2023年04月
2023年04月30日
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1953年は、本来の《トリスタン》担当カラヤンがヴィーラントと対立しバイロイトを永久に去り、クナも降板、と再開3年目にして早くも戦後バイロイトの内部抗争が表面化した波乱のシーズンだった。
そんな危機感が影響してか、どのプログラムも気合の入った名演揃いの当たり年で、コレクターならずとも、いずれも聴き逃せない旨みタップリのラインナップ。
翌54年5月のウィーン・フィルのメキシコ・ツアー中に急死し再登壇を果たせなかったクレメンス・クラウス[《リング》第2ツィクルス、《パルジファル》]、カイルベルト[《リング》第1ツィクルス、《ローエングリン》]、そして本盤のヨッフム[同年は《トリスタン》のみ]と、いずれも特A級音源。
黄金時代のタレント揃いのパワフルな歌手陣も壮観。
本盤のヨッフムは、轟然と畳み掛け押し捲るわけではなく自然な推進力でドラマに生気を漲らせる。
加速減速に作為が無く歌手をタップリと歌わせエレガントでさえある。
「サポートに気を配りつつツボではオケを炸裂させる手練れのオペラ職人の本領発揮」といったところ。
ベルリン・スタジオ録音のヘーガー、前任のカラヤン、後任のベーム、クライバー、ホルスト・シュタインの、歌手・オケ渾然一体、火の玉が驀進する、そういう高精度で壮絶な爆発的名演のグレードではないのだけれど、もっとストレートにオペラティックな音楽で、往時ならではの勢いのあるスタイル。
それでいて、今の感覚で聴いても大時代的なカビ臭さを微塵も漂わせていないところが、さすがヨッフムで、歌心を自然体で表現し高みに昇って行くさまは正に後年のブルックナーの名演と同様だ。
《トリスタン》の評価として適切でないかも知れないが、愛聴盤足り得る聴き疲れしない愉しい快演である。
ヴィーラント演出のこの《トリスタン》のプロダクションは1952-53の僅か2シーズンで打ち切りとなり、結局ヨッフムも1971-73の《パルジファル》で復帰するまで翌54年の《タンホイザー》《ローエングリン》だけでバイロイトを去ってしまったのは何とも悔やまれる。
何より本盤の一番の聴き所は、メトでも組むことが多かったヴィナイ/ヴァルナイの超弩級コンビ。
唯一無二の超重量ヴォイス、ラモン・ヴィナイの暗鬱な表現力と粘り腰のノーブルな響きは他に代え難い。
〈オテロ〉でも成功を収めたパワフルな声のみならず、エロール・フリンばりの精悍なツラ構えと演技力も考えれば、ヴィナイこそ戦後最もユニークで魅力的なロブスト型ヘルデン・テノールだったと思わずにはいられない。
ヴィナイの《トリスタン》は他にも遺されているが、音質等々も勘案して、本盤を推したい。
前年52年バイロイト・ライヴは、70年代より段違いに劇的で凄まじい若いカラヤンが必聴なのは当然としても、ヴィナイを含め歌手陣に若干問題がある。
ロングキャリアを誇ったヴァルナイのパワーとスタミナ、トップの輝きも負けず劣らず素晴らしい。
例えば、磐石の安定感に裏打ちされたスティール・ヴォイスが美しいヴァルナイの悠然たる歌唱は大きな悦びをもたらしてくれる。
第1幕の緊迫感こそ、50年代バイロイトで併用されることの多かったライヴァルのマルタ・メードルの傑出した表現力に譲るものの、一方で、『愛の死』の官能性では断然ヴァルナイが上。
クルヴェナールも歌っていたナイトリンガーは前年のホッターを大きく凌駕し、ヴェーバーの感情を大爆発させるマルケ王も存在感十分。
マラニウクのブランゲーネは同時代最良、ユージン・トービンの美声も聴き物、若き日のシュトルツェ、テオ・アダムも端役で参加…と歌手陣は本当に充実している。
心理描写は歌手の解釈と力量に委ねるヨッフムの古き佳き「流れ重視」のサポートと相俟って偉大な声の饗宴を存分に楽しめる。
歌手の実力も層も分厚い黄金時代ならではの、ワグネリアンにとって至福のライヴ音源である。
音質は中の上で、僅かにこもり管がややデッドという以外は非常にクリアで相当聴き易い。
マスターによって差があるかもしれないが、少なくともカラヤンの前年52年バイロイト《トリスタン》より良好だ。
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本作は、イタリア・バロックを中心に録音を行ってきたイル・ジャルディーノ・アルモニコが、バッハの名曲に挑戦したアルバムで、躍動感あふれるバッハ作品が堪能できる1枚。
ジョヴァンニ・アントニーニ率いるイル・ジャルディーノ・アルモニコが手掛けたバッハの『ブランデンブルク協奏曲』全曲集で、ごく最近復活したリイシュー盤になる。
録音は1996年から翌97年にかけてスイスのルガーノで行われ、ソロ楽器のエクストラを含めるとメンバーは総勢24名の大所帯だが、現在ソリストとしての活動が目覚しいバロック・ヴァイオリニストのエンリーコ・オノーフリもヴィオリーノ・ピッコロ、ヴァイオリン、ヴィオラで、また指揮者アントニーニ自身もリコーダーとトラヴェルソを演奏して八面六臂の活躍をしている。
『ブランデンブルク協奏曲』も今やピリオド・アンサンブルによる演奏が主流になってその選択肢も多いが、彼らの解釈は昨年リリースされたカルミニョーラのソロによるバッハのヴァイオリン協奏曲集に通じる開放的でドラマティックなイタリア趣味に支配されている。
ただ筆者自身は彼らの他の演奏から想像されるようなもっとラディカルなものを期待していたためか、いつものような新奇さはそれほど感じられなかった。
確かにバッハの場合、彼らが得意とする自在なテンポ設定や即興的な要素がある程度制限されてしまうのかも知れない。
ピリオド楽器の中でも管楽器はその個性的な音色に魅力がある。
第1番はナチュラル・ホルンの野趣豊かな響きを全面に出した音響を堪能できるし、第2番では以前使われていた小型のトランペットではなく、ヒストリカル楽器が使用されていて、音色もマイルドで他の楽器、例えばリコーダーやヴァイオリンなどを圧倒しない奥ゆかしさがある。
第3番の第2楽章でバッハはふたつの和音しか書き込まなかったが、オノーフリが短い即興的なヴァイオリンのカデンツァを挿入している。
また第5番では第2楽章のヴァイオリン、トラヴェルソとチェンバロの可憐な対話が美しいし、第6番では通奏低音としてチェンバロの他にリュートを加えて一層親密で和やかな雰囲気を醸し出している。
イル・ジャルディーノ・アルモニコは1985年にミラノで結成されたピリオド・アンサンブルで、若手奏者を中心に当時アーノンクール、レオンハルトやピノックの下で研鑽を積んだ経験者が参加している。
指揮者アントニーニ自身もまたレオンハルトと演奏活動を行っていたひとりだ。
テルデックの歴史的古楽レーベル、ダス・アルテ・ヴェルクから代表的なセッションがリリースされているが、最近ではチェチリア・バルトリやレージネヴァなどのアリア集の伴奏でも健在なところを見せているのが興味深い。
メンバーのそれぞれが由緒ある古楽器やそのコピーを使った古色蒼然としたサウンドに現代感覚を活かして解釈する斬新な表現に魅力がある。
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惜しまれて亡くなったクラウディオ・アバドと、彼と長きに亘って親密なパートナー・シップを続けて名演を残したマルタ・アルゲリッチとの協奏曲集5枚組セット。
デビュー当時から名録音を生み出してきたアルゲリッチ&アバドによる、どれもが作品の核心を鋭く抉る永遠の名演集。
5枚とも現行で個別に入手できるが、プライス・ダウンされているので新規に購入したい方にとっては朗報に違いない。
筆者は本セットに収められた全てのディスクを既に購入しており、ショパン、リスト、チャイコフスキー、ラヴェルの演奏については本ブログでレビューを投稿済みである(それ故本セットを購入しているわけではないことを予めお断りしておきたい)。
データを見ると、初出時にカップリングされていた協奏曲以外の曲目は今回除外されている。
尚後半の3枚は総てライヴ録音になるが、音質はいずれも極めて良好。
彼らのコラボの始まりを飾っているのがプロコフィエフで、両者が得意にしていた20世紀の作品の演奏として流石に隙のない鮮やかな手腕を見せている。
ショパン、リスト、そしてチャイコフスキーと続くレパートリーではスピリットに突き動かされて疾駆するアルゲリッチを、しなやかで緻密なオーケストレーションでフォローし、充分に歌わせることも忘れないアバドの十全な采配が秀逸だ。
一方ラヴェルはベルリン・フィル及びロンドン交響楽団との2種類の音源が入っていて、古い方はより新古典主義的な整然とした形式美を感知させている。
一方、新盤では彼女がファンタジーの翼を広げてラヴェルの妖艶な魅力を醸し出している。
ベートーヴェンでは第3番がいくらかロマンティックになり過ぎる傾向があって、作品の構造美の表現が二の次になっているのは否めないだろう。
室内楽はともかくとして、彼女がベートーヴェンのソナタに取り組まない理由はそのあたりにあるのかも知れない。
モーツァルトに関してはアバドはこの2曲を過去にグルダやゼルキンとも協演しているし、第20番ではピリスとの新しいレコーディングが話題を呼んだ、彼にとっては経験豊かなレパートリーだったが、奇しくもアルゲリッチとの演奏が最後になってしまった。
どちらも彼女のメリハリを効かせたソロが清冽で、いまだに衰えない才気煥発な奏法が印象的だ。
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2023年04月29日
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オイストラフ51歳の時のセッションで、彼の最も脂ののっていた頃の録音だけあって、すこぶる彫りが深く、彼の円熟期の特徴でもある、あらゆる面において万全なバランスを保った演奏が秀逸。
チャイコフスキーはロシア的情感を濃厚に表出した秀演で、中庸の美とも言うべき安定感と音色の美しさが堪能できるし、スケールも大きく、訴えかける力も強い。
また、第3楽章アレグロ・ヴィヴァーチッシモでの決して音楽性を失うことのないパワフルな俊敏さも流石だ。
一方シベリウスはオイストラフならではの気迫を感じさせるが、感情移入に凝り過ぎないしっかりした構成力と鮮やかな技巧で、より普遍的で堂々たる音楽の美しさを聴かせてくれる。
また、伴奏のうまさも特筆すべきものであり、オーマンディ率いるフィラデルフィア管弦楽団の明るくスペクタクルな音響は、ソロと意外なほど相性が良く十全な協演をしている。
ここに収められた2曲に共通していることは、ロマンティックな抒情に流されることなく、理知的で懐の深い解釈を磨きぬかれたテクニックと艶やかな音色で奏でていることだろう。
オイストラフはこれ見よがしの安っぽいテクニックを嫌って、アンコールにおいてさえ聴衆のご機嫌を取るような技巧的な曲を全く弾かなかった。
それがオイストラフの美学でもあり、言ってみれば玄人受けするヴァイオリニストだった。
しかしオイストラフの演奏は、他の多くのソリストがまだロマン派的な奏法を引きずって互いに個性を競っていた時代にあって、恣意的な表現を抑え、作品をよりストレートに再現することを心掛けた新しい解釈において常に模範的であり、そうした意味でこのCDは入門者のファースト・チョイスとしてもお薦めできる。
どちらも1959年の録音だが、その音質の良さに先ず惹かれる。
ヒス音が多少入っているが、音像の広がりやソロならびにオーケストラの個々の楽器の解像度もかなりの水準で、低音にも不足しておらず、初期ステレオ録音の中でも大変優れたもののひとつと言える。
DSDマスタリングのリイシュー盤で、広めの空間に音を解放する形で再生するのであれば理想的な音響空間が得られる。
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名匠オスカー・シュムスキー(1917-2000)の本邦初のソロ・アルバム(国内盤は既に廃盤)が本盤に収められたバッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ》であった。
シュムスキーは1917年フィラデルフィア生まれ。8歳のときストコフスキーの招きで、フィラデルフィア管弦楽団とモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番を弾いてデビュー、神童と騒がれた。
その後アウアー、ジンバリストに師事し、NBC交響楽団団員、プリムローズ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリンなどを経て、1959年には指揮者としてもデビュー。当録音の行われた1975年からイェール大付属音楽学校で教鞭を執っている。
バッハの《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ》は、作曲されてから約300年が経っているにもかかわらず、今なお世界のヴァイオリニストが弾きこなすのを究極の目標とするというのは殆ど驚異である。
しかも、無伴奏のヴァイオリン曲という分野でも、このバッハの曲を超える作品は未だに存在しておらず、おそらくは、今後とも未来永劫、無伴奏のヴァイオリン曲の最高峰に君臨する至高の作品であり続けるものと思われる。
1つの楽器に可能な限り有効な音を詰め込み、表現の極限に挑戦したバッハの意欲的な創作と、調性による曲の性格の違いを明確に描かなければならない難曲でもある。
そのような超名曲だけに、古今東西の著名なヴァイオリニストによって、これまで数多くの名演が生み出されてきた。
そのような千軍万馬の兵たちの中で、シュムスキー盤はどのような特徴があるのだろうか。
本演奏でシュムスキーが奏でる1715年製のストラディヴァリウス“エクス=ピエール・ロード”の瑞々しい響きは実に豊かだ。
そしてその美しい響きが織り成すバッハの音楽が、いかに若々しく精神的に充実していることか。
シュムスキーの年季の入ったテクニックは見事で、いかなるパッセージも苦もなく弾き進む。
しかも、そこにはいわゆる難曲を克服するといった観はみじんもなく、聴き手のイマジネーションを大きくふくらませてくれる、スケールの大きなバッハだ。
これは言葉のもっともよい意味での「模範演奏」と言えるものとして高く評価されてしかるべきである。
たとえば〈シャコンヌ〉では、ヨーロッパで19世紀以来培われてきた「伝統的」な演奏法のエッセンスがこのなかに結実している。
逆に「古楽器派」の人にはそこが癪にさわるのも、まあわからなくもない。
世評の高いミルシテイン盤と比較してみると、ミルシテインのバッハを大理石の彫像とするなら、シュムスキーの演奏は木彫りのイエス像である。
前者の音はどこまでも磨き抜かれ、ボウイングに一切の淀みはなく、造型は限りなく気高い。
一方、後者は、ノミの一打ち一打ちに「祈り」が深く刻まれた音で、鮮やかな刃跡の何という力強さ、自在さ。
これぞ、名匠中の名匠の技と言えるところであり、瞼を閉じて聴こえてくるは、百万会衆の祈りの歌。
愛称「ケンブリッジの公爵」から紡ぎだされる悠久のフレージングは、遥かな歴史をも語っている。
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ベートーヴェンの交響曲に関心を持つ人にとって、フェリックス・ワインガルトナーは未だに無視できない。
管弦楽編成を含む彼のエディション、『ベートーヴェンの交響曲について』をはじめとする著書と論文、そして第2次世界大戦前としては驚くべき全曲録音などは、指揮者にも、研究者にも、愛好家にも、貴重な資料であり、業績である。
それらは、彼が指揮者、作曲家、思索家という3つのペルソナが達成された成果である。
演奏面で、ワインガルトナーはヨーロッパの多くの都市(マインツ、パリ、ロンドンなど)で、ベートーヴェンの全交響曲を演奏した。
ロマン・ローランが『ベートーヴェンの生涯』を書いたのも、ワインガルトナーのベートーヴェン・ツィクルスを聴き、刺激を受けたためと言われている。
つまり、ワインガルトナーのベートーヴェン解釈は、第2次世界大戦前には1つの基準であった。
彼がロマン的な誇張や歪曲を認めず、音楽だけに基づいて解釈したためであろう。
事実、トスカニーニが登場するまで、このような解釈でベートーヴェンを指揮するのは、ワインガルトナー以外にほとんどいなかった。
ワインガルトナーは、後代のクライバーとも共通する澱みを排して流麗な流れを重視したベートーヴェンを創造する指揮者であった。
ワインガルトナー以降のベートーヴェンは大雑把に分けて、快速流線形型の機敏な演奏、荘重なテンポによる重厚な演奏に二分されるのではないだろうか。
ウィーン・フィル以外の演奏も立派なもので、ロンドンのオーケストラを振ってもウィーンの情緒を引き出して、木管のチャーミングや官能的なポルタメントにはどきりとさせらる。
戦前のSP時代には、1927年のベートーヴェン没後100年記念に英国で録音された英語版《第9》が聴かれていた。
このワインガルトナーの《第9》は日本からの要請により作られた初めての電気録音によるドイツ語版の《第9》。
その録音費用はすべて発注した日本コロムビアが支払ったのだが、それを上回る売り上げを記録したレコード。
当時最も穏健で標準的な《第9》の演奏として、この録音は戦前SP時代の代表的なレコードであった。
英コロンビアが、ベートーヴェンの交響曲を繰り返し彼に録音させたのも、このためであろう。
戦後、色々な指揮者による録音が出てきたため、今日では色褪せた感もあるが、堂々として揺るぎないワインガルトナーの指揮は20世紀に作られた演奏として次世代に伝えられよう。
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2023年04月28日
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この音源は1997年と翌98年に録音されたもので、新譜ではないことを断わっておく必要があるだろう。
しかし彼らのヴィヴァルディの解釈は新鮮そのもので、私達の時代を反映した演奏として現在でもその斬新さは評価されるべきだと思う。
ビオンディの演奏の特徴は歯切れの良いリズム感と、対照的なピリオド・スタイルの憂いを含んだカンタービレ、そして自由で即興的な雰囲気を持っていることなどが挙げられる。
それは取りも直さずイタリア趣味のエッセンスでもあり、特にヴィヴァルディではこうした自然な感性の発露が支配的だが、アンサンブルとしても良く鍛え上げられていて一糸乱れぬエウローパ・ガランテのサポートにも強い説得力がある。
この12曲の中でも第6番イ短調がその典型的なサンプルだ。
ヴァイオリンの教則本にも取り上げられているこの協奏曲は、基礎的なテクニックを学ぶためにも価値のある作品だが、彼らはメソード的なイメージからは全く離れた、緊張感に満ちた急速楽章とラルゴでのメランコリックで芸術的な表現は流石だ。
『調和の霊感』作品3はJ.S.バッハによって12曲中5曲までがさまざまな形に編曲されている。
そこまでバッハを夢中にさせた理由は、曲中のダイナミズムの劇的な変化や、これ以上省略できないほどに簡略化された効果的な書法だろう。
例えば第8番イ短調は2挺のヴァイオリンのための協奏曲だがバッハはオルガン独奏用に、第3番ヴァイオリン協奏曲ト長調はチェンバロ独奏用に、また第10番4挺のヴァイオリンのための協奏曲ロ短調は4台のチェンバロのための協奏曲にそれぞれアレンジしている。
それだけヴィヴァルディの作品には融通性があり、変幻自在の可能性を秘めているとも言えるだろう。
バッハの編曲はそれ自体魅力的だが、ここでのビオンディとエウローパ・ガランテは原曲の持っているオリジナリティーの魅力を究極的に引き出して、その美しさとドラマティックな世界を堪能させてくれる。
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ドゥダメルは、アイヴズの革命的側面から現代的なアプローチをする。
アイヴズの音楽構造、とりわけ複雑なテクスチュア、複調性、同時に進行する違ったテンポでなされる違ったリズム、聴き取りが可能かどうかよりそこにそれがある、ということを重視している。
置かれているのと同時に現れる複数の引用断片などが、いかに彼の作曲上の主義主張、音楽美学、世界観と深く結び付いているかをドゥダメルは知っている。
耳をつんざくような不協和音、何の脈絡もなく突然出現するマーチを情景描写的に理解していたのではいつまでたってもアイヴズの真の意図は理解出来ない。
アイヴズのパッチワーク的な音楽構造を忠実に再現することによってのみ、アイヴズがその音楽で言わんとしたエキセントリックな世界観(現実肯定)を具現化できるのである。
他の指揮者と比べ(アイヴズ理解の重要な鍵である)テクスチュアにおける断層、重層をより強調して演奏することで、たとえ、聴衆がついていけないと感じたとしてもドゥダメルはそれを辞さない。
アイヴズの音楽と認めるということは、その異種混合的なテクスチュア、「本当の美しさとは画一化されない、人生がそうであるように」という主張を認めることである。
均質でないスタイル、断片的でありつつ首尾一貫性とは違うカオスの中にも必然的に生じて来るような力に基づく秩序(強度の輪郭)を有する、絶えざる変化の世界。
それこそ、アイヴズが目指したヨーロッパ様式によらない音楽である。
異種混合性へのテロジェニティ、それはアメリカの現実であり、本質なのである。
これに対してテンポも速めに、人工的ではない統一を目指した知的なアイヴズの傾向(盛り上げていてストンと落とす、ちぐはぐな旋律やリズム、イケイケムードでぶっとばす)を捉えたティルソン・トーマスの演奏では、人は今でもそのサウンドの斬新さに目を奪われ、アイヴズの持つ音楽の真の芸術的価値を分かりにくくさせるのかもしれない。
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BBC音源のライヴで1965年のステレオ録音になる。
古い音源だが音質は瑞々しく臨場感にも恵まれた、この時代のものとしては優秀なものだ。
収録曲目はボッケリーニの弦楽四重奏曲ト長調『ラ・ティラーナ・スパニョーラ』、モーツァルトの弦楽四重奏曲変ロ長調『狩』K.458及びベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番イ短調Op.132の3曲。
イタリア物とドイツ物を組み合わせたイタリア弦楽四重奏団ならではの特質がよく表れたプログラムで、鍛え上げられた万全のアンサンブルと深みのあるカンタービレ、メリハリを効かせたリズミカルな合わせ技には彼らの面目躍如たるものがある。
第1曲目のボッケリーニは第1楽章のリズムのモチーフがタンブリンを伴うスペインの民族舞踏ティラーナから採られていることからこの名称で呼ばれている。
彼らの軽妙なチーム・ワークを示したプログラムの第1曲目として相応しい選曲だ。
モーツァルトの『狩』は彼らの得意とした曲で、豊麗な和声の響きと溌剌とした歓喜の表現にはラテン的な感性が強く感じられる。
一方4人のイタリア人がベートーヴェンを主要なレパートリーにしていたことは興味深いが、その発端は1951年に参加したザルツブルク・フェスティヴァルでのフルトヴェングラーとの出会いだった。
巨匠は彼らをホテルに招いてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲とブラームスのピアノ五重奏曲について自らピアノを弾きながら助言した。
それは彼らにとってかけがえのない経験であり、その後の演奏活動の重要な課題ともなった。
ここに収められた第15番も一糸乱れぬ緊張感の中に堂々たる説得力を持っているだけでなく、彼らのオリジナリティーを示した会心の演奏だ。
イタリア弦楽四重奏団は1945年に創設され、1980年の解散に至るまで国際的な活動を続けた、ヨーロッパの弦楽四重奏団の中でも長命を保ったアンサンブルだった。
また第2ヴァイオリンは当初から紅一点のエリーザ・ペグレッフィが担当している。
各パートで使用されている楽器は決して有名製作者のものではなく、また演奏中の微妙な音程の狂いを避けるために、総ての弦に金属弦を用いる合理的なアイデアも彼ら自身の表明するところだ。
配置は第1ヴァイオリンとチェロ、そして第2ヴァイオリンとヴィオラが対角線に構える形で、スメタナ四重奏団と同様に総てのレパートリーを暗譜で弾くことが彼らの合奏のポイントになっている。
ライナー・ノーツは15ページで英、仏、独語の簡単な解説付だが、半分ほどはICAクラシック・レーベルの写真入カタログになっている。
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2023年04月27日
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本BOXには、田部京子が誠心誠意取り組んできた、シューベルト後期作品集が収められている。
クラシック音楽の世界には、この世のものとは思えないような至高の高みに達した名作というものが存在する。
ロマン派のピアノ作品の中では、何よりもシューベルトの最晩年に作曲された最後の3つのソナタがそれに相当するものと思われる。
その神々しいとも言うべき深みは、ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタ群やブラームスの最晩年のピアノ作品にも比肩し得るだけの崇高さを湛えていると言っても過言ではあるまい。
これだけの至高の名作であるだけに、これまで数多くの有名ピアニストによって様々な名演が成し遂げられてきたところだ。
個性的という意味では、アファナシエフによる演奏が名高いし、精神的な深みを徹底して追求した内田光子の演奏もあった。
また、千人に一人のリリシストと称されるルプーによる極上の美演も存在している。
このような海千山千のピアニストによるあまたの名演の中で存在感を発揮するのは並大抵のことではないと考えられる。
田部京子による本演奏は、ブレンデル、シフの系統に繋がる、楽譜を研究し尽くした理知的なシューベルトが楽しめる逸品であり、その存在感を如何なく発揮した素晴らしい名演を成し遂げたと言えるのではないだろうか。
1994年リリースのシューベルト:ピアノ・ソナタ第21番において「次代を担う真に傑出した才能の登場」として、極めて高い評価を得た田部京子。
その後、発表した5枚のシューベルト・アルバムは、その全てがレコード芸術誌で特選を獲得し、田部は、日本を代表する「シューベルト弾き」としての比類なきポジションを確立した。
この田部の録音したシューベルトの後期3大ソナタを含む主要なピアノ作品をCD5枚のBOXは、シューベルト最晩年の深い諦観の世界をおのずと明らかにしてゆく、田部の極めて説得力の強い演奏の全貌が明らかになっている。
田部京子による本演奏は、何か特別な個性を施したり、はたまた聴き手を驚かせるような斬新な解釈を行っているというわけではない。
むしろ、スコアに記された音符を誠実に音化しているというアプローチに徹していると言えるところであり、演奏全体としては極めてオーソドックスな演奏とも言えるだろう。
とは言っても、音符の表層をなぞっただけの浅薄な演奏には陥っておらず、没個性的で凡庸な演奏などということも決してない。
むしろ、徹底したスコアリーディングに基づいて、音符の背後にあるシューベルトの最晩年の寂寥感に満ちた心の深層などにも鋭く切り込んでいくような彫りの深さも十分に併せ持っている。
シューベルト後期作品に込められた奥行きの深い情感を音化するのに見事に成功していると言っても過言ではあるまい。
いずれにしても本演奏は、シューベルト後期作品のすべてを完璧に音化し得るとともに、女流ピアニストならではのいい意味での繊細さを兼ね備えた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。
演奏全体に漂う格調の高さや高貴とも言うべき気品にも出色のものがあると言えるだろう。
しっとりと落ち着きのある音色と、清冽極まりないピアニズム、そして情感豊かな歌いまわしと深みを感じさせる表現等々、シューベルトのピアノ曲の妙味を引き出すのに過不足のない演奏が充溢している。
一方、「さすらい人幻想曲」は、ひとつのモチーフを中心に変奏手法を使って、ベートーヴェン的有機構造物を構築しようとした作品だ。
田部は、その豊かな弱音のニュアンスを駆使して、強音がさほど強くなくてもしっかりと対比され、ダイナミズムが広く聴こえる。
したがって大きなスケール感も出てくるという演奏を繰り広げていて、無理がなく、しかも美しい。
本BOXは、いつでもいつまでも聴いていたいと思わせる名演の集成と言えるだろう。
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マタチッチは、偉大なブルックナー指揮者であった。
1990年代に入って、ヴァントや朝比奈が超絶的な名演の数々を生み出すようになったが、1980年代においては、まだまだブルックナーの交響曲の名演というのは数少ない時代であったのだ。
そのような時代にあって、マタチッチは、1960年代にシューリヒトが鬼籍に入った後は、ヨッフムと並ぶ最高のブルックナー指揮者であった。
しかしながら、これは我が国における評価であって、本場ヨーロッパでは、ヨッフムはブルックナーの権威として広く認知されていたが、マタチッチはきわめてマイナーな存在であったと言わざるを得ない。
それは、CD化された録音の点数を見れば一目瞭然であり、ヨッフムは2度にわたる全集のほか、ライヴ録音など数多くの演奏が発掘されている状況にある。
これに対して、マタチッチは、チェコ・フィルとの第5番(1970年)、第7番(1967年)及び第9番(1980年)、スロヴァキア・フィルとの第7番(1984年)やウィーン響との第9番(1983年)、あとはフィルハーモニア管弦楽団との第3番(1983年)及び第4番(1954年)、フランス国立管弦楽団との第5番(1979年)のライヴ録音がわずかに発売されている程度だ。
ところが、我が国においては、マタチッチはNHK交響楽団の名誉指揮者に就任して以降、ブルックナーの交響曲を何度もコンサートで取り上げ、数々の名演を成し遂げてきた。
そのうち、いくつかの名演は、アルトゥスレーベルにおいてCD化(第5番(1967年)、第7番(1969年)及び第8番(1975年))されているのは記憶に新しいところだ。
このように、マタチッチが精神的な芸術が評価される素地が未だ残っているとして我が国を深く愛して来日を繰り返し、他方、NHK交響楽団もマタチッチを崇拝し、素晴らしい名演の数々を成し遂げてくれたことが、我が国におけるマタチッチのブルックナー指揮者としての高い評価に繋がっていることは間違いあるまい。
そのようなマタチッチが、NHK交響楽団とともに成し遂げたブルックナーの交響曲の数々の名演の中でも、特に伝説的な名演と語り伝えられてきたのが本盤に収められた第8番だ。
本演奏におけるマタチッチのアプローチは、1990年代以降通説となった荘重なインテンポによる演奏ではない。
むしろ、速めのテンポであり、そのテンポも頻繁に変化させたり、アッチェレランドを駆使したりするなど、ベートーヴェン風のドラマティックな要素にも事欠かない演奏となっている。
それでいて、全体の造型はいささかも弛緩することなく、雄渾なスケールを失っていないのは、マタチッチがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。
このようなマタチッチの渾身の指揮に対して、壮絶な名演奏で応えたNHK交響楽団の好パフォーマンスも見事というほかはない。
いずれにしても、本演奏は、1980年代以前のブルックナーの交響曲第8番の演奏の中では、間違いなくトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。
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バーンスタインというと、往年のニューヨーク・フィルとの颯爽とした演奏、晩年のウィーン・フィルやコンセルトヘボウとの熱のこもったライヴが夙に知られている。
1970〜80年代は、レコード芸術など音楽誌面でも、マーラーやベートーヴェンの交響曲が高く評価された。
このアルバムには1950年代後半から70年代前半までのニューヨーク・フィル他とのスタジオ録音が収録されている。
気になる音質であるが、おそらくリマスターされ、ヒスノイズやつまったような音のこもりは拭い去られ、比較的清澄な響きが楽しめる。
50〜60年前の録音と思えぬ、上々の再生能力である。
全集の内容はというと、ミュージカルやバレエ音楽もさることながら、やはり傾聴すべきは、3つの交響曲やミサ曲ではなかろうか。
人間バーンスタインの懊悩、魂の叫び、ユダヤ人としての信仰心などが如実に表れており、いずれも心を捉えずにはおかない。
交響曲も3曲中2曲は、詩詞が歌い上げられ、ミサ曲と並び、言葉によるメッセージが曲の骨組みを構成している。
ことに、ミサ曲全曲をとおしで聴いたのは初めてだが、ヨーロッパの大教会の中におごそかに響きわたるそれとはまったく異質で、遠大な宗教の叙事詩を、ミュージカルや歌劇、サーカスのおおがかりな舞台にしたような音の絵巻物が繰り広げられる。
圧巻の演奏だ。
バーンスタインのこころの色彩を絵具にし、音と言葉を次々とコラージュしていく彩度の強い「ミサ劇」だ。
交響曲第3番「カディッシュ」の主役の語り部が、亡くなったバーンスタインの奥様女優フェリシア・モンテアレグレなのも興味深い。
彼女は美しく、オードリー・ヘプバーンの声をややメゾソプラノ系にしたような声質だ。
20世紀後半を生きたバーンスタインは、聖と俗に揺れ動く、社会や民族、人間のうごめきの中で、音楽の創造主としての天命を受け、自らがそれに殉じることができるのか苦悶しつづけていたに違いない。
この自作自演には、バーンスタインの素の容貌とむき出しの精神が収められている。
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2023年04月26日
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モーツァルトの『ダ・ポンテ・オペラ』は、いずれもナポリ派オペラの影響下にあることから分かるように、イタリア的要素が色濃く反映されている。
モーツァルトのオペラの中でも《フィガロの結婚》には特に魅力的な演奏が多いように思う。
聴いて楽しめない録音はわずかだから、一つしか選べないとなると、あれかこれか本当に迷ってしまう。
だが、筆者がすぐれた演奏と思うほとんどがウィーンとイタリアとの混合なのは、このオペラの場合もモーツァルトの音楽に双方の要素が混在しているからではなく、イタリア的な要素を好んでいるからでもある。
そのなかでもステレオ初期のE.クライバー盤をはじめ、1960年代のベームと1970年代のカラヤン盤、1980年代のムーティに1990年代のアバド盤などは、どれも特徴的なすぐれた演奏だが、ジュリーニ盤はキャストが素晴らしく、それを統率している指揮も非常に見事である。
ジュリーニの指揮によるこの録音は、後のムーティ盤やアバド盤以上にイタリア的躍動感と色彩感に満ちている。
オーケストラの精度こそ古くなったが、このアプローチの魅力は未だに色褪せていない。
歌手陣も豪華。
ジュリーニがほぼ同時期に録音した「ドン・ジョヴァンニ」にも参加しているヴェヒターとシュヴァルツコップの伯爵夫妻の他、フィガロのタデイ、スザンナのモッフォ、ケルビーノのコッソット、アントニオに起用された若き日のカプッチッリなど、ウィーンとイタリアの歌手を中心にした贅沢なキャストは、それぞれが理想的な適役といってよいだろう。
オペラ歌手として最盛期を迎えていたシュヴァルツコップの伯爵夫人と瑞々しい新鮮なモッフォのスザンナ、ヴェヒターの伯爵と名ブッフォを強く印象づけたタデイのフィガロの声の対比と性格表現などもまったく申し分なく、24歳のコッソットのケルビーノもとてもチャーミングである。
しかし、この演奏の最大の魅力は、ジュリーニがウィーン風の優雅さや陰影、ブッファ特有の愉悦感などをひきしまったテンポでバランスよく表現していることで、この「たわけた1日」を生き生きと描いた傑作オペラの永遠のスタンダードともいえる名演である。
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バーンスタインによるワーグナー・オペラ初録音にして唯一の演奏会式上演のライヴ。
これは、バーンスタインの強い希望で映像記録されたもので、そうした彼の意欲が見事に実を結んだ素晴らしい名演。
バーンスタインとワーグナーがお互いに強い親密感で結ばれてしかるべき特質を共有しあっていることを痛感させられる。
バーンスタインは限られた場合にしかオペラのピットに入らない指揮者だった。
特別な機会だからこそそれと並行してレコーディングが行なわれることが多く、そのようにして作られた全曲盤がいくつかある。
この《トリスタンとイゾルデ》はコンサート・ホールのセミ・ステージ形式でライヴ録音されたもの。
バーンスタインは極端に遅いテンポによって、舞台上演では不可能なデフォルムされた音楽を聞かせる。
演奏会形式に近いだけに指揮者の個性が強く出て、遅めのテンポで濃厚な演奏が展開される。
この指揮者ならではの特異な解釈だが、一旦波長が合うときわめて大きな感動をもたらしてくれる。
これほど陶酔的なロマンティシズムで貫かれた《トリスタンとイゾルデ》演奏もあるまい。
バーンスタインの徹底した思い入れによって構築され尽くしたこの演奏は、まさにその思い入れの徹底性そのものによって一個の超然たる宇宙を形成している感。
テンポも桁外れなまでにに遅く、時として殆ど無テンポに近くなることさえある。
ここまで主情的なアプローチには異論も多かろうが、そこに醸成されるロマンは前代未聞の粘着的官能的ロマンティシズムの世界を浮き上がらせている。
バーンスタインは、一切の抑制なく、直情的に《トリスタン》の情念と官能の世界に突入する。
冒頭の前奏曲からテンポの遅さに驚かされる。
しかし聴き進むうちに、その異常な遅さと粘っこさはバーンスタインの強い意図なのだとわかる。
バーンスタインの、音楽の中に身も心もたっぷりひたり込む豊かな感情移入は比類なく、それを大きく豊かな表情と起伏をもって表現する。
ここではワーグナーのエロスが、文字通り大きく豊かな起伏と表情で、精妙な美感と息づかいの中に表現されている。
その雄弁で巨大なドラマの展開から生まれる感動は驚異的で、溺れるに価する《トリスタン》というべきではないか。
オーケストラも力演で、歌手もほぼ全面的に満足できる。
ホフマン、ベーレンスの両主役の歌唱も見事、ヴァイクルのクルヴェナール、ミントンのブランゲーネもそれに劣らぬ名唱を披露している。
当時のドイツを代表するワーグナー歌手が集められているのだが、とにもかくにも「バーンスタインの」《トリスタン》である。
同時期の《ボエーム》も同傾向の演奏で、ファンにはたまらない。
まさにバーンスタインの魔力の極みといってよいアルバムだ。
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シューベルトの交響曲は、オペラや宗教作品の分野と比較すれば比較的良く知られている分野と言えよう。
モーツァルトやハイドンの初期の交響曲は、それなりに魅力があるとしても後期の作品と比べると大同小異、同工異曲のものが多くかなり見劣りする。
しかし、シューベルトの交響曲は各々が明確な個性を持った作品できわめて質が高い。
これまではベートーヴェン的な劇性がないために不当に低く評価されただけで今後は積極的な評価をする必要がある。
シューベルトの交響曲に向けられてきたクリティカルな眼が、実質的に実りを見せはじめたのは、第二次世界大戦後のことであると言ってもよいであろうし、実際には、それはまだ完結してはいない。
そればかりか、そこには永遠に解きえない謎もいくつか残されているに違いない。
それだけに、依然として慣用にとらわれた演奏がかなりの部分を占めている。
アバドとヨーロッパ室内管弦楽団によるこの交響曲全集は、その一応の完結さえ待たずに生み出されたものである。
未出版のものも検討した上で、そのクリティカルな基本的姿勢を明らかにしてくれる。
批判校訂版の出ている第1〜3番は当然として、それ以外の作品でも自ら自筆譜資料を検討した独自の版に基づいて演奏しているのが非常に評価できる。
従来の版にある誤ったデクレシェンド記号をアクセントに読み替えるだけではなく「大ハ長調」の第2,3楽章のように、これまでは考慮されなかった楽段の復活などもあり様々な点で興味深いものを多く含んでいる。
この全集は、資料的な価値だけでなく演奏の質も一級に属するもので純粋に聴く楽しみも十分に味わえる。
資料批判の結果も含めて全体のイメージを簡単に言うと、従来のロマンティックなシューベルト表現から古典的明晰性を持った表現への転換と形容すると分かりやすいのではないだろうか。
これまでのいくつかの名演と言われるものとは違ったところに、この全集の存在意義はある。
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2023年04月25日
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ラフマニノフの交響曲第2番は大曲で、クルト・ザンデルリンク指揮フィルハーモニア管弦楽団(1990年)盤は67分を超えるが、圧倒的に素晴らしく、掛け値なしに偉大な演奏である。
他盤では60分以内に収まってしまうので、ザンデルリンクは多分にゆっくりと演奏していると思って差し支えないが、その共感と生命力の強さは驚くべきものである。
ラフマニノフは交響曲の理念に実に忠実に作曲していて、それは形式的な問題だけでは決してなく、西欧的弁証法とでも言うべきか、ともかく色々なことが時間に推移のうちに起こって、最後には或る何らかの境地に至るといった「物語」が大枠としてある。
山あり谷ありの大曲を最後までおよそ1時間に亘って演奏してゆくのは大変なことだ。
もちろんこれよりずっと長い作品は数多いが、ラフマニノフのこの曲には、マーラーの狂気や破綻などなく、もっとずっと単純に「物語」としての交響曲を壮大に作曲しているので、かえって演奏するのはしんどいものがあるだろう。
ザンデルリンクの演奏は、以前のもの(30年前のレニングラード・フィル盤)とは比べものにならないほど円熟しており、しかも個性的である。
叙情と劇性が雄大なスケールで濃厚に表出され、第1楽章冒頭から極めて充実した音楽を聴かせているが、各楽章とも完全に曲を手中に収めた表現で、全てが歌に満ち、アゴーギクとルバートの多用も内奥から溢れ出る感興を表している。
長大な第1楽章をザンデルリンクは25分かけて、殆ど苛々させるくらいにゆったりとしたテンポをとることで、逆に物語のダイナミズムを聴き手に味あわせてくれる。
とりわけ弦楽器群のうねり方が凄く、催眠術にかけられたがごとく、ザンデルリンクの大きな指揮棒の動きに合わせて陶酔の波の上を漂っている。
音楽の収縮は堂に入り、旋律線はぐんぐん彼方へ延びていって果てしがなく、これほど雄大かつ恍惚とした音楽は、他盤からは聴けない。
第2楽章もまたゆっくりめのテンポをとっているが、今度はホルンの咆哮するテーマの後ろで刻まれる弦の、速すぎるとただ粗雑にしか響かない弦のリズムをうまく聴かせている。
また、録音のせいもあるのかもしれないが、他盤ではよくわからなかったグロッケンシュピールの響きも明瞭に聴こえる。
第3、4楽章は前の2楽章ほど他盤とのテンポなどに違いはみられず、全体のなかでは第3楽章の前半が幾分醒めているのが不可解だが、後半は幸いなことに復活し、弦楽器だけでなく、オーケストラ全体の気の入り方が尋常ではない。
第4楽章冒頭など、バレエのエンディングを思わせる華麗な響きを聴かせているが、さすがにここに至って叙情的な部分では多少気のダレがみられないこともない。
もっともそれは聴き手の緊張が緩んできたというのもあるのだろうけれど、これだけ長い作品を聴くためには物理的な時間もさることながら、じっくりと物語に付き合うだけの気構えと余裕も必要だ。
ザンデルリンクはあまり録音に熱心な指揮者ではなかったが、このCDは彼の疑いなく最良のセッションだと思うし、こんな演奏が記録されたことに感謝の念を禁じ得ない。
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「冬の旅」は1981年度のモントルー国際レコード大賞を受賞した名盤で、ヘフリガー61歳のときの録音である。
一時期、演奏活動から遠ざかっていたが、これはカムバックしてからの録音である。
何という若々しい衰えのない声、崩れのいささかもない歌だろう。
そのしなやかでみずみずしい声は、やや表情にかたさのあった昔にくらべ、より魅力的で、人生の年輪を重ねた人ならではの、じっくりとした味わいのある歌を聴かせてくれる。
「美しき水車小屋の娘」はヘフリガー63歳時の4度目の録音。
信じられぬような瑞々しい声と情感が全曲に広がり、若い世代のテノールには到底歌い出せないような純粋な抒情の世界を作り上げている。
一時ダウンしかけた声が60歳になって見事復調し、以前にも増して美しいレガート唱法を獲得している。この歌への執念と愛情には脱帽せざるを得ない。
「白鳥の歌」は65歳という高齢での録音だが、信じられないほど瑞々しい声で、シューベルトの最晩年の深い抒情を、見事に表出している。
このくらいの年齢になると高音が不安定になり、音域を下げてうたう歌手もかなり多くいるのだが、ヘフリガーの場合は、シューベルトの書いたオリジナルどおりにうたっている。
「セレナード」の淡いロマンティシズムや、「アトラス」の彫りの深さなど、美しい声のなかにも、年輪の厚みの感じられる歌唱だ。
「別れ」の瑞々しさはどうだろう。
ハンマーフリューゲルの素朴な味わいも、この名歌手の歌とよく似合っている。
その他の歌曲集はこの時70歳に手が届こうというヘフリガーの好調ぶりは、ただ驚嘆するのみだ。
その歌の噴出力の豊かさ、柔軟な感性に裏打ちされたのびやかなフレージングには、自然体の中から歌の魂が呼びかけてくるような快さがある。
ことにシューベルトの中にある天性のナイーヴな語りかけを、ヘフリガーは確かな手応えで伝えてくれる。
デーラーもますますヘフリガーと息の合ったところを見せ、好ましい表現を示している。
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2011年に他界したチェコのヴァイオリニスト、ヨセフ・スークのソロとヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の協演によるチェコの作曲家の作品4曲を収めた純血種のセッションである。
作曲家から演奏家までを総てチェコ勢で固めただけでなく、スークにとっては作曲家ヨセフ・スークは祖父、ドヴォルザークは曽祖父でもあり、当然チェコの老舗スプラフォンからのリリースという純血種のコンビネーションが冗談抜きで楽しめる1枚だ。
実際のコンサートでは取り上げられることがそれほど多くないドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲だが、このメンバーで聴く限りは本家の威厳を感じさせるだけでなく、流石に音楽性に溢れる説得力のある演奏に引き込まれる。
美音家スークのソロは特に第2楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポで独壇場の冴えを聴かせてくれる。
尚4曲目のスークの『おとぎ話』のみが1978年のライヴから採られた初のCD化になり、3曲目の『幻想曲』は1984年、それ以外は1978年のセッションで既に別のカップリングでリリースされていたものだ。
名演奏家の組み合わせが国際化した現代では、より普遍的な音楽の解釈が一般的であり、わざわざ同国籍のアーティストを揃えてお国ものを披露すること自体むしろナンセンスで、またそれによって高い水準のセッションが可能になるとは限らない。
しかし彼らにとって自国の作曲家の作品を謳歌する風潮がソ連の軍事介入があった1968年の「プラハの春」前後に最高潮に達していることを思えば、単なる民族の祭典的な意味に留まらず、やむにやまれぬ政治的な背景が彼らを演奏に駆り立てていたに違いない。
皮肉にもこうした状況が実際彼らの強みでもあり、また自負となって演奏に反映しているのも事実だ。
指揮者ヴァーツラフ・ノイマンはスメタナ四重奏団創設時のメンバーでもあり、またラファエル・クーベリックとカレル・アンチェルの2人の常任指揮者の相次ぐ亡命という異常事態の後を継いでチェコ・フィルを守り全盛期に導いた。
ここに選ばれた作曲家のほかにもマルティヌーやヤナーチェクなど自国の作曲家の作品を世に問うた功績は大きい。
当時のチェコ・フィルは弦の国と言われるだけあって、特に弦楽器のセクションが流麗で、独特の統率感に支えられた合奏力の巧みさも聴き所のひとつだ。
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2023年04月24日
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レージネヴァの声質はコロラトゥーラをこなすソプラノとしては珍しくやや暗めだが落ち着いた雰囲気があり、浮き足立たずに音楽そのものを聴かせる感性が窺われる。
またどの作品に対しても常にニュートラルな姿勢で臨んでいることに彼女のテクニックの多様性が示されていると言えるだろう。
このセッションでは彼女はヴィブラートを抑えたピリオド唱法を早くもマスターしていて、指揮者ジョヴァンニ・アントニーニの要求に見事に応えている。
今回のアルバムに収められたヴィヴァルディ、ヘンデル、ポルポラ、そしてモーツァルトの作品は、まがりなりにも総て宗教曲だが、離れ技の歌唱法が求められ、しかもそこに高度な音楽性が伴わないとその真価を伝えることが難しい。
レージネヴァは明瞭な叙唱や緩徐楽章での豊かなカンタービレ、そしてそれぞれの曲の最後に置かれている「アレルヤ」では、メロディーに精緻な刺繍を施していくような装飾音の綴れ織を究極的に再現している。
彼女の持ち前の音楽性の賜物か、あるいは歌手には珍しいナイーヴな人柄からか、これ見よがしのアクロバットに聴こえないところも非常に好ましい。
カストラート歌手達が開拓したコロラトゥーラの歌唱法は、彼らの超絶技巧誇示が禍して作品の芸術性とはなんら関係のない曲芸に堕してしまったことが、既に同時代の多くの作曲家によって指摘されている。
しかし彼らのテクニックの基本に流麗なレガートを駆使したカンタービレがあったことも忘れてはならないだろう。
そのバランスを保って音楽を芸術として再現することが歌手の叡智であり、それが本来のテクニックと呼べるものである筈だ。
サハリン出身のソプラノ、ユリア・レージネヴァはその若さにも拘らず、ロッシーニのアリア集によって音楽性に溢れる薫り高い歌唱を披露してくれた。
このバロック宗教曲集及びモーツァルトの『エクスルターテ、ユビラーテ』を収録したアルバムでも無理のない伸びやかなレガートと、アジリタの技巧的な部分が互いに異質な印象を残さずに歌い上げられているのが聴きどころだ。
彼女を サポートする古楽アンサンブルはピリオド楽器使用のイル・ジャルディーノ・アルモニコで、当初彼らは斬新な解釈でセンセーショナルなデビューを飾ったが、彼らの身上は何よりも古楽を生き生きとして喜びに満ちた、ドラマティックな表現で聴かせるところにあると言える。
ライナー・ノーツは27ページほどで、作品解説とレージネヴァの略歴及びイル・ジャルディーノ・アルモニコのメンバー一覧表にそれぞれの使用楽器も明記され、ラテン語の全歌詞に英、仏、独語による対訳が付けられている。
尚ピッチは表示されていないが微妙に低くa'=430くらいに聞こえる。
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アントニオ・パッパーノ指揮/サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団(ローマ)の2014年来日記念盤。
前回の来日公演で観客に大熱狂を起こした「ウィリアム・テル」序曲他、このコンビならではのレパートリー。
イタリアを代表する管弦楽団による、イタリアを代表する作曲家ロッシーニの迫力あるクライマックスが炸裂するサウンドに魅了される作品。
アントニオ・パッパーノは既にロッシーニのオペラ全曲上演を数多く手がけていることもあって、こうした序曲集にも彼のオリジナリティーに満ちたアイデアが横溢している。
ロッシーニのオーケストレーションは基本的に厚いものではないが、協奏曲顔負けのソロ・パートの名人芸によって彩られていて、むしろ陳腐だが劇的なクレッシェンドやアッチェレランドを間を縫って効果的に書かれている。
はっきり言ってロッシーニの音楽には苦悩も晦渋もない。
聴こえてくる音そのものが勝負だから、それを如何に美しく、そして一糸乱れずにまとめあげるかに演奏の良し悪しがかかっていると言える。
パッパーノはサンタ・チェチーリアの首席奏者達の鮮やかなソロを前面に出しながら、どの曲も比較的シンプルだが生き生きとした臨場感溢れる音楽に仕上げている。
大曲『セミラーミデ』でも分厚い音響を創るのではなく、明快なラインを聴かせているし、『ウィリアム・テル』の「夜明け」でのチェロの五重奏はかつて聴かれなかったほど官能的で、続く「嵐」の激しさと強いコントラストをなしている。
最後の『アンダンテ、主題と変奏』は、ソリストとしても活躍しているフルートのカルロ・タンポーニ、クラリネットのアレッサンドロ・カルボナーレ、ファゴットのフランチェスコ・ボッソーネ及びホルンのアレッシオ・アッレグリーニの首席4人による完全なアンサンブルで、それぞれがテーマを綴れ織のように装飾していく華麗な小品だが、彼らの趣味の良い音楽性とアンサンブルのテクニックを披露した1曲として楽しめる。
イタリアではサンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団が、スカラ座フィルハーモニー管弦楽団と並んで国内外で純粋なオーケストラル・ワークも演奏する名門オーケストラだが、彼らもやはり創設以来劇場用の音楽作品上演の豊富な経験を積んでいる。
前任のチョン・ミュンフンに続くパッパーノとの相性も良く、こうした作品では楽員の持っている情熱がしっかり統率されたチーム・ワークが聴きどころのひとつだろう。
2008年から2014年にかけてのライヴとセッションを集めた音源で、ロッシーニの音楽には欠かせない、切れの良いリズム感と鮮烈な音響をオン・マイクで捉えた極めて良好な音質。
今回の録音会場も前回のレスピーギと同様、ローマのパルコ・デッラ・ムージカにあるサーラ・サンタ・チェチーリアで行われた。
2002年にチョン・ミュンフンのこけら落としでオープンした2756名収容のホールで、残響は満席次で2,2秒を誇っているが、亡きヴォルフガング・サヴァリッシュの指摘でその後音響の改善がされている。
確かに大規模な管弦楽には適しているが、コーラスが加わる作品では残響が煩わしくなる傾向が否めない。
ちなみにパルコ・デッラ・ムージカには1133席のサーラ・シノーポリ、673席のサーラ・ペトラッシの3つのコンサート・ホールが向かい合わせに並んでいる。
サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団は、パッパーノが音楽監督に就任した2005年にヴァティカンの旧アウディトリウムから引っ越して、こちらに本拠地を構えている。
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近年では、その活動も低調なチョン・キョンファであるが、本盤に収められたチャイコフスキー&シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏は、22歳という若き日のもの。
次代を担う気鋭の女流ヴァイオリニストとして、これから世界に羽ばたいて行こうとしていた時期のものだ。
チョン・キョンファは、シベリウスのヴァイオリン協奏曲については本演奏の後は1度も録音を行っておらず、他方、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲については、ジュリーニ&ベルリン・フィルとの演奏(1973年ライヴ録音)、デュトワ&モントリオール交響楽団との演奏(1981年スタジオ録音)の2種の録音が存在している。
両曲のうち、ダントツの名演は何と言ってもシベリウスのヴァイオリン協奏曲であろう。
かつて影響力のあった某音楽評論家が激賞している演奏でもあるが、氏の偏向的な見解に疑問を感じることが多い筆者としても、本演奏に関しては氏の見解に異論なく賛同したい。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏は、なかなかに難しいと言える。
というのも、濃厚な表情づけを行うと、楽曲の持つ北欧風の清涼な雰囲気を大きく損なってしまうことになり兼ねないからだ。
さりとて、あまりにも繊細な表情づけに固執すると、音が痩せると言うか、薄味の演奏に陥ってしまう危険性もあり、この両要素をいかにバランスを保って演奏するのかが鍵になると言えるだろう。
チョン・キョンファによる本ヴァイオリン演奏は、この難しいバランスを見事に保った稀代の名演奏を成し遂げるのに成功していると言っても過言ではあるまい。
北欧の大自然を彷彿とさせるような繊細な抒情の表現など、まさに申し分のない名演奏を展開している。
それでいていかなる繊細な箇所においても、その演奏には独特のニュアンスが込められているなど内容の濃さをいささかも失っておらず、薄味な箇所は1つとして存在していない。
チョン・キョンファとしても、22歳というこの時だけに可能な演奏であったとも言えるところであり、その後は2度と同曲を録音しようとしていないことに鑑みても、本演奏は会心の出来と考えていたのではないだろうか。
こうしたチョン・キョンファによる至高のヴァイオリン演奏を下支えするとともに、北欧の抒情に満ち溢れた見事な名演奏を展開したプレヴィン&ロンドン交響楽団にも大きな拍手を送りたい。
いずれにしても、本演奏は、チョン・キョンファが時宜を得て行った稀代の名演奏であるとも言えるところであり、プレヴィン&ロンドン交響楽団の好パフォーマンスも相俟って、シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。
他方、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲については、ヴィルトゥオーゾ性の発揮と表現力の幅の広さを問われる楽曲であることから、人生経験を積んでより表現力の幅が増した1981年盤や、ライヴ録音ならではの演奏全体に漲る気迫や熱き生命力において1973年盤の方を上位に掲げたい。
むろん本演奏も、チョン・キョンファの卓越した技量と音楽性の高さを窺い知ることが可能な名演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。
音質は、従来CD盤では、LPで聴いていた時に比べ、チョン・キョンファのヴァイオリンの透明感がやや損なわれている印象を受けたが、今般、ついに待望のSACD化がなされるに及んで大変驚いた。
従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。
チョン・キョンファのヴァイオリンの弓使いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力を思い知った次第だ。
いずれにしても、とりわけシベリウスについて、チョン・キョンファとプレヴィン&ロンドン交響楽団による至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができることを大いに歓迎したい。
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2023年04月23日
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薫り高いドイツ音楽の王道をバックボーンにもつ名匠ブロムシュテットと名門シュターツカペレ・ドレスデンによる名盤の誉れ高いディスク。
モーツァルト後期の傑作交響曲のカップリングであるが、いずれも素晴らしい名演だ。
ブロムシュテットによる本演奏に、何か特別な個性があるわけではなく、誠実で丁寧で温かく優美な最良のモーツァルトを奏でる。
夕映えのようなモーツァルトを奏でさせたら天下一品として、ウィーン・フィルの好敵手のように讃えられてきた400年以上の伝統を誇るシュターツカペレ・ドレスデンによる極上のモーツァルト演奏である。
その音色だけで魅了されてしまうと絶賛された、モーツァルトの交響曲の最初に聴きたい最右翼盤と言えよう。
奇を衒ったり、意表を突くような余計な装飾は一切無い、オーソドックスな演奏ではあるが、このオケの美しい音色をブロムシュテットは丁寧に引き出してくれる。
テンポも、楽器の鳴らし方も、全てが標準的と言えるが、このオーケストラの音色、アンサンブルは比類のないものであり、ここでもまるで指揮者なしのような、自然で癖のない音楽運びが、繰り返し聴きたくなる演奏の秘密であろう。
ブロムシュテットは、第38番「プラハ」においては、地に足がついたゆったりした荘重なインテンポで、重厚すぎると感じられる部分もあるが、この交響曲にある優美な魅力を余計なことをしないで自然に引き出しているのが良い。
第39番においても、ゆったりとしたテンポを基本にしたスケールの大きい演奏で、愚直に楽想を進めていくのみである。
19世紀的なモーツァルト観の現代版とも言えるロマンティックなものだが、表現自体は丁寧かつ自然な流れがあるので説得力がある。
モダン・オーケストラでならこのような解釈もこの交響曲の魅力の1つとして十分に楽しめる。
ブロムシュテットは、自己の解釈をひけらかすようなことは一切せずに、楽曲の魅力をダイレクトに聴き手に伝えることのみに腐心しているようにも感じられる。
これは、作品にのみ語らせる演奏ということができるだろう。
それでも、演奏全体から漂ってくる気品と格調の高さは、ブロムシュテットの指揮による力も多分に大きいものと考える。
ブロムシュテットとシュターツカペレ・ドレスデンの落ち着きのある演奏は、その爽やかで端正な音楽の流れが何ともすがすがしく、聴いていて心の安らぎを覚えるようである。
いずれにしても、モーツァルトの第38番「プラハ」や第39番の魅力を深い呼吸の下に安心して味わうことができるという意味においては、トップの座を争う名演と言っても過言ではないと思われる。
こうした作品のみに語らせるアプローチは、時として没個性的で、無味乾燥な演奏に陥ってしまう危険性がないとは言えないが、シュターツカペレ・ドレスデンによるいぶし銀とも評すべき滋味溢れる重厚な音色が、演奏内容に味わい深さと潤いを与えている点も見過ごしてはならない。
刺激的な演奏、個性的な演奏も時には良いが、こうした何度聴いても嫌にならないどころか、ますます好きになって行く演奏、オーケストラの響きの素晴らしさに感心させられるばかりの演奏は他になかなかない。
適切なテンポで噛み締めるように演奏し、モーツァルトの個人的な情感を表現したというよりも交響曲としての陰影を克明に描いていると言えるものだが、心の中に自然としみ込んでくる演奏である。
しかし、これほどの演奏をするのは並大抵のことではない。
ここにブロムシュテットの音楽家としての力量と敬虔なクリスチャンである彼の作品に対する奉仕の姿勢がはっきりと読み取れるのではないだろうか。
表面の華麗さや古楽器などの面白味のあるモーツァルトとは正反対のモーツァルトであるが、誰が聴いても納得のいく普遍性を持つ演奏である。
残響の豊かなドレスデンのルカ教会における高音質録音がきわめて優秀な点も高く評価したい。
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本盤には、フィンランドの歴史的な名指揮者ロベルト・カヤヌスのシベリウス録音が収められているが、カヤヌスこそは、シベリウス作品を全世界に広めたパイオニア的存在である。
いま改めて聴いてみると、いまさらのようにカヤヌスの偉大な芸術に感嘆させられてしまう。
カヤヌスはシベリウスより9歳年長であったが、シベリウスの親友であり、生涯を通じてシベリウスの作品の紹介につとめ、作曲もよくし、シベリウスがもっとも信頼する指揮者として活躍した。
しかもカヤヌスは、室内楽への創作に勤しむ若きシベリウスに管弦楽曲への作曲を奨励した人物でもある。
当時はヨーロッパの片田舎であったフィンランドから、シベリウスの作品が発信され、やがて国際的に知られることになったのは、ひとえにカヤヌスの功績である。
シベリウスは、1930年代、「誰を指揮者に推薦するか」という英コロムビアからの問い合わせに、即座に「カヤヌスを」と推薦している。
コロムビア社に異存のあるわけもなく、カヤヌスはシベリウスの7つある交響曲のうちの「第1」「第2」「第3」「第5」の4作品を、ロンドン交響楽団とともに録音している。
「第3」「第5」を録音した翌年の1933年にカヤヌスは亡くなっているので、もう少し長生きしていれば、ほかの曲も入れてくれていただろう、と思うと残念だ。
ここに集められた録音は、作曲者直伝とも考えられる、もっとも正統的な解釈の演奏であり、骨の太い演奏で、ただの歴史的な記録に終わらない、本物の演奏芸術である。
シベリウス在世中の空気を生々しく肌で感じた音楽であるとともに、同時代の精神を映した鏡である。
カヤヌスは、シベリウスの書いた何気ないフレーズや複層的な和音の積み重ねに命を吹き込む特別の才能を持っていたのだ。
現在のシベリウスの演奏は、すべてがカヤヌスの芸術の後裔といってよく、改めてシベリウスの音楽から多くを発見することになろう。
これらの演奏は、いずれも凄いほどの意欲と共感に貫かれている。
交響曲第3番は意気盛んというか冒頭から強靭な力感を秘めた表現であり、ここでもテンポとアーティキュレーションには一分の隙もなく、そのため曲が端麗に構築されている。
溌剌と躍動しながらも各主題と楽想の性格が、的確な劇性をもって示されており、そこから民族の情感が滲み出ているが、終楽章の最後のコラール風主題のテヌートのきいた表情、ひた押しに加速するテンポの様相も素晴らしく、確信にみちた高潮の軌跡が描かれている。
もちろんカヤヌスは交響曲第5番でも独自の音楽世界を開拓しており、その活力と生命力は鋭い動感にあらわされているが、第2楽章では朗々とした歌が湧き上がり、音楽の変転が内面のロマンの様相と完全に一致した感をあたえる。
すべてが計算されつくした緻密さをもちながら、そうと感じさせない流動感も見事なものである。
そして終楽章では、この作品独自の構成を鮮明にあらわし、音楽は終末の完成を目指して突進し、短い動機も旋律のように歌うが、そのアゴーギクがまた創意豊かである。
かくて最後に集約されるクライマックスは、意外にも淡泊だが、壮麗をきわめ、素晴らしい感動を呼び起こすのである。
これらの演奏を聴くと、シベリウスは何と理想的な指揮者を得たのだろうか、と思う。
いや、それよりも驚嘆するのは、カヤヌスという巨大な存在が、1930年代に、いま聴いても新鮮な音楽をつくっていたという、それこそ驚くべき事実である。
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1970年代半ばのカラヤンは、耽美的表現が完成した時期であり、カラヤンの切れ味鋭い棒の魔術をたっぷりと堪能できる。
演奏は文句のつけようがないほど素晴らしく、カラヤンはチャイコフスキーを十八番にして、得意中の得意としていたが、豪壮華麗な演奏で、チャイコフスキーらしいチャイコフスキーであることは間違いない。
ベルリン・フィルとの関係が最も良好であったこと、オーケストラの機能とカラヤンの表現意欲がピークにあったことをこのディスクは示す。
交響曲第4番はこれが6度目の録音。
「第4」はライヴ的な迫力が魅力の1971年盤と、最晩年の荘重な巨匠風の名演を聴かせてくれる1984年盤の間にあって、若干影が薄い感があるが、全盛期のカラヤンとベルリン・フィルの黄金コンビが成し遂げた最も完成度の高い名演は、この1976年盤ではなかろうか。
カラヤンは、優美なレガートを軸としつつ、どんなに金管を力奏させても派手すぎることなく、内声部たる弦楽器にも重量感溢れるパワフルな演奏を求め、ティンパニなどの打楽器群も含めて重厚な演奏を繰り広げた。
こうした演奏は、華麗で分厚いオーケストレーションを追求し続けたチャイコフスキーの楽曲との抜群の相性を感じる。
同時代の巨匠ムラヴィンスキーは、チャイコフスキーの「第5」を得意とし、インテンポによる荘重な名演を成し遂げたが、これに対してカラヤンの演奏は、テンポを目まぐるしく変えるなど劇的で華麗なもの。
交響曲第5番は、これが4度目の録音。
ムラヴィンスキーの「第5」は確かに普遍的な名演に違いないが、カラヤンの「第5」も、チャイコフスキーの音楽の本質を的確に捉えた名演だと思う。
まさに両者による名演は、東西の両横綱と言っても過言あるまい。
重厚でうなるような低弦、雷鳴のように轟くティンパニ、天国から声が響いてくるような甘いホルンソロなど、ベルリン・フィルの演奏はいつもながら完璧であり、そうした個性派の猛者たちを巧みに統率する全盛期のカラヤン。
この黄金コンビの究極の名演の1つと言ってもいいだろう。
生涯に何度も「悲愴」を録音したカラヤンであるが、これが6度目の録音。
先般、死の前年の来日時の録音が発売されて話題となったが、それを除けば、ベルリン・フィルとの最後の録音が本盤ということになる。
1988年の来日盤は、ライヴならではの熱気と死の前年とは思えないような勢いのある演奏に仕上がっているが、ベルリン・フィルの状態が必ずしもベストフォームとは言えない。
その意味で、カラヤンとベルリン・フィルという黄金コンビが成し遂げた最も優れた名演ということになれば、やはり本盤を第一にあげるべきであろう。
第1楽章の第1主題の展開部や第3楽章の終結部の戦慄を覚える程の激烈さ、第1楽章の第2主題のこの世のものとも思えないような美しさ、そして第4楽章の深沈とした趣き、いずれをとっても最高だ。
この黄金時代の録音は、録音の良さもさることながら、完全無欠なものに仕上がっていて、見事にカラヤン色に染められてしまったオーケストラの音色を味わう事が出来る最上の輸入廉価盤である。
カラヤンの録音は往々にしてホールの比較的後方から聴いているような柔らかい音色と、包み込まれる様なふくよかな中低域がその特色であり魅力でもあるかと思う。
全体的にこの上なく美しいチャイコフスキーで、いかにもカラヤンらしい表現ではあるけれども、ファーストチョイスで問題ないだろう。
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2023年04月22日
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2013年にヴェルディとワーグナーという、どちらも劇音楽の大家でありながら一方は人間の喜怒哀楽を、そして他方は神々の世界を執拗に描いた音楽史上対照的な2人の作曲家の生誕200周年記念を迎えたことで、既に複数のレーベルからオペラ全集を始めとするセット物がリリースされている。
既に60歳を越えたリッカルド・シャイーがヴェルディ・イヤーに因んでスカラ座フィルハーモニー管弦楽団を振ったこのセッションはその先鞭をつけたものだ。
様式化された番号性オペラに則って、ひたすら声を響かせることによって究極の人間ドラマをものしたヴェルディの作品では、序曲や前奏曲はあくまでも劇的な雰囲気を演出する手段であって、ライトモティーフを始めとするワーグナーの複雑な心理手法とは異なる、より視覚に訴えた劇場空間でこそ効果を発揮するものだ。
だからこのようなアンソロジーは下手にいじるより、彼の指揮のようにストレートに表現するのが理想的だ。
そのあたりはさすがにイタリアのマエストロの面目躍如で、オーケストラを人が呼吸するように歌わせながら、流れを止めない推進力と屈託のない明るい音色を極力活かしている。
リリカルなものとしては『椿姫』第1幕への前奏曲、ドラマティックな表現としては『運命の力』序曲が聴きどころだ。
このCDには普段あまり聴くことのない『海賊』や『ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)』そして『イェルサレム』などからもピックアップされているところにシャイーの一工夫が見られる。
名門スカラ座フィルハーモニー管弦楽団はアバドによって1982年に正式に組織されたオーケストラだが、その母体は1778年に劇場と同時に設立された専属のミラノ・スカラ座管弦楽団としての伝統を持っていて、トスカニーニやデ・サーバタなどの指揮者による名演も数多く残している。
彼らの演奏の白眉は何と言ってもオペラやバレエを始めとする舞台芸術作品だが、アバド以来国際的なトゥルネーに出てベートーヴェンやマーラーなどのシンフォニック・レパートリーも披露している。
リッカルド・シャイーとは既に1995年のセッションでロッシーニ序曲集をやはりデッカからリリースしていて彼らの久々の協演になる。
今回のアルバムでも言えることだが、オーケストラはいくらか線の細い明るい音色を持っていて、決して重苦しくならない柔軟で解放的な響きが特徴だ。
2012年の録音で音質、臨場感共に極めて良好。
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アバドお気に入りのルツェルン祝祭管弦楽団やモーツァルト管弦楽団のメンバーも兼任するソリストたちとの愉悦に満ちた、現代最高と評されるモーツァルト演奏である。
本盤に収められたアバド&モーツァルト管弦楽団のメンバーによるクラリネット協奏曲、ファゴット協奏曲、フルート協奏曲第2番は、第1弾のホルン協奏曲全集、第2弾の協奏交響曲、フルートとハープのための協奏曲に続くモーツァルトの管楽器のための協奏曲集の第3弾である。
アバドは、今般の管楽器のための協奏曲集の録音開始以前にも、若手の才能ある音楽家で構成されているモーツァルト管弦楽団とともに、モーツァルトの主要な交響曲集やヴァイオリン協奏曲全集などの録音を行っており、お互いに気心の知れた関係であるとも言える。
それだけに、本演奏においても息の合った名コンビぶりを如何なく発揮していると言えるところであり、名演であった第1弾や第2弾に優るとも劣らない素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。
3曲とも速めのテンポでのびのびとした爽快な演奏で、アバドとモーツァルト管弦楽団のメンバーがモーツァルトの名曲を演奏する喜びが伝わってくる。
本演奏でソロをつとめたのは、いずれもモーツァルト管弦楽団の首席奏者をつとめるなど、アバドの芸風を最も理解している気鋭の若手奏者であり、アバドとともにこれらの協奏曲を演奏するには申し分のない逸材である。
クラリネットのアレッサンドロ・カルボナーレ、ファゴットのギヨーム・サンタナ、 フルートのジャック・ズーンは、来日公演や指導を重ね、木管好きの人々や、若い音楽学生にはおなじみの面々で、妙な癖も強い灰汁もなく、技術的には折り紙付きだ。
いずれの演奏も、卓越した技量をベースとしつつ、アバドによる薫陶の成果も多分にあると思われるところであるが、あたかも南国イタリアを思わせるような明朗で解放感に溢れたナチュラルな音色が持ち味である。
そして、その表現は意外にも濃密で、歌謡性豊かでロマンティシズムの香りさえ漂っているところであり、いわゆる古楽器奏法を旨とする演奏としては異例と思われるほどの豊かな情感に満ち溢れていると言っても過言ではあるまい。
また、アバドの指揮についても指摘しておかなければならないだろう。
アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督の退任間近に大病を患い、その大病を克服した後は彫りの深い凄みのある表現をするようになり、晩年は現代を代表する大指揮者であったと言えるが、気心の知れたモーツァルト管弦楽団を指揮する時は、若き才能のある各奏者を慈しむような滋味豊かな指揮に徹している。
本演奏でも、かかるアバドによる滋味豊かな指揮ぶりは健在であり、これらの気鋭の各若手奏者の演奏をしっかりと下支えするとともに、演奏全体に適度の潤いと温もり、そして清新さを付加するのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。
これらの演奏には、自分よりずっと若い演奏家たちと音楽を楽しむアバドの晩年の心境が伝わってくる。
筆者が最も感銘を受けたのはクラリネット協奏曲で、晩年のアバドの一連のモーツァルト録音で、一際印象的なものに思える。
第1,3楽章は、速めのテンポで一切の感傷と無縁、むしろ急ぎ過ぎるのではと思える程に音楽が流れて行き、時折現れる劇的な部分も作為的な強調が全くなく、すべてが心からの明るい日差しの中に解決して行く。
しかしながら、おそらくこの世で一番、何らかの思惑から解き放たれた音楽は、故吉田秀和氏が「あまりにも美しく明るい故に、その背後にある悲しみを感じさせないではいられない」という言葉を実感させる、本当に数少ない瞬間にまで自分たちを連れて行く。
ことに第3楽章の天上を走っているとしか思えない音楽は、それが故に知らず知らず抑えきれないものがこみ上がってくる。
そして第2楽章のアダージョは、誰が演奏しても美しいけれど、ここに聴かれる程に(決してもたれたり感傷的でないのに)生との別れ、を実感させることは稀ではないだろうか。
これは、ソリスト、オーケストラ、指揮者が結び合った名演であり、他の2曲も、最上の美しさを湛えており、あまり目立たないけれど、心からお薦め出来る盤ではないかと思われる。
音質も、SHM−CD仕様を施され、十分に満足できる鮮明な高音質であると高く評価したい。
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このCDの音源はリヒテル・アメリカ・デビュー盤のひとつとしてLP時代から評価の高いものだった。
過去にはラインスドルフ&シカゴ響とリヒテルの爆演のように言われたこともあるが、良く聴いてみるとシカゴ響はラインスドルフによって非常に良くコントロールされていて、力強いが野放図な音を出しているわけではなく、リヒテルも決して力に任せて対決するような姿勢ではない。
そこには極めてスケールの大きい音楽的な構想を持ったピアニズムが展開されていて、両者の張り詰めた緊張感の中に溢れるほどのリリシズムを湛えた演奏が感動的だ。
またリヒテル壮年期の水も漏らさぬテクニックの冴えもさることながら、第3楽章を頂点として随所にあらわれる抒情の美しさが如何にもリヒテルらしい。
一方ここにカップリングされたベートーヴェンのピアノ・ソナタ『熱情』は同年にニューヨークのカーネギー・ホールで録音されたもので、当初はもう1曲の『葬送』と共にリリースされた。
この2曲のソナタは2004年にXRCD化もされているが、リヒテルの凄まじい集中力と緊張感の持続が恐ろしいほど伝わってくる。
彼自身はこの演奏を嫌って失敗作のように言っていたが、音楽的な造形からも、またその表現力の幅広さと強烈なダイナミズムからもベートーヴェンに相応しい曲作りで、本人ならともかく、あらを探すような次元の演奏ではないと思う。
1960年にリヒテルはアメリカにおいて一連のセッション及びライヴから当地でのファースト・レコーディングを行っているが、このCDに収められている2曲もその時の音源で、リヴィング・ステレオの良質なマスターが今回のDSDリマスタリングによって更に洗練された音質で蘇っている。
ソニー・クラシカル・オリジナルスは古い音源を最新の技術でリマスターして、それまでのCDとは異なった音響体験を提案している興味深いシリーズだが、何故か音源によってリマスタリングの方法が違う。
このCDではSACD用のDSD方式が採用されているが、同シリーズの総てのCDと同様レギュラーのCDに収めてあり、ミドル・プライスで提供しているのがメリットだ。
音質は鮮明で協奏曲ではシカゴ・オーケストラ・ホールの音響空間もよく再現されている。
またピアノも潤いのある自然で艶やかな音色が特徴で、オーケストラとのバランスも理想的だ。
尚ライナー・ノーツは10ページほどでLP初出時のオリジナルの解説が英、独、仏語で掲載されている。
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2023年04月21日
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ダヴィッド・フレーはこれまで既に2枚のアルバムでシューベルトの作品集をリリースしている。
彼が最初に手がけたのがカナダのアトマ・レーベルから出た『さすらい人幻想曲』で、リストのロ短調ソナタとのカップリングだったが、それはどちらかというと彼のヴィルトゥオジティが発揮された1枚だった。
その後の彼はあえてメカニカルな技巧誇示を避けるような選曲で、自身のリリカルな感性を思いのままに表出させることに成功している。
エラートからの『楽興の時』ではこの小品集に独自のスタイルで幅広い表現の可能性を示したが、今回のソナタ第18番ト長調D.894でもシューベルトのウェットな歌心と音楽への愉悦に溢れている。
リヒテルの同曲の演奏を聴くと寂寥感が滲み出ていて作曲家の諦観を感じさせずにはおかないが、フレーは同じようにゆったりとしたテンポを取りながら、天上的な長さを持つ第1楽章を深い陰翳が交錯するような詩的な美学で弾き切っている。
シューベルトが数百曲ものリートをものした歌曲作曲家であったことを考えれば、こうした解釈にも説得力がある。
またもうひとつの愛らしいピース『ハンガリー風メロディー』D.817でもニュアンスの豊かさと殆んど映像的でセンチメンタルな描写が極めて美しい。
後半ではフレーのパリ音楽院時代の師、ジャック・ルヴィエを迎えてシューベルトの4手のための作品2曲を演奏している。
曲目は『幻想曲へ短調』D.940及びアレグロイ短調『人生の嵐』D.947で、彼らの連弾には聞こえよがしのアピールはないが、かえって抑制されたインティメイトな雰囲気の中に、変化に富んだタッチのテクニックを使い分けて彫りの深い音楽を浮かび上がらせている。
低音部を受け持つルヴィエも流石に巧妙で、フレーの構想するシューベルトの物語性をセンシブルにサポートしているのが聴き取れる。
フレーはコンサートはともかくとして録音に関しては目下のところフランス物には目もくれず、ドイツ系の作曲家の作品ばかりを取り上げている。
それは彼のラテン的な感性が図らずもゲルマンの伝統を受け継ぐ音楽にも対応可能なことを実証しているように思える。
ちなみに彼がこれまで録音したベートーヴェンのソナタは1曲のみだが、シューベルトの作品集への研鑽が来たるべきベートーヴェンへの足がかりになっているような気がしてならないし、またそう期待したい。
潤いのあるピアノの音色が効果的に採音された録音も充分満足のいくものだ。
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古今東西の名指揮者の中で、誰が最もモーツァルティアンかときかれた時、筆者はためらわずに最初にカラヤンに指を屈するであろう。
特に1960年代以降の円熟したカラヤンに。
1つにはカラヤンの天性が、モーツァルトの“歌”を歌うことができることである。
指揮者のタイプの中には、リズムに秀でた人、バランス感覚にすぐれた人、統率力のある人、個性的な音楽を作る人など、いろいろの特徴があるわけであるが(もちろんそれらを集成したのが大指揮者なのだが)モーツァルト演奏する場合は、特にこの作曲家の、こんこんと湧いて尽きぬ歌の泉とその千変万化の流れとを、直感的に本能的に捉えられる指揮者でないと、モーツァルトの美しさのエッセンシャルな部分を表現できないことになってしまう。
モーツァルトの音楽を精妙に造型する指揮者がいても、それだけではもうひとつ足りないのである。
ほとんどドミソでできたようなテーマでも、モーツァルトの場合は、不思議なことには“歌”なのだから。
その意味では現在に至るまで、カラヤンの右に出る指揮者はいないであろう。
さらには(当然のことだが)カラヤンはモーツァルトを良く研究し、正確に把握している。
その一例は、彼の後期シンフォニーの録音に際して、かなり大きな編成のオーケストラを使ったということである。
その理由は、彼自身の言葉によれば、「モーツァルトはいつでも60人、70人という当時としては大きなオーケストラの響きが好きだった、ということが手紙を読めばわかる」というのである。
事実その通り、モーツァルトはパリやウィーンの大きなオーケストラの響きを好んでいた。
カラヤン&ベルリン・フィルは、スケール大きな堂々たる演奏で、独自の自己主張を表した表情がときに牛刀をもって鶏を割く感も与えるが、いっぽうで磨き上げた音彩と柔らかいニュアンスが特色と言える。
ここに収められた9曲では、特に第32、33番が端麗な美感で聴き手を説得する。
また第29番は輪郭をぼかしたような響きとレガートの用法がカラヤン風であり、彼が独自のモーツァルト観を持っていたことを示している。
有名なト短調シンフォニー(K.550)は、どこでいつ演奏されたのか(あるいは何のために書いたのか)もわからない3曲の1つであるが、この曲には2つの版があり、あとの版ではクラリネットを加えて木管の響きを変えると同時に音を厚くしている。
その理由はいくつか推測できるとして、その中には、モーツァルトが大きな弦編成を考えていたということも挙げられよう。
この曲をひどく感傷的な理由で、原形のまま演奏することも行われるようだが、モーツァルトが自分の意志でわざわざ改作したものを、ことさらに原形に演奏するのは愚かなことではあるまいか。
カラヤンは? カラヤンはもちろんクラリネットを入れた形で演奏している。
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本盤に収められたドヴォルザークの交響曲第8番及び第9番「新世界より」は、クーベリック&ベルリン・フィルのコンビによる交響曲全集からの抜粋である。
クーベリックは、ドヴォルザークの交響曲、とりわけ「第8」及び「第9」については何度も録音しているが、その中でも最も優れた演奏は、本盤に収められたベルリン・フィル盤であると考える。
「第8」については、その後、バイエルン放送交響楽団とともにライヴ録音(1976年)、「第9」については、バイエルン放送交響楽団(1980年)、次いでチェコ・フィル(1991年)とともにライヴ録音している。
バイエルン放送交響楽団との演奏は、いずれも演奏自体は優れた名演に値するものであるが、ノイズの除去のために低音域を絞ったオルフェオレーベルの音質が演奏のグレードを著しく貶めていることになっており、筆者としてはあまり採りたくない。
「第9」のチェコ・フィル盤は、ビロード革命後のチェコへの復帰コンサートの歴史的な記録であり、演奏全体に熱気は感じられるが、統率力にはいささか綻びが見られるのは否めない事実である。
こうした点からすれば、クーベリックによるドヴォルザークの「第8」及び「第9」の決定盤は、本盤に収められた演奏ということになる。
それどころか、他の指揮者による名演と比較しても、トップの座を争う名演と高く評価し得るのではないだろうか。
このうち「第8」は、1966年と録音年がいささか古いが、それだけにベルリン・フィルが完全にカラヤン色に染まっていない時期の録音であり、チェコの大自然を彷彿とさせるような情感の豊かさや瑞々しさが演奏全体に漲っているのが特徴だ。
テンポなども随所で変化させており、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫が漲っているが、音楽の自然な流れをいささかも損なっていないのが素晴らしい。
本盤の4年後に、セル&クリーヴランド管弦楽団による同曲最高の超名演(1970年)が生まれているが、本演奏はそれに肉薄する超名演と高く評価したい。
これに対して、「第9」は1972年の録音で、ベルリン・フィルがほぼカラヤン色に染まった時期の録音だ。
それだけに、全体的にはチェコ風の民族色がやや薄まり、より華麗で明瞭な音色が支配しているように感じる。
それでも情感の豊かさにおいてはいささかの不足もなく、「第9」の様々な名演の中でもトップの座を争う名演であることには変わりはない。
ただ、名演としての評価は揺るぎがないものの、クーベリックらしさと言う意味においては、「第8」と比較するとややその個性が弱まっていると言えるところであり、このあたりは好き嫌いが分かれるのかもしれない。
ベルリン・フィルも、両演奏ともにクーベリックの指揮の下、素晴らしい演奏を繰り広げており、各管楽器奏者の卓越した技量には惚れ惚れするほどだ。
音質については、リマスタリングがなされるなどかなり良好なものであるが、先般、ユニバーサルがシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化が図られることになった。
これは、当該演奏が至高の超名演であることに鑑みても、歴史的な快挙と言えるだろう。
当該シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、これまでの既発のリマスタリングCDとは次元が異なる極上の高音質であり、音質の鮮明さ、音圧、音場の広さのどれをとっても一級品の仕上がりである。
クーベリックによる歴史的な超名演、そしてドヴォルザークの交響曲の第8番及び第9番の演奏史上トップの座を争う至高の超名演を、このような極上の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。
また、可能であれば、それ以外の交響曲についても、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を望む聴き手は筆者だけではあるまい。
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2023年04月20日
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当時のFM東京の音源は2002年に初出の際、レギュラー・フォーマットのCD2枚組でリリースされた。
これは本当に凄いバッハで、初めて聴いた時、筆者はシェリングの傑出した表現力とそれを支える万全なテクニック、そしてその鮮烈な音質に驚いたものだが、その後リイシュー盤を出しながらもこれらのCDは既に廃盤の憂き目に遭っている。
今回のSACD化では音場の広がりとそこから醸し出される空気感がより立体的な音像を提供しているのが特徴と言えるだろう。
尚前回余白に収められていたシェリング自身の語りによるバッハ演奏のためのヴァイオリン奏法や解釈についてのコメントは省略されている。
本番に強かったシェリングはスタジオ録音の他にも多くのライヴで名演を残しているが、中でも最も音質に恵まれているのは間違いなくこのSACDだろう。
当日のプログラムは彼の生涯の課題とも言うべきバッハの作品のみを取り上げた興味深いもので、完璧主義者のシェリングらしく演奏は精緻でバッハの音楽構成と様式感を明瞭に再現しながらも、ライヴ特有の高揚感と熱気が間近に感じられる。
実演に接した人の話のよると、シェリングのヴァイオリンの美音が冴え、バッハにしては甘美すぎるのではないかという印象があったらしい。
この録音ではそういう感じはまったくなく、しなやかで明るく、洗練された雰囲気を漂わせた親しみやすいバッハになっている。
スケールも一段と大きく、シェリング得意の美音で、実に厳しく清澄で、豊麗、流麗なバッハを聴かせてくれる。
厳格一点ばりのバッハではなく、厳格さのなかにヒューマンな感情があり、そこが人々が支持するゆえんであろう。
シェリング気迫と円熟の至芸であり、その一点一画もゆるがせにしない音楽の作り方は、一貫した力に満ちた真に辛口の音楽とでも言えるところであり、レコード並みの完璧さでありながらライヴならではの感興の盛り上がりに聴き手は息もつくことができない。
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番も冒頭から終曲まで異常な求心力で演奏される。
中でも終曲シャコンヌは、音楽的に全く隙のない構成力とそれを余すところなく聴かせる表現の巧みさ、そして緊張感の持続が最後の一音まで貫かれていて、最後の一音が消えると、この世ならざる感動に満たされ、演奏が終わった時に聴衆が息を呑む一瞬が印象的だ。
このシャコンヌを聴くと、シェリングが作品のひとつひとつの音のもつ意味というものを、いかに考えているかがよくわかる。
2曲のソナタのピアノ・パートは彼としばしば共演したマイケル・イサドーアで、控えめながら端正で確実な演奏が好ましい。
このようなライヴが、かつて日本で存在したことにも感謝したい。
また、シングルレイヤーによるSACD化により音質も大変良くなり、従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。
シェリングのヴァイオリンの弓使いが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、まるでシェリングが顔前にいるかのようなリアリティさえ感じられ、あらためてSACDの潜在能力を思い知った次第だ。
いずれにしても、1976年の日本での偉大なコンサートがこのような最上の音質で聴けることを大いに喜びたい。
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洗練を極めたジュリー二の『ドン・ジョヴァンニ』である。
バス歌手によって歌われたタイトル・ロールとしては1954年のフルトヴェングラー、シエピによるザルツブルク・ライヴが個人的には圧倒的な名演として思い出される。
一方バリトンが歌ったものではこの1959年のセッションを最も優れた『ドン・ジョヴァンニ』として挙げたい。
それは主役のヴェヒターだけではなく、タッデイ、シュヴァルツコップ、サザーランド、シュッティ、アルヴァ、カプッチッリのキャスティングが万全で、全体的に見通しの良い、また重厚になり過ぎないイタリア趣味の音楽に仕上げてあるのが特徴だ。
歌手もオーケストラもインターナショナルな混成メンバーであるにも拘らず、ジュリー二の統率が素晴らしくモーツァルト特有の瑞々しさ、シンプルな美しさ、そして終幕のデモーニッシュな翳りはやや控えめにして、むしろ作品の快活さを前面に出している。
エヴァーハルト・ヴェヒターの颯爽たるドン・ジョヴァンニは、若々しく品のある貴族然とした歌唱で、この役柄を劇中で突出させることのない等身大の人物に描いてみせている。
ヴェヒターだけではないが、ジュリー二の指導の成果と思われるイタリア語のレチタティーヴォの発音とそのニュアンスの多様な表現を誰もが巧妙にこなしていることにも感心した。
こうした番号制のオペラではストーリーの展開を手際良く進め、それぞれの役柄を明確にするために欠かせない唱法だが、イタリア人以外の歌手達も流石に巧い。
またこの演奏でジュリーニは狂言回し的なレポレッロ役にもバスではなく、バリトンのタッデイを配して軽妙なドラマ・ジョコーソの味を出している。
バスとバリトンの明確な区別がなかった時代の作品なので、ここでも声質の特徴を見極めた歌手の抜擢が功を奏している。
ジュリーニはオペラ指揮者としての手腕を高く評価された人だが、現在では彼の振ったオペラは管弦楽に比べるとそれほど話題に上らないのが残念だ。
確かにジュリーニは1970年代に入るとオペラ界から次第に手を引いていき、メトロポリタンからの招聘も断わり続けた。
その理由は忙しく世界中の劇場を移動して歌いまくる質の落ちた歌手と、短時間のやっつけ仕事で仕上げなければならない制限された稽古では、ジュリーニの理想とする舞台作品を創造することが困難だと考えたからだ。
辛辣だが真摯に音楽に奉仕する指揮者としてのポリシーを貫いた見解で、ジュリーニの芸術家としての固い信念が窺える。
これだけオペラに造詣が深く、経験豊富なベテラン指揮者を失ってしまったことは、オペラ界にとっても大きな損失だったに違いない。
尚4枚目はボーナスCD−ROMになっていて、CD初出時のライナー・ノーツ及びイタリア語の全歌詞と独、英、仏の三ヶ国語の対訳が掲載されており、バジェット価格盤にしては親切な配慮だ。
1959年の録音だが、リマスタリングされた音質は極めて良好。
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ブロムシュテット初のブルックナー録音で、シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者を務めていた時期(1975〜85年)に残された最良の演奏のひとつ。
同じコンビによる「第4」も極上の名演であったが、本盤もそれに優るとも劣らない出来を誇っている。
「第7」は、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色を十分に生かしたブロムシュテット壮年期の素晴らしい稀有の名演として高く評価したい。
ブロムシュテットは、北欧の出身でありながら、ドイツ音楽を得意とするとともに、オードソックスなアプローチをする指揮者であると考えているが、本演奏でも、そうしたブロムシュテットの渋い芸風が曲想に見事にマッチングしていると言えるだろう。
いささかも奇を衒うことなく、インテンポによる自然体のアプローチが、「第7」の魅力を聴き手にダイレクトに伝えることに大きく貢献している。
指揮者もオーケストラも作品に奉仕した演奏と言えば良いのか、ここには作為めいたもの、過剰なもの、演出めいたものは一切なく、ただブルックナーの豊かな音楽が滔々と、淀みなく、しかも温かい温度感をもって流れている。
カンタービレの心が優しく、音楽の表情がふくよかであり、そうした幸福感が自然に聴き手を包み込んでくれる。
ブロムシュテットの指揮は敬虔な信仰家といった趣があり、過剰さはないが、人間の音楽としてのふくらみがあり、不足感はまったく感じさせない。
オーケストラのサウンドがまた素晴らしい。
ウィーン風のふくよかで雄大ながら愚純な趣のブルックナーともドイツ風のどこか無骨な巨人のようなブルックナーとも違う、引き締まってガッチリした壮大かつ精緻なブルックナーが聴ける。
これは、神と対話するオルガン的な宗教サウンドのブルックナーではなく、コンサート・ホールで交響曲としてサウンドさせるシンフォニック・ブルックナーの理想形のひとつかも知れない。
第1楽章の展開部や第2楽章のモデラートの進ませ方は丁寧すぎるとも言えるが、スケルツォの躍動とフィナーレにおける高揚により、すべてが明るく解決している。
特に終楽章の大聖堂のような充実した構築性は素晴らしい。
加えて、前述のように、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀のジャーマンサウンドが、演奏に潤いを与えている点も見過ごしてはならない。
深みのある弦と金管とのブレンドが美しく、落ち着いた佇まいをもった、端然とした演奏である。
ドレスデン・ルカ教会の豊かな残響も、同オーケストラの音色をより豊穣なものとしている点も大きなプラスだ。
音質は今回のBlu-spec-CD化によって、長年の渇きが漸く癒されたと言えるところであり、さすがにSACDにはかなわないが、従来盤と比較すると鮮明さが相当に増しており、本演奏の価値は大いに高まったと考える。
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2023年04月19日
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本盤には、ビゼーが作曲した南フランスの牧歌的な風景の中で繰り広げられる劇音楽から編纂した馴染み深いメロディが次々に登場する「アルルの女」組曲と情熱的なスペイン情緒を背景にした歌劇の名旋律を独立したオーケストラに再編した「カルメン」組曲などが収められている。
本盤に収められた演奏は、カラヤンがこれらビゼーの2大有名管弦楽曲を手兵ベルリン・フィルとともに行った演奏としては、1度目の1970年盤のスタジオ録音ということになる。
1980年代にスタジオ録音された新盤も、一般的な意味においては、十分に名演の名に値すると言えるであろう。
しかしながら、本盤に収められた1970年の演奏があまりにも素晴らしい超名演であったため、本演奏と比較すると新盤の演奏はいささか落ちるということについて先ずは指摘をしておかなければならない。
カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代は1960年代、そして1970年代というのが一般的な見方であると考えられるところだ。
この黄金コンビによる同時期の演奏は、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの朗々たる響き、桁外れのテクニックを披露する木管楽器の美しい響き、そして雷鳴のようなティンパニの轟きなどが鉄壁のアンサンブルの下に一体化した完全無欠の凄みのある演奏を繰り広げていた。
そして、カラヤンは、ベルリン・フィルのかかる豪演に流麗なレガートが施すことによって、まさにオーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していたと言える。
しかしながら、1982年にザビーネ・マイヤー事件が勃発すると、両者の関係には修復不可能なまでの亀裂が生じ、この黄金コンビによる演奏にもかつてのような輝きが一部の演奏を除いて殆ど聴くことができなくなってしまった。
新盤に収められた演奏は1982〜1984年にかけてのものであり、これは両者の関係が最悪の一途を辿っていた時期でもあると言える。
加えてカラヤン自身の健康悪化もあって、新盤の演奏においては、いささか不自然なテンポ設定や重々しさを感じさせるなど、統率力の低下が顕著にあらわれていると言えなくもないところだ。
したがって、カラヤンによるこれらの楽曲の演奏を聴くのであれば、前述のようにダントツの超名演である1970年盤の方を採るべきであると考える。
演奏は、カラヤン一流の緻密な設計と巧妙な演出の光るもので、その豊かな表現力には舌を巻く。
カラヤンの指揮した舞台の付随音楽は天下一品といってよく、この「カルメン」組曲の前奏曲など、まさに幕開きの音楽にふさわしい劇場風の華やかな気分にあふれている。
「アルルの女」も文句のつけようのない卓越した演奏で、カラヤンの卓抜な棒がそれぞれの曲の性格をくっきりと浮き彫りにしている。
本演奏でカラヤンがみせる執念と集中力はたいへんなもので、手になれた作品を扱いながら、手を抜いたところは少しもなく、南欧特有の陽光に包まれた情緒を豊かに匂わせている。
ベルリン・フィルの木管セクションの軽妙洒脱な歌いまわしも絶妙といっていいほど冴え渡っており、愉悦感に満ち溢れた規範的な演奏を繰り広げている。
音質については、これまでリマスタリングが行われたこともあって、本従来盤でも十分に良好な音質である。
もっとも、新盤の演奏においては、とりわけ緩徐箇所における情感豊かな旋律の歌わせ方などにおいて、晩年のカラヤンならではの味わい深さがあると言えるところだ。
そして、管弦楽曲の小品の演奏におけるカラヤンの聴かせどころのツボを心得た語り口の巧さにおいては、新盤の演奏においてもいささかも衰えが見られないところであり、総じて新盤の演奏も名演と評価するのにいささかの躊躇をするものではない。
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オトマール・スウィトナーは長くNHK交響楽団を指揮をしていたので日本になじみが深かった指揮者である。
この5枚組CDでは、スウィトナーが最も得意としてきたモーツァルトのオペラ演奏の最良の録音を聴くことができる。
スウィトナーは当然ながら自国の作曲家モーツァルトを重要なレパートリーにしていたが、この5枚組の作品集はベルリン・レーベルから2セットほどリリースされているうちの劇場用作品を集めたものでオペラ序曲集、『コシ・ファン・トゥッテ』全曲、そしてバリトンのヘルマン・プライ及びテノールのペーター・シュライアーとのアリア集がそれぞれ1枚ずつ加わっている。
ちなみにもうひとつの方は交響曲を始めとする6枚組のオーケストラル・ワーク集になる。
いずれもスウィトナーの生気に満ちて機知に富んだモーツァルトが鑑賞できる理想的なアルバムとしてお薦めしたい。
オーケストラは後半の2枚のアリア集がシュターツカペレ・ドレスデンで、それ以外は総てシュターツカペレ・ベルリンとの共演になる。
序曲集での疾走感と共に気前良く引き出す音響は彼の才気を感じさせるオリジナリティーに溢れたモーツァルトだ。
スウィトナーの仕事の中でもその基礎固めになったのがドレスデンとベルリンの国立歌劇場でのカペルマイスター、つまり楽長としてシーズン中のオペラやバレエの上演と定期的なコンサートの公演をすることだった。
純粋な器楽曲に比較すれば劇場用作品は歌手やコーラス、バレエとの下稽古、演出家との打ち合わせや舞台美術を伴ったリハーサルなど、煩雑な準備を経なければ実現できない。
それゆえカペルマイスターは高い音楽性の持ち主だが厳格であるよりはむしろ融通の利く、また制作に携わる人々や出演者から信頼を得る人柄が要求される。
実際スウィトナーの音楽を聴いていると八方を見極めて俯瞰しながら音楽をまとめていく稀有な才能を感じさせる。
作品のディティールは疎かにしないが細部に凝り過ぎず、全体に一貫する大らかなトーンを生み出す手腕はモーツァルトとも極めて相性が良い。
こうした声楽を含む曲種では歌唱だけでなく感情の機微を良く心得ていたスウィトナーの人柄が滲み出たサポートを聴くことができる。
またヘルマン・プライのアリア集は手に入りにくい状態だったので、ペーター・シュライアーの1枚と共にここに収録されたことを歓迎したい。
スウィトナーの柔らかなバックでプライが自由自在に歌う、その伝説的録音があざやかな音で蘇っている。
尚スウィトナーの80歳記念にリリースされた11枚組にはシルヴィア・ゲスティのソプラノによる、やはりドレスデンとの演奏会用コロラトゥーラ・アリア集が組み込まれているが、どちらにもバス用のアリア集が欠けている。
スウィトナーはバスのテオ・アダムともモーツァルト・アリア集を録音しているが総てバリトンのレパートリーで、『後宮』のオスミンや『魔笛』のザラストロなどの本格的なバスのためのアリアをオペラ全曲盤でしか聴けないのが残念だ。
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2013年2月17&21日、ロンドン、バービカンセンターに於けるライヴ録音。
2011年にリリースされた交響曲第4番「ロマンティック」が、近年の充実ぶりを示す演奏内容との高評価を得ていたハイティンク&ロンドン交響楽団が、今度はブルックナーの交響曲第9番をレコーディング。
ハイティンクの円熟を感じさせる素晴らしい名演の登場だ。
ハイティンクは、全集マニアとして知られ、さすがにハイドンやモーツァルトの交響曲全集は録音していないが、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、マーラー、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなど、数多くの作曲家の交響曲全集のスタジオ録音を行ってきているところだ。
ブルックナーについても、ハイティンクは早くも40代前半にコンセルトヘボウ・アムステルダムと交響曲全集録音を完成させ、今日に至る豊富なディスコグラフィからも、当代有数のブルックナー指揮者としてのハイティンクの業績にはやはり目を瞠るものがある。
そのなかでも近年のハイティンクが、良好な関係にある世界有数の楽団を指揮したライヴ演奏の数々は内容的にも一際優れた出来栄えをみせているのは熱心なファンの間ではよく知られるところで、このたびのロンドン交響楽団の第9番もまたこうした流れのなかに位置づけられるものと言えるだろう。
既に、80歳を超えた大指揮者であり、近年では全集のスタジオ録音に取り組むことはなくなったが、発売されるライヴ録音は、一部を除いてさすがは大指揮者と思わせるような円熟の名演揃いであると言っても過言ではあるまい。
本盤に収められたブルックナーの交響曲第9番も、そうした列に連なる素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したい。
ハイティンクは、同曲をコンセルトヘボウ・アムステルダム(1965年)(1981年)とともに2度スタジオ録音を行っており、オーケストラの名演奏もあって捨てがたい魅力があるが、演奏全体の持つスケールの雄大さや後述の音質面に鑑みれば、本演奏には敵し得ないと言えるのではないだろうか。
ベートーヴェンやマーラーの交響曲の演奏では、今一つ踏み込み不足の感が否めないハイティンクではあるが、ブルックナーの交響曲の演奏では何らの不満を感じさせない。
本演奏においても、ハイティンクは例によって曲想を精緻に、そして丁寧に描き出しているが、スケールは雄渾の極み。
重厚さにおいてもいささかも不足はないが、ブラスセクションなどがいささかも無機的な音を出すことなく、常に奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。
これぞブルックナー演奏の理想像の具現化と言っても過言ではあるまい。
悠揚迫らぬインテンポを基調としているが、時として効果的なテンポの振幅なども織り交ぜるなど、その指揮ぶりはまさに名人芸の域に達していると言ってもいいのではないか。
ハイティンク自身によるものとしては過去最長の演奏時間を更新しているが、実演特有の有機的な音楽の流れに、持ち前のひたむきなアプローチでじっくりと神秘的で崇高なるブルックナーの世界を聴かせてくれる。
ハイティンクの確かな統率の下、ロンドン交響楽団も圧倒的な名演奏を展開しており、とりわけホルンをはじめとしたブラスセクションの優秀さには出色のものがあると言えるだろう。
いずれにしても、本演奏は、現代を代表する大指揮者の1人であるハイティンクによる円熟の名演と高く評価したい。
そして、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音である。
音質の鮮明さに加えて、臨場感溢れる音場の広さは見事というほかはなく、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。
マルチチャンネルで再生すると、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的であるとすら言えるだろう。
ハイティンクによる素晴らしい名演をSACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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2023年04月18日
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2013年亡くなったコーラスの権威、エリック・エリクソンへの追悼としてワーナーからリリースされた6枚組のバジェット・ボックスで、まさに合唱の最高峰、エリクソン畢生の名演がここに蘇った。
CD1−3が『5世紀に亘るヨーロッパの合唱音楽』そしてCD4−6が『華麗な合唱音楽』というタイトルが付けられた1968年から75年に録音されたふたつの曲集をまとめてある。
ルネサンスから現代までのナンバーを網羅し、とくに近・現代曲については難曲揃いで実際に音になっているものも少ないだけに、資料的価値のある曲集であるとも言える。
エリクソンは生涯をコーラスに捧げた合唱界の大御所というべき指揮者だけに、いずれも彼のスピリットとテクニックの真髄を感じさせる演奏が圧巻だ。
コーラス・グループはエリクソンによって鍛えられたストックホルム放送合唱団及びストックホルム室内合唱団である。
彼らは一流どころの指揮者やオーケストラとも多く協演しているが、実際音楽の精緻さと表現力の多彩さは混声合唱の魅力を満喫させてくれる。
尚、この作品集では殆んどの曲がア・カペラ、つまり器楽伴奏なしで歌われている。
エリクソンはバーゼル・スコラ・カントールムで古楽を修めた指揮者でもあり、バード、ダウランド、タリスなどでも機智と抒情に富んだ豊かなファンタジーが聴き逃せない。
このセットの中でも20世紀の合唱曲は難易度から言えば最高度のアンサンブルの技術を問われる作品ばかり。
シェーンベルク、バルトーク、ピッツェッティ、メシアン、ジョリヴェ、ペンデレツキなどの創造した斬新な音響に耳を奪われる。
透明感を醸し出す和声とその思いがけない進行、微分音やグリッサンド、そして要所要所で響かせる純正調和音の深みなどはコーラスならではの味わいを持っている。
また楽音だけでなく叫び声や呟き、巻き舌や音程のない息の音など、あらゆる歌唱法の試みが駆使されているのも興味深いところだ。
まさしくエリクソンとその手兵によるこれらの演奏は、すべての合唱団の規範となるべきものであろう。
合唱音楽について何か言おうと思うなら、これを聴いていなければ発言も憚られるだろうし、どの1曲を取り上げても、その美しさだけではない、得も言われぬ説得力を強く感じる。
ライナー・ノーツは15ページで演奏曲目と録音データ、独、英語による簡易な解説付で、いくらか古いセッションになるが、リマスタリングの効果もあって音質は極めて良好。
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R.シュトラウスの楽曲というと、筆者としてはどうしてもカラヤンの呪縛から逃れられないが、カラヤンの演奏だけが正解ではないはずで、別のアプローチの仕方もあってしかるべきである。
カラヤンとは正反対のオーソドックスなアプローチで、R.シュトラウスの名演を成し遂げたのはケンぺだと考えている。
本盤のブロムシュテット盤も、ベースはケンぺのオーソドックスなアプローチを踏襲するものではないだろうか。
オーケストラも同じシュターツカペレ・ドレスデンで、いぶし銀のような渋いサウンドが、演奏に落ち着きと潤いをもたらすのに大いに貢献している。
作曲家とも縁の深い名門オーケストラによる質実剛健で緻密なサウンドメイクと言えるところであり、このまろやかさと繊細な表情の魅力は、他のオーケストラには求められない。
ブロムシュテットは、1927年アメリカ生まれのスウェーデン人で、ドイツ人でない彼がシュターツカペレ・ドレスデンの音楽監督を10年間(1975〜85年)にわたって務めた事は注目に値する。
菜食主義者として知られ、その贅肉を削ぎ落とした透明感の高いオーケストレーションは彼の人格をそのまま映し出している。
シュターツカペレ・ドレスデンのいともコクのある音響を得て、スケール大きく徹頭徹尾正攻法で展開されたR.シュトラウス演奏であり、ブロムシュテットは、この名門オーケストラの美しさを最大限に発揮させたスケール大きな名演を繰り広げている。
ブロムシュテットの円熟のタクトは、R.シュトラウスを知り尽くしたシュターツカペレ・ドレスデンの重厚緻密な響きを駆使して、巧みに聴く者を高揚へと導く。
解釈も品がよく、大人の風格を感じさせるものであり、流麗で端正、まったく一分の隙もない表現である。
非常にズシリと手ごたえのある、巨匠の風格を持った演奏であり、音色はどちらかと言えば渋い方で、玄人好みと言っても良いだろう。
個人的に筆者がR.シュトラウスのオペラの世界に接する機会が多いためだろうか、およそダイナミズムや尖鋭さを主軸として余りにエネルギッシュに繰り広げられてゆく演奏よりも、当ディスクのごとく、緻密なアンサンブルを聴かせつつ、じっくり味わい尽くさせてくれるような彫りの深い落ち着いた演奏に好感がもてる。
ブロムシュテットの構想はまさに堅実で精緻、あくまで純音楽的な観点からこの作品の普遍的な魅力をさぐりあてている感があり、複雑な対位法の織りなしも十全に描出しきっている。
ただ、いかにもブロムシュテットらしいのは、随所に大仰とも言えるような劇的な表現もしているということで、この点ではカラヤン風の劇的な要素も多分にある。
その意味では、洗練と濃密さが一体となった硬軟併せ持つバランスのとれた美演という表現が適切かもしれない。
あまり文学的で深刻なアプローチをとらずに淡々と進む「死と変容」や、オーケストラ団員に自由に演奏させている伸び伸びした「ティル」も好演だが、作曲者最晩年の「メタモルフォーゼン」が特に美しく、やや暗くくすんだ響きと共に、挽歌が静かに奏でられている。
流麗な美しさの中に、R.シュトラウスの音楽の本質が立ち現れる薫り高い名演と言えるだろう。
いぶし銀のようなシュターツカペレ・ドレステンのサウンドとケレン味のないブロムシュテットの音楽づくりで醸成されたR.シュトラウスの素晴らしさを是非多くの方に堪能していただきたい。
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シューベルトの抒情的特質が最も純粋な形で発揮されたD.899、シューマンが曲集全体をひとつのソナタとみなしたこともあるD.935。
霊感溢れる楽想が凝縮した即興曲集は、シューベルトのピアノ曲のなかでも最も人気の高い清冽な詩情と孤独な心情を美しく謳い上げたピアノ芸術のエッセンスとも言える作品。
マリア・ジョアン・ピリスによる新鮮で瑞々しい表現による演奏解釈は従来から高く評価されており、聴き手をシューベルトの詩的な世界に誘う素晴らしい名演だ。
即興曲集は、楽興の時と並んでシューベルトのピアノ作品の中でも最も人気の高いものであるが、楽興の時とは異なり、一聴すると詩情に満ち溢れた各フレーズの奥底には作曲者の行き場のない孤独感や寂寥感が込められており、最晩年の最後の3つのピアノ・ソナタにも比肩し得る奥深い内容を有する崇高な作品とも言える。
したがって、かかる楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいく彫りの深いアプローチを行うことは、同曲の演奏様式としての理想の具現化と言えるところであり、かかるアプローチによる演奏としては内田光子による彫りの深い超名演(1996年)が掲げられるところだ。
これに対して、ピリスのアプローチは、内田光子のように必ずしも直接的に楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫りの深い表現を行っているわけではない。
むしろ、同曲の詩情に満ち溢れた旋律の数々を、瑞々しささえ感じさせるような透明感溢れるタッチで美しく描き出していくというものだ。
その演奏は純真無垢とさえ言えるものであり穢れなどはいささかもなく、あたかも純白のキャンバスに水彩画を描いていくような趣きさえ感じさせると言えるだろう。
ペダルコントロールも絶妙の巧さで、1音1音丁寧な指運から紡ぎ出されるピリスの音はどこまでも透明で柔らかく、心に優しく響きわたる。
もっとも、ピリスのピアノは各旋律の表層をなぞっただけの美しさにとどまっているわけではない。
表面上は清澄なまでの繊細な美しさに満ち溢れてはいるが、その各旋律の端々からは、同曲に込められた寂寥感が滲み出してきている。
ピリスは、音の1つ1つ、音型の1つ1つ、フレーズの1つ1つ、など、とても緻密に徹底した解釈をし、練り上げていくのだろう。
彼女の作り上げるそれらは、“自分はここをこう弾きたい”というメッセージを目一杯含み、聴き手に投げかけてくる。
型通り弾く人たちが多いなか、たとえばモーツァルトにしても、ショパンにしても、ピリスは雰囲気中心で弾くことは決してないし、かといってクールで理詰めな演奏をするわけでもない。
さて、今回のシューベルトも、基本的にはそうしたピリスの特質が色濃く表われた演奏で、よく考え抜かれ、それが演奏者の頭だけでなく、耳と体を通して発せられている、ということがよく分かる。
ピリスがシューベルトの音楽に対してどのような思い入れを持ち、どのように好んでいるかが、1つ1つの音から、フレーズから、全体から、よく伝わってくる、密渡の濃い演奏になっていると思う。
このようなピリスによる本演奏は、まさにかつてのリリー・クラウスの名演(1967年)に連なる名演と評価し得るところであり、即興曲集の演奏史上でも、内田光子の名演は別格として、リリー・クラウスによる名演とともに上位を争う至高の超名演と高く評価したいと考える。
録音は従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、ピリスのピアノタッチがより鮮明に再現されるとともに、音場が幅広くなったように思われる。
いずれにしても、ピリスによる至高の超名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2023年04月17日
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最近プラガ・ディジタルスからリリースされたSACDの1枚で、若き日のフリードリヒ・グルダが弾くモーツァルトのピアノ協奏曲第9番変ホ長調『ジュノーム』、ウェーバーのピアノ小協奏曲へ短調及びR.シュトラウスの『ブルレスケ』の3曲が収録されている。
モーツァルトはカール・ベーム指揮、バイエルン放送交響楽団による1969年9月のステレオ・ライヴである。
ウェーバーがフォルクマー・アンドレーエ指揮、ウィーン・フィルとの1956年7月のウィーン・ゾフィエンザールでのモノラル・セッションになり、これは米ロンドン音源らしい。
そして最後のR.シュトラウスがベーム&ウィーン・フィルで1957年8月ザルツブルクにおけるモノラル・ライヴということになる。
このうちベームの指揮する2曲は、オルフェオ・レーベルからもレギュラー盤で手に入るが、いずれもSACD化によって更に高音の伸びと艶やかな響きが再現され、音場に奥行きが出ている。
どの曲でもグルダの軽やかで水面に映えて揺らめく光りのような音色が瑞々しい。
モーツァルトでは第2楽章でのウィーン流の屈託のない抒情が、ベームの巧妙なサポートによって可憐に浮かび上がっている。
またそれぞれの楽章の小気味良いカデンツァもいたってフレッシュで、当時39歳だったグルダの柔軟な感性を示している。
一方華麗なソロが展開されるウェーバーでは高踏的でリリカルな歌心とコーダに向かって邁進する推進力がコンパクトに表現されていて心地良い演奏だ。
またR.シュトラウスの『ブルレスケ』ではグルダらしい余裕を見せたパフォーマンスが特徴的で、こうした曲趣には彼のような高度な遊び心も効果的だ。
この時代のライヴとしては比較的音質に恵まれていて、ベーム&ウィーン・フィルの軽妙洒脱なオーケストラに乗ったグルダのウィットに富んだヴィルトゥオジティが聴きどころだろう。
このシリーズではグルダのSACDは1枚のみで、他のレパートリーも聴き比べてみたい気がするが、こうした古い音源のSACD化については、先ずオリジナル・マスターの質自体が問われる。
いくらDSDリマスタリングをしても録音自体の質やその保存状態が悪ければ奇跡的な蘇生は望めない。
プラガは過去にデータや音源の改竄で物議を醸したレーベルなので注意が必要だが、この曲集に関しては充分その価値が認められる。
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ここに収められたCD26枚のバッハの教会カンタータ集は以前アルヒーフから同内容でリリースされ、既に法外なプレミアム価格で扱われているもので、ユニヴァーサル・イタリーによる全歌詞付126ページのブックレットを伴ったバジェット盤企画の快挙を評価したい。
尚BWV26及びBWV51でのソプラノは前者がウルズラ・ブッケル(1966年)、後者がマリア・シュターダー(1959年)が歌った旧録音の方が採用されている。
カール・リヒターは1959年からこのカンタータ集の録音に取り組み、その精力的な活動は78年まで続けられた.。
彼が54歳の若さで他界しなければ、更に多くのセッションを遺してくれたであろうことが惜しまれる。
このセットには教会歴に従いながら75曲の作品が収録されていて、どの曲を聴いても生命力に漲るリヒターの強い個性が発揮された鮮烈な音楽が蘇ってくる。
それはリヒターの一途でひたむきな宗教観とバッハの音楽への斬新な解釈が、音源の古さを通り越してひとつのドラマとして響き渡るからだろう。
勿論リヒターの名を不動にした『マタイ』、『ヨハネ』の両受難曲や『ロ短調ミサ』などの大曲も彼の最も輝かしい演奏の記録には違いない。
彼はプロテスタントの教会で日常的に歌われるカンタータの研究の積み重ねによって、初めてバッハの宗教曲の本質が理解できるようになると考えていた。
確かにバッハが生涯に250曲もの教会カンタータを作曲したとすれば、それはバッハの全作品中最も高い割合で書かれたジャンルになり、如何に心血が注がれた作品群であるかが納得できる。
リヒターが指揮棒を握る時にはソリストやコーラスだけでなく、オーケストラにも彼の熱いスピリットが乗り移ったような統一感が生まれる。
この時代はまだ古楽の黎明期で、モダン楽器とピリオド楽器を混交させながらの奏法も折衷様式をとっているが、そうした条件を補って余りあるほどリヒターの演奏には不思議な普遍性がある。
リヒターの高い精神性に導かれた隙のない、そして全く弛まない緊張感が時代を超越して聴き手に迫る驚くべき手腕は流石だ。
リヒターはルター派の牧師の父を持ち、最初に音楽教育を受けた学校が宗教色の強い環境だったことも彼のその後の活動に色濃く影を落としている。
当然リヒターの少年時代にとって聖書講読や教会歴に沿った行事での演奏は、切り離すことができない生活の一部だったことは想像に難くない。
後のライプツィヒ聖トーマス教会のオルガニストを始めとする教会でのキャリアは、バッハの研究者として彼に課された宿命的な仕事だったに違いない。
このカンタータ集は彼のバッハへの哲学が集約された音楽の森とも言うべき優れた内容を持っていて、将来に聴き継がれるべき演奏である筈だ。
特に新しいリマスタリングの表示はなく、足掛け20年に亘る音源なので、時代によって音質に若干のばらつきがあるのは致し方ないが、幸い全体的に鮮明で良質な音響空間が得られていて鑑賞に全く不都合はない。
ブックレットには詳細な曲目、演奏者及び録音データと、リヒターとバッハのカンタータについての英語解説、そしてオリジナルのドイツ語による全歌詞が掲載されている。
ボックス・サイズは13x13x6,5cmでシンプルなクラムシェル・タイプの装丁だが、品の良いコレクション仕様に好感が持てる。
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アルバン・ベルク四重奏団(ABQ)は、1970年に、ウィーン音楽アカデミーの4人の教授たちによって結成された。
アルバン・ベルクの未亡人から、正式にその名前をもらったという。
そうしたことからでもわかるように、この団体の演奏は、ウィーン風のきわめて洗練された表情をもち、しかも、高い技巧と、シャープな切り口で、現代的な表現を行っているのが特徴である。
惜しまれつつ解散をしてしまったABQであるが、ABQはベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集を2度に渡って録音している。
最初の全集が本盤に収められた1978年〜1983年のスタジオ録音、そして2度目の全集が1989年に集中的に行われたライヴ録音だ。
このうち、2度目の録音についてはライヴ録音ならではの熱気と迫力が感じられる優れた名演であるとも言えるが、演奏の安定性や普遍性に鑑みれば、筆者としては最初の全集の方をABQによるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の代表盤と評価したいと考える。
それどころか、あらゆる弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の中でも、ひとつの規範になり得るトップの座を争う至高の名全集と高く評価したい。
特筆すべきは、個々の奏者が全体に埋没することなど一切なく、かといって個々バラバラの主張では決してなく、曲の解釈、表現の統一感は徹底しており、究極のアンサンブルとしか言いようがない点だ。
この全集では、作曲年代に応じて表現を変化させ、情感豊かにひきあげているが、音楽的に深く掘り下げた演奏となっているところが素晴らしい。
本演奏におけるABQのアプローチは、卓越した技量をベースとした実にシャープと言えるものだ。
全体的に速めのテンポで展開されるが、決して中身が薄くなることはなく、むしろ濃厚である。
鬼気迫るような演奏もあって、隙がなく、ゆったりと聴くには少々疲れるかと思いきや、軽やかに音楽が流れ、十分リラックスして聴ける。
楽想を徹底して精緻に描き出して行くが、どこをとっても研ぎ澄まされたリズム感と緊張感が漂っており、その気迫溢れる演奏には凄みさえ感じさせるところである。
シャープで明快、緊迫度の高い、迫力に満ちた名演奏に聴き手はグイグイ引き込まれ、その自由で大胆、説得力あるアプローチに脱帽しまう。
それでいて、ABQがウィーン出身の音楽家で構成されていることに起因する独特の美しい音色が演奏全体を支配しており、とりわけ各楽曲の緩徐楽章における情感の豊かさには若々しい魅力と抗し難い美しさが満ち溢れている。
すべての楽曲がムラのない素晴らしい名演で、安心して聴いていられるが、とりわけABQのアプローチが功を奏しているのは第12番以降の後期の弦楽四重奏曲であると言えるのではないだろうか。
ここでのABQの演奏は、楽曲の心眼を鋭く抉り出すような奥深い情感に満ち溢れていると言えるところであり、技術的な完成度の高さとシャープさ、そして気宇壮大さをも併せ持つこれらの演奏は、まさに完全無欠の名に相応しい至高の超名演に仕上がっていると高く評価したい。
交響曲に匹敵する世界観や壮大さが、たった4人のアンサンブルの中に凝縮されている。
録音は、初期盤でもEMIにしては比較的良好な音質であったが、これほどの名演であるにもかかわらず、いまだにHQCD化すらなされていないのは実に不思議な気がする。
今後は、とりわけ第12番以降の後期の弦楽四重奏曲だけでもいいので、HQCD化、可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
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2023年04月16日
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ドヴォルザークの交響曲は、ドイツ=オーストリア系の音楽を得意とした巨匠ワルターとしては珍しいレパートリーである。
同時代の巨匠フルトヴェングラーにとってのチャイコフスキーの交響曲のような存在と言えるかもしれない。
しかしながら、本盤に収められた「第8」は、そのようなことは感じさせないような老獪な名演に仕上がっている。
同曲に特有のボヘミア風の自然を彷彿とさせるような抒情的な演奏ではなく、むしろ、ドイツ風の厳しい造型を基本とした交響的なアプローチだ。
それでいて、いわゆるドイツ的な野暮ったさは皆無であり、ワルター特有のヒューマニティ溢れる情感の豊かさが、造型を意識するあまり、とかく四角四面になりがちな演奏傾向を緩和するのに大きく貢献している。
とりわけ感心したのは終楽章で、たいていの指揮者は、この変奏曲をハイスピードで疾風のように駆け抜けていくが、ワルターは、誰よりもゆったりとした踏みしめるような重い足取りで演奏であり、そのコクのある深みは尋常ではなく、この曲を初めて聴くような新鮮さを感じさせる。
まさに、老巨匠ならではの老獪な至芸と言えるだろう。
「新世界より」もいわゆるボヘミアの民族的な抒情性を全面に打ち出した演奏ではなく、ワルターが得意としたドイツロマン派的なアプローチによる演奏ということが言える。
同時代の巨匠クレンペラーも、「新世界より」の名演を遺したが、同じドイツ風の演奏でありながら、クレンペラーの名演は、インテンポによる荘重さを旨とした演奏であった。
それに対して、ワルターの演奏は荘重といったイメージはなく、いつものワルターならではのヒューマニティ溢れる情感豊かな演奏である。
例えば、第1楽章冒頭の導入部など、テンポや強弱において絶妙な変化を加えており、第2楽章の中間部のスローテンポと、その後主部に戻る際のテンポや、第3楽章のリズムの刻み方も大変ユニークだ。
したがって、ドイツ風の演奏でありながら、野暮ったさは皆無であり、そうした点は巨匠ワルターならではの老獪な至芸と言うべきであろう。
ただ、楽曲の性格に鑑みると、「第8」の方がワルターのアプローチに符合すると言えるところであり、「第8」と比較すると、もちろん高い次元での比較であるが、名演のレベルが一段下のような気がした。
しかしながら、いずれも歌心にあふれたドヴォルザークで、恰幅の良い堂々たる構えながら、細部まで目の詰んだ演奏は聴くたびに新しい発見をもたらしてくれる。
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バッハの「平均律クラヴィーア曲集」は鍵盤楽器だけではなく、音楽全体にとっての聖典であると言われている。
「平均律」は1オクターブを構成する12音の周波数の差を均等に調律する方法であるが、バッハはその12音それぞれを基音とし、さらに長調と短調の両方を作ることで全24の調性による練習曲を作った。
それが「平均律クラヴィーア曲集」全2巻である。
そんなバッハの「平均律クラヴィーア曲集」は、ピアノ音楽の旧約聖書とも言われているだけに、古今東西の多くのピアニストにとっては、新約聖書たるベートーヴェンのピアノ・ソナタと並んで、弾きこなすのは大いなる目標とされてきた。
かつては、グールドの超個性的な名演もあったが、グールドと並んで「鬼才」と称されるアファナシエフが、同曲に対してどのようなアプローチをしているのか、聴く前は大変興味津々であった。
同じロシアのピアニストであるリヒテルも、同曲に素晴らしい名演を遺しているが、アファナシエフのアプローチは、リヒテルの研ぎ澄まされた鋭利なピアニズムとは対照的で、ゆったりとしたテンポをベースとしたきわめて静的で精緻なものだ。
シューベルトの後期3大ピアノ・ソナタで見せたような、超スローテンポのやり過ぎとも言えるアプローチはここではいささかも見られない。
その分、肩すかしを喰わされたきらいがないわけではないが、バッハがスコアに記した音符を透徹した表現で完璧に描き出したという点においては、さすがは「鬼才」アファナシエフならではの個性的アプローチと言える。
第1巻では、最後のフーガを2バージョン収めているのも、アファナシエフの同曲への深い愛着とこだわりを感じさせる。
第2巻は、第1巻よりもさらに技巧的にも内容においても高度な内容を内包しているが、アファナシエフのアプローチは、第1巻の演奏といささかの変化もない。
シューベルトの後期3大ピアノソナタで見せたような極端なスローテンポによるあくの強いアプローチはとらず、ピアノ曲の旧約聖書とも称される同曲への深い畏敬の念を胸に抱きつつ、構成される全24曲(前奏曲とフーガを別の曲と考えると48曲)を1曲1曲、あたかも骨董品を扱うような丁寧さで、精緻に描き出していく。
全体として静けささえ感じられるほどであり、これぞバッハの音楽とも言うべき底知れぬ深みを湛えた演奏と言うべきである。
「鬼才」とも言われたアファナシエフにしては、少々物足りないとも思われるが、それだけ同曲集に対しての強い愛着とこだわりを感じさせる。
また、全体的に音楽を構成する個々の音が際立っていて、隙間の無いロジックパズルのように理路整然と整っている。
同じロシアの先輩ピアニストであるリヒテルの鋭角的なアプローチとは対照的であると考えるが、演奏から受ける感動においては、いささかの不足もなく、リヒテルの名演とは別次元の名演と高く評価したい。
技巧的にバリバリと弾く人も多い曲集だが、むしろこうやってじっくりと構えてもらった方が、ひとつひとつの音が際立って曲集全体の構造(つまり音楽の最も初歩的な理論)が理解しやすいと思う。
しばしば「鬼才」と評されるアファナシエフだが、ここで彼はその演奏によって、音楽理論の真髄へ迫る手がかりを与えてくれるのであり、音楽を勉強する人なら、聴いてみて損はないはずだ。
また、アファナシエフの透徹したピアノのタッチが鮮明な音質で味わえる点も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献している。
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パーヴォ・ヤルヴィの勢いは今や誰もとどめることができない。
彼は、シンシナティ交響楽団、フランクフルト放送交響楽団、ドイツ・カンマーフィル、パリ管弦楽団を手中に収めており、これらのオーケストラを作曲家毎に振り分けるという何とも贅沢なことをやってのけている。
そして、そのレパートリーの幅広さたるや、父親であるネーメ・ヤルヴィも顔負けであり、今や、人気面において指揮界のリーダー格とされるラトル、ティーレマン、シャイーの3強の一角に喰い込むだけの華々しい活躍をしている。
パーヴォ・ヤルヴィがドイツ・カンマーフィルを起用する際には、当然のことながら、いわゆるピリオド奏法に適した楽曲を演奏しており、既に完成させたベートーヴェンの交響曲全集やピアノ協奏曲全集に次いで、現在では、シューマンの交響曲全集の録音に取り組んでいるところだ。
シューマンを文字通り「愛している」と公言してはばからないパーヴォ・ヤルヴィは、「作品に込められた感情の起伏や途方もないエネルギーを恥ずかしがることなくさらけ出すべき」と、シューマンのオーケストレーションの機微を繊細に表現しきることのできるドイツ・カンマーフィルと濃密なシューマン・ワールドを繰り広げている。
第1番及び第3番、第2番及び「マンフレッド」序曲が既発売であり、それはピリオド奏法を十分に生かした斬新とも言えるアプローチが特徴の演奏であり、パーヴォ・ヤルヴィの底知れぬ才能と現代的な感覚、センスの鋭さが光る素晴らしい名演であった。
その完結編となる当アルバムには、フルトヴェングラーやワルターなど20世紀前半の巨匠が好んで演奏し、ロマン派の香りが濃厚な交響曲第4番、シューマンのエッセンスが詰まった知られざる傑作「序曲、スケルツォとフィナーレ」、4つのホルンのための協奏曲「コンツェルトシュトックヘ長調」が収められている。
いずれも、既発売のシューマン演奏に優るとも劣らぬ素晴らしい名演であると高く評価したい。
本演奏でも、ピリオド奏法は相変わらずであるが、それを十全に活かし切ったパーヴォ・ヤルヴィの個性的なアプローチが実に芸術的とも言える光彩を放っており、これまで交響曲第4番を様々な指揮者による演奏で聴いてきたコアはクラシック音楽ファンにも、新鮮さを感じさせる演奏に仕上がっている。
ピリオド奏法やピリオド楽器を使用した演奏の中には、学究的には見るべきものがあったとしても、芸術性をどこかに置き忘れたような軽佻浮薄な演奏も散見されるが、パーヴォ・ヤルヴィの個性的なアプローチには、常に芸術性に裏打ちがなされており、そうした軽佻浮薄な演奏とは一線を画しているとさえ言えるだろう。
思い切ったテンポの振幅、アッチェレランドの駆使、ダイナミックレンジの極端な取り方など、その仕掛けの多さは尋常ならざるものがあると言えるが、これだけ同曲の魅力を堪能させてくれれば文句は言えまい。
いずれにしても、本盤の各曲の演奏は、近年のパーヴォ・ヤルヴィの充実ぶりを如実に反映させた素晴らしい名演であり、加えて、いわゆるピリオド奏法による演奏としては、最高峰に掲げてもあながち言い過ぎとは言えない圧倒的な名演と高く評価したいと考える。
音質は、これまた素晴らしい。
特に、最近では珍しくなったマルチチャンネル付のSACDは、臨場感溢れるものであり、各楽器セクションが明瞭に分離して聴こえることによって、ピリオド奏法の面白さが倍加するという効用もあると言えるところだ。
いずれにしても、パーヴォ・ヤルヴィ&ドイツ・カンマーフィルによる素晴らしい名演をマルチチャンネル付のSACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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2023年04月15日
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自らをモデルに作曲したと言われる《英雄の生涯》は、R.シュトラウスの交響詩の中でも屈指のスケールを誇る名作。
《英雄の生涯》のみならず、R.シュトラウスの楽曲というと、筆者としてはどうしてもカラヤンの呪縛から逃れられない。
3種のスタジオ録音の名演に加えて、最近ではこれまた優れたライヴ録音がいくつか発掘され、そのいずれもが、自らの人生を重ね合わせるかの如く劇的な名演である。
しかし、他の楽曲と同じく、カラヤンの演奏だけが正解ではないはずで、別のアプローチの仕方もあってしかるべきである。
カラヤンとは正反対のオーソドックスなアプローチで、《英雄の生涯》の名演を成し遂げたのはケンぺだと考えている。
本盤のブロムシュテット盤も、ベースはケンぺのオーソドックスなアプローチを踏襲するものではないだろうか。
オーケストラも同じシュターツカペレ・ドレスデンで、いぶし銀のような渋いサウンドが、演奏に落ち着きと潤いをもたらすのに大いに貢献している。
作曲家とも縁の深い名門オーケストラによる質実剛健で緻密なサウンドメイクと言えるところであり、このまろやかさと繊細な表情の魅力は、他のオーケストラには求められない。
ブロムシュテットは、1927年アメリカ生まれのスウェーデン人で、ドイツ人でない彼がシュターツカペレ・ドレスデンの音楽監督を10年間(1975〜85年)にわたって務めた事は注目に値する。
菜食主義者として知られ、その贅肉を削ぎ落とした透明感の高いオーケストレーションは彼の人格をそのまま映し出している。
シュターツカペレ・ドレスデンのいともコクのある音響を得て、スケール大きく徹頭徹尾正攻法で展開されたR.シュトラウス演奏であり、ブロムシュテットは、この名門オーケストラの美しさを最大限に発揮させたスケール大きな名演を繰り広げている。
ブロムシュテットの円熟のタクトは、R.シュトラウスを知り尽くしたシュターツカペレ・ドレスデンの重厚緻密な響きを駆使して、巧みに聴く者を高揚へと導く。
解釈も品がよく、大人の風格を感じさせるものであり、流麗で端正、まったく一分の隙もない表現である。
非常にズシリと手ごたえのある、巨匠の風格を持った演奏であり、音色はどちらかと言えば渋い方で、玄人好みと言っても良いだろう。
個人的に筆者がR.シュトラウスのオペラの世界に接する機会が多いためだろうか、およそダイナミズムや尖鋭さを主軸として余りにエネルギッシュに繰り広げられてゆく演奏よりも、当ディスクのごとく、緻密なアンサンブルを聴かせつつ、じっくり味わい尽くさせてくれるような彫りの深い落ち着いた演奏に好感がもてる。
ブロムシュテットの構想はまさに堅実で精緻、あくまで純音楽的な観点からこの作品の普遍的な魅力をさぐりあてている感があり、複雑な対位法の織りなしも十全に描出しきっている。
ただ、いかにもブロムシュテットらしいのは、随所に大仰とも言えるような劇的な表現もしているということで、この点ではカラヤン風の劇的な要素も多分にある。
その意味では、洗練と濃密さが一体となった硬軟併せ持つバランスのとれた美演という表現が適切かもしれない。
流麗な美しさの中に、R.シュトラウスの音楽の本質が立ち現れる薫り高い名演と言えるだろう。
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若くして「巨匠の風格を備えつつある」と、きわめて高い評価を獲得しているロシア出身の実力派メジューエワ。
メジューエワと言えば、最近ではシューベルトのピアノ・ソナタ全集の録音に取り組んでいるところであり、タイミング的にもそろそろその第4弾の登場と思っていたところであるが、2011年のリスト生誕200年を記念してのリストのピアノ作品集の登場とは、メジューエワの芸風やこれまでのレパートリーからしても大変意外であったと言わざるを得ない。
というのも、2010年のショパンイヤーでは、ショパンの作品の数々の名演を聴かせてくれたこともあって、メジューエワにリスト弾きのイメージを見出すことがいささか困難であると言えるからである。
したがって、本盤を聴く前は、一抹の不安を抱かずにはいられなかったところであるが、聴き終えて深い感銘を覚えたところだ。
メジューエワによる本演奏は、一聴すると地味な装いをしているところであるが、聴き進めていくうちに、じわじわと感動が深まっていくような趣きのある演奏と言えるのではないだろうか。
派手さや華麗さなどとは無縁であるが、どこをとっても豊かな情感と独特のニュアンスに満ち溢れており、いわゆるヴィルトゥオーゾ性を全面に打ち出した一般的なリストのピアノ曲の演奏様式とは、一味もふた味も異なった性格を有していると言っても過言ではあるまい。
各楽曲の造型、とりわけ大曲でもあるピアノ・ソナタロ短調の造型の堅固さは、女流ピアニスト離れした重厚さを兼ね備えている。
強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで、持ち前の桁外れの表現力を駆使して、同曲の魅力を完璧に音化し尽くしているとさえ言えるだろう。
古今の大ピアニストたちが個性豊かな名演を刻んできたこの傑作ソナタに真っ向から挑み、正攻法の解釈で作品の素晴らしさを伝えてくれる。
例によって、1音1音を蔑ろにすることなく、曲想を精緻に、そして情感豊かに描き出して行くという正攻法のアプローチを軸としてはいる。
メジューエワの詩情に満ちた卓越した芸術性が付加されることによって、リストのピアノ曲が、単なる卓越した技量の品評会的な浅薄な作品ではなく、むしろロマン派を代表する偉大な芸術作品であることをあらためて認知させることに成功したと言ってもいいのではないだろうか。
「悲しみのゴンドラ」第2番や「暗い雲」の底知れぬ深みは、メジューエワの芸術家としての偉大さの証左と言っても過言ではあるまい。
いずれにしても、本盤の演奏は、メジューエワの卓越した芸術性を証明するとともに、今後の更なる発展を大いに予見させるのに十分な素晴らしい超名演であると高く評価したい。
音質は、「愛の夢」及び「カンツォーネとタランテラ」を除くすべての楽曲がDSDレコーディングとなっており、メジューエワの透徹したピアノタッチが鮮明に再現される申し分のないものとなっている。
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凄い演奏だ。
これほどまでに心を揺さぶられる演奏についてレビューを書くのはなかなかに困難を伴うが、とりあえず思うところを書き連ねることとしたい。
テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの交響曲の様々な名演が念頭に浮かぶが、交響曲第5番についても複数の録音を遺している。
最初の録音は、交響曲全集の一環としてスタジオ録音された演奏(1978年)、次いで来日時にライヴ録音された演奏(1984年)、そしてその4年後にライヴ録音された演奏(1988年)の3種が存在しており、オーケストラはいずれも手兵ロンドン・フィルである。
これらの中で1978年盤と1984年盤はシングルレイヤーによるSACD化がなされたこともあって、極上の音質に仕上がっているが、それでも随一の名演は本盤に収められた1988年盤であることは論を待たないところだ。
というのも、テンシュテットは1985年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。
したがって、1988年の演奏には、1つ1つのコンサートに命がけで臨んでいた渾身の大熱演とも言うべき壮絶な迫力に満ち溢れていると言えるからだ。
テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。
これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施している。
かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。
ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない)のに対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。
もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。
このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。
本盤の演奏は、壮絶でテンポの思い切った振幅を駆使したドラマティックにして濃厚な表現は大いに健在であり、まさにテンシュテットのマーラー演奏の在り様が見事に具現化された至高の超名演と言っても過言ではあるまい。
溢れんばかりの熱気と雄大なスケールを持った名演が繰り広げられており、生き物のように息づく各フレーズや独特な熱気が、マーラーの体臭を伝え、この曲を語る上で欠かすことのできない録音だ。
音質は、1988年のライヴ録音ではあるが、数年前にリマスタリングがなされたこともあり、比較的良好な音質であると言えるところだ。
もっとも、テンシュテット晩年の渾身の超名演だけに、メーカー側の段階的な高音質化という悪質な金儲け主義を助長するわけではないが、今後はシングルレイヤーによるSACD盤で発売していただくことをこの場を借りて強く要望しておきたい。
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2023年04月14日
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本盤には、フィンランドの歴史的な名指揮者ロベルト・カヤヌスのシベリウス録音が収められているが、カヤヌスこそは、シベリウス作品を全世界に広めたパイオニア的存在である。
いま改めて聴いてみると、いまさらのようにカヤヌスの偉大な芸術に感嘆させられてしまう。
カヤヌスはシベリウスより9歳年長であったが、シベリウスの親友であり、生涯を通じてシベリウスの作品の紹介につとめ、作曲もよくし、シベリウスがもっとも信頼する指揮者として活躍した。
しかもカヤヌスは、室内楽への創作に勤しむ若きシベリウスに管弦楽曲への作曲を奨励した人物でもある。
当時はヨーロッパの片田舎であったフィンランドから、シベリウスの作品が発信され、やがて国際的に知られることになったのは、ひとえにカヤヌスの功績である。
シベリウスは、1930年代、「誰を指揮者に推薦するか」という英コロムビアからの問い合わせに、即座に「カヤヌスを」と推薦している。
コロムビア社に異存のあるわけもなく、カヤヌスはシベリウスの7つある交響曲のうちの「第1」「第2」「第3」「第5」の4作品を、ロンドン交響楽団とともに録音している。
「第3」「第5」を録音した翌年の1933年にカヤヌスは亡くなっているので、もう少し長生きしていれば、ほかの曲も入れてくれていただろう、と思うと残念だ。
ここに集められた録音は、作曲者直伝とも考えられる、もっとも正統的な解釈の演奏であり、骨の太い演奏で、ただの歴史的な記録に終わらない、本物の演奏芸術である。
シベリウス在世中の空気を生々しく肌で感じた音楽であるとともに、同時代の精神を映した鏡である。
カヤヌスは、シベリウスの書いた何気ないフレーズや複層的な和音の積み重ねに命を吹き込む特別の才能を持っていたのだ。
現在のシベリウスの演奏は、すべてがカヤヌスの芸術の後裔といってよく、改めてシベリウスの音楽から多くを発見することになろう。
これらの演奏は、いずれも凄いほどの意欲と共感に貫かれている。
交響曲第2番は端的で素直な表情とラプソディックな趣を巧みに交錯させており、音楽が軽やかな運動性にみたされているが、その底流には非常な緊張があり、第3楽章など各部に渾身の力が投入され、終楽章も気宇の大きいロマン的な表現で妥当な解釈といえる。
カヤヌスの「第2」については、SP時代に夢中になったという柴田南雄氏が『名演奏のディスコロジー』(音楽之友社、1978年)で絶賛しているので、ここに紹介しておく。
「出だしの、アタマが休みの弦のリズムのクレッシェンドを木管が受け止める呼吸の絶妙さとか、スケルツォのトリオの変ト長調のオーボエの粘り方とか、フィナーレへの移行部の、耐えに耐えた力がついに解き放たれておもむろに巨人が歩きはじめる、といった様相など、カヤヌスほど確信に迫り、本質を衝いた表現に再び出会ったことがない」
併録の管弦楽曲も名演で、《ベルシャザール王の饗宴》の各曲でのコンセプトの明快さと鮮やかさも素晴らしいの一語に尽きる。
《カレリア組曲》では「バラード」が録音されなかったのは残念だが、「間奏曲」と「行進曲風に」は、いまもこれを凌ぐ演奏はない。
これらの演奏を聴くと、シベリウスは何と理想的な指揮者を得たのだろうか、と思う。
いや、それよりも驚嘆するのは、カヤヌスという巨大な存在が、1930年代に、いま聴いても新鮮な音楽をつくっていたという、それこそ驚くべき事実である。
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ワルターと言えば、モーツァルトの優美な名演の印象が強いだけに、誠実で温かみのあるヒューマンな演奏だとか、温厚篤実な演奏を行っていたとの評価も一部にはあるが、このブラームスの「第1」の熱い演奏は、そのような評価も吹き飛んでしまうような圧倒的な力強さを湛えている。
「第1」は、1959年の録音であるが、とても死の3年前とは思えないような、切れば血が吹き出てくるような生命力に満ち溢れた熱演だ。
もちろん、第2楽章や第3楽章の豊かな抒情も、いかにも晩年のワルターならではの温かみを感じさせるが、老いの影などいささかも感じられず、まさに、ワルター渾身の力感漲る名演と高く評価したい。
コロンビア交響楽団は、例えば、終楽章のフルートのヴィブラートなど、いささか品を欠く演奏も散見されるものの、ワルターの統率の下、編成の小ささを感じさせない重量感溢れる好演を示している点を評価したい。
ワルターによるブラームスの「第2」と言えば、ニューヨーク・フィルとの1953年盤(モノラル)が超名演として知られている。
特に、終楽章の阿修羅の如き猛烈なアッチェレランドなど、圧倒的な迫力のある爆演と言ってもいい演奏であったが、本盤の演奏は、1953年盤に比べると、随分と角が取れた演奏に仕上がっている。
しかしながら、楽曲がブラームスの「田園」とも称される「第2」だけに、ワルターの歌心に満ち溢れたヒューマンな抒情を旨とする晩年の芸風にぴたりと符合している。
第1楽章から第3楽章にかけての、情感溢れる感動的な歌い方は、ワルターと言えども最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地ではないかと思われる。
終楽章は、1953年盤に比べると、幾分角のとれた柔らかい表現にはなっているものの、それまでの楽章とは一転して、力感溢れる重量級の演奏を行っている。
コロンビア交響楽団は、金管楽器などにやや力不足の点も散見されるが、ワルターの統率の下、なかなかの好演を行っている。
「第3」は、巷間第1楽章や第4楽章の力強さから、ブラームスの「英雄」と称されることもあるが、筆者としては、むしろ、第2楽章や第3楽章の詩情溢れる抒情豊かな美しい旋律のイメージがあまりにも強く、ここをいかに巧く演奏できるかによって、演奏の成否が決定づけられると言っても過言ではないと考えている。
その点において、ワルターほどの理想的な指揮者は他にいるであろうか。
ワルターは、ヨーロッパ時代、亡命後のニューヨーク・フィルを指揮していた時代、そして最晩年のコロンビア交響楽団を指揮していた時代などと、年代毎に芸風を大きく変化させていった指揮者である。
この最晩年の芸風は、歌心溢れるヒューマンな抒情豊かな演奏を旨としており、そうした最晩年の芸風が「第3」の曲想(特に第2楽章と第3楽章)にぴたりと符合し、どこをとっても過不足のない情感溢れる音楽が紡ぎだされている。
もちろん、両端楽章の力強さにもいささかの不足もなく、総体として、「第3」のあまたの名演でも上位にランキングされる名演と高く評価したい。
「第4」におけるワルターのアプローチは、何か特別な解釈を施したりするものではなく、むしろ至極オーソドックスなものと言えるだろう。
しかしながら、一聴すると何の仕掛けも施されていない演奏の端々から滲み出してくる憂愁に満ち溢れた情感や寂寥感は、抗し難い魅力に満ち溢れている。
これは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、その波乱に満ちた生涯を自省の気持ちを込めて振り返るような趣きがあり、かかる演奏は、巨匠ワルターが最晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地にあるとも言っても過言ではあるまい。
いずれにしても、本演奏は、ブラームスの「第4」の深遠な世界を心身ともに完璧に音化し得た至高の超名演と高く評価したい。
小編成で重厚さに難があるコロンビア交響楽団ではあるが、ここではワルターの統率の下、持ち得る実力を最大限に発揮した最高の演奏を披露しているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。
併録の2つの序曲も名演で、特に、大学祝典序曲など、下手な指揮者にかかるといかにも安っぽいばか騒ぎに終始してしまいかねないが、ワルターは、テンポを微妙に変化させて、実にコクのある名演を成し遂げている。
悲劇的序曲は、「第2」の終楽章の延長線にあるような、力強い劇的な演奏となっており、ワルター円熟の名演と高く評価したい。
他方、ハイドンの主題による変奏曲は、めまぐるしく変遷する各変奏曲の描き分けが実に巧みであり、これまた老巨匠の円熟の至芸を味わうことができる名演と言える。
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