2023年02月
2023年02月28日
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ムラヴィンスキー初来日時(1973年)の衝撃のライヴ録音で、異常とも言える緊迫感で演奏した貴重な記録である。
ムラヴィンスキーの初来日公演は、日本の音楽関係者に大きな衝撃を与え、特にベートーヴェン「第4」での非ドイツ的アプローチによる凄まじい演奏は語り草になっている。
本盤のベートーヴェン「第4」は、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの黄金コンビの凄まじさを存分に味わうことが出来る超名演と高く評価したい。
ムラヴィンスキーのCDは、DGにスタジオ録音したチャイコフスキーの後期3大交響曲を除くと、録音状態が芳しくないのが難点であった。
本盤は信じられないような鮮明な音質であり、これにより、ムラヴィンスキーの透徹したアプローチを存分に味わうことが出来るようになったのは、実に幸運の極みと言える。
この録音は以前ロシアン・ディスクから粗悪な音質でCD化されていたが、今回はNHKに保管されていたマスター・テープを使用し、入念なデジタル・リマスタリングを施した結果、ムラヴィンスキーの全CD中屈指と言える鮮明な音質に仕上がった。
ムラヴィンスキーのベートーヴェン「第4」は、理論的な音楽の造形が明快で、ここまでくると気持ちいい。
第1楽章の冒頭のややゆったりとした序奏部を経ると、終楽章に至るまで疾風の如きハイテンポで疾走する。
ここはテヌートをかけた方がいいと思われる箇所も素っ気なく演奏するなど、全くといいほど飾り気のない演奏であるが、どの箇所をとっても絶妙な繊細なニュアンスに満ち満ちている。
切れ味鋭いアタックも衝撃的であり、ムラヴィンスキーによって鍛え抜かれたレニングラード・フィルの鉄壁のアンサンブルも驚異の一言である。
各奏者とも抜群の巧さを披露しているが、特に、終楽章のファゴットの快速のタンギングの完璧な吹奏は、空前絶後の凄まじさだ。
同様のタイプの演奏としてクライバーの名演(バイエルン国立管弦楽団とのライヴ録音(オルフェオのSACD盤))もあるが、内容の彫りの深さにおいて、ムラヴィンスキーには到底太刀打ちできるものではないと思われる。
アンコールの2曲は、この黄金コンビの自家薬籠中の曲だけに、全く隙のないアンサンブルを披露しており、そうした鉄壁のアンサンブルをベースとした圧倒的な迫力と繊細な抒情が見事にマッチングした超名演だ。
このCDの価値を高めているのは、NHKによる良心的な録音、及びアルトゥスによる優れたリマスタリングにもよる。
会場ノイズを除去しすぎることもなく、徒らな効果も狙うこともなく、きわめて真っ当な音で勝負してくれたのが、何よりありがたい。
このような中で、今般、待望のシングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。
音質の鮮明さ、そして音場の幅広さ、音圧などのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第である。
まさにムラヴィンスキーの芸術を知る上で欠く事のできない名SACDの登場と言えるだろう。
いずれにしても、ムラヴィンスキーによる圧倒的な超名演を現在望みうる最高の高音質SACDで味わうことができるのを大いに喜びたい。
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1960年、ウィーンでのライヴ録音であるが、本全集より少し以前のスタジオ録音による全集に優るとも劣らぬクレンペラーならではのスケール雄大な名演と高く評価したい。
本全集は、クレンペラーの芸術が完成期を迎える時期の録音であるが、ここでは、晩年のクレンペラーの堂々たる至芸を味わうことが可能である。
クレンペラーのスケール雄大な演奏スタイルが確立したのは1960年代に入ってからというのが一般的な見方であるが、本全集は、そのような演奏スタイルを見せるようになってきたと言えるものがある。
「第1」など、誰よりもテンポが遅いが、何にも邪魔をされることがない悠々たる進行は、まさに巨象が大地を踏みしめるが如き重量感に満ち溢れているが、それでいて、ウドの大木に陥ることなく、随所に聴かれる情感の豊かさも聴きものだ。
「第2」も、テンポも非常にゆったりとしたものであるが、それ故に、ベートーヴェンがスコアに記した音符の1つ1つを徹底的に鳴らし切り、あたかも重戦車の進軍のような重量感溢れる力強い演奏に仕立て上げたのは、さすがの至芸という他はない。
ベートーヴェンの交響曲の演奏スタイルとして、偶数番の交響曲は柔和に行うとの考えも一部にあるが、クレンペラーにはそのような考えは薬にしたくもなく、「エロイカ」や「第5」に行うようなアプローチで「第2」に臨むことによって、同曲をスケール雄大な大交響曲に構築していった点を高く評価すべきであろう。
「エロイカ」には、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルによる1944年盤(ウラニア)及び1952年盤(EMI)という至高の超名演が存在しており、この2強を超える演奏を成し遂げることは困難を極める(私見ではあるが、この2強を脅かすには、カラヤンのように徹底した音のドラマの構築という、音楽内容の精神的な深みを追求したフルトヴェングラーとは別の土俵で勝負する以外にはないのではないかと考えている)が、クレンペラーによる本演奏は、そのスケールの雄大さや仰ぎ見るような威容、演奏の充実度や重厚さにおいて、前述の2強に肉薄する素晴らしい名演と高く評価したい。
冒頭の2つの和音からして胸にずしりと響いてくるものがある。
その後は微動だにしないゆったりとしたインテンポで曲想を精緻に、そして格調の高さを失うことなく描き出して行く。
クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、いささかも隙間風が吹かない重厚な音楽が紡ぎ出されている。
木管楽器をやや強めに演奏させるのは、いかにもクレンペラーならではのものであるが無機的になることはなく、どこをとっても彫りの深さが健在である。
全体の造型はきわめて堅固であるが、スケールは極大であり、悠揚迫らぬ重量感溢れる音楽が構築されている。
「第4」も、「第2」と同様のアプローチで、スケール雄大な演奏を繰り広げており、特に終楽章は、巨象がのっしのっしと歩くような重厚なド迫力に圧倒される、雄渾の極みとも言うべき至高の超名演だ。
クレンペラーは格調の高さをいささかも損なうことなく、悠揚迫らぬテンポで精緻に楽想を描き出している。
木管楽器を強調するのはクレンペラーならではのユニークなものではあるが、各楽器を力強く演奏させて、いささかも隙間風が吹かない重量感溢れる重厚な音楽が紡ぎだされていく。
ドラマティックな要素などは薬にしたくもなく、微動だにしないインテンポが基調であり、造型は極めて堅固である。
「第5」については、かのフルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる至高の超名演(1947年)とは対照的な演奏であるが、そのスケールの雄大さや巨木のような威容、崇高さにおいては、フルトヴェングラーによる超名演にもいささかも引けを取っていないと高く評価したい。
ゆったりとした微動だにしないインテンポは、沈み込んでいくような趣きがあるが、それでいて、いわゆる「田園」ならではの明瞭さにいささかの不足もない。
むしろ、こうした深みのアプローチが、演奏に潤いとコクを与えている点を見過ごしてはならないであろう。
ワルターやベームの「田園」のような独特の愉悦感や優美さには欠けているかもしれないが、演奏の有する深みにおいては、ワルターやベームといえども一歩譲るだろう。
「第7」も素晴らしい超名演だ。
筆者としては、1968年盤の方をさらに上位に置きたいが、本盤の方もほぼ同格の名演と高く評価したい。
楽曲の進行は殆ど鈍行列車だ。
しかしながら、鈍行列車であるが故に、他の演奏では聴かれないような旋律やニュアンスが完璧に表現されており、踏みしめるような重量感溢れるリズムなど、殆ど人間業とは思えないような圧巻のド迫力だ。
「第8」については、テンポの面だけをとれば、クナッパーツブッシュによる各種の演奏と似通っているとも言えるが、決定的な違いは、本演奏にはクナッパーツブッシュの演奏には存在した遊びの要素が全くないということであろう。
したがって、どこをとってもにこりともしない峻厳な音楽が構築されていくが、その仰ぎ見るような威容や演奏の充実度、立派さにおいては、クレンペラーによる本演奏の方をより上位に置きたいと考える。
このような微動だにしないインテンポによる威風堂々たる重厚なベートーヴェンにはただただ頭を垂れるのみである。
ベートーヴェンの「第9」の名演としては、フルトヴェングラー&バイロイト祝祭管弦楽団によるドラマティックな超名演(1951年)の印象があまりにも強烈であるが、当該名演とは対照的に、微動だにしないゆったりとしたインテンポによって曲想を精緻に、そして格調高く描き出しているクレンペラーによる重厚な名演もまた、格別な味わいに満ち溢れている。
クレンペラーは各楽器を力強く演奏させており、とりわけ木管楽器をやや強めにするのはユニークであるが、いささかも無機的な演奏に陥ることがなく、どこをとっても彫りの深い音楽が紡ぎ出されていく。
巧言令色などとは全く無縁であり、飾り気が全くない微笑まない音楽であるが、これはまさに質実剛健な音楽と言えるのではないだろうか。
全体の造型はきわめて堅固であるがスケールは極大であり、いずれにしても、本演奏は、前述のフルトヴェングラーによる名演も含め、古今東西の様々な指揮者による名演の中でも、最も峻厳で剛毅な名演と高く評価したい。
最近では、ベートーヴェンの演奏にも、古楽器奏法やピリオド楽器による小編成のオーケストラによる演奏など、軽佻浮薄な演奏が流行であるが、本全集を聴いていると、現代の演奏など、まるで子どものお遊びのように感じてしまう。
それくらい、本全集は、巨木のような大芸術作品と言うことができるだろう。
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弦の国チェコの名門、スメタナ四重奏団は緊密な中にも自在な表現でドヴォルザークの音楽を生き生きと自然に紡ぎ出している。
スメタナ四重奏団は、ドヴォルザークの弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」を果たして何度演奏し、録音したのであろうか。
スメタナ四重奏団によるドヴォルザークの「アメリカ」は1958年のモノラル録音のセッション以来、解散直前の1987年のデジタル・ライヴ盤を含めて都合5種類がリリースされている。
ヴァーツラフ・ノイマンを始めとするプラハ音楽院時代の仲間達で四重奏団が結成されたのは1945年だが、1956年以降はメンバーの交代もなく4人揃って32年の長きに亘ってアンサンブルを組み、常に第一線の水準を保ち続けたこと自体驚異的な事実だ。
本盤の録音は、1966年であり、スメタナ四重奏団としては初期の録音になるのであるが、他の録音にも優るとも劣らない素晴らしい名演と高く評価したい。
この演奏では彼らの壮年期の力強さと、第1回目の録音時の若さに溢れた溌剌とした覇気を併せ持った表現が秀逸で音質も良好だ。
スメタナ四重奏団には、聴き手を驚かすような特別な個性があるわけではない。
彼らの演奏の特徴はメンバーの1人1人が自由闊達な演奏をしながら、アンサンブルとして完璧に統率されていることで、またチェコの弦楽器奏者特有の明るく艶やかな音色と決して重厚になり過ぎない表現の中庸さにあると思う。
あくまでも、楽曲を真摯な姿勢で忠実に弾いて行くという、いわゆるオーソドックスなアプローチを旨としているが、素晴らしいのは、息のあった各奏者の鉄壁のアンサンブルと、チェコ風のローカル色豊かな美しい音色だ。
そのあたたかささえ感じさせる音色と鉄壁のアンサンブルによって、演奏したいずれの楽曲にも、潤いと温もりを与えることになるものと思われる。
したがって、アプローチがオーソドックスなものであっても、平板な演奏にいささかも陥らないのは、こうした点に理由があるものと考える。
第5回目のライヴは彼らの円熟期特有の角がとれた、音楽的にも深い味わいのある演奏で聴き逃せないが、こちらの方がドヴォルザークの斬新な曲想に、より相応しい鮮烈な表現が魅力的だ。
一方、第2楽章〈アンダンテ・カンタービレ〉が特に有名なチャイコフスキーも名演で、情緒に溺れない節度ある演奏は美しい限り。
1966年にスメタナ四重奏団が残した唯一のセッションでそれだけでも貴重な録音だが、調和のとれた美しい演奏だ。
チャイコフスキーの場合は、旋律のあまりの美しさ故に、いたずらに感傷に陥ったりして、芸術作品としての格を落としかねない危険性を孕んでいるが、スメタナ四重奏団の手にかかると、高踏的な美しさを失わないのが見事だ。
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2023年02月27日
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既に多くのひとに語り尽くされている本盤であるが、それでも誰かに、この演奏の素晴らしさを伝えたくなる稀有の名盤であり、ちょうどテンシュテットが咽頭がんに倒れる直前の録音である。
当初は、全集の中に組み込まれる予定であったが、本演奏の中に、テンシュテットがどうしても取り直しをしたい箇所があったということで、当初発売の全集には組み込まれなかったいう曰くつきの演奏である。
全集の発売後、数年経ってから漸く発売されたが、マーラーの音楽が持つ美しさ、翳り、悲しみ、すべてを徹底的に追求したテンシュテットならではの表現による素晴らしい名演だ。
その深い表現はいつまでも色褪せることなく永遠の光を放っていると言えるところであり、まさにマーラー演奏の1つの規範になりうる、20世紀の偉大な録音と言えるだろう。
テンシュテットが取り直しをしたかどうかは、筆者は承知していないが、そのようなことはいささかも気にならないような見事な出来栄えと言えるところであり、救いのない悲壮感にあふれている。
この曲で最も暗く沈鬱で救いのないような演奏で、作曲家がワルターに「この曲を聴いたら自殺者が出るのではないだろうか」と話していたそうだが、まさにこのような演奏が作曲家が考えていたものなのではと考えてしまうくらいテンシュテットの演奏は破滅的で、絶望的な悲愴感が漂った演奏である。
思い切った強弱の変化やテンポ設定、時折垣間見せるアッチェレランドなど、とてもスタジオ録音とは思えないようなドラマティックな表現を行っている。
テンシュテットは、咽頭がんに倒れて以降は、コンサートや録音の機会が著しく減ったが、本盤のような爆演を聴いていると、病に倒れる前であっても、1つ1つの演奏や録音に、いかに命懸けの熱演を行っていたのかがよくわかる。
テンシュテットの語り口も相変わらず素晴らしく、なかでも終楽章の「告別」では、夜の闇がまさに死を思わせるような世界が作り上げられており、ゾッとしてしまう。
特に「告別」後半の長いオーケストラの間奏部分は、前人未到の境地と言ってよいであろう。
ロンドン・フィルも、こうしたテンシュテットの鬼気迫る指揮に、よくついて行っており、独唱のバルツァやケーニッヒともども、望み得る最高のパフォーマンスを示していると言っても過言ではあるまい。
『大地の歌』といえば、クレンペラーやワルターの演奏が有名であるが、これは全く別方向からのアプローチであり、持っていて損はない。
そう何度も聴けるような演奏ではないが、それだけテンシュテットの個性の表れた名演と言えるだろう。
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カラヤンは、ブルックナーの交響曲の第8番を、DVD作品などを除けば、3度スタジオ録音している。
その中でも本演奏は3度目の最後の録音に当たるものであるが、ダントツの名演であり、他の指揮者による様々な同曲の名演の中でも、上位にランキングされる至高の名演として高く評価したい。
カラヤンの最初の録音は、ベルリン・フィルの芸術監督に就任して間もない頃の演奏であり(1957年盤)、カラヤンがいまだベルリン・フィルを必ずしも掌握しきれていないこともあるせいか、立派ではあるがいささか重々し過ぎる演奏になってしまっていた。
そして、モノラル録音というのも大きなハンディがあると言わざるを得ない。
これに対して、2度目の録音(1975年盤)は、その後に全集に発展する第1弾となったものであるが、カラヤン全盛時代ということもあり、鉄壁のアンサンブルと流麗なレガートの下、金管楽器のブリリアントな響きや肉厚の弦楽合奏、フォーグラーによる雷鳴のようなティンパニなど、いわゆるカラヤンサウンド満載。
音のドラマとしては最高ではあるが、ブルックナーというよりはカラヤンを感じさせる演奏であったことは否めない。
これら1957年盤及び1975年盤に対して、本盤の演奏は、そもそもその性格を大きく異にしている。
ここには、カラヤンサウンドを駆使して圧倒的な音のドラマを構築したかつてのカラヤンの姿はどこにもない。
第1楽章や第2楽章などにはその残滓がわずかに聴き取れるが、第3楽章以降に至っては、自我を抑制し、虚心坦懐に音楽そのものの魅力をダイレクトに伝えていこうという自然体のアプローチの下、滔々と流れる崇高な音楽が流れるのみだ。
カラヤンとしても、最晩年になって漸く到達し得た忘我の境地、至高・至純の清澄な境地であると言うべきであり、これほどの高みに達した名演は、神々しささえ感じさせる荘厳さを湛えているとさえ言える。
このようなカラヤンとともに、美しさの極みとも言うべき名演奏を繰り広げたウィーン・フィルの好パフォーマンスにも大きな拍手を送りたい。
録音については従来CDやSHM−CDでも十分に鮮明ではあるが、いまだにSACD化されていないのは、非常に不思議な気がしている。
これだけの歴史的な名演でもあり、今後、更なる高音質化を大いに望みたい。
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本盤には、パールマンとジュリーニが、1976年に録音したブラームスのヴァイオリン協奏曲が収められている。
ブラームスならではのロマンティックで香り高いこの名曲は、ベートーヴェンやメンデルスゾーンの作品に劣らぬ人気を誇っており、ブラームスのヴァイオリン協奏曲の名盤は数多いが、このディスクは独自の光彩を放っている。
このCDは独奏者の名人芸を楽しむような演奏とは対極の演奏であり、真にブラームスを愛するファンには、曲そのもののもつ美しさを心ゆくまで堪能できる、たまらない魅力を持った演奏と言える。
素晴らしい名演だと思うが、その成功の要因は、まずはジュリーニ&シカゴ交響楽団による名演奏にあると言えよう。
ジュリーニは、イタリア人指揮者でありながら、ブラームスなど独墺系の楽曲を得意とした指揮者であるが、本盤でも、そうした実力を大いに発揮している。
ブラームスの重厚なオーケストレーションを、無理なくならすとともに、そこに、イタリア人ならではの温かみのある音色を加えた味わい深い演奏を行っていると言えるのではないか。
どの箇所をとっても、ヒューマニティ溢れる美しさに満ち溢れている。
ブラームスの他の楽曲では、こうしたアプローチが必ずしも功を奏するわけではないが、ブラームスの楽曲の中でも明るさを基調とするヴァイオリン協奏曲の場合は、こうしたジュリーニのアプローチは見事に符合する。
常々ジュリーニはゆったりとしたテンポで十分歌いつつ、巨大な伽藍のようなスケール感を持ったブラームスを聴かせてくれるが、このパールマンとの共演においてもスタンスは一向に変わっていない。
楽譜に刻まれた1音1音を真摯に読み込み、オーケストラをよく歌わせている。
シカゴ交響楽団もジュリーニの指揮の下、実に楽しげに音楽を奏でているようだ。
シカゴ交響楽団の優秀さは改めて言うまでもないが、ここではジュリーニの指揮のもと、低弦の安定した分厚い、いかにもドイツ的なサウンドをつくり上げていて見事である。
こうした骨太で安定感抜群の伴奏の下、若きパールマン(31歳)の、気迫あふれる演奏が印象的で、変幻自在の素晴らしい名技を披露している。
まさに唖然とする巧さと言うべきであるが、ジュリーニの名指揮によって、技量だけが全面に出ることなく、ロマンティックでスケールの大きなブラームスとなっていて、内容の豊かさが伴っているのも素晴らしい。
そのレパートリーなどから、やや軽く見られてしまうパールマンも、ジュリーニの要求によく応え、ブラームスの音楽への献身的な演奏を実現している。
どんな難曲でもスイスイとこなしてしまうパールマンだが、これは少し違っている。
それはまるで挑戦者のようにもの凄い意気込みで、彼の情熱がじかに感じられる数ないもののひとつだろう。
このディスクが仏ACC,ADFディスク大賞、米グラミー賞など、さまざまな栄誉に浴したことも当然の事だろう。
巨匠ジュリーニの見事なリードとサポートにより、パールマンが伸びやかに、そして緻密に聴かせる演奏は今でも同曲随一の名盤としての地位を譲っていない。
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2023年02月26日
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ヤンソンスは、生前、ラトルやゲルギエフなどと並ぶ世界を代表する人気指揮者の1人であった。
コンセルトへボウ・アムステルダムとバイエルン放送交響楽団といった超一流の音楽監督を兼務するなど、名実ともに現代を代表する大指揮者であったと言っても過言ではあるまい。
ヤンソンスが初来日したのは1986年で、当時、レニングラード・フィルの副指揮者をつとめていたヤンソンスは、ムラヴィンスキーが急病で来日をキャンセルしたこともあって、その代役としてレニングラード・フィルとともに数々の演奏会をこなしたのである。
本盤に収められたショスタコーヴィチの交響曲全集は、いまだヤンソンスが若かった初来日の2年後の録音(1988年)である第7番を皮切りとして、2005年に録音された第13番に至るまで、何と17年もの歳月をかけて録音がなされたものである。
そして、オーケストラについても、副指揮者をつとめていたレニングラード・フィルや現在音楽監督をつとめているバイエルン放送交響楽団、更には、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団、ロンドン・フィル、オスロ・フィルといった世界各国の8つのオーケストラを起用して録音がなされているというのも、本全集の大きな特徴と言えるだろう。
ヤンソンスの芸風は、本全集の17年間に大きく変容しているとは言えるが、基本的には純音楽的なアプローチと言えるのではないだろうか。
ムラヴィンスキーの下で副指揮者をつとめていたにもかかわらず、ムラヴィンスキーのような楽曲の心眼に鋭く切り込んで行くような徹底して凝縮化された凄みのある表現を聴くことはできない。
さりとて、ゲルギエフやスヴェトラーノフ、そしてロジェストヴェンスキーなどによるロシア風の民族色を感じさせるようなアクの強さなども殆ど存在していない。
むしろ、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、他のロシア系の指揮者とは一線を画する洗練された演奏を行っているとさえ言えるだろう。
しかしながら、ヤンソンスの表現は洗練されているからと言って、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていない。
一聴すると淡々と流れていく各フレーズには独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現を駆使していると言えるのかもしれない。
もっとも、17年もの歳月をかけただけに、初期に録音されたものよりも後年の演奏の方がより優れており、とりわけバイエルン放送交響楽団とともに録音した第2番、第3番、第4番、第12番、第13番の5曲は、素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。
これに対して、最初の録音であるレニングラード・フィルとの第7番は、いささか踏み込み不足が感じられるところであり、作曲者生誕100年を記念して発売されたコンセルトへボウ・アムステルダムとのライヴ録音(2006年)と比較すると、今一つの演奏であると言わざるを得ない。
その他の交響曲については、出来不出来はあるが、少なくともヤンソンスの名声を傷つけるような演奏は皆無であり、一定の水準は十分に保った演奏に仕上がっている。
前述のバイエルン放送交響楽団との5曲の名演やコンセルトへボウ・アムステルダムとの第7番の名演等に鑑みれば、ヤンソンスがバイエルン放送交響楽団、あるいはコンセルトへボウ・アムステルダムとともに、ショスタコーヴィチの交響曲全集を録音すれば、おそらくは現代を代表する全集との評価を勝ち得ることが可能ではなかったかとも考えられるところだ。
いずれにしても、本全集は、大指揮者ヤンソンスへの確かな道程を感じさせる全集であり、最初期の第7番を除いては水準以上の演奏で構成されていること、そして破格の廉価であることに鑑みれば、初心者にも安心しておすすめできる素晴らしい全集であると評価したいと考える。
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1964年5月7日 東京文化会館に於けるライヴ録音。
クリュイタンスがパリ音楽院管弦楽団とスタジオ録音した4枚にもわたるラヴェルの管弦楽曲全集は、フランス風のエスプリに満ち溢れた不朽の名盤として名高い。
本盤は、当該全集が録音された直後の来日時のライヴ録音であるが、演奏は実に素晴らしい。
いずれの曲も、スタジオ録音と同様に、フランス風のエスプリに満ち溢れているが、それに加えて、ライヴならではの圧倒的な迫力や即興性があるのが特徴だ。
ここには、優雅さの表出にかけては右に出るもののいないクリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団のコンビが作り出すフランス本場物の“熱さ”が聴ける。
スペイン狂詩曲やラ・ヴァルス、ダフニスとクロエの第2組曲の終結部の猛烈なアッチェレランドと劇的な大強奏や、マ・メール・ロワやクープランの墓での絶妙に揺れ動くテンポ設定の下、各楽章を巧みに描き分けをしていくという、いわゆる即興性は、スタジオ録音には見られない本盤の特徴と言うことが出来よう。
有名な亡き王女のためのパヴァーヌも、決して通俗には陥らず、クリュイタンスが指揮すると、高貴にして優美な抒情で満ち溢れるのはさすがと言うべきであろう。
『日本のファンはパリ音楽院の最後の香りを味わった。ラヴェルは彼らの最も得意とする曲目だけに僕も体がしびれる思いがしたものだ。「亡き王女」はなんとまたエレガントに始まることだろう、これぞ王朝の音楽だ。「ラ・ヴァルス」における多彩な表現力「ダフニスとクロエ」における木管の震えるような魅力についてはどんな絶賛してもしすぎることはないだろう』(宇野 功芳)
かつて発売されていたモノラル録音は、やや音質に難があったが、リマスタリングによりかなり聴きやすい音質に生まれ変わった。
更に、嬉しいのは、本盤には、新たに発見されたステレオ音源が収録されていることで、より一層音質に臨場感が加わったのは素晴らしい限りだ。
クリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団が日本でラヴェルを演奏した記録が高音質で再現される衝撃は大きく、このコンビがEMIにスタジオ録音したラヴェルと同水準のものが、ライヴで再現されるのをCDで聴くのは素晴らしいことだ。
特に、ラ・ヴァルスの劇的な終結部が、モノラルではやや籠った音であったが、かなり鮮明な音質に変化した点が印象的であった。
この演奏を実際に聴いた人にはもちろん、そうでない人にもこれはかけがえのない「アルバム」となることであろう。
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本盤には、若きキーシン(17歳)が最晩年のカラヤン(80歳)&ベルリン・フィルと組んで行った唯一の演奏であるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が収められているが、至高の超名演と高く評価したい。
それは、何よりも、バックをカラヤン&ベルリン・フィルがつとめたというのが大きいと言える。
本盤の演奏は、カラヤンのベルリンでの最後のコンサートとなったジルヴェスターコンサート(1988年12月31日)の直前に収録されたものとされている(加えて、ベルリン・フィルとのラスト・レコーディングにも相当する)。
もっとも、CDにはライヴ・レコーディングと表記されており、演奏終了後の拍手が収録されていることから、ジルヴェスターコンサートでの実演をベースにしつつ、一部にゲネプロでの演奏が編集されているのではないかとも考えられるところだ。
当時のカラヤンとベルリン・フィルの関係は決裂寸前。
そして、カラヤンの健康も歩行すら困難な最悪の状況であり、コンサートが行われたこと自体が奇跡でもあった。
それだけに、本演奏にかけるカラヤンの凄まじいまでの執念は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な迫力を有している。
1960年代や1970年代のカラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代の演奏のような、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマはもはや本演奏においては殆ど聴くことができない。
そして、カラヤン自身の統率力にも衰えが見られるなど、演奏の完成度という意味においては随所に瑕疵が散見されると言わざるを得ない。
前述のような本演奏にかける凄まじいまでの執念と、そしてキーシンという若き才能のあるピアニストを慈しむような懐の深い指揮が、本演奏をして至高の超名演たらしめているのであると考える。
テンポは極めてゆったりとしたものであるが、これはカラヤンが自らの波乱に満ちた生涯を、そしてベルリンで行った数々の演奏会を自省の気持ちを込めて振り返るような趣きもある。
本演奏は、カラヤンが最晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にあるとも言えるであろう。
キーシンのピアノ演奏も、カラヤンに対していささかも引けを取っておらず、卓越した技量をベースとして、強靱な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現力の幅は桁外れに広く、いかにもキーシンならではの堂々たるピアニズムを展開していると評価したい。
併録のスクリャービンのピアノ曲も、キーシンならではの豊かな表現力が発揮された素晴らしい名演に仕上がっている。
音質は1988年のデジタル・ライヴ・レコーディングであるが、従来盤でも十分に満足できる高音質である。
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2023年02月25日
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チェコが世界に誇るカルテットとして活躍したスメタナ四重奏団によるヤナーチェクの弦楽四重奏曲の4度目の録音で、その白熱した名演はライヴでありながら他の追随を許さぬ至芸の域に達している。
これはヤナーチェクの弦楽四重奏曲の数ある録音の中でも最高の名演であるとともに、スメタナ四重奏団の様々な演奏の中でもトップの座を争う超名演と高く評価したい。
本盤をそうした超名演たらしめたのは、ライヴ録音であるということによるのではなかろうか。
スメタナ四重奏団は、本盤の3年前にも、両曲をスタジオ録音している。
それもスメタナ四重奏団の名を辱めることのない名演ではあるが、本盤を前にすれば、太陽の前の星のような存在に過ぎない。
それぐらい、本盤はダントツの出来と言えるだろう。
第1番の第1楽章の冒頭からして、凄まじい緊迫感だ。
この冒頭の悲劇的な主題は、同曲の全体を支配しているが、スメタナ四重奏団は、終楽章に至るまで、冒頭の緊張感を保っており、それでいて随所に見られるモラヴィアの民謡風の旋律の情感豊かな歌い方にもいささかの抜かりはない。
第2番は、第1番をさらに深く、そしてスケールを雄大にした作品であるが、スメタナ四重奏団の鬼気迫る演奏は、他の弦楽四重奏団の追随を許さない至高・至純のレベルに達している。
ヤナーチェクという作曲家の憧憬や焦燥といった心理状態が凄絶なまでに写し出された音楽を、スメタナ四重奏団の精緻を極めたアンサンブルが克明に辿っていくのがこの名演の聴きどころだ。
ライヴ特有の緊張感の中に戦慄が走るような一体感で彼らの演奏が繰り広げられる。
確かに彼らは作曲家と同じチェコの音楽家であり、これらの曲に使われている民族的なエレメントや音楽に隠された言葉のアクセントやイントネーションを悟ることにそれほどの困難は無いかも知れない。
だがスメタナ四重奏団には単に同郷の強みだけではない、言ってみればこうした特異な音楽を普遍的な芸術に昇華する合奏力を持っている。
ヤナーチェクの強いメッセージを感じることができる数少ない演奏だ。
とある小説の登場によって、ヤナーチェクの様々な楽曲の録音は増える傾向にあるが、弦楽四重奏曲のについて、本盤を超える演奏を成し遂げるのは決して容易ではないと考える。
Blu-spec-CD化によって、音質は更に鮮明さを増しており、本盤の超名演の価値をより一層高めることに大きく貢献している。
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フランスの名指揮者パレーの偉大な遺産とも言うべき素晴らしい名演だ。
本盤のメインでもあるビゼーの劇音楽「アルルの女」第1及び第2組曲や歌劇「カルメン」組曲については、クリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団による素晴らしい名演(1962年)が遺されており、大方の音楽評論家からも、当該演奏こそは両曲の決定的な名演との評価がなされているところである。
これに対して、本演奏は、当該クリュイタンス盤の陰に隠れた、一部のコアなクラシック音楽ファンのみが高く評価している知る人ぞ知る名演の地位に甘んじているが、クリュイタンス盤にも十分に比肩し得るほどの高度な演奏内容を誇っていると言えるだろう。
今般の本演奏の高音質盤の低価格による販売を契機に、多くのクラシック音楽ファンの間で、本演奏について正当な評価がなされることを心より願うものである。
それにしても、パレーの指揮芸術は、例えて言えば、書道における名人の一筆書きのようなものであると言えるだろう。
テンポはやや速めであり、一聴すると淡々と曲想が進行していくような趣きがあり、いささかも華美には走らない即物的で地味な様相の演奏である。
しかしながら、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの薄味の演奏では決してなく、各旋律の端々には細やかなニュアンスが施されており、演奏に込められた内容の濃さにおいては、クリュイタンス盤と比較しても遜色はないものと思われるところだ。
パレーについては、一部の音楽評論家がフランスのシューリヒトと称しているが、まさに至言とも言うべきである。
その指揮芸術には、シューリヒトのそれと同様に、神々しいまでの崇高ささえ湛えていると言えるだろう。
それにしても、淡々と進行していく各旋律に込められたニュアンスの独特の瀟洒な味わい深さには、フランス風のエスプリ漂う抗し難い魅力が満ち溢れている。
これぞフランス音楽の粋とも言うべきものではないかと考えられるところだ。
加えて、デトロイト交響楽団という、最もアメリカ的なオーケストラがこのようなフランス風のエスプリ漂うセンス満点の演奏を展開していることが大変な驚きである。
これはまさしくパレーによる不断の薫陶とともに、その類稀なる統率力の賜物であると言っても過言ではあるまい。
カップリングされているビゼーの序曲「祖国」や、トマの歌劇「ミニョン」序曲や歌劇「レーモン」序曲も、パレーならではの老獪とも言うべきセンス満点の指揮芸術の魅力を十二分に味わうことができる素晴らしい名演と評価したい。
音質は、今から50年以上も前のスタジオ録音であるが、今般のルビジウム・クロック・カッティングによって、極めて鮮明な音質に改善されたことも、本盤の価値をより一層高めるのに大きく貢献していることを忘れてはならない。
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本盤は、小澤征爾のEMIレーベルへのデビュー録音となったもので、録音当時34歳、「若武者」として勢い充分にオーケストラをドライヴする小澤の指揮姿を彷彿とさせる演奏であり、さらにスコアが透けて見えるような緻密さも併せ持っている。
バルトークの「管弦楽のための協奏曲」は、作曲家晩年の皮肉や苦みがふんだんに盛り込まれた作品であるが、小澤は実はそのような面にはあまり反応していない。
筆者は基本的には、内在する皮肉や苦みが演奏に際してきちんと表現されるのが一番よいとは思う。
しかし、世の中には皮肉や苦みがわからない人間もいるし、そういう人たちは、演奏家として、音楽家として否定されねばならないのか? 音楽を聴いてはならないのか? そうではあるまい。
作品を発表するというのは、作品を無理解な人間に対しても開放するということでもあり、別の人格に委ねるということだ(極論を言えば、作品を放棄すること、それどころか破棄することだ)。
作品とは演奏家にとってみれば、いかに親しげに感じられようとも、所詮他人の音楽である。
ゆえに、それぞれの人間が己の理解力の中で最大限の可能性を求める、それが大事なのだ。
だから筆者としては、小澤がベストを尽くしたこの録音を高く評価したい。
小澤が振る「管弦楽のための協奏曲」は、彼の尊敬するカラヤン同様、スムーズで、格好よくて、楽天的で、とても綺麗な音響で、その冷たい美しさはモダンインテリアのようで、録音後40年以上を経た現在でも一級品であり、まったく古びていないように思える。
だが、まさにこのような演奏に対して、アーノンクールやラトルが異議を唱えているのだということ、その点において、この演奏は過去になりつつあるということはわかっていてよい。
小澤には小澤のやり方があり、彼は今でもそのやり方をサイトウ・キネン・オーケストラとともに続けているが、その一徹さは彼には不可避であり、またそれでよいのである。
誰しも、歴史の中で自分に振り当てられた役割を果たすほか、別の選択はないのだから。
正直な気持ちを記すなら、筆者はとびきりの名人オーケストラが間然するところのない技量を見せつけるこの演奏を、不毛に贅沢な退屈であると感じることを告白しておく。
しかし、シカゴ交響楽団がいくら名人揃いだからといって、常にこのような演奏をするわけではないこと、まさに小澤の力でこのような演奏が実現されたことについては、髪の毛一筋ほども疑わない。
なかんずくフィナーレでは若かった小澤がいささかの破綻も恐れず躍動しているのが聴こえ、胸のすくような瞬間がある。
最後の金管楽器の決めは、まるで雄々しい若者の雄叫びのようであり、パリやアメリカの聴衆が、このエキゾチックな青年が作り出すストレートで屈託のない音楽に魅了されたのが理解できるのである。
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2023年02月24日
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甘美で夢見るようなサロン風の趣を湛えた、映画に用いられて多くの人々の心を捉えた第2番、独特の旋律の美しさと、流麗でしっとりした深い情感を湛えた第5番、イギリスの作曲家ジョン・フィールドに影響されて作曲されたといわれる、旋律の美しさと深い情感を湛えた甘美で夢見るようなショパンの夜想曲集。
豊かな情緒性や詩的な趣が横溢する優美で詩的な作品を理想的に再現し、新たな息吹を注ぎ込んだマウリツィオ・ポリーニの演奏で楽しめる1枚。
1つ1つ熟考を重ねながら、その録音レパートリーを増やしているマウリツィオ・ポリーニが、ついにショパンの夜想曲を録音した。
そもそもショパンコンクールのときから彼は夜想曲を弾いているし、その後のライヴでも何度となく夜想曲から取り上げてきたので、そのこと自体はさほど驚くことではないかもしれない。
しかし、デビュー当時のポリーニの録音と比べると、さすがに大きな違いを感じる。
なんといっても多彩なアゴーギクを使い、色鮮やかに旋律を歌わせているという点は、ポリーニというピアニストにして、やはり新鮮に聴こえるのだ。
これは、もちろん夜想曲というショパンのハートの最も抒情的な面をあらわした作品群にアプローチするとき、決して避ける事ができないということもある。
それ以上にポリーニ自身が歌っているという実感のあるアルバムであり、近年の録音の中でもまた少し違う感興を聴き手に与えるに違いない。
ショパンは甘いというのは、夜想曲を聴いてからのイメージだが、ポリーニは甘美なものに流されない、クールな感覚で演奏しており、甘く感傷的なショパンが苦手な方は必聴のアルバムである。
この演奏は、かつて従来CD(輸入盤)で聴いた際には、大した演奏ではないとの感想を持ち、長い間、CD棚の中で休眠状態に入っていたが、今般、SHM−CD盤が発売されるに当たり、あらためてもう一度聴き直すことにした。
UHQCDでは、従来CDでは、無機的にさえ感じられた、ポリーニの透明感溢れる切れ味鋭いタッチが、いい意味で柔らかい音質に変容した。
かつて、フルトヴェングラーは、トスカニーニのベートーヴェンを指して、「無慈悲までの透明さ」と言ったが、ポリーニの演奏するピアノ曲にも、同じような演奏傾向があると言えよう。
しかしながら、本盤の高音質化CDを聴いていると、それは録音のせいもあるのではないかと思えてくる。
それくらい、本UHQCD盤に聴くポリーニのピアノには、血も涙もある情感の豊かさに満ち溢れている。
スタジオ録音でありながら、時折、ポリーニの歌声も聴こえるなど、ポリーニのショパンの夜想曲に対する深い理解と愛情をも感じさせられ、実に感動的だ。
ここには、かつて前奏曲やエチュードの録音において垣間見せられた機械じかけとも評すべき技術偏重の無機的なアプローチは微塵も感じられない。
その『硬質』の音でできた構築物の見事さに驚くばかりで、ポリーニもいよいよ円熟の境地に達したと言えるだろう。
やはりショパン演奏において、このピアニストの録音は目が離せないものであると納得させられたところであり、全てにおいてレベルが高いポリーニの演奏の中でも筆者としては3指に入る名演だと思う。
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極限の美を追求した、カラヤンならではの磨き抜かれた壮絶な演奏を体感できる1973年録音盤。
1973年のベルリン・フィルとの公演で初めてマーラーの交響曲第5番を演奏するために、カラヤンは2年間におよぶリハーサルを繰り返し、その後、満を持してこの名高い録音が生まれたという。
カラヤンは、他の多くの独墺系の巨匠と同様に、マーラーを決して積極的に採り上げる指揮者ではなかったと言われる。
主要な交響曲作曲家の全集を悉く完成してきたカラヤンにしてみれば、確かに、そのような指摘は当たっているのかもしれない。
しかしながら、例えば同時代に活躍した巨匠ベームが、マーラーの交響曲の録音を一切遺さなかったのに比較すれば、「第4」〜「第6」、「第9」そして「大地の歌」の録音を遺しているカラヤンは、決してマーラーを毛嫌いしていたわけではないと言うことができるのではなかろうか。
むしろ、カラヤンの楽曲へのアプローチ、つまりは徹底的に磨き抜かれた美へのあくなき追求や完全無欠のアンサンブルといったものが、マーラーの交響曲ではなかなか発揮することができないという側面があったのではないかと思われる。
そう思ってみると、カラヤンが指揮した前述の楽曲の選択も、なるほどと思わせるものがある。
本盤の「第5」は、「大地の歌」を除くと、交響曲録音の先陣を切ったものである。
ベルリン・フィルの圧倒的な合奏力をベースにして、いかにも演出巧者らしいカラヤンならではのアプローチであり、特に、第4楽章のため息が出るような耽美的な美しさは、カラヤンの真骨頂というべきであろう。
もっと情感たっぷりに盛り上がる演奏が他にいくらでもあるが、カラヤンの演奏はあくまで緻密で正確に過度の情感を抑えたような指揮ぶりだ。
カラヤンらしいのはスコアに書かれたどんな音でも明確に分かりやすく表現していながら、全体の美観やバランスが全く崩れていないところで、今更ながら驚異的である。
もちろん、カラヤンの得意とは必ずしも言えない曲だけに、カラヤンとしてはややたどたどしい箇所も散見されるが、全体としてみれば、ある種の世紀末的なデカダンスの雰囲気が漂う耽美的で、なおかつ重厚さも併せ持つ名演と評価したい。
当時のライナーノーツを見ると、マーラーが古典と成り得るかどうかが論じられており、そのような状況でカラヤンがマーラーを取り上げたことが、ちょっとしたエポックメイキングな事であった。
だからこそ、カラヤンのこの録音は、定番だったワルターやバースタインの指揮したものとは、はっきり異なっている。
人気のある交響曲なので他の録音を既に所有している人も多いと思うが、本作は明晰さや美意識に溢れた作品に仕上がっており、今でもその価値を失っていない。
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1977年3月2日 NHKホールに於けるベーム&ウィーン・フィルによるオール・ベートーヴェン・プログラムのコンサートの記録である。
「田園」が白眉だ。
当コンビは1971年にスタジオ録音しており、既に定評のあるものだったが、こちらでは、さらに音楽に余裕がある。
第1楽章が端正なのは前述の録音と変わらないが、第2楽章が驚くほど陶酔的になっている。
1971年録音が楷書なら、こちらはやや草書に傾いたという感じであり、弦楽器も木管楽器も心ゆくまで歌っていながら崩れず、弱音の陰った響きも実にいい。
第3楽章から第4楽章「嵐」への音楽の急変も、まったく乱暴ではないのに半端でない迫力があって、立派そのもの、雄大そのものだ。
全体が自然に流れつつ、怠惰でも無関心でもなく、姿勢がよく、幸福感があり、オーケストラはひとつの楽器のように鳴っている。
本当によいワインは若いときに飲むと、苦くて、硬くて、愛想が悪いが、適切な熟成を経ると、別物のように柔らかく、やさしく、陶酔的になる。
これはベームとウィーン・フィルの熟成のピークに位置する演奏だったのだろう、完全に熟成を経たワインのように甘みも苦みも香りも渾然一体となっているこんな演奏は、ベームとウィーン・フィルでもなかなかできなかった。
この演奏の魅力のひとつは、闊達に歌うヴァイオリン群にあり、著しく耽美的でありながら気品があって、まさにこれでこそウィーン・フィルという演奏をしている。
当時、ゲルハルト・ヘッツェルという名コンサートマスターがいたからだ。
初心者のために説明すると、コンサートマスターとは、客席から見て、指揮者のすぐ左、最前列に座っているヴァイオリニストで、オーケストラ演奏において非常に重要な役割をしている。
世界で一番うまいと言われるベルリン・フィルですらコンサートマスターが交代するとミスが増えたり、音楽全体の緊張感が落ちてしまったりするのだ。
指揮者との相性も重要で、彼は「ウィーン・フィルにヘッツェルあり」とまで言われた名コンサートマスターであり、ベームとの相性も抜群だった。
彼あってこそ、このあまりに豊穣なヴァイオリン群、否、オーケストラ全体の歌が成立したのである。
残念ながらヘッツェルは山岳事故で急死してしまい、それ以来、ウィーン・フィルは凋落やむなきに至ったのである。
ちなみに同じ時代、カラヤンのベルリン・フィルにはミシェル・シュヴァルベというやはり稀代のコンサートマスターがいて、東西両横綱という感じだった。
もし、この録音にひとつだけ文句を言うとしたら、演奏終了後の拍手があまりにも早すぎるということだ。
まだ最後の音が響いているのに、ひとりのお客が気が狂ったように下品な拍手を始めるので、せっかくの音楽の美しさが台無しだ。
幸いなことに、現在では、日本の聴衆もここまでせっかちでなくなり、演奏後の静寂を味わえる機会も増えた。
いずれにしても、ベーム&ウィーン・フィルによる至高の超名演を、良好な音質で味わうことができるのを喜びたい。
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2023年02月23日
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本盤には、ディーリアスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲という、知る人ぞ知る名作が収められている。
このうち、チェロ協奏曲については、稀代の名チェリストであったデュ・プレと、名匠サージェント&ロイヤル・フィルによる素晴らしい名演(1965年)が存在していることから、比較的耳にする機会も多い楽曲である。
ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲やヴァイオリン協奏曲に至っては、国内盤が存在していないだけでなく、輸入盤も目ぼしい演奏が殆どないことに鑑みれば、本盤は極めて貴重な演奏であると言えるだろう。
ディーリアスは、イギリスの詩情に満ち溢れたエレガンスな美しさを誇る管弦楽曲の名曲で知られている。
本盤に収められた各協奏曲も、他の協奏曲で聴かれるような超絶的な技量を全面に打ち出した楽曲ではなく、むしろ、イギリスの詩情に満ち溢れた極上の美しさが持ち味の名作である。
本盤の演奏において、ヴァイオリン演奏を受け持つのは、気鋭の女流ヴァイオリニストであるタスミン・リトルだ。
タスミン・リトルは、本演奏と同じアンドリュー・デイヴィスと組んで(オーケストラはBBC交響楽団ではなく、ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団であるが)、エルガーのヴァイオリン協奏曲の名演(2010年)を成し遂げているだけに、本演奏においても、抜群相性の指揮者の下で、自らの個性を全面的に発揮した渾身の名演奏を繰り広げている。
強烈な個性という意味では、他の世界的な若手女流ヴァイオリニスト、例えば、ヒラリー・ハーンなどと比較するといささか物足りない気がしないわけではないが、イギリスの詩情溢れる情感の豊かさの描出においては、タスミン・リトルの方に軍配を上げたくなるところだ。
とりわけ、ディーリアスの協奏曲の演奏に際しては、楽曲に込められたイギリスの詩情をいかに格調高く表現できるのかに演奏の成否がかかっているとも言える。
その意味においては、タスミン・リトルのヴァイオリン演奏はまさに理想的と言っても過言ではあるまい。
チェロはポール・ワトキンスであり、例えば、チェロ協奏曲など、前述のデュ・プレによる演奏と比較すると、演奏の持つ気迫や強靭な生命力において大きく落ちると言わざるを得ないが、タスミン・リトルのヴァイオリン演奏と同様で、イギリスの詩情溢れる情感の豊かさの描出においては、十分に合格点を与えられる名演奏を展開していると言ってもいいのではないだろうか。
指揮は、英国の大御所指揮者であるアンドリュー・デイヴィス、そしてオーケストラはBBC交響楽団という最高の組み合わせ。
これ以上は求め得ないような絶妙な表現で、本盤の各協奏曲に込められたイギリスの詩情を感動的に歌いあげており、これら各協奏曲のバックとしては、理想的な名演奏を行っていると評価したい。
いずれにしても、本盤に収められた各協奏曲は素晴らしい名演であり、チェロ協奏曲を除けば殆ど世に知られていない名作を広く認知するという意味においても、極めて意義の大きい名CDと高く評価したい。
そして、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音であると言える。
タスミン・リトルによるヴァイオリン演奏やポール・ワトキンスによるチェロ演奏の弓使いまでが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。
かかる臨場感溢れる高音質のマルチチャンネル付きのSACD盤であることが、本盤の価値を更に高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。
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「第7交響曲」の空前の大成功によって、生涯最高の美酒に酔いしれたブルックナーが、きわめて良好な精神状態で、自信を持って書き上げた「第8」の初稿は、ハ短調という悲劇的な調性を感じさせない、実に晴朗で、伸びやかな作品であった。
ブルックナーにとっての悲劇は、この自信満々の新作を「最良の理解者」と信じ、初演を託していた指揮者レヴィに「演奏不能」と拒絶されたことだ。
ブルックナーが再び自信を喪失、精神状態に不安をきたし、当の「第8」のほか、「第3」や「第1」の価値の薄い改訂(「第3」については異論もあろうが)にまで手を染めて、ついには「第9」が未完成に終わってしまったことはブルックナー愛好者によく知られる痛恨事である。
しかし、仮にレヴィが「これは素晴らしい!」という度量を見せて、このままの形で初演していたとしたら、後にリヒターが行った改訂版での初演ほどの成功を収め得たかどうかは誰にも分からない。
確かに、この初稿は途方もなく伸びやかで斬新なため、一般の聴衆にはつかみどころがなく、受け入れられなかったかも知れないからだ。
改訂により作品の本質を「喜劇から悲劇へ」と転換させながら、ブルックナーはより求道性を高め、響きを深淵にした。
特に、第1楽章、初稿が華々しいファンファーレで終わるのに対し、改訂稿は弦のピアニッシモで終わる。
このことによって、悲劇に始まり勝利に終わるという全曲を一貫するプログラムで出来上がったことが、初演成功の大きな要因であったと思われる。
では初稿は、決定稿への踏み台に過ぎなかったのかというと、そうではなく、初稿は初稿で、まことに清新な音の大モニュメントなのである。
繰り返しになるが、「第7」成功の自信に溢れたブルックナーの書いた最も幸福な作品と言っても良く、ことに第3楽章は「天上の音楽」そのものである。
さて、悲劇的な宿命を負った美しい初稿が初めてレコードとなったのは、ここに取り上げるインバル&フランクフルト放送響による演奏である。
多くの音楽愛好家の注目を集めたのは言うまでもなく、初めて耳にしたときの新鮮な感動は今でもよく覚えている。
今、改めて聴き直してみて、インバル盤の水準の高さを認めたいと思う。
速めのテンポと引き締まったサウンドにより、初稿らしい爽やかな演奏になっているからである。
ただし、インバルは本質的にはブルックナー向きの指揮者ではないのではないか。
「第3」「第4」といった初稿の演奏が成功している割には、残りのナンバーの感銘度がいまひとつなことからも、それが伺える。
オーケストラの響きを開放するよりは凝縮する方向に向かわせるため、ブルックナーを聴く醍醐味が減ってしまうからであろう。
ベームほどの熟達と情熱があれば、それもカバーできるのであるが、そこまでの技と心がインバルには用意されていないのである。
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カルロス・クライバーという一代の天才が、まさに「天才児現る」と呼ばれた時代の記念碑として、いつまでも語り継がれる1枚。
「クラシック音楽をこれから聴いてみようか?」という初心者に特にお薦めしたい名盤で、凄く感動するのではないかと思う。
クラシックは人によっていろいろ好みが分かれることが多いが、このクライバーのベートーヴェンは素晴らしいと皆が感じることができるアルバムと言えよう。
これまでに作曲されたもっともポピュラーな、もっとも好まれている交響曲である第5番の模範的な演奏と長いことされてきたこの盤、ここには情熱、厳密さ、ドラマ、抒情的な美しさ、そしてまず出だしの音からして人を興奮させる第1楽章のうねるような激情と、すべてがそろっている。
カルロス・クライバーはその際立って優れたキャリアのなかでレコーディングをあまり行っていないが、レコード化されたものはほとんどすべて格別の出来である。
これには第7番の非常にすばらしい演奏もカップリングされていて、こちらは第5番ほどには人を感動させないが、見事な演奏のひとつであることは間違いない。
出だしからして豪快、第4楽章に至るまで力のこもった躍動的な演奏が続き溜め息が出るし、盛り上げ方が素晴らしい。
本盤に収められた両曲の名演中の名演として、世評が著しく高いだけに、これまで数々の高音質化が試みられてきたが、本盤は、究極の高音質CDとして高く評価したい。
これまで発売された高音質CDとしては、SHM−CD盤、SACDハイブリッド盤、そしてDVD−audio盤があり、特に、後者の2つにはマルチチャンネルが付いていることもあって、臨場感溢れる音質が見事であったが、本盤は、それらを凌駕する高音質と言える。
重量感においてはいささか足りない気もしないではないが、各楽器の分離や鮮明さがダントツに増している。
クライバーは、ダイナミックレンジを幅広くとる指揮者であるが、本盤の場合、通常CDでは殆ど聴き取れないような繊細なピアニッシモから、最強奏のトゥッティに至るまで、完璧に再現されている。
マルチチャンネルは付いていないものの、臨場感においても不足はなく、眼前にクライバーの颯爽とした華麗な指揮ぶりが浮かぶかのようだ。
演奏は、トスカニーニやカラヤンの系列に連なる、いわゆる音のドラマに主眼を置いたものであるが、高音質のスタジオ録音という条件を付ければ、現在においてもなお、トップの座に君臨する名演、名盤と言えるだろう。
ライヴ盤にまで裾野を広げれば、カラヤンの名演(第5番は、先般発売された来日時の1977年盤、第7番は同時期のパレクサ盤)にはさすがに劣るが、それでも、この若武者ならではの勢いのある名演は、いささかの存在価値を失うものではないと考える。
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2023年02月22日
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サン=サーンスは、番号付の交響曲を3曲、そして番号が付かない交響曲を2曲の合計で5曲にわたる交響曲を作曲している。
この中で、交響曲第3番のみが「オルガン付き」という愛称もあるせいか極めて有名であり、その他の交響曲については無名の存在で、演奏すらされることが稀である。
したがって、録音も、その殆どが交響曲第3番のみであり、サン=サーンスの交響曲全集を録音した指揮者は殆ど限定的である。
そのような状況の中にあって、フランス人の超一流の大指揮者マルティノンが、最晩年にサン=サーンスの交響曲全集のスタジオ録音を遺してくれたのは、クラシック音楽ファンにとって実に幸運なことであったと言えるのではないだろうか。
マルティノンは、交響曲第3番については、5年前にも同じフランス国立管弦楽団とともにスタジオ録音(エラート)している。
その再録音を含めて、交響曲全集のスタジオ録音を行ったということは、マルティノンの本全集の録音にかける並々ならぬ意欲と、サン=サーンスという母国の大作曲家への深い愛着と敬意を窺い知ることが可能であると言えるところだ。
それにしても、演奏は素晴らしい。
マルティノンは、持ち味である力強さ、メリハリのついた明快さ、そして繊細な抒情などを全て併せ持つ多種多彩な表現力を駆使した剛柔のバランスのとれた演奏ぶりが際立っている。
そうした指揮芸術が、サン=サーンスの各交響曲、とりわけ演奏機会が極めて限定的な交響曲第3番を除く他の交響曲の魅力を引き出すのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。
また、各楽曲の細部における入念な表情づけも抜かりなく行われており、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの浅薄な演奏にはいささかも陥っていない。
そして、それら細やかな表情づけが施された各旋律の端々からほのかに漂ってくる独特の瀟洒な味わいは、これぞフランス風のエスプリと評しうるものであり、その何とも言えない美しさには抗し難い魅力が満ち溢れている。
なお、交響曲第3番については、前述のエラート盤も名演であるが、オルガンのマリー=クレール・アランの存在感に際立ったものがある。
マルティノンの指揮芸術をより味わいたいというクラシック音楽ファンには、ベルナール・ガヴォティによるオルガン演奏がより抑制的であることもあり、本演奏の方をおすすめしたいと考える。
いずれにしても、本盤のマルティノン&フランス国立管弦楽団ほかによるサン=サーンスの交響曲全集は、その絶対数が少ないこともあり、究極の決定的な名全集と高く評価したい。
音質は、1975年のスタジオ録音ではあるが、数年前にリマスタリングされたこともあって比較的良好な音質である。
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R.シュトラウスの《死》をテーマとした作品を収録した1枚。
天空の音、深遠なる美の極みを行くカラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代に録音された超名演である。
カラヤンはR・シュトラウスを得意とし、あまたの名演を遺しているが、本盤に収められた「死と変容」、「メタモルフォーゼン」、「4つの最後の歌」の3曲については、本盤の演奏こそがベストの名演と言うことができるだろう。
「死と変容」については、各局面の描き分けが実に巧みであり、オーケストラの卓抜した技量をベースにしたダイナミックレンジも実にスケールの大きい雄大なものだ。
いわゆる死の戦いの迫力も凄まじいものがあるが、他方、終結部の天国的な美しさも、これ以上は求められないような至高・至純の境地に達している。
「メタモルフォーゼン」は、R.シュトラウスに直接了解をもらっての大型の編成による演奏であるが、ベルリン・フィルの圧倒的な弦楽合奏の迫力に唖然としてしまう。
もちろん、技術偏重には陥っておらず、同曲に込められた作曲者の深い懺悔や悲哀のようなものを、カラヤンは圧倒的な統率力で描き尽くしている。
「4つの最後の歌」は、「メタモルフォーゼン」と並ぶ作曲者の人生の最後を飾る畢生の名曲であるが、ヤノヴィッツの名唱も相俟って、同曲をこれほど美しく演奏した例はほかにはないのではなかろうか。
ベルリン・フィルの洗練の極みを行く合奏と、ヤノヴィッツの真っすぐなソプラノ・ヴォイスが作曲者晩年の澄み切った境地を余すところなく再現している。
静寂感・黄昏感といった、R.シュトラウスの交響詩とまるで違う世界がこの曲にはあるが、R.シュトラウスが得意なカラヤンがベルリン・フィルと共にシルクのような煌びやかな伴奏をしている。
ベルリン・フィルがカラヤンの楽器になりきり、かつカラヤンがまだ覇気に満ちた演奏をしていた時期だけあって、何のストレスもなくドライヴされていくオケと、まだパワーと若さに満ちたヤノヴィッツの歌は本当に立派としか言いようがない。
ヤノヴィッツのとびぬけた美声も例えようもなく素晴らしく、彼女の声を知ってしまうとなかなか他のソプラノが聴けなくなってしまう。
さらに、この時期の録音に聴くことができるベルリン・フィルの感動的な弦の美しさ(「夕映えの中で」の前奏はまさに奇跡的な美しさ)も他の追随を許さない。
カラヤンを好きでない人も、この「4つの最後の歌」には深い感銘を受けるに違いない。
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ポリーニにはショパンへのこだわりがある。
1960年、弱冠18歳にして第6回ショパンコンクールを満場一致で完全制覇し その時、審査委員長を務めていたアルトゥール・ルービンシュタインが彼を評して、「技術的には 私たちの誰よりも上手い」と絶賛したのは有名な逸話だ。
そして彼の全レパートリーを見ても自ら価値のあるものと認めたものしか演奏していない。
この24の前奏曲でも、1曲1曲がミニアチュール的捨てがたい美しさを持ち、全体でショパン音楽のパノラマともなっているこの愛すべきこの曲集を、ポリーニは実に鮮やかに弾いている。
本演奏を評価するか、それとも評価しないのかで、ポリーニに対する見方が大きく変わってくることになると思われる。
確かに、本演奏で顕著な超絶的な技量は素晴らしく、まことに繊細華麗、そして多様な気分を的確につかんでいる。
おそらくは、古今東西のピアニストの中でも、前奏曲を最高に巧く弾いたピアニストということになるとも言える。
あくまでも緻密、どこまでも繊細なショパンを聴かせており、速いパッセージでも崩れることなく1音1音の輪郭をちゃんと見せてくれるのは流石としかいいようがない。
しかしながら、本盤のようなUHQCD盤ではなく、従来CDで聴くと、ピアノの硬質な音と相俟って、実に機械的な演奏に聴こえてしまうのだ。
まるで、機械仕掛けのオルゴールのようなイメージだ。
ところが、ピアノ曲との相性が抜群の本UHQCD盤で聴くと、印象がかなり異なってくる。
音質が、いい意味で柔らかくなったことにより、少なくとも、無機的な音が皆無になったのが素晴らしい。
必ずしも、楽曲の内面を追求した深みのある演奏とは言い難いが、それでも、随所に細やかな表情づけを行っていることがよく理解できるところである。
名演との評価は難しいものの、個性があまりないという意味では、同曲への入門用のCDとして最適の演奏には仕上がっていると言えるのではないか。
もっとも、このような評価は、プロのピアニストにとって、芳しいものではないことは自明の理である。
本盤は、今から45年以上も前の録音であり、その後、夜想曲集などで名演を成し遂げているポリーニのこと、既に、24の前奏曲の再録音を果たし、本盤とは次元の異なる名演を成し遂げた。
ポリーニのショパン:24の前奏曲(新盤)
それは、1音1音磨きぬかれた美しい音、感情のみに流されること無く、それをきちんとコントロールする理性、24曲を通しての構築力などを兼ね備えた、ポリーニというピアニストが持つ美点が、最大限に発揮されたアルバムが誕生したのである。
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2023年02月21日
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穏健派に磨きがかかってきたハイティンクならではの実に美しいベートーヴェンの交響曲全集だ。
このベートーヴェンでは、響きに潤いのようなものもあり、少しも新しがっていないのにフレッシュな音楽になっている。
老いてますます盛んという言葉が当てはまる、しかしみずみずしくさわやかな解釈とも言えよう。
アプローチの仕方は、前2回の全集と基本的には変わらないが、「何も足さない。何も引かない。」と言った風情で、音楽的な純度が一段と高まっている。
ハイティンクが演奏の際に最も気を配る事の1つとして、楽器のバランスを挙げている。
室内楽的なアプローチとバービカンホールの残響を考えた結果、音が濁ったり、壊れたりする事を避けたくてこのような演奏スタイルになったのであろう。
これほどわめいたり咆哮したりしないベートーヴェンというのはなかなか類例は見ないのではなかろうか。
もちろん、ベートーヴェンを威圧の対象にするのはいかがとも思うが、しかし、表面的な美しさに終わってしまうのならば、ライバルとなる名演盤がひしめいているだけに、実に退屈な演奏に陥ってしまうという危険性を孕んでいる。
そして、ハイティンクは、その危険性の落とし穴にはまってしまった。
全集の中で、少し評価できるのは、「第1」、「第2」、「第6」とトリプルコンチェルトのみだ。
特に、「第6」は、穏健派のハイティンクとの相性は決して悪くなく、「田園」という曲の優美さが聴き手によく伝わってくる。
「第1」や「第2」、そしてトリプルコンチェルトは、ベストの演奏とは到底言えないものの、緩徐楽章などにはそれなりの感動がある。
しかし、その他の曲は、表層的な美しさだけが際立つ実に浅薄な凡演だ。
特に、「第3」、「第5」、「第7」など、根源的な力強さに全く欠けている。
「第9」も、あまりの軟弱さのため、最後まで聴きとおすのが実に辛かった。
ロンドンのバービカンホールは残響がデッドなのだが、楽器がよく分離されており、音がよく澄んで聴こえる。
この録音にはかえってプラスに働いたように感じたが、SACDマルチチャンネルによる高音質録音も、再生装置の善し悪しによって聴く側の印象はかなり変わるような気がするし、虚しく聴こえたのは大変残念だ。
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1998年8月に開催されたヘルシンキのフィンランディア・ホールで行われたヘルシンキ・フェスティバルでのライヴ映像。
フィンランドの指揮者、パーヴォ・ベルグルンドは当然ながら、自国のシベリウスの音楽に関しては唯一無二のスペシャリストであった。
それは、2012年にベルグルンドが鬼籍に入った後、もはやシベリウスの本質を衝いた演奏は世界中で二度と聴けなくなってしまった、と言い切ってよいほどの絶対的な意味においてである。
シベリウスは作曲界の仙人のような人物で、俗世を離れて山荘に隠り、もはや新たな野心も持たず、作風の垢を洗い流し、贅肉を削ぎ落としていった。
ベルグルンドもまた、演奏家の立場でシベリウスの後追いをしているかに見受けられる。
ヘルシンキ・フィルとの2度目の《全集》に飽き足らず、自らが「理想の楽器」と呼ぶヨーロッパ室内管弦楽団との再々録音を果たした。
ベルグルンドは、このオケの並外れたアンサンブルの素晴らしさと透明な響きで新たなシベリウス像を作り出そうという試みがなされている。
精鋭を選りすぐった小編成のオケの音程(ピッチ)の驚くべき確かさが、シベリウスの演奏様式に新しい規範(スタンダード)を創造している。
録音を重ねるごとにより洗練され、透明度が増し、4度目のライヴに至っては緻密さの極みとでも言おうか、スコアの読みの深さ、演奏魂の自由な羽ばたきが美しく調和し、彼の理想とするところのシベリウス像が明確に打ち立てられた演奏となっている。
シベリウスのオーケストレーションの枝葉末節に至るまで熟知したような鳴らせ方をしているのに驚くし、また様々なフレーズが新たに息を吹き返したように立体的に浮かび上がってくるのにも感心する。
オーケストラの集中度は素晴らしく、響きはどこまでもクリア、弦は実によくコントロールされており、木管の多彩なニュアンスはシベリウスの交響曲の大きな魅力を絶妙に浮き彫りにしている。
各フレーズの、実に緻密な表情はこのオケによって初めて可能となる新鮮なものばかりである。
弦と管のアンサンブルと木管の色彩の対比や合成で表現に微細な変化が生み出されて、実に精緻な仕上がりで聴き手を引き付けている。
怜悧なまでに冴え冴えとした音、磨き抜かれたピッチから生まれるシベリウスは、足跡ひとつない雪原のように僅かの染みもなく純白に輝く。
また、ヴィブラートを抑制し、アタックの角を立て、音の立ち上がりも鋭く、リズムも厳しく俊敏である。
こうしたいわば“荒ぶる響き”は、すべてベルグルンドの意志なのであり、あえてその響きを作り出しているのだ。
そうすることによって確かにテクスチュアはクリアになるし、実に男っぽい気骨のあるシベリウスの演奏が生まれる。
とりわけ木管による旋律の精妙なニュアンスのつけ方は出色、ダイナミックに鳴る金管も魅力で、シベリウス作品の旨みがさらに増した印象を受ける。
1音たりとも傾聴を誘わない瞬間はなく、今の音が次の音への期待を膨らませ、尋常ではない充実感に満たされる。
純粋にシベリウスの思考そのものへ近づけてくれる演奏で、筆者としては何度でも聴きたく、ぜひとも聴くべき!
ベルグルンドもまた、シベリウスの作品同様、やがて実体を失い、ついには消滅してしまって、筆者は追悼の念を強めている。
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名ヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツは、1917年に17歳の若さで故郷を離れ、シベリア、日本を経由してアメリカへ移住。
その年の10月、ニューヨークのカーネギーホールで、衝撃的なデビューを果たし、一躍その名を知られた。
翌年ビクター・トーキング・マシーンの専属になり、以来最晩年にいたるまで約50年間、録音と演奏で充実した活動を展開した。
その間ハリウッドの映画スターで、名監督キング・ヴィダー夫人でもあった、フローレンス・ヴィダーと結婚し、アメリカ市民権も得た。
カステルヌオーヴォ=テデスコやミクロス・ローザの協奏曲をはじめ、アメリカの現代音楽を数多く初演したり、ジム・ホイルという名でポピュラー音楽を作曲したり、また、ピアノのルービンシュタイン、チェロのピアティゴルスキーとトリオを組んで、この分野でも名盤を数多く残した。
ハイフェッツの演奏は、美しい緊張感と緊迫感にみちてとても雄弁であり、そのクリアな美音とともに深く心に残る。
このアルバムは、ハイフェッツがヴァイオリニストとして絶頂期を迎えた頃の録音からピックアップした盤で、ハイフェッツの超絶的な技巧を存分に味わうことができる1枚だ。
ヴァイオリンを愛する人なら、1度はぜひとも聴いておきたい偉大な存在である。
ツィゴイネルワイゼンをはじめ、ポピュラーな名曲がてんこ盛りであるが、ハイフェッツの芸術性に裏打ちされた技量のあまりの素晴らしさ故に、決して飽きることなく全曲を聴き通すことが出来た。
澄明な音と甘美で流麗な響き、冴えた技巧、スマートで洗練された気品あふれる演奏が十二分に味わえる。
例えば、詩曲では、抒情豊かに旋律を奏でるなど芸術性にも不足はなく、ハイフェッツが決して技量一辺倒なヴァイオリニストではないことがよくわかる。
もちろん、カルメン幻想曲では、あまりの圧倒的な技量のすざましさに、ノックアウトされてしまった。
1度耳にしたら、そのカミソリのような技の切れ味、鋼のように強くしなやかな旋律線には、大ショックを受けること必定である。
ハイフェッツには、笑顔や人なつっこさ、暖かさといった要素は確かに欠けているかもしれない。
しかし、妥協のない冷徹な厳しさ、つかみかかるような戦闘的気迫、緊張の糸の張り詰めたような強靭な歌いまわし――といった独特のクールな芸風においては、比類ない孤高の境地に達していた。
そして何よりもハイフェッツには、凡俗を決して寄せ付けない王者の風格がある。
4人の指揮者とオーケストラが、ハイフェッツの至芸を好サポートしている。
1950年代前半のモノラル録音ではあるが、リマスタリングによって相当な音質改善が見られ、ハイフェッツの超絶的な技量をかなり鮮明な音質で味わうことが出来るようになったのは嬉しい限りだ。
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2023年02月20日
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祖国の大作曲家スメタナの名を冠したスメタナ四重奏団にとって、格別の思い入れのある作品2曲。
彼らにとっての3回目の録音であり、発売当時からスメタナの決定的名盤としてよく知られている演奏だ。
これは掛け値なしに同曲の演奏史上、最高の超名演であり、チェコの至宝であったスメタナ四重奏団が、チェコ音楽の父であるスメタナの作品を共感に満ちて奏でている。
弦楽四重奏団の名として掲げられた作曲家ということもあるが、祖国の偉大な作曲家に対する深い畏敬の念に満ち溢れている。
これだけでも、演奏が悪いわけがないのであるが、それに加えて、スメタナ四重奏団のアンサンブルの見事さ。
見事と言っても、単にアンサンブルが揃っているだけではない。
2つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの各音色が完全に融合しているのである。
そうした音色の完全な融合が、スメタナの美しくも悲しい音楽を完璧に表現し尽くしている。
しかも、曲の内容からすれば慟哭にも近い響きがあってもしかるべきであるが、スメタナ四重奏団は、悲しみはあっても、いささかも感傷的にはならない。
どのような局面に差し掛かっても、高踏的な美しさを湛えており、スメタナへの深い畏敬の念も相俟って、同四重奏団だけが描出し得る至高・至純の音楽を奏でている。
また、スメタナ四重奏団の優れているところは、この2曲を綺麗ごとでもなければ誰の真似事でもない自分達が直接受け継いだ直伝の音楽として取り組んでいることだ。
そこには同郷の作曲家に対する敬意や自負が感じられるし、何よりもチェコの音楽の伝統を引き継いでいこうとする情熱的な使命感が漲っている。
それは偏狭なナショナリズムではなく、むしろ作曲家の目指した普遍的な音楽芸術への昇華ではないだろうか。
筆者はこの演奏を聴く度に胸が熱くなるところであり、ディスクの帯にある「果たしてこれ以上の演奏が可能だろうか」に全く同感してしまう。
さらにスメタナの自筆譜から新たに作り直した新校訂楽譜を使用していることもこの盤の価値を高めており、今後とも、本盤を凌駕する名演があらわれるのは相当に困難だと考える。
音質は、かつて発売されたSACDマルチチャンネル盤がベストであったが、本UHQCD盤も相当に鮮明な音質となっており、費用対効果を考えると、十分に推薦に値する。
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近年様々なライヴ録音が発掘されることによってその実力が再評価されつつあるテンシュテットであるが、テンシュテットによる最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集ということになるのではないだろうか。
テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る交響曲第8番の録音(1986年)の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。
したがって、1986年以降の演奏は、死と隣り合わせの壮絶な演奏を展開することになるのであるが、それ以前の演奏についても、いささかも妥協を許さない全力投球の極めて燃焼度の高い渾身の演奏を繰り広げていた。
そうしたテンシュテットの指揮芸術は、最も得意としたマーラーの交響曲の演奏において如実に反映されていると言えるであろう。
テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。
これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。
かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。
ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという人もいるのかもしれない)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。
もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。
このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。
テンシュテットは、マーラーの数ある交響曲の中でもとりわけ第6番を得意としており、本盤の1983年のスタジオ録音の他にも、同年のライヴ録音、そして1991年のライヴ録音が存在している。
このうち、1991年のライヴ録音が最高峰に君臨する名演であるのは自明の理ではあるが、本盤に収められた演奏も圧倒的な超名演であり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な凄みのある迫力を湛えていると評価したい。
オーケストラは必ずしも一流とは言い難いロンドン・フィルであるが、テンシュテットのドラマティックな指揮に必死に喰らいつき、テンシュテットとともに持ち得る実力を全面的に発揮させた渾身の演奏を繰り広げていると言えるところであり、本演奏を超名演たらしめるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。
音質は、1983年のスタジオ録音ではあるが、リマスタリングなどはなされていないものの、比較的良好な音質である。
いずれにしても、テンシュテットによる圧倒的な超名演を良好な音質で味わうことができるのを歓迎したい。
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ショスタコーヴィチの「第5」については、筆者としてはムラヴィンスキー盤を唯一無二の名演と高く評価してきたが、バーンスタイン盤も著しく世評が高いため、無視するわけにはいかない。
バーンスタインの2度目の録音であるが、旧盤に比較して、全体の解釈にはあまり変更はないものの、抒情的な箇所ではより繊細な表現を見せるなど、外面的な効果や受けを狙った派手な音出しなどしない音楽に深く入り込んでゆくような演奏が展開され、彫りの深い演奏になっている。
バーンスタインは、スタジオ録音よりライヴのほうが本領を発揮するのかもしれないと思うような腹にズシリと響く怒涛のように押し寄せる快感、観客もあまりの迫力に静まり返っているような緊張感が素晴らしい。
特に、第3楽章において、そのような表現が顕著であり、ライヴならではの熱気も相俟って、実に感動的な名演を成し遂げている。
バーンスタインの「第5」の特徴として揚げられるのは終楽章の終結部。
初演者のムラヴィンスキーをはじめ、ほとんどの指揮者がゆったりとしたテンポで壮大に締めくくるが、バーンスタインは快速のテンポで突き進む。
ただ、例えばマゼールのように、素っ気ない感じはいささかもなく、快速のテンポの中に熱い血が通っているのは、さずがと言うべきであろう。
暗くて、ひねくれて、爆発もし、嘆き、皮肉、辛辣な批判、暗号と、生きる為に迎合もせざるを得なかったショスタコーヴィチの音楽、また、バーンスタインの代表的名盤とも言えるだろう。
ニューヨーク・フィルの音はとても明るく、特に管楽器は色彩豊か、そのキラキラした音で深刻な曲を演奏すると表現主義的な特徴が強調されてとてもいい。
ベストの演奏であるかどうかは別として、一発勝負の録音で聴衆を感動させる完璧な演奏は作曲家でもあるバーンスタインという天才指揮者でないと不可能といっても言い過ぎではないであろう。
併録のチェロ協奏曲は、ヨーヨー・マのチェロが実に上手く、なおかつ説得力があり、オーマンディの併せ方も見事というほかはないだろう。
低音域の多用と曲の雰囲気からソリストによっては重たい音楽になってしまいそうな曲だが、ヨーヨー・マの軽やかで、自然に流れていくようなチェロ独奏は、この曲の本来の姿だと思われるショスタコーヴィチ独特のクールさや、シニカルな感じをうまく表現している。
ここには、旧ソ連時代の鬼気迫る暗い雰囲気というような要素はないが、このようなノーマルなアプローチにより、かえってショスタコーヴィチの高踏的な芸術を色眼鏡を通さずにダイレクトに味わうことができるといった点も考慮に入れておきたい。
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2023年02月19日
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フィルハーモニア管弦楽団と豪華なソリスト陣の共演を得て実現した若き日のジュリーニならではの壮絶な歴史的名演。
ヴェルディが畏敬した作家マンツォーニの追悼に捧げた大作・レクイエムを、ジュリーニは壮麗な聖堂さながらのスケール感と染み入る静謐さで表現している。
ジュリーニと言えば、最晩年のゆったりとしたテンポ(中には、常識はずれのスローテンポの演奏もあり)による巨匠風の名演の数々のイメージが強いために、温厚篤実な演奏をする指揮者との印象を持たれがちである。
若き日、特に1960年代の演奏は、凄まじいまでの迫力溢れる豪演の数々を行っていた。
本盤は、そうしたジュリーニの若き時代の芸風を端的に表しているものと言えるところであり、録音当時、まだ40代後半だったジュリーニが、ヴェルディのオペラを彷彿とさせるドラマティックな演奏を繰り広げている。
気力の充実しきったジュリーニの指揮は、テンポ、リズムに躍動感があるが、壮大さ、宗教的雰囲気にも欠けておらず、最高のソリスト・オーケストラをよくコントロールし、ヴェルディの「オペラ的なレクイエム」を表現している。
ジュリーニは、数多くのイタリアオペラを指揮・録音しているが、本盤でも、そうしたイタリアオペラを得意としたジュリーニならではの歌謡性豊かな指揮と、若き日の生命力溢れる力強い指揮が見事にマッチングして、いい意味でのバランスのとれた至高の名演を成し遂げるのに成功している。
カラヤンやクレンペラーの薫陶を受けていた、黄金時代のフィルハーモニア管弦楽団や、合唱団や独唱陣も最高のパフォーマンスを示している。
特に、シュヴァルツコップ、ルートヴィヒ、ゲッダ、ギャウロフというオールスター歌手陣の最盛期の歌唱がとても魅力的だ。
「思い給え」以下は、レクイエムとは思えないような、甘美で天上の世界を思わせるアリアが続く。
聖歌四篇も、レクイエムに優るとも劣らない超名演であると高く評価したい。
本盤で惜しいのは録音であった。
大音量の際に音が歪むということで、特に、レクイエムではそうした欠点が著しく、「怒りの日」でオケと合唱の怒濤の場面ではダイナミックレンジを若干割ってしまっていた。
しかしながら、今般のSACDハイブリット盤によって、そうした欠点が改善されたのは、このような芸術的な価値の高い作品だけに、ありがたいことだ。
ヴェルディ生誕150年メモリアル・イヤー当時の熱気が伝わる素晴らしいアルバムである。
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ブラームスが4手のピアノ連弾用として作曲し、ドヴォルザークや自らのオーケストラ編曲版によってより広く親しまれるようになったハンガリー舞曲集。
またこの作品に触発されてドヴォルザークがやはり連弾用として作曲し、後に管弦楽用に編曲したスラヴ舞曲集。
カラヤンの指揮はずば抜けて巧く、ベルリン・フィルを見事にドライヴした熱気溢れる演奏を繰り広げている。
カラヤンは、本盤においても、これ以上の言葉が思い浮かばないほどの演出巧者ぶりを発揮し、各曲の聴かせどころをつかんで、これ以上は求められないほどの巧みな名演奏を繰り広げている。
いずれもカラヤン&ベルリン・フィルにとって重要なレパートリーだが大空間を感じさせる演奏なので素朴というよりゴージャス。
オーケストラの高い技量を生かしきったダイナミクスの変化やデリケートなリズムの処理など、究極の管弦楽演奏と言うべきであろう。
本盤は、カラヤン&ベルリン・フィルのドイツ・グラモフォンへの参入初期の録音であるが、発売当初からベストセラーを記録したのもよくわかる。
また、ハンガリー舞曲集もスラヴ舞曲集も、曲の順番ではなく、曲想を踏まえ再配置し、独自の曲順に並びかえられている点においても、カラヤンのこれらの曲への深いこだわりが感じられる。
それに、ベルリン・フィルにまだフルトヴェングラー時代の残滓ともとれる何とも言えない野性的な味が残っていて、これらの曲集をいっそう引き立てている。
カラヤンは同じ曲を何度も繰り返し録音することで有名であるが、これらの曲集は再録音しておらず、カラヤンとしても完全満足の成果であったということが言えるだろう。
全集としては、他にも優れた名演が目白押しであるが、選集ということになると今なおカラヤン壮年期のこの録音を超える演奏は他になく、本盤を随一の名演と評価することに躊躇しない。
スケルツォ・カプリチオーソも、ベルリン・フィルのホルンセクションの巧さを生かした珠玉の名演に仕上がっている。
カラヤンとベルリン・フィルがいい緊張関係にあった時代の聴くべき価値のある演奏だと言えよう。
ルビジウム・クロック・カッティングによる更なる高音質化も成功している。
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幅広いレパートリーを誇っていたセルだが、ドイツ古典〜ロマン派は得意分野の1つだった。
セルの演奏が円熟味を増したといわれる晩年、1968年の、ワーグナーの超大作楽劇から抜粋した名盤。
セルが指揮するクリーヴランド管弦楽団は、セルの楽器と称されるほどの驚異的なアンサンブルを誇った。
本盤もセル率いるクリーヴランド管弦楽団がいかに凄いオーケストラだったかが嫌が上でも圧倒的に伝わる名盤。
悠然として濃厚な往年のクナッパーツブッシュ盤と同様なハイライトと一番対極にある、極度にタイトで洗練の極みを行く演奏スタイルと言えよう。
しかし、時には、凝縮のあまりいささかスケールの小ささが目立つ場合もあった。
本盤は、そうしたセルの演奏の長所と短所が同居している演奏だと思った。
評価したいのは、「ワルハラ城への神々の入場」、「ワルキューレの騎行」、「魔の炎の音楽」、「森のささやき」の4曲。
これらは、セルの精密な指揮と、それにぴったりとついていくクリーヴランド管弦楽団が、ワーグナーがスコアに記した名旋律の数々を感動的に表現していく。
しかし、「夜明けとジークフリートのラインへの旅」、「ジークフリートの葬送行進曲」と終曲の2曲は、凝縮を意識しすぎたせいか、あまりにも演奏のスケールが小さい。
セルは、精密で緻密な指揮を行い、クリーヴランド管弦楽団もそれに見事に合わせているが、やはり、ワーグナーの天才性が発揮されるこの2曲では、演奏が楽曲に負けてしまっている。
『ニーベルングの指環』への入門CDとしては、これで十分なのかもしれないが、本盤を1つの完結した作品として見れば、竜頭蛇尾の誹りを免れないだろう。
しかしながら、「楽劇」というより、「管弦楽曲」としてのあり方を『指環』ハイライト盤でここまで追求した演奏は滅多にないだろう。
音質は、Blu-spec-CD盤はもとより、従来CD盤でも十分に良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が図られることになった。
音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。
それでも、前述の短所は払拭されているとは言い難いが、セル&クリーヴランド管弦楽団による完成度の高い演奏を現在望み得る最高の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2023年02月18日
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若き日のルプーによるブラームスであるが、いずれも名演だ。
創意に溢れた2曲のラプソディをはじめ、作曲家晩年の心境を刻んだ傑作として知られる間奏曲集や小品集を収録した、ブラームスのピアノ作品集は、やや晦渋な曲と思われるかもしれないが、ルプーが透明な音色で美しく紡ぎ出した気品に満ちた詩情溢れる世界が繰り広げられる。
シューベルト、ベートーヴェン、モーツァルト等、限られたレパートリーの中でその比類のない音楽性を発揮するピアニスト、ルプー。
滋味溢れるブラームスの小品等でも、そのリリシストぶりを聴かせてくれる。
晩年のブラームスの単純ななかにも様々な顔をのぞかせるこれらの小品をルプーが見事に弾き分けている。
少しでも余計な重さが加わるとバランスが壊れそうなくらいガラス細工のような繊細な演奏、それとこの温かさと懐かしさは何だろう。
ルプーの演奏は一生独身を貫き通したブラームスの枯れた老境をあまねく表現していて、とても味わい深い。
2つのラプソディは、千人に一人のリリシストと称されるルプーとは信じられないような劇的な表情を垣間見せる。
もちろん、抒情的な箇所における美しさにもいささかの不足もなく、その意味においては、剛柔バランスのとれた名演と高く評価したい。
3つの間奏曲は、かのグレン・グールドやアファナシエフの超個性的な名演の印象があまりも強いために、他のいかなるピアニストが弾いても物足りなさを感じさせる危険性が高いが、ルプーのような清澄な美しさを湛えた演奏に接すると、正直ほっとさせられる。
あたかも故郷に帰郷したような気分だ。
ブラームスの最晩年の傑作が内包する深い精神性は、むしろ、このような抒情的な演奏によってこそ表現し得るのではないかとも考えさせられるような強い説得力が、本名演にはある。
6つの小品や4つの小品にも、3つの間奏曲とほぼ同様のことが言える。
抒情溢れる清澄な音楽の中から、ブラームスの最晩年の至高・至純の深遠な境地が浮かび上がってくるような趣きがある。
本盤のSHM−CD化は、ブラームスの重厚な音楽ということもあるが、ピアノの各音が通常CDと比較して、明快に分離し、かなり鮮明な高音質になったような印象を受けた。
その意味では、本盤については、SHM−CD化は、やや高額な価格が適正かどうかはともかくとして、先ずは成功と言えるだろう。
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本盤には、ノイマンがチェコ・フィルを指揮してスタジオ録音(1971年)したドヴォルザークのスラヴ舞曲全集とスラヴ狂詩曲集が収められている。
同曲は、ノイマンの十八番とも言うべき得意中の得意とする楽曲であり、本盤を皮切りとして、その後も手兵チェコ・フィルとともに、1985年、そして1993年にもスタジオ録音を行っている。
3度も同曲をスタジオ録音したのは、現時点においてもノイマンただ1人であり、これは、いかにノイマンが同曲を深く愛していたかの証左であるとも考えられるところだ。
それはさておき、ノイマンによる3つの演奏の中で、最も優れているのは1985年の演奏、次いで1993年の演奏であることは論を待たないところである。
本盤の演奏も、決して凡庸な演奏ではなく、若きノイマンによる素晴らしい名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。
本盤の演奏は、3種の演奏の中で最も若い時期のものであるだけに、後年の演奏よりも、躍動感溢れるリズムや畳み掛けていくような気迫においては勝っていると言えるだろう。
演奏の持つ味わい深さや彫りの深さにおいては、後年の演奏には到底敵わないが、楽曲がスラヴ舞曲集であるだけに、そうした点は必ずしも演奏全体の瑕疵には繋がらないと言える。
それにしても、後年の演奏もそうであるが、ノイマン&チェコ・フィルによるスラヴ舞曲集の演奏は、何故にこれほどまでに魅力的なのであろうか。
ノイマンの同曲へのアプローチは、基本的には楽想を精緻に描き出していくというオーソドックスなものと言えるだろう。
もっとも、オーソドックスと言っても、それはノイマンがチェコ人であるとともに、チェコ音楽を数多く指揮してきた者として、チェコ音楽が血となり肉となっている指揮者であるということを忘れてはならない。
要は、ノイマンが何か特別な個性を発揮したりしなくても、ごく自然体の指揮をすれば、スラヴ舞曲集の理想的な演奏に繋がるということを意味するところである。
ここにノイマン&チェコ・フィルによるスラヴ舞曲集の演奏が魅力的である最大の要因があると言えるところだ。
そして、本演奏の録音時点では、ノイマンがチェコ・フィルの音楽監督に就任してから間もない頃ではある。
ノイマンもチェコ・フィルをしっかりと統率しており、加えて、チェコ・フィルの弦楽合奏をはじめとした音色の美しさが、ノイマンによる本演奏に更なる深みと独特の潤いを付加するのに大きく貢献しているとも言える。
その意味では、ノイマン&チェコ・フィルのその後の実りある関係を予見させるような名演とも言えるのではないだろうか。
カップリングされているスラヴ狂詩曲集も、そもそも録音自体が珍しい楽曲であるだけに、ノイマン&チェコ・フィルの演奏は単に名演であるだけにとどまらず、極めて稀少価値のある演奏ということが言えるだろう。
そして、今般のSACD化によって、圧倒的な高音質化が図られたことも、本盤の価値を高めるのに大きく貢献していることを忘れてはならない。
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いずれもチョン・キョンファ2度目の録音で、彼女の全盛時代の大胆さと繊細さを兼ね備えた超名演だ。
チョン・キョンファのヴァイオリンは素晴らしく、透明感のある研ぎ澄まされた精緻な響きと、決して粗暴にならない情熱がバランス良くまとまっており、旧盤とは別人の様な完成度の高い演奏だ。
ベートーヴェンは独特の歌いまわしと起伏の大きなつくり、強めのアクセントなど、感情移入の激しいチョン・キョンファならではの演奏。
圧倒的なテクニックをベースとしつつ、女流ヴァイオリニストの常識を覆すような力強い迫力と、繊細な抒情の美しさが、いい意味でバランスがとれており、そうした表現力の幅の広さが、この録音当時のチョン・キョンファの最大の長所であった。
本盤でも、そうしたチョン・キョンファの長所がすべてプラスに出ており、コンドラシンとの共演盤よりはるかにスケールが大きく深い演奏を聴かせる。
旧盤は、指揮者のコンドラシンに譲歩しすぎたのか、はたまたベートーヴェンということで、慎重になりすぎたのか分からないが、チョン・キョンファの持ち味である奔放さが欠けていたように思う。
それに対し新盤は、気迫あふれるのチョン・キョンファのソロを、テンシュテットが力強く雄大なスケールで包み込んだ素晴らしい演奏。
チョン・キョンファの持ち味である激しさと厳しさ、限界ぎりぎりでの、その驚くようなバランスの良さに、思わず引き込まれてしまうこと請け合いである。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、ベートーヴェンが作曲した最も美しい曲の1つと言われているが、チョン・キョンファは、同曲に満載の美しい旋律を実に情感豊かに歌い抜いて行く。
起伏の大きい独特の歌いまわしなど、チョン・キョンファ節にあふれている。
それでいて、いささかも感傷に陥ることなく、常に高踏的な美しさを保っているのが素晴らしい。
感情移入は激しいが、それでいて透き通るような輝きがあるのがチョン・キョンファならでは魅力だ。
他方、力強さにも不足はなく、特に終楽章の迫力は圧倒的だ。
ブルッフも可憐な雰囲気も漂わせていた旧盤に較べて、濃厚なロマンティシズムに覆われ、スケール感のアップした超名演だ。
ベートーヴェン以上に美しい旋律満載の同曲を、チョン・キョンファは、これ以上は求め得ないような情感豊かさで歌い抜いて行く。
そして、これらのチョン・キョンファのヴァイオリンに優るとも劣らない気迫溢れる指揮をしているのがテンシュテットで、オケの重心が低くスケールも大きな充実した響きも素晴らしい。
咽頭癌を発病した後、病と闘いながら指揮をしていたが、本盤でも、まさに命がけの指揮を行っており、その気迫と力強さには、涙なしでは聴けないような深い感動を覚える。
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2023年02月17日
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〈葬送行進曲〉を第3楽章に据えた詩情溢れる第2番、豊かな情感と幻想に満ちた第3番。
いずれもショパン芸術の頂点を築くこの2曲のソナタは、ピアノ曲に革命的ともいえる新しい表現をもたらした天才ショパンが円熟期に書いた傑作。
ポリーニの演奏はこの革新的な作品に新たな息吹を注ぎ込んだもので、完璧な打鍵による磨き抜かれた音によって優美で詩的な作品を理想的に表現している。
ポリーニにとってショパンは特別な作曲家と言えるだろう。
ショパン国際コンクールでの優勝の後、一時表舞台から離れた後、ショパンの様々なジャンルの楽曲を、今日に至るまで、それこそ少しずつ録音をし続けてきているからである。
ポリーニのショパンは定評があるが、なかでもこのソナタ集では、落ち着きのある中にも、内に情熱を秘めた熱い演奏を聴かせてくれる。
極めてシャープで大きな表現をもつ演奏だが、磨きぬかれた技巧と、芳醇にして繊細なタッチが生みだす響きは限りなく魅力的である。
本盤は、1984年の録音で、今から30年近く前の録音だ。
特に、本盤に収められたピアノ・ソナタ第2番は、本盤から20年以上も経った2008年にも再録音しており、本盤のポリーニのアプローチは、現在の円熟のポリーニとはかなり異なるものである。
エチュードや前奏曲などにおいて、技術偏重の無機的なピアノタッチをかなり厳しく批判する声もあったが、本盤でのポリーニにおいては、少なくともそうした無機的な音は皆無であるように思う。
楽曲の内面への踏み込みといった点からすれば、特に、ピアノ・ソナタ第2番の後年の録音に比べると、いささか弱い点もあろうかとも思うが、それでも、ポリーニの、ショパンの両傑作への深い愛着と理解が十分に伝わってくる血も涙もある名演に仕上がっている。
ポリーニ特有の硬質な音は、勿論フォルテッシモの部分で非常に味わいやすいのだが、一方、弱音部でも鋼のような音の「芯」を感じることができる。
そういう「芯」がしっかりしているが故に本当に明晰な印象の演奏なのだけれど、一方でイタリア人的なノリの良さがフォルティッシモの打鍵から零れ落ちるようなところも感じられる点が、本演奏の面白さだと思う。
正確な技巧の裏返しとして「機械的」という表現で評されることが多い人が、敢えてこの表現を「人間技を越えた」という意味で肯定的に捉えて本作品を評するなら、同じ「機械」でも情緒表現を完璧に兼ね備えた「究極のサイボーグ」による演奏のような印象を受けるのである(後年になると、流石のポリーニも柔らかくなっていく訳なのだが)。
SHM−CD化によって、音質は相当に鮮明になっており、壮年期のポリーニの名演を高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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チェコの至宝であったスメタナ四重奏団が解散の直前に録音した極めつきのドヴォルザーク。
スメタナ四重奏団の演奏が日本の音楽ファンに与えた影響は小さくなく、40年以上に及ぶキャリアと伝統は音楽史に残るべきものがあるだろう。
ドヴォルザークの室内楽曲中、最も有名な弦楽四重奏曲である第12番「アメリカ」は、スメタナ四重奏団にとっても、演奏回数が非常に多い作品の1つと言えよう。
録音も当然のことながら多く、本盤も、何と5回目の録音ということになり、スメタナ四重奏団がその芸術の集大成とでも呼べるべき傑出した演奏による当録音は、素晴らしいの一言。
スメタナ四重奏団の「アメリカ」としては、1970年代の旧録音の方がよりベストフォームの名演だと思うが、本盤の演奏も、名演と評価したい。
円熟の極みにあったスメタナ四重奏団は、メンバーが晩年を迎えながら技術的にも音楽的にも完熟の極みといえる深い味わいを湛えた名演をなしている。
何度も演奏を繰り返すことによって、楽曲の隅々に至るまで知り尽くしているとは思うが、いわゆる惰性で演奏している箇所は皆無。
どこをとっても、敬愛する楽曲を演奏するという喜びと躍動感に満ち溢れており、そうした謙虚で真摯な姿勢が、聴き手にゆったりとした気持ちで同曲を味わうことができることに繋がるものと考える。
スメタナ四重奏団は暗譜で全曲演奏することで有名であるが、精緻なアンサンブルの秘訣はそのこととも関連するのであろう、弦楽器であるがブレスのタイミングを揃えているようにも感じ取れた。
4つの楽器が見事に融合する美しい響きは相変わらずであり、何度録音(演奏)してもスメタナ四重奏団の「アメリカ」は、常に名演との評価が揺らぐことはないものと考える。
筆者としては彼らのドヴォルザークの演奏は本当に唯一無二のものだと高く評価したいと考えている。
カップリングの弦楽六重奏曲は、あまり演奏されない楽曲ではあるが、スメタナ四重奏団や、チェコの誇るスークやフッフロの名演奏によって、非常に美しい楽曲であることを認識させられた。
アンサンブルは緊密にして豊麗、楽曲への共感と自信に満ち、全体はすばらしい幸福感に包まれている。
Blu-spec-CD化によって、音質は非常に鮮明になっており、解像度も各楽器の分離も良く、音像が目の前に立ちあがるようで、これらの名演奏の価値をさらに高めることに繋がっている。
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ポリーニは華麗で技巧的な作品には目もくれず、リストのもっとも実験的な作品をリストアップした。
リストの最高傑作の構造を完璧に解き明かした演奏で、リリース当時は大変な評判になったアルバムである。
曲自体も、ポリーニにぴったりな曲であり、まさに素晴らしいと思う曲しかリリースしない、そしてリリースしたからにはその演奏は頂点の演奏であるというポリーニのポリシーが今日まで貫かれているのを感じる。
リストのピアノ曲といえば、超絶技巧が有名であるが、このピアノ・ソナタは、ワーグナーと親交のあったリストのロマン派的叙情性に満ちた美しさが魅力である。
超絶技巧なら、ポリーニは難なく弾きこなせるのだが、敢えてロマン溢れるピアノ・ソナタを録音したのは、ポリーニ自身、技巧派で押し通す事を避け、レパートリーを拡げ、その音楽性を世界に知らしめたかったのではないだろうか。
リストのピアノ・ソナタは、超絶的な技巧と、強靭なトゥッティから繊細な抒情に至るまでの幅広い圧倒的な表現力を必要とする傑作だけに、古今東西のピアニストが数々の名演を遺してきた。
それ故に、同曲のあまたの名演の中で、存在感のある名演を成し遂げるのは至難の業とも言えるが、ポリーニの演奏は、いささかもその存在価値を失うことのない名演と高く評価したい。
ポリーニの演奏における超絶的な技量はまさに圧倒的だ。
ただ、近年のポリーニの演奏において、大きな欠点の1つとなっている、技量一辺倒の無機的な演奏には決して陥っていない。
それどころか、近年のポリーニには珍しいくらい思い入れたっぷりの熱い表現を垣間見せてくれている。
この録音は、ロマンティックなリストが充分表現され、その中に、ポリーニの持つ技巧と情熱のバランス感覚が発揮された名演である。
その完成度の高い演奏技術から、機械的だとか冷徹と言われ続けてきたポリー二であるが、このピアノ・ソナタを聴けば、彼がこれを弾くために存在したのだと確信する名演である。
とにかく演奏自体に隙もなければ無駄もなく、この単一楽章形式に書かれた複雑でデモーニッシュな音楽を、絶妙なバランス感覚と構築感で聴かせてくれる。
この曲は、テンポも強弱も著しく変化する劇的な楽曲であるが、ポリーニは、思い切った表現で、この激しく変転する楽想を見事に駆け抜けていく。
抒情的な箇所の美しさも出色のものであり、まるで近年の技巧派ポリーニとは別人のような芸術的な深みのある表現を成し遂げている。
情感を楽しむことはもちろんできるが、まさにこのピアニストのピアニスティックな部分が最大限楽しめる演奏とも言える。
併録の小品も、ピアノ・ソナタに優るとも劣らない名演であり、ポリーニのリストへの適性を大いに感じさせるアルバムに仕上がっている。
今後のリスト演奏を考えるとき無視できない1枚となるだろう。
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2023年02月16日
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フランス系の音楽を十八番とした小澤ならではの素晴らしい名演だ。
東洋人独特の繊細な感性が不思議とフォーレのフランス的抒情の琴線と共鳴しているようであり、このフォーレ管弦楽作品集でも洗練された演奏を聴かせてくれる。
とにかくオケのサウンドが美しく、音楽そのものに素直に語らせたゆえにこれだけの演奏ができたのだろう。
劇音楽「ペレアスとメリザンド」は、小澤の卓越した演出巧者ぶりが際立つ。
繊細な抒情から強靭なトゥッティの迫力に至るまで、表現の幅は桁外れに広く、実に内容豊かな音楽を構築している。
小澤は、有名なシシリエンヌなど、フォーレの作曲した絶美の旋律の数々を徹底的に歌い抜いており、その切ないほどの郷愁、メロディの歌わせ方には胸を打たれる。
かと言って、徒に感傷的に陥ることはなく、フランス風の瀟洒な味わいさえ感じられる高踏的な美しさを保っているのが素晴らしい。
これは、本場フランスの指揮者でさえ凌ぐセンス満点の卓越した指揮芸術の賜物と言えるだろう。
ソプラノのハントの歌唱も実に優美であり、本名演に華を添えている点も忘れてはならない。
「夢のあとに」と「エレジー」は、何よりもエスキンによるチェロが美しさの極みであり、小澤も、チェロとともに極上の音楽を紡ぎ出している。
パヴァーヌに至っては、味わい深いオーケストラと壮麗な合唱の絶妙の組み合わせが至高・至純の美を形成しており、あまりの切ない美しさに涙なしでは聴けないほどだ。
組曲「ドリー」は、原曲がピアノ曲であり、フォーレ自身の編曲ではないが、フォーレならではの叙情豊かな魅力は他の諸曲にもいささかの引けも取らない。
テレビ東京の「生きるを伝える」でも有名な子守歌など、親しみやすい旋律が満載の魅力作だ。
小澤は、ここでも、持前の表現力の豊かさと演出巧者ぶりを発揮して、曲想を巧みに描出していくが、随所に聴かれるフランス風のエスプリ漂う瀟洒な味わいは、筆舌には尽くし難い高みに達している。
ボストン交響楽団やタングルウッド音楽祭合唱団も、小澤の統率の下、最高のパフォーマンスを示している。
リマスタリングにより、音質は明らかに鮮明になるなど向上しており、この卓越した名演を素晴らしい高音質で味わうことができることを大いに喜びたい。
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これは言わずと知れた有名な名盤で、昔からトスカニーニの代表作と言われていた歴史的な名演である。
これまで発売されたCDは、録音年代が古いモノラル録音というハンディもあるが、K2カッティング盤も含め、決して満足できる音質とは言えなかった。
それ故に、本盤登場以前は、ムーティ盤や、最新のパッパーノ盤などにどうしても食指が動いていたが、XRCD盤が発売されるに及んで、他の演奏は、殆ど太陽の前の星のように、その存在が霞んでしまった。
それほどまでに、今般のXRCD盤は、実在感溢れる衝撃的な音質であり、あらためて、この歴史的名演の凄さを再認識することに繋がったと言える。
原テープのクオリティの素晴らしさもさることながら、XRCD化により、トスカニーニ率いるNBC交響楽団が誇っていた、目も覚めるような色彩感と傑出したヴィルトゥオジティが空前の華やかさと繊細さをもって見事に蘇っている。
イタリアの血が燃焼し尽くしたかのような迫力に満ちたストレートな表現は、トスカニーニを象徴する独特のものだ。
『ローマの松』の「ボルゲーゼ荘の松」からして、そのメリハリの利いた凄まじい迫力に圧倒されてしまう。
「カタコンブ附近の松」の地下から響いてくるような重厚さも見事であるし、「ジャ二コロの松」の弦楽器の何という艶やかさ。
「アッピア街道の松」はまさに精鋭を率いるトスカニーニ将軍といった趣きの貫録を見せる。
『ローマの噴水』は、特に、「朝のトリトンの噴水」と「真昼のトレヴィの噴水」の光彩陸離たるブリリアントな音の響きに、殆ど幻惑されてしまうようなまばゆいばかりの魅力がある。
そして、圧巻は『ローマの祭り』で、スコアのあらゆる音が完璧に響ききった生命感は、他の追随を許さない。
冒頭から終結部まで、誰にも止めることができない勢いと張り詰めるような緊張、オーケストラの驚異的なアンサンブル、そして切れば血が吹き出てくるような圧倒的な生命力が全体を支配している。
それでいて、「10月祭」の官能的とも言うべきカンタービレの歌い方も実に感動的だ。
特に、「主顕祭」のもはや人間業とは思えないようなド迫力には、評価する言葉すら思いつかないくらい、完全にノックアウトされてしまった。
レスピーギとトスカニーニに親交があり、お互いに共感し得る物があった事、NBC交響楽団がアクロバットに近い演奏を成功させた事、モノラルとはいえ当時のエンジニアが機械の性能を限界まで追求した事により成し得た偉業である。
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ラフマニノフは偉大な作曲家であると同時に偉大なピアニストであった。
それだけに、4曲にも及ぶピアノ協奏曲や、パガニーニの主題による変奏曲、2曲のピアノ三重奏曲、2曲のピアノ・ソナタをはじめとする相当数のピアノ曲を作曲しているところである。
どの曲も、難曲の部類に属するが、それは、ラフマニノフが他の誰よりも大きな手の持ち主であり、どのような曲でも弾きこなすだけのヴィルトゥーゾ・ピアニストであったことにもよるものと思われるところだ。
ラフマニノフの数あるピアノを用いた作品の中でも特に有名なピアノ協奏曲第2番及び第3番について、自作自演が遺されているというのは、クラシック音楽ファンにとっても何という素晴らしいことであろうか。
ピアノ協奏曲第2番については1929年、そしてピアノ協奏曲第3番については1939年のモノラル録音であり、いずれも音質は決して良好なものとは言えない。
ラフマニノフがこれらの2つの有名曲をどのように解釈していたのか、そして、ラフマニノフがヴィルトゥーゾ・ピアニストとしていかに卓越した技量を有していたのかを知る意味においては、極めて貴重な歴史的な記録とも言えるであろう。
先ずは、両曲の演奏ともにやや速いテンポ設定をとっていることに驚かされる。
当時の演奏傾向にもよるとは思うが、それ以上に、ラフマニノフがいかに人間離れした卓越した技量の持ち主であったのかがよくわかるというものだ。
両曲ともに、ロシア風のメランコリックな抒情に満ち溢れた旋律が満載の楽曲ではあるが、ラフマニノフはやや速めのテンポをとりつつも、それらの旋律の数々を情感豊かに歌い抜いているところである。
アゴーギクなども駆使しているが、決してセンチメンタリズムには陥らず、いささかの古臭さを感じさせないのが素晴らしい。
もっとも、音質が悪い(特に、ピアノ協奏曲第2番)ので、ラフマニノフのピアノタッチが鮮明に再現されているとは言い難いのがいささか残念ではある。
ラフマニノフの両曲に対する捉え方、そして持ち味の超絶的な技量を堪能することができるという意味においては、歴史的な意義が極めて大きい名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
もっとも、前述のように音質は今一つであるというのが玉に傷と言ったところだ。
リマスタリングによって、若干ではあるが音質は改善されたが、それでもトゥッティにおける各楽器セクションの分離の悪さは如何ともしがたいものがある。
もっとも、これまでの従来CD盤よりは聴きやすい音質(とりわけピアノ協奏曲第3番)でもあると言える。
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2023年02月15日
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1968年2月1日、招待客を前にして収録され、同年9月22日に全米で放映されたものを収録したもので、ホロヴィッツ芸術のエッセンスを聴けるベスト盤的内容だ。
当時テレビ出演での演奏は珍しく、編集出来ないにもかかわらずそれをやり遂げたホロヴィッツの度胸はたいしたものだ。
それにしても凄い名演揃いだ。
壮年期のホロヴィッツのピアノは本当に人間離れしており、アルバム随所でホロヴィッツの職人技を堪能することができる。
まずは、ショパンの3曲が途轍もない超名演。
バラード第1番の冒頭の和音からして他のピアニストとは次元の異なる力強さが漲っている。
その後は、途轍もない強靭な打鍵と繊細な抒情が交錯、テンポも自在に操るが、どんなにハイスピードになっても、ピアノの1音1音が完璧に鳴り切っているというのは殆ど驚異的であり、特に終結部の猛烈なアッチェレランドは筆舌には尽くしがたいもの凄さだ。
バラードと言うよりは、スケルツォを聴いているような印象も受けるが、聴き終えた後の感動には尋常ならざるものがある。
ノクターン第15番の心のこもった情感の豊かさは、壮年期のホロヴィッツの表現力の幅の広さを大いに感じることが可能だ。
ポロネーズ第5番もバラードと同様の演奏傾向であり、その唖然とするような超絶的なテクニックには、もはや表現する言葉が追い付かない。
スカルラッティ、シューマンはショパンのノクターンに劣らぬ情感豊かな名演であるし、スクリャービンの迫力ある豪演も印象的であるが、特に凄いのは、ホロヴィッツがビゼーのカルメンの主題をアレンジした変奏曲。
ここで聴かれる演奏には、壮年期のホロヴィッツのピア二ズムの全てが凝縮されている。
怒涛の勢いで鍵盤から音が溶解したと思えば、剥離し飛散して、じきに音が合流し一気に濁流となって突進する。
この神技とも言うべき圧倒的なテクニックと桁外れの表現力の豊かさは、まさに世紀のヴィルトゥオーゾ・ピアニストの名に相応しい圧巻の至芸と評価したい。
最後にはホールが割れんばかりの万雷の拍手である。
後追いではあるが歴史の証人となることができる聴いて絶対に損はない作品だ。
1968年という録音年代にしては驚くほど音質も鮮明で、本盤の価値を高めるのに大きく貢献している。
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マーラーの交響曲第9番は、マーラーが完成させた最後の交響曲だけに、その内容には途轍もない深みがある。
その本質的なテーマは、諸説はあるとは思うが、忍び寄る死への恐怖と闘い、そして、生への憧憬と妄執であると言えるだろう。
それだけに、他の交響曲では通用するアプローチでも、第9番に限っては、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの演奏では、到底名演になり得ないとも言えるところだ。
ショルティは、ロンドン交響楽団とのスタジオ録音である本演奏(1967年)に続いて、手兵シカゴ交響楽団とともに2度目のスタジオ録音(1982年)を行っている。
1982年の演奏は、スーパー軍団と称されたシカゴ交響楽団の卓越した技量を見事に統率するとともに、楽曲の心眼にも鋭く踏み込んだ懐の深い円熟の名演であるが、これに対して、本演奏については、今一つの踏み込み不足を感じさせる演奏と言える。
今般の一連のルビジウム・クロック・カッティングシリーズの演奏は、第3番を除いて名演の名に相応しい水準を保っているが、本演奏は第3番と同様に、佳演のレベルにとどまるのではないかとも考えている。
ショルティの指揮芸術の特徴でもある切れ味鋭いリズム感やメリハリの明瞭さは、本演奏においても健在である。
同曲の複雑な曲想を明瞭化するにも大きく貢献しているが、スコアに記された音符の背後にあるものへの追求や彫りの深さと言った点においては、いささか不足していると言わざるを得ない。
演奏の持つ力強さや迫力においては不足がないものの、我々聴き手の肺腑を打つに至るような凄味は感じられないところであり、どうしても、本演奏にはある種の限界を感じずにはいられないところだ。
もっとも、1960年代という、いまだマーラー・ブームが訪れていない時期において、マーラーの交響曲の中でも最も演奏が難しいとされる難曲第9番に果敢に挑戦し、少なくとも水準には十分に達し得た演奏を成し遂げたことについては、一定の評価をしておくことが必要であろう。
いずれにしても、本演奏は、1982年の2度目の演奏と比較すると、今一つの出来と言わざるを得ない。
本演奏当時はショルティがいまだ壮年期であったこと、そしてマーラー・ブームが訪れる前の演奏であることなどを総合的に勘案すれば、少々甘い気もするが、佳演と評価するには躊躇するものではない。
ロンドン交響楽団も、ショルティのメリハリのある指揮にしっかりと付いていき、持ち得る実力を発揮した見事な演奏を行っていると評価したい。
音質は、1967年のスタジオ録音であるが、英デッカによる超優秀録音であること、そして、今般、ルビジウム・クロック・カッティングがなされたことにより、十分に満足できるものとなっている点についても付記しておきたい。
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小澤&ボストン響時代を代表する素晴らしい名演だ。
小澤は、バレエ音楽の全曲版としては、本盤の8年前にもチャイコフスキーの「白鳥の湖」を録音した。
そのレビューにおいて、筆者は、ウィーン国立歌劇場のシェフとなる大指揮者小澤への確かな道程を感じると記したが、本盤は、「白鳥の湖」よりも更に優れた名演。
小澤は、かかる道程を着実に歩んでいることがよくわかる演奏だ。
小澤は、本盤の直後に、ベルリン・フィルとともにプロコフィエフの交響曲全集を録音するなど、プロコフィエフを自家薬籠中の作曲家としており、そうした点から来る自信と風格が、本盤の演奏全体に漲っている。
プロコフィエフの管弦楽曲の特徴として、不協和音を駆使したいわゆる音の濁りというものがあるが、小澤は、それを決してオブラートには包まない。
どの箇所もスコアに記された音符のすべてを鳴らすことに腐心しているようである。
それでいて、重々しくなることはなく、さりとて洗練され過ぎるということもなく、剛柔バランスのとれたシンフォニックな演奏を行っている点を高く評価したい。
小澤の優れた特徴として、卓越した音楽性に去来するリズム感があるが、例えば、第1幕の第15曲のマーキュシオでは、軽快でリズミカルな音楽の中に瀟洒な味わいがあるし、第18曲の客人たちの退場における、古典交響曲から引用された旋律の躍動感が素晴らしい。
また、小澤の舞台人としての演出巧者ぶりも健在で、例えば、第2幕においては、第24〜第27曲及び第30〜第31曲の小気味のいいリズミカルな音楽と、第28曲及び第29曲の情感溢れる美しい音楽との思い切った対比など、テンポ設定の緩急やダイナミックレンジの幅広さを駆使して、実にドラマティックな音楽を構築している。
第3幕における第41曲以降のジュリエットの心象風景の描写は素晴らしいの一言であり、第4幕のロメオの死の切れ味鋭い慟哭の音楽には戦壊を覚えるほどだ。
第52曲のジュリエットの死は、至高・至純の天国的な美しさに満ち満ちている。
ボストン交響楽団も、小澤の統率の下、最高のパフォーマンスを示しており、金管楽器や木管楽器の技量には卓抜としたものがある。
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2023年02月14日
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聴き終えた後の爽快感はポリーニが一番と言えるものの、ポリーニのショパンは評価が難しい。
確かに、初期の録音のような機械じかけの演奏はそもそも論外であるが、それ以外のいかなるCDにおいても、その技量は完璧であり、楽曲の内面への掘り下げはイマイチなものの、随所に巧みな表情づけを行っていることもあって、聴き終えた直後は、爽快な気分になり、これは名演ではないのかと思ってしまうのだ。
ところが、残念なことであるが、一部のCDを除いては、すぐにどういう演奏であったのか忘れてしまうのが事実なのだ。
例えば、同じスケルツォの全集を録音したポゴレリチなどと比較するとよくわかる。
ポゴレリチ盤は、聴く際にも凄い集中力を要求されるだけに、聴き終えた直後は、もう一度聴きたいとは思わないし、一度聴いただけで満腹になってしまうのである。
しかしながら、しばらく時間が経つと、もう一度聴きたくなり、そして、その強烈な個性が頭にこびりついて離れない。
ところが、ポリーニのスケルツォは、聴き終えた後の疲れはないが、しばらく経つと、どういう演奏だったのかすぐに忘れてしまう。
それ故に、もう一度聴きたいとは思わないから、CD棚の埃の中に埋もれていく。
要するに、確かな個性がないということであり、ポリーニは、卓越した技量をベースにして、透明感溢れる切れ味鋭いタッチが持ち味であるが、どうしても技術偏重の蒸留水のような没個性的な演奏に陥ってしまいがちである。
さすがに、2000年代に入って、ショパンであれば夜想曲や、バッハの平均律クラヴィーア曲集など、深みのある名演も出てきたが、それ以前の演奏では、そうした欠点が諸に出てしまう演奏が散見された。
バラードも、1999年の録音ではあるが、やはり、そうした欠点が出てしまった演奏と言える。
ただ、ピアノ曲との相性が良いSHM−CD化によって、ピアノの音質に硬さがなくなったのはプラスに働いているが、それでも、演奏全体の欠陥を補うには至らなかったのは大変残念だ。
もちろん、悪い演奏ではない。
例えば、バラードという曲は、こういう曲ですというのを、初心者に聴かせるには最適のCDと言えるが、クラシック音楽を聴き込んでいる人が、繰り返して聴くに耐える演奏とは到底言い難い。
これらの楽曲を初めて聴くには最適のCDと言えるが、スケルツォやバラードの本質を味わおうとするのであれば、やはり、他の個性的な内容のある演奏を聴くべきである。
こうした演奏評価は、一流のピアニストにとってははなはだ不本意なことであるが、本盤は、今から30年も前の録音。
最近ではポリーニも円熟の境地に達し、例えば、ショパンで言うと、前奏曲集などの名演も成し遂げてきており、仮に、本盤の各楽曲を再録音すれば、次元の異なる名演を成し遂げることができるのではないか。
本盤の各楽曲は、いずれも有名曲だけに、大いに期待したい。
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「私の交響曲は墓標である」と言ったというショスタコーヴィチの交響曲であるが、この演奏はその中でも注目すべき1枚と言えよう。
ケーゲルは共産主義の正しさを確信し、それでも共産主義体制が崩壊してゆくことに危機感を募らせ、自ら命を絶ったといわれているが、このショスタコーヴィチの交響曲第5番は、そういう指揮者にしかできない演奏であることは間違いない。
ケーゲルはここで本領を発揮、全楽章を通して悲愴感に満ちているが、そういう意味では、この曲の悲劇性を皮肉にも非常に強く表現している。
まるで深い闇の底を覗き込むような音楽であるが、なかでも聴きどころは澄んだ悲しさの第3楽章に続く最終楽章。
冒頭から聴こえてくるのは、「革命の生の高揚」などではない。「恐怖の絶叫」「感情の爆発」だ。
続いてもその先には「勝利の喜び」などはない。その喜びは一種の絶望と諦観とでもいうべきものである。
したがって、文学的メッセージを鑑賞するには、ケーゲルの解釈は一定の評価をされるべきものであると評価したい。
しかしながら、オケの、ステージ上で何か事故が起こっているのではないかと思わせるほどのミス(拍子のカウントのずれやテンポのずれ)が散見される。
それは、ライヴ録音であるという点を考慮しても許容される範囲をはるかに逸脱していると言わざるを得ない。
これでもし、オケが一流だったら、ムラヴィンスキーに追随するかのような凄演になっていたのだろうと悔やまれる。
なお、終楽章のコーダでティンパニの連打に鐘を重ねているのは聴く者の度肝を抜くケーゲル独自の解釈と言えるが、この解釈は成功していると思う。
やはり曲そのものにそういうものを予感させる何かがあるからであろう。
最後は決して勝利の行進ではなく、強制された断頭台への行進なのである。ケーゲルはそれを明らかにしただけなのだ。
「第9」は、スタイリッシュでセンス抜群な古典風の端正な交響曲ではあるが、一聴してそれと判断してはいけない。
その底には恐怖の予兆とでもいった、闇の底から湧きあがる黒いマグマの様なものが流れているのだ。
聴く者を恐怖のどん底に落とすであろうこの1枚は、「癒し」などという言葉とはほど遠いものがあるが、そもそも「感動」とは人の心や価値観を脅かし、一種の恐怖を伴うものなのだ。
ケーゲルという指揮者を決して侮ってはならない。恐怖は静かな顔でこちらを窺っているのである。
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1960年という、カラヤンがウィーン国立歌劇場の監督をしていた、名実ともにヨーロッパの楽壇の帝王であった全盛時代の精力を注ぎ込んだ名演である。
まずは主役級に当時のウィーンで活躍していたギューデンのロザリンデ、クメントのアイゼンシュタイン、ケートのアデーレなど、芝居して良し、歌って良しのウィーンっ子達を揃えているのが見逃せない。
当時のウィーン国立歌劇場の日常のアンサンブルをそのまま起用したせいで、そのまとまりとアンサンブルは、抜群の良さを示している。
それだけでも豪華なのに、カラヤンがただ者でないのは、第2幕の晩餐会のシーンで30分以上にも及ぶ「ガラ・パフォーマンス」を挿入していることである。
ここでは英デッカ専属のスター歌手を動員、テバルディ、二ルソン、デル・モナコ、ビョルリンク、バスティアニーニ、ベルガンサ、プライスなど、オペラの主役級の超豪華歌手陣を揃えている。
例えばニルソンが《マイ・フェア・レディ》の「一晩中踊れたら」、コレナがシャンソンの《ドミノ》、プライスが《サマー・タイム》を歌ったりと隠し芸大会が展開されるのだ。
《2人で習った英語で歌ってみようよ》というバスティアニーニとシミオナートの掛け合いも楽しい。
多彩なゲストたちのガラ・パフォーマンス付きのこのゴージャスな1組は贅沢な一時を楽しませてくれるので、その部分だけをとりだして聴くことも多い。
まさに当時の帝王カラヤンの有無を言わせぬ圧倒的な権威を象徴するものと言えるだろう。
そして、これら超豪華歌手陣を圧倒的な統率力で纏め上げたカラヤンの力量も驚異的の一言であり、「こうもり」という娯楽作を一流の芸術作品にまで引き上げた手腕は、さすがという他はない。
カラヤンの指揮は序曲から切れ味のある速めのテンポで進み、歌劇の臨場感を味わわせてくれる。
ウィーン・フィルも、実に躍動感溢れる演奏を行っており、「こうもり」に必要不可欠の、「会議は踊る」といった表現に相応しいウィーン風の高貴かつ優美な雰囲気の醸成にもいささかの不足はない。
ただカラヤンの旧盤に比べると、表現の柄がいくぶん大きくなっていて、その点が気にならなくもないが、いかにもカラヤンらしい、絢爛豪華な「こうもり」と言えるだろう。
「こうもり」には、クライバーの名演もあるが、歌手陣の豪華さ、そしてカラヤンの圧倒的な統率力、ウィーン・フィルの高貴にして優美な演奏に鑑みれば、カラヤンの2度目の録音となる本盤の演奏を、同曲随一の名演と評価することに躊躇しない。
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2023年02月13日
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クレンペラーの遺産の中でも特に美しいのがこの録音であり、風格のある実に素晴らしい超名演で、雄渾なスケール感に圧倒される。
トスカニーニ、フルトヴェングラーらとほぼ同世代のクレンペラーの優位は、晩年の芸術をステレオ録音で残してくれたこと。
特にメンデルスゾーンの「スコットランド」とこの「真夏の夜の夢」は彼の十八番であり、格調の高さに透明感のある響きが特徴である。
クレンペラーのメンデルスゾーンは他の作曲家の作品に対する解釈同様、実に個性的で、強靱な芸術性を持った内容に仕上がっている。
彼ならではの構築性に富んだ世界観に基づく演奏は、音楽そのものを根本的に変えてしまうような印象を与えてくれる。
ゆったりとしたインテンポによる演奏で、特に、何かをしているわけではないが、その深沈たる内容の濃さは、他のいかなる名演を凌駕する至高のレベルに達している。
「真夏の夜の夢」には、同じく名演としてプレヴィン盤があるが、プレヴィン盤は、聴かせどころのツボを心得た演出の巧さが光った名演であった。
ところが、クレンペラーには、そのような聴き手へのサービス精神など薬にしたくもない。
堂々たるインテンポで、自らの解釈を披露するのみであるが、その演奏の味の濃さと言ったら、筆舌には尽くしがたいものがある。
テンポも実にゆったりとしたものであるが、それだけに、メンデルスゾーンがスコアに記した音符のすべてが音化され、音楽に内在する魅力が前面に打ち出されてくるのが素晴らしい。
木管楽器の活かし方など、出色のものがあり、クレンペラーの数ある名演の中でも、トップの座を争う出来と言えるのではないか。
森の奥深いところへ誘ってくれる趣があって素晴らしく、これに比べると他のものは手入れの行き届いた公園の散歩みたいなもの。
ちなみに、この「真夏の夜の夢」は、アバド指揮ベルリン・フィル盤も評論家諸氏の評価が高いのだが、こちらの方は、ほぼ全曲にわたって語りが入っているのが特徴だ。
しかし、この語りが問題で、たとえば、オネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」のようなシリアスな曲なら、語りが、音楽全体の中で、なくてはならない必要不可欠なものと納得できるのだが、この「真夏の夜の夢」のような曲では、語りが、美しい音楽の流れを切断してしまっており、音楽的には、かえって逆効果になっているのだ。
演奏も、メリハリ豊かで恰幅の良いクレンペラー盤の方が、アバド盤より1枚上だと思う。
クレンペラーによる至高の超名演をリマスタリングされた良好な音質で味わうことができるのを歓迎したい。
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以前メロディアから出ていた1959年のセッション録音(モノラル録音)である。
この名録音が久しぶりに容易に入手できるようになったことを歓迎したい。
この曲を戦争映画のサントラか無内容な音の大スペクタクルのように感じる人がいたならば、ケーゲルやコンヴィチュニー、同じくムラヴィンスキーのレニングラード初演などとともに、この録音をお薦めしたい。
録音の古さを超えて、この曲が単にレーニン賞受賞の体制御用達の曲でなく、絞り出すようなプロテスト、万感のメッセージが込められているのではと考えさせてくれる。
ショスタコーヴィチの交響曲の約半数、7曲を初演したムラヴィンスキーは、作曲家晩年の回想では理解していないと非難されたが、作品の普及に大きく貢献したことは事実である。
演奏について「曲の本質ではない演奏」という評がちらほら見られるが、ショスタコーヴィチとレニングラード・フィルは紛れもなく初演者であり、「そうじゃない!」と言わせたなどの数々のエピソードからショスタコーヴィチ本人の楽曲に込めた意思はムラヴィンスキー本人に伝わっていると断言できる。
全体的な構成感やその歌い回しでは今録音されている全ての「1905年」を通して変わらない一つの頑固なる意志が見て取れる。
それを以て「曲の本質を掴めていない」というのは何事か!? 作曲者の意思が現れる演奏こそ最も本質的な演奏なのである。
別な解釈からのアプローチを行った演奏は否定しないし、もし筆者が自身の作品の奇異な解釈に出会ったとして、それが面白いものならば面白いと思うだろう(事実、奇異な演奏というのは様々な淘汰の中で生き残ってきた演奏のみを今耳にすることが出来るのである)。
しかしそれによって刷り込まれたイメージのみを以て作曲者のアドバイスをも受けたこの初演者の演奏を「曲の本質ではない」と評するのは作曲家ショスタコーヴィチにも失礼である。
もし本当にそれでも本質的でない演奏と思うのであれば、それはショスタコーヴィチのアドバイスを受けていない第三者が誇張した演奏を最も本質的だ!と評しているということで、本当はそれこそ本質的ではないということを自覚するべきである。
この演奏も、絶壁に立たされたような恐ろしいまでの緊張感を感じさせる演奏だ。
でも、本当のところは、歴史を共有することができない私たちにはわからないのかもしれない。
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ドヴォルザークは、恩人である先輩作曲家ブラームスと同様に、管弦楽曲もさることながら、むしろ室内楽曲において数多くの傑作を遺したと言えるのではないか。
その中でも、本盤に収められたピアノ三重奏曲の第3番と第4番は、最上位にランクされるべき名作であると思う。
しかしながら、これほどの名作であるにもかかわらず、ピアノ三重奏曲のCDは意外にも少ない。
弦楽四重奏曲「アメリカ」の数多いCDと比較すると、あまりにも不当な気がする。
そのような中で、ピアノ三重奏曲第3番と第4番に、チェコの名奏者で構成されるスーク・トリオによる名演があるのは何という幸せであろうか。
チェコの至宝スーク・トリオによる同作品2度目の録音で、作品への深い共感と揺るぎない自信に裏打ちされた正統派の名演である。
ドヴォルザークの曾孫にあたるスークをリーダーとするスーク・トリオは、作曲家への深い尊敬と共感に満ちあふれた演奏を聴かせる。
スーク・トリオの演奏は、奇を衒うことなく、作品の素晴らしさ、魅力を愚直なまでに自然体のアプローチで描き出していくもの。
その誠実であり、なおかつ作品への深い共感が、本盤で聴くような、いい意味でのオーソドックスな名演を生み出したと言えるだろう。
両曲に内在するスラヴ的な民族色の描出も見事であるし、ドヴォルザークの晩年に顕著な人生の哀感とも言うべき深い抒情の描き方も実に巧みだ。
スークの飾らない演奏が素晴らしく、決して華美な表現に陥らないのがスークらしいが、ドヴォルザークでは何より魅力的だと感じる。
なかでもボヘミア的情感を漲らせた《ドゥムキー》では、他の演奏者の追随を許さない演奏を繰り広げている。
様々に交代する異質な要素が鮮やかに描き分けられ、スラヴ的情感も色濃く、ドヴォルザークの光と影を余すところなく描いている。
純音楽的でもあるが、終盤の民族的な曲ならではの、地鳴りするような迫力を感じることができ、さすがと思わせる。
緩急自在のテンポ設定も、透徹したアンサンブルの下、名人芸の域に達しており、力と心と理詰めのバランスが素晴らしい。
Blu-spec-CD化によって、音質がさらに鮮明になったことも、本盤の価値を高めることに大きく貢献している。
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2023年02月12日
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ワルターは1911年に「大地の歌」を初演したが、マーラーの弟子・後継指揮者として、この曲を35才のワルターが世に問うたことは、彼自身が述懐しているように実に大きな飛躍のステップであった。
そんなワルターが遺した「大地の歌」の録音と言えば、ウィーン・フィルを指揮した1936年盤と1952年盤の評価が著しく高いため、本盤の評価が極めて低いものにとどまっている。
特に、1952年盤が、モノラル録音でありながら、英デッカの高音質録音であることもあり、ワルターによる唯一のステレオ録音による「大地の歌」という看板でさえ、あまり通用していないように思われる。
ミラーとヘフリガーの名唱を得て、マーラー解釈の神髄を披露し、演奏の質は非常に高いだけに、それは大変残念なことのように思われる。
確かに、1952年盤と比較すると、1952年盤がオーケストラの上質さやワルターが最円熟期の録音ということもあり、どうしても本盤の方の分が悪いのは否めない事実であると思うが、本盤には、1952年盤には見られない別次元の魅力があると考えている。
1960年の録音であり、それは死の2年前であるが、全体に、人生の辛酸を舐め尽くした老巨匠だけが表現することが可能な人生の哀感、ペーソスといったものを随所に感じさせる。
特に、「告別」には、そうした切々とした情感に満ち溢れており、ここには、ワルターが人生の最後になって漸く到達した至高・至純の境地が清澄に刻印されていると思われるのである。
ワルターの説得力に富むアプローチに加え、ヘフリガーの独唱も他に代えがたい深い詠嘆を湛えており、心に染み入るものがある。
第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」の出だしから、ワルターと完全に融合し、マーラーの心境にひしと寄り添っているような一体感を醸しており、至芸と言えよう。
ニューヨーク・フィルも、ワルターの統率の下、最高のパフォーマンスを示していると言って良い。
DSDリマスタリングによって、音質がグレードアップされている点も特筆すべきであろう。
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いわゆる4大ヴァイオリン協奏曲の中でもベートーヴェンとブラームスのヴァイオリン協奏曲は、技量面での難しさもさることながら、メロディの美しさよりは音楽の内容の精神的な深みが際立った作品である。
したがって、演奏するヴァイオリニストにとっても、卓越した技量を持ち合わせているだけでなく、楽曲の内容の深みを徹底して追求する姿勢を持ち合わせていないと、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの浅薄な演奏に陥ってしまう危険性があると言えるだろう。
そうした中にあって、ハイフェッツによる本盤の演奏は、持ち前の超絶的な技量を駆使することのみによって、両曲の内容面をも含めた魅力を描出し得た稀有の演奏と言えるのではないだろうか。
1955年というハイフェッツの全盛期の演奏であるだけに、先ずは、その持ち味である超絶的な技量に圧倒されてしまう。
同時代に活躍した、ヴィルトゥオーゾを発揮したピアニストにホロヴィッツがいるが、ホロヴィッツが卓越した技量が芸術を超える稀有のピアニストであったのと同様に、ハイフェッツも、卓越した技量が芸術を超える稀有のヴァイオリニストであったと言えるのではないかと考えられる。
両曲ともに、ハイフェッツは、おそらくは両曲のこれまでのあまたのヴァイオリニストによる演奏の中でも史上最速のテンポで全曲を駆け抜けている。
これだけの速いテンポだと、技量面だけが前面に突出した素っ気ない演奏に陥る危険性を孕んでいるが、ハイフェッツの場合には、そのような落とし穴にはいささかも陥っていない。
これほどの速いテンポで卓越した技量を披露しているにもかかわらず、技巧臭がいささかもせず、音楽の素晴らしさ、魅力だけが聴き手に伝わってくるというのは、まさに、前述のような卓越した技量が芸術を超える稀有のヴァイオリニストの面目躍如と言ったところであろう。
両協奏曲の緩徐楽章においても、速めのテンポでありつつも情感豊かに歌い抜いており、このような演奏を聴いていると、ハイフェッツはヴィルトゥオーゾヴァイオリニストの第一人者として広く認知はされているが、血も涙もある懐の深い大芸術家であったことがよく理解できるところだ。
いずれにしても、本盤の両協奏曲の演奏は、ハイフェッツの全盛期の演奏の凄さを大いに満喫させてくれる圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。
これだけの超名演だけに、これまで高音質化への取組がなされており、良好な音質である。
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