2008年07月12日
カラヤン・ラスト・コンサート1988 悲愴&モーツァルト
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カラヤンは「悲愴」をたいへん得意にしており、最後の来日の際、白熱した演奏を聴かせてくれた。そのライヴの復刻である。
カラヤンとベルリン・フィルの特徴である(アンチからよく非難された)外面的な圧倒的パワーが、内面の感情の振幅と理想的に融合しているかのような渾身の名演。
カラヤン&ベルリンフィルのライヴの凄さを実感できる。
実に7度の「悲愴」を録音していたカラヤンは、この時すでに80歳であり、恐らくこれが自分にとっての最後の「悲愴」となることを意識していただろう。
万感の思いをこめた、まことに彫り深く求心的なその演奏を聴いていると、どうしてもそう考えたくなってしまう。
しかし、そうした渾身の演奏であるにもかかわらず、その音楽はあくまでしなやかで、表現をつめたが故に底に淀んだ澱を残すことがない。
さすがにカラヤンであり、ベルリン・フィルの柔軟な反応力というべきである。
特に、終楽章における求心力と切々として深く強い表現は、凄絶なまでの美しさに貫かれており、聴き終わった後もいっそう深い沈黙と感動を呼び起こさずにはおかないだろう。
モーツァルトは独自のあたたかさと透明度の高さが融合した演奏で、かつてのカラヤンの弱点でもあった自我の表出を抑え、古典主義的世界の再現を見事に果たしている。
特にコン・スピーリトの終楽章は驚くほど躍動的で、爽快で急速なテンポが全体をきりりと引き締めている。
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コメント一覧
1. Posted by アラウ 2008年07月19日 20:19
カラヤン時代のベルリン・フィルは、今の余裕綽々で切迫感の無い演奏とは全く異なり、指揮者の細かな棒に精一杯反応しようするオーケストラでした。ですから、有名な大阪での「ローマの松」振り間違え事件のみならず、カラヤン晩年のベルリン・フィルとのライブ録音は、老いから来る「乱れ」が実に明らかな形で痕跡を残しています。
しかし私は、時に美しく加工して演奏してしまうウイーン・フィルよりもベルリン・フィルとの演奏の方が好きです。なぜならカラヤンの音楽は苦しみとそれを乗り越えようとする音楽だからです。特にこの最後の「悲愴」は、脆くも崩れてしまいそうな中にも繊細な美しさを湛えたウイーン・フィルとの録音とは違い(それはそれでウイーン・フィルとしては珍しくカラヤンに生に反応した演奏なのですが)、苦しみと絶望の中で老い、死にゆく1人の人間のドラマを克明に記録しています。
しかし私は、時に美しく加工して演奏してしまうウイーン・フィルよりもベルリン・フィルとの演奏の方が好きです。なぜならカラヤンの音楽は苦しみとそれを乗り越えようとする音楽だからです。特にこの最後の「悲愴」は、脆くも崩れてしまいそうな中にも繊細な美しさを湛えたウイーン・フィルとの録音とは違い(それはそれでウイーン・フィルとしては珍しくカラヤンに生に反応した演奏なのですが)、苦しみと絶望の中で老い、死にゆく1人の人間のドラマを克明に記録しています。
2. Posted by 和田 2008年07月19日 21:41
「カラヤンの音楽は苦しみとそれを乗り越えようとする音楽だからです。」
レニー狂さんに聞かせてやりたいな。
「苦しみと絶望の中で老い、死にゆく1人の人間のドラマを克明に記録しています。」
素晴らしい表現だ。だからこそ感動的なのだと思う。そして、カラヤンの「悲愴」に対する偏愛ぶりが如実に伝わってくる録音でもあるね。
レニー狂さんに聞かせてやりたいな。
「苦しみと絶望の中で老い、死にゆく1人の人間のドラマを克明に記録しています。」
素晴らしい表現だ。だからこそ感動的なのだと思う。そして、カラヤンの「悲愴」に対する偏愛ぶりが如実に伝わってくる録音でもあるね。
3. Posted by レニー狂 2008年07月21日 12:27
先日、テレビでカラヤンのリハーサルを少し見ました。シューマンの四番です。改めてカラヤンが偉大な指揮者である事を、そして音楽に対して真摯に向き合っている事を感じさせる映像でした。
一方でカラヤンは、偉大なナルシスト(音楽家は多かれ少なかれそうですが)でした。だからこそ自身の軌跡を録音や映像に残す事に人一倍執着したと言えると思います。当然、それらはカラヤンの偉大さを伝える物でなくてはならず、大抵はカラヤン自身の手によって完璧な音楽に仕上げられて世に送り出されています。
そんなカラヤンにとって、「老い」は認めたくない事実だったのではないでしょうか。晩年のカラヤンが細部により磨きをかけたのは、録音技術の発達に耐え得る完成度を求めた事に加えて、「老い」の恐怖からより完璧な物を求めた結果なのではないでしょうか。
だとすれば、「老い死にゆく…ドラマ」と感じさせてしまうのはきっとカラヤンとしては本意ではないのだろうと、個人的には思います。この演奏が名演である事に異論はありませんし、カラヤンが素晴らしい指揮者だとも思うのですが、この演奏を個人的に十分堪能出来ないのは、もしかしたら心のどこかに「老い」と戦うカラヤンを見たくないという気持ちがあるのかもしれません。
一方でカラヤンは、偉大なナルシスト(音楽家は多かれ少なかれそうですが)でした。だからこそ自身の軌跡を録音や映像に残す事に人一倍執着したと言えると思います。当然、それらはカラヤンの偉大さを伝える物でなくてはならず、大抵はカラヤン自身の手によって完璧な音楽に仕上げられて世に送り出されています。
そんなカラヤンにとって、「老い」は認めたくない事実だったのではないでしょうか。晩年のカラヤンが細部により磨きをかけたのは、録音技術の発達に耐え得る完成度を求めた事に加えて、「老い」の恐怖からより完璧な物を求めた結果なのではないでしょうか。
だとすれば、「老い死にゆく…ドラマ」と感じさせてしまうのはきっとカラヤンとしては本意ではないのだろうと、個人的には思います。この演奏が名演である事に異論はありませんし、カラヤンが素晴らしい指揮者だとも思うのですが、この演奏を個人的に十分堪能出来ないのは、もしかしたら心のどこかに「老い」と戦うカラヤンを見たくないという気持ちがあるのかもしれません。
4. Posted by 和田 2008年07月21日 19:17
なるほどそういう意見もあるのかと思いますが、遅れて生まれてきた音楽家の「苦渋にみちたドラマ」を聴けるのは、音楽を聴く喜びの最大のものの一つかなと思います。