2009年07月12日
C・クライバーのベートーヴェン:交響曲第5番「運命」&第7番
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いま、まさにこの交響曲第5番が作られつつあるのだ、という不思議な、そして間違った感覚を持ってしまうのはどうしてなのだろう?
音楽の持つ即興性を再現させるという不可能事がクライバーによって、しかもこの極度の論理性・構築性によって出来上がっている交響曲で実現されている。
この曲の演奏の、20世紀の型を作り上げたとも言うべきフルトヴェングラーとトスカニーニの両極がここで結びついてしまったよう。
よく聴けば、テンポを大きく動かしたり、効果を高める工夫をしたりする恣意的なところはとても少ないのだが、それでいて人間の肉体的感覚を離れた、機能としての音楽からはかけ離れている。
主題の提示からして、この演奏はすでに劇的なのだ。
機能性がそのまま劇的感覚と結びついているという点では、交響曲第7番こそその極致であるかも知れない。
確かにコンサート会場を熱狂させる最高の武器である第7番なのだけれど、実際には熱狂をあおるのがそのまま弱点になりがち。
ところがこの演奏は、恐るべき劇的感覚によって支配されていながら、その劇的感覚が曲そのものからくる素直な表現でもある。
第1楽章が踊り出すときのめくるめく思いや、まるで一切の感傷を許さないとばかりに疾走するアレグレットの息を飲む感覚も特別だけれど、やっぱり終楽章が誘う錯乱は永遠に死なないだろう。
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