2008年01月07日
表現性の消去とは
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ベートーヴェンの音楽に典型的にみられるように、われわれは音楽を聴くときには、常にその背後にかくれている作曲家の表現を聴きとろうとしてきた。よい意味でも悪い意味でも、音楽は作曲家の自己表現の媒体であった。
サティは音楽をこのような作曲家の表現から解放しようとする。そしてそのとき、音はこれまでとは全く違ったものとして聴き手の前に立ち現れてくる。
サティの音楽は、作曲家の表現に注目しているときには見えてくることのなかった音そのものの「きめ」や偶然の作り出す微妙な光彩にわれわれの関心を向けさせる。
そういう点からみると、一見多彩でバラバラにみえるサティの様々な曲にも共通する方向性を感じ取ることができる。発展するでもなく、収束するでもなく、断片が並列的に連なっていくような印象を与える「ジムノペティ」や「グノシエンヌ」といった初期の小品から、晩年の「家具の音楽」に至るまで、彼は一貫してこのような表現の消去の上に成り立つ新しい音楽の地平を模索し続けたのである。
その試みは、人為的なわざとらしい「作りもの」に飽き飽きしてしまい、誰にも顧みられることなくそこらにころがっているもののかもしだす他愛のないおかしみに笑いころげる現代人の心性にどこか通じるようでもある。
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コメント一覧
1. Posted by gkrsnama 2010年02月21日 11:56
「抽象と感情移入」という美学書がある。作者は芸術を伝統的な感情移入型と20世紀になって勃興した抽象型に分けた。
しかしながら、抽象と感情移入というのは単に分類類型に過ぎない。実はその両者には強い相関がある。芸術の形式などではなく数学や論理や生得言語能力でもそうなのである。
ひとつは、いかに抽象的な形式であろうと、具体的な経験の集積の結果学習され、気づかれるということ。もうひとつは、確立された抽象的な形式にも人間的要素が密輸されるということ。抽象的な形式にまとわりつく人間的な諸要素について、数学においてなら思考における不純物の名で捨象することは当然である。しかしここで問題となっているのは芸術なのである。
サティの音楽は、ちょっと澄まして狷介な人間性、ベルエポックのパリの風景なのである。シェンベルクやシュトックハウゼンについても、ただ不気味で不安で機械的なのである。
ベートーベンを人格なし、音の配列の美だけだと主張するのは、音楽家の神話の最たるものである。仮にもしそうであるなら、たとえば第九はあのようにはならならず、4重フーガになったことだろう。
しかしながら、抽象と感情移入というのは単に分類類型に過ぎない。実はその両者には強い相関がある。芸術の形式などではなく数学や論理や生得言語能力でもそうなのである。
ひとつは、いかに抽象的な形式であろうと、具体的な経験の集積の結果学習され、気づかれるということ。もうひとつは、確立された抽象的な形式にも人間的要素が密輸されるということ。抽象的な形式にまとわりつく人間的な諸要素について、数学においてなら思考における不純物の名で捨象することは当然である。しかしここで問題となっているのは芸術なのである。
サティの音楽は、ちょっと澄まして狷介な人間性、ベルエポックのパリの風景なのである。シェンベルクやシュトックハウゼンについても、ただ不気味で不安で機械的なのである。
ベートーベンを人格なし、音の配列の美だけだと主張するのは、音楽家の神話の最たるものである。仮にもしそうであるなら、たとえば第九はあのようにはならならず、4重フーガになったことだろう。