2022年10月
2022年10月10日
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ワルターが残したブラームスはいずれも絶品で、永遠のスタンダードとしての地位は今後も揺るがないだろう。
新古典主義の作曲家ブラームスの音楽の、構築的にしっかりとした重厚さよりも、ロマンティックな情感に重点をおいた演奏で、ワルターならではの柔和なブラームスとなっている。
ブラームスが作曲に長い時間をかけたこの第1交響曲でも、ワルターの確かな構成力と、慈愛に満ちた表現が聴ける。
ワルターと言えば、モーツァルトの優美な名演の印象が強いだけに、誠実で温かみのあるヒューマンな演奏だとか、温厚篤実な演奏を行っていたとの評価も一部にはあるが、本盤のブラームスの「第1」や、併録の2つの管弦楽曲の熱い演奏は、そのような評価も吹き飛んでしまうような圧倒的な力強さを湛えている。
ブラームスの「第1」は、1959年の録音であるが、とても死の3年前とは思えないような、切れば血が吹き出てくるような生命力に満ち溢れた熱演だ。
もちろん、たっぷりと旋律を歌わせた第2楽章や、明朗な田園的気分をやさしく表出した第3楽章の豊かな抒情も、いかにも晩年のワルターならではの温かみを感じさせるが、老いの影などいささかも感じられない。
まさに、ワルター渾身の力感漲る名演と高く評価したい。
併録の2つの管弦楽曲も名演。
特に、大学祝典序曲など、下手な指揮者にかかるといかにも安っぽいばか騒ぎに終始してしまいかねないが、ワルターは、テンポを微妙に変化させて、実にコクのある名演を成し遂げている。
ハイドンの主題による変奏曲は、めまぐるしく変遷する各変奏曲の描き分けが実に巧みであり、これまた老巨匠の円熟の至芸を味わうことができる名演と言える。
コロンビア交響楽団は、例えば、ブラームスの「第1」の終楽章のフルートのヴィブラートなど、いささか品を欠く演奏も散見されるものの、ワルターの統率の下、編成の小ささを感じさせない重量感溢れる好演を示している点を評価したい。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
2022年10月09日
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《ワルキューレ》第1幕全曲は、クナッパーツブッシュによるワーグナー演奏としてかけがえのないものだ。
不世出のワーグナー指揮者クナッパーツブッシュとウィーン・フィルの黄金バッテリーに、バイエルン州立歌劇場のキャストが加わった記念碑的映像記録。
表現の雄大なスケール、悠揚迫らぬその足取りには本当に感嘆させられる。
クナッパーツブッシュが比較的速めのテンポと粗いタッチで荒涼とした原風景を描いていく一方で、クレア・ワトソンは、優しさ、か弱さ、可憐さといった要素を表すことにより、作品に彩りとニュアンスを添えている。
嵐を暗示する前奏曲からして、これ以上の演奏は望めないのでは、と思わせるほどだが、それに輪をかけてすばらしいのは、第3場の「一族の男たちが」以降における、ジークムントとジークリンデの愛の二重唱である。
《トリスタンとイゾルデ》や《ジークフリート》においても繰り返される、恋に落ちた男と女の熱にでも浮かされたような気分とその哀しさを、これほどみごとに表現した例はあるまい。
この作品を書くためにワーグナーという男は、いったい何人の女と手を取り合って咽び泣いたのだろうか、などと余計な想像まで働かせてしまう。
聴き手をそうした思いに誘うのも、クナッパーツブッシュがワーグナーの音楽の本質を抉り出し、突きつけるからであろう。
しかしワーグナー後期のこの作品のもつロマンティシズムと官能の陶酔にはいささか不足しているように感じられる。
が、ともあれ、クナのファンにとっては見逃せないものであることは確かだろう。
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フルトヴェングラーのCDなら、 フルトヴェングラー鑑賞室。
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本全集は、クレンペラーの芸術が完成期を迎える時期の録音であるが、ここでは、最晩年のクレンペラーの堂々たる至芸を味わうことが可能である。
クレンペラーのスケール雄大な演奏スタイルが確立したのは1960年代に入ってからというのが一般的な見方である。
「第1」など、誰よりもテンポが遅いが、何にも邪魔をされることがない悠々たる進行は、まさに巨象が大地を踏みしめるが如き重量感に満ち溢れているが、それでいて、ウドの大木に陥ることなく、随所に聴かれる情感の豊かさも聴きものだ。
「第2」も、テンポも非常にゆったりとしたものであるが、それ故に、ベートーヴェンがスコアに記した音符の1つ1つを徹底的に鳴らし切り、あたかも重戦車の進軍のような重量感溢れる力強い演奏に仕立て上げたのは、さすがの至芸という他はない。
ベートーヴェンの交響曲の演奏スタイルとして、偶数番の交響曲は柔和に行うとの考えも一部にあるが、クレンペラーにはそのような考えは薬にしたくもなく、「エロイカ」や「第5」に行うようなアプローチで「第2」に臨むことによって、同曲をスケール雄大な大交響曲に構築していった点を高く評価すべきであろう。
「エロイカ」には、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる1944年盤(ウラニア)及び1952年盤(EMI)という至高の超名演が存在しており、この2強を超える演奏を成し遂げることは困難を極める(私見ではあるが、この2強を脅かすには、カラヤンのように徹底した音のドラマの構築という、音楽内容の精神的な深みを追求したフルトヴェングラーとは別の土俵で勝負する以外にはないのではないかと考えている)が、クレンペラーによる本演奏は、そのスケールの雄大さや仰ぎ見るような威容、演奏の充実度や重厚さにおいて、前述の2強に肉薄する素晴らしい名演と高く評価したい。
冒頭の2つの和音からして胸にずしりと響いてくるものがある。
その後は微動だにしないゆったりとしたインテンポで曲想を精緻に、そして格調の高さを失うことなく描き出して行く。
クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、いささかも隙間風が吹かない重厚な音楽が紡ぎ出されている。
木管楽器をやや強めに演奏させるのは、いかにもクレンペラーならではのものであるが無機的になることはなく、どこをとっても彫りの深さが健在である。
全体の造型はきわめて堅固であるが、スケールは極大であり、悠揚迫らぬ重量感溢れる音楽が構築されている。
「第4」も、「第2」と同様のアプローチで、スケール雄大な演奏を繰り広げており、特に終楽章は、巨象がのっしのっしと歩くような重厚なド迫力に圧倒される、雄渾の極みとも言うべき至高の超名演だ。
クレンペラーは格調の高さをいささかも損なうことなく、悠揚迫らぬテンポで精緻に楽想を描き出している。
木管楽器を強調するのはクレンペラーならではのユニークなものではあるが、各楽器を力強く演奏させて、いささかも隙間風が吹かない重量感溢れる重厚な音楽が紡ぎだされていく。
ドラマティックな要素などは薬にしたくもなく、微動だにしないインテンポが基調であり、造型は極めて堅固である。
「第5」については、かのフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる至高の超名演(1947年)とは対照的な演奏であるが、そのスケールの雄大さや巨木のような威容、崇高さにおいては、フルトヴェングラーによる超名演にもいささかも引けを取っていないと高く評価したい。
ゆったりとした微動だにしないインテンポは、沈み込んでいくような趣きがあるが、それでいて、いわゆる「田園」ならではの明瞭さにいささかの不足もない。
むしろ、こうした深みのアプローチが、演奏に潤いとコクを与えている点を見過ごしてはならないであろう。
ワルターやベームの「田園」のような独特の愉悦感や優美さには欠けているかもしれないが、演奏の有する深みにおいては、ワルターやベームといえども一歩譲るだろう。
「第7」も素晴らしい超名演だ。
筆者としては、1968年盤の方をさらに上位に置きたいが、本盤の方もほぼ同格の名演と高く評価したい。
楽曲の進行は殆ど鈍行列車だ。
しかしながら、鈍行列車であるが故に、他の演奏では聴かれないような旋律やニュアンスが完璧に表現されており、踏みしめるような重量感溢れるリズムなど、殆ど人間業とは思えないような圧巻のド迫力だ。
「第8」については、テンポの面だけをとれば、クナッパーツブッシュによる各種の演奏と似通っているとも言えるが、決定的な違いは、本演奏にはクナッパーツブッシュの演奏には存在した遊びの要素が全くないということであろう。
したがって、どこをとってもにこりともしない峻厳な音楽が構築されていくが、その仰ぎ見るような威容や演奏の充実度、立派さにおいては、クレンペラーによる本演奏の方をより上位に置きたいと考える。
このような微動だにしないインテンポによる威風堂々たる重厚なベートーヴェンにはただただ頭を垂れるのみである。
ベートーヴェンの「第9」の名演としては、フルトヴェングラー&バイロイト祝祭管弦楽団によるドラマティックな超名演(1951年)の印象があまりにも強烈であるが、当該名演とは対照的に、微動だにしないゆったりとしたインテンポによって曲想を精緻に、そして格調高く描き出しているクレンペラーによる重厚な名演もまた、格別な味わいに満ち溢れている。
クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、とりわけ木管楽器をやや強めにするのはユニークであるが、いささかも無機的な演奏に陥ることがなく、どこをとっても彫りの深い音楽が紡ぎ出されていく。
巧言令色などとは全く無縁であり、飾り気が全くない微笑まない音楽であるが、これはまさに質実剛健な音楽と言えるのではないだろうか。
全体の造型はきわめて堅固であるがスケールは極大であり、いずれにしても、本演奏は、前述のフルトヴェングラーによる名演も含め、古今東西の様々な指揮者による名演の中でも、最も峻厳で剛毅な名演と高く評価したい。
最近では、ベートーヴェンの演奏にも、古楽器奏法やピリオド楽器による小編成のオーケストラによる演奏など、軽佻浮薄な演奏が流行であるが、本全集を聴いていると、現代の演奏など、まるで子どものお遊びのように感じてしまう。
それくらい、本全集は、巨木のような大芸術作品と言うことができるだろう。
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本盤に収められたブルックナーの交響曲第3番の売りは、何と言っても初稿を採用しているということであろう。
第3番において何故にブロムシュテットが初稿を採用したのかは疑問が残るところだ。
かつては、初稿はブルックナーを研究する音楽学者の学究的な関心事項でしかなかったが、インバルやケント・ナガノ、シモーネ・ヤングなどの初稿を尊重する指揮者によって、芸術的にも優れた名演が数多く成し遂げられるようになってきたことから、今日では初稿のグレードが大いに上がってきている。
とりわけ、第3番の初稿は、その愛称が示すとおりワーグナーの楽曲からの引用が数多く見られるなど、一般的な第2稿や第3稿とはその内容が大きく異なり、あたかも別の作品のような楽曲であることから、ブロムシュテットも余程のポリシーを持って初稿を採用するに至ったことは想像するに難くない。
いずれにしても、本演奏には、ブロムシュテットの確固たる信念を感じ取ることが可能な、仰ぎ見るような威容を湛えた堂々たる名演に仕上がっている。
この指揮者ならではの全体の造型の堅固さは健在であるが、スケールも雄渾の極み。
ペトレンコ時代になってオーケストラの音色に色彩感を増したと言われているベルリン・フィルではあるが、本演奏ではブロムシュテットの確かな統率の下、ドイツ風の重心の低い音色で重厚な演奏を繰り広げているのが素晴らしい。
全体としてはゆったりとしたインテンポを基調としているが、ここぞという箇所では微妙にテンポを動かしており、それが演奏全体を四角四面にしないことに大きく貢献している。
ブラスセクションなども最強奏させているが、無機的になることはいささかもなく、どこをとっても奥行きの深さを損なっていないのが素晴らしい。
随所にあらわれる初稿ならではのワーグナーの楽曲の旋律の歌わせ方も実に巧みであり、初稿を採用したこれまでの演奏の中でも、シモーネ・ヤングによる名演と同格か、あるいはオーケストラの優秀さを勘案すれば、それ以上の名演に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。
コンサート会場の豊かな残響を取り入れた臨場感溢れる極上の高音質録音も素晴らしい。
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イタリアはオペラ界において世界に冠たる地位を占め、著名な声楽家は数多いし、指揮者においても過去はもちろん、現在に至るまで最も充実した陣容を有しているのではないか。
だが不思議とピアニストにおいては久しく不作の国である。
イタリア人ピアニストで思い起こすとすれば、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、最近亡くなったアルド・チッコリーニ、それに現在の世界的ピアニストのひとりマウリツィオ・ポリーニぐらいがせいぜいであろう。
だが実はもうひとり、アルフレッド・コルトーからして”不世出の奇才”と認められたほどのピアニストがいた。
そのピアニストとはディノ・チアーニ(Dino Ciani, 1941〜1974)である。
ポリーニと同世代のチアーニは旧ユーゴスラヴィア北西部リエカの出身で、20歳でブダペストのフランツ・リスト・ピアノ・コンクールで準優勝に輝いた。
古典派、ロマン派を中心に、ベートーヴェンからシューベルト、ブラームス、ドビュッシーに至るまでレパートリーはたいへん広かった。
そのどれもが光り輝き、情熱的で、情感にも溢れていたが、彼は33歳を前にして自動車事故で世を去った。
「彼がもし健在であったなら、ポリーニの地位は危うかったかもしれない」とまで言わせるピアニストであった。
このディスクは、1965年から1973年までの演奏を集めた3枚組。
健在であれば、現在のピアノ界に大きな影響を与えたであろう伝説のピアニストの演奏をじっくりと聴くことができる。
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2022年10月08日
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残した業績の数でも、それを行ってきた歳月の点でも比類のないその経歴の中で、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、シューベルトの《冬の旅》をあらゆる主要なコンサート会場で歌い、また録音も7回を数えた。
この録音は、彼の声が「美しさと表現力のピークにあった」と言われた1965年に行われた3度目のものである。
当演奏は39歳の時にベルリンのUfaスタジオで録音された(フィッシャー=ディースカウが日本を初めて訪れたのはこの2年前である)。
ここでフィッシャー=ディースカウは言葉を大切に、曲ごとの内容に即した表情付けをその豊かな声を駆使しつつ、かつ十二分に縦横にコントロールした、ごく自然な流れの中で望みを失った若者の孤独で寒々とした姿が歌われている。
彼は幅広い声域と豊麗な声、完璧なまでのテクニックをもち、独自の至高の世界を創り上げている。
時折厳しい表情も見せるが、全24曲聴き終わった後、私たちは何よりもこの若者の心を包み込むような暖かさに心満たされるのである。
と同時にこの24曲から成る歌曲集が秘める汲めども汲めども尽きることのない魅力を私たちは改めて知るのである。
イェルク・デムスの淡々とした上品な味わいと詩的な感性に溢れる伴奏に支えられたこの演奏を、数ある《冬の旅》の録音の中でも最高のものと考える人々も多い。
デムスとフィッシャー=ディースカウは互いを研鑽し合う仲だったようで、デムスの品の良い解釈が、頭脳プレイに陥りがちなフィッシャー=ディースカウをも納得させたのであろう。
筆者としては、フィッシャー=ディースカウの7つの当歌曲集の録音を所有しているが、録音した年、伴奏ピアニストを考慮に入れて、あとは聴く時の気分や好みに合わせて選ぶことにしている。
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「皇帝」は、冒頭の部分だけとはいえ、このようなハチャメチャなライヴがよくぞ正規盤で登場したものである。
しょっぱなからピアノとオーケストラが同時に出るところが、指揮者の棒振りのタイミングの遅さで完全にズレてしまっている。
しかも、2度目はほとんど意図的とさえ思えるほど指揮者の棒が遅いために、ぽっかりと大きく穴があいてしまっているのだ。
恐らく、バックハウスは終演後この行為に激怒したに違いないのだが、それでも両者はその後も何回か共演しているらしく、この怠け者指揮者と実直で正統派のピアニストはどこかで相通じるものがあったのだろう。
しかし、タイプこそ違っても、大きな器を持った演奏家が現代には何と少ないことか。
「第8」にはいろいろな解釈の仕方があるようだが、ぴったりくるのはワインガルトナーやシュミット=イッセルシュテットのようなウィーン風の小味な表現だ。
逆にトスカニーニ、ワルター、フルトヴェングラー、シェルヘンなどは、どことなく違和感が残る。
わけてもクナッパーツブッシュの超スロー・テンポによる極大のスケールと味の濃い演奏はその最たるものだが、このくらい徹底すると有無を言わさず納得させられてしまう。
それというのも、クナの芸術性が抜群だからであろう。
曲の内容は異常にふくらみ、形はデフォルメされ、ものものしくも情熱的に進み、ときには苦しみや怒りとなり、豪傑笑いも見せる。
第1楽章からテンポは遅いが、推進力に溢れた音楽の運びがすばらしい。
第2楽章はデリカシーのあるチャーミングな演奏であり、第3楽章は「気合の入った」メヌエットになっている。
第4楽章は、冒頭が手探りのように始まるところがいかにもクナッパーツブッシュであるが、凛とした立体的な演奏が実に見事である。
クナッパーツブッシュの遅いテンポに何ら違和感のない筆者であるが、曲のしなやかなフォルムからはいささか外れた、特異な「名演」なのだと思う。
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2022年10月07日
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指揮のアーノンクールと演出のクシェイが慈悲ゆえに民は不幸になるというコンセプトで練り上げた《皇帝ティートの慈悲》はカサローヴァを始めとして、力量のある歌手がそろった贅沢な公演。
アーノンクールのときに激しく清新な響きもオペラ・セリアにぴったりである。
スーツという現代化した装いで演じられるものの、物語自体が非現実的な設定のオペラ・セリアなので、違和感はあまり無い。
セストとヴィッテリアの登場場面から下着を直したり、激しく抱き合ったりなど、ふたりが愛人関係にあることを表現する演出。
フェルゼンライトシェーレの大舞台を遠方から見る観客よりも、ビデオでアップで見る方が演出の意図が明瞭に理解できる。
モーツァルトは確かにレオポルト2世の戴冠式のために祝意を込めて作曲したであろうし、当時は偉人に事寄せて現世の王を褒め称えるのは習慣だったから、原作どおり理解するのが自然ではあろう。
しかし、現代誰が何度裏切られても相手を許すお人よしの皇帝を信じるであろうか。
そしてそういう権力者の治める国が安全に栄えるとも思えない。
そこでこの演出の慈悲ゆえに民は不幸になるというコンセプトは説得力を持つ。
第一幕第九場/ヴィッテリアがセストを批難する場面でもヴィッテリアはセストを激しく性的に誘惑する。
セストが叛乱を決意して歌う第9曲アリア「私は行く」は名唱。カサローヴァの深い中音と直前のレシュマンのソプラノの高音が見事な対照を作っている。
第十場の三重唱も三人がフェルゼンライトシェーレの異なる階で歌う演出が冴えている。
第十一場は激しい感情の起伏が描かれる傑作。
第二幕では煙の煤や血痕などで、ティート、セスト、アンニオ、それぞれの衣装や顔は汚れたまま。
アンニオの第17曲、セストの第19曲、ヴィッテリアの第23曲と力の入ったアリアが多い。
最終場面で、ティートは自らを験すような裏切りの事実の連鎖に対抗して、慈悲を示す。
君主の限りなき慈悲というよりも神の試練に対する選択である。
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作品への筆者の個人的な嗜好から言うと、遥かに第2番のソナタが優れていると思えるが、ともあれ両曲ともにブラームス晩年の超傑作と言って良い。
重く柔らかく甘美で憧憬に満ちた奇蹟のような音楽。
もしもテンポや歌い回し、及びピアノ伴奏のまろやかなダイナミズムが理想的に結合し得れば、筆者はむしろヴィオラ版を好むが、現在入手可能なディスク中、それを満足させてくれるヴィオラ版は皆無と言って良いだろう。
オリジナルのクラリネット版でも、作品の真の深淵にまで達している演奏にはなかなか出会えない。
やはりとどめはウラッハか。
録音と演奏スタイルの古さを飛び越え、今なお他盤の追随を許さない録音であろう。
ウェストミンスター原盤のこの録音は、他の様々な名盤を越えて、曲のどの箇所にも溢れ出ている慈しみ深さと古き良きウィーンへの郷愁とともに、広く聴き継がれてゆくものだろう。
ブラームスと感傷味という結びつきが的を射ているかどうかはともかく、これほどしっくりと印象づけられる録音も珍しい。
それは単なる懐古趣味だとでも言い切って、もっと若々しい演奏を推奨することも可能だが、晩年のブラームスの生きたウィーン自体がすでにそうした懐古趣味の街だったのだ。
作品が書かれた当時のウィーンの趣きと20世紀後半のウィーンが持つ佇まいが、不思議とシンクロする演奏、それがこのウラッハとデムスの名盤に集約されている。
作品がいずれもかなり重くて、ウラッハといえども完璧と言えないところもあるが、ブラームスのイメージにぴったりとはまっている。
モノトーンでそっけなさすぎるけれど、変な色合いを持つよりは余程素晴らしい。
デムスの伴奏はそれに比べて少し饒舌だったかもしれないが、何はともあれモノ時代の文字通りの不滅の名盤であることには変わりはないであろう。
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極めてドイツ的な『フィガロ』であり、それは収録年に起因するが、1957年当時のカール・ベームは、男性的な筋肉質の演奏スタイルだった。
巨匠ベームは相手がモーツァルトであっても姿勢を変える事なく取り組んでいて、当然この演奏はウイーン風とは無縁である。
しかし巨匠ならではの美点ももちろんあり、それは歌手に歌い崩しを許さない厳格な姿勢であるが、その為、作品の美点を見失わない忠実な演奏となる。
これはひとつの理想であり、作品に対して忠実であるのもひとつの解釈である。
それは巨匠の音楽環境がそうさせたと見るのが順当で、これが若き日に影響を受けた新即物主義に対する証しである。
しかしこの演奏はウィーン・フィルの音色に助けられ特有の厳しい表情が和らいでいるのが救いかも知れない。
歌手達のアンサンブルはこれといって特に不満はなく、むしろ絶妙と言って良い。
エーリッヒ・クンツのフィガロも良いが、やや控えめなのが惜しく、イルムガルト・ゼーフリートのスザンナも同様だが、騒ぎ過ぎないのは作品に対してバランスを保っていると言えるだろう。
伯爵夫人は、エリザベート・シュヴァルツコップで、この頃が全盛期と言えるが、ここでは何故か艶っぽさが今ひとつなのが残念だ。
ケルビーノは、クリスタ・ルートヴィヒで、表現力が素晴らしく、アリアでは聴かせる。
アルマヴィーヴァ伯爵は、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウで、流石に上手く風格がある。
何よりも伯爵のフィッシャー=ディースカウと伯爵夫人のシュヴァルツコップ、この2人がザルツブルクで同じオペラの舞台に立っていることを想像するだけでワクワクしてしまう。
そしてベームの作り出す音楽が、晩年のそれとは違い、とにかく躍動感に溢れている。
そのことが、この『フィガロ』というオペラにおいて、どれだけ重要なことか…。
進行に合わせて、歌手にそっと寄り添い、またあるときは歌手をリードしながら、聴衆をどんどん核心に引き込んでいくその指揮ぶりは、最良の意味での「職人」。
また、ウィーン・フィルも、随所でその妙技を聴かせてくれている。
まったくこれ見よがしの表現はとらないのに、ベームの棒を信じて生み出されるその表情は、「あー、やっぱりウィーン・フィル!」と実感させてくれる。
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2022年10月06日
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1985年に製作された映像作品。
カラヤンがレパートリーにしていた合唱作品のなかでも、特に得意としていたのがこの「ドイツ・レクイエム」。
映像を含めて6回のレコーディング中の最後となったのがこのソフトで、かつての耽美的な傾向をさらに越えた沈潜とした美しさ、柔和でさえある暖かいサウンドが非常に印象的。
カラヤンの合唱作品演奏を支え続けてきたウィーン楽友協会合唱団の深い響きと、カラヤン晩年のお気に入りだったバトルの美声とが織り成すコントラストも鮮やかである。
この演奏は本当に素晴らしい(映像作品としてははなはだ疑問ではあるが…)。
この「ドイツ・レクイエム」、カラヤン晩年の流麗な志向の強い演奏と言ってよいだろう。
冒頭からとにかく実に美しく磨きあげた演奏であり、この大変に美しい作品を、ますます美しく、見事に演奏しきっている。
先入観が強いかもしれないが、それはいかにも晩年のカラヤンらしいと言えようか。
またロマンティシズムにも溢れ、レクイエムとしての音楽を超越した存在となっている。
晩年のボロボロになった肉体的条件もあるのかもしれないが、カラヤンの指揮は身振りも小さく、しなやかなもの。
何しろ、ウィーン・フィルはじめ、超優秀なメンバーを集めての演奏であるから、カリスマ・カラヤンのちょっとしたインスパイアでみんなしっかり動く。
オケも合唱も、そしてソリストの歌も、カラヤンの意図を実現すべく、精妙な表現に邁進している。
合唱のアンサンブルがやや粗くなる部分もあるが、そうした些細なことよりも全体を通してのライヴとしての高揚感に陶酔してしまう。
もちろん、一方、これもカラヤンらしい壮大さも兼ね備えていて、迫力も十分であるが、どちらかといえば、落ち着きの方が勝った演奏だ。
録音がまた実にバランスのしっかりしたもので、オルガンの音も妙に目立つことなく、しかし良いバランスの美しい音で聴こえる。
カラヤンが録音というものに常にこだわりを持っていた、その理由がわかるような気がする。
感情の一時的な高揚にとらわれないバランス感覚、それこそが彼の真骨頂だったのかもしれない。
ただ、実演ではむしろこのような爆演も多かったようだから、その使い分けもポリシーだったのであろう。
これは、カラヤン芸術の極みであろう。
是非座右に1枚お薦めしたい。
他の演奏と比較して名演とか傑作とか、そういう形で評価するDVDではないような気がする。
先に推薦した1960年代ベルリン・フィルとのCDも良いが、映像を含めた中ではこれがベスト。
問題は例によって例のごとしのカラヤン的映像で、横からのアングルがほとんどで、たまに正面が入るという調子なので、はっきり言って無くても全然かまわないレベルのものだ。
ただ、映像があることで、何だか全体の印象がかえって決まってしまった感じがして、全般にわたってソフトで柔らかな印象を持った。
演奏については大いにお薦めしたい。
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フランクの唯一の交響曲二短調は、ジュリーニが非常に愛していた作品で、1958年(フィルハーモニア管弦楽団)、1986年(ベルリン・フィル)、そして1993年ウィーン・フィルとの本作と、3度にわたって録音してきた。
ジュリーニが1986年にベルリン・フィルと録音したフランクも名演だったが、それから7年後の録音では、ジュリーニ&ウィーン・フィルの高い音楽性がフランクのこの畢生の名作を味わい豊かに再現している。
ジュリーニはさらに一段とテンポを遅くとりながら作品の高貴な美しさを鮮明に表現しているのは、ジュリーニがウィーン・フィルの柔らかな響きを見事に生かしているからである。
細部までジュリーニの鋭い眼が光る演奏は、しばしばオルガン的と言われるフランク独特の重厚な響きも重すぎるようなことはなく、微妙な色彩や表情の変化を自然に描き出している。
ウィーン・フィルならではの美音を生かしつつ各楽章の名旋律をよく歌いあげているが、盛り上がりの箇所も、強奏することを避け、オーケストラ全体の音色をオルガンのような響きにマイルドにブレンドしている。
また、かなり遅めのテンポもしなやかさを失わず、透明な響きとみずみずしい叙情の美しさを際立てている。
「音楽は人間とともに生きる唯一の芸術です」という真摯なジュリーニならではの高貴な名演と言えよう。
カップリングはフランクをはじめとするフランスものに名演を聴かせてきたクロスリーを迎えた交響的変奏曲で、こちらも陰影に富んだ重量級の名演である。
交響的変奏曲はジュリーニのこうしたアプローチに適合しており、知られざる名曲に光を与えてくれたことを高く評価したい。
ライヴ録音ならではの即興性も聴きどころと言えよう。
音質も1990年代のウィーンでのライヴ録音だけに、十分に満足できる音質である。
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2022年10月05日
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メンデルスゾーンの室内楽曲の中でも、弦楽八重奏曲とならんで人気の高いのがこのピアノ三重奏曲。
特に第1番は、チャーミングなメロディが横溢する佳品として、古くから親しまれてきたもの。
カザルスやルービンシュタイン、ハイフェッツといった巨匠たちもトリオを組んで録音を残しているが、ここで聴けるスターン/ローズ/イストミンのトリオによる演奏は、まさに知・情・意のバランスが取れた奇跡的な名演奏だ。
メンデルスゾーンの音楽は、みずみずしい美しさを湛えつつも、どこかしら哀感が漂わせるものが多い。
ピアノ三重奏曲はその最たるものであり、メンデルスゾーンの特色を体現した室内楽曲の佳作である。
本盤に収められたスターンがヴァイオリンをつとめる両演奏は、歴史的な名演と言われるものであるが、スターンが決して突出した演奏をしているわけではなく、ピアノとチェロとの間で調和のとれた演奏を心掛けている点が、名演と言われる所以だと思われる。
このようなアプローチによって、我々はメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲の魅力を満喫することが出来るのであり、その意味では、室内楽曲演奏の規範ともなるべき演奏とも言えるだろう。
この録音を特徴づけているのは、スターンの異様なテンションの高さで、なんという華のある、艶やかで色っぽい音だろう。
また、この曲のピアノ・パートの難しさはその辺のロマン派のコンチェルト以上と言ってもいいくらいであるが、イストミンのピアノは沈着冷静、盛り上げるところは盛り上げ、抑えるところは抑え、知的なプレイでトリオをまとめあげている。
チェロのローズは一歩下がって、スターンをバックアップする姿勢。
2曲とも3つの楽器の音のバランスが良いので、やや聴こえにくいチェロの音までよく聴こえる。
リマスタリングによる音質向上は目覚ましく、この歴史的名演をより鮮明な音質で聴けるようになった意義は大きい。
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本盤に収められたマーラーの交響曲第6番「悲劇的」は、アバドによる2度にわたる同曲の録音のうち最初のものに該当する。
最新の演奏は2004年にベルリン・フィルを指揮したものであるが、それは近年のアバドの円熟ぶりを窺い知ることが可能な至高の名演であった。
したがって、それより25年も前の本演奏の影はどうしても薄いと言わざるを得ないが、筆者としては、若きアバドならではの独特の魅力がある素晴らしい名演と高く評価したい。
1970年代後半からベルリン・フィルの芸術監督に就任する直前である1980年代後半にかけては、ある意味ではアバドが最も輝いていた時期であったと言えるのではないだろうか。
アバドもベルリン・フィルの芸術監督に就任した後は、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになるのだが、かかる輝ける時期のアバドは、生命力溢れる熱のこもった名演の数々を成し遂げていた。
本演奏でもそのような若きアバドならではのエネルギッシュな指揮ぶりが健在である。
とりわけ、第1楽章や終楽章におけるトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と力感は、圧倒的な迫力を誇っている。
また、第3楽章においては、アバドならではの歌謡性豊かな表現には汲めども尽きぬ情感が満ち満ちており、その歌心溢れる柔和な美しさには抗し難い魅力がある(アバドは、前述のベルリン・フィル盤では、第2楽章と第3楽章を入れ替えるという近年主流となりつつあるバージョンで演奏していたが、本演奏では、従来版に従って演奏していることについても特筆しておきたい)。
いずれにしても、本演奏は強靭な力感と豊かな歌謡性を併せ持った、いわゆる剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると言えよう。
また、シカゴ交響楽団も持ち前の超絶的な技量を惜しげもなく披露し、望み得る最高の演奏を繰り広げていることも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。
録音は、リマスタリングされたこともあり、比較的満足できる音質である。
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20世紀を代表するヴァイオリニスト、ヘンリク・シェリング(1918-1988)。存命中は高く評価されたが、現在では他の同時代の演奏家たち、ハイフェッツやミルシテイン、オイストラフらと比べると、あまりにも求道的な演奏のためか、少しだけ知名度が低くなってしまった感がある。
しかし彼の完璧な技術と音色の美しさは他を圧倒するものであり、再評価されるべき名手の一人である。
このアルバムに収録されたヴィヴァルディとモーツァルトは、自ら指揮も務めた演奏で、厳しさ漂うバッハとは全く違う、生き生きとした愉悦感を伴う音楽になっている。
1969年12月7日にシュトゥットガルトのリーダーハレ・ベートーヴェン・ザールで催されたライヴ録音になる。
この時代のライヴにしては音質が極めて良好で、聴衆の拍手や客席からの雑音が皆無であるため、おそらくその頃ドイツでラジオ放送用に盛んに録音されていたラジオ・ライヴだったのかも知れない。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番に関してはやはりSWRからリリースされた5枚組の協奏曲集にも組み込まれているが、そちらは1958年の別音源になる。
シェリング51歳の時の充実した演奏が特徴で、磨き上げられた表現力とテクニックが合い俟った端正なライヴに仕上がっている。
彼はライヴに強く、多くのライヴによる名演を残したが初期のものは音質的に物足りなさが残る。
それに対してこのアルバムは歴としたステレオ音源でシェリングのソロと指揮の弾き振りを堪能できる1枚だ。
ヴィヴァルディの『四季』は既に1950年代後半にイタリアのイ・ムジチ合奏団がレパートリーに採り入れて以来、その魅力がヨーロッパを席巻し始めていたのでこの曲の人気の高さが窺える。
シェリングは律儀ながらも良く歌い、4曲を器用にまとめている。
自然の発露としてではなく、むしろ構成感の表出と言ったところが聴きどころだろう。
モーツァルトの方はニックネーム『トルコ風』の名曲だが、これもシェリングらしくきっちりとした形式の中で、生き生きした喜びを感じさせてくれる。
ムラのない均一な音色で奏でながらも、メリハリのある表現が魅力の『四季』、ディティールにもこだわりを見せるモーツァルトと、円熟の演奏が繰り広げられている。
オーケストラのプフォルツハイム南西ドイツ室内管弦楽団は、地方の楽団だがそつのない演奏で健闘している。
しかしどちらかと言えばシェリングのソロの引き立て役に回っていると言える。
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2022年10月04日
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ベームのブラームスの第1番と言えば、1959年のベルリン・フィルとの録音がSACD化されて再評価されているし、そのレビューにも書いたようにこの曲の筆頭に挙げても良い感動を呼ぶ名演であった。
また、1975年にウィーン・フィルと来日した時の印象も強烈だが、当時の解釈はすでに晩年様式に入ったものだった。
それらに対し、この演奏は、1969年にバイエルン放送交響楽団のシーズン幕開けの演奏会で収録されたもの。
ライヴで本領を発揮するタイプのベームが、ここでは完全燃焼を見せている。
そのスケールの大きさ、張り詰めた緊張感は類例がないほどで、造型も堅固そのもの。
バイエルン放送響はベームが頻繁に客演したオーケストラのひとつで、この演奏を聴いただけでも両者の良好な関係が窺われよう。
機能性と力強さ、そしてのびのびとした豊かな響きがベームの音楽の骨格に見事な肉付けを行なっている。
カップリングのグルダの《ジュノーム》は、まずグルダのピアノに驚嘆し、ついでモーツァルトの音楽の奥深さに打たれて、あまりの美しさに陶然とする。
全曲を通して聴いてもたかだか30分のこの曲は、聴いているととても儚い。
ずっと聴いていたいのに、どの楽章も10分程度で終わってしまう。
短調で書かれた第2楽章も、その儚さゆえにとても短く感じられる。
グルダは一音一音が情に流されて弾いているというのではなく、「こうでなければ」と確信を持って弾いているように感じられる。
「木を見て森を見ず」という表現があるが、この演奏の場合、グルダのタッチが洗練の極みに達しているので、その「木」を一つ一つ見るだけでも価値があり、しかも倦むことがない。
さらに、森として見た場合も、その繊細な美しさは比類がないのである。
ベーム指揮のバイエルン放送響はグルダのピアノを全く邪魔しない見事な伴奏。
オケのバランスといい、品の良さといい、申し分がない。
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ヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100周年特別企画として、同時発売のベートーヴェン・コレクションBOXからの分売。
以前LDで発売が予告されながら未発売となっていた、テレモンディアル原盤の秘蔵映像を初商品化。
映像としては1979年のザルツブルク・イースター音楽祭でのライヴから6年後の2度目の収録となる。
その生涯をかけてベートーヴェンに取り組んだカラヤンにとって、『ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)』はとりわけ特別な作品ともいえ、ウィーン楽友協会合唱団をベルリンに呼び寄せ、カラヤンに指名された4人のソリストが世界各地から駆けつけ演奏に参加。
最円熟期のカラヤン&ベルリン・フィルとの至芸が刻印された、圧倒的な演奏である。
この『ミサ・ソレムニス』は、DGへのレコーディングと並行して収録がおこなわれた映像作品。
1979年の映像がライヴ収録というカラヤンとしては比較的珍しいケースだったこともあり、独自の映像表現も含めてより高い完成度を目指したであろうこの映像には、やはりおおいに注目したい。
ソリストではレッラ・クベルリの参加に注目。
ロッシーニやドニゼッティなど主にベルカント・オペラで活躍したこの美声ソプラノはカラヤン晩年のお気に入りだった。
彼女をヒロインとした『ランメルモールのルチア』や『椿姫』の上演とレコーディングを計画していたとも伝えられていた。
しかしながら1989年にカラヤンが亡くなってしまい、共演作品も結局ごく僅かしか残されなかった。
その意味でも貴重な映像と言えそうである。
カラヤンの映像、この『ミサ・ソレムニス』では作為的な面も少なく、映像ソフトとしてオーソドックスに仕上がっており、楽しめる。
当時のベルリン・フィルのレベル、今ではこれを超えるオケはいくらでもあるものの、やはりカラヤン時代のベルリン・フィルの威力を見せつけられた。
ドイツの作品を徹底的重厚に徹しており、これはなかなか素晴らしい出来映えだ。
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2022年10月03日
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本盤に収められたベルリオーズの幻想交響曲は、2010年12月にニューヨークでおこなわれた小澤の病気療養後の復帰コンサート(2日目)の記録である。
既に従来盤で発売されているブラームスの交響曲第1番(14日)も小澤渾身の大熱演であったが、その翌日(15日)の幻想交響曲も凄い演奏だ。
小澤は、若い頃からフランス系の音楽を得意としており、とりわけ幻想交響曲を十八番としていた。
これまで、トロント交響楽団(1966年)、ボストン交響楽団(1973年)及びサイトウ・キネン・オーケストラ(2007年)の3度に渡って録音を行っており、それらはいずれ劣らぬ名演であった。
したがって、今回の演奏は4度目の録音ということになる。
確かに、本演奏においては、小澤自身も病が癒えたばかりで本調子とは言えず、オーケストラもホームグラウンドではないことから万全とは必ずしもいえないところであり、演奏の安定性の観点からすれば、前述の3種の名演にはかなわないし、本演奏上の瑕疵などについて指摘することは容易である。
しかしながら、本演奏にはこれまでの名演とは比較にならないような、小澤のこの演奏にかける直向きさや気迫、そして執念が漲っており、小澤の渾身の命がけの指揮が我々聴き手の肺腑を打つのである。
これぞまさしく入魂の指揮と言えるところであり、火の玉のように燃え尽きんとする小澤に導かれたサイトウ・キネン・オーケストラも大熱演を繰り広げている。
また、小澤&サイトウ・キネン・オーケストラによる壮絶な演奏を固唾をのんで見守るとともに、演奏終了後にスタンディング・オヴェイションとブラヴォーの歓呼で応えた当時の聴衆も、この大熱演の成就に大きく貢献していると言えるだろう。
まさに、本演奏は前日のブラームスの交響曲第1番と同様、指揮者、オーケストラ、そして聴衆が作り上げた魂の音楽と言えるところであり、このような高みに達した音楽に対しては、細部に渡る批評を行うこと自体がおこがましいことと言わざるを得ない。
我々聴き手は、ただただこの崇高な至高の超名演を味わうのみである。
録音も素晴らしい。
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演奏は、世紀の大指揮者であるカラヤンと世紀のプロデューサーであるカルショウが初めてコンビを組んで英デッカに録音した超名演であり、R・シュトラウスについては他の追随を許さない名演の数々を遺してきたカラヤンとしても、本盤は、最上位に位置づけられるものと高く評価したい。
壮年期のカラヤンの生命力に満ち溢れた圧倒的な指揮ぶりと、古き良き時代の音色をいまだ残していた当時のウィーン・フィルとの組み合わせが、至高・至純の名演を成し遂げた。
これだけの名演だけに、SHM−CD盤やSACDハイブリッド盤など、これまで様々な高音質化への取組がなされてきたが、ついに、決定盤とも言うべき究極の高音質盤が発売された。
本盤は、もはやこの世のものとは思えないような極上の超高音質である。
ヒスノイズや、高域のピーク感が上手に処理されており、1959、60年録音とは思えないナチュラルでフラットなサウンドに生まれ変わっている。
「ツァラトゥストラかく語りき」では、冒頭のオルガンの音色からして、大地の奥底から響いてくるような重厚な迫力に満ち溢れているし、それらを土台とした金管楽器によるブリリアントな美しい響き、ヴァイオリン・ソロの美しさもとろけるような艶やかさ。
気宇浩然たるこの曲の特質をあますところなく表出した本盤はいま聴いても新鮮である。
「ツァラトゥストラ」は、壮年期の演奏だけに、全体の構築力の点では1970年代、1980年代のベルリン・フィルとの録音に一歩譲るが(場面転換が必ずしもスムーズにいっておらず、違和感が残る点など)、それでも「後の世の人びとについて」やボスコフスキーのソロで聴かせる弦の美しさなど、ふわっと風が巻き上がるようなR.シュトラウス独自の世界を表しているのはカラヤンならでは。
強奏の部分でちょっと背伸びしてて聴きずらい部分もあるのは否めないが、「動」よりも「静」をじっくり聴いておきたい演奏。
曲想とウィーン・フィルの音色とが合っているのは、むしろ後の2者。
「ティル」ではオケまでが聴く者に“いたずら”を仕掛けてくるように腕白だし、そして「ドン・ファン」に至ってはあれよあれよという間にのめりこんで20分過ぎてしまう。
「ティル」や「ドン・ファン」における管も弦もバリバリで、とにかく若く、ウィンナ・ホルンの魅力も素晴らしさの限りだ。
発売された高音質盤とは一線を画しており、デッカ・オリジナルLPで聴く音を彷彿させるようなまさに、演奏、録音のすべてにおいて最高水準の超名演盤と言えるだろう。
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2022年10月02日
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ワルターとバイエルン国立管弦楽団の珍しいコンビによる1950年のライヴ。
20世紀最大の名指揮者のひとり、ブルーノ・ワルターは、1913年から1922年までミュンヘンのバイエルン国立歌劇場の監督で、ここで大変に充実した音楽活動をおこなっていた。
その後、活動の拠点をウィーンに移し、戦争によってアメリカに亡命したのは周知の通り。
戦後、故郷ベルリンやウィーンは何度か訪れているにもかかわらず、ミュンヘンはこの1950年の一度きりだったとかで大変貴重な録音。
LPでもCDでも海賊盤でも今までリリースされたことのない完全初出盤である。
ワルターの最も多忙な時期の録音で、それだけに若々しい活気がみなぎる演奏となっている。
しかも音楽にいかにも手づくり風のホームスパンのような素朴なあたたかさがある。
特に「未完成」がずばぬけた名演で、この曲のつきるところのない魅力を一度に解明してみせた感がある。
特に第2楽章は深く心をこめて歌う。
およそ考えられぬほどの高貴な抒情で満たされ、この音楽の限りなく永遠に続くことを願う気持ちすら起きる。
ワルターはマーラーの直弟子であり、マーラーと一心同体の人だ。
だいたいマーラーを得意にしている指揮者だが、なるほどこの演奏は素晴らしい。
マーラーが演奏したらこうなるだろうと思われるくらいにマーラーそのものになりきっている。
造形の安定度の高さも特筆に値するが、全4楽章をスケール大きい気宇でまとめていることも高く評価できる。
後年のステレオ録音の円熟した演奏もいいが、これはこれで改めて傾聴したい秀演。
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1988年11月、ウィーン・ムジークフェラインザールにて収録したDVDで、同年のジルベスター・コンサートに次ぐ最晩年の録音となった。
カラヤンにとって3度目の録音となったブルックナーの交響曲第8番で、演奏はウィーン・フィル。
カラヤンがオーケストラからマーラーの官能美さえ思い起こさせるような耽美的な美しさを引き出しているだけではなく、信じられないような迫力のある名演で、すべてが厳しく聴き手に迫ってくる。
一般的には緻密さよりも情緒的表現を重視した演奏と言われるが、むしろ両者が高い次元で融合した点にこのDVDの価値はある。
確かに演奏中のカラヤンの表情を見るとブルックナーの音楽に深くのめり込み、その美しさに身を任せているように見える部分もあるが、画面を消して音楽だけ聴くとカラヤンならではの完成度の高い演奏であることが良く分かる。
そこではヴァントや朝比奈隆では表現できない美しいブルックナーが表現されており、騒々しいとも言われるこの交響曲かくも美しく表現できるのはカラヤンならではである。
かといって迫力に欠けるわけでもなく、第1楽章から終楽章まで静寂と怒涛が聴く人を圧倒させる。
ウイーン・フィルのアンサンブルに難点があるのは周知の事実ではあるが、この曲ではそれを感じさせず、その艶やかな音色がたまらない。
この曲の持つ「逞しさ」よりも「美しさ」に徹した、カラヤン最晩年の名演である。
また、洗練された中にも何故かオーストリアの民族的な要素を感じさせる素朴な味わいが見え隠れする演奏でもあり、晩年のカラヤンがウィーンへと回帰したのが良く分かる内容を持っている。
ユニテルに残された1970年代の演奏も捨てがたいのだが、どちらか1枚と言われれば、こちらをお薦めしたい。
ただし、かなり独特な味わいを持ったブルックナーだと思うので、聴く人によって好みが大きく分かれそうではある。
ブルックナーの交響曲では第9番が未完成であるために、第8番が最高傑作と言えるが、ブルックナーを愛したカラヤンの数あるDVDの中でも名盤中の名盤である。
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2022年10月01日
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1954年4月28日から5月21日にわたる長い演奏旅行中、パリ・オペラ座におけるコンサートをライヴ録音したもの。
同じ年と数年前にセッション録音で「運命」と「未完成」をウィーン・フィルと収録したものが有名だ。
その演奏は緻密で完成度が高いのであるが、なんとなく分別臭くて面白くないなと思う面も確かにあった。
この演奏は同じ様式の佇まいを備えながら、熱気、緊張感、即興性を兼ね備えて、なかなか素晴らしい演奏である。
また、ウィーン・フィルとベルリン・フィルの異なる特徴を反映して、ちょっとごつごつした感じの剛毅な演奏。
ライブならではのたまにアンサンブルの乱れもあるが、音楽の流れは損なっていない。
またまた、フルトヴェングラーの名演に出会えたことに感謝である。
音質はすこぶる新鮮で、モノラル録音であることを除けば、十分現役盤として通用する。
パリ・オペラ座の特徴であろうか、残響が少なく、デッドに聴こえ、防音室で聴いているような傾向が少々あるが、その分、各楽器の音が新鮮で、音色がある。
ほとんど音はいじっていないのではないのだろうか。
また、独立性がすこぶる良くて、各パートが何をやっているかが手に取るようにわかる。
更には、曲間が未編集なので、まさに客席にいるかのような臨場感を味わえる。
素晴らしい復刻を、デルタの技術者の方々に心から感謝するものである。
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この作品は、チャイコフスキー作品と同じくライヴでないライヴの為、映像と音は別採りの信じがたい映像。
でも、この内容が凄いからあえて採り上げた。
カラヤン&ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲全集の中でも、最もカラヤンの個性が発揮されているのは、1970年代半ばの全集であると考えられる。
というのも、この当時はカラヤン&ベルリン・フィルの全盛期であったと言えるからだ。
分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていた。
カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。
当該全集においても、かかる圧倒的な音のドラマは健在であり、どこをとってもいわゆるカラヤンサウンドに覆い尽くされた圧巻の名演に仕上がっているのである。
それ故ベルリン・フィルもカラヤン自身も最も脂の乗った時期の収録なだけに映像も見応え満点。
「第1」の終楽章は展開部からは指揮でぐいぐい引っ張っていく。
音も指揮の素晴らしさそのものの音を出している為、白熱の迫力と気力でベルリン・フィルをダイヤモンドに変身させている奇跡の演奏だと思う。
「第2」も「第3」も素晴らしく、「第2」のラストではコンマスの弓の糸が何本も切れている。
それほどカラヤンの指揮するときのベルリン・フィルは本気を出して演奏するのだ。
「第4」のラストもさすがであるし、音のズレを指摘する人がいるが、ほとんど目につかない。
ましてカラヤン芸術にブレはない。
聴衆は全て、撮影の為のバイト生ということで凄い作品である。
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