2009年03月06日
ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルのショスタコーヴィチ:交響曲第15番
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贅肉をすべて削ぎ落としたような明確さで一貫した、非常に強靭な演奏である。
その半面、生真面目にすぎ、第1楽章に示された独特のウィットやユーモア、ペーソスとシニシズムの混合した味わいにやや欠ける。
この演奏では悲劇的な終楽章が強い説得力をもつが、それも冒頭の弱点がなければ、さらに重く深い意味をもったに違いない。
とはいえ、このきびしさは尋常ではない。
例えば、打楽器の充溢といった、最もショスタコーヴィチらしい第1楽章の冒頭のトライアングルの音からはっきりと、どの打楽器の音にも決して曖昧さを残さず、望みうる最高の強度で音そのものを光の中に投げ入れてみせる。
その意味で、例えば、ヤルヴィによる「15番」のように淡い音調とコケティッシュなきらめきが、ちょうどショスタコーヴィチが子供のころ最初に好きになったという「ウィリアム・テル」序曲の引用を介して、作曲家の幼年時代への回想を我々に促す、といったことも、ここではありえない。
第1楽章の中盤に聞こえるヴァイオリンのソロによる旋律も遠い遠い彼方から風に乗ってやってくるようなヤルヴィとは違って、あくまで、強く、明快で、一点の曇りもない。
本来ショスタコーヴィチにあるはずの笑いも、そしてその笑いの最も完成した表現の一つであるこの「15番」においてすら、ムラヴィンスキーは笑わない。
そんな冒頭からエンディングまで、狂いのないリズムで、あまりにもまぶしすぎる程の光の中を一気に駆け抜けていく。
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