2008年03月30日
音楽家の経済問題〜ハイドンとモーツァルト
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(前項の続き)とはいえ一部の音楽家を別とすれば、大音楽家たちの収入もそれほど恵まれてはいなかった。
ウィーン楽派の形成者といえるハイドンはモルツィン伯爵やエステルハージー候に仕えたが、モルツィン家は財政窮乏のためにハイドンや楽団員を保護できなくなってしまったし、エステルハージー家のハイドンに対する報酬も給金の一部に現物支給が採られていたほどである。
また残存する契約書の記録によれば、楽長としてのハイドンの職務は、作曲の義務や、楽団員や楽器の管理など徹底して規則にしばられたものであった。ハイドンは言う、「私は社会から遮断されていた。そして私は独創的であることを余儀なくされた」。
幼少の頃よりヨーロッパ各地の音楽界を渡り歩いていたアマデウス・モーツァルトは1772年よりザルツブルグの大司教伯爵ヒエロスミス・フォン・コロレードーのもとで宮廷に仕えた。しかしこの関係は、音楽に無理解なコロレードー大司教とモーツァルトとの反目と離反についえてしまう。
モーツァルトの気質はハイドンの場合のような雇用形態には全くそぐわなかったのである。1777年にはミュンヘンを訪れ、選帝侯マックス・ヨーゼフ3世の謁見をゆるされるが、欠員が無かったため楽団員に任命されることはなかった。
やがてザルツブルグを離れたモーツァルトはウィーンに定住する。彼は特定の職につかないまま、貴族や宮廷のためにそのつど自由な音楽家として作曲や演奏を続けた。だがこの生活は経済的には自立とは程遠いものであり、彼は終生貧困と借金に苦しんだ。
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