2023年03月

2023年03月31日


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名指揮者オイゲン・ヨッフム以下ソリスト、コーラス、オーケストラ総てをドイツ勢で固め、ドイツの底力を示した稀代の名演。

ヨッフムの棒の下に非常に几帳面な音楽作りがなされていながら、結果的にはこの曲が持つ神秘的な静寂と、大地の底から湧き上がる叫び声のような奔放でしかも驚異的な音響効果の双方を表現することに成功している。

本盤ついては不朽の歴史的な超名演として名高いものであり、既に筆者も次のようなレビューを投稿済みである。

「最近では非常に人気のある作品であり、数々の録音がなされているカルミナ・ブラーナであるが、録音以来40年以上が経過した現在においてもなお、本ヨッフム盤の価値がいささかも色褪せることはない。

それどころか、本演奏は、プレヴィン&ウィーン・フィル盤(1995年)などの様々な指揮者による名演に冠絶する至高の超名演と高く評価したい。

作曲家オルフが認めた演奏であり、ヨッフム自身が同曲の初演者であるということもあるが、それだけでなく、やはり演奏自体が非常に優れている。

同曲は、紛れもないドイツ音楽であるが、ヨッフムの演奏は、同曲をドイツ音楽であることをあらためて認識させてくれるのが何よりも素晴らしい。

同曲は、華麗な合唱やオーケストレーションを誇る楽曲であることから、最近ではそうした華麗さに焦点を当てた演奏が数多くなされているように思うが(それも、魅力的ではある)、ヨッフムの演奏は、外面的な華麗さよりは、ドイツ音楽ならではの質実剛健さを基調としている。

したがって、全体の造型の堅固さには際立ったものがあるが、それでいてヨッフムは、これ以上は求め得ないようなドラマティックな演奏を展開しており、その畳み掛けていくような気迫と力強い生命力は、圧倒的な迫力を誇っている。

あたかも壮大なドイツ・オペラを鑑賞しているような趣きがあり、そのスケールは雄渾の極みである。

歌手陣も優秀であり、特に、ソプラノのヤノヴィッツとバリトンのフィッシャー=ディースカウの歌唱は秀逸である。

このうち、フィッシャー=ディースカウの歌唱は巧すぎるとさえ言えるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。

ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団やシェーネベルク少年合唱団も最高のパフォーマンスを示している。」

演奏評については、現在でもこれに付け加えることは何もないが、本盤で素晴らしいのはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化によって、およそ信じ難いような鮮明な高音質に生まれ変わったことである。

従来CD盤では、各合唱が一部混濁して聴こえたりしたものであるが、本盤では明瞭に分離して聴こえるところであり、オーケストラとの分離についても申し分がない。

マルチチャンネルが付いていないにもかかわらず、臨場感についても抜群のものがあり、おそらくは現在において望み得る最高の鮮明な超高音質である。

シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化により、ダイナミックレンジ、ボリュームそして音質の解像度が飛躍的に向上し、沸き立つばかりのリズムの躍動感、管弦楽と合唱のダイナミックな音楽に、思わず興奮させられるところであり、こうした大編成用の楽曲では十二分にその効果を発揮している。

いずれにしても、ヨッフムによる不朽の歴史的な超名演を、シングルレイヤーによる超高音質SACDで味わうことができることを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 22:50コメント(0)オルフヨッフム 

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ヴァントが北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者の就任前に長らく音楽監督を務めたケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団との録音集。

ヴァントは、1990年代に入ってブルックナーの交響曲の崇高な超名演を成し遂げることによって真の巨匠に上り詰めるに至ったが、ブルックナーの交響曲を数多く演奏・録音してきたヴァントが、最も数多くの録音を遺した交響曲は、何と言っても「第8」であった。

ヴァントは、本演奏の後も、ケルン放送交響楽団との演奏(1979年)、NHK交響楽団との演奏(1983年)、北ドイツ放送交響楽団との3度にわたる演奏(1987年ライヴ録音、1990年東京ライヴ録音、1993年ライヴ録音)、ミュンヘン・フィルとの演奏(2000年ライヴ録音)、ベルリン・フィルとの演奏(2001年ライヴ録音)の7度にわたって録音を行っており、本盤の登場を持って同曲を8度にわたって録音したことになるところだ。

いずれ劣らぬ名演と考えるが、この中で最も優れた名演は、ミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

本演奏の性格はケルン放送交響楽団とのスタジオ録音に近いものと言える。

ヴァントがいまだ世界的なブルックナー指揮者としての名声を獲得していない壮年期の演奏であるだけに、1990年代における神々しいばかりの崇高な名演が誇っていたスケールの大きさや懐の深さはいまだ存在していないと言えるところであり、本盤の演奏を前述の1990年以降の超名演の数々と比較して云々することは容易ではある。

しかしながら、本演奏においても、既にヴァントのブルックナー演奏の特徴でもあるスコアリーディングの緻密さや演奏全体の造型の堅牢さ、そして剛毅さを有しているところであり、後年の数々の名演に至る確かな道程にあることを感じることが可能だ。

また、本盤の演奏においては、こうした全体の堅牢な造型や剛毅さはさることながら、金管楽器を最強奏させるなど各フレーズを徹底的に凝縮化させており、スケールの小ささや金管楽器による先鋭的な音色、細部に至るまでの異常な拘りからくるある種の神経質さがいささか気になると言えるところではあるが、それでも違和感を感じさせるほどでもないというのは、ヴァントがブルックナーの本質を既に鷲掴みにしていたからにほかならないと考えられる。

そして、本演奏には、壮年期のヴァントならではの畳み掛けていくような気迫と生命力が漲っており、その意味では、ケルン放送交響楽団とのスタジオ録音と同様に優れた演奏と言っても過言ではあるまい。

いずれにしても、本演奏は、世界的なブルックナー指揮者として世に馳せることになる後年の大巨匠ヴァントを予見させるのに十分な素晴らしい名演と評価したい。

ヴァントの剛毅で緻密な指揮にしっかりと喰らい付いていき、持ち得る実力を最大限に発揮した名演奏を披露したケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団にも大きな拍手を送りたい。

ブラームスの両交響曲も名演だ。

ヴァントによる演奏は、やや速めのテンポで一貫しており、演奏全体の造型は極めて堅固で、華麗さとは無縁であり、演奏の様相は剛毅かつ重厚なものだ。

決して微笑まない音楽であり、無骨とも言えるような印象を受けるが、演奏全体に漂っている古武士のような風格は、まさにヴァントだけが描出できた崇高な至芸と言える。

特に、「第4」は、淡々とした速めの進行の中に、実に豊かなニュアンスが込められており、まさに名人の一筆書きのような枯淡の境地が一点の曇りもなく表現されていて素晴らしい。

同じタイプの名演としては、シューリヒト(特に、晩年のバイエルン放送交響楽団との演奏)やムラヴィンスキー、クライバーの名演が思い浮かぶが、クライバーは深みにおいて一格下。

ということは、ヴァントによる名演も、同曲における屈指の名演の1つと評価しても過言ではないだろう。

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classicalmusic at 14:50コメント(0)ヴァント 

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このBOXは、ブレンデル旧盤のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集+ピアノ協奏曲全集である。

ピアノ・ソナタ全集は、ブレンデルのきわめて知的なベートーヴェン解釈が、はっきり表面に打ち出されている。

ブレンデルは、納得のゆくまで作品を研究した上で、その曲を自分のレパートリーにする人だが、シューベルトとともに、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの分析にもすぐれている。

これは、そうした彼の徹底した研究が実を結んだもので、スタイルとしては、シューベルト的なソフトな性格をもっており、きわめて抒情的でロマンティックである。

ことに弱音の部分に魅力があり、響きの美しさとニュアンスのこまやかさはこの人ならではのものだ。

彼は余分なものを一切付け加えず、あくまで作品そのものに語らせようとしているが、そのための知と情のコントロールも見事だ。

その結果聴かれるのは、端正でバランスに優れ、しかも深い楽譜の読みと端正なテクニックの行使に支えられた説得力あふれる演奏である。

新しい全集に入っている演奏と比べても、ブレンデルの本質は少しも変わっていない。

眼前の楽譜を論理的・分析的に読みとり、それに基づいてベートーヴェンを論理的に構築しようという確信が、彼を支えている。

どの曲の演奏も音楽の呼吸が自然で表情に温もりがあり、しかも明晰である。

演奏全体は穏健であり、誰でも抵抗なく受け入れられる伝統的なベートーヴェン解釈である。

ブレンデルの狙いは、徹底した作品分析をもとに、明快で論理的な演奏を構築し、しかも乾いた演奏との印象を与えないように、ひびきの細やかなニュアンスに留意し、旋律的にも和声的にも、潤いのある抒情的な表現を志向している。

剛ではなく、柔のベートーヴェンが、ブレンデルの描こうとした世界である。

どのソナタの演奏も秀逸で、ピアノ演奏法の研究者として名高いブレンデルの実力が、十全に発揮された演奏だ。

ブレンデルは高度な技術に裏づけられ、曖昧さのない理詰めな音楽性を誇るピアニストである。

とりわけ、ここにきくベートーヴェンのピアノ協奏曲全集が録音された1970年代には、その傾向が顕著であった。

第1番から第5番にかけてのいずれの演奏においても、彼のピアノは大いに雄弁で、必要な音があるべきところにきちんと収まっている。

ベートーヴェンの音楽におけるメタ・フィジカルな要素を追い求めたというより、むしろ、整合性のとれた論理性を追求した演奏内容だ。

指揮者ハイティンクも力のある伴奏をしているが、この後、急速に成熟した彼だけに、80年代、90年代に録音がなされていれば、と思わせる要素も、ここには残されている。

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classicalmusic at 06:58コメント(0)ベートーヴェンブレンデル 

2023年03月30日


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本盤の演奏は、1966年のバイロイト音楽祭のライヴ録音である。

名指揮者ベームが最も充実した時代の演奏であると同時に、戦後のバイロイトの最も実り多かった時代の記録でもある。

ベームの遺したワーグナーのオペラの録音には、バイロイト祝祭管との歌劇「さまよえるオランダ人」の演奏(1971年)や、バイロイト祝祭管との楽劇「ニーベルングの指環」の演奏(1966、1967年)など数々の名演を遺しているが、それらの名演にも冠絶する至高の名演は、本盤に収められたバイロイト祝祭管との楽劇「トリスタンとイゾルデ」であると考える。

それどころか、同曲の他の指揮者による名演であるフルトヴェングラー&フィルハーモニア管による演奏(1952年)やクライバー&シュターツカペレ・ドレスデンによる演奏(1980〜1982年)と並んで3強の一角を占める超名演と高く評価したい。

そして、フルトヴェングラーが深沈とした奥行きの深さ、クライバーがオーケストラのいぶし銀の音色を活かした重厚さを特色とした名演であったのに対して、ベームによる本演奏は、実演ならではのドラマティックで劇的な演奏と言えるのではないだろうか。

そして、学者風でにこりともしない堅物の風貌のベームが、同曲をこれほどまでに官能的に描き出すことができるとは殆ど信じられないほどである。

ベームは、実演でこそ本領を発揮する指揮者と言われたが、本演奏ではその実力を如何なく発揮しており、冒頭の前奏曲からして官能的で熱き歌心が全開だ。

その後も、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や緊張感、そして切れば血が吹き出してくるような強靭な生命力に満ち溢れており、全盛期のベームならではのリズミカルな躍動感も健在だ。

テンポは若干速めであるが、隙間風が吹くような箇所は皆無であり、どこをとっても造型の堅固さと充実した響きが支配しているのが素晴らしい。

晩年の老いたベームとは異なる、真の巨匠としてのベームの逞しい音楽が渦巻いている。

バイロイトに集結した名歌手陣の、その感動的な歌唱の魅力は素晴らしく、現在聴いても少しも色褪せていない。

とりわけ、第2幕のイゾルデ役のビルギット・ニルソンとトリスタン役のヴォルフガング・ヴィントガッセンによる愛の熱唱は、ベームの心を込め抜いた指揮も相俟って、おそらくは同曲演奏史上でも最高峰の名演奏に仕上がっている。

その官能的な美しさといい、はたまたドラマティックな迫力といい、聴いていてただただ圧倒されるのみである。

そして、第3幕終結部のイゾルデの愛の死におけるビルギット・ニルソンによる絶唱は、もはや筆舌には尽くし難い感動を覚えるところだ。

これらの主役2人のほか、クルヴェナール役のエーベルハルト・ヴェヒター、ブランゲーネ役のクリスタ・ルートヴィヒ、そして、マルケ王役のマルッティ・タルヴェラによる渾身の熱唱も、本名演に大きく貢献していることを忘れてはならない。

また、その後大歌手に成長することになる、ペーター・シュライヤーが水夫役で登場しているのも、今となっては贅沢な布陣と言える。

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classicalmusic at 23:03コメント(2)ワーグナーベーム 

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1995年10月2-7日 モスクワ放送局第5スタジオにて収録。

スヴェトラーノフが1990年代にセッション・レコーディングを行なったラフマニノフ交響曲&管弦楽曲全集が再リリースされた。

スヴェトラーノフが遺した最高傑作の呼び声もある同アルバムは、今でもラフマニノフの最上演奏のひとつとして高く評価されている。

また再評価され高い人気を誇るスヴェトラーノフ・ファン必聴のアルバムであり、ロシア国立交響楽団のまさにロシアの広大な大地を彷彿させる咆哮サウンドは現在世界のどのオーケストラも出すことのできない強靭なサウンドである。

ラフマニノフの交響曲や管弦楽曲は、近年ではきわめて人気のある作品である。

そして、プレヴィンやアシュケナージ、マゼール、エド・デ・ワールト、デュトワ、ヤンソンスなど、様々な指揮者によって管弦楽曲等を含めた交響曲全集がいくつも誕生するに至っている。

これらはいずれも素晴らしい名演であり、客観的な視点で評価すると、プレヴィンの全集が随一の名演との評価に値すると思われるが、好き嫌いで言うと、筆者が最も好きなラフマニノフの交響曲等の全集は、本盤に収められたスヴェトラーノフによる最後の全集である。

本盤に収められた諸曲の演奏は、おそらくはそれぞれの諸曲の演奏史上でも最もロシア的な民族色の濃い個性的な演奏と言えるのではないだろうか。

トゥッティにおける咆哮する金管楽器群の強靭な響き、あたりの空気が震撼するかのような低弦の重々しい響き、雷鳴のように轟くティンパニ、木管楽器やホルンの情感のこもった美しい響きなどが一体となり、これ以上は求め得ないようなロシア風の民族色に満ち溢れた濃厚な音楽の構築に成功している。

その迫力は圧倒的な重量感を誇っており、あたかも悠久のロシアの広大な大地を思わせるような桁外れのスケールの雄大さを誇っている。

このようにどの曲も凄まじいまでの強靭な迫力と熱き情感に満ち溢れているのであるが、一例を掲げると有名な交響曲第2番の第3楽章。

スヴェトラーノフは、本楽章を17分という途轍もなく遅いテンポで、ラフマニノフによる最美の名旋律を渾身の力を込めて徹底的に歌い抜いている。

その濃厚の極みとも言うべき熱き情感のこもった歌い方は、いささかの冗長さも感じさせることなく、いつまでもその音楽に浸っていたいと思わせるほどの極上の美しさを湛えている。

スヴェトラーノフは、1960年代にも、ロシア国立交響楽団の前身であるソヴィエト国立交響楽団を指揮してラフマニノフの交響曲全集をスタジオ録音しており、それらも名演の名には値すると思うが、演奏全体の完成度や彫りの深さといった点において、本盤に収められた諸曲の演奏には到底敵し得ないと考える。

いずれにしても、スヴェトラーノフによる本全集は、例えば音楽之友社発行の名盤選などにおいては、評価の遡上にすら掲げられることがないものであると言える。

しかしながら、スヴェトラーノフによる本盤に収められた諸曲の演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧倒的な迫力と濃密な内容を誇っていると言えるところであり、筆者としては、かのプレヴィンによる全集にも比肩する名全集と高く評価したいと考える。

もっとも、音質について言えば、本盤でも全く問題ないのであるが、一例を挙げればノイマンの各種の録音がエクストンからSACD化されて再発売されたという実績に鑑みれば、今後、スヴェトラーノフによる一連の録音も、エクストンによってSACD化することは可能なのではないだろうか。

少なくとも本盤に収められた諸曲の演奏は、スヴェトラーノフによる至高の超名演でもあり、可能であれば、今後SACD化を図るなど更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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classicalmusic at 15:02コメント(0)ラフマニノフスヴェトラーノフ 

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本BOXには、テイト&イギリス室内管弦楽団によるモーツァルトの交響曲全集が収められているが、現代モーツァルト演奏のひとつの高峰を示した集成であると高く評価したい。

テイトの演奏には、録音当時40代という年齢を思わせない成熟と落ち着きがあり、常にテンポを中庸かやや遅めにとって、決して無理をしないため、音楽に気品があるのも良い。

内部の情熱や意志力を客観的と言えるまで抑制し、音楽的に純粋で、一点一画もおろそかにしないデリケートな演奏は、モーツァルトの多様さがそのまま表れた味わい深い音楽だ。

全曲とも音楽的に磨き抜かれていて、いぶし銀のような響きをもった晴朗な音楽となっており、テイトの良識と知性輝く演奏と言えよう。

透明度も高く、完璧を求める繊細な神経が張り詰め、アンサンブルもきめ細かく精緻、趣味がよく、端然とした音楽だ。

テイトとしては、それぞれの作品を限度まで歌わせているが、活力が強く、モーツァルトの音楽性をよく理解した表現である。

肉体的に大きなハンデを負いながら、ジェフリー・テイトがつくる音楽には少しもひ弱さや翳りがなく、常に生き生きと明晰でバランスが良い。

しかもケンブリッジで医学を修め、音楽家としての正式な教育を受けたのは20代も半ばを過ぎてから、それもロンドンのオペラ・センターで1年学んだだけというのだから、やはり特別な才能の持ち主と言うべきだろう。

その才能は知る人ぞ知るものであったらしく、特に、ブーレーズとカラヤンは、テイトの才能を高く評価していたという。

テイトの本格的なデビュー盤は、本BOXに収められたイギリス室内管弦楽団とのモーツァルトの第40、41番である。

1984年にイギリス室内管弦楽団とモーツァルトの連続演奏会を行なって大成功を収めたテイトは、翌年には同団史上初の首席指揮者に就任し、モーツァルトの交響曲をシリーズで録音することになる。

その成果が本BOXに収められているのであるが、イギリス室内管弦楽団の澄んだ響きを鋭敏な感覚で生かしたその演奏は、爽やかな劇性とともに豊かで深い精神性をそなえている。

もっとも、このモーツァルト・シリーズと、内田光子の希望で1985年に始まったモーツァルトのピアノ協奏曲全集での成功が、デビュー当初のテイトに幾分特定のイメージを与えることになったようである。

現代の若手指揮者のなかで、この人ほどスケールの大きな指揮をする人も珍しい。

爛レンペラーの再来瓩箸泙埜世錣譴討い襪世韻法△修硫山擇詫揚迫らずゆったりとしていて、しかも強固な芯が通っている。

いずれにおいてもテイトは、くっきりとアンサンブルを整え、細部まで的確な読みの通った明快な指揮によって、しなやかな変化にとんだ表現を聴かせてくれる。

時には、もう少し手練手管や適度な誇張があってもと思わないでもないが、バランスの良い構成力と爽やかで自然な音楽の流れから生まれる素直な歌と劇性が魅力である。

管楽器、ことに木管楽器の表情が絶妙で、深々とした呼吸の自然な語り口をもった演奏である。

マッケラス同様、室内オーケストラを指揮しているが、テイトの表現は、さらにシンフォニックでスケールが大きい。

録音の良さも注目すべきで、ことに管楽器群とティンパニの音がはっきりと分離して聴こえるのも、テイト盤ならではの特色である。

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classicalmusic at 06:52コメント(0)モーツァルト 

2023年03月29日


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バッハの『無伴奏』がチェロにおける「旧約」聖書ならば、ベートーヴェンの『ソナタ』は「新約」聖書に匹敵すると言われるが、デビュー間もないヨーヨー・マと、盟友アックスによる若々しい掛け合いが音楽に溌剌としたエネルギーを与えた快演盤。

まさにベートーヴェンのチェロ・ソナタのエッセンスをとらえた代表的名演として高い評価を得て、世界中でベストセラーを記録した1983年録音作品である。

ヨーヨー・マは、1955年に台湾系中国人を両親としてパリに生まれたが、まもなく渡米し、ジュリアード音楽院でヤーノシュ・シュタルケルとレナード・ローズに師事した。

その優れた才能は早くから評判となり、欧米各地でオーケストラと共演、多くのリサイタルを開いて絶賛を博して、いまや現代のチェロ界を背負う最高の演奏家として注目されている。

彼が、ポーランド生まれで、アメリカを中心に活躍している名ピアニスト、アックスと組んだこの演奏は、新しい資料による新ベートーヴェン全集によっているため、これまでのとは多少違っている。

このふたりの演奏は、ロストロポーヴィチとリヒテルとの熱演とは対照的に、こちらは飛び切り才能のあるふたりの若者(当時)による掛け合いが楽しく、穏やかでのびのびとしている。

ヨーヨー・マのチェロは、きわめて豪胆で明快、曖昧さのない切れ味の鋭いもので、持ち前の美音と優れたテクニックで、実に素直に悠然と弾きあげており、新鮮な音楽をつくりあげているところがよい。

アックスのピアノもヨーヨー・マとぴったりと呼吸が合っており、最上のアンサンブルと言えるところであり、全体に新鮮で引き締まった好演である。

チェロを豊かに、艶やかに鳴らし、ヴァイオリンのように自由自在に扱うヨーヨー・マの特色が生かされ、自由奔放に歌い、弾むようなリズム感は、聴き手を爽快な気分にさせてくれる。

実にしなやかでのびのびと歯切れのよい運びの中にチェロとピアノのぴったりと息の合った二重奏がかもしだす抒情のかぐわしさは、他に類を見ないもので、自然体・平常心で臨んで曲の味わい深さを出した好演と言えるだろう。

アックスのピアノも少しも引けをとらない。

アックスもベートーヴェンの音楽解釈には一家言をもった演奏家であり、両者のデュオのコンセプトを見事に一致させながらも、古典派時代の単なる伴奏ピアノと独奏楽器という様式を脱した真の二重奏ソナタとしての緊張感に満ちた演奏を繰り広げており、過剰表現のない、洗練された形式美に横溢する。

このコンビの息の合った二重奏はある時は朗々とした歌を生み出し、ある時は熱っぽいクライマックスを築き上げてゆく。

特に第3番では、ベートーヴェンがスコアに書き込んだ野卑なユーモアが、特にスケルツォなどで大炸裂、音楽に新しい生命力を与えている。

そして、豪快な第3番に対して繊細緻密な第4番という具合に、その描き分けが完璧にうまい。

「魔笛」の主題による2曲もヨーヨー・マの技巧は優れていて危なげなところはどこにもなく、短調の変奏での深く熱っぽいチェロの歌が胸を打つ。

ネアカのベートーヴェンだが、両者の和気あいあいのアンサンブルと冴えたテクニックのせいで、これらの作品が実に楽しく味わえる。

音質は従来盤ではあるが、十二分に鮮明であり、本盤の価値を高めるのに大きく貢献している。

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classicalmusic at 22:55コメント(0)ベートーヴェンヨーヨー・マ 

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インバルが東京都交響楽団を指揮して演奏したマーラーの新チクルスシリーズは素晴らしい名演揃いであるが、本盤に収められた「第5」も素晴らしい名演と高く評価したい。

インバルは、マーラーの「第5」をかつての手兵フランクフルト放送交響楽団とスタジオ録音(1986年)するとともに、東京都交響楽団とのライヴ録音(1995年)やチェコ・フィルとのライヴ録音(2011年)もあるが、本演奏は、それらの演奏をはるかに凌駕する名演と言える。

かつてのインバルは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションをできるだけ抑制して、できるだけ音楽に踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。

したがって、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な演奏ではあるが、ライバルとも目されたベルティーニの歌心溢れる流麗さを誇るマーラー演奏などと比較すると、今一つ個性がないというか、面白みに欠ける演奏であったことは否めない事実である。

前述の1986年盤など、その最たる例と言えるところであり、聴いた瞬間は名演と評価するのだが、しばらく時間が経つとどんな演奏だったのか忘却してしまうというのが正直なところだ。

ワンポイント録音による画期的な高音質だけが印象に残る演奏というのが関の山と言ったところであった。

1995年盤や2011年盤になると、ライヴ録音ということもあり、インバルにもパッションを抑えきれず、踏み外しが随所にみられるなど、本盤に至る道程にある名演と言うことができるだろう。

そして、本盤(2013年)であるが、ここにはかつての自己抑制的なインバルはいない。

インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、ドラマティックな表現を施しているのが素晴らしい。

強靭なサウンドとマーラーの精神性をめぐらし、細部の細部にまで音に命を宿らせるインバルの真骨頂が全開している。

それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的な表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、さすがの至芸と言うべきであろう。

マーラーのスコアを細部に至るまで忠実に、そして美しく力強くニュアンス豊かに再現して、どの瞬間も音が意味深く鳴っている。

対位法の各声部はそれぞれが切れ込み鋭くエッジがきいていて、意味づけや存在感を主張し合っている。

そしてテンポや音量の変化も大きく刺激的で、決して表面上きれいにバランス良くまとめたような演奏ではなく、美しく官能的な旋律も、素直に酔わせてはくれない。

しかしそれこそがマーラーであり、インバルが表現したいことであろう。

好き嫌いが分かれるかもしれないが、筆者はこれこそがスタンダードとすべき名演奏と思われる。

いずれにしても、インバルが東京都交響楽団と、本盤のようなドラマティックな表現を駆使するようになったインバルを聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニが鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられない。

オーケストラに東京都交響楽団を起用したのも功を奏しており、金管楽器、特にトランペットやホルンの卓抜した技量は、本名演のグレードをさらに上げる結果となっていることを忘れてはならない。

ワンポイント・レコーディング・ヴァージョンよる極上の高音質録音も、本名演を鮮明な音質で味わえるものとして大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 14:59コメント(0)マーラーインバル 

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インバルは、東京都交響楽団との間で新マーラーチクルスを完成させたが、第1番に続いて本盤も、この黄金コンビの好調さを表す素晴らしい名演だ。

インバルは、かつてフランクフルト放送交響楽団と素晴らしい全集を作り上げたが、当該全集では、インバルは劇的な要素をできるだけ抑制し、客観的な視点でマーラーがスコアに記した音符の数々を無理なく鳴らすというアプローチであった。

インバル自身には、マーラーへの深い愛着に去来する有り余るパッションがあるのだが、インバルは演奏の際には、それをできるだけ抑制しようとする。

それ故に、客観的なアプローチを取りつつも、いささかも無味乾燥な演奏に陥ることなく、内容の濃さにおいては人後に落ちることはない。

しかも、抑制し切れずに零れ落ちてくるパッションの爆発が随所に聴かれ、それが聴き手の感動をより深いものにするのだ。

ここに、インバルによるマーラーの魅力の秘密がある。

東京都交響楽団との新チクルスにおけるアプローチも、基本的には旧全集と同様であるが、旧全集と比較すると、パッションの爆発の抑制を相当程度緩和しており(ライヴ録音とスタジオ録音の違いもあるとは思うが)、これが新チクルスをして、旧全集よりもより一層感動的な名演に仕立てあげているのだと考える。

かかる点は、近年のインバルの円熟ぶりを示す証左として高く評価したい。

第1楽章は、冒頭のゆったりとしたテンポによる低弦による合奏の間の取り方が実に効果的。

トゥッティに至る高揚は雄渾なスケールで、その後の高弦による旋律の歌い方は、思い入れたっぷりの情感に満ち溢れていて美しい。

続く主部は、緩急自在の思い切ったテンポ設定、幅の広いダイナミックレンジを駆使して、実にドラマティックに曲想を抉り出していく。

随所に聴かれる金管楽器の最強奏や雷鳴のようなティンパニは、圧巻の凄まじいド迫力であり、かつての自己抑制的なインバルとは段違いの円熟のインバルならではの成せる業だ。

第2楽章は、オーソドックスな解釈であるが、弦楽器も木管楽器もこれ以上は求め得ないような情感の籠った流麗な音楽を紡ぎ出している。

第3楽章は、冒頭のティンパニによる強打の効果的な間の取り方が、第1楽章冒頭の低弦と同様で実に巧み。

その後も、ティンパニを始めとした打楽器群の活かし方は素晴らしく、打楽器を重要視したマーラーの本質を見事に衝いている。

中間部の金管楽器のファンファーレにおける猛烈なアッチェレランドは凄まじい迫力であるし、その後に続く弱音のトランペットのパッセージのゆったりしたテンポによる歌わせ方は、まさに天国的な至高・至純の美しさ。

終結部のトゥッティのド迫力は、もはや言葉を失ってしまうほど圧倒的だ。

第4楽章は、メゾソプラノの竹本節子の歌唱が実に美しく、それに合わせるかのように、東京都交響楽団も雰囲気満点の実に美しい音楽を奏でている。

終楽章は、冒頭圧巻の迫力で開始される。

その後は、ゲネラルパウゼや思い切った強弱の変化等を効果的に駆使しつつ主部に繋いでいく。

主部への導入部のティンパニは凄まじい迫力であり、主部は風格豊かな堂々たる進軍だ。

この部分は、下手な指揮者にかかると冗長さを感じさせてしまうのだが、インバルの場合は、緩急自在のテンポ設定、アッチェレランドの効果的活用、強弱の変化など、あらゆる至芸を駆使して実に濃密でドラマティックな音楽を構築しているのが素晴らしい。

合唱が導入されて以降は、スケール雄大な壮麗さが支配しており、圧倒的な高揚と迫力のうちに、全曲を締めくくっている。

独唱陣は、終楽章においても見事な歌唱を披露しており、二期会合唱団も大健闘と言える。

何よりも素晴らしいのは東京都交響楽団であり、インバルの見事な統率の下、最高のパフォーマンスを示している。

臨場感あふれる極上の高音質録音も、本盤の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 06:58コメント(0)マーラーインバル 

2023年03月28日


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1955年2月5日 シャンゼリゼ劇場、パリに於けるライヴ録音。

シューリヒトは、颯爽としたインテンポの下、繊細なニュアンスを随所にちりばめるという、言わば渋くて、枯淡の境地を垣間見せるような名演を繰り広げた指揮者だと思っていた。

しかし、それは、録音状態のいい名演が1960年代の晩年に集中していることによるものであり、1950年代半ばにフランスのオーケストラと繰り広げた演奏によって、そのような印象が見事に覆ってしまった。

巨匠シューリヒトの芸風は飄々とか軽やかという言葉で片付けられがちだが、本盤ではどの曲でも実に豪快そのもので、恐ろしく大胆な変化を平気で繰り広げる激しい指揮者だったということが分かる。

先ず、シューリヒトの遺した、これは最高の「エロイカ」だ。

シューリヒトの天才ぶりが随所に綺羅星の如く輝いており、期待通りの気迫充分の名演で、シューリヒトらしく速めのテンポでストレートに推進してゆくが、細部にまで神経が行き届いており、微妙な表情の変化を楽しめるのはこの指揮者ならではの魅力であり、全ての音が生命感に溢れている。

冒頭の2つの和音が実に濃密な音で、いつものシューリヒトならではの颯爽としたインテンポで演奏するかと思いきや、随所においてテンポに絶妙の変化を加え、金管の最強奏による強調があったり、急速なアッチェレランドがかかったりと決して一筋縄ではいかない。

内声部は先の演奏を予告するように意味深な動きをしており、そしてまぶしく輝くようなスフォルツァンドを聴いたときにはもう演奏の虜になっている。

第2楽章は一転、ゆったりとしたテンポで格調高く旋律を歌いあげ、素晴らしい表現力を発揮している。

颯爽たるテンポによる第3楽章を経て、終楽章はロンド形式による変転の激しい各場面を目もくらむような面白さで巧みに描き分けている。

シューリヒトはこの作品を完全に手中に収めた自信に満ちており、シューリヒトの「エロイカ」の中でも最も強い感銘を受け、本当に凄いと思った。

比較的速いテンポ設定で一気呵成に駆け抜けて行く、という側面もあるが、1つ1つの音に生命が吹き込まれ、凡庸に流れて行くところは皆無である。

折り目正しくも、僅かにテンポを揺らしながら、聴く者の脳裏に音符を刻み込んで行く。

ライヴならではの瑕疵も若干見受けられるが、これは名演の代償の類と言えるものであり、この演奏のマイナス要素とは一切なっていない。

やはりシューリヒトは凄い才能の指揮者であり、フランス国立管弦楽団もシューリヒトの指揮に必死に食らい付き、フランスのオケ独特の音色がシューリヒトの芸風とマッチしており、実に魅惑的なサウンドを引き出している。

まさに圧倒的な名演と言っても過言ではないものであり、巨匠シューリヒトならではの至芸を味わえる1枚だと思う。

モーツァルトは、颯爽としたテンポの中で繊細な抒情を垣間見せるなど内容の濃い佳演となっており、フェラスのヴァイオリンも実に美しい。

悲劇的序曲は、あまりにも音の状態がよくなく、コメントは差し控えたい。

本盤のライナーは平林氏が執筆しているが、シューリヒトの過去の演奏との対比を行うなど実に充実した内容となっており、これを読むだけでも本盤は相当な価値があると言えるだろう。

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classicalmusic at 22:59コメント(2)シューリヒトベートーヴェン 

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シューリヒトのブルックナーの「第7」と言えば、ハーグ・フィルとのステレオ録音盤が名演として誉れ高い。

確かに、ハーグ盤は、シューリヒトの晩年の枯淡の境地を示すいぶし銀の名演であるが、オーケストラがきわめて非力という欠点があり、音質もやや冴えない。

シューリヒトが遺した同曲の録音で、筆者の手元にあるディスクでは、古いところではベルリン・フィルとのスタジオ録音(1938年)、そして1950年代でシュトゥットガルト放送響とのライヴ録音(1953年)、北ドイツ放送響とのライヴ録音(1954年)、本盤に収められたコンセール・コロンヌ管とのライヴ録音(1956年)、フランス国立管とのライヴ録音(1963年)、そしてハーグ・フィルとのスタジオ録音(1964年)が現時点で存在する。

筆者もその全てを聴いてみたが、特に本盤を含め特に1950年代のライヴ録音とハーグ盤とは全く演奏の性格が異なるのに大変驚いた次第である。

“端麗辛口”、これがこの指揮者の一般的な認識であったし、筆者個人の見解も同様であった。

しかし、最近になってゾロゾロと出てくるシューリヒトのライヴ録音には恐ろしく大胆で濃厚な演奏も多く、「この指揮者は一体何なのだ」というのが最近の印象だ。

このようにシューリヒトの演奏がライヴとスタジオ録音で別人のように異なる場合があるのが知られてきたわけだが、珍しくコンセール・コロンヌ管弦楽団に客演した(1956年ライヴ)このブルックナーは、この指揮者のライヴのなかでも燃焼度の高い演奏である。

卓越したリハーサル術と指揮法によって、様々なオーケストラと素晴らしく息の合った演奏を聴かせたシューリヒトだけに、ここでの成果も見事なもので、ハーグ盤とはまた違った魅力を放っていて感動的だ。

ここでの演奏は、コンセール・コロンヌの独特の音色を生かして、実演ならではの濃やかなアゴーギクと思い切った表情付けを施したものである。

第1楽章のラストの圧倒的な盛り上がり、第2楽章のむせ返るような抒情の嵐、第3楽章の快速のスケルツォを経て、終楽章の緩急自在のテンポの変化を駆使した劇的な大演奏。

このようなドラマティックな演奏は、ブルックナー演奏としてはいささか禁じ手とも言えるが、シューリヒトの場合には全く違和感がなく、ブルックナーとの抜群の相性を感じるとともに、シューリヒトのブルックナーの本質への理解の確かさを感じざるを得ない。

そのエネルギーが尋常ではないのだが、決して破れかぶれではなく、常に頭脳は明晰に冴え渡っており、音楽の運びは理知的で、道を踏み間違えるときがない。

弦のボーイングにも工夫の跡が聴かれるアクセントで、要所をピタリと止めて輪郭をくっきりさせながら上り詰める自然な高揚感と、鳴り切っても細部が明瞭で濁りがない音は、シューリヒトならではのもので、特にこんな個性的な第2楽章はシューリヒトでなければ成し得ないものだろう。

シューリヒトの個性が存分に発揮されているだけでなく、この曲のあらゆる演奏の中でも異彩を放つ名演として記憶されるだろう。

重量感を伴った硬質なブルックナー演奏については好き嫌いがあるかもしれないが、ここでもシューリヒトは自らの主張を貫き、この組み合わせでなければ実現できない一期一会の演奏を実現している。

コンセール・コロンヌ管弦楽団もシューリヒトの確かな統率の下、鬼気迫る大熱演を繰り広げている。

音質も鮮明で細部の動きを明確にとらえており実に面白く、第3楽章の冒頭などデッドな響きも散見されるが、全体として生々しさがあり、この当時のライヴとしては、十分に満足できる水準だと言える。

ライナーの平林氏の解説も、いつもながら実に充実した内容であり、素晴らしい。

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classicalmusic at 15:02コメント(0)ブルックナーシューリヒト 

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チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であったと言える。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI、来日時の演奏についてはアルトゥスやソニー・クラシカルなど)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢で練習に臨むとともに、かなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであったと言える。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言えるが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、ブルックナーの交響曲についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

本演奏は、1989年2月、ウィーン・ムジークフェラインザールでの演奏会をソニー・クラシカルが収録したもので、これまで未発表だった幻のライヴ録音である。

因みにEMIから発売されているこのコンビによる通常CD盤では、本演奏の1年前の1988年のライヴ録音であり、高音質SACD化がなされた本盤こそは、チェリビダッケによるブルックナー「第4」の決定盤と言っても過言ではあるまい。

その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価し得るのではないかとも思われるところである。

これらのことを総合的に勘案すれば、本盤は、ブルックナーの交響曲に深い愛着を持ち続けたチェリビダッケがその晩年に到達し得た自らの指揮芸術の集大成とも言うべき名盤と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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classicalmusic at 07:04コメント(2)ブルックナーチェリビダッケ 

2023年03月27日


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本盤に収められたブラームスのピアノ協奏曲第2番、そして、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの第23番「熱情」は、東西冷戦の真っ只中であった時代、当時の鉄のカーテンの向こう側からやってきた壮年期のリヒテルによる記念碑的な名演だ。

協奏曲、ソナタともに、リヒテル最初のアメリカ・ツアーの折の録音で、その雄弁な表現に圧倒されてしまう。

リヒテルは、偉大なピアニストであったが、同時代に活躍していた世界的な大ピアニストとは異なり、全集を好んで録音したピアニストではなかった。

こうした事実は、これだけの実績のあるピアニストにしては大変珍しいとも言えるし、我々クラシック音楽ファンとしてはいささか残念であるとも言えるところである。

したがって、リヒテルが特定の作曲家のピアノ協奏曲全集やピアノ・ソナタ全集を録音したという記録はない。

ブラームスのピアノ協奏曲について言えば、スタジオ録音としては、単発的に、本盤の第2番などを録音し、後年にマゼールと再録音が遺されているが、他の諸曲についてはライヴ録音が何点か遺されているのみである。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタについても同様であり、こうしたことは、リヒテルがいかに楽曲に対する理解と確信を得ない限り、録音をしようとしないという芸術家としての真摯な姿勢の証左とも言えるのではないだろうか。

それだけに、本盤に収められた各曲の演奏は、貴重な記録であると同時に、リヒテルが自信を持って世に送り出した会心の名演奏とも言えるところだ。

ブラームスのピアノ協奏曲第2番にしても、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番「熱情」にしても、リヒテルは、超絶的な技巧は当然のことながら、演奏全体のスケールの雄大さ、各フレーズに込められたニュアンスの豊かさ、そして表現の彫りの深さなど、どれをとっても非の打ちどころのない演奏を展開している。

人間業とは思えないような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現の幅広さは桁外れであり、十分に個性的な表現を駆使している。

それでいて、そうした表現があくまでも自然体の中で行われており、芝居がかったところがいささかも見られない。

要は、恣意的な解釈が聴かれないということであり、ブラームスやベートーヴェンへの深い愛着と敬意以外には私心というものが感じられないのが見事である。

個性の発揮とスコア・リーディングの厳格さという二律背反する要素を両立させている点に、本演奏の凄みがあるとも言えるだろう。

とりわけ、ピアノ・ソナタ「熱情」におけるピアノが壊れてしまうと思われるような強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまでのダイナミックレンジの幅広さには出色のものがあり、終楽章終結部の猛烈なアッチェレランドはもはや人間業とは思えないほどの凄みのある演奏に仕上がっていると高く評価したい。

またブラームスのピアノ協奏曲第2番では、オケとともに凄まじい迫力がその演奏にもたらされており、刺激的なものとなっている。

また、同曲に込められたブラームスの枯淡の境地とも言うべき美しい旋律の数々を、格調の高さを損なうことなく情感豊かに歌い抜いているのも素晴らしい。

そして、演奏全体のスケールの雄大さは、ロシアの悠久の大地を思わせるような威容を誇っていると言えるところであり、これぞまさしくリヒテルの本演奏におけるピアニズムの最大の美質と言っても過言ではあるまい。

バックをつとめているのはラインスドルフ&シカゴ交響楽団であるが、さすがにここでもドイツ風の重厚な演奏を行っており、リヒテルによる凄みのあるピアノ演奏のバックとして、最高のパフォーマンスを示していると高く評価したい。

リヒテルの再録音、即ちマゼールと共演したものもあるが、間延びしていて、ラインスドルフとの共演よりも集中力が保持できていないもどかしさを感じさせるところである。

それに対しこの旧盤は一気呵成に終楽章まで聴かせ、燃焼度も高く、オーケストラと一体となってブラームスの世界を紡ぎ出している。

いずれにしても、本盤に収められた各演奏は、リヒテルのピアニストとしての偉大さを十二分に窺い知ることが可能な圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

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classicalmusic at 22:54コメント(0)リヒテルブラームス 

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レナード・バーンスタインは、その晩年にウィーン・フィルとともにモーツァルトの主要な交響曲集のライヴ録音を行ったところであり、本盤に収められた交響曲第25番及び第29番はその抜粋である。

バーンスタインは、かつてニューヨーク・フィルの音楽監督の時代には、いかにもヤンキー気質の爽快な演奏の数々を成し遂げていたが、ヨーロッパに拠点を移した後、とりわけ1980年代に入ってからは、テンポは異常に遅くなるとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。

このような芸風に何故に変貌したのかはよくわからないところであるが、かかる芸風に適合する楽曲とそうでない楽曲があり、途轍もない名演を成し遂げるかと思えば、とても一流指揮者による演奏とは思えないような凡演も数多く生み出されることになってしまったところだ。

具体的には、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏もかなり行われていたように思われる。

本盤の演奏においても、ゆったりとしたテンポによる熱き情感に満ち溢れた濃厚さは健在であり、例えば、これらの楽曲におけるワルターやベームの名演などと比較すると、いささか表情過多に過ぎるとも言えるところだ。

もっとも、オーケストラがウィーン・フィルであることが、前述のような大仰な演奏に陥ることを救っている。

いささか濃厚に過ぎるとも言えるバーンスタインによる本演奏に、適度の潤いと奥行きを与えている点を忘れてはならない。

バーンスタインがこのウィーン・フィルを指揮した演奏は、オーケストラを巧みにドライヴした熱気と力強さにあふれている。

楽員の自発性が尊重された演奏であり、バーンスタインの指揮の下、ウィーン・フィルはその真髄を完全に体現している。

第25番は洗練された美の極致とも言える鮮麗なサウンドで、聴き手を魅了してやまない。

第29番も極めて音楽的に絶妙な表現で、造形も端正そのものだし、木管の自発的で豊かな表現力にはもはや形容する言葉もない。

近年のモーツァルトの交響曲演奏においては、古楽器奏法やピリオド楽器を使用した小編成のオーケストラによる演奏が主流となりつつある。

そうした軽佻浮薄な演奏に辟易としている中で本演奏を聴くと、本演奏には血の通った温かい人間味を感じることが可能であり、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになる聴き手は筆者だけではあるまい。

バーンスタインのシンフォニックな厚みのある演奏は、いかにも巨匠風のスケールの大きな大芸術だ。

稀代の指揮者バーンスタインの名盤というと、おそらく、誰もが真っ先に思い浮かべるのはマーラーの交響曲の熱演だろう。

確かにあれは圧倒的な出来映えなのだけれど、このモーツァルトの交響曲もまた、それに劣らぬ歴史的名演ではないかと筆者は考えている。

バーンスタインの古典は、一般に見逃されているようだが、彼のハイドンやモーツァルトは、構成のしっかりした実に立派なもので、ぜひ再認識してほしいと思う。

いずれにしても、本演奏は、近年の血の通っていない浅薄な演奏が目白押しの中にあってその存在意義は極めて大きいものであり、モーツァルトの交響曲の真の魅力を心行くまで堪能させてくれる人間味に溢れた素晴らしい名演と高く評価したい。

クラリネット協奏曲も秀演で、シュミードルの独奏は甘く美しく、まさにウィーン独自の音と音楽であり、ここではバーンスタインもサポートに回って、豊麗なバックグラウンドをシュミードルに提供している。

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classicalmusic at 14:54コメント(0)モーツァルトバーンスタイン 

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2012年はベーム没後40年であった。

生前は、とりわけ我が国において、当時絶頂期にあったカラヤンに唯一対抗し得る大指揮者として絶大なる人気を誇っていたが、歳月が経つにつれて、徐々に忘れられた存在になりつつあるというのは残念でならないところである。

そのような状況の中で、高音質SACD盤が次々と発売される運びとなったことは、ベームの偉大な芸術を再認識させてくれる意味においても極めて意義が大きいと言わざるを得ないだろう。

本盤には、ベートーヴェンの交響曲全集(及び5つの序曲)が収められているが、これはベームによる唯一の全集である。

ベームは、本全集以外にも、ベートーヴェンの交響曲をウィーン・フィルやベルリン・フィル、バイエルン放送交響楽団などと単独で録音を行っているが、全集の形での纏まった録音は本全集が唯一であり、その意味でも本全集の価値は極めて高いと言える。

ベームによる本全集の各交響曲や序曲の演奏は、重厚でシンフォニックなものだ。

全体の造型は例によってきわめて堅固であるが、その中で、ベームはオーケストラを存分に鳴らして濃厚さの極みと言うべき内容豊かな音楽を展開している。

スケールも雄渾の極みであり、テンポは全体として非常にゆったりとしたものである。

演奏は、1970〜1972年のスタジオ録音であり、これはベームが最も輝きを放っていた最後の時期の演奏であるとも言える。

ベームは、とりわけ1970年代半ば過ぎになると、持ち味であった躍動感溢れるリズムに硬直化が見られるなど、音楽の滔々とした淀みない流れが阻害されるケースも散見されるようになるのであるが、本演奏には、そうした最晩年のベームが陥ったリズムの硬直化がいささかも見られず、音楽が滔々と淀みなく流れていくのも素晴らしい。

いずれの楽曲も名演であると言えるが、最も優れた名演は衆目の一致するところ第6番「田園」ということになるであろう。

本演奏は、ワルター&ウィーン・フィルによる演奏(1936年)、ワルター&コロンビア交響楽団による演奏(1958年)と並んで3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。

本演奏の基本的な性格は前述のとおりであるが、第4楽章の畳み掛けていくような力強さや、終楽章の大自然への畏敬の念を感じさせるような崇高な美しさには出色ものがある。

とりわけウィンナ・ホルンなどの立体的で朗々たる奥行きのある響きには抗し難い魅力がある。

次いで第9番を採りたい。

ベームは、最晩年の1980年にも同曲をウィーン・フィルとともに再録音(ベームによる最後のスタジオ録音)しており、最晩年のベームの至高・至純の境地を感じさせる神々しい名演であるとは言えるが、演奏全体の引き締まった造型美と内容充実度においては本演奏の方がはるかに上。

とりわけ、終楽章の悠揚迫らぬテンポであたりを振り払うように進行していく演奏の威容には凄みがあると言える。

ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)、タティアーナ・トロヤノス(アルト)、ジェス・トーマス(テノール)、カール・リッダーブッシュ(バス)による名唱や、ウィーン国立歌劇場合唱団による渾身の合唱も相俟って、圧倒的な名演に仕上がっていると評価したい。

その他の楽曲も優れた名演であるが、これらの名演を成し遂げるにあたっては、ウィーン・フィルによる名演奏も大きく貢献していると言えるのではないだろうか。

その演奏は、まさに美しさの極みであり、ベームの重厚でシンフォニック、そして剛毅とも言える演奏に適度な潤いと深みを与えているのを忘れてはならない。

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classicalmusic at 07:02コメント(2)ベートーヴェンベーム 

2023年03月26日


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ショルティは20世紀後半を代表する指揮者の1人であるが、我が国の音楽評論家の間での評価は実力の割に極めて低いと言わざるを得ない。

お亡くなりになった吉田秀和氏などは、数々の著作の中で、公平な観点からむしろ積極的な評価をしておられたと記憶する。

ヴェルディのレクイエムなどを除いて事あるごとに酷評しているとある影響力の大きい音楽評論家をはじめ、ショルティを貶すことが一流音楽評論家の証しと言わんばかりに、偏向的な罵詈雑言を書き立てる様相ははっきり言っておぞましいと言うほかはないところだ。

ニキシュは別格として、ライナーやオーマンディ、セル、ケルテスなど、綺羅星の如く登場したハンガリー人指揮者の系譜にあって、ショルティの芸風は、強靭で正確無比なリズム感とメリハリの明晰さを旨とするもの。

そうした芸風でシカゴ交響楽団を鍛え抜いた力量は、先輩格のライナー、オーマンディ、セルをも凌駕するほどであったと言えよう。

もちろん、そうした芸風が、前述のような多くの音楽評論家から、無機的で冷たい演奏との酷評を賜ることになっているのはいささか残念と言わざるを得ない。

確かに、ショルティの芸風に合った楽曲とそうでない楽曲があったことについて否定するつもりは毛頭ないが、少なくともショルティの演奏の全てを凡庸で無内容の冷たい演奏として切って捨てる考え方には全く賛同できない。

ただ、ショルティのそうした芸風からずれば、ウィーン・フィルとの相性が必ずしも良くなかったことはよく理解できるところだ。

フレージングの1つをとっても対立したことは必定であり、歴史的な名演とされる楽劇「ニーベルングの指環」の録音の合間をぬって録音がなされたとされる、本盤に収められたワーグナーの管弦楽曲集にしても、ウィーン・フィルの面々は、ショルティの芸風に反発を感じながらも、プロフェッショナルに徹して演奏していたことは十分に想定できるところだ。

膨大なレコーディングとレパートリーを誇ったショルティであるが、ショルティはワーグナーを数多く手掛けており、ウィーン・フィルとともに本演奏を含め主要な楽劇等をスタジオ録音しているなど、ワーグナーを自らの最も重要なレパートリーの1つとして位置づけていた。

それだけにショルティは、ワーグナー演奏には相当な自信を持っているのであろうが、本盤では、特に最強奏の箇所において力づくのなりふり構わぬ響きが際立っている。

特に、1960年代に録音された「リエンツィ」や「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、そして「トリスタン」にその傾向が著しい。

それ故、ワーグナーの楽曲がショルティの芸風に必ずしも符号していたかどうかは疑問のあるところである。

それでもウィーン・フィルとの一連の録音は、ショルティの鋭角的な指揮ぶりを、ウィーン・フィルの美音が演奏全体に潤いを与えるのに大きく貢献しており、いい意味での剛柔のバランスのとれた名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

多少、無機的な音はするものの、やみくもに楽器を大きく打ち鳴らすだけの“迫力”とは次元を異にする、洗練された“凄み”のようなものが伝わってくる。

華麗で重厚な響きの中にダイナミックなオーケストレーションが展開され、少なからぬ人が「ワーグナー管弦楽曲のCDはこうあってほしい」と思うであろう形の1つ、と言って良いかもしれない。

もちろん、ウィーン・フィルとしてはいささか不本意な演奏であろうが、それでも生み出された音楽は立派な仕上がりであり、聴き手としては文句を言える筋合いではないと言える。

いずれにしても、強靭なリズム感とメリハリの明瞭さにウィーン・フィルならではの美音による潤いが付加された本演奏は、若き日のショルティを代表する名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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classicalmusic at 22:56コメント(0)ワーグナーショルティ 

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本盤には、チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスといった独墺系の交響曲集が収められている。

それにしても、何という圧倒的な音のドラマであろうか。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということの証左であったと言える。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢とかなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのが、本盤の演奏を行っているミュンヘン・フィルであったと言える。

チェリビダッケの演奏が他の演奏と決定的に異なる点は、オーケストラの音色の透明性にあり、100人からなるオーケストラをまるで1つの楽器のように演奏するのである。

このようなことが出来たのは、後にも先にもチェリビダッケ&ミュンヘン・フィルのみであろう。

また、チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらないと言える。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたと言える。

チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であったと言える。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、本盤に収められたシューマンとブラームスについては、前述のようなチェリビダッケのアプローチがプラスに働いた素晴らしい名演と言えるだろう。

確かに、テンポは遅い。

しかしながら、シューマンやブラームスをチェリビダッケ以上に完璧に音化した例は他にはないのではなかろうか。

いずれにしても、これらの演奏を演奏時間が遅いとして切り捨てることは容易であるが、聴き終えた後の充足感においては、過去のいかなる名演にも決して引けを取っていないと考えられるところである。

個人的に気に入っているのは、ベートーヴェンの「田園」で、このベートーヴェンとしては比較的牧歌的な曲を、信じがたいくらいの美しさで歌い上げており、この美しさは筆舌しがたいものがある。

その他の楽曲も、チェリビダッケならではのゆったりとしたテンポによる密度の濃い名演と評価したい。

チェリビダッケの徹底した拘りと厳格な統率の下、まさに完全無欠の演奏を行ったミュンヘン・フィルによる圧倒的な名演奏に対しても大きな拍手を送りたい。

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classicalmusic at 15:01コメント(0)チェリビダッケ 

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白血病という不治の病を患い、49歳という若さでこの世を去らなければならなかった悲劇の指揮者フリッチャイであるが、米国において鉄壁のオーケストラトレーナーとして君臨した同じハンガリー人指揮者のライナーやセル、オーマンディ、そしてショルティなどとは一線を画するようなヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏を行っていた。

同じハンガリー人指揮者であったケルテスの海水浴中の不慮の死と同様に、そのあまりにも早すぎる死は、クラシック音楽界にとっても一大損失であった。

仮にもう少しフリッチャイが長生きをしていれば、世界の指揮者地図は大きく塗り替えられることになったのではないかとさえ思われるほどだ。

本盤に収められたウィーン交響楽団とのモーツァルトの交響曲集は、フリッチャイの活躍の舞台が国際的になってからの晩年の録音で、既に白血病を発症したフリッチャイが、懸命の闘病生活の中で演奏を行ったものである。

それだけに、本演奏にかけたフリッチャイの気迫と執念には並々ならぬものがあったことは容易に想像がつくところだ。

フリッチャイのモーツァルトへの熱い共感と晩年の芸風が端的に示された演奏のひとつで、特に第40番のゆったりと大きなうねりをもった運びと豊かなロマンを湛えた表現は独特である。

と同時に、その演奏は、美しく引き締まった音楽の流れと推進力を常に失うことがない。

あたかも、間近に迫る死を予見しているかのような不気味さを湛えているところであり、若干のテンポの変化を交えつつ、1音1音を心を込めて歌い抜き、彫りの深い演奏を展開しているところだ。

その尋常ならざる心の込め方は、時には慟哭にさえ聴こえるほどであり、あたかも忍び寄る死に対して必死で贖おうとするフリッチャイ自身を彷彿とさせるように思われてならない。

非常にゆったりとしたテンポによる演奏ではあるが、冗長さを感じさせず、演奏全体の造型もいささかも弛緩することがない。

そして、これだけ思い入れたっぷりの渾身の熱演を展開しているにもかかわらず、同曲のモダン楽器による演奏において時として見られる陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

他方「ジュピター」は、健やかで厳しい表現としなやかに強い音楽の変化が印象的で、ここでも緩徐楽章における豊かに澄んだ気宇の大きな歌が味わい深い。

ここでフリッチャイは、初期からの特徴である明快なリズムやフレージングを保ちながら、表情がいっそう豊かになり、それが演奏に奥行きを与えている。

フリッチャイの演奏様式は、彼に先立つ巨匠たちとは違い、力強くはあっても重くなく、「ジュピター」交響曲にふさわしい威厳と爽やかな気分とを調和させ、彼の円熟を示す演奏の1つと言えよう。

晩年のフリッチャイの演奏に共通しているのは、まさにこうして全人格的に音楽を受け止め、厳しく核心を突いたその表現と言うべきだろう。

49歳で世を去ったフリッチャイは、確かに道半ばで倒れた夭逝の音楽家であり、いわゆる巨匠という範疇には入らない指揮者なのかもしれない。

特に晩年の演奏には、病気をおして短期間にそのキャリアを全力で走り抜けたが故の傷があるのも確かである。

しかし、それだけにまたフリッチャイが、その短い晩年に成し遂げたような変貌と円熟ぶりは、他に例がないと言って良いだろう。

そこには通常は何十年という時間と経験がもたらす円熟とはまた違った、極めて人間的な、そして切実なまでの純粋さと美しさをもった世界がある。

ここには肉体的な危機の中でも音楽に対する情熱を失うことのなかったフリッチャイの音楽家としての志の高さが、はっきりと刻印されている。

そして、まさにこのことが、今も聴き手の心を打ち、その個性的な輝きを失わない理由と言って良いだろう。

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classicalmusic at 06:56コメント(0)モーツァルトフリッチャイ 

2023年03月25日


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凄い演奏だ。

いまや世界最高のマーラー指揮者として君臨しているインバルの勢いや、もはや誰もとどめることが出来ない。

インバルを世界的巨匠へ押し上げたマーラー演奏であり、圧倒的な技術とアンサンブルで驚くべき見事な演奏を繰り広げる東京都交響楽団と、両者のボルテージが最高潮へと導き、世界最高峰の演奏と言われるマーラーが姿を現す。

インバルによるマーラーの交響曲演奏と言えば、かつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団との全集(1985年〜1988年)が名高いが、ここ数年にわたって、東京都交響楽団やチェコ・フィルとの演奏は、段違いの素晴らしさと言えるのではないだろうか。

本盤に収められた東京都交響楽団とのマーラーの交響曲第1番の演奏は、インバルとしては、前述の全集中に含まれた同曲の演奏(1985年)、チェコ・フィルとの演奏(2011年)に次ぐ3度目の録音となる。

同曲は、マーラーの青雲の志を描いた交響曲であるだけに、前回の全集の中でも非常に優れた演奏の1つであったし、チェコ・フィルとのものも大変素晴らしい出来映えであったが、本盤の演奏は更に優れた名演に仕上がっており、まさに、近年のインバルの充実ぶりが窺える圧倒的な超名演と言っても過言ではあるまい。

かつてのインバルによるマーラーへの交響曲演奏の際のアプローチは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションを抑制して、可能な限り踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。

全集の中でも優れた名演の1つであった第1番についても例外ではなく、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な名演奏ではあるが、今一つの踏み外しというか、胸襟を開いた思い切った表現が欲しいと思われることも否めない事実である。

ところが、チェコ・フィルとの演奏、そして、東京都交響楽団との本演奏においては、かつての自己抑制的なインバルはどこにも存在していない。

インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、どこをとっても気迫と情熱、そして心を込め抜いた濃密な表現を施しているのが素晴らしい。

それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的かつロマンティックな表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、さすがの至芸と言うべきであろう。

いずれにしても、テンポの効果的な振幅を大胆に駆使した本演奏のような密度の濃い表現を行うようになったインバルによる超名演を聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニなどの累代のマーラー指揮者が鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられないところだ。

さらに、前回のチェコ・フィルとの演奏よりも細かなニュアンスや間の取り方など、非常に深みのある味わい深い円熟の名演奏になっていて、同曲の代表的名盤との地位を確立したと言って良いだろう。

オーケストラに東京都交響楽団を起用したのも功を奏しており、本超名演のグレードをさらに上げる結果となっていることを忘れてはならない。

例えが適切かどうか分からないが、インバルと、都響及びチェコ・フィルとの関係は、フルトヴェングラーとベルリン・フィル及びウィーン・フィルとの関係に似ているような気がする。

つまり前者のパートナーとは徹底的に自分のやりたい音楽を追求し、後者はオーケストラの特性をある程度尊重して、ある意味余裕をもって遊んでいるという感じだ。

こういった使い分けが無理なくできて、どちらも素晴らしいところは、インバルが真の巨匠の域に達したことを示すものだろう。

そして、ワンポイント・レコーディングによる極上の高音質録音も、本超名演を鮮明な音質で味わえるものとして大いに歓迎したいと考える。

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classicalmusic at 23:06コメント(0)マーラーインバル 

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現在では既に引退してしまったブレンデルによる4度目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全集であるが、当時、進境著しかったラトル&ウィーン・フィルという豪華なバックを伴って、ブレンデルによる全集中、最高の名演を成し遂げることになった。

まさに、ピアニストに指揮者やオーケストラと役者が揃った名演であると高く評価したい。

本全集より14年前の旧録音も名演であり、その方を高く評価する者もいるが、指揮者やオーケストラの芸格や、ブレンデルの円熟を考慮すれば、筆者としては、やはりこの最新の全集を最上位に置きたいと考える。

先ずは、ブレンデルのピアノを高く評価したい。

この理論派のピアニストの理屈っぽさについては、一部の批評家の間で酷評されているのは承知しているが、本盤では、そのような短所を聴きとることは皆無であり、音楽は実にスムーズに流れている。

それでいて、骨太のテクニックによる強靭にして重厚な打鍵は、怒れる獅子ベートーヴェンを見事なまでに体現しており、他方、緩徐楽章における抒情的表現にもいささかの不足もない。

4度目の全集は、いずれの楽曲も名演の名に値するが、やはり、最高峰の名演に君臨するのは、第5番「皇帝」であると考える。

ここでのブレンデルのピアノは実に模範的だ。

4度目の録音ということもあるのだろう、どこをとっても曖昧模糊な箇所はなく、堂々たるピアニズムで、威風堂々たるベートーヴェンを描いて行く。

とにかく、ブレンデルのピアノが実に堂々たるピアニズムであり、まさに「皇帝」の風格を兼ね備えているのが素晴らしい。

どこをとっても、力強い打鍵、自信に満ち溢れた堂々たるインテンポで一貫しており、それでいて、緩徐楽章の抒情豊かな演奏も、格調の高さを決して失うことはない。

このピアニストに特有の理屈っぽさは微塵もなく、楽曲の魅力だけが我々聴き手にダイレクトに伝わってくる。

加えて、ラトル&ウィーン・フィルの演奏が実に素晴らしい。

ラトルの指揮は、ブレンデルの巨匠風の表現に一歩も引けを取っておらず、ブレンデルのピアノともども重厚さの極み。

このような巨匠風の表現を聴いていると、ベルリン・フィルの芸術監督として大活躍する現在において大きく開花している偉大な才能の萌芽を随所に感じることが可能である。

本盤の録音当時は、未だベルリン・フィルの芸術監督就任前であるが、こうした堂々たる指揮ぶりに、その後のラトルの前途洋々たる豊かな将来性が感じられる。

例えば、「第4」の第2楽章の重厚さ。

他の演奏だと、緩徐楽章であることを意識して、やたら軟弱な表現に終始してしまうケースも散見されるが、さすがにラトルはそのような落とし穴に陥ることは全くない。

終楽章における圧倒的な迫力もラトルならではのものであり、こういったところに、今日のラトルを予見させる才能があらわれていると言えよう。

ウィーン・フィルの美しい演奏も特筆すべきであり、ブレンデルのピアノやラトルの指揮に独特の潤いを付加し、この名演の価値を更に高めることに大きく貢献していることを見逃してはなるまい。

録音も通常CDでありながら、鮮明な音質であり、本盤の名演の価値を更に高める結果となっている。

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classicalmusic at 15:05コメント(2)ブレンデルラトル 

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1979年ステレオ・ライヴ録音。

大ピアニストのミケランジェリと大指揮者のジュリーニ。

お互いにイタリア人であるが、その芸風は全く異なるところであり、加えて、ミケランジェリの録音が限られていることに鑑みれば、テレビ放送とは言え、このような形で両者の競演が録音の形で遺されているということは殆ど奇跡的と言っても過言ではあるまい。

20世紀のピアニスト中、最も美しい音を持つと言われるミケランジェリと、雄大なスケールでモニュメンタルな名演を次々打ち建てるジュリーニの組み合わせであるが、実演ならではの迫力と、カンタービレの美感が凄い演奏だ。

このように両者の芸風は全く異なると記したが、この両者に共通することがあるとも言える。

それは、両者ともに完全主義者であったと言えることだ。

ミケランジェリについては、あまりにも完全主義が高じて完璧主義者とも言える存在だけに、それが自らの芸風にも表れており、スコアに記された1音たりとも蔑ろにしないという、圧倒的なテクニックをベースとした即物的とも言うべきアプローチを旨としていたと言える。

それだけに、聴きようによっては、ある種の冷たさを感じさせるのも否めないところであり、楽曲によっては相性の悪さを感じさせることも多々あったと言える。

これに対して、ジュリーニも完全主義者であり、とりわけレコーディングに対しては、レパートリーをある程度絞り込むとともに、徹底して何度も演奏を繰り返し、自分の納得する演奏を成し遂げることが出来た後に行うという方針で臨んでいた。

これだけの大指揮者としては、さすがにミケランジェリほどではないものの、正規のスタジオ録音が比較的少ないと言えるところだ。

しかしながら、その芸風はミケランジェリとはまるで異なり、堅牢な造型の中にもイタリア風の歌謡性をベースとした、人間的な温もりを感じさせるものであったと言える。

1980年代も後半になると、楽曲によってはテンポが異常に遅くなり、堅牢であった造型があまりにも巨大化し、場合によっては弛緩することも少なからず存在しているのであるが、ロサンゼルス・フィルの音楽監督をつとめていた1970年代半ばから1980年代前半にかけては、ジュリーニが最も充実した演奏を繰り広げていた時期とも言えるところだ。

このように、同じく完全主義者であるものの芸風が全く異なるジュリーニとミケランジェリの組み合わせではあるが、演奏自体はお互いに足りないものを補った見事な名演に仕上がっていると言えるのではないだろうか。

ミケランジェリの1音たりとも蔑ろにしない完璧なピア二ズムが、ジュリーニの歌謡性豊かな指揮によって、ある種の温かみを付加させるのに大きく貢献しており、いい意味での硬軟のバランスがとれた演奏に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。

ミケランジェリは時として冷徹にさえ聴こえる音色が魅力であるが、この演奏に関しては全くそれが感じられず、むしろこの曲を慈しむかのようなぬくもりさえ感じられる。

どちらかと言えば、ミケランジェリのペースにジュリーニが合わせていると言えるが、それでも要所においてはジュリーニが演奏全体の手綱をしっかりと引き締めていると言えるところであり、まさに、全盛期の両者だからこそ成し得た珠玉の名演になっているとも言えるのではないかと考える。

これだけの歴史的な名演だけに更なる高音質化への取り組みが期待されるところであるが、このコンビによる同時期に録音された第1番と第3番がシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が図られたのにもかかわらず、何故か第5番「皇帝」だけが、高音質化されていないのが現状である。

本従来盤でも十分に満足できる音質ではあるが、ミケランジェリの完璧主義とも言うべきピアノタッチが鮮明に表現されるには、やはりシングルレイヤーによるSACD&SHM−CDによる艶やかな鮮明さや臨場感によって再現されるのが望まれる。

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classicalmusic at 07:04コメント(2)ミケランジェリジュリーニ 

2023年03月24日


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カラヤン最晩年(1986年)のモーツァルトのレクイエムである。

祈りの心を込めて真摯に歌い上げる壮麗な合唱と哀愁を秘めた清澄な独唱、そして重厚な響きのウィーン・フィルをカラヤンが見事に統率し、彼の意思が隅々まで透徹した情感豊かで崇高なる演奏を聴かせている1枚。

ベーム&ウィーン・フィルをはじめとする厳かな演奏がひしめく中にあって、筆者がまず第一に手を伸ばすのが本CD。

カラヤンは、1960年代、1970年代に、それぞれベルリン・フィルと組んでモーツァルトのレクイエムを録音しているが、特に1970年代の演奏に顕著ないわばオペラ風な劇的性格の演奏とは異なり、本盤は枯れた味わいの演奏に仕上がっている。

1回目は宗教音楽としての美しさを、2回目はクラシック音楽としての美しさを、そしてこの録音はそれらを超越した、この曲の持つ神秘性を引き出した録音と言えるのではないか。

カラヤンの指揮は王道を行くもので、比較的テンポも中庸で、カラヤンの故郷ザルツブルグゆかりのモーツァルトの白鳥の歌をケレン味なく演奏している。

これが、偉大なるモーツァルトに捧げるカラヤンの「祈り」なのである。

それは、晩年の健康状態のすぐれないカラヤンの精神が、これを作曲したときのモーツァルトの精神にかぎりなく近づいたからではないだろうか。

カラヤンの、いつもの美しさを求める傾向は影をひそめ、モーツァルトが表現しようとしたレクイエムの神髄に、ストイックなほどに迫っている、最高のモツレク演奏のひとつだと思う。

オーケストラもウィーン・フィルであるし、特に重要なソプラノ奏者がバルツァからトモワ=シントウに変わったこともあると思われるが、それ以上に、ベルリン・フィルとの関係が悪化し、健康状態も相当に悪化したカラヤンのこの当時の心境の反映、または、カラヤンが最晩年に至って到達した枯淡の境地とも言えるのではないだろうか。

いずれにしても、このような要素が複合的に絡み合い、モーツァルトのレクイエムの感動的な名演の1つとなった。

同曲の代表的名盤とされるベーム盤より遥かに聴きやすく、古楽器ものより重厚さや華麗さに溢れている。

ソリストもバランスが取れていて四重唱の「思い出して下さい…」が大変素晴らしく、個人的には重過ぎない「キリエ」「怒りの日」から、ここまでの流れの美しさが好みである。

何と言っても、帝王晩年の黄昏を感じさせ、老境に至ったカラヤンの穏やかな心の深みを垣間見せる、自然体の表現が最大の魅力だ。

カラヤンらしいのは深みのある表現にも関わらず、曖昧さがなく、非常に聴きやすい演奏である事。

美と敬虔と荘厳の共存した稀有な名演でありながら、カラヤンはウィーン・フィルの最も荘厳な音色を引き出しているようでもあり、全ての人に訪れる死というものに正面から向き合って死とは何かと問いかけているような迫力を感じる。

合唱は、相変わらずウィーン楽友協会合唱団であるが、カラヤンの統率力の下、終身監督であるカラヤンと一体となった感動的な演奏を行っている。

1980年代のカラヤンのCDの出来は録音状態も含め、結構ムラがあるように思うが、このCDは全盛期のものと比べても極上の1枚だと言えるだろう。

いずれにしても、カラヤンらしい神々しい演奏であり、落ち着いた神聖な気分に浸りたい人にはぴったり来る演奏であろう。

SHM−CD化により、解像度がやや向上したことも評価したい。

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classicalmusic at 23:02コメント(0)モーツァルトカラヤン 

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ポリーニの“弾き振り”によるモーツァルトのピアノ協奏曲第17番&第21番に続く第2弾で、2007年にライヴ録音された逸品。

前回に引き続いて「後期の傑作」と「初期の魅力的な佳作」のカップリングとなっているが、筆者にはポリーニがベームと録音した第19番と第23番の組み合わせを踏襲するスタイルを意識しているように思えてならない。

若きポリーニが尊敬する巨匠と録音したモーツァルト、そしていま音楽家として熟成したポリーニは指揮もあわせてウィーン・フィルとのモーツァルトの世界に帰ってきたのである……と考えるとロマンティック過ぎるだろうか。

両曲に共通することであるが、ピアノの音色は水銀の珠を転がすような美しさであり、中音も低音も強調されない粒の揃ったタッチは、他では絶対に聴けないものと言える。

第12番はモーツァルトがウィーンで作曲した最初の本格的なクラヴィーア協奏曲であり、かつ管楽器抜きの弦四部で演奏することも可能なように書かれている。

第1楽章から親しみやすい典雅な伸びやかさがあり、落ち着いたポリーニのピアノが安らぎを与える。

第2楽章はモーツァルトらしいところどころ哀しい色を帯びた美しいアンダンテで、ここでポリーニのピアノはたっぷりと憂いを含んだ憧憬的な音色で歌っており、昔のポリーニを知るものには隔世の感がある。

終楽章のロンドも愛らしく、ポリーニのやや硬質だが、透徹した鋭利なタッチが冴え渡っている。

第24番はモーツァルトの「短調の世界」を存分に味わえる大曲であり、演奏もこれに即した深々とした情感を満たす。

シャープなピアノが音の膨らみを警戒し、鋭敏に輪郭線を描いている。

たとえば終楽章の感情の爆発も、スピーディーで線的に描かれていて、1つの演奏形態の理想像を示していると思う。

一方で、第2楽章の木管楽器との音色の交錯もなかなか巧みで聴き応えたっぷり。

部分的に弦楽器が表情を硬くしすぎる感があったが、気にするほどではなく、もちろん名演と呼ぶに差し支えない出来栄え。

そして時にはあたかもベートーヴェンの曲であるかのようなダイナミズムを見せ、全体として、それにしてもポリーニがこれほどと思わせるくらい、とても甘美なモーツァルトに仕上がっている。

さらに本盤で素晴らしいのはウィーン・フィルの優美な演奏と言えるだろう。

ウィーン・フィルは、いかにもモーツァルトならではの高貴な優美さをいささかも損なうことなく、見事なアンサンブルを構築している。

ライヴ録音であるが拍手は第24番終了後にのみ収録されている。

個人的に拍手は不要と思うが(なお言うとポリーニの音楽はスタジオ録音の方が堪能できる)曲間の拍手をカットしてくれたのはありがたい。

リスナーのことを配慮してくれたのだろう。

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classicalmusic at 15:01コメント(0)モーツァルトポリーニ 

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カルロス・クライバーは、その実力の割にはレパートリーがあまりにも少ない指揮者であったが、ひとたびレパートリーとした楽曲については、それこそより優れた演奏を志向すべく何度も演奏を繰り返した。

ベートーヴェンの交響曲第7番は、そうしたクライバーの数少ないレパートリーの1つであり、来日公演でもとりあげ、日本の聴衆を熱狂の渦に巻き込んだのであるが、ウィーン・フィルとのスタジオ録音(1975年)の他、多数のDVD作品や海賊盤が市場に蔓延っていたところである。

クライバーは本演奏の発売を禁じていたが、没後この演奏が発売されると世界の音楽ファンに衝撃を与え、それまで今一つ親しめる存在ではなかった同曲の魅力を、本演奏を聴くに及んで初めて知ったことが今となっては懐かしく思い出されるところだ。

その後は、別のスタイルの演奏であれば、フルトヴェングラー&ウィーン・フィルによるスタジオ録音(1950年)などが高音質で発売(SACD化)されたことから、本演奏の存在感は若干色褪せてきていたことは否めないところであった。

先般、高音質化されて発売された本演奏に接すると、あらためてその演奏の凄さを思い知った次第である。

天井知らずの熱狂と猛烈なスピード感、切り立つ音響の凄まじさと入念をきわめた細部表現による多彩でデリケートなニュアンスを併せ持ち、緊張と解放を自由自在に繰り返しながら未曾有の燃焼度を達成した稀代の名演である。

全曲を約40分弱という凄まじいスピードで駆け抜けており、繰り返しなどもすべて省略している。

それでいて、特に緩徐楽章における各旋律の端々に込められた独特のニュアンスの豊かさ、そして、思い切った強弱の変化やテンポの効果的な振幅を駆使して、実に内容豊かな演奏を繰り広げていると言えるだろう。

クライバーの没後、本演奏の発売される運びとなったのは、数多く行ってきた同曲の演奏の中でも、崇敬するベームの追悼コンサートに際しての本演奏を特別視していたからであると思われるが、それも十分に納得することが可能な圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。

バイエルン国立管弦楽団も、クライバーの統率の下、渾身の名演奏を繰り広げている。

第1楽章のフルートの入りのミスや、とりわけ終楽章など、あまりのテンポの速さにアンサンブルが乱れる箇所も散見されるが、演奏全体に瑕疵を与えるほどのものではなく、むしろ、実演ならではのスリリングさを味わうことができる点を高く評価すべきであろう。

ウィーン・フィルとのDG盤に比較すると、終楽章で特に顕著であるが、クライバーの華麗な棒さばきに必死の形相で喰らい付いてゆこうとするバイエルン国立管弦楽団の健気さと熱い心がダイレクトに伝わってくるという意味で、筆者としては、本盤に軍配を上げたいと思う。

音質は、従来CD盤でも十分に満足できるものであったが、今般、ハイブリットSACD化がなされるに及んで大変驚いた。

待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、クライバーによる圧倒的な超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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classicalmusic at 06:53コメント(0)ベートーヴェンクライバー 

2023年03月23日


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カラヤンはR.シュトラウスを十八番にしていたが、とりわけ交響詩「英雄の生涯」に私淑していたようであり、R.シュトラウスの全交響詩の中でも最もスケールの大きい作品だけに、遺された録音はいずれも精緻さと重厚さを兼ね備えた20世紀最高のR.シュトラウス演奏と言える。

スタジオ録音では、1959年盤(DG)と1974年盤(EMI)、1985年盤(DG)の3種が存在しており、ライヴ録音でもモスクワ盤(1969年)や、ロンドン盤(1972年及び1985年)など複数が存在している。

前述した演奏のいずれもがベルリン・フィルとのものであることが特徴と言えるところであり、カラヤンが同曲を演奏するにあたってはオーケストラの機能性を重視していたことがよく理解できるところだ。

カラヤンはライヴでこそその真価を発揮する指揮者であり、前述の3種のライヴ録音は素晴らしい超名演ではあるが、ここでは本盤と3種あるスタジオ録音の間の比較を軸に論じていくこととしたい。

いずれも名演の名に値すると思うが、演奏の性格は大きく異なると考えられる。

1959年盤については、カラヤンによるDGへのデビュー盤でもあるが、この当時はベルリン・フィルにフルトヴェングラー時代の重心の低い音色の残滓が存在しており、シュヴァルベのヴァイオリンソロはいかにもカラヤン好みの官能的な美しさを誇ってはいるものの、オーケストラの音色はいわゆるカラヤンサウンドで満たされているとは言い難い面があり、カラヤンの個性が完全に発揮されているとは言い難いとも言える。

これに対して1974年盤は、カラヤン色が濃い演奏と言える。

シュヴァルベのヴァイオリンの官能的な美しさは相変わらずであるが、オーケストラは肉厚の弦楽合奏、ブリリアントな金管楽器の朗々たる響き、桁外れのテクニックを示す木管楽器、雷鳴のように轟くティンパニなどをベースに流麗なレガートが施されるなど、いわゆるカラヤンサウンドが満載であり、徹頭徹尾カラヤン色に染め上げられた演奏に仕上がっている。

これに対して1985年盤は、カラヤンの統率力の衰えから、カラヤンサウンドを聴くことができるものの、1974年盤のように徹頭徹尾ということにはなっていない。

したがって、音のドラマの構築という点では1974年盤よりも劣っていると言わざるを得ないが、本演奏にはカラヤンが自らの人生を自省の気持ちを込めて顧みるような趣きが感じられる。

枯淡の境地にも通じるような味わい深さといった面では、1959年盤や1974年盤をはるかに凌駕していると言えるだろう。

ことに自己の回想録のように深く沈み込んだような美しさはそれまでには見られなかったもので、それに加えてオーケストラの唖然とする合奏力は、カラヤン美学の総決算と言ってもいいだろう。

これには、ヴァイオリンソロが官能的な美しさを誇るシュヴァルベから質実剛健なシュピーラーに変わったのも大きいと考えられる。

いずれにしても、これら3種の名演の比較については困難を極めるところであり最終的には好みの問題になるとは思う。

筆者としては、カラヤンが最晩年に至って漸く到達した枯淡の境地、至純の境地を味わうことができる1985年盤を随一の至高の超名演と高く評価したいと考える。

本映像作品はこの1985年盤と同時期に収録されたものだが、すべて同じセクションから取られたものではないものの、基本的なコンセプトは全く同一なのは言うまでもない。

その場合は、やはり映像がある方が迫力が非常に大きくなるという点で魅力が倍増する。

特にカラヤンが指揮した時のベルリン・フィルの気合いの入った集中力の高さは見ていて本当に圧倒される。

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classicalmusic at 23:04コメント(0)R・シュトラウスカラヤン 

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巨匠ノイマンが最晩年にレコーディングした至高のマーラー・サイクルの頂点とも言える「第6」がSACDハイブリット化。

これこそクラシック音楽演奏史上燦然と輝く金字塔であり、 このレコーディングの数ヶ月後に他界したノイマンの精神が、この演奏の細部にまで宿っている。

互いに敬愛を寄せるノイマンとチェコ・フィル、そのすべてが完全に昇華された充実の極みとも言える演奏が繰り広げられている。

もちろん、チェコ・フィルの顔と呼べる、唸るホルン・セクション、法悦するミロスラフ・ケイマルなど聴き応え満点の演奏内容だ。

全体を通して力強い演奏であるが、タイトルにとらわれない解釈も非常に好ましく、その内には人間の悲哀が込められているように感じられるところであり、そういう意味で「悲劇的」要素も充分に表出していると思う。

第1楽章は恐ろしい死の行進で開始されるが、冒頭からしてノイマンの気迫あふれた指揮は異次元空間を作り上げている。

チェロ、バスのリズムがすごい意味を感じさせるが、少しも力んではいないのに音楽的かつ有機的なのだ。

各楽器のバランスや全体の響き、ハーモニーの作り方も素晴らしく、例えばトランペットが柔らかい音で意味深く突き抜けたかと思うと、木管合奏が哀しく訴えかけ、ティンパニが心に痛みを感じさせつつ強打される、といった具合なのだ。

それにしてもオケの各パート、そしてマーラーのオーケストレーションを完璧に自分のものにしたノイマンの実力は神業とさえ言えよう。

この作曲家独自の鮮やかな音彩を保持したまま、常に深い内容を湛え、メカニックな楽器自体の音は1音たりとも出していない。

ホルンの最強音がため息に聴こえたり、ときにはかくし味の色合いを見せたり、あえかなデリカシーを魔法のように現出させたり…、アルマの主題は(2:30)に顔を出す。

第2楽章のスケルツォも冒頭のティンパニのアクセントから分厚く、音楽的な意味深さは相変わらずだし、その上メリハリの効果にも富み、各種打楽器の実在感、リズムの生命力、悪魔的なホルンなど、どこをとっても味わい濃厚であり、美感も満点、そしてそれらをマイクが100%とらえ切っている。

第3楽章は歌い方にもルバートにも心がこもり切り、マーラーの夢のように美しい管弦楽法がその心の訴えとともに表われるところ、これ以上の演奏を望むことはできない。

そして終楽章。

出のハープがものをいい、ヴァイオリンははかなく、突然の恐怖から低弦の雄弁な語り口にいたるわずか20小節ほどの間に激変する音楽の対処の仕方だけを見ても、ノイマン&チェコ・フィルの質の高さ、密度の濃さは際立っている。

演奏はどこまでも生々しく進み、アンサンブルは揺るぎなく、第1楽章のアルマの主題の変形である序奏主題の哀切さは、それが登場するたびに情感を増して比類がない。

コーダの途中(28:56)など、すでに力尽きたマーラーの姿であり、それゆえ、いっそうアルマを恋い慕うのだ(29:04)。

ティンパニによる破滅の運命の動機(29:20)もここでは弱いが、ついに終結の3小節で最後の鉄槌が振り下ろされ(31:18)、英雄は死ぬ。

マルチチャンネル付きのSACDによる臨場感あふれる極上の高音質録音も実に効果的であり、ノイマン&チェコ・フィルによる本名演の価値を更に高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

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classicalmusic at 15:04コメント(0)マーラーノイマン 

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同曲演奏史上最高の超名演だ。

ロストロポーヴィチを迎えての「ドン・キホーテ」で、カラヤンによるR.シュトラウスの録音中屈指の名演として有名なもの。

ベルリン・フィルの豊穣な響きはもちろん、ロストロポーヴィチの卓越した演奏もまた素晴らしい。

録音は1975年であるが、これは、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代。

カラヤンにとっては、その後、様々な故障を抱えて体力的に衰えていく分岐点となった年であるし、ベルリン・フィルも、楽団史上最高の名奏者が集まった全盛期であった。

そして、ロストロポーヴィチの脂が最も乗った時期でもあり、当時のベルリン・フィルの首席ヴィオラ奏者のコッホも加わったメンバーの組み合わせは、まさに豪華絢爛にして豪奢と言わざるを得ないだろう。

こうした豪華な面々の組み合わせがかえって仇になる作品もあるとは思うが、R.シュトラウスの管弦楽曲の場合は、そのオーケストレーションの華麗さ故に大いにプラスに働くことになる。

カラヤン&ベルリン・フィルの重量感溢れる豪壮な演奏は、それだけで聴き手の度肝を抜くのに十分であるし、ロストロポーヴィチのチェロの表現力の幅の広さは、まさに史上最高のドン・キホーテと言っても過言ではあるまい。

冒頭からR.シュトラウスにうってつけの豊満な響きで、まったりとしながらメリハリが利いていて飽きさせない。

主題提示部の圧倒的な迫力から、終曲の詩情豊かな繊細さに至るまで、このチェリストの底知れぬ実力を感じずにはいられない。

滑らかでスムーズ、淀みないカラヤンの指揮するオーケストラに、逞しく奔放なロストロポーヴィチの演奏が音楽的なスケールとダイナミズムを一層際立たせた名演奏である。

チェロとオーケストラが融合しながら協奏曲とはひと味違う、真の意味での管弦楽曲作品に仕上がっている。

ロストロポーヴィチの鬼気迫る演奏がドン・キホーテの狂気を見事に表出し、それに拮抗するカラヤン&ベルリン・フィルのゴージャスなサウンドが素晴らしい。

また、コッホの哀愁を帯びたヴィオラの音がヨボヨボのロバに乗ったサンチョ・パンザを髣髴とさせる。

カラヤンの作為的な演出が全面に出た演奏を嫌う向きも多いが、この曲はそれが大正解なのである。

これはドン・キホーテの脳内に構築されたバーチャル空間なのだから。

筆者は本来、説明的な標題音楽というのが苦手なのだが、この演奏の前にはその嗜好が霧散してしまう。

虚構の豪奢な伽藍が陸続と連なるような大絵巻を描出できる指揮者はカラヤンをおいて他にはいないだろう。

カラヤン&ベルリン・フィルは、本盤の約10年前にフルニエと、約10年後にメネセスと組んで、「ドン・キホーテ」を録音しており、いずれも名演ではあるものの、とても本盤ほどの魅力はない。

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classicalmusic at 06:53コメント(0)ロストロポーヴィチカラヤン 

2023年03月22日


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フォーレのレクイエムはコルボの代名詞と言っても過言ではない楽曲であると言えるところであり、本演奏を皮切りとして、ローザンヌ声楽・器楽アンサンブルとの演奏が1992年と2005年(東京でのライヴ録音)の2種、そして、ローザンヌ声楽アンサンブル、シンフォニア・ヴァルソブィアとの演奏(2006年)の合計で4種類の録音が行われているところだ。

同曲を深く愛するとともに、その内容を知り尽くしているコルボによる演奏だけに、これら4種の演奏はいずれ劣らぬ名演であるが、この中で1つを選べと言われれば、筆者は躊躇なく本演奏を掲げたいと考えている。

フォーレのレクイエムは、いわゆる3大レクイエムの中でも最も静謐さを信条とする作品である。

それ故に、モーツァルトやヴェルディのレクイエムにおいて比類のない名演を成し遂げた大指揮者が、同曲を一切演奏・録音しないケースも散見される(カラヤン、ショルティなど)が、それだけ同曲の演奏には困難が伴うと言えるのではないだろうか。

いわゆる大オーケストラ用に書き換えられた第3稿の1900年版(本盤の演奏)にしても、オーケストラパートは極めて慎ましやかに作曲されていることから、同曲においては、静謐にして崇高な世界をいかに巧みに描出出来るのかにその演奏の成否がかかっていると言えるだろう。

コルボの同曲へのアプローチは、いずれも楽想を精緻に丁寧に描き出していくというものだ。

奇を衒ったところは皆無であり、音楽そのものを語らせると言う真摯かつ敬虔な姿勢に徹しているとさえ言える。

もっとも、一聴すると淡々と流れていく各フレーズの端々には、独特の細やかな表情づけや万感の思いを込めた情感が滲み出しており、コルボの同曲への傾倒と深い愛着の気持ちを感じることが可能だ。

そして、本演奏が、他の3種の演奏と異なるのは、独唱にボーイ・ソプラノを起用するとともに、合唱団にも少年合唱を主体とするサン・ピエール・オ・リアン・ド・ビュル聖歌隊を起用していることであろう。

かかる少年による天国的な美しさを誇る純真な美声は、本演奏の静謐さ、崇高さを更に助長するのに大きく貢献している。

女声合唱や通常のソプラノを起用した同曲の名演としては、クリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団ほかによる歴史的な名演(1962年)が随一のものとして掲げられるが、本盤に収められた演奏は、同曲の静謐な崇高さをより極めたものとして、クリュイタンス盤と並ぶ至高の超名演と高く評価したいと考える。

音質は、1972年のセッション録音ではあるが、リマスタリングされたこともあって、従来盤でも比較的満足できる音質である。

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classicalmusic at 23:06コメント(0)フォーレ 

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ベートーヴェンの三重協奏曲はベートーヴェンが作曲した労作であり、一部の評論家が指摘しているような駄作とは思わないが、それでもピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲などと比較するといささか魅力に乏しいと言わざるを得ないのではないだろうか。

もちろん、親しみやすい旋律などにも事欠かないと言えなくもないが、よほどの指揮者やソリストが揃わないと同曲の真価を聴き手に知らしめるのは困難と言えるだろう。

したがって、本演奏の関心は、もっぱら演奏者とその演奏内容の方に注がれることになる。

カラヤンとロシアの偉大な3人のソリストという超豪華な布陣は、ネット配信の隆盛などによりクラシック音楽界が不況下にある現代においては望むべくもない、巨匠たちの夢のような共演と言えるだろう。

ましてやオーケストラが世界最高のベルリン・フィルであり、三重協奏曲のような楽曲ではもったいないような究極の布陣とも言える。

そして、本演奏が凄いのは(裏方では微妙な意見の食い違いがあったようであるが、我々は遺された録音を聴くのみである)、4巨匠とベルリン・フィルがその能力を最大限に発揮しているところであろう。

カラヤン&ベルリン・フィルは、この黄金コンビの全盛時代ならではのオーケストラ演奏の極致とも言うべき重厚にして圧倒的な音のドラマの構築を行っているし、ロストロポーヴィチの渾身のチェロ演奏は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っている。

オイストラフのヴァイオリンも、ロストロポーヴィチのチェロに引けを取らないような凄みのある演奏を展開しているし、リヒテルのピアノも、本名演の縁の下の力持ちとして、重心の低い堂々たるピアニズムを展開している。

いずれにしても、オイストラフ、ロストロポーヴィチ、リヒテル、カラヤンが白熱の演奏を繰り広げる凄い演奏であるし超名演に値すると言える。

そして、このような凄い超名演を持ってして漸くこの三重協奏曲の魅力が聴き手に伝えられたというのが正直なところであり、その意味では、本演奏こそが同曲の唯一無二の名演と言えるのかもしれない。

もっとも、本演奏は狭い土俵の上で、天下の大横綱が5人いてお互いに相撲をとっているようなイメージとも言えるところであり、このような5人の大横綱には、もう少し広い土俵で相撲をとって欲しかったというのが正直なところだ(と言っても、広い土俵たり得る三重協奏曲に変わる作品は存在しないが)。

他方、ブラームスの二重協奏曲は最晩年の名作であり、ベートーヴェンとは異なる魅力作である。

オイストラフとセルによるヴァイオリン協奏曲が秀逸であったことからも分かるように、その延長線にあるといえる素晴らしい名演だ。

全盛期のオイストラフとロストロポーヴィチによる火花が散るような渾身の演奏は我々聴き手の度肝を抜くのに十分な圧倒的な迫力を誇っているし、最晩年になって鉄壁のアンサンブルに人間味溢れる温かみが加わったセル&クリーヴランド管弦楽団による入魂の名演奏も素晴らしい。

本演奏こそは、オイストラフとロストロポーヴィチ、セルの最高の美質が溶け合ったブラームスであり、同曲演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい(もちろん、三重協奏曲も同曲演奏史上最高の超名演である)。

前者はモントルー国際レコード賞、後者は1971年度レコード・アカデミー賞と仏ADFディスク大賞を受賞している。

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classicalmusic at 15:01コメント(2)オイストラフロストロポーヴィチ 

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クルト・ザンデルリングの貴重なレコーディング3曲を収録した2枚で、1枚目がブルックナーの交響曲第3番ニ短調、2枚目にマーラーの『さすらう若人の歌』及びショスタコーヴィチの『ユダヤの民族詩による歌曲集』全11曲。

このCDも既に製造中止の憂き目に遭っているので、数少ない在庫を探すか、中古を漁るしか購入方法はない。

ブルックナーはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を振ったもので、1963年のステレオ録音だが音質は想像以上に良かった。

鮮明で臨場感にも不足せず、当時の東ドイツのレコーディングの水準の高さを物語っている。

ザンデルリングはブルックナーの大オルガン的なオーケストレーションを音楽の強力な流れと迫力で聴かせてくれる。

マーラーは1961年のセッションで若き日のヘルマン・プライを迎えた秀演。

プライはテクニック的にも全盛期で、弱音で高音の続出する第一及び第二楽章も表現豊かに歌い切っている。

この曲に関してはフルトヴェングラー、フィッシャー=ディースカウ、ウィーン・フィルによる1951年のザルツブルク・ライヴが若者の心理状態をつぶさに表現し得た、またマーラーの生きた世紀末をも想起させる得難い名演だと思うが、モノラル音源で音質にも若干不満が残る。

ここではプライの若々しさを前面に出した若者の苦悩と恋の終焉をサポートするザンデルリングの抒情性と巧みな音響効果が聴きどころだろう。

オーケストラはベルリン放送交響楽団。

最後のショスタコーヴィチはザンデルリング初演の作品で民族的なスケールが使われた異色の作品。

ザンデルリングがユダヤ人の血を受け継ぐことから、その解釈にも確信が感じられる。

1966年のステレオ録音でベルリン交響楽団とソプラノ、マリア・クロ―ネン、アルト、アンネリース・ブルマイスター、テノール、ペーター・シュライアーとの共演。

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classicalmusic at 06:54コメント(2)ザンデルリンク 

2023年03月21日


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ワルターは、数多くの名録音を遺してきたが、本全集に収められた「第2」と「田園」は、その中でもトップの座を争う不朽の名盤と高く評価したい。

特に、「第2」は、ワルターの最晩年のヒューマニティ溢れる情感豊かな指揮ぶりと楽想が見事にマッチしている。

ワルターは、「田園」にも、同じコロンビア交響楽団と名演を遺しているが、「田園」には、戦前のウィーン・フィルとの名演(オーパス蔵)や、ベーム&ウィーン・フィル(DG)といった強力なライバルがいる。

それに対して、「第2」には、そのようなライバルは存在せず、まさに、本盤のコロンビア交響楽団との演奏こそ、同曲演奏史上トップの座に君臨する至高の名演ということになる。

序奏部は意外にもテンポは速めであるが、主部に入ってからの中庸のテンポによるニュアンス豊かな演奏はセンス抜群。

第2楽章の抒情美はこの世のものとは思えないような美しさであり、終楽章のコクのある堀の深い表現も最高だ。

「第1」も名演。

こちらは、トスカニーニ&NBC交響楽団(1951年盤)のような即物的な表現が好まれる傾向があるが、ワルターのような滋味あふれる表現にも十分な説得力があり、本盤の演奏を名演と評価するのにいささかの躊躇もしない。

ワルターのベートーヴェンと言えば、偶数番の交響曲を得意とした指揮者というのが通説とされている。

確かに、「第2」や「田園」どは、あらゆる同曲の名演中、最上位に掲げられる超名演と評価しても決して過言ではないと考えているが、だからと言って、他の奇数番の交響曲の演奏が拙劣なものであるということは断じて言えないと思う。

例えば「エロイカ」は、確かに他にもライバルとなる名演が多い。

そうした海千山千のライバルに比べると、「第2」や「田園」のように、最上位を勝ち取ることは難しいかもしれないが、そうした順位を差し置いて考えると、最晩年のワルターならではの円熟の名演と評価してもいいのではないかと考えている。

特に、感動的なのは第2楽章で、ゆったりとしたテンポで深沈たる演奏を行っているが、この情感溢れるヒューマンな歌い方は、ワルターと言えども最晩年にして漸く成し得た至芸と言えるのではなかろうか。

両端楽章の力強さにもいささかの不足はないが、これらの楽章については、トスカニーニ追悼コンサートにおけるシンフォニー・オブ・ジ・エアとの1957年盤(MUSIC&ARTS)の方をより上位に置きたい。

残念なのは、コロンビア交響楽団の、特に金管楽器の力量に非力さが感じられる点であり、第1楽章の終結部のトランペットなど、もう少し何とかならないだろうか。

前述のように、ワルターについては、巷間ベートーヴェンの偶数番号の交響曲を得意とした指揮者であると言われている。

しかしながら、奇数番号の交響曲も、それぞれの交響曲の最上位の名演とは言えないものの、ワルターならではの円熟の名演を行っている。

その中でも特に素晴らしいのは、「第7」ではないだろうか。

確かに、この「第7」には、フルトヴェングラーの壮絶な迫力もなく、クレンペラー(1968年盤)の壮麗なスケールも、カラヤン(1978年のパレクサ盤)の強靭な音のドラマなども存在していない。

ここにあるのは、豊かな歌心とヒューマニティ溢れる情感の豊かさだ。

まさに、ワルターは、「第2」や「田園」などの偶数番号の交響曲を演奏するのと同様のアプローチで、「第7」を指揮しているのだ。

したがって、これほど叫んだりわめいたりしない、柔和な「第7」は、他にも類例は見られないだろう。

しかしながら、その温かみのあるヒューマンな情感豊かさは、最晩年の巨匠ワルターだけが表現し得た至高・至純の境地と言えるだろう。

ただ大変惜しいのは、コロンビア交響楽団の力量不足であり、「第7」は、オーケストラにとってもベートーヴェンの交響曲中最大の難曲として知られるが、さすがにこの「第7」は荷が重かったと言える。

とりわけ、トランペットの不自然な響き(特に終楽章)は、演奏が素晴らしいだけに大変惜しい気がした。

ワルターの芸風を考慮に入れれば、「第8」の方が非のうちどころのない名演だと思う。

最晩年のワルターならではの、ヒューマニティ溢れる滋味豊かなアプローチが、「第8」という交響曲の楽想にぴたりと符合するからである。

コロンビア交響楽団も、「第8」に関しては、ワルターの統率の下、なかなかの好演を行っていると言えよう。

これに対して「第9」であるが、ワルターの指揮だけに着目すると、名演と言っても差支えはないものと思われる。

ただ問題は、コロンビア交響楽団の非力さが、この曲の場合、かなり露呈することになっており、終楽章のアンサンブルの乱れなども、これがスタジオ録音とは信じられないような情けなさだ。

それと、終楽章のテノールのアルバート・ダ・コスタの独唱はいささか品を欠き、あまりの情感過多な表現ぶりに辟易とさせられた。

しかしながら、これらを帳消しにしてしまうだけの名指揮をワルターは行っており、特に、第3楽章の豊かな抒情は、ワルターと言えども最晩年になって漸く表現し得た至高・至純の美しさと高く評価したい。

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classicalmusic at 22:54コメント(2)ベートーヴェンワルター 

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インバルは1980年代に、当時の手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにマーラーの交響曲全集を録音した。

いずれも、名演揃いだと思うが、その中でも随一の名演はこの「第7」ではないかと考える。

レコードアカデミー賞を受賞したのも、確かこの「第7」だけであったはずである。

「第7」は、最近ではそのようなこともないと思うが、1980年代は、マーラーの交響曲の中では不人気の部類に属していた。

圧倒的な勝利と異様なパロディ性の共存といった相反する要素が混在したマーラー世界の象徴ともいえる作品。

クレンペラーによる超スローテンポのスケール雄大な名演や、バーンスタイン、テンシュテットによる劇的な名演もあったが、いずれも指揮者の個性の方が際立った演奏であり、「第7」の曲自体の魅力をストレートに表現してくれる演奏はほとんどなかったと記憶する。

そのような中で登場したインバル盤は、マーラーの「第7」の真価を知らしめた初めての名演と言えるものであり、更には、そうした評価は現代においても十分に通用するものと言える。

これまで「難解」と言われてきたこの曲の隅々にまで光を当て、この交響曲に込められたさまざまな意味・感情のすべてを的確に表現した同曲の決定的名演と言える。

骨太で推進力があり、立派な演奏で、ことさら曲の病的な面を強調することもなく、適度に暗さも感じられて絶妙なバランスの上に立った演奏とも言える。

インバルの解釈は、内なるパッションや個性をできるだけ抑制して、マーラーの音楽を純音楽的に響かせようとするものであり、名演ではあるものの、例えば「第9」など、いささか物足りなさを感じさせるものもあった。

しかしながら、「第7」については、そうしたアプローチがプラスに働いており、やや遅目のゆったりしたテンポをとりながら、尻上がりに調子が上向きになる。

「第7」は、終楽章は別にして、第1〜第4楽章には、マーラーの交響曲の中でも特に繊細な抒情や巧みな管弦楽法が際立っており、こうした箇所において、インバルはあらゆる音符に光を当てて、実に精密な演奏を心がけている。

特に第3楽章は、この曲のもつ怪奇趣味が良く現われて、聴き応えがある。

もちろん、終楽章の迫力は、インバルとしても、自己抑制を超えたパッションの爆発があり、いい意味でのバランスのとれた名演と高く評価できる。

この曲の場合ライナーノーツにある通り終楽章の解釈に議論が分かれており、インバルはそれを考慮に入れたのだろう。

考えてみればこの交響曲はブラームスの交響曲第1番のように恐ろしく長い年月をかけて作曲されたものとは背景はまったく異なる訳であり、フィナーレの勝利とはいえない空々しい悲喜劇を思わせる人間的な矛盾を描いたインバルの指揮は素晴らしいというほかはない。

この交響曲の後に作曲される「第9」と「第10」に関して転機となった貴重な交響曲であることについては疑いようがなく、後期ロマン派の複雑な体系の理解に繋がる名盤である。

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classicalmusic at 15:03コメント(2)マーラーインバル 

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ワルター晩年の一連の録音の中でも、彼の温かい人柄と鋭敏さの表れた屈指の名演奏と高く評価したい。

シューベルトの「第9」は超名曲であるが、演奏そのものは非常に難しいと考えている。

というのも、シューベルトが相当な意欲を持って作曲しただけに、ここには、あらゆる要素が内包されているからである。

ウィーン風の優美な情緒は当然のこととして、偉大なる先達であるベートーヴェンを意識した並々ならぬ意欲、最晩年のシューベルトならではの死への恐怖と人生への達観の境地、そして、後年のブルックナーの交響曲につながる巨大さだ。

同曲の名演が、どこか食い足りないのは、これらのすべての要素を兼ね備えるということが容易ではないことに起因するものと考えている。

そのような中で、ワルターの演奏は、ブルックナーの交響曲につながるような巨大さにはいささか欠けるものの、それ以外の要素についてはすべて兼ね備えた名演と言えるのではないだろうか。

まさにこの曲の「天国的な美しさ」が端的に伝わってくる名演と言えるところであり、シューベルト最後最大の、そして歌に満ち抒情あふれる美しいこのシンフォニーを、ワルターは心優しく温かくのびやかに歌いあげている。

それでいて、メリハリはきいているし、アゴーギグをきかせてテンポを動かし、リズムを生かしている。

各楽器の弾かせ方にもウィーン風の情緒が漲っているし、例えば終楽章にも見られるように、劇的な迫力においてもいささかの不足もない。

特に第3楽章のトリオの優美さは、もうこれ以上の演奏は考えられないくらい素晴らしく、他のどんな名指揮者が一流オケを振った演奏よりもこの曲の美しさが浮かび上がってくる様は、ワルターの至芸という他はない。

また、第2楽章の中間部の、シューベルト最晩年ならではの行き場のない陰りの音楽の絶妙な表現も見事の一言に尽きる。

コロンビア交響楽団も、ワルターの統率の下、極上の美演を披露しており、本名演に華を添えている点を見過ごしてはならない。

現代の指揮者では少なくなってしまった人間味あふれるのびやかなワルターの指揮とシューベルトのスケール雄大な曲が相俟って、聴き応えのするアルバムになっている。

DSDリマスタリングによって、音質が驚くほど鮮明でクリアになったのは、大変素晴らしいことだ。

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classicalmusic at 07:01コメント(4)シューベルトワルター 

2023年03月20日


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ラトル&ベルリン・フィルの充実ぶりを示した素晴らしい名演だ。

本演奏を皮切りとしてマーラーチクルスを開始する予定だったのことで、今後の録音に大いに期待していたが、頓挫したようで残念至極だ。

ラトルのベルリン・フィルへのデビューは、マーラーの「第5」であったが、意欲だけが空回りしたイマイチの演奏であったと記憶する。

その後の数年間は、ラトルもベルリン・フィルを掌握するのに苦労したせいか、凡演の数々を生み出すなど、大変苦しんだようである。

しかしながら、マーラーの「第9」あたりから、ベルリン・フィルを見事に統率した素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。

本盤も、そうした一連の流れの中での圧倒的な名演だ。

第1楽章の冒頭から、ゆったりとしたテンポで重厚な深みのある音色を出している。

ここには、ラトルの「復活」に対する深い理解に基づく自信と風格が感じられる。

トゥッティにおいてもいささかも力むことがなく、力任せの箇所は皆無、テンポの緩急やダイナミックレンジの幅の広さは桁外れであり、随所にアッチェレランドをかけるなど、劇的な要素にもいささかの不足はない。

弦楽器のつややかな響きや、金管楽器の巧さも特筆すべきものであり、ベルリン・フィルも、アバド時代から続いた世代交代が、ラトル時代に入って、漸く安定期に入ったことを大いに感じることができる。

終結部の大見得を切った演出は実にユニークであるが、あざとさをいささかも感じさせないのは、ラトルの「復活」への深い共感と理解の賜物であると考える。

第2楽章は一転して速いテンポであるが、情感の豊かさにおいては人後に落ちるものではなく、決して薄味な演奏には陥っていない。

中間部の猛烈なアッチェレランドは実に個性的な解釈。

第3楽章は、冒頭のティンパ二の強烈な一撃が凄まじく、その後の主部との対比は実に巧妙なものがあり、ラトルの演出巧者ぶりを大いに感じることが可能だ。

それにしても、この楽章の管楽器の技量は超絶的であり、あまりの巧さに唖然としてしまうほどだ。

後半の金管楽器によるファンファーレは、凄まじい迫力を誇っているが、ここでも力みはいささかも感じられず、内容の濃さを感じさせるのが素晴らしい。

低弦の踏みしめるような肉厚の重厚な響きは、カラヤン時代を彷彿とさせるような充実ぶりだ。

第4楽章は、ゆったりとしたテンポで進行し、静寂さが漂うが、ここでのメゾ・ソプラノのコジェナーは、素晴らしい歌唱を披露している。

ベルリン・フィルも、コジェナーの歌唱と一体となった雰囲気満点の美演を披露している。

特に、木管楽器の美麗な響きは、カラヤン時代にも優るとも劣らない美しさであり、聴いていて思わず溜息が漏れるほどだ。

終楽章は、壮麗にして圧倒的な迫力で開始され、低弦による合いの手の強調が実にユニークで、ゲネラルパウゼの活用も効果的だ。

主部は堂々たる進軍であるが、随所に猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、ドラマティックな要素にもいささかも不足はない。

合唱が入った後は、ゆったりとした荘重なインテンポで曲想を丁寧に描き出していく。

ソプラノのロイヤルや、メゾ・ソプラノのコジェナーも実に見事な歌唱を披露しており、ベルリン放送合唱団も最高のパフォーマンスを示している。

そして、壮大なスケールと圧倒的な迫力の下に、この至高の名演を締めくくるのである。

SACDによる音質の鮮明さや音場の幅広さも本盤の価値を高めるのに大きく貢献している点も忘れてはならない。

木幡一誠氏によるライナーノーツの充実した解説は、実に読みごたえがあり、スカスカのライナーノーツが氾濫するという嘆かわしい傾向にある中で、画期的なものとして高く評価したいと考える。

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classicalmusic at 23:05コメント(0)マーラーラトル 

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アシュケナージは、プレヴィン指揮のロンドン交響楽団ともラフマニノフのピアノ協奏曲全集を完成していたが、15年後のこの演奏には、この間のアシュケナージの豊かな経験が余すところなく示されている。

指揮者としても交響曲全集を完成するなど、ラフマニノフの音楽に強い愛着と自信をもつアシュケナージの作品に対する熱い共感が、いっそう味わい美しく歌われていると言って良いだろう。

プレヴィンとの前作も、この協奏曲のロシア的な情感を若々しい感覚で陰翳美しく表現していたが、この演奏は、音も表現もさらに幅広く柔軟に磨き抜かれているし、すばらしく洗練された多彩なタッチによって、ラフマニノフの音楽を精妙に、かつしなやかな強さをもって彫りなしている。

アシュケナージはスケールの大きな技法で、ラフマニノフの旋律を朗々と歌い上げて見事というほかはなく、その美しく深い味わいは、やはり40代後半という円熟期のアシュケナージならではのものである。

またアシュケナージ自身祖国へのノスタルジアを込めたかのように、憧れに満ちたかのような独特の粘り気のあるフレージングで、分厚く積み重なった和音を叩き出している。

ことに第2番は秀演、力演ひしめく中で、本演奏はいつ聴いてもすばらしく、大きな充実感と新鮮な感動をもたらしてくれる。

独自の爽やかなロマンティシズムと豊かな音楽性が全編に溢れ、どこまでも屈託のないしなやかなラフマニノフの世界を繰り広げている感。

量感もあり、木管楽器との絡み合いには極上のリリシズムが漂う。

アシュケナージは純粋にピアノという楽器でものを言える数少ない1人であろう。

また、本物のロマンとは知的なものなのである。

それにしても何てゆったりとした大きなうたなのだろう。

このこぼれんばかりの情緒を湛えた第2番の協奏曲以上に、磨き抜かれた、厳しい美しさを誇る第3番の協奏曲は、意外に名盤が少ない。

そんな中で、常に最高の位置を占めてきた名盤が、既にこの協奏曲を4回も録音しているアシュケナージだ。

実に4度目となるこの録音でも、輝かしく、また張りと潤いに溢れたピアノの音色も魅力的だが、アシュケナージの演奏には、聴き手を作品の世界に嫌がうえにも導き入れて陶酔させてしまうドラマティックな吸引力があるし、抒情的味わいも一段と濃く、深く、しかも演奏全体が暖かい点が素晴らしい。

オーケストラとの間に醸される充実した空気が何よりも魅力的だし、アシュケナージがこの曲を完全に手中にし、余裕と豊かなニュアンス表現のうちに振幅の大きいソロを聴かせている点も見逃せない。

第1番と第4番も、十全の円熟味と安定感を示した秀演と言って良いだろう。

それにハイティンクとコンセルトヘボウ管弦楽団がそうしたソロを手厚く支えて、演奏をいっそう充実したものにしている。

ハイティンクの指揮も、アシュケナージに劣らずスケールが大きく、シンフォニックに作品のオーケストラ・パートを歌わせている。

そして英デッカならではの録音の優秀さも、このCDの大きな特色で、アシュケナージとハイティンクの演奏をよりリアルに、引き立てていると言えよう。

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classicalmusic at 14:58コメント(2)アシュケナージハイティンク 

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2007年収録の第6番でスタートし、2011年の第9番で完結したゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団によるマーラーの交響曲全集が、10枚組のBOXセットとなって低廉に入手できる運びになったことをまずは喜びたい。

ゲルギエフのマーラー交響曲全集は、第8番を除きすべてロンドン、バービカンホールでのロンドン交響楽団とのライヴ録音である。

50代後半のいかにもエネルギッシュなゲルギエフらしい一気呵成な対応であり、手兵のオーケストラを一定期間集中させ、全曲に一貫した解釈を施すうえではこの短期決戦のライヴ録音は有効だが、その実、相当な自信に裏づけされたものであろう。

このシリーズは、すべてコンサートでの演奏をライヴ録音しているところにその特徴があり、実演における白熱の模様がストレートに肌で感じられるのも魅力のひとつと言えるところであり、第6番や第7番などはその最たる例で、極端なテンポ設定や荒削りでユニークなアプローチも際立っていた。

また、シリーズの大詰めの時期にあたる第5番と第9番では、同一プログラムを数多くこなしたのちに、周到な準備を経て収録に臨んだこともあり、完成度の高さでもゲルギエフがロンドン交響楽団のシェフに就任して以来、屈指の成果を示している。

ことに第9番は、ゲルギエフ&ロンドン交響楽団によるマーラーチクルスの中でも飛び抜けた内容を誇る名演と高く評価したい。

しかしながら、上記以外の各交響曲の演奏を顧みると、名演とイマイチの演奏が混在しており、玉石混交と言った状況にある。

これまで発売されたいずれの交響曲も、聴く前は、名演、駄演のどちらに転ぶかわからないといった予測が付かない不安があったが、総体としては、これまでの様々なマーラー演奏の中でもかなり上位にランキングできる素晴らしい名演集と評価してもいいのではないか。

ゲルギエフは、ここでは、チャイコフスキーやショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキーなどで垣間見せた野性味溢れるドラマティックなアプローチは薬にしたくもない。

むしろ、自我を極力抑えて、マーラーの音楽を精緻に美しく描き出していくことに専念しているように思われる。

もちろん、演奏に強弱の起伏がないわけではなく、トゥッティにおける金管楽器やティンパニなどの最強奏は圧巻の迫力を誇っているのだが、いわゆる踏み外しがいささかも感じられないのである。

これは、ゲルギエフが、テンポの変化を最小限に抑えているのに起因しているのかもしれない。

したがって、この演奏の場合、ドラマティックな要素は極めて少なく、むしろ、スケールの壮大さで勝負した感がある。

このようなアプローチは、本来的にはマーラーのような劇的な要素が支配的な交響曲の場合には相応しいとは言えない。

前述のような壮大なスケール感と精緻な美しさによって、マーラーに新鮮な魅力を見出すことに成功した点は評価せざるを得ないのではないかと考える。

マーラーに、ドラマティックな演奏を期待する聴き手、バーンスタインやテンシュテットなどの劇的な名演を好む聴き手からは、物足りないとの批判が寄せられることは十分に予測される。

音楽構成を大きく捉えて細部をよく彫琢し、かつメロディの美しさとリズムの躍動感を際立たせた演奏は抜群のバランス感覚を感じさせる。

筆者としては、マーラーに新しい光を当てた異色の名演として、高く評価したいと考えている。

SACDマルチチャンネルによる極上の高音質録音も、ゲルギエフの精緻なアプローチを鮮明に再現し得るものとして、大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 07:02コメント(0)マーラーゲルギエフ 

2023年03月19日


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チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによるブルックナーの交響曲集のSACD盤が発売された。

本セット盤には、ブルックナーの交響曲第4番、第6番、第7番、第8番が収められており、このうち第8番については、先般、アルトゥスレーベルから同一音源のシングルレイヤーによるSACD盤が発売されており、厳密に言うと、初SACD化は第4番、第6番、第7番の3曲ということになる。

もちろん、本セット盤はハイブリッドSACDであるし、ベルリンのスタジオにてDSDマスタリングが行われていることから、第8番についても、同じ音源によるSACDでも音質の性格はかなり異なるものとなっている。

因みに、EMIから発売されているこのコンビによる通常CD盤では、第4番が1年前の1988年のライヴ録音、第6番は同一音源、第7番は4年後の1994年のライヴ録音、第8番は3年後の1993年のライヴ録音であり、第7番及び第8番については来日時の本盤の演奏の方を高く評価する音楽評論家が多いことなどに鑑みれば、高音質SACD化がなされた本セット盤こそは、チェリビダッケによるブルックナーの交響曲選集の決定盤と言っても過言ではあるまい。

チェリビダッケは生前、自作を除いては自らの演奏のCD化(LP化)を一切禁じていた。

表向きは、実演をCD(LP)では表現し尽くすことができないというのがその理由であったとされるが、ベルリン・フィルの芸術監督に係るフルトヴェングラーの後継者争いで敗退したカラヤンに対する対抗意識も多分にあったのかもしれない。

それ故に、チェリビダッケの演奏を聴くことは実演以外には不可能になったことから、あまたの海賊盤が跋扈するとともに、その存在の神秘性が高まっていくことになった。

我が国にも来日し、その際の演奏がFMでも放送されたことから、一部に熱烈なチェリビダッケファンを生み出したのも記憶に新しいところであるが、殆どのクラシックファンにとっては縁遠い幻の指揮者的な存在であった。

もっとも、チェリビダッケの没後には、遺族の了解を得て、ミュンヘン・フィル(EMI、来日時の演奏についてはアルトゥスやソニー・クラシカルなど)や、さらにそれ以前のシュトゥットガルト放送交響楽団(DG)などとのライヴ録音が相当点数発売されることになり、一般のクラシック音楽ファンでもチェリビダッケの芸術を味わうことができるようになったところだ。

まさに、幻のベールを没後になって漸く脱いだのである。

チェリビダッケは、カラヤンをはじめ同業者への罵詈雑言を浴びせ続けていたが、これは罵詈雑言の対象となった指揮者のファンならずとも、決して気持ちのいいものではなく、このことが現在におけるチェリビダッケに対する評価が二分されている理由であると言えるのかもしれない。

チェリビダッケは、リハーサルにあたって徹底したチューニングを行ったが、これは、音に対する感覚が人一倍鋭かったということなのであろう。

楽曲のいかなるフレーズであっても、オーケストラが完璧に、そして整然と鳴り切ることを重視していた。

それ故に、それを実現するためには妥協を許さない断固たる姿勢で練習に臨むとともに、かなりの練習時間を要したことから、チェリビダッケについていけないオーケストラが続出したことは想像するに難くない。

そして、そのようなチェリビダッケを全面的に受け入れ、チェリビダッケとしても自分の理想とする音を創出してくれるオーケストラとして、その生涯の最後に辿りついたのがミュンヘン・フィルであった。

チェリビダッケの演奏は、かつてのフルトヴェングラーのように、楽曲の精神的な深みを徹底して追求しようというものではない。

むしろ、音というものの可能性を徹底して突き詰めたものであり、まさに音のドラマ。

これは、チェリビダッケが生涯にわたって嫌い抜いたカラヤンと基本的には変わらない。

ただ、カラヤンにとっては、作り出した音(カラヤンサウンド)はフレーズの一部分に過ぎず、1音1音に拘るのではなく、むしろ流麗なレガートによって楽曲全体が淀みなく流れていくのを重視していたが、チェリビダッケの場合は、音の1つ1つを徹底して鳴らし切ることによってこそ演奏全体が成り立つとの信念の下、音楽の流れよりは1つ1つの音を徹底して鳴らし切ることに強い拘りを見せた。

もっとも、これではオペラのような長大な楽曲を演奏するのは困難であるし、レパートリーも絞らざるを得ず、そして何よりもテンポが遅くなるのも必然であった。

したがって、チェリビダッケに向いた楽曲とそうでない楽曲があると言えるところであり、ブルックナーの交響曲についても、そうしたことが言えるのではないだろうか。

EMIから発売されている通常CD盤で言うと、第5番、第8番、第9番については、超スローテンポによる演奏は、間延びした曲想の進み方に違和感を感じずにはいられないところであり、熱狂的なチェリビダッケのファンはともかくとして、とても付いていけないと思う聴き手も多いと言えるのではないかと考えられる。

これに対して、第3番や第4番、第6番などは、その極大なスケールに圧倒されるところであり、チェリビダッケだけに可能な個性的な名演と評価し得るのではないかとも思われるところである。

もっとも、EMI盤では違和感を感じさせた第8番も、本セット盤に収められた演奏は、チェリビダッケがこよなく愛した日本でのコンサートのライヴ録音ということもあって、同じく超スローテンポであっても、演奏の密度の濃さもあって冗長さを感じさせないと言えるところであり、必ずしも筆者の好みの演奏ではないが、音のドラマとしては十分に合格点を与えることが可能な名演と評価し得るのではないかと考えられる。

これは、第7番についても同様のことが言えるところであり、これらのことを総合的に勘案すれば、本セット盤は、ブルックナーの交響曲に深い愛着を持ち続けたチェリビダッケがその晩年に到達し得た自らの指揮芸術の集大成とも言うべき名セット盤と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。

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classicalmusic at 23:01コメント(0)ブルックナーチェリビダッケ 

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マゼールが手兵バイエルン放送交響楽団とともに集中的に取り組んだブルックナーチクルスのコンサート記録である。

本全集が廉価で手に入ることも考慮に入れれば、後述のようにすべてを名演と評価するには躊躇せざるを得ないが、全体としては水準の高い演奏で構成された全集と評価してもいいのではないかと考える。

マゼール指揮によるブルックナーの交響曲と言えば、1974年に録音されたウィーン・フィルとの「第5」(英デッカ)、1988年に録音されたベルリン・フィルとの「第7」及び「第8」(ともにEMI)が念頭に浮かぶ。

「第5」については、マゼールが若さ故の力強い生命力と超絶的な才能を武器に、前衛的とも言えるような鋭いアプローチによる演奏を繰り広げていた1960年代のマゼールの芸風の残滓が随所に感じられるなど、ブルックナー演奏としてはやや異色の印象が拭えなかった。

他方、「第7」及び「第8」については素晴らしい名演で、特に、「第7」については、故小石忠男先生がレコード芸術誌において、「マゼールに一体何が起こったのか」とさえ言わしめたほどの成熟した超名演であった。

おそらくは、現在でも、この演奏を指揮者名を伏して聴いた多くの聴き手の中で、指揮者がマゼールと言い当てる者は殆どいないのではないか。

このような同曲演奏史上においても上位にランキングされる超名演が、現在では、国内盤は廃盤で、輸入盤でさえも入手難というのは大変残念な事態であると考えている。

録音当時はカラヤンの最晩年であり、ポストカラヤン争いの本命を自負していたマゼールと、カラヤンへの対抗意識も多分にあったと思う。

ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは鬼気迫る名演を繰り広げていたベルリン・フィルとの絶妙な組み合わせが、途轍もない超名演を生み出す原動力になったのではないかと考えられる。

「第8」も、「第7」ほどではないもののレベルの高い名演であり、仮にマゼールが、本人の希望どおりベルリン・フィルの芸術監督に就任していれば、ベルリン・フィルとの間で歴史的な名全集を作り上げた可能性も十分にあったと言える。

しかしながら、運命はマゼールに味方をしなかった。

芸術監督の選に漏れたマゼールは、衝撃のあまりベルリン・フィルとの決別を決意。

ドイツ国内での指揮さえも当初は拒否したが、その後数年で、バイエルン放送交響楽団の音楽監督に就任。

さらに、1999年になって漸くベルリン・フィルの指揮台にも復帰した。

要は、本全集は、マゼールが指揮者人生最大の挫折を克服し、漸くベルリン・フィルに復帰したのとほぼ同時期に録音がなされたということである。

本全集録音の数年前からは、ヴァントがベルリン・フィルとの間で、ブルックナーの交響曲の神がかり的な超名演の数々を繰り広げており、マゼールとしても、ベルリン・フィルとは和解はしたものの、かかる成功を相当に意識せざるを得なかったのではないかと考えられる。

そうしたマゼールのいささか屈折した思いが、文句がない名演がある反面で、一部の交響曲には、意欲が空回りした恣意的な解釈が散見されるというやや残念な結果に繋がっている。

文句のつけようがない名演は、「第0」「第1」「第2」の3曲であり、第3番以降になるとやや肩に力が入った力みが垣間見える。

特に、「第5」及び「第7」は、テンポを大幅に変化させるなど、いささか芝居がかった恣意的な表現が際立っており、前述した過去の演奏に遠く及ばない凡演に陥ってしまっているのは大変残念だ。

しかしながら、全集総体としては、水準の高い演奏が揃っており、破格の廉価盤であることを鑑みれば、十分に推薦に値するBOXであると考えられる。

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classicalmusic at 15:09コメント(0)ブルックナーマゼール 

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グレン・グールド没後20年/生誕70年を記念した3枚組メモリアル・アルバム。

彼の代表作である、1955年と1981年の「ゴルトベルク変奏曲」をカップリングし、さらにレアな音源(1955年の録音時のアウトテイク)を初CD化。

グールドの全く対照的な新旧2つのゴルトベルク変奏曲を1つのセットに収めた好企画盤。

1955年の「ゴルトベルク」は、24ビットリマスターで収録、1981年の「ゴルトベルク」のオリジナル盤はデジタル録音だが、今回は、並行して録音されていたアナログ・テープからのDSDマスタリングによるマスターを初めて使用。

そして、グールドと縁の深いティム・ペイジと「ゴルトベルク」について語った50分におよぶインタビュー・セッション(1982年録音、日本盤のみ完全日本語訳付)を収録。

グレン・グールドのレコーディング・デビュー作となる1955年の「ゴルトベルク変奏曲」は世界に旋風を巻きおこした。

確固たる現実的な音楽観、完璧な演奏技術、驚くべき透明感、的を得たリズムの変化、それに加え、ハミングしたりときには乱暴なまでにテンポを速める不思議な癖。

それらがグールドをたちまち伝説のピアニスト、まったく新しい手法によるバッハの音楽の解明者の地位に祭りあげた。

そして、それから26年後のグールドの最後のレコーディング作品もまた「ゴルトベルク変奏曲」だった。

こちらでは、さらにリラックスし、ときおり遅すぎるほどにテンポを落とし、より内面的に音楽を読みとり(けれども彼ならではの激しいアタックやアクセントは変わっていない)、変奏曲のうち15曲で前半部を反復している。

1955年作品と1981年作品はそれぞれ独自の手法をとっているが、どちらも素晴らしく、これら2つの演奏はどちらもクラシック音楽全体の中でも比類を絶して素晴らしいもののひとつに入る。

旧盤の繰り返しをすべて省いた一直線の快速の演奏、新盤のゆったりとしたテンポで、自らの人生を顧みるかのような味わいのある演奏。

いずれも優劣の付け難い永遠の超名演と言うべきであるが、それを1つのセットにまとめることによって両者の違いをより明確に聴き分けることが可能となったのも大いに評価に値する。

新盤では、繰り返しの実施の有無が各変奏曲によってバラバラで一貫性がないとの批判が一部にあるが、これは、グールドのバッハ解釈の究極の到達点を示すものとして、むしろ肯定的に解釈すべきではなかろうか。

このCD3枚組の新たな豪華ボックスセットは楽しく、聴く喜びにあふれ、音楽の真理があり、音楽を愛する者なら誰でもコレクションに加えるだろう。

ディスク3にはレコーディング・セッションのアウトテイクとおしゃべりが収録されている。

そのなかでグールドは即興で「God Save the King」を弾き、さらにそれを「The Star-Spangled Banner」へつないでいる。

また、評論家ティム・ペイジによるロング・インタビューはグールドの風変わりなユーモアと独特の音楽観に深い洞察を与えてくれる。

本作はまさに必携のコレクションである。

もちろん、グールドのバッハだけが、バッハ演奏の正当な解釈であると言うつもりは毛頭ないが、従来の古色蒼然たるバッハ解釈に新風を吹き込み、芸術性を損なうことなく、バッハの知られざる魅力を堪能させてくれたという意味では、グールドの功績は大と言わざるを得ないだろう。

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classicalmusic at 07:07コメント(0)バッハグールド 

2023年03月18日


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本盤は、ヴァイオリン奏者、アンネ=ゾフィー・ムターとピアニスト、ランバート・オーキスが1996年2月ミュンヘンのガスタイク・フィルハーモニーにおいて、3夜にわたって行われたリサイタルのライヴ・レコーディング盤で、ムター・モーツァルト・プロジェクト最後の1組となったものだ。

ピアノ三重奏曲集は物足りない演奏であったが、協奏曲全集と双璧の充実したソナタ全16曲の演奏。

かつてのベルリン・リサイタル盤のK.304やベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集での過渡的であまりにも作為的なテンポや音色造りは一掃されて、ここでの自然で確信に満ちた演奏は風格さえ漂い、ムターの持ち味である美しい音色とボウイングはもちろん素晴らしい。

ピアノのオーキスもロマン派以降の作品ではピアニストとしての魅力や音色に不満を感じるが、もともとフォルテピアノを得意とする人だけにここでは水を得た魚のようだ。

ムターの場合カラヤン時代とカラヤン以降の時代に分けられるが、本盤に収められた演奏に関しては1人の女性ヴァイオリニストとしての表現力に目覚めたムターの感受性の世界と言えよう。

かつては巨匠カラヤンの指導の下、10代でデビューしたムターは、カラヤン&ベルリン・フィルという土俵の上で懸命な演奏を行っていたところであるが、1989年にカラヤンが鬼籍に入った後の1990年代に入ってからはその素質や個性を大きく開花させ、個性的な演奏の数々を披露するようになったところである。

カラヤンから脱皮して1人のアーティストとしての饒舌な節回しがムターらしさになっており、こんなに心に響くモーツァルトの音はムターならである。

ムターのヴァイオリン演奏は、他の多くの女流ヴァイオリニストのように抒情的な繊細さや優美さで勝負するものではない。

一部の女流ヴァイオリニストによる演奏において聴かれるような線の細さなどはいささかも感じさせることはなく、常に骨太で明朗な音楽の構築に努めているようにも感じられるところだ。

もっとも、かような明朗さを旨とする演奏にはいささか陰影に乏しいと言えなくもないが、当時のムターの年齢を考えるとあまり贅沢は言えないのではないかとも考えられる。

本演奏においても、そうした骨太で明朗な音楽づくりは健在であり、加えて、心を込め抜いた熱きロマンティシズムや変幻自在のテンポの変化、思い切った強弱の付加など、自由奔放とも言うべき個性的な演奏を繰り広げている。

それでいて、お涙頂戴の感傷的な哀嘆調に陥ることは薬にしたくもなく、常に格調の高さをいささかも失うことがないのがムターのヴァイオリン演奏の最良の美質であり、これはムターの類稀なる豊かな音楽性の賜物であると考えられるところだ。

加えて、卓越した技量においても申し分がないところであるが、ムターの場合は巧さを感じさせることがなく、いわゆる技巧臭よりも音楽そのものの美しさのみが際立っているのが素晴らしい。

また、ライヴ録音ということもあって、各楽章の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出てくるような熱い生命力においてもいささかの不足はないところだ。

このようなムターによる卓越したヴァイオリン演奏の引き立て役として、オーキスによるピアノ演奏も理想的であると言えるところであり、いずれにしても本演奏は、ムターによる円熟の個性的なヴァイオリン演奏を味わうことが可能な素晴らしい名演と高く評価したい。

モーツァルトのヴァイオリン・ソナタの録音の中でも、グリュミオー盤、ゴールドベルク盤に次ぐ素晴らしい演奏と言えるだろう。

音質は1996年のライヴ録音ではあるが十分に満足できるものと評価したい。

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classicalmusic at 22:50コメント(0)モーツァルトムター 

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ワイセンベルクが1966年に復帰して約10年後、彼とカラヤンの絆が実を結んだ全盛期の頃の演奏。

リハーサルなしで録り上げた第4番をはじめ、すべての楽章、旋律、どれもが聴き応え充分な内容の1枚。

しかしながら、そもそもカラヤンが、協奏曲の指揮者として果たして模範的であったかどうかは議論の余地があるところだ。

カラヤンは、才能ある気鋭の若手奏者にいち早く着目して、何某かの協奏曲を録音するという試みを何度も行っているが、ピアニストで言えばワイセンベルク、ヴァイオリニストで言えばフェラスやムター以外には、その関係が長続きしたことは殆どなかったと言えるのではないだろうか。

ソリストを引き立てるというよりは、ソリストを自分流に教育しようという姿勢があったとも考えられるところであり、遺された協奏曲録音の殆どは、ソリストが目立つのではなく、全体にカラヤン色の濃い演奏になっているとさえ感じられる。

そのような帝王に敢えて逆らおうとしたポゴレリチが練習の際に衝突し、コンサートを前にキャンセルされたのは有名な話である。

本盤に収められた演奏も、どちらかと言えばカラヤン主導による演奏と言える。

カラヤンにとっては、当時蜜月関係のピアニストであったワイセンベルクをあたたかく包み込むような姿勢で演奏に臨んだのかもしれない。

特に、オーケストラのみの箇所においては、例によってカラヤンサウンドが満載。

鉄壁のアンサンブルを駆使しつつ、朗々と響きわたる金管楽器の咆哮や分厚い弦楽合奏、そしてティンパニの重量感溢れる轟きなど、これら両曲にはいささか重厚に過ぎるきらいもないわけではないが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功している。

カラヤンの代名詞でもある流麗なレガートも好調であり、音楽が自然体で滔々と流れていくのも素晴らしい。

ワイセンベルクのピアノも明朗で透明感溢れる美しい音色を出しており、詩情の豊かさにおいてもいささかの不足はなく、とりわけ両曲のカデンツァは秀逸な出来栄えであるが、オーケストラが鳴る箇所においては、どうしてもカラヤンペースになっているのは致し方がないと言えるところである。

それ故ワイセンベルクによるピアノ演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルの中の1つの楽器と化しており、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築の最も忠実な奉仕者であると言えるところであり、このような演奏では、ワイセンベルクのピアノは単なる脇役に過ぎない。

要は、いわゆるピアノ協奏曲ではなく、ピアノ付きの交響曲になっていると言える。

それ故に、カラヤンのファンを自認する高名な評論家でさえ、「仲が良い者どうしの気ままな演奏」(リチャード・オズボーン氏)などとの酷評を下しているほどだ。

しかしながら、筆者は、そこまでは不寛容ではなく、本演奏は、やはり全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルでないと成し得ないような異色の名演であると高く評価したい。

たとえば、第3番冒頭の、ピアノが入ってくるところの美しさなど絶品で、オーケストラもピアノもこんなに美しい演奏は、そうそうない。

いわゆるピアノ協奏曲に相応しい演奏とは言えないかもしれないが、少なくとも、ベートーヴェンの楽曲の演奏に相応しい力強さと重厚さを兼ね備えていると思われるからだ。

筆者としては本演奏を両曲のあらゆる演奏の中でも最もスケールが雄渾で、壮麗な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。

特に、ベートーヴェンの音楽に“精神”でなく“美”を求める人には、お薦めの1枚である。

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classicalmusic at 14:59コメント(0)ワイセンベルクカラヤン 

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白血病という不治の病を患い、49歳という若さでこの世を去らなければならなかった悲劇の指揮者フリッチャイであるが、米国において鉄壁のオーケストラトレーナーとして君臨した同じハンガリー人指揮者のライナーやセル、オーマンディ、そしてショルティなどとは一線を画するようなヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏を行っていた。

同じハンガリー人指揮者であったケルテスの海水浴中の不慮の死と同様に、そのあまりにも早すぎる死は、クラシック音楽界にとっても一大損失であった。

仮にもう少しフリッチャイが長生きをしていれば、世界の指揮者地図は大きく塗り替えられることになったのではないかとさえ思われるほどだ。

本盤に収められたチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、フリッチャイの死の4年前の演奏だ。

既に白血病を発症したフリッチャイが、懸命の闘病生活の中で演奏を行ったものである。

それだけに、本演奏にかけたフリッチャイの気迫と執念には並々ならぬものがあったことは容易に想像がつくところだ。

本演奏の中に気に入らない箇所(第1楽章の一部)があって、発売自体が録音から30年以上も遅れることになったが、これだけ完成度が高い演奏であるにもかかわらず、更に高みに達した演奏を志向したというところに、フリッチャイという指揮者の偉大さを痛感せざるを得ない。

本演奏においても、第1楽章の冒頭の序奏からしてただならぬ雰囲気が漂う。

あたかも、間近に迫る死を予見しているかのような不気味さを湛えているところであり、その後は、若干のテンポの変化を交えつつ、1音1音を心を込めて歌い抜き、彫りの深い演奏を展開しているところだ。

その尋常ならざる心の込め方は、時には慟哭にさえ聴こえるほどであり、あたかも忍び寄る死に対して必死で贖おうとするフリッチャイ自身を彷彿とさせるように思われてならない。

全体で50分程度を要するというゆったりとしたテンポによる演奏ではあるが、冗長さを感じさせず、演奏全体の造型もいささかも弛緩することがない。

そして、これだけ思い入れたっぷりの渾身の熱演を展開しているにもかかわらず、同曲の演奏において時として見られる陳腐なロマンティシズムに陥ることがなく、どこをとっても格調の高さを失っていないのが素晴らしい。

いずれにしても、本演奏は、フリッチャイによる遺言とも言うべき至高の超名演であり、同曲の他の指揮者による超名演であるムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる演奏(1960年)、カラヤン&ベルリン・フィルによる演奏(1971年)とともに三強の一角を占める超名演と高く評価したい。

音質については、モノラル録音が大半のフリッチャイの演奏の中では希少にして鮮明なステレオ録音であり、音質的には極めて恵まれていると言えよう。

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classicalmusic at 06:58コメント(2)チャイコフスキーフリッチャイ 

2023年03月17日


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アルバン・ベルク四重奏団は、1971年に第1ヴァイオリンのギュンター・ピヒラーをリーダーとして結成されたウィーンの団体で、ベルク未亡人の同意を得てこの名称を冠し、ベルクの作品でレコード・デビューを果たしたことは周知のとおり。

レヴェルの高いこのデビュー盤で、たちまちヨーロッパで一目置かれる存在となった。

ベルクにとどまらず、ウィーンとゆかりの深い作曲家の作品をレパートリーとして数々の録音を行なってきたが、このシューベルトの代表的弦楽四重奏曲2曲もそのひとつ。

これは、大変内容の充実したスケールの大きな演奏で、ウィーンの伝統に即しながら、新しい感覚で表現しているところが魅力だ。

アルバン・ベルク四重奏団は、モーツァルトやベートーヴェン、またブラームスなどのロマン派の作品、あるいはバルトークやベルク、ウェーベルンの曲にしても、かなり早い時期から独自の境地を開いており、年を経るごとに大きく変わってくるということがなかったように思われる。

そうした中でも、特にシューベルトの作品に対しては、決して構えた姿勢や力の入った表現ではとらえようとはせず、実にのびのびとした演奏を聴かせるが、それでいて、必要な内的緊迫感を見事に表現しているのが素晴らしい。

とりわけ《死と少女》は、彼らにとって決してルーティンなどになりえない、まさに唯一無二のかけがえのない世界だったようで、常に全力投球を惜しまなかった。

シューベルトの美しい旋律とハーモニーの陰に隠された恐ろしいまでの孤独と寂寥感をこのアルバン・ベルクSQの演奏は聴かせている。

第1ヴァイオリン奏者のピヒラーは、「シューベルトの音楽に表現された彼岸の世界ほど表現することが難しいものはない」とよく言っていた。

この《死と少女》の演奏は、その典型的な例と言えるところであり、これまでのウィーン流のたおやかなシューベルトのイメージを一蹴し、新風を吹き込んだ演奏である。

そのアンサンブルはきわめて緊密で、すこぶる明快、彫りの深い力感を重んじながら透明な響きで旋律をよく歌うと同時に、明晰で厳しくそして緻密にシューベルトの音楽の内面まで深く掘り下げて表現する。

したがって悲劇性と抒情性も含めてこの曲のさまざまな性格が迫真的に表現されている。

各声部の絶妙な語り口で暗いロマン的情熱を適度に引き出している第1楽章、深刻さよりも抒情性が優位に立っているような表現の第2楽章はひとつひとつの変奏もよく旋律の歌わせ方も見事である。

主部と中間部との際立った対比が巧みな第3楽章など、どこをとってみても彼ら独自の美しさが見事に表出していると思う。

この演奏には迸るような激しい情熱や異例なほどの緊張感に満ちた厳しさが溢れているだけに、その間を縫って明滅するように奏でられる抒情的な歌の彼岸の世界をくっきりと浮かび上がらせている。

シューベルトの音楽が、このように際立った鋭さと緊迫感をあらわにするのは、そう多くあることではない。

それでいて、音楽が硬直せず、洗練された情感をもっているのは、この団体の音楽性であろう。

カップリングされている《ロザムンデ》の演奏も聴き応えがあり、端正な造形で、この作品の歌と抒情とをすっきりとまとめあげていて、その爽やかさに惹かれる。

豊かな艶をもったピヒラーの第1ヴァイオリンを中心に、流麗に、そして強固に表現されたシューベルトだ。

特に第1楽章ではしなやかな歌も忘れておらず、動と静のコントラストを巧みに活用し、懐の深さを示している。

現代的な鋭利な感覚のなかに、この曲固有の優美な抒情性を無理なく共存させているところに、このSQの特色があると言えよう。

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classicalmusic at 22:54コメント(4)シューベルトアルバン・ベルクSQ 

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ブルックナーの交響曲第6番は、ポピュラリティを獲得している第4番や峻厳な壮麗さを誇る第5番、そして晩年の至高の名作である第7番〜第9番の間に挟まれており、知る人ぞ知る存在に甘んじていると言わざるを得ない。

楽曲自体は、極めて充実した書法で作曲がなされており、もっと人気が出てもいい名作であるとも考えられるところであるが、スケールの小ささがいささか災いしていると言えるのかもしれない。

いわゆるブルックナー指揮者と称される指揮者であっても、交響曲第3番〜第5番や第7番〜第9番はよくコンサートで採り上げるものの、第6番はあまり演奏しないということが多いとも言える。

このことは、前述のような作品の質の高さから言っても、極めて残念なことと言わざるを得ないところだ。

そのような中で、ヴァントは、この第6番を積極的に演奏してきた指揮者である。

ヴァントが遺した同曲の録音は、唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1976年)、そして、手兵北ドイツ放送交響楽団との2度にわたるライヴ録音(1988年と1995年(本盤))(DVD作品としては、翌年のライヴ録音(1996年)が別途存在している)、更には、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(1999年)の4つの録音が存在している。

これらはいずれ劣らぬ名演であると言えるが、この中でも最も優れた超名演は、ミュンヘン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。

もっとも、北ドイツ放送交響楽団との最後の録音となった本盤の演奏も、さすがにミュンヘン・フィルとの演奏のような至高の高みには達していないが、当該演奏の4年前の演奏ということもあって、十分に素晴らしい至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。

第1楽章など、金管を思いっきり力強く吹かせているが、決して無機的には陥ることなく、アルプスの高峰を思わせるような実に雄大なスケールを感じさせる。

それでいて、木管楽器のいじらしい絡み合いなど、北欧を吹く清涼感あふれる一陣のそよ風のようであり、音楽の流れはどこまでも自然体だ。

第2楽章は、とある影響力の大きい某音楽評論家が彼岸の音楽と評しておられたが、本盤の演奏こそがまさに彼岸の音楽である。

前述のようにミュンヘン・フィルとの演奏ほどの至高の高みには達していないものの、ヴァントとしても、最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地をあらわしていると言えるのではないだろうか。

第6番は、第3楽章や第4楽章のスケールが小さいと言われるが、ヴァントの演奏を聴くと必ずしもそうとは思えない。

終楽章など、実に剛毅にして風格のある雄大な演奏であり、特に、第2楽章の主題が回帰する箇所のこの世のものとは思えないような美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

ヴァントは、2002年にベルリン・フィルと同曲を演奏する予定だったとのことであるが、その死によって果たせなかった。

本盤の演奏やミュンヘン・フィルとの超名演を超えるような名演を成し遂げることも十分に想定出来ただけに残念という他はないところだ。

音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。

音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。

いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。

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classicalmusic at 14:56コメント(2)ブルックナーヴァント 

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アバドは、私見であるが、これまでの様々な名指揮者の中でも、最高の協奏曲指揮者と言えるのではなかろうか。

ベルリン・フィルの芸術監督に就任する前には、ロンドン交響楽団とともに圧倒的な名演奏を成し遂げていた気鋭の指揮者であったアバド。

そのアバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始するようになってしまった。

カラヤン時代に、力の限り豪演を繰り広げてきたベルリン・フィルも、前任者と正反対のアバドの民主的な手法には好感を覚えたであろうが、演奏については、大半の奏者が各楽器セクションのバランスを重視するアバドのやり方に戸惑いと欲求不満を感じたのではないか。

それでも協奏曲の演奏に限ってみれば、ベルリン・フィルの芸術監督就任以前と寸分も変わらぬ名演を成し遂げていたと言える。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番におけるアルゲリッチとの競演(1994年)、そして、レコード・アカデミー賞を受賞したブラームスのピアノ協奏曲第2番におけるブレンデルとの競演(1991年)など、それぞれの各楽曲におけるトップの座を争う名演の指揮者は、このアバドなのである。

本盤に収められた日本を代表するヴァイオリニストである五嶋みどりと組んで録音を行ったチャイコフスキーとショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲についても、こうした名演に系譜に連なるものとして高く評価したいと考える。

協奏曲の演奏に際してのアバドの基本的アプローチは、ソリストの演奏の引き立て役に徹するというものである。

本演奏においても御多分にも漏れないが、オーケストラのみの演奏箇所においては、アバドならでは歌謡性豊かな情感に満ち溢れており、格調の高さも相俟った美しさは、抗し難い魅力に満ち溢れている。

ここぞという時の力感溢れる演奏は、同時期のアバドによる交響曲の演奏には聴くことができないような生命力に満ち溢れており、これぞ協奏曲演奏の理想像の具現化と評しても過言ではあるまい。

チャイコフスキーやショスタコーヴィチの協奏曲に特有のロシア風のメランコリックな抒情を強調した演奏にはなっておらず、両曲にロシア風の民族色豊かな味わいを求める聴き手にはいささか物足りなさを感じさせるきらいもないわけではない。

五嶋みどりのヴァイオリン演奏の素晴らしさ、両曲の持つ根源的な美しさを見事に描出し得たといういわゆる音楽の完成度という意味においては、まさに非の打ちどころのない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。

五嶋みどりのヴァイオリンについては、もちろん技量においても何ら問題はないが、巧さを感じさせないところが素晴らしい。

要は、楽曲の美しさだけが聴き手に伝わってくるような演奏を心掛けていると言えるところであり、加えて、畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が演奏全体に漲っているのが素晴らしい。

実演ということも多分にあるとは思うが、五嶋みどりの体当たりとも言うべき渾身の、そして楽曲の美しさを際立たせた演奏は、我々聴き手の感動を誘うのに十分であり、このような力強い名演奏を聴いていると、あらためて五嶋みどりの卓越した才能を感じることが可能だ。

一部の女流ヴァイオリニストにありがちな線の細さなどは微塵もなく、どこをとっても骨太のしっかりとした構えの大きい音楽が鳴り切っているのが見事である。

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classicalmusic at 06:51コメント(0)チャイコフスキーショスタコーヴィチ 

2023年03月16日


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アバドの指揮する独墺系の作曲家による楽曲については、そのすべてが名演とされているわけではないが、その中で、メンデルスゾーンについては、既に録音された演奏のすべてが名演との評価を得ている数少ない作曲家である。

本盤には、アバドが1980年代にロンドン交響楽団とともに録音(1984、1985年)したメンデルスゾーンの交響曲全集が収められている。

どの曲も、ロマン派ながらバッハに傾倒してもいたメンデルスゾーンにふさわしい、ロマン的な抒情性と端正な造形を兼ね備えた演奏で、第一級の全集と言って良いだろう。

アバドは、本演奏の約20年前の1967年にも、ロンドン交響楽団とともに交響曲第3番及び第4番を録音(英デッカ)している。

それも当時気鋭の指揮者として人気上昇中であった若きアバドによる快演であったが、本演奏の方が円熟味など様々な点からしてもより素晴らしい名演と言えるだろう。

また、アバドは1995年にも、ベルリン・フィルとともに交響曲第4番をライヴ録音(ソニークラシカル)しており、それは実演ならではの熱気溢れる豪演に仕上がっていることから、第4番に限っては、1995年盤の方をより上位に置きたいと考える。

それはさておき本演奏についてであるが、本演奏の当時のアバドは最も輝いていた時期である。

ベルリン・フィルの芸術監督就任後は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するアバドではあるが、この時期(1970年代後半から1980年代にかけて)に、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団、そしてウィーン・フィルなどと行った演奏には、音楽をひたすら前に進めていこうとする強靭な気迫と圧倒的な生命力、そして持ち前の豊かな歌謡性が融合した比類のない名演が数多く存在していたと言える。

本盤の演奏においてもそれは健在であり、どこをとっても畳み掛けていくような気迫と力強い生命力に満ち溢れているとともに、メンデルスゾーン一流の美しい旋律の数々を徹底して情感豊かに歌い抜いていると言えるところであり、その瑞々しいまでの美しさには抗し難い魅力に満ち溢れている。

重厚さにはいささか欠けているきらいがないわけではないが、これだけ楽曲の美しさを堪能させてくれれば文句は言えまい。

アバドは欧米のオーケストラにイタリア的な新風を吹き込んだ指揮者であることは誰しも認めるところだが、それは先輩ジュリーニの孤高の至芸に比べれば更に徹底したものだった。

この傾向は図らずもムーティによって受け継がれることになるが、そのテクニックには先ずオーケストラからの音のベクトルの転換というストラテジーがある。

端的に言えば、伝統的なオーケストラには特有の個性や芸風が培われていて、それが長所にも、また場合によっては枷にもなるわけだが、その枷の部分を取り払うことによってオーケストラを一度解放し、楽員の自発性を発揮させながら新たに全体をまとめていくというのがアバドの手法だ。

特にメンデルスゾーンのように天性の平明さを持った屈託の無い音楽には理詰めの厚化粧は禁物で、むしろ風通しの良いフレッシュな感性と開放感の表出がより適しているだろう。

そうした意味でこのメンデルスゾーンの交響曲全集では彼らによって最良の効果が発揮されているように思う。

少なくともオーケストラの自主性がよく表れた演奏で、ロンドン交響楽団の音色もアバドの指揮の下では何時になく明るく軽快になっているのも偶然ではないだろう。

しかも彼らが伝統的に持っている凛とした気品は少しも失われていない。

いずれにしても、本盤の演奏は、アバドが指揮した独墺系の音楽の演奏の中では最高峰の1つに位置づけられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

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classicalmusic at 23:03コメント(0)メンデルスゾーンアバド 

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現在、最も積極的にレコーディングに取り組んでいるパーヴォ・ヤルヴィであるが、楽曲によってオーケストラを巧みに使い分けているのが特色である。

その中でも、独墺系の作曲家による楽曲の演奏に際しては、原則としてフランクフルト放送交響楽団を起用することにしているようであり、ブルックナーの交響曲についても例外ではないと言えるところだ。

パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団によるブルックナーの交響曲の演奏に関しては、既に第5番、第7番、第9番が発売されているが、本盤に収められた第4番は第4弾となるものであり、待望の新盤と言えるものだ。

本盤においても、インバル時代の息吹を取り戻した名門オケの底力を示す、新時代のブルックナー解釈を打ち出している。

本演奏におけるパーヴォ・ヤルヴィによるアプローチは、第7番、第9番の演奏ように中庸のテンポをベースとして、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものとは少し様相が異なっている。

何か特別な個性を発揮して、奇を衒った解釈を施すなどということがないという点においては共通しているが、むしろ、第5番の演奏のように、テンポはやや速めで、楽章毎のテンポの緩急を際立たせている点も特徴的である。

1990年代に入って一般化したブルックナーの交響曲の演奏様式の王道を行くオーソドックスな演奏とは異なった演奏とも言えるところだ。

もっとも、各楽器セクションのバランスの良い鳴らし方には出色のものがあり、いかなるトゥッティに差し掛かっても無機的な響きを出すということはなく、常に壮麗で懐の深い音色に満たされているのが素晴らしい。

また、緩徐楽章における旋律の数々もやや速めのテンポをとることによって、陳腐なロマンティシズムに陥ることを極力避けており、それでいて、どこをとっても格調の高さを失うことがないのが見事である。

ブルックナーの交響曲第4番のこれまでの名演としては、古くはヨッフム、そしてヴァントや朝比奈によって圧倒的な名演が成し遂げられてきており、これら大指揮者の深みのある演奏と比較して本演奏を云々するのは容易なことである。

しかしながら、必ずしもブルックナー指揮者とは言い難いパーヴォ・ヤルヴィが、同曲の曲想を丁寧に紐解き、これだけの見事な演奏を成し遂げたことにむしろ思いを致すべきである。

筆者としては、同曲の魅力を十二分に満喫することができるという意味において、素晴らしい名演と高く評価したいと考える。

経験を積んだ老齢の指揮者のみが名演を成し遂げるというイメージがあるブルックナーの交響曲であるが、そのイメージを覆さんばかりの勢いと鮮度を持つパーヴォ・ヤルヴィの演奏は、これまでの3作でも実証済みであり、聴き尽くされた交響曲が圧倒的な鮮度で蘇るさまは、まさにパーヴォならではと言えよう。

そして、本盤でさらに素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。

以前のチクルスでもそうであったが、パーヴォ・ヤルヴィによるアプローチが極上の高音質録音によって鮮明に再現されているのが見事であり、そうした音質の鮮明さといい、音圧の力強さといい、そして音場の拡がりといい、まさに申し分のないものであると考えられる。

いずれにしても、パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団による素晴らしい名演を、現在望み得る最高の鮮明な高音質SACDで味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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classicalmusic at 15:01コメント(0)ブルックナーヤルヴィ 

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まずは、モーツァルトの4大オペラがクレンペラーの名指揮の下で廉価で聴けるのを大いに歓迎したい。

「フィガロの結婚」は、異様なまでにテンポの遅い重厚な演奏だが、クレンペラーの巨大な視野に支えられた独自のバランスが保たれ、見事なまとまりを示している。

ここには愉悦の姿はないし、遅いテンポに適合できない歌唱も見受けられるが、それでも損なわれないだけの風格によって、クレンペラー晩年の芸術特有の味わいが立ち昇ってくるのである。

歌手ではグリストの名唱を筆頭にエヴァンスとバキエが印象的である。

「ドン・ジョヴァンニ」は、徹底的に19世紀ロマン主義の伝統を継承した演奏で、デモーニッシュなドラマとしての側面を強調する。

歌手もクレンペラーの意図を反映して、ギャウロフは豪胆で骨太、暴力的とさえいえるドン・ジョヴァンニを歌い、ベリーのレポレロには重厚さが目立つ。

ルートヴィヒ、クラス、ゲッダも責任を見事に果たしている。

この曲の最もスケール雄大なデモーニッシュな演奏として、独自の存在を主張するものだ。

「コジ・ファン・トゥッテ」は、通常の概念とは大きく離れてはいるものの、モーツァルトの音楽の粋からは決して逸脱していない、クレンペラーの作り出した全くユニークなドラマの世界が、ここに厳然とした姿で存在する。

世紀の巨匠の巨大な音楽的俯瞰力に支えられた縮縮尺に、聴き手の耳が慣れた時から、この演奏は独特の魅力と魔力を放ち始める。

歌手陣もその音楽の枠に見事に呼応しつつも、大いに自己主張することに成功している。

「魔笛」は、台詞をすべて省略した演奏だが、それはクレンペラーが絶対音楽としての純潔を志向していることを物語っている。

この剛直できびしい表現が「魔笛」のすべてではないが、そこに豊かで生き生きとした血と肉を与えたのは、充実したキャストによる見事な歌で、ひとつの完成した世界を生み出している。

クレンペラーの遺したモーツァルト・オペラの全曲盤の中では最も優れた傾聴に値する名演である。

クレンペラーの演奏は、全体的に動的というより静的で、でも細部の隈取がクリアで、いつも巨大なあざやかな壁画を眺めているような印象を受ける(実演は必ずしもそうでなかったようであるが)。

それが、やや色彩的にどぎつい後期ロマン派では、下手な演奏では下品になる所が、テンポの動きはあまりないけれど、全体としてスケールの大きい格調の高い、彫りの深い演奏となって実現する。

この音楽の傾向は、モーツァルトのオペラの中にあっては、「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」で特徴的に見事な表現となって現れる一方、「フィガロの結婚」では、序曲とか、ケルビーノの試着の場とか、何というかもう少し、浮き立つようなエラン(活気)のようなものがあってもいいのではないかと思わないでもない。

ただ同じ傾向の作品である「コジ・ファン・トゥッテ」は、そうでもないところが面白い。

ただ多少の相違はあっても全体としてクレンペラーのスタイルは一貫していて、それを味わうセットと判断すべきであろう。

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classicalmusic at 07:04コメント(0)モーツァルトクレンペラー 

2023年03月15日


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底知れぬヴァイタリティとカリスマ性を持ち合わせるワレリー・ゲルギエフが、名門ウィーン・フィルを指揮した迫真のライヴ録音の『展覧会の絵』に加え、ムソルグスキーの名作3曲をカップリングした素晴らしい高音質UHQ-CD/MQAの登場だ。

本演奏は、レコード・アカデミー賞を受賞した名演であるだけに、初出のCDからして、ゴールドディスクとして高音質化への取り組みがなされていた。

今般のUHQ-CD/MQA盤の臨場感溢れる音場の幅広さは、極上の高音質CDである。

特に、『展覧会の絵』は、ラヴェルの華麗なオーケストレーションが味わえる作品だけに、今回の高音質盤は、最大限の威力を発揮する。

全体としてきわめて鮮明であるのだが、特に、トゥッティの箇所における金管も木管も、そしてそれを支える弦楽も、見事に分離して聴こえるというのは殆ど驚異ですらある。

それは、併録の『はげ山の一夜』にも言えるが、特に、『ホヴァンシチナ』前奏曲の冒頭の霧のような立ちあがりは、本盤だけが再現し得る至高・至純の繊細さと言えるだろう。

ゴパック(歌劇『ソロチンスクの市』から)におけるオーケストラの自由闊達な動きも、完璧に捉えきっているのが素晴らしい。

演奏は、前述のように、平成14年度のレコード・アカデミー賞を受賞した定評ある超名演。

ゲルギエフの濃厚で強いエネルギーでもって、激しいところは圧倒的な響きが印象的であるが、演奏しているのはウィーン・フィルということで、優しい響きのメロディーやピアニッシモのところは鳥肌が立つほど美しく、両者の特徴が上手くかみ合っている。

ゲルギエフは『展覧会の絵』を夢中になって見て回るが、そこではラヴェルの洗練されたオーケストレーション以上に作曲家ムソルグスキー生来の感性が強調されている。

指揮者はこれを実現するため、ウィーン・フィルの金管楽器奏者たちを叱咤激励し、とくに「カタコンブ」における壮大なコラール風のスタイルから曲の最後を締めくくる「キエフの大門」の圧倒的なクライマックスまで、彼らの特徴である朗々とした響きを思いきり出させている。

しかしながら、この指揮者によるルバート奏法は何箇所か、純粋に感じ取られたというよりもなにか継ぎ足されているような感じがする。

たとえば「テュイルリー」における主席クラリネットのリタルダンドや、「古城」の基本拍子を滞らせるフレージング過剰の弦楽器のレガートがそうである。

フィリップスの広がりのある音響工学はコンサート・ホールの雰囲気をよく伝えているが(これはライヴ・レコーディングなのである)、ダイナミックなインパクトと鮮やかな細部に欠けている。

フリッツ・ライナー盤やジョージ・セル盤がいまだ聴くときの基準になっているのだ。

その結果、『はげ山の一夜』の渦を巻くような勢いも拡散して響き、劇的にも平板である。

ただ、歌劇『ホヴァンシチナ』前奏曲とゴパック(歌劇『ソロチンスクの市』から)は気持ちのいい演奏で、よきつなぎ役となっている。

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classicalmusic at 23:02コメント(2)ムソルグスキーゲルギエフ 

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インバルがかつての手兵であるフランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)は、インバル&フランクフルト放送交響楽団の実力を世に知らしめるとともに、インバルの名声を確固たるものとした不朽の名全集である。

それどころか、録音から30年以上が経過した今日においても、あまたのマーラーの交響曲全集の中でも上位を占める素晴らしい名全集と高く評価したい。

インバルのマーラーに対する評価については百家争鳴の感があるが、こんなに深くスコアを読み、練習を重ね、見事な演奏をしたマーラーは少ない。

それは、指揮者が小粒になった今日において、それだけインバルの存在感が増した証左であるとも考えられる。

インバルのマーラーは、近年の東京都響やチェコ・フィルとの一連のライヴ録音では随分と変容しつつあるが、全集を構成する本盤に収められた交響曲第8番の演奏においては一聴すると冷静で自己抑制的なアプローチであるとも言える。

したがって、演奏全体の装いは、バーンスタインやテンシュテットなどによる劇場型の演奏とは対極にあるものと言えるだろう。

しかしながら、インバルは、とりわけ近年の実演においても聴くことが可能であるが、元来は灼熱のように燃え上がるような情熱を抱いた熱い演奏を繰り広げる指揮者なのである。

ただ、本演奏のようなスタジオ録音を行うに際しては、極力自我を抑制し、可能な限り整然とした完全無欠の演奏を成し遂げるべく全力を傾注している。

マーラーがスコアに記した様々な指示を可能な限り音化し、作品本来の複雑な情感や構造を明瞭に、そして整然と表現した完全無欠の演奏、これが本演奏におけるインバルの基本的なアプローチと言えるであろう。

しかしながら、かかる完全無欠な演奏を目指す過程において、どうしても抑制し切れない自我や熱き情熱の迸りが随所から滲み出している。

それが各演奏が四角四面に陥ったり、血も涙もない演奏に陥ったりすることを回避し、完全無欠な演奏でありつつも、豊かな情感や味わい深さをいささかも失っていないと言えるところであり、これを持って本盤におけるインバルによる演奏を感動的なものにしていると言えるところだ。

前述のように、インバルによる本演奏に対する見方は様々であると思われるが、筆者としてはそのように考えているところであり、インバルの基本的なアプローチが完全無欠の演奏を目指したものであるが故に、現時点においてもなお、本盤に収められた交響曲第8番の演奏が普遍的な価値を失わないのではないかと考えている。

このようなアプローチが、曲によってはやや物足りない印象を与えることがあるが、今回UHQCD化された「第8」については、曲の性格にもよるのだろうが、インバルのアプローチとの抜群の相性の良さを感じる。

インバルは、厳格なスコアリーディングによる相当に緻密で彫琢の限りを尽くした演奏を繰り広げており、インバルの圧倒的な統率力の下、独唱陣や合唱団も実にうまい。

これらのスケール雄大で圧倒的な名演を、ワンポイント録音が完璧に捉え切っている様は、驚異と言うほかはない。

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classicalmusic at 14:53コメント(2)マーラーインバル 
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classicalmusic

早稲田大学文学部哲学科卒業。元早大フルトヴェングラー研究会幹事長。幹事長時代サークルを大学公認サークルに昇格させた。クラシック音楽CD保有数は数えきれないほど。いわゆる名曲名盤はほとんど所有。秘蔵ディスク、正規のCDから得られぬ一期一会的海賊盤なども多数保有。毎日造詣を深めることに腐心し、このブログを通じていかにクラシック音楽の真髄を多くの方々に広めてゆくかということに使命を感じて活動中。

よろしくお願いします(__)
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