙なものに見えてくるだけでなくストーリーの精神的な支えが雲散霧消してしまう。

それが『ハーメルンの笛吹き男』の研究で著者が最も力を入れて訴えていることではないだろうか。

伝説にはそれを生み出すだけの強いスピリットが宿っていて、その謎を解明するには史実はもとより彼らの精神史を辿る方法が不可欠だと著者は考える。

ここではむしろ130人の子供たちが消え去った時代の社会的な検証と、貧窮に喘いでいた人々の燻ぶるような情念への一種の共感が、過去とは異なった方面からの研究を前進に導いたと信じたい。

それまでとは異なった包括的な究明を試みたのが、最後の章に詳述されているシュパヌートとヴァンの2人だ。

彼らはハーメルンの伝説が示している本質的な部分が本来考察されるべき道筋から逸脱し、安っぽい教訓話に陥っていることを図らずも認識したことから新たな展開をみせる。

しかしそれはようやっと20世紀になってからのことだ。

この著書はこれまで自分自身が漠然と抱いていた伝説解明への明晰な方向を示してくれた研究として高く評価したい。

それは本書の執筆に携わった阿部氏自身の発見でもあり、また彼が痛感した過去のさまざまな解釈に関する歪曲の実態を強く警告しているように思える。

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classicalmusic at 22:45コメント(0)書物筆者のこと 

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ブルッフはブラームスと同時代のドイツ人作曲家であるが、本盤に収められたヴァイオリン協奏曲第1番、そしてスコットランド幻想曲やコル・二ドライは非常に有名である。

しかしながらその他の楽曲は殆ど知られていないと言っても過言ではない。

これらの有名作品以外にも、交響曲や協奏曲、室内楽曲、合唱曲など多岐にわたる質の高い作品を数多く作曲し、ブラームスもその作品を高く評価していた。

にもかかわらず、現在のブルッフの前述の3曲以外の作品に対する評価はあまりにも低すぎると言わざるを得ない。

このような非常に嘆かわしい状況にある中で、本盤のように、ヴァイオリン協奏曲第1番以外の名作が収められたディスクが発売されたというのは、大変に喜ばしいことと言わざるを得ない。

そして、演奏についても素晴らしい名演と高く評価したい。

まずは、メインのヴァイオリン協奏曲第1番であるが、グルズマンの思い入れたっぷりの豊かな情感に満ち溢れたヴァイオリンが素晴らしい。

同曲は、ドイツ音楽とは思えないような甘美なメロディが売りの作品である。

そうした甘美な名旋律を、グルズマンはこれ以上は求め得ないような陶酔的な演奏で、旋律を徹底的に歌い抜いている。

同曲の演奏には、これまでも様々な名演があるが、美しさと言った点においては、グルズマンの名演はあまたの名演の中でも上位にランキングされるのではないかと考える。

リットン指揮のベルゲン・フィルも、劇音楽「ペールギュント」などにおいて成し遂げた名演と同様である。

北欧のオーケストラならではのいささかも華美に走ることがない、抒情豊かな潤いのある演奏を繰り広げているのが素晴らしい。

ロマンスは、ブルッフ自身がヴィオラパートをヴァイオリンに編曲したものである。

ここでもグルズマンの情感豊かで美しさの極みとも言えるヴァイオリンを満喫することが可能だ。

遺作の弦楽五重奏曲も、この曲の持つロマン的な抒情を情感豊かに描出した至高の名演と高く評価したい。

グルズマンを含めた若き奏者たちの息の合った絶妙のアンサンブルも見事というほかはない。

さらに、本盤の魅力は、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音にある。

ブルッフによるこのような甘美な名旋律の数々を、鮮明な高音質で味わうことができることを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 18:15コメント(0)ブルッフ 

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史上最高の弦楽四重奏団だったフランスのカペー四重奏団のリーダー、リュシアン・カペー(1873.01.08-1928.12.18)は医師の誤診による腹膜炎で急逝した。

「ひばり」四重奏曲を初めて録音したのはカペー四重奏団である。

これはプラス面とマイナス面を併せ持つことになった。

つまり、最高の演奏でこの曲を聴けた幸福と、その後どの演奏を聴いてもこれほどの満足を得られなくなった不幸である。

この演奏は、カペー四重奏団がカペーの死(1928年)で解散する直前に録音された。

当時、カペーはパリ高等音楽院の教授であり、ソリストとしても活動し、彼の弦楽四重奏団はヨーロッパで高く評価されていた。

彼らが残した録音の中でも、「ひばり」は作品の性格から最も親しまれていた。

それは音楽の古典的な形式によることもあろうが、カペー四重奏団の一度聴いたら忘れられない魅力も大きく与っている。

やや速めのテンポと軽快なリズムがもたらす流動感もさることながら、明快なフレージングと透明感のある音が結びついて純度の高い演奏を生み出していた。

カペーの音色には、およそ官能的ではない美的感覚があり、それはこの世ならぬ魅力を持っていた。

ハイドンをはじめとするウィーン古典派の音楽にウィーンの演奏様式が一定の魅力を持つことは否定しない。

カペー四重奏団はそのような次元を超えた高貴な様式で演奏している。

筆者は、演奏を評価する時に"品位"をひとつの尺度にしている。

この演奏は、ハイドンの音楽とカペー四重奏団の演奏が期せずして高い品位を共有していることを証明している。

アナログ盤の板起こし復刻シリーズのダイレクト・トランスファーCD-Rは、グッディーズ独自の製法が導入されており、通常のPC製造とは次元の違う生々しい音質を実現している。

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classicalmusic at 14:46コメント(0)ハイドン 

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弊メルマガ登録者の皆様にお送りしたブッシュ四重奏団のシューベルト「死と乙女」にアクセスが集中している(コメントをいただいた方々にこの場を借りてお礼を申し上げます(__))。

そこで、20世紀前半に活躍した伝説的ドイツ人ヴァイオリニスト、アドルフ・ブッシュが、1928〜1949年に、EMIで制作した音源を全て収録したボックス・セットを紹介したい。

このセットのために、状態の最も良いマスターからリマスターがおこなわれ、さらに、別テイクによる初出音源も含まれるなど注目の内容。

32ページのブックレットには、イラストやレアな写真も含まれている。

アドルフ・ブッシュ[1891-1952]は、兄フリッツ[1890-1951]が指揮者、弟ヘルマン[1897-1975]がチェリストというブッシュ三兄弟の二男。

3歳からヴァイオリン学習を始め、11歳でケルン音楽院に入学、1912年、ブラームスのヴァイオリン協奏曲でソリストとしてデビューした。

同年、ウィーン・コンツェルトフェライン四重奏団を結成、さらにウィーン・コンツェルトフェライ管弦楽団の首席奏者となった。

翌1913年にザルツブルク音楽祭の前身であるSalzburger Musikfestに出演していた(ちなみに現在のザルツブルク音楽祭はSalzburger Festspiele)。

ソロ、室内楽、オケ奏者として実績を重ねたブッシュは、1917年、26歳でベルリン高等音楽院の教授に就任、1919年、ブッシュ弦楽四重奏団を結成している。

その後、1921年に18歳のルドルフ・ゼルキン[1903-1991]とブランデンブルク協奏曲第5番で初共演、大成功を収め、以後、ヨーロッパ各地での室内楽の公演を中心に評価を高めて行く。

しかし1926年、ナチ党がヒトラーの独裁体制となると、翌年、ブッシュはゼルキンがユダヤ系だったこともあり、共にスイスのバーゼルに移住、演奏活動を継続する。

遂に1939年、第二次世界大戦が始まると家族やカルテットのメンバーとアメリカに移住、1952年6月9日に亡くなるまでアメリカを拠点に演奏活動をおこなった。

ブッシュ四重奏団は、巨匠ヨアヒムが築き上げた厳格な形式感と深い精神性を追求していくというドイツ室内楽の伝統を最も正統的に継承し、演奏史に一時代を画した世界最高の四重奏団のひとつである。

この中ではベートーヴェンの弦楽四重奏曲が圧巻だ。

ずっしりと重いボウイングによって楽想を深く沈潜させていくブッシュ独特のアプローチが冴える高貴なベートーヴェン演奏である。

特に後期の弦楽四重奏曲では、その外部に放出する力感を可能な限り抑制する緊迫した造型法がとられている。

その分だけ内に秘めた精神の大きさが感じられて胸が締めつけられる思いがする。

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classicalmusic at 11:50コメント(0)ベートーヴェンシューベルト 

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著者若桑氏の真摯な姿勢によって書き下ろされた本書は、フィレンツェに残された膨大な歴史的、あるいは芸術的遺産を丁寧に紹介した実用的なガイド・ブックの側面を持っている。

同時に、ルネサンスを生み出した新思想の母胎としての奥深い都市の歴史をまとめあげた労作として高く評価できる著作だ。

ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ボッティチェッリら、天才たちの名と共にルネサンスの栄光に輝く都市・フィレンツェ。

町の起源から、自治都市国家としての繁栄、メディチ家の興亡、さらにウッフィーツィ美術館の歩き方まで、自由と独立を愛する人々に愛され続け、市民の手で守り抜かれた「花の都」の歴史と芸術を、西洋美術史家が案内する決定版体裁を美しく仕上げるよりも、むしろ内容の充実の方に力が注がれている教養書なので、豊富なカラー写真やイラストで彩られたイメージ主体のガイドとは全く別物であることを知っておく必要があるだろう。

掲載されている写真は単行本の時から口絵以外は白黒でサイズも小さいものだったが、それはあくまで実際に実物を見るための目安にすぎない。

しかし今回の文庫本化で携帯の便宜が図られ、フィレンツェの見どころがより身近に、しかも詳細に体験できるようになったことを歓迎したい。

彼女が美術の専門家であることから本書で取り上げて説明している絵画、彫刻、建築物などは非常に豊富で、また比較対象のためにも数多くのサンプルを提供している。

若桑氏の文章はそれほど平易ではなく、読む側にもある程度予備知識が求められる。

随所に特有の鋭い洞察があって美術史家としての主張に貫かれているところが最大の面白みだ。

特に第9章『ウッフィーツィを歩きながら』は、この著書を総括する彼女の研究の面目躍如たる章になっている。

通り一遍の観光旅行から一歩踏み込んだルネサンスの美術巡りをしたい方には、本書と中公文庫から出版されている高階秀爾氏の『フィレンツェ』の併読をお薦めしたい。



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classicalmusic at 00:24コメント(0)書物 

2022年05月28日


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イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタは、技術的にも、そして、その内容を豊かに表現するという意味においても、稀に見る難曲である。

まさに、イザイが模範としたバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ同様の難しさがある。

近年のヴァイオリニストも、バッハとともに、このイザイのソナタに挑戦する者が増えてきている傾向にある。

とは言っても、若手のヴァイオリニストが、イザイのソナタに挑戦するというのは正気の沙汰ではなく、その意味でも、松田理奈は、凄いことをやってのけたと考える。

ライナー・ノーツの解説によれば、松田は、イザイに幼いころから慣れ親しんできたとのことであるが、それにしても、今般の全曲録音は快挙と言える。

そして、演奏も素晴らしい。

録音の良さを考えると、同曲のトップの座を争う名演と評価してもいいのではないだろうか。

卓越した技量もさることながら、松田は、この変化の激しい各曲の描き分けが実に巧み。

強弱も、そして緩急自在のテンポの変化も、よくぞここまで完璧に表現することができたものだと感心してしまう。

それでいて、音楽の流れを損なうことはいささかもなく、ゆったりとした気持ちで、イザイのソナタを満喫することができるのが素晴らしい。

抒情的な箇所の調べは、女流ヴァイオリニストならではの繊細な美しさに満ち溢れている。

松田は、まだ30歳代半ば。

本盤のような名演を聴くと、彼女の前途洋々たる将来性を感じずにはいられない。

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classicalmusic at 18:46コメント(0)現代音楽 

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この著書で阿部氏は中世の特徴的な幾つかの職業について詳述しながら、庶民のありのままの姿の再構築を試み、その人間性の源流を探っている。

それは通常の歴史書では触れられることなく通過してしまう部分だけに貴重だ。

特にドイツの職人の遍歴制度はこの時代に法律化されたユニークなもののひとつだろう。

親方に弟子入りした職人は修行の仕上げのために他の土地へ赴いて働くことが義務付けられた。

それは外部の世界で自身の技術を練磨し、より広い視野での職業経験が可能になり、結果的にドイツの手工業や工芸、建築技術などの水準を高めることになる。

しかし著者は本来この制度の目的は、小さな町での職人のインフレに歯止めを掛ける手段であったと述べている。

親方になれる人数は限られていて、実質的に世襲制で昇格するために親方になれない職人は他の町での可能性を探すことが要求されたわけだ。

ただし同職組合のメンバーである限り、行く先々の町でも最低限の宿と食事及び路銀が保証されたとある。

ある父親が数年の遍歴に旅立つ十代の息子に寄せた忠告は、自分の若い頃の遍歴経験から学んだ極意が示されていて興味深い。

この遍歴職人の逸話に関連させて最後の項ではティル・オイレンシュピーゲルの悪戯話についてその由来や編纂などのいきさつ、そして物語の解釈に欠かせない知識が幾つかの例を上げて説明されている。

遍歴の途中で起こる親方とティルの笑話集は当時の制度や権威に対する鋭い風刺であり、時代を反映している事象を解明しなければ面白みが半減してしまう。

著者の訳になる同名作品を理解するためにも読んでおきたい部分だ。

一方農民は三圃農制や粉挽き強制など、がんじがらめの制度によって領主から搾取されていたことが明らかにされている。

定められた農地で収穫した穀物は指定された粉挽き所で料金を支払って製粉しなければならず、パンを焼くには専門の職人を呼んで手間賃を現物で支給したとある。

この間にも農民は粉挽きやパン焼き職人に預ける穀物や小麦粉を掠め取られないように常に監視の目を光らせていなければならなかった。

ここでは農民戦争を勃発させた下層民締め付けの構図が良く理解できる。

「ジプシーと放浪者の世界」の章では、インドに源泉を遡るとされているジプシーへの考察が試みられている。

彼らは15世紀にはヨーロッパ全域に現れるが、元来ひとつの土地に定住できない彼らの人生観や哲学は、当然長い間定住者との間に軋轢を生み出してきた。

賤民以下という烙印を押され、虐待され続けてきたジプシー達に向ける著者の眼差しは非常に人道的だ。

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classicalmusic at 12:37コメント(0)書物 

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2010年、生誕300年を迎えたペルゴレージは、後の世に活躍したモーツァルトに匹敵する才能を有した作曲家と評されているが、若くして夭折したため、現存する作品はさほど多いとは言えない。

ただ、その中でもスターバト・マーテルは、ペルゴレージの代表作であるばかりでなく、その後に作曲された、様々な作曲家の手によるスターバト・マーテルの中でも、随一の傑作の誉れ高き名作(ロッシーニの名作との優劣は議論が分かれるところかもしれない)である。

同作品のこれまでの名演としては、アバド盤(2007年)が記憶に新しい。

大病を克服した後、その芸風に深みと鋭さを増したアバドによる滋味溢れる指揮と、若くて才能のある音楽家で構成されたモーツァルト管弦楽団によるフレッシュな息吹を感じさせる清新な演奏が絶妙の魅力を誇っていた。

独唱も秀逸であったが、特に、コントラルトのサラ・ミンガルドの名唱が極めて印象的であったことも忘れてはならない。

これに対して、本盤は、何と言ってもアンナ・ネトレプコの深みのある名唱が売りと言えるだろう。

とてもソプラノとは思えないような重心の低い発声であり、どちらかと言えばオペラ的な発声と言えるもの。

これは宗教音楽初挑戦のご愛嬌と言った側面もあろうかとも思うが、楽曲の核心に切り込んで行くような奥行きの深さにおいては、無類の名唱と評価できるのではないだろうか。

コントラルトの若きマリアンナ・ピッツォラートも、ネトレプコと一体となって、重厚な歌唱を披露しているのも聴き応え十分である。

イタリア指揮界の俊英であるパッパーノの指揮は、さすがに円熟の境地に達したアバドと比較するとどうしても分が悪い。

それでも、演奏全体に顕著なオペラ的な迫力においては(宗教音楽らしくないとの批判も十分に予測はされるが)、本盤の方をより上位に置きたいと考える。

併録の「閉ざされた中心に」におけるネトレプコの思い入れたっぷりの絶唱は我々聴き手の肺腑を打つのに十分な迫力を誇っているし、「ここは平野、ここは小川」におけるピッツォラートの名唱もネトレプコにいささかも引けを取っていない。

シンフォニアも湧き立つような力感に満ち溢れた素晴らしい名演だ。

俊英パッパーノの指揮の下、最高のパフォーマンスを示している聖チェチーリア音楽院管弦楽団にも大いに拍手を送りたい。

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classicalmusic at 00:20コメント(0)音楽史 

2022年05月27日


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本盤は、「音譚詩」とも称され深遠な難曲であるショパンのバラードを中心に据えた、河村尚子のショパン作品への強い親和性を継承する作品であるが、途轍もなく素晴らしい超名演だ。

超名演の前に超をいくつかつけてもいいのかもしれない。

さらに成長を重ね、深まりを見せる河村尚子の音楽性を投影した3枚目のアルバムということであるが、録音に慎重な彼女であればこその久々のアルバムの登場であり、まさに満を持してと言った言葉が見事に当てはまると言っても過言ではあるまい。

本盤には、ショパンの傑作であるバラード全集、リストの編曲集が収められているが、出来不出来に差はなく、いずれ劣らぬ至高の超名演に仕上がっていると高く評価したい。

河村尚子は、既にデビューアルバムでショパンの夜想曲集を録音しているが、本盤のバラード全集の演奏においては、更にその芸風が深化していると言えるだろう。

何よりも、河村尚子のピアノタッチが実に美しい。

1つ1つの音が宝石のように煌めいているとも言えるところであり、それは女流ピアニストならではの美質とも言えるが、河村尚子の場合には一部の女流ピアニストにありがちな線の細さは微塵も感じさせず、一本の芯が通ったような力強さを感じさせるのが素晴らしい。

もっとも、いわゆる武骨さとは無縁であり、どこをとっても格調の高い優美さを失わないのが河村尚子のピアニズムの偉大さと言えるだろう。

バラードの演奏に必要不可欠な文字通り「音」で物語を「語る」ストーリーテリングの技量も確かであり、とかく旋律の美しさに傾斜した焦点の甘い演奏とは一線を画しているのも本演奏の大きな強みである。

また、心の込め方にも尋常ならざるものがあると思うが、陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても前述のような格調の高さを失うことなく、演奏全体が常に高踏的な美しさに貫かれているのが見事であると言えるところだ。

このような素晴らしい超名演を聴いていると、河村尚子にはバラードや前作のピアノ・ソナタ第3番のみならず、他のショパンのピアノ作品の演奏を聴きたいと思う聴き手は筆者だけではあるまい。

他方、リストが編曲したショパン、シューベルト、ワーグナー諸曲も素晴らしい名演だ。

リストのピアノ曲の演奏はなかなかに難しく、卓越したテクニックと楽曲の持つファンタジーの飛翔のようなものをいかに的確に表現するのかが問われている。

そして、リストが編曲した作品は、更に演奏のハードルが高い難曲と言えるが、河村尚子は、持ち前の卓越した表現力を駆使して、各作品の持つファンタジックな要素を含有するとともに、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを湛えた見事な名演奏を展開していると評価したい。

いずれも演奏されること自体が珍しい作品であるが、ここでも河村尚子は、格調の高さを有した見事な名演を成し遂げている。

そして、何と言っても素晴らしいのはSACDによる極上の高音質録音である。

カラヤン&ベルリン・フィルの録音で馴染み深く、しかもその優れた音響で知られるベルリン・イエス・キリスト教会の豊かな残響を活かした録音は素晴らしいという他はない。

そして、河村尚子のピアノタッチが鮮明に再現されるのはSACDの潜在能力の高さの証左と言えるところであり、本名演の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 17:47コメント(0)ショパンリスト 

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途轍もなく素晴らしい超名演だ。

超名演の前に超をいくつかつけてもいいのかもしれない。

河村尚子による2枚目のアルバムということであるが、録音に慎重な彼女であればこその久々のアルバムの登場であり、まさに満を持してと言った言葉が見事に当てはまると言っても過言ではあるまい。

本盤には、ショパンの最高傑作とも称されるピアノ・ソナタ第3番と、シューマンのフモレスケ、そしてシューマン=リストの「献呈」が収められているが、出来不出来に差はなく、いずれ劣らぬ至高の超名演に仕上がっていると言えるところだ。

河村尚子は、本盤の約2年前にもショパンの夜想曲集を録音しているが、本盤のピアノ・ソナタ第3番の演奏においては、さらにその芸風が深化していると言えるだろう。

何よりも、河村尚子のピアノタッチが実に美しい。

一つ一つの音が宝石のように煌めいているとも言えるところであり、それは女流ピアニストならではの美質とも言える。

河村尚子の場合には一部の女流ピアニストにありがちな線の細さは微塵も感じさせず、一本の芯が通ったような力強さを感じさせるのが素晴らしい。

もっとも、いわゆる武骨さとは無縁であり、どこをとっても格調の高い優美さを失わないのが河村尚子のピアニズムの偉大さと言えるだろう。

ピアノ・ソナタの演奏に必要不可欠な全体の造型も堅固であり、とかく旋律の美しさに傾斜した焦点の甘い演奏とは一線を画しているのも本演奏の大きな強みである。

また、心の込め方にも尋常ならざるものがあると思うが、陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても前述のような格調の高さを失うことなく、演奏全体が常に高踏的な美しさに貫かれているのが見事であると言えるところだ。

このような素晴らしい超名演を聴いていると、河村尚子にはピアノ・ソナタ第2番や他のショパンのピアノ作品の演奏を聴きたいと思う聴き手は筆者だけではあるまい。

他方、シューマンのフモレスケも素晴らしい名演だ。

シューマンのピアノ曲の演奏はなかなかに難しく、楽曲の持つファンタジーの飛翔のようなものをいかに的確に表現するのかが問われている。

そして、フモレスケの場合は、シューマンの移ろいゆく心情の変化が散りばめられているだけに、さらに演奏のハードルが高い難曲と言える。

河村尚子は、持ち前の卓越した表現力を駆使して、作品の持つファンタジックな要素を含有するとともに、楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを湛えた見事な名演奏を展開していると評価したい。

シューマン=リストの「献呈」は、演奏されること自体が珍しい作品であるが、ここでも河村尚子は、格調の高さを有した見事な名演を成し遂げている。

そして、何と言っても素晴らしいのはSACDによる極上の高音質録音である。

ベルリン・イエス・キリスト教会の豊かな残響を生かした録音は素晴らしいという他はない。

そして、河村尚子のピアノタッチが鮮明に再現されるのはSACDの潜在能力の高さの証左と言えるところであり、本名演の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 13:33コメント(0)シューマンショパン 

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ヤクブ・フルシャ手兵バンベルク交響楽団の演奏活動は、そのままレコーディングされて前回まではドヴォルザークとブラームスの交響曲をカップリングしたSACDがリリースされた。

今回はレーベルを変えてレギュラー・フォーマットのCDを二組出した。

そのひとつがこのディスクのマーラーの交響曲第4番で、もう一組はブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」を四つのバージョンで演奏した4枚組だ。

フルシャはSACDでのリリースを好んでいるが、音質は極めて良好といえる。

特にマーラーの4番はアンサンブルが重要視されている。

なかでも第二楽章ではヴァイオリンを始めとしてフルートやオーボエなどのウィンド・セクションからブラス・セクションまでのソロパートが大活躍する。

フルシャの繊細で几帳面な合わせ技が聴きどころで、決して四角四面な演奏ではなくつづれ織りのように艶やかだ。

終楽章は「天上の生活」が歌われるが、通常のソプラノではなくフルシャはメゾ・ソプラノのアンナ・ルチア・リヒターを起用している。

彼女の輪郭のはっきりした、しかしやや影のある声質が、独特の中性的な雰囲気を醸し出している。

これもフルシャのこの作品に対する解釈のオリジナリティーを示している。

ちなみにバーンスタインはボーイ・ソプラノに歌わせている。

フルシャの要求だろうが、バンベルクは非常に正確に音程をとるオーケストラで、和音を美しく響かせるときにはヴィブラートを避けている。

それがフォルテの時にはより力強く響くし、弱音の時でも和音が濁らずに鮮明に聞こえる。

彼らの演奏はこれからも水準の高いCDのリリースが期待できる。

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classicalmusic at 06:11コメント(0)マーラー 

2022年05月26日


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とにもかくにも存在感のある演奏である。

アファナシエフと言えば、例えばブラームスの後期のピアノ作品集とか、バッハの平均律クラヴィーア曲集などの、いかにも鬼才ならではの個性的な名演が思い浮かぶが、このシューベルトの最後のソナタも、鬼才の面目躍如たる超個性的な演奏に仕上がっている。

アファナシエフが奏でるシューベルトは、凍りついた熱狂に満ち満ちていて、聴く者にある恐怖心を植えつける、凄い演奏ではある。

ただ、この演奏、私見ではあるが名演と評価するのにはどうしても躊躇してしまう。

確かにこれを初めて聴いたときは驚かされた。

シューベルトの長い長いピアノ・ソナタを、アファナシエフはさらにことさらゆっくりと弾いて行くのだ。

間のとり方も尋常ではなく、ついつい耳をそばだたされて聴かされてしまうという構図だ。

ところが、2回目聴くと、奏者の計算が見えてきてもはや驚きなどなくいわば冷めた観察眼による鑑賞へ転じてしまうのだ。

シューベルトの最後のソナタは、シューベルト最晩年の清澄な至高・至純の傑作であり、短か過ぎる生涯を送った天才がもつ暗い底なしのような心の深淵、ともすれば自分も一緒に奈落へと引きづり込まれてしまうのではないか。

その内容の深さは他にも類例を見ないが、同時に、ウィーンを舞台に作曲を続けた歌曲王ならではの優美な歌謡性も持ち味だ。

ここでのアファナシエフの極端なスローテンポは信じられないほどだ。

ゆっくりとさらに断片化されたシューベルトのソナタは、1つ1つ刻印をきざむ様にしなければ前に進まない。

そこには美しい音もあるが、ある意味苦行とも言える部分がある。

これがシューベルトの苦悩なのかわからないが、アファナシエフの問いかけのような遅い進みは、様々な空想を孕む一方で、私達の集中力の限界との戦いというリアルな問題まで勃発している。

これは確かに存在感のある録音である。

しかし、聴く人にはある程度の覚悟を要する録音と言えるところであり、少なくとも「これからシューベルトを聴いてみる」という人にはお薦めできない。

特に第1楽章の超スローテンポ、時折見られる大胆なゲネラルパウゼは、作品の内容を深く掘り下げていこうという大いなる意欲が感じられるが、緩徐楽章になると、旋律はボキボキと途切れ、音楽が殆ど流れないという欠点だけが際立つことになる。

これでは、作品の内容の掘り下げ以前の問題として、聴き手としてもいささかもたれると言わざるを得ない。

もっとも、ポリーニの無機的な演奏に比べると、十分に感動的な箇所も散見されるところであり、凡演というわけではないと考える。

シューベルトのこれらの楽曲について、ある程度知った人が「アファナシエフを聴いてみる」ためのディスクと言えよう。

再録音で、音質は相当に鮮明になった点は高く評価したい。

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classicalmusic at 14:46コメント(0)シューベルト 

2022年05月25日


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ウィーン・フィルという豊麗極まりない音を生み出す名器を手にしたバーンスタインが、シベリウスの音楽の新しい魅力を教えてくれる。

新録音でのバーンスタインは、ウィーン・フィルの自発性に任せて、のびのびとした音楽をつくっている。

バーンスタイン自身がウィーン・フィルの美音を味わい楽しんで指揮しているのが目に浮かぶようだ。

それでいて全編が「バーンスタイン節」で貫かれている。

第2番は堂々とした巨匠的風格を、実に彫りの深い表現の中に示している。

間もたっぷりととられており、表情が濃密だ。

第1楽章の冒頭から牧歌的な明るさと清澄な感覚美、第2楽章の悠然とした歩み、第3楽章の各部の対照の鮮烈さ、そして、終楽章における孤独に連なる哀愁感。

これはバーンスタインの演奏の中でも、最も創造的な名演といえる。

バーンスタインの指揮は、第5番の牧歌的なホルンと木管の音色が美しく、この曲によく合っており、ホルンと木管による印象的な出だしから素敵だ。

あらゆる音が彼の巨大な音楽性を通過することによって生命を帯びるのだ。

シベリウスの個性的なオーケストレーションが生む神秘的とも言える美しさを見事に表現している。

北欧的な民族色を抜け出した洗練された響きがこの作品の交響曲としての価値を不滅のものしている。

甘美なロマン主義ではなく現代的都会的な感覚に強く訴える。

バーンスタインの第7番は、非常に美しく、作品に対する愛情が悲痛なまでに伝わってくる。

第7番は正直言ってどうも得体の知れない作品だが、バーンスタインの手にかかると見事なまでに有機的な関連が示される。

そして調性を信じながら20世紀を生きたシベリウスとバーンスタインの最後の叫びを聴くようだ。

バーンスタインはこの曲で調性音楽の痛みを甘受しようとしていたと言えるのではないだろうか。

第1番はバーンスタインの最後の年となった90年2月の録音であるが、バーンスタインの表現は冒頭からユニークで、確信に満ちた音楽が作られている。

強烈な推進力とアクセントを駆使しながら、スケールの大きな構築で曲をまとめ、終楽章では過剰なほどのアゴーギクで、緊張と解放の様相を作り出しているが不自然になることはない。

作曲家への強い共感に支えられたシベリウスであり、今更ながら、バーンスタインが鋭く豊かな感受性の持ち主であったことを如実に感じさせる演奏だ。

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classicalmusic at 08:23コメント(0)シベリウスバーンスタイン 

2022年05月24日


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このディスクの特徴はギュンター・ヴァントがモーツァルトのホルン協奏曲第3番、ブラウンフェルスの『ベルリオーズのテーマによる幻想的変奏』及びタデウシュ・バイルトの『オーボエと管弦楽のための四つの対話』というレパートリーをカップリングしていることで、多彩なプログラムがたいへん魅力的だ。

ヴァントの幅広い時代をカヴァーする指揮者としての力量を示したアルバムになっている。

ベイルド以外の録音は放送用のセッション録音というだけあり、音質も高水準で、特にモーツァルトの美音したたるブレインとの共演は品格あふれる逸品だ。

拾いものはヴァルター・ブラウンフェルス(1882-1954)(デッカ頽廃録音シリーズ「鳥」が有名)。

ブラウンフェルスはドイツ作曲家で、非常に緻密なオーケストレーションを施しているが、ロマン主義の伝統を尊重した「内省的とは極めて対照的に効果的で劇的な手法」(ニューグローブ音楽事典1994)と評される作風だけあり、リヒャルト・シュトラウスの交響詩ばりに、ひたすら盛り上がる曲調が爽快ですらある。

ヴァントも絶好調の激しさで、オーケストラに鮮明に音の綾を織らせて、優雅といえるほどの音の抑揚を創り上げている。

これは彼が得意とする音楽学的分析の成果だろう。

一方タデウシュ・べイルト(1928-1981)はポーランドの作曲家でトーン・クラスターに代表される前衛的な作法が斬新な印象を残す。

ベイルドはポーランドの重要作曲家でこの「4つの対話」が代表作といえるもの、「彼の主眼は強烈であふれるばかりの音の美しさなのである」と前掲のニューグローブ音楽事典1994で取り上げられている名曲。

ただしオボイストのローター・ファーバーにはいまひとつ説得力が欲しいところだ。

この曲だけがステレオ・ライヴ録音で、他の2曲がモノラルなのが残念だが、音質は良好だ。

このディスクのセールス・ポイントはデニス・ブレインを迎えた1951年のモーツァルトのホルン協奏曲第3番で、絶頂期のブレインの天真爛漫にして不思議なほど精緻な表現力は相変わらずだ。

ここでも夭折の天才ホルニストの面目躍如の演奏が聴きものだろう。

ヴァントのサポートも几帳面に抑制を利かせながら、オーケストラにも軽やかに歌わせている。

協奏曲の伴奏にも優れた腕を示した音源のひとつだ。

ドイツの放送用音源は、概して音質においても期待外れになることはないが、この音源も録音状態、音質共に時代相応以上と言っていいと思う。

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classicalmusic at 14:11コメント(0)ヴァントブレイン 

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オランダ放送協会制作によるコンドラシン、コンセルトヘボウのライヴ集は、地元フィリップスから8枚のCDにリカップリングされた。

このディスクには1973年2月8日のストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』と1980年6月6日のボロディンの交響曲第2番が収録されている。

いずれもコンドラシンの得意とするスラヴ物でも、なかでも『ペトルーシュカ』はコンセルトヘボウのアンサンブルの力量が示された素晴らしいライヴだ。

当時のライヴ音源には客席からの拍手喝采や咳払いなどのノイズも混入していて、この音源も例外ではないが、コンセルトヘボウの豊かなホールの音響と会場の雰囲気は充分捉えられている。

オーケストラも比較的分離状態の良い鮮明なステレオ録音なので、ストラヴィンスキーの精緻なオーケストレーションをまさにライヴ感覚で体験できる。

この時期は既にハイティンクが首席指揮者だったが、彼とは全く異なったレパートリーをコンセルトヘボウに持ち込んで、彼らの視野を広げたのがコンドラシンだったと言えるだろう。

彼に影響を受けた楽団員との最も優れたコラボは『シェエラザード』に象徴されているが、セッションによるフィリップスへのレコーディングがこの一曲に終わってしまったのは惜しまれる。

ボロディンの交響曲第2番ロ短調もやはりコンドラシン十八番のスラヴ物で、ロシア国民楽派の情熱を鼓舞するような劇的なテーマを生き生きと開始している。

一方で第3楽章アンダンテでの『中央アジアの草原にて』をイメージさせるホルン・ソロが導入するスケールの大きい、いかにも大陸的な抒情が美しい。

終楽章では熱狂的な民族舞踏が手際良く颯爽と再現され、スラヴ人指揮者の面目躍如たるものがある。

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classicalmusic at 07:59コメント(0)コンドラシンストラヴィンスキー 

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ブルーレイで鑑賞するとファン・ゴッホの強烈な色彩感とデッサンの力強さが動き始める説得力が印象的だ。

余白に付いているボーナスに制作過程が詳しく映像化されているが、最終的に世界中の100人を超える画家がオーディションの末に、この企画に参加したようだ。

実際に俳優たちが演じるシーンにファン・ゴッホ風の油彩のタッチをオーバーラップさせることにも成功している。

ここでの主人公になるアルマンを始めとして登場人物の殆どの肖像画が遺されているので、彼の絵画を見たことがある人なら一層親しみも湧いてくるに違いない。

バックに流れる「スターリー・スターリ―・ナイト」も孤独の生涯を送った画家と、不器用で喧嘩っ早いアルマンが次第に人間的に成長する様子と、天才と共有する寂しさを表現している。

ファン・ゴッホの死については自殺とも他殺とも断定していない。

この作品を鑑賞する人の判断に任せているのも自然で好感が持てる。

ファン・ゴッホは37年の短い人生の中でも絵を描いたのは後半の10年で、油彩だけでも860点になるが、最後の2年間ほど精力的に描いた時期はなかった。

しかし空と雲の渦巻くような強い色彩からは、言い知れない孤独感が感じられる。

その生涯で売れた絵はわずか1点だが、生活費と画材一式は弟テオが総て負担していた。

20人に宛てて投函した手紙は800通あり、この作品のテーマになる最後の手紙もテオに向けて書かれている。

しかし彼の死後からほぼ半年後にテオは発狂し、精神病院で亡くなった。

33歳の時だった。

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classicalmusic at 03:00コメント(0)映画芸術に寄す 

2022年05月23日


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我が国のピアニストの大御所、横山幸雄のデビュー20周年を記念するアルバムの登場だ。

曲目は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番とラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の人気曲どうしの組み合わせ。

いずれも、超絶的な技巧を要するとともに、ロシア風のメランコリックな抒情の的確な描出が必要不可欠な楽曲であるだけに、ピアニストの実力(それは技量においても芸術性においてもということになるが)が試されると言えるだろう。

本盤に収められた両曲の演奏は、横山幸雄にとって、グリーグのピアノ協奏曲以来の久しぶりの協奏曲の録音ということになるが、そうした長年のブランクをいささかも感じさせない圧倒的な名演に仕上がっていると高く評価したい。

両曲ともに、横山幸雄の超絶的な技量は冴えわたっていると言えるところであり、このような凄い演奏を聴いていると、あらためて横山幸雄こそは我が国のピアニストの中でもトップクラスの実力を誇っているということをあらためて窺い知ることが可能と言える。

ライヴ録音というのが信じられないほどミスタッチは殆どないのが驚異的であり、持ち前のヴィルトゥオジティを如何なく発揮していると言えるだろう。

もっとも、それでいて技量一辺倒にはいささかも陥っておらず、両曲の随所に配されたロシア風のメランコリックな抒情に満ち溢れた名旋律の数々を、心を込めて情感豊かに歌い抜いている。

もっとも、両曲の場合、演奏によっては陳腐なセンチメンタリズムに堕するものも散見されるところであるが、横山幸雄の場合は、そうした懸念は心配ご無用。

いかに抒情豊かな箇所に差し掛かっても、格調が高さを失うことがなく、高踏的な美しさを保っているのが素晴らしい。

また、持ち前の超絶的な技量にもよるところが大きいとも言えるが、強靭な打鍵による重量感溢れるピアノタッチから、繊細で消え入るようなピアノタッチに至るまでの表現力の幅広さは桁外れの凄さであり、これはまさに両曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。

いずれにしても、本盤の両曲の演奏は、横山幸雄のデビュー20周年を飾るに相応しい圧倒的な名演と高く評価したい。

こうした素晴らしい横山幸雄のピアノ演奏を下支えしているのが、小泉和裕指揮の東京都交響楽団である。

このコンビは、両曲の随所に盛り込まれたロシア風のメランコリックな抒情に彩られた旋律の数々を情感豊かに描出しており、両曲の演奏として最高のパフォーマンスを発揮していると高く評価したい。

音質も素晴らしい。

音質の鮮明さ、音圧の凄さ、音場の幅広さなど、いずれをとっても一級品の仕上がりであり、何よりも横山幸雄のピアノタッチが鮮明に再現されるのは見事。

あらためて、SACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。

いずれにしても、横山幸雄、そして小泉和裕&東京都交響楽団による圧倒的な名演をSACDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 18:45コメント(0)チャイコフスキーラフマニノフ 

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カミュの人生観がいたるところに反映された魅力的な作品集で、中でも『転落』は主人公のモノローグで全編を通す小説の設定がかなり個性的だ。

そして前半と後半での彼の半生の吐露とその理由は、驚くほどのコントラストを見せるが、それはカミュによって巧みに計算された構成だろう。

そこにはまたカミュ自身の体験も主人公のセリフを通して見え隠れしている。

例えば恋愛観について、「わたしはもてたし、それを利用していたということ。しかしなんの打算も働いてはいなかった。わたしは誠実、そうほとんど誠実だったのです。女との関係は自然で、自由で、いわば安易なものでした…」女性に対して発展家であった彼自身の反省があるのかもしれない。

『不貞』は砂嵐の厳しい自然環境の中に生きるアラビア人のオアシスに、商売のためにやってきた夫と、気の進まぬままについてきた妻の心境を描いた佳作だが、カミュの情景描写は素晴らしい。

一見なんの魅力もないような街の高台から俯瞰する大地や空の色彩の移り変わり、しかしそれは夫とのそれまでの生活を見直さざるを得ない強烈な印象を妻に与える。

彼女は夜半に一人ホテルを抜け出して、もう一度その高台へ向かう。

この作品はカミュの妻フランシーヌに捧げられている。

『背教者』はカミュの宗教観を扱ったドラマティックな作品で、やはり灼熱の砂漠地帯に舞台が置かれている。

カトリックとは常に一定の距離を保っていた彼の物語の大胆な設定は殆ど究極的だが、難解な中にも肉体的苦痛を超える精神の行き場が模索されているのではないだろうか。

一方『唖者』は貧しく障碍者でもある樽職人の苦悩と家庭でのささやかな幸福を扱ったネオレアリズモ的なペーソスを含んでいる短編。

この話はカミュの実の叔父で聾唖者だが腕の良い樽職人エチエンヌがモデルになっているに違いない。

幼い頃のカミュを我が子のようにかわいがってくれた叔父へのオマージュと言うべきか。

また『客』はアラビア人の犯罪者に対する同情、それは弱い立場の者や貧しさへのカミュの温かい眼差しでもあるのだが、主人公の教師ダリュは憲兵が連れて来た殺人犯が誠実な人間と見るや、食料を持たせて彼の選択に任せて逃がしてしまう。つ

まり町へ行って不当な裁判を受けるか、あるいは遠く離れた遊牧民の部落で匿ってもらうかは彼次第というふたつの道を示して、物語は終わっている。

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classicalmusic at 11:34コメント(0)書物 

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カルロ・マリア・ジュリーニは1953年に、それまでのヴィクトル・デ・サーバタのアシスタントからスカラ座の音楽監督に就任した。

既に彼はオペラの舞台を何本か手掛けていたが、この『アルジェのイタリア女』は1954年の録音で、若き日の颯爽とした指揮ぶりと歌手、オーケストラの統率が優れている。

歌手陣はイサベッラがシミオナート、リンドーロがヴァレッティ、エルヴィーラはシュッティ、そしてムスタファがペトリという役者ぞろいなので、このオペラの面白さを倍増させてくれるキャスティングだ。

下稽古がしっかりしているために、それぞれのアリアで披露するロッシーニのコロラトゥーラは勿論、きめの細かいアンサンブルにジュリーニらしさが良く表れている。

特に第1幕幕切れの五重唱は抱腹絶倒だが、正確なリズムの中に、早口の言葉を歌い込んで揃えるのは至難の業で、ジュリーニは鮮やかに締めくくっている。

ともすればドタバタ劇に陥りやすい作品を、一歩手前で芸術的にこなす音楽性は流石だ。

歌手達はいずれも芸達者で、シミオナートは広い音域を巧みなアジリタで歌っているし、ヴァレッティのフレッシュで軽快なリンドーロも好感が持てる。

マリオ・ペトリは間抜けなバッソ・ブッフォを見事に演じている。

この作品の台本は、もっぱらばかばかしいお笑いに主眼が置かれたもので、高尚な哲学などひとかけらもない。

ロッシーニの腕にかかると、他の作曲家の間に合わせに書いた速筆とは思えないほど一流の喜劇として蘇る。

モノラル録音なのが残念だが、リマスタリングのためか音質は極めて良好。

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classicalmusic at 06:10コメント(0)ロッシーニジュリーニ 

2022年05月22日


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下巻の前半部は、長くしかも深刻な著作の中にあって一番華やいだ、そして読者にとっては息抜きのできる部分だ。

使節派遣の立案者、イエズス会の巡察師ヴァリニァーノはヨーロッパでの彼らの待遇について「あくまでも質素に、しかし心のこもった暖かいもてなし」と指示した。

だが彼の当初の希望とは裏腹に、当時の諸国の権力者達の見栄の張り合いによって少年使節への歓待が野放図にエスカレートしていくところは読んでいて思わず笑いが込み上げて来る。

スペイン国王フェリペ二世が少年達を国賓扱いしたことを知ったイタリアのトスカーナ大公フランチェスコ・デイ・メディチはそれを上回る舞踏会付の大歓迎会を催した。

使節の最終目的であったカトリックの総本山、バチカンのローマ教皇グレゴリウス十三世の謁見に至っては当初非公式の予定だった簡素な式典を反故にして、枢機卿、大司教、貴族や騎士達が勢揃いするローマ全体を巻き込んだ公式の大謁見になってしまう。

彼らのローマ市入場はあたかも凱旋将軍の如く、聖天使城から打ち上げられた160発の祝砲とファンファーレの鳴り響く中で行われたのだ。

少年使節が滞欧中、日本では劇的な政治変遷が続いた。

この本の下巻中間部では本能寺の変を中心に、節操無く常に勝利者側に身を寄せる風見鶏的な朝廷や、その後の秀吉の伴天連追放令から更に徳川幕府の陰湿で徹底したキリシタン迫害に焦点を当て歴史の真相に迫っている。

一縷の希望をも見出せない後半部分を読み通すのは辛いものがある。

著者はその後の四人が辿った足跡を追う。

そこにはかつての少年達の魂の叫び声が聞こえてくるようだ。

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classicalmusic at 19:29コメント(0)書物 

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この作品の文庫本化を心から歓迎したい。

如何なる宗教を信仰する者にとっても、また如何なる宗教をも信仰しない者にとっても、夢のように輝かしかった青春時代を忘れることなく信念を貫き通した彼らの余りにも純粋な生き様と友情は感動的である筈だ。

天正十年に長崎を出航した4人の少年は当時まだ11歳から14歳だった。

感受性に富み、ヨーロッパ文化をどの日本人より素早く吸収した少年達は来るべき将来に夢を膨らませた。

だが八年後に帰国した彼らを待っていたものは、そうした希望の一切を否定する執拗な弾圧と迫害だった。

その後の4人は異なった為政者と異なった宗教の狭間にあってもなお真剣に人々の将来を案じ布教を続けたが、当時の日本の権力者には世界情勢を読み取り、国際社会の中での自国の発展を考えるだけの器量に欠けていた。

何故なら当時のイエズス会の布教はアジア植民地化の手段ではなかったという意外な事実が著者によって明らかにされているからだ。

宣教師達は日本の洗練された文化と聡明な国民に敬意を表していた。

そして彼らが真に求めたことは文化、経済交流の上でのキリスト教化だった。

そうでなければ私財を投げ打って日本に学校や病院を建設したルイス・デ・アルメイダや異なった文化圏どうしの軋轢と戦国時代の混乱に挫折して日本を去ったフランシスコ・ザビエルの行動は説明がつかないだろう。

しかし日本は最終的に鎖国という形で、一方的にこの交流を断ち切ってしまった。

若桑みどり氏はプロローグではっきりとこう言い切っている。

「この4人の少年の運命は日本の運命に他ならない」と。

著者の、当時の歴史とそれに関わった膨大な登場人物への綿密な調査と鋭い洞察によって、真実を浮かび上がらせる能力と書法は並大抵のものではない。

例えば織田信長に対する歴史的な位置付けもここでは歴然としている。

彼は西洋文化を称賛し、宣教師達に朱印状を出し正式な布教許可を与えた。

無神論者であった信長の政治的な構想が覇権に根ざしていたことは否定しがたいが、また一方で当時鋭敏に世界情勢を感じ取り、国際社会に目を開いていた殆んど唯一の武将だったことも認めざるを得ない。

この文庫本は上下2巻に分かれ、上巻ではキリスト教伝来と当時の日本の社会状況、そして少年使節の出帆からスペイン国王フェリペ二世の謁見までが描かれている

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classicalmusic at 14:48コメント(0)書物 

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グリゴリー・ソコロフは1950年生まれで、何度か来日しているが、ディスク録音の上ではようやく1994年から日本にお目見えしたといえる。

ソコロフは、1966年、16歳という若さでチャイコフスキーコンクールに優勝、世間にその名を轟かせた。

輝かしい経歴を持つにも関わらず彼の録音は極めて少なく、コンサート活動もあまり積極的には行っていない。

それにもかかわらず、これまで耳にした数点の録音は、いずれも驚嘆に値する出来ばえである。

常々弊ブログで発信しているように、ロシアという土地が本物のピアニスト、本物の芸術家を生み出す力に、つい畏敬の念すらおぼえてしまう。

ソコロフの疑いなく巨きな姿は日本のディスク・ファンの前にまだ半分も見えていまいが、このショパンの《24の前奏曲》も実に素晴らしい。

《24の前奏曲》には、かねて名演も多いのだが、数年前にこのディスクを聴き終えたとき、筆者には、かつてこれ以上の演奏はなかったという実感があった。

したがって、正直にこの1枚を推すことにする。

完璧無比のテクニックと、聴くものの心をわしづかみにする驚異的な集中力で、根強いファンを持つソコロフのショパンの名演奏だ。

ソコロフの演奏は、どの曲でもフレーズのはしばしにまで深い思念をこめ、まさしく人間の手わざとしてピアノを響かせるもので、音符の間(ま)に得も言われぬ詩情の香りが漂う。

曲によっては緩いテンポをとるが、内面からの息吹が豊かであるため、少しもだれない。

1フレーズ、1音符のかげに濃い感動を滲ませ、切れば血を吹くような音楽を奏でるピアニストはいま、貴重である。

いま最も注目すべきピアニストの1人だ。

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classicalmusic at 12:43コメント(0)ショパン 

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どこからみても完璧に素晴らしい演奏だが、それほど素晴らしいだけに気安く人には勧めたくないアルバムというのが時にある。

掛け値なしの名演であり、世評も高く、ネット全盛の時代にCDで購入する代価以上のものが絶対にある、いやそれこそ一生ものになる価値を持つアルバムなのだ。

安易な聴き方をされてそこらに片づけられてしまうくらいなら、紹介しないほうがいいと感じてしまう、それほどの愛着と敬意で大切にしたいアルバムのことである。

弊メルマガを登録させていただいた方に限り、ついさきほどご紹介させていただいた稀有の天才ピアニスト田中希代子(たなか きよこ、1932年2月5日 - 1996年2月26日)がそれにあたる。

西洋音楽の真髄に達した日本の女性のピアニストが吟味に吟味を重ね、推敲に推敲を重ねた最終回答が1つ1つのディスクに記録されている。

それは演奏という生身の表現行為が達成し得た1つの頂点、ほとんど奇跡的偉業をしるしたものと言えよう。

田中希代子の人生は音楽、それもピアノ音楽のみに捧げられた。

妥協や曖昧さや不透明さは徹底して退けられ、音楽の核の部分のみが結晶として残されたし、その結晶はさらに絶妙なバランスと比重の中で組み立てられていった。

こうして初めて姿を顕わす作品の世界は、名演という概念を超え、さらに作曲者の領域すらも超えて、聴き手を究められた営みへと誘うのである。

美しいことはもちろんだが、それはただ単に耳に快い美しさではない。

聴き手の感覚や心の在り方を浄化していく試練のような力を持つ美しさである。

自ずと聴き手は膝を折って祈るように聴き入り、田中希代子詣でにも似た音楽の時を生きることになる。

与えられる感動は限りなく深く、また優しく、全曲を聴き終えた時は、何か自分が生まれ変わった、そんな感銘に身を引き締めることになる。

2人といない芸術家、田中希代子の至芸がこのドビュッシーである。

ピアノ音楽はどこまで美しくなれるのか、ドビュッシーの精妙なる世界はどこまで幻想の翼を広げていくのか、いやそもそも音楽的感動とはどこまで高められていくものか、その究極の到達点を見せたアルバムである。

愛らしい音の世界に無限の宇宙の営みを聴く《子供の領分》、文字通り絵画的情景を脳裏に浮かべ、イメージの軌跡とも、感覚の旅路とも言える経験に誘う《前奏曲集》等々、いずれも美しすぎる世界である。

そしてこの美しさは芸術の常として1人1人に孤独を噛みしめさせるのである。

聴いて欲しい人が自ずと限られると言った理由もそこにある。

ピアノに生きるということが、どれほど過酷な試練であり、また望外な喜びをもたらすかを教えられる演奏だ。

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classicalmusic at 09:39コメント(0)ドビュッシー 

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1917年にブダペスト国立歌劇場のメンバーによって結成されたハンガリーの代表的室内楽団ブダペスト四重奏団は、1967年にちょうど半世紀にわたって個性的な活動を繰り広げた20世紀最高の弦楽四重奏団である。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の黎明期ともいえるSP期から数えると、何と3回もの全曲録音(1回目は1曲欠ける)を行なっているブダペスト四重奏団は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に生涯を捧げた歴史がある。

1917年からのSP期に第1回、1952年のLP期に第2回、1958年のステレオ期に第3回と、1967年に解散するまで何かとベートーヴェンとのかかわりをもってきた。

このステレオ期の1958年から61年にかけてニューヨークで録音された全集は、ブダペストのそれまでの至芸の総決算といえるもので、ベートーヴェンの本質に肉薄したその演奏は、人間ベートーヴェンの精神性を見事に語り尽くしている。

いわばロシア人だけによるメンバーが復活してからのことであり、このアンサンブルが円熟期を迎えていた時のことである。

ロイスマン、アレクサンダー・シュナイダー、クロイト、ミッシャ・シュナイダーという4人が、その顔ぶれであった。

この顔合わせは、1917年に創設された際のメンバーが、すべて姿を消した1936年に発足したことになる。

もっとも、1944年に第2ヴァイオリンが交代したため、一時変わってしまい、1955年に再び顔をそろえたのであった。

4人がすべてロシア人でありながら、教育はドイツ・オーストリアで受けており、1938年からは、アメリカのワシントン国立図書館に所属していたということを考えると、この名称がかなり奇異に感じられるのも事実だが、意外にブダペスト四重奏団として自然に受け取られていたのも興味深い。

その主軸を占めたのは、新即物主義的なロイスマンであり、彼が主導しながら、その演奏では、4人の平等なる均衡のもとに緊密なアンサンブルが築かれていた。

そのベートーヴェンは、彼らにとってのひとつの究極であり、彼らの音楽も哲学も、そして理念もすべてそこに集約されており、弦楽四重奏のひとつの規範もそこに示されている。

ベートーヴェンの楽譜を深く洞察することによって、音楽の表現に欠くべからざるもののみを有機的に結合させ、作品を構造的に抽出している。

技術的には衰えを見せてはいるものの、聴く度ごとに新たな発見を見出すことのできるレコード史上の一大金字塔と言っても過言ではあるまい。

録音は古くなったが、1967年に解散したこの団体の演奏は、歴史の浅い弦楽四重奏団からは味わえないような風格が感じられる。

初期の作品から、後期の作品に至るまで、常に厳しい姿勢で貫かれ、音楽の内面をじっと凝視するかのような鋭さをもっている。

それだけに、現在聴くと、表情の柔らかさにはやや乏しく、演奏スタイルも古めかしいが、そういったものを越えた、精神的な充実ぶりが、感動を呼ぶ。

ブダペスト四重奏団の残した数多くの遺産のうちでも最高のものといってよく、この弦楽四重奏曲集の音楽特性をこれほど豊かに表現した演奏というのも少ない。

今後このような演奏が再び生まれてくる可能性はまずない。

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classicalmusic at 06:46コメント(0)ベートーヴェンブダペストSQ 

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題名の通り、ローマが歴史に登場する前の地中海世界に勃興した国々の覇権争いの状況が最初の二章に説明されていて、世界帝国への原像が示されているのがローマ成立への理解を助けてくれる。

また本書の半分以上がローマ王政から共和制までの時代に費やされているのも特長だが、初代ロムルス以降6人の王が治めた頃の文書としての記録は皆無なので、後の文人達が伝承や伝説から書き起こした物を資料にせざるを得ない。

しかし著者本村氏はこうした伝承は根も葉もない作り話ではなく、その中に真実の核が存在するという立場をとっている。

紀元前509年から始まる共和制時代になると次第にローマの姿が明瞭に現れてくる。

王制による独裁制を徹底して嫌った彼らはギリシャに使節を送って法律を学び、選挙で選ばれた執政官(本書では統領と訳している)二人が任期一年のみで共同統治するという独自の共和体制を作り上げる。

これを著者は共和制ファシズムと呼んでいる。

そこではまたローマ人の父祖の遺風、つまり神々を畏敬し、そして何よりも先人の英雄的あるいは道徳的な名誉が後に続く者の手本であり、その目的は利益や享楽に走るためではなく、ローマ人全体がこの世を最良に生きるための拠り所であったとしている。

そうした気風を考えればグラッスス兄弟のラディカルな政治改革にも理解が深まるだろう。

本書冒頭に引用されている宿敵カルタゴを滅ぼしたスキピオ=アエミリアヌスの言葉もそう考えると一層奥が深い。

炎上するカルタゴを目の前にしてスキピオの脳裏にホメロスの一節がよぎった。

そしてローマにもいつか必ず滅びる日が来る、と涙したという。

カルタゴの歴史とポエニ戦争に関しては同興亡の世界史シリーズの『通商国家カルタゴ』に更に詳しい。

ローマは少なくとも千二百年に亘ってその国体を保った。

その秘訣のひとつに彼らが敗戦や失敗から常に学んでいたことと、異なる文化を持った異民族の宗教や慣習に寛容だったことが挙げられている。

また他の民族から優れた文化やあらゆるテクノロジーを取り入れた。

それらは私達の将来にとっても重要な示唆を与えているように思える。ここでも著者は丸山真男の『ローマ帝国の歴史には人類の経験の総てがつまっている』という言葉を紹介している。

長大なローマ史を400ページ足らずの本で語り尽くすことはできないが、本書はさまざまな視点から考察した多くの著書の中でも、入門者にとって最も分かり易く有意義な一冊としてお薦めしたい。

尚巻末に索引、主要人物略伝及び年表が掲載されているのも親切な配慮だ。

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classicalmusic at 04:02コメント(0)書物 

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ヨーロッパには、白鳥は死ぬ前に一声だけ美しい鳴き声をあげる、という言い伝えがあるが、それに因んで作曲家の亡くなる直前に書かれた作品を倏鯆擦硫劉瓩噺討鵑任い襦

シューベルトのこの歌曲集も文字通り彼の死の年に書かれた歌曲14曲を集めたもので、没後ハスリンガーによってまとめられ、《白鳥の歌》のタイトルで出版された。

深々としたバスの声で歌われる《白鳥の歌》は珍しいが、その代表格であり、かけがえのない名演奏と思えるのは20世紀ドイツを代表する偉大なバス・バリトン、ハンス・ホッターによるこの録音だ。

この歌曲集には、以前から名盤の数が多く、どれが特によいのか、多くの人にはそれぞれの支持盤があり、意見はかまびすしい。

筆者自身、愛聴している盤はいくつかあるが、なかでもとりわけしみじみとした情感をたたえ、深い味わいを感じさせる演奏として、まずこのホッター&ムーア盤をあげたいと思う。

この歌曲集を全曲歌うには、軽妙さから重苦しい沈鬱さまでの幅広い表現を必要とするので、概してバリトンが歌った時に良い結果が出るようで、典型的なテノールや重いバスには荷が重すぎるようだが、バスというよりはバス・バリトンとして歌っていたホッターの意外に軽やかな表現が忘れられない。

ホッターが、日本でよく知られるようになったのが、名伴奏者ジェラルド・ムーアとのこの《白鳥の歌》(1954年録音)あたりからだったという。

当時のホッターは45歳の円熟期にあり、シューベルト最晩年の深い抒情を見事に表出した名演で、若くして老いたシューベルトの晩年の人生観から晴朗な諦観を汲み出し、そのしみじみとした味わいは、聴き手の心を包み込むような深い慈愛に満ちている。

〈セレナーデ〉の深さ、〈アトラス〉の迫力と孤独…、このような歌は技巧から生まれるものではなく、歌い手の内面から投影されて現れるものだ。

しかもその内面のなんと穏やかで包容力のあることか! 耳を傾けていると心が慰められる。

シューベルトは《水車屋》や《冬の旅》、それにこの《白鳥の歌》を通して牋Δ良垪澂瓩鯆謬罎靴拭

《冬の旅》の荒涼とした冬景色、《白鳥の歌》の都会での孤独はまさにその譬えであり、若くして死と向き合わねばならなかった作曲家の晩年の人生観を映している。

それは深い孤独のなかから生まれた晴朗な諦観と言ってもよいものだが、その核心にもっとも深くふれているのがこのホッター盤で、シューベルトの最晩年の心象風景をこれほど的確にとらえ、滋味ゆたかで慰撫に満ちた演奏もまれだ。

ホッターの《白鳥の歌》は、この深い孤独感を身に迫る凄味で歌い出していて、そのいぶし銀のような声と深い人生観照は、作曲家が陥っていた孤独感に一体化するほど親密にふれている。

確かに孤独は恐ろしいが、それから逃れようとしても、それはつねについてまわる。

それならむしろ孤独を凝視し、それに徹してみてはどうか。

リルケは「飲むのが苦しければ、ぶどう酒そのものとなれ」と歌った。

そのときその苦みは身体をあたため、それを友とするようになるだろう。

真の孤独を知った者だけが、真に人間を愛せる。

この演奏からひびき出ているのはその意味だ。

孤独の苦しみのなかでは、かすかな希望も見失われがちだが、ホッターは忍耐強く、ヒューマンな懐の深い包容力を示し、必ずや出口は見つかると励ましてくる。

それはおそらく孤独の極にあったシューベルト自身も勇気づけられるほどの共感力だ。

これが45歳の演奏なのだから、ホッターはなんと成熟した演奏家だったのだろう!

ムーアのピアノ伴奏にも配慮が行き届き、力がこもっている。

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classicalmusic at 00:22コメント(0)シューベルトホッター 

2022年05月21日


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シューベルトのピアノ曲は、ここ20年間くらいの間に、演奏スタイルがかなり変わり、かつてのE・フィッシャーやケンプやゼルキンの、あの地味だが落ち着いた、じみじみとした味わいに比べると、最近のシューベルトは随分劇的で、スリリングで、時にはエキサイティングに聴こえる。

この傾向はきっと細部まで彫り込むように深読みをするブレンデルが大きな役割を果たしたのだろうが、だからと言ってブレンデル流がシューベルト演奏のスタンダードになったというわけではないことだ。

その後ピリスや内田光子が病的なまでに傷つきやすいシューベルトの魂を表現したが、ベートーヴェンやショパンなどに比べて、シューベルトには「こう弾かなければならぬ」という感じがずっと少ない。

人それぞれ、多様な可能性が許されていて、事実リヒテル、ポリーニ、ペライアといったピアニストたちが、まるで、自分の姿を映す鏡のように、それぞれのシューベルト世界を創り上げている。

そのようなシューベルト演奏のひとつの白眉が、ルーマニア出身のユダヤ系ピアニスト、ルプーの弾くソナタ第18番『幻想』ではなかろうか。

シューベルト中期の最後を飾るこの曲は、1曲のなかに様々な魅力的な楽想が散りばめられ、しかもそれらががっちり〈原因/結果〉の糸で結ばれていないという、最もシューベルトらしいソナタ。

これをルプーは、力技で全体をがっちりまとめ上げるのではなく、まさに「神は細部に宿る」という言葉そのままに、すべての瞬間が〈美〉であるように弾いていて、感銘深い。

少し細めだが艶と透明感のある音色、淀みない音楽の流れ、決して力むことのない自然でたおやかな抑揚、ふつふつと湧き出るような喜ばしさ……。

とりわけ感銘深いのは、ルプーは音を厚ぼったく創らないために、音のテクスチュアの網目が隅々まで見通し良く響き、旋律だけでなく、伴奏音形から経過的なパッセージまですべての声部が、それぞれ生き生き躍動している様子が、手に取るように聴こえることだ。

その結果、曲全体の論理やドラマではなく、次々と立ち現れる「今ここ」の瞬間の豊饒さが、聴く者を魅了して、興味の尽きることがない。

しかも「力技」の印象がないので、音楽は軽やかに繊細で、ある喜ばしさに満ちている。

第2楽章の洗練された瑞々しさや、第4楽章の上品で生き生きとした躍動感も比類がないが、特にルプーらしいのは第1楽章で、遅めのテンポで楽想をじっくり歌わせており、スケールの大きなおおらかさを感じさせる。

一見とりとめないこの楽章をストーリー・テラーに構成するのではなく、推移や経過句のひとつひとつが、それぞれ幸福の由来であるように弾いていくやり方は、まさに今日的な(脱・近代的な)演奏と言いたい。

かつてルプーを宣伝するキャッチフレーズとして、よく「千人に一人のリリシスト」などということが言われていたが、彼の演奏を実際に耳にしてみると、とてもそういった言葉だけでは表わしきれない幅の大きな演奏家であることが分かる。

確かにその豊かな叙情性は一際抜きん出ているし、その音色の美しさも天下一品であるが、それを特徴づけるには、それ以外の要素が並外れて充実していることが不可欠であろう。

このシューベルトのアルバムでは、端正なピアニズムから生まれる彼の傑出した叙情的性質と、それを支える明確な造形感といった様々な要素が、まさに渾然一体となって実に見事なシューベルト像をくっきりと描き出している。

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classicalmusic at 20:10コメント(2)シューベルトルプー 

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アファナシエフ究極の名演という言葉は、この録音にこそふさわしいと思う。

ロシア・ピアニズムの流れを組む名手でありながら孤高の芸術世界を築くアファナシエフの描く音楽はいずれも心の深淵をのぞき込むかのように深く暗い表情を湛えている。

感情的興奮やヴィルトゥオジティとは全く次元の異なる世界にリスナーはとまどい、やがて言葉を失うほどの感銘を覚える。

アファナシエフは、ブラームスの深淵に浸りきり、研ぎ澄まされた音の中にあらゆる感情が込められた空前の表現を行っている。

前作の後期ピアノ作品集は、おそらくは過去のブラームスのピアノ作品集のCD中最高の超名演(私見ではグールドより上)であったが、本盤も、前作ほどではないものの、素晴らしい名演である。

確かに「アファナシエフ流」のインパクトは後期作品集に劣るが、ポツポツと弾かれる音が漂う「間」(ま)、その空白を感傷が埋めているような、この人特有の音空間はやはりとんでもなく美しく、録音が良いせいか、本当に音の1つ1つが冴え渡っている。

特に、作品116の7つの幻想曲は、ブラームスの最晩年の作品だけに、前作の深みのある鋭い名演に繋がるアプローチを行っている。

同曲は、複数のカプリチオと間奏曲で構成されているが、各曲ごとに大きく異なる楽想を、アファナシエフならではのゆったりとしたテンポで、ブラームスの心底の深淵を覗き込むような深遠なアプローチを行っている。

シェーンベルクの十二音技法にも通じるような深みを湛えた至純の名作であるが、アファナシエフの演奏は、まさに、こうした近現代の音楽に繋がっていくような鋭さがある。

それでいて、晩年のブラームスの心の奥底を抉り出すような深みのある情感豊かさも、感傷的にはいささかも陥らず、あくまでも高踏的な次元において描き出している点も素晴らしい。

テンポは、過去のいかなる演奏と比較しても、相当に(というか極端に)遅いと言わざるを得ないが、シューベルトの後期3大ピアノ・ソナタの時のようなもたれるということはなく、こうした遅いテンポが、おそらくはアファナシエフにだけ可能な濃密な世界(小宇宙)を構築している。

研ぎ澄まされた鋭さ、深みのある情感、内容の濃密さという3つの要素が盛り込まれたこの演奏は、聴き手にもとてつもない集中力を要求する。

その深みのある情感豊かさは、同曲の過去のいかなる演奏をも凌駕するような至高・至純の高みに達している。

4つのバラードは、ブラームスの若書きの作品ではあるが、アファナシエフの解釈は、晩年の諸作品へのアプローチと何ら変わることがない。

バラード集の時間軸を変容させ、独特の呼吸で横の線を異化していく特異な世界があるが、このバラード集に纏わりつく死のイメージをここまで音化した演奏は思いつかない。

誰の演奏を聴いてもイマイチ感のあるバラード集で、暗黒面の境界線に佇みながら静かに生者のほうを見つめるピアノを聴かせてくれる、凄い演奏が作品の方向性を作り変えている。

要は、同曲を、最晩年の作品に繋がっていく道程と位置づけており、各バラードの解釈は、初めて耳にするような深みを湛えている。

2つのラプソディーは、ブラームスとしては比較的めまぐるしく表情が変転する楽曲であるが、アファナシエフは、ここでも単なるお祭りさわぎに終始することなく、次元の高い深みのある音楽が紡ぎだされていく。

また、本質的にこの人のピアノはロマン派と相性が良いのだということが良く分かる点も、後期作品集と同様である。

そういえば、アファナシエフが「もののあはれ」を表現の原点としているというエピソードがあるが、この人の演奏を聴いていると、「もののあはれ」というものが、普通な意味でのメランコリーを否定しつつも、結局はメランコリーの一形態だったではないか、ということを思い出させられる。

我々がアファナシエフの演奏をメランコリックとつい評してしまうときも、本来そのような重層的な意味合いを意識すべきなのかもしれないが、そんな遠回りをしなくても、本盤の場合はストレートにメランコリックである。

Blu-spec-CD化によって、アファナシエフのタッチをより鮮明に味わうことができるようになったことを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 15:16コメント(0)ブラームス 

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鬼才アファナシエフのブラームス最晩年の小品集は実演にも接したことがあるが、このアルバムも実に凄い演奏だ。

ブラームスの後期の小品集は、小品とはいいながら晩年のブラームスの寂寥感、生きる事の悲しみや、つらさ、孤独、苦しみやかすかな喜びが投影された珠玉の作品集である。

ひとつひとつの音が、ピアノの美しい音色を響かせるとともに、晩年のブラームスの生活をも感じさせてくれる。 

確かにシューベルトの即興曲に通ずるものがあり、楽譜通りに演奏しても、それなりの演奏となろう。

ここでのアファナシエフの演奏は、楽譜を読み込み、楽譜を超え、ブラームスの情感の心情に迫り、抉り出そうとする、本質を表現せしめた音楽を奏でている。

思索的な表情や美音が印象に残る一方、悠然とした間のとり方など、アファナシエフらしい個性的な解釈が散見されるが、それは唐突に現れるのではなく、全体の流れのなかに乗せられている。

それに、ブラームスの作品117〜119の3つのピアノ作品は、シェーンベルクの十二音技法にも通じるような深みを湛えた至純の名作でもある。

アファナシエフの演奏は、まさに、こうした近現代の音楽に繋がっていくような鋭さがある。

それでいて、晩年のブラームスの心の奥底を抉り出すような深みのある情感豊かさも、感傷的にはいささかも陥らず、あくまでも高踏的な次元において描き出している点も素晴らしい。

テンポは、過去のいかなる演奏と比較しても、相当に(というか極端に)遅いと言わざるを得ない。

しかしシューベルトの後期3大ピアノ・ソナタ(旧盤)の時のようなもたれるということはなく、こうした遅いテンポが、おそらくはアファナシエフにだけ可能な濃密な世界(小宇宙)を構築している。

各曲ごとに大きく異なる楽想を、アファナシエフならではのゆったりとしたテンポで、ブラームスの心底の深淵を覗き込むような深遠なアプローチを行っている。

その深みのある情感の豊かさは、同曲の過去のいかなる演奏をも凌駕するような至高・至純の高みに達していると言っても過言ではあるまい。

研ぎ澄まされた鋭さ、深みのある情感、内容の濃密さという3つの要素が盛り込まれたこの演奏は、聴き手にも途轍もない集中力を要求する。

同曲集には、同じく鬼才であったグールドの超名演があったが、内容の深みや鋭さにおいて、アファナシエフに軍配があがると言っても過言ではないかもしれない。

Blu-spec-CD化によって、アファナシエフのタッチをより鮮明に味わうことができるようになったことを大いに喜びたい。

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classicalmusic at 12:25コメント(0)ブラームス 

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アリスが、デビュー盤であるリストの超絶技巧練習曲集の次に選んだのは、それとは全く対照的なショパンのワルツ集であったのは少々意外であった。

これは実にすばらしい名演であり、あらためて、アリスの幅の広い豊かな表現力を思い知らされる結果となった。

ショパンのワルツ集は、うわべだけの美しさだけを追求した演奏だと、陳腐なサロン音楽と化してしまう危険性があるが、アリスの手にかかると、実に高踏的な大芸術作品に変貌する。

第1曲である「華麗なる大円舞曲」からして、他のピアニストの演奏とは全く次元が異なる個性的な解釈を見せる。

中間部の魔法のようなテンポのめまぐるしい変化は、聴いていてワクワクするほどで、あざとさなどいささかも感じさせない。

それどころか、どんなに奔放とも言える弾き方をしても、常に気品に満ち溢れているのが、アリスの最大の長所と言えるだろう。

「子犬のワルツ」の愛称で有名な作品64の1も、他のピアニストなら軽快なテンポであっという間に駆け抜けてしまうところを、アリスはややゆっくりめのテンポで優雅に演奏している。

そこに漂う高貴な優美さには頭を垂れざるを得ない。

「別れのワルツ」で有名な作品69の1も、決して感傷的には陥らず、決して気品を失わないエレガントな抒情を湛えている。

このようにアリスは、ショパンの華やかで宮廷的なワルツと 内省的な、瞑想的なワルツとの弾き分けが実に見事で、それだけでも物凄い才能を感じる。

ボーナストラックのノクターン嬰ハ短調も、深沈とした憂いのある、それでいて気品溢れる美しい抒情を湛えており、アリスの将来性豊かな才能が全開であった。

本盤のような名演に接すると、他のショパンの諸曲もアリスの演奏で聴いてみたいと思ったのは筆者だけではあるまい。

本演奏の数年後には多発性硬化症という不治の病を患い、ピアノを弾くことがかなわなくなるのである(リパッティの最期もショパンのワルツ集なだけに背筋が凍る)。

アリスのこのような凄みのあるピアノ演奏は、あたかも自らをこれから襲うことになる悲劇的な運命を予見しているかのような、何かに取り付かれたような情念や慟哭のようなものさえ感じさせる。

もっとも、今となっては我々聴き手がそのような色眼鏡でのピアノを鑑賞しているという側面もあるとは思うが、いずれにしても彼女の並外れた豊かな才能は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分である。

とにかく日々この若きピアニストを動向が気になってしかたがなく、彼女のツィッターを常にチェックしている。

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classicalmusic at 10:00コメント(0)ショパン 

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1953年8月26日のルツェルン音楽祭での演奏の貴重なライヴ録音である。

これは、ラジオ放送を録音したもの(いわゆるエアチェック)なので音の状態は十分ではないものの、演奏は素晴らしい。

シューマンのマンフレッド序曲、交響曲第4番、ベートーヴェンの交響曲第3番「エロイカ」というファンならずともよだれが出そうなプログラムになっている。

フルトヴェングラーの指揮する「エロイカ」は、極めて高い見識を持った優れた解釈を下地にしており、残されたすべての演奏が格別の名演である。

ここでの演奏は、時期的に近接している1952年11月30日のウィーン・フィルとの演奏とごく近いものだ。

物腰の柔らかいウィーン・フィルと違い、ルツェルン祝祭管弦楽団(スイス・ロマンド管弦楽団の団員などから構成されているという)の素直な反応がフルトヴェングラーにウィーンでの演奏よりも少しばかり動的かつ情熱的な演奏を促したのも知れない。

第1楽章は物凄い気迫で開始され、最初の和音だけとれば、これが今までのベストと言えよう。

そして続く主題の足どりはゆったりとして実に良い雰囲気であり、堂々としてスケール雄大、ひびきが満ちあふれる。

オーケストラが指揮者に慣れていない感じで、それがフレッシュな感動を生み出す原因の1つになっているのだろう。

指揮者の棒は1952年のスタジオ録音以上に力みがないが、音の背後の凄絶さはまさに最高、常に立派な充実感に満たされている。

テンポの動きは再現部の前と直後に1度ずつあるだけで、後は安定しきっており、最晩年の確立した大演奏と言えよう。

第2楽章は心はこもっているが流れを失わず、旋律はソロといい合奏といい、肉のり厚く歌われ、中間部から再現部のフガート、その後の阿鼻叫喚に至るまで、他のどの盤に比べても仕掛けはないが、それでいて物足りなくないのは偉とすべきであろう。

この楽章は、深く悲しみに沈み込むような1952年12月8日のベルリン・フィルとの演奏より2分も短い。

お互い相手を知りぬいた組み合わせとは異なった、一期一会の感興がこの演奏の大きな魅力となっている。

スケルツォからフィナーレにかけても同じスタイルだが、後者に入ると音質がだんだん濁ってくるのが残念だ。

しかし、少しも速くならないフーガといい、ポコ・アンダンテといい、コーダといい、音の後ろに凄いものが隠されており、充分満足させてくれるのが素晴らしい。

シューマンの「第4」も完璧無類のグラモフォン盤の後に聴いても引けを取らない名演だ。

録音は濁り気味だが、なんといってもライヴの音がするし、音に命がこもっているのである。

晩年のフルトヴェングラーだけに実演だからといって踏み外すことなく、ベルリン盤の良さをそのまま保ちつつ、やはり気迫が違うのだ。

第1楽章の出もそうだし、フィナーレ冒頭の弦の刻みの生きていること、主部の第1主題の語りかけなど、ベルリン盤を上まわり、録音が同レヴェルなら、筆者はこのルツェルン盤の方を採りたいくらいである。

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classicalmusic at 05:43コメント(0)ベートーヴェンフルトヴェングラー 

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ブラームスの交響曲第3番は、ウィーン時代のワルターを飾る絶品の一つ。

ワルターとウィーン・フィルがこれほどぴったりと意気投合し、細部まで心を通わせ合った例も少ないだろう。

なぜならば、ワルターにはかなりウィーン・フィルの楽員に任せたり妥協したりした演奏も数多く見られるからである。

ここでは両者の目指す美の方向が完全に一致しているようだ。

第1楽章の第1テーマを聴けば、彼らがリズムやアンサンブルなどに少しも神経を使わず、もっぱら音楽の心だけを表現していることがわかる。

ふつうはそれがプラスにもなる代りにマイナスともなってしまうのだが、ここではプラスの面だけが濃く現われ、その結果として、内部には情熱の火が燃えさかっているにもかかわらず、外観は徹底して角が取れ、まろやかに円熟したのである。

一つ一つのメロディーが何と思い切って歌われることだろう。

第2、3楽章にその最高の例が見られるが、しかもほんのわずかな外面性もないのは楽員一人一人が情緒を感じぬいているからだろうし、音色がすばらしく高貴なせいもあるのだろう。

両端楽章の、自由自在な緩急にもおどろかされるが、情熱に任せてはめをはずすことなく、つねに自然なのは偉とすべきだ。

終楽章の第2テーマが現われた後の盛り上げにおいて、ぐんぐん加速するが、オーケストラが手足のごとくぴったりと密着していささかの崩れも見せず、完璧なアンサンブルを誇っているのはワルターにとっても珍しい。

たいていは棒が先に行ってしまうか、またはオーケストラがワルターの意図を見越してほんとうの情熱に燃えず、形だけをつくってしまうかのいずれかである。

第1楽章冒頭の柔らかい響き具合からもわかるように、全体に金管が少しも気張らず、ブラームスらしいしつこさから解放しているのも快いが、木管の恍惚たる和音といい、チェロや高弦の情緒に濡れた音色といい、耽美、陶酔という言葉が身をもって実感される瞬間である。

少しも聴かせようとする構えがなく、自らの感じたままを正直に表現してゆくワルターとウィーン・フィルの名コンビに絶大な拍手を贈りたい。

豊かな音楽とはこのようなものをいうのであろう。

シュテファン・ツヴァイクが「ワルターの指揮で、その至福の瞬間には、彼自身波に連れ去られてしまって、もうそこに居ないような感じ……」と書いているのは、ウィーン時代のワルターにこそ当てはまるだろう。

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classicalmusic at 01:03コメント(0)ブラームスワルター 

2022年05月20日


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ソ連ものに強いイギリスのスクリベンダム・レーベルから、アナトリー・ヴェデルニコフ(1920年5月5日 - 1993年7月29日)の17枚組セットが登場。

諸事情あって表舞台にはあまり出なかったヴェデルニコフだが、その演奏の独特な魅力によって、マニアの間ではカルト的なピアニストとして有名な存在。

ヴェデルニコフの"再発見"はピアニストの国ロシアの奥の深さを改めて認識させるものだった。

同じネイガウス門下のギレリスやリヒテルと並ぶ大ピアニストながら、政治的な理由で活動を制限され、最近になってその実像が明らかにされるようになった旧ソ連の巨匠ヴェデルニコフ。

死後に復刻された一連の録音はどれも聴き応えのあるものばかりだ。

ヴェデルニコフはハルビンの生まれで、満洲や中国、日本で初期のキャリアを築き、東京に8か月間滞在してレオ・シロタのもとで腕をあげるなど、日本とも縁の深い人物。

その演奏は、揺るぎのない高度な技巧により、感情におもねることなく作品の姿を明確に示すのが特徴であった。

背景にはヴェデルニコフが非常に研究熱心で、たとえばバッハのパルティータを録音するために、カンタータ全曲を勉強するなど、その方法は時間と手間をかけた徹底的なものだったと言う。

実際、ヴェデルニコフのバッハ録音は峻厳な素晴らしい演奏であるし、自身のヴァージョンによる尖鋭な『ペトルーシュカ』(ペトルーシュカの死と亡霊も含む)や、独特の抒情が際立つ『月光ソナタ』、凄まじい迫力のプロコフィエフ『悪魔的暗示』など、作品に応じて突き詰められたスタイルは、バロックから現代にいたる幅広い作品を見事な説得力で聴かせる。

特に20世紀音楽については、政府受けが悪い作品でも熱心にとりあげ、それが原因で長きに渡って文化省の不興を買い、活動範囲が限定される要因にもなっていたが、ヴェデルニコフは方針を改めたりはしなかった。

そうした政府による制限もあって、自分の不運をぼやきがちだったヴェデルニコフであったが、同じく父親を処刑されていた妻のオリガとは、半世紀に渡って結婚生活を維持し、息子ユーリも立派な画家に育つなど、私生活にはとても恵まれていたようだ。

ヴェデルニコフが半世紀に渡って住み続けた別荘(ダーチャ)は、オリガの父、哲学者のゲッケルがモスクワ近郊のクリャーズマに建てた古い物件であった。

冬はとても寒かったものの、ヴェデルニコフはそこで音楽の研究に加えて、哲学や文学に親しみ、英語やフランス語も習得、アメリカやイギリスのラジオを聞き、健康維持も兼ねてヨガに興じてもいた。

そうした幅広い教養を深めつつ、旧ソ連体制のなかで深く「音楽」そのものに生き甲斐を求めたヴェデルニコフならではの表現が聴かれる。

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classicalmusic at 19:46コメント(0)リヒテルギレリス 

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1969年6月26日と28日の両日、バックハウスは南オーストリアのケルンテン音楽祭に招かれ、リサイタルを開いた。

ニ日目の演奏途中、急に具合が悪くなり、最後の曲目であるベートーヴェンのピアノ・ソナタ第18番のフィナーレを弾けなくなってしまった。

しばらく楽屋で休んだ彼は、ベートーヴェンの代わりにシューマンの「夕べに」と「なぜに」、シューベルトの即興曲変イ長調D.935-2を弾き終え、そのまま病院に運ばれた。

その7日後の7月5日、心不全のため、ケルンテンのフィアラで85歳の生涯を閉じたのである。

「余暇には何をなさいますか」「ピアノを弾きます」。

バックハウスとはまさにこの言葉どおりの「生涯」「ピアノ弾き」であった。

そんなバックハウスの死の7日前に行なった『最後のリサイタル』は、幸い録音されている。

ここに聴く巨匠の音楽は、何と強靭で確固としたものであることだろう。

モーツァルトの《K.331》冒頭に置かれたカデンツの分散和音からして気高い音楽である。

最晩年の枯れた芸の極致とでもいえるような内容の深さをもった演奏で、モーツァルトとしては、やや重厚にすぎるが、聴きこむほどに味が出てくる名演だ。

前半のメインのベートーヴェン《ワルトシュタイン》が稀有の名演だと思う。

第2楽章の深い瞑想性、そして、クナッパーツブッシュのワーグナーを想わせるフィナーレの深遠な呼吸と表現の巨大さ。

まさに渾身の演奏であり、ここに命の灯を燃やし尽くした巨匠は後半の《第18番》を最後まで弾くことができなかったのである。

シューベルトの3曲の率直な味わい深い表現など、まさしく晩年のバックハウスのものである。

前述のようにベートーヴェンのソナタ第18番は精彩がなく、演奏は中断される。

シューマンの小曲2曲の枯れた、だがみずみずしい抒情の美しさなど、辞世の歌というにふさわしい絶品である。

その深い瞑想と寂寥感において他に比肩しうるピアニストは一人もいない。

単なる記録という意味を越えた、音楽とは何かを考えさせられる演奏である。

日本語解説書だけでも充実を極めているので、是非読んでいただきたい。

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classicalmusic at 11:50コメント(2)バックハウス 

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ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の15曲の弦楽四重奏曲は、数の面からだけでなく、音楽の質や内容の点でも、彼の15曲の交響曲に並ぶ位置を占めている。

初心者のために敢えて言っておくが、日本の絶滅した音楽評論家の誤解と迷信による解説は一切参考にしないでほしい。

いずれにしても難解なことに疑いの余地はないので、手引きとして参考にしていただければ幸甚である。

筆者が参考にした解説は旧東ドイツの女流音楽学者ジーグリド・ネーフ博士(Siegrid Neef)の筆によるものである。

ボロディン弦楽四重奏団の演奏そのものは、1980年代前半のものがほとんどで、それ以前のものも含まれているが、いずれにしても、まだ旧ソ連が立派に存在していた時代のものである。

しかし解説は、年代は明記されていないが、その内容からボロディン弦楽四重奏団の全集の後に執筆されたものであることが、その内容から明白である。

ネーフは1985年に東ベルリンで出版された「ロシア・ソヴィエト・オペラ・ハンドブック」という大部で、便利な本の著者として広く知られていた。

彼女はベルリン国立歌劇場の文芸部員を長年勤めて、19世紀ロシアだけでなく、ソ連の作曲家オペラを数多く手がけてきた。

一方、本格的な音楽学者でもあり、東ドイツきってのソ連音楽通の一人といって良いだろう。

それだけに、ソ連時代の矛盾を自ら実感してきた経験を持ち、ショスタコーヴィチの作品に対しても、同時代を生きた芸術家の一人として、共感を抱くところが多いのであろう。

この解説において、彼女の語り口は生々しく、まさに本音を語っていると言えるだろう。

長年にわたって、ソ連の優等生作曲家と考えられていたショスタコーヴィチが、実は反体制な創作傾向を持っていたことが明らかになったのは、偽書とされるヴォルコフのいわゆる「自伝」が1979年に西欧に出版されてから、ショスタコーヴィチの作品に隠されている真の意味を考えることが、一気に一般化した。

しかし、想像に基づく推論は別として、具体的には、その本質がなかなか分からないままであった。

とくに後期の作品では、自作からの引用が多く、引用の意味が興味を引くが、どこからの引用であるかはもちろん、その背景を解明することは、容易ではなかった。

なぜならば、ショスタコーヴィチの作品は広く知られているものも少なくないが、一方で、ソ連時代には、ほとんど知られていない作品も、決して少なくなかったからである。

そのようななかで、ネーフはこの弦楽四重奏曲全集の解説のなかで、かなり具体的に、ショスタコーヴィチの音楽の反体制的な本質に迫っている。

ネーフが社会主義体制の下で学問や芸術の活動を続けながら、体制が本来的に抱えてた矛盾に、日常的に直面していた体験があるからであろう。

ショスタコーヴィチはかつて「音楽は思索と観念を通して、つまり、普遍化の過程を通して、その力を獲得する。そして、弦楽四重奏曲においては、思索は深淵で、観念は純粋でなければならない」と述べた。

弦楽四重奏曲にたいするショスタコーヴィチの興味は、1924年から1974年まで、半世紀を越えて続いていたが、初心者の実験から円熟した老齢者の熟達へといった、発展という感じは少しもない。

すでに最初の出発点から、基本的な観念、つまり、はかなさと死に対する悲しみや、野蛮な力の行使と暗黒な時間の経過に対する抗議は、ふさわしい巧みさをもって表現され、語られている。

現実社会で政治の暴力さを増すにつれて、作曲家の内面的力と見通す目の明快さが増大した。

このような発達の印しの一つが、彼のアダージョ楽章に見出される。

それらはことごとく、内面性と真実性に満ち満ちている。

ここには苦悩の音楽があり、その苦悩と折り合う能力が見出される。

作曲家のもっとも美しい憧れの総和として、これらの楽章は20世紀の、そして、20世紀のための音楽となっている。

ショスタコーヴィチは弦楽四重奏曲において、ドストエフスキーが「人生の呪うべき問題」「死のこと」と定義したものを、さらにまた、「何百万の人々に、個々の人生の魂のなかで何かが行われているかを示し、そして、全人類の魂が何によって満たされているかを、個々の人々に明かす」という彼の欲求によって支えられている過程を、抽出して見せたのである。

ボロディン四重奏団は日本にいくどか来ていて、その緻密な演奏を賞賛するファンは少なくないであろう。

驚異的なアンサンブルの妙もさることながら、明白な主張に裏打ちされた、彼らの明快な演奏は、心憎いばかりである。

何も考えずに聴いても、ダイナミックな音響の対比と、歯切れの良いアーティキュレーションは、そのものとして十分面白い。

しかし、それにネーフの解説を重ね合わせて聞くと、彼らの演奏が主張している、ショスタコーヴィチの音楽の背後に隠された意味を聞き取ることができて、面白さは一段と深まるだろう。

まして、不自由なロシアの生活を垣間みたことのある人であれば、いや、そうでなくても、偽善的な現代社会の本質に飽き飽きしている人であれば、そこに表現されている人の心の深い悲しみを、共感を持って実感することができるであろう。

このボロディン弦楽四重奏団の弦楽四重奏曲全集は、20世紀が生んだ鬼子、社会主義社会という矛盾に満ちた現象を、そこに生きた人間の心の機微を通して、憎々しいまでに明白に、多面的に描き上げている。

これは21世紀の現在を生きるわれわれに、20世紀を振り返る絶好のチャンスを与えてくれる、まさに哲学的な内容をもった全集であるといっても過言ではないだろう。

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classicalmusic at 08:11コメント(0)ショスタコーヴィチ芸術に寄す 

2022年05月19日


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1985年に69歳の誕生日を目前にして没したギレリスは、晩年ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音に取り組んでいたが、残念なことに未完のままに終わった。

ギレリス後期のレコーディング活動は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がメインとなった。

残念なことに、彼の突然の死によって、全集の完成はあと5曲を残して未完になってしまったものの、録音された27曲の演奏内容はどれも充実したものばかり。

かつての「鋼鉄の腕をもつピアニスト」も、すっかり角がとれて、福徳円満な巨匠に円熟している。

ゆったりとした歌が魅力で、これらの名曲を手中にした自信のようなものがあり、未完ではあっても、今日のベートーヴェン演奏の最高の指針といえよう。

彼の残した演奏はいずれも特筆すべきもので、その強靭なタッチと正確無比なピアニズムはベートーヴェンに最も相応しい。

そうしたギレリスにぴったりの最後のソナタ第32番が録音されなかったのは断腸の思いだが、録音された作品に聴くギレリスの精神の集中力には驚くべきものがある。

つまりギレリスの演奏は、ベートーヴェンこそ彼が真に対決すべき作曲家であったことを如実に物語っているのだ。

その豊かな表現の底には常に鋼の精神があり、ベートーヴェン作品の大きさと奥行きの深さをよく知らしめる演奏である。

ギレリスのベートーヴェンのディスクはいずれも高い評価を得ているが、全体のスケールが大きいだけでなく、細部のすみずみまで磨き抜かれた演奏で、1音1音があざやかに浮かび上がってくる。

力強い一方で、内に秘められたデリケートな抒情性が何とも心憎い。

各部のバランスも良く、非常に安定している。

それぞれの曲の冒頭から聴き手をひきつけ、最後まで緊張感がとぎれないのはさすがである。

ギレリスの強靭なタッチとダイナミック・レンジの広さも魅力的で、彼はつねにコントロールを失うことなく、オーソドックスに、ひとつひとつの音を積み重ねて、音の大建築を作り上げていく。

甘さはないが、格調高い演奏で、シーリアス過ぎてついていけない人が続出しそうだ。

聴きものはやはり後期のピアノ・ソナタ。

《ハンマー・クラヴィーア》は驚くほど高い透明度を持った演奏。

あたかも作品の構造そのものが自らの意志で音楽として鳴り響くという趣だが、これは知と情が作品の特質に従ったバランスを見せるということで、完璧に音楽的な演奏といえる。

余分な感情の動きや情緒のひだがまとわりつくということもない。

そしてギレリスのいわば構造的演奏は第4楽章のフーガでその真価を十全に発揮している。

演奏者本人が「エヴェレストに登るよう」と語った、ひとつの規範となる現代的解釈の名演。

第30番と第31番は1985年10月に急逝したギレリスが残した文字通り最後の録音。

いずれも流麗な演奏で、年齢からは考えられないほどみずみずしい響きだ。

特に第31番は出色の出来で、フィナーレのフーガの前に置かれているアダージョ・マ・ノン・トロッポは、もの悲しい淋しさをしずしずと歌いあげ、弛緩した趣が全くなくてさすが。

ここにはギレリスが到達した最後の境地が示されている。

しかもこの2曲からは、強い精神集中の向こうに、より開かれた世界をうかがい知ることができる。

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classicalmusic at 21:15コメント(6)ベートーヴェンギレリス 

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かつてのルネサンス時代におけるレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどを思い出すまでもなく、世の中には、常人の想像をはるかに超えた多彩な能力の持ち主というものがいる。

もちろん現代のように各分野の専門化が先鋭化し、それぞれの領域を極めるために多大な時間とエネルギーを要求される時代にあっては、ルネサンス時代のように一人の人間が、音楽も美術も工学も医学もといった具合に、多分野にわたって抜きんでた能力を発揮することは難しくなった。

例えば音楽という領域だけに限ってみると、そこで多彩な能力を発揮する人をたまに見かけることがある。

もちろん音楽を勉強するうえで、ピアノや作曲理論というものは、どのような人でもクリアしなければならない関門のようなものなので、誰もが当たり前であると思われるかもしれない。

しかし一応できるのと、一流として人の前に立つことができるのとでは全く意味が異なる。

多彩で様々にこなしはするけれど、Aは一流、しかしBは二流という人が多いのが実際の所なのだ。

ところがふたまた以上をかけている人で、たまにどちらが本業かわからないほど多岐にわたって高度な能力を発揮する人がいる。

ダニエル・バレンボイムこそ、まさにその筆頭にあげられるべき音楽家ということになろう。

指揮者としての彼はベルリン州立歌劇場総監督就任後は、そのレパートリーを確実に増やしており、ドイツ=オーストリア系のレパートリーにおいては今や筆頭にあげるべき存在になっている。

こういう活躍を展開すれば、もともとはピアニストであったとしても、その活動はごく制限されるか、撤退するのが普通である。

ところが彼は、指揮者としての仕事が膨大なものになったからといって、若いときから注目されていたピアニストとしての活躍も決してないがしろにしていない稀有な存在なのである。

そういえば、そんな存在は過去にも現在にも少なからずいたと言われるかもしれない。

確かにセルもショルティもバーンスタインもピアノは一流だったし、ごく最近でもレヴァイン(故人)がいたし、チョンは健在。

しかし彼らはベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を録音できるほど、ピアニストとしての自立した立場を持っていたわけではない。

たまに聴衆の前でピアノ協奏曲を演奏したり、室内楽ピアニストとして腕を披露することはあったが、あくまでそれは指揮活動の傍らにおかれた存在でしかなかった。

唯一アシュケナージがピアノ、指揮の両面においてバレンボイムに近い活躍を展開していたが、逆に彼の場合は指揮の領域ではまだまだバレンボイムの域に達しないまま引退してしまった。

古楽の分野に限ってみれば、レオンハルト、ジギスヴァルト・クイケン、コープマン、鈴木雅明と挙げられるが学問的に正しいからと言って感動に繋がらないことを白日の下に晒されてしまう。

百聞は一見に如かず、コンサートに身銭を切って行ったが、美しいだけで、二度と聴く気がしない。

コープマンの態度に至っては、舞台上でコソコソしていて、いつ現れたかと思うと舞台から去っていくので卑屈にすら映る(資質すら疑い「ギャラ泥棒」とブーイングを浴びせたくなった)。

反対にバレンボイムは正々堂々たる姿勢で誠実に音楽に取り組んでいたし、シュターツカペレ・ベルリンから失われたドイツの音を甦らせていた。

今や驚くほかはないレパートリーの広さを誇っているが、いずれにしても非常に高い水準にあり、どれを聴いてもまず期待を裏切られることはない。

まさにとてつもない資質をもった演奏家ということができるだろう。

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classicalmusic at 19:23コメント(0)バレンボイム 

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本稿執筆のため、小澤のCDを山のように積んで試聴を始めたが、相手がボストン響であろうとベルリン・フィルだろうと、挑む作品がベートーヴェンだろうとマーラーであろうと、どれも最初の数分を聴いて耐えられなくなった。

これらの演奏を最後まで聴かされるなら筆者には拷問に近い。

ここに水戸室内管を振ったビゼーとラヴェルのCDがある。

驚くほどピッチが正確で、各声部が極細の糸のように細く、それらが整然と整理されている。

音楽的なイントネーションも模範的だし、何より音が美しい。

しかし、だから何なのだ?それがどうした?というのが正直な感想である。

華々しく燃えているかに見える炎も、表面の薄い皮膜が燃えているだけで、中身は熱くも冷たくもない。

それはサイトウ・キネンも同じで、《英雄》《田園》は最悪のベートーヴェンだ。

作曲家の顔はおろか気配すら見えない。

まるでミネラル分を徹底的に除去した無味無臭の水。

透明な以外に何の存在価値もないコクや旨味に無縁の水だ。

《英雄》のCDが出たとき、『レコード芸術』の月評で、「人気は高いが味のうすいアサヒ・スーパードライのよう」と亡き評論家が書かれて物議をかもしたが、ベートーヴェンの音楽とはあのように汗一つかかず、無感動に演奏するものだろうか。

少数の例外のひとつはドヴォルザーク、バルトークの弦楽合奏を合わせた一枚。

響きが派手で情報量ゼロだが、ゴージャスなサウンドに文句はない。

音楽的に完全武装し、文句のつけようのない小澤と、演奏の欠点を挙げたらキリのない(それを隠そうともしない)無手勝流の朝比奈と、結局朝比奈に惹かれてしまうのだから、音楽とは面白い芸術である。

団塊の世代以上の人にとっては小澤は日本のホープだったのだろう。

しかし、熱いだけでは人も世界も動かなくなってしまった。

その原因は、おそらく小澤が音楽のリズムを一様に普遍的なものと見ているからなのではないか。

音楽には作曲者固有の生理的ともいえるリズムがあるはずで、それを捉えることが音楽の緊張感に結び付くのだと思う。

結局、方法論は方法論でしかないのだろうか。

先人に対して失礼なことを言って申し訳なく思うが、どんなに引き際が悪くとも小澤の役割は終わることはない。

熱く世界や音楽を語ったりするよりも微視的な差異にこだわる私たちを、誠実な情熱でやりこめてくれる日本の頑固オヤジであり続けてほしい。  

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classicalmusic at 14:45コメント(0)小澤 征爾 

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著者阿部氏によれば、ドイツを中心とするヨーロッパでの人と人との、そして人と物との新しい関わり方は、集落が都市として発展し始める中世時代に端を発している。

農村地帯とは切り離されて城塞によって取り囲まれた都市は、それまでの人同士の関係を必然的に変化させていく。

最初に例を挙げているのが都市の最小単位になる住居で、その集合体である街は社会的共同体を形成するので当然安全で円滑な社会を維持するために新しい法律が必要になり、結果的に都市住民は既得権益維持のために余所者を排除しようとする差別も表面化してくる。

また貯蓄や分配が容易く、商業活動に圧倒的に有利な貨幣の価値がそれまでの物に代わって貨幣経済が成立するが、また一方で貧富の差を拡大させたことも理解できる。

阿部氏はユダヤ人への差別が決定的になったのは、ヨーロッパの人々が古いタイプの人と物との関係をまだ手放せないでいる時、彼らが逸早く貨幣価値を認識し蓄財に成功したことへの反発としている。

カトリック教会は喜捨や寄進を奨励し、死後の世界を保証するという元手のかからない莫大な富の貯蓄が可能になり、大聖堂の建築が始まる。

それは以前の奉仕に対する贈答という主従関係を根本的に変えることになるが、大規模な教会建築にはヨーロッパ中の高い建築技術を持った専門職人が必要になり、国境を超えた文化や芸術の伝播が始まるのも貨幣経済の優位があって可能になったようだ。

それだけに中世には職人の専門技術の向上と、その洗練が着実に進んでいた。

こうしたヨーロッパの大都市での人々の生活に、著者が現代社会の萌芽を見ているのは興味深いし、文化も技術も停滞して社会的な発展が途絶えた暗黒の中世では決してなかったことが理解できる。

むしろ現代の我々の人間関係の仕組みを良く知り、またそれを活かすためには、意外にも中世時代の価値観の変化を見極める必要があるだろう。

随所にイラストを掲載してイメージを助けてくれるので、中世の世界をバーチャルに体験できるが、そこには私達が抱いている中世に対する印象からは随分違ったものが見えてくる。

むしろ難解なのはこの時代に生きていた人々のスピリットをつぶさに理解することだろう。

それにはより深い読書が求められるし、勿論これ一冊では充分とは言えない。

幸い阿部氏の中世シリーズの作品集は次々と文庫本化され、具体的なテーマによって詳述されているので、中世に興味のある方はてはじめに本書を読まれることをお薦めしたい。

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classicalmusic at 12:56コメント(0)書物 

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最近のデジタル録音の鮮明かつ華麗な《第7》を聴きなれた耳には、この異様なまでにデッドでゴツゴツの演奏はショックかも知れない。

それはまるで、総天然色の新作映画を見慣れてしまった目に、戦時中の白黒のニュース映画が異様な印象を与えるのに似ている。

しかし、そのどんな色彩もかなわない強烈なリアリティは見るものを圧倒する。

このムラヴィンスキー&レニングラード・フィル盤は、そんな時代を封じ込めた歴史的1枚だ。

確かにショスタコーヴィチの交響曲は、デジタル時代になって鮮明かつ華麗な西側オーケストラの演奏が出てきてから、単なるロシア音楽の枠を越えて世界的な広がりを見せ始めた。

しかし、その国際的な普及の度合いと反比例するように「イデオロギー的」あるいは「政治的」な信念のような側面は薄められ、どうも純粋に音楽的にのみ捉え初めているような気がする。

でも、ショスタコーヴィチの音楽はまぎれもなく、「トンでもないこと」を信じていた時代の「トンでもない交響曲」なのである。

現代のようになれ合いの美音でまとめた優等生的な音楽にはない、八方破れでバランスを失したオーケストラが、デッドなホールでその信念と推進力だけを頼りに自分たちの時代の交響曲を力いっぱいゴリゴリ鳴らす。

そうやって自分たちの時代の音楽を作っていった時代があったのだ。

そんな凄絶な、まさに鳴り響く歴史としての音楽の記録がここにはある。

ムラヴィンスキーらしい、大仰な身振りとは無縁の直截的なアプローチだが、圧倒的な重量感が素晴らしい。

両端楽章の内から湧き上がる力感も凄いが、ことに第3楽章の深い慟哭が沁みる。

旧ソヴィエトの録音がアメリカのヴァンガードから発売された経緯はよく分からないが、旧ソヴィエトの音源が世に出るのは大歓迎だ。

できればスヴェトラーノフやロジェストヴェンスキー、ハイキンやイワーノフといった指揮者の名盤を復活させてほしい。

ウクライナに侵攻して今は世界中から厳しい視線を浴びるロシアだが、この交響曲に虚心に耳を傾け、かつては自らが被侵略国の苦難を味わったことを改めて思い出してもらいたいものだ。

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classicalmusic at 08:19コメント(0)ショスタコーヴィチムラヴィンスキー 

2022年05月18日


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和解と寛容の精神が謳われる中で、とにかく私自身を懐疑論に沈ませる迷著になってしまった。

恨み節のようだが、私が物心がついた時、両者ともそれぞれの分野で甚大な影響力を持つ世界的巨匠には違いなかった。

私が初めて小澤の音楽を聴いたのは、小学生の頃で、我が家に音の出るものと言えばテレビしかなかったので、その番組は消滅して久しいが、貴重な時間ではあった。

記憶に残っているのは《第9》で、高熱を出してステージにも上がれないくらいの体調だったことを後で知ることになるが、第1楽章と第2楽章は手塚幸紀さんが代役に立ち、小澤は後半の2つの楽章を指揮していた。

何と!食道癌という病に冒された現在も同じようなことを繰り返していて、一切指揮者として信頼をなくしていることをご本人は知る由がないのであろうか。

私の興味の対象が音楽よりも文学(村上主義者)や哲学(大学の専攻)のほうに移っていくにつれ、自然と小澤の音楽に接する機会も減っていった。

とにかく小澤はオペラとセッション録音が苦手で、意地の悪い者からすると実演の半分も伝わってこない。

生演奏に接して、小澤の音楽からは音楽に対する熱意は伝わってきても、それ以上のものは伝わってこなかった。

伝家の宝刀、サイトウ・メソッドを片手に日本の音楽家が西洋音楽の分野に充分に通用することを証明してみせただけでも、大変な業績だとは思う。

春樹さんはサイトウ・メソッドは、西洋音楽に内在するリズムを形にするための普遍的な技術を獲得するための方法論だったのだと解釈している。

なので、小澤のフランスものやストラヴィンスキーなどのロシアものは西洋人にも高い評価を得ているのだと認めている。

(閑話休題)

ところで、私には小澤の世界的な活躍と戦後日本の経済復興と失速の状況が重なって見えてしまう。

しかしその母胎である経済構造が、世界規模で考えた経済の発展を支えるには構造的な矛盾であることを村上氏の著作で露呈してしまっている今日、もはやジャパン・ドメスティックではどうにも乗り切っていけないのだ。

かつて世界を股にかけて飛び回っていたビジネスマン第一世代と小澤の姿が重なってしまう自分が悲しい。

つまり小澤が音楽に情熱を傾けるほどに、優秀なメイド・イン・ジャパンの方法論の弱さが露呈してしまうようなのだ。

「カラヤン先生」「レニー」と呼び、カラヤンにはカラヤンのやり方があり、バーンスタインがよい音楽家で、加えてよい人間でもあったらしいことを春樹さんは引き出している(ように思える)。

私が彼らをかわいそうに思うのは、音楽家を育てたかったため、下らない弟子を大勢作ってしまったことだ。

しかもそいつらが臆面もなく自分はカラヤン、バーンスタインの弟子だと得意気に吹聴し、師の栄光を汚して平然としていることだ。

本著で、小澤が師の知的な面を何も学ばなかったことが露呈しているようで、情けなくて仕方がない。

既に師が広めたレパートリーで、しかもベルリン・フィルの指揮台に登場する直前、師のショスタコ5のライヴ録音(オルフェオ)をなぞり、馬鹿みたいに大げさな身振りで陶酔している佐渡裕にはもう呆れ果てて言葉もない。

ゆえに既に指揮者が虚業と化し、演奏家の時代が終焉してしまった現在、カラヤン、バーンスタインを考えるときは、そうした愚かな弟子たちを極力無視し、あいつらは両巨匠の音楽を何も受け継いでいないことを肝に銘じなければならない。

そうでないと、彼らの多面性を見失ってしまい、単なるイケイケ指揮者だと誤解してしまうのだ。

その小澤の社会的存在について、本著においてすばらしい文章が載っているので、そちらをご覧いただきたい。

最後になるが、春樹さんは「スコアなんて簡単に読めるようになるよ」という小澤の勧誘を拒絶している。

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classicalmusic at 22:02コメント(0)小澤 征爾書物 

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映画はほとんどの方がご存じだろうが、この本(試し読み可能)は主人公マリアとフォン・トラップ・ファミリーの自叙伝に当たる。

前半はオーストリアを中心としたヨーロッパでの体験談とアメリカ亡命前夜までが記されている。

渡米以降の家族の生活については続編になるもう一冊に収められている。

谷口由美子氏の訳は常に平明で文面にマリアの敬虔だが、機知に富んだ明るく積極的な人柄が滲み出ている。

また専門用語については注釈が見開きごとに設けられ、読者が読んでいるページですぐに理解できるように工夫されているのも特徴だ。

ここでは修道院で慎ましく生涯を過ごすことに何の疑問も持っていなかったマリアが、トラップ男爵の7人の子供達の家庭教師から男爵夫人となり金融恐慌による破産、男爵の反ナチ思想からの苦悩と亡命に至る不穏な出来事が回想される。

そうした時期を通じて、彼らのささやかな楽しみだった趣味のファミリー・コーラスがヴァスナー神父と名歌手ロッテ・レーマンの協力を得た。

そして奇しくもザルツブルク音楽祭で優勝してからはプロの合唱団として全ヨーロッパでの演奏活動を始める事になる。

またオーストリアのクリスマスや復活祭、そして夏のバカンスなどの歳時記についても詳しく描写されていて、当時の彼らの生活を余すところなく伝えている。

最後の章で男爵は軍人としてドイツに貢献することを拒み、家族も全員一致でヒットラーの前で歌わない決意をする。

危険を冒してさえも自分達の尊厳を貫くことを選んだ固い意志が、その後の彼らの運命を方向付けることになったのだ。

後半では10人の子供達とアメリカでのゼロからの再出発と成功を勝ち得るまでの家族の奮闘がマリア特有のユーモアを交えて綴られている。

フォン・トラップ・ファミリーの前には氷山のような障害も少しずつ溶け去っていく。

激動の時代にあって、彼らは常に前向きに考え、行動した。

いやむしろ体当たり的に生きざるを得なかったというべきだろうか。

しかし稀にみる家族の結束と行動力によって降りかかる難関を次々に切り抜けていくストーリーには興味が尽きない。

家族合唱団を結成して以来、精神的にも、また経済的にも彼らを常に支えたものは彼ら自身のコーラスだった。

トラップ家の絆は音楽によって強く結ばれ、彼らの歌が多くの人々の心を惹きつけ、行動に移した。

アメリカの入国管理の検閲に引っかかり、難民抑留所に何日も軟禁状態になったり、客の入らない演奏会が続いて興行主に契約を打ち切られたり、波乱に満ちた日々の生活の中でも彼らは果敢に歌い続けた。

ここには映画に描かれた美しくロマンティックなエピソードだけではない、彼らの真実の人生が正直に記録されている。

終わりに近い『手紙』の章はそれまで決して弱音を吐かなかったマリアが、常に苦労を共にし励ましてくれた夫、ゲオルク・フォン・トラップ男爵の病に蝕まれていく姿に狼狽し、困惑する。

全編の中で唯一彼女の悲痛な心情が吐露され、彼の臨終に際しては女性らしい暖かで細やかな思いやりがひときわ美しい。

余談ながら次男ヴェルナーの4人の孫が現在でもザ・フォン・トラップ・チルドレンとしてモダンだが繊細で美しいコーラスを世界中で披露している。

曾祖母マリア以来のトラディションが見事に受け継がれているのだ。

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classicalmusic at 17:53コメント(0)書物芸術に寄す 
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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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