2013年12月25日
バーンスタイン&ウィーン・フィルのシベリウス:交響曲第2番
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これもまたどうしようもない演奏だ。
一時はカラヤンと覇を争うほどの大指揮者であったバーンスタインが、何故にこのような駄演を行ったのか理解に苦しむ。
かつては筆者もこの濃厚な演奏を「メンゲルベルクの再来を思わせるスーパーロマンティシズムを感じる」などと絶賛したものだったが、それから歳を重ねるにつれて、聴く度ごとに、バーンスタインの表現の大仰さは、本来本質的に寡黙な作曲家であるシベリウスにそぐわないように段々感じられてきたところだ。
第1楽章はそれでもまだましと言える。
大仰で濃厚の極みとも言うべき音楽は、シベリウスの音楽というよりはマーラーの音楽を鑑賞しているような錯覚を起こさせるが、テンポなども含めとりあえずは常識の範囲内におさまっており、少なくとも凡演のレベルには達している。
ところが第2楽章、バーンスタインは何を勘違いしたのであろうか。
にわかには信じ難いような超スローテンポで曲想を進めていくが、ここまでいくともはや音楽ではなく単なる音の羅列ではあるまいか。
バーンスタインが、このような音の羅列で何を表現したかったのかは不明であるが、少なくともこの楽章に関しては、よほどのバーンスタインの熱狂的なファンでないと、全体を聴き通すことすら苦痛であると言えるだろう。
第3楽章は、本演奏の中ではもっともまともな演奏と言える。
中間部の粘ったような音楽はいかにも晩年のバーンスタインであり、その濃厚な体臭に辟易としないでもないが、少なくとも第2楽章の音の羅列を聴いた後では一服の清涼剤のように感じる聴き手は筆者だけではあるまい。
そして終楽章であるが、思わず耳を覆いたくなる。
シベリウスが作曲した旋律の中でも特に勇壮で美しい名旋律を、バーンスタインはチューバを最強奏させることによって品の悪い騒音に変容させてしまった。
このような演奏を聴いていると、聴いていて恥じらいさえ覚えるほどであり、晩年のバーンスタインはあらゆる楽曲をマーラーの音楽であると思っていたのではないかと勘繰りたくもなる。
いずれにしても、本演奏は同曲演奏史上でも最悪の駄演であり、熱狂的なバーンスタインのファンだけに存在意義がある演奏と言えるだろう。
バーンスタインは、1960年代にもニューヨーク・フィルを指揮して同曲を録音しており、それはヤンキー気質丸出しの外面的な演奏とは言えるが、本演奏よりはよほど優れているのではないかと考えられるところだ。
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