2022年05月

2022年05月18日


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《ミケランジェロの詩による組曲》は、ショスタコーヴィチの死の前年の傑作ながら、現役盤が少ない作品である。

この作品(以下『ミケランジェロ組曲』)は、そのミケランジェロの11の詩に、ショスタコーヴィチが、作曲した、男声独唱とオーケストラのための声楽組曲である。

ミケランジェロの詩11篇に付曲した音楽は、ショスタコの苦悩に満ちた心情を反映するかのように、暗く重い。

バスのポルスターが力強く艶のある声、テンションの高いオケ、壮絶な演奏だ。

この作品(『ミケランジェロ組曲』)は、ヴァイオリン協奏曲第1番や交響曲第14番と並ぶ、ショスタコーヴィチの最高傑作の一つである。

それにも関わらず、この作品が、交響曲第14番と同様、演奏会で取り上げられる事が極めて稀である。

まだネット配信が普及していない頃、CDも殆どないという時代に、筆者は本盤を持っているのにも関わらず、長らく謎のまま放置していた。

ルネサンス美術の巨匠、ミケランジェロは、同時に、優れた詩人でもあった。

あのシスティナ礼拝堂の『最後の審判』やダヴィデ像、ピエタ像の彫刻で有名なルネサンスの芸術家が書いた詩に付曲したものである。

芸術や愛、そして憤りなどを詩情豊かに綴ったダンテ風の詩なのだが、音楽は無駄がなく、切羽詰まった心情吐露を聴くごとく暗く重い(全11曲)。

この曲を聴くと、ミケランジェロの詩の深さと、それらの詩にショスタコーヴィチが抱いた深い共感に打たれずにはいられない。

中でも、「創造」(第8曲)、「死」(第10曲)、「不滅」(第11曲)の3曲の精神的深さは、殆ど形而上学的だ。

その最後の曲(「不滅」)の中で、死を迎えた詩人が、「だが、私は、生きている」と歌う一節には、何度聴いても感動を覚えずにはいられない。

この言葉は、死を間近に感じたショスタコーヴィチ自身の遺言だったのではないだろうか?

この作品に使れているミケランジェロの詩の選択には、ショスタコーヴィチのメッセージが込められている。

そこには、明らかに体制批判的なメッセージがあるようだが、そんな事は、大した事柄ではない。

筆者が打たれるのは、むしろ、こうしたショスタコーヴィチの死への思いである。

このディスクは、ミケランジェロの詩をドイツ語訳で歌うヴァージョンである。

それが、ドイツ語の深さ、美しさと相俟って、ショスタコーヴィチの音楽の素晴らしさを際立たせている事が、深く印象的である。

ショスタコーヴィチが託した晩年の心境を読み解いていくかのような感興を覚えさせる名盤であるが、繰り返し聴くのにはちょっとつらい歌曲だ。

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classicalmusic at 10:15コメント(0)ショスタコーヴィチ芸術に寄す 

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ショスタコーヴィチのオペラ《ムツェンスクのマクベス夫人》(1932年)は衝撃的な作品だ。

強姦、情事、殺人、死体遺棄、司祭や警官への揶揄、因人のシベリア送りまでが、ここまでリアルに作曲されたオペラは稀であろう。

当初、世界的に歓迎されたこの問題作が、ただ一人スターリンのお気に召されなかったことから、ショスタコーヴィチに危機が訪れたことは周知の事実。

以後、ショスタコーヴィチは常に命の危険を感じながら、本音を隠すような苦渋の創作活動を強いられることになる。

だが、このオペラには25歳の天才が未だ何の制約も受けず、創作の翼をどこまでも伸ばしてゆく、やりたい放題の素晴らしさがある。

映像では、マリス・ヤンソンス指揮による2006年ネーデルランド・オペラ公演が、作品の真髄に肉迫する凄演だ。

性描写や人の残虐性をギリギリの芸術性で描くクシェイ演出が冴えわたる。

カテリーナ役のウェストブロークの情念も艶めかしく、セルゲイを演ずるヴェントリスが、憎たらしいほどこの放蕩人役に嵌っている。

映画《カテリーナ・イズマイロヴァ(「マクベス夫人」の改訂版)》(ジャピロ監督)も一度は観たい。



オリジナルの《ムツェンスクのマクベス夫人》ではなく、改作された《カテリーナ・イズマイロヴァ》がDVDで視聴できる。

といっても上演の記録ではなく、1966年に制作されたソ連(当時)の映画だ。

カテリーナはヴィシネフスカヤが歌い、演技もしているが、ほかの役は歌手が歌い、演技しているのは俳優だ。

《カテリーナ》ではあるけれど、なにしろ映画なので、いろいろな省略はある。

当局への配慮から性的な描写が穏便に改訂された無念さはあるが、背景となるロシア豪商の有様、シベリアへの辛い道行き、カテリーナが身を投げる川の冷たさなど、実写でなければ体感できない面白さがある。

ショスタコーヴィチは原作《ムツェンスクのマクベス夫人》の性的などぎつい部分を改訂し、30年近く封印されたこのオペラ映画を再登場させた。

カテリーナ役のヴィシネフスカヤが名演を博し、シャピロ監督の演出の冴えと相俟って、見ごたえのある作品に仕上がっている。

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classicalmusic at 02:05コメント(0)ショスタコーヴィチヤンソンス 

2022年05月17日


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ザンデルリンクはムラヴィンスキーに師事するとともに、ショスタコーヴィチと親交があったこともあって、ショスタコーヴィチを得意としており、交響曲第15番については2度にわたってスタジオ録音している。

最初の録音が、本盤に収められたベルリン交響楽団との演奏(1978年)であり、2度目の録音が、クリーヴランド管弦楽団との演奏(1991年)である。

いずれ劣らぬ名演と言えるところであり、特に1991年の演奏については円熟の名演とも言えるが、筆者としては、より引き締まった演奏全体の造型美を味わうことが可能な本演奏の方をより上位に掲げたい。

ザンデルリンクはムラヴィンスキーが音楽監督時代のレニングラード・フィルの客演指揮者として研鑽を積んだ。

ムラヴィンスキーのような全軍水も漏らさぬ指揮官のこわもてのイメージはなく、精緻だがオーケストラの持ち味を生かした柔軟な音楽作りが冴えている。

強引と思われるような牽引や聴き手を疲弊させるようなこともない、豊かな音楽性を引き出すことにかけては第一級の腕を持っていた。

彼は旧ソヴィエト時代にショスタコーヴィチと個人的な交流を持っていたので、作曲家の良き理解者として作品に寄り添った解釈が聴きどころだ。

決してシニカルにならず、いたって真摯な表現力と緻密な統率から表現される繊細なサウンドはザンデルリンクならではのものだ。

本演奏も、さすがに、師匠であるムラヴィンスキーの演奏(1976年)ほどの深みや凄みには達していない。

それでもザンデルリンクによる彫りの深い表現が全体を支配するなど、外面だけを取り繕った薄味な演奏にはいささかも陥っていないと言えるところだ。

加えて、ドイツ人指揮者ならではの堅固な造型美や重厚な音色が演奏全体を支配しており、その意味では、ムラヴィンスキーによる名演の持つ峻厳さを若干緩和するとともに、ドイツ風の重厚さを付加させた演奏と言えるのかもしれない。

いずれにしても、本演奏は、ムラヴィンスキーなどのロシア系の指揮者以外の指揮者による演奏の中では、最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したい。

第1楽章はおもちゃ箱をひっくり返したような無邪気さが特徴だが、荘重なブラスのコラールで始まる第2楽章、十二音技法の第3楽章は音楽的統一性に首を傾げたくなる。

そして終楽章では再び他の作曲家の作品からの剽窃がオンパレードとなり、パッサカリアの古い技法も使われる。

ショスタコーヴィチはそれまでの総ての音楽技法を集大成したような交響曲に仕上げた。

結局彼は他人から何を言われようと、自分の書きたい音楽をこの交響曲に纏めたのではないだろうか。

それが奇しくも彼の最後の交響曲になったのは言うまでもない。

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classicalmusic at 20:47コメント(0)ショスタコーヴィチザンデルリンク 

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ドイツの名指揮者クルト・ザンデルリンクは晩年ヨーロッパの名門オーケストラだけでなく、中堅として支える地方の実力派の楽壇に頻繁に客演したが、シュトゥットガルト放送交響楽団とも質の高い演奏を遺してくれた。

そのひとつが1999年12月に行われた地元リーダーハレでのライヴで、演奏終了後の拍手や歓声の他は客席からのノイズは殆ど混入していない。

またブルックナーには不可欠なホールの潤沢な残響にも不足していない。

欲を言えばサウンドの立体感が欲しいところだが、レギュラー・フォーマットのCDでは限界があるのも事実だ。

残念ながら大手メーカーからはザンデルリンクにブルックナー交響曲全集の企画は持ち込まれなかった。

この第7番の他にはベルリン放送交響楽団、コンセルトヘボウ、BBCノーザン、ゲヴァントハウスそれぞれとの第3番とバイエルン放送交響楽団との第4番『ロマンティック』などがレパートリーとして挙げられる程度だ。

第3番、第4番と並んで彼の大曲をまとめ上げる力量と知的なアプローチが作品の重厚な構成感を聴かせるだけでなく、ここではまたライヴならではの白熱した雰囲気も伝わってくる。

全曲を通じて高揚感に溢れており、なかでも第2楽章ではザンデルリンクの持ち味とも言える美しい弦の響きが存分に発揮された、素晴らしい演奏が繰り広げられている。

この作品のハース版を使うところにもザンデルリンクの表面的な派手さを避ける意思が見えている。

特に第2楽章の後半でのクライマックスにシンバルやトライアングルが加わると、往々にしてあざとさが表出されてしまう。

ワーグナーの楽劇のような舞台作品であれば、時には効果的だが純粋な管弦楽曲には慎重でなければならない筈だ。

そうした管弦楽法を熟知している指揮者としてザンデルリンクは第一級の腕を示している。

またシュトゥットガルト放送交響楽団も彼の悠揚迫らぬテンポの中に、広いダイナミズムを巧みにコントロールして高度な合奏力で呼応している。

2012年に統廃合が行われた結果、現在では南西ドイツ放送交響楽団の名称で呼ばれているシュトゥットガルト放送交響楽団だが、確かにオーケストラとしての完成度から言えば彼らを上回る楽団は少なくないだろう。

しかしこのブルックナーではザンデルリンクの悠揚迫らざるテンポの中に、幅広いダイナミズムを巧みにコントロールした采配に呼応する、高度な合奏力を持ったオーケストラであることが証明されている。

むしろ超一流のオーケストラではそれほど顧みられない作曲家の朴訥とした作風を滲み出させているところも秀逸。

こうした表現に関してはドイツの地方オーケストラがかえってその実力を示しているのは皮肉だ。

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classicalmusic at 11:07コメント(0)ブルックナーザンデルリンク 

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デュリュフレのレクイエムは、3大レクイエム(モーツァルト、ヴェルディ、フォーレ)に次ぐ名作とされているにもかかわらず、録音の点数が多いとは必ずしも言い難い。

そのような中で、フォーレのレクイエムにおいて素晴らしい名演を成し遂げているミシェル・コルボが、同曲のスタジオ録音を行っているのは何と言う嬉しいことであろうか。

本盤におけるコルボによる演奏は、そのような期待をいささかも裏切ることがない素晴らしい名演に仕上がっている。

清澄な美しさを誇る同曲であるが、コルボの指揮は、これ以上は求め得ないような繊細な表現を駆使して、精緻に同曲を描き出している。

それでいて、繊細であるが故に薄味になるということはいささかもなく、どこをとってもコクがあり、加えて豊かな情感に満ち溢れるのが素晴らしい。

そして、各フレーズの端々から滲み出してくるフランス風のエスプリに満ち溢れた瀟洒な味わいには抗し難い魅力がある。

また、同曲は、フォーレのレクイエムと比較すると、時折ドラマティックな振幅も散見される。

そうした箇所においてもコルボはいささかも力づくの無機的な演奏には陥らず、常に懐の深い崇高さを失うことがないのが素晴らしい。

独唱陣も極めて豪華なキャスティングであると言えるだろう。

メゾ・ソプラノのテレサ・ベルガンサとバリトンのホセ・ファン・ダムという超豪華な布陣は、本演奏でもその名声に恥じない素晴らしい歌唱を披露していると評価したい。

コロンヌ管弦楽団と同合唱団も、コルボの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを発揮している。

いずれにしても、コルボによる本演奏こそは、同曲演奏の理想像の具現化である。

録音からかなりの年月が経っているにもかかわらず、現在でも同曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。

併録のグレゴリオ聖歌の主題による4つのモテットも、デュリュフレのレクイエムがグレゴリオ聖歌を使用していることを踏まえてのカップリングであると考えられるが、演奏も清澄な美しさを誇る素晴らしい名演に仕上がっている。

音質は、パリのトリニテ教会やノートルダム・デュ・リバン教会の豊かな残響を効果的に生かした鮮明なものであり、従来盤でも十分に満足できる高音質である。

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classicalmusic at 06:06コメント(0)現代音楽 

2022年05月16日


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2019年2月、難病の「多発性硬化症」と診断されたことを公表した天才ピアニスト、アリス=紗良・オット…。

『音楽家なので、同じ病で42歳で亡くなった天才チェロ奏者のジャクリーヌ・デュ・プレさん(1945〜87年)のことが頭に浮かびました。「動けなくなって、ピアノも弾けなくなるのか」と想像しました(公式ホームページより)』。

リストの超絶技巧練習曲集は、文字通り超絶的な技巧を要するとともに、ダイナミックレンジの広さやテンポの激しい変化など非常に振幅の激しい楽曲であり、弾きこなすためには卓越した技量はもちろんのこと、幅の広い豊かな表現力を要する難曲と言える。

このような難曲をデビュー曲に選んだだけでも、アリスのピアニストとしての底知れぬ才能とその器の大きさを感じざるを得ない。

第1曲や第2曲のたたみかけるような火の玉のような激しさはどうだろう。

打鍵も力強く、快速のテンポにいささかの弛緩もしない圧倒的な技量にも圧倒される。

第3曲の「風景」で、我々は漸く、アリスが女流ピア二ストであることを知ることになる。

ここの抒情は実に美しい。

有名な第4曲の「マゼッパ」は、堂々たる威厳に満ち溢れており、とても19歳のピアニストとは思えないスケールの雄大さだ。

第5曲の「鬼火」の軽快さも見事だし、第6曲の「幻影」や第8曲の「狩り」の重厚さも特筆すべきだ。

長大な第9曲の「回想」は、女流ピアニストならではの繊細な抒情が感動的だし、第11曲の「夕べの調べ」のまさに夕映えのような美しさや第12曲の「雪かき」の寂寥感の嵐にも大きく心を揺り動かされる。

ボーナストラックの「ラ・カンパネラ」も繊細さと重厚さのコントラストが見事な名演だ。

このように、アリスは、既に豊かな表現力を備えており、単なるテクニックだけのピアニストではない。

もしかしたら、我々は何十年に一人しか出てこない名ピアニストのデビュ−の時代に運良く居合わせているのかも知れないのだ。

例えば現役世代であればポリ−ニとか、故人ではリパッティとか、彼らに共通するのは、完璧なピアノ技巧と高い音楽性の両方を持ち合わせている点。

彼女もまさにこの2つ持ち合わせたピアニストであり、将来が楽しみな逸材と思っていたのも束の間に悲報が伝えられる。

「働きすぎないで」と涙ながらに祈念しつつ、今後のアリスの更なる成熟をあたたかく見守りたい。

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classicalmusic at 20:18コメント(0)リスト 

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プレヴィンはそのころ音楽監督のポストにあったロンドン交響楽団とのコンビで、チャイコフスキーの3大バレエ全曲盤を1970年代に吹き込んでいるが、これはその後、ロイヤル・フィルに転じて間もなく、57歳になる1986年に14年ぶりに再録音したもので、彼の代表的な名盤のひとつである。

古今の数ある《くるみ割り人形》全曲盤の中でも極めて高い定評を誇る著名なディスクで、指揮者としてのプレヴィンの美点が最も幸福な形で発揮された、スタンダードな名盤と言える内容を示している。

決してとりわけ優美であるとか、ファンタジー的であるという性格ではないけれど、個々のことが整然と把握されており、全体のバランスがよく、洗練されたスマートなプロポーションで、この曲の全貌を展望したような演奏と言えよう。

チャイコフスキーはオーケストレーションが巧いとされ、筆者はこの見解には全面的には賛同しないが、3大バレエの中で、さすが最晩年の作品であるだけに、《くるみ割り人形》こそはその定説を立証するもので、それは組曲よりも全曲を聴いたほうが納得できるはずである。

メルヘン的世界は、舞台上ばかりではなく、音楽とそこに展開されている多彩な音色、そして多様な性格を与えられた主題的素材などにも明確に生きている。

ことに木管楽器や特殊楽器のチャーミングな色彩感は、まさにメルヘンの世界を描くにふさわしい。

この作品が音楽だけによっても広く親しまれている根底には、そうしたことがあることは間違いないが、プレヴィンのこの演奏は、まさにそうしたこの作品の特質を、多様な面から明らかにしてくれるに違いない。

オーケストラに過重なテンションをかけず、柔らかな手つきでそうした夢と音色の世界を描いたプレヴィンは、語り口の巧さといい、音楽的な洗練度といい、文句なしの出来。

彼は、オーケストラのアンサンブルと音色的な表現力を最大限に生かしながら、巧妙な語り口でそれぞれの主題がもつ性格を明快にとらえて語りかけ、随所に現れる美しい旋律を、適切なテンポで心ゆくまで歌わせている。

全曲を通じて、シンフォニックなまとめで、アンサンブルや音色の推移、構成感や対照感を聴かせることを優先し、情緒面を色濃く出している。

色々な踊りを集めた第2幕では、各曲の性格を見事にとらえ、内容豊かに表現し、実に絢爛豪華な気分を盛り上げていて、オーケストラもよく鳴っている。

イージーリスニング的な、気楽なタッチに流れているわけでは決してないが、ムーディで柔らかくふくよかに繰り広げられる音楽には、理屈抜きに、誰の心をも引きつける明快な魅力が満ち溢れている。

バレエ的であるよりはコンサート的な発想に立脚した演奏であるが、その中庸を得た表現の聴きやすさがとにかく捨て難く、リズムが抜群に弾んでいるので、実に面白く聴くことができる。

もちろん、バレエとしての情景と舞曲の構成や、そのコントラストもよく引き出されているが、全体的にみれば、オーケストラルなレパートリーとしてのこの作品の魅力を、華やかに聴かせてくれる演奏と言える。

どの角度からみても、プレヴィンの力量のほどを物語るような安定した出来ばえを誇る内容で、誰にでも躊躇なくお薦めできる。

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classicalmusic at 07:57コメント(0)チャイコフスキープレヴィン 

2022年05月15日


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下巻は文庫本としての便宜的な配慮から分けられた部分なので、上巻の後半で始まったネオ・プラトニズムの観念について引き続き詳しい解説がされている。

フィレンツェ・メディチ家のサークル、プラトン・アカデミーでは、本来のプラトンの哲学とキリスト教神学の要素を一体化する必要から、その整合性への試みとして2人のアプロディーテ(ウェヌス)と2人のエロス(アモルあるいはクピド)を生み出すことになる。

つまり瞑想的な至高の愛と、より低次元の物質的な愛の具現で、ティツィアーノはこれを『聖愛と俗愛』で独自の解釈を示した。

パノフスキーはここに描かれた2人を「双子のウェヌス」の対立ではなく、知的な美と視覚的な美の調和と解いている。

現世的な欲望を捨て去った姿としての裸体表現はミケランジェロの作品でも常套的に使われているのは明らかだ。

少年時代にロレンツォ・マニフィコにその才能を見出されてから、メディチ家の一員としての待遇を受け、彼らと食住を共にしたミケランジェロであれば、彼が如何にネオ・プラトニズムの影響下に育ったか想像に難くない。

しかしプラトンの言うイデアの世界が不可視であるがゆえに、その想起にまた彼ほど限りなく近付こうと苦闘した人も稀だろう。

下巻の後半部分はミケランジェロの哲学とその作品についてパノフスキーの詳しい考察が開陳されている。

フィレンツェ聖ロレンツォ教会のメディチ家礼拝堂のイコノロジー的な解釈は彼の面目躍如たる部分で、ロレンツォとジュリアーノのためにミケランジェロが製作した4体の像『朝』『昼』『夕』『夜』がそれぞれ冥界を流れる四つの河、つまりアケロン、フレゲトン、ステュクス、コキュトスに一致し、更にそのひとつひとつが中世の四大元素、大気、火、土及び水を表し、それを「多血質、春」「胆汁質、夏」「憂鬱質、秋」「粘液質、冬」に該当させている。

そしてロレンツォの像を瞑想を表すサトゥルヌスに、ジュリアーノを行動を示すユピテルに見立てている。

そう考えるとこれはもはや2人の公爵の墓というより、ミケランジェロ自身の哲学堂のようなものでだ。

彼が同じような構想で創る筈だったローマのユリウス二世墓廟が再三の計画変更を余儀なくされ、彼の手で完成しなかったのは芸術的な損失だったというべきだろう。

最後にパノフスキーはこの著書を終えるに当たって「天才たちの象徴的な創造物というものは、遺憾ながら、二流の芸術家たちの寓意的な作品に比べその主題を釘付けにすることは難しい」と結んでる。

この言葉にはミケランジェロのような人物の作品から、その一種近付き難い高邁な精神を感じ取り、それを哲学的、あるいは芸術的に解釈することが決して容易でないという率直な気持ちが滲み出ている。

何故ならそれは理論というものを遥かに超えた、本人自身にしか理解することができないような独自の信仰があったからに違いない。

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classicalmusic at 14:35コメント(0)書物芸術に寄す 

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この録音は、若きアバドが『チェネレントラ』に続いてロッシーニの代表作に挑戦したこと、プライのフィガロ、それにロッシーニの想定どおりメゾ・ソプラノのベルガンサが歌っていることが評判になって、このオペラの定盤的存在として知られている。

アバドは評価の難しい指揮者である。

それは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後の停滞によるところが大きい。

偉大な指揮者の後任は誰でも苦労が多いが、カラヤンとは異なり、自分の個性や考え方を、退任に至るまでベルリン・フィルに徹底することが出来なかったことが大きい。

アバドは、分不相応の地位での心労が祟ったせいか、退任の少し前に大病を患ったが、大病の克服後は、彫りの深い凄みのある表現を垣間見せるようになったのだから、実に皮肉なものだ。

しかしながら、筆者は、アバドが最も輝いていたのは、ベルリン・フィルの芸術監督就任前のロンドン交響楽団時代ではないかと考えている。

特に、この時期に手掛けたイタリア・オぺラには、若さ故の生命力と、アバド得意のイタリア風の歌心溢れた名演が非常に多い。

そのような中にあって、この『セビリャの理髪師』は燦然と輝くアバドの傑作の1つとして評価してもいいのではないかと思われる。

ロッシーニのオペラは、後年のヴェルディやプッチーニのオペラなどに比べると、録音の点数も著しく少なく、同時代に生きたベートーヴェンが警戒をするほどの才能があった作曲家にしては、不当に評価が低いと言わざるを得ない。

そのようなロッシーニのオペラの魅力を、卓越した名演で世に知らしめることに成功したアバドの功績は大いに讃えざるを得ないだろう。

アバドはゼッダによる校訂版を用い、歯切れの良いリズムで全体を引き締まらせ、人間の肌のぬくもりを感じさせながら、そのオペラ・ブッファの本質を見事に再現している。

独唱陣も、ベルガンサ、プライなど一流の歌手陣を揃えており、ドイツっぽいと言われるものの、愛嬌のあるプライのフィガロは、今聴いても魅力的。

ベルガンサは、ロジーナそのもののようであるし、伯爵を演じるアルヴァの上手さは、芸術的レベルに達している。

パターネ盤も評価が高いが、ロッシーニらしいテンポ感と速度を堪能したい時はまさにこの盤が最高であり、同曲随一の名演の地位は、今後とも揺るぎそうにない。

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classicalmusic at 07:54コメント(0)アバドロッシーニ 

2022年05月14日


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本書では第一章で沖縄戦で少年ゲリラ兵として戦った、当時の少年兵達の証言がインタビュー形式で掲載されている。

現在高齢者となった彼等だが記憶は鮮明で、淡々と事実を語る正直な態度がかえってあの戦いの悲惨さを表現し得ている。

著者三上氏は、はじめに「軍隊が来れば必ず情報機関が入り込み、住民を巻き込んだ秘密戦が始まる」と書いている。

沖縄戦では陸軍中野学校出身の工作員が42人も配置され、沖縄住民は上陸してきた米軍との戦いではなく、味方である筈の日本軍によって多くがスパイ視され無実の罪で虐殺された。

住民達も自分の命を守るために軍に加担してしまうという悪循環も起きた。

著者は県民の四人に一人が亡くなった中で、戦死ではない死者の数が何故これほどまでに多いのかという問題を解かねばならなかった。

集団死に追い込まれた人々、作為的にマラリアに感染させられた人、日本軍によるスパイ嫌疑での虐殺などは、戦争が原因になる餓死や病死を除いても数千人に上る。

サイパン島玉砕に際して、陸軍中枢部では「住民には命令で死なせるわけにはいかないが、最後の一兵が尽きた時には自害してくれれば良い」という方針を固めていたようだ。

それが沖縄でも更に徹底した形で実現された。

沖縄の基地問題を訴える県民に「強い米軍に守って欲しいが県民が反対している」「中国に占領されないと彼らは目が覚めない」「自衛隊にまで反対していて我が儘すぎる」などのバッシングが全国から来るというが、沖縄は既に充分過ぎるほど身をもって体験してきたのだ。

三上氏は、命の犠牲と引き換えに得た教訓を無力化する片棒を担がないで欲しい、強い軍隊がいれば守ってもらえるという旗を掲げた泥舟に二度と再び乗り込まないために、と強く訴えている。

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classicalmusic at 19:11コメント(0)書物 

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卓越した音楽性と技巧で一世を風靡した20世紀最高のメゾソプラノ、テレサ・ベルガンサが13日、スペイン・マドリードで死去した(享年89)。

素晴らしい名演で、CD時代になって古い名盤の復刻がなされるようになる直前、LP末期には最高の名盤とされていたものである。

筆者としては、アバドが最も輝いていた時代はロンドン交響楽団時代ではないかと考えている。

特に、このロンドン交響楽団時代に録音されたいわゆるラテン系のオペラは、いずれ劣らぬ名演と高く評価したい。

そうした中で、本盤の『カルメン』も、こうした席に連なる資格を有する名演で、アバドが明快な指揮で等身大の『カルメン』を描いていく。

当時のアバド&ロンドン響は、構えが大きいアンサンブルとアバドの鋭い棒さばきによる、ある意味で刺激的な演奏が特徴であった。

このオペラではそうした印象は少なく、むしろ、オペラに通じたアバドが各幕、全曲の見通しを良くつけて、ストーリーを遮ることなく、コンパクトなアンサンブルで演奏をスムーズに運んでいる。

『カルメン』の名演には、カラヤン&ウィーン・フィルという超弩級の名演があるが、カラヤン盤は、4幕形式のグランドオペラ版を使用していることもあり、ウィーン・フィルを使用したことも相俟って、シンフォニックな重厚さを旨とするもの。

これに対して、アバド盤は、スペイン風ともフランス風とも言えないイタリア人アバドのラテン人としての血を感じさせるラテン系の情緒溢れるものであると言えよう。

アバドの解釈は音像が硬質で贅肉がなく、構成が協調されており、アンサンブルなども緻密であるが、いささかも杓子定規には陥らず、どこをとってもラテン系の音楽の情緒が満載である。

歌手陣も、カラヤン盤に優るとも劣らない豪華さであり、特に、カルメン役のベルガンサ、ドン・ホセ役のドミンゴは見事なはまり役である。

ベルガンサの、“魔性の女”というよりは、アクのないお嬢さん風の“コケット”でユニークなカルメン、ドミンゴの上手さが光るドン・ホセなどキャストが大変に魅力的だ。

また、エスカミーリョ役のミルンズも大健闘であり、ミカエラ役に可愛らしいコトルバスとは何という贅沢なことであろうか。

合唱陣も、少年合唱も含めて大変優秀であり、本名演に華を添える結果となっている点を見過ごしてはならない。

アナログ録音末期の録音で、今日のデジタル録音のように、ダイナミック・レンジも広くなく、音の分解能も高くないが、聴く分には何らの問題もなく、むしろ、アナログらしい優しい音作りとなっている。

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classicalmusic at 17:55コメント(0)ビゼーアバド 

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決定的な超名演の登場だ。

筆者がレビューを行うCDについては、一部を除いて、皆さんに是非とも聴いていただきたいという気持ちで記述しているが、本盤についてはその気持ちは百倍。

ラフマニノフの交響曲第2番を愛する者であれば、必聴の超名演盤であると考えるところだ。

スヴェトラーノフは同曲を十八番としており、これまで発売されているCDを録音年順に並べると、最初の交響曲全集の一環としてスタジオ録音されたソヴィエト国立交響楽団との演奏(1963年)、次いで、ソヴィエト国立交響楽団とのライヴ録音による演奏(1978年)、そして、2度目の交響曲全集の一環としてスタジオ録音されたロシア国立交響楽団との演奏(1995年)、晩年の来日時のNHK交響楽団とのライヴ録音による演奏(2000年)が存在しており、加えて、筆者は未聴でCDも所有していないが、ボリショイ劇場管弦楽団との演奏も存在しているとのことである。

要は、既に5種の録音が存在していたところであり、これらに、6種目の録音として本盤が加わったということになる。

筆者としては、これまで1995年盤と2000年盤がスヴェトラーノフによる同曲の双璧とも言うべき最高峰の超名演と考えてきたところであるが、本演奏は、それら両超名演に冠絶する名演で、超の前にいくつ超をつけても足りないほどの途轍もない決定的超名演と言っても過言ではあるまい。

第1楽章冒頭の低弦による幾分ソフトな開始からしてただならぬ雰囲気が漂う。

その後は、スヴェトラーノフならではの重厚かつ粘着質な音楽が構築されていく。

それにしても、これほどロシア悠久の広大な大地を思わせるようなスケール雄大で、なおかつ濃厚な味わいの演奏は他に類例を見ないと言えるのではないだろうか。

ロシア風のメランコリックな抒情に満ち溢れた魅力的な旋律の数々を、スヴェトラーノフはこれ以上は求め得ないほどの濃厚さで徹底して歌い抜いており、そのあまりの美しさには涙なしには聴けないほどだ。

ここぞという時のブラスセクションの咆哮やティンパニの轟きわたる雷鳴のような響かせ方は、人間業を超えた強靭な迫力を有している。

こうした演奏の特徴は、1995年盤や2000年盤においても顕著に聴かれたところであるが、本演奏には、それら両演奏には聴かれないような気迫や強靭な生命力が随所に漲っており、とりわけ終楽章の誰よりも快速のテンポによる畳み掛けていくような迫力満点の進行にはもはや戦慄を覚えるほど。

そして終結部の猛烈なアッチェレランドの壮絶なド迫力。

聴き終えた後の充足感は、筆舌には尽くし難いものであり、本盤にも記録されているが、演奏終了後の聴衆の大熱狂も当然のことであると思われるところだ。

いずれにしても、本演奏は、ラフマニノフの交響曲第2番を十八番としたスヴェトラーノフによる6種の演奏の中の最高峰の名演であり、そして、諸説はあると思うが、筆者としては、同曲の様々な指揮者による多種多彩な名演に冠絶する決定的な超名演と高く評価したいと考えている。

カップリングのバーンスタインの「キャンディード」序曲も、バーンスタインによる自作自演盤以上に濃厚な味わいを有した迫力満点の超名演だ。

音質は、基本的に良好で鮮明であるものの、トゥッティにおいて若干音割れがするのが残念ではあるが、本盤の価値を損ねるほどのものではないことを指摘しておきたい。

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classicalmusic at 08:59コメント(0)ラフマニノフスヴェトラーノフ 

2022年05月13日


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ルネサンスやマニエリズムの時代には教養人の間で当然のように理解されていた共通の見識があり、アーティスト達も言ってみれば暗黙の了解のもとにさまざまな技巧を凝らして作品に深みを与えた。

それはキリスト教世界にも共通することだが、またこの時期にはユダヤ教や多神教などの研究も盛んに行われたために、作品にも一通りでない複雑な要素が入り込む結果になった。

しかし美術鑑賞が一般化した現代では、そうした限られたサークルの外にいる人達にとって、あるいはその伝統を受け継がない別の社会に生活する者にとっては西洋美術鑑賞の視野を広げるための相応の学習が望まれる。

それがまさに絵解きを必要とする理由で、パノフスキーはこの著書で一般読者向けに説明しているが、後半にまとめられた原注だけでも89ページほどあり、ある程度の難解さは覚悟しなければならない。

それは作品の奥深さを知る上で、これまでとは全く異なった鑑賞の世界を開くための鍵になってくれるだろう。

上巻では序論に説明されている、男の首を持つ若い女性の絵画についての考察が興味深い。

通常こうした場面は、ヘロデ王にヨカナーンの首を要求したサロメか、アッシリアの将軍ホロフェルネスを討ち取った寡婦ユディトのどちらかだが、判断がつかない時は彼女の持ち物を観察することでその謎が解ける。

過去の類型を調べた著者の記述には「盆を持つユディトの類型はあったが、剣を持つサロメの類型はない...剣はユディトや多くの殉教者の、また正義や剛毅などの美徳の広く一般に認められた名誉ある持ち物であったから、剣が淫奔な女性(サロメ)に移されなかったのは当然」とある。

つまり登場人物の判定は剣がそこに描かれているか否かにかかっている。

第三章「時の翁」では、バロック期の墓廟にしばしば描かれた鎌を持つ骸骨が、ギリシャの農耕神クロノス(羅サトゥルヌス)に由来し、それ故に鎌を携えるが、それはまた父神ウラノスを去勢した道具でもあり、同じ発音の「時」と結合して時間の擬人化に繋がると説明されている。

それが往々にして砂時計や翼を伴っている理由だろう。

そしてそれは時の経過、つまり生きるものの宿命である死を意味する。

この章ではブロンヅィーノの『寓意』についての解説が白眉だ。あたかもイコノロジーの手本のようなこの作品は、観る者の裏の裏をかいた画家の老獪な趣向が凝らされていて、多くの美術書が格好のサンプルとして採り上げているが、パノフスキーの解釈は決定的で、オリジナリティーに富んだ強い説得力がある。

第四章の「盲目のクピド」も知的興味をそそられる章だ。古代には小さな翼を持った愛らしい幼児として表された愛の神が、愛が人を盲目にするという意味合いから、中世時代には目隠しをしたクピドが登場する。

やがて目を覆ったクピドが俗性の愛、そうでないクピドが聖なる愛を象徴するという分岐の過程もそれぞれの時代の哲学を反映している。

最後にクラナハのプラトンの著書の上に立つ『自ら目隠しを取るクピド』がプラトニック・ラブを絵画化した顕著な例として紹介し、このテーマは更に下巻に続いていく。

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classicalmusic at 20:17コメント(0)書物芸術に寄す 

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フルトヴェングラーは、生前ドイツ・ブルックナー協会の会長を務めていた、いわば、ブルックナーの専門家であったが、そうした面目が、この集成の全面ににじみ出ている。

作品と指揮者が運命の糸で結ばれている、そんな磁力にも似た求心力を背景にうねるような起伏をもって再現された名演、熱演。

フルトヴェングラーのブルックナーは、情熱的で気迫に満ちた音楽を聴かせ、アゴーギクとデュナーミクを巧みに融合させた効果は、まさに名人芸と言わねばなるまい。

フルトヴェングラーは、内面的な燃焼度の高い、雄渾な演奏で、その強烈な個性には圧倒されてしまう。

個性的でスケールの大きい表現だが、あまりにロマン的で、ブルックナーの素朴さよりもフルトヴェングラーの音楽を聴く感が強い。

それでもこの指揮者の芸術的ルーツが、ブルックナーと同じところにあることを理解できる自然体の表現であり、そこに演奏の魅力もあるのである。

フルトヴェングラーの解釈は作品との強い一体感をベースとしたもので、それはバーンスタインがマーラー演奏に見せた陶酔感すら覚えさせるものがある。

とりわけ大戦中に演奏されたフルトヴェングラーのブルックナーには例えようもない気品と影の暗さがあり、それが感動のテンションをさらに高める。

そうした美質を引っさげてフルトヴェングラーはブルックナーの核心部分へと果敢かつ勇猛に足を踏み入れていきながら、聴き手を抗し難い興奮へと巻き込み、陶酔的感動に浸らせてしまう。

精神的な高さと深さで、これを凌駕するような演奏は他になく、聴いたあとに深い感動の残る秀演である。

ブルックナーの音楽の雄大さ、フルトヴェングラーの表現力の息の長さ(オーケストラの器の大きさも加えるべきなのかもしれない)に、誰もが圧倒されてしまうことであろう。

われわれの日常生活で用いられている単位では、とても手に負えないような雄大さであり、息の長さである。

こうした芸術活動だけに許されるような次元に接する機会が、最近はとみに少なくなってしまった。

また、フルトヴェングラーは、なにを指揮しても決して急ぎすぎることがなかった。

悠揚迫らぬそのテンポは、まずは聴き手を落ち着かせるのに力を発揮したばかりでなく、さらに進んで揺るぎない信頼を勝ちとった、と言って良いだろう。

これぞフルトヴェングラー人気の根源のひとつ、という気がする。

そうした独特のグランド・デザインによりながらも、ブルックナーの楽想を生かし、音楽を生かすため、フルトヴェングラーはテンポを細かく動かし、表情に変化を与え、クレッシェンドを活用して強い緊張感を生み出している。

そして表出されたブルックナーの深奥から湧き起こる音楽的情熱と、深々とした祈り、見事だ。

旋律のみずみずしいしなやかさ、地の底から噴きあげるようなブラスの和声の充実感、作為なく、ブルックナーの音楽そのものを感じさせる造型、あらゆる点で、もう二度と現れまいと思われるような演奏だ。

まさにフルトヴェングラーの凄さに圧倒されてしまう巨人の足音である。

尚録音データは以下の通り。

◆第4番『ロマンティック』(VPO、1951年10月22日、シュトゥットガルト)
◆第5番(BPO、1942年10月28日、ベルリン・ベルンブルガ・フィルハーモニー) 
◆第6番(第1楽章欠落、BPO、1943年11月)
◆第7番(BPO、1951年4月23日、カイロ)
◆第8番(VPO、1944年10月17日、ウィーン、ムジークフェラインザール)
◆第9番(BPO、1944年10月7日、ベルリン)

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classicalmusic at 10:01コメント(0)ブルックナーフルトヴェングラー 

2022年05月12日


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ハインツ・レーグナーが1982年から83年にかけてベルリン放送交響楽団を指揮したベートーヴェンの序曲全集。

西側のオーケストラのように垢抜けたスマートな演奏スタイルとサウンドではないが、堅実な音楽構成と頑固とも言えるテンポ設定によって鳴り響くパワフルな音響は、質実剛健なドイツの伝統的なベートーヴェンを堪能させてくれる。

東西ドイツ再統合の後はオーケストラも年々グローバル化が進んで、団員のレベルは向上しているがそれぞれのオーケストラが持っていた独自の音色が失われつつあるのもまた事実だろう。

ほぼ同時代にアバドがウィーン・フィルを振った序曲全集を聴くと、その開放的で流麗なベートーヴェンに驚かされる。しかしレーグナーにはある種の朴訥さとシンプルな力強さが感じられる。

ベートーヴェンは生涯にたった一曲のオペラしか作曲しなかったが、改作や異なった劇場での初演のために都合4曲の序曲を用意した。

またその他の劇場作品のための付随音楽や、特別の機会に演奏する序曲などを合わせると11曲になり、そのすべてがこの2枚のディスクに収録されている。

録音会場のベルリン放送局SRKホールの残響がいくらか過剰な感じがするが、これはオリジナル・マスターに由来するものだろう。

ただし音質は良好で、左右へのワイドな音場が感知され臨場感にも不足していない。

10ページほどのライナー・ノーツにそれぞれの曲についての簡易な日本語解説付。

ところで筆者はレーグナーが読売日本交響楽団を指揮してベートーヴェンの「第9」の実演に接したことがあるが、彼のスタイルは、このCDとは異なり、大いに戸惑った覚えがある。

彼は「第9」を振りながら少しも力まず、最強音は中強音、弱音は最弱音というように音量を抑え、きれいな音色で、さながらモーツァルトのようなベートーヴェンを描き出してみせたのである。

しかも、ユニークなのは全曲にいくつかの山があり、そのクライマックスでは余力を十二分に残した指揮者とオーケストラが、肌に粟粒を生じさせるほどの凄絶なフォルティッシモを轟かせたことである。

レーグナーのオーケストラに対する統率力には抜群のものがあり、読売日本交響楽団がいかにしなやかで緻密な音色とアンサンブルを獲得したのは周知の通りだ。

やがて彼は、乞われて同楽団の常任指揮者となり、やっとその芸風の全貌が示されるようになった。

すなわち、彼は前述の「第9」にみられるように、スケールの小さい、短距離のフレージングを持った、軽やかな音楽を奏でる人で、舞台姿や指揮ぶりもそのことを如実に物語っていたのである。

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classicalmusic at 10:02コメント(0)ベートーヴェン 

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ザンデルリンクはこの作品を構成している限りないほどの音楽的あるいは心理的な動機を整然と纏め上げて、ショスタコーヴィチ自身の言葉から発せられていないメッセージを伝えようとしているように思われる。

彼は自分の作品がジダーノフ批判に曝されたことも影響して、芸術を語る時にも当局の監視を常に意識していた筈だ。

第1楽章の後半にみせるドラマティックなサウンドと終楽章の静謐だが不気味な余韻を残す終焉に、作曲者の抑圧された心情が隠されているようにも感じられる。

第4楽章パッサカリアでのヴァリエーションの連なりには音量的なクライマックスがなく深遠に渦巻くような情念が、最後のフルートのフラッタリングまで緊張感を持続させている。

この作品でもショスタコーヴィチはソナタ形式を始めとしてスケルツォ、パッサカリアやフーガなどの伝統的な手法を執拗に繰り返して、交響曲に対する彼の作曲上のコンセプトを明確にしている。

彼がマーラー以降の交響曲作家たる存在感を示す面目躍如の作品に仕上げているが、ザンデルリンクの演奏は至って真摯でスコアの本質を読み取った解釈と言えるのではないだろうか。

ベルリン交響楽団の精緻だが派手になり過ぎない音響もこの曲に相応しい。

録音会場に使用されたベルリンのイエス・キリスト教会はカラヤン、ベルリン・フィルが使った同名の教会ではなく、当時の東ドイツ側に属していて、現在ではエヴァンゲリスト教会と改名されている。

内部はドレスデンのルカ教会に比較するとやや小振りでシンプルだが、ゴシック様式の高い天井と頑健な壁面が影響していると思われるしっかりした明瞭なサウンドが得られ、ショスタコーヴィチの精緻なオーケストレーションを再現するには理想的な会場だったことが想像される。

1976年の収録だが非常に鮮明であることに加えて、UHQCD化による透明度の高い音質で、ドイツ・シャルプラッテンの原音の特徴が良く表れている。

この頃の彼らのアナログ音源が西側に匹敵する音質を誇っていたことも納得できる1枚だ。

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classicalmusic at 01:56コメント(0)ショスタコーヴィチザンデルリンク 

2022年05月11日


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バッハの殉教者フリッツ・レーマンはバッハ音楽録音史に燦然と輝く快挙を成し遂げている。

《マタイ受難曲》のカットなしの史上初の完全録音盤は、レーマン、ベルリン放送交響楽団&合唱団、そして、結果的にこのレコーディングがデビュー作となった当時23歳のディートリヒ・フィッシャー=ディースカウがイエス役を務めた1949年4月のライヴ盤なのである。

あたかも指揮者レーマンのスピリットが演奏者全員に乗り移ったかのような気迫に満ちた、バッハの最高傑作の名に恥じない《マタイ受難曲》だ。

この曲をより器用に、それらしく表現した演奏は他にも存在するが、キリスト受難のエピソードを単なる絵空事に終わらせず、のっぴきならない生きたドラマとして描き出した例は非常に少ない。

レーマンのバッハ、特に《マタイ》はバネのきいたリズムを特徴としている。

ともすると、懶惰に陥りがちなわたしたちを励起させるリズムだが、決して押し付けがましくはない。

どうしても、そのリズムの勢いに突き動かされ、ついて行きたいと思わずにはいられぬ躍動感に満ちている。

そして、それはあるひとつの目標に向かって、ともに心を合わせて前進してゆくときの一体感を掻き立ててくる。

この目標は、神との出会いを目指しているのは言うまでもなく、神の存在をフィジカルに体得するリズムとでも言おうか。

その時、わたしたちは人間が霊的な存在だと知り、この霊的なリズムに乗ると、誰もが超越的な空気に触れ、物質的な欲望がいかに卑小で、ともに同胞であることが、すべてに優るよろこびだとわかる。

それが神とともにあるという意味だが、その意味が今日忘れられている。

というよりもすでに経済の高度成長期の1970年代に、わたしたちはレーマンが望んだのとは別の生き方に引かれはじめた。

株価の変動に一喜一憂し、金勘定に忙しいわたしたちは、レーマンの《マタイ》にもう一度立ち返って、心を問い直す必要があるのではないか。

ソリスト陣にも作品の核心を突くことのできる歌手たちを起用しているのも聴き所だ。

たとえばエヴァンゲリストを演じるヘルムート・クレプスの迫真の絶唱はこの受難を書き記したマタイ自身が直接この物語の中に入り込んで、聴き手に切々と訴えかけてくるような説得力がある。

コーラスにおいても洗練された和声的な美しさよりも、むしろ劇的な感情の表出と状況描写に最重点が置かれているのも特徴的だ。

レーマンのバッハはオリジナル楽器や当時の歌唱法を用いたいわゆる古楽としての再現ではない。

あらゆる様式を超越してしかも作品の本質に触れることのできる稀に見る演奏として高く評価したい。

1956年3月30日、聖金曜日、レーマンはミュンヘンで《マタイ受難曲》公演の第一部を終え、楽屋で休憩中に急逝した。

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classicalmusic at 14:41コメント(0)バッハリヒター 

2022年05月10日


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安富氏の満州国への研究が、誰にでも理解できるように平易に述べられている。

満州国は今日の日本の姿を映す鏡のような存在だった。

彼は本書の中で日本人全般の特徴として、原則よりも既成事実に弱いと書いている。

つまり起きてしまったことを云々するよりも、それを受け入れて何とか上手く処理しようとすることが賢明だと考える。

満州国の成立は関東軍の既成事実を当時の日本軍、政府、メディア、国民が何らの疑問を差し挟むことなく容認した結果の産物であることは確かだろう。

そこに精神論が加わると現実から全く乖離した社会を生み出す。

総力戦とは軍事、経済、政治、資源、技術などのリソースが尽きるまで戦うことで、総力を挙げて頑張ることとは違うことを未だに理解していないとも言っている。

これは現在のコロナ禍への取り組みにも一脈通じている。

かつての日本が、天皇が国民を護ってくれる国ではなく、国民がひたすら天皇を護る国だったという論理も納得がいく。

そしてそれぞれが自分の立場を死守することで正当化されることの連鎖の結果、暴走が起き、日本を敗戦に追いやりアメリカの植民地になった。

満州国は傀儡政権で、実質植民地だったのだが、著者の言う植民地根性は確かに現在でも連綿と受け継がれている。

アメリカにすり寄り、こちらから貢物を携えて諂う姿は見苦しいものがある。

安倍元首相が日本を取り戻すために押しつけ憲法を変えよう、自衛隊を外国へ派遣しよう、という発言にも明快に反論している。

根本的な問題は日本人の魂が植民地化されていることから脱することによって、初めて日本を取り戻すことができるという指摘には説得力がある。

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classicalmusic at 11:14コメント(0)書物 

2022年05月08日


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ステンハンマルは、シベリウスやニールセンとほぼ同時代に活躍したスウェーデンの大作曲家であるが、その認知度はシベリウスやニールセンと比較するとあまりにも低いと言わざるを得ない。

交響曲第2番やセレナード、そしてカンタータ「歌」など、シベリウスやニールセンの数々の名作に劣らないような偉大な傑作を作曲していることを考えると、現在において知る人ぞ知る存在に甘んじているのはあまりにも不当であると言わざるを得ない。

50歳代という比較的若く鬼籍に入ってしまったことから、例えば、交響曲については第3番を完成させることがなく2曲にとどまっているなど不運な面もある(シベリウスはクレルヴォ交響曲を含めて8曲、ニールセンは6曲)とは言えるが、それにしてはもう少しその作品が一般に知られてもいいのではないかと考えられるところだ。

もっとも、ステンハンマルには、シベリウスやニールセンをはるかに凌駕するジャンルが存在する。

それは、本盤に収められた弦楽四重奏曲であり、数の上においても(シベリウスは4曲(うち3曲は若き日の習作の域を出ない)、ニールセンは4曲)、そして質においても(とりわけ第5番及び第6番)、北欧の音楽界においてもその存在感には極めて大きいものがあるのではないかと考えられるところだ。

ところが、録音の点数はこれまたあまりにも少ないと言わざるを得ない。

そのような中でオスロ弦楽四重奏団による、第3番〜第6番を収めた弦楽四重奏曲集が録音されたのは何と言う素晴らしいことであろうか。

初期の第1番及び第2番が録音されていないのは残念なことではあるが、ステンハンマルの個性が発揮されたのは第3番以降の諸曲であり、収録曲においては申し分がないと言えるのではないだろうか。

演奏も、カプリスレーベルによる前述の演奏と遜色はなく、むしろ同一の弦楽四重奏団による演奏で一貫していることもあり、本演奏こそがステンハンマルの弦楽四重奏曲の現時点での決定盤とも言うべき素晴らしい名演と言っても過言ではあるまい。

そして、音質も、各奏者の弓使いまでが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、まさに現在望み得る最高の音質が本名演の価値をより一層高めていることを忘れてはならない。

いずれにしても、本弦楽四重奏曲集は、知る人ぞ知る存在に甘んじているステンハンマルの魅力を世に知らしめるためにも恰好の名演集であるとともに、演奏の質、そして高音質録音という必要な要素を兼ね備えた至高の名演集と高く評価したい。

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classicalmusic at 11:06コメント(0)現代音楽 

2022年05月07日


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全体的に著者多田氏のイタリアでの豊富な体験が、彼の純粋な思い入れを込めて美しく叙述されていて、紀行文としては情緒に溢れた優れた作品だが、美術鑑賞のためのイタリア観光ガイド・ブックとしては、いくらかマニアックな美術作品や建築物が選ばれている。

免疫学者の目から見た西欧、イタリアをこよなく愛する著者が、科学精神・合理主義と裏腹にある影の部分に、イタリア美術を通して迫っている。

彼はそれぞれの芸術作品の観念的な印象に重きをおいて書いているので、勿論相応の下準備と知識の上で述べているには違いないが、作品の詳しいデータや分析、そして使われているテクニックなどは他書に譲らざるを得ないだろう。

いずれにしても学者が門外漢を自称して、驚くほどロマンティックな感性で捉えたイタリアの美術紀行は、それだけで微笑ましいものがあり、本来科学者たる者は、彼くらい悠々自適に専門分野以外の道にも親しんで欲しいものだと思う。

著者はイタリア語の地名、人名の表記についてかなりアバウトな発音で記しているので、実際にツーリストが目的地や美術作品を探す時、多少注意する必要がある。

本来であれば校訂の際に総てイタリア語読みに統一すべきものだろうが、気軽に読めるエッセイ集としての性格からか、特に注意が払われなかったのかも知れない。

勿論ディレッタントを自覚しての著作なので、その辺は大目に見ることができよう。

しかしローマ法王の名称はラテン語読みかイタリア語読みのどちらか一方に統一すべきだろう。

例えば44ページではアレッサンドロ六世とイタリア語を使っているが、106ページではインノチェント八世と書いている。これはインノケンティウス(羅)あるいはインノチェンツォ(伊)である筈だ。

また116ページのウルバン八世もウルバヌスかウルバーノに統一すべきだ。尚地名のフィエゾーレ、サルジニアはイタリアではフィエーゾレ、サルデンニャのように発音される。

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classicalmusic at 11:04コメント(0)書物 

2022年05月06日


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第二次世界大戦終結後、ドイツの首都だったベルリンはアメリカ合衆国・イギリス・フランス、そしてソ連の戦勝四カ国が分割して統治することとなった。

そこでは、ナチス時代に押さえつけられていた反動もあり、一気に活発な文化活動が展開されることとなるのだが、それには占領側の理解と協力も不可欠だった。

意外なことにというべきか、四カ国の統治地域の中で最も活発な文化活動を行うことが出来たのは、断然、ソ連占領地域だったという。

占領統治を行うソ連軍の高位軍人の中に、文化芸術を愛好する者がかなりの数いたらしい。

そんな彼らにとって、ベルリンの地で「世界最高のオーケストラ」ベルリン・フィルの演奏を楽しむことが出来るというのは、降って湧いた僥倖であったことだろう。

この時、困難な時代ながらもベルリン・フィルはルーマニア生まれの若き指揮者セルジウ・チェリビダッケのもと、活発な演奏活動を繰り広げていた。

ベルリン・フィルの十八番とも言えるベートーヴェンの交響曲のパート譜さえ事欠く有様だったが、チェリビダッケは占領軍の協力も取り付け、猛烈な勢いでベルリン・フィルの再生に取り組んでいた。

チェリビダッケがこの時期にベルリン・フィルのシェフになったのは半ば偶然のようなもので、ベルリン・フィルとしては東欧から来たよくわからない若者に自らの運命を託すことになったのだが、このルーマニアから来た指揮者は、凄まじい才能と熱意を持っていた。

チェリビダッケとベルリン・フィルの演奏は、乾いたベルリンの人々の心の糧となり、人々はベルリン・フィルのコンサートに押し寄せた。

そんな中、チェリビダッケとベルリン・フィルはショスタコーヴィチの《レニングラード》を演奏することとなった。特別演奏会で、客席にはソ連軍人の姿もあった。

この演奏会の詳細を調べ切ることは出来なかったのだが、譜面入手のことも考えると、恐らくソ連の主導のもとに開催される演奏会だったのだろう。

ソ連に攻め込んだドイツ軍が包囲したレニングラードの街に捧げられたこの交響曲が、ソ連に占領されたベルリンで、「総統のオーケストラ」ベルリン・フィルによって演奏されるとは!

演奏会が開催されたのは1946年12月21日、前述したようにチケットは売り切れ、満員の聴衆を前にしての演奏会だった。

演奏終了後、盛大な拍手で演奏会場は包まれ大成功だった。

演奏終了後、ソ連軍高官が舞台に立ち、簡単な感謝の言葉を述べた。

しかし、チェリビダッケにとって、真の栄光の瞬間はこの次に訪れた。

聴衆の中から、背の高い一人の男が歩み寄り、チェリビダッケに握手を求めたのだった。

その男の名は、ウィルヘルム・フルトヴェングラー。

ドイツ・オーストリアで最も高い人気を持ち、その演奏はドイツ音楽の権化・ドイツ音楽の精髄と称されるほどの伝説的指揮者だった。

第二次世界大戦中も指揮台に立ち続けたフルトヴェングラーは、この時期、ナチスとの関係を疑われ占領国による裁判の途中にあり、音楽活動を禁じられていた。

ベルリンの人々は、フルトヴェングラーがベルリン・フィルに戻ってくることを心待ちにしていた。

その不在を埋める指揮者としてのチェリビダッケである。

しかし、フルトヴェングラーの帰還を待っていたのはチェリビダッケも同じだった。

チェリビダッケにとって、フルトヴェングラーは崇拝の対象ですらあった。

彼が帰ってくるまで、ベルリン・フィルを持ち堪えさせる。

その気持ちでチェリビダッケはタクトをとっていて、そのフルトヴェングラーが、演奏終了後、握手を求めてきたのである。

チェリビダッケは全ての苦労が報われたと思っただろう。

今回、改めて聴いてみたのだが、上手く、確かに良い演奏で、隠れた名盤と言っても良い。

特筆すべきは弱音部の繊細さと美しさ、貧弱な録音からでも、その音楽の異様なまでの美しさは伝わってくる。

これは確かに、後になって聴くことが出来るチェリビダッケの音楽に他ならず、既に、チェリビダッケはチェリビダッケだったのだ。

この時期のチェリビダッケとベルリン・フィルは、ナチス時代に禁じられた音楽を猛烈に演奏していた。

まずはなんといっても、ドイツ音楽の大本流ながらユダヤ系ということで演奏が禁じられたメンデルスゾーンの復権は、何にも増して一番に取り組まなければならないことだった。

これに加えベートーヴェンやブラームスの演奏は当然のこととして、その他にも、ナチス時代に「退廃音楽」とされたり敵国の作曲家だったりして演奏されなかった作曲家の作品。

ヒンデミット、バルトーク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ブリテン、そしてショスタコーヴィチ、その中での《レニングラード》である。

ベルリンの人々にとって、特にその作曲の経緯が引っかかるということもなかったようである。

何よりも、まず、素晴らしい音楽を楽しめること、それが第一だった。

そして占領地ベルリンの人々は、《レニングラード》に盛大な拍手を送ったのだった。

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classicalmusic at 20:56コメント(0)ショスタコーヴィチチェリビダッケ 

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1974年、バイロイト音楽祭に於ける、カルロス・クライバー指揮の《トリスタンとイゾルデ》上演の貴重な記録。

バイロイトは1962年からのヴィーラント・ワーグナー演出、カール・ベーム指揮による《トリスタン》が1970年に終了した後、次の《トリスタン》を準備する時期になっていた。

バイロイトの新しい《トリスタン》にふさわしい指揮者といえば、カラヤンではあったのだが、カラヤンは既にザルツブルクで復活祭音楽祭を始めていた。

これに対抗できる当時の指揮者といえば、たったひとり、バーンスタインだったのだが、条件が折り合わず、他の指揮者を探すことになったという。

結果、バイロイトが選んだのが、一部では人気が出ていたが、まだ世界的な名声とは無縁で、この時44歳、いま思えば若い指揮者だったクライバーであった。

新しい《トリスタン》の演出はアウグスト・エヴァーディングで、当時から立派な性格と卓越した話術と抜群の政治力と凡庸な演出力で知られ、めざましい舞台も期待できないと思われたが、事実その通りになった。

イゾルデはカタリーナ・リゲンツァで、これ以外はあり得ないという選択だ。

ニルソンのような輝かしい声や切れ味で勝負するソプラノとは違い、繊細な声と表現力とで、女性的な性格の濃いイゾルデを歌う。

この人としても最高の出来だったのだろう、情熱と優しさが一体となったイゾルデが現れた。

でも問題がトリスタンであった。この頃ワーグナー・テノールは全滅状態で、トリスタンやジークフリートを歌う歌手はいたが、歌える歌手はいなかった。

ヴォルフガング・ヴィントガッセンの時代はもう終わり、ルネ・コロとペーター・ホフマンの時代はまだ始まっていなかった。

結局ヘルゲ・ブリリオートが歌ったが、悲しい人選というほかなく、よく探して、コロに歌わせればよかったのに、と思うのは、後になってから生まれる感想だ。

カラヤンの《神々の黄昏》でジークフリートを歌い、全曲盤で聴けるが、これが精いっぱいだったのか表情はかなしそうで、「かなしみのトリスタン」には合っているとも考えられるのだが、声がかなしいのは困る。

しかし、トリスタンが弱くてもなお、クライバーの《トリスタン》は凄かった。

悲しみの底に沈んでゆくような精緻な美が後のセッションの全曲盤の本領であるのに対し、バイロイトのは激しい情念が渦巻くような演奏だ。

前奏曲から、かろうじて抑制しているが、その抑制が限界に達しているのが感じられる。いつ奔り出てもおかしくない。

異様な緊迫感で始まった演奏は、2人が愛の薬を飲んで、ついに抑制された感情は堰を切ってしまう。その後は手を握りしめ、衝撃に耐えるほかなくなる。

クライバーの激しくも悩ましい指揮の素晴らしさは圧倒的で、この楽劇からかび臭さを剥ぎ取った。

それは実に若々しく、また初々しい感情表現に溢れた表現であり、この楽劇の演奏史を塗り替えたと言ってもよいであろう。

クライバーの指揮で聴いているとトリスタンとイゾルデは本当に若い。

若者の恋愛劇に聴こえてくるし、2人は媚薬など飲まなくとも、絶対に求め合い、結ばれたはずだとの確信すら持つようになってしまう。

それほどクライバーの演奏に充満している感情は激しく、血は濃く、生命の鼓動が渦巻いている。

当然のことに演奏全体に勢いと推進力があり、ドラマは前へ前へと展開、いささかも漫然とすることがない。

しかもワーグナーの本場バイロイトのオーケストラの美質を最大限に生かしたサウンドの素晴らしさも格別であり、聴き手は馥郁たる美音の饗宴に、ドラマとはもう一つ別の陶酔的興奮すら覚えてしまうほどである。

若きクライバーは音楽を瞬時も停滞させることなく、ぐいぐいと引っ張っていくエネルギッシュな演奏は、ワーグナーのヴェズリモを聴くかのようである。

この革新性は誰にも真似のできない世界であった。

バイロイト音楽祭にデビューした当時のクライバーはカリスマではなかった。なったのはこの夏だったのだ。

クライバーの《トリスタン》は、確かに圧倒的だった。

だが原理は過去のものだったのではないだろうか。溢れる官能、愛と死の勝利。ワーグナーが夢見たワーグナーというべきか。

クライバーの強烈な個性は、失われつつある過去の美を呼び起こす。ロマン派の美学は蘇り、現代の美を圧倒してしまう。

クライバーの驚くべき高みに達した《トリスタン》上演は、74・75・76年の3回続き、その間にクライバーは神話的な指揮者になっていた。

《トリスタンとイゾルデ》が、時の美を映すだけの演奏を獲得できる作品で、その最高の例が1970年代半ばの名演に現れたのは確かだ。

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classicalmusic at 05:02コメント(0)ワーグナークライバー 

2022年05月05日


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音質的には同音源のUHQCD盤の方をお薦めするが、オリジナルのマスター自体も良い状態なのでコストパフォーマンスではこちらも選択肢として挙げておきたい。

ザンデルリンクはナチスの迫害から逃れて旧ソ連に亡命していたが、1960年にドイツ帰国を果たしてからヨーロッパでもその実力が知られるようになった。

25年に及ぶソヴィエト滞在はショスタコーヴィチとの交流やムラヴィンスキーからの薫陶で、スラヴ系の作曲家の作品を本家で開拓したという大きな収穫の年月だった。

このディスクのショスタコーヴィチの交響曲第5番は、1982年に古巣ベルリン交響楽団を振ったセッション録音でドイツ的で真摯で重厚な演奏の中に緊張感を崩さないオーケストラへの采配が聴きどころだ。

あえて指摘するなら外面的な派手なアピールは皆無なので、玄人受けはするが入門者にとってはいくらか地味に感じるかもしれない。

例えばアンチェル指揮チェコ・フィルの演奏では終楽章で希望を感じさせる色彩を感知させながら壮大なコーダを築き上げている。

それに対して、ザンデルリンクは頑固なまでに色調を変えず黒光りするような最後に仕上げている。

アンチェルの開放性と解釈を違えている理由は、やはり彼のソヴィエト時代の研鑽によるものだろう。

ザンデルリンクは1937年11月21日のムラヴィンスキー、レニングラード・フィルによるこの作品の初演に立ち会った可能性がある。

またショスタコーヴィチ自身から作曲の成り立ちについても聞き出していたのではないだろうか。

以前はプラウダに掲載された体制への反動分子という汚名返上のための回答としての社会主義リアリズムのプロパガンダ、つまり恭順の意を示した作品のイメージが浸透していた。

最近では第4番の初演撤回の後も彼の作曲への理念は根本的に変化していなかったというのが一般的な見方だ。

結果的に初演は大成功に終わり、図らずも彼の当局への名誉回復になったのだが、どうもショスタコーヴィチ自身には彼らの目論見とは別の構想があったように思われる。

その後1948年に今度はジダーノフ批判に曝されてモスクワ及びレニングラード音楽院の教授職を追われることになるのは象徴的な事件だが、この時彼は巧妙に立ち回って迎合的な作品を発表する。

このあたりの複雑な心理状態と行動にショスタコーヴィチの苦悩が秘められている。

録音会場になったイエス・キリスト教会は当時の東ベルリンにあり、現在ではエヴァンゲリスト教会に改名されていて、カラヤン、ベルリン・フィルが使った同名の教会とは異なっている。

こちらも大編成のオーケストラの演奏に対応する優れた音響空間を持っている。

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classicalmusic at 14:15コメント(0)ショスタコーヴィチザンデルリンク 

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本書は教養としての読み方シリーズの一冊で、ローマの通史ではないがクロノロジカルに史実を辿りながら、そこから見えてくる初期の指導者達の個人よりも全体を、利益や権力よりも公明正大な権威を尊んだ気風、そしてその後に引き起こされるモラルの低下やグローバリズムなどの社会制度の変遷から人間性の変化の歴史が見えてくるし、後の大英帝国或いは日本やアメリカも奇しくも同じ轍を踏んでいることが理解できる。

序章で丸山真男の『ローマの歴史には、人類の経験のすべてが詰まっている』という言葉が引用されているが、それを活かせるか否かは後世の人々の叡智、つまり謙虚な歴史検証とそれに基く政治的方向付けにかかっていると言える。

しかし読了して、残念ながら私達が歴史から多くを学んでいないことを痛感する。

ローマ時代に語り継がれた武勇伝や美談のエピソードは多分に美化されているが、そこに彼らの理想とした社会のあるべき姿が反映されていることは疑いない。

それはしばしば現代に生きる私達にも少なからず手本として、或いは繰り返してはならない過ちとして学ぶべき事例の宝庫といえる。

例えを挙げれば共和政時代の逸話に、軍規を冒してスタンドプレイをして戦いを勝利に導いた息子を処刑する将軍の例がふたつ紹介されている。

そこには縁故主義も兵卒同士の優劣もなく、勝てばいいという安易な考えを完全に否定して、息子であっても戦場にあって規律に従わないものは容赦なく罰された。

共和制ローマでのグラックス兄弟による急進的改革運動もそのひとつだ。

彼らの理想は高潔かつ高邁だったが、純粋な情熱だけでは政治を根本から改革することが困難であることも示されている。

第二次ポエニ戦争で再びローマに敗れたカルタゴだが、短期間で奇跡的な経済復興を遂げ、莫大な賠償金の前倒し一括払いを申し出てローマを驚かす。

国家予算の70パーセントを軍事費に当てていた国が、軍の解体を余儀なくされれば経済状態は急激に向上する。

日本での戦後の驚異的な経済復興はしばしば日本人の勤勉さや精神論をスパイスにして説明されがちだが、実際にはカルタゴと同様の説明が成り立つ。

またコンスタンティヌス帝による硬貨の金や銀の含有率を厳密に規定し、レートをリセットしてインフレから脱却させた通貨改革なども、『悪貨は良貨を駆逐する』と言ったグレシャムの法則を先取りした経済政策だ。

帝政末期のフン族の圧迫に伴うゲルマン民族の大移動では、当初寛容に受け入れていたローマは次第に不寛容になり、差別意識も芽生えてくる。

それは現在の難民、移民問題と状況が酷似していて、その解決策は一通りでないことも歴史が語っている。

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classicalmusic at 08:57コメント(0)書物 

2022年05月04日


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素の音だ。

なんの飾りもなく、ただただ作品の本質に迫る音。

これは、どんな能弁よりも、心に強く、深く迫ってくる。

素で勝負できるなら、これほどの強みはない。

このディスの音源は演奏水準の高さと録音状態の良さで現在でも評価が高くUHQCD化もされた。

こちらは従来のレギュラー・フォーマット・バージョンでカップリングが交響曲第5番『革命』と『祝典序曲』になる。

ショスタコーヴィチの交響曲については、とかくこれらの曲の成り立ちに関するエピソードや当時のソヴィエトの社会情勢に対する作曲家の複雑な心境などが云々されて、聴き手もそうした暗澹たる状況を演奏の中に探しがちだ。

アンチェルの演奏にはそのような作品にまつわる澱のようなものを完全に濾過した解釈がある。

純粋にスコアに書き記された音楽だけから引き出される音響力学によって再現する姿勢は終生変わらなかった。

交響曲第5番でアンチェルの普遍的な力強いサウンドは彼独自の表現だ。

アウシュヴィッツに収容された家族の中では唯一人生還を果たしたアンチェル自身の強制収容所での悲惨な体験が演奏に生かされているとすれば、それは人類愛に向けられている。

全篇を支配しているのは、胸を締め付けられるような寂寥である。

第1楽章では、草木ひとつない荒れ果てた地球に、ただ独り佇むような極限の寂しさがある。

第3楽章の慟哭も、心の奥深くから絞り出されるような涙のようではないか。

第4楽章も質実剛健な音楽づくりであり、いたずらに興奮を煽る要素は皆無。

実直に音を重ねていくだけなのに、そこに傷ついた心からの血の滲みが見てとれる。

コーダのティンパニに重ねられたグランカッサの強烈な打ち込みは人間本来の生命感を感じさせる。

ここではまたチェコ・フィルハーモニーの実力が遺憾なく発揮されている。

アンチェルの指揮に敏感に呼応する機動力と確実なアンサンブル、結束の素晴らしさは一朝一夕で得られるものではないだろう。

ブラス・セクションのやや渋みのある響きと、あくまでもしなやかな弦楽が重なる音色もチェコ・フィルの面目躍如だ。

彼らはドヴォルザークからスーク、マルティヌーやヤナーチェクに至るチェコの音楽に関しては独壇場の力量を発揮する。

またロシア物に代表されるスラヴの音楽、またモーツァルトから現代音楽に至る幅広いレパートリーは、どの指揮者の演奏を聴いても充分な説得力を持っている。

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classicalmusic at 05:12コメント(0)ショスタコーヴィチアンチェル 

2022年05月03日


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筆者が初めてこの本を読んだのは学生時代で、まさにイタリアに行こうと決心した時だった。

そして高階氏の文章に魅せられルネサンスの魅力を満喫できたと同時に知り得た事は、ルネサンスを生み出した自由で進取の気風に富んだフィレンツェも、実は他にも増して伝統を重んじ、芸術的な洗練という意味では非常に頑なな趣味に固執していたということだ。

その一例として紹介されているのが、1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉のコンクールだ。

同業者組合はドラマティックで当時としては前衛的ともいえる作風のブルネッレスキより繊細なギベルティを好んだ。

しかし結果的にコンクール制度の始まりは実力主義を根付けさせ、批判精神を培い、職人が競ってさまざまな分野に活動を広げる地盤を築いた。

皮肉にもフィレンツェのシンボルとなるサンタ・マリア・デル・フィオーレのドームはブルネッレスキの天才の技が成し遂げた勝利だった。

高階氏はその後フィレンツェ出身の多くの天才達が、この都市から次第に離れてしまうことに目を向けている。

何故ならフィレンツェ共和国の、そして何よりもメディチ家の当主であったロレンツォ・マニフィコは、芸術の庇護者というより、外交手腕に長けた画策家である。

彼らを一種の外交手段として他の都市に送り込み、作品の製作に従事させた。

その良い例が、バチカンのシスティーナ礼拝堂側面のキリスト及びモーゼの生涯だろう。

その理由はパッツィ家の謀反に関与していた法王シクトゥス4世との和解の使者として彼が秘蔵っ子の画家達をローマに送り込んだからに他ならない。

しかしそうした彼の政策は芸術家達のフィレンツェからの流失につながり、当時の社会的情勢と相俟ってフィレンツェに決定的な斜陽と衰退を招いてしまう。

ルネサンスの入門書として是非お勧めしたい一冊だ。

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classicalmusic at 17:26コメント(0)書物 

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阿部謹也氏の作品で最初に読んだのが『ハーメルンの笛吹き男』で、それ以来彼の中世ヨーロッパを扱ったシリーズは殆んど読破したが、自伝は今回初めて読んだ。

部分的には他の著作にも顔を出す彼の生涯のエピソードがクロノロジカルに綴られた興味深いもので、確かに阿部氏の記述に全く触れたことのない人は飽きてしまうかも知れない。

しかし戦後カトリック教会の施設で少年期を過ごし、文字通り西欧文化の洗礼を受けた彼が祖国日本と西洋の関わりに否応なく興味を持たざるを得なくなったのは当然だろう。

大学時代の最終研究テーマがヨーロッパ、特にドイツ中世史だったのは偶然ではない。

ドイツ留学は満を持して30歳を過ぎてからになったが、そこでの2年間は水を得た魚のようで、ドイツ語の習得から始まって中世ドイツ語で書かれた古文書まで読みこなすようになる。

素人目から見ると凄まじい勢いで進んだ研究成果は地元からも出版される。

『ハーメルンの笛吹き男』は記録を調査していた時に偶然出くわした実話で、後に訳される『ティル・オイレンシュピーゲル』と共に言ってみれば副産物だったというから驚かされる。

勿論『ハーメルン』の事件は後にゲーテやグリム兄弟によってかなり脚色されて普及するので、1284年6月26日にハーメルンの街から130名の子供達がいなくなったというオリジナルの記録文書を読んだ時の著者の戦慄は想像に難くない。

阿部氏は自分の信念を貫いて誠実に生きた人だと思う。

彼は裕福な家庭に育って不自由なく勉学に勤しんだ御曹司ではない。

幼いながらカトリックの施設に単身寄宿生活しながら勉強したのも、父親を亡くした母子家庭が生きていくために余儀なくされた道だったし、大学時代もアルバイトで生活を支えた苦学生だったが、そうした経験はトラウマではなく生き生きとした体験としてその後の彼の人生に反映されていく。

彼が洋の東西を問わず社会的に弱い立場にある人や、被差別民、賤民などに強い興味をもって、その成立や彼らの真の姿を明らかにしようとした姿勢は、その温かいまなざしに負っている。

それゆえ高い地位にあって学問を振りかざして他人を非難する人や本来の学問の価値を知らない人とは巧くやっていけなかった。

その不器用さが阿部氏の長所でもあることが理解できる。

『ティル・オイレンシュピーゲル』で賤民ティルが身分の高い人々にも一泡吹かせる痛快なスピリットには共通点があるのではないだろうか。

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classicalmusic at 05:23コメント(0)書物 

2022年05月02日


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本盤に収められた演奏は、マーラーの「第9」演奏史上最も美しい演奏であるだけでなく、カラヤン&ベルリン・フィルが成し遂げた数々の名演の中でも究極の美を誇る至高の超名演と高く評価したい。

カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代というのは1960年代及び1970年代というのが大方の見方だ。

1982年末になると、ザビーネ・マイヤー事件が勃発し、カラヤンとベルリン・フィルの関係が修復不可能になるまで悪化するが、それ以前の全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏はそれは凄いものであった。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、ブリリアントな金管楽器による朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器、雷鳴のように轟くティンパニなどを展開するベルリン・フィルをカラヤンは卓越した統率力で纏め上げ、流麗なレガートを駆使して楽曲を徹底的に美しく磨きあげた。

そうして生み出された演奏は、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべきものであり、かかる演奏に対しては、とある影響力のある某音楽評論家などは精神的な内容の浅薄さを批判しているが、それを一喝するだけの圧倒的な音のドラマの構築に成功していた。

本演奏は、前述のザビーネ・マイヤー事件が勃発する直前にライヴ録音されたものであり、カラヤン&ベルリン・フィルが構築し得た最高の音のドラマがここにあると言えるだろう。

スタジオ録音に固執しライヴ録音を拒否してきたカラヤンが、本演奏の3年前にスタジオ録音した同曲の演奏(1979年)を、当該演奏も完成度が高い名演であるにもかかわらず、本ライヴ盤に差し替えたというのは、カラヤン自身としても本演奏を特別視していた証左であると考えられる。

マーラーの「第9」には、バーンスタイン&コンセルトヘボウ盤(1985年)やワルター&ウィーン・フィル盤(1938年)といった、マーラーが同曲に込めた死への恐怖と闘いや生への妄執や憧憬を音化したドラマティックな名演があり、我々聴き手の肺腑を打つのはこれらドラマティックな名演である。

これに対して、カラヤンによる本演奏は、それらのドラマティックな名演とはあらゆる意味で対極にある演奏であり、ここには前述のような人間のドラマはいささかもなく、純音楽的な絶対美だけが存在している。

しかしながら、その圧倒的な究極の音のドラマは、他の指揮者が束になっても構築不可能であるだけでなく、クラシック音楽史上最大のレコーディング・アーティストであったカラヤンとしても、晩年になって漸く構築し得た高峰の高みに聳えた崇高な音楽と言えるところであり、バーンスタイン盤などの名演との優劣は容易にはつけられないものと考える。

その意味で、筆者としては改めて本盤を、カラヤン&ベルリン・フィルによる究極の到達点として高く評価したい。

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classicalmusic at 21:21コメント(0)マーラーカラヤン 

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戦争はある種の社会的倒錯を招く。

安部公房自身満州で少年期を過ごしたために、戦後の中国の混乱を目の当たりにしていた。

また医学を専攻しただけに、作品の中で気味の悪いほど病状や精神的疾患の描写が試みられている。

引揚者の多くが証言しているように、ソヴィエト参戦の直後、関東軍は開拓民に知らせることなく、利用できる武器や交通手段をすべて持ち去る形でそそくさと撤退した。

丸腰で取り残された日本人は、生死を懸けた徒歩での逃避行を始めるわけだが、満州国で生まれ育った主人公、久三は母の看病のために逃げ遅れ、ソヴィエト軍の小間使いとして働いていた。

まだ見ぬ祖国日本への強い憧憬から、ある日脱出を決行する。

彼の計画はいたるところで頓挫するが、最初に彼に援助の手を差し伸べたのは、他でもないソヴィエト軍の将校、アレクサンドロフ中尉だった。

彼は寛大にも久三に通行許可証と金を与えて逃がした。

その後逃避行の相棒に騙されて、身ぐるみ剥がされて放り出されて途方に暮れていた時、彼に日本人居留区の場所を教えたのは、日本人を激しく憎んでいた中国人少年だった。

しかし居留区の日本人達は久三の入場を拒んだ。

彼にとって最も酷い仕打ちをしたのは、皮肉にも日本人だった。アレクサンドロフが久三に言った『おれたちと一緒にいるのが、なんといったって、幸せなのさ』という言葉が妙にこの物語を象徴している。

絶望と息詰まるほどの閉塞感の中で幕を閉じるこの小説は、確かにその後の安部文学の手法にもなっている。

筆者は学生時代に安部公房に嵌った。

奇怪な発想と深層心理に導かれる人間の変容、現実と幻想の交錯に何故か強く惹かれた。

その頃手に入った彼の代表的な作品は読破したが、この『けものたちは故郷をめざす』は当時高価な全集でしか売られていなかったので、今回初めて読むことができ、久々に安部文学を堪能した。

初期の作品だが、「虫になって地図の上をさまよう夢を見た」とか「音の蜃気楼」などの表現は円熟期の彼の作品を予感させている。

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classicalmusic at 10:23コメント(0)書物 

2022年05月01日


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広範なレパートリーを誇るとともに、余人を寄せ付けないような膨大な録音を遺したカラヤンであったが、マーラーの交響曲については、必ずしも主要なレパートリーとしては位置づけていなかったようだ。

カラヤンが録音したマーラーの交響曲は、第4番、第5番、第6番、第9番、そして「大地の歌」の5曲のみであり、これに少数の歌曲が加わるのみである。

同時代の大作曲家であるブルックナーの交響曲全集を録音した指揮者にしてはあまりにも少ない。

むしろ、クラシック音楽ファンの中には、カラヤンの指揮するマーラーの交響曲全集を聴きたかったと思っている人も多いのではないだろうか。

生涯で唯一バーンスタインがベルリン・フィルを振った、あの"事件"(1979年10月)のすぐ後に、同演目で録音されたのが、本盤である。

録音は翌年の9月まで実に3回にも及び、あたかも強烈なバーンスタインの臭気を一掃し、自らの美学を徹底させるような入念さを印象づける。

とどめはライヴによる再録音(82年)!

こうした同作品へのこだわり(対抗意識?)を反映してか、演奏はまさにバーンスタインとは対極にあり、カラヤンは、きわめて純粋な音の建造物を作っている。

デュナーミクの振幅と表情が大きく、巨匠的で、しかも尖鋭である。

演奏としてはこの上なく磨かれているのだが、意外に共感に乏しい感がある。

したがってバーンスタイン盤こそドラマティックな超名演として第一に掲げるべきであろうが、本盤のカラヤンによる演奏は、それらの演奏とは一線を画する性格を有している。

何よりも、当時蜜月の関係にあったカラヤン&ベルリン・フィルが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な名演奏を展開しているのが素晴らしい。

唸りをあげるような低弦の迫力、雷鳴のように轟きわたるティンパニ、ブリリアントに響き渡るブラスセクションなど、凄まじいまでの迫力を誇っている。

一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルは、もはや人間業とは思えないような凄さであり、加えて、カラヤンならではの流麗なレガートが演奏全体に艶やかとも言うべき独特の美しさを付加させているのを忘れてはならない

もちろん、そうした美しさが、前述のバーンスタインなどの名演にあった強靭な迫力をいささか弱めてしまっているというきらいもないわけではない。

他方、終楽章における徹底して磨き抜かれた耽美的とも言うべき極上の美しさには抗し難い魅力が満ち溢れている。

我々聴き手の肺腑を打つ演奏と言えば、前述のバーンスタインなどの名演を掲げるべきであろうが、聴き終えた後の充足感においては、本演奏もいささかも引けを取っていない。

筆者としては、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの磨き抜かれた美しさの極みとも言うべき素晴らしい名演と高く評価したい。

常にオーケストラの豊麗さを保ちながら、精緻な造型を鮮明に浮かび上がらせるのみならず、マーラーの毒やアクをきれいさっぱり洗い流し、何か天上的な至福に満ちた世界を描き出すようだ。

美しすぎるマーラーだ。

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classicalmusic at 23:37コメント(4)マーラーカラヤン 

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ラジオ講座のために用意された原稿なので、堀米氏の鋭い閃きと確信に貫かれた他の著作に比較すると、特有の話し口調が意外なくらいまわりくどい。

また歴史の見方について非常に慎重に検証しているために石橋を叩いて渡るようにも感じられるが、その中に彼の芯の強い主張が込められているのも確かだ。

しかもこれが半世紀以上も前に執筆されたことを思うと、彼が歴史に対する最も革新的な立場をとった観察者である。

さらに深い洞察とあらゆる科学的手段を駆使して過去の出来事が何を物語っているかを見つけようとした研究者であったかが理解できる。

本文でも述べられているように歴史への関心は、人が危機に立ち向かって決断を迫られた時、過去を振り返ってその回答を得ようとして生まれる。

しかし過去に記述された資料は、むしろ客観的でないものの方が一般的という解釈も納得がいく。

日記に喩えて説明されているように、事実はその書き手によって選択されるからで、書かれなかったことが全くなかったことにはならない。

過去の偉大な歴史家と言える人達でも、彼らは書き始める前に既に自分が何を語りたいか確たるアイデアを構想していて、それを正当化する事実を書き連ねることになるからだ。

それゆえ大袈裟に言うならば偏向的でない歴史書は存在しない。

特に印象に残ったのは、カール・マルクスの生産力と生産関係の間に起こる矛盾が歴史発展の原動力という見解が、奇しくも古代、中世、近世の三区分法に一致していることである。

古代をマルクスは古代奴隷制、中世を封建的農奴制、そして近代を市民的資本制として歴史の三区分法がマルクシズムによっても確実に裏付けられていることだ。

それはマルクスの歴史分析の力量を示していて示唆的だ。

いずれにしても現代の歴史学者が過去の事象から歴史を書こうとする時、考古学、社会学、経済学などの広範囲に亘る科学に如何に精通していなければならないかを痛感させられる。

またそれらは常に更新されるべき宿命を持っている。

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classicalmusic at 17:22コメント(0)書物 

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ベルリン・フィルとの一期一会の名演を紹介して、舌の根が乾かないうちに何をと思われるかもしれないが、これも途轍もない超名演だ。

このような超名演が発掘されたことは、クラシック音楽ファンにとっては何よりの大朗報であった。

また、先般SACD盤の発売を行うに際して努力をされたすべての関係者に対して、この場を借りて心より感謝の意を表したい。

バーンスタインは、ワルターやクレンペラーといったマーラーの直弟子ではないが、おそらくは今後とも不世出であろう史上最高のマーラー指揮者。

何よりも、DVD作品を含めると3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音(最後の全集については、交響曲「大地の歌」や交響曲第8番及び第10番の新録音を果たすことが出来なかったことに留意しておく必要がある)したことがそれを物語っており、いずれの演奏も他の指揮者の演奏を遥かに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっているとさえ言える。

バーンスタインは、そうしたマーラーの数ある交響曲の中で最も愛していたのは、マーラーの交響曲中で最高傑作の呼び声の高い第9番であったことは論を待たないところだ。

バーンスタインは、本盤が登場するまでの間は、同曲について、DVD作品を含め4種類の録音を遺している。

最初の録音は、ニューヨーク・フィルとのスタジオ録音(1965年)、2度目の録音は、ウィーン・フィルとのDVD作品(1971年)、そして3度目の録音は、ベルリン・フィルとの一期一会の演奏となったライヴ録音(1979年)、そして4度目の録音は、アムステルダムとのライヴ録音(1985年)である。

本盤の演奏は、コンセルトヘボウとの演奏が1985年5〜6月のものであることから、その約2か月後の1985年8月のものであり、現時点では、バーンスタインによる同曲の最後の演奏ということになる。

9月には、同じくイスラエル・フィルと来日して、今や我が国では伝説的となった同曲の至高の超名演を成し遂げるのであるが、当該来日公演のCD化がなされていない現段階のおいては、本盤の演奏こそは、バーンスタインの同曲演奏の究極の到達点と言っても過言ではあるまい。

本盤の演奏は、壮絶な迫力(例えば、第3楽章終結部の猛烈なアッチェレランド、終楽章の濃厚かつ情感豊かな味わい深さなど)を誇っているとさえ言えるだろう。

これは、イスラエル・フィルという、同じユダヤ人としてのマーラーへの深い共感度を誇ったオーケストラを起用したこと、そして、録音を意識しないで演奏を行っていたであろうことに起因するオーケストラの渾身の熱演ぶりにあると言えるのではないだろうか。

おそらくは、同曲の最高の演奏という次元を超えて、これほどまでに心を揺さぶられる演奏というのはあらゆる楽曲の演奏において稀であるとさえ言えるところであり、まさに筆舌にはもはや尽くし難い、超名演の前に超をいくつ付けても足りないような究極の超名演と高く評価したい。

音質も非常に優れたものと言えるところであり、コンセルトヘボウとの演奏が今一つの音質であっただけに、大きなアドバンテージとも言えるだろう。

これだけの超名演だけに、可能であれば、SACD盤で発売して欲しかったと思う聴き手は筆者だけではあるまいと思っていたところにハイブリッドSACD盤の発売され、心から歓迎したい。

それにしても、本演奏がこれだけ素晴らしいだけに、どうしても更なる欲が出てくる。

あの伝説的な来日公演をCD化することはできないのであろうか。

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classicalmusic at 12:01コメント(0)マーラーバーンスタイン 

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マーラーの交響曲第9番は名盤も数多いが、1950年代からマーラー作品を率先して採り上げ、マーラー・ブームの火付け役となったバーンスタインの演奏こそ聴くべきだろう。

やはり1979年10月、バーンスタインがカラヤンの牙城ベルリン・フィルに乗り込んで行なった演奏会のライヴは白熱的であると同時に一途な思いが灼熱の炎となって聴き手を魅了するものとなっており、まさに一期一会の名演と言うにふさわしい。

時に作曲者に成り代わるかのような説得力と吸引力でマーラー演奏を推進してきたバーンスタインの指揮に、ベルリン・フィルが完全に一体化し、その心の楽器となって熱演を披露していることが手に取るようにわかる。

筆者がこの演奏を、マーラーの9番における最高の演奏と考えるのは、もちろん「バーンスタインがベルリン・フィルを生涯ただ一度だけ指揮した珍しい演奏」という単純な理由からではない。

1992年、ついにこの演奏がCD化されたとき、心の底から震撼した。

「こんな曲が世の中にあったのか!とにかく凄い演奏に違いない」

バーンスタインに嫉妬して、この演奏会の実現やそのレコード化を妨害したと言われたカラヤンが亡くなって3年が経っていた。

そして肝心のバーンスタインも、すでにこの世の人ではなかったのである。

ベルリンのリアス放送局のテープから直接CD化された音のクオリティーは極めて高い。

陶酔的なところは徹底して甘く歌い、不安なところは阿鼻叫喚地獄のような恐怖心を描き出すベルリンの第9は、まさに一期一会の演奏である。

この演奏会が特殊な状況下で行われたということは、金子建志氏の著作『マーラーの交響曲』に詳しい。

やはりこれだけの名演が成し遂げられるには、日常を離れた何かがなければならないのだろう(大戦中のフルトヴェングラーのライヴ録音が、録音の古さを超えて今日の人々の胸を打つのは、指揮者もオーケストラも聴衆さえも明日の命をも知れない状況下で、全身全霊、音楽に打ち込んだからに違いない)。

練習開始時は乗り気でなかったといわれるベルリン・フィルだが、本番は違う。

プライドを捨てて、のたうち回りながら、乾坤一擲の勝負に出ているのだ。

ある雑誌で、この演奏を駄演と決めつけ、「不感症の女を相手に苦戦するプレイボーイ」とたとえた評論を読んだことがある。

別の雑誌では、「バーンスタインのムームーという声ばかり耳について、肝心のオケの意気はさっぱり上がらない」といったようなことも書かれていたが、どうしてそのように感じられるのか分からない。

オケは表現の限界に挑戦すべく、熱演しているではないか。

ベルリン・フィルの首席クラリネット奏者、カール・ライスターは著作『ベルリン・フィルとの四半世紀』のなかで、この演奏会について「オーケストラは彼の足下にひれ伏した」と証言し、「私のベルリン・フィルにおける25年のうちでも圧倒的なクライマックスともいえる事件であった」と語っている。

ライスターはカラヤンとのモーツァルトのクラリネット協奏曲の録音体験を「いやな思い出」とはっきり書く人である。

想像するに、ベルリン・フィルはバーンスタインに霊感を受け、自分たちの音楽としてこの9番を演奏したのではないか。

それが時にバーンスタインの意図からはみ出ることもあり、バーンスタインはところどころうめき声をあげたのだろう。

しかしそのような軋み、内的葛藤をはらむことにより、この演奏は日常から切り離され、超名演となったのである。

正直に話そう。

筆者は長年バーンスタインのマーラーの9番はコンセルトヘボウ盤を最高の名演と評価してきた(弊ブログの熱心な読者の方ならご存じのはず)。

しかしオーディオを新調して改めて聴いてみると、とても良い演奏には違いないが、それにもかかわらず、ベルリン・フィルとの極限まで斬り込んでいく厳しさに欠けていたのだった。

イスラエル・フィルとのテルアヴィヴでのライヴ録音も、案の定、とても良い演奏だったにもかかわらず、筆者にとってベルリン・フィルとの演奏を超えるものではなかった。

新聞や雑誌で1985年9月に、バーンスタインとイスラエル・フィルとの来日公演(あいにく音響の悪いことで知られるNHKホール)を新聞や音楽雑誌で「世紀の大名演」と書かれていたり、あるいはバーンスタイン自身が、イスラエル・フィルとの9番を会心の出来と語った記事を読んだが、もはや「ベルリン・フィルを超える演奏を!」などと期待していない。

指揮者も、オーケストラも作品の世界を真摯に、そして逞しく生き抜いている、そんな感動へと誘う究極の名演というべきで、もう、このような演奏は二度と現れないだろう。

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classicalmusic at 06:09コメント(2)マーラーバーンスタイン 
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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

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